ポケモン小説wiki
寒気へ沈み の変更点


#include(:第一回ポケモン小説wiki交流企画リンク,notitle)

書いた人:某妖精
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&color(#b22222){ 横たわる彼女の首元に顔を添え、口を当て、緩く、噛みしめた。};
&color(#b22222){ すぐ横、その後ろ首から大きく広がるヒレが、弱々しい光を放ちつつ、波打っていた。};

&color(#b22222){「――お願い」};

&color(#b22222){ 懇願する声に誘われるように、僕はその後ろ首へと顔をずらし、そのヒレの端を、噛んだ。力を込めて、その一片を食いちぎった。};
&color(#b22222){ その瞬間の、びくりと身を震わせたその動きが、痛々しかった。};

&color(#b22222){ 彼女を、壊してしまいたい、とは、思っていた。しかし、実際に壊すのは、つらかった。};
&color(#b22222){ それでも、その最期に付き添うのが、僕にできること。そして、最期だからこそできることを、その瞬間を、共に楽しむのだ。};

&color(#b22222){ ――楽しむ余裕なんて、どこにあろうか。};

&color(#b22222){ 口に含んだヒレの一片を飲み込んで、ただ、その大きな&ruby(からだ){身体};に、その胴体に、乗りかかった。};
&color(#b22222){ その身体は、ひどく冷たくて、ひどく熱かった。生きる鼓動の感覚が、無かった。彼女の放つ冷感が、無かった。};

&color(#b22222){ 苦しそうにしていたその表情が、緩んだ。};
&color(#b22222){ その頬に、僕は、ゆっくりと、自身の頬を押し付けた。};
&color(#b22222){ ただ、ただ、静かに。};

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 正面の扉の奥で、ご主人らが取り組んでいる。それが、もうすぐ終わる。

 復元がうまく行くかは分からない、と、最初は、あまり先が見えなかったらしい。それでも、ご主人らは、本気で取り組んでいた。
 成功すれば、それはそのまま研究の成果となる上、新しい研究対象にも出会えるのだから――と。又聞きする限りでは、そう言った感じだった。
 今回持ち込まれたのは、太古に栄えた生き物の、その、ヒレの化石。あれは、やや状態の悪いものだった。端のほうに損傷があった。――化石となる前の時点で破れていたかのような、綺麗な損傷だった。それでも、ご主人らにすれば、申し分のない研究材料だったそうだ。
 あれから日が落ちて、昇って、また落ちて、また昇って、どれくらい経ったのか、分からない。ただ、ようやく成果が出る、と、今日、呼び付けられたのだ。
 ――いつになったら終わるのだろうか。
 横の窓から見える外は、夕に焼けていて、もう、赤い。待ち遠しいことは待ち遠しいのだけれど、昼頃からずっと待機しているのは、やや、退屈だった。

 ――なぁ、復元、もうすぐ終わるんだよね? 今日、終わるんだよね?
(うん。だから、呼んできてって頼まれたんだよ)
 頭の中に言葉を浮かべると、それを受け取り、別の言葉が、〝隣〟から入り込んで来た。
(待ちくたびれた? 寝ててもいいよ? 何なら、眠らせよっか?)
 ――いや、いいよ、別に、そういうのは。
(ふーん)

 復元が行われているその生き物は、寒地で過ごしていた草食性の生き物で、捕食者に追われることもなく、非常におとなしい気質の種族であった、と、言われている。ご主人らの言葉を借りるに、『アマルス』ないし『アマルルガ』と命名されている種族。僕に似た姿をしているらしく、対面するのは、内心、楽しみだった。
 その子がこの世に生を受けた時のため、ご主人の助手らと一緒に、当分使われていなかった寒地用の部屋を整備し直したりも、した。その最中では、僕が、その子の世話役となる話も進んでいた。当時より熱い今の時代では、その種族は〝あまり長生きできない〟と言われこそすれど、決して、短い付き合いにはならないだろう。そんな経過もあり、小さい期待では、なかった。
 ――ただ、待ちくたびれた感じは、拭いきれない。

(あー、うんうん、なるほど、食べられたいんだ?)
 ――なんでだよ。からかってるだろ?
(うん、もちろん。……草食性の種族らしいでしょ? 〝葉団子〟くん、食べられちゃうかもよ?)
 ――はいはい。もしそうなった時は、面倒事の処理、頑張ってね。
 思考のやり取りの合間で、溜め息を一つ、吐く。
 こんな、しょうもないことで絡む理由なんて、そう多くない。
 ――退屈なんだな、お前も。
(まぁ、ねー)

 隣に視線をやると、僕と同じくらいの図体を持つ生き物が、ふわふわと宙に浮かんでいる。やや長い鼻を持ち、首から上は薄紫の、胴体は濃紫の表皮を纏って、額からは桃色の煙を漂わせている。
 丸い姿勢で、目を瞑り、あたかも、眠っているかのような様相をしている、いつもの姿。

(だから、どうせなら、葉団子くんには寝てて貰ったほうが、嬉しいなー)
 誰かの夢の中に浸っているほうが、ずっと暇つぶしになるのだろう。ろくでもない。
 ――この〝夢食い〟が。
 悪態を隠さず思考に乗せながら、その読めない表情から視線を外し、正面へと向き直った。変わらず動きのない扉を、空虚に、見つめた。



 ふと、扉の奥から、音が聞こえた。浮かんでいた意識が、そちらへと、強く引き寄せられた。
 ご主人らの足音に混ざって、聞き慣れない音が、鳴っている。低い音。ご主人らひとりひとりの足音より、短い周期の音。四つ足であるいているかのような――恐らく、実際にそうなのであろう音。それらが、こちらへと、近付いてくる。
(来てるね)
 ――うん。
 一間を置いて、扉が開く。白衣のご主人らを認識しながら、その後ろに続く姿へと、視線を向ける。
 それは、水色の表皮を持ち、四足歩行をしている。両目それぞれの上には、大きなヒレが生え、胴体の両脇腹辺りには、結晶のようなものが付いている。長めの首を持ち、頭頂部の高さがご主人らの胸部くらいまである。大まかな姿自体は、僕と似ている。――そして、僕より一回りくらい、大きい。
 その姿は、ご主人らの隙間から、僕と夢食いを見つめていた。
「初めまして」
 僕が声を掛けると、機嫌よく、くるる、と、喉を鳴らしてくれた。
 笑顔の可愛い子、だった。

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 ご主人らからの話は、夢食いがすぐに翻訳してくれた。
 この子の名前は、〝フロー〟。
 当分は、僕が付きっきりでお世話するように、とのことだった。
 付きっきりで、とは言っても、別に、ご主人らが目を離すということもないし、常に、別室から見られていたりもする。だから、僕ひとりでお世話する、というわけでは、ない。
 ただ、その側に居続けてあげて欲しい、とのことだった。



 分厚い布の防寒具を頭から被って、ご主人らの後ろ、フローちゃんの隣を付いて歩いた。
 透明で大きな二重扉と、その先に広がる、積雪地を再現した大部屋があった。誰も居住しておらず、少し前まで放置されていた一室だったが、今や、地面も木々も雪に覆われて、真っ白になっていた。
 フローちゃんが入居することになるに際し、少し前に、ここの整備に混ざってはいたけれど――草木が乱雑に伸びきっていた様子を思い返すと、本当に、様変わりしていた。

 ご主人らが扉の前で足を止める傍ら、僕は、二重扉の手前側を開けて、フローちゃんへと視線を向ける。
「おいで、こっち」
 その姿は、まだ喋れないのか、くるる、と、呼応するように喉を鳴らして、しかし、言葉が通じてはいるらしく、僕に付いてくる。
 一旦、二重扉の間に入ってから、扉を締め切り、そして、部屋への扉を開いて、その中へと入る。

 小川を模した水路の、その流れる音が、静かな中に響いていた。
 部屋の中には、ひんやりとした空気が漂っていた。身に刺すような寒さに、思わず縮こまった。
 一方でフローちゃんは、入るなり、雪の上を駆け回り、寝転がって、背中を擦り付けていた。微笑ましいくらいに、元気だった。
 この子にとっては、快適な空間、なのだろう。――僕のほうは、もう少し防寒具を増やさないと、寝たりできないかもしれないけれど。

「――ここが、ね、きみの部屋。僕も、ここで一緒に過ごすよ。宜しくね」
 僕がそう言うと、笑顔と共に、きゅう、と、短い声が、返ってきた。

 僕の言っていることは、恐らく、その反応からは伺い知れないくらいに、しっかりと、理解できているのだろう。
 この研究所での、化石から復元された生き物は、皆、生まれた時点から、ある程度まで成熟した肉体や思考能力を、持っては、いる。その身体だって、恐らく、僕と同じくらいには成熟しているのだろう。
 だけれど、完全な意思疎通とはいかず、少し、もどかしい。――まぁ、喋り方も身に付いていない、この短い間は、まるで幼子のようで、それはそれで可愛らしいけれど。

 ご主人らが、夢食いと一緒に、扉から離れ、戻っていくのを見届けると、フローちゃんは、僕の前へと駆け寄ってきて、身を伏せ、上目遣いに僕を見る。
 ――ああ、うん。〝構って〟って意思表示なのかな。
 そう思うが早いか、その頭を勢いよく上げて、僕の顎を、打つ。鈍い音が、響く。――結構、痛い。
「――っ……だ、大丈夫? 平気?」
 フローちゃんのほうは、特に表情を歪めることもなく、再び身を伏せて、上目遣いに僕を見る。
 別に、痛くはなかったのだろう。それなら、いいのだけれど。

 一瞬ぶつかった、その頭の、冷たい感覚を思い返す。
 寒地に生きていた、とあって、だろう。体温も、低い。
 ――もっと温かくてもよさそうな活発さだけれども、そのうち落ち着いてくれるのだろうか。

