[[空蝉]] カオス展開 残酷表現あり ---- おさらい 焔(ホムラ)=エンテイ=精神的ドM 白糸(シライト)=キュウコン=ヤンデレ スイクン=空k(ry ロコン=解説係 ---- 獣道に三つ並んだ石は結界の支点。それは極めて無防備に晒されていたが、この『歪んだ空間』にはこれを壊そうとする者は存在しないので、そのままもう何百年も其処にある。&ruby(ホムラ){焔};は何度か此処に通ううち、そうロコンに教えられた。 初めてロコンに会った日から頻繁に此処に来ていた。彼女は「暗示が解けた」と言ったが、当初のような夢うつつ状態ではないにも関わらず、自身の意思に反して体が勝手に此処まで導かれて来てしまう。意識がはっきりとした状態で身体の自由が奪われる、そのどうしようもない気味悪さと焦燥感に焔は全力で抗ってみたものの、あまりにも他愛なくその抵抗は崩された。 まるで操り人形か何かのようだ。完全に手駒にされたような屈辱感に焔の自尊心が傷付けられた。そしてその後に来たのが無力感だった。抗えば抗うほど挫折の痛みを味わい、やがて焔は抗うことも諦めてしまった。 石を跨ぎ越して、灼熱の空間に入る。慣れた道を辿り炎の中心に至ると、あの焼かれた男がやはり悶え苦しんでいた。 焔は少し顔を歪めて、男から目を逸らす。何度来ても直視は出来なかった。 自分の力はこの男を───もう魂だけになってしまった男の抜け殻を更に苦しめることになると判ってはいるが、焔が何をどうしたところで炎の暴走を制御することはできなかった。 体内奥深くに抑え込んだ筈の灼熱の気が、吸い出されるように染み出し全身からが吹き上がる。この結界の内の閉ざされた空間全体に、焔の吹き出した炎の力が充ち満ちて、輝きを増し始める。 それと同時に男の悲壮な悲鳴が上がったが、焔は目を瞑ってその声を聞き流した。 天を仰ぐと、暗闇しかない空を覆うように巨大な白い顔が揺らめいている。この森を生み出し支配している女狐の顔だ。裏切り者の男を怨念のまま捕らえ、あまつさえこの『歪んだ空間』を支えるための『人柱』にして永劫の苦しみを与えながら、同時に異常なまでの偏愛で執着し続ける。その女の虚ろな眼が、この地獄を見つめている。 そして焼かれる男はただ復讐のためだけに囚われているのではなく、一つの触媒として其処に在るのだった。彼に火を注ぐことによって、炎の熱量がこの空間を維持する力へと置き換えられている。光り輝く豊かな森、その幻想を具現化する力はここで作り出されている、いつの間にか焔はそんな事にも気付いていた。 強烈な放出感に恍惚とした目を周りに向けると、何体かの炎のポケモンの死骸が横たわっていた。ほぼミイラ化した彼らは、今の自分と同じようにこの空間に火の力を捧げた末に、散って逝ったのだろう、そう漠然と思いを馳せる。 ───私は、どれだけ保つだろうな。 ……&ruby(シライト){白糸};─── ---- あるじさま ああ どうしよう かなしくて しかたない あのひとがしんでしまう あるじさま あるじさま おまえさまがいるのに こんなにかなしくてしかたないなんて おまえさまと わたしだけの このもり それがために あのひとをよんだ それだけのはずなのに かなしくて かなしくて ───くるしい むねがいたくて つらい わたしは どうにかしてしまったんだろうか ---- 季節を感じさせるものが疎いこの閉ざされた森では、熱さ寒さだけが季節を知る手がかりだった。 あれからいくつかの季節が行き過ぎた秋深い日、印象的なまでに空を染めた夕焼けの後に訪れたのは、やはり星のない闇夜だった。 漆黒の空の下、結界の石の前でロコンが待っていた。 「まだくたばってなかったのね。びっくりするほどしぶといもんだわ。流石は伝説のポケモンね」 そう言いながらも、彼女の声は硬い。何度も男たちの死を見てきた彼女の目には、焔の生命の光が今にも尽きようとしているのがはっきりと見えていた。