※暴行、殺人、死体等の表現が含まれますので、ご注意下さい。 文字数:約3万5千字 ツッコミ所が多すぎるのは、いつもの仕様です。 [[空蝉]] ---- 異国の古い物語に描かれた悲恋のように、この道の先には絶望しか無いのだろうか それでも それでも俺は、君を守りたかった─── ---- '''''&size(26){ロミオとジュリエット ─逃避行─};''''' #contents ---- *1.プロローグ [#c258a1fb] 鬱蒼とした藪の中を、一匹のヘルガーが這い進む。 「痛っ」 棘だらけの潅木が密生するこの一帯は、まるで来る者一切を拒むかのように行く手を阻み、また思わぬところに潜む水溜まりや大穴が、歩む足を捉え立ち止まらせる。 それでもヘルガーは一心不乱に前へと進んでいた。 この先で待つ者との、久々の逢瀬のために。 「ジュリエット」 藪の迷路をようやく抜けたところに現れたのは、落葉樹の大きな樹冠が木陰を為す小さな空き地。おそらくこの付近には見咎める者も居ないだろうが、ヘルガーは憚るような小声でその名を呼んだ。 しばらく待ってみても返事が無い。ヘルガーは口に銜えていた木の実を地面に置いて、用心深く辺りを探った。 初夏らしい爽やかな風が、心地よく林を吹き抜けていく。その中に、ふと異質な匂いを見つけて、ヘルガーはそちらへ首を向けた。 「ごめんね、ロミオ。待った?」 かさかさと草を分ける音と共に、柔らかな響きの声が届く。やがてそこに姿を現したのは、黄金の毛並みを持つ年若いグラエナだった。 「ジュリエット……」 安堵と喜びに緩んだ笑顔で、ロミオと呼ばれたヘルガーが恋人を迎える。 グラエナのジュリエットは持っていた肉の塊をその場に置いて、ロミオに駆け寄った。 「大丈夫だった? 家の方は」 互いに首筋を絡め合い、匂いを確かめ合いながらそっと問うと、答えなのか吐息なのか分からない淡い声が、相手の口の中に微かに溶けた。 「ん……」 そうして勢いのまま溺れそうになる感情を、ジュリエットは苦笑で押し留めた。 「気が早いわ」 「そうだね。だけど少しの時間も惜しいよ」 「ロミオ……」 言葉の通り、僅かでも離れていたくないと言わんばかりに、ロミオはジュリエットに体を擦り寄せる。 そんなロミオの様子を見て、ジュリエットもまた溢れ来る情熱に崩されたように、その場に身を投げ出した。 「いいわ、来て」 誘うその声までも飲み込むように、ロミオはジュリエットに口付ける。 しばらく会えなかった寂しさの反動なのか、自制が効かなくなりそうな衝動に突き動かされながらも、受け止めてくれる恋人の身を気遣ってロミオはそっとジュリエットに身を重ねた。 「……いた」 ジュリエットの口から漏れた微かな声に、ふとロミオが顔を上げる。 間近で見る彼女の顔は、熱が灯ったように上気していながら、その表情には僅かに苦痛の色が浮かんでいた。 「ジュリエット……?」 「あ、ごめんね。さっき脚を打ち付けたみたいで」 そう言いながら投げ出した右脚の腿あたりを見せる。体毛に覆われていて気付かなかったが、言われてみれば確かに少し腫れているようだった。 「ああ……気付いてあげられなくてごめん。痛いよね」 「大した事ないわよ」 怪我を見た途端にシュンと項垂れてしまったロミオに、ジュリエットは苦笑した。 「でも脚は大切だからね、ちゃんと手当しなきゃ。ちょっと待ってて」 傷ついた脚に小さく口付けてから、ロミオが林の中へ入っていく。そしてしばらくも待たないうちに、青々とした葉を何枚か銜えて戻ってきた。 葉を噛み砕いて口の中で柔らかく練る。それを脚の患部に落として薄く塗り広げた。 「ごめんね、ちょっと汚いね」 緑色の葉屑を載せた彼女の脚を見ながら、ロミオが申し訳なさそうに呟く。その言葉を聞いて、ジュリエットはぷっと吹き出した。 「変わってないわね、ロミオ」 「え?」 不思議そうに見下ろしてくるロミオに、ジュリエットは遠い日の面影を見て、懐かしそうに笑った。 「初めて会った時も、こうだったなって」 「……あ」 まだふたりが幼いデルビルとポチエナだった頃。 何をしていたのか脚に怪我をして踞っていたジュリエットをロミオが見つけ、今と同じように何処からか薬草を採って来て、手当をしてくれたのだった。 「ごめんね、ちょっときたないね」 照れ臭そうに笑ったその顔、彼の優しさ。あの頃も今も変わらない。 「君は昔からお転婆だったからね」 「あら? そんな事言うんだったら、採ってきたお肉あげないわよ」 「えっ、それは……」 ロミオのからかいをジュリエットは上手にかわす。こんな微妙な力関係も、昔から変わらないものの一つだった。 「嘘よ。あなたの為に採ってきたんだもの。しっかり食べて」 くすくすと笑いながらジュリエットは傍らに置いた肉を指し示す。 狩ったばかりのようだが、頭を落とし皮も剥いでいて、それが何の肉なのか分からないようあらかた処理してある。残酷な血を見るのを嫌がるロミオに気遣い、彼に肉を食べさせるときにはいつもこのようにしているのだ。 「ごめんね。いつもありがとう」 ロミオもまた自分が持ってきた木の実を彼女に差し出して、ふたりの食事が始まる。 「最近肉を食べてるおかげで、だいぶ力もついてきたんだ。君のおかげだよ」 「それは良かったわ」 ヘルガーの群は力による序列が厳しい。族長の長子でありながら、優しいが故に狩りが不得手で体も弱かったロミオの過去の苦労を思えば、こんなふうに逞しく鍛え上げられてきた彼の姿にジュリエットは心の底から喜びを感じるのだった。 「辛いだろうけど……頑張ってね」 まっすぐに見つめてくる彼女の視線の中に滲む願いを読みとって、ロミオはしっかりと頷いた。 「ああ、強くなるよ。群の誰よりも。誰にも文句を言わせないぐらい強くなって……いつか、いつかは……君を迎えに行く」 「ロミオ……」 その力強い言葉に、嬉しさと切なさの混じり合った遣る瀬無い思いが彼女の胸に浮かび上がる。 こうまでして───いや、これほどの努力を重ねてなお、灰色の靄の中に隠れて掴むことの出来ないふたりの『未来』。一緒になりたい、そんなささやかな希望さえ、どこか遠い所にある夢まぼろしのようだった。 境界を接してテリトリーを構えるヘルガーとグラエナの群。 この厳しい野生の世界で生き残るために、彼らは常に奪い合い、闘ってきた。相手を駆逐する事こそが繁栄のための最善の道と考えている二つの群の間には、絶えず血と抗争があった。 その群にそれぞれ属するロミオとジュリエットにとって、明るい将来など描ける筈もないのだった。 「心配しないで。大丈夫だよ。君が居てくれるから……君のためなら、俺は何だってできる。今はまだ無理かもしれないけど、いつかきっと」 「……」 そう言って真っ直ぐに見つめてくる瞳の汚れない輝き。そしてそこに共存する奥深い優しさ。 気弱だったロミオが少しずつでも頼もしく変わっていく、そんな変化を感じる毎にジュリエットは彼に強く心惹かれていく。 「ロミオ……愛してるわ」 心のままに、そう告げた。 「うん、俺もだよ」 どちらからともなく口付ける。 微かに血肉の匂いのあるキス、それでもふたりの熱情に火を付けるには充分だった。 「ん……っふ」 甘く鼻に抜ける吐息。深く胸を喘がせながら互いを呼ぶ声。 慈しむように互いを舐め合い、身を重ねて愛し合う。この僅かな幸福を噛み締めるように。 「あ……っ、ああん」 快楽に震える身体。本能のままに突き上げる律動。 いつ『最後』になるか判らない逢瀬だからこそ、深い歓喜だけを感じていたかった。 いつまでもこうしていたい、そんな手の届かぬ夢を、今だけは忘れていたかった。 ---- *2.逃亡 [#cb13b9c9] 林の奥、潅木の迷路の中を、ジュリエットは独り歩く。 その足取りは、心なしか重い。 ここ数日の出来事を思い出す。 しばらく前から新しく群に加わっていた若い雄のグラエナ。始めこそ侵入者として群から総攻撃を喰らっていた彼だが、それを抑えて余るだけの力と、他者思いで誠実な気質が瞬く間に皆の信望を集めて、今や次期リーダーと目されているまでの有力者となっていた。 その彼が、ジュリエットを妻にと望んだのだ。 誰もがこのふたりの縁組みを歓迎し、祝福した。何一つ欠ける所もない彼に求められて、よもやジュリエットに不満は無かろうと、周囲は勝手に盛り上がり、婚礼の準備まで着々と進められているのだった。 ジュリエットは途方に暮れていた。断るだけの理由がない。何か一つでも欠点があればと粗を探してみても、ますます彼の魅力を思い知るばかりだった。きっとロミオの存在を知らない自分のままだったなら、一瞬で恋に落ちていただろう。 それでも───どんなに完璧な彼でも、ジュリエットの中のロミオを超えることは出来なかった。どうしても断ち切れない絆が、ロミオとジュリエットの間にはあった。 「ロミオ」 いつもの約束の場所に辿り着いて、恋人の名を呼ぶ。 返事は無かった。 「変ね……」 持ってきた肉片を傍らに置き、ヘルガーのテリトリーの方面を注視してみるが、ロミオが近付いてくるような物音は聞こえない。 待ち合わせの前に狩りをしてくる彼女が約束の時刻に遅れることは度々あったが、もっぱら木の実を採ってくるロミオは大抵約束よりも早めに来ていて、彼女を待ってくれているものなのだが。 「……どうしたのかしら」 何かしら嫌な予感がして、それでもそこを動くわけにもいかず、ジュリエットは不安な思いのまま、その場に腰を下ろした。 「早く来て……ロミオ」 自身の身の回りで進む事への不安と、唯一その心を預けることの出来る恋人の不在がジュリエットの胸を焦がす。 結局正午を過ぎても一向に現れない彼に業を煮やして、ジュリエットは来た方向とは別の───ヘルガーのテリトリーに通じる道へと踏み込んだ。 当然の事ながら、グラエナである彼女は此処を超えたことは無いが、時折血気盛んな若い者たちがヘルガーの縄張りに侵入した事を吹聴したりするので、彼らの領域の中心部がどの辺りにあるのか、という大まかな目星はついていた。 もし見つかれば無事では済まないだろう、そんな恐怖は勿論あったが、ロミオの身を案じる気持ちと、自身の置かれた境遇に対する自暴自棄な気持ちとが合わさって、常にない大胆さと無謀さで彼女は林の先へと進んで行った。 しばらく歩いていくと、背の高い草に覆われた小高い台地の端に出た。見晴らしの良い場所ではあるが、地面から真っ直ぐに伸びる長い枝葉が幾重にも密生していて、都合良くこちらの姿を隠してくれる。おそらくヘルガー達にとっても格好の見張り場であろうそこには、幸運にも自分以外の気配は感じられなかった。 その代わりに、眼下に見下ろす疎林の一角が、やけに騒がしい事に気付いた。 絶え間ない怒声と、技のぶつかり合う音。時折林の樹冠が赤く光るのは、そこで炎が上がっているためだ。 「なんだろう……」 嫌な予感がする。何とも言えない胸苦しさに、抑えがたく息が上がってくる。 目を凝らして、その騒ぎの中心部を見据える。