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依存関係 -14 結- 暁光射す の変更点


[[空蝉]]

(ご注意)
すべてにわたってgdgd展開です。非常に緩い♂×♂の官能表現が含まれます。
ツッコミ所が多すぎてキリがないので、笑ってスルー推奨です。

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□ 前回のあらすじ □
スイクン火山に消える([[第十三章 さよなら>依存関係 -13-さよなら]])

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 やわらかな暖かさに包まれている。
 目を閉じていても判る。頬をくすぐるこの感触は、きっとあの繊細なたてがみ。

『エンテイ』

 笑みを含んだ穏やかな声が呼ぶ。
 もう二度と聞くことはないだろうと諦めていた───恋しくて、哀しくて、痛いほどに胸を揺さぶる彼の声。

「スイクン」

 かすれ声で呼び返すと、やわらかな感触がぎゅっと抱きしめてきた。
 その仕草があまりにも愛おしくて、涙が零れた。

『エンテイ……泣くな』

 頬を舐められる感触。あの時と同じだ。
 それからまた抱きしめられた。

『エンテイ、お前の中は熱いのだな』

 密やかな囁きのように届いたその言葉に不思議な違和感を覚えて、エンテイはふと眼を開けた。

 白い霧のようなもので満たされた果てのない空間、そこにエンテイひとりが居た。
 スイクンの姿は見えない。抱きしめられている感覚は今も確かにあるというのに。

「スイクン? どこだ?」

 不安になって周囲を見回す。自分以外に誰の姿も見えないその空間を。
 やわらかな感触が、エンテイのたてがみに擦り寄ってくる。
 間違う筈もない、これはスイクンの仕草。眼を閉じれば確信をもって判る。それなのに、眼を開けると途端にその確信が不確かな蛍火のようにぶれてしまう。

 ほんの少し意識を散らしたなら、瞬く間に手からこぼれ落ちて見失ってしまいそうなほどに───彼の存在感が、脆い。

「スイクン……!」
 その儚さが切なかった。狂おしいほど愛しかった。
 瞼を閉じて、抱き返した。幻ならばなおさら、消えてしまわないように、抱いて捕まえていたかった。
 開いた視界の中で彼が脆くなってしまうのなら、もうこの瞳に何も映すまい。


『わたしは此処にいる。お前の中に』


 穏やかな声が、耳元で囁いた。
 エンテイは眼を頑なに閉じたまま、拒むように首を振った。
「こんなのは嫌だ。お前の居る所へ行きたい。お前に……会いたい」
 消えそうな彼を抱いているぐらいなら、いっそ一緒に儚くなってしまいたいとエンテイは思う。

『我が儘な奴だな』
 苦笑する気配とともに頬を舐められた。
 そしてしばらくして、首筋にスイクンの溜息がかかった。
 スイクンもエンテイも何も言わなかった。抱き合ったまま、ただ、空気が重く沈んでいくのを、抗う術もなく感じていた。


『…………すまない、エンテイ』
 ぽつりと呟いたスイクンの言葉に、エンテイはまた首を振った。
「言うな」
 エンテイには判っていた。自分と彼とを隔てる何か。それがもし『死』というものであるのならば、生者は自分で、死者は彼だということを。
 エンテイの体の中心には、あの時確かに消えた筈の炎が熱く甦っている。そしてスイクンの言うとおり、自分の中にあるその炎に彼の気が溶け込んでいるのを感じる。
 おそらくは、この炎と引き替えに、彼が───


『私も……お前と共に在りたかった』
 ひとつずつ言葉を噛み締めるようなその囁きを、エンテイは黙って聞いていた。何か返そうとしても嗚咽になって言葉にならないと判っていた。

『エンテイ……お前に会いたい。こんな夢まぼろしではなくて、本物のお前を抱きたい』
 スイクンの声が震えている。彼も泣いているらしい。
「ならば待っていてくれ。私もそこへ行くから」
 どうか『お前は生きろ』などと残酷な事を言ってくれるなと願いながら、エンテイはスイクンに口付ける。

 自然と舌が絡まり合った。
 互いに貪るように求め合う中で、スイクンがふとエンテイから身を離して喘ぐような深い息を吐き出した。
『ああ、そうだな……もう独りで苦しむのは二度と御免だ。此処へ来い、エンテイ』
 その死への誘いは、ひどく甘美で優しい響きだった。



『 お前の熱い炎の内で  待っているから 』




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 瞼の隙間から、雫が落ちた。
 それを追うように、ゆっくりとエンテイの眼が開いた。
 深い血色の瞳が、何かを探すように周囲を見回し、そして落胆したように再び伏せられた。


「エンテイ……」
 ライコウがエンテイのたてがみに首筋を重ね、倒れたままの体に寄り添う。
 体温を確かめるように頬擦りする、その動きに誘われ、エンテイも目を閉じたまま微かに毛並みを擦り返した。
 こんなふうにエンテイとライコウが触れ合うのは久し振りだった。何も言わなくても触れ合うところから思いが染み渡っていく。
 無言で互いの温もりを感じながら、共に溢れ来るのは、再会の喜びを凌駕するほどの深い喪失感だった。
 閉じたままの瞼から止め処なく零れる涙。何も説明しなくても、此処で起こった事をエンテイは知っていた。
 『残された者』として心に重くのしかかる、冷え冷えとした哀しみ───為す術もなく、今、二匹はそんなものを共有していた。




 暫しの沈黙の後、ライコウが不意にエンテイのたてがみを噛んだ。
「俺のせいだ。スイクン……っ」
 そして耐えきれなかった思いが、断片的な言葉となってライコウの口から零れ出た。
「俺が水の気を封じてなかったら、あいつは助かってたかもしれないのに……!」
 そう言ったきり言葉を詰まらせ、エンテイの毛並みに顔を埋めて嗚咽した。彼から身を守る術を奪った、その呵責がライコウを苦しめているのだった。

 もしあのとき水の気を封じていなければ。もしあのとき無理矢理にでも火口から連れ戻していれば。
 そうすれば、今頃は───

『お前のせいではない……』
 微かな『声』が静かに応えた。ライコウが泣き濡れた顔を上げると、暗く沈んだ瞳が力無くどこか中空を見つめていた。
『スイクンが決めた事だ』
 今自分がここに在る、それこそがスイクンの一筋の望みであり、彼の意図した結果なのだとエンテイは判っていた。
 スイクンがライコウに指示したように、炎を呼ぶために水の気を封じたのは正解ではあった。この火山はエンテイでなくては反応しない。恐らく水の気を纏ったままでは失敗しただろう。
 そしてそうであった場合、ここで冷たくなっていたのは自分であって、愛しい者に耐え難い後悔と苦痛を強いていただろうことは容易に想像出来た。現に今、自分自身がそうなのだから。


『それでも……無念だったろうな』
 夢の中で、スイクンは「共に在りたかった」と泣いていた。あれが自分に都合の良い夢物語などでなく、彼の本心であって欲しいとエンテイは心からそう願う。




 遠い方の記憶はもう朧に霞んでしまいそうなほど、永い永い時間を共に生きてきた。いや現実には離れている時のほうがよほど長かったのだが、それでも通い合う心のまま共にあった。
 瞼を閉じれば、いつの記憶かは定かでないが、楽しそうに笑っているスイクンの顔が思い出された。自分もライコウもスイクンも、その記憶の中で幸せだった。かけがえのない友だった。




 エンテイの心を巡るそんな記憶の波がライコウにも通じたのだろう、悔しそうに噎び泣きながら、エンテイの背に縋るように抱き付いてきた。
 意味もなくエンテイのたてがみを噛む喉の奥で、言葉にならない嘆きが潰れた悲鳴となる。
 らしくもなく激情を露わにするライコウを、エンテイは憐憫の眼で見つめた。
 ああ、そう言えば昔は寂しがりだったな、と遠い過去のライコウを思い出した。そして今でもそれが変わっていなかったことに少なからず驚きを覚えた。

