肌寒い風を感じながら僕は普段寝床にしている茂みから飛び出した。空は晴れ渡っているというのに、公園の中は閑散としていて静まりかえっている。 こんな冬の朝にわざわざ寒い思いをしてまで出歩く人間は稀。公園に住み着いている野良ポケモンならばそこかしこに気配は感じられた。 でも僕が用があるのはポケモンじゃなくて人間の方。別に誰でもよかった。誰でもいいから早く人間を見つけたい。 がらんとした冬の公園の中、一匹。白い息を吐きながら僕は闇雲に駆け出していた。 *其の獣、気紛れにて。 [#ic42f1a0] writer――――[[カゲフミ]] 僕の名前はチョロネコ。名前というよりは種族名なんだけど、ちゃんとした名前はない。どこの街、どこの公園にでもいるような野良ポケモンの一匹。 出会った人間の中には呼びたいように僕の名を呼ぶ物もいた。正直どの名前も覚えていない。 僕にとっては一時的な名前など至極どうでもいいことだったからだ。どうせその場限りのもの。 僕は人間相手に媚を売って、人間は僕にその対価を与える。望みのものが貰えたらそこでおしまいになる、水たまりに張った氷よりも脆い関係。 人間を利用することはあっても、人間に依存しきったりはしない。 僕は野生で生きていることに誇りを持っている。ぬくぬくした温室で生まれ育った飼われとは違うんだ。 と、心の中で強がっていてもやはり野生の世界は厳しい。とても厳しい。なんせ今僕はその厳しさに直面している。 単純に言うと腹が減った。食べ物はすべて自力で探すのが当たり前。都合よくありつけるとは限らない。もう何日食べてないか分からないくらいだ。 人間がよく集まっている休憩所のゴミ箱を覗いてみたりはしたが、食べられそうなものは何も入っちゃいなかった。 もうこの際誰でもいい。通りかかりさえすれば。普段の安っぽい演技なんかじゃなく、全身全霊を込めて餌をねだってやるのに。 「よう、湿気た面してんな」 頭上から耳障りな声。姿を見ずとも誰なのか察しがつく。僕と同じくこの公園に住み着いているポケモンの一匹、ヤミカラスだ。 僕の頭上、休憩所のベンチの横にある木に留まってこちらを見下ろしている。 「うるさい。こっちは何日も何も食ってねえんだよ」 気持ちに余裕がないと対応も荒っぽくなる。まあ、こいつ相手に気を遣ったりする必要はまったくもってないのだが。 どうせ僕のことを冷やかしに来たんだろう。顔見知りではあるが、友達と呼べるほどの関係ではないと思っている。 もし今ヤミカラスが何か食べ物を分けてくれでもしたら、その考えを大いに改めなければならない。 溺れる者は藁をも掴むという。この場合僕が掴もうとしたのは藁ではなくてヤミカラスの羽根になるんだろうか。 「なあ、何か食べるもの分けてくれねえか?」 駄目で元々。ただ、万が一のこともある。可能性は決してゼロでない。そうだろう、ヤミカラス。 空を飛べるんだから僕よりもずっとずっと視野は広いはず。その分食べ物を見つける機会だってあるはずだ。 今日は丁度穴場を見つけて羽振りがいいとかで僕をどこかご馳走にありつける場所へと案内してくれたりは――――。 「持ってねえよ。あったとしても全部俺のもんだ。お前にはやらねえ」 けらけらと笑いながらヤミカラスは飛び去っていってしまった。うん、やっぱりこうなるよな。 そりゃあ困ったときだけ相手を頼るなんて都合がいいにも程がある。あしらわれても仕方のないこと。 もし逆の立場だったとして、僕が彼を助けたかと聞かれればおそらく首を横に振っていたはずだ。 自分のことは自分で何とかするのが暗黙のルール。例え今回のような緊急事態であっても。普段から食べ物の準備が出来ていない僕が悪いのだ。 ほとんど期待していなかったとはいえ、あいつの馬鹿にしたような物言いもあって僕の中には苛立ちだけが取り残されることに。 小さくなっていくあいつの背中を見て、鴉の肉って美味いんだろうかと考えてしまうくらいには空腹の波が迫ってきていた。 ああ、どうしたものか。腹減ったなあ。頭がくらくらする。危うくふらりと倒れそうになったところ、ふいに漂ってきた美味しそうな香りで僕の意識は繋ぎとめられた。 