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常緑樹 の変更点


**常緑樹 [#qb835976]
RIGHT:Written by [[March Hare>三月兎]]

&color(red){※注意};
 この小説は官能表現は含みませんが、&color(black,black){失禁};など見ようによっては微えrになる描写があります。

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 きみに&ruby(て){前肢};を引かれて、
 連れてこられた丘の上。
 窓の外に眺めていた大きな樹。
 交わし合った&ruby(こと){言};の葉は、いつまでも褪せない緑色。
 僕の景色は常緑樹。

 君をそっと連れ出した。
 無邪気で可憐な花を手折ってしまわぬように。
 その&ruby(て){前肢};を繋いで離さぬように。
 交わし合った&ruby(こと){言};の葉は、いつまでも褪せない緑色。
 私の景色は常緑樹。

 淡い陽射しのまどろみの中。
 僕はきみの薪で、きみは僕の揺篭だった。
 もう少しだけ、君の匂いに抱かれていたかった。
 涙を拭いてあげたいけれど、この&ruby(て){前肢};はもう動いてくれない。

 淡い陽射しに揺れる君を抱く。
 私は君に燃えて、君は私に眠る。
 壊れそうな君の寝顔に涙した昼下がり。
 私の病苦を君に伝えたいけれど、緑の葉はもう舞ってくれない。


 ――This scenery is evergreen...

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&size(16){◇常緑樹◇};

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「ふぅ……」
 落ちている木を拾ってきてそのまま作られたと思しき立て札の文字はかすれて読むことができない。
 入り組んだ山岳地帯を越え、隣村から一時間かけてようやくたどり着いた。並んだ木造りの小さな家々の屋根には、真夏の陽射しがギラギラと照り付けている。太陽は私の背も同じように焼こうとするが、耐火性の毛皮は熱を感じない。
 夏は炎タイプのポケモンにとってはバカンスだ。
 名も無き(消えただけ?)小村に入った私は、木の実の入った籠を抱えて運んでいるワカシャモの村娘を見かけ、声をかけた。
「ねえ君……ちょっと道を尋ねたいのだけど」
「あら? バクフーン……? この村では見かけないひとですね」
 私と同じ炎タイプの彼女も、この快適な強い陽射しに活力を持て余しているといった感じで、はきはきと答えた。
「私は医者だよ。新米だけど……隣村から来たんだ」
「まあ。お医者さんなのね。お若いのに……」
 見たところ彼女の年の頃は十五、六歳程度、大人と&ruby(こども){仔供};の境界線上にいるといった感じだ。二十七の私に向かって若いとは少々不自然だが、まあ確かに医者としては年少の部類に入るだろう。
「レストロさんのお知り合い?」
「ああ……私は彼に師事しているんだ。それで……セシリアの家の場所を教えてくれないかな?」
 尋ねた瞬間、ワカシャモは表情を暗くして返答に困ったように俯いた。
「セシリアは……」
「……私も知っているよ。その、彼女の弟の様子を見に来たんだ」
「弟、ですか……」
「どうかしたのかい?」
「いえ……案内しますね。木の実の届け先と同じ方向なので」
 つい一週間前のことだ。この村の娘のサンダースが、落石事故に遭い死亡した。名はセシリア、二十五歳の&ruby(おんな){牝};盛りだった。とはいえ彼女には夫も恋人も両親もなく、たった&ruby(ひとり){一匹};の肉親である弟のリーフィアと&ruby(ふたり){二匹};暮らしをしていた。弟は身体が弱く病気がちで、一日のほとんどをベッドの上で過ごしているため、セシリアは弟の薬を買いに、私の師事するレントラーのレストロ医師のところへ定期的に足を運んでいた。彼女が落石事故に遭ったのはまさにその道中だったのだ。彼女から何度か弟のことを聞かされていた私はその報せを受けていても立ってもいられずこの村までやってきたわけだ。レストロ医師は近隣の集落一の名医だが、もう年が年で遠出はできないので、私が来るしかなかったわけだ。
「セシリアさんは……よくわからない&ruby(おんな){牝};のひとでした。だって誰とも話さないんですもの」
 セシリアはいつも弟に付きっきりで、食物の調達と薬を買いに行くとき以外は外に出なかったという。
「あっ……亡くなったひとを悪く言うのはいけませんよね……」
 ワカシャモはごまかすように私から目を逸らしたが、どうやらセシリアは村民からはあまりいい感情を持たれていなかったらしい。
「よっ!」
 並んで歩く私たちの横を、テッカニンの若者が挨拶を返す暇もないほどの速度で通りすぎた。夏には炎タイプだけではなく、虫タイプや多くの草タイプも活発になる。
「……弟はどんな仔なんだい?」
「弟は……一度だけ、ディサイジュアスの下に姉と&ruby(ふたり){二匹};でいるのを見たことがあります」
「ディサイジュアス?」
「セシリアの家の前にある丘の上に、大きな木が立っているんです。その木がディサイジュアス。昔の言葉……かな? 落葉樹って意味なんですって。ほら、あの木」
 ワカシャモが指し示した先に目をやると、丈の低い草に覆われた広い丘の上に一本の大木があった。遠目なので正確な大きさはわからないが、その手前に見える木造りの家――おそらくあれがセシリアの家なのだろう――と比べると確かに大きな木だ。
 セシリアの家は高床式のログハウスといった感じの造りで、村の中心から随分離れた位置にあった。周りには他の家はなく、丘の上のディサイジュアスが小さな家を見下ろしているようだった。ディサイジュアスはとにかく大きかった。間近というほど近くでもないのだが、見上げると、自らの存在の矮小さを思い知らされるような心地がする。
「ねえ。&ruby(おとこ){牡};か&ruby(おんな){牝};かよくわかんない変な喋り方のバクフーンのお医者さんが来たよー」
 待て。君は私をそんな風に見ていたのかい?
 小屋の中からの反応はない。
 ワカシャモは私を見て肩をすくめた。
「いつもこんなだから。入っても大丈夫だと思いますよ。入らせてくれれば、ですけど」
 もしかして対&ruby(ポケ){人};恐怖症か何かなのだろうか。
「案内ありがとう」
 私が告げると、ワカシャモは村の方へ戻っていった。

&size(18){         ◇};

 まさか、こんなところで足踏みするとは思わなかった。
「帰ってよ! 僕はもう誰とも会わない!」
「そうはいかないよ。私は医者だから。君を放ってはおけない」
「医者なんて信用できるわけないでしょ。僕の病気は治らないし、そのせいでお姉ちゃんは……」
 唯一の肉親だった姉を失った彼の心中は察するに余りある。多少刺々しくなっても、すべてを他人のせいにしたくなっても致し方ない。
「……入るよ」
 しかし、ここで引き下がっては医者の資格はない。私は彼の承諾を得ずして扉を開いた。
「&ruby(ひと){他人};の家に勝手に……」
 一部屋しかない小さな小屋。丘に面した窓辺に置かれたベッドの上に身を横たえた彼は、私の返答に目を背け、窓の外へ目を向けてしまった。彼の緑色をした飾り葉、耳と尾には、植物のそれのごとく葉脈が走っている。動物界、脊椎動物門、哺乳綱、食肉目、イーブイ科、イーブイ属、リーフィア亜属、リーフィア。動物界に属し、その中でも高等な部類に入る種でありながら、葉の部分には葉緑体をもち、光合成を行うことができる。しかし窓越しに夏の強い陽射しを浴びているはずの彼の葉には元気がなく、ふにゃりと垂れてしまっていた。年は先程のワカシャモと同じくらいか少し下、十四、五歳くらいに見えるが、セシリアの話では十八だという。病気のせいで身体の発育が遅れているらしい。
「私はメルヴェーユ」
「訊いてない」
「隣村から来た医者だよ」
「医者なんかキライ」
「これでも&ruby(おんな){牝};だよ」
「だから何?」
「かわいい顔してるよね、君」
「僕を襲おうっての? この淫乱魔」
「ふふ。冗談だよ」
 メルヴェーユは背負ってきた包みをひとまず床に置き、手近にあった四足歩行ポケモン用の椅子に腰掛けた。セシリアのものなのだろう、バクフーンのメルヴェーユには少し小さかったが。
「君の名前、教えてくれないかな」
「淫乱魔に教える名前なんかない」
 彼はずっと窓の外――ディサイジュアスの木を見つめたまま、メルヴェーユと目を合わせようとしない。
「冗談だって言ったのに。私もそこまで見境なしじゃないよ」
「そんなこと言う奴が一番危ないんだ」
「早速変なレッテルを貼られちゃったね」
「とにかく、僕は&ruby(おんな){牝};なんかと話したくない。帰ってよ」
「薬を持ってきたのだけど」
「頼んでなんかないのに」
 さて、どうしたものか。
 ――入らせてくれれば、ですけど。
 あの&ruby(ワカシャモ){村娘};が懸念していた通りというかそれ以上というか、入ってからも苦労続きだ。
「私が嫌いなのかい?」
「医者なんかキライだって言ったでしょ」
「薬は嫌い?」
「薬が好きなポケモンなんているもんか」
「それじゃ、飲まないのかな?」
「飲むに決まってるよ。飲まなきゃ生きられない体なんだから」
「じゃあ君の嫌いな医者の私を受け入れてくれるよね」
「薬と違ってきみなんかいなくたって生きられるからダメ」
「&ruby(ひとり){一匹};では動けないのに?」
「少しくらいなら動けるよ」
「でも、薬を取りに行くのは無理だね」
「僕なんか死んだっていいもの。お姉ちゃんには迷惑ばっか掛けて、挙句死なせちゃうんだもんね」
「君がそう思っていても、私は君を生かすよ」
「僕が生きようと死のうと僕の勝手でしょ?」
「それなら君を生かそうと殺そうと私の勝手だよね」
 メルヴェーユはベッドに歩み寄って、彼の頬に&ruby(て){前肢};を触れた。
「触るなよ!」
 そうして、半ば無理矢理だったが、こちらへ振り向かせて――
 ――優しく抱きすくめた。
「何するんだよ! 離せ!」
 弱々しいながらも精一杯の力で、メルヴェーユを振りほどこうとする。職業柄、並みのバクフーン以上の膂力を持つメルヴェーユにとっては黙殺できる程度でしかなかった。
 振り向かせたとき、一瞬ではあったけれど、彼と目が合った。右目はリーフィアに多い栗色の瞳だったが、左目は薄青色という、オッドアイ((両の瞳の色が異なっている症状))だ。病気の症状の一環だろうか。
 しばらくそうしていると、やがて彼は抵抗することをやめた。&ruby(ポケモン){人};は、優しくされると弱いものだ。
「悲しみに負けちゃダメだ。前を向いて」
 耳元で囁くように告げて、彼を解放した。彼はそのままふてくされてベッドに倒れ込んでしまった。
その上に布団をかけてあげようとして、炎タイプのポケモン以外には暑いかと思い直して、持ち上げた布団の角をどうしたものかと考えあぐねていると、彼はメルヴェーユの&ruby(て){前肢};からそれを奪い取って頭まで被ってしまった。
「……帰って。二度と来ないで」
「……仕方ないね。木の実と薬は置いておくよ。薬と今までのと同じだから、ちゃんと決まった時間に飲むように」
 今日のところはひとまず帰ることにした方が良さそうだ。
 そう判断したメルヴェーユは踵を返し、出入口の扉へと近づいた。
「……シャルロット」
「え?」
 布団の下から、くぐもった声が聞こえた。
「僕の、名前」
 二度と来ない相手に名前を教える必要はないと思うのだけど。
「お姫様みたいな名前だね」
 シャルロットは何も答えなかった。

