[[空蝉]] 残酷表現あり。 ---- 木立が幾重にも連なる広大な森。その中を一陣の風が疾駆する。 その反応をモニタに捉えた男が、無機質に告げた。 「接近中のエネルギー体捕捉。スイクンです」 周囲に待機していた男たちが、互いに目配せして霧のようにその身を潜める。 その場に、大量のポケモンたちの死骸を残して。 ---- 湖は、異様なほど静まりかえっていた。 生き物の気配の絶えた湖畔。 そのかわりにその場を満たしていたのは、噎せ返るほどの血の匂いだった。 呆然と立ち尽くすスイクンの周囲には、疾駆してきた時の勢いの余波が風となっていまだ取り巻いている。 その風の中にひたひたと水の気が混じり始める。そして水の中に氷が生まれ、ひび割れるような軋みを響かせながら渦巻き始める。 この静まりかえった場で唯一、スイクンの周囲の空気だけが狂ったように吹き荒れ、悲鳴を上げている。 「ドダイトス……メガニウム……」 掠れて音にならない声でスイクンは友の名を呼んだ。 駆け寄りたいのに、足が震えてうまく歩けなかった。 まばたきすら出来ずに、目の前の者たちを凝視していた。 ドダイトスがいた。メガニウムがいた。そのほかにも、いつもスイクンに纏わりついて遊んでいた幼い草の仔らがいた。目立たず控えめに暮らしていた虫、いつも森に唄を響かせていた鳥たちもいた。 皆、死んでいた。 首を落とされ、あるいは体を踏み潰され、夥しい血にまみれていた。 湖畔に立つ木の高い枝葉にまで飛び散った血飛沫が、その惨劇の凄まじさを物語っていた。 地表を流れ伝った血と、湖に投げ込まれた一部の遺体が、湖水を赤く染めていた。 「う……ああ……───」 突如大地から凍った風が爆発のように吹き上がり、スイクンのたてがみを巻き上げた。 大きな目からぼろぼろと雫がこぼれ落ちる。 荒れ狂う吹雪の中で、スイクンの心も体もすべて、不自然なまでに静止していた。 到底受け入れ難い目の前の凄惨な光景に重なって、スイクンの歪んだ視界にもう一つの光景が重なった。 柔らかな日差しの中、水辺に遊ぶ草の仔たち。ドダイトスの背には指定席のようにメガニウムがいて、楽しそうに談笑している。スイクンを呼ぶ声。触れる暖かさ。優しい眼差し。 見返りのない癒しを与えてくれた者たち。 心穏やかな幸せを教えてくれた者たち。 スイクンにとって、確かに楽園だった、この場所─── 「ああああぁぁ──────ッ!」 狂ったように叫んでいた。 ひび割れた咆哮が、死の湖の上を渡る。 その咆哮と同時に、湖面から水飛沫が吹き上がり、竜巻となって天に駆け上がった。錯乱したかのように数え切れないほど突き上がる水の塔は、スイクンのやり場のない激情と嘆きをそのまま現していた。 爆風に煽られて、屍の一部が為す術もなく地面を転がる。 その哀れな様に打たれたように、スイクンの荒ぶった気が、一瞬ぴたりと動きを止めた。 ぼろぼろに憔悴した表情で、呆然とそれを見つめる。 ───無念だったろう…… 思うともなしに、そんな思いがぽつりと浮かんだ。 そしてようやく、スイクンの凝り固まった脚が彼らへと動いた。 愛する者たちの骸が、スイクンを待っている。死してなお、スイクンを待っている。 「ああ、ああ……おまえたち、可哀想に───」 ほとんどの者たちに抵抗した際の傷が無かった。身を守る術ぐらい持ち合わせている筈なのに、一体何が彼らを襲ったのか。 けれどその中で、唯一ドダイトスの身体だけが酷く傷ついていた。 身を張って、闘ったのだろうか。全力で、護ろうとしたのだろうか。 けれど、敗れてしまったのだ。 「ドダイ……トス……」 大岩のような首が、無造作に転がされていた。どんな思いで死んでいったのか、その目は、ただ虚ろに見開かれているだけで、何も語りかけてはくれなかった。 「ドダイトス……!」 