 当分はこの子に振り回されるのだ。少し、先が、思いやられる。
 とは言え――元気なのは、いいことだった。

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 ――木の実は、ひとりで食べられるだろうか。そもそも、木の実を食べ物として認識してくれるだろうか。
 大昔にも、木の実はあったにしても、今の時代とは、全然違っただろうし――果たして、口に合うだろうか。

 僕は、取っ手を噛み、大きな籠を運ぶ。その中には、様々な木の実が詰まっている。ご主人らが、外の森で取ってきてくれたもの。
 二重扉を開けて、部屋へと戻ってくると、一つの姿が、雪を蹴散らしながら駆け寄ってくる。僕は、頭を降ろし、籠を雪の地面に置く。自由になった口で、言葉を紡ぐ。
「これ、ね、僕たちのごはん。フローちゃんは、この中に、好きなの、ありそう?」
 籠の中身を視認し、上にある木の実から癖の少ないものを見定めてから、その姿へと視線を移すと――フローちゃんは、頭を下げ、籠の側面に顔を寄せていた。
 中身の木の実よりも、籠のほうに興味を示している様子だった。
 ――まだ、お腹、空いてないのかな。――それとも、食べ物として認識できてないのかな。
「……食べない?」
 僕は籠へと首を突っ込んで、木の実一つを、咥える。顔を上げて、そのまま、フローちゃんを見る。
 フローちゃんは、何も言わず、ただ、僕を見返した。何かを不思議に思っているかのようだった。

 ――食事を教えるところから、だろうか。今一、反応が薄い。
 僕は、咥えていた木の実を口に含んで、数度、噛み砕く。口の中に広がる色んな味を、唾液と絡ませ、ただ、飲み込まないよう意識しながら、その顔へと、顔を寄せる。その口に口を重ね、唾液と一緒に、木の実を流し込む。

 ――その表皮は冷たいのだけれど、口の中は、思ったより、温かい感じがした。

 顔を離して、フローちゃんを見つめ直した。その口は、小さく開いたまま、唾液と果肉を垂れ落としていたが、少しの間を置いてから、噤まれた。
 喉の動きが、確かに見えた。無事に飲み込んでくれた。
「どう、かな? これ、食べれそう? 美味しい?」
 そう聞くと、笑顔で、くうん、と、鳴き声を上げてくれる。
 ――とりあえず、悪くはなさそう、かな。よかった。
 ほっと安堵しつつ、その口周りに付いている唾液を舐め取ろうと、再び顔を寄せると、今度は、フローちゃんのほうから、その口を口に重ねてくる。
「あ、もっと欲しい? 待って、待って」
 顔を引き、木の実を咥え、噛み砕いて――そうし直している間にも、僕の口を追い回すように、その首を伸ばしてくる。
 ――もう少し、だから。
 足を下げ、一歩引いて距離を置く。その顔を正面から見ると、ぴたりと、止まる。期待するかのような、明るい眼差しが、僕を見据える。
 一歩踏み込み、再び口を重ね、また、唾液と果肉を流し込む。口を離すと、今度はすぐにその口を噤んで、喉を動かす。
 ――まぁ、この様子なら、ひとりで食事できるようになるのは、すぐ、かな?
 気が落ち着いて、大きな息を一つ吐くと、それは、白いもやになり、周囲へと散っていった。

 食事を終え、まだ木の実の残っている籠を、出入り口近くに置いた。
 フローちゃんは、おとなしくなっていた。一つの木の下に座り込んで、目を瞑っていた。
 僕も、入り口で、分厚い防寒具を一枚咥え取ってから、その側へと歩み寄り、少し距離を置いた位置に付く。雪の地面に敷き、その上に座って、身体を丸める。纏っているほうの防寒具の端を引っ張って、隙間を減らす。

 眠気があった。フローちゃんも、眠たい様子だった。
 この部屋の中には窓こそないものの、出入り口の外にある通路の、その窓の先を見ると、もう、夜であることが見て取れる。
 僕らが木の下で目を瞑っていると、ふと、周囲の明るみがなくなる。
 ご主人らが消したのだろう、と、そう思いながら、うつらうつらと、意識を沈めていく。
 静かな中で、ただ、寝息と思しき呼吸の音が、ゆっくり、響き始める。



(――葉団子くん、葉団子くん。どう? 寒くない?)
 ふと、夢食いの言葉が、思考の中に入り込んできた。
 ――まぁ、寒くないわけじゃないけれど、このくらいなら平気。
(そ。寒すぎてべそかいてるんじゃないか、みたいな心配もしてたけれど、杞憂だったね)
 ――あー、はいはい。寝れないほどじゃ、ないよ。
 僕は、目を瞑ったまま、身動ぎの一つも返さずに、ただ、いつものように思考だけを差し向ける。
 ――で、何しに来たの。
(ん、〝彼女〟が様子見に行くって言ってたから、付き添ってるだけ)
 そのすぐ側には、ご主人も居るらしい。恐らく、ふたり揃って、扉のすぐ外に来ていて、そこからこっちの様子を窺っているのだろう。

(ま、私は私で、ちょっと食事したいんだけどね。フローちゃん、いい夢見てるみたいだから、食べるのは悪いかな、って)
 ――へぇ。フローちゃん、どんな夢見てるの?
 この世に生を受けて、まだ間もない、しかし、思考能力などは身に付いていて、後はそれの使い方を理解するだけ。――そんな生き物が、フローちゃんが、どんな夢を見ているのか、というのは、純粋に興味があった。
(多分だけど、これは、前世の記憶とか、そういうものだと思う。フローちゃん自身の記憶には、無さそう。私からは詳しく言わないから、気になったら当事者に聞いてみて)
 ――なんだよ、そんな勿体ぶる?
(葉団子くんだって、そっとしておいて欲しい夢の出来事、あるじゃん? 〝大きく綺麗なお姉さんに誘われて、夢精に至った話〟みたいな。もしかしたら、フローちゃんの、この夢、そういうものかもしれないし、ね)
 ――あのな、ああ、まぁ、あるけどさ。――ほんと、夢食いが。
 思考も夢も、何一つ包み隠せやしない。――その程度のことを、今更嘆くこともないのだけれど。
(ま、そういうことだから、葉団子くん、さっさと寝入って。お腹空いてきたよ。食わせて)
 ――知るか。ご主人らの夢でも食ってろ。
(つれないのー)
 本気というわけでもないだろうし、追及しない。夢食いからも、それ以上何かを通達してくることもなく、言葉が、途切れる。
 ――ま、食いたいなら勝手に食いなよ。
 害になるような夢の食い方はしない、とは、信頼しているし、別に、身構えることでもない。
 ――おやすみ。
 ただ、話の終わり時を、そう、思考の中に残した。

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 身体を揺さぶられる感覚があった。防寒具の隙間から、冷たい感覚が入って来ていて、そのまま、僕に力をかけていた。
「ねー、ねー、〝ハダンゴ〟さんー、おきて、あそぼー」
 くぐもった声が、すぐ側から聞こえた。顔を突っ込まれているのだ、と、すぐに分かった。
「おはよう……ちょっと待って……」
 ……うん?
「――もう喋れるようになったんだ?」
 フローちゃんが、僕に催促していた。たった一夜にして、言葉を出せるようになったのか、と喜びつつ――ただ、呼ばれ方に引っ掛かりを覚えた。
 ――どこから言及するべき?
 夢は頭の整理である、だとか、言うし、寝ている間に思考を纏めて、言語化する力が自然と身に付いた、みたいな面も、あるのかもしれない。
 ただ、僕のことを葉団子呼ばわりするのは、ひとりしかいない。――夢食いが絡んでるよな、これは。

 僕はひとまず身体を起こし、乱れていた防寒具を纏いなおして、すぐ側にあるその姿を見た。僕より一回り大きな、水色の生き物が――昨日と変わりない姿が、そこにあった。
 ……もう、意思疎通が思い通りにできない幼子などではなくて、随分と成長したような印象を受けるけれども。

「うん! ええと、おしえてくれた! ふわふわうかんでて、へんなけむりをだしてて、しゃべらないのにしゃべってた、あれが、あれが、ええっと、なまえわかんないけど!」
 ――ああ、うん、まぁ、そうだよな、夢食いだよな。
「〝ミューアン〟かな。あいつに、喋り方を教えてもらった、ってこと?」
 渾名で言ってやろうか、とも考えたものの――間違った認識を当て付けのように教えても、仕方ない。
 しかし、一体いつ干渉していたのか。フローちゃんの夢の中にでも、入り込んでいたのだろうか。
「うん!」
「そっか、よかったね。何か面白い話とか、してもらえた?」
 様子を見る感じ、楽しかったのだろうし――あんまり茶化すのも、野暮だよね。
「えっとね、わたしの、いいゆめ、って、ほめてもらえた!!」
「へぇ、どんな夢? 覚えてる?」
 話したくてたまらない、といったその様子を、見て、聞いて、とするのは、それなりに心が弾む。

「うん、ええと、おおきい、いきものがいて、わたし、たべられるの!!」
「……うん?」
 ――その話だけだと、今一、見た夢の良さが分からない、けれど。
「……『食べられる』って? ええと、フローちゃんが、その大きな生き物の食事になる、夢?」
「うん!」
「……へぇ……?」
 夢食いは昨夜、『前世の記憶かも』だとか、そういう感じのこと言っていたっけか。もしそうなら、死に際の様子としか思えないのだけれど、果たして、いい夢なのだろうか。
 ――ご主人らにとっては、大昔の世界を垣間見る、&ruby(すいえん){垂涎};の夢なのかもしれないけれど。
「でね、そのおおきいいきものが、ね、すごく、やさしいの!!」
「……うん、うん」
 捕食者に捕らわれ命を落とす……という話ではないのだろうか。
「くびをちぎられて、うごけなくなったわたしを、ね、たべてくれるの!! いいでしょー!!」
 僕が思い描く限り、どうにも血に塗れて痛々しい光景しか見えてこないのだけれど、もしかしたら、もっと根本的に違う……の、だろうか。
「いい……ね?」
 僕がぱっとしない返事しかできていない中で、フローちゃんは、笑い、雪の地面を蹴って、その場でぐるぐると回った。――喜び勇んで、自身の尻尾を追い回しているかのようだった。