&size(18){         ◇};

 明くる日。レストロのところへ患者の予約は入っていなかったので、メルヴェーユは朝からシャルロットの家を訪れていた。
「元気かいシャルロット君?」
 扉をノックする。
「二度と来るなって言ったろ! それも朝っぱらから……」
「入るよ」
 扉の前で問答していても埒があかないのは昨日の訪問で実証済なので、今度はシャルロットには訊かずに家に入った。
「ばっ、いきなり開けないでよ!」
 シャルロットは朝食の途中だったらしい。ベッドの隣に置かれたナイトテーブルに柔らかい木の実が数個乗っていて、シャルロットはそれを口へ運ぼうとしていたところみたいだ。
「いらないって言ってたのに食べてくれてるんだ」
「べつにあんたのために食べてるんじゃない」
「自分のため? それなら尚良しだね。栄養をつけないと君の体が弱ってしまう」
「木の実に罪はないから。腐ったらもったいないでしょ」
 シャルロットはメルヴェーユには構わず蔦を伸ばして固い木の実を掴み、殻を割ろうとしてナイトテーブルにたたき付けたが、ヒビさえ入らない。諦めて彼が床に転がした木の実をメルヴェーユが拾って割ってやると、彼は「お前が割った木の実なんかいらない」と言って食べなかった。木の実に罪はないんじゃなかったっけ。
「私はツンデレも嫌いじゃないよ」
「お前の好みなんか知っても僕には何のプラスにもならない」
「そう」
「言っとくけど僕にデレはないから。期待しても無駄」
「期待せずに待っておくよ」
「一生待ってろ淫乱魔」
 やはりたった二日で打ち解けるのは難しいみたいだ。すんなり受け入れてくれるとは思っていなかったけれど、メルヴェーユは単なる職業意識でシャルロットを病気から救おうとしているのではない。薬を買いに来たセシリアの話し相手になっているうちに感情移入してしまって、セシリア亡き今、自分がシャルロットの心の支えになってあげられたらと思ってここへ来たのだ。セシリアはいつも弟の話ばかりしていた。そんなに長々と話し込んだことはなかったが、彼女の中でどれだけ弟の存在が大きかったのかは感じとれた。そしてそれは弟の方でも変わらないのだと、シャルロットを見ていて思う。彼の病は先天性のもので、心筋を含めた筋力の発達不足、身体の発育不全などの症状が出ているが、私たちの村の医学では治る見込みはない。その場しのぎの対症療法しか施してやれないもどかしさ故か、少しでもできることをしてやりたいという気持ちにさせられるのだ。
「いいよ。一生でも。私は気が長いから、君もゆっくりでいい」

&size(18){         ◇};

 明くる日も、その明くる日も、メルヴェーユはシャルロットの所ヘ通い続けた。嫌がられても、拒否されても、無視されても構わずに世話をした。固い木の実を割ってやった。メルヴェーユの前では口をつけなかったが、次の日に来たときはなくなっていた。メルヴェーユの帰った後、夜にでも食べたのだろう。用を足すために外へ出るのがあまりにも苦しそうだったので抱き上げて連れて行ってやった。やはり嫌がられたが、何度も倒れながら外へ出ようとする姿を見るに見かねてそうせざるを得なかった。事を済ませるまでメルヴェーユは小屋の中へ引っ込んで、済んだら呼ぶように言ったのだが、案の定呼ばずに自分の足に鞭打って歩いて戻ろうとするので、頃合いを見計らって出て行くことになった。
 抱き上げたときの抵抗も日に日にエスカレートして、最初は四肢をばたつかせるだけだったのが噛み付きになり、葉っぱカッターになった。ここまではどれもメルヴェーユの被毛と厚い毛皮を傷つけるには至らなかった。力の弱い自分が噛み付いても、草タイプの技で攻撃しても無駄だと知ったシャルロットは抵抗をやめるかに思えた。が、メルヴェーユが炎タイプだからこれは効くとでも考えたのか、抱き上げると、外へ連れて行って降ろす前に、あろうことかメルヴェーユに抱き着いたまま漏らすようになった。最初は間に合わなかっただけかと思ったが、二回、三回と続いたあたりそうではないらしい。いくら気が長いと言っても正直これは&ruby(こた){堪};えた。でもここでやめたら自分のしてきたことが無駄になると、何度同じ事を繰り返されても彼に対する態度は変えなかった。
 メルヴェーユの努力は、二週間ほど経過してようやく報われることとなる。シャルロットが泣いて謝ってきたのだ。
「ごめん、なさい……僕は……きみのことなんか考えないで……」
「謝らなくていい。君は私をはねつけることで自分から孤独に逃げ込もうとしていただけだろう?」
 シャルロットは目に涙を溜めて俯いている。愛らしい顔つきをしているんだから、そうして黙っていればかわいいのに。
「でもね、そっちに逃げたって何も変わらないよ」
 きっと姉が死んで後に突然現れた、医者を名乗る怪しげなバクフーンを受け入れることが怖かったのだろう。リーフィアにとって炎タイプは警戒してしかるべき相手、しかも異性だ。それが尚更メルヴェーユに対する猜疑心を強めていたのかもしれない。
「……ちょっと違うかな。孤独に逃げようとしても逃げられない、と言うべきかもしれないね。君の後退りの逃げ足よりも私の追い足の方が速いから」
 窓枠に切り取られた緑の丘とディサイジュアスの樹を背景に、&ruby(いとけな){稚};さの残るシャルロットの栗色と薄青色の瞳から、一粒の雫が零れ落ちた。
 一粒が二粒になり、流れ出し、頬をつたい落ちる。
「ふぇ……えっ…………」
 溢れ出す涙を隠そうともしないで、シャルロットはメルヴェーユを見上げた。
 そして。
 縋り付くようにメルヴェーユの胸に飛び込んできた。メルヴェーユは長い被毛に顔を押し付けて低い鳴咽を漏らしはじめた彼をそっと抱き留めてやった。
「ほらね、捕まえた。ふふ」

&size(18){         ◇};

