ポケモン小説wiki
宙の生き物恋をする の変更点


登場人物紹介
&ref{宙の生き物恋をする(差分).jpg};
フレア(マグマラシ♀)
 素直で甘えんぼで恋人思いのロリっこです。

アクア(アリゲイツ♂)
 ヘタレで臆病で恋人思いの職人です。
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注意書き。
この作品にはとりあえず&color(red,red){気持ちの悪い肉塊描写};と&color(red,red){吐き気を催す流血表現};と&color(red,red){カニバリズム等の気持ち悪い肉食表現};と&color(red,red){妊娠、出産等の非常に性嗜好が分かれるシーン};などというわけのわからん官能描写が含まれています。含まれていなかったとしてもそのくらい変な作品であり、とりあえず見た瞬間に顔をゆがませて不快になるかも知れない表現やら描写やらがてんこ盛です。また、盛って無かったとしてもそれに近しい描写がございます。読むときはよく考えて読んでください。それでも俺は読むぜーって方はこのままどうぞ。この作品を読んで不快な気分になったとしても、注意書きを読まなかったとみなし、作者は責任を負いませんので、あくまで自己判断で楽しんでくださいませorz
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作者[[ウロ]]、リクエスト者[[アカガラス]]様
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#contents

**プロローグ [#a165a7c1]

「た、食べないで……俺は、俺は食事じゃない!!」
「しょく……じ?」
 腐った肉塊がまき散らされる空間。臓物をぶちまけたような異臭を鼻で敏感に感じながら、アリゲイツは後ずさる。体中から噴き出す汗はどろりとぬめりを帯びて、心臓の動悸が最高潮にまで達している。体中が恐怖に震え、頭の中で考えていることがどんどん消えて、今までの出来事が瓦斯灯のように浮かんで消える。
 頭で何かおかしいとわかってはいたが、これほどとは思わず、ぞっとする意識を持ちながらも、こんなところまで来てしまった自分の行動を呪う。間違っているとも思えず、誰かがいると思うこともできなかった。しかし飛来したものは確かに無機質な石ころであり、けして生物が出てくるなどということはなかったのだと、彼の頭はそう認識していたが、その意識はすべて綺麗に消え去った。それは間違いだと思うことも、これは間違っていると思うことも、全てが全て、間違っていた。
 目の前にいる生き物はマグマラシだが、まるで別の世界の生き物を見ているようだった。くりくりとした亜麻色の瞳、幼さを残す童顔、少しぷっくりとした幼児体型。俗にいう幼子に近いものであり、身長も彼よりも少し低めだ。そんな子供が、何ゆえに死体の肉を貪り、何ゆえに純粋無垢な瞳を彼に向けるのか、それが彼には理解ができなかった。それはまるで狂気を感じさせる化け物の視線に見え、腰を抜かし、後ずさる。それを不思議に思うのか、食べかけの肉をぐちゃりと口の中で咀嚼しながら。小さく息を吐く、陰湿なぬめりが吐息に混ざり、背筋に怖気が走り、戦慄と同時に小さな声が漏れる、しわがれておし潰れたような呻きが漏れ、抜けた腰が動かない。こんなところで死にたくないという願望も、生への渇望も、全てが全て、目の前のマグマラシの少女が奪い去ってしまうのか。
(俺、俺、まだ作りたいオルゴールがあるのにっ)
 それは小さな望みであり、彼の職業への渇望かもしれない。作りかけのもの、壊れてしまったもの、新しく作るもの、もの作りの職人として未完成を残したままこの世界を外れ、輪廻転生の輪に入ることはどれほど未練が残るものか。それも全てが、目の前の少女に握られているということに怒り、そんな自分に恥入った。
 この状況へ自ら踏み込んでしまったのはほかでもない彼自身であり、その住処に侵入したものは彼女にとっては招かれざる闖入者にすぎない。自分はそこに侵入してしまった。――つまり、異物として処分をされても何の問題もないということになる。
 この場所に来たのはただの気まぐれでも何でもなく、ただ単に友人が失踪した場所がここだったからという理由で、心配だからと思いこの場所に来たが、それは果たして正しいことだったのか、何も言わずに消えてしまえば、それはもしかしたらまずいことだと、なぜ思えなかったのか、そこまで頭がまわることがなかった。そう言ってしまえばそれまでだが、回らない頭ではないはずだった。
 だが、結局はこの場所でこんな目に合っているということは、きっと問題ないと思ってしまったことだろう。自分の鈍麻した危機意識を非常に悔やんだ。この状況で何ができるだろうか、戦うことも、逃げることもできない。恐怖と嗚咽で目が霞んで、目の前の少女が奇妙な物体に見える。
「あな……たは……たべもの?」
「違うっ」
 口の中から見える骨をかみ砕いて、首を傾げる彼女の姿は、可愛らしさなど微塵もない。がりがりと潰す音、ブチブチと筋肉の切れる音、口から脂肪がゆっくりと零れ落ちて、彼女の体を滑っていく。それを拭うこともせずに、彼女は手に持っていた残りの肉の塊を口の中に放り込んで、ブチり、とかみちぎった。肉片が口周りにこびり付いて、鮮血が彼の腹部に付着した。汗と混じり合ったそれは滑りを帯び、水分が増え、重力に逆らうことなくぬるりと垂れた。息遣いが荒くなり、目の焦点が合わなくなる。がちがちと歯を打ち鳴らし、口から泡を吹きだしそうになる。恐怖と戦慄が綯い交ぜになり、もはや目をあけることもできなくなりそうなほどだった。
(助けて)そう願う心は本当に何かに縋るほど強烈で、誰かに傍にいてほしいと思う甘えで、この場所から逃げ出したいという思いである。傍にいる彼女はいまだにこちらを見ているだけだった。くりくりとした亜麻色の双眸がこちらに向くたびに、もう反応のない体がそれでもびくりと反応をしてしまう。本能的な恐怖が拭い去れずに、最後の最後に、本当の最後に――悲鳴にもならない蟲のようなか細い声を上げた。
「誰かぁ――助けてぇ」

**始まりは宙から [#v40a4242]


 近辺の出来事で不思議なニュースを耳にしながらも、自分達は見ているだけ、そう思いながら、アクアは精密な作業を黙々とこなす。指先の動きが奇妙で、まるで指がアリアドスの様にわさわさと動くそれは、奇妙を通り越して気持ち悪いという感覚がするだろう。もちろん、それを誰かに誰何されるわけでもないので、アクアは特に気にもせずに作業を続ける。この年になるまで父に工房の技術を叩きこまれ、今は立派に一人立ち、聞こえはいいかもしれないが、まだまだ未熟者であるということは自他共に認識している。精進という言葉が好きではないが、アクアはその精進という言葉を毎日思い浮かべ、オルゴール作りに育む。
「おい、聞いたかアクア」
 工房のドアを乱雑にあけて、マグマラシのフレアはにこやかに古ぼけたカメラを掲げて、集中の糸を切る。それが彼なのだと割り切って、アクアはなぁにと作業を中断し、フレアの方へ向き直る。
「宇宙隕石だよ、宇宙隕石」今朝のニュースは新聞に目を通していたために覚えていた。一面に大きく、謎の隕石飛来などと書かれれば、嫌でも理解するだろう。「きっと、すげぇ出来事が起こるかもしれないぜ、もしかしたらさ、アクアが今作りたいって言ってるオルゴールの材料が、その隕石だったりしてさ、なっ」
 カメラを左右に揺らして彼はそわそわとしながら楽しそうにそんな話をした。彼の持つカメラが白い窓から漏れる光を反射して、少しだけ目を細める。それに気がついたのか、フレアも持っているカメラを腰のあたりにおいて、笑う。
「悪い」
「ううん、で?宇宙隕石の話は知ってたけど、そんなに騒ぐことだと思ったの?」
「だって不思議じゃないか?」フレアは笑いながら首を傾げた。不思議だが疑問も感じるというのを体で表す。彼の面白い仕草だった。「隕石が落ちたのにさ、轟音も何もしないんだぜ?あれが落ちてきたのは近場だったんだろ?だったらなんで被害が出ないんだよって、そんな感じしないか?」
 ふむ、とアクアは手を顎に当てた。確かに可笑しな話ではあった、隕石が落ちてきたら、その場所にちょっとしたクレーターのようなものができてもおかしくはないものだが、隕石は周りの木々を倒しただけで、特にこれといった被害が出たという情報は入っていない。それは「追突」というよりは「着陸」に近いものがあった。
「だからさ、もしあれが隕石じゃなくって何かの乗り物だったとしたら――なんて噂も立ってるんだ。な、アクアはどう思う?」
「どう思うって言われても」
 アクアは若干返答に窮したような顔を浮かべて、特に興味関心がないと返す。それに対してフレアは気分を害するわけでもなくそうか、と呟いた。
「俺さ、明日あそこに行こうと思うんだ。あの場所にあるものをこのカメラに収めて、新聞社のみんなと記事にする。友人の好だ、なんかオルゴールに使えそうなものがあったら、俺とってくるよ」
 そんなことを言って子供のように笑う彼、駆け出しの新聞記者としてネタになるものは何でも吸収する。そんな一面をアクアはとても誇らしいものだと思った。彼のような若者が、これからの世界を好奇心や愉しさで埋めていってくれるのだろうと思いながら、自分はどうだろうと考える。しかし考えても浮かばなかったのですぐにやめた。
「オルゴールの材料になりそうなものっていうか、どうせ行くならさ、あの近辺でつかそうなものが結構あるんだ、前から目をつけていたんだけれど、行く機会がなかなかなくて、もしいいのなら、これをとってきてもらえないかな」
 アクアはそう言って、小奇麗なメモ用紙を一枚、フレアに差し出した。それは自分の作りたいものを示す一部であり、フレアはちゃっかりしていると思いながらも、しかし危機としてそれを受け取った。
「承ったぞ。じゃ、発見があったらさ、すぐに知らせるよ。なんたって俺は、この街にいち早く情報を伝える新聞記者になる男だからなっ」
「うん、期待してるよ、俺の友達の新聞記者さん」
 お互いに手を打ちあって、微笑む。
 ドアを開けると、白い日差しがまともに顔を照らして、アクアは手で顔を覆った。
「暗い所で作業ばっかりしてると、結構神経に来るから、たまには深呼吸して外に出てみなよ」
 最後に言った言葉を心に秘めて、わかったと笑む。吉報が来るように少しの興味と大きな好奇心を残して、彼の友人はそのカメラを持って、その場所へ行き――そのまま帰ってくることはなかった。


