作者:[[ウルラ]] リーフィア視点 → [[過去との決別]] #contents **園への訪問者 [#hcd36c60] ***-1- [#bbf6777b] あのトウヤがブラッキーを受け入れてからもうすぐ二年……。 事の発端だったトウヤはついに10歳になり、ブラッキーはトウヤのポケモンとして認められるようになった。しかし本人は旅に出る気は全くないようだが、母も特に気にしてはいないし、それはそれで構わないのかもしれない……。 ――頭の中で二年前の出来事を昨日のことのように思い出し、反芻させながら窓のサッシに手を掛けて何となしに外を眺める。涼しい空気が頬をゆっくりと掠めた。 夏休み真っ最中のため、日がな一日何もすることがない。高校の夏期休暇中に出る課題はすでに終わらせてしまっているし、他にすることも特にない。やることと言えば、トウヤとブラッキーの喧嘩を仲裁する事ぐらいか。 「ん……?」 ふと外の風景に変化があることに気付き、小さく疑問の声を上げる。変化があったのは、母が趣味で育てている果樹園の中。確かにその中に、先程は居なかった何かが居る。 白みがかった灰色と黒のコントラストに、すらりと伸びるやや細めの四肢。その足先から見える鋭利な爪に、長い口から覗くのは肉食類の鋭い牙。 その牙で木の実をむしり取っては地面に置いていく。口でより多くの木の実を掴めるようにするためか、枝が少し木の実についたままだ。……それとも、ただ不器用なだけなのか。 次々に木の実を取っていく様子を窓から数分の間見ていると、こちらの視線に気付いたのか、グラエナはふと赤い目をこちらに向ける。だが、なかなかそいつが目を反らさないからどうしようかと考え出したところ、そいつはすぐさま口に木の実をくわえて森の中へと入っていってしまった。 「行っちまったか……」 何故か名残惜しくも感じながらも、窓から視線を外す。このまま自分の部屋でぼーっとしてるのも何だから、一階のリビングに降りて何か飲もう。そのついでにグラエナが果樹園の木の実を取ってたことを母に伝えておくか……。 よっ、と力むと同時に椅子から立ち上がった。何だか随分と椅子に座っていたような気がする。それを裏付けるかのように、軽く背を捻ると腱がパキパキと音が鳴った。ゴキッというほど自分はヤワじゃない……と、思う。 体のあちこちをほぐし終えた後、ドアを開けて階段を降りてリビングへと向かった。 とす、とす、とすっ、と靴下が擦れるような音と階段に足がつく音が響く。降り終えると右方向にくるりと向かい始める。細かな凹凸で向こう側が見えないガラスの付いたドアを開け、リビングに入る。 「あ……?」 不意に足先に何かふさふさしたものが当たる。視線を下ろすと黄色い毛玉が揺れていて、その先には同じく橙色のふさふさした毛。……あれ、家にブースターなんかいたっけか。 怪訝そうな表情を浮かべた俺の顔を、そのブースターは黒い瞳でしばらく凝視してくる。やがてそのブースターの方も理解が出来ないかのように首を傾げた。何なんだろ、こいつ。 「あ、リョウ。丁度、呼ぼうと思ってたところ。こっちの方は私の姉の息子さん。つまりいとこ。ヒイラギさんよ」 こちらに気付くなりやや早口で事情を説明し始める母。手を指した先には椅子に座る青年の男の人。とはいえ俺とあまり年は変わらない感じがする。ヒイラギというらしいその青年はこちらに軽く一礼をしてから口を開いた。 「どうも。ヒイラギです。リョウ君……で、いいんだよね?」 「あ〜……こちらこそどうも」 いとこに会うというよりかは見知らぬ誰かに会った感覚しかしない。そのためか口からは堅い言葉しか返せなくなってしまう。今まで全く顔合わせなんかしていないのだから、当たり前といえば当たり前かもしれないが。 そんなこちらの心境を察してなのかは分からないが、ヒイラギは未だに俺の足下にいるブースターを手を向けて口を開いた。 「そっちは見てのとおり僕のブースター。ちょっと抜けてるところあるけど、あまり気にしないで」 「ああ……うん。そうしとくよ」 人の足下にいながら呑気に欠伸をしているのを見ると、本当にどこか抜けている感じがある。さっきまでは警戒するようにこちらをジロジロ眺めていたのに……もう慣れたのだろうか。 ヒイラギはブースターの相変わらずな様子を見て苦笑いをすると、次に、といった感じで彼の膝の上で丸まっているリーフィアに視線を移す。 「で、こっちがリーフィア。ちょっと色々あって警戒心が強いけど、君なら大丈夫そうだね」 彼はそう言うと笑みを見せながらリーフィアを撫でる。彼の言うとおり、リーフィアがこちらを警戒しているような視線を感じていた。このリビングに入った時から感じた違和感はこの警戒された感じだったのか。勿論、少なからず母も警戒されているだろう。 大丈夫そうだね、とは言われたものの、あまりリーフィアには近づかない方がいいのかもしれない。 「で、自己紹介とか終わったところで……リョウ、ちょっとトウヤを呼んできてくれない? あとブラちゃんも」 「分かったよ」 母がブラッキーのことをブラちゃんと呼ぶのも相変わらず。今ではさほど気にしてはいないが、やはり普通の呼び方の方が些か問題がなくていいような気がする。たとえば視界の隅で軽く笑っているヒイラギとか。 そんな考えを頭の中で浮かばせながらもリビングを出て二階のトウヤの部屋へと向かう。多分居るだろうけどやけに静かなのはなんでだろうか。まあ、部屋の中確かめれば済む疑問だから考えても意味ないか。 トウヤの部屋のドアノブを回して開ける。あえてノックはしない。一瞬だけバタバタしている音が聞こえたものの、中を見てみると普通に部屋で座っているトウヤとブラッキーの姿があった。 「おまえら何してんの。やけに静かだったけど……」 「何って……ぼぉっとしてた」 「ブラッ」 トウヤの答えの後に、ブラッキーが肯定の意を示すかのように鳴き声をあげる。まあ、夏場だし頭が回らないのは俺と一緒か……。 「母さんが呼んでる。あといとこのヒイラギって人が来てる」 「分かった。行くよブラッキー」 用件を伝えると、トウヤは頷いてブラッキーにそう言った。ブラッキーは「ブラッ!」と一鳴きすると、トウヤの後について行った。 その後に続こうとしたが、部屋の中を漂う妙な臭いに顔をしかめる。なんというか接着剤のシンナーの臭いというかなんというか。バナナみたいな臭いとも言うべきか。そんな臭いを気にしながらも、俺はトウヤの部屋を後にした。 トウヤの後に続くようにしてリビングに戻ると、すでに自己紹介をそれぞれ終えた後なのか、いつの間にか会話が進展していた。 「じゃあしばらくの間、リーフィアとブースターは君に任せてもいいかな」 「うん!」 どうやらトウヤがヒイラギのポケモンの面倒を見るらしい。……ってなんで。ブラッキーの世話さえ一杯一杯のにいきなり二匹も増えたら無理だろう。母も同じ心境なのか、やや心配そうに目を細めてトウヤを見ている。 そんなことなどお構いなしにトウヤはリーフィアに近づいて行った。なんだかヤバい気がする。ブースターがさきほどからこちらとトウヤを何度も見ているのは何かを訴えようとしているからなのか。 「フィッ!」 「痛っ!」 リビングにリーフィアの鳴き声とトウヤの叫び声が木霊した。その出来事に目を見開いたのは母だけではなかった。足下にいるブースターも、膝にリーフィアを乗せているヒイラギ自身も。 リーフィアが撫でようとしたトウヤの指を咬んだのだ。 「な、何してるんだリーフィア! ……すみません」 「あ、いや……ヒイラギ君が悪いわけじゃないから……」 母はそういうが、明らかに動揺を隠せない様子。それを感じているヒイラギも気が気ではないだろう。 一方、トウヤは指を押さえてリーフィアを見ているが、その目には怒るような兆しはない。驚きの方が大きいのだろう。 「リーフィアっ。何で人のこと咬んだんだっ」 リーフィアはヒイラギの顔を見上げると、違うソファの上に飛び乗って丸まってしまう。それをみて彼はため息をつくばかりだった。 「トウヤ君ごめんね。指、大丈夫?」 トウヤはリーフィアの方を見ながらも彼の問いに頷いた。トウヤは母の方に向き直って言った。 「これからしばらく泊めてもらうのに……本当にすみませんっ」 「いや、本当にもういいから。第一、君のせいじゃないし」 必死に頭を下げるヒイラギ。そんな様子の彼を慌てて止めるように母はそう言う。現にトウヤ自身が啜り泣いてもいないし、指から血が出ているわけでもない。 ふと彼の言葉を頭の中の記憶から辿り、疑問が一つ。それを聞くために重々しい空気を破って、俺は口を開いた。 「あれ、ヒイラギ……さんって家に泊まるんだ」 気が抜けていたのか危うく『さん』を付け忘れそうになり、少し踏みとどまった言い方になってしまう。それを気にせずに、母は話題を変えようとその問いに答えた。 「一週間くらい、家に泊まる事になってるのよ。本当はリョウとトウヤが揃った時に話したかったんだけど……」 「トウヤがさっさと話を進めたわけか」 そう呟くように相槌をうって横目でトウヤを見るが、相変わらずリーフィアから視線を外そうとしない。気にしても仕方ないと、再び母の方へと目を戻した。 母は考え込むかのように黒い瞳を少しだけ泳がせている。何を話そうか迷っているようで、重い空気は一向に無くならない。俺はため息をしてから、疑問を口にしてみる。 「一つ気になったんだけど、さっきトウヤが言ってた、『ヒイラギさんのポケモンを世話する』とかって何」 「ああ、それね。ヒイラギ君が絵を描きに行ってる間、リーフィアとブースターの世話を私達がするっていう話。それをトウヤが聞いて、張り切っちゃってさ」 つまりヒイラギは絵を描くためにここの近くまできて、丁度良いからうちに泊まりに来たと。そして絵を描く間は俺たちが二匹の世話をする……。ブースターの方は放っておいても大丈夫そうではあるが、問題はリーフィアだった。 トウヤに任せても大丈夫なのだろうか。リーフィアは何だかヒイラギ以外の人間に警戒心丸出しだし、ブラッキーは何だかそわそわしてるし、トウヤは恐がりもせずにまた近付いて行ってるし……。 痛っ、と再びリーフィアに咬まれるトウヤを見て、考えている不安が現実になりそうで。ただただ、ため息をつくしかなかった。 ---- ***-2- [#b0e680e2] 「はぁ……」 困り果てたようにため息をついて、青年は椅子に座り込んだ。 あのリーフィアがトウヤを咬んだ騒ぎについては、ヒイラギが何度も頭を下げて終わった。しかし問題はトウヤがあのリーフィアの面倒を見れるかどうかだ。 嫌われている上にあの威嚇する様子を見ていると、何か相当な理由があるのだろう。聞き出せるのなら聞き出してみたいが、生憎と相手はポケモンだ。聞ける筈もない。 咬まれたわりにはトウヤはあくまでも『面倒を見たい』の一点張りで、止めておけという言葉にも決して首を縦に振らない。元々そういう性格であることは分かっているし、梃子でも動かないことも知っている。 それでも、さすがにあのリーフィアを任せるのはトウヤの身に危険が及んでもおかしくはないのだ。ブラッキーのこともあるし、個人的にあまり任せたくはなかった。 母はトウヤに任せてみると言って聞かないし、微かにどうにでもなれと心の中で思ってしまっている自分自身が情けなかった。それとも、自分が無駄に心配しすぎなのだろうか。 「あ……」 窓の方を見てふと思い出した。あのグラエナのことを母に伝えるのをすっかり忘れていた。そう思うより先に椅子から立ち上がると、軽く伸びをして体をほぐす。そしてリビングに降りるためにドアを開けて部屋を出て行った。 ――リビングのドアを開けると、そこには母が一人椅子に座り、コーヒーを飲みながらくつろいでいた。ヒイラギはどうやら空いている部屋で荷物の整理でもしているのだろうか、リビングにはいなかった。 母は読んでいた週刊雑誌から軽く目を離してこちらを見る。しかし、『何だお前か』といったような表情をした後にまた雑誌へと目をやってしまう。トウヤの話についてされると思っているのだろうか。 「お客さん来てるのに大分日常的な雰囲気だな」 「この時間は私の自由時間って決めてるのよ。毎日家事やってるんだからそれくらいの贅沢は欲しい」 コーヒーを飲み込んだ後、そう言い放ってまた雑誌を読み始める。何というか、トウヤがリーフィアとブースターの面倒を見ることを反対するような言葉を言うのを警戒しているような気がする。 とにもかくにも、この雰囲気では話しにくいのでさり気なくこう会話に入れるしかなかった。 「あ、そうそう。裏庭に果樹園あるじゃん」 「……それが?」 「グラエナが木の実取って行ってたけど、柵とか作らなくて大丈夫?」 母は一旦雑誌を裏向きにして置くと、コーヒーをおかわりしにカウンターキッチンへと向かう。歩きながらも母は言う。 「元々あの果樹園の木は、あの森から取ってきた木の実の種から育てたのよ。だから成った木の実は森のポケモンが取っても何も問題はないでしょ? 還元よ、還元」 その言葉が終わると共に、丁度カップにコーヒーを入れ終えた。確かに母の言ってることは間違いではないが、結構な量を取られていったから、果たして現場をみた時にそう言ってられるか不安だ。 ふと母が怪訝そうな表情をする。コーヒーを飲もうとした手が止まるほど、何か思うことでもあるのだろうか。やがて口を開く。 「そう言えばそのグラエナ、なんで森からわざわざここまで来たんだろうかね。最近よく見かけてはいたけど、いつも一匹よね」 いつも一匹……? 群からはぐれたのだろうか? 確かに母のいうことが気になる。森に一度入ったことはあるが、その中に木の実は余りあるほど沢山成っていた。いくら森のポケモンが増えたとしても、木の実がなくなるとは思えない。 それにグラエナはやや雑食性ではあるが、本来は肉食性のはず。わざわざ木の実をあんなに持っていくだろうか。 しかしそんなこと考えていても分かるわけではない。実際に森に行ってみることでもしない限りは……。 「とにかく。グラエナが来てもあまり気にしないこと。あと近づかないこと。あくまでも野生のポケモンだから、襲われても文句は言えないし」 一差し指を立ててそう注意する母の言葉に頷くと、踵を返して自分の部屋に戻ろうとする。だが、服の襟を掴まれて体がくっと止まった。何をするんだと母を睨むものの、それは全く効果がなかったようだ。 「野生のポケモンで思い出したんだけど。あんた、自分のポケモンをいつになったら持つのよ。とっくに持てる年齢なのに、手持ちがいないなんて損だと思うわよ」 「いずれ見つけるよ……」 そういいながら襟を掴まれた手をふりほどくと、やや早足でリビングを後にした。 ――自分の部屋に戻るために階段を上がっていくが、どうにも母の言葉が引っかかってしょうがない。 確かにもうポケモンを持てる年齢ではある。しかし、かつてのイーブイ(今はブラッキーだが)の事を考えると、自身がポケモンを、ましてや命を預かることが恐く感じてしまうのだ。 今は母やトウヤと共にブラッキーの世話をしていたからさして苦にはならなかったが、一人でポケモンを育てるとなると相当な苦労があると思えて仕方がない。少なくともポケモンを捨てる人の理由の大半がそれである。 仮にポケモンを捕まえて一緒に暮らすことになったとしても、果たしてうまくやっていけるか、自分は捨てないできちんと面倒を見れるのか。