 翌朝小屋へやってくると、シャルロットは扉の前に出てメルヴェーユを待っていた。
「おはようシャルロット君。今日は調子がいいのかい?」
「あ、ああ……か、勘違いするなよ。べつにきみを待ってたわけじゃないんだから」
「なるほど。&ruby(日光浴){光合成};でもしてたんだ?」
「そうだよ。今日は天気がいいからね」
 小屋に入って荷物を置き、いつもの椅子に腰掛けた。昨日ようやくメルヴェーユを受け入れてくれたシャルロットは、少し気まずそうにベッドの上で窓の外を眺めている。丘の上のディサイジュアスは、今日も変わらず青々とした葉を繁らせていた。
「初めて見た時から思ってたんだけど、大きな木だよね」
 シャルロットの隣から覗き込むようにして外の景色に目をやった。メルヴェーユの横顔が間近に迫って辟易したのか、シャルロットは首をすくめたかと思いきや、そのままベッドに倒れ込んでしまった。
「……何百年も前からあそこにあるって話だ。僕もきみも生まれるずっと前からね」
「へえ……やっぱり大きな木だけのことはあるんだ。落葉樹だって聞いたけど本当なのかい?」
「そうだよ。秋の終わりには全部葉が落ちちゃうの」
「紅葉するとキレイなんだろうね」
「さあ……村のポケモンたちはそう思ってるんじゃないかな」
 シャルロットはベッドから身を起こし、もう一度窓の外を覗き込んだ。突然起き上がるものだから、今度はメルヴェーユが首を引っ込める番となった。
「でも、僕は夏のディサイジュアスが一番好き。生き生きとした緑の葉があんなにたくさん茂っててさ。なんていうかさ、こう……生命力を分けてもらってる気がして」
 生命力。
 そう、まるであの木には何か精霊のようなものが宿っているみたいだ。いや、あの木そのものが精霊であるかのようだ、と言った方がしっくりくる。
「ねえシャルロット君。私、あの木の下に行ってみたいんだけど」
「きみは僕の世話をしにきてくれてるんじゃないの?」
「そうだけどさ。君、今日は元気そうだし。もちろん、君も連れていこう。こんなに天気のいい日は外に出なくちゃ、治る病気も治らないしね」
 シャルロットは俯いて黙りこくってしまった。
 何かまずいことでも言っただろうか。
 上目づかいでメルヴェーユを見つめるオッドアイの向こうで、別の何かを見ているような……
「メルヴェーユ……」
 それも数瞬のこと、彼の視線はすぐに目の前の世界に戻った。メルヴェーユはしかし、彼の口から出た響きに少し戸惑いを覚えた。
「……な、何だよ」
 顔にも出てしまったらしい。シャルロットは虚をつかれたように言葉を詰まらせてしまった。
「あ、いや……初めて私の名前を呼んでくれたな、ってさ」
「はぁ? 勝手に乙女な気持ちになってんじゃないよ。僕にはそんな気はさらさらないからね。だ、だいたい、奇怪な喋り方の&ruby(おんな){牝};に惹かれるほど僕は堕ちてない!」
 シャルロットは早口でまくし立てた。何故だかわからないが、どうも怒らせてしまったらしい。私の方でもそんな意図はないと否定したいところだったが、そうするとかえって言いわけに聞こえるかもしれない。
「自覚してるよ。私には&ruby(おんな){牝};らしさも魅力もないってね。&ruby(ポケモン){人};を助けるのにそんなものは必要じゃないから」
 そりゃ私だってまだ二十七だし、&ruby(おんな){牝};盛りなんだから&ruby(おとこ){牡};の仔の&ruby(ひとり){一匹};も探したいと思うこともある。が、九つも下の&ruby(おとこ){牡};の仔を、姉 を失ったばかりの心の隙間に滑り込んで落としてしまおうなどと考えるほど見境無しじゃない。
「ところでさっきは何を言おうとしたんだい?」
「きみが変なこと言うから忘れちゃったよ」
 シャルロットはメルヴェーユの前に両前足を広げた。
「さ、連れてってくれるんでしょ」
「抱っこ?」
「抱っこって言うな。僕の体じゃあんなところまで歩けないんだから仕方ないだろ!」
「あはは、ごめんごめん。君の仕草が可愛くてついからかってしまったんだ」
 メルヴェーユはシャルロットの腋の下に右前足を入れ、腰から臀部を左前足で支えるように抱き上げてやった。シャルロットはそのほっそりとした顎をメルヴェーユの右前足の付け根にそっと乗せた。
「きみさ……僕のことかわいいかわいいって言うけど、ホントに変なことしたらただじゃおかないからね?」
「はいはい」
 まだ完全にメルヴェーユに気を許したわけじゃないのかとも思えるが、そうではないらしい。
 素直じゃない仔だな。そんな嬉しそうな声で言われてもね。気づいていないのかな。
「じゃあ私からも一つ。今度この体勢で&ruby(ヽヽヽヽヽ){あんなこと};したら……焼くよ」
 低い声で脅すと、シャルロットはぶるると身を震わせた。
「え、えっ、いや、その、ぼ、ぼぼ僕……」
 ……あれ。涙声?
 見れば、シャルロットは目に涙を溜めてメルヴェーユの顔を凝視していた。
 私、そんなに怖かった?
「あー……べつに本当に君を焼いたりしないからさ、その、何というか」
 だから、なにも体をガチガチに固めて震え上がることはないんだってば。
「ふえっ……ひっ……」
 泣かせちゃった。どうしてこうなるんだろう。私が不器用だからなのか。きっとそうだ。これまでの態度にほんの少しの非難を込めるとともに、シャルロット君の言葉に合わせてうまく返したつもりだったのに。
「さっき言ったことは忘れ――」
 瞬間、メルヴェーユの胸に生暖かい感覚が広がった。何度もやられたから慣れっこに――なんてなるものかコラ。
「シャルロット君……」
 恐怖のあまりに失禁してしまったというのはわかるし、相手は病気で筋肉の弱っている&ruby(こども){仔供};だ。
 メルヴェーユは笑顔をなるべく崩さないようにシャルロットの顔を見た。
 ――その笑いは何?
「僕を脅したりなんかするからだよ。ばーか」
 わざとではなかったにしろ、後対応の仕方というものがあろうに。
「へえ」
 さすがにこれ以上笑顔を維持できるほどの精神力はメルヴェーユにはなかった。
「な、何さ……」
 シャルロットを抱いたまま、扉を蹴り開けて外に出た。
 そして草の上にシャルロットを放る。
「&ruby(いて){痛};っ! 何するん、だ……よ……ふわあぁっ!」
 シャルロットの悲鳴に、天を轟かせるほどの爆発音が重なった。
 メルヴェーユの背から炎が噴き出した音だ。
「君……私の勘忍袋の容量でも測るつもり?」
「あ……あ、あ……」
 こちとら長い毛皮のせいで吸水性抜群なんだ。対して半分植物の君は短くて細かな体毛だからね。私が濡れ鼠になってるのに君はほとんど濡れていないんだね。
 それも確信犯?
 私が優しいからって調子乗ってんじゃないよ。
「それとも、勘忍袋の緒の太さでも計測したいのかい?」
 自分の耳をも壊してしまいそうなほどの轟音。噴き上がる炎は大きく、高熱を帯びて青白くなっていることだろう。体温はゆうに百度を超え、シャルロットの悪戯は白煙を上げて瞬時に蒸発した。
「……あう、ご、ごごごめんなさいっ! も、ももうにににに二度としししません!」
 仰向けに投げ出された無防備な格好で、動かない体を必死に動かして後退りしながら、シャルロットは引きつった声を上げた。
「まったく……」
 メルヴェーユは体の力を抜き、&ruby(ほのおぶくろ){炎袋};から背中の発火器へとガスを送る&ruby(えんかん){炎管};を閉じた。
「え……蒸発させただけ……?」
「……ふう。ただでさえ暑いのに余計な世話をかけさせないで」
「はい……すみません……」
「反省したならいいよ。さあ、ディサイジュアスまで行こうか」
 目一杯の火力を開放したらストレスも一緒に吹き飛び、結局笑って許してやってしまった。
 甘いなあ私。
 ――まいっか。
 真摯に反省する態度が見える君の瞳に免じて、ね。

&size(18){         ◇};

「わあ……」
 遠目に眺めていたのと、シャルロットの家の窓から覗いたのと、こうして真下に立ったのと。ディサイジュアスはそれぞれに違った顔をメルヴェーユに見せてくれた。
 メルヴェーユとシャルロットが両&ruby(て){前肢};を繋いでもまるで届かなさそうな幹周り。一本の木なのに林の中にいるかのような、絶えずさわめく葉擦れの音。緑の匂い。そして何より、幾千の葉を広げた枝がメルヴェーユ達を包み込むかのごとく優しく日光を遮ってくれる。
「思ったより涼しいんだね。私は炎タイプだから暑いのも好きだけど」
 メルヴェーユは幹にもたれ掛かるように座って、シャルロットを伸ばした後肢の上に乗せた。シャルロットはさっきのことをまだ気にしているのか、目を合わせずにメルヴェーユの胸の辺りを見つめたまま押し黙っている。彼に倣って、というわけではないが、メルヴェーユも黙ってさわさわと揺れる葉を見上げていた。
 芝生の丘の上、ディサイジュアスの圧倒的存在感の前に自らの存在の小ささを再認識させられる。青く深い空。柔らかな木漏れ日。&ruby(そよかぜ){微風};の囁き。山を一つ越えた先のメルヴェーユの村は城下町から商人たちが売りに来る機械のお陰で便利になったけれど、何か大切なものを忘れてしまったのではないか。その大切なものを思い出させてくれる気がして、ひどく心地が良かった。
 ふと視線を落とすと、栗色と薄蒼色の瞳がメルヴェーユを見上げていた。
「お前もこの樹の魅力がわかるのか? 炎タイプのくせに」
「ああ」
「ふーん……」
 自分で訊いておきながら、シャルロットはつまらなさそうにメルヴェーユの返答を流して、首を上に向けた。つられて上を見ると、低い位置に突き出した枝があった。
「ねえ。あの葉っぱ一枚取ってくんない?」
 メルヴェーユはシャルロットを地面に寝かせて後ろ足で立ち上がり、背伸びしてその枝に生えた葉を一枚取った。低いと思ったがなかなか、樹そのものの大きさからそう感じただけだったようだ。
「ほら」
「お姉ちゃんは身軽に樹を登って取ってくれたのに、きみってば不器用なんだね」
 手渡してやると、シャルロットはそう毒づいて葉を受け取った。
「私はバクフーンだから。サンダースみたいには動けないよ」
「そう」
 何をするのかと思ったら、シャルロットはその一枚の葉を何やら前足で弄りはじめた。
「……何をしているんだい?」
「黙って見ときゃわかるよ」
 やがてシャルロットはその葉を器用に前足の指に挟んで顔を近づけ、目を閉じてそっと口を付けた。
 流れ始めた美しい音色。明るく生命力に満ち溢れた出だしから、そっと包み込むような優しい旋律。そして変調、音階の上下の激しい軽快なリズムからロングトーン。そこからのさらなる変調で、せき止められた水が一気に流れ出すような力強い旋律が青空を貫いた。
 こう言っては悪いかもしれないけれど、弱々しい彼の身体からこんなに深くて強い力動を感じさせる音色が奏でられるなんて正直意外だった。
最後まで、メルヴェーユは聴き入っていた。小さな声で、演奏に合わせて歌詞を口ずさんでみたりもした。
「なんだ、知ってんのかよ」
「町に出た時に喫茶店で流れてたレコードで聞いたことがあるだけだけどね。&ruby(そらゆみ){空弓};の『shine』……だっけ」
「うん。ところでれこーどって何だ?」
 そういえばこんな辺境の村じゃまだ機術もほとんど入ってきていないか。私の村と城下町を行き来するだけでも骨を折るというのに、わざわざそこからさらに一つ山を越えて人口の極端に少ないこの村までやってくる物好きな商人もいない。
「えーと、何て言ったらいいかな、音楽を聴ける円盤……? まあ、気にしないで。それよりこんな村に住んでる君が空弓を知ってることの方が意外だよ」
「田舎者の僕だって空弓くらい知ってるよばか」
「ファンなのかい?」
「いや……さっきの一曲しか知らないけどけど……つーか、原曲聴いたことねーしよ……」
 シャルロットは前足の先をつんつん突き合わせながら茶を濁した。
「君、やっぱり可愛いよね……ふふ」
「なっ、何笑って……そ、その、あれだよ、お姉ちゃんがよく口ずさんでたのを聞いてさ……って笑うなよ!」
 何だろう、すごく不思議な気分だ。
 私はまだ一人前の医者として師匠に認めてもらって日が浅いけれど、これまでに助手として多くの患者と接してきた。よくわからないけど、シャルロットにはどこかただの患者には思えないところがある。二週間もの苦境を乗り越えたからなのか、単にシャルロットが愛らしい容姿をしているからなのか、ともかく――
「ごめん、君を見てると……」
 ――そう。楽しくってさ。

&size(18){         ◇};

