[[てるてる]] &color(red){この小説には流血等暴力表現があります。}; &color(red){この小説には、作者の自己満足およびご都合主義で出来ています。観覧の際には十分ご注意してください}; ---- #contents ---- **1 [#scc46352] 空の上に光り輝く大きな月は、すべてを飲み込まんとする夜のとばりを貫く唯一の光点であり、大地を照らす役目を負っている。 しかし、深い森の奥のうっそうと茂った葉の下までは、ほとんど遮られ照らすことは出来ない。 辺りの木を見下ろしているような背の高い大木の根元で地面から飛び出した根を枕代わりにしてうとうととまどろむレントラーがいた。 ほとんど毛繕いをしていない体毛はぼさぼさで、黒と水色の特徴的な二色の体毛の境界線もはっきりしていない。 闇の中でも視界が利く黄金色の瞳をまぶたの裏に隠し、夢の中へと歩を進めようかというときに、彼の耳が二つの別々の足音を拾った。 眠りを妨げられたことに対して小さく舌打ちをした彼は、出来るだけうっすらと目を開けた。 この目はほんのかすかな光でも反射してしまう。もし縄張り荒らしなら反射光を見られるのはまずい。 だが、木々の向こうからやって来たのは、辺りをきょろきょろと見回しながら近づいてくるグレイシアとジグザグマだった。 そのグレイシアに彼は見覚えがあった。 幼少の頃、あまり同世代のポケモンがおらず、遊び相手と言ったら当時イーブイだった一歳年下の彼女くらいだった。 レントラーは体を起こし、やってくる二人に向けて声を掛けた。 縄張りに入ったからには自分に用があってのことだろう。そう考えたからだ。 その声に気がついたグレイシアは、隣にいるジグザグマに何かを言ったあとレントラーのいる大木まで駆けてきた。 「久しぶりね! レントラー」 そう言って彼女は自らの鼻をレントラーの鼻にくっつける。 一瞬どきりとした彼だったが、単なるポケモン同士の普通のあいさつであることを思い出し、素直に受け入れる。 「何しに来た?」 鼻を離したグレイシアに彼は訪ねた。 「こんな夜中に」 彼女は少しうつむいたあと、隣にいるジグザグマをちらりと見てから口を開いた。 「実はね。わたしの友達が病気で倒れちゃったらしいの、それでね、看病しに行きたいの」 ほう、とレントラーがあくびをしながら相づちを打った。 「でね、その……あの……えっとね……。ついてきてほしいの」 グレイシアが消え入りそうなほど小さな声を拾ったレントラーは大きなため息を吐いた。 「ついてきてほしい、か。あのなあ、もう子供じゃないんだからそれくらい一人で行けよ」 あきれたような口調でそう吐き捨てた彼にグレイシアは頬を膨らませる。 「だって怖いんだもの。ほら、最近変な三人組が縄張りを荒らしてるってはなしあるでしょ。だから」 そう言われてみればそんなうわさを耳にしたことがある。レントラーは思い出した。 妙なポケモンが三人、次から次へと手当たり次第に縄張りを広げているという話だ。 ここらにはまだ姿を現していないが、彼女の友人がいるところまでの道のりにいないとも限らない。 他のポケモンがどうなろうと知らないが、彼女に被害が及ぶようであれば。 彼は顔を上げ、真っ直ぐにグレイシアの瞳を見つめる。 「わかった、ついていくよ。ところでだ」 レントラーは彼女の隣にいるジグザグマに視線を移した。 幼いその子は、鋭い視線を浴びてひっと小さな声を上げ、縮こまってしまった。 「この子は何だ? まさか怖いからってこんな子供まで連れてきたのか」 「そんなわけないわ。ただこの子はわたしの友達が病気だってことを伝えに来てくれただけ。そうよね?」 そう聞かれた子供は小さく頷いた。 何だってこんな小さな子供がここまで来られたのに、あんたは行けないんだ。と危うく口に出しかけた。 いまそんなことを言ったら、長いこと言い訳を聞く羽目になりそうだ。 「わかった。その友達はどこにいるんだ? 案内してくれ」 グレイシアは、ありがとう、と破顔させた。 それを見たレントラーは自分の頬が熱を持つのがわかった。彼は目をそらし、地面から飛び出た根を、意味なしに見つめた。 その無邪気な笑顔はイーブイのころからどこも変わらないはずだ。 なのになぜ直視できないのだろうか。彼女が変わらないのならおれ自身が変わったのか。 「どうしたの? 早く行こ。あ、そうだきみはどうする? いっしょにいく?」 訪ねられたジグザグマは首を横に振った。 「ぼくはここにいます。用事があるので」 そう言ってぺこりと頭を下げる。 歩み去っていくグレイシアとレントラーをしばらく見つめていたジグザグマだったが、 二人が夜の闇に包まれ見えなくなったのを確認し、すぐ後ろの茂みに小さく手を振った。 「言われたとおりにしたよ。さ、早くおいしい木の実がある秘密の場所を教えてよ」 茂みから姿を現したライチュウに言った。 特徴的な耳と夕日に染まりゆく雲海のようなオレンジ色の体毛の上に乗っかった木の葉を払いながら、目の前の幼い子供ににやりと作り笑いをつくった。 「ああもちろん教えるとも、きみはおれの言うことをちゃんと聞いてくれたんだ。約束は守らないとね」 「だったらはやく教えてよ」 ジグザグマがしびれを切らしたような口調で言った。 「すまんすまん。えーとだな……」 ライチュウはジグザグマの真後ろを指さす。 「あっちだよ」 ジグザグマが指し示された方向に首をひねった瞬間、ライチュウの顔から笑みが消えた。 彼は近くの木に向かって飛び上がり乾いた幹を蹴り上げ、さらに高く飛び上がると、ジグザグマの脳天に勢いのついた尻尾をたたき込んだ。 鋼鉄のように堅く変化した細長い尻尾――人間のあいだではアイアンテールと呼ばれるそれは、鈍い音と共にジグザグマの意識を向こう側に葬った。 うつぶせの頭から滴る鮮血が、緑の草の絨毯を染め上げていく。 ライチュウは尻尾に付着した血を舐め取り、しばし味わったあと、見ていないと知りつつもジグザグマに作り笑いを投げかける。 「悪いが、秘密の場所なんてないんだよ。だがよく考えてみてくれ、あの世に行けば腹はへらない」 時折ぴくぴくと手足を痙攣させる子供に、彼は静かな口調で続けた。 「さて、そろそろお父さんとお母さんも向こうに着いた頃だろう。きみも行ってあげたらどうだい?」 そう言って、ライチュウは握り拳をこしらえ、手に力をいれる。 あばよ、心の中でつぶやいたあと、ジグザグマの首元めがけて思い切り振り下ろした。 骨が砕ける小気味良い音と感触が、耳と腕をそれぞれ経由して伝わった。 自らの意思で動くことの無くなったジグザグマを鼻で笑うと脇腹に蹴りを入れ、レントラーとグレイシアの歩いていった方向へ足を向ける。 ライチュウの耳元で赤い色をしたピアスが月の光を浴びてきらりと光った。 **2 [#uc3536c1] 虫の奏でる音が辺りを包む深い森の中、グレイシアの友達のところへ行くまでの長い道中を無言で過ごす訳にもいかず、二人は当たり障りのない世間話で暇を潰していた。 「――てな訳で、わたしは木から地面まで真っ逆さま。木の実は採れないわ、人には笑われるわで……ほんと酷い目に遭ったわ」 彼女の話に、レントラーは声を上げて笑った。 こんなに腹の底から笑ったのは久しぶりだ。一人だとそうそう面白いことは起こらないからだ。 「そいつは災難だったな」 「ええ、ほんと災難よ。あなたは? 最近何か面白いことあった?」 彼女の問いに、彼は何でも良いから思い出そうと眉間にしわを寄せたが、何もでてこない。 「いやなにもない。しいていえば今日きみにあったことくらいかな」 そう言って、グレイシアをまじまじと見つめる。 イーブイだったころの可愛らしさに、グレイシアの魅力的な外見と色気が加わった姿。 彼は鼓動が早くなるのを感じた。こんなにも異性を意識したのは初めてだ。 「ほんとうに綺麗になったね。そんなに綺麗だと男は放っておかないだろ」 彼はため息を吐くと、悲しげにうつむいた。一言も発しない二人の周りを足音と虫の奏でる音色が包み込む。 グレイシアが誰と結婚しようが、幼なじみである自分が引き留める権限はもっていない。 それに彼女の幸せを考えたら、引き留めるという行為は得策とは言えない。 しかしなぜ自分はこんなにも悲しくなるのだ。 彼女に好意を抱いているから? 馬鹿馬鹿しい。 グレイシアとは子供の時からの親友で、いわば兄弟といっても良いくらいだ。 兄が妹と結婚したがるか? 子供を作りたがるか 答えはいいえだ。全く持って馬鹿馬鹿しい。 もし彼女が望んだ相手と結婚するなら、友人として共に喜んであげるべきだろう。 レントラーが下を向いて考え込んでいるのと対比して上を見上げるグレイシア。 何かを考え込むようにしばらく黙り込んでいた彼女は視線を上方から隣にいるレントラーに移した。 「うん、まあね。よく結婚してくれって来るよ。みんな断っちゃってるけどね」 「断ってるだって? なんで?」 「だってわたしには好きな人がいるんですもの」 やっぱりいるのか。レントラーはため息を漏らす。 寂しさの陰が顔に陰影をつける。 「どんな人?」 彼が訪ねると、グレイシアはレントラーから視線を外した。 「その人は昔からの知り合いで――歳が近くてね。よく一緒に遊んでたんだ、でも進化した途端に子供っぽいからって遊んでくれなくなっちゃったけどね」 熱っぽく、その人、を紹介する彼女の言葉を、黙って聞いていたレントラーだったが、それ以上聞きたくないというふうにいらいらと頭を振る。 他人の男の身の上なんて聞きたかない。 「で、そいつは誰なんだい?」 問われた途端、グレイシアは足を止め、うつむいたまま動かなくなった。 下向きになった顔が、ほんのりと赤みを帯びているのを見たレントラーは、聞いてはいけない質問をしてしまったと後悔した。 「えっとね……」 レントラーの顔をちらりと見たグレイシアは、言いづらそうに口を開いた。 「わたしの好きな人は――」 彼女が名前を言おうとしたその矢先に、下品な笑い声が辺り一帯に響いた。 途端、虫たちは調べを中断し、水を打ったように沈黙した。 不安と緊張が代わりにライボルトとグレイシアを覆う。 不安と緊張が代わりにレントラーとグレイシアを覆う。 レントラーは周りのほんの僅かな動きにも対応できるように、体勢を低くし、周囲に意識を集中させる。 彼ほど夜目の利かないグレイシアは、恐怖感に耳を寝かせ、尻尾を股の間に挟み込み、目をぎゅっとつぶってその場にうずくまっている。 