走り回り、ぶつかり合う幾つかの黒い影。その内の一つの影に、周囲から集中砲火が浴びせられる。 「ロミ……」 間一髪でその火炎を避けたものの、すかさず襲い来た第二、第三の攻撃に、その標的は次第に捉われていく。 「ロミオ……!」 ジュリエットは思わず叫んでいた。集団に襲われていたのはロミオだったのだ。 どす黒い火炎を真っ向から浴びて転げる体。そこにとどめを刺すいくつもの牙。 「ああ……」 尚も抵抗しようとするロミオを、何匹かのヘルガーが引きずり何処かへ連れて行く。 彼の悲痛な叫びが、ジュリエットの耳にも届いた。 呆然として、ジュリエットは脚を折り踞った。 絶望感、今の彼女にはそれしか無かった。 「知られてしまったんだわ……」 一族の宿敵であるグラエナの娘との密会。そんな事がこの厳しい群の掟の中で許される筈は無い。酷く傷つけられた彼が何処へ連れて行かれたのか、ジュリエットには知る術も無かった。そして彼を救い出す手だても。 「どうすれば……」 踞ったまま打ちひしがれる。 しかし此処はヘルガー達の縄張りの中。いつまでもこうしている訳にはいかない。 いっそこのままヘルガー達に捕らえられ、ロミオとともに処刑されてしまえば楽になれるかも知れないなどと、絶望的な思いが一瞬胸を過ぎったが、ジュリエットは小さく頭を振ってその思いを打ち消した。 ---- 日暮れ頃、ようやく住処に戻ったジュリエットを、母親が今や遅しと待ち構えていた。 「遅かったじゃないの! 待ってたのよ」 急かすようなその言葉とは裏腹に、母親の表情は何故か笑みに溢れている。 「ほら、来て。見てちょうだい。素晴らしいの!」 ぼんやりと覇気の無い娘の様子にも気付かないのか、母親はうきうきと弾むような足取りで住処の洞穴の奥へとジュリエットを誘っていく。 家族が集うその真ん中に、見慣れない白いものが見えた。 「ほら、婚礼のヴェールよ。向こう山の虫ポケモンに頼んで、特別に織ってもらったの!」 母親が興奮気味に言いながら広げて見せた白い布地は、どれだけ柔らかく織られたのか、向こう側が透けて見えるほど薄く軽やかで、その全体に繊細な花模様が巧みに織り込まれていた。 「……」 息を飲むほど美しいヴェール。花嫁の象徴。 これが愛する者との幸せな結婚式で纏うヴェールであったなら、きっと天にも昇る心地であるに違いない。 ───これが、ロミオとの婚礼衣装だったなら…… そんな思いにふと囚われ、ジュリエットは零れそうになる涙を必死に隠した。 けれど家族はそんな彼女の様子を感激故なのだろうと考え、口々に祝福の言葉をかけるのだった。 「おめでとう、ジュリエット。きっと幸せになれるわ」 「ほら、あなたのその金色の毛並みによく映える。誰よりも綺麗な花嫁さんよ」 「明日が待ち遠しいわ、ねぇお母様」 「……え?」 姉の言葉にジュリエットの表情が固まる。 「明日……?」 「なぁに? 聞いてなかったの? 暢気な花嫁さんね」 からかうような声がジュリエットをとりまく。 「結婚式は明日に決まったのよ。今夜は楽しみで眠れそうにないわ。素敵ね、ジュリエット」 その瞬間、頭を何かで殴られたような衝撃が走った。 「……」 嬉しそうに談笑する家族の声も、もう彼女には届いていなかった。 あまりにも唐突すぎる婚礼。自分は何も聞かされていない。自分は何も決めていない。 自分の手の届かないところで、着実に進んでいく運命。自分の意志とは関係なく、決められていく未来。 ───嫌…… 叫びだしそうになる気持ちと、体中の力が抜けていくような感覚が同時に襲う。そうして呆然と立ち竦んだまま動けないでいるジュリエットを、いそいそと母親が寝床に押し込んだ。 「さぁさ、明日は早いんだから。もう休みなさい。寝不足の花嫁なんてみっともないわ」 そう囁きながら、宝物を触るかのように、娘の毛並みを優しく撫でる。 そんな暖かくて愛しい筈の触れ合いさえ、ジュリエットの心を凍らせていくばかりだった。 ───いや……嫌! どうして? どうしてこうなるの……! 胸につかえたまま言葉にならない、息苦しさにも似た激しい焦燥感を、此処に居る誰も知ることはない。 恐らく、遠い空の下に居るロミオでさえも─── ---- 夜半にはもう、家族もすべて寝静まっていた。 月の光が優しく洞穴の入り口を照らす中、ジュリエットはふらりと寝床から起き出した。 さして広くはない住処の中心、食卓のように設えられた大きな石の台の上に、白くぼんやりと浮かんで見える、花嫁のヴェール。 「……」 そっと布地を広げてみた。薄雲のように繊細なその美しさは、朧な月明かりの下で、まるで神秘的な輝きを帯びているかのように見える。 明日になれば、これを纏って、自分は花嫁になるのだ。ロミオではない、誰かの妻に。 そんな絶望的な思いが込み上げてきて、ジュリエットは咄嗟にそれを引き裂きたくなるような衝動に駆られた。 ヴェールを抱きしめて踞る。 堪えていた涙が、次から次へと溢れてきた。 「ロミオ……ロミオ」 掠れた小さな声で、心からの叫びを漏らす。 「あなただけを……愛しているのに───」 「ジュリエット」 どこからか、呼ぶ声が聞こえた。 今、誰よりも求めているその声が。 「!」 空耳かと疑念が働く前に、体が動いていた。 ヴェールをその場に投げ出し、洞穴の外へと駆け出す。 緩やかな風に混じる、微かな血の匂い。目の前に茂る草むらの中に、何かの気配がある。その草がかさりと揺れた。 そして、現れたのは─── 「ロミオ……!」 全身傷だらけのヘルガーが、そこに居た。 「ジュリエット……」 ボロボロの顔が、微かに笑みを浮かべてこちらを見ている。 ジュリエットはもう何も考えられなくなって、無心でロミオに駆け寄り抱きついた。 「ロミオ……ロミオ!」 ただひたすら愛しい者の名を呼び、抱きしめる。 ロミオはそんなジュリエットを優しく抱き返した。 「迎えに来たよ。ジュリエット」 耳元で囁いたその言葉に、ジュリエットはハッと顔を上げた。 「え……」 「……なんて、格好つけてるけど。ごめん、約束のとおり強くなって来たんじゃなくて……逃げてきたんだ」 ジュリエットの脳裏に昼間のあの惨状が蘇る。仲間からの総攻撃を喰らってどこかへ連れて行かれたロミオ。おそらく裏切り者として一生幽閉されるところだった筈だ。 「今日は会いに行けなくてごめん。心配させちゃったね」 「良いの! 良いのよ。今こうして来てくれただけで……」 絶望のどん底に居たジュリエットにとって、こうして目の前に在る彼の存在がどれほどの救いであることか。 「一緒に、逃げてくれるかい? ジュリエット」 「勿論よ。あなたとならどこへだって行ける……」 ジュリエットの言葉には僅かな迷いも無かった。 夜が明ける前に、明日が来る前に、一刻も早く此処から逃げ出したい。彼と旅立ちたい。そんな思いが彼女を急き立てる。 必死に縋るように見つめてくるジュリエットの瞳に揺るぎない決意を認めて、ロミオは頷いた。 「行こう」 「ええ」 ---- 夜通し走り続けて、空に暁の色が差し始める頃、ようやくふたりは西の山脈の麓に辿り着いた。 万年雪が山頂を覆うと言われるその険しい山脈は、まるで壁のように長大にそそり立ち、人間の世界でも国境としてあらゆるものの行き来を阻んでいる。 これを超えれば新たな別世界。厳しい山越えになると判ってはいるが、この山のこちら側で安穏としていられるほど、ふたりを取り巻く状況は易しくはなかった。 山の二合目ほどまで登った頃に、完全に夜が明けた。眩しい日差しが燦々と降り注ぐ中、ロミオとジュリエットは並んで斜面の岩場に立っていた。 彼らの住む大地のどこからでも仰ぐことができたこの山脈は、登ってみれば逆に大地のどこまでをも見渡すことができた。 彼方に広がるのは起伏のある森林。あのあたりが故郷だろうかと、早くも遠く過ぎ去った過去の思い出のようにその光景を目に焼き付ける。 やがて、ロミオとジュリエットは無言で視線を合わせ、その美しい景色に背を向けた。これから行く未来のために、過去と決別する覚悟を秘めて。 そうして歩き出したふたりの上をふと何かが通り過ぎた。 「……!」 見上げたジュリエットの顔にさっと緊張が走る。 「ヤミカラス……まずいわ。追っ手が来る!」 「えっ」 「うちの群に居着いてる仲間なの。私を捜しに来たんだわ」 「そんな……急がなきゃ」 居場所が明かされてしまっては、追っ手が迫るのも時間の問題だ。グラエナの群れが駆けつけるまでに、この山の高い所、到底手の届かない所にまで登ってしまわないともう後がない。 必死で山道を駆け上がり始めるふたりを悠然と見下ろしてから、ヤミカラスはすいっと向きを変え、下界へと飛び去って行った。 息を切らして険しい道を進む途中、浅い谷の岩陰に湧水を見つけた。 「ジュリエット、水場だ。少し休憩しよう」 「そうね……」 普段から走り慣れているふたりではあるが、流石に夜中から走り詰めの上、慣れない山道でもあり、脚には相当の負担がかかっていた。 冷たい水を勢い良く飲み、そのまま座り込んでしまったジュリエットに、ロミオは水場付近に自生する木の実をいくつか落として持ってきた。 「ここからが正念場だからね。頑張ろう」 自身も昨日のダメージ以降かなりの消耗をしているだろうに、そうやって気遣い勇気づけてくれる───ロミオのそんな底力のような強さに、ジュリエットは心から喜びを感じた。 ───ああ……やはり私にはこのひとでないと駄目なんだわ たとえどんなに優れた雄が目の前に現れても。ジュリエットの心はロミオから動くことはなかった。彼に心が惹かれて止まない。こうしてふたりで往く旅路、たとえそれが破滅と隣り合わせの逃避行だったとしても、彼と自分とが共に在る、伴侶なのだと思うだけで、幸せで胸が一杯になるのだった。 自由の身としてふたりで一緒に食べるこの木の実は、これまで口にした何よりも美味に思えた。 「おやおや……仲がよろしいようで」 唐突にかけられた声に、ふたりがさっと立ち上がる。 緊張に張り詰める空気。一瞬前までの穏やかな表情は、もう其処にはない。 谷筋を走る清流の岩場を悠然と登って来る大きな影。不敵な笑みを浮かべたその瞳は、狩る者特有の鋭さで、ひたとこちらを見据えている。 「オーダイル……」 ふたりは身を低くして身構えた。倍ほどもある力強そうな巨体、そしてロミオにとっては元から素質的に不利に働く相手だ。ふたりは動くに動けなかった。どう見ても友好的とはかけ離れた残忍げな雰囲気を醸している相手だが、さりとてこちらから攻めて勝ち抜けるだけの算段も無い。 「ひとの縄張りで堂々と食いモン盗むたぁ、良い度胸だぜ!」 叫ぶなり強烈な濁流がふたりを吹き飛ばす。 唐突な攻撃に受け身をとる余裕もなく、思わずくずおれたところに、見た目の巨躯からは信じられないような速さでオーダイルが迫り、手近なロミオに大顎で噛み付く。 「うああぁぁッ!」 「ロミオ!」 咄嗟にジュリエットがオーダイルの腕に噛み付いたが、大きな尻尾がまるで巨大なハンマーのような勢いで後ろから彼女を打ち付けた。 