ポケモン小説wiki
シアワセ者の車いす の変更点


&size(22){シアワセ者の車いす};

&color(red){注意:この作品は死に関する描写を含みます。};



[[水のミドリ]]




 私が初めてメタモンさんにお会いしたのは、今日のようにうららかな小春日和で、遠くに蒼く連なるテンガン山の峰々がくっきりと見えるような昼さがりでした。私が他のメイドたちに交じってお屋敷のホールを掃除していると、なにやら裏庭のほうが騒がしくなっていました。
「捕まえてきたアイツはどこに行った!? 裏庭をみても、どこにもいないじゃないか!」
 屋敷のあるじ、もとい私の主人であるサヤカお嬢様のお父様は、かんかんにお怒りになっていました。どうやら、3日前に探して来いと命じなさったポケモンがまだ見つからないようです。執事長はしどろもどろになりながらも、確かに捕まえて裏庭に放ったはずだと弁明していますが、取り付く島もありません。
 またですか、と私は思いました。
 サヤカお嬢様のお屋敷は、シンオウ地方の中心部に位置するヨスガという町の、南にはずれたところに建てられています。ご近所では「ポケモン屋敷」という名前で知られていて、その名の通りお父様ご自慢の裏庭には珍しい野生のポケモンが多く住み着いているのです。時たま旅の者が訪れると、お父様は裏庭をたいそうご自慢になされて、いるかどうか怪しいポケモンでも、いると言ってしまわれるのです。お父様はすこし見栄っ張りなところがあって、一度言ったことは無理を通してでも撤回なさいません。そのたびに執事やメイドが大慌てでポケモンを捕まえてくるのですが、それは私がサヤカお嬢様に仕え申し上げた頃からの、いわば日常的な風景でした。
「いいから早くしてくれ! そうでないと、あの旅人にこのワシが嘘つきだと思われるだろう!」
 お叱りを受けている執事長を除いて、他のメイドは見向きもしません。それはお父様のお話よりも、お庭の花畑につぼみがつき始めた、なんてことの方が、よほど興味を惹かれることだと分かっているからです。私も、お父様の話には耳を傾けずに、サヤカお嬢様のお昼ご飯の準備に取り掛かろうとしていました。
 サヤカお嬢様は、このところ重い病を患われまして、お嬢様のお部屋に閉じこもったきりです。お医者様の言うことには、数週間安静にしていれば治るとのことですが、私は種族柄、お嬢様が元気をなくしていくのを、ひしひしと肌で感じているのです。普段はお外にお出かけになり、一日中運動をなさるような活発なお方なので、じっとしていることがストレスになっていらっしゃるのでしょう。今もベッドに横になりながら、私の運んでくる料理を、首を長くしてお待ちしているはずです。
「きゃっ」
 お嬢様の細い悲鳴が聞こえたのは、ちょうどその時でした。私はポケモンなので、ほかのメイドたちよりも少し耳が良いのです。それはお嬢様のお世話を任されている、唯一のポケモンとしての自慢でもありました。盆を放り出して一目散にお嬢様の部屋まで駆け寄ると、ノックもおろそかにドアを開きました。
 そこに、メタモンさんがいたのです。
