#include(第十二回仮面小説大会情報窓・非官能部門,notitle)
&size(30){&ruby(うごかず){不動};の松};
今は昔、&ruby(みやこ){城都};の&ruby(ひつじさる){坤};に&ruby(はいらずのもり){禁足林};があった。
&ruby(100m){一町};もない小さな林だったが、鬱蒼と繁って昼なお暗く、木々には&ruby(いばら){茨};が縦横無尽に絡みつき、背より高い&ruby(ささ){笹};の葉は鋭く、きつくかぶれる&ruby(うるし){漆};や&ruby(イラクサ){蕁麻};が生い茂り、&ruby(はち){三槍蜂};に&ruby(ほうじょう){毒毛虫};と気性の荒い毒虫の巣窟であった。呪殺された&ruby(いにしえ){古};の豪族の墳墓であり&ruby(たた){祟};りをなすとまことしやかに囁かれ、足を踏み入れた者は二度と戻れぬと近隣の人々に恐れられていた。
実際、この林から見つかる遺体は無惨で不可解な有様だった。何日も歩き回ったかのように足の裏が破れて血だらけになった者、握った枝で自らの体を何度も突き刺した跡がある者、火の気も無いのに火傷を負った者、体から&ruby(やどりぎ){寄生木};が生えている者、太い枝に貫かれた者、全身に&ruby(みみずば){蚯蚓腫};れが刻まれた者……。
風もないのに木々が蠢いていると噂された。
まっとうな人々は恐ろしがって避けたが、賊や血気盛んなやくざ者は次々と&ruby(はいらずのもり){禁足林};に足を踏み入れ、物言わぬ&ruby(むくろ){骸};となった。生きて戻ってきた者も、毒の爛れで&ruby(ふため){二目};と見られぬ&ruby(かお){貌};となった者、性格が豹変した者、&ruby(きつね){霊};&ruby(つ){憑};き、あるいは魂が抜けたようになってほどなく亡くなる者、その恐ろしい末路は枚挙に&ruby(いとま){暇};がない。
安明二年、戦火が&ruby(みやこ){城都};を舐め、&ruby(ひつじさる){坤};方は戦場となった。
かの&ruby(はいらずのもり){禁足林};も炎に包まれ、焦土と化した。
この世のものとは思えぬ叫び声が&ruby(はいらずのもり){禁足林};から&ruby(こだま){木霊};し、焼け出された人々は眠ることができなかったという。
焼け跡にただ一本、古びた松が残っていた。
葉はすべて焼け落ち幹も焦げたその松は、生きていた。
安明三年。&ruby(じゅんとく){淳徳};院の&ruby(めい){命};により、戦火で全焼した&ruby(しょうじゃ){精舎};寺の再建が、&ruby(いぬい){乾};に&ruby(600m){六町};ほど移転した&ruby(はいらずのもり){禁足林};跡地で始まった。
&ruby(ちな){因};みに&ruby(しょうじゃ){精舎};とは寺のことなので、&ruby(しょうじゃ){精舎};寺は寺寺という意味になる。かつては単に&ruby(しょうじゃ){精舎};と呼ばれていたが、&ruby(にんく){仁丘};帝の頃から&ruby(しょうじゃ){精舎};寺と記されている。
以後、当時の呼び名を用いて&ruby(しょうじゃ){精舎};と呼ぶ。
&ruby(しょうじゃ){精舎};は&ruby(みつ){密};の寺院であったが、&ruby(けごん){華厳};、&ruby(さつばた){薩婆多};、&ruby(くう){空};、&ruby(ゆいしき){唯識};、&ruby(ろん){論};、&ruby(りつ){律};、さらには&ruby(ぜん){禅};、&ruby(じょうど){浄土};の学僧が集う&ruby(るつぼ){坩堝};のような&ruby(まなびや){大学};であったという。
&ruby(しょうじゃ){精舎};の再建は、本堂、塔、&ruby(がらん){伽藍};は順調に進んだ。だが、宝物殿と経蔵が難航した。
そこには、焼け残った一本の松が根を下ろしていたのだ。