これは間違いなく食べ物の匂い。どこだどこだ。死に物狂いで匂いの元を辿ると、丁度この休憩所へ向かってくる人影が見えた。 おそらく何か食べる物を持った人間だ。なんという幸運。そうとなれば話は早い。どんな手段を使ってでも、あの人間から食料を獲得するまで。 休憩所のベンチの下に身を潜め、僕は人間の前に飛び出すタイミングを見計らう。チャンスはおそらく一度きり。あの人物がポケモン嫌いでないことを願う。 近づいてきた人影は年を取ったばあさんだった。歩くのが少し遅く腰も曲がっている。手に提げている袋から漂ってくる匂いが堪らなかった。 いっそのこと袋ごと奪ってしまおうか。相手はあんなばあさんだし、追いかけてくる元気もなさそうに思える。 いや待て。焦るのは良くない。袋を盗ったとして、今の僕に走る元気が残っているかどうか怪しいもんだ。 それに、あんまり派手にやらかすと今度は人間に目をつけられて動きにくくなる。下手するとこの公園に居られなくなる可能性も。 すぐにでも飛び出して食料を奪ってやりたい気持ちはやまやまだったが、ある程度穏便に事を運ぶ必要があるだろう。 仕方ない。回りくどいけどいつもの作戦でいくか。適当に甘えてやれば気を許してくれるはず。近づいてくるばあさんとの距離はだいたい十メートル。 ようし、そろそろだ。僕はベンチの下から這い出して、ゆっくりとばあさんの足元に駆け寄った。 僕の姿に気がついたばあさんは立ち止まる。僕はばあさんを見上げながら、少し困ったような顔つきで儚げに鳴いてみせた。 普段は八割がた演技。だが今回ばかりは本当に困りきっている。僕の精一杯のおねだりだ。助けて、おばあさん。 ちらちらと手提げの袋に視線を送ることも忘れない。こうすればポケモンが嫌いでない人間なら、心を動かされて僕に分け前をくれることが多い。 今はとても空腹で体が痩せこけて見えただろうし、自分を哀れに見せる効果は抜群、なはずだったんだけど。ばあさんは微動だにしなかった。 目をまん丸にしてひどく驚いた顔で僕を見下ろしている。やがて、震える両手を僕に伸ばしてきた。 「ああ……こんなところにいたんだねえ。まあ、こんなに汚れて。すぐに帰ってきれいにしてやるからねえ」 何のことを言ってるのかさっぱり分からない。呆気にとられているうちに僕はばあさんにひょいと抱き上げられる。あまりに突然のことで声も上げられなかった。 帰って、ってこのまま僕を連れ帰るつもりでいるのか。ちょっと待て僕はそこまで人間の世話になるつもりはないぞ。 少しばかりの食べ物を拝借したらさっさと身を退くつもりだったのに。袋は気になるけど人間の住処に連れて行かれるのは嫌だった。 何度か両手両足をばたつかせてみたけど全然力が入らない。意外とこのばあさん力がある。僕の抵抗を気にする様子もなくとことこと歩いていく。 腕の中、僕はどうすることもできずにばあさんに連れ去られてしまう形となってしまったのである。 家らしき場所へ着いた。木造であちこちの床から軋む音が聞こえてきそうな古い建物だ。ばあさんはすぐ近くに住んでいたらしい。 人間の住処へ足を踏み入れるなんて初めてのこと。公園とも道路とも路地裏とも違う独特の匂いがする。落ち着かなかった。 床に降ろされてようやく自由の身になる。入口の扉も開いていたし逃げるなら今、なんだけれど。あの袋の存在が僕の足を鈍らせていた。 何しろ抱かれていた間、袋はばあさんの手に下げられたまま。ずっと顔の近くでいい匂いがしていて、それでいて食べることは出来ないという酷い生殺しを味わっていたのだ。 ばあさんから逃げることは同時に食べ物からも逃げるということになる。このチャンスを逃したら本当に飢え死にしてしまうのではないだろうかという恐怖もあった。 僕が逡巡している間にも、ばあさんは再び僕を抱えて別の場所へと移動する。今度はどこへ連れて行く気なんだろうか。 もう下手に抵抗するよりも大人しくて体力の消費を抑えることにした。頃合を見て袋の中身をねだるなりすればいい。 連れてこられた部屋は木じゃなくてつるつるした石のような壁で覆われていて冷たい印象を受けた。 