「あと、あと、そう、ハダンゴさんが、ハダンゴさんだって、なまえ、おしえてもらった!!」
 止まったと思いきや、今度は、気になっていた件を、フローちゃんのほうから切り出してくれる。
「……それだけどさ、僕のことは〝葉団子〟じゃなくて〝フィット〟って呼んでくれると嬉しいな」
「フィット……フィット、さん? ハダンゴさん、じゃ、だめ?」
「……あいつ以外には、葉団子、とは呼ばれたくない……あー、でも、フローちゃんが呼びやすいなら、それでも、いい、かな?」
 いや、あいつに呼ばれるのだって、慣れてるだけで、別に好き好んでるわけではないけれど。
「フィット、さん。……はーい……」
 しかし、フローちゃんは、見るからに不服そうな表情を浮かべていた。
 ――うん? 僕の名前って、呼びづらかったりとかする、の、か?
「……あんまり、気にしないで」
 ああ、それとも、あれかな、フローちゃん、夢食いに懐いてるのかな。楽しい話をしていた様子なのに、その内容を否定されるのは、面白く――、
「うん、わかった! じゃあ、あそぼー! フィット、さん!」
 ――ない、よ、ね。
 悪いこと言ったかな、と、しんみりする間もなく、その頭が、僕の顔まで迫り、そのまま、ぶつかってきた。昨日、顎を打たれた時よりも、痛かった。
「――ちょ、っと!」
 フローちゃんは、そのまま逃げるように部屋の端まで駆け、そこで足を止めて振り返り、僕を見つめなおす。澄んだ目で、あらかさまに、僕を誘う。

 ――何、追いかけっこしよう、って?

 僕は、纏っている防寒具を整えてから、四肢に力を籠め、今一度、伸びをする。
 寝起きでまだ鈍っている身体を、軽くほぐしてから、雪の地面を蹴って、僕を待つその姿へと、駆け出した。
 その明るさに、救われるような気が、した。

 雪に覆われた地面の上で、僕よりも一回り大きく、僕と同じくらいの体力を余す、その姿に、追いつくのは――あまりにも困難だった。

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 元気な姿に振り回され始めれば、日が過ぎるのはあっという間だった。
 数日が経ち、それとなく、波長を合わせられるようになってきた頃だった。

 声が聞こえて、目が覚めた。
 まだ明かりも付かず、出入り口のほうからも、日の光が僅かに入り込んできているだけの、薄暗い、早朝。隣を見ると、そこに居る姿は、横になったまま、小さく呻いていた。
「……どうしたの?」
「なんか……あたまが、いたくて……」
 ――うん?
 体調が悪いのだろうか、と、様子を見捉えた。刹那、その姿が、フローちゃんが、吐いた。
 黄色い液体と、木の実の断片が、絡み合ったまま、雪の上に広がった。鼻に刺すような匂いを持ったそれが、雪の表面を溶かした、――。
 僕は、身体を跳ね起こし、壁まで走り、そこに付いている通信機を頭で叩きだけして、フローちゃんの側に、駆け戻る。嘔吐物を周りの雪ごと離し、その口周りに残る液体を、すぐに舐め取る。
「皆が、すぐ、来てくれるからね。……大丈夫?」
「……&ruby(だい){大};じょうぶ……なのかな、わかんない……」
 急場だった。僕ひとりでどうにかしようとはせず、ご主人らにも来てもらって、一刻も早く、様子を見てもらうべきだった。
「……まだ吐きそう?」
「……まだ、はきそう」
 その額に、額を押し当てると、冷たいはずのその表面が、温かく、熱を帯びていた。

 防寒具を外し、いつでも動けるよう、脱ぎ捨てる。気休めでもいいからアロマセラピーをしようか、と、考えながら、首回りの葉っぱを展開して――原因が分からない間は変に刺激しないほうがよさそうだろうか、と、思い直す。
 吐き気が収まるまでは、匂い一つでも、つらいかもしれない。
「……ね、立てる? 立てない?」
 とりあえず、横になったままでは吐くのもつらいだろうし、と、立ち上がれるかどうかを聞いてみる。すると、その姿は、呻き声一つと共に、身体をずらし、四肢を雪の地面に突き立て、ゆっくり立ち上がる。
「……立てる、よ」
 ――無理させてしまった、だろうか。
 心の内に、気丈に振る舞いたい、などの感情がありそうな、少し、素直ではないというか――そういう、感じが、した。
「よしよし、じゃあ、頭を下げて。楽になるから」
 僕が言うが早いか、フローちゃんは、立ったそのまま頭を下げ、口から黄色い液体を吐き出す。吐き出される果肉の量がさっきより少ないことを視認しつつ、再び、吐き出されたそれらを押し除け、その口元を舐め取る。
「よし、よし、えらい」
「……うん」
 苦しいのだろう。あらかさまに暗い様子の、その姿を見ているのは、つらかった。

 慌ただしい足音が聞こえた。その音のする、出入り口のほうを見据えると、ご主人の同僚らが二名と、夢食いが、急ぎ来ていた。
 扉を開け、入ってきながら、ご主人の同僚らが声を上げる。一瞬遅れて、夢食いの思念が、頭の中に入ってくる。
(どうしたの? 容態は? 眠らせても大丈夫そう?)
 ――頭が痛いって言ってる。熱がある。二回吐いてる。まだ吐くかもしれない。眠らせて大丈夫かは……そっちは何か分かる?
(うん、そう、うん)
 この場の全員それぞれとテレパシーを繋げているのだろう。僕への返答は、素っ気無いもの。
(フローちゃん、吐きそうな感じが無くなってきてるって話だから、一旦、眠らせるね)
 ――分かった、頼む。
 ご主人の同僚らが、フローちゃんに触れる。除けた嘔吐物へと視線をやる。その間に、夢食いが、浮かんだまま、フローちゃんの正面すぐ側へとやってくる。
 夢食いが、その額から漂わせている煙を、フローちゃんに纏わり付かせながら、目を開く。フローちゃんの目を見捉えて、僅かな間が空く。

 ――もう大丈夫だからね。
 喋らなければフローちゃんには届かない、ということは承知の上で、ただ、思考中で、そうつぶやいた。
 悔しいけれど、ここは、僕の出る場面では、ない。

 フローちゃんが、身体から力を抜いて、腹這いになり、そのまま横向きに倒れていく様子を、ただ、見続けた。
 ご主人の同僚らが、その身体を持ち上げ、部屋から運び出す様子を、後ろから、追った。



 研究所から離れた、大きな医療施設に、来ていた。
 じっとしているのも、つらかった。扉の奥へと通されたフローちゃんのことが、気が気ではなかった。
 ――死んだり、しない、よね。
 何か体調を崩すようなことをさせてしまっただろうか。もっと何かできたのではないだろうか。もう少しだけでも、楽にさせられたのではないだろうか。
(心配しすぎ。ちょっと落ち着きな)
 ――うん。
(戻ってきたフローちゃんを迎える際に、葉団子くんが潰れてたら、どうしようもないよ?)
 ――うん、そうだよね。
 隣から入ってくる思考へと、思考を返しこそしつつ、そちらへの意識は、殆ど向いていなかった。
 やがて、後ろからご主人がやってきて、柔らかい声を掛けてくれた。僕と夢食いの頭後ろを、それぞれ軽く、撫でてくれた。浮かない気分そのままに、暗い声を返すことしかできなかった。
 あまりにも、長かった。

 どのくらい経ったか――あまり経っていないかもしれない、そんな頃に、ここの施設の職員が、出てきた。
(処置、終わったみたい)
 ――よか、った。
 小さな一室に案内され、中に入る。寒いほどではない、涼しい部屋の中、寝台が置かれ、その上に、一つの姿が見て取れる。目を中ほどまで開き、横向きに寝そべったまま、僕たちのほうへと、視線を向けてくれる。
 その身体の数箇所には管が付けられ、その中を、透明な液体が流れている。身体に繋がっているものと、身体の周囲にそのまま撒き付いているものがある。それらが何なのかは分からないけれど、身動ぎするにも不自由しそうな、
(栄養分の点滴と、排熱補助用の循環水、だってさ)
 ――あ、そう、ありがと。
 ……窮屈さがあって、憂鬱そうな暗い表情があった。退屈そうだった。
「……ね、フローちゃん、体調どう? 楽になった? それとも、まだ苦しい?」
「らくに、なった、かな」
 質問を投げ掛けると、僕のほうを見たまま、そう返事をくれる。
「……退屈?」
「たいくつ。フィットさん、いて、くれる?」
 身体に付いている管を気にしている様子はなく、ただ、身動ぎの一つもしなかった。
「うん、居てあげるよ、一緒に」
 ひとまず、無事で、よかった。
 しかし、それでもあまり穏やかな気になれないのは――フローちゃんの、気分の晴れない様子に、引っ張られている、のだろうか。
 ――ああ、こんな時こそ、そうだよ、僕が、しっかりしないと、いけないのに。
「すぐ元通りになるからね。だからそれまで、ゆっくり、してようね?」
 顔をその姿へと寄せて、その頬へと、軽く、頬を当てる。
「……うん。フィットさん、&ruby(だい){大};すき」
「うん、僕も、フローちゃんのこと、好き、だよ」
 目を瞑り、負担にならない程度に軽く押すと、そちらからも、軽い力で、押し返してきた。
 冷たい表皮の先に、確かな鼓動があって、安心感が沸き立った。

(へぇ、何? もうそんな関係なの? 葉団子くん、やっるぅー)
 ――そういう〝好き〟じゃねーよ。なんでそこ茶化すんだよ。
 思考の中に入り込んで来る言葉を、雑に振り払いながら、ただ、眠らない程度に、意識を緩めた。
 首回りの葉っぱを開いて、緩やかに、&ruby(こう){香};を漂わせた。