そんな不安ばかりが先だってうまく行動に移せなかった。 ……自分の部屋に着いて椅子に腰掛けた途端。ふと廊下から誰かの足音と、それに合わせるように鳴るカチカチという音。恐らく爪がフローリングを叩く音だろう。音的に二匹くらいはいるから、きっとヒイラギの手持ちであるリーフィアとブースターか。行くとなるとトウヤの部屋だろう。 (あまり面倒なことが起こらなければいいが……) 色々起こりえそうな気がすることを頭の中で思い浮かべながら、廊下の様子を見に再び椅子から立ち上がった。 ――やはり一悶着起きている。と言った方がいいのだろうか。リーフィアがヒイラギから離れるのを頑なに拒んでいる様子が見て取れた。隣にいるブースターが必死になだめようとしているのか、ヒイラギとリーフィアの間に入り込もうとしていた。 「あ、ごめんね。騒々しくて……」 「あー。家ではいつものことだから」 別に気を遣ったわけではない。本当のことだ。実際、ブラッキーとトウヤの揉め事なんか日常茶飯事だし、ここら辺をドタバタするのも毎日あることだから耐性はある程度ついている。……自慢出来ることじゃないけど。 「フィー! フィッ!」 リーフィアの様子を見るところ、やはりトウヤに世話を見られるのが嫌なのか、それともヒイラギから離れるのが嫌なのか。そのどちらかなのかは分からないが、とりあえず一生懸命に彼から離れないようにしているのは見て分かった。 しばらくなだめるまで時間がかかりそうになることを、ヒイラギがしゃがみ込んだのを見て何となく感づく。始終様子を見ているのも、リーフィアが落ち着かなくなるかもしれない。踵を返し、自分の部屋に戻ることにした。 部屋の戸を閉めて、ふぅと一息をつく。色々なことが起こりすぎて上手く整理が出来ていないのかもしれない。ヒイラギが泊まり込みをすることやトウヤがあの二匹の面倒を見ること。更には果樹園のグラエナのこと。 ……そういえばあのグラエナはどうしているのだろうか。今まで森から出てくるポケモンは何度か目にしたことはあるが、果樹園にまで入ってきたポケモンはあのグラエナだけだ。しかしそんなことを抜きにしてもやけにあのグラエナが気にかかっている。 「……らしくないなぁ、俺」 俺らしいことってなんだよと頭の隅のつっこみを無視しつつ。何となしに窓から再び下にある果樹園に目を向けてみる。……何もいない。 朝にあれだけ取っていったのだから、また更に取りにくることはまずないとは思うが、何故か来ていることを期待してしまう。やはり今までにないとっかかりを、そのグラエナに感じているのは事実だった。 「……!」 ふと目の隅になにやら動く黒い塊が見えて、縁に寄りかかって曲げていた肘を真っ直ぐにしてしまう。すぐさまそこに焦点を合わせると、そこには確かにいた。あのグラエナだ。 何故かはやる気持ちを抑えきれず、母の忠告など頭から抜けてしまう。少しでもいいから近づいてみたい、あのグラエナに。例え言葉が通じなくとも、トウヤとブラッキーのような意思の疎通は出来そうな気がしたから。 部屋のドアを開けると、そこには未だに説得をするヒイラギの姿と、さっきよりかは幾分か落ち着いたリーフィアの姿があった。それを後目に、階段を駆け下りる。急がないとあのグラエナはすぐにどこかへ行ってしまいそうな思いがあった。 やがて玄関に差し掛かると、靴に履き替えて果樹園の方へと飛び出すのだった。 ---- ***-3- [#x2037ac1] 玄関を出て、家の庭へと急ぐ。何故こんなにも自分はあのグラエナに近付きたいと思うのだろうか。 森のポケモンに出会うことは、家が森に隣接しているからよくあること。でもこんな風に自分から近付くようなことはなかった気がする。というのも、元々ポケモン自体あまり好きではなかったし、たまに凶暴なポケモンに出会うこともあったから自分から近付いたりはしなかった。 (いた……!) 庭の外から果樹園を覗くと見える、灰色と黒のコントラストに、赤く燃えるような瞳。そこには確かにグラエナがいた。警戒しているのだろうか。さっきから頻りに辺りを見回したり、俺の部屋の窓を見上げたりしている。また見つからないようにと用心しているのか。 あんなに警戒しているのだから、驚かしてしまったら襲ってくるか、逃げるか。そのどちらかだろう。前者にはなってほしくはないが、元々そのくらいの覚悟では来ているから襲われても誰にも文句は言えない。 まずはゆっくりと庭の芝生に足を踏み入れる。どうやら気付かれてはいないらしく、未だに木の実を一つずつ丁寧に咬み切って落としている。結構几帳面な性格なのかもしれない。 ゆっくり。でもなるべく早めに歩いていく。やがてグラエナの毛が細かく見えるほどに近付いていたところで、一旦止まる。これ以上近付いたらきっと、気付かれてしまうだろうから。 「……!」 不意に、こちらに振り向いたグラエナと目が合ってしまう。その赤い目には微かに焦りの表情が見えた気がする。もしかしたら写った自分の顔だったりするかもしれないが。 しばらくの硬直の後、はっと気付いたかのようにそのグラエナは森の方に向かって駆けだした。 「……! 待ってくれ!」 ポケモンに言葉が通じるかどうかすら怪しいのに、気付いたらグラエナを呼び止めていた。 ……そんなことで止まるわけがないと思っていた俺の予想を、そのグラエナは覆した。こちらを警戒するような視線を送りつけてはくるものの、体の向きを森に向けたままで走りだそうとしない。 そんなグラエナの行動に、より一層興味が深くなっていく。何故肉食なのに木の実を取るのか。何故森からわざわざくるのか……。考えれば考えるほど興味が沸いてくる。 「あ……」 近付こうとして足を動かした途端、グラエナは硬直を破って森の中へと逃げるように去ってしまう。ほんの一瞬の出来事に、自分はただ情けない一声をあげてその場で固まっていた。 「……戻るか」 グラエナに逃げられてしまったという虚しさを感じながらも、いつまでもここにいるわけにもいかないと立ち上がる。 そういえば、リーフィアやヒイラギ。トウヤはどうしているのだろうか。そろそろ戻った方がいいのかもしれない。とはいっても、何か問題が起きたとしても自分が何かやって収まるとも思えないが。 特にあのリーフィアはヒイラギにベッタリだし、トウヤはトウヤでなかなか根を曲げないし……。まさに頑固者同士で釣り合わないのは明白だった。 ――果樹園に接していた勝手口があるのを思い出し、そこから家の中に戻ってくる。そこはダイニングキッチンだった。 (……少し何か飲んでから部屋に戻るか) 近くに冷蔵庫があるから丁度良いと思って、キッチン奥へと向かう。ステンレスシンクに合わせた銀色の冷蔵庫を開けると、中にはおいしいみずにサイコソーダのペットボトルが占拠していた。 おいしいみずならともかく、サイコソーダという甘ったるい飲み物が大量にあるのは体に悪い気がする。特にトウヤなんかはがぶ飲みをするからそれが顕著になりそうだ。 「……ん?」 おいしいみずを取り出してコップに注いでいると、上から何やら物音が聞こえてくる。音からして普通の騒ぎ方じゃない。それに何か嫌な胸騒ぎがするのは気のせいなのだろうか。 中途半端に注いだそれを一気に飲み干すと、軽く濯いだコップを逆さに立てて置いておく。手で口元を軽く拭うと、二階に向かった。 「どうしたんだよ……これ」 その光景を見て呆然とした。床にへたり込んでいるトウヤに、それを心配そうにのぞき込んでいるブラッキーの姿が、そこにはあった。白い壁には鋭い得物で切ったような細い筋が無数に走っている。 「おいトウヤ。何があった。大丈夫か?」 そう訊ねるとトウヤは弱々しくも頷いた。粗方見てみても体に傷はないようだが、壁に刻まれた跡を見るととてつもない不安感を覚える。とにかく、トウヤが答えてくれなければ何が起こったのかが分からない。 「何があったんだ?」 「……リーフィアが」 「え?」 ぼそりと聞こえた言葉にそう言っていたのが分かった。多分、部屋にリーフィアが居ないところを見ると、原因はおそらくそうなのだろう。ブースターの方はただおろおろとするばかりで落ち着かないようだが……。 「……葉っぱカッターをしてきて、ブラッキーが」 「ブラッキーが守ってくれたのか」 暗い表情をしながらもゆっくりと話していくトウヤを後押しするようにそう聞くと、大きく頷いた。 もう一度ブラッキーの方を見るが、目立った傷がない。自分よりもトウヤのことを心配しているのを見ると、どうやら何かの技で防いだのかもしれない。……そういえば『まもる』を覚えていた気がする。その技を使ったと考えた方が自然だ。 「事は分かった。ブラッキー、トウヤを頼む」 「ブラッ!」 ブラッキーは威勢の良い鳴き声をあげて返事をしてくれる。これならトウヤを任せておいても大丈夫かもしれない。問題はこの壁とかリーフィアのことだ。とりあえず母に言っておかないといけないだろう。 部屋を出て階段を降りて行き、リビングを通り過ぎて奥へと向かう。そこが母の部屋だった。 ノックしてドアを開ける。そこには怪訝そうな表情をした母が立っていた。これから買い物に行こうとしていたようで、手には買い物バッグを提げている。 「どうしたの、リョウ」 「その……リーフィアがトウヤに技を使ったらしい。ブラッキーが守ったみたいだから今は大丈夫だけど……」 母がまた動揺しないかどうかが気になって話しづらかったが、何とか口からその言葉を絞り出す。母は少しだけ不安そうな表情を浮かべたが、悟られないためにかすぐに戻して口を開いた。 「リーフィアは今どこにいるの?」 「分からない。そこまで遠くへは行かないとは思うけど」 確信はなかった。だが、あの甘えん坊な性格のリーフィアに、いずれはヒイラギが帰って来るであろうこの家から離れることはないことが何となくだが分かるのだ。 そうでなくとも微妙に理性を感じさせる動作をしていたのだから、少なくとも街へ行ったところでヒイラギを見つけられないことは、リーフィアも分かっていると思う。 母は少しだけ考え込むような表情を見せると、やがて口を開いた。 「分かった。多分庭にいる」 「……はい?」 「だから、家の庭」 いきなり何を言うかと思えば、リーフィアの居場所を当てずっぽうで言い出す。もう一度問いかけないとよく意味が分からない。 「いや、いる場所を予想をするのはいいけど、俺にどうしろと。というかトウヤはどうすんの」 「リーフィアをここに連れてきて。トウヤやブラちゃんとかは私が見ておくから」 そんな母の言葉に戸惑いながらも自分は何故か頷いていた。 母の部屋からダイニングキッチンに戻り、リビングを通って裏の庭へと向かう。実際は果樹園と繋がってしまっているので、庭ともいえるが庭とはいえないかもしれない。 庭からぐるりと家の周囲を回れば、母が育てている果樹園に着く。そこには、黄白色の体毛と頭の大きな葉を風に靡かせながら、森を眺めているリーフィアがいた。 「あ、いたいた……」 思わずそう声を漏らしてしまうが、リーフィアはこちらを見て逃げることもせず、ただそこに立っているだけだった。 「何見てるんだ?」 リーフィアが答えられるはずもないが、無言で近付いていくのも警戒心を煽るだけと思い、声を掛けてみる。 だが、相変わらずそっけない態度をとるリーフィアに、半ば呆れながらも隣に座る。いきなりのことだったからか、リーフィアが視界の隅で驚いたのが分かった。 「……」 隣に座り込んだはいいものの、なにをすればいいのかが分からない。強制的に連れ帰ろうとすれば、トウヤのように技をかけられてしまうことになりかねないし、警戒心をより一層深めるだけだ。 とはいえどもずっとこのままなのも色々と問題があるかもしれない。今は夏。このまま外にいれば日射病でこちらがダウンしてしまうかもしれない。リーフィアは多分大丈夫かもしれないが。 「なぁ、何で見る人来る人警戒するんだ……?」 そう問いかけてみても、こちらに顔を向けることはない。相変わらず視線は森の方を向いていて、微動だにしなかった。しかし問いかけに少し首を俯かせたり表情が少しだけ変化するのは、何か思うところがあるからなんじゃないかと思う。ただの思い違いかもしれないが……。 「リョウさん……? それに、リーフィア?」 いきなり聞こえてきたヒイラギの声に、思わず隣のリーフィアと顔を見合わせてしまう。 リーフィアはその声がヒイラギのものだと分かった途端、彼の元へと走り出していた。 「わわっ! ちょっと今荷物で手がっ……!」 帰ってきたのがよほど嬉しかったのか、リーフィアはそのままの勢いでヒイラギに突っ込んだ。買い物袋で両手が塞がっていた彼はそれを手放すことを余儀なくされたのだった。 ヒイラギが買い物に行くときにあれだけ離れたくないと駄々をこねていたのだから、帰ってきてあれだけの甘え様は当然といえば当然かもしれない。しかしヒイラギにとっては大切であろうキャンパスなどを地面に置いてしまう羽目にはなっているのだが……彼自身はあまり気にしてはいなさそうだ。 「ああ、そうだ……ヒイラギさん。ちょっと荷物を置いて落ち着いたところで話があります……」 微笑ましい再会(とはいっても一時間も掛かってはいないのだが)の光景に忘れるところだった。“不祥事”を彼に伝えなければならないだろう。 「あの……リーフィアのことで」 その一言で、彼の顔から笑顔が消え去った。 ---- ***-4- [#of76270a] 「リーフィアのこと? なにか、あったんですか?」 ヒイラギが不安そうな顔をして、そう訊ねてくる。リーフィアの方はなにを話すのか分かっているようで、先ほどの笑みは何処かへ消えていた。そしてややうつむき気味。さっさと済ませた方がいいかもしれない。 「実は……」 ヒイラギが留守にしている間の事。つまり、リーフィアがトウヤに技を使ってしまったこと。それを彼に話すと、深くため息をつく。 「でも、トウヤには怪我とか無いので……」 「いや、違うんだ。トレーナーとして不甲斐ないなと思って……」 俺の言葉が心配を拭うものになるかと思ったが、そうではないみたいだった。彼は自分自身で責任とか背負い込みそうなタイプだから、恐らく今回のことも自分を責めているのだろう。自分の不手際だと思ってリーフィアを責めないところをみるとそうなのだろう。 何とも言い難い空気が、果樹園を覆うようにして流れていたような気がした。それを破ったのは、様子を見に来た母の声だった。 「リョウ、何してんの。って、あれ?」 母はヒイラギの姿を捉えると疑問の声を上げる。彼はなんと言えばいいのか分からないような顔をしていて、また気まずい空気が流れ出す。それを察してか、母は踵を返して言った。 「ここで話すのもなんだから、家の中に来て」 その言葉を聞いて、ヒイラギの表情が更に曇ったのは言うまでもない。勿論、足下にいたリーフィアも。 ――リビングに着くと、椅子に座ったトウヤと、その隣にはブラッキー。そしてヒイラギのブースターがそこには居た。ただ、あまり雰囲気の良い感じではないのは誰が見ても分かるほど。険悪というか、何か嫌なオーラが漂っているのは気にしないでおこう。 「ブラッ!」 リーフィアがヒイラギと共にリビングに入ってくるや否や、ブラッキーが非難の声を出す。多分オーラの原因はこれかもしれない。