ポケモン小説wiki
夢が叶う場所 の変更点


#include(第九回短編小説大会情報窓,notitle)
作:[[ハルパス]]
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#contents


※このお話はフィクションです。実在する人物、団体、地域、事件とは一切関係ありません。
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 四角く切り取られた世界が目まぐるしく変化する。人々の息遣いが、日々の営みが。幾つも並んだ窓の奥に一瞬だけ映し出されては流れていく。瞬きする間に消えてしまう人々にも、各々の意思が有り、絡み繋がり合う人間関係が有り、積み重ねた記憶と思い描く未来があるのだ。世界はなんて広くて複雑なんだろうと、そんな夢想に浸りながら電車に揺られるのも悪くはないと&ruby(くずは){葛葉};は思う。確かにゲームのような冒険もなければ、アニメのような不思議な世界でもないけれど。現実だって十分楽しい。例えば今日の目的地がそれだ。
「次はー、終点、京都河原町駅ー」
 間延びした、それでいて騒がしい車内でもくっきり聞こえる独特の声が駅名を告げる。速度が完全に落ちた所で、葛葉は抹茶色の座席から立ち上がった。同じ駅で降りる親子連れや老婦人の集団、スーツを着た男性に交じりドアへ向かう。
 久々に揺れない地面に降り立った。葛葉は邪魔にならないよう脇に寄ると、肩を反らして身体を解した。地下駅故に清々しい空気を吸い込む事はできないが、要は気持ちの問題。無機質なプラットホームでも気が滅入る事はなく、電球はどこまでも明るく足元を照らしてくれる。響き渡る足音の持ち主達は、これから何処へ向かうのだろう。臙脂色の電車は早くも反対方向を目指す人々を乗せ始めた。
 身体の強張りが消えた所で、葛葉は流れに加わり改札を出た。今日は待ちに待った特別な日、ここはほんの入り口に過ぎない。葛葉は情報が発表された日から、まだ見ぬその全貌を幾度も思い描いては、育っていく期待を慈しんできたのだ。足取りは自然と軽くなる。
 案内板を頼りに地下通路を進めば、やがて大勢の人々が出入りする建物へ行き着いた。老舗百貨店のどっしりした外観を見る事はできないが、葛葉の行先は特定のフロアのみだから気にならない。上品な化粧を施した店員を横目に見ながら、葛葉は上階へ続く道を探した。5階というのは、エスカレーターかエレベーターどちらを使うか微妙に悩む距離感だが、寄り道する気のない葛葉は後者を選ぶ事にした。喉の奥で脈打つ気持ちをどうにか落ち着かせ、やたらと時間のかかるエレベーターを待つ。百貨店のエレベーターは何故こんなに遅いのだろう。
 どうやら同じ目的地に向かうだろう親子連れや同年代の青年、外国人観光客と共に葛葉はエレベーターへ乗り込んだ。一つずつ増えていく階数は、まるで夢の世界へのカウントダウン。1階、2階。下に押し付けられる感覚は取り立てて気にするものでもない。ただ鼓動だけが早まっていく。遂に電光表示は5を示し、止まった。眩しい明かりと共に吹き込む軽快なBGMは、慣れ親しんだあの音楽だ。小学生くらいの少年が歓声を上げて飛び出した。
 そうここは、ポケモンセンターキョウト。10店舗目としてオープンしたポケモングッズ専門店だ。お馴染みピカチュウと、土地柄を意識したのか御三家ではなくホウホウが出迎えてくれる。オープン初日とあってぴかぴかの店内は、既に沢山の笑顔で満ちていた。
 年甲斐もなくはしゃいで駆け寄ったりしないよう、努めて冷静に振る舞う葛葉は、頬が緩んでいる事に気づいていない。しかし、それを誰も不審に思わなかった。ポケモンというコンテンツを愛する者なら皆葛葉の気持ちがわかるだろう。千葉や大阪の超大型テーマパークにはとても敵わないが、ここはポケモンファンにとっては夢の国なのだ。