ジュリエットが声もなく弾き飛ばされる。 「ジュリエット! ジュリエット!」 どうやら頭を強く打って昏倒してしまったらしい。力無く転がったまま動かないジュリエットに、ロミオは必死で叫ぶ。 「おいおい、彼女を心配してる余裕なんて無ぇんじゃねえの?」 嘲笑いながら、顎に力を加える。 「ぐ……ぁ」 「このまま噛み千切ってやっても良いし、水攻めにしてやっても良いんだがなぁ、どっちか選べよ」 「く……」 オーダイルの鋭い歯列がロミオの腹に食い込み、ぱたぱたと血を滴らせる。 身が引き裂かれそうなその苦痛にもがきながらも、ロミオは最後の力を振り絞って精神を集中させた。 「何とか言っ……」 オーダイルの言葉が、そこで途切れた。 顔を上げたロミオが、振り向きざま火炎を放ち、至近距離でオーダイルの顔を直撃する。 「てめェ……!」 それほど大きな痛手にはならなかったようだが、咄嗟に開いた顎からロミオが解放された。そしてオーダイルが体勢を立て直す隙に、すかさずロミオは全身のバネを使って体当たりにも似た攻撃を加える。 「くそ……ふざけた真似しやがって……」 完全に怒りに火が点いたオーダイルが、ロミオに止めの大技をかけるべく身構える。 と、その時。 後方から飛び掛かって来た小柄な影が、オーダイルの首元を鋭い牙で捉えた。 「うッ!?」 太い首根に大きく食らいついたグラエナ。 「ジュリエット!」 ジュリエットの牙は、オーダイルの皮膚を切り裂く一歩手前で、正確に急所を狙っている。絶妙な力加減で静止した刃に、オーダイルは彼女の噛み砕く能力の高さを本能的に察した。 「ちょっとでも不審な動きをしたら殺すわ」 直接的な言葉に、オーダイルの身が僅かに竦む。 正面では、ロミオが隙無くオーダイルを見据えている。ふたりとも、いつでも襲いかかれる体勢だ。 しばらく張り詰めた時が流れて、ようやくオーダイルが観念した。 「判った、判ったよ。俺の負けだ」 投げやりのように言い放ったオーダイルに、しかしジュリエットは牙の力を緩める事は無かった。 「山越えの確実な方法を教えなさい」 脅迫するように要求する。 ロミオは眼を見開いて、ジュリエットを見遣った。 「訳あって私たちはこの山を越えなきゃならないの。そうしないと生きて行けないから。此処に棲むあなたなら知ってるでしょう? 山越えの道を」 「……っ」 オーダイルが悔しそうに唸る。ここで逆らえば、一瞬後には彼女の牙が喉を食いちぎることだろう。しかしこんな脅迫に屈するのもまた、彼にとっては誇りを傷つけられる苦痛に他ならない。 「さぁ……」 「待って、ジュリエット。何か気配が」 言い募ろうとするジュリエットの言葉を遮って、ロミオが聞き耳を立てる。 嫌な予感がして、ジュリエットも同じように、牙はオーダイルの喉に立てたまま耳を澄ませた。 唸りのように低く吼える声。多くの脚が地を蹴る音。 まっすぐに、こちらへ向かってくる─── 「追っ手だ!」 「くっ」 ロミオの叫びに、ジュリエットは牙の力を強めた。 「おい、ちょっ……」 「私たちが隠れられる所を教えなさい! 今すぐに!」 「えぇっ」 「追っ手が来たのよ! 早く!」 訳も判らないまま急き立てられる。 オーダイルは彼女の勢いに飲まれるまま、おずおずと湧水の裏手にある大岩を指さした。 「あ、あの岩に沿って行けば洞窟がある。下草をよく見ないと見落としちまうがな。そこなら確実だ」 そう言い終わるのを待たずに、ジュリエットはオーダイルから飛び降りた。 ロミオもまた、息を合わせたように、彼女と一緒に駆け出す。 「ありがとう!」 オーダイルが示した方へ駆け去りながら、ロミオが礼を言う。 一瞬何を言われたのか判らず呆然としていたオーダイルであったが、しばらくして呆れたように苦笑した。 「ついでだから教えてやる。その洞窟は山脈の向こう側へ繋がってる。運が良ければ抜けられる筈だ」 オーダイルの餞別の言葉を、ふたりは洞窟の入り口辺りで聞いていた。 「……ありがとう」 もう一度ロミオはオーダイルに礼を言い、ジュリエットを伴って暗く狭い洞穴へと進んで行った。 「グッドラック。頑張れよ」 洞窟に背を向けて、オーダイルは呟く。その表情はどこか清々しく、そして満足げに笑っていた。 そして、山道の下手側へのしのしと歩いていく。 「さぁて、もうひと暴れしてやるかな」 鋭く光るその眼には、遠くから迫り来るグラエナの群れが映っていた。 ---- *3.喪失 [#ta5becce] 前方に微かな明かりが見える。 ロミオとジュリエットは顔を見合わせ、そちらへ慎重に進んで行った。 「……外だ」 「ええ」 判りきったことを互いに呟くのは、この時、この感嘆を共有したいがためだ。 長い長い洞窟を抜け、ふたりはとうとう山脈の西側斜面に出たのだった。 ちょうど日暮れ時だったらしい、斜面から見下ろす広大な大地は夕陽に美しく染め上げられていて、朱く豊かに色づいている。 群の掟、しがらみから解き放たれた新天地。希望に満ち溢れたその光景に、ふたりの心に深い喜びが込み上げる。 「来たんだ。新しい世界に」 「ロミオ……」 ジュリエットがロミオにそっと寄り添う。ロミオはそんなジュリエットの頬に小さく口付けて、優しく抱きしめた。 深い草むらの中に手頃な隠れ場所を見つけて、とりあえずは腰を落ち着けた。 オーダイルの一件の反省もあり、周囲に他のポケモンの気配が無いか慎重に下調べをしたのは勿論だ。 一通り木の実を食べ終えて、ふたり並んで空を見上げる。 背の高い草の穂がゆらゆら揺れて星が見え隠れする夜空。 「綺麗だね……」 「ええ」 どこに居ても星の輝きは変わらない。けれど夜空がこんなに美しいものだとは、ふたりとも知らなかった。 思えば、昼間に忍んで逢うことしか無かった彼らは、こうして一緒に星を見るのも初めてのことだった。 共に過ごす初めての夜───そう考え至った途端、ロミオの胸にふと熱い火種が灯った。 夜闇の中、誰に邪魔されることもなく、何を案ずることもなく、ずっと……。 どきどきと脈が速まるのを感じながら、ロミオは傍らのジュリエットにそっとにじり寄ってみた。 緩やかに上下する、暖かくしなやかな背の稜線。星明かりの下で見る彼女の毛並みは、独特の黄金色がまるで淡い光を放っているかのように美しく輝いていた。首筋に顔を寄せると、繊細で柔らかな長い毛が、心地よくロミオの鼻先をくすぐる。 「ジュリエット……」 囁く自分の声がひどく上擦っているのに気付いて、後ろめたいような気恥ずかしさを感じる。そしてそんな自分の声にさえも体の熱がそそられる。 「ね……良い?」 耳元に囁きかける。僅かに荒い吐息と共に。 しかしジュリエットの反応は無かった。穏やかで規則的な息遣い。 顔を覗き込んで見てみると、ジュリエットは静かに眼を閉じていた。その表情は、普段のどこか張り詰めたような鋭さをすべて脱ぎ捨てていて、安心しきったように綻んでいる。 「……」 しばらく呆然とそんな寝顔を見つめていたロミオだったが、くす、と苦笑して、眠る恋人の頬に軽く口付けた。 「疲れてたんだね」 よく考えれば当然の事だ。ほぼ不眠不休で走り続けてきたのだから。その上、追われる焦燥や恐怖、命懸けの闘い───心身共に疲れていない筈はない。 ロミオの場合はその極度の緊張が却って精神の興奮状態に繋がっていたようだが、体自体は確かに疲労困憊だった。仮にジュリエットが起きてその気になってくれたとして、ロミオ自身が保ったかどうか甚だ怪しいところだったろう。 「今日は休もう」 ふたりの時間はこれからいくらでもある。焦る必要も、急き立てられるように互いを貪る必要も、もう無いのだ。 そんな安堵感に身を委ねて、ロミオもまた眼を閉じた。 寄り添い眠る温もりに、至上の幸福を感じながら─── ---- ざわりと森が騒ぐのに気付いて、ジュリエットはハッと顔を上げた。 身に染みついてしまった緊迫感のせいか、物音には常に敏感だった。 耳を立てて周囲の気配を伺う。どこかそう遠くないところで、何者かが駆け回っている。しかも多数だ。 「ロミオ」 「ああ」 ロミオもまた同じように首を上げ、すぐにでも立ち上がれるよう身構えていた。 「きゃああぁぁ───ッ! 誰か……!」 甲高い悲鳴が届いて、ふたりはすぐさま腰を上げた。 「谷の方だわ!」 「行こう!」 草むらを飛び出し、声の方向へと駆ける。慣れない斜面に脚を取られそうになりながらも、ふたりの脚は確実な速さでその目標へと近付いて行く。 「嫌……ッ、助けて! お願……」 泣きそうな声で懇願するのは少女のような高い声。途中で無理矢理声を抑え込まれたらしく、その語尾は聞き取れなかった。 「観念しなよ。こんな所に独りでやって来た悪い子ちゃん」 下卑たいくつもの笑い声が、飢えた雄の欲望を誇示するかのように辺りに響く。 「や……んんッ……」 「へへ、可愛いねぇ。安心しな、誰も助けにゃ来ねぇから」 「それはどうかな」 凛と通った声に、その場に居た何匹かの雄達が弾かれたように振り向く。 木陰から出てきたヘルガーとグラエナ。その突然の乱入者に、雄達の動揺が一瞬の波を生む。 雄達は総勢七匹。それに囲まれた中心に、一匹のキルリアが身を縮ませていた。 「その子を離せ。さもなくば攻撃する」 ロミオとジュリエットは臨戦態勢でそう告げた。 一方の雄達も、相手がたった二匹だと理解して、見下すように応戦の構えをとる。 「てめぇら、お楽しみの邪魔したツケは高くつくぜ?」 苛立ち混じりの挑発を吐きながら、ストライクがすっと前に出る。 動きを合わせるように、ジュリエットが真っ直ぐに駆け出す。その次の瞬間、何か硬い物が爆ぜるような音がして、ジュリエットの体が大きく仰け反った。 「……ッ」 ストライクの先制を受けきったジュリエットは、着地するなりストライクに急接近して体当たりをかける。 と同時に、対峙する二匹の頭上をロミオが大きく飛び越えた。そしてそのままキルリアの周囲を固める雄達に詰め寄り、一気に火炎を浴びせる。 この一連の動きは、ここに来るまでの間にふたりで交わした流れだった。 「良い度胸じゃねぇか、小僧」 憎々しげに呟いて、ドクロックが毒の塊をロミオに浴びせる。 「痛い目見せてやる!」 叫びながら突きだしてくる拳を、ロミオは必死で避けた。ドクロックの攻撃はあまりにも一方的で、反撃の隙すら見いだせない。 一旦ロミオは大きく引いて、鋭く吼えた。 「チッ」 ドクロックが舌打ちして、場を仕切り直す。 他の雄達は興味津々でこの戦闘を見物している。 この瞬間、キルリアから雄達の注意が完全に逸れた。 「キルリア! こっちへ飛んで!」 ロミオが叫ぶ。 雄達がハッと振り向いた時には、そこにもうキルリアの姿は無かった。 空中にふわりと姿を現したキルリアに向かって、ロミオがジャンプする。 「背に掴まって! 走るよ!」 「は、はいっ」 「テメェ!」 雄達がロミオを追って駆け始める。 その動きを見て、ジュリエットも戦闘から脱するべく、ストライクの鎌に噛み付き攻撃を封じる。