そんな状態が数秒続いたあと、彼の目の前の木の後ろがほのかに明るくなり、次の瞬間には炎が舞い上がった。 瞬く間に焼けこげ、崩れていく木を迂回するように二人のリザードがにやけながら現れた。 レントラーは二人に向かって背中の毛を逆立て、牙をむき出し、威嚇する。 何者だ。少なくともあまり良い連中じゃあなさそうだ。 片方のリザードが高圧的な目でレントラーとグレイシアを見つめた。 「ここはおれらの縄張りだ。他人の縄張りに無断で入ったやつがどうなるかわかってるだろ、このマヌケ野郎」 そう言って、レントラーに近づき爪を一本、額に突きつける。 一瞬、彼はそれを振り払おうと思ったが、いま挑発的な態度を取ることは賢明でないと考え、爪を突きつけられたまま口を開いた。 「おれらはここを通り抜けたいだけだ、何もしない」 「何もしない?」 リザードはよほど可笑しかったのか、両手をひらひらさせながら、げらげらと馬鹿笑いを始めた。 だらしなく口を開いて笑っているリザードの首に赤い首輪のようなものがついているのにレントラーは気がついた。 たしかどこかでこれを見たことがある。どこだ? 彼の視線が首もとに向いているのに気づいたリザードは不機嫌そうに首輪を撫でた。 「これか? 見ても楽しいものじゃねえよ」 のろのろと答えたリザードは首輪から手を離し、もう一度指をレントラーに突きつれる。 「悪いがマヌケ。今この場にいる時点で貴様は何かしていることになる。そうだよな?」 リザードは後ろにいるもう一方のリザードに投げかけた。 投げかけられたリザードは無言で頷いただけで何も言わなかった。こいつは口がきけないのか、レントラーは推測した。 男は再びレントラーに向き直り、足先から脳天までを睨め付ける。 「縄張りに入り込んできた男を歓迎するやつはどこを探してもいないぜ。まあ女はいつでも大歓迎だがな」 そう言ってリザードは、レントラーのとなりで縮こまっているグレイシアの頭を爪でなぞった。 突然触れられた不快感に、ひっと小さく悲鳴を上げる。 「……やめて」 彼女の小さな拒否の声はリザードには何の効果も無かった。 グレイシアが助けを求めるような潤んだ瞳で、身長差故にレントラーを見上げるかたちで見つめる。 にやけ笑いを浮かべ、しつこく彼女をなで回す男に、レントラーは我慢ならなかった。 頭に血が上り、彼の視界が真っ赤になった。心臓の鼓動が周りにも聞こえるのではないかと思えるほど大きくなる。 怒りが無意識に腕をわななかせる。誰にもグレイシアには触れさせない。 彼は気がつくと、リザードの腕を彼女から引きはがしていた。 もう後に引く気はさらさら無い。 レントラーは無防備になったリザードの腹に体当たりを食らわした。 男は低くうめき、衝撃で宙を舞い、いまだ燃え続けている木に強く叩き付けられた。 燃えてもろくなったところに大きな力を受けた木は、情けないほど簡単にへし折れ、辺りに火の粉をまき散らす。 しゃべれないリザードは、仲間を吹き飛ばした張本人であるレントラーを睨み付け、右手を突き出した。 手の先端の爪が、まるで溶けたように曲がり、紫色の半透明な一本の触手に変化した。 触手は、あまりに突然のリザードの変身に、驚き、動けないでいるレントラーの首を目がけて伸び、締め上げる。 巻き付いた触手を振り解こうと彼はもがいたが、全く意味がなかった。 気管が圧迫され、宙に浮いた足の先の感覚が鈍り、意識にもやが掛かったように不鮮明になる。 グレイシアがリザードの腕――紫色に変色した部分――に必死で噛み付いているのが見えた。 そんことは良いからおれを放って早く逃げろ。と彼女に言いたかったが、口腔からはかすれたようなうめき声しか出せない。 レントラーの目が、今現在の状況を表すかのようにゆらゆらと危なっかしく泳ぎ、白目をむいた。 体のあらゆる感覚が閉ざされていく中、何か草を踏みしめるような音がかすかに、だがたしかに聞こえた。 「メタモン?」 レントラーの背中の方向から、野太い声が聞こえた。 「なにをしている?」 メタモンと呼ばれたリザードは触手からレントラーを解放した。 喉を押さえて咳き込む彼にグレイシアは駆け寄る。 「大丈夫?」 不安そうに見つめる彼女にレントラーは大きく頷いてみせることで答えた。 「何とか」 口の端に垂れたよだれを拭い、四つ足すべてに力を込めて立ち上がる。 念のため数回深呼吸し、異常がないことを確認したあと、後ろから聞こえた声の持ち主に振り返った。 そこに立っていたのは、ライチュウだった。 ライチュウは、メタモンから視線をレントラーに、それからグレイシアに移した後、再びメタモンに視線を戻す。 「なにをしている、と聞いてるんだ。答えてくれるよな」 メタモンは無言で頷いた後、元の形状に戻ったリザードが腕をへし折れた木に向ける。 まだ完全に燃え尽きていない、元の姿をほとんど失った木から、すすだらけのリザードが飛び出し、怒りに燃えた目をレントラーにぶつける。 「ぶっ殺してやる」 男の食いしばった歯の隙間から炎がちらついている。 それを見たライチュウは察したように小さく頷いた。 「落ち着けリザード。気持ちはわかるが別に今すぐやらなくても良いだろう」 男はとくに感情のこもっていない口調でなだめた後、レントラーたちの方を向いた。 「さて、と。おまえらが人の縄張りに不法侵入してまで急ぐ理由はなんだ?」 にやりと作り笑いを浮かべたライチュウは、レントラーに一歩近づいた。 「別にたいしたことはじゃない。こいつが病気の友達の看病に行きたがっているだけだ」 彼の言葉が正しいという風にグレイシアはぶんぶんと首を縦に振った。 それを聞いたライチュウは、いかにも怪訝そうな表情を二人に向ける。 「だったら一人で行かせれば良いんじゃないのか?」 「ああおれもそう思ったさ。子供じゃないんだから一人で行けとな、だがここいら妙な三人組がいて、怖いらしくて……。そんな!……」 目を皿のように大きく見開き、驚愕の表情を浮かべたレントラーとグレイシアは互いに目を合わせる。 それとは裏腹ににやけ笑いを浮かべるライチュウたち三人。 そんな! まさか! レントラーは唾を飲み込む。 もしこいつらがその三人ならすぐにでも逃げ出さなくてはならない。でもどうやって? 疫病のような恐ろしい早さで、縄張りを広げている彼らに背を向ければ、たちまち切り裂かれてしまうだろう。 辺りを素早く見回す。そこそこの大きさの木があるだけのここは身を隠せるような大きな茂みも、臭いを消すための川もない。絶望的だ。 リザードが鋭い目つきのレントラーに近づき、彼の顔に、尻尾の炎を火傷しない程度にちらつかせる。 じりじりと顔面へ熱を与えられるのを、レントラーは感じた。 「レントラー、おまえはおれを突き飛ばしたな、このおれを、だ」 レントラーの顔につばを吐きかける。彼はそれを拭うことなくただじっと反抗的な目を相手に向ける。 リザードはそんな彼を鼻で笑うと、頬を手の甲で思い切り殴りつけた。 痛みに思わず悲鳴を上げそうになったが、口を引き結ぶことによって耐えた。おかげで、口内に広がる血液特有の鉄の味をよくあじわうはめになった。 「やめて。乱暴しないで」 グレイシアの悲痛な叫びに、さらに振り下ろそうとするリザードの腕がぴたりと止まった。 尻尾の炎がレントラーから離れ、彼女に向けられる。 赤々と燃える炎の熱に顔を背けるグレイシア。にやりと笑うリザード。 「乱暴? これが乱暴か?」 そう言って、彼女の目の前で自分の爪をちらつかせる。 尻尾の炎に、鋭くとがった爪がきらりと光った。 「乱暴ってのはな。こうするんだよ」 リザードは口をがばっと開き、中の牙を見せつける。 牙は爪と同じくらいに鋭いが、違う点もあった。その一つは爪の何倍も数が多いことだ。 口を閉じ、鋭い目つきでグレイシアを睨め付ける。 何をされるか直感したグレイシアは後ずさり、小刻みに首を小さく振る。 それを楽しむかのごとく、リザードはゆっくりと歩き、徐々に黒こげの木に追い詰めていく。 レントラーはその様子を、忸怩たる思いで見つめていた。 今すぐにでもあのふざけたリザードの首をへし折って内蔵を掻き出してやりたい。 彼はすぐ隣で、何も言わずに立っているリザード――メタモンと呼ばれてるらしい――とライチュウに視線を移す。 こいつらがいる以上、何をすることも出来ない。 もし何か攻撃的な行動を取れば、たちまちライチュウの電撃で黒こげにされるか、 メタモンの不思議な可変能力を有する体で絞め殺されてしまうだろう。 だからって、こうやって大切な友人が殴られるのをじっと見ていることしかできないのか? グレイシアは突然背中に走った痛みを感じるほどの高温に悲鳴を上げた。 後ずさるうちに、焼けこげた木にぶつかってしまったのだ。 絶望の表情で見上げると、にやけ笑いを浮かべるリザードが目に入った。 リザードは牙をむきだし、どこを噛み付いてやろうかと吟味するように足の先から頭のてっぺんまで舐めるように視線を動かしていくと、 がたがたと震える全身で特に震えている前肢が目に入った。 気をつけなければ折れてしまいそうなほど細い腕、こいつを傷つければもし逃げられたとき、彼女にとって大きな障害になるだろう。 逃走の阻止、自分たちの力の大きさを示威するためだ。リザードが彼女の震える右前肢に牙を突き立てようと口を開いた。 「もういいだろリザード、やめるんだ」 ライチュウの鋭い声に、リザードは舌打ちしつつ振り返る。 「わかった」 リザードはグレイシアの方を一瞥したあと、ライチュウのそばに寄った。 三人をそれぞれ見た後、満足げに頷いたライチュウは、レントラーに視線を向け、どうする? と問いたげに両手のひらを上に向ける。 「おれらは今すぐにでもおまえら二人を縄張りへの侵入者として殺すことが出来るんだ。死にたくないだろう?」 レントラーは無言で見つめ返しつつ、泣きべそをかいているグレイシアを三人から隠すような位置に移動する。 「ああ、死にたいなんて思わない。特にこんな抵抗もできないまま無意味に死ぬのはな」 反抗的な態度と視線にたまりかねたリザードが一歩前へ出た。 だがもう一歩出す前にライチュウが制したため苛立たしげに地面を蹴っただけに終わった。 「レントラー、おまえはすぐにこの森から出て行け、そして二度と戻ってくるな、そうすればグレイシアの命は保証する。もしおまえのそのむかつく目を今後見ることがあれば、グレイシア共々体中の骨という骨をすべて砕かれ、自らの流した血の海に放置されるはめになるぞ。