 メタモンさんは、床に広く伸びていました。大慌てで逃げているようですが、カーペットに無い足を取られてうまく動けないようでした。わたわたともがいている様子は、どこか赤ん坊に似た愛らしさがあります。窓は大きく開かれており、風の通り道になっているようで、カーテンがぱたぱたとはためいています。なるほど、ここから入って来られたのですか。くすり、と笑う私に気付くと、観念したのでしょうか、絶望の色に染まっていく顔は、少し気の毒に思われました。
「ハピナス、いいところにきましたわ。サイコキネシスでその子をこちらへ」
 サヤカお嬢様の指示の通りに、私は&ruby(サイコキネシス){念動力};を用いてお嬢様の膝の上にメタモンさんを移動させました。メタモンさんはまだ震えていましたが、お嬢様はそんなことはお構いなしに手を伸ばします。
 お嬢様の絹のように白い手が、メタモンさんを優しく撫でました。今にも泣きだしそうだったメタモンさんは、お嬢様の温かい手に顔をあげます。初めは不思議そうに見つめ返すだけでしたが、お嬢様のやさしさに気付いたのでしょうか、その愛撫に応えるように体を摺り寄せていました。
「あなた、中庭では見ない子ね。どこから来たのかしら?」
 お嬢様はこぼれるような笑顔で訊ねます。ここからずっと遠いところ、とメタモンさんは小さな声で答えましたが、それはただ体をうにょ~んとさせただけで、お嬢様には伝わりませんでした。
 いつの間にか、騒ぎを聞きつけたメイドたちが、お嬢様の部屋の前に人だかりを作っていました。そこにはお父様のお説教からようやく解放された、片掛け眼鏡と立派な髭がさまになっている執事長も含まれていました。執事長が部屋に足を踏み入れると、それに気づいたメタモンさんは慌ててお嬢様の陰に隠れます。
「お嬢様、そのメタモンをお渡しくださいませ」
「イヤよ」
 お嬢様は突っぱねました。けれど執事長もはいそうですか、と引き下がるわけにもいきません。そんなことをしてはまたお父様にこっぴどいお叱りを受けるに違いありませんから。
「し、しかし……」
「あなた、この子を強引に連れてきたのでしょう? こんなに怖がっていますもの。あれほどポケモンを怖がらせないで下さいと言いましたのに」
 こう言われてしまえば、執事長はおずおずと引き下がるしかありません。お父様の血を引き継いでいる証明であるかのように、サヤカお嬢様もまた少々気の強いお方なのです。いささか不憫ですが、執事長にはお父様を何とかなだめてもらう他ありませんでした。
 メイドたちが元の仕事に戻ると、お嬢様はメタモンさんを抱えて上機嫌です。お嬢様のほころんだ顔を見るのは久しぶりだったので、私もつられて笑ってしまいました。メタモンさんも満更ではないようで、緊張を解いて腕のなかでくつろいでいます。
「あなたはいいわね、自由に旅をすることもできるのでしょう。わたくしなんて、お庭に出ることすらできませんのに」
 窓から温かな風が流れ込んできて、レースのカーテンをはらり、と揺らします。メタモンさんは静かに、手を伸ばしてお嬢様の涙をぬぐいました、生暖かい雫が、薄く延ばされた細胞の隙間へと浸み込んでいきます。
「ふふ、優しいのね。わたくしはサヤカって言うの。よかったらこれからも遊びに来てくれるかしら」
 私はその時のお嬢様の顔を忘れることが出来ませんでした。泣きながら笑う、本当の友達を見つけたかのような笑顔。しかし同時に、なにか捕えどころのない、&ruby(すす){煤};けた感情が芽生えるのを、私は心のうちに認めていました。