 その日の昼下がりには、もう、フローちゃんに付いていた管は全て外され、無事、回復しきっていた。
 寝台から降りて、小さな部屋の中で、ぐるぐると回ったり、していた。
 熱い日中を避けるための、夜までの待機、だった。

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 少しすると、僕もフローちゃんも、それぞれ、落ち着いた。フローちゃんは、寝台で横になって、再び、眠っていた。
 ご主人が扉を開けて、この小さな部屋から出て行くのを感じた。視線を送るまでもなく、ただ、些細な疑問が浮かんだ。
 ――付いてかなくて、いいの?
(別に? 私が居なくても問題ないことだし、すぐ戻ってくるよ)
 夢食いが、それをすぐに拾い上げて、返事をよこす。
 静かな中で、思考が繋がるのを感じた。別に話すようなこともないし、すぐに途切れるだろうと思って――いたけれど、事のついでに聞いておきたい話が、僕のほうから思い浮かんだ。
(……へぇ?)
 ――ああ、うん。フローちゃんの原因、ええと、不調の。分かる? ご主人ら、何か言ってなかった?
 纏まりのないままでも通じる、話の早いやり取り。
(排熱がうまく行ってなくて、それで、熱籠ってたんだって。この、ね、現代は、フローちゃんにとって、熱いみたい。フローちゃんは、熱さを自覚はできてないみたいだけど、身体のほうが持たなかったみたい。だから、今後も、たぶん、こうなることが、ありそう)
 ――そっか、そうなんだ、あんまりはしゃいじゃだめなのかな? 食べ物とかには、問題は? 嘔吐は完全に体調由来のもの?
(食べ物は、その辺は、問題ないみたい。体調を崩して、消化するだけの力が無かっただけ、って、言われてる)
 ――うん、そっか。
(だよ)
 ――はしゃいだ後は、熱籠ってるから、すぐ眠ると危なかったりするのかな。水分もしっかり摂って、少しだけ落ち着く間を持ったほうがよさそうかな?
(へぇ……うん、そういう気配りはしてもいいかもね。どうだか分からないけれど、悪くはならないよ、きっと)
 ――よかった、のかな、さっきもはしゃいでたけど。
(あのくらいなら、ま、いいんじゃない?)
 ――うん。
(うん。葉団子くんも、休める時は休みなよ)
 ――はいはい。
 一通り話し終えたな、と思った辺りで、頭の中から、何かが抜けていくような感覚があった。

 そのままの視線へと意識を戻し、フローちゃんを見る。緩やかな表情で小さな寝息を零していて、心地よさそうにしていた。
 ――いい夢でも見てるのかな。
(いい夢だね。食べるのは勿体なくて、そのまま見続けてもら、)
 ――ああ、うん、別に、聞いてるわけじゃないから。
 思考の隅から語りかけてくる声を振り払い、正面の寝顔から視線を外す。部屋の小窓を捉え、その側へと歩み寄る。光が差し込んできている位置について、外の明るみを、見る。
 首回りの葉っぱを広げ、大きく、息を吸って、吐く。身体の内から温かくなるかのような、心地のいい感覚が、沸き立つ。

 ――ここのところ、日の光を、しっかりとは、浴びていなかった……な。

 普段の部屋の明かりも、暗くはないのだけれど、それでも、日の光を浴びるほうが、ずっと、捗る。
 僕が潰れるようでは世話がないのだ。休めるところでは休んでおくべきだ。
 目を瞑り、僕は、ただ、その場に佇んでいた。
 ご主人が部屋に戻ってくる気配があった。新鮮な木の実の匂いがした。何かを言うこともなく、夢食いの側に居るようだった。
 持ってきたであろうそれは、フローちゃんの分の木の実、だろうか。――食べてくれると、いいな。



「きれい」
 暫く経った頃に、一つ、声が、聞こえた。
「……ん?」
 フローちゃんの声だった。目を開けて、そちらを見ると、寝台の上で、腹這いに体勢を整え、僕へと視線を向けてくる姿があった。
「なに、してるの? フィットさん、それ、きらきらしてる!」
 その口から放たれるのは、好奇心に満ちた、明るい質問。
 ――ただ、正確に答えようと思うには、僕自身、それがどういうものなのかはよく分かっていない。
「えっと、光合成っていう……ええと、分かるかな、日の光を浴びて、元気になるの。栄養を作る、のかな」
「わたしも、できる?」
 考えながらゆっくり説明を紡ぐと、半ば遮るように、次の質問を投げ掛けてくる。
 仕組みだとかには興味がないだろうか。寧ろそのほうが助かる。助かる、けれど。
 ――とりあえず、到底、光合成のできる種族ではない、よね?
(ま、無理だよね)
 日の光は、フローちゃんにとっては、温かい以上に、多分に、熱い。日光浴くらい、できなくはないだろうけれど、あまり浴びさせて、また熱籠って体調を悪くしないだろうか。
「うーん……少し、やってみる?」
 小さな心配を抱えたまま、一歩、二歩と身を引いて、僕が佇んでいたその場所を、譲った。
 フローちゃんは、寝台から跳ね降りて、すぐに僕の前へと、居座った。

 小窓の外を見てから、少しして目を瞑り、頭頂部のヒレを左右に垂らす。フローちゃんのその様子は、僕の真似をしているかのようだった。
 そのヒレの端や、胴体の結晶のようなものが、光を帯び、煌めく。苦しんだりする様子はなく、そのまま、佇んでいる。
「……&ruby(き){気};もちいい」
 その落ち着いた様子とは裏腹に、僕のほうは――どうやって、その場から、傷つけないように引き離そうか――と、心中穏やかではなかった。
 しかし、思考を巡らせていると、フローちゃんのほうから、一歩引いて、僕の側へと寄ってきた。
「熱く、ない?」
「ううん、へい&ruby(き){気};。すっごく、いい」
 僕の頬へと、頬を重ねて、押し付けてくる。その頬表面に少しの温かみを感じたのが、ただ、気がかりだった。
 そんな心配をよそに、フローちゃんは、楽しそうな声色で言葉を続ける。
「ね、そとに出て、&ruby(いっ){一};しょに、できる?」
 ――それは。
 光合成の原理だとかとはまた違う、難しい質問だった。
 一緒に。そう、一緒に。
 僕だって、そうしたい。フローちゃんと一緒に日光浴ができるのなら、そうしたい。
 大丈夫、だろうか。
 その身体は、熱さで倒れる、にもかかわらず、熱さを自覚できていない、らしい、というのに。
 そして、恐らく、僕の一存では、決定できない。
「僕は、フローちゃんと一緒に日の光を浴びたり、してみたいなって、思うけれど――」

 頬をフローちゃんの頬に重ねたそのまま、横へと視線を向ける。夢食いとご主人の姿を見捉える。ご主人のその口が開き、柔らかい声が部屋に響く。否認するような声でないことは、分かった。
 既に夢食いから話を聞いていた――というよりは、夢食いを通して話が漏れていた様子だった。
(研究所出てすぐの広場とか、そばの森を散歩するくらいなら構わない、ってさ。彼女も興味あるみたい)
 ――ん、そう。――ご主人が?
(うん、そう。ま、今日はおとなしくしてようね、って話だけど)

「――できるみたい」
 そう言葉にすると、フローちゃんは、頬を思いきり強く押して、
「やった、やった! ありがと!! よろしく!!」
 きた、かと思えば、身を離して、その場で飛び跳ねていた。
「ただし、今度、ね」

 ここのところ、僕が日の光を浴びていなかったのは、フローちゃんと一緒だったから、というのも、ある。
 寒地の気温を再現するに当たって、日の光は、温かすぎる。
 そんなフローちゃんも、日の光を意識して浴びたなんてことはこれまでなくて――今回が、生まれて初めて、だったのだ。

 しかし、かつては――より寒かったその時代は、どうだったのだろうか。
 別に、洞窟の奥などでひっそりと過ごしていたわけでも、ない、だろう。
 日の光の下で活動する、普遍的な種族だったのなら、それを浴びるというのは、自然なことなのだ。

 今の時代には、できないこと、なのだろうか。
 ――考えすぎ、だよね。
 僕は、ただ、フローちゃんが望む限りのことを、叶えてあげたかった。



 日が傾き、そのまま落ちて、夜になる。
 変わりなく体調のいいフローちゃんと、他愛ない話で笑い合い、ご主人らと共に、帰路に付く。
 二重扉を開け、広く寒い部屋へと戻ってくる。一つの木の下まで歩み寄り、互いに見合って、ゆっくりと、腰を降ろした。目を瞑った。

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 気配を感じて、目が覚めた。首を持ち上げ、その方向へと視線を向けると、雪を踏みしめ、こちらへと歩み寄ってくるご主人と、その横に浮かぶ夢食いの姿があった。
 ご主人は、片方の手に小さな機材を持ち、肩からかけた紐の先には、その胴回りより大きいくらいの箱を、下げていた。記録を取るための道具と、中に冷気を保存させる箱だった。準備万端、といったところだった。
 ――もう来たんだ、早い。
 僕の隣では、僕より一回り大きな、水色の生き物が――変わりない姿が、眠っていた。その表情は、穏やかだった。
(おはよう、いい夢見れた?)
 ――さぁ? 何か見たのかもしれないけど、覚えてない。
 ご主人の掛け声に対して、言葉のない声を返しながら、思考を繋げてくる夢食いへと、意識を向けた。