 モニターでは今後のアニメの動向や映画の予告、年内発売予定の新作ゲームの話題などを映し、つい気になって画面に目を向けてしまう。ジガルデやボルケニオン、マギアナも気になるが、やはり注目したいのは最新作。まだタイトルくらいしか情報はないが、新たに出会えるポケモンに想像と期待が膨らむ。今度は草御三家に鳥が来るような気がする。ジムリーダーや敵キャラのデザインにも注目だ。
 さて、何を買おうか。葛葉は改めて店内を見回した。古の都、京都という事もあり、和風デザインの限定グッズが目立つ。ポケモンらしいカラフルな色合いは、眺めるだけでも楽しくなってくるものだ。中でも目を引くのは、所狭しと並べられた愛らしいぬいぐるみ達。京都にちなんだ舞妓はん衣装のピカチュウを始め、人気のブイズに、伝説ポケモン、御三家、メガ進化、たまにどういうチョイスかわからないポケモンも交じっているのが面白い。大きなものは持ち帰るのが大変そうだし値段も気になるところだが、一つや二つ部屋に置いたらきっと可愛いだろう。カビゴンクッションはもう少し安ければ予約していたのだが。
 他にはクッキーを始めお菓子類、メタルチャーム、ストラップのようなアクセサリー系や、ポーチ、ハンカチ、クリアファイルなど日用品。最近は大人向けのポケモングッズも次々売り出されていて、パッと見はポケモンだとわからないようなデザインのものも多い。以前電車内で目撃したOLのスマホカバーが、よく見るとポケモンだった事を思い出す。葛葉だけでなく、ポケモンと共に育った人は大勢いるのだ。
 足の向くまま棚を巡り、買い物カゴに目ぼしいグッズを放り込んでいると、その出会いは唐突に訪れた。
 ぬいぐるみストラップが並ぶ一角に彼らはぶら下がっていた。成る程、彼らも和風のイメージに似合うポケモンだ。優しいクリーム色に、ちょこんと揃えた前脚、ふわふわの尻尾が背後を飾る。
「キュウコン……」
 思わず口走ってしまったが仕方のない事だろう。葛葉の大好きなポケモンが歓迎するかのように円らな瞳を向けていれば、興奮しない方が難しいというもの。キュウコンのぬいぐるみストラップを手に取りながら、葛葉の脳裏に懐かしい記憶が蘇った。
 最初の出会いはまだ小学校低学年だった頃。プレイした緑バージョンでキュウコンは相棒だった。当時炎タイプは決して強いタイプではなかったが、炎の渦の拘束技が随分と重宝したのを覚えているし、何より外見が好みだった。可愛くて、格好良くて、凛々しくて神秘的。狐のイメージを目一杯際立たせたデザインのポケモンに、幼い葛葉は一目惚れした。
 あれから銀、ルビー、リーフグリーン、ダイヤ、ハートゴールド、ブラック、ブラック2、X、アルファサファイアとプレイしてきたが、キュウコンは毎回必ず手持ちに入れるほど大好きだ。そんなキュウコンの愛くるしくデフォルメされたぬいぐるみとあっては、買う以外の選択肢が浮かばない。葛葉は値札を見ずにカゴに入れた。普段はこんな浪費家ではないのだが、今日は特別だ。次の機会はいつ巡ってくるとも知れず、それならば後悔のないようにこの機会を活用しなければ。そんな考えの元ですっかり買い物カゴが重くなった頃、葛葉は漸くレジに並んだ。バイトの女性も初日なせいかややぎこちないが、特に滞りなく会計も終わる。
「ありがとうございましたー」
 元気な声に見送られ、葛葉はほくほく顔でポケモンセンターを後にする。した所で、少し困ってしまった。
 張り切って開店直後に来たために逆に時間が余ってしまったのだ。色々と買い込んだせいで諭吉がいなくなってしまい、百貨店で買い物を楽しむのも厳しい。かと言ってまっすぐ帰るのも何だか勿体無い。悩んだ葛葉は壁に寄りかかり、鞄からスマホを取り出した。
 低予算で観光できそうな場所を検索すると、間も無くスクロールの指が止まった。掲載された写真が一際目を引いたのも要因だろう。複雑な濃淡を紡ぐ緑を背景に、場違いのようで妙に馴染む朱色の回廊。