 メタモンさんは、お屋敷の外の、池に近いところにある花畑に住み着いたようです。今日もお嬢様のお部屋に遊びに来る途中、色とりどりの花が咲き始めていたんだと、話してくれました。もともとあまり饒舌な方ではないようですが、しばらくお会いしているうちに、少しずつ心を開いてくださったようです。
「ねぇ、お願いがあるのだけれど」
 この頃、サヤカお嬢様はメタモンさんが来るたびに元気になっていくようでした。その度に見せる水仙のような笑顔は、しかし私には向けられていませんでした。――ええ、私は少しばかりメタモンさんに嫉妬していたのでしょう。あるいは私の自慢である栄養満点のたまごを差し上げても、悲しげな気持ちがあまり和らがなくなっていることに対する不満だったかもしれませんでした。ともかく私は、サヤカお嬢様のお気持ちが私から離れていってしまうようで、お嬢様から頼られているメタモンさんを少し疎ましく考えてしまっていました。そのような邪念に囚われてしまっていたせいで、お嬢様の体の異変に気付かなかった私は、本当に罰当たりなのだと、悔やんでも悔やみきれません。
「わたくしに変身して、お花畑に行ってきてほしいの。それから、お花を一輪だけ摘んできてくださらない?」
 お嬢様の無理難題に、たまらず私は反対しました。もし屋敷の者に見つかってしまったならどうするおつもりですか、と身振り手振りで訴えます。けれどお嬢様は全く聞く耳をお持ちになりませんでした。
「わたくしの元気な姿を見れば、きっと本物のわたくしも元気になれると思いますの」
 私はしぶしぶといった形で了承しました。いい機会ですので、メタモンさんにあまり頻繁にサヤカお嬢様に近づかないよう忠告しておきましょう。それにもしメタモンさんのことがばれてしまえば、きっとお屋敷に立ち入ることさえできなくなるので、それはそれで良しとしましょうか。――なんて、今思えばこれも、ただの醜い嫉妬そのものでした。
 サヤカお嬢様は一度執事長をお呼びになって、久しぶりに外出したいのでお出かけ用の洋服を用意することと、車いすは私が押してさしあげて、他の者は近づかないこと、庭にいる間であっても決して部屋を覗かないことを命じました。執事長はお嬢様の病状の回復を舞い上がって祝福すると、飛んでいってお洋服を用意しました。恥ずかしいから、と執事長を締め出して、サヤカお嬢様は隠れていたメタモンさんをお呼び戻しになり、ベッドの脇に立たせます。
「それではメタモン、よろしく頼みますわね」
 数秒間見つめ合ったあと、メタモンさんは遠慮がちに手を伸ばしました。うにょ~んと引き伸ばされた体の細胞は、層が薄くなりピンクから透明に変わります。手の先端がサヤカお嬢様の、陶器のように白いほほに触れました。ひんやりとした感触があったのでしょう、お嬢様はびっくりしたように首をすぼめなさいました。
 ものの数秒――お嬢様が目をつむっていらっしゃったほんの一瞬で、メタモンさんはサヤカお嬢様そっくりに変身していました。
 お嬢様は息をのんで、目を丸くしていらっしゃいます。
「……やっぱりあなたはすごいのね。でも、すぐに服は着て頂戴」
 メタモンさんの変身は、どこからどう見ても完璧でした。体型からほくろの位置まで、寸分たがわぬほどに再現して、ベッドの脇にすらりと立っています。華奢な体つきは、健康を考えるともう少しふくよかになっていただきたいのですが、最近食べ物も喉を通らないようなので、なおのこと心配です。――それならなぜお嬢様を手厚く看病しなかったのか、ですか? 本当に、何故でしょうね。メタモンさんをどうにか追い出そうと、躍起になっていたのでしょう。
「ハピナス、早く服を着させて頂戴!」
 私が不要な心配にふけっていると、お嬢様は叫び声をあげました。私はすぐに念動力で夏の砂浜のような白いワンピースを摘み上げると、メタモンさんの腕に通します。同じ調子で下着と靴を履かせて、仕上げに表情の良く見えないような、大きなつばの麦わら帽子を被せました。笑うと変身が解けてしまうそうなので、出来るだけ表情の見えない帽子を身につけます。笑ってしまいそうなときは顔を隠してしまえば、どんな表情をしていても不自然ではなくなるからです。
 これでもう、どちらが本物のサヤカお嬢様なのか、一目見ただけでは分かりません。
 お嬢様の久しぶりの外出は、お屋敷の人々をすべからく驚かせました。お父様と執事長はしきりに体は大丈夫なのかと話しかけ、お掃除の最中だったメイドたちはみな手を休め、互いにひそひそ話し合いながらこちらを窺っています。メタモンさんは人間の言葉で答えることが出来ないので、帽子を目深にかむったまま、私と門の外に出るまでしらを切り通しました。お屋敷の人で、特に肝を潰していたのはお医者様でした。まるで奇跡でも見ているかのように――メタモンさんの変身を知らない人間にとっては実際そのようなものなのですが――口はぽかんと開いたまま、呆気にとられている様子です。数秒のうちに我に返ると、信じられない、と呟きながらひどく狼狽していました。かくいう私も、メタモンさんの変身が今にも解かれてしまうのではないかと、気が気ではありませんでしたが。