そのまま相手の体を地面に叩きつけようとした時、ジュリエットの全身に強烈な衝撃が走った。 「きゃあッ!」 「ジュリエット!?」 ジュリエットの背後には、巨大なリングマが眼を吊り上げて仁王立ちしていた。 「ジュリエット……!」 咄嗟に援護に戻ろうとしたロミオに、ジュリエットが叫ぶ。 「早く逃げて! その子を安全な所へ!」 「でもっ」 「行って! 私は大丈夫だから!」 叱りつけるような悲痛な声に、ロミオは躊躇しながらも駆け出す。 彼女の言うとおり、ここでふたりとも囚われては全てが無駄になるのだ。この幼いキルリアを救い出す、そのために闘っているのだから。 「すぐ戻る!」 言い置いて、ロミオは走った。 追いかけながらも後ろから攻撃してくる雄達を、キルリアの力を借りながら次々かわしていく。いくらもしないうちに、追っ手は一匹また一匹と少なくなり、何とか逃げ切ることが出来たようだった。 逆に悪いように考えれば、あの場に戻った雄達は、きっとそのままジュリエットに危害を加えることになる。 一刻も早く、このキルリアを安全な所へ届けて、ジュリエットを助けに戻りたい。ロミオは焦っていた。 「君、家はどこ?」 斜面を駆けながらロミオが問う。 「あ、あの大きな木の尾根の向こう側です……」 キルリアの指さす方向に、山の稜線を突き抜けるような巨木が、夜空に黒く浮き出ているのが見えた。まずはその目印目がけて疾駆する。 谷から一気に駆け上がった所で、突然視界が開けた。 目の前には柱のように真っ直ぐ天を突く巨木。そして眼下には黒々と広がる広大な樹林と、その所々に人間の住む場所を示す明かりの斑点が煌めいている。 その雄大で神秘的な光景に、ふとロミオの緊張が解けた。 ダーン、と雷鳴のような炸裂音が轟いたのは、その一瞬の出来事だった。 「ひっ!」 ロミオの全身にびくりと震えが走り、背でキルリアが小さく悲鳴を上げて身を竦ませる。 山の複雑な尾根に反響して、音がどこから来たのか判らなかったが、後方───今駆けてきた方向から聞こえたような気がして、ロミオは全身の神経を研ぎ澄ませてそちらを凝視した。 と、また立て続けに、数え切れない程の轟音が響き渡る。 「何……あの音」 怯え震える声でキルリアが呟く。 ロミオには聞き覚えがあった。あれは人間が銃という武器を使ったときの音だ。子供の頃にはよく聞いた。群の大人が言うには、あれは人間がポケモンを殺すときに使うものの筈だ。 そしてその音は、確かに先ほどの谷間から聞こえてきた。 「何が起こってるんだ……」 ───ジュリエット……! 今すぐにでも駆け戻りたい。不安と恐怖が突き上げてきて、もうじっとしていられない。 「君、ここに居て」 ロミオが背からキルリアを降ろそうと身を屈める。 その時、高く澄んだ音とともに、突然目の前に真昼のような強い光の塊が現れ、ロミオの目を眩ませた。 「なん……っ」 光は押し広げられるように大きくなり、やがて仄かに収束していく。そしてその光の痕跡の上に佇むのは、すらりとした一つの影。 「父様……!」 キルリアが叫ぶ。 眩んだ目を庇いつつロミオが顔を上げると、今まで何も無かった筈の目の前に、エルレイドが静かに立っていた。 「え……」 「父様! 父様!」 キルリアがロミオの背から飛び降りて、エルレイドに駆け寄る。エルレイドは膝を折ってキルリアを抱きしめた。 「無事で良かった……! 銃声が聞こえたからもしやと思ったが」 そうして再会を喜び合う父娘を、ロミオはただ呆然と見つめていた。 「貴方が助けてくれたのですか」 エルレイドがロミオに問う。ロミオはいまだ動揺しながらも頷いた。 「ありがとう……」 更に何か言い募ろうとするエルレイドを、ロミオは咄嗟に制止した。 「じゃあ、俺……戻りますから。あの銃声のした辺りに仲間が残ってるんです」 言うなり身を翻したロミオを、エルレイドが呼び止める。 「あの銃声、何があったかは判りませんが……これを持って行きなさい」 言いながら、首に下げていたペンダントを外してロミオの首に掛ける。 「これは……」 「我ら一族の者にのみ与えられる奇跡の石───強く念じれば必ず道が開ける、そんな力を持った石です。私も今、この石の力を頼りに此処へ飛んだのです」 ロミオにはまだよく判らなかったが、どうやら尊い石であるらしい。 「娘を救っていただいた御礼に」 そう告げたエルレイドの瞳に真摯な光を認めて、ロミオは頷いた。 「ありがとう。じゃあ、行きます」 「気を付けて」 エルレイドの言葉を背に聞きながら、ロミオは駆け出した。 光の届かない谷間の闇の中、ロミオは元来た道を辿る。 攻撃をかわしながら右へ左へとがむしゃらに走ってきたので、どこをどう通ったのかよく覚えていない。地の利の無い中、それでも微かな記憶と匂いを頼りに、あの谷間へと進んで行く。 ───ジュリエット…… 目的地に近付くに連れ、徐々に強くなっていく血臭に、ロミオの胸騒ぎが高まる。 大声で彼女の名を呼び立てたい衝動を堪えて、ロミオは慎重に足を運んだ。もし銃を持った人間が居たら、間違いなく撃ち殺されるだろう。ヘルガーという種族が人間達からどのように見られているかも、ロミオは知っていた。 「うう……」 微かな呻き声が聞こえ、ロミオはそちらへ駆けつけた。 血塗れのストライクが息も絶え絶えに倒れている。 「おい! 何があった!」 ストライクの体を揺すって声を上げる。しかしストライクはしばらく呻き声を上げた後、そのまま動かなくなった。 緑色のその体を染める赤は、胸の二カ所から吹き出していた。独特の小さな穴。背まで貫通しているそれは、間違いなく銃痕だった。 「やっぱり……」 先ほどの騒ぎの中心だった場所へ急ぐ。 ───ジュリエット……無事でいてくれ! その場所はまさに虐殺の地獄だった。 息が詰まりそうな血の匂い。体中に銃弾を受け、元が何かも判らない状態で倒れ伏している者。眼を見開いたまま時を止めた死体。男根を勃起させたまま息絶えている者もあった。 「ジュリエット……!」 震える声で呼んだ。 確かに此処に居る筈なのに、居た筈なのに、彼女の姿だけが見えない。 「ジュリエット! 何処だ! 返事をしてくれ!」 赤く染まった草を踏み分け、ジュリエットを捜す。 彼女の残り香は確かにある。そしておぞましい事だが濃い性交の匂いも。彼女は多分集団でレイプされていた。此処で───その当事者たる雄達は皆死んでいる。それなのに何故彼女だけが…… 「……人間だ……」 掠れた声が呟いた。 「!」 ロミオが振り向くと、大木に背を預け、両脚を投げ出した格好で、リングマが座っていた。やはり腹から大量の血を流している。 「おい、どういう事だ!」 リングマに詰め寄る。そんな切羽詰まったロミオの様子を鬱陶しげに見遣って、リングマは言葉少なに告げた。 「グラエナの女は、人間達が連れて行きやがった……えらく喜んでたぜ、色違いの美形、高く売れるってな」 「な……っ」 ロミオは身を翻して周囲の気配を探った。 獣の匂いに混じる火薬の異臭と人間の匂い。その匂いを追おうとしたが、何故かその匂いは途中で忽然と消えていた。 「一体どこへ……」 「車に乗ってったからな。追っても間に合わないぜ?」 嘲るようにリングマが笑う。しかしその笑いも次第に弱くなっていく。 「おい! 人間達の住処ってどこだ!」 今にも意識を失いそうなリングマを揺さぶりながら必死で問う。リングマはロミオをちらりと見上げて、口元を歪ませた。 「大方あの城壁都市あたり……あそこに連れ込まれたんじゃ……手も足も出せねぇ、が……」 「城壁都市!? どこだそれは!」 なおも詰め寄ろうとするロミオに、リングマは掠れた溜息を漏らす。 「自分で調べな……俺ァもう……疲れたぜ」 そう言ったきり長い息をつき、静かに眼を閉じる。 そしてもう、何を話しかけてもリングマは応えなかった。 「城壁都市……」 呟いてロミオは走り出す。 キルリアとともに巨木の立つ尾根から見下ろした、この広大な大地の光景。その中に見たいくつかの街明かりの位置を思い出しながら、斜面を駆け下りる。 リングマは、その城壁都市へ連れ込まれては手も足も出せないと言っていた。それが何を意味するのかは判らない。行って確かめるしかない。 夜が明けて、山を降りきったロミオは、途中で出会った何匹かのポケモンに手掛かりを尋ねながら、街への道を進んだ。 途中から道路が舗装され、確かに人間の住む場所へと近付いていくのが判る。平坦で走りやすそうな舗装道路を一気に駆け抜けてしまいたかったが、あまりに目立ちすぎて危険だと他のポケモンに忠告され、ロミオは道路と平行した樹林の中に身を隠しながら先へと急いだ。 そうするうちに、次第に沿道に民家が見え始める。森の領域は急速に狭まり、樹林が途切れがちになってくる。 この昼日中では、人目につかないよう進むのが困難だと判断し、ロミオは夜を待つことにした。 人が近付けないよう、茨の棘が多い藪を選んで身を潜める。少しでも体を休めようと眼を閉じるが、胸に不安や緊張が渦巻いて、結局眠ることは出来なかった。 夜半から、雨が降り始めた。 ヘルガーであるロミオにとっては不快でしかないものではあるが、今夜ばかりは、水煙のようにこの身を人目から隠してくれる雨に感謝した。 この雨では出歩く人間もほとんど居ないらしいと判断して、ロミオは思いきって道路に出た。街への道をひた走る。その足音も雨音に掻き消された。 やがて、前方に大きな影が見え始めた。 横一文字に夜空を切り取る黒い影。あまりにも大きくて、それが何なのか遠目には判らなかった。 物陰に隠れながら近付いてみる。 「なん……」 ロミオは言葉を失った。 山のように高く、しかも垂直な壁。それが街一つを丸ごと囲っている。 目の前には重厚な装飾を施された大門があるが、その周囲を銃を持った人間達が監視している。それ以外には何の開口部も無く、ただ無機質で無骨な直壁が延々と連なるのみ。 外部からの侵入を固く拒む巨壁───これが、城壁都市の姿だった。 ---- *4.奪還 [#o854cc34] ロミオは壁の周りを慎重に調べてみた。どこかに侵入口は無いか───排水路でも通気口でも何でも良い。とにかくこの壁の向こうへ抜けなければどうすることも出来ない。 正面の大門からおよそ半周程回った頃だろうか、壁際に何かたくさんの機械が置いてある一角を見つけた。 その機械類の一つから、壁に沿って垂直に何本かのロープが上へ渡っていて、壁の上端にある大きな箱に繋がっている。 あのロープは、壁を上下に行き来するためのものらしいと考え、ロミオは静かに近付いて行った。 機械の周囲には簡易な柵があり、立ち入りが制限されているが、そこに置かれた質素な小屋の中には人の気配があった。柵を軽く飛び越え、窓から伺うと、人間一人が机に伏して眠っている。どうやらこの機械の見張り役のようだ。 機械をじっくり観察してみる。ロープに繋がった籠、何か文字が書かれた小さな出っ張りが複数。見た目は意外に単純な造りをしている。 ロミオは籠に乗り、その出っ張りを手当たり次第押してみた。