一方トウヤはリーフィアの方を見るだけで、その表情からは嫌悪とかそういった嫌な表情は一切無かった。 「こら、ブラッキー」 母が叱ると、ブラッキーは納得いかないような表情を浮かべながらも、リーフィアに対して睨むことを止めてそっぽを向いた。よほどトウヤを信頼しているらしい。……いや、そんなこと前々から分かっているけど、ブラッキーがこんなに声を荒げたのは出会ったとき以来な気がする。 「とりあえず。リーフィアの人見知りがそこまでだったっていうことは分かりました」 母は目をつむりながらそう言った。ヒイラギは何も言えないらしく、俯くばかり。次はトウヤに視線を向けた母は、強めの口調で言う。 「トウヤも、リーフィアにはなるべく近づかない。いいね。……勿論、面倒をみるっていうのはブースターだけにして」 トウヤは、暗い表情をしているリーフィアから母の方に目を向けると、残念そうにゆっくりと頷いた。そして立ち上がると、ブラッキーに「おいで」と言ってリビングから出て行った。ブースターも居心地が悪いからか、それについて行く。 リビングに残ったのは母と、俺とヒイラギ。そして問題のリーフィア。微妙な空気が流れている中、母はふぅと一息つくと、再び口を開いた。 「ヒイラギ君。リーフィアの今までの行動を見てると、どうしても聞きたいことがあるの。分かる?」 「……はい」 ヒイラギは母の問いかけに頷く。聞きたい事というのは、多分……。 「リーフィアに会った経緯について、教えてくれる?」 やはりリーフィアの過去に何かあったのだと、母は推測したんだろう。だからこそヒイラギに出会った経緯を聞くのだろう。 彼はそれに頷くと、やがてゆっくりと口を開いた。 「リーフィアに出会ったのは、河川敷の橋の下です。酷く衰弱してて、すぐにポケモンセンターに運びました」 河川敷、橋の下。そして衰弱。その条件に当てはまるリーフィアの状況。つまるところ、捨てられたのだろう。心ないトレーナーに……。 ヒイラギは続ける。 「勿論、簡単に治せる外傷でした……ただ、リーフィアの意識があるときに治療をしようとすると怯えて暴れてしまうって事を言われて……」 「それで、仕方がないから医者は無理矢理眠らせてから治療をするっていう判断をしたのね」 「……はい」 もうその時から人を完全に怖がっているということは、捨てられる前からトレーナーに酷い仕打ちを受けていたことが伺える。 うちのブラッキー……昔は勿論イーブイだったのだが、リーフィアのような人の拒絶の仕方はなかった。というよりも捨てられたということで人を信じられなくなっていただけで、すぐにうちの家族に馴染んではくれたが……。どうもそれとは状況が違うらしい。 「傷は治ったんですけど、それが更にリーフィアの人嫌いに拍車を掛けたみたいで。助けた僕にさえも警戒するようになってしまって……」 「その前はヒイラギ君には警戒していなかったの?」 母の質問にヒイラギは首を横に振った。 「いえ。ただ、近づいても威嚇してこないのは僕だけでしたから。……怯えてはいましたけれど」 「分かった。続けて」 ヒイラギは座る姿勢を一旦直すと、再び口を開いた。 「治療が終わった後は、リーフィアは僕の手持ちとして登録されてました。その後は、旅を続けていくうちにだんだんと警戒も解けていって……」 「……つまり、ヒイラギ君にだけ警戒心を見せないのはあなたがリーフィアとずっと一緒に居たからなのね」 「え、ええ。まぁ……そういうことだと、思い……ます」 母はその言葉を聞いた後、しばらく黙り込む。何かを考えているようだったが、やがてヒイラギに言った。 「とにかく。しばらくの間は、リーフィアあなた以外と接しないようにしておく。いいね」 「……はい」 ヒイラギは俯いて首を縦に振った。多分、彼はこの宿泊の間、リーフィアを他人に慣れさせようと考えていたのかもしれない。だが、それはこんな形で終わってしまった。だからこそ残念そうにしているのかもしれない。本当の所は本人に聞いてみなければ何とも言えないが。 「……で」 母がいきなりこちらの方に視線を向けると、ビシッと人差し指を差して言った。 「リョウ、あんたはトウヤがリーフィアに近付かないようにしてて」 「……はぁ?」 それを俺に言ってどうしろというのだろうか。トウヤは諦めが悪い性格ではあるが、母が強く言えばそういう約束事を破ったりはしないのだ。特別な場合を除いて、ではあるが。 しかし今回はリーフィアに拒絶され、さらには技さえも出されてしまうとなると、流石のトウヤも何かしら接触を控えるだろうと思う。 ばつが悪そうな表情が表に出てしまったのか、母は目を細めて言った。 「いいじゃない。どうせ夏休みで家でぐうたらしてるんだから、ちょうどいい暇つぶしでしょ」 「えー……」 「拒否却下。はい決定」 言わずもがな。母はこういう性格の持ち主である。 こうしてトウヤの見張り番を任されてしまったのだが、別段何かするわけでもなく。トウヤの部屋とは近いし、ドアが開いた音や廊下を歩く音である程度は分かる。 つまり、部屋でぐうたらしているのには変わりない、ということ。 「……」 ブースターは今トウヤの部屋に居る。あののんびり屋なブースターのことだから、心配する必要性はあまりないとは思う。だが、いつもよりこんなに静かな状態だと、なんだか凄く気になる。 「……見に行ってみるか」 誰に言うわけでもなくそう呟くと、部屋の電気を消してトウヤの部屋へと足を進めた。 ――静かな部屋を目の前にすると、何故か忍び足になってしまうのは何故なのだろうか。別にやましいことをしているわけでもないのに。それは置いておくとして。 こうして今、トウヤの部屋の前にまで来ているのだが、やっぱり部屋の中から話し声も、物音も何もしない。まさかとは思うけれど、またリーフィアの元にでも行ったのだろうか。とにもかくにも、このドアを開けるより他には無い。 ドアノブにゆっくりと手を掛け、下に押し下げる。そして、手にしっかりとしたドアの重みを感じながら、手前に引いた。 「……なんだ、寝てたのか」 そう。トウヤは干した後の山積みになっていた布団の上でブラッキーと添い寝をしていただけだった。ブースターは起きているようで、俺のことをしばらく見ていたが、やがて視線を窓の外へと向けてしまう。このブースターもちょっとだけそっけない気がする。他人に慣れていないだけなのだろうか。まぁ少なくとも、あのリーフィアみたいに技を使ってくるほど、そっけないわけではないのだろうが……。 (そういえば、あの時何を隠してたんだ……?) ふとそんな疑問が沸きあがった。あの時、というのはヒイラギを紹介するために、トウヤを呼びに来た時のことである。その時の部屋の臭いからして、何となく想像はついてはいたが。 「お、あった」 その『隠し物』は案外目に届くところに置かれていた。勉強机の下という一番シンプルな場所ではあるが、ローラーのついた収納小棚を動かさないと見えないようになっている。しかし、こんな簡単な場所でうちの母親は騙されないだろうな……。隠し物というのはどうやらみるからにプラモデルかなんかのようで、まだ組み立て途中だった。そこに顔を近づけると、未だに接着剤のシンナー臭が机の下には立ち込めている。 恐らく、母に『余分なものを買ったこと』で怒られると思ったのだろう。そうじゃなきゃ、こんなものをわざわざ机の下に隠す必要性なんて無いはずだ。でも、怒られるからといって、こそこそと買うことでも怒られることを、多分トウヤはまだ理解していないのだろう。ま、いずれ掃除の時に見つかるだろうから、俺がわざわざ母に告げ口する必要性は無いだろう。 作りかけの、それも接着の甘い部品をそれぞれ箱に入れて、とりあえず元あった場所に戻しておいた。一応小棚も戻しては置いたものの、不自然さが残る。 「ま、いいか……」 どうせいずれは見付かってしまうものだ。多少分かりやすくしても構わないだろう。 ふとブースターの方に目を向けると、何やら窓の外をまじまじと見ている。何か居るのだろうか。そういえば、トウヤの部屋からも果樹園の方が見えるんだっけか。それも俺の部屋よりも良く見える。 (まさか……) トウヤを起こさないように気をつけながらも窓へと駆け足で向かう。急に近付いてきた俺に、驚いたように目を見開かせながらもブースターは端へと寄ってくれた。窓のサッシに手を乗せ、半ば身を乗り出すようにつんのめった形になる。そしてその状態で果樹園の方を隅々まで見渡す。 (いたっ!) 案の定、自身が待ちわびていた者が果樹園に顔を出していた。灰色の毛並みに黒銀の鬣を持ったポケモン、グラエナは確かにそこにはいる。 てっきり、前にあったときに完全に警戒して、もうここには来ないかと思ってもいたが、木の実がやはり必要なのだろうか。木の枝に歯を立てて器用にもぎ取っている姿をまた見れるなんて、思ってもいなかった。 もう一度近付いてみたい、という幼少期の自分が持っていた考えを再燃させながら、気付けばその体は玄関の方へと走り出していた。 ---- ***-5- [#q8109bd1] 肩を上下に揺らしながらゆっくりと深呼吸をして、上がっている息をなんとか抑える。 相手がずっとそこに留まっているのならここまで急がなくても良いのだが、野生のポケモンであれば人の住む家の庭にそうそう長居はしないはず。 でも何故だろう。森の何処にでもいるはずのグラエナなのに、庭に顔を出しただけなのに、気になって仕方がない。 肉食なのにきのみを取っていくのは気になる。でも、理由はそれじゃない。 一度警戒しているはずなのにまた来るのも気になる。いいや、違う。 俺はあのグラエナをただ訳の分からない感情で気になっている。もしかすると、一生晴らせない感情のもやもやなのかもしれない。 ただ“もう一度会ってみたい”という気持ちだけに、俺は突き動かされていた。 ――幼い頃、まだトウヤが生まれてもいなかった頃。俺は都会に住んでいた。 小学校の帰り道に、ビルの隙間にいたヘルガーに興味を持って近づいたことがあった。その時の、好奇心に似ている。 しかしそれが仇になり、腕を噛まれ、おびただしい程の血を流し、病院へと運ばれた。 その出来事が会ってから、野生のポケモンが苦手になった。ポケモンに傷つけられるのが嫌で好奇心をずっと押し殺していた。 それが今、また再燃しようとしている。 母に「襲われても文句は言えない」と言われた時、昔を思い出して少し体が震えた。 でも、あのグラエナを前にすると何故だかそんなちっぽけな過去の出来事さえも忘れてしまうほど、好奇心に突き動かされる。 もう考えは決まっていた。けれど、それをあのグラエナに強要するつもりはない。そんなことをしたら、イーブイを捨てた奴と同類になってしまう。 だから、それを今から問いに行く。 ゆっくりと前に踏み出された足、その方向は間違いなくあの場所に向かっている。グラエナの居る、あの庭に。 前の時のように息を殺して、気付かれないように足をいつもより少し高く持ち上げて、地面につけるときは音を立てないように踵から徐々に下ろしていった。 やがて庭に近づくにつれ、グラエナの姿がはっきりと見えるようになってくる。警戒しているのかしていないのか、今回もこちらに背を向けていた。 でも何故か今回はきのみを口に銜えてもいないし、取ってすらいない。朝方や昼間に多く取っていったからもう取れるきのみが無いのだろうか。 そう思ってよくよく見てみると、採れそうなきのみはまだ沢山あった。なら、どうして……。 気づかないうちにグラエナとの距離はだんだんと縮まっていて、もう後一歩で手が届きそうな位置にいた。 そんな距離で野生のポケモンが気づかないほど鈍感ではないということを分かっていながら。 「あ……」 グラエナが俺を首だけ回して見てくる。それを見て一瞬声を出してしまう。勿論、それでグラエナに逃げられると思っていた。 その予想を反して、グラエナはこちらをじっと見てくる。警戒されてはいるんだろうけど、それとは違う。まるで何かを探ろうとしているかのように、瞳がいろんな場所に向けられている。 今少しでも動いたら、きっと逃げてしまうか、こちらに飛び掛ってくるかもしれない。しかし、ずっとこのままでいるのも耐え難い。 というのも、歩き始めの中腰の体勢なものだからかなり辛い。足も耐え切れ無くなってきているのかふるふると震え始めていた。少しでも良いから足を楽な体勢にしないと、このまま前に倒れてしまうだろう。 「おわっ……!」 重力と足との格闘は、結局重力の勝利に終わった。 俺はそのままグラエナのいる方へと前のめりに倒れ込んでしまう。しかし、それを痛がっている暇もなかった。 「グルルルル……」 ただでさえもグラエナに近い場所にいたのだから、そこから前のめりになればどうなるか。こんなにも単純で分かりやすいことはなかった。 グラエナは、前のめりになった俺の首筋に、牙を据えていたのだ。唸って威嚇しているところを見ると、このままもう一度動けば間違いなく危ないだろう。もしくはこのまま牙を首に深く食い込まれて……。 「……?」 何かあるまでそのままで唸っているのかと思いきや、グラエナはそっとこちらから身を引いた。何が起こったのか全くわからない。別段俺自身グラエナが警戒を解くようなことは何もやっていないし、ましてやこの全く動けない状態で何かが出来るわけがない。とにかく、今首筋には何もない。ゆっくりと首を上げていくと、そこには先ほどとは違う穏やかな表情をしたグラエナ。本当にさっきのグラエナなのかと思うほどに落ち着いていて、こちらをじっと見据えている。未だに少しだけ警戒しているような素振りを見せるが、一体どんな心境の変化が起きたのだろう。 突然のことにただその場に座り込んでいると、やがてグラエナは動き出した。こちらに近づいてきたかと思うと、首元に鼻先を近づけてにおいを嗅いでいるようだった。首元のにおいを確かめたと思ったらそこからだんだんと位置をずらしていき、やがて腕、背の方に回り込まれてにおいを嗅ぐ。まるでこちらのにおいをすべて把握しておくかのような行動に、思わず背筋が張った。いつ終わるのかと待っていることもなく、グラエナは一通りにおいを嗅ぎ終わると、くるりと踵を返す。森の方に向くと、足を進め始める。森に行こうとはしているのだが、どうもグラエナの様子がさっきからおかしい。首だけをこちらの方に向けて、何かを待っているかのようにそこに立っているのだ。 「ついてこい……って言ってるのか?」 グラエナはこちらの言葉に少し目を細めるだけ。試しにこちらが立ち上がってみると、グラエナは森の方へと歩き始める。どうやら、そうみたいだ。俺は先を歩くグラエナの後を、慎重について行った。 ――森の中を、グラエナの後を追って歩く。とはいえどもあまりこの森の中を歩いたことはなかったため、何度も木の根や草に足をとられてしまう。その度にグラエナは止まり、こちらを待ってくれた。やはりグラエナは俺をどこかに案内しようとしている……そう思った。でも、家からだんだんと離れていくたびに、不安は増してくる。もしかしたらグラエナは元々この森に迷わすつもりで案内しているのかもしれないし、もしくは案内した先に他のポケモンが待ち構えていて……。そこまで考えて、止めた。もう高校2年にもなるのに、そんなことで内心ビクビクしてもいられない。