沸き上がる感情が、嘆きなのか怒りなのか、それとも別のものなのか、もう判らなくなっていた。 ただどうしようもなく、胸が痛くて苦しかった。 その苦しさのまま、目の前の者たちの名を呼んでいた。返す声は無い。判っていても、呼ばずにいられなかった。呼ぶほどに絶望へと墜ちていく。それでも、まるで気が触れた者のように何度も何度も叫んでいた。 「捕獲」 冷淡な声と同時に、スイクンの周囲で複数の気配が動いた。 悲嘆に打ちひしがれていたせいで、スイクンの反応は彼らの動きから一瞬だけ遅れた。 周囲を確認する余裕も与えられず、突如として身体に異変が襲う。 「なん……っ」 頭を締め上げるかのように鳴り響く、苦痛極まる不快音。 それは音波を媒介とした攻撃だった。 突然すぎる変調に対処できなかったスイクンは、意図せず身を屈めてしまった。視界に無数の星が舞っているような錯覚に陥り、眼を開けていられない。 「う……っあ」 何が起こっているのか判らない。四肢の震えが止まらない。こうして蹲っているのも辛い。身体の中から力を吸い取られていくようだ。 耳から頭に抜けるあまりの激痛に顎が強張り、悲鳴を上げることすらできなかった。 「鎮まれ。怒りを解き、荒ぶる水を地に落として我らに従え」 どこからともなく呪文のような言葉が届いたが、苦しむスイクンにはその内容を理解することが出来なかった。 しかし、自らの意思とは何か別のものに操られるかのように、そして何者かの手に掬い取られるように、スイクンの高ぶった気が急激に萎れていく。 いつの間にか、眼の前に数人の人間が立っていた。背後にも。 スイクンは人間たちを睨みつけた。そして気力を削ぎ続ける不快音に抗い、震える脚で立ち上がった。 威嚇の唸り声とともに、頭上に水の渦を湧き起こす。 人間たちが、その気迫に一瞬怯んだ。 浮き足立つメンバーを抑えるように、片手で何かの合図を出したのはリーダーとおぼしき男。その指示に応じて、スイクンの三方に位置する男達が手元の器機を操作した。 「ぅあああァッ!」 急激に増大した音の攻撃に耐えきれず、痛々しい悲鳴を上げてスイクンが身体を捩る。同時に、水の渦がまっすぐ下に落ちた。自らの水を頭から浴びてずぶ濡れになりながら、それすら構っていられない様子でスイクンはもがき苦しむ。 その様を、人間たちは冷淡に見つめていた。唇に笑みを浮かべている者もいた。 「グ……ウゥ……」 まともに呼吸も継げないのか、低い呻き声とともに肩で大きく喘ぐ。 はあはあと荒い息を繰り返しながら、それでもスイクンは凄絶なまでの気迫を漲らせ、抵抗の意思を見せた。 すでに確信していた。森の者たちをいたぶり殺したのが、この人間たちであることを。 この正体不明の音と同じようなモノを使って、仲間たちは為す術もなく命を奪われたのだ。そう思うと、今この身を苛む痛みよりも、沸き上がる怒りで気がどうにかなりそうだった。 この人間たちをことごとく滅ぼしてしまいたい。そんな凶悪な思いが止められない。 「グオオオォォォ───ッ!」 スイクンは腹の底から咆哮を上げた。 聴覚を犯す音の攻撃すら掻き消す程の渾身の叫び。 今度は人間たちは狼狽えなかった。音を発生させる器機を放棄し、すかさず別の筒状の器機を構える。 その僅かの間、スイクンの全身が自由になった。スイクンは弾かれるように飛び出した。三方からの包囲から逃れるために、そしてこの集団の頭領を潰すために、スイクンはまっすぐ目の前の男を目がけて駆け出す。 けれど、あと一歩のところで届かなかった。 スイクンの脚と首に絡まる変幻自在の縄のような拘束具。 「!」 着地する脚を搦め捕られて、勢いのまま前のめりに転倒する。激しく土埃を上げながら、スイクンの大きな身体が地面を転がる。 その隙に、狙っていた目の前の人物が距離を置いて後退した。 スイクンは悔しげに歯噛みし、激情のまま水の渦を撒き散らした。 