幾つか押すうちに、近くの箱から低い起動音が響きはじめ、機械のあちこちに小さな灯りが点いた。 「動いた……!」 なおも押していくと、籠がガクンと揺れ、ゆっくり上昇し始める。ロミオは驚いて身を伏せた。ぎしぎしと軋む音に人間が気付かないよう祈りながら、壁を昇っていく。 不安定に揺れる籠の中、真下を見ると、あまりの高さに恐怖で脚が竦んだ。 「うわぁ! 何だ!? 何で動いてる!」 下方で人間の叫ぶ声がする。気付かれてしまったらしい。 籠はもうすぐ壁の天端に至る。もう少し、もう少し───と必死に願う。 しかし、壁の天端まであと一歩の所で、籠はガクンと揺れて停止した。そして今度は下降を始める。このまま人間の待ちかまえる地上へ降りる訳にはいかない。 ロミオは離れつつある天端に向かって、思い切りジャンプした。 前脚が辛うじて壁の角にかかる。雨に濡れて滑る石、そして高所の恐怖に煽られるように必死に全身でもがき、辛うじて体を壁の上へ持ち上げた。 「……」 そのままその場にへたり込む。四肢ががくがくと震え、心臓が早鐘のように激しく打っていた。 しばらくそうして荒い息を整えた後、落ち着いて周囲を見回してみると、壁の上部は人間が数人横に並んで歩けるほどの幅を持つ通路になっていて、壁そのものがかなりの厚みのある構造物らしいと判った。 そしてその通路はよく手入れされているのか、石組みは整然と隙無く揃い、周囲に雑草一つ生えていない。 ここまで丁寧に人の手が入っている所なら、ひょっとしたら壁の上下を行き来できるような階段もあるかも知れない、そう考え、ロミオは通路を慎重に辿った。 しかし期待に反して、壁の上部はただひたすら単調な通路で、よく眼を凝らして見ても隠し扉らしき物すら見あたらない。 半周回って、正面の大門の上部あたりに近付く。 今度はどうやって街側へ降りるか───そう思案していると、前方に何か大きな塊が通路を塞いでいるのが見えた。 大きな毛の塊。こちらに尻を向けているが、巨大な獣のようだった。 「何だ……?」 これほどまでに大きな獣ポケモンは見たことがない。もし獰猛な肉食獣だったら、簡単に一飲みにされてしまいそうだ。 恐る恐る近付いてみると、その獣のいびきが聞こえた。どうやら居眠りをしているらしい。 通路をほぼ塞いでしまっているその獣の脇、僅かに残された隙間に身を捩り込んで、ロミオは慎重に進んで行く。得体の知れない者への恐怖より、この先へ進まなければならないという使命感の方が強かった。 もふもふと厚い毛に脚をとられてうまく歩けない。気付けば獣の毛皮を思い切り踏んでいた。獣が何か寝言を言いながら寝返りをうつ。 「まずい……」 起こしてしまったかと冷や汗が出るが、獣はまだ夢うつつなのか気持ち良さそうな顔をして微睡んでいる。 その顔をよく見ると、どこかで目にしたような記憶があった。 「……ウインディ?」 それにしては大きすぎる。しかし大きさ以外はやはりウインディに見えた。 「んー……」 獣がごろりと転がると同時に、ロミオの体を前足で捉えた。 「えっ」 そのまま抱きかかえられるように、大きな体の下に敷き込まれる。 「お、重いっ」 必死に藻掻くが、獣の大きな体が被さって来て動くに動けない。 その時、ロミオの耳が何かの音を捉えた。 コツコツと床を歩く靴音。人間が近付いて来ている。 ロミオは動きを止めて獣の毛の下で息を潜めた。 「ウインディ、此処に誰か来なかったか?」 近くで男の声がした。やはりこの獣はウインディだったのかと場違いな驚きを感じつつ、ロミオは何とかしてこの危機を脱しなければと焦る。 ウインディが、ガウ、と小さく声を返す。腹の下にロミオを敷いたまま。 「さっき外壁工事の所でトラブルがあったらしいんだ。ひょっとしたら侵入者かも知れないって。まあ『城壁の守り神』のお前なら大丈夫だろうけど、一応気をつけておいてくれ」 男はそう言ってウインディの大きな頭を撫でる。そしてポケットからポケモン用の菓子を取り出してウインディの前足の上に置いた。 「また来るわ。じゃあな」 そしてまたコツコツと足音を立てて人間が遠ざかっていく。ロミオはほぅと安堵のため息をついた。 「……で、お前さんがその『侵入者』って訳か」 覆い被さっていた体がずれて、低い声が呟く。 ロミオは息を詰めて沈黙した。 「事情を話せ。場合によっちゃ、悪いようにはしない」 「……え?」 思いがけない言葉に、ロミオが戸惑う。そろそろとウインディの身の下から抜け出して、巨大な顔の前に進み出た。間近で見るウインディの顔は、思慮深く穏やかで、こちらの事を全て見通しているかのような不思議な貫禄があった。 「こんな人間だらけの所に野生のポケモンが来るなんて、よっぽどの事情があるってこった。これまでに何匹か通してやった事があるが、そいつらも相当な覚悟でやって来たもんだよ」 溜息混じりで呟く言葉はまるで独り言のように聞こえた。 ロミオは藁にもすがる思いでウインディに訴えた。 「恋人がさらわれたんだ。多分此処に連れ込まれただろうって……高く売れるとか何とか、人間が言ってたらしい。だから俺、彼女を助けたくて……」 「ふむ、やはりな。昨日の夜中にそれらしき車が入ってきた。よくある事だが……腹立たしいものだな」 そう言いながらウインディはゆらりと立ち上がった。見上げるほどの巨躯。そして街の方へ向かって一声吼えた。 「道案内を呼んだ。見た目は怪しい奴だが信頼して良い」 「見た目怪しいって、旦那酷いなぁ」 前方から誰か近付いてくる。手に何かをぶら下げている黄色い体の持ち主、その種族にロミオは今まで出会ったことは無かった。 「おう、早いなスリーパー」 「面白そうな騒ぎだったんで、見物に来ようとしてたところさ。あんたか、エレベーターに乗って昇って来たって奴ぁ」 苦笑しながら近付いてくる。 「おい、今眠らせるなよ」 「おっと」 ウインディの言葉に、スリーパーは手に持っていた振り子を後ろに隠す。何となく眠気に襲われようとしていたロミオは、そこでハッと眼を見開いた。 「街の中の事なら大概こいつに聞けば判る。夜が明ける前に早く行くがいい」 「そう言うこった。事情は後でゆっくり聞こう。来な」 そう言ってスリーパーは元来た方向へ戻っていく。ロミオがついて行こうとすると、背後からウインディが呼び止めた。 「持ってけ」 投げて寄越したのは、さっきの人間が置いていった菓子だ。ロミオは器用に口でそれを受け止め、そのまま咀嚼し飲み込んだ。 「ありがとう」 食べ終わってから礼を言う、そんなロミオにウインディは苦笑し、ゆらゆらと前脚を振って送り出した。 ---- 「そうか……。またしても人間のどうしようもない愚かな性分、ってやつか」 廃屋の隠れ家に潜み、ロミオの話を聞きながら、スリーパーが重い声で呟く。 「え?」 知ったような顔のスリーパーに、ロミオは首を傾げた。 「どうしてこうポケモンとやりたがる輩が多いのか……」 「ちょ……待って、どういう事だ?」 「どういうって……そのまんまの意味さ。人間の性欲の捌け口にポケモンを使う、使わせる、そういう商売が成り立ってる現実がね」 「何だって!? 獣だぞ?」 スリーパーの余りの台詞にロミオは思わず大声で反論する。しかしすぐさま「シッ」とたしなめられ、ぐっと声を飲み込んだ。 「あんた何にも知らないんだな。可哀想だが彼女さんはそういう目的で連れて来られたんだよ。今頃───」 そこでスリーパーは言葉を止めた。続く言葉を選んでいるのか、言いにくそうに口の中で何かモゴモゴ言っている。 「今頃……人間の相手を?」 ロミオが極力冷静を保ってそう言った。 本当は大声で叫んで暴れ出したいぐらい悔しい。腸わたが煮えくりかえる心地というのはこういう事かとさえ思う。それでも、ここで逆上しては元も子もないと、ロミオは必死で自分に言い聞かせていた。暴走しそうになる心を、ギリギリのところで耐えていた。 「ああ……まあ、そうだ」 視線を泳がせながらスリーパーは頷いた。しかしどうも態度がはっきりしない。 「まだ、何かあるのか……?」 不安げに問うロミオに、スリーパーは躊躇いがちに首を振った。 しばらく、重い沈黙が降りる。ロミオはスリーパーがまだ何か言い残していると察して、黙ってじっと彼を見つめた。 とうとうその沈黙に耐えられなくなったのか、スリーパーは苦しげに掠れた声で告げた。 「命を取られる事はあるまいよ……でもな、きっと彼女は大事なものを無くしてる。あんたも覚悟した方がいい」 「大事な……?」 ロミオの胸に不安が募る。命ではない大事な何か、そして『覚悟』───それを知るのが、なぜか恐ろしかった。 スリーパーもまた、どのようにそれを伝えれば良いのか考えあぐねていた。一歩間違えれば、彼の心も、そして彼女の心までも壊れる。 「もし……もしもだ。彼女が歩くことも、卵を産むことも出来ない体になってたら……あんたどうするね?」 スリーパーが口にした言葉自体は仮定形。しかしその語る内容は、あまりにも惨い現実を突きつけていた。 「……なに……」 ロミオの思考が一瞬止まる。その意味するところを理解するのに、かなりの時間を要した。 「人間の考えそうなこった。脚の腱を切って逃げられないようにして……そして万一にも妊娠したら客を取れなくなるからって、捕らえられた雌はその日のうちに───」 「待て……待ってくれ、そんな……」 震える声でロミオは呟く。到底受け入れがたいその言葉が頭の中に渦巻いて、思考が混乱する。 ───捕らえられた雌はその日のうちに 「まさかそんなこと……」 ロミオは頭を抱えて踞った。これ以上の惨い言葉を聞きたくはなかった。 「辛いだろうが……彼女を本当に救うことが出来るかは、あんたにかかってる。それでも彼女と生きていけると、強い心を持っていられるかどうか」 「……」 ロミオは答えない。スリーパーは溜息をついた。 「随分前、あんたと同じように、嫁さんを連れ戻しに来た雄が居たが……そいつはこの事を知らなかった。命がけで嫁さんを救い出したまでは良かったが、目の前に現実を突きつけられたそいつは……そうだな、今のあんたみたいにショック受けて混乱して。───翌日、嫁さんは舌噛み切って死んでたよ」 スリーパーは痛みを耐えるかのような表情でそう呟き、ロミオの背をそっと宥めた。 「一番傷ついてるのは、彼女だ。あんただけが支えなんだ。……言ってる意味、判るな」 ロミオは背を震わせていた。スリーパーの言葉が重すぎて。 「どう……すればいい」 ゆっくりと顔を上げる。動揺のためか、視線が定まらないロミオの様子を見て、スリーパーはもう一度ロミオの背を撫でた。 「落ち着け。今拙速に動いちゃ駄目だ。とりあえずは俺に任せろ」 「でも早く助けないと!」 今にも隠れ家から飛び出しそうな勢いで立ち上がったロミオをスリーパーは抑える。 「何処に居るかも判らんモンをどうやって助けるってんだ」 「片っ端から……」 ロミオの言葉は、そこで唐突に途切れた。 ふっと何かが抜けるように表情から色が消え、ゆっくりと目を閉じる。