(さて、外でフローちゃんと〝光合成〟する話、さ、彼女が観察してても、それは、別にいいよね?)
 ――いい、んじゃない? 何かあった時、そのほうが、助かるし。だけど、つまり、お前も居る、ってことだよな?
(まぁ、だよ)
 ――夢食いさえ居なければなー。
(んー、昨日、フローちゃんにも嫌がられたから、私、ほんと、ここに居残ってたほうがいいんじゃないかなって感じはするよ)
 ――へぇ、まぁお前が居残るなんて、ご主人が許さなそう――。
 そこまで急ぐ話でもなく、冗談を思い浮かべる余裕さえある中で、気にかかる話に、少しだけ食いつく。
 ――ん、フローちゃんに嫌がられたの? 夢食いが? 懐かれてて、大体のことは許容してるもんだと思ってたけれど。
(あー、ちょっと、私ね、誤解されてるんだ。すぐ解けると思うから、誤解されてること自体は気にしてないけどね)
 ――誤解でもなんでもなく、純粋に、嫌われてるんじゃない?
(もしかしたら、そうかもね)
 そこで思考が一旦途切れた。このまま話を終えてもよかった。……何か話したいことが、ぼんやりと、あるような気がするのだけれど、浮かんだ感情が、うまく言葉として纏まらない。
 ――なぁ、夢食い。
(ん、何?)
 夢食いへの明るい感情。大げさに言うほどでもないことで、夢食いが居てよかった、という、えーと、
(えーと、一緒に光合成する許可をご主人から取ってくれてありがとう、って? 私に感謝するなんて気持ち悪いね? 体調崩してるの? 変なものでも食べた?)
 思考にぼんやりと浮かぶ感情を、どうにか言葉にしよう、と思っていたら、先にそれを読み取られ、解釈と、その先の悪態までを、次から次へと押し込まれる。
 ああ、なるほど、夢食いに感謝してたのか、と、腑に、
 ――纏まってない感情を勝手に拾うんじゃねーよ。別に急ぎでもないのに。そうだけど、ああ、もう、撤回させろよ。この夢食いが。
 ……落ちこそすれど、それを先に暴かれるというのは、やや、調子が狂う。
 一方的に干渉されて、散々冷やかかされるのも、いつものことではあるけれど。
(うんうん、このほうが、私たちらしいよね)
 ――なんだよそれ。
 慣れていても、どうにも好めない一面だった。



 フローちゃんも目を覚ますと、部屋の二重扉を抜け、研究所の出入り口に来た。
 森の木々を超えた先、遠く空の奥に、まだ暗がりの残る朝。柔らかい日差しが心地よく、大気が温かく――涼しい、程度の、快適さがあった。
 フローちゃんにとっては、恐らく、十分に熱いのだろうけれど、隣ではしゃぐ姿には、まるでそんな様子は見受けられなかった。――だからこそ、常に見続けていないといけない。
「すごい! 外、すごい!」
 フローちゃんは、一歩前へと踏み出した、と思えば、広場の中央まで走っていき、僕のほうを振り向く。――遊ぼう、と、誘っている。
「追いかけっこは、今日は、しないからね」
「えー……」
 僕は、その姿を追う形で、ゆっくりと歩いていき、側に寄る。互いに見合って、どちらともなく、笑う。
「光合成も日光浴も、落ち着いて、静かに、やるものだから」
 ――フローちゃんが激しく動いたりしないように願う、ただの方便。とはいえ、静かに日の光を浴びること自体は、僕は、好き。
 騒がしい光合成や日光浴なども、あっていいかもしれない、と思いこそすれど、それは――フローちゃんに負担がかかるので、あまり、やりたくない。
 僕は、目を瞑り、頭を持ち上げ、一つ息を吐いて、吸う。身体から力を抜いて、日の光を、身に纏う。
 隣の気配も、僕の真似をするかのように、ただ、大きな呼吸音を、一つ、出す。

 心地のいい、日和。

 一間だけ置いてから、目を開け、隣を見ると、フローちゃんも、僕と同じような作法で、頭を持ち上げ、目を瞑りながら、日の光を浴びていた。
「やっぱり、いい。温かくて、気持ちいい」
「そっか、よかった」
 こうやって見ていると、フローちゃんは、中々に、綺麗。
「ずっと、こうしていたい。……私には、温かいのは、よくない、んだろうけど」
「大丈夫だよ、少しくらい――」
 昨日のことは、常に忘れず意識のどこかに留めているけれど、こうやって、明るい雰囲気のフローちゃんを見ていると、やっぱり、心配しすぎなんだ、と、思わされる。
「――フローちゃんが楽しいなら、それに越したことはないよ」
「ありがと」
 一つの話が短く終わり、数瞬、間が空く。何かに急かされることもなく、僕は、纏まりのない思考をそのままに、その横顔を見つめ続ける。

「……ところで、さ。……ミューアンさんのこと、どう、思ってる、の?」
 ――ん?
 次の瞬間には、ふと、フローちゃんのその口から、夢食いの名前が上がる。
 後ろのほうへと意識を向けてみると、研究所の出入り口で待機しているはずのその気配は、間違いなく、そこに、ある。そう離れてもないし、声が聞こえないなんてことはないだろうし、それ以上に、思考が読めないなんてことはない、十分に近い場所に、いる。
「……『葉団子くんにきらわれてる』って、聞いてるけれど、フィットさんは、ミューアンさんのこと、きらい、なの?」
 そう言葉にしながら、顔をこちらへと向け、しっかりと、僕の目を見てくる。その表情は、特に後ろ暗い様子ではなく、かといって、嬉々とした様子でもなかった。純粋な好奇心を浮かべているようだった。
 ――ああ、そう言えば、夢食いも、フローちゃんに嫌がられてる、だとか言ってたっけ。それと、少し関係があるのだろうか。
 しかし、ともすれば悪口になりかねないような話で、かつ、当事者に聞かれているであろうに――気にしていない、のだろうか。
(別に、私には遠慮せず、思う通りに言ってくれていいよ。今日は邪魔しないから。それに、私に隠し事できないのは、あんたも、フローちゃんも、同じだしね)
 ――あ、うん、そう。
 夢食いから、後押しするかのように入り込んでくる思考が、寧ろ、疎ましい。
 どうせ居ないところで会話したとしても、会った時に少し思考を読まれれば、すぐ気付かれるのは、間違いない、だろうけれど――そこまで、開き直るのも、どう、なんだ?
 ――まぁ、思っている通り、正直に言えば、いいか。

「……別に、嫌いではないよ。いや、嫌いな面も多いけれど、あいつに助けられている面も、少なくはないし、頼りにしてる」
 僕がそう言うと、フローちゃんは、しばし、黙ったまま、表情も変えずに、僕のほうを向き続けていた。その視線が、少しだけ泳いでいて、何かしら思考を巡らせていることは見て取れた。まるで、纏まりのない感情の中から、言葉を選び、紡ごうとしているようだった。
「……じゃあ、好き?」
 ようやく開いた口から続くのは、対偶となりそうな質問。
「それは、ちょっと、ないかな」
 今まで考えたこともなかったし、今考えてみても、直感的にそう言えそうな感覚は、何もなかった。
「ふーん……」
 フローちゃんは、相槌を打ちつつ、また、黙り込む。
 ――何を思っているんだろう。
「……気になることでも、何か、ある?」
「うん、その、それが、分かんない」
「そっか、うん、自分でも分からないことって多いもんね。また何か気になったら、聞いてね」
 纏まりの付かない感情を言葉にするのは難しいし、それを他の誰かに質問するのは、もっと、難しい。恐らく、そういうこと。
 夢食いなら、フローちゃんの考えていることと、その纏まった解釈まで、簡単に読み取るのだろう。――というか、既に読み取っているのだろう。

 僕は、ただ、話の終わりとして、一つ、息を吸って、吐いた。こちらへと寄せてくるその顔を見て、もう慣れた動きで、頬とその頬を、押し付け合った。
 その表面は、微かに温かく、しかし、くっ付け続けていると、ひんやりと冷たい感覚に変わっていった。



 半ば、フローちゃんに付いていくような形で、森の中を歩んでいく。ご主人から渡された薄い布を、遮光幕として纏っているその姿は、前方で、はしゃぎ回って、腐葉土を蹴散らかし、かと思えば、ふと足を止めて、僕やご主人らへと見返ってくる。
「元気、あるね」
 興味に溢れる楽しそうな様子に、少しの心配をしつつも、咎めようとは思わなかった。
「ね、これ、食べれる? 美味しそう!」
 その姿は、低木に生っている実の一つへと顔を寄せ、その匂いを嗅いでいた。一口で食べられる、小さく赤く、硬い実だった。
「うん、食べれるよ。美味しいと思う」
 辛く、だけれど癖が少なく、美味しい、と、されている木の実。辛味は好きではなく、僕はあまり食べたことはないけれど――フローちゃんなら、なんとなく、好きそうな気がした。

 フローちゃんが、その実を、咥え、木から引きちぎって、口に含む。噛み砕く音が、数度、響いてから、その喉が、動く。
「――うん、美味しい!」
「よかった」
 明るく言うその姿は、見ているだけでも、美味しい様子が伝わってくるようだった。
「フィットさんも、食べる? これ」
 そう言いながら、フローちゃんは、再び、その木の実に顔を寄せる。
「ん、僕は――」
 断ろうかと考えているその目の前で、フローちゃんは、もう一つ、その木の実を咥え、引きちぎって、口に含む。噛み砕く音が数度響かせてから、そのままこちらへと、顔ごと視線を向けてくる。
 それは、僕のよく知る作法だった。
「――食べようかな」
 その顔に顔を寄せ、口を重ねる。その舌が、隙間を押し広げるように入り込んで来る。そのまま、唾液と、硬い果肉片を、舌伝いに送り込んでくる。うまく受け入れられず、いくらか、その唾液が零れて、口周りに垂れる感覚が、あった。
 僕は、顔を離し、口を閉じて、中で少しかき混ぜる。辛くて、だけれど、甘い感じのする味が、口の中に、広がっていく。温かい感覚が、沸き立つ。美味しい。――美味しい。
 ――僕の味覚、変わったりしたんだろうか。
 細かい果肉片を、もう少しだけ噛み砕き、潰してから、それを飲み込むと、フローちゃんが再び僕へと顔を寄せ、口周りを、その舌で舐め取ってくれる。
「……ね、美味しいよね?」
「うん、すごく」
 まるで僕が、木の実すら食べられない幼子かのようだった。
 ――それも、悪くないかな。
 木漏れ日が揺れ動く、心地のいい森の中、フローちゃんと、互いに見合って、ただ、微笑んだ。



