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じゃあどうしてそんな同意なんて取りつけるんだ。ううん……」 クリムガンは、自分の内奥に生じる無意識を捉えようとする。単純に殺意を抱いたのなら、殺してもいいかと訊くのもおかしい。 クリムガンは無意識になにを思ったのか。中心自我に問い合わせてみるが、どうも答えが判然としない。 「ああ……もしかして、戸惑ってるのか」 ひょんなことから他者を内側に取り込んでしまったことへの戸惑い。他者から興味をむけられたことへの困惑。確率的には高そうに思われる。しかし戸惑いだとしても、それからどうするべきかの答えにはならない。 クリムガンは悩みに悩んだ。表層的にはぼーっと座っているようにしか見えないが、チョロネコのほうも下手に動くことはできない。クリムガンは、あのバルジーナをあっさりと撃退したのだ。逃げようとすれば殺されるかもしれない。もはや逃げ出せる距離ではなかった。あとわずか一分の距離。しかしあまりにも絶望的な距離。街の灯りが遠くに見える状況ではあるが、またソウリュウシティの外だ。 「とりあえず帰りたいんだけど」 チョロネコはおずおずと提案した。 「それは、だめかもしれない」 クリムガンは否定した。とくに意思を持って否定したわけでもないが、どうもこのまま行かせるのは気持ちが悪い。素直に考えれば人間だろうがポケモンだろうが、どこでどうなろうと関係ないというスタンスなので、このままチョロネコが街に帰っても問題ないはずだ。にもかかわらず、そのまま帰すことを心のどこかが拒んでいる。 興味を持ったのかもしれない。 クリムガンは首をかしげてチョロネコを観察する。まだまだ幼さをにおわせた。なんの力もない弱いポケモンが、夜に街を離れているとは、よほど自分の運を過信しているのだろうか。街に戻ろうとしているということは、どこかでペットとして飼われているのか。いろいろと考えたが、些末な情報だと途中で切って捨てた。 それよりも気になったのは、声だった。 おそらく、クリムガンにつまづいた一瞬のうちに、チョロネコが無意識に発していた声が、ふだん聞けないものだったから、興味を持ったのだと思えた。クリムガンはあのとき本気で眠っていたため、意識できるほど記憶のなかにはなかったが、あの小刻みに激しく繰り返す呼吸のなかに「生きたい」という無意識の叫びがあったのかもしれない。ふだん死にかけている生き物には滅多に会えない。ポケモンセンターで保護された、老衰で死にかけているポケモンのそばにこっそり近づいたことがあるが、意識がぼんやりと拡散してゆくだけで、そういう叫びはなかった。病魔に犯された人間などはまだマシ(クリムガンの基準する面白さという意味で)だが、それでも絶叫というより諦めに近い心理が心の大部分を占めていた。病魔による痛みに気を取られている者もいたし、叫びと呼べるほどのものではなかった。 クリムガンに向けられた叫びは、おそらくそういったものとは違う叫びだ。たぶん、殺されそうになっている者の発する叫び。 「そうだな。もう一度聞きたいのかもしれない」クリムガンの調子は軽い。「命乞いをしてくれ」 得てして、興味を持つというのはこういった偶然を孕むものだ。それはいわば、広大な洞窟を探索するような地道な作業なのだ。 クリムガンはにっこり笑った。 「助けてください。死にたくありません」 後ろ足に、尻尾を踏ませる。こうすることで、とっさには動き出せなくなる。そうしておいて、チョロネコは頭を低くする。人間でいうところの土下座の格好である。 「すごくつまらない」と、クリムガンは言った。 「そんなことを言われても……」 「ポケモンセンターのタブンネが、おれの友達にいるんだけど――」 軽い世間話という風情で、クリムガンは切り出した。 「大好きな友達のタブンネに対してでも、おれはときどき殺意を抱くんだ。それってどんなときだか、知りたいか?」 チョロネコは答えない。あまりに突飛すぎて話についていかれなかったのだ。 