一生付き添い無しには何も出来ない体で毎日をおれらにおびえながら過ごす生活なんかいやだろう?」 グレイシアの命は保証する、か。もっともらしいことは言っているがこいつはあくまで命としか言っていない。 何もしないと言っている訳ではない。 このまま森を去ればこいつは何をされる?考えたくもない。 「それは絶対か? それとも任意か?」 彼は、グレイシアの背中をさすりながら言った。 「いまおれが言った言葉をちゃんと理解していればどちらかわかるだろう」 ライチュウは仲間二人の方を顎でしゃくる。 いつでも飛びかかれるよう、身を低くしている二人にレントラーとグレイシアは気づいた。 「あまり妙な気を起こすなよ」 **3 [#h0b182fc] 辺りに立ちこめる深い霧のように重い沈黙と、張り詰めた糸のような緊張が五人全員の肌をつつく。 リザードの尻尾の炎の灯明が揺れ動くたびに、それぞれの表情に違った陰影をつける。 ライチュウはレントラーの返答をせかすように地面を蹴った。 地面に足が当たったときに飛んできた小さな小石がレントラーの前肢に当たる。 いったいどうするんだレントラー? 自分の心に問いただすようにうつむくレントラー。 このまま彼女を置いて逃げれば、自分の身には何も起こらないし彼女もとりあえずは無事でいるだろう。 だがこのチンピラどもがいつまでも口上のみの約束をいつまでも守るとは思えない。 しかし真っ向からこいつらに立ち向かって勝てるわけがない。 だからって、自分はいつから、こんな、人を売るようなまねをする腰抜けになったんだ? やつらはおれが逃げ出すと思っているらしい。だったらこのトンチキどもにわからせてやるべきだ。 おれは彼女を捨てて逃げるようなやつではない、と。 もし運が味方してくれればグレイシアだけでも逃がしてやれるかもしれない。 レントラーは顔を上げ、隣にいるグレイシアの恐怖に染まった瞳を見つめた後、ライチュウを睨み付けた。 大きく息を吸い込み、肺の中の空気を入れ換える。 「やなこった」 ライチュウが驚愕したように仲間たちと互いに目を合わせた。 「もう一度言ってくれ。聞き間違いだったら悪いからな」 信じられないといった顔つきで、レントラーへにじり寄るライチュウの目がきらりと光った。 それをみつけたリザードたち二人は、まるで面白い余興でも見るかのようににやけながらついていく。 「いやだ、と言ったんだ」 後ろの二人にも聞こえるくらいはっきりとした声で言いはなった。 グレイシアが彼の肩を叩く。 「何を考えてるのレントラー。あなたが出て行けば二人とも助かるのよ」 小さな声でそう言った彼女に、レントラーは安心しろという風に頷いて返した。 「大丈夫。ちゃんと考えがある」 迫るライチュウら三人と、後ずさるレントラーら二人。 焼けた木のくすぶる幹の後ろまで追い詰めるとライチュウは悲しそうに首を振った。 「残念だよ。おもえがもうちょっと聞き分けのあるやつだったらな」 哀れむような目に、レントラーは口元をゆがめ、あざけ笑いを浮かべる。 「ああそうだな。おまえらみたいな縄張りを広げることしか脳に無いような単細胞どもに殺されるだなんて、おれも残念だよ」 ライチュウはレントラーを鼻で笑うと、リザードたちへ振り返った。 いいぞ、そのままおれらに飛びかかってこい。レントラーは自分の思惑通りにことが進んでくれることを祈った。 祈りは天まで届かなかったようだ。 三人はにやにや笑うだけで、いっこうに飛びかかってこようとはしなかった。 レントラーがしびれを切らして逃げるため背中を向けるのを、もしくは飛びかかってくるのを待っているようだった。 くそっ。彼は小さく心の中で悪態をついた。何か良い方法はないのか。 きょろきょろと目だけを動かして、状況に進展を与えてくれるものを探した。 冷たい夜風が背の低い草花をかき分ける心地よい音と共に流れ込んできた。 目の前でくすぶっている倒木が新鮮な空気に触れた一瞬、力強く赤々と勢いを強める。 弱々しい灯火に照らされたライチュウの耳元で何かがきらりと輝いた。 赤い色をした人工的な飾り、そうか思い出した! ずっと以前に飾りを付けた妙なやつが森の外れに住んでいた。 前にあいつは飾りについて教えてくれた。 人間に捨てられたポケモンは体のどこかに赤い目印を付けられるとか言っていた。だとしたらこいつらも? レントラーはライチュウに負けないくらいの、相手をいらつかせる笑いを浮かべる。 「ああ思い出した。その赤い飾り、むかし人間に飼われてたって証だろ? イかしてるじゃないか」 彼の笑みに対比して、ライチュウたちの顔から笑みが消えた。あともう少しだ。 相手の平常心を奪うため、レントラーはとなりで訳がわからないというふうに彼とライチュウたちを交互に見つめるグレイシアを無視してさらに続ける。 「大事に大事にかわいがられ、甘やかされて育ったおたんちんな飼い犬どもが野生で生まれたおれらを殺す? ずいぶんとなめられたもんだ。どうせおまえらの飼い主も目先も見えない、おたんちんなやつなんだろ?」 三人は顔を真っ赤にしてレントラーを睨んでいる。 ライチュウが今までふざけたにやけ笑いを浮かべていたとは思えないほどゆがんだ表情で、怒りにわななく腕を突き出した。 「飼い犬だと?」 頬の電気袋からぱちぱちと不吉な音がかすかながらしている。 ライチュウは前肢を地面に下ろし、体勢を低くする。 そして、彼の足が地面を離れた。 それを合図に後ろのリザードら二人もレントラー目がけて飛びかかった。 ライチュウらが飛びかかるのと、レントラーが倒木に向かって走り出すのと同時だった。 「逃げろ! グレイシア」 レントラーは走りながら叫ぶと、彼女が言ったとおりにしているかどうかを確認する間もなく、焼けこげた倒木へ思い切り体当たりを食らわす。 衝撃で炭化した表面が一気に裂け、内部のいまだ赤い部分から大量の火の粉が舞い上がる。 それらは、飛びかかる三人の顔をもろに直撃した。 先ほどまでレントラーのいたところに積み重なるように落下した三人は、目の粘膜に走る痛みに顔を押さえてうめいている。 レントラーは自分にも降りかかった火の粉を払いのけ、グレイシアを追って木々のあいだへ飛び込んだ。 ライチュウがいまだ痛む目から腕をどかし、真っ赤に充血した目をレントラーに向けた。 「ただじゃおかねえ。いくぞ」 怒りに燃えるライチュウはリザードら二人をその場に残して、レントラーの逃げた方向へ走っていく。 起き上がったリザードはメタモンへ手を振った。 「空からだ」 返事もせずにメタモンはくるりときびすを返し、両手を鳥が羽ばたくように動かしながら、数歩助走を付けて飛び上がった。 みるみるうちにその体が半透明な紫がかった液体になり、次の瞬間には羽の生えた力強い腕となった。 リザードだったときの尻尾の赤々と燃える炎は、そのままの色合いの尾羽となった。 ピジョットとなったメタモンは数回羽ばたいて体勢を整えた後、一気に空へと舞い上がる。 そしてくるりと旋回すると、頭部の長い二色の煌びやかな毛をなびかせながらリザードのいるところ目がけて急降下を始めた。 リザードは自分の腹にくちばしが突き刺さる直前に、ぱっと飛び上がりピジョットの背中に飛び乗った。 メタモンは、まるでリザードの体重を感じていないような軽やかな羽ばたきで再び空へと舞い上がり、 ライチュウの走った方向へ翼を傾けた。 **4 [#a161d5ae] 囲むようにそびえ立つ崖の古い炭坑のすぐ側にある密接した大きな工場は何十年も前から人間が関わっていないことは明らかだった。 白くぼやけたガラスはほとんど砕け、打ち付けられたトタン板の表面は汚れ、疲労してできた裂け目には赤さびがこびりついている。 様々な色と太さのパイプや通風口など、大規模なそれらが隣接する建物を貫き、互いを繋いでいる。 内部の隅に出来た蜘蛛の巣は、湿気と埃を吸い付けたわんでいる。大きなベルトコンベアを作動させるための機械の後ろで、二人のポケモンが荒い息のまま隠れている。 普段の彼らの狩りは、茂みの中でじっと身を凝らして油断して近づいてきた獲物へ飛び出し、動転した獲物の首に牙を突き立てるというものだ。 そういう待ち伏せ型の狩猟をする彼ら二人の体は、こんな長い距離を走るようには出来ていない。 レントラーは顎を伝う汗を拭い取り、壁に開いた穴から差し込んでくる光を頼りに、となりで震えているグレイシアに目を向けた。 「大丈夫、あいつらは来ない」 彼女の背中に手をやりながら、やさしく言った。 「もし来てもまた逃げればいいさ」 置かれている状態にそぐわない、自信たっぷりな彼の言葉、普段のグレイシアなら笑っていただろうが今は違った。 彼女は頭を振ってレントラーの言葉を否定する。 「無理よ。あいつらから逃げられっこない、どこまでも追いかけてきて捕まっちゃう。そうなったらレントラー……あなたは死んじゃうのよ」 体をおののかせながら彼女は言った。全身を毒虫のようにはいずり回る恐怖。このような場面で無かったなら、グレイシアは声を出して泣きじゃくっていただろう。 レントラーは、彼女の背を軽くさする。 気休め程度にしかならないだろうが、何もしないよりかは良いだろうと考えたからだった。 「おれは死なないさ。もしそうなっても、ただで死ぬ気はないよ」 見つめ返すグレイシア、その目に向かって小さく頷いたレントラー。 無音の見えないとばりが二人の間にどっしりと腰を下ろしていた。 それを引きはがしたのは、レントラーでもなければグレイシアでもなかった。 涼しい夜風の音に混じって、工場の中に反響する小さな足音。 段々近づいてくるその音は、二人の動悸を激しくさせ、不安と緊張を辺りに張り巡らした。 レントラーは自らの口を押さえ、何か言おうとしているグレイシアに沈黙の合図を出したあと、機械の横から、そっと顔を出し音の源がなんなのかを探した。 大きく開かれた扉の真ん中に立っていたのは、月の光を後ろから受け、黒いシルエットのみとなって浮かび上がった一人のポケモンだった。 大きな体に三日月状の耳、細い尻尾とその先端部のぎざぎざとなっているところ。 視覚からの情報はたったそれだけだったが、レントラーの緊張は頂点に達した。 まさか、そんな。 慌てて顔を引っ込め、何とか気を落ち着かせようと胸を押さえる。 ただならぬレントラーの様子からグレイシアはそこに誰がいるのか気づいた。 その直後、さらに確信に近づけようとするかのごとく、野太い声が工場の中を反響した。 「遊びは終わりだ。