 森の中で過ごしたのは、ほんの僅かな間だった。日が真上近くまで登り始める頃には、僕らは、研究所へと帰り着いていた。
 夢食いは、ご主人に付いていく形で研究室へと入っていき、フローちゃんとふたりきりで、部屋に戻った。
 互いに、流水に口を付け、寝床となっている木の下に付いて、座り込む。火照った身体が冷えていくにつれて、睡魔が降りてくる。
 ――まだ、昼時だというのに。――まぁ、いいのかな。

 身体の奥底から沸き立つような、温かい感覚が、あった。
 うつらうつらと、意識が沈んでいく中で、軽く、フローちゃんの、その頬に、頬を重ねた。

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 目が覚めたら、周囲は真っ暗だった。
 恐らく、夜なのだろう。明かりも付いておらず、そのまま寝なおそう、と、あまり身動ぎせず、ただ、隣を見る。そこには、フローちゃんの、その輪郭が、見て取れる。小さく呼吸音を漂わせながら、眠っている。
 朝から昼にかけてを、熱い外で過ごしたのは、楽しかった分、疲れも大きかったのだろう。穏やかな様子で、深く、寝入っていた。
 そのことだけを認識すると、寝なおそうかな、と、僕は、目を瞑りなおした。
 しかし、どうにも落ち着かず、ひたすらに動き回りたい感覚が、あった。防寒具の隙間から入り込んで来る寒気が、気になって、気になって、仕方なかった。
 ――体調を崩した、だろうか。
 身を捩り、四肢を雪の地面に当てて、跳ね起きる。身体が重たかったり、頭が痛かったり、等の不調は感じられず、すんなりと、身体が上がる。
 ただ、僕自身の身体が、妙に熱を帯びているような、気が、した。
 ――どうしたものか。
 小さな寝息を立てている、隣の姿へと、再び視線を向ける。

 そのフローちゃんのほうは、穏やかな様子で、無防備で、
 そう、無防備で、
 僕が、顔を寄せても、まるで気付く様子がなくて、

 ――うん?

 僕は、
 一歩、後ずさった。

 フローちゃんの、その体調を心配するようなことは、何も、なかった。
 そうではなくて、
 ただ、その頬に、無性に、頬を押し付けたい感じが、あった。いつも通りに。
 しかし、そんなことをしたら、せっかく眠っているフローちゃんを起こしてしまう。
 いや、違う、そうではなくて、
 そうではなくて、
 僕の中に、強い欲求が、渦巻いていた。

 ――悪い夢でも、見た?

 その姿に覆い被さってみれば、どれくらい、抵抗されるだろうか。全力で抵抗された場合に、抑え込めるだろうか。
 思考の端のほうで、画策が進んでいる。酷く、血迷っている。

 ――いや、待って、だから、
 防寒具を外し、脱ぎ捨てて、
 その姿の輪郭を、頭から尻尾まで、眺め見て、
 ――、
 身を翻し、歩みを進めて、二重扉を開けた。部屋を、出た。

 後ろ暗い感情。
 僕が、見て、守らなければならないはずの、はずの、〝彼女〟を、壊したい。
 儚い姿を、支配して、僕だけのものに、したい。誰にも、何にも、渡しやしない。
 身勝手に、我が侭に、理不尽の限りを、犯し、たい。

 違う、――僕は、彼女を、壊したく、ない。

 支離滅裂な思考だった。
 ただ、ひとりになりたい一心で、研究所を出て、森へと入り込んだ。
 僕でない僕に、意識を、渡した。



 真っ暗で、幾らか涼しく温かい、森の中、少し進んだ先の、一つの倒木に目を付ける。その木にまたがり、四肢で挟み込む。目を瞑って、真っ暗な中に、幻視を作る。

 フロー、ちゃん、
 ――なぁ――フロー。

 僕より一回り大きく、水色の冷たい表皮を持ち、明るい雰囲気を纏った、四つ足の生き物。ここ幾日、ずっと、一緒だった生き物の、その、後ろ姿。
 そんな彼女の背中に、身を乗り上げさせ、覆い被さって、その首元へと両前足をやる。軽く、抱き付いて、僕へと振り返ってくれる顔の、その頬に、頬を、強く、押し付ける。

 ――なぁ、フロー……。

 ぼんやりと、思考の中で、彼女を呼ぶ。喉の奥が、強く、締め上げられる。
 その頬から頬を離して、頭を持ち上げ、その頭頂部のヒレを、そっと、噛む。

 ――フロー……大好き、だよ……。

 前足に、より力を籠める。身体がずり落ちてしまわぬよう、抱き締める力を強くする。
 腰を、ゆっくり、動かす。下腹をその身に押し付けて、離して、また押し付けて、また離して、と、繰り返し始める。

 ――ああ、なぁ、フロー、

 首周りの葉っぱを広げ、香を、漂わせる。その全身に染み込ませる勢いで、加減せず、流す。
 自分でも分かる、酷く甘ったるい匂いの中で、身じろぐ鼓動を、早めていく。
 温かくて、心地よくて、ずっと、ずっと、浸っていたい、感覚。

 ――孕んで、よ。――なぁ、孕め、よ。

 ふと、冷たい感覚が、身体の内に走る。縮こまって、動きが止まる。
 口から、言葉にならない声が、小さく、漏れる。下腹から何かが――精液であろうものが、飛び出していく。

 ――フロー、フロー……フロー……、、

 身体から力を抜いて、ただ、そのまま身を委ねた。疲労感と熱気の中で、その身に舌を添えて、緩く、舐めた。
 幸せ、だった。



 幻視が覚めていく。大きな呼吸を繰り返すにつれて、少しずつ、元の意識が戻ってくる。
 直前まで感じていた幸福感は、幻視と共に消え失せ、錯乱した感覚も抜けて、ただ、後悔の念が、その隙間を埋めていく。
 強い匂いが身体から漂っていて、あまりいい匂いではなくて――早く、落としたい。
 僕は、覆い被さり抱き付いていた倒木から、身を離し、ゆっくりと、四肢に力を籠めて、立ち上がった。
 ゆっくり、森の奥へと歩みを進めた。

 森の中を漂う風が、裂くように冷たかった。火照った身体には、それは、涼しすぎた。

 この温かさは、彼女を殺してしまうのだろうか。――もし、彼女と、この熱を共有するなら、その時、彼女は、無事で済むのだろうか。
 彼女は、生まれてから、まだ全ての日を思い返せるくらいしか、経っていないけれど――その身体は、別に、幼子などということはなく、雌としても、成熟している、はず、だった。
 多少は、問題ない、の、だろう、か。
 ――僕は、彼女のことを、そんな目で、見ていたのだろうか。ずっと。
 ずっと。
 それが全てではないだろうけれど、皆無というわけでも、ないのかもしれない。

 ――彼女は、あまり長生きできない。
 はっきりとした確信はないし、したくもない、けれど――そう言われる通りに、いつか、僕の触れられない所に、行ってしまうような、気が、して、怖かった。
 今日は元気だった彼女も、いつか、また、病に伏して、そして、回復しなかったら、それは、受け入れられるのだろうか。

 ――僕は、僕は、フロー……ちゃん……のことが〝好き〟なんだ、な。

 それも、全てではない。もっと他にも、色々と、纏まりのない感情が、ある。
 だけれど、今まで漠然と彼女へ向けていた心配の、その一端であった。理解してしまった。

 いつか彼女が消えてしまう、その前に、悔いのないくらいに、貪り尽くしたい、と、――そんな後ろ暗い感情も、間違っては、いない。
 心配が拗れて、焦燥の中で、何もかも鑑みず、ただ、結実を求めている、だけ。さほど、害でも、ない――見ようによっては、可愛らしいと形容されうるもの。

 思考を巡らせながら、同時に歩き続け、流れている川までやってきた。僕は、一つ息を吐き、吸い直してから、川へと飛び込んだ。
 冷たい中、暫し泳いで、身体に付いていたものを洗い落した。
 すぐに川から上がり、身を振るって、粗方、水気を弾き飛ばして、空を見た。綺麗な星と、欠けた月が、綺麗に煌めいていた。

 まだまだ、夜は更けていく頃、だろうか。――早めに、戻らないと。
 フローちゃんが、ふと目を覚ました時、僕が居ないのでは――間違っても僕が心配されるようでは、世話がないし。
 ああ、でも、少なくとも部屋に戻る前には、しっかり水気を落としきらないと、凍り付いたりして大変なことになりそう。
 ――まぁ、布を使わせてもらえば、いいか。

 僕は、身を翻して、帰路を辿った。研究所に入り、水気をしっかり落として、部屋に戻った。
 防寒具を纏い直し、フローちゃんの姿を見捉えて、その側へと寄った。
 僕は、その隣に身を降ろし、目を瞑って、眠りの中へと沈んでいった。

 小さな寝息を立て続けている彼女の姿は、とても、とても、愛おしかった。

----

(で? フローちゃんのことが、好きで好きで仕方ないの?)
 ――ほっといてよ。

 起きて早々、思考に入り込んで来る感覚が、一つ。
 問われれば、否応なく、思い出してしまう。そうやって、思い出した端から、感情を読み取って、話の種にしてくる。

(やだよ、こんなに面白い反応してくれるのに。で、昨夜、ひとりでやってたの、気持ちよかったんでしょ?)
 ――ああ、まぁ、よかった、かな。どうせなら、本当にフローちゃんへと覆い被さり、――いや、さ、そんな、誘導尋問するんじゃねーよ。
(いいんじゃない? 何なら、今からやれば?)
 渦中の、僕より一回り大きい身体を持つ、水色の生き物は、既に起きている。その姿へと視線を向けると、彼女は、雪の地面に背中を擦り付け、寛いていた。
 眠っている程ではないけれど、それなりには無防備で、その気になれば、覆い被さるくらいまでは簡単に、
 ――てめーな……。
(抵抗されるのが嫌なら、協力するよ? フローちゃん、眠らせよっか?)
 ――余計なお世話。
 どちらかと言えば、多少は抵抗されるなり、反応されるなりするほうが、楽しそうだし、
(へぇー、そういう趣味?)
 おとなしいフローちゃんは今一想像できないし、何より、心配になるし、それは、もちろ、ん、
 ――ああああああもう、この夢食いが。どっかいけよ!
(私は〝彼女〟と一緒に動いてるだけだから。そういうのは彼女に言って?)
 扉のほうを見ると、ご主人が、昨日と同じ装備を持ったまま、部屋の外で待機している。
 ――そうじゃなくてさ、こんな、僕の思考に張り付くのはやめてよ、って。別に、覗き見るくらいは&ruby(と){止};めないからさ。
(面白いんだもん、仕方ないじゃん?)
 ――ああ、ほんと……。
 僕は、ただ、溜め息を、一つ、大きく吐く。
 ――あ、あとさ、不安なんだけれど。
(何? あー、どーしよっかなー?)
 ――……フローちゃんには、伝えないでね?
(ま、別にばらしたりはしないから、そこは、安心してよ)
 そんな、さ、彼女を抱きたい、とかも、全くの本意というわけでもない、から。心配も尽きない、から。
 彼女が、そもそも情事を理解できているか――恐らくもう理解はできてきていてもおかしくないだろうけれど。
 ――頼むよ……?