 ライコウの震える肩を宥めるように撫でてやる。
 ───ライコウは、また泣くだろうな……

 喪失の痛みは、彼にとってどれほどの心の傷となるだろう。
 自分にはもう、ライコウを癒してやることはできない。むしろそれ以上に絶望という名の重荷を負わせてしまうに違いない。
 そう考えると、今この傍らで泣いている友が不憫でならなかった。

 もうすぐ、この触れているささやかな温もりすらも、彼は失ってしまうのだから。




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 始めこそ少しふらつきを見せたものの、意外なほどしっかりとした足取りで、エンテイは火山の頂を目指して斜面を歩き始めた。
 巻き上がる乾いた風、大地の声、噴煙のにおい───随分長い間離れていたような気がする。全身で感じる故郷に、懐かしさや慕わしさのような感情とともに、遣り切れない悔いが突き上げてくる。
 一度は絆を断った山だ。
 さまざまな想いを抱きながら、エンテイはその頂を仰いだ。スイクンが待つ、その場所を。


「変な気を起こすなよ」
 気が気でない様子で、ライコウはぴったりとエンテイに付き添って歩いていた。その背ではロコンが心配そうな顔をしてエンテイを見つめている。そして上空にはリザードンが弧を描いて飛んでいる。
 まるで寄ってたかって見張られているような居心地悪さに、エンテイは苦笑するしかなかった。こんなときに、心が通じすぎるというのはやりにくいと思う。
 それでも、彼らの心情を思えば仕方のないことなのかもしれない。どう考えても、今の自分は生きることへの未練や気力があるようには見えないだろう。もし目の前にこの世から半分足が離れたような友が居れば、自分もきっと同じようにしてしまうに違いない。


 こんなどうしようもない命をそれでも案じてくれる者がいる。その事実に、エンテイの胸の内で感謝と罪悪感とが交錯する。
 友の思いは確かに暖かい筈なのに、それがどうしようもなく重い。生きていくことなどもう考えられないぐらいに辛いのに、この目の前の友を裏切るのが怖いのだ。
 こんなふうに捨て逝く葛藤を負うぐらいなら、いっそ心など無ければいい。それが叶わないのなら、何か大きな力によって無理矢理にでも向こう側へ連れて行って欲しいとさえ思う。


 友が居て、癒してくれる───スイクンが共に在りたかった世界。
 そんな優しい場所は確かに此処にあるのに、それを望んだスイクンは居らず、そして自分は彼の愛した此処を捨て去ろうとしている。
 何もかもが届かない。それがもどかしく、切なかった。愛しさは同時に哀しさでもあった。
 満たされないまま崩れていくこの場所が、此処に集う想いのすべてが憐れだった。






 スイクンが命懸けで甦らせてくれた炎は、今の泣き濡れた心には熱すぎて重い。
 この身にはいつも、熱く燃え盛る炎を映すように情熱の灯火があった。それが『自分』であった筈だ。まるで自分でないような今の自分───心の炎の消えたこの生き物を、『対』である火山はどう思うだろう。

 エンテイは眼前に迫る山頂をゆっくりと仰いだ。
 今はまだ、何も知らず燻っている炎の山。

 ───いや、異物だと思ってその激しい炎で排除しようとしてくれるなら、いっそ都合が良いかもしれない。
 エンテイは自嘲するように暗く笑う。

 あらゆる命を飲み込み容赦なく喰らってしまう、そんな凶暴な残忍性を帯びた火山だが、『エンテイ』という生き物を殺すことだけは絶対にない。これほど死に近い場所なのに、『エンテイ』のままでは、火山の中で死ぬことも出来ないのだ。


「───……」
 エンテイは、ふと足を止めた。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。


 『エンテイ』は、この火山では死ねない。

 そして───『エンテイ』として、火山を呼びに行った、彼。




   『 お前の  熱い炎の内で  待っているから 』




「……そうだ、死ねない……」
 立ち止まったまま呆然と呟いたエンテイを、ライコウが不思議そうに見つめる。
 一点ただ山頂を見上げながら、エンテイの頭の中にこれまで聞いた言葉が渦を巻く。

 沸き立ったマグマに飲まれたスイクン。水は完全に封じられていたという。
 燃え上がる激しい炎を纏い、ただそれだけを携えて火山に対峙した獣。
 火山は彼の呼ぶ声に応じた。火山が、彼を認めたのだ。
 彼は───そのときエンテイそのものだった。

 だったら。だとしたら。


「スイクンは……死んでなどいない」
 ふらりと歩き出したエンテイの足が、突然弾かれたように駆け始める。
 ドクンドクンと早まる鼓動。心は先へ先へと急くのに、思うように動かない四肢がもどかしい。

「エンテイ? エンテイ、待てっ」
 出遅れたライコウが、訳も判らず戸惑いながら後から追いすがる。しかし、山を知り尽くしたエンテイの足には及ばず、どんどん引き離されていく。
「エンテイッ!」
 焦りを帯びたライコウの怒声を遠くに聞きながら、エンテイは山頂に立つ。
 緊張と焦燥に上がった息を鎮める術もなく、必死に縋るような思いで火口に燻る炎を見つめる。
 どんな兆候でも良い、スイクンが生きてそこに居るしるしが無いかと目を凝らす。そして大地の奥深くから聞こえてくる鳴動の声に耳を澄ます。

 微かに響いてくるざわめきのような声。
 火口の温度が上がったように感じるのは、気のせいでは無い筈だ。

 ───火山が、戸惑っている。

 火口に立つエンテイの気配に、火山は確かに反応している。
 けれど常のようにすぐさま同調してくる気配もなく、未だ燻ったままなのだ。
 そんな火山の戸惑いともとれる動きに、エンテイは確信した。───火山が、その懐にもう一つの『エンテイ』を抱いているという事を。


 エンテイは躊躇無く火口に飛び込んだ。
「エンテイ───ッ!」
 ライコウの悲鳴が聞こえた。エンテイは陥没の内にあるいくつかの足場の上に立っていた。
 ライコウは信じられないものを見るような、泣きそうな目をして、火口を覗き込んでいた。

『死に急ぎはしない。そこで待っていろ』
 声なき声でそう告げて、エンテイは足元でざわめくマグマの動きに目を向けた。
 苛立ちのように響いてくる震動。沸き立ち始める熱の奔流。
 火山が混乱している。『エンテイ』が二つ存在するこの違和感に。
 威嚇するように、高温に溶けたマグマが一筋吹き上がった。
 エンテイは怯むことなくそれを見上げ、炎の雨が降り注ぎ返してくるところに息を合わせて、一気に自らの炎を全身に纏った。
 そして火の玉となった獣が、なおも吹き上げようとするマグマに向かって真っ直ぐ飛び込んでいく。


 ライコウは息を詰めて、エンテイが沈んでいった炎の海を見つめていた。
 まるであの時と同じ状況に、ライコウは意図せず恐怖に襲われる。スイクンを飲み込んだ火炎地獄。まさかエンテイまでもと恐ろしい想像に走ってしまいそうになる心をライコウは叱咤した。
 信じるしかない。今はエンテイの言葉を信じるしかない。友を欺き、去るような男ではない。エンテイの気質は一番良く知っているつもりだ。
 それでも込み上げてくる焦燥。叫び出したくなるような胸苦しさをぐっと気力で耐える。


 何か大きな物が破砕する音とともに、また火柱が吹き上がった。
 上方を滑空していたリザードンが、火の粉を避けながらライコウの側に降りてきた。
「お前はもう少し下がっていろ、ライコウ」
 それだけを言ってまた高度を上げる。
 その途端にまた爆発が起き、火の玉のような溶岩が降り注ぐ。
 いつ大爆発になってもおかしくないような激しい地鳴りが立て続けに鳴り響き、その間隙に幾度も地中から小爆発の衝撃が突き上げる。
「ライコウ! 下がれ!」
「見捨てらんねぇだろ!」
 思わず怒鳴り返していた。
 あの時スイクンを残してきてしまった強い悔いが、今もライコウの中に渦巻いている。ここでエンテイまでも置いて逃げるなど、どうしても出来なかった。
「貴様の事なんぞどうでもいい! その背中のちっこいのを守れ!」
 旋回しながら投げられた言葉に、ライコウははっと息を詰める。

