作[[呂蒙]] 年が明けても、未だに「新型コロナウイルス」の騒ぎは落ち着いていなかった。一時に比べれば、ワクチン普及の効果のためか、ずいぶん感染者は少なくなった。 しかし、このウイルスは実にしぶとく変異を繰り返し、人間界に打撃を与えようとしている。 結城もワクチンを打ったのだが、2回目の時の副反応が激烈で「3回目接種が始めるらしいけど冗談じゃない」と拒否反応を示していた。高熱と寒気、頭痛に襲われ、それが接種数時間後には表れ始め、翌日、翌々日と丸2日間苦しんだのだから無理もないが。 しかし、このせいでロクに遠出もできず、旅好きの結城としては、遠出できないことが原因でいささか鬱々とした気分になることもあった。 大寒波襲来で、日本海側は大雪のようだが、関東地方も南部はその影響は少ない。 (初詣にでも行くかな……) 結城はそんなことを考えた。上州への帰省を見合わせた代わりにどこか近場でもいいから、出歩きたくなったのだ。 「ナイル、せっかく晴れてもいるし、寝正月もつまらないからどっか行こうか?」 「いいね、そうしようか」 寒いのが苦手なナイルだったが、どこにも行けないのが退屈だったのか反対はしなかった。 どこか行くといっても、結城は初売りなどに興味関心はなかったし、旅行の計画も立ててはいなかった。 「う~ん、となると、初詣とか?」 「察しがいいな、ナイル。今回はちょっと趣旨を変えるというか、日本人から恐れられている神様を祀る神社に行こうと思う。その分、パワーは強力だと思うぞ」 「それ、危なくないの?」 「ま、無礼を働いたら『最悪の場合遺体が一つ増えることになる』な」 (どっかで聞いた台詞……) 日本には古来から非業の死を遂げた人物の霊、すなわち怨霊を祀ることで天変地異の発生を防ごうとした歴史がある。有名なのが右大臣・菅原道真(845~903)である。 道真が大宰府で無念の死を遂げた後、日本では災害が頻発するようになった。道真の死から27年後のこと、内裏清涼殿に落雷があり、道真の失脚に関わっていた大納言・藤原清貫(867~930)に雷が直撃。清貫は雷撃に胸を引き裂かれ即死したという。 人々は「道真は死して神となり、配下の雷神を使って清貫に復讐したのだ」と恐れた。また、道真を大宰府に左遷した醍醐帝(885~930)もこの事件以降体調を崩し、間もなく崩御したという。そういった経緯があるからなのか、皇族からも畏怖されるようになっていったという。 道真が太宰府で無念の死を遂げた後、日本では災害が頻発するようになった。道真の死から27年後のこと、内裏清涼殿に落雷があり、道真の失脚に関わっていた大納言・藤原清貫(867~930)に雷が直撃。清貫は雷撃に胸を引き裂かれ即死したという。 人々は「道真は死して神となり、配下の雷神を使って清貫に復讐したのだ」と恐れた。また、道真を太宰府に左遷した醍醐帝(885~930)もこの事件以降体調を崩し、間もなく崩御したという。そういった経緯があるからなのか、皇族からも畏怖されるようになっていったという。 こういったことがあって造営されたのが北野天満宮であった。 (北野天満宮は京都だからなぁ……。その系列となると湯島天神だが……) 結城は、湯島天神も考えてはいたが、受験シーズンが近く、きっと混んでいるだろうと考えたため、湯島天神は候補から脱落してしまった。 いくつかの候補の中から結城は「神田明神」を選んだ。 身支度を済ませて、家を出る。空は雲一つない快晴であったが、空気は冷えており、風も冷たかった。 「うぅ、やっぱ寒いな、ナイル」 「そうだね」 駅に着いてさっさと電車に乗ってしまいたかったが、時間になっても、どういうわけか電車がやってこない。次の電車は10時19分発なのだが、すでに10時25分になろうとしていた。 どうしたのかな、と思っていると電車がホームに入ってきた。待っていた客を乗せ、慌ただしく電車は動いた。7分遅れである。いささか幸先が良くないなという気がしないでもないが、別に急いでいるわけではないので、7分くらいどうということはなかった。 神田明神。この神社には3柱の神様が祀られている。2柱は恵比須様と、大黒様である。これだけなら普通の神社なのかもしれないが、もう1柱の神様が平将門というのがこの神社の一番の特徴といえよう。 恵比須様や大黒様と違い、平将門(903?~940)は実在した人物である。承平天慶の乱の首魁で今もなお、怨霊として恐れられている。ただ、この神社では当然のことながら、将門は叛乱の首謀者ではなく、困窮に苦しむ民衆を守ったヒーローという扱いになっている。 「神田明神には、他の神社にはない参拝のルールがあるんだけど、それは向こうに着いたら説明するからな」 「うん」 平将門のことである。