 その場所の名は『伏見稲荷大社』。外国人が選ぶ日本の観光地1位であり、京都で最も有名な神社の一つでもある。全国に点在する稲荷神社の総本山として名高いが、それよりも人々を惹きつけてやまないのが、延々と続く赤に縁取られた千本鳥居。一生に一度は見ておくべき、と多くの旅行サイトに口添えされている有名な観光地だ。賽銭やお守りなどを別にすれば無料で参拝できる上、最寄り駅の伏見稲荷へは、現在地からは10分程の距離にある祗園四条まで歩かなければならないが、そこから10分、210円。意外と近い。
 せっかく京都に来たんだし、足を伸ばしてみよう。それにキュウコンへの気持ちを再確認した後だ。可愛いキュウコンと一緒にお稲荷さんに会いに行くのも一興。よし、午後は伏見稲荷観光に決まり。
 早めにお昼を済ませる事にして、葛葉は駅近くのカフェでも探そうと再び検索をかけた。




 京阪電鉄に揺られる事10分、到着した伏見稲荷駅は、一目でかの有名な神社の最寄り駅なのだと納得させられる。
 どこにでもあるはずの駅ですら、不可思議な空気を漂わせていた。朱に塗られた柱、梁、ベンチ。描かれた白狐が訪れる者を見守り、聖域へと誘う。小さな駅だったが、それが却って非日常的な雰囲気を助長させているようだった。
 荷物をコインロッカーに預けて駅を出れば、早くも稲穂を咥えた狐の像が出迎える。隣には『伏見稲荷大社』と掘られた石が聳え、葛葉が今正に、かの有名な観光地を踏み締めようとしているのだと教えてくれる。現世と神域との境界を示す一の鳥居だけでも随分と立派だが、伏見稲荷の醍醐味はまだもう少し先だ。預けずに鞄につけて連れてきたキュウコンのストラップを指先で軽く撫で、葛葉は坂道を登り始めた。
 車が通れる程幅広い参道を登っていくと、二の鳥居の向こうから荘厳な佇まいの本殿が近づいてきた。重要文化財の伏見稲荷大社御本殿は、社殿としてはかなりの大きさを誇り、朱色を基調としながらも輝きを失わない金の装飾によって神聖に、艶やかに彩られている。狛犬の代わりに狐の像が鎮座し、向かって左側の狐は鍵を咥え、右の狐は宝珠を咥えていた。歴史や建築に詳しくない葛葉でも、ここが如何に煌びやかで手の込んだ造りになっているかはひしひしと感じる事ができた。つまり、それだけこの建物に人々は願いを心を信仰を込め、神社を今日まで大切に守り抜いてきたのだ。古から数えきれないほどの願いを聞き入れ、叶えてきた証でもある。葛葉は鞄にぶら下がる自分の狐を無意識に撫でた。
 もし、もしこの大好きなキュウコンと遊べたら、どんなに楽しいだろう。一度でいいからキュウコンに会えたら良いのに。本殿の造りに感嘆しながら、葛葉は呼吸するように空想していた。あの柔らかそうな毛並みを撫でる事ができたら、どんな感触なんだろう。懐いて自分をトレーナーと認めてくれたらどんなに嬉しいだろう。ゲームのように一緒に冒険できたら、どんなに楽しいだろう。ポケモンセンターに行ったおかげで童心を思い出していた葛葉は、小さな頃に描いた絵空事を久しぶりに辿っていた。しかしふと我に返り、ひっそり頬を染めた。声に出したのではないから、誰かに聞かれるはずもない。それでも何となく恥ずかしくなって、葛葉は本殿を後にした。
 一応葛葉にだって叶えて欲しい願いはある。就職の事、恋愛の事、将来の事、病気や怪我もなく幸せに暮らせますように。誰もが抱くささやかで自分勝手な願い。だが鈴を鳴らしてまで神様にお伺いを立てるほどでもないかと、葛葉は参拝者の列に加わらなかった。元々観光目的で来たのだ。葛葉のお目当てはここではない。
 本殿の右側へ進むと何やら人が溜まっているエリアがある。そこが件の入り口なのだと、地図を見るまでもなく悟った。ポケモンセンターへ向かうエレベーターとはまた違った緊張感を胸に、葛葉は人群れに交じる。深呼吸して、顔を上げた。
 言葉が出なかった。
 ただ呼吸するだけで精一杯で、葛葉は考える事すら放棄した。
 魔除けの意味を持つ鮮やかな色彩が、神社固有の形態を以て立ち並び、それらが濃緑の木々を割り視界の果てまで続いている。他では絶対に拝む事の出来ない、唯一無二の情景がここにはある。観光客達が興奮した面持ちで、時に日本語以外の言語で語り合いながら写真を撮る。それらの猥雑な雰囲気さえ、神々しさを消し去る事は不可能だった。