「おお、戻ったかメルヴェーユ。どんな様子だった?」
 いかにも好々爺といった感じのレントラーが四足試用の低い回転椅子ごとくるりと向き直った。
 薬や簡単な医療機器が所狭しと並べられた小さな医院は、これでも村を支える、一つしかない病院だ。
「今日は体調が良かったらしくて。私に草笛の演奏を聴かせてくれました」
「ほぉ……二週間で随分打ち解けたようだな」
「そういうのじゃないですから」
 レストロはまた背を向けてカルテの整理を始めた。メルヴェーユがシャルロットのところヘ行っている間は&ruby(ひとり){一匹};で診察にあたっていて、患者が来ていない時とて暇というわけではない。それでも、齢七十に達しようかというレストロは疲れを見せない。たった&ruby(ひとり){一匹};の患者を相手に、二週間で精神的に参りかけていた私はまだまだ未熟だ。
「手伝います」
 シャルロットの村に比べれば人口も少なくないとはいえ、カルテの数はそう多くない。手伝うとは言ってみたものの、メルヴェーユが&ruby(て){前肢};をつける前に終わってしまったらしい。
「……師匠、シャルロット君の治療費の件なんですが」
「うむ」
 レストロはメルヴェーユの言いたいことを察してか、優しい笑みを浮かべた。
「要らんよ。あの仔&ruby(ひとり){一匹};くらい何とかなるさ」
「そうですか……そろそろ彼に訊かれるんじゃないかと」
 姉がいなくなった今、両親のないシャルロットにはもはや収入源はない。
「しかし惜しい娘を亡くしたものだ。必死で働いて、山を越えて薬を買いにきて……弟を養うために、健気に生きておったのにな」
「できることなら私が……薬を届けていれば良かった」
 そうしていればセシリアが死ぬことはなかった。落石事故なんて、サンダースの瞬発力なら注意していれば避けられたのではないか。きっと疲れが溜まっていたに違いない。でも、そうするとあの事故で死んでいたのは私……?
「因果律というものは我々の力ではどうにもできんよ。ポケモンは皆、生誕のその時から死を内包しておる。あの日がセシリアの定められし&ruby(とき){刻};だったのだ。お前や儂の如きポケモンが足掻いたとて同じよ」
 レストロは医者でありながら、運命論者じみたところがある。さりとて、それも数々の死をその目に刻んできたからこその達観なのだろう。
「ゆめゆめ忘れるでないぞメルヴェーユ。儂ら医者は他人の命を左右できるほどの存在では決してないということをな」
「……心得ております」
 命を救う。寿命を伸ばす。師匠は医者の仕事をそういうものだとは考えていない。
 定められた刻への中継。これは患者の運命という道のある一点であり、終幕は五十年後かもしれないし、半年後かもしれない。明日かもしれない。数時間後かもしれない。一つ確かなのは、それは今じゃないということ。それだけを胸に留めて治療にあたる。奢らず、決して諦めず、今できる最善を尽くす。それが師匠の考える医師観だ。
「若いうちはいいもんだ。メルヴェーユ、ここ半月欠かさず山を越えてあの仔のもとへ通っておるな。老人の体力ではなかなかそうもいかん」
「師匠にはこの医院を守る使命があるじゃないですか。師匠のお手伝いができるなら私はどこへでも行きます」
 窓の外、真夏の昼下がりの町並みは白い暗闇に包まれていた。皆暑さに参って外出を控えているのか、道を歩くポケモンの姿がない。時の流れが視えない。
 シャルロットはまた窓の中からディサイジュアスの樹を見ているのだろうか。脈々と伸びた枝と緑の葉が風に揺れる姿は、きっと白い暗闇になど包まれてはいない。
「この辺りも自然が減ってしまった。のう、メルヴェーユ」
 師匠は私の心境を見透かしたように目を細めていた。

&size(18){         ◇};

「ねえ、メルヴェーユ。お姉ちゃんはもしかしてかなり先まで僕の薬代払っててくれたの? 医療費は? 出張診察とか高いんじゃないの?」
「心配しなくてもいいよ」
 図ったようなタイミングだった。レストロに相談した次の日、メルヴェーユは昼過ぎにシャルロットの小屋を訪れた。シャルロットが窓を全開にしても暑くてたまらないと言うので、ディサイジュアスの下ヘ連れてきた。根本に座り込んだ直後のことである。
「肩代わりするとか言うなよ。僕に貸しなんて作っても返さないからな」
「いいや。師匠が……レストロ医師が君の治療費はいらないって」
「じゃあメルヴェーユが毎日来てるのって何なの?」
「経過観察、かな。君の病気が急に悪化したりしたらいけないから」
「そんなこと言って僕の心の隙間に入り込もうと狙ってるんだろ。&ruby(おんな){牝};には気をつけろってお姉ちゃんが言ってたもん」
 道理で警戒心が強いわけだ。まあ、こんな可憐な仔が&ruby(ひとり){一匹};で暮らしているのだから、用心するに越したことはないのだけれど。
「そうだね。私はシャルロット君の心の隙間を埋めてあげたいと思ってるよ」
「ほらみろ。でも、僕の心の隙間は隙間なんてもんじゃないから。もっとずーっと深くて暗い穴だから。メルヴェーユが入ってきたくらいで埋まると思う? 奈落の底に落ちるだけさ」
「……落ちるのはごめんだよ」
 メルヴェーユは後足で立ち上がって葉を二枚千切り、一枚をシャルロットに手渡した。
「昨日やってた草笛、私にも教えてくれないかい?」
 シャルロットは乱暴に葉を引ったくると、昨日と同じように葉を折りはじめた。
「……めんどくさいからやだ」
「そう。残念だな」
 シャルロットが草笛を作るのを黙って見ていることにした。完成まで、といっても瞬く間ではあったが、メルヴェーユには目もくれなかった。
「教えてくれたら伴奏入れられるかもしれないよ」
「……そんな簡単じゃない。音を鳴らすだけでも苦労するよ。音階つけようと思ったらもっと大変だよ」
「シャルロット君と草笛でセッションしてみたいなあ」
「僕はべつにメルヴェーユなんかとしたくないもん」
「じゃあこうしようか。草笛教えてくれたら代わりに空弓の他の曲教えてあげる。シャルロット君、一曲しか知らないんだろ?」
「ほんと?」
 今までの不機嫌そうな表情とは一転、シャルロットは目を輝かせた。もしかすると彼はすごく音楽が好きなのかもしれない。
「ああ。私は歌はヘタだからお姉さんみたいに歌って聴かせてはあげられないけどね。レコードプレーヤーを持ってきてあげるから」
「約束だからな!」
 シャルロットがそう言って前足を差し出してきたとき、メルヴェーユの頭にふと師匠の言葉が聞こえてきた。
 ――患者と約束を交わしてはならん。
 病に伏せっている相手と、病気が治ったら一緒に何かしようとかどこかヘ行こうとか約束すると、その約束は果たされることなく最期を迎えてしまう――そんなジンクスがある。
 いや、何を。
 レコードを持ってくるなんてのは明日明後日の話じゃないか。それにシャルロットが死ぬって? 先天性で完全に治ることはないとはいえ、十八年もの間一度も危篤状態になることもなく生きてきたんだ。そんなはずはない。
「おい、なに下向いてんだ?」
「いや……約束するよ。持ってきてあげる」
「仕方ねーな……それじゃあ草笛教えてやるとするか」
 捻くれてるようでいて根はまっすぐで、小憎らしいようでいてかわいらしい。そんな仔の笑顔が見られなくなるなんて、一瞬でも考えてしまった自分が少し嫌になった。

&size(18){         ◇};

「ふぅ……シャルロット君、いるかい?」
 いくら炎タイプでもこんなものを背負ってきたら舌が出る((パンティングのこと。発汗のかわりに唾液を蒸発させて体温を下げる。))。
「入って」
 メルヴェーユが扉を開けると、シャルロットはベッドの上で身を起こした。
「わお! それがレコードってやつ? ってメルヴェーユ、なに舌出してハァハァやってんの?」
「体温下げてるだけだよ。炎タイプがこんなことしてるなんて珍しいかい?」
 目を輝かせるシャルロットの前にプレーヤーを置き、いつもの椅子に腰掛けた。
「……それで、どうやって聴くんだ?」
「この辺りは電気も通ってないからさ、手回し式。電気タイプのポケモンが近くにいたら手っ取り早いんだけどね。このハンドルを回して充電して、ここにレコードをセットして針の先を当てるんだ」
「電気タイプ……」
 ん?
 ――あ。
「いや、その……ごめん。私は君のことも考えないで……」
 セシリアはサンダースだった。シャルロットに電気タイプの話なんてしたら、真っ先に姉を思い浮かべるに決まっているのに。
「だからメルヴェーユはメルヴェーユなんだよ」
「……うん」
 私の存在全否定? それも仕方ないけどさ。
「でも今は、僕には……」
 オッドアイの瞳がこちらに向けられた、と思ったらすぐに目を逸らして、後ろを向いてしまった。非難の眼差しではなかった。何が言いたいのか、メルヴェーユにはすぐにわかった。
 でも――それは、希望的観測か?
「……と、とにかく、気にすんな。いちいちそんなことで謝ってたらあれだぞ、一生電気タイプの話なんかできなくな――」
 ――希望でも、いい。
 言葉を遮るように、後ろからシャルロットを抱きしめた。
 彼はもう抵抗しなかった。押し黙っていたけれど、少なくとも嫌がっている素振りはなかった。
「――僕にはメルヴェーユがいる、って……そう言いたかったんだよね」
「……勝手に作んなよ」
「じゃあ続きを聞かせてくれるかい? 言わないと私の想像で解釈させてもらうよ」
「うるさいな。想像でも妄想でも勝手にしろよ」
「勝手に作ったらいけないんじゃなかったかな」
 私はなかなかひとの温もりというものを感じることができない。炎タイプの&ruby(さが){性};なのか、いつも温めてばかり。
 最初はそうだった。君を温めてあげようと思った。
「あーもぉ……そうだよ!」
 でも少しずつ、私の中で何かが変わりはじめた。何かに気づきはじめた。
「今の僕にはメルヴェーユがいるから」
 ほんのりと感じるこの気持ちに。
「――ほら、これで満足か? お前の想像通りに口を動かしてやっただけだけどな」
 私もまた、君に温められているんだってことを。