ついて回るお屋敷の人々を何とか振り払い、たどり着いた花畑では、水仙がちょうど見ごろを迎えて、一面に咲きほこっていました。
 お屋敷の人々が遠巻きに見守っている中、お嬢様――お嬢様の姿をしたメタモンさんの指さす方向へ車いすを押してゆきます。花畑は丘に沿って点々と群を成して、どこまでも広がっています。ソノオの町の大きな花畑にも負けず劣らず美しいものだと、以前お嬢様はため息を漏らしていらっしゃいました。お嬢様の部屋から見える位置で、メタモンさんは屈んで、花を一輪だけ摘みました。その元気な姿を見て、お屋敷の者たちもため息をついているでしょう。真実を知っている私も、少なからずそのような気持ちになりました。手にした黄色い水仙を胸に抱え、メタモンさんは静かに呟きます。
 サヤカちゃんが元気になれたらいいな。
 お花を髪にくくり付け、笑顔で振り向くメタモンさん。そうですね、と相槌を打つ私の顔は、しかし言葉とは裏腹に、ひどく引きつっているように感じました。
 心が瞬時にしてどす黒い感情で支配されるのを、私は否が応でも認めざるを得ませんでした。お嬢様を心配するのは、ほかの誰でもない、この私の役目です。昨日今日たまたまお嬢様の目に留まっただけのメタモンさんに、お嬢様の苦しみの何がわかるというのでしょうか。うわべだけの心配をするくらいなら、ねぐらにずっと篭っていれば、お嬢様も毎日メタモンさんの相手をすることなく、私が看病して差し上げることができるというのに。
 しかし――しかし、私は気が付いていなかったのです。嫉妬でも嫌悪でも不快感でもない何か。このとき、到底ありうるはずのない感情が、私の心に一面のつぼみをまき散らせていたなんて、私は知る由もありませんでした。
 喉まで出かかった罵詈雑言を、ついに、メタモンさんに向かってぶつけることはできませんでした。吐き出してしまえば少しは楽になるかもしれませんが、何よりお嬢様のためになりません。苦い薬を突き出された子供のような表情をしたまま、車いすを押してもと来た道を戻ってゆきます。持ち帰った水仙を見たお嬢様が、満面の笑顔でふりむいてくださること。ただそれだけを期待して、私は私自身の胸中を押し殺していました。メタモンさんは、この車いすに座っているサヤカお嬢様そっくりの生き物は、お嬢様の笑顔を引き出すための道具にすぎず、用が済んだらお払い箱になる運命なのです、なんて思いながら。
 果たして、水仙を手にしたお嬢様は、満面の笑みで振り向いてくださいました。長い闘病生活で色褪せていた、弾けるようなはつらつとした笑顔。思わず涙ぐんでしまいました。そして、そこにはただひとつ、しかし致命的な誤算があることに、私は気づかされてしまいました。
「きゃあ、嬉しい! メタモン、本当に、本当にありがとうございます!」
 もともとうにょ~んとしていたメタモンさんがうにょうにょになるまで、お嬢様は変身を解いたメタモンさんに擦りつきなさいました。私のことなど目もくれず、ありがとうの一言もくださらないで、蕩けきったメタモンさんに、蕩けきっていました。軽くなった車いすにもたれたまま、私は血を抜かれた魚のような目で、その光景をぼんやりと眺めていました。
 ――ああ、お払い箱なのは私のほうでしたか。
 悟ってしまえば、心の整理はあっという間についてしまいました。かつて私がメタモンさんに望んだのと同じように、むなしく開け放たれた扉から、音もなく身を滑らせるだけ。涙のひとつも出できません。ただそうなる運命であるかのように、私は気づかれないように体を翻しました。
 ハピナスさん、ほら、さやかちゃん、こんなに喜んでくれたよ、やったね! ……って、あれ? どこいくの?
 もうやめてください、と私は叫びたいほどでした。決して敵わない相手から受ける同情ほど屈辱的なことはありません。しかもメタモンさんは私を敵だとも思っていなかった。私が一人で勝手にうぬぼれて、戦って、裏切られて、沈んでいったところに手を差し伸べるなんて、まさに拷問。窮屈な心の中であまたの感情同士がぶつかりあって、はじき出されたそのひとつを表すかのように、堪えていた涙がほろり、と垂れ落ちました。
 泣いちゃうほどうれしかったんだね! よかったね、ハピナスさん!
 どこまでも陽気なメタモンさんの忌々しい声が、涙でぐしゃぐしゃになった私の頭の中にずっと反響していました。