 アクアがその知らせを受けとったのは、八月の半ば。朝だというのに暑い日差しが山から顔を出し、町の地面を炙る。熱気を浴びた家の中でオルゴールの作成をしていたら、ドアがゆっくりと開いて、その知らせを持ってきてくれたのは、彼の同僚のライトだった。ドアを若干控え目にあけてはいってきたが、まばゆいほどの黄を湛えた彼女の体はとてもわかりやすく薄暗い工房に生える。ぜんまいを組み立てる作業を中断し、少し憂いた表情を持つライトに話しかけた。
「いらっしゃい。どうしたの?フレアと喧嘩でもしたの?」
「そのフレアのこと」彼女は心配そうに、しかしどことなしか諦めたように息を吐いた。「戻ってきてないの、一週間たったんだけどね、誰も何も気にも留めないから私心配になっちゃって」そんな風に言ってのける彼女の体は、パリパリと微妙に電気を帯びている、感情の起伏で首周りの突起した毛がしんなりとして、何もかもを諦めてしまった表情のように、首を垂れるその仕草、恐らくは自分の同僚であり、彼氏であった者の身を案じているのだろうが、真相はいかにせずともわかりきっていると言ったような結果もすでに知っている風情だった。
「まさか――フレアが?」
 狭い町とはいえ、住人のすべてと知り合いであったわけではないが、アクアは少なくとも、フレアが健康な男であることも急死するような年齢でないことも了解していた。
「事故――なのかな」
「職場のみんなは無断欠勤が続いてるってだけで、また来たら咎めてやるぞっていうくらい。フレアのことが心配なわけじゃないみたい、もともと彼、元気の塊みたいなポケモンだったし、手をつける必要がないって感じてたんじゃないかなぁって。私が心配だって思っても、やっぱり彼、心配されるの嫌ってる節があったし」
 アクアは頷いて工房の広い場所を歩いて、作りかけ、と書いてある棚に組み立てていたオルゴールを置いた。手を出さないでくださいという注意書きが何とも可笑しな話だった。この工房と店の場所は直結しているが、この工房に入るのは自分だけで、ほかのポケモンが入るのは用事やら朝刊夕刊を届けに来る配達屋さんくらいだった。彼の身の上に不幸が起きたとは考えにくかったが、実際一週間も何の連絡も音沙汰もないのだ、そう考えてもおかしくはないはずだったが、町は何の変わりばえもなく時を進める。それがいいことなのか悪いことなのか、幸を成して彼が不幸に見舞われたという認識は消えている。そのおかげなのか、恐らく探索はしやすいかもしれない。誰も気に咎めないことに少しだけ悲しみを覚えるのと同時に、彼は日向のような存在で、町の人々いそういう印象を与えられているのだと思い、それが羨ましくも思えた。
「俺が探しに行くよ」
「いいの?お仕事は?」
 最近は売れ行きが良好で、多少店を休んだところで大した支障はない。こういうときは自分が言って真実を見極めるべきだと感じた。それは安っぽい正義感からくるものではなく、心配とも少し違うような気がした。わからない感情を抱えたまま、大丈夫と無理に笑みを作る。
 そんな彼を見て、ライトもくすりと破顔した。
「わかったわ、じゃあ私は仕事に行くから、もし何かあったら連絡してほしいな」
「まかせて」
 なんとも当てにならないような返事を返して、ライトが出て行ったあとに、少し身支度を整えると、朝靄の流れる街並みを眺めて息を吐く。日差しが暑くならないうちにと、炙られる体から滲み始める汗をさっと吹き飛ばすように額の粒を払いのけ、息をつく。立ち尽くすのがあまり快く思わず、東の山の端から登り始めた火を眺めるのも惜しみ、足を動かす。
 足早に進むべき場所は――謎の物質が飛来した山の中。結局は山の方へ向かうため、太陽の日差しは彼をゆっくりと炙り出す。強い朝陽が鮮やかな陰影をつけている。
 眩しくて俯き、小走りの足を一気に加速させる。昔よくやっていたことだったが、今やると体力的にもつだろうかなどと老人のようなことを考える、そう考えることが思考の衰退を表しているような気がして、少し打ちのめされたような気分になった。ああ、俺はこんなにも弱くなってしまったなぁと感慨に耽りながらも、足は速まる。その過程で何か自分もまだまだ捨てたものではないと考え、安堵する自分もいて、不可思議な調率が心の中で揺れ動く。
 子供の頃は泥棒になろうかと本気で考えていたものだ、とアクアは苦笑した。その頃はまだ時代が未発達な時期だったためか、泥棒が大っぴらに行われていた時代だ。実際、アクアの父が経営していたオルゴールの店も襲われて、いくつかオルゴールが盗まれていた。
 子供であった彼は当初それがどのような参事かわからずに、泥棒というものに直向きに憧れたものだった。世間を騒がす暗躍する影というものは子供にとってはヒーローのようなものに映るのかも知れない。当時の自分はそのヒーローになろうと華麗な真似をしてみたり、真夜中にこっそりとオルゴールの位置を入れ替えたりして感激していたものだった。
 今となっては良き思い出として終わるかもしれないが、それが現実になってしまったときに、深い怒りと大きな悲しみを覚えた彼は、それでよかったのだと自覚するにいたった。以来、泥棒や強盗の類は見つけたらすぐに警察に知らせて自分も捕まえられるなら積極的に行動するようになったのは、進歩の証だと自分を褒めるに至った。
 足を進めるにつれて、嫌な空気がたまっていく。余計なことを感が手思考が鈍ってしまったのではないかと思ったが、それ以外の何かを微々たるものだが、しかし確実に感じていた。山の入り口付近にたどり着いたときには、薄暗さが山の中にたまっているような印象を受けて、背筋に温い風が吹き、嫌に背中を丸めた。
(嫌な空気)肌で感じながら、滑り付くような湿気を感じる。生臭い臭いを少しだけ嗅ぎ取ることができ。腐臭に近いものが木々の周りを漂っている。(嫌な臭い)何かを齧り、しゃぶる様な音まで聞こえ、不快感が徐々に蓄積していく。何を感じ取っているのか、この場所に何を感じるのかまでは理解できなかったが、隕石の飛来した山というのは、こうも恐ろしい場所にとり変わってしまったのかと身を震わせる。
 薄暗い靄のかかった杣道を緩く進み続けると、目の前に見慣れたものがあった。それは視線を移せばよくわかる、一週間前にフレアに渡したメモだった。自分の字は血糊で滲んでしまってよく見えないが、間違いなくそれはフレアに渡したものに相違なかった。
「なんで、血が……」
 心が締め付けられる。逼迫するようにあたりを見回し、急に寂寞とした思いがつのった。ぞっとするよりも先に、メモを拾い上げ、土を払う、まだ生乾きだったのか、血糊は紙の上を滑り、押し広げられた後に、ゆっくりとアクアの指先に付着した。姿をくらまし、隠遁した友人の軌跡を追うように、この奥に何かがあるのだろうと感じる。
「フレア」
 誰にいうわけでもなく呟いたその言葉を守りの呪詛のように口内に留め、飲み込む。生き物として呪いに縋るのはどうかと思ったが、特に宗教にのめり込んでいるわけでもなければ、別段神様の存在を信じていないわけではない。時たまに縋りたくなる呪いのようなものがあるだけで、普段はそこまで何かに祈りをささげるという習慣が存在しないが、今は縋れる形の無いものに感謝した。メモを握りしめて、体の震えを抑える。奥に進めば進むほどに、嫌な空気が蓄積する。体の震えが治まらなくなり、自分が臆病であることに感謝した。この調子ならば、もし危ないと感じることができるのなら、すぐにでも逃げ遂せることができるだろう。
 草の根をかき分けて杣道を足早に進むと、それは確かに存在した――跡があった。
(何もない?)
 開けた空間に、木々がなぎ倒された後はあるが、その場所に落ちた隕石らしきものは存在しなかった。まるで一つ丸ごと形を変えて消えたような感覚だった。不審に思い周りを見渡すと、地面にまかれた大量の血痕に目が映る。
「なん――」
 言いかけて、とっさに後退った。撒かれてぬめりを帯び、光沢しててらてらと光る血痕の先に続く、生臭い異臭が鼻をつき、口を押さえて半歩下がった。纏わりつく異臭が顔を打つように、体が警笛を鳴らしていた。
 土の中にしみ込んだ赤黒い染みが広がった先に、何かの音が聞こえる、しゃぶるような音、何かをかみ砕く不快な音、啜りとるようなずる、とした異音。何もかもが静寂の山道に響き渡り、不協和音となる。染みの上に微生物がたかり、風に驚いたように舞い散り、そしてまた戻っていく。
(……フレア?)
 軽く息を詰めて、恐る恐る足を進める。血痕を踏むと、ぐちゃり、という音と一緒に何かが込み上げて、吐きそうになった。体からは知る寒気と戦慄を抑えながら、朽ちかけた茂みをかき分けて、遅々として進む。誰かが押しやったように開けた草木を分け進み、枯葉や抜かれた雑草を踏み倒しながら、嫌に散らかっているという印象を受けた。それは自然に起こったことよりも、人為的に起こったような印象だった。
「フレア」読んでみるが、特に返事はない。猛烈な腐臭を感じ取り、鼻から口を思わず左手で覆う。腐臭が喉の奥に流れ込んできて、咳こみそうになった。自然の場にあるはずの無いものを見た衝撃。腐臭と相まって吐き気がする。比較的大きな雑草は、抜かれたのと同時に、滑った粘液か何かが付着してぬるりとした光沢を放った。それが何なのかわからずに周りを警戒しながら進むと、何かわけのわからない生暖かいものを踏んだ。
「ひっ」
 思わず声をあげて、腐臭と一緒に陰湿な空気を吸い込む。吐き気が促進して、ぐらつく頭を押さえながらも、何とか息をつく。踏んだものを確認すると、びっしりと蛆がたかって、眥が裂けるほどそれを見やった。腐ったその物体は、手に見え、足に見えた。蛆の隙間から見えるクリーム色の体色が、不安をさらに増大させた。
「フレア、おい!」
 大声を上げたが、鳥ポケモン達がそれに驚いて飛び去っただけだった。
 アクアは後ずさる。血の気が引いているのが自分でもわかった。
 何かがあったのだ。そうでなければ、彼が戻ってこないはずがない。幾分のものなのか、一瞥しただけではわからない。いつあんな状態になったのかは、専門医に聞かなければ判別すらできないだろう。原形をとどめているものがなかったからかもしれないし、もしかしたら何か違うものを見ていたのかもしれなかった。
(何か、何かいる?)足元から震えが立ち昇ってきた。(山の中にいる理性を失ったポケモンが、我が物顔で山を荒らしている)
「――まさか」
 別段山にポケモンが住むこと自体はおかしくはない。生き物というのはどこにでも環境を適応できれば生きることができるからだ。街になじむ者もいれば、野生として生きる者もいる。その大半は理性というものが欠落しているが、まれに理性的に行動し、悪意をまき散らすこともある。それを考えただけで、胃の腑から恐怖が湧き上がる。これは悪意ある行動か、それとも野生の奔流か。知らないうちに警戒を強め、周りを見渡す。飛び出してくるものがいないか、十分に注意をして、何度も手を握りこんだ。
 フレア、と幾度も声を上げながら、見えない道を進む。薄暗闇の中で刺す陽は異常な位不気味で、この山だけが別世界のようだった。草木が生い茂った道を進む枯れた音に混ざり合う気味の悪い音が、恐怖心を加速させる、音が近づくにつれて、わざと茂みの方へ進み、自分の姿を晒そうとしないのは恐怖からか、それとも別の何かか。アクアにはそれがわからない。
 音が近づいて、その姿が映し出される。アクアは自分の体を覆い隠すような茂みの中に隠れて、ひらけた空間の様子を窺った。空間を見通すことができるその場所で静かに周りを見渡しながら、心臓の動悸を抑えて、目尻にたまるものを抑える。
 その生き物は散らばった肉塊を貪っていた。目はほとんど虚ろで、まるで意識がともっていない白濁とした死体の目。瞬きもなく、赤黒く変色した右腕に握られたものを貪る。その行動にほんのわずかな躊躇すら感じられない。そして――腐臭。
 フレア、と声をあげてしまった。その生き物の容姿がまさしく、フレアに相違ないことを理解してしまったからこそだったのかもしれない。声を聞いて、その生き物がぴくり、と反応した。ゆっくりとこちらに目線を合わせてきた。隠れていてもその目を見たときに、心臓が跳ね上がり、体を飛び上がらせ、姿を曝してしまった。白濁とした目は徐々に光を帯び、透き通るような亜麻色に変わる。そのくりくりとした愛らしい相貌で、何かの肉を食い破りながら、こちらを向いて首を傾げる。
「うー?」
 その生き物が口から言葉ともならない何かの呻きを吐いた。周りには散乱した茶色い粘り気のある液体が漏れて、土と混ざり合い、おぞましい色に変色し、溶けあっているように見えた。あちこちの茂みに擦り付けたような染みが点在し、その染みの上にも無数の微生物がたかり、蠢いている。
 呆然と見つめている目の前で、その生き物が、口に入っていた眼球を食い潰す。ぐちゃり、という音が耳にこびり付く。
 アクアは飛び退る。悲鳴はおろか、声も出ない。到底近づくことはできずに、アクアは府抜けたような頼りない脚を励まして逃げようとした。
 それがその生き物との出会いだった。