&size(18){         ◇};

 季節は巡り、ディサイジュアスの葉は真っ赤に燃え上がった。あれだけの巨木が紅葉するなんて半信半疑だったが、いざこの目で見てみるとそんな疑問も吹き飛んでしまった。その荘厳さに言葉も出なかった。
 が、シャルロット君は紅いディサイジュアスが気に入らないらしく、秋に入ってからずっとご機嫌ななめの御気色である。
「つまんない」
「ディサイジュアスの下には行かないのかい?」
「あんな赤いのやだ。草笛も吹けないし」
「せっかくの秋だよ。外に出て少し体動かした方がいい。私には少し寒いけど、君には過ごしやすい季節だろう?」
 シャルロットはレコードを聴きながら、いつもの場所でいつものように窓の外を眺めていた。窓辺に置かれているグラスに挿した一輪の花はメルヴェーユが村へ来る途中に見つけたもので、秋晴れに映えるやわらかな紫苑色が美しかったので摘んできたのだ。メルヴェーユのせいでいずれ枯れてしまうことになったその名も知らぬ花には悪いと思ったけれど、シャルロットとその小さな花を愛でる気持ちを共有したくて。
「どうせ走り回れない体だもん」
「歩くだけでもいい。日の光を浴びるだけでも違ってくるよ」
 ――僕は夏のディサイジュアスが一番好きなんだ。
 シャルロットはそう言っていた。確かに、そう。赤々と燃えるディサイジュアスも美しいけれど、それはどこか儚げで、死臭めいた匂いが漂う。体の弱いシャルロットにしてみれば、生命の活力を失ってゆき、やがて葉を落としてしまう樹の姿に散り際の美を感じるなんて無理な話なのかもしれない。
「じゃあ、メルヴェーユがおぶってくれるんならいいかな」
「ふふ。甘えん坊さんだね。もちろん構わないよ」
「誰が甘えん坊だ。日の光を浴びるだけでいいって言うから浴びるだけじゃないの。僕を&ruby(こども){仔供};扱いするなよな」
 &ruby(こども){仔供};だなんて思っちゃいないよ。私の中ではもうとっくに……
 ――シャルロットを背に乗せて小屋から外に出た。澄み渡った空から注ぐ温かな陽射しは、草タイプのポケモンに元気を与えてくれるだろう。メルヴェーユには少し肌寒く、背中の炎を焚きたいところだったがシャルロットを乗せていてはもちろんそんなことはできない。代わりに、背中越しに伝わってくるシャルロットの体温が寒さを少しばかり和らげてくれている。
「きみ、これで寒いの? メルヴェーユの体ってすごく温かそうだけど」
「普段は背中の炎を出して調節するんだけどね」
「便利なんだな。でも、たまには寒さも感じとけよ」
 シャルロットはメルヴェーユを諭すように言った。文句や照れ隠しではなく、珍しいことにメルヴェーユに何かを伝えようとしていた。
「死はいつも季節外れにやってくる。だから、いつも季節を感じていなさい――ってさ。お姉ちゃんの受け売りだけどね」
 季節外れの死。
 死に相応しい季節とはいつなのか。
 春、うららかな陽射しのもとで穏やかに。夏、炎天下のもとで盛大に。秋、幻想的な月のもとで儚く。冬、降りそそぐ雪のもとで寂しく。
 言われてみれば、どれも合わない気がする。何かが足りない。そしてその何かはどこにもない。レストロほどではないが、メルヴェーユもこれまで数々の死を見てきた。死にはいつも、ぽっかりと穴が空いている。
「心に留めておくよ。いい言葉だね」
「当たり前だろ。僕がわざわざメルヴェーユに教えてやるくらいなんだから」
 いつ尽きるともしれない命だからこそ、季節を感じて生きる――この秋が来年また彼に訪れるとも限らないのだから。
「じゃあ紅葉が嫌いなのも治さなきゃダメだね」
「そうだな……」
 シャルロットはディサイジュアスのほうへ首を向けた。
「……赤いのも悪くないかもしれないね。炎を連想させてくれるし。ほ、炎だからな。メルヴェーユじゃないからな」
 そう何度も念を押さなくったってわかってる。
 草タイプの君が炎を思い浮かべて、悪くないかもしれない、なんてさ。理由なんて探すほどもない。希望的観測ではなく、客観的に見ても。
「ああして真っ赤だと私も緑色が恋しくなる……ただの緑色だからね。シャルロット君のことじゃないよ」
「お前な……」
 シャルロットははじめ不服そうな声を出したが、そのまま黙りこくったかと思うとメルヴェーユの背に頬をすり寄せてきた。
 メルヴェーユは歩くのをやめて、紅く染まったディサイジュアスを仰ぎ見た。
 この出会いに感謝します。
 ――ボクはキミたちを見守っているよ……
 樹の精霊が答えてくれたような気がした。

&size(18){         ◇};

 大量の枯れ葉を一所に集めて焚火を囲む。毎年初冬にやるこの村の伝統行事なのだとか。シャルロットにとってみれば家の前が騒がしくなるだけで、はた迷惑以外の何物でもない。名前はなんていったか、物好きなワカシャモの&ruby(おんな){牝};が誘いに来たが断ってやった。
 そのワカシャモ他、数名が積み上げた葉に火を点けようとしているのが窓から見える。火力が足りないのか、着火に手間取っているようだ。
 一度しか見たことないけど、メルヴェーユの本気の炎なら一発でいけそうなんだけどな。
 こんな日に限ってメルヴェーユはまだ来ていない。今日は午後になってから来るのか――と思っていたとき、家の中にいても聞こえるくらいの歓声が上がった。
「あっ……」
 メルヴェーユだ。背中から炎を噴き出したバクフーンの戦闘形態はやっぱりかっこいい。
 彼女が加わったことで火は一気に大きくなり、枯れ葉の山が燃え上がった。
 &ruby(あか){朱};い炎は高く、高く、空を貫いた。ディサイジュアスの木に負けないくらいだった。
 生まれて十八年、僕は毎年この祭りを見てきたけれど、初めて綺麗だと思った。ただ枯れ葉が燃えているだけじゃないか。そんな程度の認識しかしていなかった。お姉ちゃんに誘われても絶対に参加しなかった。あなたが行かないなら私も行かないと、お姉ちゃんも一緒に家に残った。焚火の時だけじゃなくて、何かにつけシャルロットの側にいてくれた。だからお姉ちゃんは変人扱いされて、友達もいなくて――
 ――わかってたんだ。僕のせいだ。僕が対&ruby(ポケ){人};恐怖症じみた根性の持ち主だから。&ruby(ポケ){人};前に出たくないってだけで、お姉ちゃんまで巻き込んで。でも僕は、お姉ちゃんだけ行けばいいのにって何度も言った。お姉ちゃんが絶対にそうしないとわかっていながら。本当は側にいてほしい。それが見抜かれていたからだ。
 メルヴェーユは隣村の住人ながら、実はこの村でも好評を受けている。身寄りのなくなったシャルロットの所に毎日通って世話をしていることが知れ渡るにつれ、村人は快く彼女を受け入れてくれるようになったという。
 お姉ちゃんと違って誰に対しても愛想がいいから、ああやって最前線で参加できるんだ。
 と、小屋の扉が開けられた。
「やあシャルロット君。こんな所で何をしてるんだい?」
 いつの間にか小屋まで来ていたらしい。
「……べつに」
「仕方ない仔だな……」
 やっぱりお姉ちゃんとは違った。全然違った。
 メルヴェーユはずかずかとベッドまで歩み寄ってきて、問答無用でシャルロットを抱き上げた。
「ちょ待っ、何を……」
 しかもお姫様抱っこだ。まさかとは思うけど、このまま――
「行こう」
 ――そのまさかだった。メルヴェーユはシャルロットを前足で抱いたま歩き出した。
「何だよ、やめろって……おい! 僕をあんなところへ――」
 メルヴェーユは小屋を飛び出して、そのまま焚火を囲む村人たちのところへ向かってゆく。
「皆さん、今年は彼も体の調子が良いから参加したいそうです」
「誰がいつそんなこ」
 もが。口塞がれた。
 この乱暴&ruby(おんな){牝};め。
 例のワカシャモがこっち見て笑ってる。くそ。ふざけんな。なんで僕が公衆の面前でお姫様抱っこなんかされなくちゃならないんだ。
 ――でも、そのあと焚火で焼いた木の実や芋、リーフィアの僕はちょっと苦手だけど肉なんかも皆と一緒に食べて、メルヴェーユが帰ってからも多くのポケモンたちと慣れない雑談なんかもして、この日は僕の忘れられない一日になった。
 メルヴェーユには感謝してる。
 思えば全てを拒絶していたあの頃の僕に、どれだけ傷を負わされても傷を傷とも思わず近寄ってくるなんてとんだ物好きだ。
 わかってる。自分も変だってことは。病気のせいなんかじゃなくて、周りから見れば僕も相当変わった性格をしているんだろう。だから、そう。
 メルヴェーユくらい物好きなひとが、僕にはちょうどいい――

「ねえ、シャルロット君! 大丈夫?」
「あの医者の娘はもう帰ったのか? くそっ……誰かこの仔を家まで運んでやれ!」

&size(18){         ◇};