 その瞬間、感情と義務感が真っ向からぶつかり合った。躊躇いと葛藤に強張る背中。
 その背を、小さな前脚がいきなり強い力で叩いた。
「あたしの事はいいの! 逃げて後悔するぐらいなら此処に居ればいいわ!」
 はっきりと澄んだ声が、ライコウの足を力強く踏み留まらせた。
「ああ、そうだ。此処で待ってろってアイツも言ってたからな」
 言いながら、降り注ぐ炎を避けて山頂を駆ける。少しでもエンテイたちの居る火口がよく見えるように。

 ───待ってるから。 だから早く戻ってこい、エンテイ




 息が詰まりそうなほどの熱気の中、凄まじい轟音を伴って、間欠泉のように火柱が吹き上がる。
 真っ赤に溶けた大地の欠片が炎の雫となって降り注ぐ。
 そして幾度か立て続けに地鳴りが轟いた時、ライコウとロコンにさっと緊張が走った。
 何か大きな力がせり上がってくる気配。
「来る!」
 ロコンが叫ぶと同時に、ライコウは身を低くして身構えた。


 火口の窪みの一番深い所に沸き立つマグマが、大きく膨れ上がる。
 何もかもが赤く燃える火の海の中で、一際高温の炎の塊が姿を現した。
「───エンテ……」
 ライコウの言葉を遮って破裂した巨大な灼熱の気塊。
 耳が痺れるような爆音、爆風。
 身を伏せ衝撃をやり過ごす。
 怖々と眼を開けると、渦巻く灼熱の気流の中心に、それは居た。

「エンテイ!」

 ごうごうと吹き出す炎を纏ったまま、沸き立つ溶岩の合間にいくつか取り残された頼りない足場の上に悠然と立っている。
 そしてその背には───

「……スイクン……っ!」

 ライコウは震える声で叫んでいた。
 もう二度と会えないと思っていた、自分の所為で失ってしまったと思っていた───かけがえのない存在。
「スイクン! スイクンッ!」
 早くふたりを迎えてやりたくて、降り注ぐ火の雨の中ライコウは走った。
 しかし幾らも走らないうちに、その足は戸惑うように止まってしまった。
「……」
 大きな火口の窪み、エンテイの立つ小さな足場を除いて、そのほぼ全体が既に高温の火の海になっている。
 エンテイが周囲を見回しているのも、おそらく脱出するための足場を探しているのだろう。
「エンテイッ! 早くこっちへ……」
 焦る気持ちのまま呼ぶが、エンテイも困ったように幾つかの足場を行ったり来たりしている。
 ライコウはもどかしさに歯噛みした。目の前に居るのに、手が届かない。火山はまだ落ち着き無く乱れ吼え続けている。こうしている間にもいつまた大爆発が起きるか判らないのだ。


 吹き上がるマグマが、唐突に、ふと鎮まった。
 まずい、と思ったのはその場に居た全員だ。
 何かを溜め込むような音。振動。びりびりと第六感に絡んでくるその気配。


 ───早く!


 大きな影が、一直線に火口へ向かって滑降した。
「リザードン!」
「エンテイ! お前は自力で戻ってこい!」
 叫びながらリザードンが火の海の上の小さなその一点目がけて突っ込んでいく。
 翼を半分畳んで、エンテイの背から青い獣を掬い取ったその直後。
 轟々と凄まじい音とともに、すべての足場が崩れ、マグマの中に引きずり込また。
 轟々と凄まじい音とともに、すべての足場が崩れ、マグマの中に引きずり込まれた。


 そして僅かの間を置いて、凄まじい勢いの大爆発が山頂を吹き飛ばす。音なのか熱気なのかももう判らない激しい衝撃が空間を揺るがす。
 飲み込んだ全てを放出するかのように、空高く吹き上がる灼熱の血汐。


「───ッ!」
 立っていた大岩もろとも吹き飛ばされたライコウは、崩れる斜面とともに岩山を転がり落ちた。
 ロコンはライコウのたてがみの中に潜り込んで、振り落とされまいとしっかりしがみついていた。
 体勢を立て直しては転がり、立ち上がっては転がりながら、崖のような急な斜面を落ちていく。

 這々の体でようやく岩棚のところまで辿り着いた時、今度は空から火炎の巨竜が落ちてきた。
「リザードン!」
 大きなその体のあちこちから煙が上がっているのは、高温の溶岩の欠片が体中に纏わりついているせいだ。いくら炎に耐性があるといっても、これだけの溶けた岩石を直接浴びて、相当のダメージがあったのだろう、その翼の所々が焼け爛れて痛々しい血を流している。
 ライコウが慌てて駆け寄ると、傷だらけで倒れたままのリザードンがそれでも気丈ににやりと笑った。
「大丈夫か?」
「ふん、かすり傷だ」
 心配そうなライコウの呼びかけを鼻で笑って、リザードンは伏せていた上体を大儀そうに起こした。そして、腹の下に匿っていたそれを抱き上げる。
「スイクン!」
 リザードンが、両腕でそっとスイクンの体を岩面の上に寝かせてやる。
 ライコウは真っ先にスイクンの顎の下に額を当てた。眉間に感じたのは、スイクンの首筋から伝わる確かな脈動。
 間違いではないかと不安で、何度も角度を変えて確かめた。そうしている間に胸が苦しくなって息が詰まった。気付いたら涙が零れていた。
「スイクン……」
 首筋を重ねてぬくもりを感じる。ライコウの胸にじわじわと広がっていく、安堵という名の幸福感。
 静かに眠っているスイクンの額に、こつんと額を合わせてみた。
 彼を火山に送り出したあの時───『無茶するなよ』と告げたあの時と同じ目線。あらためて間近で見るスイクンの寝顔は本当に邪気が無く愛らしかった。名残を惜しむように、そのまましばらく、まじまじとその寝顔を眺める。きっともう、こんな目線で彼を見つめることもないだろうから。

 ふっと諦めのような溜息を一つついて、ライコウはスイクンの水を封じた時とは逆の力を彼に注いだ。

「……おかえり、スイクン」

 ぱしゃん、とどこかで水の音がした。スイクンの水が解放された音だ。
 見つめる彼の中に水の気が溢れ来るのを感じながら、今、自分の努めが終わったことを、ライコウは静かに受け入れていた。
 もうすぐ、スイクンの元に呼び合う片割れが還ってくる。もうすぐ、スイクンはエンテイのものになる。
 けれど、もうそれでいい。今はもう、何を悔いることもない。
 彼らは命懸けで呼び合い、結ばれるべくして結ばれるのだ。ここまで来てそれが叶わなかったら、それこそ全ての苦労が水の泡というもの。

 ───なあ、そうだろう? エンテイ……




 ゴウ、と炎の声とともに熱風が一陣通り過ぎた。
 乾いた風の渦巻く中心、岩棚を見下ろす斜面の中程に目をやると、一匹の獣が火炎の幕を纏って静かに立っていた。
 白い光彩の混じったその炎は眩しい輝きを帯びていて、けれど荒れ狂う狂気を孕んではいない。純粋で美しい、大きな大きな炎だった。
「……エンテイ」
 呆然と見とれるように炎を見上げてライコウは呟く。
 ゆっくりと近付いて来た彼は、岩棚の前でふっと炎を鎮めた。
 緊張の面持ちで岩の上を歩み、目の前に倒れた水色の獣に怖々と顔を寄せる。
 先程のライコウと同じように鼓動を確かめているのだろう、柔らかな首筋に頬を擦り寄せ息を潜める。そして暫くして、ほうと密やかな吐息と共に顔を上げた。
「ありがとう、リザードン」
 傷だらけで蹲っているリザードンにまっすぐ向き合い、たった一言それだけを告げる。
 短かすぎるほどの感謝の言葉だったが、リザードンにはその言葉にどれだけの重みが含まれているか判っていた。だから、何も言わずただ笑って頷いた。