今はただこのグラエナを一心不乱に追うことだけを考えればいいんだ。 そう思った瞬間、また木の根に足をとられてしまった。その様子を見て半ば呆れていながらも待ってくれているグラエナを見て、俺はまだこいつを信用してもいいかもしれないと、そう思った。 「グゥ……」 ふと、グラエナの歩む足が止まる。それに合わせて俺も止まると、グラエナの見ている方向に視線を向ける。そこには……。 「なんだよ、これ……」 他には誰もいないのに思わずそう呟いてしまう。山腹の地にあったのは、見渡す限り土だけが露出している荒れ果てた大地だった。確かここはもっと樹木や草が生い茂っていたはずだ。それがなんでこんなことになっているのだろうか。いや、そんなこと考えなくても分かっていた。人間の仕業、としかいいようがない。土砂崩れをしたような感じではないし、ここいらで最近土砂崩れが起きたという警報も聞いたことが無い。それに、ところどころ切り株があるのを見る限り、伐採した後か何かなのだろう。 「グゥゥルルルル……」 少し長めに喉を鳴らしながら、グラエナはこちらをじっと見ていた。何を訴えたいのかはもう既に分かっている。この現状をどうにかしてくれとの頼みなんだろう。人間に荒らされたのに、人間に頼るほか無い。そんな悲痛な感情が、今のグラエナからはひしひしと伝わってきた。 でも、どうにかしたいと思ってもこの伐採をしているのが誰か分からない以上、どうにも出来ない。そもそもこの近くで伐採をしている企業とかは聞いたことが無いし、家には何も通達は来ていない。 俺は今何も出来ないことを悟ると、荒れた土地からグラエナの方に向き直った。そしてゆっくりとしゃがみ込んで言った。 「ごめんな……今、俺がしてやれることはないかもしれない」 「グゥゥ……」 俺の言葉が分かっているのだろうか、グラエナは残念そうな鳴き声を出して耳をぺたりとさせる。何かしてやりたい、してやりたいのは山々なのだが、荒れてしまった広大な山の斜面に一人の人間が出来ることなんてたかが知れていた。俺に何も出来ないことを悟ったのか、グラエナは来た道を引き返すためだろうか、踵を返した。そして行きと同じように案内するような様子を見せている。案内の後はきちんと送迎もしてくれるのはありがたい。でも、そこまでしてもらうのも何故か迷惑な気がしてならなかった。 「いや、帰り道は覚えてるから、送らなくていいよ」 その意図を理解したのか、グラエナは目を瞬かせるとやがて荒れた土地の奥、まだ木が残っている方へと歩き出していった。俺も、そろそろ帰らなければならない。トウヤの見張りも頼まれたし、何よりリーフィアの様子も見ないといけない。この森のことも気にかかるけど、今は何も出来ない。 グラエナと少しだけ親しくなれたことは素直に嬉しかった。けども、胸の奥に何か晴れない靄を抱えながら、その場を後にした。 ---- ***-6- [#x4bfb3a6] さっき来た道を辿って、帰路に着く……はずだった。 この森自体初めてだったのだ。あの時どうしてグラエナの道案内を断ったのだろうと、今更ながらに後悔をしても遅すぎる。 そう、完全に俺は道に迷ってしまっていた。 「はあ……」 思わず漏らしたため息。上を見上げれば空は既に黒くなり始めていて、森はだんだんと鳥ポケモンの声も聞こえなくなり、辺りは静寂に包まれてくる。登ってきた道筋を降りていけば簡単に元の場所に戻ると思っていたが、それが甘かったらしい。暗くなれば周りは見えないし、風景もがらりと様変わる。 「とりあえず下ってみるか」 斜面を下りていけば何とかなる。そう思って足を進めて見るも、やっぱり不安は払拭できない。この道であっているのか、本当にここを下っていけば家に辿りつけられるのだろうか。 ついにはとうとう暗くなってきて、足元が見えなくなってきた。日中なら木漏れ日が綺麗なステンドグラスの模様を地面に打ち出すのだろうが、今ただ月明かりを遮るテントのようになっている。いや、テントの方がまだ月明かりをとおすかもしれない。 がさ…… 「……?」 不意に聞こえた葉揺れの音。風が通って起きた音じゃないことは確かだった。……何か、いる? 恐る恐る音のした左の森を見てみる。暗くて奥は見えないし、何かが居るような様子もない。じゃあ、今の音は一体。 がさっ 「うわっ!」 いきなり顔を出した何かに、思わず大きな声を上げて驚いてしまう。赤い目に、黒いたてがみのライン……よくよく見て見るとそれは先ほどのグラエナで、こちらを見ながら首をかしげていた。そして。 「くふっ……」 あ、今笑った。尻餅ついてる俺見て笑った。 ……何だが自分自身が情けなく感じる。 このグラエナは先ほどから俺をつけてきていたのだろうか。それとも、気になってこちらに戻ってきたのか。それともまた家にきのみを取りに行こうとしていたのか。 「あ、ちょっと……」 そのまま茂みから身を出してきて、そのまま坂を下ろうとしたグラエナを呼び止める。 グラエナは「何?」とでも言いたげな表情を浮かべると、くるりとこちらの方に体を向けた。 「ごめん。やっぱ、道案内してくれないか?」 先ほど断ったというのにまた頼み込むのは気が引けたが、このグラエナは何度も家に来ていたから道が分かっていると思う。今頼れるのは、このグラエナしかいない。 グラエナは少しだけ考え込むように俯くと、やがて踵を返して歩き始める。 あれ、ついてこいってことなのか? 歩き始めてすぐのところでこちらを見て立ち止まっている。多分、俺の願いは聞き入れられたらしい。 「ありがとう……」 そう呟くように言ったお礼の言葉がグラエナに届いたかどうかは分からないが、尖った黒灰色の耳が少しだけぴくりと動いたのが見えた。 ――それからしばらく道を歩いていくと、だんだんと自分の足元が明るくなっていくのが分かった。街に、家に近付いてきたという実感が沸くと同時に、グラエナに申し訳ないという気持ちもあった。本当はグラエナ自身はこちらになるべく来たくはないと思うし、何より他にやることがあったんじゃないかと思うと。 「グラエナ」 俺の呼び止めに、グラエナは立ち止まって俺の方を見る。オレンジ色の街頭に照らされたグラエナの灰色の毛並みが、何となく淡い銀色に輝いてみえる。 「ここからなら、道分かるよ。案内ありがとう」 「ガゥ」 お礼の言葉と受け取ったのか、グラエナはそう小さく吠えた。そしてそそくさと踵を返すと、森の方へ駆けていく。去り際に、俺はグラエナに向かって叫んだ。 「またきのみ取りに来いよなー!」 なんでそんな言葉が自分から出たのか分からなかった。でも、ポケットに入ったモンスターボールの感触を思い出して、取り出す。よくコーティングされたボールの表面に、光が映る。 まだ、諦め切れなかった。今日はあんな森の姿を見せられてそれどころじゃなかったけども、いつかあのグラエナを自分のパートナーとして迎え入れたい。でも、あいつがそれを拒んだ時は。その時は潔く諦めるしかない。少なくとも、まだ始まったばかりなのだから……。 「……」 ふと、凄く重要なことを思い出す。今、何時だ。そして俺は母に何を頼まれていた……? 頭の中で反芻して、考えて、イメージして。出した結論は。 「はは……。こりゃ叱責食らうの確定か」 母の怒鳴り声は耳に痛い。音量的な意味でも。ドゴームと張り合えるんじゃないかと思えるくらい大きい。最近はそういった怒鳴り声を出していなかっただけに、今夜はきっとお祭りかもしれない。 ――目の前に立ちふさがるのは一つのドア。願わくば鍵がかかっていないことを……。 ……ゴン。 「鍵、閉まってるし……」 少なくともトウヤのお守りを任されていたのに飛び出した俺が悪いのかもしれないが、グラエナのことを話せば何とかなるかもしれない。 一度深呼吸をしてから、インターホンに手を伸ばす。この緊張感、初めて夜遊びに出て帰ってきた時のパターンと似ている。やがてボタンに手を触れて、家の中からドアごしにチャイムが聞こえた。そして中からどたばたと足音がしたと思うと、鍵がいきおいよくカシャンと開く。 「あ、お兄ちゃんお帰り」 「た、ただいま」 ドアを開けて顔を見せたのはトウヤだった。正直、拍子抜けした。今まで心の中で奮闘していたのはなんだったんだろうか。俺が入ると、トウヤはそのままどたどたとベタ足で駆けていってしまう。ドアを閉めて鍵をかけて、俺も家に上がった。 さて、俺はこのまま自分の部屋に戻るべきか。それともリビングにいるであろう母に一度挨拶にでも行くべきか。出来れば前者の方がいいかもしれないが、後が恐い。 「仕方ない、か」 とりあえずリビングに行って、叱られてくるしか結局のところないだろう。夕食にはどうせ顔をあわせるのだから、今行っておいたほうがいい。 「ただいまー……」 と、リビングのドアを開けながら中に入っていくと、腕組みをして仁王立ちをしている母が……いなかった。変わりにキッチンから、包丁とまな板の小気味良い調律が聞こえてくる。いつもと違う違和感に押されて、そのままキッチンの方に足を運ぶと、母がこちらに気付いたようで振り返る。 「あら、おかえり」 そんな言葉を残して、また母はまな板へと向かう。おかしい。何かがおかしい。明日は雪が降るんじゃないかと思うほどに怪しい。一体何があったのだろうか。 「あのさ……今日のトウヤのお守りのことなんだけど」 「ああ、それ。もういいの。リーフィアがトウヤに対して慣れたみたいだし」 恐る恐る聞いた俺の耳に、何やら今とてつもない言葉が聞こえてきた。出来ればもう一度聞きたい。 「はい?」 「だから、リーフィアがトウヤに対して威嚇しなくなったのよ」 「何で」 「知らない。そこは詮索しないのが普通でしょ?」 詳しく聞かない辺りは母らしいが、今まで外に出ていた俺にとっては全く状況がつかめない。いや、午後には買い物で出てしまう母も境遇は同じだが、どうしてこうも母は冷静でいられるんだろう。 とにかく、それが本当かどうなのか見てみたい。近付くトウヤに対して技まで放っていたリーフィアが、いきなりどうして。しかも今日はまだ会ってから一日すら経っていないのに。 「トウヤは?」 「ヒイラギさんが泊まってる部屋じゃない?」 ヒイラギさんが泊まっている部屋。確か一階の突き当たりの倉庫みたいになってたあの部屋か。母が再び調理をし始めたのを横目で見送って、俺はリビングを後にした。 ――トウヤがリーフィアとじゃれ合って遊んでいる光景。まさか今日一日でこんなに仲が良くなるとは。それ以前に、ヒイラギ以外の人は完全に拒絶してたはず。 ヒイラギがこちらの気配に気付いたのか、こっちまでわざわざ歩いてきて部屋の外で話すように手で促される。中で話すようなことじゃないんだろう。 「驚いたって顔してるね」 「ああ、一体何が何だか分からない……です」 感想を言おうとして、敬語を忘れかけて思い出したように付け足す。ヒイラギはゆっくりと部屋のドアを閉めた。 「正直、僕にも何でこういう風になったのか分からないんだ。絵を描きに行って帰ってきたらトウヤとリーフィアが並んで玄関に立ってたから」 「じゃあ、ああなった経緯に関しては」 俺の問いに、ヒイラギは頷く。 「あの二人にしか分からないことだと思うよ」 分からないことだらけ。疑問が払拭されないのは何だかすっきりはしないが、だからといって本人に聞くのは母が言っていたとおり野暮なのかもしれない。ヒイラギもそこを察してあえて理由を聞いてはいないのかもしれないし。何はともあれ結果は良い。でも、一つ気になることがある。 「うちの母親に対しての警戒心は?」 「うーん……。アヤさんはリーフィアに近付いていないから、ちょっと分からないかな」 アヤ、というのは母の名前。母が近付いていないということは、もしかしたらトウヤだけには何とか心を許した形になったのだろうか。でも、俺が部屋に入ってきたときにリーフィアが意にも介せずにトウヤと未だにじゃれ合っていたのを見るに、一応警戒心は薄れたのかも。 「これでリーフィアの人嫌いが治ってくれるといいんだけど」 ヒイラギが苦笑しながらそう言う。やっぱりトウヤに世話を任せようとしたのは、リーフィアのそれを治すためだったのか。 「今俺が近付いたらどうなるんだ……」 「やってみる?」 彼は半ば笑いながらそう言った。俺は首を横に振った。 「いや、遠慮しておきます。今行ったら不自然すぎるし……夕飯の時は全員顔をあわせるから、そのときになれば分かるかもしれない、です」 「ははは、無理に敬語使わなくていいよ」 また笑われた。やっぱり敬語が不自然すぎたか。ヒイラギと俺は歳がそんなに離れてはいないし、むしろ近い方。だからこそ敬語を使いにくかった。もっと目上の人ならすらすら敬語が出てくるのだが、歳が近いとどうにも敬語が変になってしまう。そんなぎこちない敬語は、彼に簡単に見破られていた。 「あのさ……聞きたいことが」 「ん?」 ふと気になったことがあった。俺がこれから必ず負うことになるであろうこと。それが知りたかった。今しか聞く機会がないかもしれない。 「ポケモンを持つことって、やっぱり負担になることってあるのか?」 その言葉にヒイラギは少しだけ視線をそらすと、考え込む。そして言った。 「正直そんなこと今まで気にしたことはなかったかな。リーフィアには確かに手を焼いたこともあったけども、それを補って余りあるほどのモノを僕にくれたから。負担らしい負担っていえば、食事代くらい」 「余りあるほどのモノ……?」 ヒイラギの言葉を問いかけると、彼は頷いてこちらの方を向いた。 「それは、ポケモンを持った人にしかわからないよ。口では表現しづらいから」 ポケモンを持った人にしか分からないこと……。俺もあのグラエナを持ったら、それが何なのか分かるのだろうか。あのグラエナが俺の手持ちになることなんて決まっていないのだから、そう考えるのは早計かもしれないけども、彼の、ヒイラギのその言葉が妙に気になっていた。 ---- ***-7- [#c0e43601] 部屋に戻った後もずっとヒイラギの言葉を気にしていた。 世話の手間暇よりもずっと良い事って何なんだろうか。 今のブラッキーに関してはずっとトウヤに懐きっぱなしだったから、俺はそういうことは全く知らない。何よりポケモン自体を今まで無意識に遠ざけてきたから尚更に。 学校での昼休みに何度かクラスメイトのポケモンが寄ってきたことはあるものの、俺自体接しようとも思わなかった。まだ若干、都会にいたころのあの記憶が響いてるのかもしれない。 ヘルガーに腕を噛まれたこと以外にも、ポケモンに対する恐怖があった。 興味本位で夜の街に繰り出した時、不良に絡まれて。ニューラの鉤爪を喉にあてがわれて脅されたことがあった。その時は小銭程度しかお金を持っていなかったからすぐに開放してはもらえたものの、ポケモンに対する恐怖心はそれで更に強まった記憶がある。 今はブラッキーが家にきたことで大分薄れてるけど。母もそのことを分かっているのかポケモンを持つことに関してはたまに言ってくるだけで、そこまで強く推し進めては来ない。なぜかグラエナの話をしたときだけは強く言ってきたが。 そういえば、あの山の事に関して母にどう言おうか。そもそもあの山が所有者自体居るかどうかわからないし、もしかしたら許可されて伐採をしているのかもしれないし。後者だったら止めることは酷く難しいものになる。それこそ俺なんかが変えられる問題じゃなくなってしまう。 