「鎮まれ。怒りを静めよ」 また、先程と同じような平坦な声が響いた。 スイクンがぎろりと睨み上げた先には、やはりかの主導格の男がいた。手に何か光るものを持っている。 その光るものがキンと澄んだ音を響かせた。 「鎮めの鐘に従え。お前の中にはもう怒りは無い」 男の言葉にカッとなって、スイクンは抗議するように吼えた。 どうしてこの気が触れんばかりの怒りが鎮められようか。 次から次へと際限なく怒りが溢れてくるのに。 自分の心の中は怒りだけだ───そう念じようとした瞬間、ふっと何かが意識から抜き取られたような気がした。 森にこだまする、鐘の音の残響。 「あ……?」 抗う間もなく、それは奪われた。 驚きに見開かれたスイクンの紅い眼は、先刻までの炎のような激しさが嘘のように凪いで、意思の力を失っている。 まるで抜け殻のように何も見ていない虚ろな瞳。 一瞬のうちに、心の中の猛る炎が吹き消されてしまったとしか言いようがない。男の持つ鐘の音と、呪文のような言葉によって。 「そう、そのまま……」 男はさらに何かをしかけようとしたが、スイクンの様子に異変を感じて咄嗟に動きを止めた。 スイクンは呆然と眼を見開いたまま、かすかに震えていた。 ざわざわと、どこからともなく低い雑音が聞こえてくる。特定の音源は無く、空間全体から響いてくるような音だ。かといって、彼らが先程使ったような人工的な攻撃音ではなく、あくまで自然界に存在する音であって、しかも心を不安にさせるような──風の音、雨の音、山鳴りの音──それらを混ぜ合わせた混沌の音だった。 「……」 スイクンの口がわななき、掠れた声が何かの言葉を紡いだ。 周囲の人間たちにはスイクンが何を言ったのか判らなかった。スイクン自身にも、判らなかった。 無意識のうちに呟いていたのは、今ここに屍を晒す亡き友らの名だった。 「あ…ぁ」 スイクンの眼から、小さな雫がこぼれ落ちた。同時に灰色の空から冷たい雫が落ちてきた。 ぽつりぽつりと降り出したその雨は、見る間にその勢いを増していく。 天から滝が注いでいるかのような水の塊が、大地と湖に激しく叩きつけられる。 痛いほどの水圧と、耳がおかしくなりそうな轟音の中、人間たちはスイクンを注視して動かない。主導者の統制下によく訓練された集団だった。 スイクンは四肢を縄に搦め捕られたまま、不自然な姿勢ながらも立ち上がった。ふらつく身体で首を上げ、遠くを見るような風情で、滝のような豪雨にただ打たれている。 やがて、哀しげな遠吠えを一声だけ上げた。 しかしそれも、雨の音に掻き消された。 「怒りの感情を失って、これは悲しみの感情か。ふふ……悲しみの力だけでこれほどの水を操るとは……何とも情緒豊かでいじらしいではないか。森を駆ける水の宝石──その商品価値も高まろうというもの」 男が満足げに呟く。 「さあ、水遊びもそろそろ終わりにしようか」 攻撃を命じる男の手の動き。配下たちが手元の器機を操作する。 「くぅ!」 小さな呻き声を上げて、スイクンが身体を強張らせる。 四肢に絡まる縄が色と形を変え、淡い赤みを帯びた光を点滅させながら、立ち竦むスイクンの身体を這い登り戒めていく。 豪雨の雨足が徐々に弱まり、水の気配が急激に薄まっていく。やがて霧雨のような微かな雫だけが後に残った。 スイクンは拒むように首を振り、空に向かって吼えた。しかし僅かの水も湧き起こっては来なかった。 「ほら、水を封じたぞ。お前を護ってくれるものはもはや無い」 怒りを奪われ、水の力を奪われ、スイクンは囚われたまま男をじっと見つめている。 感情として取り残された嘆きだけが、大きな紅い瞳の中で揺れている。 男の背に、ぞくりとした熱い塊が走った。 それは、嗜虐者の悦楽だった。 「クク……何と可愛らしい。人間を愉しませてくれる素晴らしい玩具だ」 男の眼が冷酷な光を宿して笑み歪む。 