 傷付いた巨体をゆっくりと起こし、太い二本の足で立ち上がる。そしてライコウとロコンに目配せして岩棚の端に立った。
「行くぞ、俺たちが居たら邪魔だろうからな」
 笑みを含んだ声で二匹を呼ぶ。ロコンはすぐに意味を察して、リザードンの足元に駆け寄った。
 ライコウはエンテイの側まで近付いて、そっと耳打ちした。
「しっかりやれよ。スイクンなら大丈夫だから。お前なら出来る筈だ」
 唐突な言葉に目を丸くするエンテイを後目に、「じゃあな」とだけ告げてライコウはリザードンの元に戻る。ロコンを背に乗せ、自分はリザードンの背によじ登った。




「礼は弾めよ、エンテイ」
 冗談めかして言いながら、リザードンは岩の端から飛んだ。
 一瞬の落下の後、すぐに上昇気流を捉えて浮上する。リザードンにとっては慣れた感覚だったが、空を飛ぶことのないライコウとロコンは、心臓が縮みそうなその加速感に身を竦ませた。

 背中で怖がっている気配を感じて、リザードンが苦笑する。
「すまんな、どうも翼の具合が悪い」
 ライコウが顔を上げると、リザードンの片翼の先がひどく爛れているのが見えた。風を受けるたびに、滲み出た血がぱたぱたと空に飛び散っている。
「酷いな。どうする、医者にでも診せるか」
「人間にか? 冗談じゃない」
 いかにも野生らしいその答えに、ライコウは首を傾げて唸った。確かに自然に在る物でも傷は癒える。それでもこれだけの酷い傷なら相当の時間がかかるだろう。
「なあ、俺の知り合いにイイ奴居るんだ。かなり変わってるけど信頼は出来る」
「……」
「それにロコンも。放置して治る傷じゃねぇぞ、その脚」
「あたしはいいわ。このままでも」
 ライコウの言葉を、ロコンはさらりと断った。
「この傷はこのままとっておくの。馬鹿なことをした戒めにね」
「ロコン……」

 二匹を背に乗せて山の上をぐるぐると滑空しながら、リザードンは少しの間、口をつぐんでいた。
「ふっ、お前がそんなに言うなら行ってやらんでもない。案内しろ」
 リザードンが何を思ってそう言ったのかは判らない。けれど、素直でない言葉ながらも同意してくれたことにホッと苦笑して、ライコウは南へ、と指示した。
 リザードンが大きく体を傾けて南方へ首を向ける。
 翼の合間からライコウが見下ろすと、遥か下方でエンテイがスイクンに身を寄せているのが見えた。

 ───今度こそ……手放すんじゃねぇぞ。

「ああ……何処かにこの失恋の傷心を癒してくれる女は居ねぇもんかな」
 溜息混じりに呟いたライコウの言葉に、リザードンは首を上げてちらりと背中を覗き見る。らしくもなく本当にしおれている様子に、くっくっと笑みがこぼれた。
「同じく失恋して傷心の女なら目の前に居るがな」
「は?」
 リザードンの言葉の意味を掴みそびれてライコウは首を傾げる。
「あたしは願い下げよ」
 先手を打つようにロコンが言う。しかしリザードンはまた笑った。
「違う違う。お前じゃない」
 ライコウもロコンも、一瞬の間を感じた。
「おま……え?」
「ん?」
 笑みを含んだ鋭い視線が、ちり、と噛み合う。
 此処で下手な失言をしたら命に関わる、とライコウは一瞬で理解した。
「やぁ、そりゃ……光栄だ……な」
「噛んでるわよ」
「傷の舐め合いも悪くないぜ、ライコウ」
 どこまでが冗談なのか判らないまま、ライコウは、そうだな、とだけ返した。
 二匹のやりとりを、ロコンがくすくすと笑いながら眺めている。

「飛ばすぞ。掴まってろよ」


 北風を捉えて流れに乗る。
 冴えた冷たい空気───彼の者の纏う空気に似たその匂いに包まれ、ライコウの胸に懐かしさと切なさが込み上げる。
 泣きだしそうな心の声。眼を閉じてそんな心のざわめきに耳を澄ます。時が経てば、やがてそんな声も聞こえなくなることを、ライコウは知っていた。


 体の下から、低く長い歌声が聞こえてくる。
 リザードンもまた、泣いているようだった。


 今だけは柔らかな嘆きの中に心を泳がせても良い───銘々にそんなことを思いながら、夕焼けに染まる晩秋の空を、南へ向かって飛んでいく。




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 日が暮れてどれぐらい経ったろう。もう真夜中に近いだろうが、炎があちこちで燻っているせいで暗さを感じない。仄かな赤みを帯びた灯りに照らされながら、エンテイはスイクンを見つめていた。
 スイクンの心の波長に自らを重ねてみれば、徐々に彼の中に魂のようなものが形を取り戻してくるのを感じることができた。あの火山の中で彼に何があったのかは判らないが、身体と魂とが別々になって、身体は火山に、魂はエンテイに、それぞれ宿り護られていたのだろう。それが今、一つのものに戻りつつあるのだ。

 エンテイはそっとスイクンの頬を舐めた。早く目を覚まして欲しくて。それでも、無理に急かさないように。
 額も瞼も口吻も、もう触れていないところなどないぐらい隈無く舐め回してしまっていた。それでもまだ足りない。もっと触れていたくてたまらなくて、たてがみを掻き分けて首筋も舐めた。
「スイクン……」
 かみしめるように名を呼ぶ。
 こうして触れている確かな温もりが、頬をくすぐるたてがみの柔らかさが、懐かしいこの匂いが、そして命懸けで救ってくれた彼の勇気とその心が───この存在のすべてが愛しい。

 抱きしめていると判る。スイクンの心がゆったりと揺れている。微睡みの中で一体何の夢を見ているのだろう。こんなふうに穏やかな波にたゆたいながら、自分の夢を見ていてくれればいいなどと、それこそ夢物語のような事を考えている自分自身が、エンテイには可笑しかった。




「スイクン……もうそろそろ起きてはどうだ?」
 耳元で囁く。
 ぴくりと水色の身体が反応した。

「スイクン」

 響く、声。
 スイクンの心に落ちてきた一滴の雫が、水面に淡い波紋を生んだ。
 染み渡るように、波紋が広がっていく。心の、身体の隅々にまで、エンテイの声が響いていく。


 ゆっくりと開いた瞼。現れた深い紅色の瞳。


「……」
 目が開いた瞬間から、見つめ合っていた。
 まだ夢を見ているような表情をしている、その濡れた宝玉から、一滴の雫が落ちた。

「……エンテイ」
 震える声で真っ先に発したのは、やはり愛しい者の名だった。
「スイクン」

 名を呼び合った。ただそれだけのことなのに、込み上げるものを止めることができなかった。

 堰が切れたかのようにスイクンの両目から涙が溢れ出す。エンテイは丁寧にその目元を舐めた。
 スイクンにとっては幾度も夢想の中で見た感覚。けれど今この身に触れるそれは、頼りない夢まぼろしよりも遥かに熱く、優しく、力強かった。
 まだ力の入らない前脚を伸ばして縋りつく。
 震えながら抱きしめて、同じようにエンテイの頬を舐めた。
 遠く過ぎたあの日、悔やんでも悔やみきれない過ちを犯したあの日に、初めてエンテイの熱い涙を吸った。そしてつい近頃、冷たくなってしまった彼の頬に口付けた。そんな記憶のすべてが溢れ出し、ここに収束していく。


 間近で視線が絡み合った。次の瞬間には、どちらからともなく口付けていた。
 怖じ気づく間もなく深く求め合い、舌を重ね絡め合う。沸き立つ衝動に追いつかない感覚がもどかしくて、何度も角度を変えながら互いを貪った。