 それから、私とメタモンさんはたびたびお屋敷の外まで出かけるようになりました。というのも、お嬢様がメタモンさんの持ち帰った水仙をたいそうお気に召されて、髪飾りにしてお召しになっているのです。それは、くしくもメタモンさんが取り付けた位置と同じでした。切り取られた花はすぐに枯れてしまうので、それを交換するのが私たちの役目です。虫がくっついているかもしれませんのでお止めください、と申しましたのですが、聞き入れていただけないことは分かっておりました。お気に召した小物は何でも身につけるのが、寝たきりになったお嬢様のささやかなご趣味でございました。
「ヨスガのふれあい広場で、何か探していらっしゃい」
 水仙に飽きると、お嬢様はこのようなご命令を下さりました。ヨスガの一大名所として大々的にリニューアルされたふれあい広場は、誰が落したのでしょうか、リボンなどさまざまな装飾品が残されていることがあるのです。それをどこでお聞きになったのか、お嬢様は再び無理を仰って、私を焦らせました。長い時間お散歩に出ていれば、その間一人でお待ちなさるお嬢様の身に何かあったら大変です。第一、お屋敷の門からすぐのお花畑ならまだしも、車いすを押して30分もかかるヨスガの町だなんて、お父様がお許しになるはずがありません。きいきい口うるさく反対したのですが、馬耳東風とはこのことで、やはり全く聞き入れていただけませんでした。本心は、これ以上お嬢様と離れることが辛かったからなのですが。
 サヤカちゃんは、笑っている方が可愛いよ。
 ――こいつは。
 私は思わず、メタモンさんを念動力で縛り上げるところでした。お嬢様に向かって、なんという口説き文句を言っているのですか。あれからというもの、私はメタモンさんを目の敵にしていました。まるで悪魔が取り憑いたかのように歪んだ私の顔は、とうてい幸せを運ぶポケモンのそれとは言えなかったでしょう。それほどまでに、メタモンさんがお嬢様に接触することに過敏になっていました。
 けっきょく、執事長に怪しまれることなく、ふれあい広場に到着することができました。むしろ、病床の面影を見せないような笑顔を振りまくお嬢様に、手放しに喜んでいるようです。先ほどから彼の幸せな気持ちが後ろの茂みから漏れているのを、私の肌は敏感に感じ取っていました。
 しかし、私はそうではありません。何度花を摘みに行っても、お嬢様の笑顔は、決して私に向けられるものではなかったからです。お嬢様の喜びを享受するのは、お嬢様のニセモノに成りすまし、ただ車いすに座っているだけのメタモンさん。それを押し、お嬢様のわがままを聞き入れ、お食事を運び、お着替えを手伝い、お部屋を掃除する私には、もう見向きもしてくださいません。気が狂いそうでした。この頃は夜もまともに眠れません。私の体が回復体質なことにかまけて、自傷行為に走ったりもしました。――ほら、ここの傷は今になっても消えないのです。深く刺した後に凍らせたせいでしょうか。
 ともかく、幸か不幸か、メタモンさんはとても鈍感でした。背後から漏れ出しているあからさまな憎悪に気付かなかったのですから。私の&ruby(こころうち){心内};など気に掛けることもなく、落ちていた青い羽根を拾って、私に無垢な笑顔を向けるのです。
 わあ。これを持ち帰ったら、サヤカちゃん喜ぶかなあ。
 もう限界でした。メタモンさんの笑顔は、私を突き破ってお嬢様に届くのでしょう。それにまたお嬢様は微笑み返します。そのやりとりはまるで鏡に映ったお嬢様そのもので、私の付け入る隙はどこにもりませんでした。私は鏡の中のお嬢様に嫉妬していたのです。
 気が付くと、私はメタモンさんの髪から羽根をひったくり、炎で燃やすために息を大きく吸い込んでいました。この二人の間にどうにか割って入れるように。もう二度と鏡にお嬢様のニセモノが映らないように。
 しかし、そんな私を見て、メタモンさんは変わらない笑顔でこう言うのです。
『ハピナスさんも、どうもありがとう。きみがいなければ、ここに来ることすらできなかったよ。その羽根も、きみがこんな素敵なところに連れてきてくれたから、見つけることができたんだね』
 私は口を開けたまま、硬直して突っ立っていました。風向きが変わって、草に波紋が広がります。オレンジ色の夕日は、晩春の生温かい風にあおられた池の波に影を落としました。闇に染まり始めたヨスガの空には、夜になって活動を始めたフワンテたちが群れを成しています。
 口角、しわの本数、目の収縮率、小さなえくぼの直径。何から何に至るまで、メタモンさんの笑顔は、お嬢様のそれと一致していました。ただ変身しただけではわからない確かなお嬢様の精緻な記録が、そこに映し出されているのです。そして、そして何より――目の前のお嬢様は、私に向けて微笑んでいらっしゃいました。水仙の笑顔が、私をとらえて離さないまま、ずっとそこに咲き続けていました。
 青い羽根は、まるで私の内面を映し出す鏡であるかのように、きらきらと私の手の内に収まっていました。