かの松は、&ruby(はいらずのもり){禁足林};の&ruby(ぬし){主};であった。&ruby(いにしえ){古};より人々を戦慄させ続けた&ruby(くだん){件};の恐ろしい&ruby(たた){祟};りの数々は、この松の&ruby(しわざ){仕業};であった。&ruby(けんぞく){眷属};たる林の草木や毒虫をすべて&ruby(うしな){喪};い、深い傷を負っていても、未だかの松の&ruby(あやしきちから){妖力};は&ruby(おとろ){衰};えてはいなかったのだ。
怪光が、鬼火が、姿なき鉤爪が、人夫を襲った。人夫たちは&ruby(ほうほう){這々};の&ruby(てい){体};で逃げ出した。周囲が更地となっていたため、大事に至る前に離れることができたが、工事は止まった。
地鎮にやってきた&ruby(しゃそう){社僧};も、避難していた諸寺院から監督に来ていた僧たちも、近寄ることができず、遠くから朗々と祝詞を上げ読経したが、鎮まる気配はまるで無かった。
噂を聞きつけ、&ruby(ちょうじのくに){丁子国};の&ruby(あわのうみ){淡海};の&ruby(らいどう){雷童};という龍を連れた、&ruby(けいしん){慶心};という豪傑で知られる叡山の僧兵が大薙刀を持って挑んだ。化け松は木の風体をかなぐり捨てて大暴れを始めた。狂ったように鬼火が飛び交い影が蠢き、枝は蠢き槍のように&ruby(けいしん){慶心};と&ruby(らいどう){雷童};に襲いかかった。
&ruby(らいどう){雷童};が咆哮すると大粒の雨が降り始め、一寸先も見えぬほどの豪雨となった。地を揺らして&ruby(いかずち){雷};が&ruby(とどろき){轟};き、空が裂ける音がして竜巻が立った。
数刻の後、&ruby(らいどう){雷童};の咆哮が轟き、風雨が止んだ。
真紅の夕日に照らされて、おぞましき光景が人々の目に飛び込んできた。化け松の&ruby(うごめ){蠢};く枝が&ruby(らいどう){雷童};の鱗を貫き血を啜っている。&ruby(らいどう){雷童};はどうと倒れた。大薙刀は折れ、&ruby(けいしん){慶心};は人事不省となって泥の中に転がっていた。
それから&ruby(ひとつき){一月};が経った頃、&ruby(しょうざん){祥山};の&ruby(じゃくせん){石山};という&ruby(うんすい){雲水};が&ruby(しょうじゃ){精舎};に立ち寄った。
化け松の周りには早くも赤松の若木と熊笹が生い茂りつつあった。
西の山門をくぐった&ruby(じゃくせん){石山};は、熊笹を漕いで真っ直ぐに工事中の御堂に向かった。この禅僧は道があろうと無かろうと真っ直ぐに進もうとする変人だった。気付いた大工が叫び声を上げて哀れな遠来の&ruby(うんすい){雲水};を止めようとしたが、その時には既に&ruby(じゃくせん){石山};と化け松の距離は&ruby(1m){三尺};も無かった。化け松の枝が&ruby(うごめ){蠢};き、あやしき鬼火が灯る。&ruby(じゃくせん){石山};は化け松を一瞥し、鋭く叱咤した。化け松は動きを止め、&ruby(じゃくせん){石山};は平然と歩いて御堂の前に到った。色を失って戸惑う大工と僧たちに、あの松はなにかと訊く。これまでの顛末を子細余さず聞いた&ruby(じゃくせん){石山};は深々と&ruby(うなず){肯};き、
「修羅よの」
と得心がいったように呟く。
「奴はまさしく修羅道に堕ちた童よ」
化け松を振り返り、皮肉に言う。
「ゆえに怯えて&ruby(かんしゃく){癇癪};を起こす」
あの化け末を如何にして止めたのかと問われて、&ruby(じゃくせん){石山};はこう答えている。
「よく見よ、と言ったのだ」
「童! 童か!」