 一歩を踏み出す。長い間人々を支えてきた石畳に、葛葉の靴音が新たに刻まれる。上を見ても、右を向いても左を向いても、前を向いても。命の色を彷彿とさせる赤い鳥居が山を切り取り、人々を導く。深呼吸して、葛葉は足を進めた。
 千本鳥居と呼ばれているが、到底千本には収まらない鳥居の数は、山全体で一万を越すとも言われ、管理者も正確な数は把握していないという。何しろ日々奉納され、建てられ、片や古いものは壊れ朽ち果てているのだから。それは何処か命の循環、果ては輪廻を彷彿とさせた。
 朱に染まる廻廊を巡る。
 持ち上げる者によって重さが変わるという不思議な石、おもかる石の置かれた奥の院。商売繁盛で知られる熊鷹大神の御塚が鎮まる熊鷹社。著名なもの無名なもの、大きなもの、小さなもの。沢山の社や塚を見ては、葛葉は伏見稲荷の奥深さに息を呑んだ。
 麓付近は人でごった返しているものの、山頂へ近づくに連れ人の数は減っていく。分かれ道のせいもあるだろうが、大抵の人は途中で引き返してしまう。山頂まで一時間以上とあっては軽い登山も同義だからだ。完全に無人の区画もでき、写真を撮るにはうってつけの場面が生まれる事も決して少なくはない。更に山全体が祀られている稲荷山は、看板には記されていない道も数多く潜んでいる。伏見稲荷大社の参道は一本道ではなく、幾つもの分かれ道を有するのだ。また、祠や社は参道の脇に突然現れたり、小さなお塚が無数に祀られた小道や修行のための通路など、実に複雑に入り組んでいる。
 だからこそ、いつの間にやら本道を外れている事に葛葉は気づかなかった。せっかく訪れた観光地なのだから、脇道の一本一本まで見て回りたいと葛葉は考えていたのも過ちの原因だろう。不幸な事に、他の多くの観光客と同じく葛葉は伏見稲荷の規模を見誤っていた。
「――」
 葛葉の意識を浮上させたのは不意の刺激だった。&ruby(ひとけ){人気};ない参道で何かが、葛葉の鼓膜を揺らした。透き通った鐘の音を限界まで薄切りにしたような、微かな高音。気のせいだと切り捨てる事は容易い。しかし無視するにはこの稲荷山の器は大き過ぎた。山は古くは、人智の及ばぬ者達の棲まう場所。神の社の総本山となれば尚更だ。ここは何かが起こっても可笑しくはない、そんな予感を確実に孕んでいた。
 音の気配に導かれ、葛葉は鳥居をくぐり続ける。満ちる大気は張り詰め、木々は息を潜めて行く末を見守った。鳥の声さえ止み、葛葉の追跡を邪魔しない。気配はいつしか明確な音として葛葉を呼んだ。鈴の音に似た獣の声だ。
 もしや、今自分はとんでもない奇跡の瞬間に巡り会ったのでは。自惚れと呼ぶには少々語弊のある考えが葛葉の中に芽生えていた。事実声は聞こえているのだから。無我夢中で登り続け、一心に音の元へ歩を進める。幾つの鳥居をくぐり抜けただろう。
 突如鳥居が途切れ、視界が開けた。葛葉は最後の鳥居の根本に立ち尽くす。
 小さな庭程の広さの空間を抱え、奥には白木の社がぽつんとひとつ。手入れはされているようで、時代の流れに晒され朽ちかけてはいるものの苔や雑草の類いはない。立て札も石碑もないため何の神を祀っているのかは定かではないが、葛葉の時間を止めたのはそんな些細なものではなかった。
 空き地の真ん中に一匹の狐が座り、じっとこちらを見ていた。狐は春の陽射しに似た柔らかな黄金色を身に纏い、長い九つの尾を優美に風に遊ばせている。すらりとした四肢を揃えて、知的な紅い瞳は優しく濡れていた。葛葉は目を疑った。きっと誰しも、手の中のぬいぐるみと同じ姿をしたものが現れれば、夢か現かを今一度確かめたくなるだろう。古典的な方法だが葛葉は頬を抓ってみた。じんじん広がる痺痛は本物で、しかし現実に適応しきってしまった葛葉の脳は混乱する。ポケモンが現実にいるなんて有り得ない、と。結果として葛葉は何も言えず、動く事も出来ず、その場に棒立ちするしか手立てはなかった。距離を詰めてきたのはキュウコンの姿をした狐の方だ。