 メタモンさんと外出する時間が増えていくにつれ、私の中の嫉妬は少しずつ、しかし確かに変容していきました。お嬢様に変身したメタモンさんの無垢な笑顔が向けられるたび、私の中のヘドロのような感情が、徐々に抜け出していっているようでした。かわりにメタモンさんを愛しく思うつぼみが、だんだんと花開いていきました。
 それが、お嬢様を思う気持ちと同じであると気づくのに、そう長い時間はかかりませんでした。思い返せば、お屋敷のお庭で初めてメタモンさんに笑顔を向けられた時も、同じような気持ちになっていたのです。メタモンさんはお嬢様のニセモノだ、と忌み嫌う理由はどこにもありませんでした。その笑顔を向けられているだけで、私は浮き上がるような幸福に身を沈めることができるのです。
 日に日に、部屋にこもってお嬢様の看病をするよりも、外でメタモンさんと戯れる時間のほうが、長くなってゆきました。それにつれ、仮の姿のお嬢様が徐々に回復する一方で、ベッドの中の本物のお嬢様は、少しずつ衰弱していきました。初めのうちは気丈に振る舞っていたお嬢様でしたが、その顔色は日に日に暗くなっていき、ついには本当にお話することさえできないほど体力を消耗していました。この悲劇的な状況になってはじめて、私は取り返しのつかない過ちを犯してしまっていたのだと、痛感することになったのです。――笑ってしまうでしょう? 本当に、盲目になっていたのです。私のねじ曲がった感情によって、一番大切なものが見えなくなっていたのです。
 もはや私には、その状況をどうすることもできませんでした。ただただ、いつもと変わらない日常を演じながら、車いすに乗った元気なお嬢様を押すのです。これは、罰でした。まるで私の犯した罪を自らの手で押しているかのように、お嬢様の体は重く感じられました。底なしの泥沼のような日々は、しかし何重にも掛けられた私のフィルターによって美化されていました。お花畑にいる間は、昔のままの、私とお嬢様だけの世界。お嬢様の部屋は、夢か何かの、現実から隔離された空間。そう思っていたのでしょう。機械のようにお嬢様の熱を測り、食事を与え、排泄物を処理しました。――そうです。私はお嬢様をこれっぽっちも愛してなんかいませんでした。私が愛していたものは、自分自身だったのです。お嬢様に愛されている私自身が、愛しくて愛しくてたまらなかったのです。メタモンさんに対する陰湿な嫉妬は、私の自己愛が練り固められ、激しい拒絶反応として顕在化したものでした。
 天国と地獄が入り乱れたような日々は、突如として終わりを告げました。お嬢様の担当医だった男が、屋敷のあるじのいいつけを破り、お嬢様の外出中に例の部屋を強引にこじ開けたのです。誰もいないはずのお嬢様の部屋には、しかしそのベッドの上に、憔悴しきったお嬢様が横たわっていたのでした。
「ほらアッ!! おれの考えが正しかったッ!! 正しかったんだア!!」
 お嬢様が初めてお庭に出かけたあの日からひどいノイローゼにかかっていた医者は、大声をあげながらお屋敷中を駆け巡りました。隠蔽は瞬く間に皆の知るところとなり、私はすぐにお屋敷を追い出されました。怒涛のような罵声を浴びせられ、家主からは棒で強く打たれましたが、命までは取られませんでした。こっぴどくやられましたが、幸い私は回復力が強い種族なので、そのまま野垂れ死ぬことはありませんでした。
 結局、お嬢様は助かりませんでした。私がもう少し早く正気を取り戻していたか、あるいは医者がすぐに応急処置を取れるような精神状態ならどうにかなったのかもしれませんが、私が追放された2日後に、お嬢様は屋敷の人々に見守られながら、静かに息を引き取りました。窓からひっそりと覗いていると、お嬢様の最期のお顔には、とても穏やかで、幸福そうな笑顔がたたえられていましたよ。まるで、お花畑の中をお散歩しているような。――ええそうです。私はお嬢様が&ruby(むくろ){骸};となってもなお、窓に忍び寄るほどお傍にお仕えしたいと思っているのです。私とお嬢様の関係が崩れないように。
 これが、私が野生のポケモンになった理由です。あなたもこれから人間のパートナーになるというのなら、その方に愛されるのがあなただけとは限りません。自己愛から盲目になってはいけませんよ。少しでも道を踏み外すと、気がついたときには取り返しのつかないことになるということは、十分理解していただけたかと思います。果たしてアドバイスになったでしょうか。これからのあなたの旅が素晴らしいものでありますように。
 ――私ですか? もちろん、あの日のことを忘れることは出来ません。今でも毎日お嬢様に向かって謝っていますよ。命ある限り、お嬢様に償っていくつもりです。――いえ、いっそのこと殺してもらった方が楽だったかもしれません。すみません、この話には後日談があるのです。あともう少しだけですので、最後まで話をさせてください。

