ポケモン小説wiki
グルメッカ-旅の町の思い出で章- の変更点


よくわからないけど問題だと思ったら戻りましょう。行動するって大事。
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1


休憩をとっているハッカク達の背後から、いい匂いがして振り向く。食事の匂いにつられてしまうのは、生き物の性なのか、自分達が匂いにつられたことを、互いに見合わせて苦笑する。「いいにおいだ」ガーリックが仲間の塊から少しだけ体を動かして、ひょいと匂いのもとをのぞかせている。「これなぁに?間食?」
「そうですよ」サンドイッチの皿をもったおしょうは微笑を浮かべて、仲間の中に入り込む。「食事をしながら進まないと、森を抜ける前に日が暮れてしまいますからね」
早くもそばにきてサンドイッチに手をのばしていたガーリックとアスパラを見て、ハッカクは笑う。「おいおい、そんなにとらないでくれよ、僕たちの分がなくなるし」
「たくさんあるから大丈夫ですよ」
うん、とハッカクは頷いた。自分の体に肉が付いていることを改めて思いながら、一週間前までは想像もできないほど、体の調子を取り戻していた。
食事をすることを拒絶した自分を思い出して、苦笑する。
「何笑ってるの?」
ニップは左の前肢で卵のサンドイッチをつまみ、食べながらハッカクに話しかける。
「行儀悪い」ハッカクがぴしゃりと言い放つ「ですよねー」ニップは苦笑して諸手を上げた。
ハッカクもトマトとベーコンのトッピングを挟んだサンドイッチを頬張りながら、ふと思った。このまま進み続けて、町に着いたら、そこから何をすればいいのだろう、という思いがよぎる。目的も聞かされないまま進むことは、なんとも寒々しい話だった。
(何を目的として、僕たちは旅をする――)
最初におしょうは、冒険をしてみたくはないか、と持ちかけた。それはあまりにも漠然としていて、何の事だか分らないという印象を受ける。冒険とひとくくりに行っても、さまざまな解釈がある。ギルド内では、子供のお使いのような内容でも依頼として分類される。
しかし、今行動しているこれは、まぎれもなく生死をかけた冒険に入るだろう。ギルドの手も届かない遠くの土地まで赴き、自分たちの意思で行動する。
(恐いな)
体が少しだけ震えて、角材を知らないうちに握り込む。恐怖はあるが、冒険心を忘れないでいられることにハッカクは感謝しながら、二つ目のサンドイッチを取ろうとして、むなしく空を切った右手を確認して、驚愕を感じながら皿に視線を移す。
「なぁっ――」
皿にあるはずの大量のサンドイッチは、五分もたたずにすべてニップ達の胃の中に放り込まれていた。ハッカクは震えながら、口をパクパクと動かした。「どういうことだ」
トリガラはサザンドラという種族上、三つの首に栄養が行き渡らなければ非常に粗暴なふるまいをしてしまう――わけではないが、どうも大喰の傾向が強いようで、せわしなく三つの口を動かしていた。
「ちょっとは遠慮してくれよ」ハッカクはげんなりと首を項垂れて、左手を頭に当てて天を仰いだ。「最悪だ、一個しか食べてないのに」
ハッカクは苦いものを食べてしまったような顔をして、ガーリックとアスパラをねめつけた。当の二匹は、そんな目で見ないでくれとでも言わんばかりに、お互いに同じような動きで首を横に振った。誰が悪いわけではなく、ただ単に考え込んで手と口を止めていた自分に非があるということが分かっているからこそ、ハッカクは腹の底にやりきれないものが溜まって苦笑いをすっからかんになった皿に向けることしかできなかった。
「ショックが大きいところ悪いけど、スープ飲む?ハッカク」
おしょうが薄い塩味のスープを小さめのカップに注いで、ハッカクに差し出す。「悪いね」受け取ったハッカクは、うらめしそうな瞳を向けるガーリック達に勝ち誇ったように満足げな笑みを浮かべた。
「おしょうさん、僕たちの分は?」
「人の分までとっちゃう悪い子にはないですよ」
そんなやり取りを聞きながら、ハッカクは口の中にスープを注ぎ込む。夏の終わりが近づいて、ここのところはぐっと冷え込むようになっていたので、正直なところスープはありがたかった。体から体温が引きはがされる感覚は、何かを喪失するような感覚と似通った部分があり、夏が終わり、秋が深まれば、独特の心細さが付きまとうだろう。
(心細いね)
心の中で口にして出してみると、いっそう身に迫る感じがした。一人ぼっちになることの心細さ、仲間が近くにいることのありがたさ、知らないうちにハッカクは、周囲を警戒している自分がいることに気がついた。
――近ごろ、一人でいることが少なくなったのはなぜだろう。
自分で考えてはみたが、まるで答えが見つからないので、考えるのをやめていたが、まるで何かから遠ざかるような印象を受けていた。項のあたりに焦げるような緊張感が走って、首周りを掻いた。夜行性のポケモンは、なぜか極端に夜を怖がるものだと、何かの本で見たことをなぜか思い出した。
(なんで今更そんなことを)
空になったスープカップの底を見つめながら、ハッカクは妙に考え込む。何かがおかしいということ、自分が自分ではなくなってしまうような感覚。
(……もともと、僕は僕じゃないからな)
自分のことは、自分でもわからない。まじないよりも胡散臭いと思いながら、かぶりを振って考えるのを放棄する。わかるのは、健康管理と体調に関してくらいだと思った。
わけのわからないことばかり考えていると、非常に疲れると思いながら、子供のように考えることもまた重要なのかもしれないと思い込む。アスパラを見て、わけのわからないことを考えないと文章が浮かばないと言い切った時の達観した顔を思い出した。
「さあ、出発しましょう」
おしょうはひときわ大きな声をあげて、ゆっくりと体を動かした。お皿をしまい、スープカップを携帯していた水で簡単に洗い流す。自分が水を吐かないのは、自分の口から出た水が奇麗とは言い難いことと、勢いをつけてしまえば食器が破損するからである。
(考えものね)
ポケモンという生き物は利便性がありそうかと考えてはみるが、闘争本能が残るポケモン達の技というものは、案外殺傷能力が高いものばかりで、おしょうは苦笑した。普段どれだけ穏便に取り繕っていても、結局はどこかで戦いのための本能発散しなければいけないという事実もあるということを感じながら、肩周りが妙な寒さを感じて、胸にまいた晒が緩くなるような気分がした。妙なうすら寒さを感じながら、さっさと森を抜けたいという衝動にかられた。