逃げ場は無いぞ」 ライチュウは入り口近くでにやにやと笑いながら、奥のさび付いて開かなくなった大きな扉を一瞥した。 「どうやらおまえらは袋小路になったようだな。窮鼠猫を噛むという言葉があるが、おまえはどうするんだ、レントラー?」 問われたことに返事をすることなくレントラーはグレイシアにそっと耳打ちする。 その内容に、驚愕の表情で見つめ返す彼女をその場に残したまま機械の影から身を出し、鋭い視線でライチュウを睨み付けた。 ライチュウはそれがどうしたと言わんばかりに肩をすくめる。 「おまえがおれに火の粉をかぶせて逃げたときは正真正銘のばかだと思ったが、そうではないらしいな」 「ああ、たまには猫がねずみの言うことを聞くのも悪くないと思ってな」 耳元の赤い飾りがきらりと光った。ライチュウは付いてこいとだけ言い、工場の扉から外に出た。 足下の光を反射する線路は崖付近の建物から伸びていた。 そのさび付いた鉄路は工場の中、グレイシアの隠れている機械の裏の同様にさび付いた扉へと続いている。 ライチュウの指示に従ったレントラーは、冷たい夜風が体毛をかき分ける心地よい感触を受けた。 これが普段なら心の底から楽しめただろうが、今現在、自分の置かれた状況下では、ただ単に冷や汗を冷ますつめたい風としか感じられない。 「なぜおれらの居場所がわかった?」 「おれには、仲間がいるもんでね」 上を指さすライチュウの視線をたどっていくと、夜空の彼方に浮かぶ大きな月を時折遮る物体を確認できた。 それは音を立てずに、ゆっくりと地面へと降り立つと背中に乗せたリザードが地面へ着地したのを見届けたあと、ぶるぶると体をふるわせた。 ――いや、正確に言うならばそれは蠢動していた。 ぶよぶよと表面を波打つように蠢かしたあと、紫色の半透明な液体へと姿を変え、瞬く間にリザードとなった。 二人のリザードは全く同じ薄ら笑いを浮かべながらライチュウのそばへ歩いて、レントラーをじっと見据える。 「一人足らない。入るときは二人いたんだが」 「この中だ」 リザードの疑問に答えたライチュウは、もう一方のリザードにも命令を指示を出した。 「メタモン、こいつを見張ってろ」 頷いたメタモンはレントラーの首もとへ鋭い爪を押しつける。 工場の中へ入っていくライチュウとリザード、不意に振り返ったリザードは尻尾揺らしながら舌なめずりをして見せた。 「これからちょいと楽しんでくる。レントラー、気が向いたらおまえも呼んでやるよ」 レントラーは無言で、中へと消えていく二つの背中を見送った。 頼むグレイシア。さっき言ったとおりに動いていてくれ。 友人が、グレイシアが目の前で犯されるだなんて、おれは耐えられない。 無言の空間の隙間を埋めようしているのか、夜風が強くなった気がした。 その時、工場の暗がりの中からライチュウとリザードの怒りのこもった怒鳴り声が響いてきた。 その声を聞いたレントラーは思わず胸をなで下ろした。良かった、脱出してくれたんだ。 怒鳴り声に驚いたメタモンが、視線をレントラーから工場の入り口に向けた。 その隙に彼は全身に力を入れ、体毛を逆立たせる。 逆立った体毛の間で、小さな火花が散り始め、それらは瞬く間に眩しく輝く電気となった。 行き場を失った電気は四方八方に放電され、無数の帯となった電撃は地面を焦がし、草を燃やす。 メタモンは振り返り、放電するレントラーに向かって爪を振り下ろした。 それが彼にとって仇となった。 爪は肉に食い込むことはなかった。 電気をまとった体毛に爪が触れた瞬間、行き場を見つけた電撃が全てメタモンの腕を蛇のように絡みつき、さかのぼる。 光の帯は鋭い刃のようにメタモンの体を貫き、腰から上を粉々に吹き飛ばした。 辺り一面に飛び散ったメタモンの体組織は、しばらくウジ虫のように蠢いたあとただの水たまりになった。 下半身もそれに従うように、大きな水たまりとなって地面に染みこむことなく広がっていく。 レントラーは放電したあとに残った強い疲労感に足下をよろめかせつつも、体に付いた紫の液体を振り払いその場から逃げ出した。 早くどこかに隠れなければ、グレイシアを見つけ出さねば、その二つの思いが頭を行ったり来たりする。 メタモンがどうなったかを確認しようと、振り返ったレントラーは頭を誰かに強く殴られたような衝撃を覚えた。 紫色の水たまりが、坂を流れていくかのように地面を流れ、もともと下半身であった水たまりに吸い寄せられていく。 ぞっと寒気を感じながら見守るなか、一つの大きな水たまりとなった液体。 その中心が盛り上がり始め、夜空からの明かりを不気味に乱反射させながら頭や腕を形成し始めた。 リザードを形作った紫色の液体は、間髪入れずに元の燃えるような赤い色に戻った。 「……化け物め」 また元の、ライチュウに負けないくらいにむかつくにやけ笑いを浮かべるメタモンに対して、後ずさりながらレントラーはつぶやいた。 先ほどの電撃のすさまじい音を聞きつけたライチュウとリザードが扉から出てきた。 ライチュウはにらみ合う二人をそれぞれ見たあと、扉の中を仰いだ。 「グレイシアはどうやら機械の後ろの壁の穴から出て行ったらしい。おれらは女を追う、おまえはレントラーを頼む」 相手から視線を動かすことなく頷いたメタモンは、また体を震わせ始めた。 不定形な半流動状の物質となったメタモンの横を通り抜け、リザードとライチュウは炭坑の方へと走り去っていく。 紫色の蠢く物体が形作ったものは、レントラーにとってとても見覚えがあるものだった。 漆黒と百群のぼさぼさの体毛。混じりのない赤と黄金色の鋭い眼光。 その姿にレントラーは思わず身震いした。 湖面に映したように自分にそっくりなレントラーとなったメタモンは、あんぐり口を開けているもう一人のレントラーへ肩をすくめて見せる。 くそったれ。悪態を吐いたレントラーはメタモンを突き飛ばして工場の横の太いパイプへと飛び上がった。 錆びだらけのパイプは、レントラーの重みに対して悲鳴を上げたが何とか持ちこたえてくれた。 パイプに乗った彼を追って、メタモンもパイプに飛び乗る。 二人の体重に耐えきれなくなったパイプが傾き始め、隣接する工場の壁にもたれ掛かった。 衝撃で壁の一部が崩れ、中を縦横に走る細い鉄骨が顔を出した。 バランスを崩しかけたレントラーに対して、メタモンはにやりと笑い、一気に走り寄る。 レントラーは何か策はないかと見回した。不意に視界の端に壁から飛び出した幾本かの錆びた細い鉄骨が映った。 考えず、鉄骨を横から噛み付き、引き抜いた。 口の中に、錆びた鉄特有の不快な味が、口中に広がるのも気にせずに、飛びかかってくるメタモンの――レントラーの肩口に鉄骨を突き立てた。 突き刺さる衝撃が鉄骨を通してレントラーの歯に伝わり、鈍い焼けるような痛みが走った。 メタモンに刺さった鉄骨は肩口から突き刺さり、背中の真ん中辺りの皮膚を突き破って顔を出している。 肩から飛び出た鉄骨を呆然と眺めていたメタモンは、よろよろとうしろに後ずさった。 しかし別段痛みを感じている様子はなく、すぐに鉄骨を引き抜いた。 ぽっかりとうがかれた紫の穴が瞬く間に閉じていき、まるで最初から何事もなかったかのようになった。 そして、鉄骨を起用に掴み直すとレントラーの腹へ鉄骨を思い切りぶつけた。 強烈な一撃を食らった。全身を駆け回る激痛で息がつまり、体が浮き上がった。 パイプの薄い構造に、くぐもった落下音が反響する。 のど元を突き上げた胃液が彼の顎の柔らかい体毛を汚す。 食道から喉、鼻孔にかけての刺すような不快感に咳き込む。 メタモンはそんなレントラーを見下ろしながら、手の中の鉄骨を投げ捨てた。 その時、何かがはじけるような不気味な音と共にパイプが揺れた。 同時に振り返った二人が見たのは、レントラーたちの乗っている直線パイプと、壁の中へ直角に曲がったパイプの接合部の脆くなったボルトが、過度の重圧に耐えかねてねじ切れる瞬間だった。 錆びた接合部は、ノコギリ状の断面のみを残して崩れ落ちた。 とっさに壁の鉄骨を掴んだレントラーの見つめる先では、バランスを崩し、転がり落ちたメタモンが錆びだらけのノコギリに背中を貫かれている。 その視線はしっかりと目の前のレントラーへ固定されていた。 レントラーは痛みを堪え、喘ぎながら立ち上がると、はりつけにされたメタモンとは反対の方向、斜めになったパイプを上っていき、工場の屋上のふちへ手をかけた。 背中の冷たい感触は、ほんの一瞬、メタモンを惑わせるに至ったが、生命活動を停止させるに至らなかった。 のろのろと身体を持ち上げる彼。何かが引きずり出される感触を背中で味わった。 かすかな痛みが内側を舐める。 錆びた鉄のノコギリが身体を離れ、瞬く間に閉じていく大穴。彼の種族のみに与えられた能力。 電気、火、水、あらゆる存在に取って代われる存在。 一粒の砂から巨大な岩にでもなれる、神の足下に値する力。 死に直結することのない痛みの感覚。 それは生命体としての常識を逸する。だが彼は考えることが出来る、紛れもない生命体だ。 メタモンという種族で、メタモンという名の不完全な存在。 生まれつき変身能力が脆い彼は、相手の姿は完全に取り込む事は出来ても、一番重要な部分、声と能力が欠けていた。 たとえ自分がリザードンになったところで炎は吹けない。カメックスになっても水は出せない。 メタモンは俯き、ため息をついた。 自分を捨てた主人の気持ちがわかるような気がした。 不完全な変身は模倣でしかない。 幸せな家族のように過ごした日々は勝負という言葉の前では意味を成さない。 勝負に勝つためには、自分のような存在は邪魔なのかもしれない。 友人の言葉を借りるなら、おそらくはこうだろう。 人間との友情なんて、糞の足しにもなりはしない。 全身の修復が完了したメタモンは、雑念を振り払うように首を振り、屋上に目を向けた。 新しい家族のためにも、いま自分のやれることをしなければならない。 苔だらけのコンクリート。地面以上に冷たい感触が、荒い呼吸をつくレントラーの尖りきった神経を若干ながら正常にさせる。 その直後、追いかけるようにして屋上に飛び乗ったメタモンは、前肢をレントラーに見せびらかすように振った。 途端に、メタモンの腕――レントラーとなっていた腕が、じわじわと細くとがり、紫色の半透明な刃となった。 すらっと伸びた刃が、月の光を受けて鈍く光る。 メタモンの振り回される腕の一閃を、首を大きく反らすことで何とか避ける。斬りつけられた被毛がゆらゆらとコンクリートの上へ落ちる。 少しでも判断を間違っいれば、落ちたの毛ではなく肉だっただろう。 