桓武帝(737~806)の孫・高望王の孫であり、血筋で言えば高貴な家柄ということになる。ただ、この頃は藤原一族が政治を牛耳っており、皇族だからといって中央政府で栄達が望めるわけではなかった。 高望王は「平」という名字を賜り、皇族ではなく臣下という身分になり、都から遠く離れた上総に赴任してきた。高望王は「上総介」という役職で、今風に言えば千葉県知事である。 上総とこの近くにある常陸、上野は他の国とは違い、地方政府の長官を「守(かみ)」といったが、この3か国では守は名誉職で、皇族がなるものであった。そして任地に実際に赴くことはなかった。そのため次官である「介(すけ)」が事実上の長官であった。 高望王とその子供や孫たちは、未開拓地を切り開いて自分の領土ととし、中央から遠く離れた関東で勢力を広げていった。 時代が下り、将門の父である良将が亡くなった際、本来ならば将門の物になるはずだった土地を伯父たちに横取りされるという事件が起こる。だが、将門はめげずに未開拓地を切り開いて勢力を拡大していった。 将門の伯父に平国香(?~935)という人物がいた。常陸大掾を務めており、今風に言えば茨城県副知事のような役職であった。国香と前常陸大掾で国香の義理の父・源護(みなもとのまもる)なる人物は、常陸の隣の下総で将門の勢力がこれ以上大きくなる前に、将門を倒して土地を強奪しようと考えた。 将門を襲撃したまでは良かったものの、武勇に優れる将門はすぐに反撃に転じた。国香は自分の館に籠城したものの、館を焼き討ちにされ死亡した。承平5(935)年2月のことである。 この知らせを聞いて京で役所勤めをしていた国香の子である平貞盛(?~989)が休暇を取って関東へ帰ってきた。後に将門討伐の中心を担う人物だが、最初から将門との対決を望んでいたわけではなかった。国香の弟である良兼や良正が説得しても反応は鈍かった。 「聞けば父上や叔父上が将門殿を襲撃したのが、事の始まりだとか。将門殿に非は無いかと存じますが?」 貞盛はそう答え、将門とは早期に和睦するべきと主張した。貞盛は、関東で勢力を広げるよりも中央政府で官僚として成功したいという一族の中では珍しい考えの持ち主であった。今回の一件も父・国香の先制攻撃が発端であると考えており、将門と戦うつもりなどなかった。しかし、叔父たちの度重なる説得もあり、結局は将門との戦いに身を投じることになる。 (やれやれ、父の浅はかな行動のせいで、面倒なことになってしまった……) これ以前からも土地をめぐっての対立はあったが、これ以降一族間での対立が激化していくことになる。 承平5(935)年に合戦があったが、すぐに将門が討伐されることはなかった。何度か京からの召還命令が出て、取り調べを受けはしたものの、大した罪に問われることは無く、それも時の帝・朱雀帝(923~952)が成人したことにより出された大赦で、帳消しとなった。 一族の間で何度も合戦があったが、中央政府からしてみれば一連の合戦は「地方の武士同士の個人的なイザコザ」としており、中央政府への反逆行為とはみなしていなかった。 国香を討ち取ってから数年後のこと、常陸国府からのお尋ね者を匿い、手勢を連れて国府に赴き、交渉に臨もうとしたが、国府は話し合いを拒否し、将門に宣戦布告したため合戦となり、数では劣るものの、質では負けていない将門軍は国府軍を返り討ちにし、常陸国府は陥落。実質的な長官である常陸介は降伏した。 将門側から戦を仕掛けたわけではないが、この一件で引くに引けなくなったのか、他の国にも兵を進めて国司を追放、自らの支配下に置いた。この時点でようやく朝廷は将門への追討令を出した。天慶2(939)年12月のことである。 だが、勢いは長続きすることは無く、藤原秀郷・平貞盛らによって討たれることになる。自らを「新皇」と称してから2か月後のことであった。将門の首は都に晒されたが、その首はいつまでも腐ることがなかった、夜な夜な「我の五体はどこにあるのか、首を繋いでもう一戦しよう」と叫んだなどのエピソードが現代にも伝わっている。 都心へ向かう電車の中は空いていた。昨年末から地方へ向かう人が多いらしく、その分東京には人がいないということなのかもしれない。途中多摩川にかかる鉄橋から雪化粧をした富士山が見えた。日本海側では荒れた天気が続いているらしいが、太平洋側の東京はそれとは無縁である。 途中から多少客が乗ってきたものの、満員という状況には程遠かった。神田明神の最寄りの御茶ノ水駅で降りる。郊外と比べると、標高が低い分多少気温は高いだろうが、それでも、冬の乾いた冷たい空気は体に堪えた。 