 起き上がって、ご主人が持ってきたであろう籠に首を突っ込み、木の実を頬張る。籠から離れ、口の中で数度噛んで、飲み込もうとする。そんな僕へと、視線を向けてくる姿があった。彼女が、雪の地面に背をつけたまま、僕を見ていた。
 ――ええと?
 なんだろう、と、その目に視線を合わせると、彼女は跳ね起き、言葉なく、その顔を寄せてくる。すぐ側まで来たところで、その身を止める。
 僕からの動きを待つかのような、物欲しげな様子で、ただ、視線を向け続けてくる。
 ――しょうがないね。
 思考の中で、一瞬、躊躇いながらも、半ば誘われるような形で、僕からも顔を寄せて、口を重ねる。舌を入れ、唾液と果肉を流し込む。
 ――もう少し、深く、口を重ね合っていたい。
 沸き立つ欲求を拭って、口を離す。顔をずらし、ただ、いつものように頬同士を擦り合わせる。
「……まだ、食べてなかった?」
「ううん、もう食べてるけど、なんか、ね、気分」
 気分――気分、か。
 僕としても、そういうことしたい気分では、あるのだけれど。
「甘えたい?」
「そう、かな? ちょっとだけ」
 これだけでも、十分に、いい気分、なのだ。



 研究所を出て、森に入る。彼女と横に並んで、散策していく。
 昨日より落ち着きこそあり、しかし、興味の尽かぬ彼女に振り回されるのは、それは、それで、楽しい。
 特に、植物への興味が強く、木の実から葉っぱから枝まで、注意を引き、かつ害がないと分かるものなら、なんでも齧っていた。
 推測するに、本能的な疑問が、多いのだろう。大昔の時代に生きていた、彼女の種の、その本能が、現代の植物たちを、興味深いものとして認識させている、のかも、しれない。

 そんな日を繰り返すうちに、少しずつ、外で活動する時間が、長くなっていく。
 ご主人や夢食いが同行せず、ふたりきりで外に出るようにもなって――より遠慮なく振り回されるようになったりも、し始めた。

----

 目を瞑り、頭を持ち上げ、心地のいい感覚の中、静かに、過ごしていた。日中の森の中、開けた場所にふたりきりで佇み、のんびりと日の光を浴びていた。
 身体の内から湧いてくる温かさに意識を任せ、息を吸って、吐いた。数瞬、全身が、熱い感覚に覆われた。
「フィット、さん?」
 隣、やや下のほうから声を向けられ、目を開けて、そちらを見た。
 しかし、ただ木立ちが見えるばかりで声の主であるはずの彼女が見えない。――少し下へと視線をずらすと、僕を見上げてくる、いつもの姿があった。
 フローちゃんが、小さい。地面が、遠い。――僕自身の身体が、一回り、二回り――それよりもう少し、大きくなっていた。
 僕自身の胴体のほうへと視線を向けると、首周りにあった葉っぱが、花びらに変わっていて、体色も、少し、明るくなった、気がする。

「――〝進化〟したんだね、僕」
 その瞬間は、存外、呆気ないものだった。進化自体は、以前にも経験したことがあったけれど――その時も、こんなもの、だったっけか。
「しんか? 何、それ?」
 彼女は質問を浮かべつつ、首をかしげる。
 それが何なのか、なんとなくは分かっていても、うまく説明するのは、難しい。
 ――こういうことは、夢食いのほうがずっと得意なんだよな。
「んー、急成長して姿が変わる、現象?」
 光合成している中で、少しずつ、見えない成長をしていたのだろう、か。
「成長したんだ、おめでとう!」
「ありがと」
 首を伸ばし、顔を僕のほうへと持ち上げてくるその姿へと、頭を降ろし、頬同士を重ね合わせた。

 木陰に入って一息付き、隣り合って、腰を下ろす。腐葉土の、少しだけ冷たく柔らかい地面に、重心を預ける。
「体調は、どう? 平気そう?」
「うん、全然」
 最近となっては、体調の心配も、他愛のない話の一つとなりつつある。
 彼女自身、少しの疲労感なりを感じ始めたら、すぐに宣言してくれるようになっていて、あまり目ざとく様子を窺う必要も、なくなった。
 軽く欠伸を浮かべてから彼女を見ると、その小さな顔も、少し遅れるように欠伸をしていた。

「……これからは、〝葉団子〟さん、じゃなくて〝花団子〟さん、なのかな?」
「かもね。〝あいつ〟に弄られそう」
 憂えたところで、あいつには、どうしようもないのだけれど。
「……ミューアンさん、だね」
 彼女は確認するように、そう言葉を浮かべながら、一間、空ける。
「そうそう」
 話の終わりだろうか、と、僕は、視線を外して、もう一つ欠伸を浮かべた。
「ね――最初の頃、私が、フィットさんのことを『葉団子さん』って、そう、初めて呼んだ時、訂正してたよね。『フィットって呼んで』って」
 しかし、彼女としては、まだ続けたい話のようで、言葉が、尚も紡がれる。
「あー、そんなこともあったよね。あの時はごめん」
 ――あの時の、気落ちした、不服そうな様子は――ただ、悪いことを言ってしまった、という気分だった、な。
「ううん、謝らないで」
 彼女も、僕が思うほどには、気にしてないのかもしれないけれど。

「でさ――」
 彼女は、一瞬、言葉を詰まらせた。纏まりの付かない思考を言葉にするのが難しかった、という様子でもなく、ただ、何かを躊躇ったかのようだった。
「――聞いてくれる? あの時ね、実は、嫉妬してた。ミューアンさんに」
「うん……へぇ?」
 嫉妬。――夢食いに?
「葉団子さん、って、呼び方は、彼女から聞きはしたけれど、ほんとに、最初は、そういう名前だと思ってた」
「僕の呼ばれ方の一つには、間違いないもんね」
「うん。それで、蔑称だと思ってなくて、だけど名前じゃないのなら、親密な間柄でだけ許される愛称なのかな、って……それでさ、フィットさんとミューアンさんって……〝できてる〟のかな、って」
 できる、というのは、それは、考えたこともなかった。
「……ないない」
「……だよね」
 想像する限り、夢食いは頼りにはなるし、なんだかんだ助けられている面も多いというのは、偽る必要もないけれど――やっぱり、そういう好意は、ない。
「……仲間、って感じなら、まぁ、そこそこ親密ではあるのかな、って、思えるけどね」
「へぇー……」
「あいつとは、ご主人共々、決して短い付き合いでもないしね……。悪態の一つや二つ許される、みたいなところも、あるのかな」
 そう言うと、彼女は、不服そうな声色で、呟いた。
「……やっぱり、嫉妬するなぁ……ミューアンさんに」
 それは――もう少し、深入った部分まで、問うべきか、と、悩んだ。
 夢食いに嫉妬していたというのは――僕と夢食いが〝できていた〟として、それに嫉妬するというのは――フローちゃんが思う僕への好意は、恋情の類なのか、と。
「……『そんなにフィットに気に掛けて貰えてるミューアンが、羨ましい』……って?」
「うん」
 急いで問う必要もない、と思い、話を合わせこそしつつ、一番聞いてみたいと思った疑問を、喉の奥へとしまい込む。
「ね、私が、綺麗な誰かと仲良さそうにしてたら――嫉妬、する?」
「……する。間違いなく」
「そっか」
「うん」
 話はそこで途切れ、ただ、首筋へと重みが掛かった。

「――何言ってるんだろうね、私」
 花びらの間に入り込むような形で、その首を、重ねてくる。その身体の冷たい感覚が、遠慮なく、僕へと寄りかかってくる。
 ほんの少し前なら、頬同士が重なっていたであろう体勢だった。そうやったまま、互いに、ずっと、ぼんやりとしていた。

「……時々ね、夢に、大きな生き物さんが出てきて、その度に、私、食べられるんだけど――フィットさんとは違うんだけど、綺麗でさ……嫉妬してくれるのなら、見せてみたい」
「夢の中の相手に嫉妬するのは……難しそう」
「ミューアンさんに協力してもらえば、見せることくらいは、できそうな気がするよ」
「そうかも、ね。……だけど、そうしたら、今度はフローちゃんが、あいつに嫉妬したり、しない?」
「……するかも」