次の攻撃に備えて、どの方向にでも飛び出せるように四肢に力を込める。 レントラーは再び飛びかかってくるメタモンの振り上げた腕と反対側になる方向へ飛び出した。 今まで自分がいたところに刃の腕が食い込む甲高い音。 堅い刃の与えた強い衝撃が、屋上に苔だらけのコンクリート片を跳ね上げさせる。 レントラーはその破片が重力に任せて下に落ちるよりも前に、メタモンの後ろに回ってその首に噛み付いた。 弾力のある肉に、とがった犬歯が深く食い込んだ。だがそれだけだった。 これが普通の、彼のよく知る血を流すことの出来るポケモンなら致命傷を与えられただろう。 メタモンは首をかしげて、無防備になった腹に肘をぶつけた。 うめき声を上げてふらふらと後ずさるレントラーの顎に、さらに追い打ちを掛けたメタモンの蹴りが見事に当たった。 痛みと衝撃でバランスを崩した彼が、はめ殺しの天窓の上で尻餅をついた。 窓に出来た小さな亀裂は瞬く間に広がり、彼は工場の中の一室へと落下した。 工場の奥の方に位置するその部屋は、薬品の詰まった小瓶が大量に載った骨組みだけの棚が所狭しと並ぶ何の面白みのない密室。 瓶に貼ってあるラベルはとうに剥がれ、それが何なのか知るすべはない。 幸運なことに彼の身体は棚のないところに落ちた。 堅い床に当たる直前に彼は身体をよじって着地すると、遅れて降り注ぐガラスの破片が届かない部屋の隅の棚の後ろに移動する。 長いこと使われていなかった部屋にもうもうと立ちこめる埃が目くらましになってくれる。そう信じたかった。 先ほどの強烈な蹴りで折れた歯の破片を、血の混じったつばと共に吐き捨てるレントラー。 それに次いでメタモンが割れた天窓から飛び降りてきた。 尖った前肢が、床に着地した瞬間に小さな火花を生じさせた。 メタモンはゆっくりと周りを見回すと、天窓からの弱い明かりに浮かび上がったほこりの厚い靄の中をゆっくりと進んだ。 棚を三つ挟んだところで息を潜めているレントラーは、棚に載った大量の瓶ごしに相手を見つめる。 メタモンの腕の刃によるものか、ガラス片によるものかは定かではないが、レントラーの額の肉が鉄紺色の体毛ごと浅く斬りつけられ、流れ出る血が彼の右目に入り視界を利かなくさせていたが、それすらも気にする余裕が無いほど彼は緊張していた。 そこから見るメタモンの姿は、ガラス製の瓶のおかげでぼやけてはいるが、そいつの前肢が刃のままだということに関しては確かだ。賭けても良い。 メタモンの視界に入る前に、彼はさっさと首を引っ込めて、この部屋から出る手段を探った。 壁にある錆びだらけのひしゃげた金属製の扉はとても開きそうにない。 となれば……。彼はたった今落ちてきた天窓を見つめた。 自分の身長の何倍もある天窓まで飛び上がるのは無理だ。 彼はせわしなく体と目を動かし、案を探した。 ゆらゆらと揺らしていた尻尾の末端部分に何かが触れたのを感じた。 尻尾に感じた堅い感触。彼が振り返ると、ちょうどレントラーの引っかけた小瓶が床に落ちるところであった。 瓶の破片と中の液体が床に広がった途端、空気の抜けるような音と共に、長年降り積もった埃が煙と共に姿を消した。 目の前で起こったことに驚きの表情を浮かべる彼だったが、音を聞きつけてメタモンがやってくることを考え、すぐに別の棚の陰に隠れた。 案の定、割れた瓶のところに来たメタモンは、きょろきょろと辺りを見回す。 待てよ。レントラーの頭の中に、ある考えが浮かんだ。 成功する保証の無い、一種のかけのようなものだが何もしないよりかはましだ。 彼は棚から小瓶を一つ咥え、反対側の壁にぶつけた。 音につられたメタモンが、その壁に近寄っていく。 壁の前できょろきょと辺りをうかがっているメタモンの後ろの棚に、レントラーはもたれ掛かる。 「どんなにバラバラにしても蘇るなら……」 棚越しにメタモンの背中に語りかける。 体重を掛けると、棚はゆっくりと傾きだした。 突然の声に驚き、振り返ったメタモンだったが、もう遅い。 倒れてくる棚を一方の刃で何とか押さえ込んだが、瓶は斜めになった棚から全て滑り落ちてメタモンの上に落下した。 大量の小瓶が堅い床とメタモンに当たり、割れた瓶からあふれ出した液体をもろにかぶった。 何かが焼けるような音と共に、メタモンの体から煙りが吹き出した。 最初はきょとんとしていた彼だったが、すぐに追いついてきた耐え難い激痛にのたうち回り声の出せない口から無音の悲鳴を上げた。 レントラーは“魔法の水”が自分にも影響を出さないよう、数歩うしろに下がる。 強力な薬品はメタモンの体の奥深くまで浸透していく。体組織が溶けていく過程で生まれたむせ返るような悪臭に鼻を塞ぎたい衝動に駆られたレントラーは顔をしかめた。 溶けてゆく体の黒と水色の境界線が、まるでピントがずれたようにぼやけていき、もとの紫の固まりになった。 今までレントラーだった身体はリザードに変わり、ライチュウに、ピジョットに、レントラーの知らないものにも変化した。 様々な種族に変わっていくメタモンだったが、共通点としてそのどれもが口を大きく開き、苦痛に顔をゆがめ、手足を線形動物が生えているかのごとくでたらめに動かし、体組織の飛沫を壁や床に描いていく。 醜悪なその姿は、メタモンの内にある全ての悪を具現化しているように、絶えず蠢かしている。 目の前で繰り広げられる強烈なショーに視線を貼り付けにされていたレントラーだったが、しだいに彼はそれが終わりに近づきつつあることに気づいた。 痙攣的にしか動かなくなってきたメタモンは、二回り以上も小さくなった体から紫色の粘液質なしずくを垂らしながら、目の前のレントラーと視線を合わせた。 そして小さく体を振動させ、レントラーにとって身近な存在である者へと変化した。 形を保ち切れていないその姿は、醜悪そのものでとても見ていられなかった。 目の前に立っているグレイシアとなったメタモンは、濃い紺色の瞳をレントラーへ向ける。 瞳と思われるその部分は、恐らく今までメタモンが感じたことのない感情の色が混じっているのか、瞳がゆらゆらと揺れてる。 その感情とは死に関してだろうとレントラーは察しを付けた。感じたことのない強い痛み、損なわれていく自らの体。直結する死の感覚。 初めてのそれがどんなものなのか、彼には想像もできなかった。 助けてくれ、命乞いをするかのようにメタモンはぐにゃぐにゃになった耳を寝かせた。 レントラーはその姿を見て思わずため息をついた。うんざりだ。 自分にとって大切な存在であるグレイシアの姿を模倣する者へ、辟易と怒りのこもった鋭い視線を向ける。 全身へ込められた力が幾本もの光の筋となって体毛から体毛へと駆けずる。 「いっそ溶けちまえ」 言い放つその言葉にメタモンは抵抗の出来ない運命を悟ったのか、諦めたようにうなだれる。 頭が動いたとき、額についている色あせ、歪んだ氷の結晶のような部分の端から伸びる腐肉のように変色した房が揺れた。 レントラーは胸の中でとぐろを巻いている不快感をかき消すことができることを願いながらつばを吐くと目の前の、熟れた木の実を連想させる物体へ電撃を放った。 頭に直撃した電撃は、模倣された頭部を内側から粉砕した。 頭を失ったポケモンは、足下に出来た自らの溶けた体液の水たまりに仰向けに倒れた。 全体を力なく、陸に揚げられた魚のように痙攣させていた胴体がぴたりと止まると、氷が溶けるようにして一気に形を失った。 押し寄せる紫色の液体はレントラーのすぐ手前で止まった。 彼は、メタモンの死を確認するため水たまり全体に目を凝らす。 微動だにしない、生命を失った液体は月の光を浴びてきらきらと輝いている。 そこに今まで何かいたという痕跡は、床に広がる生の無い液体と不快な臭いだけだった。 メタモンの死を確信した彼は放心し、その場に座り込みそうになったが当初の目的を思い出し、かぶりを振った。 彼はふらつく四肢に力を込め、天窓を見上げた。 天窓の近くを鉄骨が部屋を横断し、それが水たまりの向こう側の棚の上を通過しているのが見えた。 彼は紫の湖を大きく迂回し、ごちゃごちゃ瓶の載った棚に足をかける。 その時、視界の端の液体の中で何かが光った。 見てみると、それは赤い色をした球体だった。 飼い犬の証であるその印は、宿主の体だったところの上で、鈍く光を放っている。 レントラーは視線を戻し、右目に入った自らの血を拭うと、棚の瓶を落としながら上へよじ登り、さらに鉄骨へと跳躍した。 **5 [#c35b175b] レントラーのいる大きな工場からかなり離れたところの線路のある長く緩い斜面を、そのポケモンは顎を伝う汗を拭うことを忘れる程に走っていた。 動かし続けた四肢が悲鳴を上げ、荒い呼吸が喉を渇かしていく。 額の、氷の結晶のように輝く美しい飾りの両端から伸びる房が動きに合わせて揺れる。 許容範囲を超えた疲労が、そのポケモンの身体の機能を徐々にだが確実に奪っていく。 恐怖によって異常なほど分泌されたアドレナリンが、その元凶である存在を感じるための神経を過敏にしている。 ピンと立った透き通るような青をした耳を後ろへむける。 アドレナリンの加護は必要最低限な箇所にしか送られず、だらしなく開いた口から、乾いた喉を通って出入りする空気がひゅーひゅーと音を立てている。 坂を登り切った彼女はすぐに今まで走ってきた坂の下へ振り返った。 夜の闇に照らされ、砂が薄く表面に積り、所々のひび割れから雑草が顔を覗かせている舗装された坂道と、それに平行して設置されているさび付いた線路とその上で鎮座ましましている鉱石運搬車がある。 工場の方向からは何の気配も感じられない。 彼女はほっとため息をつくと、鉱石運搬車の影へ身を隠した。 何も積んでいない四両の貨車とそれらを牽引するための力強い原動機の付いた先頭車両の至る所がすすによって黒ずみ、暗緑色の車体を浸食するかのようにさびの赤橙がこびりついている。 グレイシアはその先頭車両と貨車の間の狭い空間でじっと息を潜め、危険が去るのを待った。 身体へ体力が戻ってくると、それまで気がつかなかった乾いた喉が、ひりひりと痛み出した。 車輪と車輪の隙間から恐る恐る顔を出し、辺りをうかがう。 通常、彼女の鼻の機能は明視距離をはるかに上回る。 が、今日のように乾燥した空気の中では、においを感じることがほとんど出来なくなってしまうのだ。 いつでも逃げられるように身構えながら、短い明視距離を補うために耳をぴんと立てて坂の方を見つめる。 