体を支えられなくなった四肢はそのままくずおれた。 「俺なんかの術で簡単に倒れちまうぐらいボロボロな癖に……。今あんたに必要なのは休息だろうが。動くのは最大の力つけてからだ。人間を甘く見るなよ」 そう言いながら、スリーパーは手に揺らしていた振り子を止める。 「さて……情報収集からだな」 溜息混じりで呟いて、スリーパーは夜明け前の街へと出て行った。 ---- ジュリエットの声が聞こえる。 これは確か……去年の春先の頃。 「姉さんの所に卵が生まれたの。みんなで交代でお世話してるのよ。すっごく楽しみだわ」 興奮気味で告げるジュリエットは、目を輝かせて嬉しそうに笑っていた。 「きっと可愛いポチエナが生まれるんだろうね」 幼い頃のジュリエットを思い出しながらロミオが言うと、ジュリエットはくすくすと笑いながらロミオに擦り寄った。 「ポチエナも可愛いけど……私はやっぱりデルビルが可愛いと思うなぁ」 「……え?」 「そりゃ私の仔だったらポチエナってことになるけど、もし叶うなら……デルビルの仔を産めたらいいなって」 恥ずかしそうに笑う彼女の顔があまりに幸せそうで、ロミオはただただその笑顔に見とれていた。 ───ああ……いつか、いつの日か。 君と家族を作れたら…… それは、まだ未来を信じていられた頃の、幸せな……幸せな夢─── 目を開けると、見慣れない薄暗い壁が視界に映った。 「ああ……ここは」 ロミオは目尻から零れた涙を前脚でこすって、顔を上げた。 板で塞いだ窓の隙間から光が差している。ロミオは板を少しずらして外を眺めてみた。 「地面……?」 窓には煤けたガラスがはめられていたが、そのちょうど下半分は土に埋まっていて、上半分には薄汚いゴミの山だけが見えた。来た時には夜中でよく判らなかったが、どうやらどこかの袋小路の奥のようだ。 ゴミを漁りに来るのか、時折小さなポケモンが目の前を通り過ぎる。 窓の内から眺めるロミオには気付いていないらしい。仲良く遊んだり、喧嘩をしたり、体一杯で走り回っている。 何に脅かされることもない、当たり前の平和な暮らし。 自分と───ジュリエットが、求めて望んで焦がれて、そして得られなかったもの。 「……いや、まだだ」 まだ、終わっていない。 このまま終わらせはしない。 「俺たちの未来は、俺達が決めるんだ」 ───彼女と一緒に…… 「何だ、もう起き出してやがったか」 スリーパーが両手に食べ物を抱えて隠れ家に帰ってきた。 まだ日は高い。スリーパーとしては、日が暮れる頃までロミオは眠っているだろうと踏んでいたのだが、思いのほか催眠の効果が薄かったようだ。 「早起きなんだな……ちゃんと休めたかい? まぁとりあえず腹ごしらえだ」 言いながら、木の実や肉などをロミオの目の前に広げる。 「ありがとう。随分疲れは取れたみたいだ」 「ふむ、良い事だ」 ロミオの目に意思の光が宿っている事に気付いて、スリーパーは頷いた。昨夜の様子から、果たしてこのままで大丈夫だろうかと心配もしていたが、この分なら自分が彼に語るべき事はもう何も無い。 後は、己の力を信じて進めばいい。そのための情報は得てきた。 「彼女の居場所はほぼ絞り込めたぞ」 「本当か!」 食いつくように身を乗り出したロミオを、スリーパーは抑える。 「まだ確定じゃない。あやしいのは二箇所のうちのどちらかだ。多分、今夜には判明する。動くのはそれからだ」 「……判った」 大人しく引き下がったロミオを、スリーパーは驚き混じりの表情で見つめた。 無言で腹ごしらえをする姿に、彼の覚悟が見えるようだ。 「力つけとけよ」 決戦前を思わせる、スリーパーのそんな励ましに、ロミオは抑えた声で「判ってる」とだけ返した。 ---- 人通りも絶えた深夜、それでも物陰に潜みながら、二匹のポケモンが街を歩き回る。スリーパーが街路の配置をロミオに教え込んでいるのだ。巧く事を運べたとしても、脱出経路が判らなければどうしようもない。特にこの街は中心部にそびえる塔を中心とした放射道路と環状道路から成るため、どうしても格子状の街と比べて方向感覚が狂いやすい。 ロミオも真剣な表情で、教えられた道順を頭に叩き込んでいた。 ───ここを走り抜ける。ジュリエットと一緒に。 そんな決意を込めて見つめる街路に、夜の風が舞う。 「おっと……来たか」 スリーパーが呟き、薄明かりの灯った表通りの真ん中に出る。 その姿に気付いたのか、音を立てずにヨルノズクが近付いて来て、路地側に降り立った。 「ご苦労さんだったな、ヨルノズク。恩に着るぜ」 「何の。いつも奢ってもらってるし、お安い御用さ」 スリーパーとヨルノズクは簡単な挨拶を交わし、すぐ真顔になって向き合った。 「赤屋根宿の方だ。二、三日前に色違いのグラエナが入ったって話だ」 「なるほど、それだな」 「地上階は普通の宿を装ってる。売春宿は地下だ。番台の裏に地下への通路がある。地下には廊下を挟んで十ぐらい部屋があるらしい。……済まない、判ったのはここまでだ」 「いや、十分さ。よくやってくれたよ。ありがとう」 ロミオも傍らでその話を聞いていた。 「ありがとう。ヨルノズク」 緊張感からか、強張った声で告げたロミオの謝意に、ヨルノズクは頼もしげに頷いた。 「あとはしっかりやってくれ。健闘を祈る」 短い言葉ながらも力強い激励に、ロミオは真剣な面持ちで頷いた。 そして歩き出す。闘いのために。 ---- 「……っふ」 熱に浮かされたような甘い吐息。 人間の男が全裸になって、仰向けにされたグラエナの股に顔を埋め、夢中になって割れ目の中を舐めしゃぶっている。男の唾液と、グラエナの秘部から溢れる液で、べちゃべちゃと卑猥な音が小部屋に響く。 「あ……あん、や……ぁ」 「可愛いね……とても綺麗だよ。グラエナちゃん……」 荒い息とともに男は繰り返し、グラエナの腿や胸を両手で揉みほぐす。その度に、黄金色の柔らかな毛が切なげに揺れた。 男に弄ばれているのは、ジュリエットだった。 「もう僕から逃げられないよ……ねぇ、ほら」 男が興奮しきった声でジュリエットの耳元に囁きかける。 ジュリエットの四肢は、小さなベッドに荒縄で大仰に縛り付けられていた。身体が震えるたび、拘束している縄がギシギシと嫌らしい音を立てる。そんな痛々しい姿が極上の刺激となって、異常なほど男の興奮に火を注ぐ。 腱を切られた上、正常な意識が保てないほどの薬を打たれた彼女の体には、最早そのような拘束具など不要だったが、これもまた『客』の要望に応じるためのただの演出だった。 「僕の可愛い性奴隷……今、ご褒美をあげるからね」 全身が美しい毛並みに覆われる中、唯一柔らかく濡れた媚肉を露出させるジュリエットの秘部。男の股間で成長しきった逸物は、早くそこに突き刺さりたいと先走りを垂らしながらそそり立っている。穴の中を責めていた数本の指をぬらりと抜き、代わりに男は自らのペニスをそこに宛てがう。 「良いかい、入れるよ」 「くぅん……」 じゅぶじゅぶと熱い密壷の中に沈んでいく。 「ほら……僕のおちんちんがグラエナのいやらしいトコロに入ってく……どう? 感じる?」 「あッ、あん……!」 「気持ち良いんだね。鳴き声も可愛いよ……ああ」 そして男が腰を打ち付け始める。濡れた音を立てながら出入りする男のモノ。 「やああんっ! あッ、あ……もっとぉ……」 強い薬に冒されたジュリエットは、今はただ快感だけに支配されていた。誰かも判らない相手にどれだけ犯されようとも、もう快楽の嬌声を上げることしか出来ない人形と化していた。 「グラエナ……グラエナッ! この淫乱なケダモノめ……ッ!」 ベッドごと揺らす勢いで男が腰を振る。 キィ、と軋んだ音を立てて、宿の扉が開いた。 「いらっしゃい……ま───」 応対に出ようとした中年の男の言葉が不自然に途切れた。 「……ポケモン?」 番台から身を乗り出して見ると、玄関扉の前に立っていたのは、人間と体格がよく似た黄色いポケモン。 「何だお前……」 訝しげに眉を顰める男の目の前に、スリーパーが振り子をかざす。その瞬間、ふっと力が抜けるのを感じて、男は血相を変えた。 「ちッ、こい……つ───」 意識朦朧となりながらも、手元の非常ベルのボタンを押す。 途端にけたたましく響き渡る警報音。そのまま男は倒れ伏した。 「しまった!」 まさかここで人間の抵抗に遭うとは思っていなかったスリーパーは、慌てて玄関扉を全開にする。 「警報鳴らしやがった! ここは俺が止めておく。早く地下へ行け!」 その声に応じて、ロミオが宿に飛び込む。 倒れた男を踏み越え、番台の奥の階段を駆け下りる。 「ジュリエット!」 最小限の明かりだけが灯された薄暗い廊下の両側に、ヨルノズクの言ったとおり幾つかの扉がある。 「ジュリエット! どこだ!」 手近な扉に飛び付く。人間用のドアノブは、ヘルガーにとっては極めて扱いにくい。 「くそ……スリーパーが居れば……」 口でドアノブを回してみるが、開く様子が無い。施錠されているらしいと察して、ロミオは扉に強い火炎を吐いた。 防音のためか重い一枚板で仕立てられた扉は、しばらく炎を拒んでいたが、それもやがて焼け落ちる。 飛び込んだ部屋には、見慣れないポケモンと人間が腰を抜かして怯えていた。 ロミオは舌打ちして次の扉にかかる。 「ジュリエット! ジュリエット!」 鳴り続ける警報音に驚き、幾つかの部屋から男が飛び出してきたが、目の前で鬼神の如く火を噴いているヘルガーの姿を見るなり、悲鳴を上げて部屋に逃げ込み、ガチャリと鍵を閉めてしまう。 「く……」 ままならない悔しさと焦りにロミオは歯噛みする。 異変は宿の玄関先でも起きていた。 警報音を聞きつけ、十人ほどの男達が銃を持って宿に駆けつけてきた。身なりからして正規の警察隊ではない。このような非合法の商売をする上での『用心棒』、こちらもまた非合法な暴力組織だ。 最初に飛び込んで来た数人に、スリーパーは強い念を送って弾き飛ばしたが、そのすぐ後ろに構えていた第二陣が、問答無用でいきなり発砲してきた。 「うわぁ! 容赦無しだなオイ!」 番台の下に隠れて銃弾を避け、銃撃の合間にある僅かな隙に、また顔を出して技を繰り出す。 「駄目だ! これじゃ保たねぇ……! ヘルガー早くしろ!」 狂ったように鳴り響く高い警報音。絶え間ない銃声。 炎と破壊音。 宿はほぼ戦場と化していた。 「グラエナ……はぁ、ああ……もう、イクよ! 出すよ」 「ああん! も……あう……」 周囲の騒ぎすら意に介さず、ジュリエットを犯す男はいよいよ絶頂に近付いていく。 「おおッ! うおお……」 獣のような咆哮を上げながら、ガタンガタンとベッドを揺さぶる。 嬌声とも悲鳴ともつかない高い声が、ジュリエットの喉を震わせる。 ゴウ、と暴風のような音を立てて、小部屋の扉が焼き切られたのはその時だ。 「ジュリエット!」 全身に陽炎のような灼熱を纏って現れた黒い獣。 その獣と目が合った───と、男が認識したその次の瞬間には、男は火炎に包まれ、瞬く間に火だるまになっていた。 「うあああああぁぁ───ッ!!」 