**きみはともだち [#x417c8d6]


 恐怖で声が出ない。か細い叫びもほぼ陰湿な情景に溶け込み、だれにも聞こえない。恐怖をし、絶望のようなものがのしかかった時、その生き物が、ゆっくりと首を傾けて、喋った。
「あ……あ……」
「……?」
「あく……あくあ?」
 自分の名を呼んだということに驚愕する間もなく、その生き物は、持っていたし肉の腕を放り出し、アクアの体に触れあう、粘膜が体に付着したような不快感が一瞬走り、醜悪な臭いが脳を駆け巡ったが、ふわり、と汚れていない体毛が触れたときに、この生物の無邪気な笑顔がアクアの視界に入り込む。
「あくあ!!あくあ!!」
「君は……俺を知ってるの」
 知っている、というよりは、何かが彼女の中でアクアを認識しているのだろう。亜麻色の瞳から漏れる光の色は、とても美しく、フレアを思い起こす。アクアはそれを思い出したように、フレアの面影を残す少女から離れると、周りを見渡した。彼女が食いついていたものが、違うものであるという希望を持ち、周りと散策する。視線を動かし、体に走る震えもしっかりと押さえこみ、生唾を飲み下して、醜悪な臭いの中、目を張り巡らせていると――
――見た。それは確かに彼が持っていたもので、血と土に汚れてはいたが。その反射するような光は忘れようがなかった。
(フレアの持ってた……カメラ)
 それはひどく懐かしいものに見えて、そしてそれを見たときに、ひどい現実を突きつけられたような気がした。土と血に塗れたそれを拾い上げると、画面が割れて液晶が漏れていた。中を確認すると、フィルムだけはまだ生きていたのか。取り出すフィルムはすべて無事だった。
 それは彼が安い月給を貯蓄したもので勝った、初めての自分のカメラだったという。今ではポラロイドカメラのようにすぐに現像をしてくれるカメラが出回っている時代に、古臭いカメラを持っているものだと彼の同僚はポラロイドを進めたが、フレアは断として自分が初めて買ったカメラを使うことに拘った。ポラロイドを使うことは彼の思いがどこか違う処へ行ってしまうからなのかもしれない、だが、今回はポラロイドだったら、と思わずにはいられなかった。
「フレア……君は……」
 悪臭がまき散らされる中、頬に温いものが伝う。カメラのすぐ傍にあった、血と肉の塊、それはとても見れるものではなく、原形というものをとどめていないように見えた。とどめていたら、恐らく吐瀉物をまき散らしていたかもしれない。それでも口を抑えて、嗚咽を漏らす。体中に走る戦慄は、哀愁のそれが混ざり合い、わけのわからない怖気を加速させる。その行動を不思議そうに、彼によく似たマグマラシの少女は、首を傾げながら見つめる。
(この子が……フレアをっ……)
 まだそうときまったわけではないし、そもそも彼女が食い荒らしていたものが本当にマグマラシだったとは思えなかった。だが、臓物と肉をぶちまけた塊の山から覗いた、クリーム色の毛を見ると、やはり、という思いが蓄積してしまうのはせせこましい被害妄想とは言い切れなかった。
「あくあ、あくあ」
「俺の名前を、呼ぶなっ!!!」
 大きな声を出して、思い切り振りかえる。恐怖を感じていないのか、体を硬直させはしたが、なぜ怒鳴られたのかがわからないような、きょとんと首を傾げて、それでもやはり、こちらを見て、血まみれの口を吊り上げて、笑う。
「あくあ……」
「お前が、お前が、フレアを!!」
「うー?」
 拳を握りしめて、歯を打ち鳴らす。体から立ち上る怒りを感じ取ったのか、少しだけマグマラシは体を動かし、後ずさった。何か困るような顔をしていたが、その顔が友人のそれを思い起こさせて、体から立ち上る怒りを鈍麻させる。
 彼の特徴は亜麻色の瞳だった。それはコンプレックスというよりも、彼の誇りのようなものだった。マグマラシは真紅の透き通る瞳をしているが、彼は親のポケモンの遺伝が濃かったのか、亜麻色の瞳を引き継いだ。それが自分の誇りであり、他人とは違うところだ、と本人は自慢げに話していた。
 容姿が子供っぽく、言動も子離れしているとは思えなかった彼が、唯一自慢できる瞳の色。彼女の姿は、まさに生きた友人を投影した――雌だった。
(なんで)アクアは握り拳を、といた。(なんでフレアの姿をしてるんだ)それが彼にとって最大級の戸惑いであり、そして彼自身の心を躊躇させ、結局は行動を制止した。殺したいほど憎らしい相手が、その姿を投影し、無邪気にこちらに笑いかける。それは何よりも効果的で、誰よりも恐ろしい攻撃だった。
「……畜生」
 アクアは死にたくないという想いよりも、自分の踏ん切りをつけることができない心を呪った。彼女は同類を食っている化け物だ。人食行為自体が規制されているわけではないが、そんなことをするのは畜生の行動だ。理性ある生命体である自分達は――そう思って、それがいかに無意味な思考かを理解した。
 いつからポケモンは木の実や果物だけを食べるようになったのかはわからない。肉を食らうことに対して抵抗があるのかどうか、それはわからない、しかし人食という行動は、本能がそうさせている節すらあった。おそらくどこかの戦場では、死体の肉を食い漁らなければ命を繋ぐことすら難しいのかもしれないし、そうしなければいけない時があるのかも知れない。それは当たり前であり、間違った行動ではない。それが今目の前で行われているだけだ。あくまで公平に見たが、アクアはそれがもう限界だった。体の力を抜いて、恐怖と終焉に身を預ける。それは彼女に食われる、という恐怖よりも先に、友人を重ねて、彼女に危害を加えることを躊躇ってしまった自分への、罰なのかも知れなかった。
(ごめんね……フレア)
 心の中でそう思うことは、多少なりとも自分への罪を軽いものにできるのだろうか、そう思って、もう何もかもを放棄する。痛みを生臭さの中、恐らく自分の人生は幕を閉じるのだろうと、頭が理解した。
「もう、何もしたくない」
「あくあ?」
「君が殺したっていう事実も、君が食ったという事実も、もういい、俺は、君に食われて終わりだ」
 彼のほんのりとした面影も全て、彼女が奪い去った。なぜそんな姿をしているのか、彼の誇りを、なぜ彼女は当然のように持っているのか、それすらも分からず、ただ涙を流す。訪れる終焉を待ち望んだが、それは一向に訪れなかった。
「……」
「あくあ!!あくあ!!」
 何度も何度も彼女は自分の名前を呼んで、笑う。
「あくあ……あくあ、とも……だち……ともだち!!あくあ!!ともだち!!」
 体が硬直した、腹部にふさりと伝わった彼女の体毛の感触、血まみれの手で抱きついて、嬉しそうに頬ずりをする彼女の姿。アクアは言葉が出せなかった。なぜ彼女は自分に対して、「友達」という単語を発したのか、本能だけで生きている生き物とは、根本的に何かが違う印象を受けた。彼女は何なのか、ポケモンであることに間違いはないが、なぜ隕石が落ちた場所で、死体の肉を貪り、フレアの壊れたカメラが落ちていたのか、ごちゃごちゃとした疑問が浮かび上がり、自分は真実を知る権利があるのだと、もう一度体に力が入り込んだ。
「そうだ、あきらめちゃダメなんだ」嬉しそうにすり寄る彼女をやさしく抱きしめる。それだけで高い声を出して、彼女は嬉しそうにもう一度すり寄る。彼女のこともそうだが、なぜフレアのカメラは無事だったのか、もし彼女が何かをしたのなら、フィルムが無事であるはずがない。「真実を知ることが……フレアへの最後のお返しなんだ」
 立ち上がると、彼女は上目づかいで不思議そうに見つめてくる。少し待って、というとほほえんだ。それが伝わったかどうかはさておいて、アクアは穴を掘るを使い、深い穴を作る。触るのには抵抗がある、しかし、この惨状をどうにか隠蔽しなければ、やがて大ごとになるだろう。そうしたら、唯一の手掛かりを握るこの少女も一瞬で手から離れてしまう。
 生唾を飲み下し、意を決すると、血と肉の塊を思い切り抱きかかえる。粘り気のある肉の生暖かい感触、腹から下腹部までかかって伝い、滴る血の生臭い匂い。茶色い液体が混ざり合い、吐きそうな匂いが鼻をつく。顔を歪めて、とにかく早く、と思い、掘った穴に肉を全てほうり捨てた。それをしたときに、彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。それは食事を棄てられたことに対する憐憫かも知れなかった。そんな憐れみには目もくれず、血まみれになった体をみずでっぽうで吹き落とす。掘った穴に土をかぶせ、ならす。掘った場所が分からないように、周りの地面の表面を爪を使いを耕す。ある程度の作業が終わると、もう一度水をかけて、地面を濡らす。体についた土も洗い落して、改めて彼女を見る。一連の行動を通して、まるで自分がやったかのような罪悪感がのしかかった。
「君が誰で、どんなポケモンかはわからないけど、君はフレアが失踪した場所にいた証人だ。君が犯人かもわからないけど、俺は真実を知りたい。だから、君は教えてほしい、少しずつでもいい、全てを」
 そういうと、笑う。彼女は笑顔を見せて、何度も何度もアクアの名前を呼んだ。恐らく彼女は何もわからない、食べること以外何もわからない。だが、彼女は確かに自分の名前を呼び、自分を「友達」と呼んだ。それは間違いのない事実で、何かの暗号のように嫌に曖昧模糊としていた。それでも、とアクアは意を決したように言葉を吐き出す。
「わからなくてもいい、俺が全てをわかるまで、君を守る。だから教えてほしいんだ――君の名前を」
「なま?」
 名前の概念がわからないのか、それともわからないふりをしているのかわからない、首を傾げて笑う彼女は何なのかわからないまま、もう一度アクアの名前を呼んだ。無邪気に笑う子供のような彼女を見て、アクアは少しだけ微笑んだ。
「名前がわからないなら、僕が君の名前をつけてあげる。思い出すまでは、君はその名前でいて。――いいよね、フレア」
「ふれ……あ?」
「そう、フレア。君の名前だ、フレア」
 言って、自分の気持ちを引き締めた。アクアも分かっている。これは冒瀆だ。死者に対しての、そして友人に対しての冒瀆だ。だが、それでも亜麻色の瞳をもつ彼女のことを、フレア以外の名前で呼びたくはなかった。それは彼の女々しさであり、彼の思い入れでもあった。
「なまえ……ふれあ……」フレアは自分の名を呼び返し、また笑う。「ふれあ!!ふれあ!!あくあ!!ふれあ!!ふれあ、あくあ、ともだち!!」
「うん、そうだよ……」
「ともだち!!ともだち!!あくあ、ふれあ、ともだち!!」
「俺たちは――友達だ」