ばあさんはドアを閉めると、壁から飛び出していた変な銀色をした出っ張りを捻る。途端にばしゃばしゃと水が降ってきたものだから、僕は驚いて飛び上がってしまった。 水は苦手だ。どうして嫌とか理屈の問題じゃない。とにかくだめだ。慌ててこの場から立ち去ろうとするも、しっかりと閉じられたドアは僕の力ではびくともしない。 前脚で引っ掻く音が虚しく水音にかき消されていく。ばあさんは嫌がる僕を持ち上げて、そのまま水を貯めた容器の中へ。 暴れてもばあさんには敵わないことは分かっていた。空腹で倒れなくても、やっぱり僕は死ぬんじゃないだろうかと考えがぼんやりと浮かんだ。 ここまで来ると抵抗よりも諦めの境地。もう好きにしろって感じだ。幸いそんなに深くなくて首から下が浸かるくらいの水位。 冷たくもなくてぬるいくらいの温度だったけど、水中に浸けられるということ事態嫌で嫌で仕方がない。 体にぬるっとした変な液体を掛けられて、ばあさんの両手が僕の体全体を駆け巡っていく。甘ったるい匂いで何だか頭がぼうっとしてきた。 これまた今まで嗅いだことのない匂いだ。おそらくいい匂いに分類されるものだとは思うけど、美味しそうな匂いではないな。 「おや、今日はいい子にしてるねえ。いつもならもっと嫌がるのに」 ばしゃばしゃと遠慮なく僕の体にお湯を掛けながらよくもまあ。腹が減ってなくて元気だったら、嫌ってくらい抵抗してやるっての。 何度かすすがれて体に付いたぬるぬるはあらかた流れ落ちた。ぬるぬるは落ちても水気は簡単に落ちやしない。体にまとわり付く水はただただ不快だった。 ようやく僕をお湯から出した後、ばあさんは布で体を拭いてくれた。時々公園に転がっているようなごわごわした硬そうな布とは違う。 柔らかい、まるで積もった落ち葉の上にいるかのような感触。こりゃあいい。僕の寝床にも一枚欲しいくらいだった。 一通り拭き終わるとばあさんはドアを開けて僕を外に出してくれる。もうこの部屋には絶対に近づかないようにしよう。心に決めたぞ。 体をふるふると振って微かに残った水気を吹き飛ばすと、不思議とすっきりした感覚がした。お腹が減っているからいつもより体が軽いとかそういうのじゃない。 自然と足取りが軽くなるような、ふわふわした妙な感じだった。これもさっき掛けられた液体の効果なのだろうか。 自分の体に残った香りを確かめているところ、急に割り込んできた美味しそうな匂い。忘れかけていた僕の空腹が一気に呼び起こされる。 ばあさんが床に置いた皿の上には茶色っぽい固形をした物体が積み上げられていた。公園を訪れた人間から一粒二粒くらいなら貰った覚えがある。 馴染みはなくとも食べ物であることは想像に容易い。旨そうな匂いはそこから漂ってきているのだから。 最初の目当てだった袋のことなんてどうでも良くなって、僕はふらふらと皿の方へ吸い寄せられた。 「お食べ」 まだご飯をねだったりはしていないのに。いきなり見ず知らずの野良に食べ物をくれるなんて。僕は驚いてばあさんを見上げていた。 公園でちょっとしたお零れを頂戴するのは日常茶飯事だったけど、家の中にわざわざ招き入れてまでってのは初めてだ。しかもこんなに沢山。 さすがに何か裏があるんじゃないかと疑う気持ちも湧いてくる。穏やかそうなばあさんに見えるけれど何か他に意図があってのことなんだろうか。 「どうしたんだい。お前の好きな味のポケモンフーズだよ?」 何でばあさんが僕の好みを知っているんだとか細かいことはもう、いいか。目の前からくる匂いと極限まで迫った空腹には勝てなかった。 僕は皿に頭を突っ込むようにしてポケモンフーズとやらに齧り付いた。独特の歯ごたえ、癖のない味わい。こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べたかもしれない。 がつがつと夢中でポケモンフーズを口へ運んでいく。ああ、なんて旨いんだろう。生きてて良かった。本当に良かった。 もちろん酷くお腹が減っていたというのもある。だけど、それを差し引いても最高の食事だった。気がつけば皿は空っぽになっていた。 