2


「ハニータウンにようこそ。ゆっくりして行ってください」
ビークインとスピアーの街案内人らしき二匹が、町にやってきたおしょうたちを歓迎した。手厚い歓迎を受けながら、おしょうはきょろきょろとあたりを見渡した。ところどころから漂う甘い匂い、この町の特産品が何なのかを、改めて思わせる匂いだった。
「すごく甘い匂いがする」唐突にはなったハッカクの発言で、ガーリックもそれに続くようにしきりに鼻を動かす。「わ、ほんとだ、甘い匂いがする」口から涎を垂らしながら、においのもとを探そうと体をしきりに動かす姿は、小動物のそれを連想させる。トリガラは三つの首を動かして、周囲を見渡しながら、ぴょんぴょんとびはねているガーリックに話しかける。
「あっちの方角からだと思うよ」
そう言って左の頭をさして、ゆっくりと体もその先に向ける。ガーリックはそれに操られるようにゆっくりと体を動かした。ビークインは視線の方へ指をさして、にこやかに微笑む。
「あちらの方では、蜂蜜を使った料理店や屋台が数多く存在します、西と東で、取り扱うものが多く違うのがこの町の特徴ですが、どちらもこの町の特産品です。ぜひお土産にどうぞ」
実に商業的な発言だと思いながら、ニップは鼻孔を擽る甘い匂いを嗅ぎながら、吹き付ける風に身を震わせた。「どこか落ち着ける場所はないかな?」
「この先に宿がございますので、そちらに行かれてはいかがでしょうか?」
スピアーの方も自分の針を刺し、道を開ける。入り口でたむろするわけにもいかないと思い。おしょうは意気軒高と歩き出す。二匹の案内にお礼を言い、小走りに宿屋のドアまで近づくと、手をかけて、ゆっくりと扉を開く。出入り口についた小さな鈴が鳴って、入り口で眠っていたレントラーが目を覚ました。
「あ、いらっしゃいませ」
よほど暇だったのか、宿泊客の名簿の右下に落書きがされている。おしょうは笑いながら六匹、とだけ告げた。
「六匹ですね……あれ?後ろの方たちは」
「え?」おしょうは思わず後ろを振り返る。「すみません、つかえているので早めに行ってくれませんか?」最後尾にいたトリガラが慌てたように宿の中に入り込むと、三匹のポケモンが宿の中に入ってくる。この地方では珍しいポケモンといわれている、ドレディア、デンチュラ、オーベムの三匹。
この辺りでは見たことのないポケモン達がぞろぞろと宿の中に入り込んで、広い空間は少しだけ混雑した。落ち着いて休憩しようかと思っていたが、人数分の椅子が一個足りないと思ったので、おしょうは手早く宿を決めようと、空き部屋を確認した。
ニップは首ものとの跳ねた毛を弄りながら、自分の後ろに引っ付いて離れようとしないガーリックをぺしぺしと叩いて取っ払おうとした。「暑苦しいから、ちょっと離れてくれないかな、ガーリック」それに対して、ガーリックは慌てて小声で声を出す。「わわっ、バカバカ、声が大きいってば」
何が言いたいのかいまいちはっきりしない挙動不審なガーリックを見ながら、ニップは不審げな瞳を揺らす。
「何か怖いものでも見たの?」
ガーリックはどきりとした。「怖い」という言葉に反応したのか、それとも彼の先にある――ドレディアを凝視したのか。軽く首を振ってなるべく見ないようにはした。
「怖いものよりも、すごいものだよ」
「何それ」ニップがますますわけのわからない顔をした。「お嬢様」それだけ告げると、ガーリックは次にトリガラの後ろに、無意識的に隠れた。それに気がついたトリガラが、いつもの調子で大きな声を上げる。
「こら、かくれんぼなら後で付き合ってあげるから、ちょろちょろ動き回らないでよ、ガーリック」
びくり、とガーリックの綿毛が震えて、体に強力な虚脱感と倦怠感が襲いかかった。複数の視線にとらえられて、ゆっくりと逃げられないような威圧を放たれる。クモの巣にからめとられるような包囲感のなか、汗をかいた。
「ガーリック……」
デンチュラのクローブ・ウーは視線の先のガーリックを見据えると、宝石を見つけた子供のように瞳を輝かせた。