「リョウ、夕飯出来たから降りてきなさい」 「はいはい」 不意にドアを開けてきてそう言ってきた母に適当な返事をして椅子から立ち上がる。そうだ、今言えばいいんじゃないか? 「あのさ」 「なに、いきなり」 母は足を止めてこちらを見ると、目を細める。夕食が冷める前に食事を終わらせたいのだろう。だけど、この話は重要なことでもあるから今ここで話しておきたかった。 「あのグラエナのことなんだけど」 グラエナ、と聞いた途端に母は面倒くさそうな顔から真面目な顔に一転させる。一応母も母でグラエナのことを気にかけてはいたらしい。それなら尚更このことを話さないといけないかもしれない。 「なるほどね……」 グラエナとの接触。案内された森の中のこと。伐採をしてむき出しになった山肌。俺が一通りを話し終えると、母はそういって暗くなった窓へと目を向ける。やがてそこに近付いていくと、カーテンをしゃっ、しゃっと閉める。振り返った表情からは何も読み取れない。 「じゃあ。とりあえずその伐採してる業者を捕まえて文句言わないとね」 「は……?」 言っている意味が分からなかった。その業者がもし山の所有者に許可を貰って伐採をしているのだとしたら、文句を言ってもどうにもならない。いや、まさかとは思うが……。 「だってあの山の所有者は私だし」 「そんな話一度も聞いたことないんだが……」 俺の言葉を聞いて「そうだっけ?」とはぐらかす母。いや聞いてませんから。というか聞き返されても困るから。聞きたいのはこっちだし。 「だいだい都会からわざわざ離れてこっちに引っ越してきたのは、祖父がなくなってその所有権が私に移ったから、その管理のためにこっちに移り住んだんだけど……ってリョウがまだ小さかったから話してないか」 「全く聞いてない」 母はしばらくばつが悪そうにう~んと唸ると、やがて結論が出たのか顔を上げる。 「森の件に関しては私が何とかするから、リョウはそのグラエナをパートナーにすることを考えなさい」 「え……?」 「隠しても無駄。空のモンスターボールが一個引き出しから消えてたわよ」 そう言い切ると、母は足早に部屋を出て行ってしまう。しばらく部屋の真ん中で立ち尽くすとぽつり呟いた。 「ははは……。やっぱ敵わないな……」 自分の口から出てきたのは母への賞賛しかなかった。 ――その後リビングの方へ向かうために階段を下りていくと、階段の下ではブラッキーがちょこんと座って待っていた。何だかその姿に笑ってしまうと、ブラッキーはそれに対して不機嫌になったようで、ぷいっとそっぽを向いてしまうとすたすたと半開きになったドアからリビングの方へと向かっていってしまった。 「別に待ってなくてもいいのに……」 少しだけ笑いを含めてそう言うと、ブラッキーは少しだけ足をとめてこちらを向いて、舌を出していかにも俺を挑発するかのような行動をする。何を不貞腐れているのだろうか。まあ何となく予想はつくけれど。 多分リーフィアにトウヤを盗られたと思って拗ねてるんだろう。最近あいつは妙にトウヤにべったりだし、仕方ないといったら仕方ないけれど、今度はそのことが要因で喧嘩とかしなきゃいいけど……。それでも、あのときみたいなことには多分ならないとは思うけどさ。 「ほら、拗ねてないで行くぞ」 ブラッキーの前足の脇を抱えてを持ち上げる。……ん。なんかこいつ重たくなったな。でもそれもそうかもしれない。持ち上げるのはトウヤがブラッキーを避けてたとき以来だし、あの頃から随分と健康的な体型になったから、重いのは仕方ないかもしれない。 「ブラッ……!」 「あ、ちょ……痛っ」 こいつ……。わざわざ爪立てて人の腕を退けることないだろう。確かにちょっと問題ありな体制で持ち上げた俺も悪かったけど。何もそこまで暴れなくとも。 「……」 「……」 赤い目がじっと焼き付けるように睨んでくる。こいつにここまで睨まれたのは最初に会ったとき以来かもしれない。こりゃこっちが折れるしかなさそうだ。 「……悪かった。とりあえず行くぞ」 「……ブラッ」 ブラッキーは小さく返事をすると、すたすたと自分でリビングの方へと入っていった。俺もその後に続くようにして中に入っていく。 パン、パパン。と、何かが弾けるような音がして、思わず首を引っ込めて耳を塞いだ。もしこのときに目の前に鏡があったら、きっと自分の情けなさに笑い出したに違いない。 「誕生日おめでとう、リョウ君」 手にクラッカーを持ったヒイラギが笑顔でそう言った。 「えと……今日は……?」 「8月12日。まさか、自分の誕生日も覚えてなかったの?」 何が起こっているのかわからずにうろたえている俺を見て笑いながら、母は言った。 そっか。今日は俺の誕生日……。自分でもすっかり忘れていた。もしかして、ブラッキーを抱こうとして拒否されたのはこれがあったから? ふとブラッキーの方を見ると、トウヤの隣で俺と目を合わせないようにしていた。俺の考えはあながち間違ってはいないらしい。 「おめでとうお兄ちゃん」 「あんがとな。トウヤ」 ブラッキーの方をみたはずが、自分を見ていると勘違いしたのか、トウヤは俺の方に歩いてきて、バースデーカードを手渡してきた。俺は礼を言って軽くトウヤの頭を撫でてやると、嬉しそうに顔を綻ばせた。 「さてと、夕飯でも食べましょうか。今日は手巻き寿司ってことで」 「あ~。それで冷蔵庫の中にイクラやらマグロやら入ってたのか」 「そういうこと」 母は笑ってみせると、お皿の上に乗ったのりを指差して言った。 「さあ、みんな手にとって食べて食べて」 そう言われて大抵真っ先に手を出すのはトウヤ。のりを早速手にとって、酢飯を取って……。 おっと、俺も手に取らないと結構早めになくなるかもしれない。ヒイラギも自分で好きな具材を取って巻き始めていた。 ポケモンたちにもいつものようにポケモンフーズとかではなく、同じく具材を混ぜ込んだちらし寿司を振舞っていた。小皿程度だけれど、山盛りに盛られているので量的には多いだろう。 「ちょっと……ブースター……。口の周りにご飯粒が……ってあ、こらこら動かない」 ブースターは結構がっついて食べる方らしく、口の周りには沢山の酢飯がついていて。それを取るために首を反らして逃げようとするブースターにヒイラギは苦戦していた。 一方のリーフィアは結構落ち着いて食べているようで、口の周りは汚れてないし、何よりも綺麗な食べ方だった。ヒイラギがしつけたんだろうか。 「……」 ふとリーフィアと目が合う。そういえばリーフィアはトウヤ以外にも慣れたのだろうか。少なくとも最初は俺と目を合わせてからすぐに目をそらしてしまったから、今こうやってまだ目を合わせる状態ってことはある程度は慣れたのかもしれない。 ただどうしてか俺自身からリーフィアに近付く気分じゃない。やっぱりまだ俺自身も過去のことを引きずっているようだった。 でもそれならなんであのグラエナには近付こうという不思議な感情が沸いたんだろうか。そこがどうにも解せなかった。 「ん? もうごちそうさま?」 「ああ。あんまり腹空いてない」 俺は席を立ち上がってから母にそういうと、片づけを任せてリビングを後にした。 ベッドの上に寝転がって考え込む。一体何をやってるんだろうか。 みんな俺の誕生日を祝ってくれたっていうのに、当の本人はこうして一人リビングから席を立ってしまっている。でも、どうしてもあそこで気分良く誕生日を迎えることが出来ない気がした。 やっぱりどうもあのグラエナが気になって仕方ない。それはやっぱり誤魔化しても誤魔化しきれないもので、自分でもはっきりと分かっていた。 「リョウ、ちょっといい?」 ドアの向こうから母の声がした。寝転んでいた体を起こして、ドアの方を見ると、既に母が入って来ていた。 「って返事する前に入って来てるじゃないか」 「別にいいでしょう。入ってほしくないなら鍵あるんだからかければいいんだし」 「まあそれもそうだけど……で、何?」 口を尖らせて俺はそういうと、母はドアを閉めた。俺の前にやがて歩いてくると、腕を組んで言った。 「明日。あの森を見張って、その伐採をしてる業者とやらを捕まえる」 母の言ったことに、俺は思わず耳を疑った。 いつもはあまりこういうことに口を出したり首を突っ込んできたりしないのが母の性格なのだが、一体どういうつもりなのだろう。それに捕まえるって……相手もそれ相応に強いポケモンを持っている可能性だってあるのだ。下手をすればこちらが逆に返り討ちにされることもある。それよりも。殺される方がよっぽど恐い。 この森の所有者である母に無断で伐採をしているような輩が、見つかったときにとる行動はあまりにも予測できない。 「本気で言ってるのか?」 「冗談半分でこんな危険なこというわけないでしょう」 「……」 こんな危険なことをわざわざするくらいであれば、素直に警察に被害届けを出して捜査してもらったほうがいいかもしれないのに。何故母は危険なことに首を突っ込もうとしているのだろう。しかもこれは近所の夫婦の喧嘩を止めるような生易しいものではないことは、俺にだってわかる。 それを軽々と“捕まえる”などどは、いくら根を曲げない母であっても、止めるべきだと頭が危険信号を発していた。 「さすがにそうするくらいなら警察にでも……」 「さっき警察に電話してみたけれど、御宅の土地は御宅の問題ですので……って返されたわよ」 返ってきた答えは意外なものだった。警察の役目は犯罪から市民を守ることじゃないのだろうか。自分たちの土地は自分たちで守れとでも言うつもりなんだろうか。何のための警察なんだろう。 母もそれを同じ考えでも持ったのだろうか。俺の顔を見て更に付け加えるように言った。 「とりあえず証拠がないとこちらも動くことが出来ません、だとさ。だからこそ私たちで何とかするしかないのよ」 「……」 それにしたってあまりにもポケモンバトルの経験もしていない俺もトウヤもそれに巻き込むのはどうかと思う。今はヒイラギも招いているんだし、心配を掛ける様なことはしたくない。 「俺たちが敵うかどうか分からないんだぞ」 「あら。それはやってみないと分からないと思うけど?」 母は鼻をふふん、と鳴らしながらそう答えた。この根拠のない自信がどこからやってくるのかが知りたい。半ばあきれ半分で俺はまたベッドに倒れこんだ。 「もしそいつらを捕まえるにしても、ポケモンバトルの経験なんて俺はほとんどないし、トウヤだってバトルなんて未経験。一体どうするっていうんだよ」 俺がそう言っても、まだ母の顔から自信は消えない。 ふと、ドアが開く音がした。体を起こして入ってきた人を見る。それはヒイラギだった。 「問題ないと思うよ、リョウ君」 「ヒイラギまで……」 いつの間にか敬語を使っていないことに慣れている自分に驚きながらも、彼の言葉には疑問を持たざるを得なかった。よくよく見るとヒイラギは何かを手に持っているようで。それを俺に手渡すと、彼は一歩下がったところで俺の反応をうかがっていた。 「え……ちょっと待てよこれって……」 「そ。アヤさんは一度カントーリーグを制覇したことがある、実力者だから」 これも聞いたことない。どれだけうちの母は隠し事をしているんだ。それ以上に一体それだけの力を隠し持ってるんだと。 「ん? ちょっと待てよ。じゃあ殿堂入りしたポケモンは?」 「訳有ってオーキド博士の下で預かってもらってる」 母の殿堂入りしたポケモン……。今まで一度も母のポケモンを見たことがなかったのはそれだったのか。 でも訳ありってなんなんだ。ここにつれてくるのに何か問題があったとか? 「何が何だか分からないって顔してるわね」 母はそう言って未だにリーグ制覇の賞状を見ている俺を眺めてくる。 「今までそんなこと一言も聞いたことはなかったし、それに話そうともしてなかった」 「あんたに重荷を背負わせたくなかったからよ」 「え……」 母は唖然としている俺の手から賞状を取り上げると、それを懐かしむ目で見る。 「私の経歴を知ったら、きっと幼いあんたはその後を継ごうとする。それはどうしても避けたかったの。ある程度自分自身の未来を決められるようになったら、これを明かそうとは思ってたんだけどね」 「……」 驚きで声さえも出せなった。母がそこまで思案をして話さなかったことなど、俺は知らなかった。というよりも母が知らないようにしてたから当然のことなのかもしれないが……。 「で。オーキド博士に私のポケモンを預かってもらったのは、あんたがポケモン嫌いになった頃」 「へ……?」 自分でも素っ頓狂な声を出していたと思った。でも、本当に母のポケモンは記憶にない。 俺がポケモン嫌いになったのは確か小学の2,3年の頃。そう考えると、確かに今となっては記憶が曖昧なのも分からなくもないが。それにしたってあまりにも覚えてなさ過ぎる。 「まああんたが覚えてないのも無理ないわよ。あの時はまだ幼かったし、何より体の大きいポケモンが大半だったから、ちょっと危ないと思ってね」 「……そう、だったのか」 ということは母の自信はそのリーグ制覇の経歴からくるものだったのか。でも、さっき見た賞状だと結構前のことだから、もしかするとポケモンも母自身も結構腕鈍ってるんじゃ……。 心配になって母の方を見ると、当の本人全く気にしている様子はなく。むしろ久々にポケモンが戻ってくるのを心待ちにでもしていたかのように賞状の前で笑みを見せている。 (相変わらず……母がよく分からない) ヒイラギと顔を一旦合わせると、ため息が零れてしまうのだった。 でも、森を救う手立てが少しだけ見つかって、ほっとした息も少しは混ざっていたのかもしれない。 ***-8- [#ya8374ed] 色々と突っ込みたかった。ああ、色々と言ったら色々。 母親は母親だ。うん。つまるところ若い頃は“女の子”なわけだ。 それがどうしてこうなったのか。まずそれが疑問でしかない。 目の前に居る六匹のポケモンたち。 それは母が殿堂入りした時のメンバーらしいが……。 こちらには目を向けているものの、一体何を考えているのか分からない目でこちらをじっと見てくるバクフーン。 サンダースと何やら喋っているのか、常時ガウガウ言ってるトドゼルガ。 その様子を何だか呆れた様子で見ているニドクイン。 暢気に欠伸をしながらも、こちらに頭を下げてきたボーマンダ。 で、全く明後日の方向に向かって座り込んでるペルシアン。 個性に関しては全く問題ないとは思う。 俺が通ってる高校の友達のポケモンにも色々なのいるからそこは慣れてる。 だが、なんでこうも……。 「これが私のポケモンたち。サンダースは殿堂入り後にメンバー入りしたんだけどね」 久々にこうやってポケモンたちを自分の手持ちとして再び呼んでこられたのが嬉しいのか、ポケモンたちよりも母の方が何だか嬉しそうに目をキラキラとさせている。 「どう? 可愛いポケモンたちでしょ?」 今、母はなんと言ったんだろう。 サンダースならまだ可愛いと言われても納得は出来る。 バクフーンとか、ペルシアンとかならまだ何となく分かる。 でも、ニドクインとかボーマンダとかトドゼルガは理解できない。 時々思う。女性の可愛いの基準が……よく分からない。 勿論、理解出来うる“可愛い”もある。 でもごっついのは可愛いのではなくて、かっこいいとかそういう部類に入ると思う。 俺が唖然として固まってるのを見て、母はむっとしたような顔を浮かべた。 