**ともだちなのに…… [#dfbc2355]


 街に帰ってくる前までに、彼女の体に水をかけて綺麗にする、それはばれないようにというよりも、衛生上の問題の方が大きい。病原菌や何かはほとんど腐乱したものから入り込むことが多い、肉を貪り食っていた彼女に果たしてその概念があるのかどうかはわからないが、不思議そうにあたりを見回すフレアの手を引きながら、自分の仕事場であり床であるオルゴール屋の裏部屋についたときはあたりはすっかり朝靄の陰りを取り払い、陽光が見えていた。
 アクアは自分の顔を鏡で見て重く沈んだ息を吐いた。疲労の色が張り付き、土と血の汚れが体からまだ完全に取り払われていない。何かに憑かれたような瞳は半濁とし、透き通るような色を湛えていない。
(疲れてるんだ)
 そう思うしかなかった。彼女のことを考えていることもあったし、自分の走馬灯を思い浮かべるように、寂寞とした思いにかられた死生観を陽の登る時間帯から体験したせいか、若干顔つきがふけ込んだように見える。
「あくあー?」
「なんでもないよ。ほら、こっち」
 アクアはフレアの言葉に自嘲気味に笑って見せる。このあけどない少女が自分を殺そうとしたんだとは思いもよらない。もしかしたら彼女にこちらのことを同行する意思はなかったかもしれない。だからと言って、彼女のしでかしたことが帳消しになると言えば、それははいそうですと言えないところがあった。
「君から真実を聞きだす。それで君が間違っていれば、俺は君にしかるべき処置を施すよ」
「しか?」
 何のことかわからないような顔をして、きゃっきゃと無邪気に笑う。
「しか!しか!しか!」
 先ほどは言葉を理解しているようなそぶりを見せていたものの、今では赤子のように同じ言葉を繰り返すのみ、彼女の理解や知識というものはもしかしたら。乳児のそれなのだろうか、と思う。記憶をなくし、行動や言葉もなくしてしまったのだろうか、そう思うと、彼女のとった原始的な行動は本能に従ったものなのかと推測できる。それが間違っているとは一概には言えないが、食べるものは確実に間違っていると認識した。
(そうだ、その前に、彼女に教えてあげないと)また間違いを犯してはならないように、強く言い聞かせなければいけない。もし彼女がまた別のポケモンに対して人食行為を行おうものなら、今度こそ取り返しのつかないことになる。死体の肉だから良かったものの――そう思い、違う、と息をついた。
「どんなものでも、生きているポケモンにそんな扱いをするなんて、だめだ」
「うー?」
 首を傾げるフレアの肩を軽くつかむと、驚いたようにくりくりとした亜麻色の瞳がぴく、と丸くなる。瞳の瞳孔が収縮して、細いものを見る。驚きの感情が口よりも先に瞳に映る。それはフレアの目の色をしていて、彼のことを思い起こして少し懐かしむようなものを見ていた。常日頃から見ていた彼の仕草が彼女にそのまま表れているようで、少し苛立ちも覚えてしまった。そんな自分に恥じ入り、そんな感情を思い浮かべることにもっと恥じた。
「いいかい、僕のことを友達だと思っているのなら、もうこれ以上ポケモンを食べないでほしい」
「ぽけ?」
「今はまだわからないなら、それでいいけれども、動くものを食べたり、殺したりしたらだめだ。これだけは、絶対に許容できることじゃないから」
「うご?きょ?」
 言葉を鵜呑みにしないように、懇切丁寧に説明したい気分に駆られたが、彼女には言語というものがまるで存在しない。というよりも、言葉を認識するという思いが欠如しているのか、それとも本当にこれ以上の言葉を持たないのか、同じ言葉を繰り返すのみ、だがしかし、彼女ははっきりと笑って云ったのだ。フレアとアクア、友達だと。
「俺がやめてほしいと思ったことは、絶対にしないでほしい。言葉が伝わらないのは、何とかしてあげる、だけど、友達だから、フレアにそんなことを知って、捕食の味を占めてほしくない」
「とも……だち……ともだち、ふれあ、あくあ、ともだち」
 そう思ってくれるだけでも、まだ救いがあるとアクアは自嘲気味にほほ笑んで、ゆっくりとフレアの手を引いた。まだ幼さの残る手のひらや、すらりとした体に絶妙に膨らんだ腰のライン、ふかふかの体毛に、くりくりとした瞳に浮かぶ亜麻色。等身は縮んでしまっていても、彼の面影をそのまま残して、雌になったという意識が、アクアの頭の中に大きく入っていた。
(彼女は違うんだ……フレアじゃあない)わかっていたとしても、意識はフレアの方へ行ってしまう。それはアクア自身、昔一度だけでも、フレアがもし異性だったらなどという、妄想逞しいふざけた発言を口溢したことがあった。彼は誰に対しても明るく、そして料理もでき、掃除も洗濯も、家庭的であり、温厚で人懐っこい、視野も広く、物事を広く長く見ることができる明晰な思考、それらはすべて彼を形成するものであり、コンプレックスの小さな身長も、亜麻色の瞳すらも自分の特徴として人に見せつけ、それを自分の誇りとしていた彼。それは自分の理想像を自分で描き、それを人にひけらかすことなく抑えるすべを持ち、他人に触れあえる優しさをもった理想の友達。妬むよりも羨むよりも、そんなフレアと一緒にいられることが誇りだったアクアは、いつの間にかそんな感情を抱いていたことに気がつくのに、大変な時間を有していた。もしも、彼が彼女だったら、男女の壁を超える、それだけはやってはいけない禁忌、彼もそんな気はないだろうし、ライトという素敵な女性がいた。だからこそこの感情は自分が異常であると認めたうえで、儚い妄想と終わるものである――はずだった。(だけれども、彼は、彼女になった)
 それがどれほど下らなく、どれほど無知蒙昧な意識でそう認識してるのかはわかっている。わかっていても、フレアを見ていると、友人の面影を残し、そして性別が変わった彼女、自分のことを友達と言ってくれた彼女、そう思えば思うほどに、自分の思いは揺れ動く。
 それはひどく穢れていて、そして同時に願いかなったときの思いの丈が大きく、強い。間違っている、歪んでいると思っている、彼を殺したかもしれない、食ったかもしれない、血まみれで無邪気に笑い、肉を貪るその姿は化け物のそれにしか映らない、だが今は違う、亜麻色の瞳がこちらに笑いかけ、きゃっきゃとはにかむその姿をフレアの面影と重ねて、一致することに心臓が跳ね上がる。
(彼女は……だめだ、僕は――彼女のことを思って、欲情をっ)
 してはいけないと思いつつも、彼の面影を残しつつ、自分の下卑た欲望を忠実に再現した彼女の姿を見て、なんの思いもなく興奮してしまう自分がこの先に現れるような気がして、ひどく不快な思いがいの底から湧きあがる。吐きそうになり口に手をついて、首を横に振る。一連の仕草を見ていたフレアが口の端を吊り上げて破顔する。
「あくあ、あくあ」
「ご、ごめん、さ、こっちだよ」
 無邪気さを心から発散しているフレアの手を引いて、彼女を自分の家の浴槽に入れさせる。二人も入ればそれは狭い印象を受けるが、フレアは何ら気にする様子もなく、不思議なものを見るように浴槽の壁を叩いたり床に両手をついて喜んでいる。
「フレアと俺はまだ血や土の汚れが付いてるからね、ここで綺麗にするの」
「よごれ?きれい?」
「体を洗うの」
「からだ……ふれあ、あくあ、からだ、きれい、きれい!!」
 覚えたての言葉を意味も知らずに繰り返す彼女を見て、幼さの中にも純粋な心を持ったその姿を見て、アクアは自分の心がどれだけ濁っているのかを再認識して、胃の中に黒いものが垂れこめた。それは意識的でないにせよ、無意識にそう思ってしまったことへの罰、わかっていながらもそう考えてしまう罪、生き物として意識的に間違っていたとしても、そう思ってしまう心の断罪、そういう難しいものが綯い交ぜになるような感覚に似ている。
「そうだね、奇麗にしてあげるから、ちょっと動かないでね」
 フレアの両脇をゆっくりとつかむと、ふさふさの毛に隠れた柔らかい肉の感触が伝わって、どきりと心臓が跳ねる。自分自身に言い聞かせたとしても彼女から伝わるものは大きく、律する者の心を揺り動かす。
(早く終わらせよう)
 兎にも角にも、とアクアはかぶりを振って、お湯の蛇口を捻る。温かいものが流れだし、湿り気を帯びた浴槽内がゆっくりと温められていった。蛇口から出てくるぬるま湯に多少驚きはしたものの、フレアは温かいお湯を体に浴びてご機嫌な様子だった。
「動かないでね、洗うから」
「あらう、あらうー」
 フレアはきゃっきゃと燥いだ声をあげて、両手をパタパタと動かした、動かないでくれと言った言葉に対して動くのは心の中のどこかに反骨精神でもあるのだろうかとアクアは苦笑交じりに、石鹸を手に取り、乾いたタオルを濡らす。削るように石鹸を擦り付け、泡立たせる。ゆっくりと、しかし確実に増えていく不思議な動作を鏡越しに見ながら、フレアは興味深そうに鏡に見入っていた。
「不思議かな?」
「ふしぎ?」
「そう、こういうのを、人はみんな不思議っていうんだ」
「ふしぎ?」
「不思議っていうのはね、生き物が持ってる当たり前の感情だよ。フレアがなんであんな場所にいたのか、俺はすごく不思議だ」
「ふしぎー、ふれあも、ふしぎー」
 不思議の意味はわかるのだろうか、などと思いながらも、すっかり泡だらけになったタオルをゆっくりと彼女の脇の下に持ってくる、湿った水音と泡がはじける飛沫、ぬるりと滴る滑り。ゆっくりと体をなぞるように動かし始めると、フレアがひくり、と体を跳ね上がらせる。
「あんっ」
「ご、ごめっ――」
 艶やかな声を漏らして、亜麻色の双眸がこちらをとらえる。アクアは平静を装ったが、心はひどく乱れた。自分が擦り付けた物のせいで、彼女に何か敏感な感情を掘り起こしてしまったのではないかと、不安になるのと同時に、ひどく淫猥な心が膨れ上がって、それが彼の理性を傷つける、反吐が出る意識と、苛立ちが込み上げて、喉の奥に張り付く、目がちりちりと焼けるようで、ひどく気分が悪かった。
「うー……」
 困ったような視線を向けるフレアは、少しだけ頬を紅色に染めていた。なにやら羞恥の感情が湧いたのか、それともアクアの不備に対して何かを誰何するのか、それがわからないまま再び鏡に視線を移してしまい、少し俯いた。それがひどく間違いを犯してしまったようで、アクアは罪悪感がのしかかったまま、ばんざいの状態を保ったフレアの耳元で、小さく零す。
「ごめんね」
 彼女に伝わったのかどうかはわからなかったが、アクアはそれでいいと思った。これ以上の言葉を語りたくないこともある、それ以上に、この空気から抜け出したいと思う節もあったのかも知れない。濡れそぼった毛に再度気泡に塗れたタオルを擦りつけ、ゆっくりと動かしていく、脇から背中へと動かすたびに、腰回りの肉つきのいい部分へ体を寄せてしまう、滑った体温の上昇を感じ取り、少し震えて俯く彼女の姿を鏡越しから肉眼へと確認するその仕草、全てを見て、興奮してしまう自分。アクアは自制心と本能で葛藤した。
(きれいな肌)艶やかな毛並みは一もうの乱れもなく整った美しさ、その美しさをひき立てるあけどないフレアの顔つき、不釣り合いの調和という言葉が似合う、少し幼児体型の彼女の美しい体の通った線を眺めて、鼻息を荒くしてしまう自分を抑えつけながら、すっかり泡まみれになった背中からようやく前の方へと手を動かす。己の下半身についている愚息が少しずつその存在を主張し始め、どっと体から汗が噴き出した。
(まずい)興奮している、欲情している、そんな罪悪感、だれに見られるわけでもないのに、目の前にいる少女に対してそんな感情を体が制御できない不文律、壊れていると思う、狂っていると思う。
 なぜ、一目見ただけの少女に、フレアの面影を移し、そんな彼女に欲情してしまうのか、結局の処、意識では違うと思っても、心のどこかでこう合って欲しい、こうなればいい、という思いが、今目の前に具現化している、フレアという固定概念を彼女に押し付けて、自分の欲望のはけ口にしようとしている、言葉や理性で違うと否定しても、本能に従うからだが、今それを主張し始めていた。
(ダメだ、おさまれ)
 そう願ったとしても、手は休まることを知らず、彼女の全身を舐めるように弄っている、その動かし方、心臓の脈動、汗の臭い、水の音、全てが全て、おかしくなる。自分の行動に抑制が利かず、小さく漏れるフレアの喘ぎが、理性を粉々にしていく……
「あく……あ……ぅんっ」
(違う、僕は、違う)違うと心で唱えても、体の方で直立する愚息は止められない。理性など、性的興奮による本能の増幅の前ではどれだけ脆いものか、ぐ、と彼女のお尻の方に当たるものは、固く、そしてびくん、と脈を打った。
「うぁっ」
 フレアが呻いた。それは喉の奥から漏れてかすれた声のようにも聞こえたが、アクアにはそれが魅力的な嬌声のようにしか聞こえなかった。
「僕は……っ!!」
 気がつくと、フレアの体を強く掴んでいたことに気がついた、慌てて両手を話し、ゆっくりとタオルを握り直す、泡が潰れて、飛沫が宙を舞う。フレアはもうこちらを見ることがなかった、ただ肩を上下させて、荒い息を整えているように見えた。
 そうではなかった、彼女の息は荒さを増していき、こちらを振り向いた。――目が、亜麻色の双眸の奥に、強い黒が見えた。それが自分だと気づいたとき、アクアはフレアを見上げていた。ほんのりと紅潮した頬、口からどろりと垂れる唾液が顔にかかる。押し倒された、そう思った次に、彼女の口が大きく空いた。
「っ……」
 小さな犬歯が少し見えて、背筋が寒くなる、それでも、下の愚息はそれで興奮したのか、さらに硬直した。理性が本能を押し戻したとしても、一部は抗っていない、性嗜好を主張するかのように直立した愚息の亀頭が、彼女の臍の部分にゆるりと当たった、湿った毛が擦れて、多少の快感が脳にしみ込んだ。
(た、食べられるっ)
 意識がそう認識した。大きく口をあけて、近づく彼女の瞳の動向は収縮していた。死人のそれを思わせる目の色は濁り、亜麻色の瞳は黒いものを湛えている。知らないうちに汗が流れて、戦慄する。
「だ、ダメ……やめろ、やめろ……フレアっ!!」
「うぅ……うぅぅぅうう」
 ぼたぼたと零れ落ちる唾液の量は尋常のそれではなかった。食事を中断されて唸る子供のように、犬歯を震わせ、顔を近づける。恐怖と興奮が綯い交ぜになり、体中が震える。顔がゆっくりと近づいてくる恐怖、慰撫する感情も、相手を慮る心もない、瞳の中に虚無が巣食う化け物のそれ、フレアの心は不安定のまま、先ほどの行動の返しのように、指先を思い切りアクアのわきに指した。肉が食い込み、血の飛沫が飛ぶ、痛みと恐怖で、顔が歪んだ。
「痛っ!!」
「あくあ……あくあ……たべ……もの」
「や、やめろ、ダメだ、違う、違うっ」絶叫するように叫んで、体中の滑り付いたものを弾き飛ばすように彼女を押し戻そうとする、差し込まれた指を強く動かされて、掠れた呻きが漏れ、体の力が抜ける。恐怖と痛みが力を抜かせて、されるがままの状態になってしまうことに、抵抗を覚える事すらできない、意識が朦朧として、目の前のフレアがぼやけた。「やめ……」
「うー」
 犬歯が滑りを帯びててかり、光を反射させる。ゆっくりと口をあける仕草、噛みつかれる、食いちぎられる、そんな恐怖が脳裏を過る、それとは真逆に、アクアの愚息は極度の興奮状態になっているのか、スリットから己の存在を主張し始めたときと変わらず、硬さを保ち直立する。そんな自分の体に苛立ちを覚えながら、最後に食われてしまう。結局真実などないものだと悔やみ、やはり初めて会ったときと同じように目を閉じ、恐怖を投げ出す。
「うー……」
 来る、と思ったものは来なかった。腹部に感じた差し込まれるような痛み、恐怖が過ぎ去り、軽い酩酊感に襲われる。ふ、と力が抜けてずる、と体を下ろす、押し倒してこちらを見ていた彼女は、変わらない透き通る亜麻色の瞳を湛えて、軽く体を左右に揺らしながら、笑顔でアクアを見下ろしていた。
「あくあ、あくあ」
「っ……」
 先ほどの彼女はいったい何だったのか、それがわからなくて、顔をくしゃくしゃにしたアクアを笑うように笑む彼女は純粋で、流れ出る血も収まりつつある。獣のような顔を持つ彼女を見て、アクアは恐怖が過ぎ去り、異常な興奮だけを残した自分の愚息を見て、溜息をついた。
(最低だ)これは罰だ、罪なことを考えてしまったことへの罰なのだ、そう思った。自分の思うことが妄想であることは熟知しているし、そんなことがあり得るわけがなかった。彼女は他人だし、フレアとは違う、面影が残るだけ。それでも、何かを求めたかったのかもしれない。一瞬だけでも、自分の思うことが現実になったのだと、喜んでしまったのかもしれない。それによる興奮が、今の自分を作り出してしまったのかも知れないと、考えれば考えるほど、自分の愚かさが露呈する。
「あくあ、あくあ」
「……え?」
「たべて……いい?」
 先ほどから彼女にはぐいぐいと当たっているものが気になったのか、アクアの愚息に手をのばして、それをゆっくりと握る。もう先ほどの恐怖は消えて、湿った手で触られるというねっとりとした快楽が再び持ち上がり、否応なしに体が反応した。
「だ、だめ……絶対に」アクアは声を抑えて抑制した。彼女はもしかしたら声に反応するのではないかという思いが、ふと頭の片隅に浮かび上がる。先ほどは大きな声を出してしまった所為でこのような事態になったのかということを思いながらも、彼女はしょんぼりと眥を吊り下げて、寂しそうにどくどくと脈を打つアクアの愚息を眺めた。
「うぅー……あくあ、だめー……あくあー」
(だ、ダメにきまってるでしょ)
 男としての象徴を食い破られてしまっては宦官として生きる以外にない。そもそも死ぬ確率の方が高い。そんなことを考えていたら、寂しそうにフレアはアクアの愚息を握ったり、触ったりしている、ひくひくと臭いをかぐ仕草、ものほしそうに強請るその姿は、すでに体の上にのしかかられて、彼女の湿った腹部やお尻の方がこちらを向いて、整った背中やらが嫌でも目に入る。柔らかなお腹はゆっくりとアクアの胸部に押しあてられ、臍に当たる部分には、複数の突起物が擦れて、その存在を主張した。そのせいか、アクアは余計な興奮が脳を支配した。
(ダメだ)
 再度浮かび上がる理性だったが、寂しそうな呻きを漏らし愚息を扱くように弄ぶ彼女の行動や、焦れたように動く体を見て、言ってはいけない言葉を漏らす。それがどれだけ悪いことか、彼にはわかっていたとしても、目の前のフレアの面影を移したマグマラシ、自分の理想をもった彼女を見て、その罪を心の奥にしまい込んだ。
「でも……」
「……う?」
「舐めるとかだけなら、してもいいよ」