「仲間を失って悲しいか。力を失って絶望したか。───しかし心配することはないぞ。囚われたのはお前だけではないのだからな」 男はそう言って、手に一つの珠を取り出した。普段人間たちがよく使っているものとは少し構造が異なるようだが、それはポケモンを生け捕りにして使役する道具の一種だとスイクンにも判った。 その珠の中から、気配を感じる。 何かが入っている。何かを感じる。スイクンの知っている、誰かの気配。 「……!」 その気配の主を察して、スイクンの眼が驚きに見開かれた。 言葉を失ったまま呆然と男の手元を見つめるスイクンの様子を満足げに眺めて、男は嘲笑う。 「さあ、出てこいライコウ。この哀れな友に懐かしい顔を見せてやれ」 男が珠を高く投げ上げる。弾けるように珠が開き、そこから赤い光がまき散らされる。 眩いばかりのその光が地の上に収束し、目の前に実体を形作っていく。 そこに現れたのは、青白く光る雷光を纏った、堂々たる黄金の体躯。眼光鋭くまっすぐにスイクンを見据えている───かけがえのない親友。 「……ライコ……ウ」 無意識のうちに名を呼んでいた。 けれど、相手はその声に反応せず、ただじっとスイクンを見つめ続けている。 一切の表情を排したようなライコウの眼からは、欠片の感情も読みとれない。何を考えているのか判らず、スイクンの中に焦燥が芽生えた。 永い時を共に過ごしてきた何より親しい友である筈なのに、まるで見知らぬ者がそこに居るかのようだ。 「私の仕事を手伝ってくれ、ライコウ。そのスイクンを少しばかり弱らせてやってほしい」 愉しげに男が言い放つ。スイクンは信じられない思いで男を見遣った。 ───まさか、ライコウが…… そんな筈はないと狼狽える心と、そうするに違いないと確信しているもう一つの心。 スイクンの中では、そのどちらもが絶望の色を呈していた。 縋るような眼が見つめる先で、ライコウの身体を取り巻く光が強さを増していく。 「ライ……」 目の前が真っ白な光彩で塗り潰された。 それがライコウからの攻撃だと悟った瞬間、全身を強烈な電撃が走った。 身体がふわりと軽く浮き上がり、その直後地面に激しく叩きつけられる感覚が襲う。 しばらくして、スイクンは自分が倒れたのだと気付いた。 横倒しになった視界の中で、ライコウが再び珠の中に吸い込まれていくのが微かに見えた。 男の視線がゆっくりとスイクンに向けられる。獲物を追い詰める肉食獣の眼そのままに。 ───もはやこれまで、か…… スイクンは諦めたように眼を閉じた。 もう何も見たくはなかった。 自分がどのように狩られるかなど、知りたくもなかった。 そう、最初からずっとこうして眼を閉じていれば良かったのだ。そうすれば森の仲間たちの変わり果てた姿も、迷わず攻撃してきた親友の冷酷な貌も見ずに済んだのに。 脱力感と激しい疲れがスイクンを襲う。 ───もうどうにでもなれ。私にはもう何も残っていない。 一日のうちに、たくさんのものを失いすぎた。 死んでしまった愛しい者たち。 囚われてしまった親友。 初めて、寄り添っていたいと願った女─── 「スイクン!」 よく通る高い声が、湖の上に響き渡った。 その瞬間、閉じていたスイクンの眼がはっと見開かれる。 色を失っていた瞳の中に、急激に感情が甦ってくる。 「アキ……」 肩で激しく息をつきながら、女が森の縁に立っていた。 ---- 登場人物がが錯綜している割にはエンテイが空k(ry [[依存関係 -8-呼べど届かず]] [[空蝉]] ---- 何かありましたらどうぞ #pcomment(コメント/依存関係7略奪者,15,above); ---- today&counter(today);,yesterday&counter(yesterday);,total&counter(total);