 お嬢様が亡くなって心の支えを失ったのは、私だけではありませんでした。メタモンさんもまた、お嬢様のことを心から愛していたのです。私と同じように責任を感じて、そればかりかお嬢様の後を追おうとさえしていました。錯乱するメタモンさんを何とかなだめ、これからどうすべきかを話し合いました。意見は全くまとまりませんでしたが、共通した思いは、お嬢様の近くでお別れの言葉を言いたい、でした。
 粛々とお嬢様の葬儀が終わると、私たちは夜になるのを待ってお嬢様のお墓に忍び入りました。作られたばかりの目新しいお墓を掘り起し、棺桶の中に眠るお嬢様の顔を見ました。水仙のような凛とした顔立ちは、皮肉なことに生前の病魔に侵されていた時よりも、むしろ生き生きとしているようにさえ見えました。
 私とメタモンさんは、かわるがわるお嬢様に抱き付いて、感謝と、謝罪と、それからいろいろな心のうちを語りかけました。もう変わることのない笑みをたたえながら、お嬢様は私たちの嗚咽にずっと耳を傾けていました。
 お腹のたまごを供えて屋敷を去ろうとしたとき、私はまた罪深い思い付きをしてしまいました。――私の中の自己愛の芽は、いまだ枯れることなく成長を続けていたのです。体の細胞を千切ってお供えしようとするメタモンさんに向かって、悪魔のような提案を囁いたのです。
 お嬢様を持ち帰って、また2人だけでやり直しませんか。
 もちろんメタモンさんはぎょっとしました。いくらお嬢様が好きだからと言って、抜け殻のそばで生活する気はない、とはっきりおっしゃいました。いえ、少し考えてみてください、と私は反論します。なにも亡骸と生活しようと言っているのではありません。お嬢様に変身したあなたが、私とともに今までと変わらない生活を続けるのです。これからは屋敷の人の目を気にすることなく、元気な姿でお花畑を駆けることだってできます。その様子を見れば、天国から見守っているお嬢様もさぞ喜ぶでしょう。ほら、『わたくしの元気な姿を見れば、きっと本物のわたくしも元気になれる』と、言っていたではありませんか。このままでは、抜け殻になるのは私たちのほうですよ。お嬢様が遠くに行っても、まだ私たちにはできることがあります。長い説得の末、ついにメタモンさんを言いくるめることができました。――ええ、そうですとも。これこそ、エゴイズム以外の何物でもありません。お嬢様もメタモンさんも、他人のことは一切考えないような、ねじ曲がった自己愛。私は、お嬢様と私だけの空間を、かりそめにも再現しようとしたのです。天国に旅立ったお嬢様が、そんなことは決して望まないと分かっていますのに。私はお嬢様が死んでもなお、自分自身の生き霊に取り憑かれたままなのです。
 近くにいたストライクに変身したメタモンさんは、お嬢様の長くしなやかな髪をばっさりと切り、それを私が冷凍ビームで腐敗を停止させました。本当はお嬢様の体すべてを持ち去りたかったのですが、保存が困難であることと、お屋敷の人に見つかるリスクを減少させるべきだという考えから断念しました。そして私たちは、お屋敷と似たような環境のここ、ソノオの近くに住処を決めたのです。
 それから毎日、先ほどお話ししましたように、私はお嬢様に懺悔をし続けています。日が昇ると、お嬢様の髪の一部を解凍して、メタモンさんはそれに触れてお嬢様にご変身なさいます。その華奢な体に飛びつくと、お嬢様は繊細な手つきで、私のうるんだ瞳を拭ってくださるのです。私がお傍にいながら、と謝ると、もういいよ、こんなことはやめにしましょう、と優しく耳元で囁いてくださいます。それから、私たちの気が済むまで車いすを押して花畑をお散歩するのです。天気のいい日は、お花を摘んでアクセサリーを作り、お互いにプレゼントしたりします。澄んだ小川を覗き込めば、お嬢様が私のことを思って作ってくださいました冠が、さわやかなそよ風に吹かれているのです。それに飽きれば、花畑に寝転んでゆったりと流れてゆく雲を眺めるだけでも、幸せな気分になれます。雨の日は大自然の生み出す音楽に耳を傾け、雪が積もれば新雪に足跡をつけ笑い合います。夜になれば並んで月を見上げるだけで、隣にいらっしゃるお嬢様の温もりを近くに感じることができます。
 そうそう、お嬢様はいつの間にか独学で勉強していらっしゃったようで、私の言葉を理解することができるようになられたのです! 賢いお嬢様のただ一人のパートナーに選ばれるとは、私はなんて幸せ者なのでしょう! 今日もほら、お嬢様は私のために髪留めを作ってくださいました。この水仙の大きさ、色つや、形の良さ。どれをとっても私にぴったりです! ああ、どうかこの幸せな時間が永遠に続きますように!
 ――そんな顔をなさらないでください。すみません、せっかくあなたの旅立ちの日に自慢話をしてしまって。ああそうです、最近はお嬢様もすっかり回復なされて、あの闘病生活がまるで悪い夢だったかのように遠く感じられます。私たちにはもう必要のないものですので、よろしければこの車いすをあなたにお譲りしますよ。お嬢様のように、もしあなたのトレーナーが重い病気を患い動けなくなった時には、きっと必要になるものですから。