冷たく乾燥した夜風で舞い上がった砂塵が、月の淡い光に照らされて一種独特のとばりを下ろしていた。 動きのない視界と、自らの心音とが入り交じった風の音以外なにも感じ取ることは出来ない。 逃げ切れた。彼女は胸をなで下ろした。 と、何の前触れもなく上から照らしてくれていた月の明かりが消えた。 不審に思った彼女が上を見上げた途端、消えかかっていた恐怖が再び荒波のように襲ってきた。 「何かお探しですかお嬢さん。何なら手伝ってあげましょうか」 知性の欠片すら全く感じられない声は、鉱石運搬車の貨車のふちで仁王立ちしているライチュウからだった。 悲鳴を上げ、逃げるためそこから飛び出したグレイシアだったが、突然後ろから鋭い閃光が走り彼女は糸の切れた操り人形のようにその場に頭から突っ伏してしまった。 頭に靄が掛かったように思考が虚ろになる。 え? 何、どうして……。 うつぶせのまま彼女は起き上がろうと再び四肢に力を込めたが、鉛のように重たくなった手足は地面へ爪を立てるのがやっとだ。 細かな砂が開いたままになった口へ呼吸と共に吸い込んでしまったのかじゃりじゃと嫌な感覚が口内に広がる。 ライチュウはうまく相手を麻痺させることが出来たことを、となりのリザードに満足げに頷くと貨車から飛び降り、倒れているポケモンへと足下の砂を踏みしめながら近づく。 後ろから聞こえる悪魔の足音に、グレイシアは体をこわばらせ、機能を著しく低下させられた腕で必死に地面を引っ掻く。 助けて。呂律の回らない、痺れてかじかんだ舌で必死にレントラーを呼ぶ彼女をライチュウは鼻で笑った。 「呼んでも来ない。やつは死んだよ」 ほんの一瞬、グレイシアの時間が止まった。 時を刻む歯車が再び回転し、秒針が動き出すまでのあいだ彼女は一つのことで頭がいっぱいだった。 グレイシアは地面を見つめたまま、否定するかのように弱々しく首を振る。 「うそじゃない。第一ついて何になる。あいつは死んだ、メタモンに殺された。かわいそうに、抵抗しなければあんなズタズタにされる必要も無かったのにな」 遅れてやってきたリザードが彼女の耳を掴み、顔を無理矢理引っ張り上げる。 苦痛のうめき声を漏らすグレイシアを無視して彼は続けた。 「やつが最後なんて言ったかわかるか。たしかこうだ、『頼む助けてくれ、グレイシアならやる、好きにして良い。だからおれは殺さないでくれ』だ。薄情なやつだよ」 グレイシアを包んでいた恐怖が、瞬く間に絶望へと変わった。 極度の恐怖感で疲れ切った意識へ直接レントラーの死を突きつけられた彼女は理論的な判断がほとんど出来なかった。 もし、このような状況にグレイシアが置かれていなければ、落ち着いて冷静な判別ができる状態ならばライチュウたちの話にまるで信憑性が無いことにも気づけただろう。 しかし彼女は気づけなかった。グレイシアの頬に細い光の筋を描いていく絶望の涙がそれを物語っている。 リザードは彼女の突っ張っていた腕から最後の力が抜けたのを感じ取った。 彼はもう一方の腕をグレイシアの肩へ回すと、ライチュウの立っている方を顎でしゃくった。 「手伝ってくれ」 ライチュウは返事をする代わりに肩をすくめると力なく伸びたグレイシアの足を掴んだ。 全身の自由の利かない彼女を、これからの行為に備えて仰向けにする作業はすぐに終わった。 皮一枚向こうに、どれ一つ欠けても死に繋がる内蔵のある腹を無抵抗なまま晒される。 抵抗は無意味だということと服従という意味合いを含んだ格好の、グレイシアの呼吸と共に上下する浅縹の色をした腹をリザードが爪でなぞる。 麻痺して鈍ったその感覚に、気味悪さを覚えた彼女は何をしているのかという問いを、不自由な舌から弱々しく発する。 それに対して、リザードはにやりと笑うと身をかがめ、彼女の頬に残った涙をは虫類特有の長くて気味の悪いほど細い舌で舐め取る。 「悪いな、だがあいつはおまえを好きにしても良いと言った。だからそうするのさ」 リザードはグレイシアを支えていた腕を放し、胸の辺りで止まっていた指を段々と下へ動かしていく。 鋭い爪は、少し間違えれば確実に柔らかい腹を裂いてしまうようなところで、綿のような柔らかい質感の体毛をかき分けていく。 その感覚に彼女は小さな不快感を覚えた。 やめて。か弱く小さな悲鳴はリザードを助長させるのみで何ら効果はない。 リザードの爪が下腹部の、女性の証とも言えるべき部分に近づいたとき、彼女はこれから何をされるのかわかった。 身の毛もよだつおぞましい行為にグレイシアは尻尾を股に挟んで、自由の利かない体で出来る限りの抵抗を試みたがリザードは別段気にすることなく簡単にそれを払いのけたため無駄に終わった。 それでもなお必死で体をよじるなりなんなりして少しでも事態を先延ばしにしようとする彼女へ含み笑いを浮かべるリザード。 ライチュウは咳払いをしてその行為の中断を促し、 「メタモンを呼んでくるべきじゃないか。仲間はずれにするわけにもいかんだろ」 と言ったライチュウに、リザードはかぶりを振った。 「あいつを先にしたらこいつの体が壊れちまう。おれらが十分楽しんだあとで呼べばいいさ。にしてもいい女だよな、あのガキなんて言ったっけ? ジグザグマだっけか? そいつに感謝しないとな」 グレイシアの恐怖と絶望に染まった瞳がライチュウを見据える。 そこに若干の疑問の色が浮き出ているのに気づいたライチュウが、からかいを含んだ口調で答えた。 「おまえの言いたいことはわかっている。なぜおれらがその子供を知っているか? だろ。あの子には悪いことをしたよ」 **6 [#c5ae5246] 全身の筋肉の上げる抗議の悲鳴を無視し続けるのはそう簡単なことではない。 天窓から脱出するさいに出来た、尖ったガラスにえぐられた生々しい傷口から滴る鮮血が、引きずる一方の後肢を赤黒く染め上げている。 工場の屋上から点々と続く赤い跡は、長い坂の上の鉱石運搬車の裏で荒い呼吸のレントラーまで続いている。 その傷が深いことと、急激な運動によって血流が良くなっていることが相まって流れ出る血は止まる気配をいっこうに見せない。 心臓の鼓動に合わせて脈打つように疼く傷を恨めしく思いながら、貨車の向こう側へ飛び出したい衝動をなんとか堪えていた。 貨車と貨車の間の隙間から見える向こう側の状況は、見ていられるものではなかった。 今すぐにでもあのふざけた野郎どもの喉をかみ切ってやりたかったが、そのためにはまず貨車から飛び出す必要がある。 怪我のある足で真っ直ぐ突っ込んでいくのはかしこいとは言えない。 グレイシアを人質に取られる可能性にも目を向けないわけにはいかない。 彼女を救うために飛び出して、彼女を人質に取られたんじゃ危険を冒した意味がない。 何か良い方法はないのか? 様々な考えが、堂々巡りをしては壁にぶち当たる。 グレイシアの一層強いかすれた悲鳴が、思案する彼の耳に届いた。 貨車の間から顔だけ出して覗いてみると、リザードとライチュウに押さえつけられてほとんど身動きがとれていないグレイシアを視認できた。 痺れた前肢を力なく振り回し、泣き叫びながら何度もレントラーの名を呼ぶ。 助けを求める悲痛な叫びに、恐らく嗜虐心を駆り立てられたであろう二人はにやりと口元をつり上げる。 リザードは舌なめずりするとグレイシアの身体を上から下までなめ回すように視線を動かし、身体を二つに折って彼女の方へかがんでいく。 止めてと言わんばかりに大きく見開かれたグレイシアの潤んだ瞳が絶望に変わっていくのを楽しむかのようにゆっくりと、しかし確実に股間へと顔を近づける。 リザードの長い舌が、炎ポケモン独特の高温を含んだままグレイシアの最も敏感な部分を撫でる。 初めて他人に、意思に関係なく触れられる気味の悪い感触に、彼女は短い悲鳴を上げた。 その抗議の悲鳴に全く耳を貸さずに、ぷっくりと膨らみを持った恥丘をなめ回す。 無理矢理なその行為に快感は生じていないのであろう。 ただおぞましい恐怖の感覚が、ぬるぬるととろみを持った蜜のように下腹部からじわりと体中に広がることに忌避の声を漏らす。 嫌悪感からか、彼女は足をくねらせて行為を中断させようと試みているが、目の前で繰り広げられている官能的で魅力的な劇を、食い入るように見つめているライチュウに押さえつけられているおかげでほとんど意味のないものになっている。 くそったれ……。レントラーは閉じた歯の隙間から怒りのこもったうなり声を発する。 強い憤慨で気色ばんだ感情を抑えようと深呼吸を試みるが、一度波立ってしまった怒りはそう簡単にかき消せるものではない。 乱暴に揺り動かされる尻尾は、彼の苛立ちを仔細に表している。 このまま飛び出せば自身はおろかグレイシアにまで危険にしてしまう。 だからと言ってこのままあいつらが満足するまで隠れている気はさらさらない。 彼は数十歩後ろへ後退すると、助走を付けて貨車を飛び越えられるだけの距離をとった。 あれこれ考えている内に取り返しの付かないことになってしまう。 それだけはごめんだ。誰にも、おれの友人――いや、グレイシアには触れさせない。 彼は軽く頭を振って、若干ながらも平静さを取り戻すとさびで染まった暗緑色の貨車を睨み付けた。 暗黒に浮かぶ蝋色の雲の切れ間を縫うようにして月の僅かな光芒の一部がレントラーを照らした。 それによってかぼそく弱い明かりは、彼の眼球の網膜を通り抜け、その下の輝板が反射して再び網膜を内側から刺激する。 内側の光がレントラーの黄金色の瞳が鈍く発光させた。 レントラーの視線の先、暗緑色の貨車が彼の焦点を中心に波打ち始め、瞬く間に大きな穴をうがった。 実際にはこんな非現実的なことは起こっていない。 だた単に彼がポケモンであり、レントラーとして可能にされた能力である。 こしらえられた穴の向こう側のさび付いた鉄板が歪み始めたとき、彼は思わず口元をゆるめた。 ものが透視される瞬間はいつ見ても楽しい、こんな状況でなけりゃもっと楽しめたのに。 貨車の側面の鉄板二枚が混じりのない湖のように透明になった途端、彼の少しばかり薄れていた怒りがまたぶり返してきた。 揺らぐ視界に映ったのは、二匹のポケモンに押さえつけられたグレイシア。 先ほど貨車と貨車のあいだから見たときと何も変わっていない。 少なくとも今のところは。 飛びかかる相手を間違えないように、姿勢を低くして構え、いつでも飛びかかれるように準備をするレントラー。 分厚い二枚の鉄板ごし見ているためか三人の表情までは読み取れなかったが、グレイシアの恐怖に染まっているであろう表情と、それを見て楽しんでいるリザードとライチュウの下品な笑みは難なく想像できた。 