話を聞いて&ruby(かいくう){皆空};は膝を叩いた。&ruby(かいくう){皆空};は&ruby(しょうじゃ){精舎};に寄宿する&ruby(ぎょうじゃ){行者};である。戦乱の最中に焼け落ちる伽藍から運び出した阿弥陀仏の像を、手押し車に乗せて市中を駆け巡り、辻々で首から下げた&ruby(かね){鐘};を叩いて南無阿弥陀仏の名号を唱えて回った。その澄んだ響きと活発な調子が不思議と乱世に傷つき沈んだ人々の心を意気軒昂させ、踊り出す者もいたという。&ruby(しせい){市井};で大層慕われる聖者であった。
&ruby(かいくう){皆空};は仮堂で静かに行っていた朝夕の&ruby(ごんぎょう){勤行};を、市中に繰り出す前後に化け松の前で手押し車を止め、軽快に鐘を叩いて執り行った。化け松が暴れても枝の届かぬ、絶妙な距離で&ruby(かいくう){皆空};は朗々と読経した。&ruby(かいくう){皆空};の説法は浄土の歌舞音曲の如しと言い伝えられている。瞬く間に人が集い、朝な夕な、南無阿弥陀仏の名号が祭り&ruby(ばやし){囃子};の如く響いた。
「童ならば、あやしてやろう!」
と&ruby(かいくう){皆空};は&ruby(い){云};ったと伝えられている。
これに黙っておられぬのが密僧たちであった。&ruby(ちからあることば){真言};を用い、即身成仏を目指す密僧たちは、阿弥陀仏に救済を委ねる浄土信仰を内心では軟弱だ思っていた。
&ruby(しゅじょう){衆生};よ、これが&ruby(ちからあることば){真言};だ。
密僧たちは連れ立って、南無阿弥陀仏&ruby(フェスティバル){祭};が始まる前の夜明けと終わった後の日没に&ruby(ずし){厨子};を並べて読経し真言を唱和し、縁日には&ruby(しょうみょう){声明};を唱えた。その荘厳で清らかな響きは&ruby(かいくう){皆空};の辻説法と並んで市中でも評判となった。時には本山から訪れた僧正が加わり、&ruby(そうそう){錚々};たる顔ぶれとなった。学僧たちは使命に燃え、あるいは愉しんでいたが、後にこう語った高僧も居た。&ruby(じゅんとく){淳徳};院の&ruby(めい){命};を受けて&ruby(しょうじゃ){精舎};を仕切っているのは密僧である、万が一にも念仏で化け松が&ruby(ちょうぶく){調伏};されては立場がない、参加しておれば手柄と言い張れる。この俗物はその小狡さで地位を得ていったのだろうとその話を聞いた法師は書き残している。
&ruby(しょうじゃ){精舎};の禅僧たちはこの騒ぎを静観していた。
「怪異草木に仏を説いて何になろう?」
「さて、雨垂れも岩を穿つと申す」
「なんでもええけど早う経蔵が出来てくれへんと般若経が腐ってしまうわ。あんな北の外れに作らんでも庭を潰したらええねん」
「あかんあかん、あんな湿気るとこに経蔵作ったらみんなわやになってまうがな」
「丈留寺はんに預けとる普賢さん、はよこっち持ってこんと丈留寺のご本尊にされてまうで」
「そなたら、座禅の刻ゆえ、そろそろ……」
「さよか、ほな折角やから座っていくわ」
「わいもわいも」
騒ぎから距離を置いても、&ruby(かしま){姦};しさは寄ってくるのであった。
安明四年の夏、歌人としても名高い&ruby(びゃくいん){白寅};法師が&ruby(かんじん){勧進};の旅を終えて&ruby(しょうじゃ){精舎};に戻ってきた。その功績は&ruby(かんば){芳};しく、&ruby(さかい){堺};の廻船を仕切る&ruby(といまる){問丸};に&ruby(ほうえん){豊苑};は&ruby(かなずみの){鉄炭};国の守護大名ほか、法師が旅先で面会した幾人もの長者から次々と寄進が集まっていた。
門を過ぎて旅先で噂に聞いた化け松をこの目で見てみれば、黒々と煤を纏い、僅かな松葉を生やした枝を怒らせ、荒々しくも物哀しい風情であった。&ruby(わらじ){草鞋};を解いた&ruby(びゃくいん){白寅};法師は、久し振りに会った僧たちと語らい、湯浴みをして眠り、翌朝、密僧たちと&ruby(かいくう){皆空};の勤行の様を見守った。