「よっぽどお腹が減っていたんだねえ。もうどこかへ行っちゃだめだよ、心配したんだから」 お腹も膨れて気持ちに余裕が出てきた。ばあさんの言葉もちゃんと耳に入ってくる。 どうも最初に会った時からばあさんの一言一言が腑に落ちない。前から僕のことを知っているような口ぶり。 記憶する限りではばあさんとは初対面のはずだ。一度でも食べ物をくれた人間の顔を僕はよく覚えている。 「ほら、お前の宝物だよ。これで遊んでおいで」 差し出されたのは白くて太い糸でぐるぐる巻きにされた玉のようなもの。所々ほつれたりくすんだりしていて小汚い。どう見ても宝物とは思えなかった。 その白い玉に残った微かな匂い。これは他のポケモンのものだ。玉に残った紫色の短い毛から察するに、種族は僕と同じチョロネコ。 家の中をよくよく見れば、柱に小さな引っ掻いた跡があったり床にも毛が落ちていたりしていて、この家に居た痕跡がいくつもあった。 ようやく合点がいった。きっとばあさんは前に飼っていたチョロネコを僕とを勘違いしてるんだ。いなくなったチョロネコが戻ってきたと思い込んでいる。 喜んでいるところ悪いが、僕はばあさんの探していたチョロネコとは違う。と、主張しようにもそもそも言葉が伝わらないだろうしな。 いや、いっそのこと思い違いをしてくれていたままの方が何かと都合がいいのかも。水浴びには参ったけど、こんなにも旨い食事をお腹いっぱい食わせてもらえたんだし。 ばあさんのチョロネコでいる限り、この上ない贅沢を受け続けられるというわけだ。これを利用しない手はないな。僕は心の中でほくそ笑む。 「具合でも、悪いのかい?」 宝物を前にして動かない僕を不安そうに見つめるばあさん。おっと、偽物だとばれたらせっかくの計画が水の泡。 ここでは前のチョロネコになりきる必要がある。こんな薄汚れた玉でどうやって遊ぶのか見当がつかないが、全ては旨い飯の為に。 公園で人間と戯れていたポケモンの仕草を必死で思い返しながら。僕は前脚で玉を抱えこむとそのまま床の上をごろごろと転がってみせた。 もちろん楽しんでますよという風な笑顔を作ることも忘れない。ばあさんの言う遊んでおいではこれで合っているだろうか。 僕がちらりとばあさんの顔を見ると、にこにこした表情で頷いている。どうやらこれで問題なかったらしい。 だったらこの調子で行くまでだ。腹も膨れて上機嫌だった僕は猛烈な勢いで床の上を転がり回ったのだ。 その日の夜。ばあさんは僕に専用の寝床を与えてくれた。朝に体を拭いた布とはまた違う、厚みのある温かい布が敷かれている。 これがあれば冬の夜も寒さに震えることがない。こっそり公園に持って帰りたいくらい。ただ、少しばかり柔らかすぎたのか僕はなかなか寝付けずにいた。 家の中を徘徊するうち、壁にはめ込まれた透明な薄い板を見つける。氷と違ってちょっとやそっと触ったくらいでは壊れそうにないくらい丈夫だ。 これなら冷たい風を気にせずに外の様子が分かるというわけか。人間の住処は上手く作られている。僕が感心していると、薄い板の向こう側にすっと降り立つ黒い影。 見覚えのある赤い瞳と黄色い嘴はヤミカラスのものだ。風があるらしく、頭の飾り毛が寒そうにたなびいている。僕はその風を感じることはない。ちょっとした優越感。 「何か用か?」 こんな寒そうな夜にご苦労なことだ。こいつは中へ入ってこられないだろうし、無視しても良かったんだが。僕もまだ眠くないし相手をしてやることにした。 「お前が飼いポケモンに成り下がったって噂を耳にしたんでね。確かめに」 もうそんな情報が出回っているのか。と言っても情報源はどうせこいつだろうけど。回りくどい。 僕が朝ばあさんに連れてこられるのを見て公園の仲間に言い広めた、そんなところだろう。口から先に生まれるような奴だし。 ヤミカラスに聞かれたり見られたりしたことは、間違いなく公園中に広まる。今更驚きも怒りもしなかった。 「勘違いするな。僕はあのばあさんを利用しているだけだ。貰えるもの貰ったら頃合を見て抜け出すさ」 「へえ。お前もなかなかやるじゃねえか。