彼はまずどちらのチンピラを奇襲するべきか、状況と地形と相手の感情を考慮して考え出そうとしたが、それよりも自分がどちらに一番憎悪の感情を抱いているか――要は真っ先にぶっ殺してやりたいかを考えることで答えを出した。 レントラーは低くした姿勢をさらに低く構えて小刻みに腰を振って微調整を加えたあと、一気に駆けた。 四肢が地面を力強く叩き、砂を舞い上がらせる。 堅い鉄壁に鼻先をしたたかぶつけるまであと数歩といったところで跳躍し、貨車の手前側の鉄壁のふちに足をかけてより高く飛び上がると、猛禽類のごとき素早さでリザードに体当たりした。 突然走った痛みの原因が何であるかを知る前に、リザードは固い地面に頭を叩き付けられた。 勢い余ったレントラーはリザードにぶつかったあと、リザード同様地面を転がったが、すぐに起き上がるとしたたか打った頭を押さえてうずくまっているリザードのおうとつのない首を自らの顎で挟んだ。 鋭い牙が首筋に赤い血の筋をつくる。苦痛にうめき声を上げるリザード。 今自身の置かれている状況を理解しているなら当然のことだが、その腕の鋭利な爪をレントラーに向けることはなかった。 レントラーが目だけを動かして鋭い視線を、グレイシアのそばにいるライチュウに向ける。 ライチュウは気色ばんだ目ですぐ前にいるレントラーをにらみ返しつつ、グレイシアの額に一方の腕を近づける。 指の先端と彼女の額の結晶のあいだで、小さな放電が生まれた。 「リザードを放すんだ。返答次第でこの静電気が雷に変わるかもしれんぞ」 そう言ったライチュウだったが、実際に彼が電撃を発することはなかった。 レントラーが顎に力を入れたことによって、裂けた肉から滴る鮮血と同様に染み出すリザードの苦痛の声を聞いたからである。 しばし睨みあう一対のポケモン。 その間グレイシアは幽霊でも見るかのような目でライチュウの背中の向こうにいるレントラーを見つめていた。 死んだと聞かされた者が目の前に立っている対する驚きと当惑が彼女の内側を無秩序に走り回る。 「……どうして」 ごった返した心が口からかすれたように出させた言葉はそれだけで、腰を下ろした沈黙をどけることには至らなかった。 リザードを捕らえたまま鉱石運搬車の方へ後ずさるレントラー、それに合わせてゆっくりと前進するライチュウ。 いいぞ、このままついてこい。そうすりゃその分だけグレイシアが逃げる時間ができる。 ライチュウとグレイシアを交互に捉えながらレントラーは思った。 先頭の車両を迂回した辺りでリザードの尻尾の先端で燃える炎が、今だ横たわったままのグレイシアまで届かなくなった。 暗闇の中へ消えた彼女の身体。消える瞬間まで、彼女はレントラーを見つめていた。いつのまにか空を厚く覆っている雲が月の光すらも吸い取ってしまっているようだ。 先ほどよりも強い闇のとばり、噛み付いたままの顎が疲労で引きつる。 「いつまでそうしているつもりだ」 うめき声に混じってリザードが発した苦痛の色が浮き出た声がレントラーの耳に届いた。 「さあな。気が向いたら考える」 レントラーの声をかき消すようにライチュウが片手をもどかしそうに振ったあと、坂の下で鎮座ましましている工場を顎でしゃくった。 「時間を稼いだところで延命に過ぎないぞ。もうじきメタモンも来るだろうからな」 ライチュウの馬鹿にするような声色に彼は内心ほくそ笑みながら、口を自由にするためリザードを地面に横たえ、片方の前肢でその頭を押さえつけ、それから顎を離す。 「いいや、あいつは来ない」 ふいにライチュウが列車の線路の間で足を止めた。 その目は明らかに疑いの色味を含んでいる。リザードも悔しさに歯ぎしりをしながら、聞き耳を立てている。 そして相手の真意を探るような目つきでレントラーの身体を上から下までくまなく観察する。 それが済むのを待ってから、彼は先ほどライチュウがしたような動作をしてから工場の方を顎でしゃくった。 「何なら見てくると良い。ここから四つ目の工場の中の水たまりがそうだ」 レントラーが言い終わるや否や、自由の利かないリザードが今持ってる力を限りに暴れ出した。 友人を殺されたことに対しての突発的な怒りがそうさせたのだ。 レントラーは何とか大人しくさせようと、同じように憤然たる面持ちのライチュウに意識をいくらか傾けながら、踏みつけている足に力を掛けようとしたが、 運の悪いことに勢いよく振り回される尻尾の炎が、彼の後肢をあぶったことでかなわなくなった。 太股の傷がじゅっと肉の焼ける短い音を立てるのと同時に、直接脳みそを弄られるような激痛の荒波が彼に覆い被さった。 耐え兼ねざる痛みにレントラーが一瞬だけ足の力を緩めた瞬間にリザードは弾かれたように飛び出し、 「よくもメタモンを」 と化け物じみた形相で吠えたてると憎むべき相手へ殴りかかった。 押し倒され、圧倒的に不利な状況に立たされながらもレントラーは、灼熱の炎に身を焼かれまいとリザードの頭をねじる。 手の指から飛び出した爪が、押しつけられた頬に血の筋を作り上げる。 必殺の攻撃を封じられたリザードは、押し倒すために用いた腕を、その喉に突き立てようと力を込めた。 体格の上ではレントラーが有利だが、人間にしっかりと訓練されたリザードの力はそれと同等、もしくわ上回っていた。 命の灯火を賭けて、二人に過剰なほど力を与える筋肉が痙攣的に震え始める。 剃刀のように鋭い爪が、それを掴んだレントラーの手のひらを傷つける。 徐々に、だが確実にレントラーの腕は限界に近づいていく。 そして徐々に、だが確実にリザードの爪が彼の喉に迫っていく。 太刀打ちできない歯がゆさにレントラーが怒りのこもったうなり声を発すると、リザードは目と鼻の先にまで迫った憎むべき命の灯台を吹き消せることに歓喜のうなり声を発する。 はっきりしているのは、今ここで手の力を抜けば必要以上に苦しむことなくあの世へ行ける。ということだ。 手のひらから垂れた鮮血が大量の脂汗と共にレントラーの体毛に染みこんでいく。赤い色がリザードの尻尾の燃えさかる紅がかった色味に照らされる。 血に染まった爪が彼の喉の皮膚を突き破ろうかという時、リザードはレントラーと視線をかみ合わせ、 「向こうは寂しいかも知れねえけど安心しな、すぐにグレイシアも行くからよ、もちろん十分かわいがってからな」 と無理矢理横を向かされたまま、あの悪魔のようなにやけ笑いを浮かべた。 が、そのにやけ笑いをレントラーは見ていなかった。沸き立つ怒りの渦が頭に大量の血を送り、視界を真っ赤に塞いでいたからだ。 かわいがるだと、ぶさけるな。 腹の底に今までため込んできた怒りを湛えたため池のふちを、リザードの言葉がぶち破った。 勢いよくあふれ出したそれは、底を尽きたアドレナリンに取って代わって全身に浸透していく。疲れ切った腕の筋肉も例外ではない。 爆発的に湧き出した力は、痛みを感じなくなった手で掴んだ爪をじわりじわりと押し返す。 広がっていく爪とレントラーとの空間、リザードは困惑に目玉を皿のように丸くしながらせわしなく動かしている。 鋭い眼差しが、それを捉えた。 「おれの……友達に……近づくな」 喉の奥から絞り出すようにして声を吐き出すと、リザードとレントラーのあいだに出来た僅かな空間に後肢を滑り込ませ、リザードがなにかしらの対抗策を探す暇を与えることなく、薄橙色の腹を思い切り蹴り飛ばした。 一瞬のあいだ宙を舞ったのちに、電撃を放つ機会を伺うため、数歩の距離にまで近づいていた電気ネズミに頭から激突した。 崩れ落ちる二人が汚い言葉を吐くのも気にせず、レントラーは鉱石運搬車の向こう――グレイシアのいるであろう方向へきびすを返した。 もともとグレイシアから引き離すのが目的であったがライチュウたちの怒りを煽ってしまった今、不可能と思わざるを得ない。 だからといって彼女のところへ引き返したって何も出来ない。咥えて運ぼうだなんて考えるだけで無駄だ。 けれど何かしたい、そんな考えが頭の片隅にあった。無駄なことにせよ、せめて最後には彼女に会いたい。 最短距離でグレイシアのいるところへたどり着くため、彼は先頭車両の、雨ざらしの運転台がある狭い空間を突っ切ろうと、かなり手前から跳躍するために四肢に力を込めた。 このまま台の下の、滑り止めのためのひっかかりがある鉄製の床を踏み越えて、向こう側に着地できるだろうと、レントラーは思っていたが、甘かった。 ライチュウの放った一条の電撃の筋が、まばゆく光る尾を残しながら彼の身体を直撃した。 電撃の直撃と、レントラーの四肢が地を離れるのと同時であった。 意思に関係なく跳ね上がった全身の筋肉によって、バランスを崩した彼は着地するはずであった金属の床を大きくそれ、傾斜のある運転台の上に不格好に落ちるに至らせた。 堅い凹凸のある出っ張りが、起き上がろうともがくレントラーの背中に押されて、台の中へ落ち込んでいくのを、軽い麻痺でにぶくなった感覚の中に感じ取った。 直後、長い間動くことの無かった車輪が、金属特有の甲高い悲鳴を上げながら回転した。 先頭車両は後続する四両の貨車を引き連れて線路の上を――下方の建物に向かって坂道を下っていく。 動き出した人間の創造物は、運転台の側で痛みにうずくまっているレントラーを乗せたままだ。 復讐心に突き動かされたリザードは、感情の赴くままに飛び出して、三両目の貨車のふちを掴んだ。 「おい待て、リザードやめろ。深追いするな」 彼の制止の声を聞きもせず、リザードは掴んだ腕に力を込め、懸垂の要領で貨物車へよじ登った。 それを見たライチュウは口の中で小さく悪態をつくと、まだ追いつける速さの列車に一散に駆けだした。 そして、近づけるだけ近づくと、これ以上間隔が開く前に貨車のふちにしがみついた。 **7 [#kc6dbadd] 月光を浴びて鈍く輝く線路の上をブレーキの呪縛から解放された列車が滑り降りていく。 錆びてぼろぼろになった車体から発せられる耳を塞ぎたくなるような轟音は、さながら久々の運動に対する列車の歓喜の声だろう。 高速で回転する車輪から散発的に火花が発せられる。 生まれたばかりの火花は、過ぎ去った巨体のあとに残った地の振動のなかで跳びはね、静かに消えていく。 割れた窓枠から飛び込んでくる冷たい風に黒と青の体毛をなびかせながら、レントラーは事の発端である運転台の凹んだ部分を必死で引っ掻いていた。 もともとは何か取ってのようなものが付いていたのだろうが、長年の自然の浸食の中でそれはむしり取られ、どこかへ行ってしまっている。 