クリムガンは構わずに続けた。「ポケモンセンターのエントランスには、どこもたいていテレビがあるんだ。おまえ、人間のところで住んでいるならテレビは知っているだろう? タブンネにとっては、心の伝わらないテレビの画像を見るのが楽しいみたいで、仕事の合間なんかによく観てるんだよ。それでおれも偶然いっしょに観たことがあるんだが、タブンネは人間がよく死ぬ、恋愛ドラマを観て涙を流すんだ。それでおれは、タブンネはどうしてこんなくだらない作品で泣くんだろうって思って、すごく不思議で、だから殺したいって思ったんだ」 クリムガンの口調は一定を保っていた。淡々と話しているが、内容は凄惨なものである。感情が平坦であることもかえって恐ろしく、いつのまにか地面にうずくまっていたチョロネコは身じろいだ。 「なにが言いたいのか、よくわからないんだけど」と、チョロネコは言った。 「なぜって、そんなの定番すぎるんだよ」と、クリムガンは言った。「つまらない。おまえの命乞いにも、独創性と、発想力と、目を見張るような表現力がほしい」 「独創性って?」 「いまだかつて、だれも考えたことがないような命乞い」 「発想力って?」 「非凡なだけじゃ面白くない。ジャンプして回転しながら、好きです、だから許して、とか言ってもだめだ。ちょっとは面白いかもしれないが、それじゃ飽きる。知性がほしい」 「表現力って?」 「貧しい表現力で心は動かない。心の琴線に触れるような言葉でないと、じゃあ助けてやろうって気にはならないだろう」 そもそも、とクリムガンは言った。 「命乞いの作法を、おまえは知ってるのか? それは命乞いをする相手を楽しませることだ。そして依頼人であるおれは、いま言ったような命乞いを求めている。だからおまえはそういう命乞いを提供する義務があるんだよ」 「めちゃくちゃな話じゃない」 「そうだ。でもおまえは命乞いする立場だろう。おれが面白いと感じなきゃ、おまえは死ぬしかないんだよ」 チョロネコは憮然とする。少し怒りを覚えているようだ。 「遊んでいるのね」 「そう、遊びだ。なぜって、命乞いなんておれにとって余剰行為に過ぎない。命の維持にまったく無関係な事柄だよ。いや、そもそも冷静に考えてみれば、命で遊んではいけないなんてだれが決めたんだ? この世は弱肉強食。殺す前に&ruby(なぶ){嬲};っても、なんの問題もない。人間だってそうだろう。弱い生き物を殺したり、嬲ったりしてる。年端もゆかない人間の子供が、バチュルの脚をもいで遊んでるのを見たことがある。そこまでいかなくても、カントー地方のサファリパークとか、物の擬人化なんかも同じだ。ぜんぶ人間が強いから、弱い存在を蹂躙しているんじゃないか。野生のポケモンだってそうしていいはずだろう。おれはおまえの命を握ってる。だから、おまえの命の価値を決めるのはおれであって、おまえじゃない」 「自分の価値を決めるのは自分だわ」と、チョロネコは言った。 「もちろん、そういう考え方もあるだろうな。でも殺されたら元も子もないんじゃないのか? 後生大事に自分の価値を信じても、まわりが勝手にそれを評価して、おまえは生きるに値しないと思われてしまえばおしまいなんだよ」 「死んでもいいと考えてたら?」 「つまらないけど、そういうヤツはそれだけの価値しかないから、やっぱり殺してもいいんじゃないか。少なくともおれは困らない」 「ひどい話だわ」 「そう、残酷な話だ。でも生きたいのはおまえだろう。おまえの命乞いが成功すれば、おまえは生きることができるんだから、おまえが先に持ちかけてきた話だ。それを間違えないでくれ」 チョロネコは考えていた。もしかすると、単なる詐言ではないか、ということを。 そう考えたのは、クリムガンの表情と態度が柔和で、殺気というものを感じなかったせいだった。クリムガンの心は、どこにも定まらず風に飛ばされてゆくエルフーンじみていて、凶暴そうな見た目の&ruby(丶){ら};&ruby(丶){し};&ruby(丶){さ};に欠けていた。 しかし、言っていることは凄まじい。