「こーん」
 キュウコンは熱の残る頬をそっと舐めた。濡れた舌の感触、熱さ、唾液の音。いずれも本物としか思えない。ここでやっと脳が『キュウコンに似た動物と出会った』程度には状況を認識し始め、葛葉は漸く手足の自由を知る。
 恐る恐る葛葉が手を伸ばし、首元を撫でてやると、キュウコンは嬉しそうに目を細めて身体を押し付けてくる。現実に生きている犬や猫とそっくりな仕草だ。少なくとも、目の前にいるのは確かな生き物。
「キュウコン、キュウコンなんだね」
「こん、こん!」
 葛葉の問いにキュウコンは元気よく返事した。現実の動物と決定的に異なるのが、明らかに葛葉の言葉を理解している点だ。その一点が、葛葉の理性を懐かしく純粋なあの頃へ戻す引き金となった。
「っ、キュウコン! 大好き、ずっとずっと会いたかった!」
 葛葉はもう躊躇わなかった。誰にも見られず、傍にいるのは幼い頃から愛情を注いでいた愛おしい生き物。
 堰を切ったようにキュウコンの首元に抱き着くと、春の草原に咲く白い花に似た、微かな清楚な香りに包まれた。ほんのりと獣の匂いも混じっているが、決して不快感を覚えるようなものではなく、全体としては上品な香り。頬を撫でる毛並みは水を編んだかの如く柔らかく滑らかで、冬の陽だまりのような身に染みる温もりだった。
 葛葉は飽きもせずにキュウコンを撫で、抱き締め、名前を呼んで、ポケモンという理性的な獣に愛情を向けられる喜びを噛み締めた。キュウコンも葛葉が生涯のパートナーだというように甘え、擦り寄り、全身で愛情を表現した。葛葉の遠い記憶に色彩が加えられていく。初めて一緒に冒険したあの日が、まるで昨日体験したように葛葉には思えてきたのだ。あの日からずっと、キュウコンは葛葉と共に生きていたのだ。
 不思議な静けさの立ち込める小さな広間に、一人と一匹の笑い声が朗らかに響き渡った。誰も邪魔する者は居らず、世界はお互いだけで構成されていた。
「あー、ずっとキュウコンと一緒にいたいなぁ」
「こーん」
 幸せな時間は、何故あっという間に過ぎてしまうのか。葛葉がぽつりと呟くと、キュウコンは甘えた声で擦り寄ってきた。愛おしげに黄金色を抱き締めて、けれど葛葉はそっとキュウコンを押し返す。
「ごめんね、私、そろそろ帰らなきゃ」
 だんだんと影が伸びている事に葛葉は気づいていた。陽光が赤みを帯びれば、この夢は消える。昼が終われば夜が来ると知っているのと同じように、葛葉はキュウコンとの別れを悟っていた。
「お稲荷様、ありがとうございます。幸せな夢を見せて頂いて、本当に感謝しています」
 きっとどこかで聞いているだろう高位の存在に、心からの感謝を口にして。葛葉は踝を返した。キュウコンが寂しげに遠吠える。けれどこれは夢、お稲荷様が見せてくれた奇跡。必ず戻らなければいけない。夢に呑まれてはいけないのだ。葛葉の名残惜しい心を写すキュウコンに、絆されてはいけない。未練を断ち切り、現実を強く生きなくては。未来への活力を与えるために、お稲荷様は夢を見せてくれたのだから。最後にもう一度だけ振り返り、キュウコンの姿を目に焼き付け、葛葉は鳥居をくぐった。
 朱に染まる廻廊を巡る。
 入り陽が鳥居に茜色を上塗りして、より一層異界染みた色合いを醸し出していた。葛葉の靴が石段を打ち鳴らす快音だけが大気を制する。
 ただ静かで。
 静か過ぎた。
 誰ともすれ違わない。いや、皆下山する頃だ。正確には、誰とも合流できない。あれだけいた参拝者の気配が消え失せている。幾ら進んでも分かれ道は見えず、似たり寄ったりの景色が続くのみ。急激に不安に駆られ、葛葉は立ち止まった。気持ちを落ち着かせようと鞄のキュウコンを撫でながら、何か目印になるものはないかと周囲を見回す。
 葛葉の視線の先では枝葉が風にそよぎ、胸中と同じく不安げにざわついていた。一切の音を立てずに。
「なんで……」
 背後にぴたりと寄り添う薄闇が重い。もうじき夜になる。いくら神聖な神社と言えど、むしろ神社だからこそ、夜は人間が居ていい世界ではないと葛葉の本能が叫んでいた。夜の山は人ならざるもの達の支配する異界に他ならない。