どうよ、人間の飯は旨いか? よかったらとんずらするときに俺の分も――――」 一番の目的はそれか。朝会った時、こいつはこいつで空腹だったのかもしれない。確かに今の僕には余裕がある。 ポケモンフーズの一つ二つなら、家から出るときにくすねて持っていくことも可能だろう。ただ、仮に持ち出すとしてもそれは自分用の非常食としてだ。 自分が朝僕に言い放った言葉を忘れたとは言わせない。食べ物があったとしてもそれは全部己のものなんでしょう。ねえ、ヤミカラス。 「めちゃくちゃ旨かったよ。じゃ、おやすみ」 「あ、おい、ちょっと待てって……おーい」 透明な板の向こうでヤミカラスが何か言っている。板越しではあまり声も届かない。聞こえないふりをしなくても本当に聞こえなくなった。薄い板は便利だな。 寒くて空腹な思いをしているであろうあいつを尻目に、僕は温かい寝床で悠々と眠れるわけだ。 僕自身の力では全くなくて、全部勘違いしてくれているばあさんのおかげなんだけど。何だか自分がとてつもなく偉くなったような錯覚に陥りそうになる。 家の中の散策で程よく眠気も来ているし、今夜は何も明日の心配をすることなくぐっすり眠れそうだった。 ばあさんの家に転がり込んで何日経っただろう。気温も日当たりも感じにくい家の中では、時間の経過が分からなくなってくる。 どこが入口で、どこから外の景色が見られて、どこが危険な水場でと、家の構造を完全に把握しきれるくらいには入り浸っていた。 ここでの生活は確かに良い。寒さに震えることもないし、暖かくてふかふかな寝床もある。お腹が空いたとうったえればすぐにばあさんが食事の用意をしてくれる。 時々、前のチョロネコの宝物とやらで遊ぶ演技をしなければならないことや、ばあさんの膝の上でじっと座らされることに目をつぶれば、最高と言っても過言でない環境だった。 それでも最近ふと、あの公園の景色が頭の中に浮かんでくるのだ。僕が寝床にしていた茂みの中は、他のポケモンに取られたりしていないだろうか。 公園の美味しい木の実の木がそろそろ小さな実をつけ始める頃だろうか。そして、ヤミカラスは元気にしているだろうか。 あの夜に会ったっきり、ぱったりと音沙汰がなくなった。強かなヤミカラスのことだ。そのままどこかで野垂れ死んだりはしていないだろう。 あまり認めたくはなかったんだが、あの耳障りな嗄れ声もいざ聞こえなくなると。不思議と僕の中に寂しさのような感情が浮かび上がってきたのだ。 僕がこんな感情を抱いているなんて、絶対あいつには知られたくないし教えるつもりもなかったけど。公園であいつの顔を見たら、ほっとすると思う。 やっぱり僕が暮らすべき場所はばあさんの家ではなく、あの公園なんだ。ここでの生活を続けてみて、尚更実感することになった。 いつ戻ろうかとタイミングを見失いかけていたけど、出て行くなら今日だ。食事を食べられるだけ食べた後、頃合を見て抜け出そう。 「ご飯だよ、おいで」 公園へ戻ることばかりを考えながら、じっと外の景色を見ていたところに声が掛かる。ああ、もうそんな時間か。 最初の頃は食事の時間を今か今かと待ってばかりいたのに。食事を取ることを忘れてしまいそうになるなんて、慣れというものは恐ろしい。 このままここに居続けたら、野生で培った勘を無くしてしまいかねない。それを防ぐためにもどこかで見切りをつける必要があったのだ。 食事が盛られた皿を目前に僕の動きが止まる。いつも食べているポケモンフーズとは違う、黄色っぽくて柔らかそうな四角い物体が皿に乗せられていたのだ。 「今日はお前がうちに来た、記念の日だからねえ。お前の大好きなケーキを特別に用意したんだよ」 そりゃあご丁寧にどうも。僕としてはいつものポケモンフーズで十分だったというか、むしろその方が良かった。 軽く匂いを嗅いでみたけど、つんとした酸っぱさを感じさせるもの。食べる前から口に合いそうにない予感がひしひしと感じられる。 ばあさんが特別と言ってまで用意するものなんだから、きっと前のチョロネコはこれが大好物だったのだろう。大好物はポケモンフーズに留めておいて欲しかったな。 正直気が進まない。だけど、今の今までばあさんのチョロネコに成りきってきたんだ。