焔もまたそれを自覚していて、返事の代わりに重い息をついた。 互いに物思う僅かの沈黙の中、焔の脚が石の方に向かって動く。 「……もう、会うのも最後かもしれんな」 操られるまま歩みながら、焔が呟く。 「エンテイ……っ」 切羽詰まったようなロコンの声が焔を呼び止めた。振り返ると、泣きそうに顔を歪めながらロコンが焔を見上げていた。 「あたし……あたしは、姐様がこれ以上苦しむのは見たくなかった。あなたなら、ひょっとしたら姐様を救ってくれるかもしれない、すべてを終わらせてくれるんじゃないかって、思ってた」 そして耐えるように歯を噛み締め、力無く俯いた。 「でも、やっぱりあなたも、そのまま姐様を残して逝っちゃうのね」 ロコンが今まで何度も見てきた「結末」。白糸が願ってほんのひととき花開いた夢まぼろしの「幸せな時」が儚く散り失せる、変えようもない運命。 「終わらせても、良かったのか?」 終わり───それは即ちロコンにとっては白糸を失うということを意味する。何より深く慕う白糸の、永遠ともいえる「時」の終焉。それをロコンが願っていたなどとは思いもよらなかったから、焔は少なからず驚きを感じた。 焔の問いかけに、ロコンは諦めのように小さく首を振る。 「今更だわ。もうあなたに残された時はないもの。あなたに為せない事なら、もう誰にも望むことは出来ないでしょうね」 「そうかもしれんな。だが、私の時はまだ終わってはいない」 「え……」 独り言のような焔の呟きに、ロコンははっと顔を上げる。 「すべての終わりを本当に望むのか、聞かせてほしい」 ロコンが見上げた先には、穏やかに凪いでいるようでいて揺るぎない情熱を秘めた瞳が、じっと見据えている。逃げや誤魔化しの入る余地など欠片もない、ひたりと真っ直ぐな眼光。 ロコンの胸に戸惑いと躊躇いが沸き上がる。本当に、そう望むのか。一時の感情ではなく、心からそれを欲するのか。 「わから……ない」 逡巡の末に出た言葉は、しかしやはり逡巡の域を出ることはなかった。 「きっと死ぬほど後悔すると思う。泣いて泣いて気が狂っちゃうかもしれない。本当は……ずっと姐様の側にいたい。振り向いてもらえなくてもいい……遠くから見てるだけでもいいの。だけど……だけどね」 気を落ち着かせようと言葉を切るが、とうとう堰が切れたようにその目から涙が溢れ出した。 「どうしようもないほど───つらい……」 震える上擦った声でそう言ったきり、ロコンは言葉にならない嗚咽を漏らす。 焔は身を操る力に何とか抗って、蹲り泣く彼女の側まで数歩引き返した。 そしてしばらく迷ってから、ロコンの首根を銜えて持ち上げ、自分の背に載せた。 「エンテ……」 戸惑うロコンの声に何と答えれば良いのか判らず、焔は無言のまま歩き始めた。共にあの灼熱地獄へ行ったとしても、ロコンにとって何の慰めにもならない。そう判ってはいても、この場に彼女を置いて行くことはどうしても出来なかった。 スンと鼻を啜る音と共に、背に縋りついていたロコンが泣き濡れた顔を焔の背に擦り付ける。 たてがみに甘えつくようなその仕草に遠い懐かしさを感じ、焔はこんな時にも関わらずふっと優しい笑みを浮かべた。 ---- 轟々と燃え盛る火炎の窯。その中心部に至るまでの途中、焔は何度か立ち止まり苦しそうに息をついた。 あの三つの石を跨ぎ越した瞬間から、著しい消耗が焔を襲っていた。しかし過度の疲労にふらつく四肢とは裏腹に、その全身はここに来て急激に高熱を発し始める。 「エンテイ!」 焔の身体の奥底から際限なく溢れ来る炎の気。とどまる事を知らぬかのような灼熱の力。その激しさと凄まじさに、ロコンは怯えたように絶句した。 彼女が今まで見てきた男たちとは明らかに違う。ここまで憔悴してなお圧倒的な炎の力、これが大地から沸き立つ無限の炎なのかと彼女は畏怖さえ覚えた。 けれどその力ゆえに焔の肉体が耐えきれず、内側からボロボロに崩れて今にも果てようとしているのだ。