**からだをながそう [#m91f8e71]


 湿った舌先が触れて、ぬるりと愚息を舐めあげる。出会ったとき、骨をしゃぶるような音が聞こえたのを思い出して、粘着質なざらつきと一緒に、背筋が寒くなるのをアクアは感じたが、それ以上にしっとりとした浴槽の湯気と、火照ったフレアの体と密着しているという思いが、恐怖を押しのけて、快楽を運ぶ。
「んちゅ、ぺろ、ちゅぅっ」
 アクアは丹念に唾液を塗りたくり、まるで飴をなめるように丁寧に愚息を舐める。フレアの後ろ姿を視界に移し、余計な興奮と異常な勃起、そして高まる射精感を抑えられなかった。可愛らしい彼女の姿、友人であった彼が、女性になって欲しいと欲情したその姿、夢にも思ってなかったような奉仕に、アクアは罪悪感と愉悦感がこみ上げて、吐きそうになった。
「ふぐぅ、あ、フレアっ……」
「ちゅぷ、んっ、あくあ、なめる、なめるー……」
 舐める、しゃぶる、そんなような言葉を蕩けた双眸に映るアクアのそそり立った愚息に刺激を与えつつも息を吐くように呟く、恍惚とした表情はどこか妖艶さを秘め湛えたそれを形にし、舌先が、握り込む手が、擦るような指先が、形を電気信号のようにアクアの脳に伝え、中をとろりと溶かしていく、理性も、感情も、恐怖も、後悔も――残るものは、快楽、歓喜、愉悦、快感。感じる刺激は、獣の性交そのものとなり、フレアは何もわからぬまま、舐め、しゃぶり付く。それに逐一反応するアクアは、性欲を貪る獣そのものだった。
 愚息の裏筋にゆっくりと指を這わせ、玉袋に口をつけ、薄皮を口の中で舐めあげ、吸いつく。感じたことのない感触、湿る口内の淫音が耳に入り、アクアの意識はふわふわと宙を舞う。
「うあっ、はぁっ……ふれ、……ぅあっ……い、いいよっ、最高……だよっ」
「うー、あくあ、ふれあ、なめる、なめるぅ……んじゅ、じゅる、ちゅぶっ、じゅるぅ……」
 体中の意識を愚息に集中させて見れば、彼女がいかにそれを丁寧に愛撫しているのかがよくわかる。裏筋を舐めあげる舌先、玉袋を触る指の動き、何もかもが、刺激を与え、まるで神秘的なものを扱うかのように扱き上げ、アクアのそれを愛おしげに見つめるその瞳には、時折映るアクアの姿を視界に捉え、ゆっくりとだが、まれにこちらを向き、甘えるような瞳を向ける。彼女の仕草そのものが、アクアの理性を蝕み、破壊しているようなものだった。
「――だ、ダメだ、フレア、も、もうっ――」
「だ、め……?うー、んじゅ、じゅぷ、ちゅぷぅ……?んぶっ――」
 びくり、と愚息が震える、そそり立ったものが荒々しく動き、粘りのある白を吐き出した。普段から処理をしてはいるが、作業をしている時に処理をする時間などなく、たまったものが爆発するように放出された。亀頭を舐めあげた瞬間に、それは堰を切ったように溢れ、フレアの顔を、体を、口内を、真っ白に染め上げる。フレアは一連の動作を何か不思議なものを見るような瞳で見つめていた、ただただ、ぼうっとしたような顔を、蕩けたような双眸を、そそり立ち、欲望を吐き出す愚息を見ているだけだった。
「あくあ、あくあ……」
「はぁっ、はぁっ……」
 放出し、萎えていく自分の愚息を眺め、頭の意識の中に芽生えるものは、大きな罪悪感のみ、何をしているんだと理性が戻るころには、すっかりと萎えきったそれを不思議そうに眺め、指先で弄ぶ彼女の姿。その体は白濁に塗れ、妖艶な姿を湛えている。そんな姿を見れば見るほどに、アクアは己の目を疑い、そして吐き気と倦怠感に襲われる。
(僕は――何をやっているんだ)空っぽになっている心の隙間を埋めるように、黒いものが隅々まで沁み渡り、じゅくじゅくと膿む様な感触を覚えた。体にまとわる湯も、すっかりと冷めてしまい後に残った水のひやりとした底冷えの寒さと、彼女の肌の体温がやけに鮮明に伝わり、自分の言った言葉が、行った行為が、この場所にきざまれているようで他ならなかった。(最低だ)自分で反吐が出るような行為をいとも簡単にやってのけてしまったこと、彼女の無知を利用し、欲望の吐きだめにしてしまったこと、自分でも何が何だかわからない、友人への憐憫も、彼女への献身も、自分への理知も、何もかもが混ざり合わさり、腐って広がる。
「あくあ」
 彼女が笑う。
「あくあ、びゅーって、びゅーっ」
 無垢な彼女は射精の様子を見て、それを思い起こすように、燥いだ声を上げた。
「……ごめん、流すよ」
 アクアは何も言わず、姿勢を正し、彼女にかかったものを流しとった。血よりも、肉塊の破片よりも、自分の欲望を一番念入りに洗い流した。土や泥の汚れよりも、淫猥な己の種子を洗い落した。流せば流すほど、先ほどの行為をありありと思い出させるようで、やはりアクアは口の中で苦いものを噛み潰したような顔をした。
 浴場で体を洗う行為に、何を求めていたのだろうと、淫靡な雰囲気の漂う、低俗な何かを求めていたのかも知れないと思い、それを実行した事実に、アクアは手前勝手な自分の行為に対して、唾を吐きかけたい気分になった。
「あくあ」フレアは無邪気に笑う。「また、なめても……いい?」その言葉の、なんと無垢なことか、そう意識をしていたものの、彼は頭から湯をかけながら、背筋にうすら寒いものを感じ、フレアの体にかけ、残った湯を乱暴に自分の背中に叩きつけた。「……嫌だ」
 そう無意識のうちに口溢す。それは拒絶か、それとも罪悪からくるものか、その言葉の意味はどちらの意識を帰依するのかも、彼はわからない。ただただ無意識に触る場所を避け、水をかけて洗い流す。腫物を触る様に、ただただ意識の底にあるものを弾き飛ばし、自分の理性を押し上げようと必死になる。
「うぅ、だめー」
「そうだよ、絶対に駄目だ、こんなこと、俺はしたくないし、フレアにもさせたくない」
 それが心からの言葉ならよかったのかもしれないが、アクアはかぶりを振って同じように深く息を吐く、重苦しさを纏ったものが吐き出され、それが空気の中に混ざり、沈澱するような感覚を覚えた。意識的に見てしまえば、今この場所は黒く濁ったものが寄り集まって固まっているのかも知れないと思った。
「フレアは何もわからないから、こういうことをしちゃいけないし、する時が来るまでは、本当にしちゃダメだ。さっきのことは忘れて、俺も忘れる、忘れたい」
 アクアは知らないうちに右の拳を握り込んでいた。嫌なものを吐き出すように、乱暴に浴槽に桶を突っ込む。お湯と一緒に何もかも流してしまいたい。罪悪感、愉悦感――しかし、そんなことできるはずがないということはわかっていた。わかっていてもながしたい。何度もお湯をかぶれば、きっと忘れられるかもしれないとアクアは自嘲気味に口の端を吊り上げて、苦い笑い声を洩らす。
(馬鹿馬鹿しいな)
 そう思ってすぐに諦めをつけてしまう。フレアが少しだけ震えた。お湯が水に変わりかけて震えたのか、アクアのことを探り震えたのか、それはわからない。アクアは前者だと思いながら、お湯をかけてあげる。フレアの背中が震えて、やがて耳をゆっくりとたてた。
「ごめん、寒かったかな。じゃ、浴槽につかろうか」
「つかる、つかるー」
 意味が分かっているのか、それともわかっていないのか、それがわからないまま、アクアは次の朝になるまで、お休みという以外に言葉を発することがなかった。