参拝を終えた人なのか、破魔矢を持った人とすれ違う。 (混んでいないといいが、さて、どうかな?) 駅から歩いて「湯島聖堂前」と書かれた信号機の交差点を右に曲がる。そこには、護送車が止まっており、道路を塞いでいた。何か事件があった、わけではなく交通規制が敷かれているとのこと。 少し進むと、左手に神田明神の鳥居がある。そしてその前には、多くの参拝客が入場待ちをしており、行列ができていた。 「ちいっ、やっぱり有名どころだから混んでいるか」 仕方がないので、結城とナイルも列の一番後ろに並ぶ。 「ご主人、入るまでにどのくらいかかるんだろうね?」 「分からん」 鳥居はすぐそこなのだが、本殿は鳥居のずっと奥にある。表の道からは中の様子が伺えず、鳥居をくぐった先にどのくらいの人がいるのか、皆目見当がつかない。 「まあ、いいか。この神社の参拝のルールについて説明しておくか」 神様に無礼を働くような真似はもってのほか、参拝中は静かにするといったマナーは他と一緒なのだが、この神田明神には変わったルール、というか掟が2つ存在する。 「じゃあ、まず1つ目だな」 神田明神に参拝する者は成田山新勝寺にお参りしてはいけない。 「これはどうして?」 「それはだな……」 成田山新勝寺、参拝客が極めて多く、交通安全祈願の寺院として有名であるが、そもそもは平将門の乱の鎮圧を祈願するために建立された寺院である。だから、神田明神とはきわめて相性が悪いということだろうか? 一生参拝するな、ということはないだろうが、少なくとも1年くらいは間を開けたほうがいいのではないだろうか? 「じゃあ、もう1つ」 名字に「藤」の字が入るものは参拝するべきではない。 「え? どうして?」 「う~ん、何でだろうな?」 佐藤、藤井、藤田……そういったあたりの苗字だろうか? どうしてかなと、結城はしばらく考えていたが、辿り着いた仮説がこれだった。というか、それくらいしか思いつかなかった。 「平将門を討ち取ったのが『藤』原秀郷だからかな。いわれがあるんだとするなら、多分これだと思うんだけど……。まあ神社側も表立って『来るな』とは言わないだろうよ。『佐藤』なんてよくある苗字だし。信じるか信じないかはあなた次第ってところかな?」 15分ほど待って、ようやく鳥居をくぐることはできたが、本殿はその先で、まだまだ行列は続いていた。いったい参拝を終えることができるのはいつになるのか? 両脇には出店が軒を連ねていたが、結城はあまり興味を持たなかった。 行列はのろのろと移動し、隨神門といわれる朱塗りの櫓づくりの門が見えてきた。ここをくぐればその先が本殿なのだが、その先も「黒山の人だかり」と表現したくなるほどの混雑状況でまだまだ時間がかかりそうだった。それだけ、ご利益を求めている人が多いのだろう。 「ポケモン連れも結構多いな」 「そりゃ、そうでしょ、ずっと家にいてもやることないもん」 「ま、そりゃそうか」 本殿前の参道は参拝客で埋め尽くされていた。本来、参道の真ん中は開けなければいけないのだが、この混み具合ではそんなことも言っていられない。だが、行列はのろのろと動き、本殿に少しずつ近づいてきている。 ようやく賽銭箱の前まで進むことができたが、足元には赤いテープが張られている。どうやらこの手前で賽銭をしてください、ということのようだ。 土俵に塩をまく力士のごとく、小銭を賽銭箱に叩きつけたり、投げるような真似はすべきではないのだが、賽銭箱との距離が少し開いているためにどうしても、賽銭を放り込むような感じになってしまう。 結城とナイルも賽銭を済ませる。 (気兼ねなく趣味が楽しめる年になりますように) (おいしいものがたらふく食べられる年になりますように) 賽銭を済ませると、さっさと境内を後にしたが、鳥居のすぐそばの店で暖かい甘酒が売られていた。焼きトウモロコシだの、お好み焼きには興味を示さなかった結城だが、甘酒は食指が動いた。 (体が冷えてきたし、ちょうどいいかな?) ナイルに甘酒を飲むかと聞くと、飲むと返ってきたため、2杯分買い求める。紙コップ2杯分で700円は少し高いような気もしたが、門前でいただくという雰囲気込みの値段なのだろうと、無理矢理自分を納得させた。 (米糀を使うやつかな? 甘過ぎなくていいな) 「結構、飲みやすいね、これ」 結城とナイルは冷えてしまった体を甘酒で温め、神田明神を後にした。 御茶ノ水駅に戻る道の途中 「なんかなー、さっきの甘酒飲んでいたらさ」 「うん」 「お汁粉食いたくならなかったか?」 「あ、なんか分かるかも」 「だろ?」 そんな話をしていた。空は澄み渡っているが、相変わらず空気は冷たい。 さて、今年はどんな一年になるだろうか? おわり #pcomment