火が消えて力尽きるのではなく、自らの火に焼かれ溶かされ力尽きる、そんな凄惨な死に様を目の当たりにしてロコンの背筋が恐怖に凍る。 「……っ」 苦鳴のような呻きを聞き取って、ロコンは慌ててその背から飛び降りた。 「エンテイ、あなた……」 ロコンの声に焔は答えない。途切れそうになる意識を必死で保とうとしているのか、眼をカッと見開いて真っ直ぐに前を見据えている。───火炎地獄の中心、その柱とされた「焼かれる男」を。そしてその背後に微かに感じる姿無き女狐の気配を。 『離れていろ、ロコン』 焔は声を使わずそれだけを伝えた。声で言葉を紡ぐ気力までも、彼は意識を留めるために費やしていた。 ロコンはもうどうすることも出来ずに、焔の言葉通りに背後の草むらの中へ潜んだ。 『おおお……やめてくれぇ』 焔の姿を認めて男が怯えたように泣き狂う。 焔は今回ばかりは眼を逸らさずに男を見つめた。 ───やめられれば、良かったのだがな…… こんなにも莫大な力を持っているのに、自分はどうしてこれを器用に扱いきれなかったのだろうと焔は自嘲する。 これではまるで炎に翻弄されているだけだ。手に余るほどの荒ぶる炎、自分は今までどうやってこれとつきあってきたのだろう───そんな考えが浮かんだ瞬間、意識の中をふっと誰かが通り過ぎた。 清涼な、水の気配とともに。 「水……」 ぼんやりと呟いたと同時に、爆音が轟き焔の背から血飛沫のような火の粉が舞い上がった。 「ぐあッ!」 ───しまった…… 記憶に何かが響いて、一瞬気を緩めてしまった。 その隙を突くように、炎が呼び出されてしまった。 「う……っああッ!」 「エンテイ!」 焔の苦しげな悲鳴に、ロコンが咄嗟に駆け寄ろうとするが、制止するために振り向いた彼の尋常でない眼光に気圧されて、思わずその場に立ち竦んだ。 「ダメ……やめてエンテイ」 暴れ狂う炎が次から次へと焔の身体から溢れ出し、柱の男へと降り注ぐ。 離れていても息苦しくなるほどの猛火だ。たとえ炎の力を持つ自分であっても、迂闊に近寄れば巻き込まれ焼き尽くされると、ロコンは本能的に察していた。 あまりにも激しすぎる火炎の恐怖、そして焔の苦しげな咆哮が痛々しくて、ロコンは泣きそうになりながら身を震わせた。 「もうやめて! 姐様、姐様……っ! エンテイが死んじゃう。お願い……」 ロコンの必死の叫びも届かないのか、激流のような炎が、苦しむ焔の全身から吹き上がる。まるで血のように赤い炎。 血の混じった、赤い炎。 ひた、とロコンの身体に熱い何かが落ちてきた。 艶やかな亜麻色の体毛に、点々と散った───赤。 吹き上がり、霧となり、降り注ぐ、焔の血汐。 「なん……」 ロコンの眼が驚愕に見開かれる。 それと同時に、悲痛な叫びを上げて焔が大量の血を口から吐き出した。 脈動のようにドクンドクンと吹き上がる吐血の中に、いくつもの塊が混じっている。 猛火に焼け爛れ、崩れ落ちた内臓の欠片だ。 とうとう、焔の身体が崩壊を始めたのだった。 「いやああぁぁ───ッ! 姐様、ねえさまああぁぁッ!」 ロコンの甲高い悲鳴の中、焔の身体がどうと倒れた。 ---- まぶたの向こうがやけに明るい。まるで光の洪水だ。 目を閉じていても光が揺れているのが判る。きっとこれは木洩れ日。 ああそうか。自分はまた昼寝をしていたのだと焔はぼんやりと思う。 そろそろ白糸が起こしに来てくれるだろう。木の実をたくさん携えて。そして甘えるように擦り寄り、頬を舐め、優しい声で呼んでくれる。 いつもと変わらぬ日常。 穏やかで、豊かで、平和な日々。 やがて彼女に宿った命が生まれ出れば、やっと自分は「父」になれる。そして彼女と我が子とともに未来を紡いでゆくのだ。 この美しく幸せな森で。 そんな夢を、見ていたような気がする─── ---- 体中の痛みで、意識が呼び戻された。 今まで感じたこともない途轍もない痛みだ。