**超吸収生命体 [#h9031720]


 翌日の朝に、アクアとフレアは起床した。その時間が午前4時55分、まだ朝靄が流れる市街を窓の外から見つめて、アクアは寝ぼけ眼のフレアを見て笑う。眠りが浅いのだろうか、とも考える。歳を取ると眠りが浅くなり、些細なことでも目を覚ましてしまうとフレアが言っていたことを思い出す。老人のようなことを言うと小突いて、その時は笑っていたが、もしかしたら案外老人に近しい思考だったのかもしれないと、アクアは今更ながら、目の前にいるフレアを見て思い出すように指先を口元になぞらせて、思案していた。
「あくあ?」
「おはよう」アクアが言うと、鸚鵡返しがフレアの口から放たれる。「お、はよー」まだ何かぎこちなさを感じるのは、自分が眠りから覚めてしまったことではなく、あからさまに誰かに起こされたということに対して引っ掛かりのようなものを感じて不機嫌になっているからではないかと考えた。そして考えすぎだとかぶりを振って、フレアの頭を乱暴に撫で上げた。
「ごめんね、こんなに早い時間から起こして、嫌じゃなかった?」
「ごめ?いや?」
 やはり、というよりかわからないのか、と思いつつ、アクアは苦笑した。この時間に彼女を起こしたのはほかでもない、彼女のためである、そう自分に言い聞かせなければ、早い時間に起床した意味がない。
「君の記憶を取り戻すには、まず君がしっかりともの言えるようにならないとって思って」
「も?うー?」
 時間がかかりそうだと思いながら、口から言葉を発することはできる。ほぼ鸚鵡返しのような言葉だが、アクアの名前と自身の名前、言われたことをそのまま口に入れて返すことくらいは問題ない。けして彼女は馬鹿ではない。それだけはアクアは理解していた。
「君にはまず、最初にちゃんとした言葉を覚えてもらおうと思って、ほら、これっ」
 そう言って広げたのはぼろぼろになった紙きれ。広げると、五十音の表がフレアの視界に飛び込んだ。こんなものを引っ張り出すのは久しぶりだとアクアは感慨にふけっていると、フレアと目線が合う。フレアはしばらくその表をじっと見つめていたが、やがてにこりと微笑んだ。興味はあるようで、アクアは安心した。
「どう、これ言葉を覚えるあいうえおからわをんまでが書いてある表なんだ……フレアなら言葉も喋れるから、きっと難しくはないよ」
 幼児に聞かせるように懇切丁寧に言葉を吐いて、アクアは困ったように微笑んだ。自分で何を言っているんだろうと思いながら、開いていたぼろぼろの紙を裏返し、自分の方へと向ける。
「言葉を続けざまにいうことができるフレアだもの、俺の言うことがちゃんと解るよね……じゃあ、俺の言うことを続けてくれるかな?いくよ――あ」
「あいうえお、っていいたいの?あくあは」
 いうえおと続け言葉を吐き出そうとしたアクアは、いきなり口溢したフレアの言葉に、アクアは口に溜めた言葉の行きどころを無くした。まるで自分の言いたいことがすべて彼女に取られてしまったかのようで、そんな様子を見て、フレアはに、と口元を歪ませた。
「あくあ、いうって、どういういみ?みるって、どういういみ?いみって、どういういみ?」
「――え?」
「そのあいうえおのうしろに、かいてある」
 アクアは無意識のうちに紙をもう一度裏返して見る。表の裏側には、見る、言う、書く、聞く、その文字が視界に入り踊りまわる。細かい意味が書かれてはいたが、紙が古すぎて掠れてしまっていた。
「……フレア、君は……理解できたのか?」
「りかい?りかいってなに?あくあ」
 鸚鵡返しのような言葉ではなく、れっきとした言語を口から次々に生み出す彼女を見て、アクアは眥が裂けるほど、双眸を見開いた。その顔を見た彼女は嬉しそうに笑う。
(間違い無い、彼女は、一瞬で五十音を理解したんだ)アクアはそれを尊敬と驚愕よりも先に、畏怖と異型の者を見るような顔をしていた。生まれてから間もない生き物は理解するのに時間がかかる。やれと言われてすぐにできることは難しい。生き物は長い年月を得て、自分で考えて、個々の思考で何かを読み取り考える。しかし今フレアは、たったの数秒足らずで自分達が行ってきたことの一部分を、すべて吸収してしまったという事実が、アクアの頭の中に入り込んだ。
(……本当なんだろうか)アクアはいまさらながら思案を始めた。五十音の表をただ読み取っただけで、果たして本当に理解したと思っていいのだろうかと、アクアは訝しむ。(もう少し、調べられるかな)アクアはどうにも、一瞬で物事を理解する彼女の理解力の高さに、一種の反骨精神のようなものが働いた。(間違ってたら、教えるだけだから)そう言い聞かせるのは外れてほしいという願いが込められているのかも知れなかった。
 アクアは不思議そうな顔をするフレアに背中を向けて、アクアは何かを探すように自分の部屋の本棚を漁る。教えるという物事に対して帰着点を見いだせなければ、物を教えているということにはならない、何事も区切り良く終わりをつけなければいけないものなのだと、そう考えてはいたが、帰着点を見出す前に相手に理解されてしまうことが、これほどまでに心に強く打ち付けるものなのかとアクアは苦いものを噛んだような顔をして笑った。
「じゃあフレア、これなんかどうかな……」
 アクアはそう言って一冊の分厚い本を取り出した。煌びやかな装飾文字で彩られた、漢字辞典をフレアは興味深げに見つめて、これは何だと言わんばかりに手をのばして、興味を示した。
「これ――読めるかい?」
 軽く眉をよせて、彼女に問いかけた。これは一つの見極めに近いものがあった。ことさらのように深く言うのは、それがまるで自分は読めて、君は読めないだろうと、そう思わなければならないと思うような、相手を卑下するような気持ちだった。それで、少しだけ楽になれれば、それでいいとアクアは思った。
――どうせ、こちらの言葉の意味なんてわかりはしないんだから。
 そう思ってしまう自分の心が、どこまでもひどく染まっていくものだと思った。人に対して何か侮るような、小馬鹿にするような態度をとったことが一度もなかったアクアは、こんな感情になることが初めてだった。フレアが幼いころにいろいろなことをやっていたことをアクアは唐突に思い出した。子供ながらにも多芸な彼を見て、自分は何を思っていただろうと思いなおす。尊敬の念こそあったものの、その中に自分が最も感情的になる嫉妬や憎悪という感情はなかったような気がする。それは幼馴染に対しての思いや憧れる者の大きさが、自分の中で肥大化していたのだろうと、幼いながらにアクアは自覚していたような節があった。だからこそ、フレアにはかなわないと思っていた。おそらく彼がいなくなってしまった今でも、その思いは変わらないだろう。
 だが、彼女に対してそう思えないのはなぜだろうと思う。そのなぜという感情すらも、アクアにとっては頭を捻りたくなるような感情だった。なぜこうにも彼女に対して自分は侮るような感情を見せるのか、なぜこうにも彼女に対して自分の心はざわつくのか、アクアはわからない感情を乗せたまま、無言で自分が手に持って放さなかった漢字辞典をフレアに手渡した。
「うー?」
 フレアは興味深げに漢字辞典を見つめ、おもむろに表紙をめくり、一瞬だけ目を通すと、左を持ち上げ、ページを高速でめくり始める。驚愕も一瞬が流してしまう。ページをめくる早さも流れる速度で、アクアはただぽかんとページをめくるフレアを見つめるのみだった。フレアの瞳は浴槽で見たときと同じように、瞳の瞳孔が収縮していた。死人のそれを思い起こさせるそれは、アクアの背筋を戦慄させるのに十分な雰囲気だった。
「……ありがと、アクア。楽しかったよ」
 淀みのない言葉、危なげもなく言葉を紡いで、フレアは微笑んだ。
「漢字辞典、って言うんだね、すごくわかりやすい、図解も付いてるんだ。楽しいね。こういうものが、まだまだあるってことだよね、アクア、こういうのがもっとある場所、知らない?」
 興味深げに言葉を紡ぎ、のそりと身を起こす。本棚を見つめるその仕草は、知識を吸収しようとするそれに酷似していた。
「この本棚には何が入ってるのかな?小説?文学?――見てもいい?」
 そういう言葉と同時に、フレアは己の興味を全て本棚に移した。その動きの活発さと言ったら、アクアが瞬きをする前に、動作の一つ一つをまるで文字を通して覚えたかのような動きで、軽快に本を取り狂ったようにめくり出す。その速度の動きの速さもさることながら、アクアが一番驚愕したのは、先ほどの自分の考察が夢でも幻でもなかったことだった。そして、それらをすべて身をもってフレアに叩き返されて、手ひどいしっぺ返しを食らったような気分になった。彼女はけしてアクアに対して侮るような態度も、深い憐憫も見せていない、ただ貪欲に知識を吸収していた。それも、見ただけで。その姿は異型の者に映るかもしれないが、それと同時に好奇心を満たすように興味に関心が行く、年端もいかぬ少女という印象もぬぐい去れなくて、アクアは自分自身の混乱を抑えることができなかった。彼女は異型の者だ、しかし、人並みの心も持っている。アクアは彼女をどちらとして扱えばいいのか、わからなかった。
「アクア、アクアの本は、もうこれで御終い?」
 気がつくと、フレアは最後の本を高速でめくり終え、本棚に戻していたところだった。自分が何かを考える暇にも、彼女は自分の興味関心を全て知識を吸収するという形を通して貪欲に摂取していた。そしてそれは、収まることを知らなかった。彼女はぼんやりとしているアクアの目の前で、猫だましのように両手をパンと叩く、びくりと体が震えて、両足をもつれさせて転倒する、後ろ手をついて、驚愕に双眸を見開いていると、フレアはに、と破顔した。
「僕はたぶん、知識をもっと吸収したいって思ってるんだと思う。何だろう、読んだだけじゃわからないことをもっと読んで知りたいっていうのかな。読むという行為を待つほど気長ではないけれども、読む場所があって、そこに行かないほど好奇心がないわけじゃないんだ。連れてってくれる、図書館って言う場所。公共の、情報提供書籍蓄積館でしょ?なんて言えばいいのかわからなかったから、適当につないでみたけれども、合ってたかな?」
 口早に捲し立てて、邪気のない笑顔を張り付ける。唖然とその姿を見るアクアは、フレアのその好奇心を満たす行為を邪魔することができないと悟った。彼女の行為は厭味がないほど純粋に、知りたいという思いが伝わる。そんな彼女を阻害することなど、アクアには到底できないからだ。
(僕は、姿も性別も変わっても、君にはかなわないのかな)先ほどまでの侮っていた感情が、今はほぼなりを顰めるように沈静化する。面喰った部分も多いが、少なくともこの数瞬の間に、彼女の知識量と理解力が自分のそれをはるかに凌駕したことは理解した。それを理解したときに、アクアがフレアに勝つことなど到底不可能だと思わざるを得ないという選択を、彼は苦渋の思いで飲み下した。(何をやっても、君には先を行かれるんだね)そう思う思考も、すでに塵となり乱れる。自分が彼女に何を教えたかったのか、結局最初のうちで、わからないことを教えていただけではないのか、そして物事を一瞬で理解、記憶する彼女の脳は、知的生命体である自分達ポケモンのそれをはるかに凌駕しているのだと悟った。
「アクア、早く、早く」
 燥いだ声をあげて、フレアはアクアを力いっぱい引っ張り、立たせようと躍起になる。無邪気な笑顔を見せたまま、きゃっきゃと笑う彼女の姿に、アクアは自分の心持を恥じた。
「図書館に行けば、もっともっと、いろんなことを知れるかな、僕の記憶が、元に戻るかな、僕が、何だったのか……わかるかな?」
(――そう云えば)アクアはいまさら思い出したかのように、部屋の片隅に置かれた、ぼろぼろになってしまった友人の遺品に目をやった。指紋を取ってもしょうがない物体であり、もはや動くことのないポラロイドカメラは、フィルムだけが無事であるという証拠を残して、昨晩からずっとその場所に放置されていた。拾い上げて、中を確認する。フレアが弄った形跡もなければ、誰かが忍び込み、フィルムを盗んだという形跡もない。極めて綺麗な状態のまま、そこに保存されているそれを再確認して、アクアは心の奥底に眠っていた思いを呼び起こす。
「そうだ、僕はもともと、これを調べるために、フレアを保護したんじゃないか」
「僕を――保護した?」
「そうだよ、君の記憶を取り戻すためなら、君が知識を吸収する方が好都合じゃないか」
「好都合、好都合。アクアが嬉しいなら、フレアも嬉しい」
 知識を吸収したとはいえ、癖なのか、アクアの言葉を鸚鵡返しに返して笑う。彼女が自分に懐いてくれていることが、唯一の救いなのかもしれないと、アクアはそれだけを思いにしていた。今日作業場が休みなのが、もう一つの救いなのかもしれないと、無意識のうちにそう思っていた。
 壊れたカメラをひっさげて、すっくと立ち上がる。フレアの手をやんわりとつかんで引く。裏口から出て、店の入り口に休業と書かれた札を乱暴にかけると、大股で足早に進みだす。
「アクア」フレアが道すがら人の雑踏を避けながら、アクアを呼ぶ。「アクアのお店、何をやっているの?」漢字辞典で意味と言葉を理解したのか、アクアの店にちらと眼をやって、それが何なのかを一瞬で頭が計算したのだろう。無知の状態から見ただけでそれを理解し、問いかけることの不気味さを、アクアは何ら気味が悪いとは思わなかった。「オルゴール屋さ。ちょっとだけ繁盛した……ね」
「あとで、ゆっくり見てもいい?」
「明日ならいいよ」
 ごく短い返答を返して、アクアとフレアは図書館に向かった。公共が提供する知識の集積を、彼女は何日で読破するのだろうか、それがわからないからこそ、彼女を図書館に長く拘束したい気分に駆られたが、アクアはすんでのところでその思考を押しやった。
 図書館について、彼女が本を読んでいる間に、自分はこのフィルムを現像屋に持っていこう。現像するには数日の時間がかかるが、その頃には彼女も図書館の本を読み終えているだろうと、アクアの頭は理解した。彼女の理解と速読を超えた超吸収能力は、一瞬でアクアにその凄まじさと、異形の者であるということを理解させるには十分すぎる芸当だった。