もはやこの列車を止めることは不可能だ。認めざるを得ない事実に彼は悪態と共に血で汚れた腕を台に叩き付ける。 一回呼吸する間にも、確実に足を速めていく列車。 いま飛び降りれば、尖った石ころや堅い地面に、必然的に全身を切り刻まれるだろう。 そもそもこの列車がどこに行くのかすらもわからない。 脱線して岩壁に叩き付けられるか、工場に突っ込んでその屋根に押しつぶされるか。 考えるだけでもぞっとする。 枠組みから見える線路の行方をなるべく見ないようにしながら彼は、 列車を止める手だてになるものが他にないかどうか運転台の上に視線を走らせる。 明かりがないためにほとんど見えなかった運転台が、後ろからの光を受けてぱっと明るく照らし出された。 その次の瞬間には、今までレントラーのいたところをリザードの吐いた地獄の業火さながらの火炎が包み込んだ。 もし彼が列車のふちから伸びる、昇降用の五段程度の小さなはしご段に飛び移らなかったら、 今ごろは炎の中でのたうち回っていたことだろう。 全身で風を受け止めながら顔を上げると、灼熱の向こう側の貨車のふちで、 いまいましいにやけ笑いを浮かべるリザードが陽炎におぼろげにされながら立っていた。 「無様なもんだ」 吐き捨てるように言う彼の口は動く度に火の粉が漏れている。 「自分で飛び降りるか? おれさまに突き落とされるか? 選べ」 突きつけられた鋭い爪。 その爪にはレントラーの乾いた血がこびり付いている。 一番上の段を前肢で掴み、一番下の段に後肢を置いたままのレントラーとのあいだにしばしのにらみ合いが起こった。 歯の隙間からうなり声を上げる彼のすぐ下では、殺人的な速度で地面が流れている。 掴んだ鉄梯子から運転台の熱が伝わる。じわりじわりとレントラーに残された時間を奪っていく。 黙ったまま身じろぎすらしないでいたリザードだったが、いつまでも返事をよこしてこないレントラーに苛立ちを感じたのか、 不機嫌そうに鼻を鳴らしたあと、隣の車両、つまりはレントラーのいる運転台に飛び降りた。 熱を感じていないのか、その顔には何の苦痛も伺えない。 彼はレントラーを横目で捉えつつ台の側まで移動すると、炎の赤い絨毯を撫でた。 高温を前にして、爪に付着していた血液は姿を消した。 「早く選べ、いつまでもそこに掴まっていられると思うなよ」 そう言ってレントラーの方へ向き直り、腰を折ってあぶっていた爪を彼の前肢に押し付けた。 熱せられた爪が、手の甲を焦がす。 うっかり手を放しかけたレントラーだったが、そんなことをしたばっかりに堅い地面に頭を削り取られる自分の姿が頭をよぎったため、 苦痛の悲鳴を上げるだけに留まった。 「どうした? 手を放す度胸がないのか? それとも――」 爪を放し、締まりのない表情を向けるリザードが、突然の痛みに凍り付いた。 足下から身体の内側に入り込んで動き回る激痛に、彼は苦しみの声を漏らしながら金属の床の上に膝をついた。 無理な体勢で放った電撃は、相手の意識を葬るだけの力には及ばなかったが、リザードに隙をつくることができた。 手元の金属から電気を流したため、過剰なほど熱を持ってしまったはしご段に手のひらを火傷させられる前に彼はそこからはい上がり、貨車に飛び移った。 久しぶりの冷たい鉄の感触に、頬摺りしたい衝動に駆られたが、そんなことをして時間を取られるほど彼は馬鹿ではない。 二両目の貨車の狭いふちを走り抜け、三両目のふちへ飛び移る。 激高したリザードがまた襲いかかってくる前に、少しでも有利に立てるよう間合いを空けたかった。 いま勝ったところで列車からは降りられないのはレントラー自身も承知している。 グレイシアにあんな不品行なことをしたあいつの最後を見届けてから死んでも遅くは無いだろう。 どうせ地獄に堕ちるなら、出来るだけ最後の方が良い。 彼が三両目から最後尾である四両目の貨車に飛び移ったとき、彼の目の前に星が光った。 下から突き上げられるような鋭い衝撃と共に、彼の身体は四両目の空の貨車の中に落ちた。 分厚い鉄板越しに車輪の轟音と振動が伝わる。 意識をはっきりさせようと頭を振りながら、起き上がろうとする彼の耳にあの嫌な野太い声が届いた。 「前向いて歩かないと危ないぜ、なあ坊や」 慌てて起き上がり、姿勢を低くして威嚇の声を上げたが、ライチュウはそれを鼻で笑った。 「それで威嚇してるつもりか?」 言うが早いか、ライチュウは常に動いている足場から飛び上がり、身体を一回転させながら、 遠心力によって加速された尻尾をレントラーの頭に向けて振り下ろした。 間一髪で避けたレントラーは、鋼鉄のように堅くなった尻尾――アイアンテール――の激突で歪んだ車体の向こう側に着地したライチュウに体当たりを食らわせた。 はずみで貨車の側面に叩き付けられたライチュウだったが、すぐに体勢を立て直すと電撃を纏わせた拳を、レントラーの額に炸裂させた。 電気自体はそれほどの痛手では無かったにしろ、脳みそが揺れるほどのパンチを見舞われた彼は、操者を失った人形のように崩れ落ちた。 「抵抗は無意味だ」 彼の揺れる視界の中から、見下ろすようにしてライチュウが言った。 「わからないのか?」 まっすぐ立つこともままならない四肢に持てる力を全てたたき込んで起き上がったレントラーは、目の前の悪魔を押し倒した。 レントラーのかいなから這い出ようとするライチュウの背中に腕を回して抜けられないようにすると、ありったけの力を出して電撃を発した。 強力な電撃がレントラーとライチュウを駆け回る。二人の身体にこびり付いた血糊が煙と共に黒こげになって剥がれ落ちていく。 手足を痙攣的に震わせていたライチュウだったが、やがてぐったりと動かなくなった。 帯電を止め、身体を離すレントラー。 目を瞑ったまま微動だにしないライチュウの呼吸の有無を確かめるため、口元に手をかざそうと腕を伸ばす。 何の前触れも無く目を見開いた彼は、伸びた腕を掴んだ。 「だから無意味だと言ったんだ」 突然のことでどう行動して良いかわからなくなったレントラーに、ライチュウはにやりと口元を歪めてみせると、もう一方の腕で喉を殴りつけた。 彼はうめき声を上げて倒れ込み、何とか空気を吸い込もうと口を魚のようにパクパクと動かした。 その上に馬乗りになったライチュウは、苦しそうに咳き込むレントラーの顔面目がけて振り上げた拳を何度もぶつけた。 一定間隔で彼を襲う痛み。 口の中に血が溜まり、殴られた頭が動くたびに唾液の混じった血痕を飛ばす。 ライチュウの怒濤の攻撃を防ぐため身体を持ち上げようとするが、揺さぶられ続けた脳みそが必要な箇所へ命令を伝えてくれない。 抵抗できないまま殴られ続けるレントラー。 こいつはおれをこのまま殴り殺す気なのだろうか。 ライチュウが血に濡れた拳を振り上げてにやりと笑う。振り下ろされた腕の一閃が黄金色の目玉を潰す直前、列車全体が大きく揺れた。 坂道を下りきった鉱石運搬車が、薄汚れたトタン板の工場の入り口を突き破ったのだ。 錆びだらけの鋼鉄の一枚扉は、はずみの付いた四両の力に耐えられず、たちまちねじれた鉄のかたまりへと姿を変えた。 脱線こそしなかったものの、急激に減速した列車に身体がついて行かなかった二人は前に投げ出された。 不安定な体勢でいて、しかもレントラーより体重の軽いライチュウは、文字通り貨車の側面へ頭から激突した。 打撃の余波で体中がふわふわと定まらない中、かろうじて身を起こしたレントラーは、口内の胸くそ悪い味のするものを吐き出した。 目の前で頭と口を押さえてうずくまっている電気ネズミ――舌を噛んだのか血が滴っている――を踏み台代わりにして、彼は貨車のへりに足をかけた。 工場の中という閉塞的な場所を飛ぶように駆け抜ける鉱石運搬車。 明かりは、天井付近の連続窓から差し込む月の、青みがかった光芒以外にほとんど見あたらない。 おまけに鉄路の先は舞い上がるほこりで霞んでいて終わりが見えない、無限に続くかのようにも思われた。 線路の側に平行して、鉱石を運ぶために使うのであろうベルトコンベアが設置されている。 列車の通ったあとには、火花と共に埃が舞い上がる。 長い尻尾で均衡を保ちながら、彼は慎重に三両目の貨車のふちに飛び移る。 リザードとライチュウを怒らせてしまった今、双方からもっとも離れられる場所は一カ所しかない。 二両目と三両目とを繋ぐ二つの連結器が必死に互いを掴んでいる。 その下で、あまりの速さで霞んだ地面がある。 地獄のふちに立たされたような気分で、三両目と二両目のふちをのぞき込むようにして立ち止まる。 準備はできた。あとは少しばかりの運がいる。 月を見上げて祈ろうと顔を上げたが、埃と蜘蛛の巣だらけの汚い天井がそこにあるだけだった。 リザードの怒声が、吹き付ける風の音に乗って轟いた。 視線を下ろすと、先頭車両よりの貨車のふちで尻尾の炎をなびかせながら立っていた。 「くそ野郎め。ただじゃすまんぞ」 一言ずつ力を込めてしゃべるリザード。 「そうだよなライチュウ」 ああもちろんだ、と滑舌の悪い返事の声がレントラーの後ろから届いた。 四両目のふちに立ったライチュウの傷ついた舌から溢れ出る血が、顎を伝って身体の全面を染めている。 「馬鹿なやつだ。延命は延命に過ぎんぞ」 ライチュウが血のかたまりを吐き捨て、言った。 「まあ、今となっては遅いがな」 それが合図になった。 二つのエネルギーがほとんど同時にレントラーへ放たれた。 酸素を吸って成長した強力な炎と、白く灼けた電撃が一直線に、彼の身体に向けて突き進んだ。 それらがレントラーに衝突する直前に、彼は貨車と貨車のあいだに飛び降りた。 狭い連結部に辛うじてしがみつくレントラーの頭上で、何もない空間を炎と電撃が交差し、新たな標的に矛先を向ける。 リザードの胸に突き刺さった電光は、一端心臓で屈折してから全身に広がり、彼の身体をはじき飛ばした。 断末魔の一つも上げずに、先頭車両の前方に突き出た狭い原動機の上に落下する。 その間にも、火だるまになったライチュウは、生きたまま焼かれる苦しみを事細かに表した、引きつった叫び声を上げている。 身体全体に広がった炎をかき消そうと暴れ回った。 しかし貨車の狭いふちでそんな器用な芸当は出来ない。 闇雲に腕を振り回すライチュウが、高速で移動する鋭い地面に叩き付けられるまでそうは掛からなかった。 ---- 中書き かなりの長いことほったらかしにしていて、掲示板に投稿するのが気が引けたので こっそり更新。 にしても我ながらご都合主義だなあ #pcomment