 その夜、医院に戻った私は、少しばかり話がある、とレストロ師匠に呼び出された。
「お前があの仔に夢中であるのもまた何かの&ruby(さだめ){運命};なのかもしれぬな」
「夢中だなんてそんな。私はただセシリアの思いを果たしてあげたいだけです」
「一生添い続ける覚悟はあるのか?」
「あの仔と……シャルロットと生きてゆく相手が見つかるまでは私が」
 迷わず答えると、レストロは大きな溜め息をついた。
「まあ、儂&ruby(ひとり){一匹};でもこの病院は何とかするがな。こちらに連れて来てお前の家で面倒を見るわけにはいかんのか?」
「ばっ……&ruby(おとこ){牡};の仔なんですよ! 私みたいな独身の&ruby(おんな){牝};が連れてくるのはまずいでしょう……それに、彼を――」
 あの小屋に、あの丘に、あの樹に、シャルロットがどれだけ心を寄せているか。
「――あの場所から遠ざけると、壊れてしまいそうで」
 ディサイジュアスの樹が本当に彼に力を与えてくれているのかどうかはわからない。でも、都会というほどではないけれど、こんなゴミゴミした村に連れてきたらそれこそ埋もれて消えてしまう。それほどに彼は脆い存在だった。
「……ふむ。まあ、もともと十年の命といわれた仔だからな。十八の今まで生き、あまつさえ歩き回れるなど奇跡としか言いようがない。それが周囲の環境によるものだとするならば、環境の激変が確かに悪い結果をもたらすこともある」
 レストロは電気火花で煙草に火をつけて一服紫煙を燻らせ、優しい眼差しをメルヴェーユに向けた。親が仔を見るような目だった。
「メルヴェーユ、お前も病魔に侵されているようだからのう」
 病魔に? 私は健康体だ。シャルロット君の病気は先天性で、うつるような物でもあるまいし。
 一瞬、意味が分からなかった。師匠が微笑んでいるのを見て気づくのに間があった。
「なっ、それは私が彼に……こ、恋焦がれているとでも言うのですか? 冗談は&ruby(よ){止}してください!」
「なっ、それは私が彼に……こ、恋焦がれているとでも言うのですか? 冗談は&ruby(よ){止};してください!」
「お前は気づいておらんかも知らんが、内面は意外と体の変調として外に表れるものだ。儂なら構わんぞ。しばらくあっちへ滞在したらどうだ?」
「滞在って……&ruby(おとこ){牡};の仔の家に泊まるわけにはいかないでしょう」
「なに。あの仔は突然変異による遺伝病だが、生殖細胞にさえ変異が起こっていなければ配偶子は正常に作られるぞ」
「師匠!」
 レストロはカラカラと笑った。こうなるとただの悪ふざけの過ぎるじいさんだ。
「冗談に決まっとろうに。今は無理だが、春になりゃ外でも寝られるだろう。儂が若かりし頃に使っておったキャンプセットを貸してやるぞ。なに、儂とてあの仔の事が心配で仕方がないと顔に書いてあるお前を見てられんのだよ」
 春になったらシャルロット君の村にお泊り?
 そりゃあ――――
 ――魅力的だ。
「……はい。冬が明けたら二週間ほど休暇をいただけますか?」
「患者の身辺の世話をするのもお前の仕事ではないか? 休暇など与えなくともな」
「ありがとうございます」
 淡く儚げな、脆さを内包した美しさには誰しも惹かれるものだろう。
 だからこれは特別な感情じゃないって、そう自分に言い聞かせながら、胸躍る気持ちを抑えるのに必死だった。

&size(18){         ◇};

「な、ん、だっ、てええぇぇーーッ!?」
「だから……」
 一度枝だけになったディサイジュアスが息を吹き返し、新芽が伸びて艶やかな葉を茂らせはじめている。
 鳥ポケモンの囀りが耳に心地よい。
「……今日から二週間、こっちにいられることになったから」
「本当? 僕うれしいよ! ――なんて言うとでも思ったの? 何考えてんだよお前!」
「経過観察と身辺の世話……つきっきりで看病できるよ。お金もらってないのにVIP対偶だよ? 感謝してほしいなあ」
「VIP対偶ってなぁ……僕はこれでも&ruby(おとこ){牡};の仔なんだからね。歳が離れてたって、メルヴェーユも&ruby(おんな){牝};は&ruby(おんな){牝};だろ」
 シャルロットはまた前足の先をつんつんと突き合わせて、気まずそうに口ごもっている。
「そんなかわいい仕草見せて大丈夫なのかな?」
「――ばっ……いや。そのテの冗談は聞き飽きたよ」
「安心して。私は外で寝るから。ちゃんとテントも持ってきたし」
 丸めて背負ってきたテントを指し示す。
「もう春になったけど……夜はまだ寒いんじゃないの?」
「心配してくれるんだ」
「当たりま――え、じゃなくて、ええと、今のはなしだ。メルヴェーユ、秋から寒い寒いって言ってたし冬なんか背中の炎ほとんど焚きっ放しだっただろ。風邪でも引いて僕にうつされちゃ困る」
 デレはないって自分で公言してたっけか。そういうところが前面に出てきたら対処に困るけどね。理性を抑えるのに苦労しそうだ。
「火は焚くけどね。私だって炎タイプとして二十七年も生きてきたんだ。寒いのは慣れっこだよ」
 概して嫌な予感というのはよく当たる。
「約束して」
 だってほら、シャルロット君の頬が紅潮しているじゃないか。
「約束って、何をだい?」
 真剣な目でメルヴェーユを見ている。
「僕を襲わないって約束して。そしたら泊めたげる。わざわざ外で寝ることないだろべつに……」
 やだなあ。私だってこんな風だけど&ruby(おんな){牝};なんだからさ。
「それとも僕のこと、キライなの?」
 シャルロット君。いま自分の言ってることがどれだけ私の心をかき乱してるかって、自覚してる?
「いいや。好きだよ。すごく」
 相手の気持ちにも気づかず、自分の気持ちにすら気づかないなんて、馬鹿な&ruby(おんな){牝};だけど。
 ――師匠。あなたはやっぱり正しかったみたいです。私のことなんて全てお見通しなのですね。
「だから……約束はできないかもしれない」
 彼はベッドに横たわって上半身を持ち上げたいつもの姿勢だった。
 メルヴェーユはこれまでにも何度かそうしたように、ベッドの横から近づいて彼を抱きしめた。
「ちょ、メルヴェーユっ――!」
 嘘だ。こんなこと一度もしちゃいない。
 今は、抱きしめてなんかいない。
 シャルロットの頭に前足を回して、片方の耳を折りたたむように塞いだ。
 目は閉じていたからシャルロットの顔は見えなかった。
 でも、シャルロットが受け入れてくれたことは間違いなかった。
 ――ほんのり湿っていてやわらかかった。
 草の匂いと甘い香りがした。
 &ruby(くちびる){口唇};を離して、目を開く。
 目を閉じたままのシャルロットの顔と、窓のむこうに見える緑色の樹がそこにあった。
 ディサイジュアスは最初の新芽が出たかと思うと、次々に葉をつけ、今やメルヴェーユが初めてここに来た時と変わらぬ様相を呈していた。夏のような強い陽射しがないぶん柔らかな印象を受けるものの。
 シャルロットはまだ目をかたく閉じたままだ。
 そのまま待ったけれど、一分、二分と経過して、メルヴェーユはついに耐えられなくなって吹き出してしまった。
「なっ、何を笑ってるんだよ!」
「いや、だって君が……」
「しょうがないだろ! こんなこと初めてなんだからっ。どうしていいかわかんなくって……その……」
「私に訊かれても困るよ」
 二十七にもなって恥ずかしい話だけれど。
「……私も&ruby(おとこ){牡};の仔とキスしたのなんて初めてだからね」

&size(18){         ◇};

 いつまで見ていても飽きない。私の&ruby(あし){膝};の上で眠るシャルロットの寝顔は、棘の取れた薔薇のようだ。綺麗でまっすぐで、傷一つない。
 淡い陽射しに揺られているとメルヴェーユも眠くなってきた。
 ディサイジュアスの下に来たのは去年の夏以来だ。久し振りに草笛の演奏を聴いた。冬の間にレコードを聴いて覚えたのか、曲のレパートリーが何倍にも増えていた。メルヴェーユはまだまだ初心者で、伴奏すらまともに吹けなかったので結局聴く側に回ることになった。どうもバクフーンには難しいらしい。
 リーフィアの草笛は単に演奏するだけでなく、自らの意思を『世界そのもの』に伝えることができるというから驚きだ。存在論的なヒエラルキーとして、私個人というものの上に、世界に存在するメルヴェーユというものがある。草笛の話しかける対象は後者の方だ。特定の旋律に乗せて、『眠れ』と。こちらに話しかけられては、個人の意思では抗うことはできない。否定することはすなわち、世界に存在することを拒否するということになるからだ。プリンやピッピは歌で同じことができるが、精神に直接作用する催眠術、化学的な作用で眠らせる眠り粉やキノコの胞子とは根本的に違う。
 それでまあ、シャルロットは自分を眠らせたらしい。昨日はメルヴェーユが横にいたせいで暑くてよく眠れなかったのだという。
 ――どうせなら私も眠らせてくれればよかったのに。
 あ、それじゃあ寝顔が見られないか。それにこうしてまどろみの中にいるのも悪い心地はしない。二週間も滞在できるんだ。そう思うと時の流れがゆっくりになったような気がしてくる。
 ……私はいつしか、医者としてではなく、セシリアの友人としてでもなく、&ruby(ひとり){一匹};の&ruby(おんな){牝};としてシャルロット君を見るようになっていた。きっかけは師匠の言葉。考えてみれば昨日まで自分の気持ちが何なのかわかっていなかった。いや、自分に嘘をついて、誤魔化して、勝手な理屈を作って、目をそらしていただけだ。
 それが証拠に今、私はこんなにも彼がいとおしくてたまらない。
「寝顔……かわいい」
 メルヴェーユは身体を曲げて、寝ているシャルロットの口唇をもう一度盗んだ。
「おい」
 いきなり薄青色と栗色の目が開いた時には心臓が裏返った。
「あ……いや、これは……」
 狸寝入りとは小賢しい真似を。でも、さっきまでは確かに眠っていたのに。
「お前最初に僕に会ったとき言ってたこと……やっぱり本気だったんだろ」
「あの時は素直に褒めてあげただけだよ。それよりシャルロット君。狸寝入りしながら私がキスするのを待っているなんて意地が悪いよ」
「う、うるさい。寝てる&ruby(おとこ){牡};の仔の口唇を奪う方もどうかと思うけどなっ」
「……ああ。今回のは私が悪かったよ。ところで」
 ここはメルヴェーユが大人になって謝ることにした。何故って、シャルロットが前足の先をメルヴェーユに突きつけてまくし立ててきたから――私の&ruby(あし){後肢};の上で。
「起きたのなら、降りてくれないかい?」
「べつにいいだろ。僕の身辺の世話がきみの仕事なんだから。小屋まで運ん――」
 ――私は何か重大な勘違いをしていたのだろうか。
「――で……ごほッ、あれ…………おかしい……な……」
 楽天的すぎたのかもしれない。
「シャルロット君!?」
 そう、いつも季節外れにやってくるって――
 春爛漫といった風情のこの時期に。
 こんなにいい天気なのに。
 仄かな想いに気づいた&ruby(ふたり){二匹};がほんの戯れの会話を交わす、ゆるやかな&ruby(とき){時間};に…… 