**緊張感と緊迫感 [#zf2849e0]


 彼女を図書館に一人で行かせる予定は、結局フレアが一緒に行こう行こうとせがんだばかりに、先送りで一緒に写真のフィルムを現像するために写真屋に立ち寄った。古ぼけたセピア色の印画紙が吊るされている場所をくぐりぬけて、受付のキレイハナにこんにちはと挨拶を告げ、用件だけを手短に済ませる。彼女の興味は恐らくこんな古ぼけた油くさい場所ではなく、この先にある大きな情報の塊だろうと、アクアは苦笑した。
「では、こちらのフィルムをお預かりいたしますね。写真現像には三日ほどかかりますが、よろしいですか?」
 聞きなれた言葉を聞く様な形で、アクアは頷いた。写真屋に行ったのは何も今回は初めてではない。フレアと一緒にいたころは、よくこの写真屋に行って、顔馴染みになったのも覚えている。常連客を扱うように、写真屋の大将は笑ってお茶やお茶菓子を振舞ってくれたりもした。残念だがその大将は今はいないが、それだけこの写真屋には思い入れというものが存在していた。
「フィルムかー」物珍しいのか、フレアは吊るされた現像写真を興味深げに魅入っている。彼女にとっては情報は蓄積されてこそいるが、現物というものを見たことがないのか、やはり見て聞いて触る、この三つを満たさない限りはおそらく満足しないのだろうと思った。「すごいなぁ、どういう原理なのかなぁ」
「触っちゃダメだよ、フレア」
 少しきつめの声が響き渡り、フレアはびくりと身を縮こませて硬直した。少しだけ寂しそうな瞳を燻らせて、うーと唸るような声を出す。その顔をのぞいたアクアは、少しだけ唸るような声を出して、フレアを睨みかえした。
「いいかい、他人の者には触らない。頭がいいんだから、そのくらいは理解しなさいっ」
「うー……うん」
 何か難癖をつけてくるかと思っていたが、フレアは気味が悪いほどにあっさり引き下がると、つまらなさそうに、そしてどことなく寂しそうにフレアの後ろに隠れ、彼の二の腕を優しく握る。そんな彼女を見て、写真屋の受け付けは苦笑した。
「可愛らしいですね、妹さんですか?」
「あ、いえその――」
「違いますよ、妹じゃなくて、僕とアクアは森の中で――」
 恐らく何が言っていいことと言ってはいけないことの判別すらつかないのか、今までのいきさつを口から吐露しようとした彼女の口を塞いで、黙らせた。
「だから、君は――」
 そういうやり取りを見て、受け付けは口を吊り上げて笑む。まるで二人をお似合いの恋仲であるような視線を向けて、笑う。
「お似合いですよ。では、こちらが詳細の書類です。三日後にお立ち寄りくださいませ。その書類は無くさないようにお願いいたします」
 写真屋を出た後に、アクアは刺激的な一日になることをどこまで予測していなければいけないのかと消沈した顔を、無邪気に寄り添って歩くフレアに向けた。その顔を見たフレアはまた何とも面白いというような顔をして、彼を見返して快活に笑うのであった。消沈と笑顔の対極性が、周囲のポケモン達を無意識に遠ざけさせているのかも知れないと、人通りの少ない道を練り歩きながらため息を漏らす。
「どうしたの?」
 彼女は無邪気だった。何ら悪意や二心を持ったものを彼に向けていない。それが逆に、悪意の塊のように見えるのは彼の心が荒んでいるからなのか、目まぐるしい事態が起こりすぎてしまったからなのか。ため息を再三同じように漏らし、明日こそはちゃんとしなければいけないという無意味な義務感に駆られた。
(何をちゃんとすればいいのか)
 そんなことを考える間もなく、次から次へと物事は目まぐるしく進んでいく。明日の朝早くに起床し、店を掃除する。開店と同時に客を新しい物を作りながら待ち続ける。雑談や売買を繰り返し一日が過ぎる。はたしてその当たり前の日常は、彼女の行動言動が絡み、どこまで変わるのか。不確定な不安を抱えたまま、同じような息を漏らし歩き続ける。それが気になるのか、しきりにどうしたどうしたと聞いてくる彼女の声に心配の色が増えることにに対して、何か一つ引っ掛かりの様なものを感じていた。
(心配してくれてるのか興味があるのか)
 そう自問すると、その引っ掛かりが何となくわかるようで、アクアは首を無言で横に振った。ただの心配をなぜこうにも湾曲して考えてしまうのかという考え方に、一種の心理テストのような緊張状態と似たようなものを感じていた。心理テストは思考を停止して答えれば無邪気、そして一種の緊迫感の中でそれに対して何か後ろめたい思いがよぎれば、脈拍が著しく上昇する。今の状態がまさにそれなんだと思いながらも、アクアはなぜこうにも緊張状態の様なものが続いているのかと思えば、それがまず彼女のことを考えているからだと理解する。
(そうだ、この子の思考が、発言が、行動が、何か一つ緊迫したものを作り出す)
 そう思い、彼女をもう一度見た。純粋な瞳を向けて、心配そうに眥を吊り下げている。この顔に悪意や殺意など、そういった類の邪な気持ちは微塵も入ってはいないだろう。彼女はまだ、恐らく頭で理解をしてはいても、本質を見極めることはできていない。善悪の判断、有機物と無機物、心で判断する部分と頭で判断する部分、その二つの定義が自分自身の中で理解できてはいない。おそらく残虐なことも、善悪の判断がつかない状態では、平気でやってのけるに違いなかった。
 その不安が先行して、そうなってしまったときのために、自分がどう彼女を擁護すればいいのかわからなかった。妙な緊張感に駆られるのも、恐らく彼女の言葉一つ一つ、行動一つ一つに逐一反応してしまうからなのかも知れない。何かのアクションで、未来、そう遠くない時間に何が起こるか、それがとても怖く、とても悲しい結果につながれば――
(それでも)アクアは両手を強く握り込んで瞳を吊り上げる。(俺自身が、彼女を保護したんだ。犯罪行為になるような隠匿までしたんだ。それだけのことをして、いまさら自分だけ危険じゃないなんて、おかしいじゃないか。)どうしてそんなことをしたんだろう。それはもちろん真実を知るため。彼女の記憶が戻ればいい。記憶が戻り、その真実を口から言って欲しい、思いを伝えてほしい。そして彼女がフレアを殺したことに関係していないというのなら――
(言うのなら、なんだ)
 アクアは自答を失い上滑りした思考を放棄した。関係していないのなら、一人で暮らせるようにしてはいさようならと、そういうことなのだろうか……その思考が出る気がして、その思考に行きつかないように放棄する。それだけはしてはいけないことだと思っても、最後に行きつくのはそこになる。赤の他人である彼女の罪が分かれば、無罪ならそのまま関係を切り離す。有罪ならばしかるべき所へ突き出す――果たして後者がアクアにできるかどうかは、彼自身はわからなかった。
「アクア、ついた、ついたー」
「え?あ、ああ……」
「としょかん、としょかん」
 彼女は若干興奮したようにはぁはぁと荒い息を吐き、巨大な煉瓦造りの建造物を見上げていた。洋風の意匠を残したそれは、若干酸性雨の影響で所々がくすんではいるが、趣と歴史を感じさせる屋敷のそれと同格の風靡を漂わせていた。興奮する息遣いと、ぐいぐいと急かされるように引かれる腕の力に少しもつれながらも、さっきから図書館、図書館と繰り返す彼女を見て、苦笑した。
(なんだ、頭が良くなったんじゃないのかよ)
 彼女はどうやら頭の中で理解していたとしても、目の前にあるものや興味が近づくにつれて、興奮が異常に高まるのかも知れないと、そう考えてアクアは笑い崩れた。乾いた低い声が響いて、興奮気味のフレアは何かを笑われたように耳を尖らせた。
「あくあ?」
「いや、なんでもないよ。フレアはまだまだ、子供だね」
「うー……」
 何を勘違いしていたのだろうと、少し安心したように息を漏らして、彼はさらに思い出すようにあはあはと笑った。彼女の興味はここにあり、先の不安などはほとんどない。先ほどの緊張感は何だったのか、考えることが馬鹿馬鹿しくなり、やれやれと溜息を洩らす。数回吐いたその息は少し軽くなっていたような気もした。彼女の純粋さは確かに危険なものかもしれないが、少なくとも、彼女は言ってわからないような存在ではない、頭もいいし、機転も聞くだろう、理解力も高ければ、その純粋さゆえにすぐにわかってくれるはずだと、アクアは安心しきったように笑う。
「いいかいフレア」改まった言葉を少しゆっくりと吐き出すと、フレアは尖らせていた耳をぺたりと落とし、首を傾げた。「なぁに?アクア」何を期待しているのだろうか、その顔は少し呼びとめられたことに対して期待をしているような顔をしていた。彼女の興味をそそるような言葉ではないと言い聞かせながらも、しっかりと肩を掴む。汗ばんだ体が、興奮した心と重なる様にぴくりと跳ねる。「君はとてもいい子だし。理解力も高い。だけど人の言うことばかりを信じたり、目に見えるものをすべて正しいと思ってちゃダメだ。俺の言ったことだって間違いがあるかもしれないし、ましてや他人の言うことに良いように動かされたらそれは生き物じゃない」
 生き物ではないという言葉に、フレアは双眸を捲れかえらんばかりに見開いた。その姿に少し驚愕しながらも、アクアはかぶりを振って話を続ける。
「図書館は静かに本を読むところ、最低限の会話は小さな声でおこなわきゃダメだよ。そういうところで、何が正しくて何が間違っているか、そのあたりも自分で決めて、自分で考えるんだ、いいね」
「うん。わかったよ。何が正しくて、何が間違っているかは、僕自身が決めて、僕自身が考える」
 そう言ってフレアは微笑むと、急かすようにアクアの腕を引いた。
「あくあ、はやく、はやく」
「わかったってば」


**宙の生き物現れる [#e1b5448f]


 本を読んでいると、アクアがふと不思議なことに気がついた。彼女の読む本は片端から片端まで、速度を考えることなく乾いた紙がめくれる音が遠くで断続的に響き渡る。図書館のカードを作ってあげて、本棚から持ち出してもいい本は図書館内なら何冊でもと言われると、山のように本を持ってきては、それを片端からめくる。ものの数秒で見終わると、何やら簡単とした息をついて、余韻に浸るような顔をして、また新しい本を持ち出す。
 そんなこんなで一時間、彼女は一時間で本棚を十二架読み終えて、すっかり本の世界に入ってしまった。覚えることや好きなストーリーを読むことは別段悪いことではないが――アクアは彼女の不思議なことに対して、本を読むよりも興味をそそられた。
(なんか――飛ばしてる?)
 読む本は片端から持ってきて高速でめくっている彼女の本の山を見直してみると、彼女はいくつか番号を飛ばして読んでいない本があるということに気がついた。ジャンル分けをしているが、小説やノンフィクションの文学や時代ものでは、たまに異質なジャンルが混ざり込むことは別段不思議ではないが、ふと気になった。
(読む者にも好き嫌いがあるってことかな?)
 好き嫌いがあるというのもおかしい話だが。大抵は見てから好き嫌いというものを判別するが、彼女は読むことなくそれを判別しているというのだろうかと思うと、あまり好感を持つことはできなかった。共感する部分も少なからず文字媒体の読み物には入っていると、アクアは少なくとも呼んできた本の中ではそういう部分があると思っていた。一時間で彼女に読んだ本の情報量は軽く凌駕されてしまってはいたが、読み始めた本がどれだけ荒唐無稽な物語でも彼は最後まで読み続けた。読むことに意味があるからと信じて疑わない姿勢が、最後まで何かをやりとおす結果につながると信じているからなのだろうか。
「どれ」アクアは一つ息を吐いて、乾いた音を途切れさせることのない彼女の後ろを回り、そのまま音を殺して彼女が抜き取った本棚に残された、数冊の本に目をやった。タイトルは特に見ることもなく、表紙をめくり中を見る。特に難しい漢字が書いてあるわけでもなければ、ごくごく一般的な話だった。ジャンルがSFに近いものなのか、所々にコズミック・ホラーの要素が見受けられた。
「彼女はこの世界の生命体ではなかった――」
――この世界とは別の、または違う次元からの来訪者だったのかもしれない。それを見てしまった。彼女の心が……心があるかどうかすらも分からない彼女が、異型の存在として形を変えていたその姿を焼きつけてしまった……
「うわぁ、読みにくそう」
 もともとアクアはコズミックホラーが好きなわけではなかった。奇形的なものに何か気分が悪くなることは特にないが、そこまで普段そういう部分を見ているわけでもないからかもしれないと思い、彼は本を戻そうとすると、後ろから大きな本を両手に抱えたフレアが、頼りない足つきで体をこちらへ向けて前進していた。
「アクア、どいて」
「あ、ごめん」
「――その本、面白いの?」
「え?」
 目線でそれを指されて、彼は慌てて本を本棚に戻した。特に叱られたわけでもないのに、アクアは彼女の亜麻色の瞳が濁り、何か恐怖の対象としてみているように、彼の持つその本を睨みつけていたような気がしていたのだった。
「い、いや、これはただ単にちょっと興味があっただけだから、その、俺はあんまり面白いとは思ってないよ」
「ふーん、だよね」
 本を読まなさそうだもの。そう付け加えて、緩んだ笑顔を作る。本を丁寧に戻して、全てを収めると、その左隣の本棚に身を動かすと、ひょいひょいとこなれた手つきで本を抜き取っていく。他の利用者の目など気にすることもなく大量にとった本を、そのまま先ほど自分が座っていた席へと持っていく。椅子に座ると彼女は今までと何ら変わりなく、ぺらぺらと乾いた音を立てて頁を高速でめくり始めた。その姿に少しの緊張と恐怖を感じながら――アクアは眥を吊り上げた。
 本が数冊残っていた。先ほどと同じように、空いた場所に空しく横倒しになっているそれを、ほぼ反射的に手に取ると。恐る恐る中を捲る。読むと何かしらがおこるわけでもないのに、その棚の列に残されたその本達は、まるで捲れば何かが起こると主張せんばかりに、空しく横に倒され、その存在をひとつ大きくしていた。
「……」
 アクアは書かれた本の内容よりも、先ほどの本の内容と照らし合わせ、訝しげな顔を作った。
「同じだ……フレアは……コズミックホラーを避けてるのか?」
 なぜそんなものを避けるのか。コズミックホラーも一つのジャンルとして確立された物語の作品であり、読めばオカルティズムな世界観に引き込まれるポケモン達も多い。しかし彼女はそれを読むこともなく、避けるように抜き去った本棚に残している。
(なんで?)
 アクアは首を傾げると同時に――後ろから小さく聞こえたフレアの声に背筋を凍りつかせた。
「ねぇ、アクア、その本――オモシロイ?」
「っ」
 くぐもった機械の様な、ぐちゃぐちゃと言葉を潰して練り混ぜた様な異音が、彼女の口から放たれた。かろうじて面白いと聞こえたが、口から吐き出される生臭い息とともに、その言葉は思い淀みを纏い、彼の首筋を伝って耳に届く。
「これは――」
「オモシロイ?アクアハコレガオモシロイッテカンジル?ドウ?あくあ……ネェ、あクぁ……」
 なぜ彼女はこんなことを言うのだろうか。後ろから聞こえる声が嫌に重く機械的で、人形が口を開いているような違和感、誰かから間借りしたような声がぽつぽつと千切れるように響く。吐息も、足音も、声も何もかもが――異音に聞こえる。アクアは喉が潰れた様なくぐもった嗚咽を漏らし、顔についた汗を拭いとると、かろうじて言葉を絞り出す。
「きょ――興味があったのは……間違っていない……かもっ」
「フゥン」
 フレアはそれだけ言うと、笑った。先ほどの砕けた笑いではない。本当に悪意のない。邪なものなど一切入っていない。ただの張り付けた笑顔を、ぬらりとアクアに見せつけた。まるで素晴らしいものを見せる子供のように。アクアはその顔に映る双眸の、瞳孔が収縮し、濁りをため込んだ汚れた茶色の瞳と目が合い、胃の中にたまったものが逆流しそうな感覚に陥った。
「どいてくれないかな、アクア。本を戻したいの」
「あ、あぁ」
 中から絞り出したような声を、かろうじてはくと、頭を抑えてまろぶように体を動かす。彼女の顔は先ほどよりも落ち着いた印象を醸していたが、先ほどの張り付いた笑顔が忘れられずに、アクアは跳ね上がる心音を抑えられずに、呻いた。
「もういいよ、アクア」
 フレアはまた更に下の段の本をあらかた抜き取ると。同じように自信が座っていた席へと戻っていく。沈黙が胸を抉り、恐怖に歪んだ顔が薄く塗られたニスがぼんやりと映し出す。
 ふと、横眼をそらすと、やはり、彼女が抜き取った本の中に、数冊、とっていない本があった。
 もはや恐ろしいと思っていても、フレアは震える手でそれを強く握ると、手早くページを開いた。異臭生命体、世界の滅亡、外世界からの侵略。そんな用語の羅列よりも、確信に至る部分を感じ取った。
(彼女は――異型物を避けている)
 文字媒体に書かれた架空の生物。こんなものがいるはずがないというものを、フレアは頑なに拒絶している。なぜと思う前に、先に本を戻す。後ろから聞こえる足音に耳を研ぎ澄ませて、背筋を伸ばす。緊迫した空気が漂っているような気がして。軽快な音にびくりと体を震わせる。フレアがこっちに来る。それだけでアクアの神経は磨滅するように減っていく。
「あのー」
 ぞわ、と心臓を鷲掴みにされたような感覚が湧き上がり、とっさに振り向く。本を両手に抱えたオオタチがびくりと身を震わせて、数冊の本を取り落とした。乾いた音が図書館に響き渡り、利用者たちがそちらの方へ視線を注目させた。
「わ、ど、どうしました」オオタチ自身が驚愕し、慌てて落とした本を拾う、アクアを気遣うように上目使いで見つめながら、反応が返ってこないことに困惑して、結局本を元の場所に戻すと、丁寧にお辞儀をして、別の本棚へと移動していった。
(僕は……)アクアは残された自分自身の身を石のように固くし、周りを窺った。彼女が来ると心臓を飛び上がらせていたのに、それが外れた。安堵と恐怖が綯い交ぜになり。フレアの席へ視線を移し――そこにあるはずの存在がいなくなっていた。
「……フレア?」
 複数の本が山のように積み上げられていただけで、それを読破していたものの姿が消えていた。
「フレアは?」
 知らないうちに声が震える。受付のポケモンが本を読んでいたら急に後でまた戻りますとだけ告げて、外に出ていかれました。本を戻しておいてくださいねと注意と一緒に知らせた。
 知らないうちに体が弾けるように飛び出していたのは、彼女のことが心配なのか、彼女の周りの生き物が心配なのか、彼女と一緒にいるときに湧き上がる緊張感、緊迫感。そして恐怖の演出、アクアは必死に何もないようにと祈りながら、足を叩かんばかりに震わせて街を走り回る。奇妙な異音が聞こえた路地裏を探す、声がした方へ進む、まるで雲をつかむような話だった。捜索の手立てがなく、片っ端から彼女が行きそうな場所を探した。花屋の近くを通り過ぎると、すすり泣く声が聞こえた。何だと思って振り向くと、花屋の店員が泣いていた。
「どうしました?」
「……わ、私の代わりに、悪漢にマグマラシの女の子が絡まれて……わ、私警察を呼んだんですが、いつ来るかわからない……ど、どうしたら」
 悪漢にフレアが巻き込まれた。それだけで何か得体のしれない恐怖が心臓を突き刺すようだった。
「大丈夫です、貴方は正しいことをしたんです。すいません、どっちに行きましたか?」
「こ、この先の路地裏の方へ」
 花屋の店員にお礼を手早く告げると、そのまま疲弊した足を持ち上げ走り出す。彼女が何をしているのか、あまり想像したくはなかったが、路地裏に連れ込まれれば容易に想像がつく。フレアの身を心配して――何よりこれからおこる未曽有の出来事に恐怖して、その路地裏に入り込んだ。