まるで生きたまま肉を粉々に切り刻まれるような。 「う……」 呻きを上げようとしたが、急に息苦しさを感じて、思わず噎せた。 腹の奥から沸き上がってきた大量の熱い奔流が、口を通り過ぎてゴボッと溢れ出る。舌の上に残る、独特の鉄の味。 「ああっ、ほむ……さ───」 哀しげな白糸の声が微かに耳に届く。彼女が何を言っているのか耳を傾けようとするが、酷い雑音が耳の奥に響くばかりでまともに聞き取ることができない。痛みに霞む意識と相俟って、まるでありえない音を聞いているかのようだ。 どうしてこうなってしまったのだろうと戸惑っていると、頬の上に柔らかく暖かな触感を感じた。癒すように舐めるその優しさは、朧な夢の中で待っていたいつもの彼女のもの。 いつの間にか馴染んでしまったその感覚が、夢に現にとゆるやかに混じり合う。途切れがちになる意識の中で、あの火炎地獄からどうやって帰ってきたのだろうとか、ああ、あれはやはりただの夢だったのだなどと、現実逃避にもならない思いの切れ端が浮かんでは消える。 そんなささやかな思考の欠片たちは、渦のように次々舞い降りてきては焔の心を乱し、体中の激痛のほうがむしろ現実離れした夢の出来事のようにさえ思わせる。 それでも焔の意識の中には、絶望的なまでに醒めた自分もまた居て、もはやどうにもならない自らの状態をはっきりと認識しているのだった。 『白糸』 意識の中で呼びかけると、すぐに熱い体が抱きついてきた。 必死に頬を擦り寄せる気配の中に、悲しみの気が溢れているのを感じる。きっと白糸は泣いているのだろう。 「ごめんなさい……あなた、ごめんなさい───」 微かな声が焔の耳に届いた。こんな哀しげな声ではなく、いつもの鈴の音のような朗らかな声が聞きたかったが、もう願うべくもないと判っていた。自分は最早、彼女を喜ばせるものを何一つ与えてやることは出来ないのだから。 『泣くな、白糸。お前を恨んではいない』 「ほむらさま……」 こうなることはロコンが予言していた。まさか本当になるとは思わなかったが、未来を示唆されておきながら何も手を打てなかった自分が愚かだっただけのことだ。怨念というものの恐ろしさに気付くのが遅すぎた。また気付いたところで、結局自分にはどうすることも出来なかった。 溢れんばかりの愛情を惜しげもなく注いでくれる女としての彼女。その裏側で、怨念のまま容赦なく生命を喰う妖鬼としての彼女。そのどちらもが彼女の真実の姿であるということを、焔は誰よりもよく知っていた。 生命を喰いながら同時に愛するという絶望的な矛盾を、ひとりの男に向けざるを得ない葛藤。それゆえに、白糸が嘆き苦しんでいたことも、焔は知っていた。 だから、彼女を恨むことは出来なかった。 白糸は妻として愛してくれた。深く愛してくれた。 自分も妻を愛した。偽りの記憶だったかもしれないが、彼女に応えてやりたいと思った心は偽りではなかった。 それだけでいい。自分が死ねば、彼女の「過去の男」のひとりに加わるのだろう。そんな終わり方でもいい。ほんのひとときでも、彼女がこの空しい男を惜しんでくれるのなら。 もう、それだけでいい。 焔はゆっくりと息を整え始めた。 体の中がどろどろに溶けていくような耐え難い痛みを、精神統一で鎮めていく。 そして、もう木偶のようになってしまった四肢に力を込める。動け、と強く念じた気力に応えるように、前脚がぴくりと動いた。 「焔さま……っ」 白糸の声が、今度ははっきりと聞こえた。 そっと眼を開けると、白く濃い霞みのように翳った視界の中に、ぼんやりと白糸の輪郭を見ることができた。 「焔さま、ほむらさま……」 もう名を呼ぶことしか出来ないのか、白糸はただひたすら夫の名を呼びながら、血にまみれたその顔を舐め続ける。 焔は微かに笑った。優しい、満足げな笑みだった。 「っ……」 苦しげな呻きを上げ、焔は顔を上げた。 「焔さまっ、何を……!」 白糸が慌てて焔の身を支えようとする。