「これから一緒に暮らすポケモンたちなのよ。ほら、挨拶挨拶」 「……えと、まあ、よろしく」 挨拶の言葉に反応してか、ポケモンたちは各々の反応を示す。 唯一そっぽを向いたままで窓の外を眺めているのはペルシアンだけ。 それを見かねてか、ニドクインが何やらペルシアンに話し込んでいるものの、一向にこちらには向こうとしない。 「クイン。ルシアは人見知りなんだから最初は仕方ないよ」 母がニドクインに対してそう言う。ニックネームつけてるのな。 うちのブラッキーはニックネームをつけていない。 っていうのも引渡しのときにイーブイの名前そのまんまだったから、変えようにも変えられないっていうのが現状だ。 一度別のトレーナーに登録されてしまった名前は特別な手続きをしないと変えられないらしく、例えそれが捨てられたポケモンであってもボールに履歴が残ってしまう。 それが原因でポケモンを預けるボックスシステムで軽い情報の混乱が起きてしまうらしいとのこと。 決してその特別な手続きが面倒というわけではない。捨てたトレーナーを特定してボールの初期化を行わないといけないから、現状難しいっていうだけだ。 一応新型のシステムが開発されているらしく、それもやがて解消される。そしたら名前をつけてあげようかという話も一応あがっているのだ。 多分、ヒイラギのブースターとリーフィアも似たような事情を抱えているのだろうと思う。 「さてと、昔のメンバーが揃ったわね……とりあえず次は」 「ちょっと待った」 「え……? なにか」 俺は周りを軽く見渡して、何か気づかないか、と母に向かって無言の訴えをする。 リビングには母とそのポケモンたち。そして俺がいる。 そう、決定的に足りない。 「トウヤとブラッキー。それにヒイラギたちは何処行ったんだ?」 「ああ。そのこと」 今更に思い出したようにそう言った母に、思わずため息をつく。 いや、今まで気づかなかった俺も俺なんだけど。 母は言葉を続けた。 「トウヤたちをこの一件に無理に巻き込むわけにもいかないからね。だから、ちょっと隣町の方に遊びに行ってもらってるのよ」 「なるほど」 確かにまだ10歳になったばかりのトウヤをこのことに巻き込むわけにもいかないし、万が一ってことも考えてどっかに行ってもらうしかないだろう。留守番してなさいって母が言ってもきっと付いてくるのは目に見えているだろうし。 「で、次は……?」 母の言葉をさえぎったのは俺自身だが、次の話を聞かないことには始まらない。 母は良くぞ聞いてくれましたといわんばかりに自信有り気な顔を浮かばせて言った。 「森でグラエナにも協力してもらって、森林を荒らしてる主犯をまず見つけないと。それから」 「突撃は下調べの後っていう感じか」 「そういうこと」 でもこれって自信有り気に言うことなんだろうか。期待した分結構損した気分なんだが。 母のポケモンはそれに慣れているのか、やや白け顔でその話を聞いていた。 「さてと、山に入る準備を色々としないとね」 そう母は言うよりも早くに何やら動き出す。 どうやら家の裏にある倉庫にそれらの道具があるらしい。 家のリビングにポケモンたちを残し、母と俺は裏の勝手口から庭のほうへと移動する。 勝手口を開けた時、母は一瞬だけ果樹園の方を見たものの、そのまま倉庫の方へと黙って向かってしまう。 「あ……」 勝手口から出た後、目を向けた先に居たものを見て、母が果樹園の方を一瞬だけ見た理由が分かった気がした。 「グルゥ……」 そう鳴き声を返してきたのは紛れも無いグラエナだった。 木の実でも取りに来たのだろうか。でも口には何も咥えていない。 「どうしてここに……?」 「ガゥ?」 俺の言葉の意味が分からなかったのか、グラエナは首をかしげた。やがて意味を理解したのかグラエナはそっと首を森の方へと向ける。何となくそれでグラエナのいいたいことが分かった気がした。 森のこと、やっぱり諦め切れなかったんだろう。勿論俺も諦めるつもりなんてなかった。 それに今来てくれたのは丁度良かった。森の中の案内と、その荒れた場所で何が行われているのか、きっとこのグラエナは分かっているはず。 「なあ、グラエナ。ちょっと頼みたいことがあるんだが……」 グラエナはその言葉を聞いてじっとこちらの顔を見てくる。 赤い目が少しだけ潤んでいるような気がした。 「こっちの準備が出来たら、後で森の道案内、頼めるか?」 「ガウ!」 軽く飛び跳ねながらそう答えたグラエナ。……これは肯定と受け取っていいのだろうか。 尻尾がはちきれんばかりに左右に揺れているのを見て、どうやらこれは肯定と受け取ってもいいようだった。 ***-9- [#h90ea0dd] ――山に入る際は色々と準備をしないと危険がある。 例に挙げると、急激な天気の移り変わりで雨に降られると、夏でも体温は下がって体調が悪くなることがある。 そのため半袖や薄手の服装で山に入るのは間違いで、半袖で入ると枝や草木で腕を切ってしまうこともある。 後は遭難した際に生存するためにも、栄養価の高い食料品を荷物に入れていくだけでも生存率は上がる。勿論、腐ったり痛んだりしにくいものが好ましいとされる――。 だけどそれはよっぽどの山奥に入るとか、登山とかの場合で……。 これから行こうとしている山は大して標高はないし、普通に舗装された道もあるくらいで。しかもそれを辿っていけば隣町についてしまうほど。 「なあ、こんなに荷物いらないと思うんだが」 未だに倉庫を忙しくあさる母の背に向かって白い視線を向けながらも、先ほど手渡されたものに目を通す。 所々錆ついた登山用の杖に色褪せたラジオ機能付き懐中電灯。消費期限は過ぎてはいないが外見的にあまりよろしくない乾パンの缶。その他雨具、50mロープ、バッグ等々。 手渡されたものを受け取っていたら両手にそれらを抱え込むことになり、気付けば身動きが取れない状態になっていた。 「グゥ……」 「グラエナ……。ちょっと、待っててな」 重たいというわけではないものの、決して持ちやすいともいえない数々の荷物を抱えた状態を見て、心配そうにこちらを見ているグラエナ。 取りあえずはこのどうにもならない荷物を何処かに置いてしまおうか。だが流石に地面にそのまま置くわけにもいかない。 どこか置き所はないかと振り返って辺り見回すと、家の窓辺にある少しだけせり上がっているコンクリートの地面が見える。あそこになら置いても平気だろう。 「よっと……」 小さな掛け声のようなものを出して、抱え込んだ荷物を半ば転がすようにしてその上に置いた。 やっと自由になった両腕をしばらく振っていると、母がいくつかの荷物を持ってこちらに戻ってくる。 いつの間にか倉庫の扉は閉められていて、母の手を見るとその倉庫の鍵が握られていた。 「とりあえず荷物はこれくらい」と母。 「これくらいって。こんなに要らないと思うんだが……」 コンクリートの上に置いた抱え込むほどの荷物を指差して、ため息をつくように母にそう訴えた。 だがそれに不満があるようで母は少々むすっとした不貞腐れ顔で、 「転ばぬ先の杖。備いあれば憂いなしって言うじゃない」 「蛇足」 「うっ……確かにそうだけど、山に入るんだからそれなりの準備はした方がいいんじゃない?」 なんて言ってくる。それは確かに一理あるが、そもそも山といえるかどうか難しい場所だ。 どちらかというと雑木林、所々木の実のなる木が生えているからポケモンにとっても有益な場所ってだけで。 さほど危険な場所でもないのだ。この前だってグラエナの後についていって森に入ったが、特に問題なく帰ってこれた。 ……道が危うく分からなくなりそうだったものの、そこは無事に帰宅出来たわけだから気にしない方向で。 母を説得するのは容易ではないし、なかなか骨が折れる作業だ。なんていったってあの歳で我が強いのだから、言ったことはなかなかに曲げない。 一途といえばそうでもあるのだが、こういうときにそれを発揮されても困るというか。迷惑というか。 実際単身赴任で出稼ぎに行っている父とあまり連絡はしていないものの、信用できる人だから大丈夫とそう言うくらいの一途さ。 と、考えていることの方向性がずれてきた。 とにかく今はこの母の多すぎる荷物をどうにかしないと。 「じゃあ誰が持つんだその荷物」 もう一度ビシっとコンクリートの上に指をさす。勿論母の頭の中では俺が持つ計画にでもなっているんだろうが、こんな無駄に多い荷物を持って歩くつもりはない。 「そりゃあ、リョウに決まってるじゃない」 「あのなあ。……そもそも、登山しに行くわけじゃないんだろ。目的把握してる?」 母がぴたりと止まる。どうやら肝心な部分がすっかり抜けていたらしい。 久々に呼び出したポケモンたちに、久々に入る森林の中。母は半ばピクニックでも行く感覚だったのだろうか。 すっかり黙り込んでしまった母。どうやらどうやらあながち間違ってはいないようだ。 「こんな重たい荷物持ったままで、伐採してる犯人に道端でばったりなんてことになったら咄嗟に動けないと思うぞ」 あっちがどんな目的で木を切りに来ていたとしても、あまりよろしくない連中なのは予想がつく。 だとしたら、遭遇した時に一体どういう行動を取られるか分かったものじゃない。 ポケモンを出してけしかけて来るかも知れないし、ポケモン同士を戦わせるなんて律儀なことしないで、トレーナーであるこちらをポケモンに狙わせる可能性もある。 だからこそ今の場合だと咄嗟に動ける状態であることの方がよっぽど重要である気がするのだ。 「分かったわよ。そこの荷物こっち持ってきて」 母はやっと折れたのか、ため息をつくと腕組みをしながら未だ不満げな表情で言う。ため息をつきたいのは俺も同じなんだが。 荷物の前まで行くと、屈み込んで荷物の下に手を滑らせる。ふっと力んでそれを持ち上げると、倉庫の扉を開けて待機している母に手渡した。その荷物は結構重かったはずなのに、母は軽々と受け取ってそれぞれ元の場所に片付けていく(正確には適当に突っ込んでいるだけなのだが)。 やがて全てが倉庫の中に再び納まると、ガシャン力強くと扉が閉められる。まるで今の母の気持ちを代弁しているかのように。最後に鍵を閉めて母は振り返った。そして何ともなかったかのように勝手口から家の中にいそいそと入って行ってしまった。その様子を見て、思わず隣で行儀良くお座りの形をとっていたグラエナを顔を見合わせてしまう。グラエナは分からないといったように首を軽く傾げた。 「お前も入るか?」 母に続くようにして勝手口から家の中に入ろうとした時、ふとグラエナがその前で座り込んで動かないのに気がついた。 ブラッキーと暮らしていたからそれがごく自然だと思ってしまっている自分が恥ずかしい。グラエナはまだ誰にも捕まえられていない野生に生きるポケモン。おいそれと家に入ってくれるほど、人間には慣れていないだろう。予想通り、グラエナは首を横に振ってそれに答えてきた。やっぱり、人の家に身を入れるほど信用してはいないんだろう。ただこちらに頼るしかない状態ってだけなのかもしれない。 「グゥ……」 だが首を横に振った割には、興味深そうに勝手口の隙間から中を覗き込むようにして首を伸ばしている。もしかして本当は入りたいのだろうか。もしかすると、野生のプライドか何かが壁になって邪魔になっているだけかもしれない。なら、少し背中を押してやるようなことをすれば、入ってくれるだろうか。 そんな少しばかりの期待を持って、勝手口から中に入り、そのままドアを開けておく。強い風が吹かない限りは勝手に閉まりはしないだろう。 「開けておくよ。入りたいときは勝手に入ってきても構わないから」 グラエナはその言葉を聞いて、キョトンとした表情でこちらを見つめてくる。言葉の意味が通じてないのか、それとも言われたことのないものだったから驚いているのか。そのどちらかであることは全くこちらには分からないが、開けておけば入ってくるか、そのまま勝手口の前で待ち続けるだろうと思う。元々もう準備は終わっている状態であるため、さほど家には長居しないでまたここに戻ってくるだろうから、しばらくここにグラエナが居ても問題はないはずだ。 勝手口の前で座り込んでいるグラエナを二、三度見た後、立ち上がってキッチンの方に向かうことにした。 キッチンに足を踏み入れると、フローリングの床からひんやりとした冷たさを感じた。最近この部屋にもクーラーを設置したらしいのだが、どうにもそれにまだ慣れない。ただここで食事をするため、それが快適といえば快適なんだろうが。 「で、母さんは一体何をやってるんだ……」 流し台から半ば身を乗り出すようにしてリビングを見ると、待機させていたポケモンたちをモンスターボールに戻していくのが見て取れる。最後の一匹、バクフーンをモンスターボールに戻したところで、母は首を傾げた。何か問題でもあったのだろうか。 疑問を持ちながらキッチンからそのままリビング(正確にはリビングキッチンなので食卓の周辺がリビングと言えるのかすら分からないが)に歩いていく。テーブルの上にモンスターボールを置いて数を確認し始めた母。ボールの数は5つだけ。色とりどりのボールが並んでいる。5つ……? 「確か6匹いたはずだよな」 「フシル、トト、クインにコルニス。で、ニトルスは戻したから……」 母がボールを指差しながらそう名前を呟いていく。戻していたときにあの唯一そっけなかったポケモンがいない気がした。 「ペルシアンがいないな」 「そうそう、ルシアがいないのよね。よく覚えてるわね」 覚えていたことを関心したように母が言う。他のポケモンはうろ覚え状態に近かったが、何故かそのペルシアン、ルシアは妙に印象に残っている。 普通の反応をされるよりも、何か違った反応を集団の中でされると記憶に残るというが。でも、それだけじゃない気がした。 「目を離すといなくなることあるから先に戻しておけばよかったかな」 母はそう独り言を呟いた。どうやら今回だけのことではないらしい。いつもふらふらと何処かしらに行ってしまう。まるで幼い頃のトウヤみたいだ。 だがこのままだと外にいるグラエナを長く待たせることになってしまうかもしれない。 痺れを切らして森に戻ってしまうと困る。道案内役がいないと不安でもある。それに……。 「とりあえず俺は二階見てくる」 「ええ、お願い」 母と向かう先は同じでもこちらは玄関口の向かいにある階段を上って二階へと向かう。母はそのまま奥の部屋へとルシアを探しに行く。 家の中にいなかったら外にいることにはなるが……母のポケモンだからそこまで遠くまではいかないと思う。根拠はないが。 一段一段が少しだけ高い階段を上り終えると、二つのドア。目の前がトウヤの部屋で、右に見えるドアの先が自分の部屋。 ふと目を凝らして見てみると、少しだけ開いているトウヤの部屋のドア。 自分の部屋のドアはぴったりと閉まっているところを見ると、どうやらトウヤの部屋にルシアが居る可能性は高い。 何となく。本当に何となしに、足音を立てないようにそっと部屋までの廊下をすり足で歩く。 人間よりも遥かに耳のいいポケモンに、しかもペルシアンという音や気配に敏感なポケモンに対して、それが果たして意味があるのかどうかは怪しいが。少なくとも驚かさないように歩くのは効果的だとは思う。 半開きになっているドアの取っ手を手に持つと、ゆっくりと手前に引いていく。そこから頭を覗かせて部屋の中を隅から隅まで……。