これが最後の食事。食べないわけにはいかなかった。 一口。舌に突き刺さるような酸味が口の中一杯に広がる。体中の毛が逆立っていたかもしれない。これはどうも僕には受け付けない味のようだ。 だけど、ばあさんがじっと僕の方を見ている。できるだけ笑顔で、とても美味しそうに食べているふりをしながら何とか一口目を飲み込んだ。 完食するにはあと何口食べればいいんだろう。酸っぱさを思い出すだけで身が縮こまりそうだった。最後の最後でこんな難関が待ち受けていたなんて、想定外だった。 「ねえ。もう、いいんだよ」 目の前の皿がすっと取り下げられる。ほっとした半面、僕はぎょっとしてばあさんの方を見る。 いつものにこにこした穏やかな表情ではない、全てを悟ったどこか物悲しげな顔つき。ああ、ひょっとしたら。 「苦手なんだろう。無理して食べることはないよ」 ばあさんは皿を仕舞うと僕の方へ向かってくる。怖いくらいに無表情だった。間違いなくばれてしまった、僕が偽物だって。どうしよう。 今まで騙していたんだ、きっとただじゃ済まない。僕はどうしていいか分からずに狼狽える。逃げるにしても、家の入口はばあさんじゃないと開けられないから無駄だ。 ばあさんにひょいと抱き上げられて僕は咄嗟に目をつぶった。案外力があるからな。痛い目で済んだらいい方かな、と考えたりもした。 顔は見えてない。でも、僕を抱えるばあさんの両手は優しかった。平手打ちもげんこつも飛んでこない。僕が下ろされたのは入口の扉の前だった。 「本当はね、分かってたんだ。あんたがあの子じゃないってことくらいはね」 僕をあの子と思ったのはただの勘違いじゃなく。ばあさんは最初から全て知っていて。なあんだ。 ばあさんを利用しているつもりでいた僕は、本当は手の上で転がされていただけ。一度でも自分が優位に立っていると思い込んだことが恥ずかしい。 「でも、あの子が死んじゃったことを認めちまうのが怖くってねえ。あんたには随分無理させちまったね、ごめんよ」 そうか。前のチョロネコはもう。確かに無理をしていた所はある。おかげで最近は白い毛玉と戯れるのが少し楽しくなってきたくらいだ。 ただ、本当に無理だったら僕は早い段階で逃げ出していただろうから、ばあさんに合わせるのはそこまで苦痛というわけでもなかったりする。 「あんたは公園に戻りたいんだろう、見てたら分かるさ」 ばあさんは入口の扉を少しだけ開ける。何も言わなかったけど、お行き、ということなのだろう。 僕とばあさんが一緒に居続ける理由がなくなったのだから、当然と言えば当然だ。終わってしまえば随分と呆気ないもの。僕は外に向かって歩みを進める。 「ねえ」 呼び止められた。未練がある、お互いに。僕も僕とて扉の隙間から一気に駆け出さなかったのは、世話になったばあさんに対する後ろめたさがあったから。 「時々でいい。時々でいいから、私に顔を見せに来てくれないかい? そして、私と一緒にいる間だけでいいからあの子の名前で、呼ばせてくれないかい?」 ばあさんの頬を涙が伝っていた。どんなに悲しんでも、もうチョロネコは戻ってこないのに。思い出から抜け出せていないんだな。 だけど僕は僕であって、ばあさんのチョロネコじゃない。代わりは出来ないし、なれない。 でも。旨い食事と暖かな寝床。本の僅かだったけど、至福の時を過ごさせてくれた借りはある。 僕は踵を返して、ばあさんの足元に擦り寄っていたんだ。まあ、いいか。公園とはいえ厳しい野生の世界。明日には何が起こるか分かったもんじゃない。 僕が生きている間くらいは、時にはばあさんのチョロネコになってやってもいい。 「ありがとうね、たま」 ごろごろと喉を鳴らした僕をぎゅっと抱きしめて、ばあさんは嬉しそうに微笑んだんだ。 おしまい ---- -あとがき ネタばれを含むので物語をすべて読んでから見ることをおすすめします。 ・この話について テーマが「たま」と平仮名だったため、真っ先に閃いたのが「たま」という名前の猫を登場させる物語でした。猫の名前といえばたまじゃないか。別に玉や珠である必要はないよね、ということで思い切って。 