「ああ、こんなにお前が近くに居る……此処は死者の国か?」
 喘ぐ吐息の中でスイクンが囁く。
 ぼんやりと夢心地のその表情がとても幸せそうで、エンテイは愛しげに苦笑した。
「死んでなどいない。お前も、私も」
 その言葉に、しばらくきょとんとエンテイの顔を見上げていたスイクンが、恐る恐る前脚でエンテイの熱い頬に触れた。
 誘われるように、エンテイがスイクンに顔を寄せた。そっと、宥めるように頬擦りする。

「ん……熱い。エンテイ」
「ああ、お前もだ」
 熱を帯びた低い声でそう返されて、スイクンの中に新たな火が灯った。
 発作的に前脚をエンテイの両肩に回し強く掻き抱く。それだけでは物足りなくて、横たわったまま後脚までもエンテイに絡ませた。
「……っ」
 密着する身体の生々しい感触に戦いて、エンテイが一瞬身を退こうとする。しかしスイクンの脚がより強く絡んで来て離してくれない。
「スイクン……っ」
 エンテイの声に焦りが混じる。熱く兆してくる身体。触れれば触れるほど本能が膨れあがる。沸騰しそうな血流が体中を駆け巡り、理性を溶かし削いでいく。

 苦しそうな表情で、エンテイは首を振った。
「待て、止められなくなる……」
「いい、止めるな」
「スイクンっ」

 流されそうになる心を理性が必死に押し留めている。
 愛しくてたまらない。このまま身体を重ねて抱き合いたい。この熱く滾る楔を打ち込んで、彼の深いところに熱情をすべて注ぎ込んでしまいたい。
 それでも───壊してしまうのが恐ろしい。
 エンテイの記憶に突き刺さった刃。狂った炎に焼かれ血塗れで倒れていたスイクンの惨い姿が、今も脳裏に焼き付いている。抱き殺してしまう、その危惧はあまりにも現実味を帯びてエンテイを立ち竦ませる。

「お前を、傷付けたくはない……」
 愛しいからなおさら踏み出せない。そんなエンテイの逡巡をスイクンは抱擁で受け止めた。
「大丈夫だ。おまえは」
「……」
 見つめ合うスイクンの瞳が、まっすぐな信頼を伝えてくる。
 どうしてこんなにも、彼の心は強いのだろう。どうしてこんなに、この弱い心を励まし力を与えてくれるのだろう。

「スイクン……」
 口ごもるエンテイに、スイクンは小さく口付けた。その眼は優しく笑っていた。

「来い、エンテイ。───お前が、欲しい」




 はっきりと求めるその言葉に、エンテイは抑えていた何かを手放した。
 スイクンを組み敷いて身を重ね、噛み付くように口付ける。
「ん……っ」
 激情に煽られるまま、スイクンの口の中を犯し、舌を絡めて吸った。
 唐突に襲い来たその激しさに翻弄されそうになりながらも、スイクンはすべてを余すところ無く受け入れた。そればかりか、より深く濃く求めてくる。そんな誘いがまたエンテイの熱を掻き立てる。
 鼻にかかったような甘い吐息の声。自分の荒れた息遣い。それらの合間にもどかしく相手の名を呼び合う声は早くも濡れた響きを帯びていて。口の端から零れた唾液の筋が、スイクンをひどく淫らに見せていた。

「エンテイ……あ」
 身体の内側の弱いところを示しているかのような白い体毛、その所々を甘く噛みながらエンテイの舌が這う。胸や腹の柔らかなところに口付け、舐め転がすたびに、スイクンの身体がびくんびくんと震えて小さな鳴き声を聞かせてくれる。

 ふとエンテイの頭にやわらかな脚先が触れた。切なげに震えるスイクンの前脚が、押しのけるようにも、押しつけるようにもとれる仕草でたてがみに縋りついてくる。その様子がまるで抵抗に見せかけた甘えにさえ思えて、応えるようにエンテイは組み敷く身体の敏感な所を丁寧に愛撫した。
「はぅ、エンテイ、エンテイ……」
 何度も何度も、うわごとのように名を呼んでくれる声は、明らかにエンテイを欲している。啜り泣きにも似たその響きに、エンテイの背中をぞわりとしたむず痒さが走る。

 このままのめり込んでしまいそうな自らの激情にふと脅威を覚えて、エンテイは苦しげに息をつきながら顔を上げた。そして今更のように感嘆する。あられもなく開かれたスイクンの両脚の間でそれが伝える、彼の快感の大きさに。

「スイクン……」
「く……ん」
 熱に浮かされた眼でそんなところをまじまじと見つめられて、恥ずかしさなのか感じ入ったのか、スイクンのそこが目に見えて反応していた。引き寄せられるようにエンテイの顔がそれに近付く。羞恥に潤んだスイクンの眼がエンテイの動きを怖々と追っている。
 熱い口の中に包んだ瞬間、期待していたとおり甘い悲鳴が上がった。
「んああ……っ」
 丹念にしゃぶる繊細な舌使いに、スイクンは息を詰めてびくびくと震える。
 口の中にリアルに伝わってくるスイクンの渇望。自分の施しでこんな反応を返してくれることが嬉しくてたまらない。

 傍らでぱたんぱたんと音が聞こえる。ちらりと横目で見ると、白い帯のようなスイクンの尻尾が生き物のように蠢いて、もどかしげに震えながら地面を叩いている。
 初めて見るスイクンのそんな反応に、エンテイは驚き混じりで苦笑した。
「良いのか? スイクン」
「聞くな……っ」
 尋ねてくるエンテイの言葉があまりに率直で、スイクンは恥ずかしそうに眼を逸らす。エンテイはそこから顔を上げて身を乗り出し、スイクンの顔を真上から見下ろした。

 逸らしたままのスイクンの横顔は明らかに上気していて、吐息は荒く乱れ───そして、軽く触れた身体は微かな震えを帯びて、白い尻尾がやはりぎこちなくぱたぱたと地を打ち続けている。

 もう後戻りできないところに来ていた。
 スイクンも。エンテイも。


「スイクン……」
 欲情に熱く掠れた自分の声はまるで飢えた獣のような響きを持っていて酷く羞恥をそそるが、今はもうそんな声しか出せなかったから、エンテイは精一杯の想いを込めてその大切な名を呼んだ。
 誘われるようにスイクンの眼がエンテイを捉える。

 見つめ合い、また口付けた。
 直接的に交わり混じり合う熱と吐息、そして互いの興奮が、残された僅かな理性を削いでいく。
 恥じらいも後ろめたさもどこかへ消え、ただ目の前の愛しい者を求め欲するだけの生々しい『自分』になっていく。


 ゆっくりとエンテイがスイクンの上に身を重ねる。その身体の重みを感じて、スイクンは彼を受け入れるために背を向けようと、たどたどしく身じろいだ。
 しかしその動きを、エンテイが止めた。
「……このままで」
「えっ」
 向かい合ったまま。このままで。
 その意図を察して、スイクンの顔にかあっと血が上った。自分たちのような身体の構造の者は、普通こんなことはしない。
 白い腹を晒して大きく股を開かされた、こんな状態で貫かれるのかと思うと、スイクンは恥ずかしくて気がどうにかなりそうだった。

「エンテイ」
 懇願するようにエンテイを見上げるが、そのエンテイもまた困ったような辛そうな顔をしてスイクンを見つめていた。
「すまない。お前の背中を見ながら抱くのが───怖くて」
「……」

 その言葉に、スイクンも過去を思い出した。思い出したくもなかった、あの悪夢を。
 あのときエンテイは灼熱の狂気そのものだった。容赦なく炎を撒き散らし、傷ついたスイクンの背に乗り上げて犯し、蹂躙した。
 ぞっとした恐怖が心臓を鷲掴んだような気がして、スイクンは咄嗟に目の前のエンテイに縋りついた。
「スイクン……」
 表情が変わってしまったスイクンに、エンテイは宥めるような小さな口付けを送る。
 やがて、スイクンの瞳が切なげに揺れて、エンテイを見上げた。