見る必要性はなかった。 目の前に見えるトウヤのベッドの上で、一匹のペルシアンが前足を体の下に起用に折り込んで、しなやかそうな体をゆっくりと上下させながら目を瞑っていた。……寝ているんだろうか。 それにしても何故トウヤのベッドの上なのだろう。下の階にもベッドがあるはずだ。しかも寝るとき以外は常時開きっぱなしの部屋だ。わざわざ二階に来る必要があるとも思えない。 (あー……。なるほど) よくよく見るとトウヤのベッドはカーテンが開いていても日が差し込んでいない。 丁度一階の寝室は今の時間帯は西日が差し込むようになっていて、少々暑い。それに比べるとここは朝日しか射さないので、昼ごろには丁度涼しい部屋になる。 それを分かっていてルシアはこのトウヤの部屋に来たのだろうか。もしかするとそれはただの思い過ごしで、ルシアの気まぐれなのか。 ……と、母に伝えるなり、ルシアを連れて行くなりしなければ。 「おい……えと、ルシア」 面会してからそこまで時間が経っていない自分がルシアを名前で呼んでいいのか迷ったが、どうせこれから一緒に暮らすことになるかもしれないのだ。今名前で呼んでおいても問題はないと思う。 呼び声に気付いたのか、耳を痙攣でもさせるように何回か動かした後、やっと閉じていた瞼を開けた。赤い縦筋の瞳がこちらを眠たそうに捉えていた。 「母さんが呼んでる」 まだ寝足りないのか、重そうな瞼を二、三度瞬かせると、やがて大きな欠伸を一つ。さっき言ったこと理解してるのか……? と思い始めたところでやっとルシアは立ち上がる。そしてそのままトウヤのベッドの上で腰を後ろに突き出して大きく伸びると、体を解し終えたのかベッドからすたりと小さな音を立てて降り立った。 「母さんは一階にいる……って、あれ」 こちらの言葉を聞くか聞かないかのところで、ルシアは目もくれずに横を通り過ぎていく。いくらなんでもそっけなさすぎだろう。自由気ままなところがペルシアンっぽいといったらそうなのだろうが……。 そのままルシアがトコトコと階段を下りていく音を聞きながら、何故かやるせなさを感じてため息をついた。 ***-10- [#m4db7564] ルシアの後を追うようにして階段を駆け足で下りていく。丁度階段の下の方に、ルシアを戻したのであろうボールを持って佇んでいた。 母は下りているこちらを見上げて催促のなのか手招きをする。と思ったら母はリビングの方に向かっていく。……待ってくれるんじゃないのかよ。 人にルシアを探させる手間を掛けさせておきながら、何だかあっさりしている。ルシアは母のそういう自由奔放な部分を投影したそのまんまの性格にも思えてくる。 類は何とやらとかそういう言葉を使うつもりはないが、そう思いたくなるほど似てる部分があるのは何故だろう。 そんなことを考えつつも、最後の一段を下りてリビングに向かう。再び足元を冷えた空気が包み込んだ。 新しいエアコンだからなのかは分からないが、よく冷える。母も買って喜んで冷風の向き弄ってたし、それなりにいいものなのだろう。 だがこれは少し冷え過ぎているような。人は立っているから床の冷気を感じるのは足だが、背の低いポケモンや四足歩行のポケモンは全身にこの冷たさを感じることになる。 後で設定温度を母に見つからないように上げておこう。 「グゥ……」 「あ、グラエナ」 どうやら勝手口を開けておいたのは正解だったようだ。いつの間にかグラエナはリビングの中に入ってきていた。 だが少しだけ様子がおかしい気がする。何やらグラエナは自分の足を気にしているみたいで。床にまさか画鋲とかが置いてあったとかじゃないよな。 足元を気にするグラエナの元に近づいていくと、次第に何を気にしているのか分かってくる。 鈍い輝きを放っているフローリングの床に、点々と残る肉球の形……。もしかして床を汚してしまったのを気にしているのだろうか。 「別に拭けばいいだけなんだから、気にしなくても構わないのに……」 グラエナにそう言うと、そっとその頭を撫でる。嫌がってしまうかとも思ったが、案外大人しく目を細めて気持ちよさそうにしていた。 このグラエナを見ていると本当にこいつが野生のポケモンであるだろうかとも思ってしまう。 大抵のポケモンは人を見かけると逃げるか縄張りを守るために襲ってくることがあるが、このグラエナはそういった感じがほとんどしない。 うちの庭にある木の実を取りに来ているからとは言っても、何だか人に慣れている感じがする。 「グゥ」 撫でている手を休めて考え事をしていると、どうしたのかといわんばかりにグラエナは一鳴きする。 ここで考えているよりも多分外で待っているであろう母のところに行かなければ。 と、その前に壁に掛けてあるリモコンを見て、設定温度を2℃くらい上げておく。これでいいだろう。 ふと後ろにぴったりとくっついてくるグラエナを見ると、自分がグラエナのトレーナーであるかのように錯覚してしまいそうになる。 でもこいつは野生のポケモン。空のモンスターボールに手に取れば警戒はするだろう。こいつもそうだと、思う。 とにかく今はグラエナをパートナーにすることよりも、森の問題を解消することの方が先決だ。 グラエナを一度だけ見て、それから勝手口の方に向かって歩き出す。母は多分外で待っているだろうし。 ――グラエナと共に裏庭に出ると、母が家の壁に寄りかかって待っていた。母の足元には恐らく退屈しのぎで出されたのであろうサンダースの姿がある。 サンダースの方も退屈そうではあるのだが、こちらの存在に気付くと一鳴きして母にそれを知らせた。 母はそれに気付いてこっちを見ると、壁から背を離して肩を回す。 「それじゃあ、行きましょうか」 そう言って森の方に歩き出す母。一応あの一帯の土地所有者だから道筋は分かるんだろうけど、さすがにその細部まで分かっているわけではないと思う。 隣にいるグラエナの方を向くと、母の方をじっと見ている。一応こいつも母には会った事があるんだろう。 グラエナの背中を軽く叩いて、自分も母の後を追うようにしてついていく。 「道案内、頼むぞ」 「グゥ」 グラエナは小さく返事をすると、母の前の方まで走っていってやがてこちらの歩幅にあわせるように歩き出した。 別にトレーナーでもないこちらの言うことを素直に聞いてくれるのは、それだけ森を救いたい気持ちがあるからなんだろう。そうでなければ、わざわざ俺をあの森まで案内することなんてまずそれすらしないだろうから。野生のポケモンが慣れていない人間に対して頼み込んでくるほど、森を案じている。そう思うほかない。 さわさわと黒い尻尾を振りながら目の前を歩いていくグラエナの姿に、何となく頼もしさを感じた。 しばらく歩いていくと段々と切り株が目に付いてくる。何か巨大なポケモンが縄張り争いで木をなぎ倒したのなら、こんな綺麗な切り株はできないはずだ。 チェーンソーか鋸か。それくらいしかないだろう。そもそもこの森には巨大と言えるポケモンすらいなかったりするのではあるが。 切り株を見て顔をしかめる母。現状がこの状態だと、さすがにまずいとでも思ったのだろう。 「間伐してくれるならともかく、こうも乱雑に木を扱われると腹立つわね」 よくよく見ると切られた木が丸々一本地面に転がっていたりするものだから、確かに性質が悪い。これじゃあ何のためにこの木が切られたのかすら分からなくなってくる。 グラエナもその切られた木を見てずっと目を細めていた。これは本当にどうにかしないと森のポケモンたちの住処が無くなるな。 母は置かれている木の場所から立ち上がると、周りを眺めながら言った。 「前ここら辺にきたときはポケモンの一匹や二匹くらい見かけたのに……すっかり怯えてどっかに行ってる感じね」 「どうにかしないとな」 こちらの言葉に母はゆっくりと頷くと、グラエナの方を見る。グラエナもやがて頷いた。 二人の間で何かしら意思疎通でもしたのか分からないが、とりあえずこれで母も問題の大きさを再認識したのかもしれない。 だが、この問題を解決するにはこの伐採を行っている張本人たちを捕まえなければどうしようもないのだ。いくらまた新しい木を植え直したところで、また一本一本切られてしまうのでは意味がない。 切り株と落ちている大木を見るに、どうやら結構最近の切り跡みたいだった。切り株の表面はまだささくれ立っているし、落ちている大木もあまり朽ちた様子はない。とするとこの辺りにいるのではないだろうか。 「ガゥ……」 「ん? どうした、グラエナ」 ふと隣にいるグラエナが何かに気づいたようで、小さく声を上げる。その視線の先にはかすかに見える人影。もしかするとあの人影がその張本人なのか。 後ろにいる母も近づいてきて、身を屈める。サンダースも足音を立てないように母の隣で伏せ込んだ。 「あいつら……?」 「分からない。様子を見てみよう」 時々動く人影の方をじっと見ながらも、母は聞いてきた。まだだ。その木を切る行為をしているところを確認しないと、実際にここで何をしているのかは分からない。動くにはまだ早い。 しばらくその様子をじっと見ているとどうやら二人くらいいる様子。木が立ち並んでいて少々分かりづらいものの、多分二人いる。そして何やら話し込んでいるようだ。気になるのは、その人影の足下の辺りに時々見える影。大きさ的にポケモンかもしれない。森の中に入るのならポケモンを持っているのは当たり前ではあるが。 ふと何かが人影の横で光る。太陽の光を反射する、光沢のような。その瞬間、空気を細かに振動させる、バイクのエンジン音のようなものが辺りに響き渡った。もしかするとこれは……。 「行くなら今かもしれないっ」 「よしっ! いくよニトルス!」 まるで今まで『待て』と命令されていた犬のように、待ってましたとばかりに母は草むらから飛び出した。ここまで活動的な母もこのご時世なかなか見ないと思う。 母の気迫に押されつつ、自分も隣にいたグラエナと一緒にその人影の方へと走り出す。草むらを掻き分けて、木の根を飛び越えて、向かった先にいたのは。 「な、なんだね君たちは……」 手に携えたチェインソーを斜に構えながらエンジンを止めると、作業服を着たがたいの良い男が怪訝そうな表情を浮かべてそう言ってくる。その足下には、グラエナの方をじっと睨み付けているヘルガーの姿があった。 ***-11- [#kd30165c] ニトルスと相手のヘルガーが互いに睨み合う中、それとは対照的に業者の男は面倒くさそうな顔をしてこちらを見据えていた。母はまず手始めにと、話し出す。 「誰の許可を得てここら一帯の木を切ってるのか。それが聞きたいわけだけども」 なるべく相手を刺激しない方向で母は話をつけるらしい。相手の様子を見る限り、相手もきっと面倒事は避けたいに違いないと思ったからだろう。しかし相手は意外にもあっさりとこう答えた。 「許可は貰ってないね。貰う必要なんてないと思ってるしな」 男は悪びれもしない表情でさらにこう付け足す。 「どうせここら一帯はもう所有者死んでるんだから、何をしようが俺らの勝手だろ。ほら、仕事の邪魔だ、どけ」 しっし、と、右手で軽くあしらわれてしまう始末。これには流石の母もご立腹のようで、奥歯を噛みしめている様子だった。ふと、俺の隣にいたグラエナが唸りだす。きっと、男の言葉の意味は分からなくとも、表情や仕草で信用ならないと判断したのだろうか。実質、悪びれもしない男の表情は実に不愉快だった。開き直った表情ほど、苛々させられるものはないと思う。 「なんだよ。このグラエナ。黙らせろ、あんたトレーナーだろう」 男はグラエナが唸っているのが気に食わないといったように眉をひそめた。母ももう黙っていられないようで、やがて一歩前に出て言った。 「この土地の所有者は私。勝手は許さないよ」 その母の言い放った言葉を聞いて、段々と男の顔色が悪くなり始める。それもそのはず、いないと思っていたこの土地一帯の所有者が、まさに今目の前にいるのだから。だが母の言い方では変に男を刺激してしまいかねない。これから起こってしまうであろう騒ぎに備えて、グラエナの方を見る。グラエナの方も分かっているみたいで、こちらの方を見て頷いた。 「くそ……ヘルガー! 火炎放射!」 刹那、ヘルガーが大きく開かせた口から大量の炎がニトルス目がけて勢いよく噴き出す。ニトルスも攻撃が来ることを警戒していたようで、避けるのは容易だった。しかし問題だったのはむしろその後で。放たれた火炎放射はそのまま木の幹目がけて飛んで行き、葉に着火してしまう。これは母も予想していなかったようで、すぐに別のモンスターボールを取り出した。 「トト! なみのりで木の火を消して!」 投げられたボールから出てきたのはトドゼルガのトト。一瞬だけ訳が分からないといったようにあたりを見回していたものの、やがて音を立てて燃えている木を見た途端、大きく息を吸い込んで、技としては控えめな水の波を燃えている木に当てる。それを何度も続けているうちに何とか火は消し止められた。だが、何かがおかしい。 「あの男……逃げたな」 いつの間にか男の姿が見えなくなっていたのに気付いて、俺はそうつぶやいた。今思い出すと、あのヘルガーの火炎放射はなぜかニトルスよりも少しだけ上の方に向いていた。元々攻撃を仕掛けるためだけではなく、逃げるための時間を作ろうとしたためだったのか。横目で、母がトトを戻しているのを確認すると、当たりを見回した。 「あれ……」 「どうしたの?」 さっきまで隣にいたはずのグラエナがいつの間にか消えていた。自分の後ろにいるのかとも思ったものの、振り返ってみてもグラエナの姿は見えない。何か言いようのない不安が、頭の中を過った。そう思うより先に、俺は走り出していた。 「ちょっと! どこにいくの!」 「グラエナが危ない!」 俺はそう言って背後から聞こえる母の静止も聞かずに、男が向かったであろう坂道をまっすぐ下っていた。 ――迂闊だった。グラエナは伐採されていくこの森をどうにかしたいと思ってわざわざ俺に頼み込んできたのだ。それなのに、どうしてその元凶でもある男を見す見す見逃すことを選ぶだろうか。どう考えてもグラエナが逃げて行った男の後を追うのは至極当然のことだった。なのに、俺はグラエナの怒りの矛先に気付いてやれなかった。本当なら、怒りに任せて動いてしまうグラエナを俺が止めるべきだった。野生のポケモンだとか、俺の手持ちじゃないからとかそういう細かいことなんて関係ない。俺はただあのグラエナに危険なことを任せたくはなかった。一匹だけで対峙しても勝ち目はない、ましてや相手は数匹のポケモンを持っているかもしれないっていうのに。 「くそっ……」 俺一人が向かったところで何かができるわけじゃない。だが、どうしても行かないという選択なんて出来なかった。グラエナがいつの間にか自分のパートナーになったみたいな、そんな感情が自分自身の中に確かにある。だからかもしれない、あのグラエナを見捨てることが出来ないのは。 数分の間、走ってはいるが、なかなかグラエナの姿や男の姿が見えてこない。足の速いグラエナならともかく、男はそこまで遠くには行ってはなさそうだが……。せめて何かどこへ向かったか分かるような目印があればいいんだが。 そう思っていると、ふと視線を下にしたときに何かに気付いた。最近折れたような背の低い木の枝。それは奥の方に続いていて、どうやらこの道から全く踏み荒らされていない場所を通って行ったらしい。