&size(18){         ◇};

 脈拍は弱く呼吸も浅い。
 辛うじて意識はあるみたいだが、ベッドの上のシャルロットにいつもの覇気はなかった。
「ありがと、メルヴェーユ……」
「どうしたんだい急に。今までだってずっとやってあげてただろ? ほら、口開けて」
 シャルロットの上体を支え、口に粉薬を入れて水を流し込む。
 現在の私たちの医学では発作の予防薬を出すことで精一杯だ。
 シャルロット君は生まれた時から崖を落ちている。私たちにできることは、断崖絶壁をゆるやかな坂にするだけ。いくらゆるやかでも、滑り落ちてゆく。医者として、その斜面を平面にできないことがもどかしい。しかしそう考えると誰しも生まれたときから坂の上を滑り始めているのだ。その坂の傾斜が&ruby(ポケモン){人};によって違うだけ。
 師匠は言っていた。坂が急であるほど滑り降りるまでの時間は短いが、その分面白いだろう。わからなかったら芝生滑りをした&ruby(こども){仔供};の頃を思い出してみりゃいい。
「わかりませんよ師匠……」
「ん? どうしたんだ……?」
「……いや。何でもない。とにかく今日はもう寝るんだ。ゆっくり休まないと」
「なんかお前、すっげー心配そうだな」
 シャルロットの言い草はまるで他人事だった。自分がどうなってもいいというよりは、安心しきっているようだった。
「当たり前じゃないか。医者だってポケモンなんだよ。慣れてるからって……」
「大丈夫だって。なんかあってもメルヴェーユがいるだろ。それにこんな風になったの初めてじゃないしな」
「初めてじゃない?」
「うん。たしか焚火祭りの時だったかな。メルヴェーユが帰ったあと今日みたいに倒れちゃって」
 焚火祭りといえば、メルヴェーユが文字通り火付け役になって、シャルロットも含めて村人皆で盛り上がったあれだ。メルヴェーユはレストロの手伝いがあるので途中で帰ってしまったが。
「……シャルロット君。どうして言わなかったんだい?」
「次の日には元通りになってたからな」
 シャルロットはそう言って、元気のない中にも小さな笑顔を見せた。
「ダメじゃないか。今度黙ってたら焼くよ?」
「はーい……もう何も隠さないから……おやすみ」
 おどけた調子で言うと、シャルロットは布団を被って細い寝息を立てはじめた。
 やっぱり彼の寝顔は見ていて飽きない。
 けれど、もっと違う気持ちで眺めていたい。収まらない胸騒ぎと不安の気持ちを抱えてだなんて。今日の昼間みたいに、仄かにあたたかい心で眺めていたかった。

&size(18){         ◇};

 二週間の滞在はあっという間だった。
 徐々に回復したシャルロットは、メルヴェーユが帰るまでにはゆっくりなら立って歩ける程度にまでなっていた。
「じゃあ、また明日来るよ」
「うん」
 こんな気持ちで扉に&ruby(て){前足};を掛けたことがあっただろうか。
 やはり不安が残る。
 また発作が起こったりしないだろうか。&ruby(ひとり){一匹};で大丈夫なのか。
 でもそれだけじゃないことは自分でもわかってる。
「ねえメルヴェーユ……」
 離れたくない。ずっとシャルロット君のそばにいてあげたい。
「……ううん、何でもない。また明日来てね」
「ああ。あまり無茶しないようにね。安静にしてるんだよ」
 さりとて薬は取りに行かなければならないし、この二週間&ruby(ひとり){一匹};で仕事をこなしてきたレストロにも礼を言わなければならない。
 奇しくも、この二週間こちらに滞在していたお陰で、容態の悪化したシャルロットをつきっきりで看病できた。もしもあの時自分がいなかったらと思うと恐ろしくなる。
 今思えば、私はなんて馬鹿で能天気だったんだろう。胸躍らせていた。シャルロット君と一緒に二週間過ごせるって。甘い。全く以て甘かった。
 &ruby(はや){逸};る気持ちを抑えて山道を行く。
 落石注意の看板に、ふとセシリアの顔が浮かぶ。交流と呼べるほどのものはなかったけど、弟のことを話す彼女の顔は輝いていた。
 ――彼女のためにも。シャルロット君にはずっと笑っていてほしい。君の苦しむ姿なんて見たくない。

&size(18){         ◇};

「むう……」
 経過を報告すると、レストロは珍しく顔をしかめた。
「わずか三ヶ月ほどの間に続いて二度の発作か……メルヴェーユ、お前もう一ヶ月ほどあの仔の側にいてやれ」
「は? と、申しますと?」
 そんなこと、聞きたくない。
「もともとお前が来る前は&ruby(ひとり){一匹};でやってきたのだ。儂だけでもこの医院はなんとかなる」
 お茶を濁すなんて師匠らしくない。でも今はそれでいい。その先を聞かせないで下さい。
「……恐らく、もう長くない」
 長くないって、師匠が咥えてる煙草がですか?
 そんな冗談かもしれないって、解釈したくなる。
 嫌だ。馬鹿な。だって、二週間で良くなったじゃないか。
「お前も覚悟を決めろ。できるだけのことはしよう。新しい薬を出す」
「これは……」
 痛み止め?
「……狭心症が起これば胸の痛みを伴う。お前も知っての通りだ」
「私は――――」
 二週間で良くなっただって? 歩けるようになったのも、シャルロット君の体が今の状態に慣れただけだ。それにもしかしたら――
 ――強がっていたのかもしれない。私に心配はかけまいと。焚火祭りの日の事だって、私に黙っている理由が他にあるだろうか。そう、私だけでなく彼の方でも、もう私を医者として見ていないのだ。
「――今できる最善を尽くします」

&size(18){         ◇};

 翌朝六時。四時半に起床して支度を済ませ、メルヴェーユは飛ぶようにしてシャルロットの小屋へやってきた。
「シャルロット君、入るよ」
 扉を開ける。
 シャルロットはいつものようにベッドの上で体を起こして。
「メルヴェーユ……僕……」
 泣いていた。
「シャルロット君……?」
 ベッドに近づく。ベッドを見た時から違和感はあった。布団から水滴が滴り落ちている。
「体……動かなくて……もうやだ……どうして、こんな……」
「君、やっぱり……」
 無理していたんだ。メルヴェーユの不安を見透かして。師匠の言葉が、メルヴェーユの中でますます現実味を帯び始めた。
「こんなことすら&ruby(ひとり){一匹};でできないんだって……悔しくて……」
「大丈夫だよ。私、ずっとこっちにいられるようになったから。私が君を助けてあげる。私が君を守る」
 シャルロットを抱き上げて、こんなこともあろうかと持ってきた代えのシーツを出した。
「ずっと……?」
「ああ。ずっとだよ」
 ベッドを整えて、シャルロットを優しく寝かせた。布団をかけてやりながら、頬を撫でてやった。
「……嘘つけ。僕も&ruby(こども){仔供};じゃない。仕事で医者やってるんだろ。仕事しないで生きてけるもんか。僕と心中するつもり?」
 利口なシャルロット君のことだ。安っぽいごまかしなんて通用しないって、わかっていたはずなのに。
「それとも僕、もう死ぬの?」
 そんな言葉、聞きたくなかった。
「正直に答えてよ。こんな体に生まれた時から覚悟はできてるんだ」
 君のそんな顔、見たくなかった。
「僕が死ぬまでずっと一緒にいて、最期を看取ってくれるってことだよね」
 そんな目、見たくなかった。
 私は――
「違うよシャルロット君。私は君を――」
 君を――
「――君を、す、救ってあげたくて……だから、そんな……」
 そんな事、言わないで。
 ――私は炎タイプなのに。
 どうして目から水なんか――
「ふふっ、やっぱり所詮はメルヴェーユだね。説得力ないや……ふ、メルヴェーユ……メル……ふぇ、えっ……」
 メルヴェーユはシャルロットの横に倒れ込んだ。ただ押し黙って彼を抱いているしかなかった。
 それが明確な答えになっているなんて気づきもせずに。
 医者としては失格だ。もうどうでもよかった。私はもはや医者などではなかった。愛する者との避けられぬ別れに直面した無力な&ruby(おんな){牝};だった。
 ただ押し黙って、彼を抱いていた。

&size(18){         ◇};