 それが、合図だった。


 まだ頑ななそこに、エンテイの滾った先端が触れる。
「……ッ」
 挿入する動きはゆっくりと慎重だったが、躊躇いは無かった。
 慣らされなかったせいで、無意識のうちに拒もうとするそこを、少しずつ侵していく。
「くぅ」
 痛みに身を引きつらせながら、スイクンは悲鳴を噛み殺す。
「スイクン……っ」
 エンテイも相当辛そうに荒い息をついている。しかし痛みに震えるスイクンがあまりに哀れで、一旦身を進めるのを止めた。
「スイクン、辛いなら……」
「止めるなッ」
 エンテイの言葉に重ねて叫んだスイクンの声は、半分悲鳴だった。
 はあはあと息を整えながら、涙まみれの眼をエンテイに向ける。

「いいから……私は大丈夫だから。痛みよりも……お前が欲しいから」
 来てくれ、と懇願する言葉に、エンテイは切ない歓びに震えて頷いた。
 そうして深く、埋めていく。
 スイクンの中に、すべてを繋げていく。




 きつく閉じたスイクンの目尻からぽたぽたと涙が落ちる。
 痛みは勿論あった。それでも、永らく求めていた愛しい者とようやく一つになれたその歓喜が胸を締めつけて、スイクンは込み上げる涙を止めることができなかった。
「はぁ……っ、エンテイ」
 身の内に感じる途轍もない熱量。それがやがて意思をもって動き始める。
 うっすらと目を開けると、泣きそうに顔を歪めながらエンテイが一心に腰を使っているのが見えた。

 本能の一番強いところで自分だけを求めてくれる、何もかも削ぎ落として今はひたすらこの身に溺れてくれる、そんな彼が愛おしくて、痛みも恐怖も吹き飛んだ。

 貫いてくるエンテイのそれが伝える焼け付くような熱情。そして受け入れる我が身の異常な熱さ。それらが生々しく噛み合っているのをはっきりと感じて、スイクンの背筋を確かな快感が突き抜けた。びくびくと身を震わせたスイクンの身体に、一度は痛みで沈んでしまった火がまた灯る。


「あ、んっ……ん」
 上擦った悲鳴に煽られ、エンテイもまた高まる衝動を抑えることが出来なくなっていた。スイクンの身体ごと揺さぶりながら突き上げる。いつの間にか濡れた音の混じり始めた結合部の音も、意識に届いてはいなかった。

「く……ぅ」
 詰まった喘ぎがエンテイから漏れる。際限なく育っていくようにすら感じる痛いほどの欲望。身体の下に目をやると、燃え立ちそうに赤く充血して堅く立ち上がった自分のものが、スイクンを深々と貫いていてぬるぬると抜き差しを繰り返している。そのどうしようもないほど生々しく卑猥な視覚的刺激に、エンテイの心臓が跳ね上がる。

 ドクンと何かがそこに突き上げてくる感覚。
 苦しげな呻きを噛み殺して、エンテイは律動を強めた。

「は……ああっ、エン……」
 スイクンの声ももう意思とはバラバラになって、意味を為さない鳴き声となっている。

 ああ、このまま壊れてしまいたい───快感で緩んだ頭で互いにそんなことを考える。

「もぅ……ッ」
「ダメだ……あぁ」
 限界を伝えたのはほぼ同時だった。

 エンテイが渾身の咆哮を上げる。一瞬、全身から炎が上がった。
 スイクンの中で膨張する熱量。深く深く繋がったその先で、灼熱のしぶきを上げて爆発する。
「うああぁぁ───ッ」
 あまりの熱さにスイクンが叫ぶ。
 エンテイは無心になってひたすらスイクンの中に白濁を注ぎ、そしてスイクンは炎の奔流を受け止めながらびくんびくんと身を震わせる。
 そのまましばらくは、咳き込むようなエンテイの荒い息だけが場を支配していた。




「ん、う……」
 苦しげなスイクンの呻きに、エンテイははっとして脱力しかかった身体を起こした。
 深く埋め込んだままの楔をずるりと引き抜く。
 内側を擦っていくその刺激と、中で放たれたエンテイの体液が溢れて零れるなんとも言えない感覚に、スイクンが微かに喘いだ。

「エンテイ……」
 腰が抜けたように、受け入れていたそのままの格好で動けなくなっているスイクンに、エンテイはもう一度身を重ねる。
 困ったように見上げてくるスイクンに軽く口付けてから、身体の下の方へと移動する。そして達しきれずにいたスイクンの雄を、熱い口の中に含んだ。
「は、あっ」
 包まれて舌で慰められる直接的な快感に、スイクンの身体が跳ねる。

 途中で押し留められていた情欲が、エンテイの口の中で急激に集まってくる。受け入れていた時の快楽とはまったく逆の、ただひたすら一直線に上り詰めていく狂おしい衝動が突き上げる。
 泣きそうになりながら無意識に首を振る。堪えきれない快楽に、心とは裏腹の拒絶の言葉を口走る。
 そんなスイクンの反応を捉えつつ、エンテイは迷わず躊躇わず愛撫を続けた。確実に、スイクンを絶頂へと追い上げていく。

「も……あ、あっ」
 悲鳴が不自然に途切れた。スイクンの全身に硬直が走る。
 直後、エンテイの舌の動きに誘われるまま、限界まで張り詰めたスイクンの情熱が弾けた。
 エンテイは口の中にそのすべてを受け入れた。水に属するイメージとは異なり、その迸りは濃く熱かった。


 激しく息をついてスイクンの身体が脱力する。
 エンテイは零れる雫も丁寧に舐め取って、そのまま飲み干した。
「お前……」
 唖然としてエンテイのその仕草を見つめる。エンテイはそんなスイクンにゆったりと笑いかけた。
 いつの間にか余裕さえ感じるエンテイの佇まいに、スイクンは何故か恥ずかしさを覚えて、ふいと横を向いた。
「どうした?」
「……何でもない」
 涙の跡の残るスイクンの頬をそっと舐め、エンテイはスイクンに寄り添って寝そべる。
 乱れてしまった藤色のたてがみに頬擦りして首筋を重ねると、スイクンが寝返りを打ってエンテイに頬擦りを返した。そしてそのまま、ふわふわの暖かなたてがみの中に顔を埋める。


 まぎれもないエンテイの熱さ。ずっと求めていた彼のこの匂い。
 幸せすぎて涙が零れた。けれどこんなふうに泣いているのを知られるのが癪で、そのままたてがみの中に顔を隠してスイクンは眼を閉じた。

 スイクンは気付いていなかった。エンテイもまた首筋にスイクンの温もりを感じつつ涙していたことを。




 静かに寄り添い、溢れ来る幸福を噛み締めながら、穏やかな時の細波に身を浸す。
 そうしていつの間にか、眠りに落ちていた。
 地上に燻る小さな炎たち、そして満天にちりばめられた星たちの輝きが満ちていて、決して暗い夜ではなかった。




----



 きらきらと眩しい光が満ちる、柔らかな空間の中に居る。
 目に映るものはどれもぼんやりと白い霧のようなものに包まれていて、はっきりと見ることが出来ない。それでも、美しい情景だとスイクンは思った。

 遠くに懐かしい声が聞こえる。その声の方へ行こうとしたら、いきなり何か小さなものが足元にじゃれついてきた。
 くるくると転がるように、スイクンの四本の脚の間を行ったり来たりして走り回っている。
 何事かと首を降ろしてみたら、たてがみの中に小さなかたまりが飛び込んできた。
「うわっ」
「あーっ、ズルい! チコリータ! わたしも、わたしもっ」
 足元から必死で抗議してくる子供の声。その声に聞き覚えがあった。しかも遠い遠い過去の記憶の中で。