 寒気が背骨を突き抜けたと同時に両端の灯篭が灯った。既に赤みの抜けた群青の空を朧に照らす。
 耐え切れず、ついに葛葉は走り出した。一本道である以上、辿り続ければ必ず本道へと戻れるはずだ。早く、誰でもいい、他の人に会いたい。その一心で葛葉は朱に染まる廻廊を巡る。息が切れる頃、とうとう前方で鳥居が途切れた。葛葉は安堵で泣きそうになる。
 なのに。
「嘘、でしょ……」
 葛葉が辿り着いたのは、あのキュウコンと戯れた社の広場だった。ここへ来るまで、一本道。広場から伸びる道は、一つ。葛葉はたった一つの小道をずっと下り続け、始まりへ戻ってきたのだ。この道は何処かと何処かを繋いですらいない。
 戻ってきた葛葉を歓迎するようにキュウコンが駆け寄ってきた。くぅくぅと喉を鳴らし、尾で優しく葛葉を包む。ただ真っ直ぐに葛葉を受け入れるキュウコンだけが純粋で平穏そのものの姿をしていた。しかし異常の只中に置かれた正常は、それ自体が何よりの異常である。不自然に優しいキュウコンが恐ろしくて堪らない。温かい尾で包まれているにも関わらず、葛葉の身体が震えだした。そうだ、鳥居の外へ走れば抜けられるかもしれない。観光地の山だから遭難はしないだろう。そんな考えが沸き出すも、あぶくとなってすぐさま潰えた。廻廊を外れ、完全に夜に呑まれた山中に飛び込む勇気などあるはずもなかった。灯篭の明かり届かぬ暗闇に、得体の知れない気配が蠢いている、そんな錯覚に葛葉は震え上がる。そして、錯覚であれば良いのにと切に願う。先程からキュウコンが暗闇を睨み唸り声を上げている。ざくりと裂けた肉食の牙の隙間から溢れる火種は、亡霊の如き青灰色。キュウコンは青い火を吐く設定があっただろうか。
 キュウコンは闇を威嚇しながらも葛葉を包む太い尾を解こうとはしなかった。灯篭照らす薄闇で、燐光を放つ銀の毛並みは美しくもどこかおぞましい。――銀? いつ色違いになったのだろう。何もかもが不可解で奇妙で、許容量を超えた葛葉の思考回路が悲鳴を上げていた。何かに縋りつきたい一心で葛葉は手にしたストラップを強く握る。布の塊は助けてはくれない。恐ろしくても、唯一頼れるのはすぐ傍の息遣いだけだ。
「キュウコン」
 か細く脆い葛葉の呼びかけに、キュウコンは尾を絡みつける力を強めた。守るように――或いは意地でも離さないとでも言うように。震える声で、葛葉は願う。
「私、帰りたい……」
 かえりたい。
 その言葉に、ぴたりとキュウコンは唸るのを止め、葛葉を視た。
 いや、それはもう既にキュウコンではなかった。
 赤い隈取りと紋様の刻まれた&ruby(おもて){面};は、子どもに愛されるキャラクターのものではなく、崇め奉られ畏れられるそれ。吊り上がった目の中で、石の瞳がぐるりと動く。胸元の飾り毛は緋色の前掛けに取って変わり、口に咥えた宝珠が妖しく渦巻く。いつか見た狐の像が命を宿し、葛葉を身の内に抱き締めていた。
『そう、還ろう。我が元へ』
 狐の声は声でありながら空気を打つ事なく、葛葉の脳へ直に染み渡る。じわり、染めていく。酷い乗り物酔いに似た、平衡感覚の消失した不快感が葛葉を取り込んだ。気持ち悪さに顔を顰めながら、葛葉は必死に抗う。駄目だ。今ここで意識を失ったら、自分はもう――。
 一介の人間が神の御使いに対して何ができると言うのだろう。葛葉の意識は願い空しく薄れつつあった。
『おいで』
 灯篭に照らされた朱が、葛葉の見た最後の色だった。




 現代で神隠しなど起こるはずもない。警察は事件に巻き込まれたものとみて、今も葛葉の行方を追っている。



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*あとがき [#aic5RXE]

まずはroot様、参加した作者の皆様方、第九回短編小説大会お疲れ様でした。