 定めの&ruby(とき){刻};は近づいていた。
 シャルロットは次第に衰弱して、体を動かすことはおろか、食事すら満足にできなくなった。流動食も&ruby(ひとり){一匹};では嚥下できない。背中を摩って叩いてやってやっとというところだった。
「見てごらん。あんなに緑で……もうじき夏だね」
 肩を抱いて顔を窓の方へ向けてやると、シャルロットは微笑んでくれた。
「あの木の下で、また君の草笛が聴きたいなあ」
 そう言ってシャルロットに目をやると、シャルロットは緩慢な動作で首を横に振った。
「そうだね。無理しなくていいよ」
 治ったらまた、なんて私は言わない。絶対に言わない。今を生きていてほしいから。仮定の話なんてしても無為だ。一秒でもコンマ一秒でも長く、ここに生きていてほしい。
 かつて彼に元気を与えていたディサイジュアスの樹が、今は彼の生命力を吸い取っているかのようだ。シャルロットの衰弱に反比例して、夏が近づくにつれて青く深く生い茂ってゆく。
 精霊がいるのなら、私の願いを聞き届けてくれるだろうか。もう私にできることといえば祈ることしかない。あれだけ霊力のありそうな樹なら、もしかして何かが起こるかもしれない。奇跡を起こしてくれるかもしれない。
「メル……ヴェーユ……」
 計ったようなタイミングだった。メルヴェーユが思い立ったのと、もう話すこともできなくなっていたシャルロットが数日ぶりに口を開いたのは。
「何だい?」
 二重の驚きを表には出さず、あくまで自然体で接する。それは彼の願いでもあった。何があってもメルヴェーユはそのままでいて。似合わない涙なんか二度と見せるなって。
「わかるんだ……もうじき僕は…………だから……」
「そう。わかった」
 シャルロットをベッドから出して、そっと&ruby(うで){前足};に抱く。
 小屋を出ると、風が夏の匂いを運んできた。
 丘は一面の緑で、ディサイジュアスはさながら緑の国の城だった。丘を統べる王だった。
 その丘を確り踏み締めて、一歩一歩上ってゆく。近づくにつれて圧倒感を増すディサイジュアス。
 涼しげな木陰に淡い木漏れ日が差し込んでいる。昨年の今は、メルヴェーユが初めてここに来る一ヶ月ほど前になる。
 この時に見た木の姿はこれまでに見たよりもずっと綺麗で幻想的だった。
「やっぱりすごいね、この樹」
「言ったろ……夏が一番だって……」
「うん。秋、冬、春と越えて改めて見るとわかるよ」
 シャルロットを仰向けにして抱いたまま、太い幹にもたれ掛かって腰掛けた。降り注ぐ木漏れ日のように君を包んで。
 緑の匂いと葉擦れの音。上から見下ろした丘と、深く蒼く、どこまでも高い空。
 刻々と迫る時のなか。
 メルヴェーユは前足を伸ばして低いところにある葉を一枚ちぎった。教えて貰った通りに折って、そっと口に当てた。
 昨夏と今春で唯一演奏できるようになった曲の旋律を奏ではじめる。細眼を開けたシャルロット君と目を合わせて。緩やかなテンポで、耳元で囁くような音色を。私は不器用な&ruby(おんな){牝};だ。君にかける優しい言葉の一つも思いつかない。曲は最初の丘に差し掛かった。山ではなく、丘。囁くような音色はサビでも変えずに。柔らかに小さく。私は音程を合わせるのに精一杯で、シャルロット君のように自在に音色は調節できないけれど。シャルロット君はもう目を閉じていた。丘を越えてまた平地に。優しい季節を呼ぶ、可憐な君は無邪気に懐いて。そっと体に流れる薬みたいに、溶けていったね――歌詞を思い浮かべながら。旋律だけで歌に込められた想いまで表現するシャルロット君の演奏に近づけようとして。
 This scenery is evergreen...
 愛しい&ruby(ひと){牡};よ――
 ――もう動かなくなった君の胸に草笛を置いた。いつまで聴いてくれていたのだろうか。意識が無くなっても、聴覚は最後の最後まで残るというから、まだ聞こえているかもしれない。
 どう言えばいい?
 何を聞かせてあげればいい?
 ――ごめん。私にはやっぱり、何も思いつかない。でも君だってそうだったんだ。映画みたいにうまく死に別れの言葉なんて交わせるはずがない。ポケモンの最期なんて結局、どこまでが生でどこからが死だなんてはっきりしちゃいない。感動的な死の場面なんてありはしない。
 死はいつも、季節外れにやってくる。

&size(18){         ◇};

 シャルロットの遺体はディサイジュアスの下に埋葬した。
 涙は流さなかった。シャルロット君曰く私に涙は似合わないらしいから。
「やっぱり綺麗だね。いつまでも続かないのが残念だけど」
 ディサイジュアスは初夏の陽射しに晒されて燦然と輝いている。
 刹那、太い幹の中心が光った。木漏れ日を覆い隠すほどの、強い緑色の光だった。メルヴェーユは目を閉じずにはいられなかった。
 ――瞼の裏に焼き付くような光が収まったとき、声が聞こえた。
「キミの願い、聞き届けよう」
 頭の奥に直接響くような声だった。
 閉じていた目をゆっくり開けると、そこには玉葱のような形状の頭に黒く縁取られた目、頭より小さな体に翅の生えたポケモンが、淡い緑の光に包まれて浮かんでいた。
「あなたは――」
「ボクはシルル。キミたち俗界のポケモン達からはセレビィと呼ばれている」
 セレビィ。地域信仰で崇められる精霊の一つだ。まさか実在するなんて――
 ――そうだ。ディサイジュアスから感じた霊力の正体はこのセレビィの存在だったんだ。伝説では、セレビィは時を渡り時を操る力を持つという。そう、セレビィなら彼を……
「私の願いを聞き届けてくれるって……」
「キミじゃない。ボクが降臨したのは言うまでもない、この樹を、ボクを誰よりも愛してくれた彼の願いを叶えるためだよ。もとより、キミの願いは聞き入れられない。時の流れを司るボクでもしてはいけないことがあるんだ。死者の魂は一度記憶を全消去して白紙に戻して、新しく生まれてくる器に&ruby(い){容};れなくちゃならない。これは動かせない決まりだからね。逆らうようなことしたら、ボクが高位の神さまに怒られちゃうよ」
 不思議と落胆はなかった。死んだ者が蘇るなんてあってはならないことだ。メルヴェーユとて医者の身、そんなことは痛いほどわかっている。
「そうだね。そんな奇跡なんて起こるはずがない」
「起こせない奇跡もあるけど、起こせる奇跡もあるんだ。言ったでしょ。彼の願いを叶えるってさ」
「どんな願い?」
「今にわかるさ……」
 セレビィ――シルルは目を閉じて両手を天に掲げた。
 ふわりと風が渦巻いて、これまでの会話が嘘だったかのように、緑の光とともにシルルも消えてしまった。
「何だったんだろう……?」
 後に残されたのは、ディサイジュアスの変わらぬ姿と小さなシャルロット君の墓標、そしてほのかな緑の香だけだった。

&size(18){         ◇};

 その後、メルヴェーユはレストロ師匠から独立して医院を開いた。場所はディサイジュアスの丘の前、シャルロット君と一年近くを過ごした小屋に手を加えて。手を加えたといっても、そのまま使えるところは出来る限り原形を残した。辺鄙な所にある村の医院なんて滅多に客は来ないが、村人達の援助と、たまに町へ出て草笛の路上演奏なんかして得た副業収入でなんとかやっている。
 時は止まることなく流れ、メルヴェーユの生活にも次々と変化が訪れた。最近この村に流れ着いた家族がいる。足に怪我をした息子を連れていて、村人に教えてもらって真っ先にメルヴェーユの医院に駆け込んできた。母親のサンダースが背負って連れて来た息子のイーブイはたいそう可憐な面差しで、シャルロットを思い出させた。母親がサンダースだったこともあって、シャルロット君たち姉弟と重なったのかもしれない。
 行くあてのなかった彼らはもう&ruby(ひとり){一匹};の息子のイーブイに父親のキュウコンと四匹、この村に住み着いた。今はメルヴェーユとも村人たちともうまくやっている。
 時は止まることなく。この世の理に反して、一つだけ止まったままのモノがあった。
 &ruby(こがらし){凩};の吹くこの季節――一年前の今日、シャルロット君や村人達と焚火を囲んだ。今年はもう焚火祭はない。
 いや、正確に言えば、今年"から""できない"。
 あの樹は今も深い緑に覆い尽くされている。あの樹の周りだけ夏のままで時が止まったかのように。セレビィが叶えた願いとは何だったのか――秋になり、冬になってわかった。あの樹はシャルロット君が一番好きだった姿のままで。紅葉も落葉もせずに。季節に関わりなく、古くなった葉が稀にはらはらと落ちる。同時に、絶えず新芽が出て古くなった葉を補う。
 生物学的には有り得ないことだ。既に成長しきった植物体が、こんな形の突然変異を起こすなんて。
 まさにシャルロット君の強い想いと幻のポケモンの為せる奇跡というやつだった。
 この奇跡に伴い、&ruby(ディサイジュアス){落葉樹};はその名称を新たにすることとなる。

 &ruby(エヴァーグリーン){常緑樹};。
 それが、シャルロット君の眠る樹、村の象徴たる大木の名だ。



 ~Fin~

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 緑の影は優しい季節を呼ぶ。
 零れる光はやわらかな傷痕を残す。
 花開かぬも、&ruby(あおあお){碧々};とした葉は悠久の時を映す。

 ――この景色は常緑樹。
 永遠の緑を&ruby(たた){湛};えて。

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**あとがき [#he7914bd]
第一回仮面小説大会出場作。
この作品が少しでも皆さまの心を動かすことができたなら、嬉しい限りです。

ちなみに“evergreen”はこのお話の元になった実在の曲です。

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☆大会中コメントのレス返し☆

 “死”をテーマにしながらもどこか温かい感じがしました。
いつも死をテーマにすると暗くなるのですが、今回はそうでない死を書きたかったので、そう感じていただけると嬉しいです。

 この作品を作ってくれて、本当にありがとう。
 この気持ちで今は胸がいっぱいです。本当にありがとう。
この作品を読んでくださって本当にありがとうございます。
投票までしていただいてその上コメントまで頂いて、こちらこそ感謝の気持ちで胸が一杯です☆^(o≧▽゚)o

 ほのぼのとした優しさ、胸が苦しくなるような切なさ、ほっと心が軽くなるような温かさ。
 それらをしみじみと感じられる素敵な作品でした。
バッドエンドながら暗くはならないように意識しました。
序盤から季節と共に移りゆく作品の雰囲気を感じ取っていただき、そしてお褒めの言葉をありがとうございます。

 ほのぼのさ、切ない悲しみの弐曲の奏でるryに打ち砕かれました(涙腺的な意味などで
 素晴らしい作品を、ありがとう御座います。

 ここに感謝の意を……
弐曲の奏でる(ryはこれを機にHYDEさんの信奉者になってください(蹴
↑↑の方への気持ちと同じです。こちらこそありがとうございます。

 とても良い作品だと思います。情景描写には思わず心を奪われました。これをきっかけに自分も小説かいてみようかなと思ったりしているところです。
まだまだ未熟な部分もありますが、こんなわたしの拙文があなたにそのような気持ちを起こすことができたのなら……
新人さん大歓迎です。どうぞ小説師としてデビューしてみては?

 もう……感動したとしか言い表せないくらいよかったです!命について深く考えさせられる作品でした。
途中レントラーのレストロが言っている命についての考え方は、ある漫画に影響を受けていますが……
わたしの小説を通して何かしらそういうことを考えてくださったのは嬉しいです。ありがとうございます。

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感想やコメント、ご指摘などいただけると嬉しいです。
また大会中にコメントしてくださった方、もしよかったらご一報ください。もちろん名無しさんでも。
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