命乞いをしなければ殺すと言ってきている。 もし、クリムガンの言葉が嘘なら、それはそれでいい。ただからかわれたというだけで、命を助けてもらったのは確かだから。しかし、本気で言っているとしたら笑って済ませられる問題ではない。殺されてしまっては元も子もないのは真実といえた。 たとえクリムガンが遊びであるからといって――いや、むしろ遊びであるからこそ、こちらは本気で対応するのが正しい態度なのかもしれない。相手は気まぐれにチョロネコの命を保留しているにすぎない。 チョロネコは歯を硬く噛み締めた。怒りが湧いていた。クリムガンののっぺりとした表情を見ていると、腹のあたりに無意識に力がこもる。どうして相手は遊びにすぎないのに……こちらのほんの上澄みの部分しか見ないのに……こちらは誠心誠意で命乞いをしなければならないのか。そういった憤りがあった。 わかってはいる。命を握られている以上、チョロネコはクリムガンの意向には逆らえない。死にたくないのなら、自分の価値を認めてもらって助命を嘆願するしかない。クリムガンにはそれだけの力があり、それだけのポジションを獲得してもいる。 吐き気がしそうだった。それでも、やらなければならない。 「家には……」 「ん?」 「あたしの家には、人間の家族がいて……小さい男の子と女の子が、ひとりずつ。お父さんは死んじゃって、お母さんは働き詰めなの。だから、あたしがいなくなると、その……あの子たちが、寂しがるの」 「少し面白いかな」と、クリムガンは言った。「なるほど、共感させたいんだな。感情移入させてしまおうってことだろう。命乞いの状況において、感情移入はなかなかいい手かもしれない。でもおれは、そういう感情移入とか共感に不快さを覚えたりもする。没我的というか……おまえはおまえというキャラクターに自己投影しすぎなんじゃないか? そこにさらにおれが共感できるわけないだろう。自己投影が嫌悪される理由は、命乞いを乞う側が自己投影できなくなるからなんだよ」 「実際にそうなんだから、しかたないじゃない!」 チョロネコの口調に、またぞんざいさが含まれはじめた。 「もうひとつ考慮しなければならないのは」と、クリムガンは言った。「感情移入させるといっても、おれが野生であるから思っていたとおりの効果があがらないってことだ。おれは野生で、おまえは人間のポケモンなんだから、その差は明らかだよ。だいたい、家族構成だって違うかもしれないし、考え方も違うかもしれない。価値観の相違があるかもしれない」 「感情移入なりなんなりは無意味って言いたいのね」 「そうは言わない。人間の枠からはずれない相手なら、それなりに効果があるんじゃないか。それこそ、おれの友達のタブンネが、人間が死ぬドラマを観て泣いてたみたいに。一般的には泣く人間が多いってことを想定してるわけだ」 「でも、あなたには効かなかった」と、チョロネコは言った。 「そう。ぜんぜん心が震えなかった。もっと不幸にしてみても、たぶん同じだと思う。おれはそういう情操にはたいして興味がないから」 「じゃあ、なにに興味があるの?」 「ん、すごい、すごい。知恵っていうのはやっぱりすごい。きちんとこっちの要求を特定しようとしているんだから」 チョロネコはクリムガンを焦れたように見ていた。 「そうだな。基本的にはさっき言ったように、独創性だろうな。オリジナリティって大事だろう」 「独創性って言われても、よくわからないんだけど……希少ってこと?」 「希少であればあるほど価値は高まってゆくな。でもオンリーワンだから価値があるって考え方は好きじゃない。自分らしくあれば、それだけで世界と同じ重さの価値がある……そんな戯言に意味はないんだよ。それは要するに、階層化された社会のなかで自分の価値を保護するための言い訳なんだよ。自分は貧困に喘いでいる……自分は不幸である……でも自分は世界に唯一の存在であり、かけがえのない世界でたったひとつだけの花である。そんな存在が不幸であるはずがなく、したがって幸せである……こういう思想だろう? そんなのは社会の底辺を体よく飼いならすための方便だ。