そのおかげで踏み分けられた草の向きを辿ればいずれは男に、そしてグラエナに追いつくことが出来るかもしれない。そう思った俺はその草木の生い茂る中に足を踏み入れて進んでいく。一度男が通ったであろう場所ではあるものの、草木を分けて進んでいくたびに体にそれらがぶつかっていく。この時長袖を着ていなかったら、きっと枝で腕に切り傷が出来ていたかもしれない。ここは素直に執拗に長袖を着ることを推し進めてきた母に感謝すべきかもしれない。 「お、おい……! グラエナ!」 やがて開けた場所に出てきて、目にしたものは。 「グラエナァッ……!」 見るも無残な姿だった。地面に横たわったグラエナの体は酷く傷ついていて、右の目からは血を流している。息は微かにしているが、呼び掛けには全く答えてくれない。眉間にしわを寄せて、苦しそうに瞼を強く閉じているのを見て、胸が強く締め付けられた。 このままだと……グラエナは死んでしまう。 「死なせてたまるか……!」 グラエナを抱きかかえるようにして持ち上げると、そのままふら付く足を抑えながらも何とか立ち上がる。普段持ち上げているブラッキーよりも重たかったが、今はそんなことを言ってる場合ではなかった。このまま持って家まで運び、後はポケモンセンターに連絡して救急搬送してもらうしかない。それまで、時間の問題かもしれない。もしかしたら、という考えを振りほどいて、俺はただひたすらに走った。元来た道を引き返すように、ひたすらに坂道を下った。 ただ、グラエナが助かることだけを祈って。 ***-12- [#x912c09e] ――いつしか見たような光景だった。 鼻を通り抜ける薬品の臭い。汚れがほとんど見当たらない小綺麗な、足元の白いタイルに反射するぼやけた蛍光灯の灯りを見つめながら、ただ結果を待つのみ。 この時間が、俺は酷く嫌いだった。まるで裁判官が判決を下す瞬間のような、そんな気持ちがして好きにはなれない。 ポケモンセンターの集中治療室の待合室は、不気味なほどに静かだ。その中で唯一響くのは時計の秒針の音。 遅くもなく、速くもなく。ただ一定の速度で秒を刻みつける音が、辺りに響いている。 グラエナがポケモンセンターに救急搬送されてから、もう一時間は経っただろうか。 たったの一時間。だが、今の俺にはそのただの一時間がひたすらに長く感じる。 先ほど来た看護師の話では、右目瞼の裂傷と右腹部の火傷、腹部の内出血があったとのことで、手術をしなければならない、と。 命に別状はないのかと問えば、ただ押し黙ってしまう。そのことが、余計に不安を助長させていた。 「はい」 いきなり上から声が聞こえたと思ったら、そこには母の姿。こちらに差し出した手にはどこかの自販機で買ってきたのだろう"サイコソーダ"が握られていた。 それを何も言わずに受け取ると、ゆっくりと缶のプルタブを引き起こす。プシュ、という小気味のいい音が、ただ無音だった待合室に響く。母をそれを見て、隣にゆっくりと座り込んだ。さわさわと缶の中で音を立てるサイコソーダを口の中に入れると、口の中でも小さくはじける。だが、どうしてだろう。美味しいと思っていたそれは、今は酷く無味に感じた。 何故こんなことになってしまったんだろうと、自分の中で自問自答する。きっかけはなんなのか。誰が悪いのか。俺はどうするべきだったのか。考えの先に、当然答えなんか出るわけもなかった。目まぐるしく変わる頭の中の考えに、自分自身が追いつけない。きっとそれは自分自身の許容量を遥かに超えていることだからだろう。それに、動揺していて落ち着かない今の状態で考えたって、何も分からないし、何も変えられない。 「少しは、落ち着いた?」 丁度頭の中の議論が現段階での結論に達したとき、母がそう話しかけてくる。今のところ、グラエナがただただ無事であることを祈ること以外、何も出来ない。それにやっと気が付いて、一度深呼吸をした。 「何とか……」 「そう」 そういう母にも、いつもの強気の態度は全く見られなかった。母も、グラエナのことを心配しているんだと思う。それに、一番初めからあのグラエナの存在を知っていたのは母なのだ。母も、きっと心の中では動揺しているんだと、母の手の震えを見て気付いた。 俺はそっと、母の肩に寄り掛かった。 ――待ち始めてから2時間が経った頃、待合室に一人の看護師と、手術に携わったであろう人物がマスクを外しながら近づいてきた。その表情は、酷く重々しい。 「我々も手の限りを尽くしましたが……」 聞きたくない言葉だった。決して巡り合いたくない結末だった。隣で泣き崩れる母。野生のポケモンなのに、まるで自分のポケモンかのように。蛍光灯のぼやけた光が、頭の中を真っ白に染めこんだ。気が付けば、俺は膝から崩れ落ちていた。目の前が、真っ白になった。 その後、俺はグラエナの亡骸も見ることなく、気が付いたら自分の部屋のベッドに横たわっていた。きっと気を失った後、母が家にわざわざ運ぶように言ったのだろう。ふと、寝返りを打つと、ポケットの中に何かがあることに気付いた。取り出してみると、そこには小さく縮小した状態の、空のモンスターボール。赤と白の基本的なものだった。 「何のために、俺はあのグラエナと接してたんだろうな……」 誰に言うでもなく、そう独りで呟いた。グラエナを迎えるはずだったモンスターボールは、もうその意味を持たなくなってしまっていた。自分が必ず最初のパートナーにすると決めていた、その意味すら今ではなくなっている。これからどうしていけばいいのかさえも、全く分からなくなってしまった。 すっとベッドから起き上がって自分の机の上に、空のモンスターボールを置いた。心の中に、ぽっかりと穴が開いたようだった。 ふと、窓から見える夕焼けに染まった山々を見てみる。あのグラエナは、あの森を守りたかったのだろうか。それとも、そこに住む仲間を守りたかったのだろうか。今となっては、何故あのグラエナが俺に助けを求めたのかすら、あのグラエナに問えなくなってしまった。 「グラエナ……」 果樹園を見て、あの時の事を思い出す。何となしにこの窓から見た庭先の果樹園から、木の実を取っていくグラエナの姿。最初は俺の姿を見ただけで森の方へ戻って行ったっけか。次は何とか近くに寄ることが出来たけれども、結局は逃げられてしまう。でも、呼び掛けに一歩だけ立ち止まってくれた。そして、威嚇されて首元を噛まれそうになったものの、森を案内され悲惨な現状を見せられた。会えば会うほどに親しくなっていたのが、よく分かる。それが一日の中の出来事なのだから、自分でも信じられなかった。 だが、その翌日である今日。今のこの現状をどう受け止めろというのだろう。今でもこうやって果樹園を眺めていれば、グラエナがまた木の実を取りにくるような。そんなありえないことを思いながら、あの時と同じように庭先の果樹園を眺め続けていた。 「ん……」 何かが、果樹園の木の陰に隠れた。何だろうと、目を凝らしてみる。黒い何かが揺れていた。ところどころ白いひらひらしたようなものがついているが、それが何なのか。それが一体何の"ポケモン"なのか。俺にはすぐに分かった。 俺はすぐに机の上に置いた空のモンスターボールを持つと、自分の部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。そして急いで玄関から飛び出して、果樹園の方に向かう。自分でも驚くくらい、足取りは軽かった。足の裏を芝生がくすぐるのも気にせずに、ただ目的の場所へ走った。ついた場所で、俺はただ目の前の光景を信じられなかった。 夕焼けで染まった黒と灰色のコントラストに、夕焼けよりも更に赤い隻眼がこちらを見据えていた。右目は縫合されていて閉じられた状態で、胴には包帯が巻かれていたが、地にしゃんとして立っていた。何よりも見覚えのあるその姿、あのグラエナが、そこにはいた。 「グラエナ!」 グラエナの元に走って行って、思わずそのふさふさの体に抱き着いた。でも、どうしてだろう。確かにあの時、医者はグラエナは死んだとはっきりと告げていたような……。 「グゥ……」 「あ。ごめん」 傷が癒えていない部分に抱き着いてしまったため、抗議の声をあげたグラエナ。両手を開放すると、グラエナは軽く身震いをした。 「あー。やっぱりグラエナの方から来ちゃったか……」 背後から母の声が聞こえて、後ろに顔を向ける。やれやれといったような感じで母は近くまで来ると、グラエナの首を撫でた。グラエナは一瞬だけ嫌そうな顔をしたものの、母の撫でる手つきが慣れているからか、すぐに気持ちよさそうに目を細めた。だが、俺はどうも納得がいかない。何故ここに今グラエナが生きていて、しかもしっかり治療を済ませているその理由を。 「……どういうことか説明よろしく」 母はそれを聞いてグラエナから手を離し、ため息をついた。ため息をつきたいのは一体何が起きているのか分からないこっちの方なんだが。 「ポケモンセンター側の処置よ。野生のポケモンが怪我をしたといって運び込まれると、ああやって表向きでは亡くなったことにするらしくて」 「で、裏では実は生きていて保護して、仕舞いには野生に返しますってことか」 「そういうことらしいわよ」 恐らく野生のポケモンをむやみやたらに人間の手で治療してはいけないのだろう。トレーナーのポケモンや人間の責任で大量のポケモンが負傷したのならそれは治療する義務があるかもしれないが、こういったケースはポケモンセンターからすればあまり好ましくはないのだろう。つまるところ助かるのかと聞いたところで押し黙ったのも、あの医師が暗い顔で死の宣告をしたのも、全部演技だったということだ。何だか今まで本気で心配して、本気で落ち込んだ自分が馬鹿みたいだ。 「私はリョウがショックで倒れて、その後に医者からその話を全部聞かされたから、こうやって平気でいられるんだけどね」 母はそう言って屈んだ体勢からゆっくりと立ち上がると、軽く伸びをしながらさらに続けた。 「それで、グラエナは保護されたんだけど、さっきポケモンセンターから逃げ出したって連絡があってね。そっちに来ていないですかって」 「なるほど。それで"やっぱり"なのか」 色々と理解できないこともまだあるが、一応どうしてグラエナがここにいて、何故母がそれを知っているのかは分かった。 それに、今はグラエナがこうして来てくれただけでも嬉しい。だけども、まだ縫合したてで回復しきっていない右目が気になる。 「でも、一応まだ療養は必要なんじゃないか?」 「ええ。だから引取りにはくるらしいわ」 またここで別れてしまうことが今の会話で分かったのか、グラエナは耳を垂らして顔を俯かせた。自分の怪我を気にするよりもこちらにいることの方が大切だと思ってくれていることに、何となく嬉しくなる反面、ポケモンセンターに再度引き取られることに何だか複雑な心境だった。母はその様子を見て、俺の手に持っているモンスターボールを指差した。 「確かにまだポケモンセンターで療養する必要性はあるけれども、リョウのポケモンとして登録されれば、いつでも会うことはできるわよ」 その言葉を聞いて、グラエナと顔を見合わせる。やがてグラエナの視線は俺が手に持っているモンスターボールの方に向かっていた。昨日から待ち望んでいたことだった。だがあまりにもいきなり過ぎてちょっと気持ちの整理が追いついていないのも確か。だが今この機会を逃すと、次のチャンスがいつくるか分からない。果たして、グラエナはどう答えてくれるのだろうか。 「グラエナ。俺はお前を最初のパートナーにしたいんだが……お前はどうしたい?」 グラエナはしばらくモンスターボールを見て、じっとしていた。これからのグラエナの一生を左右するかもしれないことだ。悩むのも仕方ないと思う。ふと、グラエナは森の方へと目を向けた。 「やっぱり森のことが気になるのか?」 「ガウ」 そうだと言うようにはっきりとグラエナは返事をした。確かに業者には逃げられてしまったし、この先森がどうなっていくのか。グラエナが元々そのことを俺に頼んできたのだから、気になってしまうのは当然のこと。 「森の管理については、私が何とかしておく。そもそも私がなるべく自然には手を付けないようにって思ってそのままにしていたら、今の事態になったわけだしね」 と、助け船を出すかのようにそういう母。グラエナはその言葉を聞いて理解したのか分からないが、再び視線がモンスターボールの方へ向く。そしてゆっくりと、グラエナは首を縦に振った。 「分かった。それじゃあ……」 はやる気持ちを抑えながらも、そっとグラエナを呼んだ。グラエナは母の傍をするりと通って、膝を立てて座っていた俺の膝に両前足を乗せた。いつでもいいという合図のように、グラエナは俺の顔をじっと見つめていた。俺は右手に持ったモンスターボールを、そっとグラエナの額に当てた。普通にポケモンを捕まえる時とは違い、少しだけゆっくりめに開いたモンスターボールの中に、光として収まっていくグラエナ。やがて中央のランプの点滅が……止まった。 自分が一番待ち望んでいたこと。心が躍るのかと思ったけれども、いざこうやってグラエナをパートナーとして迎え入れたこの時を前にしてみると、その気持ちは少しだけ違っていた。確かに、嬉しいといえば嬉しい。しかし、それ以上にグラエナのパートナーとなったことに、そしてグラエナの命を預かったことに、何となくその重さをモンスターボールに感じていた。 「ほら、早く出してあげな」 捕まえてからぼーっとしていた俺を一括するかのように、母はそう言った。俺は言われた通りにグラエナをボールから出すと、そこには先ほどと何も変わらないグラエナの姿が現れた。いつも学校で友達がボールからポケモンを出すのは見ていたが、それとはまた違った感じに見えたのは、きっと俺の気のせいじゃないはずだ。 「グラエナ」 「ガウ?」 名前を呼んでみると、グラエナは首をかしげてこちらを見据えていた。そしてきっと、新たにポケモンを手にしたトレーナーが言うであろう言葉を、俺は口に出していた。 「これから、よろしくな」 「ガゥ!」 さわやかに風が通り抜ける。改めて交わした始まりの挨拶の余韻に浸る間もなく。 「でさ、リョウ。靴くらい履いたら?」 それを母が颯爽と消し去って行くのだった。 「……少し、空気読んでくれ」 「グゥ……」 ...The End ---- CENTER:あとがき ---- これにて「園への訪問者」完結となります。読んでくださった読者の方、または作者の方、この作品を最後まで読んで下さり、誠にありがとうございます。 この作品を書き始めたのは去年の夏(だったと記憶していますがうろ覚えです)。 半年以上掛かってようやく「過去との決別」と合わせ、完結となりました。 前半部分は前述した作品と同時進行だったので、行動を合わせながらも両作品の物語を進行させていくことが意外にも難しいものでした。 短編一つ書くだけでも苦戦しているというのに、時間軸並列の同時進行の短編を二作品。正直止めておけばよかったかもしれません(苦笑) しかし、何とか完結まで漕ぎ着けることが出来たのは、ひとえに応援してくださった読者の皆様のおかげです。本当にありがとうございました。 ---- ▼感想などありましたら、お気軽にどうぞ。 ---- #pcomment(コメント/園への訪問者,10,below) #pcomment(below)