 たてがみの中で、先に飛び込んできたかたまりがもぞもぞと動いて、チコリータが可愛い顔を出す。
「ナエトルもおいでよ」
 そんな事を勝手に言っている。スイクンが膝を折って身体を低くしてやると、今度は小さなナエトルがたてがみの中に飛び込んできた。


 スイクンは懐かしそうに微笑んだ。
 覚えている。昔はよくこうして、小さなこの子供達と遊んでいた。


「ドダイトス……メガニウム」
 失ってしまった友。


 ああ、ここは別れの河辺なのだ───そうスイクンは思い至った。
 生者と死者とを隔てる大河。死した者はここから大河の向こうの岸へと旅立っていく。
 その河を渡るとき、死者はその生きた時の中で一番幸せだった頃の姿になると聞いた。

 ドダイトスとメガニウムの一番幸せだった頃。
 それは、スイクンの庇護のもと、ただ甘えていられた遠い過去───何を思い煩うこともなく、すべてが輝いていた幼い子供時代だった。

 たてがみの中から、キャッキャッと楽しげな笑い声が聞こえてくる。
 スイクンは心を澄まして感じていた。もう聞くことが出来なくなる、そのあどけない声を。
 一点の曇りもない信頼で飛び込んで来てくれる、柔らかで無邪気な子供の感触を。




「ナエトル、チコリータ! 船が来たわ」
 遠くで澄んだ声が呼ぶ。
 スイクンは咄嗟に立ち上がっていた。

 静かな霧の中から、ぼんやりと人影が近付いてくる。
 やがてその姿がはっきりと目に映る。スイクンは鼻の奥にツンとした痛みを感じた。

「アキ……」

 スイクンから少し離れたところで、アキは立ち止まった。
 アキは出会ったときと同じ出で立ちをしていて、一緒に作ったあの籠を手に大切そうに持っていた。そして髪には、スイクンが摘んできた秋花を挿していた。それが、彼女の一番幸せだった時の姿だった。
 アキは、静かに微笑をたたえながら、スイクンを優しく見つめていた。


「さよならは言わないわ。私……生まれ変わったら、あなたの森になる。あなたの湖を護る、実りに満ちた森になるわ」
「アキ……」
 スイクンの脚が、アキの方へと動く。
 アキは小さく首を振って、スイクンを止めた。

「こっちへ来てはだめよ。待っていて。あなたの大切なひとと共に」
 スイクンのたてがみから、小さなかたまりが二つ飛び出してアキに駆け寄る。
「ねぇ、ぼくはうまれかわってもチコリータになるんだ」
「わたしはナエトルでいいわ」
「じゃあまたぼくのおよめさんになってね」
 無邪気に言って笑い合う。アキは小さな子供達の頭を優しく撫でた。その仕草はまるで慈母のようだった。
 スイクンの顔にも笑みが上った。けれど涙が止まらなかった。




 白い帆を張った大きな木の船。
 愛しい者たちを乗せて往く船。
 霧に霞む大河に消えていくその影を、スイクンは此岸からずっと見守っていた。




----




 ゆっくりと眼を開けると、乾いた大地の所々に小さな火が燻っているのが見えた。
 視線を巡らせ天を仰ぐと、星々が淡い朱の光に霞んで消えていくところだった。

 スイクンは身体を庇うように、そっと身を起こしてみた。激痛が走るかと思ったが、思いのほか障りは感じられなかった。
 夜のうちに冷えてしまった空気が、乾いた風となって下界から吹き上がってくる。そんな中、隣に温もりが無いことに僅かな不満を覚えてしまう自分が何故か可笑しかった。
 探すまでもなく、スイクンは求める者の後ろ姿を見つけた。
 斜面から突き出た岩棚の先端に座り、強い風にたてがみを揺らしながら遠く広い世界の夜明けを見渡している。静かでいて力強い、そんなエンテイの佇まいを見つめる。
 叶うならずっと眺めていたい。そんな願いをスイクンは苦笑で封じた。


「美しいな。夜明けは」
 そっと近付いて声をかける。エンテイはスイクンが眼を覚ましたのを察していたのか、さほど驚きもせずじっと東の空を見続けていた。
「ああ、暁の光に照らされるお前の森は本当に美しい」

 東の地平に大きく横たわる大樹海。スイクンの棲む森。
 静かに見つめるその先に、一際眩しい光の欠片が顔を出した。
「あっ」
 スイクンが小さく声を上げたと同時に、さあっと光が射し込んだ。
 照り映え始める様々な色。鳥なのか竜なのか、翼ある者たちがどこかで一斉に飛び立つ。生き物達の目覚めの声。
 そして一際きらきらと光を弾いて眩しく輝くのは、緑豊かな木々の海。

 夜明けとはこんなにも美しいものだったのかと、スイクンはひしひしと押し寄せる感動に胸が震えるのを感じていた。
 此処から見渡す故郷の森。エンテイはいつもこんなふうに、眠りから覚める自分たちを見守ってくれていたのだろうか───そう思うと、こそばゆいような愛しさもまた込み上げる。




「ああ、惜しい……このまま時が止まればいいのに」
 エンテイのたてがみに甘えかかってそっと囁く。
 ずっとこうしていたい、その本心は口には出さなかった。
 エンテイは暫く黙ってスイクンの言葉をゆっくりと噛み締めていた。スイクンが何を思っているか、判るような気がした。

「……あの森へ還るのか」
 端的に尋ねる。スイクンはふと驚いたような顔をしたが、すぐに一笑した。
「迎えてやらねばならない者が居るのでな」
 エンテイは振り返ってスイクンと目線を合わせた。そして微かに涙の跡を残す目尻をそっと舐めた。

「去る者の夢を見たか」
「……ああ」
 どうしてエンテイには何でも判ってしまうのか、そんなことを、もうスイクンは気にしないことにした。
 すべて言わずとも感じてくれる、その包容力にただ身を任せてしまうことにした。


 去る者の夢───
 懐かしくて、愛しくて、哀しい夢だった。
 またいつか逢える、そう信じようとしても、込み上げる嘆きをどうすることも出来なかった。


 心細げに揺れるスイクンの瞳。
 エンテイは幼い子供をあやすように、スイクンの頬を優しく舐めてやった。
「お前と離れてしまうのは私も寂しいな。もしどうしても寂しくなったら……」
 そう言ってエンテイは言葉を切り、自らのたてがみを探って一本の藤色の毛を取り出した。
「これでも眺めているとするか」
「……ッ!」
 咄嗟にスイクンはエンテイが口にくわえたそれを取り上げようとした。しかしその動きはあっさりとかわされてしまう。
「エンテイッ!」
「お前がくれたものだろう?」
 火山を呼びに行くと決めた、あの時に。

 確かにあの時はスイクンも必死だった。永遠の別れになると覚悟もしていた。それでも今となっては、そんなものを残してしまった女々しさが、どうしようもなく気恥ずかしい。
「か、返してくれ」
「断る」
 嬉しそうに言って、エンテイはまたそれを大切そうにたてがみの中にしまい込む。
 スイクンは脱力したように溜息をついた。


「そんなもので自分を慰めるな。寂しくなる前に逢いに来ればいい」
 ぽつりと呟いたスイクンの言葉に、エンテイは驚きの表情を見せる。
「あの水の森にか? 水に憑かれて死んでしまうぞ」
 そう言って苦笑するエンテイに、スイクンは首を振った。
「あの森は生まれ変わるらしい。水の森ではなく、豊穣の女神の森に。……だからいつでも来ればいい」
「え?」
 告げられた言葉が理解できず、首を傾げているエンテイに、スイクンは不意打ちのようなキスをした。

「私も寂しくなる前に逢いに来る。だから逢いに来い、いや、逢いに来てくれ。エンテイ」
「スイクン……」

 スイクンは言葉を切って一呼吸置いた。
 これまで一度も伝えたことの無かった、本心を伝えるために。


「お前が居ないと寂しい。お前に……側にいて欲しい。───可能な限りで良いから」


 エンテイをまっすぐに見つめ、必死に告白する。
 そんな真摯なスイクンの姿に、エンテイは強く心打たれた。
 歓喜に震えそうになる胸を、深い呼吸で鎮めて、スイクンの目を見つめ返す。