焔に比べて体の小さな彼女の力では大した助けにはならないが、焔は歯を食いしばって身を起こした。 「無理をなさらないで」 顔を上げただけなのに息が切れ、体中に嫌な汗が滲む。焔は目を閉じて深い息を何度もついた。 そして、震える脚を無理矢理立たせる。 「あなた!」 泣きそうな声が縋ってくるのを苦笑で返して、焔は立ち上がった。 脚が立ってくれさえすれば、何とか動くことはできる筈だ。 「身を清めたい」 「そんな……っ」 焔の言葉に、白糸は思わず抗議めいた声を上げた。そんなことはもうどうでもいい、というのが彼女の本心だった。何も身体に無理を強いてまで、命を縮めてまで為さねばならない事だとは到底思えなかった。 そんな無茶をするより、ひとときでも長く側にいてほしい、触れ合っていたいと心の底からそう願う。 しかしそんな彼女の願いにも気付かないのか、焔はふらつきながら歩きだそうとする。 いつ倒れてしまうかと心配で、白糸はたまらず焔に寄り添った。 「あなた、一緒に……」 連れて行ってほしい、そう言おうとした彼女の言葉を、焔は小さく首を振って封じた。 「みっともない姿を見られたくはない」 「そんなっ! 私はあなたの───」 「ああ……私の、良い妻であった」 はっとして白糸が息を飲む。 そして口を震わせて何か言おうとしながら、ぽろぽろと涙を零した。 「いいえ……いいえ、あなた。私は……」 彼女の声の震えが、慟哭と自責で揺れる心を伝えてくる。 力無く首を振る白糸に焔は顔を寄せ、見上げてくるその頬に微かに口付けた。そして、自分から口付けることはあまり無かったな、などと今更ながら少し残念に思う。 「お前と夫婦になれて良かった」 「焔さま、ほむらさま……」 焔の思いがけない言葉とその穏やかな声に、白糸はただ泣きじゃくる。彼女にとってはむしろ騙して命を奪った後ろめたさの方が強いのに、焔はそんな彼女のすべてを認め、許し、受け入れてくれる。 焔の優しさに、愛しさを覚えると同時に強く打ちのめされる。───自分が此処に在る、そのことこそが、何よりも深い罪なのだと。 「罪かもしれない、けれど白糸」 白糸の慟哭する思いを察して、焔が呟く。白糸は、自らの思いをそのまま語ったその言葉に驚きを隠せず、呆然と焔を見上げた。 「お前は私に大切なものを与えてくれた」 「……ほむらさま?」 焔は白糸を見つめていた。 視力はもうほとんどない。ぼんやりと滲んだ視界の中に、自ら慈しんだ者と穏やかな時が映る。このささやかな幸福を瞼に焼き付けたくて焔は視線を巡らせた。 美しい森だった。此処に居た時の長さは記憶が曖昧で量ることはできないが、それでも仄淡く愛しい思い出があった。名を呼び合う悦び、触れ合う暖かさがあった。すべて、自分が求め望んでいたものだった。 「そして、私の仔を宿してくれた」 「…………」 焔の言葉に、白糸は歯を噛み締めてきつく眼を瞑る。そして怯えたように首を振り、焔の言葉を否定する。 しかし焔はそんな白糸の仕草も微笑のまま受け止めた。彼女の言いたいことは勿論判っている。だが、そうではないと伝えたかった。 「たとえ生まれ出る定めにない仔であったとしても……確かに仔は居ただろう?」 仔が出来たと花咲くような笑顔で告げてくれたあの日。 間違いなく、仔は宿ったのだ。 「お前の……心の中に───」 ---- 今まであまり足の向かなかった水場への道を、微かな水の匂いを頼りに辿ってゆく。 結局白糸をあの場に置いてきてしまった。彼女の寂しさを汲むならば少しでも側に居てやった方がいいと判ってはいたが、これが最期だと思うとどうしてもじっと横たわっていることが出来なかった。 ただ諦めが悪いだけの悪あがきなのかもしれないが、何ら為すことの出来なかったこの虚しい生き様の果てとして、せめて悔いの一つでも減らしておきたかった。 斜面の中腹、谷奥に隠れた窪地に、滝壺のような淵がある。小さいながらも深く澄んだ水の聖地。