殺したいよ、そんな考えは」 クリムガンの静かな殺意に、チョロネコは血の気が引くのを感じた。本心を垣間見た気分である。 しかし今すぐ殺されるわけじゃない。気を取り直して、もう一度チョロネコは尋ねた。 「言い訳や方便じゃない独創性ってのを見たいのね?」 「うん、見たい。自分に価値があると証明するための独創性じゃなく、おれを楽しませるための独創性だ」 「難しいわ……」 「困難を素直に吐露して同情させようとしているのか。おれはただ単に遊んでいるだけだから、おまえの困難や苦しみや能力の低さなんて知らないよ。むしろ独創性あふれる面白い命乞いから遠のく行為だ。そんな話をするのは、あまり面白くない」 「なぜって、そんな簡単に思いつかないわ。その、独創性に溢れた命乞いなんてもの」 「それを考えるのはおまえのほうだろう?」 「あなたは、命乞いなんてしたことはないんでしょうね……」 なにか面白い命乞いはないかなんて、無責任で、なおかつ利益だけはたっぷりせしめようという態度。その冷酷。しかし逆らうことはできない悔しさ。心の殻が一枚一枚はがれおちてゆくような感覚だった。 もし、命の大切さを知っているのなら……それにチョロネコがどれだけプレッシャーを感じているかを汲み取る優しさがあるのなら……そんなふうに他者を扱えるものだろうか。いや、そもそもクリムガンにとって標準では他者の価値をゼロで捉えている。なにもしない素の状態で価値がある――そんな主張に呪いにも似た想いを抱いている。 自分にとって、利益にならなければ他者に存在する価値はないといわんばかりの考え方だ。極端に尽きる思想だが、野生であればそういう考え方もありうるのかもしれない。社会という集団のなかで生きているポケモンと違い、野生はその外側に生きている。クリムガンにとって、人間との交わりは楽しいか楽しくないか、くらいのものかもしれない。自分を抑えるという必要がなく、どこまでも&ruby(じまま){自侭};に増長できる。 腹が立った。不公平すぎるじゃないかと思う。 「暗い顔だな」クリムガンはくつくつ笑った。「命乞いくらい、おれだってしたことある」 「え?」 チョロネコは、いつの間にかうつむいていた顔を上げた。激昂しかけたチョロネコに、クリムガンは変わらない笑みを浮かべている。チョロネコは怪訝になる。 「あるの?」 「それは、これだけ殺伐とした世界だ。おれも命乞いのひとつやふたつ、したことはある」 「じゃあ、あたしがどう感じてるかもわかるんじゃないの」 「おれはおまえとは違うから、おまえとは違う論法で命乞いした」 「どういうふうにしたのか教えてもらってもいい」 「助けてくれたら殺さないでおいてやるって言ったんだ」 「それは命乞いじゃないような……」 やはり、クリムガンの言うように価値観の相違が最大の障害なのかもしれない。チョロネコがいくら言葉を尽くそうと、まったく届くとは思われない。どのような方向性にもってゆけばいいのかもわからなかった。 「なあ、そろそろ考えたか? タブンネみたいに行動がのろいぞ」 クリムガンは両手で尻尾をいじっている。チョロネコなど、ほとんど見てもいなかった。適度に脅しながら利益を最大化しようとしているのだと見えた。 しかし、クリムガンの言葉はひとつのヒントになる。あるいは、たったひとつだけ共通している点。 &ruby(丶){友};&ruby(丶){達};&ruby(丶){と};&ruby(丶){呼};&ruby(丶){べ};&ruby(丶){る};&ruby(丶){存};&ruby(丶){在};&ruby(丶){が};&ruby(丶){い};&ruby(丶){る};ということだ。 情操には興味がないとはいえ、この短い会話の中でこれだけ「タブンネ」のことが出てくるのは、友達に対して淡白になりきれていない部分があるはずだった。 チョロネコは意を決して口を開いた。 「あなたに友達がいるように、あたしにも家族がいるの。あなたの友達は、あなたが死んだら悲しむんじゃないの」 「んん、ああ……なるほど。