----

 日が暮れ、空が赤く染まり――かと思いきや、焼けた空は、もう遠くへと追いやられ、暗がりが広がっていた。夜がやってきていた。
 月明かりに照らされるだけの、黒い森の中、周囲は温かさを失い、いくらか涼しくなっていた。
「――そろそろ、戻る?」
 僕は、彼女へと言葉を向けながら、立ち上がり、その姿を見下ろす。彼女は、体調を悪くしている様子もなく、穏やかな表情を見せて、僕を見上げた。
「……もうちょっと、居て、いい?」
「うん。調子悪い、とか、そういうの特に感じないなら、大丈夫だよ」
 彼女も立ち上がり、一歩、僕の前へと歩き出す。――心なしか、その足取りが覚束ないようにも見えた。
「……悪いわけじゃ……ないんだけど、ちょっと、変、かな?」
「……それは、戻ろうよ、ほら」
 ――うん? それは、大丈夫、なの?
 いざなれば、背中に無理やり乗せてでも、連れて戻るべきだろうか、と数瞬の中で思案する。
「ううん、待って――少しだけ」

 彼女は、一つ、息を吐いて、吸った。
 頭を持ち上げ、目を瞑り、あたかも日の光を浴びるかのような要領で、月へと、向かった。
 その後ろ姿を、少しの心配と共に見つめていると、言葉にならない声が、周囲に響いた。他でもない、彼女の声だった。
 暗い空に、光の幕が現れ、たなびいた。その光を、帯びて、纏って、彼女のその姿が、眩く輝いた。
 その輪郭が、揺らめき、広がり、僕より一回り、二回り、それ以上に大きくなって、眩さを失った。
「――進化したんだね、フローちゃんも」
「――そう、なんだ?」
 頭頂部のヒレは大きく広がり、尻尾は長く伸び――何より、夜空の柔らかい光を纏っていて、綺麗、だった。

「……フィットさん、さ、小さくなっちゃったね」
 僕が見上げ、彼女が見下ろす形で、互いに、向かい合って、相手を見つめる。
「さっきとは逆になっちゃったね」
 どちらともなく顔を寄せ、頬を押し付ける。目を瞑って、その感覚に、意識を向ける。
「おめでとう」
「ありがと」
 頬を重ねたまま、一つ、息を吸って、吐く。
 瞬間の喜びを、彼女と、長く、長く、共有する。

「……ねぇ」
 少しすると、彼女は、短い声と共に、僕の顔を、横へと、力強く押してくる。
「……何?」
 抵抗せず、押される方向へと重心をずらして、身体を、ゆっくり、腐葉土の地面に横たえる。
 彼女は言葉を続けず、黙って僕を見つめ続けていた。ただ、その身を僕の側に付け、僕と同じ方向を向いてから、僕の胴体左右にその両前足を置いた。僕を覆うように、その上に立った。僕は、彼女と地面の隙間で、身を少し捩り、仰向けになって、顎を引いた。――顔から視線を離さないよう、ずっと、目で追い続けていた。
 冷たい空気の流れが、身体を包んだ。彼女の身から漂うものだった。身に刺すようで、しかし、悪い気のしないものだった。

 彼女の顔が、僕へと再び寄ってくる。僕からも顔を寄せ、その口と、口を、重ね合う。
 木の実を含んでいたりもしないというのに、ただ、どちらともなく舌をねじ込んで、張り合わせ、舌同士で押し合う。
 温かく、心地よくてそれでいて、全身が、ぎこちなく張り詰めるかのような感覚が、身体の内から沸き立ってくる。
 彼女の呼吸が、すぐ側で、響いている。
 口が離れ、舌に触れていた感覚が、消えていく。どことなく、寂しさを感じる。もう少しやっていたい、と、惜しく、感じる。
 ぼんやりと、彼女の顔を見つめ直す。数瞬、視線を合わせて、呼ぶ。
「……フロー、」
「……フィ、ット、」
 彼女の顔が落ちてくる。再び互いに口を重ねて、先ほどより勢いよく、舌をねじ込み、押し合う。
 その鼻から、言葉にならない声が、いくつも、零れ出る。
 あたかも、求めても足りないかのように、強く――しかし、甘え付くかのような、好意的な色の声。
 ――大好き、だよ。

 暫くして、口が離れる。再び、どこか寂しい感覚に襲われる。
 一つ、息を、吸って、吐く。――どこからか、酷く甘ったるい、いい匂いが、する。
「――ねぇ、戻る前に、もう少し、だけ、」
「――うん」
 身体じゅうが、疼く。何かに誘われるように、彼女の胴体側面を、後ろ足で、横へと、押す。その身体が、応えるように僕の上から離れ、僕のすぐ隣で、身を横たえる。
 身体を起こして、彼女の側に立つと、大きなその身体は、重心をずらして、仰向けになる。
 ――、
 纏まりの付かない思考が、頭の中で、いくつか、渦巻く。それらを気に留めず、僕は、その胴体へと、乗り上げる。身を、重ねる。
 寒気を纏った表皮の奥から、温かい鼓動が、伝わってくる。
 その大きな胴体を、両前足で、抱き締めようとする。その後方まで届かず、単に、挟み込む。その首元に、舌を添え、軽く舐め、舌を離して、今度は頬を添え、擦り付ける。その下腹に、下腹を当てて、脈打つ鼓動に合わせて、何度となく、押し付けては離し、を繰り返す。
「――フロー、大好き、だよ」
 彼女は、言葉なく、ただ、控えめに喉を鳴らす。
 その前足が、僕の後ろ首を、軽く、押さえてくる。抱き締めてくる。
 僕は、突き動かされるかのように、彼女へと、早い鼓動を打ち込んでいく。
 ただ、心地、よくて、
 その身へと、愛を、注ぎ込んだ――。



 身体から力を抜き、一息付く。寒気を纏ったその姿に、身を委ね、ぼんやりと意識を沈める。ただ、ただ、愛おしい姿へと、縋り付く。
 火照った身体には、彼女の、その冷たい感覚が、何より、心地よかった。
「……体調、さ、大丈夫?」
「分かんない……悪くはないと思うけれど、変な感じ」
「……そ、っか」
 だけれど、ずっと、こうしているわけにも、いかない。

「……そろそろ……戻る?」
 僕は重心を後ろへとずらし、彼女の上から身を引いた。
「……そう、だね」
 彼女も身を起こし、立ち上がる、身体を振るわせて、付いていた腐葉土を、軽く、落とす。

「……あー、でもその前に、身体洗う? 川にでも寄る?」
「……んー? どういうこと?」
 強い匂いが、身体から漂っていた。彼女へと注いだ愛の、その残り香だった。
「あー、えーと、その、お互い、身体、汚れててさ……」
「そのくらいなら、舐め取ろっか?」
 彼女としては、あまり気にならないのだろうか。あっけらかんとした様子で、そう言ってのけた。
 ――ああ、うん、少し前なら、寧ろ何も思うことなくできたのだろうけれど――今となっては、なんだか、気恥ずかしい。
「――そうしよっか」
 彼女から僕の下腹を、舐め、僕からも、彼女の下腹を舐め、それから、その背中やヒレに残っている腐葉土も舐め取り、それらを終えて、互いを見合った。



 空に広がっていた光の幕は、いつの間にか消え失せて、跡形もなくなっていた。
 ただ、真っ暗な森の中で、ふたり一緒に、帰路を辿った。

----

 彼女は、既に目を覚ましていた。
「おはよ!」
「ははよう」
 小さくなった部屋の中、小さくなった防寒具を纏ったまま、僕は身を起こした。

 部屋の中には、ご主人らや夢食いまで居て、一様に、僕と彼女を見続けていた。ご主人から、喜ぶ色の声を掛けられ、機嫌よく、声を返した。
(進化おめでとう、〝花団子〟くん)
 ――ありがと。
(昨日は楽しかったみたいだね。今まで花団子くん寂しかったもんねー、よかったねー?)
 ――はいはい、引っ込んでて。
(うん、ま、今日のところは、私は引っ込んでるよ)
 いつもと変わらない夢食いの言葉には、いつもと変わらない面倒な色の思考を返す。意識を彼女へと戻し、見上げると、その姿は、嬉々とした、綺麗な笑顔を浮かべていた。
「楽しそうだね、何かあった?」
「うんとねー……フィットが、起きた!」
「何それ!」
 笑いながら、そう呼応する。明るいその様子を見ているだけで、こっちまで、楽しくなってくる。
「それとね、そうそう、〝ミューアン〟に、聞いちゃった! フィットが昔見てた夢の、大きな雌の誰かと、いい感じになる話とかを!」
「……ちょっと?!」
 直後には、少し、衝撃の走ることを言われて、たじろぐ、けれど。
 ――なぁ、夢食い、どういうこと?
(〝夢食い〟は引っ込んでまーす)
 ――ああ、ほんと、てめー。
 でも、まぁ、フローに知られる程度なら、いい、かな、と、思い直した。
「私でも、その夢みたいなこと、できる?」
「できるよ、きっと」
 彼女と共有するのなら、それは、悪いことではない。

「……昨日は、さ、楽しかった。ありがと」
「私も、楽しかった。ありがと」
 互いに見合ったまま、他愛もなく会話を広げると、ふと、彼女が、困ったように視線を外した。
「――私、ね、〝あなた〟のこと、好き……だと、思うんだけど、さ」
 悩みながら、少しずつ、言葉を紡いでいた。
「でも、さ、生まれてすぐに出会って、面倒見てもらってて、みっともない姿とかも、殆ど全部見られてて……なんか、違うんじゃないかな、って、思ったりも、するんだよね」
「……うん?」
 それは、一つの、告白、だった。
「だから、さ、これは、私の&ruby(よま){世迷};い&ruby(ごと){言};かもしれないけれど……こんな私と、これからも、ずっと、一緒に、居て、くれる?」
 ――拒む理由なんて、どこにあろうか。
「うん、一緒に、いようね。……大丈夫、フローの好きって気持ち、すごく伝わってきてるから――だから、こちらこそ、宜しく」
 それを受け入れる趣旨の返事を向けて、それから、数瞬置いて、一言、付け加えた。
「大好きだよ」

 ご主人らの視線がこちらへと向けられている中、どちらともなく首を伸ばし、顔を寄せて、頬と頬を重ね合った。目を瞑り、静かに、静かに、擦り付け合った。
 一緒に居る、という、ただそれだけのことが、何よりの、幸せだった。

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