正午、&ruby(びゃくいん){白寅};法師は水を湛えた桶と柄杓を手に、化け松へと歩み寄った。掻き分けた熊笹がさらさらと鳴った。化け松は唸り、怪光を発したが、昼の光に掻き消された。折しも晴天続き、土は乾き、化け松は&ruby(もうろう){朦朧};としていた。
&ruby(びゃくいん){白寅};法師は柄杓の水を化け松の根に注いだ。
「寂しゅうございますな」
&ruby(びゃくいん){白寅};法師は化け松に語り掛けた。
「栄華を共にした&ruby(ともがら){輩};も、苦汁を嘗めさせられた怨敵も、今となっては影形なく、されど春に生えたこの笹は変わらず&ruby(おんみ){御身};に&ruby(はべ){侍};り&ruby(そうろ){候};う」
緩やかな&ruby(びゃくいん){白寅};法師の語り口に、化け松はふと枝を這っていた&ruby(ほうじょう){毒毛虫};の腹足の感触を思い出していた。
「&ruby(ふば){羽幡};王の墓所より&ruby(いで){出};た&ruby(おんみ){御身};は、王の愛でた黒松に生じ、王を害した&ruby(こどく){蠱毒};を&ruby(ともがら){輩};として、&ruby(ごひゃくよたび){五百余度};の春夏秋冬を経た&ruby(はて){果};に、今こうして我と語らい&ruby(そうろ){候};う」
化け松の洞の奥の鬼火の目がふっと灯った。そして、目の前の僧の姿を見詰めた。
&ruby(かんじん){勧進};の旅の途上で&ruby(びゃくいん){白寅};法師は&ruby(たんばの){淡波};国を訪れていた。そこは&ruby(ふば){羽幡};王の郎党が落ち延びた地であり、都では語られぬ伝承が&ruby(あまた){数多};残っていた。
&ruby(びゃくいん){白寅};法師は柄杓の水を化け松に貼り付いた苔に注ぐと、言葉を続けた。
「我も汝も、&ruby(いっさい){一切};は一粒の砂の如し。果てれば一滴の水の如し。土に染み、苔に吸われて&ruby(かたち){容};を&ruby(な){失};くし、流転の後に&ruby(あめ){天};に戻りて降り&ruby(きた){来};る」
&ruby(びゃくいん){白寅};法師は空を見上げた。化け松もつられて鬼火の目で空を見上げた。晴天には白雲が湧き、雨の予感を覚える。
「かく云うは仏の智慧なり。汝、我らが&ruby(ともがら){輩};とならん。我ら&ruby(くかい){苦海};に&ruby(じう){慈雨};を&ruby(もたら){齎};す雲水なり。&ruby(おんみ){御身};、&ruby(かしょふうさ){苛暑風砂};より&ruby(いっさいしゅじょう){一切衆生};を守護する&ruby(ぼだいじゅ){菩提樹};とならん」
法師の発する言葉が朝な夕な&ruby(やかま){喧};しく&ruby(うた){唱};う僧たちの声と重なった。化け松の&ruby(うろ){洞};に湧水が溢れるように法師の声が満ち、物心ついた頃から吹き&ruby(すさ){荒};んでいた&ruby(せきりょう){寂寥};が次第に&ruby(な){凪};いでいった。
化け松は、己を駆り立てていた憎悪が既に涸れ果て、空虚な&ruby(うろ){洞};となっていることに気付いた。&ruby(うろ){洞};の&ruby(まなこ){眼};に映っていた来るものは脅威なる仇敵の他になく、討ち滅ぼす他に&ruby(や){遣};りようを失っていたのだった。
化け松の目には、生い茂る幼い草木が、流れ行く雲が、工事の足場に停まった烏が、僧が、大工が、遠く行き交う市井の人々の姿が映っていた。
この日を境に化け松が近づく人々に危害を加えることはなくなった。
当初人々は恐れて相変わらず遠巻きにしていたが、豪胆な禅僧が水遣りを請負い、すっかり習慣づいた朝夕の松前&ruby(ライヴ){勤行};もじりじりと距離を詰めて、遂には松の枝の下で僧たちが談笑するまでになった。