チョロネコを亡くしたおばあさんと、そのおばあさんの元に偶然転がり込むことになった野生のチョロネコ。欺き欺かれの奇妙な共同生活。今回は物語を思いついてからは割とすらすらと筆が進んだように思えます。おかげで文字数がぎりぎりでした。短編大会で上限10000字が少なく感じられたのは初めてです。 以下、コメント返し >各々の心境が分かりやすく描写されていて、とても読み易かったです。 (2015/02/02(月) 14:45)の方 一人称の方が登場人物の気持ちには入りやすいですね。今回は割と心理描写を砕けた雰囲気にしてみました。 >上手い事おばあさんを騙し続けて、さあトンズラしようとした矢先にケーキで足が付いてしまって終わった……と思いましたが、まさか逆に騙されていたとは。 狡賢い主人公が、相手を利用してやろう的な感じで騙すとどうしても暗い話になってしまうと思うんですけど、逆に騙されてハッピーエンドに仕立ててしまう所が逆転の発想で素晴らしいと思いました。 (2015/02/02(月) 21:50)の方 できるだけ読後感が悪くならないように考えた結果、ずっと一緒は無理でもたまにはおばあさんの猫になってあげようかという結末に落ち着きました。 強かな人物が相手を利用して騙しているつもりで、逆に全て承知の上で騙されていたというのは割とよくあるパターンですよね。 >じんときました。 うるうるです。目の前がもう。 (2015/02/03(火) 18:42)の方 最後のシーンはかなり書きたかった描写もあったので、そう言っていただけると嬉しいです。 >投票します。感動でした (2015/02/08(日) 14:20)の方 ありがとうございます。チョロネコとおばあさんの関係はうまくまとまったのではないかと思います。 >おばあさんは公園で拾ったチョロネコと共に暮らす事で、たまと暮らしていた日々に戻ろうとしていたんですね。 でも、共にいればいるほど、たまとは違うことを気付かされて、おばあさんも色々と葛藤があったんでしょうか。 公園のチョロネコもこれ以降、"たまに"おばあさんに会いに行くんでしょうね。たまだけに(違 野生暮らしなので、その際ブラッシングとか毛の手入れとか念入りにされそうですが、レパルダスに進化したら大変そうですね。 短編なので小説自体はここで終わりそうですが、おばあさんとこのチョロネコの物語は続いていきそうですね。 楽しませていただきました。ありがとうございます。 (2015/02/08(日) 15:24)の方 どんなに姿が似ていても、同じチョロネコは居ませんからね。自分を騙し続けてこの子と一緒にいても心は満たされないとおばあさんも悟ったのでしょう。 久々に汚れて戻ってきた時のお風呂がこのチョロネコにとっての難所になりそうな予感はします。 まさかの優勝という結果をいただき、感極まる思いです。投票してくださった方々、最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。 【原稿用紙(20×20行)】30.1(枚) 【総文字数】9971(字) 【行数】192(行) 【台詞:地の文】7:92(%)|756:9215(字) 【漢字:かな:カナ:他】32:67:2:-2(%)|3275:6714:254:-272(字) ---- 何かあればお気軽にどうぞ #pcomment(気紛れなコメントログ,10,) IP:115.31.21.75 TIME:"2015-02-11 (水) 23:32:14" REFERER:"http://pokestory.dip.jp/main/index.php?cmd=edit&page=%E5%85%B6%E3%81%AE%E7%8D%A3%E3%80%81%E6%B0%97%E7%B4%9B%E3%82%8C%E3%81%AB%E3%81%A6%E3%80%82" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/40.0.2214.111 Safari/537.36"