「ああ……私も。───私も、お前が必要だ」
 それだけで、全てが通じた。余計な言葉など要らなかった。




 互いに互いを求め合う、互いの存在無くしては生きていけない───どうしようもないほどの、依存関係。


 連れ添い共に歩むことは、きっと叶わない。
 それでもいい。
 呼び合いながら別々に生きる、そんな関係も悪くない。


 誰よりも愛おしい。その想いが、共に響き合うのならば───








*エピローグ [#o5dffb4d]




 朝の澄んだ空気の中、目覚めたばかりの草木の匂いが周囲を満たす。どこで鳴いているのか、鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
 そんな穏やかな森の湖畔で、一人の少年がノートに何かを綴っている。

「渓流を遡って三時間ぐらい歩いた。河原に足場の無いところも多く、流れに足をひたして歩くことも多い。所々小さな滝があり岩登りをした。川を歩き始めてから四番目の滝は大きく、登るのが難しそうだった。引き返そうかと考えていると、滝の上にキュウコンが現れた。僕は必死でキュウコンを追い、岩を登った。キュウコンは僕たちの少し先を歩いて行く。案内してくれているようだった。そしてようやく、湖に辿り着いた」

 ぶつぶつ呟きながら書き続ける。
 傍らには小さなロコンが居て、主人であろう少年をじっと見上げている。
 コン、と鳴くと、少年は慣れた手つきでロコンの頭を撫でた。

「ちょっと待っててね。ええと……周囲には様々な種類の果樹がある。一年中食べるものに不自由はなさそうだ。話に聞いたことがある、ここがその「豊穣の女神の森」なのかもしれない。もしそうなら、この湖にスイクンが棲んでいる可能性が高い。……ホントかなぁ」

 最後の言葉は、少年が自分の記述に首を傾げて言った台詞だ。
 しばらく首を捻ったり頭を掻いたりしながらノートを読み返していたが、ようやく区切りがついたのか、それを手早くリュックにしまい込んで立ち上がった。

「お待たせ。準備できたよ」
 その言葉を聞いて、ロコンも嬉しそうにピョンと立ち上がる。
 少年が先へ目を遣ると、一匹のキュウコンが静かに佇んでいた。
「やあ、おはよう。今日も案内してくれるの?」
 キュウコンはふいと向きを変え、ゆっくりと歩き出す。
 少年はロコンと顔を見合わせてから、キュウコンの後を追い歩き始めた。

 言葉もなく、一人と二匹の足音だけが聞こえる。しかし一匹の足音はひどく不自然だった。
 少年の目が、先を行くキュウコンの後ろ脚を痛々しげにじっと見つめている。ゆうべは暗くて気付かなかったが、キュウコンは後ろの片足を折っているのか、中途半端に間接を曲げたまま動く様子がない。三本の脚で歩いているのだった。
 少年の目が、先を行くキュウコンの後ろ脚を痛々しげにじっと見つめている。ゆうべは暗くて気付かなかったが、キュウコンは後ろの片足を折っているのか、中途半端に関節を曲げたまま動く様子がない。三本の脚で歩いているのだった。
 野生の世界では脚は命に関わる大切なものであって、これを失ったら生き残ることも難しい筈だ。それでもこのキュウコンがこうして永らえているのは、この豊かで平和な森の包容力のためなのだろう、と少年は勝手に解釈する。

 穏やかに水面を渡る瑞々しい風を感じながら、しばらく湖畔を歩く。
 ざわざわと揺れる草の音。それに混じって、遠くで楽しげな声が聞こえた。
 少年はふと足を止め、複雑に入り組んだ湖の、そう遠くない向こう岸に目を凝らした。

 微かに見える岸辺の水が、きらきらと跳ねている。小さな草のポケモンが居るらしい。黄緑色の二つのかたまりが、水辺でじゃれあっている。
「……あっ」
 少年は小さく声を上げた。
 小さなポケモンたちの背後の草が揺れ、水色の大きなポケモンが姿を現した。
「スイクン……」
 本で読んだとおり、藤色のたてがみを揺らした端整な姿。少年は息を飲んで呆然と見つめていた。
 スイクンがゆっくりと岸辺に寄り、首を下げる。すると小さな二匹が、すぐさまスイクンのたてがみの中に飛び込んだ。そのままスイクンは、何事もなかったかのように草の中に姿を消した。

「ああ、行っちゃっ……えっ」
 また草むらが揺れた。次に姿を見せたのは、スイクンと並び称される炎の獣。
「エンテイ? なんでこんなところに……」
 呟く少年の横で、ロコンが動いた。ぴょんと駆け出し、湖の岸辺まで走る。
「あっ、ロコン!」
 思わず大きな声を出してしまい、 向こう岸のエンテイがふとこちらに目を向けた。
 遠くからでも感じる迫力に、少年は萎縮する。一方ロコンは湖畔にじっと佇んで、まっすぐにエンテイを見つめていた。エンテイもまた、ロコンを見ているようだった。
 しばらくそうして無言の時が過ぎ、やがてエンテイは静かに姿を消した。


 ほう、と少年は息をつき、ロコンを呼び寄せる。
 ロコンはなおしばらく名残惜しげに対岸を見つめていたが、振り切るように湖に背を向け、少年の元へ駆け戻ってきた。




 それから半日ぐらい歩いた。
 少年が手元の小さな機械を見ると、それまで何故か誤動作ばかりしていた画面が正しく表示されていて、地図のような図形の上に現在地が示されていた。
「ああ、森を抜けたんだな。ありがとう、キュウコン」
 少年がキュウコンに触れようとすると、キュウコンはその手をかわしてふいと身を遠ざけた。
 そのまま、森への道を行こうとするのを、少年は慌てて呼び止めた。

「待って。何もしないから……おいで、キュウコン」
 キュウコンは足を止めて少年を振り返った。そしてじっと少年の目を見つめる。まるで試されているかのような厳しい沈黙。
 そして、キュウコンは足を不自由に使いながら少年の元へ戻ってきた。

「ありがとう。足……触っていいかな」
 少年はキュウコンの静かな赤い目を見て尋ねる。キュウコンは何も答えなかった。
 拒まないのは承諾なのだと受け取って、少年はキュウコンの傷ついた足にそっと触れた。
「……痛い?」
 言いながら、優しく撫でる。そして少年は、リュックの中から小さな救急袋を取り出した。
「これ、傷薬だよ。古い傷みたいだから、治るかどうか判らないけど……でも、痛みは退くと思うんだ」
 少年の手が、軟膏のようなものをキュウコンの脚に塗り込んでいく。キュウコンはじっとその手を見つめていた。

「痛いのはね、我慢しなくていいんだ。痛いなら、誰かに助けてもらっていいんだよ」
 少年は仕上げに包帯を巻いてやった。
「ねえキュウコン……痛みから楽になることを、怖れちゃダメだよ」

 キュウコンは静かに涙を落としていた。
 ロコンはそんな心の優しい主人を、頼もしそうに見上げていた。



 
 脚に包帯を巻いたキュウコンが、森へと帰っていく。途中振り向いて、小さく鳴いた。
 少年の傍らで、応えるようにロコンも鳴いた。

 少年には、彼女らが何を言い交わしたのか判らなかったが、優しい目をして二匹を見守っていた。


 小さな獣は、『ごめんね』と言った。
 大きな獣は、『さよなら』と言った。


 そして歩き出す。それぞれの道を。




「さあ、僕たちも行こうか。───白糸」











 完



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ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。<(_ _)>


[[空蝉]]
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何でもコメントどうぞ。



#pcomment(コメント/依存関係14 暁光射す,15,above);
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today&counter(today);,yesterday&counter(yesterday);,total&counter(total);

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