おとなしくなった化け松が言葉を解するらしいと僧たちに噂が広まり、物珍しさからか次々と学僧が寄ってきた。説法する僧、故郷の話をする僧、愚痴をこぼす僧、問答に捲き込む僧……。化け松は明瞭に言葉を話しはしなかったが、微かな唸りや身動ぎや鬼火の明滅を応答として会話が成り立つ場面もあった。
工事は進み、化け松の両脇に立派な経蔵と宝物殿が出来た。
&ruby(びゃくいん){白寅};法師は佐野の&ruby(さくらもり){桜守};の&ruby(まつかた){松方};を&ruby(しょうへい){招聘};して化け松を診せた。
&ruby(まつかた){松方};の世話で化け松は豊かに松葉を繁らせ、数年で見違える程の立派な樹勢となった。
その根本の&ruby(うろ){洞};には&ruby(おたち){尾立};の一家が棲みつき、尾をついて器用に伸び上がって境内を見回す様が画人としても名のある僧の墨絵に残っている。
化け松は僧たちが語る言葉の源がこの経蔵に納められており、僧たちが拝んでいるのは仏というものに似せた木なのだと、おぼろげに理解していった。
安明七年、&ruby(しょうじゃ){精舎};は本堂、伽藍、塔、経蔵、宝物殿、庭、門、すべて再建を果たし、各寺に避難していた経典や神仏の像や宝物も徐々に集まってきた。山門には慶派の仏師が新たに彫った仁王像が納められた。ちなみに丈留寺に預けられていた普賢菩薩は現在も丈留寺本堂に本尊として祀られている。
化け松は&ruby(ぞうす){蔵主};松と呼ばれるようになった。&ruby(ぞうす){蔵主};は経蔵を管理する役目のことで、やがて実際の蔵主たちに先達として奉られるようになった。
今は昔、&ruby(しょうじゃ){精舎};寺の宝物殿が手狭になり増築が要請された。
宝物殿と経蔵の間には蔵主松という一本の立派な松が鎮座していた。かの松は生きて言葉を解すると言い伝えられていた。
宝物殿を増築するとなるとこの松がどうにも邪魔になる。散々頭を悩ませた末、移植できまいかと、管財の僧&ruby(ぎょうとく){堯徳};は蔵主松に話しかけた。
「おう、おぬしのような化け樹は自ら根を引き抜いて歩くと云うではないか。あの多宝塔の隣まで動いてはくれまいか?」
聞き流しているのか静かな松に向かって、&ruby(ぎょうとく){堯徳};は言葉を続ける。
「宝物殿を拡げねばならん、なに自ら動けとは言わぬ、腕のいい植木屋に根を丸めてあそこまで運んで貰うが、よいか」
「言語道断!」
吹き抜ける風に似た細い声が響いた。松の洞に鬼火が灯り、身震いするように松葉が騒めいた。
「なぜだ、日当たりも良くなるぞ」
「根は我が&ruby(けいらく){経絡};ぞ。&ruby(しょうるい){生類};&ruby(めっきゃく){滅却};して&ruby(たま){魂};は天に昇り&ruby(はく){魄};は地に沈むと云うが、&ruby(しき){色};散り地に染みた積年累々の&ruby(しき){識};によって我はかく物思いかく物語る&ruby(なり){也};。根を切らるるば」
ざわ、と松葉が蠢く。
「呆けてしまう」
「風通しが良くなるかもしれんぞ」
喝、と鬼火が強く瞬く。
「死に等しい。まかりならん、断じて抗う、ぬしもただではおかぬ」
その気迫に数々の血生臭い伝承を思い出し、&ruby(ぎょうとく){堯徳};は手を振り愛想笑いして言う。
「わかったわかった、もうおぬしを動かそうとはせぬ。他の手を考える」
すったもんだの末に老朽化が激しかった伽藍の一部を取り壊して新たに宝物殿を建てることになった。
蔵主松との遣り取りは&ruby(ぎょうとく){堯徳};が事あるごとに語った話に尾鰭がついて市井に広がり、狂言の『蔵主松』となった。
見所の多い派手な演目だが、元となった実際の遣り取りはこんなものであった。
享弘六年の冬。
&ruby(しょうじゃ){精舎};寺は再び炎に舐め尽くされた。
「燃やせ! 裏切り者を燃やし尽くせ! 坊主どもは同罪じゃ、消し炭にしろ!」