 強い力で何度も何度も叩きつけられたサワムラーは動かなくなった。フレアはきょとんとした瞳を、隣にいるエビワラーに向けた。その顔に映る恐怖、畏怖、そして助けてくれという懇願。彼女はそれを聞く気はなかった。意味はわかるが、助ける必要があるのだろうかと、純粋にそう思っていた。
 本を読めば読むほど、読むだけではわからないものに想像を働かせた、どういうものなのだろうと胸を躍らせた。フレアは花というものに一番興味を持った。さまざまな絵本や小説に多く出てくる花。それは時に心を癒し、時に人と人との恋を成就させる。ただの植物に、そんな力があるんだろうかと首を傾げたりもした。そして興味が膨れ上がった。本を読んでばかりではわからないことに対して、行動を起こす。極めて単純明快な理由で、読む本を惜しみながら外に出た。彼女にとってそれが一人で歩くということになり、興味と関心を促進させた。
 見るもの聞くものすべてがわかっているというのに、実際に見聞きするだけで変わるこの感慨。本の情熱的な内容よりも、今目の前にあるもの、見るもの全てが目新しいものに見える。楽しくてくるくると回りながら視界を移すと、花屋というものを見つけた。彼女はその花屋に行って実物である、一番の興味であった花を見た。花屋の店員と思しきポケモンが花が好きなんですかと尋ねると、今見たばかりだから、好きかどうかわからないと返す。少しの間薔薇の花や黒ユリの花をじっと見続けた彼女は。何だか調子はずれの様な声を出す。
「なぁんだ。こんなものかぁ」
 彼女はがっかりしたように肩を落とした。想像を膨らませた世界では、それがどれだけ魅力的で素晴らしいもののように描写されていたというのに、いざ実物を目にして見れば、日常の中に入り込む一つの存在としてそこにあるだけで、結局は絵本や小説の内容と同じように、その場の雰囲気を作るものとして、あとは結局枯れるのを待つばかりであるといった風情だった。
(でも――いい匂いはするなぁ)
 彼女は気抜けしてため息をつく一方で、何ともいえない芳香が漂い、ひくひくと彼女の鼻腔をくすぐる。じわじわと頭の芯から悪いものが抜けていくような感覚で、端に皺を寄せて、彼女は笑う。
「いい匂いだぁ」
「お花は見るだけじゃなくて、香りも楽しめますよ」
 そう言われて、興味を示す様に鼻腔をひくつかせながら、薔薇の花をじっと見つめる。図鑑をめくった限りでは、薔薇はこの季節には咲かないものだとばかり思っていたためか、彼女はなぜこんなところに薔薇があるのだろうと興味を示す。
「今は季節の花を集めて、売り出しているんですよ。もちろん、環境に合わない花も多くあります。でも花だって生きているのだから、蔑ろに扱わず、ちゃんと適度な環境に合わせて売っているんですよ」
 疑問を投げかけると、しっかりとした返答が返ってくることに彼女は頬を朱に染めて感心した。生きている。木も草も、ポケモンも同じように生きている。花屋の言うことに彼女自身、大きく共感できる部分があるのか、頻りに頷いていた。
「よろしければ一輪、差し上げましょうか?サービスです」
「あ……」
 家に帰って、飾ってあげて下さいね。そういう言葉が聞こえるか聞こえないか、街中を歩く二人のポケモン達が彼女たちに近づいてくる。花屋の顔が硬直した、恐怖と、何かをフレアに必死に訴えようとする、口がパクパクと開閉し、何かを必死に伝えようとする。
――早く、逃げて。
 そう口が動いた。その瞬間に、花屋の体がふわりと宙を舞う。頑なに目を瞑り、やめて下さいと口から溢す言葉は、二人の悪漢達には聞こえず、下品な声が響き渡る。店先に置いてある花瓶が倒れ、中の花が花弁を散らす。それを何のためらいもなく踏みつけ、踏み躙る。
 一方がフレアに気づいたのか、花屋を乱暴を働こうと連れ去ろうとしていた手を緩め、彼女の手を乱暴にとる。いやとも、止めてとも彼女は言わなかった。ただただ、踏み躙られた花を、美しい香りを放つ花を踏み躙っていた二人を見て、瞳が濁りだす。半濁を灯した目の中はぐちゃぐちゃと混ざり、自分の体毛が臓物のような色に変色しだすのを、止められなかった。
――花だって、生きているんです。蔑ろに扱ってはいけません。
(この人たちは……お花を蔑ろに扱ったんだ)彼女の心は、先ほどの踏み躙られた花に映っていた。あの花の命は、花瓶から滑り落ち、地に根を張ることもなく、乱雑に踏みつけられて散った。つまり、この二人に命を奪われたのだ(じゃあ、この人たちも……)フレアはそう思った。ぐちゃぐちゃになって、踏み躙られたとしても、誰もそれを誰何したりはしないはずだ。体の至る所に、目が、口が、妙な斑点のように現れる。フレアは、今ここで二人がぐちゃぐちゃになっても、それは踏み躙ったことに対しての「お返し」の様なものだと、そう考えていた。
「おい、手足を押さえろ」
「手早くやっちまおうゼ」
 そんな声が聞こえる中、彼女の持ってい薔薇の花も取り上げられる、棘が肉を削り、少しだけ血が出た。それを地面に放り捨てて、顔を覗き込んだ。下卑た顔が写り、美しいものとは思えないそれを双眸は写し取る。
(ぐちゃぐちゃにされても、踏み躙られても……誰も何も言わないよね)
 凄まじい音がして、足を抑えていたポケモンが吹き飛ぶ。何だと思う前に、そのポケモンがうめき声を上げた。ポケモンの名前はサワムラーだったような気がする。彼女はそう思う前に、ぴくりと動いたのを確認した。
「まだ生きてる」叩きつける。吐瀉の様なものがまき散らされた「えい」叩きつける。頭蓋骨が砕ける様な異音が響き渡る。「えいえい」叩きつける。眼球が剝れ上がり、全身から血を噴き出す。「えいえいえい」叩きつける。叩きつける叩きつける。肉と血が混ざり合って、臓物を壁にぶちまける。塗りたくられた胃や腸が散乱し、動かなくなる。「えいえいえいえい」それでもまだ叩きつけた。まだ動いている、まだ生きている。彼女は何度も何度も、そのポケモンを踏み躙った。腕が触手の様な肉塊に変貌し、そこに埋め込まれたような血管を通す無数の目が、口が、笑う、歪む。グロテスクな肉の色を湛えたそれに伴い、体中から同じようなものが蠢き、変形する。すっかり動かなくなった肉塊を放り出し、亜麻色の双眸が次の生物を捉えた。
「ひいっ――」
「にげちゃ、やだよ」
 足を動かし走ろうとしたその生き物を、延びた触手が捕まえる、体液の様な滴りと、滑り、生臭い血の臭いが、フレアを――フレアのような生物を、興奮させる。
「お花……フミニジッタジャナイ。だから、踏み躙っても――イインダヨネ」
 悲鳴を上げようとしたポケモンはエビワラーの様なポケモンだった。彼女には今一種族の判別がつかない、そんなものだろうと認識し、口に触手を突っ込むと、食道を通り、肛門からその触手を貫通させた。白目をむいて首を動かすその生き物を、中から思い切り引き裂いた。
「それ」引き裂いて左右を壁に叩きつける。まだぴくりと動いていたので、さらに叩きつけた。「それそれそれそれ」何度も何度も、先ほどと同じように壁に叩きつける。動かなくなっても叩きつける。中身がばらばらと零れ落ちて、滴りを広げる。赤茶色の廃棄物もぶちまけられて、異臭が鼻を突く。彼女自身が異臭となり、特に何も感じなかった。
「……」
 砕け散り、動かなくなったそれを見て、彼女の姿はもともと認識されていた姿に戻る。興奮が収まったのか、濁った瞳もゆっくりと透き通る亜麻色になった。血だらけになった自分の体を見渡して、指についた血を舐めると、顔を輝かせて笑う。
「おいしい」
 その言葉の、なんと甘美なことか、フレアは、ただただ瞳を輝かせていた。腹の虫がなる様に、彼女が口から垂涎しているのは、目の前の残骸に魅力的な食欲を感じてしまっていることに他ならなかった。
「いただき……ますー」
 食事をする時はそういうものだと、アクアが持っていた本にそう書かれていたからこそ、彼女はそういった。大きく口をあけて、肉の塊に近づいた――


「……なんだ、これ」
 アクアは目の前の惨状が理解できなかった。臓物がばらまかれた建物の間に、ぐちゃぐちゃと異常な音がまき散らされる。それはちょうど彼女と初めて会った時の状態に酷似していた。似てはいけないその惨状で、死肉を貪る彼女は、アクアの存在に気がつくと、曇りのない笑顔を向けて、何度も何度も彼の名前を呼んだ。
「あくあ、あくあ」
「フレア――君が、君がこれをやったのか!?」
 声を出すと気付かれるということを分かっていても、張り上げた声が収まらない。びくりと身を震わせて、彼女はもっていた臓器の一つを取り落とす。
「だって……おはなをふみにじったもん……」
「――なにを」
「おはなをふみにじったんだもん、おはなだっていきてるんだから、それをないがしろにしたひとは、ないがしろにされても――なにもいえないんじゃないの」
 恐れていたことが起こってしまうのと同時に、確信したことが浮かび上がり、火がついたように燃え上がる。さまざまな思いが浮かんでは消え、アクアの思考がごちゃごちゃと絡み合った。
(この子は――悪いことといいことの区別が、それだけじゃない。自己判断が欠落してるんだ)
「ねぇ、あくあ」フレアの悲しげな声が、アクアの体を震わせた。何よりも、これで確信がついた。まだ曖昧な部分はあるかもしれないが、少なくともアクアは一つの確信をもっていた。「ぼく、わるいことしてないよ。あくあ」
(この子は――化け物なんだ)
 飾り気のない純粋な悪意の塊、判別がつかない残酷さ。その姿は――化け物というほかに言葉が存在しなかった。
「あくあ」
「……」
「ぼく、わるくないよ」
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[[宙の生き物愛を知る]]に続く―
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**コメント [#mbfcf30b]
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IP:180.11.127.121 TIME:"2012-11-23 (金) 16:56:00" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%E5%AE%99%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%8D%E7%89%A9%E6%81%8B%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.1; WOW64; Trident/5.0)"

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