ロミオは叫んでいた。 犯される恋人の姿に、激情を抑えてきた何かが切れてしまったのか、まるで発狂したかのように絶叫していた。そして叫びながら男の全身を炎で焼いていた。焼き尽くしていた。 「わああぁぁッ! あああッ!」 なおも滅茶苦茶に喚き散らしながら、もう人間の姿を留めてすらいない男に飛び掛かる。鋭い牙が男の顔面を捉え、グシャリと嫌な音を立てて噛み砕く。炭化した頭部の中から、真っ赤な肉と血が噴き出す。 「あああ……! はぁ……」 体中返り血にまみれながら、未だ興奮の余韻の中で、ロミオは肩で激しく息をつく。 「ああ……ジュリエ……」 ふらりと覚束ない脚で振り返る。 そこには四肢を固く拘束され、大きく開脚された陰部に男の侵入の痕跡を留めたまま、ただ力無く震えるジュリエットが居た。 「ふぁ……あ……」 薬の強い影響下にあるジュリエットは、現状を全く理解出来ていない。唐突に取り上げられてしまった快感の続きをねだるように、もどかしげに物欲しげに身をくねらせている。 「く……」 ロミオは目を反らせて歯を食いしばった。ここで逆上してはいけない───暴走しそうになる自分の心に言い聞かせ、まずは彼女を戒める荒縄を焼き切る。 「ジュリエット……此処から逃げるよ」 「いや……あん」 ロミオがベッドからジュリエットを降ろそうとするが、ジュリエットは何故か身を捩って拒み、まるで子供のように嫌々を繰り返す。 「ジュリエット!」 まさかここで手こずるとは思ってもみなかったロミオは、焦りに駆られた。 「ヘルガー! もう駄目だ! 突破された!」 階上からスリーパーの悲痛な叫びが届く。最早寸刻の猶予もない。 「ジュリエット、ごめん!」 言うなりロミオはジュリエットに当て身を食らわせ、脱力した体を背に担ぎ上げる。 ジュリエットを背負って廊下に飛び出した所で、階段を駆け下りてきた男達と鉢合わせた。 「ヘルガーだ!」 男達は叫び、一斉に銃を構える。引き金が引かれる一瞬前にロミオは火炎を放ち、男達を牽制する。 そのまま再度小部屋に引き返したものの、ここに彼らが突入してくるのも時間の問題だ。 ロミオは焼け落ちた扉をじっと睨みつけながら、間合いを計っていた。男達が雪崩れ込んで来る瞬間に炎を浴びせ、怯んだ所を強行突破するしかない。 けれど五月雨のように次々に襲い掛かられれば、いつかは撃たれる。それは余りにも無謀な賭けだった。 『───うしろへ!』 その瞬間、頭の中に何かの声が響き、ロミオの体が意志に反して扉とは反対方向へと向けられた。 「……えッ!?」 まるで操られているかのような違和感に、ロミオが戸惑う。 『───後ろの壁に向かって道を開きなさい!』 「なん……」 唐突な異変に戦きながらも、体は勝手にその声に反応して、火炎の力を高め始める。 常にない威力を感じさせる、その力。 ───これは…… ロミオの耳に残る、その『声』。思い出した、この響き。 「エルレイドか……!」 ロミオの言葉に反応したかのように、首に掛けたペンダントの石が眩しく輝き始める。───強く念じれば必ず道が開ける、その奇跡の石が。 「……っ!」 ゴウ、と凄まじい音を立てて、ロミオの全身から灼熱の炎が吹き上がった。 溢れ来るのは、万物を焼き尽くさんばかりの猛る炎。 「おおお……!」 気合いの咆哮が轟く。 ロミオは強く念じた。この先にある未来を掴むために。 ───道よ、此処に開け! 凄まじい地響きを立てて、地階から突き抜けて来た火炎が、表通りの石畳を派手に吹き飛ばす。 地中真っ直ぐに穿たれた炎のトンネル。 男達が銃を乱射しながら小部屋に飛び込んだ時には、もうヘルガーとグラエナの姿は其処から消えていた。 耳をつんざくような音と激しい振動。そして階下から聞こえてくる怒声。 その中に「逃げられた」という言葉を見つけ、スリーパーはこの闘いの終わりを悟った。 「やったな」 番台の下で握り拳を掲げたスリーパーの動きが、ふとそこで止まった。 無機質な音と固い感触───銃口が額に当てられている。 「おおっと……」 銃を構えた男にスリーパーはにやりと笑った。 そして響く、最後の銃声。 ロミオに教えた脱出経路を先回りしながら、スリーパーは走る。入り組んだ路地を急いでいると、後ろから血まみれのヘルガーがもの凄い勢いで駆け寄って来た。 「スリーパー!? いつの間に!」 相当な早さで疾走してきた自覚のあるロミオは、まさか自分よりも先にスリーパーが居るとは予想だにせず、驚きの表情を見せた。 そんなロミオに併走しながら、スリーパーは込み上げる笑いを隠そうともしなかった。 「昔取った杵柄って奴だ。へへ……まさかここでこんな脱出技が役に立つとは思わなかったぜ」 路地を抜けると、目の前に正面の大門が見えてくる。 しかしそちらへは進まず、ロミオ達はまた路地に入り、壁に沿って走った。 門の周囲には警備兵が居る。これだけの騒ぎを起こしたのだ。すんなり通してもらえる筈はない。それははじめから想定していた事だった。 壁沿いにしばらく走った所で、スリーパーは立ち止まった。 「ここだ。見てな」 一見石組みに見える壁面を両腕で押す。さして力を入れている様子では無いのに、壁がずるりと動いた。 「扉……!」 「よく出来てるだろ。昔ここに棲んでた絵描きのポケモンが、板に石目の模様を描いてくれたんだ。ここが秘密の通路になってる。向こう側も同じ構造だ。押せば簡単に開く」 ここを通れば、外。自由の世界─── とうとう此処まで来た。その熱い思いがロミオの身を震わせる。 「ありがとう……スリーパー」 万感の思いを込めてロミオが告げる。 スリーパーは、ロミオと、その背に眠るジュリエットをそっと撫でて頷いた。 「良いってことよ。でもな、あんたにとって本当の試練はこれからだ。判ってるとは思うが」 しっかりと言い聞かせるようなスリーパーの言葉に、ロミオは昨夜の忠告を思い出し、改めて頷いた。 『彼女を本当に救うことが出来るかは、あんたにかかってる』 ───そうだ。俺にかかってるんだ。 俺たちの、未来は─── その言葉を、心に刻む。 「じゃあ、行くよ」 ロミオが別れを告げようとした時、大門の方で多くの人間の騒ぐ声が聞こえた。 「何だ?」 「ああ、あっちも始まったな。旦那が降りてきたんだ」 「え……?」 「いつも壁の上に鎮座してる『守り神』が降りて来たんじゃ大騒ぎだわな。人間たちの足止めは旦那に任せときゃいい。ほら、行けよ」 「ウインディが……」 この闘い、そして旅立ちを支えてくれた、仲間達への感謝。ロミオは暫し目を閉じてその思いを噛み締める。 そしてその感謝を、ロミオは一つの石に託すことにした。 「これを……スリーパー、持っていてくれ」 エルレイドから譲り受けたペンダントを、前脚で外してスリーパーに手渡す。 「もし、また同じようなポケモンが来たら、使ってやって欲しい。俺はもう、充分恩恵をもらったから」 ペンダントを受け取りながら、スリーパーは戸惑う。 「良いのか。こんな大層なモン……」 「最後の頼みだ」 ロミオはふっと明るい笑みを見せて、壁の通路へ脚を向けた。 暗いトンネルの中へふたりの姿が消えていく。 やがて、向こう側の扉が開く音が聞こえた。 「しっかりな……」 スリーパーは受け取ったペンダントをゆらゆら揺らしながら、大門の騒ぎの方へ向かって歩き出した。 見上げる空は、暁の色に変わろうとしている。長い夜の終わりだった。 ---- *5.抱擁 [#o2040184] 以前は誰が棲んでいたものか、岩壁に浅い横穴を穿っただけの小さな巣穴で、ロミオはジュリエットに寄り添っていた。 あれからもう二日ほどになるが、ジュリエットは依然眠り続けていた。 彼女の脚には、スリーパーの言ったとおり、恐らくまともに立つ事も出来ないであろう外傷の痕があり、そして下腹には横一文字に生々しい縫合痕が残っていた。 ロミオはジュリエットの脚に、いつかのような薬草を潰して塗ってやった。傷ついた脚の機能は、適切な処置をしてやればある程度回復することがある。 しかし腹の傷には、結局何の施しもしてやれなかった。 手術の傷自体は既にほぼ塞がっている。それよりも、癒すべきそのものが其処に無いのだという無惨な現実が改めて突きつけられて、それがロミオの心を刺すのだった。 ───駄目だ、しっかりしなきゃ。 スリーパーの言葉が蘇る。『そいつはショック受けて混乱して。翌日、嫁さんは舌噛み切って死んでたよ』 ロミオは苦しげに首を振った。そんな悲しい結末にはさせない。そう固く心に誓って。 「俺は……ジュリエットと生きていくんだ。これからもずっと」 呟きは、自分に言い聞かせるためのもの。けれど、この声がジュリエットの心にも響いて欲しいと切に願っていた。 そっとジュリエットの腹の傷跡を撫でる。 たとえ此処に何も無くとも、こうして触れることで彼女の中の何かが癒されて欲しい。 「俺が側に居るから……ジュリエット」 腹の上に暖かな感触と優しい重みがある。 ジュリエットはそっと目を開けた。 目に映ったのは、少し欠けた明るい月と青みがかった夜空。そして、自分と寄り添うように眠っている、黒い獣。 「……ミ、オ……」 ロミオの前脚が、ジュリエットの腹をまるで守るかのように抱きしめている。暖かな感触はこれだったのかとジュリエットは苦笑した。 けれど、その笑みはすぐに涙で翳った。 「……めん、なさい───」 掠れた声で呟く。何度も何度も、声にならない声で繰り返した。 夢うつつの中でずっと聞いていた。彼の声を。「愛している」と幾度も告げてくれた彼の声に、夢の中でやめてと叫んだ。 愛される事への罪悪感。 これほどまでに、彼を巻き込み傷つけてしまった───取り返しのつかない自分の落ち度。 彼の優しさや慈しみに触れれば触れるほど、自分にはその資格は無いのだと、身を切るような自責の念にかられた。 何もかもが痛みを訴えていた。体も、心も。 こうして優しく抱いていてくれる触れ合いさえ、ジュリエットには胸を抉られるような痛みをもたらしていた。 「あなたを誰よりも愛してる。だけどもう……終わりだわ」 涙を落としながら、ロミオの寝顔に口付ける。 少し痩せてしまった頬、穏やかな曲線を見せる瞼、優しい声を聞かせてくれた口元───忘れてしまわないよう、じっと見つめる。 どうしようもなく、愛しい。その溢れ来る想いを心に刻みながら。 「さよなら……幸せになって、ロミオ」 小さく呟き、ジュリエットは身を起こす。 脚を立てる事は出来ないから、膝を擦りながらゆっくりと巣穴の外へと向かった。 何処へ行く宛ても無い。いや、何処へ行く必要もなかった。ただ、彼の前から消えればいいだけなのだから。 「幸せになるよ。ジュリエット」 這い進む背にそっと触れた温もり。 「君と、ね」 「ロミオ……!」 ジュリエットが振り返ると、ロミオが悲しそうな笑みで見つめていた。 「どこへ行くつもりだったの?」 静かに問う。その声は決して詰問ではなかったが、ジュリエットは息苦しいほどの苛立ちを感じた。 「どこへでも……! もう私の事は放っておいて!」 