九尾の炎狐を侍らせた戦装束の女が髪を振り乱して叫ぶ。齢十二の息子を殺され主君の留守を預かった屋敷を燃やされ、怒り狂った&ruby(ほむらごぜん){焔御前};は謀反者を追って十里を駆けた。兵を率いて逆賊の逃げ込んだ家を宿を寺を燃やし、&ruby(まろ){転};び出てきた影には人も獣も構わず手当たりしだいに矢を射掛けた。
宝物殿も炎に包まれ、経蔵の屋根を炎の舌が炙っていた。水を被って駆けてくる蔵主の首を矢が居抜き、倒れた石畳を血が赤黒く染めていく。
化け松の鬼火の目は、体から抜け落ちて漂う魂魄を捉えていた。
「燃やせェ!」
血を吐くような絶叫が響き、九尾の炎狐が紅蓮の炎を吐く。
化け松は身を捩った。経蔵を庇った太い枝が炎に包まれた。
九尾の炎狐は火の粉を纏い、鬼火の目を爛々と光らせた化け松と対峙した。
燃えながら化け松は怪光を発した。生い茂った熊笹が鋭い葉を九尾の炎狐に振るうが、白金色の毛皮に触れる前に燃え落ちて灰となった。
炎が吹き寄せる。
化け松が倒れ伏すように大きく揺れる。
ぢっ、と異様な音がして土が揺れた。
ぷつ、ぷつ、ぶち、ぱっ、ばんっ。そこらじゅうの土中から、濡れた綱が引き千切れるような音が響く。
九尾の炎狐は怪訝な面持ちで飛び退る。
ぼこり、と地面が盛り上がる。根がうねり、起き上がった化け松の樹高は倍ほどに増していた。
千切れた根を引き摺って、化け松は歩いた。枝を地に叩きつけて火を払い、葉の燃え尽きた枝を経蔵の下に潜り込ませる。ばき、と音がして経蔵が傾いだ。辺りに松脂の匂いが充満する。
化け松は経蔵をまるごと担ぎ上げると、走った。
蠢く根が石畳を割って地面に異様な跡を刻み、地に刺した根を千切り残して進んでゆく。
&ruby(ほむらごぜん){焔御前};は煙を引いて突進していく巨影に矢を射掛けたが、後を追おうとする九尾の炎狐に鋭く命じた。
「化け物は捨て置け! 逆賊を探せ! 一人も逃すな、皆燃やせ!」
化け松は&ruby(600m){六町};を駆け、治川に身を躍らせてその中洲で止まった。
抱え上げた経蔵にはびっしりと枝が絡みついていた。
千切れた根を石の隙間に潜り込ませた松の洞から、鬼火が消えた。
化け松は、二度と動かなかった。
「その経蔵の屋根を開けて持ち帰られたものが、当寺に伝わる金剛経でございます」
修復も済み、来年には城都博物館の特別展で公開されるのだと丈留寺の住職は語った。
「経蔵は朽ちてもうありませんが、蔵主松は今でも治川の中洲に立っております。数知れぬ洪水に呑まれても動くことなく五百年もの間、&ruby(ひつじさるかた){坤方};を見守っているのでございます」
ゆえに、地元ではあの松を不動の松と呼んでおります。そう住職は結んだ。
レンタカーの返却にはまだ少し時間があったので、足を伸ばして治川の不動の松に寄ってみた。
橋を渡った中洲は公園になっていて、子供たちがジャングルジムで遊んでいた。
大きな洞のある、巨大な松が枝を広げていた。石碑や市の看板があり、数々の逸話が案内されていた。言い伝えが本当ならば、樹齢千年になる。&ruby(ふば){羽幡};王、&ruby(けいしん){慶心};、&ruby(じゅんとく){淳徳};院、&ruby(じゃくせん){石山};、&ruby(かいくう){皆空};、&ruby(びゃくいん){白寅};、&ruby(ぎょうとく){堯徳};、&ruby(ほむらごぜん){焔御前};、ほか、歴史上の数々の偉人とこの木は関わり合ってきたのだ。
枝の上で&ruby(ホーホー){玉梟};が片足立ちで寝ている。
ごつごつした樹皮に触れると、ほんのりと温かい。
「起きているのかい?」
話しかけてみた。当然、動きはしない。
沈みかけた夕日の金色が洞を通って瞬いた。川からの風が吹きつけ、低い音が響いた。
「&ruby(うむ){吽};」
RIGHT:(2021.1.2)
RIGHT:作 [[天波 八次浪]]
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