----

あとがき

 ひとりでに壊れてゆくさまって美しいですよね。心理描写の塊みたいな作品です。
 Ptのポケモン屋敷でサヤカお嬢様が繰り出してくるハピナスのはなし。もともとはメタモンが変身するところがメインだったのですが、上手くまとまらなくて気づいたらこうなっていました。
 ハピナスは不思議な飴を投げつけてきますが、これはサヤカに与える薬なんじゃないの? というすごいアンハッピー感しかない妄想から始まりました。それに加えお嬢様の部屋はメイドが立ちふさがって入れないうえ、改造でメイドをどけても入れないらしいですね。そりゃどう&ruby(こ){捏};ね繰りまわしたってハッピーエンドになんてならないですよ、うん。しかも盛り上がりがないというか、全体として緩やかな下り坂だし(私が好きなだけ)。ほんと自慰みたいな作品です。でもまぁ、彼女は最後まで幸せでしたから、ある意味ハッピーエンドでしたね。
 話の聞き手は一切描写していませんが、ソノオ付近に住んでいること、車いすを押せることからブイゼルあたりかな。ご自由に想像してください。これからトレーナーとともに暮らすアドバイスを聞いてこんなことを語られたらきっと終始ドン引きでしょう。引きつった顔のブイゼル、それはそれでアリだな……



----

倒したら経験値多いよ、どんどん口撃してね!(皆様のコメントお待ちしております)

#pcomment

 
 
 
 

IP:115.162.71.14 TIME:"2015-01-03 (土) 00:35:18" REFERER:"http://pokestory.dip.jp/main/index.php?guid=ON" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; ARM; Trident/7.0; Touch; rv:11.0) like Gecko"

トップページ   編集 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.