今年の1月末に実際に京都伏見稲荷大社へ行きまして。そこでずらりと並ぶ千本鳥居に深く感動したのがきっかけです。観光客の多さも気にならないほどのあの壮観な眺めは、確かに一生に一度は訪れたい場所だと納得させられました。結局その日はなんだかよくわからないやる気を発揮して、山頂まで踏破しました。いやーブーツで行くのはオススメできませんねー。
さて、あの体験をいつかお話に使いたいと考えていたのですが、まさかこんなに早く機会が巡ってくるとは思いませんでした。テーマは『かいこ』という事で、こじつけだけど『怪狐』、お稲荷さんで不思議体験をするお話にしようと決めました。造語だけではテーマに沿うかどうかわからないので、他にかいこっぽいものを探してみたら、ちょうどタイミングよくポケセンキョウトがオープンするじゃないですか。ついでに初代のVCも発売中。『懐古』ネタを絡めて形にする事ができました。今大会ならではのお話が書けたかな、と思います。
ポケセンキョウト、オープンしましたが、お話に書いた通り伏見稲荷まで20~30分あれば行けます。京都観光ついでに足を運んでみてはいかがでしょうか。残念ながら(?)キュウコンに出会ったという話は聞いた事はありませんが、不思議体験をされる方はちょくちょくいらっしゃるようです。私はとある区画で、やたら頭がぐらぐらした以外は変わった体験はできませんでしたが。
皆様も参拝の際はくれぐれもおキを憑けて。

以下、コメントレスです。


>少しゾッとするような今大会では異質の作品でした。観光気分とキュウコン気分を同時に味わえて豪華に感じました。面白かったです。 (2016/03/05(土) 07:42)
初めはキュウコンとの思い出を胸に、とハッピーエンドにする予定でした。しかし、キュウコン好きが稲荷神社に行く時点でなんとなく話が読めてしまうような気がしたので、最後に一捻り入れようとした結果ホラーテイストで終わりました。
機会がありましたら是非京都観光にお出かけください!


>ポケセンキョウト、伏見稲荷大社共に精細な情景で、引き込まれるほどの臨場感を感じます。伏見大社には僕も数年前行っておりまして、果てしなく続く神秘的な鳥居の列に圧倒されたものです。書かれた通り広大過ぎるので麓を廻っただけで引き返しましたが、また機会があったら奥まで巡りたいところです。その時は連れていかれないように気をつけないといけませんねw
(2016/03/05(土) 20:35)
ポケセン(オーサカですが)、伏見稲荷とも記憶に新しいものでしたので、それが臨場感を出すのに役立ったかと思います。書くために体験したり取材したりって大切ですね。実際に伏見稲荷に行った経験のある方から、臨場感があったと言って頂けるととても嬉しいです。
次に行かれる時は、奇妙な世界に迷い込まないように、しっかり足元を踏みしめて歩いてくださいねw


>ポケモンセンターに行った時のワクワク感。初代からの頼れるパートナーポケモンへの想い。文章表現がとても上手いこともあり、読んでる私自身がすごく懐古してしまい、胸にグッときました。そしてキュウコンが登場した際の描写も素晴らしく、作者様のキュウコン愛も強く感じました。最後の展開も含めて、本当に面白い作品でした。ありがとうございました!
(2016/03/05(土) 22:04)
前半部分はお話の中だけではなく、読み手の方にも懐古を感じて頂けたら、という思いを込めて書きましたので、そういった感想を頂けて幸いです。新しいポケモン達ももちろん素敵ですが、初めてプレイしたゲームでの相棒はやはり特別な思い入れがありますね。キュウコンと出会うシーンではもふもふ!ふわふわ!くんかくんか!うわー!!を目いっぱい込めました。きっと伝わると思います。
こちらこそ読んで頂き、貴重な一票まで投じて頂きありがとうございました!


最後になりましたが、投票して下さった方、閲覧して頂いた方、本当にありがとうございました!

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