さっきと似てるけど、少し毛色が違うか。今度はおまえの家族がおまえの死を悲しむかもしれないって言ってるんだな。つまり、おまえの生きる価値をおまえ以外の他者に求めるわけだ。でも、その論理って脆弱じゃないか。なぜって、他者の心なんてわからないんだから」 「あなたの友達は、どうなの? あなたを大事に思ってるんじゃないかな」 「さあ、どうだろうな。おまえの視点からでは、タブンネの心どころか、おれの心もわからないじゃないか。そんな虚偽、よく自然に口に出せるな」 「でも、友達のことを大事に思わないはずはないじゃない」 「いいや、それは確実じゃない」と、クリムガンは言った。「おまえに確実にわかりうる可能性は八つ」 (一)おれはタブンネを好きだった。そしてタブンネはおれに好かれていると感じていた。だからタブンネはおれを好いてくれた。 (二)おれはタブンネを好きじゃなかった。そしてタブンネはおれに好かれていないと感じていた。それでもタブンネはおれを好いてくれた。 (三)おれはタブンネを好きだった。しかしタブンネはおれに好かれていないと感じていた。それでもタブンネはおれを好いてくれた。 (四)おれはタブンネを好きじゃなかった。しかしタブンネはおれに好かれていると感じていた。だからタブンネはおれを好いてくれた。 (五)おれはタブンネを好きだった。そしてタブンネはおれに好かれていると感じていた。それでもタブンネはおれを好きにはなれなかった。 (六)おれはタブンネを好きじゃなかった。そしてタブンネはおれに好かれていないと感じていた。だからタブンネはおれを好きにはなれなかった。 (七)おれはタブンネを好きだった。しかしタブンネはおれに好かれていないと感じていた。だからタブンネはおれを好きにはなれなかった。 (八)おれはタブンネを好きじゃなかった。しかしタブンネはおれに好かれていると感じていた。それでもタブンネはおれを好きにはなれなかった。 「他者の心はわからない。おれとタブンネの関係をおまえが規定できるはずもない。おまえにとって都合のいい真実を八分の一に集約させようとするな」 ぞっとするような笑みを向けられて、チョロネコは息を呑むしかなかった。 「それでも……とりあえず、あなたの友達のことはともかくとして、あなたとは直接話してるんだから、あなたのことくらいはわかるでしょ。あなたが嘘をつかない限りは、その言葉を信頼するしかないわけだし、言葉を交わす以上、相手の発言を信頼しないと、なにも生まれないじゃない」 「あ……うん。それは、そうだな」 クリムガンが素直にうなずいたので、むしろチョロネコの方が驚いた。もしクリムガンが否定すれば、そもそも命乞いをしろと要求するところに矛盾があると指摘できた。自分の意図どおりに相手を誘導したい、なんらかの成果を得たい、そういう狙いがあるはずだった。クリムガンにとっての成果とは、今までの発言からすれば、面白い命乞い、独創性あふれる命乞いになる。そういう命乞いをしろと実質的に命じているし、命じている時点で、少なくともチョロネコが殺される懸念は、相当程度、少なくなっている。クリムガンが成果を得たいと思うなら、チョロネコを殺せない。 そういうわけで、チョロネコはクリムガンの言葉を少なくとも信頼してよい。クリムガンの言葉すら疑うことになれば、もともと対話の意味すらなくなる。話はご破産。なんの成果もないまま、クリムガンはいたずらに時間を浪費しただけであり、チョロネコは死ぬだけだ。 「あたしが家族を愛するように、あなたも友達を愛してる」 「愛って言葉、嫌いなんだ」 「じゃあ、好きでも恋でもいいけど」 「うん。恋の方がすてきだ!」 クリムガンはきゃっきゃとはしゃいだ。チョロネコにはよくわからないテンションだが、そのまま続けることにした。 「つまり、あなたは友達に恋してるわけね」 「誘導的だけど、まあいい。そうだ。おれはタブンネに恋してるんだ」 「じゃあ、そのタブンネがもし死にそうになっていたら悲しい?」 「タブンネが殺されそうな場合って言ってもいいんだぞ。