この上に流れはないから、おそらく此処がこの細い川の源なのだろう。森を縫い、他の水を集めて河となり、やがて海に至るその遥かな旅の最初の一滴が此処に湧く。 この場を満たす清涼な水の気を感じているうちに、焔の胸に何とも言えない熱い思いが浮かんできた。 悔いのような、嘆きのような。そしてそこに思慕のようなものも混じり合って、胸を掴まれるような切なさを覚えさせる、そんな思い。 水の気を何故こんなに切なく思うのか。何故こんなに心惹かれるのか。 焔はゆっくりと膝を折り、岸辺に蹲った。 無性に、水が恋しくてたまらなかった。 今のこの身体に水を入れたらどうなるか。飲んだ水を受け入れる筈の腹のしかるべき所も、おそらくもう形を為していないだろう。耐えきれずに死んでしまうかもしれない。 それでも何故か今になって、水を飲みたくて仕方がなかった。 ふらりと惹かれるように、焔は水面に顔を寄せた。より近くに感じる水の匂いを、胸に含む。 「……ッ」 身を屈めたのが引き金になったのか、また腹から血の塊が上がってきた。 抑えようとする間もなくそれは溢れる。激しく咳き込む音に混じるドボドボと不快な水の音。澄み切っていた目の前の水が、その一瞬で血の濁りに染まる。 「あぁ」 見えていなくても判る。水に落ちた穢れがこの水源全体に広がっていく様が。 哀しげに泣く水の悲鳴。 自ら汚してしまったという悔いと哀しみ。───それは決して初めてのことではないと、魂に刻まれた罪悪感がそう語る。 穢れることを拒んだ、あれは誰だったろう。 「……」 不意に、ぐらりと足元が崩れるような眩暈に襲われた。 これは何かと思う余裕もなく、頭の中がぐるぐると渦を巻き、意識の奥底の方から何かが引きずり出されてくる。 大量の記憶の断片が、ものすごい勢いで溢れ出し目の前を流れていく。 その中に、ふと何かを見つけた。 「待っ……」 咄嗟にそれを呼び止めようとして、身体が崩れた。 気付いた時には、水の中に居た。 冷たい水に浸され、全身に激しい痛みが走る。苦しい。 また水の中で血を吐いた。空気を求めて吸い込んだ胸にも、水が入った。 もう訳が判らなくなっていた。 水の中で藻掻きながら、沸き上がる死の恐怖。 あの時と、同じ。引きずり落とされるような、絶望感。 何かを探し求めるように、前脚を伸ばす。 声にならない声が、必死にその名を呼ぶ。 ───ス イ ク ン…… 「───!!」 突然、目の前に光が走った。 急激に身が浮き上がる感覚。水が焔を抱き留めるように取り巻き、押し上げる。 水の上へ、そう強く念じたと同時に、大きな水音が響き渡り、焔の周囲から突如水が消えた。 豊かな体毛から、ざあっと水が流れ落ちる。 何が起こったのか、判らなかった。 ただ呆然と立ち尽くす。───水面の上に。 「なに……」 確かに四肢で立っているのに、その足元はやんわりと足の裏を包み込むような水の柔らかさを感じている。 水が、焔の身を支えている。 訳が判らずに足元に目を向けると、水の上に立つ自分の脚を見ることができた。ほんの僅か、視力が戻っていた。 水場全体に広がった筈の血の穢れが、その足元だけ透明感を取り戻して、深く水底を覗かせているのが見える。そっと歩くと、そこから清い水が響き渡るように広がっていく。 触れたところから冴えゆく水。足元に感じるその水が、いつの間にか生命力のようなものを帯びたそれに変わっている。癒しと再生を与える神秘の力。酷く傷ついた焔の身の内にゆるやかに染み渡り、眼の濁りをも鎮めて視界を開いた、生命の源。 焔の身から溢れるそれは、紛れもなく水を清める力だった。 こんなことが出来る者を、焔はひとりだけ知っていた。 誰よりも深く慕っていた。遠くから淡い想いを寄せていた。 そして心も体も傷付けた。この水の力までも……彼から奪ったものなのか─── 「スイクン……」 久しぶりに名を呼んだ。何より愛しいその名を。 