「ジュリエット、どうしてそんな……」 「もう私はあなたと居る資格なんてないのよ! 何も出来ない、子供も出来ない! 私なんかもう、何の価値も無……」 荒ぶり叫ぶ声は、ロミオの胸に抱かれて消えた。 何も言わず、ロミオはジュリエットを抱きしめた。 「愛してる」 「ロミオやめて! 私を見て!」 ジュリエットは泣き叫びながらロミオを押し退けた。 「見たでしょう!? この傷……もう私はあなたの仔を産んであげられないのよ!」 「……判ってる」 「私の事なんか忘れて! 私にとらわてれ一生を無駄にしないで! お願いよ……あなたは他の誰かと幸せになって。それがあなたにとって一番良い事だわ……」 始めは甲高かったジュリエットの声が、途中から力無く沈み、涙声になって震えていた。 ロミオは泣きじゃくるジュリエットをしっかりと抱き続けた。 「言いたいことはそれだけ?」 「え……」 泣き濡れた顔を上げたジュリエットに、ロミオは軽く口付ける。 「俺は頭が固いらしいんだ。一度決めたら変えられない。ただ馬鹿なだけかもしれないけど」 「何を……」 「俺は君を選んだんだ。それはもう変わらない、永遠に。たとえ君が何を言おうと、たとえこの先何が起ころうと」 「ロミオ……」 「その脚じゃ、もう狩りは出来ないかもしれないけど、それは俺がやればいい。君が俺のためにそうしてくれていたように。その代わりに君は木の実を取ってくれればいい。ずっと俺たちはそうしてきたじゃないか。ふたりで補い合えば、それで生きていける」 言い聞かせるような揺るぎない言葉を、ジュリエットは呆然と聞いていた。 ロミオはジュリエットの下腹の傷にそっと触れる。 「此処にはもう仔は宿らない……それは判ってる。でも、俺が君へ注ぐすべてのものが───いつかきっと、君の中に何かを宿す。俺はそう信じるよ」 ジュリエットの眼からぽろぽろと零れる涙に、ロミオは優しく口付けた。 「……何処にも行かないね?」 そう問うたロミオの言葉に、もうジュリエットには選択の余地など無かった。しゃくり上げながら、ただただ何度も頷いた。 「何処にも行かないように……行けないように、私を捕まえていて」 「ああ」 「ロミオ……離さないで」 「絶対に、離さない」 「愛してる」 「うん……俺も君を」 続く言葉は、口付けの中に消えた。 ロミオの熱い体がジュリエットを包み込む。 傷に障らないよう最大限気遣いながら、ジュリエットを仰向けに押し倒した。 「……怖い?」 きっと心に耐え難い傷があるだろう、そう案じてロミオは問うたが、ジュリエットは小さく首を振った。 「あなたとなら……」 真っ直ぐな瞳で見つめてくる。その塗れた輝きに愛しさが溢れて、ロミオはジュリエットをきつく抱きしめた。 柔らかな胸元、確かな質感のある四肢。高く艶めいた声。 ほんの数十日振りの感覚である筈なのに、あまりにも多くの事がありすぎて、まるで百年の月日を待ったような気さえする。 どれほど、恋い焦がれたことだろう。 「ロミオ……ああ」 丁寧に、情熱的に、理性を溶かしていくロミオの愛撫に、ジュリエットは震えながら身悶える。 ロミオはジュリエットの秘部を丹念に舐めほぐした。何匹、何人の男達に酷く傷つけられただろうその痕跡を、必死で消そうとしているかのように。 「あんっ、あ……、やめ……もうッ」 けれどそんなロミオの懸命な『癒し』も、性の悦びを知るジュリエットにとってはすぐに強すぎる『責め』と化してしまう。怒濤のように押し寄せる快感に、ジュリエットはただ喘ぎ泣くばかりだった。 「ジュリエット……いいか」 体の炎が吹き出すように熱を帯びたロミオが、ジュリエットに身を重ねる。 「あ、ああ……」 ふたりの熱いものが触れ合い、深く交わり合っていく。 「熱い……」 「うん……君も」 探るように、確かめるように、小刻みに動き始める。 ジュリエットは身体を固くして感じていた。身の内に在る、愛しい者の───その存在感を。 「あっ……あああッ! ロミオ!」 「うん、いくよ」 中の快楽を感じ始めたジュリエットの声に誘われ、ロミオが深く突き上げ始める。 「や、あっ、あん……!」 力強いピストンでジュリエットの中を擦る。熱く焼けた楔はますます膨張し、熟れた狭間を最奥まで満たしていく。 「あ……はぁ、ッ」 苦しげな吐息でロミオが喘ぐ。もうこの衝動を止められない。 肉のぶつかる音と濡れた粘液の音。快楽に溺れる雄と雌の声。 「もう……っ」 「来て、ロミオ……中に」 ジュリエットの後脚がロミオの腰を捉えて抱き込む。深く噛み合って離れないように。 「んんッ」 息を詰めてロミオが震える。ぐっと限界まで張り詰めたものを強く奥へと押し込み揺すり上げる。 「あッ、ああ……」 吹き出した熱い白濁がジュリエットの中を一杯に満たす。容量を超えた滴は、みっしりと結合したその隙間から溢れて零れた。 ジュリエットの中に確かに注がれたロミオの熱情。 たとえその先に何もなくても、いつかきっと何かが宿る───その言葉を、ジュリエットは恍惚の中でかみしめていた。 くたりと脱力し余韻に浸るジュリエットを、ロミオがそっと抱き寄せる。 満たされたようにふんわりとした彼女の表情。久しぶりに見たそんな顔に、軽く何度も口付ける。 「まだ、ちゃんと言ってなかったんだけど……」 緩く抱き合いながら、とりとめもなく囁いたロミオのその声は、どこか照れくさそうな笑みを含んでいて、ジュリエットはきょとんと首を傾げた。 「今更なのかも知れないけど、聞いてくれるかい」 ロミオは言葉を止めて、ジュリエットを正面から見つめた。 ジュリエットの深い色の瞳が、優しく揺れながらロミオを見つめ返してくれる。彼女のそんな視線に暖かな包容力を感じて、ロミオは勇気づけられるように、一つの大切な言葉を告げた。 「結婚しよう……ジュリエット」 ---- *6.エピローグ [#m083e120] 「これ……持っててくれ。預かりモンだけど」 壁の大門の上で、ウインディにスリーパーがペンダントを手渡す。スリーパーは背に大きなボロ袋を背負っていた。 「お前も行くのか」 すっかり旅支度の風情のスリーパーにウインディが尋ねる。 「知ってるとは思うが、あの襲撃事件についてはほぼ捜査打ち切りだ。お前がお尋ね者になる心配は無いぞ」 「ああ、判ってる。夜逃げって訳じゃねぇよ。……なんて言うか、今回の件で肩の荷が降りたような気がして……あいつら見てたら、俺も再婚相手を探したくなってきたんだな」 冗談交じりのような口調のスリーパーに、けれどウインディは暫く目を閉じて思いを巡らせた。 「そうだな……お前はよくやったよ。───細君の事を忘れれば良いとは言わんが……もうそろそろ、幸せになっても良い頃だろう」 「ウインディ」 スリーパーはふと俯き、手にいつも提げている振り子を迷うようにじっと見つめた。 「なぁ、ウインディ。俺は……あの時の罪ほろぼしが出来たんだろうか」 時折スリーパーが見せる深い陰。彼に纏わりつくそんな陰を追い払うように、ウインディはスリーパーの背を前脚でそっと宥めた。 「少なくとも私はそう思うぞ」 「……ありがとう」 ウインディは受け取ったペンダントを日にかざしてみた。不思議な透明感のある、乳白色の結晶。 「ポケモンを使った売春宿は一斉摘発された。焼け石に水なのかもしれんが、一区切りはついた。いつかこんな物を使わなくても良いような時代になれば……私も伴侶を得る旅にでも出るとするかな」 「そりゃ遠大な計画だな」 そんな他愛もない事を言いながら笑い合う。 「もし旅先であいつらに出会ったら、よろしく言っておいてくれ」 「……いや、万一どこかで見かけたとしても、声はかけねぇだろうよ」 さらりと否定したその言葉に、ウインディは首を傾げた。 「あいつらにとってこの街は悪夢以外の何ものでもない。俺の顔を見たらそれを思い出しちまうだろう。───忘れた方がいいんだ。だから、会いはしない」 スリーパーの言い分に、ウインディは重く頷く。 「なるほど、悪夢の街か。……それは、やはりお前にとってもか?」 「……」 スリーパーは暫く黙っていた。壁の上を吹き抜ける風が、背負った袋をかさかさと揺らす。 「悪夢は……最近見なくなったよ」 吹っ切れたような声で、スリーパーは呟いた。 並んで空を見上げる。 「ああ、いい天気だ。旅立ちには良い日和だ」 「うむ、雲一つ無い」 スリーパーは最後に街を振り返った。そして友の顔を。 何か言い残しておこうかと考えたが、何も言葉が浮かばなかった。 無言のまま出立しようとするスリーパーに、ウインディが餞の言葉を投げる。 「幸多かれと祈る」 その言葉を背に聞きながら、スリーパーは片手を挙げて応えた。 もう振り向きはしなかった。 一匹のポケモンが去った街は、それでもいつもと変わらぬ昼の日差しの中、白く眩しく輝いていた。 end ---- おつかれさまでした。 ここまでお読みいただいて、ありがとうございます<(_ _)> 本作は大会用にさくっと読み終えられる短編として書いたため、至る所端折りまくって一体何のダイジェスト版かという中途半端なものになってしまったのが最大の反省でした。ふつうに長編として連載してれば数倍は書かなきゃいけないような内容の筈……まぁ長文苦手だし……ごにょごにょ。 でも『冒険物』というのを一度は書いてみたかったので、チャレンジできたのは良い経験でした。また冒険書くかといわれれば非常に厳しいですがw まぁ今回は楽しんで書けたので良かったかな(^^) 最後に、大会中目を通していただいた皆様、一票を投じてくださった方、誠にありがとうございました。 [[空蝉]] ---- コメントなどありましたらお願いします。 #pcomment(コメント/ロミオとジュリエット,15,above); ---- ■おまけ。 &ref(s-120416helgura.jpg); 小説書き終わってから絵を描いてみて気付いたんですが……ヘルガーって、いわゆる「耳」に該当する構造が無いんですね_| ̄|○ 作中で「聞き耳を立てた」とか描写してしまってます。ヘルガーよ……お前はその場面で一体何を立てたんだ(ry 面白いミスなのでそのまま置いとくw 頭で判ってるつもりでも、やっぱり書く前に一度描いておくほうが良いってことですね。・゚・(*ノД`*)・゚・。 それにしてもスリーパー可愛いよスリーパー…… ---- today&counter(today);,yesterday&counter(yesterday);,total&counter(total); IP:182.171.24.91 TIME:"2012-04-16 (月) 23:37:21" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?guid=ON" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:11.0) Gecko/20100101 Firefox/11.0"