おれはそれくらいで殺したりしないから。で、答えはよくわからないな」 「自分のことなのにわからないの?」 「想いが、遠いんだ。でもどちらかといえば寂しい感じがするかもしれない……」 クリムガンの声のトーンも、貼りついたような笑みも変わらない。 「同じように感じるかもしれないよ」と、チョロネコは言った。「人間も、ポケモンも。野生も、野生以外も」 「ふむ……少しは共感できそうかな。命乞いっぽくはないが」 「でも、これで少しはあたしたちに共感の可能性があることは判明したでしょう」 「んー、まあ、そうかもな」 「だったら」と、チョロネコは言った。「あなたが言う面白い命乞いなるものも、いずれは見られるかもしれない」 「可能性の提示?」と、クリムガンは言った。「翻訳すると……命乞いは自分の生存の価値を相手に認めさせる行為であり、しかし価値観は多種多様で、認めさせられるかどうかは可能性の問題にすぎない。感情移入や共感の可能性がある以上、いつかだれかがおれの心に触れるような命乞いをしてくれるかもしれない。そういうことを言いたいわけか?」 「平たく言えば、そうね」 「いつかだれかが……つまり未来のおまえかもしれないってことか? ここでおまえを生かしておけば、面白い命乞いが見られる?」 「そうよ」 ふうん、とクリムガンは鼻を鳴らす。 「ちょっと不満だが、次回にご期待くださいと言われるとな。仕方ないから、保留してしまうかな。でも次はもっと面白い命乞いを頼むぞ」 「ええ、わかってる」 「今日はそれなりに有意義に暇潰しができた。そろそろメシの時間だし、帰るよ」 「ずいぶん遅いのね」 「野生だし、ふつうだよ」 「もし、次の機会があればだけど――」チョロネコは、ほとんど無意識に口を開いていた。「あなたの名前くらいは知っておきたい。そうじゃないと不公平でしょう」 「名前なんてどうでもいいだろう。おまえの命乞いを、少しだけ面白いと認めた。そういう心があるだけだ。要するに、おまえの価値を認めた他者がいるってこと。それが重要なんじゃないか?」 「だからこそ、名前くらいは知っておきたいと思ったの」 「ポカン」 「え?」 「名前だ。ポカン、ということにしておく」 「偽名ね」と、チョロネコは言った。 「名前はおれそのものじゃない」と、クリムガンは言った。「第三者と区別するには有用だけど、一対一の対話では必要ない。必要なのは考え方。独創性。面白いこと。おれはそれだけでいいんだよ。だれかが死んで悲しいっていっしょに泣いたり、いっしょに笑いあうことが幸せだって決めつけたり、そういうのは嫌いなんだ」 「ポカンに面白いと思われるのは大変そうだわ」 「おれだって、それぐらいはわかってるよ」 でも、とクリムガンは言った。 「誤解してほしくないのは、おれはおまえを貶めたり、嬲ったりすることに快感を覚えるわけじゃないんだ。命乞いという行為に付着した、生存の価値を認めてほしいという声が心地よかっただけなんだ。あれ? 結局、それってだれかに共感したかったってことなのかな……」 チョロネコは答えることなど、できるわけもなかった。 クリムガンはじっと地面を見つめていた。やがて、気にしないふうに顔を上げた。 「まあ、いいか。もう一回タブンネといっしょに、人間がよく死ぬ恋愛ドラマでも観てみよう」 じゃあな。そう言って、クリムガンは振り返りもせずに去っていった。ソウリュウシティはすぐそこなのに、チョロネコとは違う方向に。 闇が残された。静寂が残されたのだ。 チョロネコは帰途に着いた。道すがら、なにか面白い命乞いはないものかと考えながら。 【名無しのクリムガン】 じょうたい:Lv.45 HP100% 4V とくせい :? せいかく :? もちもの :なし わざをみる:げきりん かえんほうしゃ ふいうち へびにらみ 基本行動方針:??? 第一行動方針:カゴメタウンに向かう 第二行動方針:他者と共感してみたい 現在位置 :11ばんどうろ 仁王立ちクララの次回作にご期待ください。 #comment()