しかしその呟きは、絶望を孕んだまま虚しく空を渡り、誰に届くことなくそのまま消えた。 随分長い間失っていたように思う「エンテイ」としての記憶。かつてロコンが「どうせろくなものじゃない」と言ったが、現実はそんな生易しいものではなかった。 あまりにも酷すぎて話にならない。 その記憶の中には、救いようのない愚かな男が居た。これでもかというほど失敗を重ね、彷徨い出て、その結果が今ここにある。 「ふ……ははっ」 愚行にも程がある。何かを為すどころではない。大切な者を傷つけただけの、ただ悔いと恥しか残っていない自分の過去。 思い出した、すべてを。 生きる意味すら、自分はもう喪っていたのだ。 生きていく価値など、始めから無かったのだ。 何を惜しむことがあろう、この迷惑で希薄な生命など。此処で人知れず消えることこそが、最良の幕引きなのだ。この身すべてを怨霊に喰われ、砕け散るこの結末さえ、此処に来る前からきっと定まっていたのだろう。 こんな男に一方的に恋い慕われたスイクンは哀れだったとエンテイは思う。 彼の心に深く刺さった傷は、今頃どうなっているだろう。「やり直したい」とスイクンは泣きながら言った。どうしてその切なる願いを汲んでやることが出来なかったのか。 今なら……きっと今なら、彼が望むことを何でもしてやれるような気がするのに。 ───ああ、今更だな…… 激しく拒絶した彼の言葉。心に繰り返しすぎて、そのもたらす痛みすらもう自分の一部になってしまって久しい。 当然の反応だ。純粋な友情を裏切ったのだから。もし自分が逆の立場でも、同じことを言っただろう。 『もう私の名を呼ぶな!汚らわしい獣!』その言葉を、スイクンはどんな思いで叫んだのだろう。 『もう私の名を呼ぶな! 汚らわしい獣!』その言葉を、スイクンはどんな思いで叫んだのだろう。 そう言えば、彼は名を呼び合うのが好きだった。 いつだったか、スイクンが誰かを助けようとして酷い怪我を負ったとき、たまたま居合わせたエンテイが一晩中付き添ったことがあった。 傷の痛みに顔をしかめていたスイクンが、エンテイの声を聞くと安心したように頬を緩めた。名を呼んでやると、辛そうな中にも嬉しそうに笑むのだ。 今にして思えば、あれが恋の始まりだったのかもしれない。 「スイクン……スイクン」 もう呼ぶことすら禁じられたその名を呼ぶ。今だから、此処だから、心のまま口にする。 呼びながら、忘れかけていた涙を零した。 何もかも失って、こんなみっともない姿になってなお、どうしようもなく、彼が恋しい。 今でも慕っている───嘘偽りなくそう言える自分の心、それぐらいは誇っても良いだろうか。 ゆっくりと水の上を歩きながら、エンテイは水の恵みが自身に寄り添うようにして従っているのを感じていた。 スイクンが纏っていた水の力。 無理矢理奪ったものなのかもしれないが、これが彼から与えられた最後の慈悲なのだと信じたかった。 悔いしか無かったこの生の終わりに、この癒しを携えて旅立てるのなら、どれほどの慰めになるだろう。 そして許されるならば、この水の力を以て最期を迎えたいと願う。 ひょっとしたら、命の尽きるその僅かな時に、一つだけ為せることがあるかも知れない───この水の力があれば。 岸辺に降り立ち、エンテイは歩き始める。 この怨嗟の森の中心、自ら死地と定めた場所へ。 すべてを、終わらせるために─── ---- 君恋し おもいはみだれて 苦しき幾夜を 誰がため忍ばん ↑本編にはあんまり関係ありません。好きなタイトルだったりします。大正時代の唄らしいですがw [[依存関係 -13-さよなら]] [[空蝉]] ---- 何でもコメントどうぞ。 #pcomment(コメント/依存関係12君恋し,15,above); ---- today&counter(today);,yesterday&counter(yesterday);,total&counter(total);