「幸先がいい、目標を達成できたよ、お嬢様」
ポケモン達の林をかき分けるように見つめると、ドレディアのウルチ・ウール・ラ・サンダルフォンは懐かしいものを見るような瞳で、静かに口を開いた。
「あらあら、ほんとですね。案外世界は狭いというのは、間違ってはいませんね」
「お嬢様、世界世俗、狭いというよりは、生き物は絶えず何所彼処に移動するもの、世界が狭いのではなく、私たちの偶然が必然になりかけているという判断のほうがよろしいのではないでしょうか?」
オーベムのニッキ・ロートヴァローナは首を傾げて、苦笑のような音を漏らした。
「何、知り合い?」トリガラはすっかりと意気消沈したガーリックを見ながら、眉を顰める。「知り合いなのに知らんぷりって、ガーリックって案外恥ずかしがり屋なのね」
(違う、そうじゃない)
ガーリックは心の中で思い、それを口に出すことなく飲み込んだ。
両親を失って、弟を失って、大切なものをすべてなくしてから、ウルチに拾われた彼が思うことは、大きなものを得た祝福と、そして大きなものを失った後悔と懺悔の気持ち。ウルチの父に言われて執事になってから、いろいろな出来事がありすぎて、自分は頼られているのか、それとも保護されているのか全く分からなかった。自分一人で何ができるのか分からないまま、ガーリックは辞職した。
そのまま流れるようにギルドを転々として、イッシュ支部のギルドにたどり着き、自分のやることを考えながら日々を過ごしていた。そんな彼に届く、複数の手紙を見るたびに彼はやりきれない思いを飲み込んでいた。すべて印はウルチのもの。それを見るたびに、後悔や苦悩が頭をよぎり、頭痛が起きる。
体は大丈夫か、元気にしているか、ギルドは楽しいか、そんな文字を見るたびに、ガーリックは涙を流した。自分は何をしているんだろう、そんな気分にもなった。
彼女は自分のことを逃げ出した臆病者と責め立てるわけでもなく、職務を放棄した非常識なポケモンと蔑むわけでもなく、ただただ、執事から一般のポケモンに戻った自分に対して、それなりの態度で接しているだけ。
それが、ガーリックには死ぬほど心を痛めつけられる行為だった。責めてほしかった、なじってほしかった、そう思えば思うほど、涙があふれる毎日を過ごした。手紙を開くのが嫌になり、文字を見るのがつらくなる、話す言葉を取り繕っても、何も変わりはしない。昔のままの自分から、何も成長してはいないのだから――
「ガーリック」
「ごめん、僕、僕――」
頬に伝わるぬるいものを手で拭きながら、ガーリックは首を横に振った。トリガラは、ガーリックの頭をなでながら、ウルチ達を見つめた。
「あなたたちは、どういう人たち?」
「あ、申し訳ありません」慇懃無礼というわけでもない、ごく普通の返答を返して、ウルチは自分のことを紹介した。「私はウルチ・ウール・ラ・サンダルフォンと申します。以後お見知り置きを。こちらは、私の護衛をしていただいている――」
「クローブ・ウーです」クローブは丁寧に体を使い挨拶をする。「ニッキ・ロートヴァローナと申します」ニッキも同じように、丁寧に挨拶を返した。
「ご丁寧にどうも、トリガラ・リングフープです」
挨拶を返して、おしょうたちも不思議そうな顔をした。
「あなたたちは、ガーリックさんとお知り合いでしょうか?」
「ええ」ウルチは、息を吐くように言葉を吐いた。「彼は私の――執事だった方ですから」


3


彼が執事だったのは、ずっと昔、お嬢様と呼ばれていた自分、彼はお嬢様と呼ぶのが嫌だったのか、いつも顔を背けたりしていた。ウルチは別段それを不快に思ったことはなかったが、少しだけ心が縮まっていないという事実に頭を垂れていた。
ガーリックは両親が自分の思い出に少し残る程度にしかこの世に存在してくれなかったと言っていた。早くにこの世を去った。それを詮索するのはプライベートの侵害であるということだけは幼いながらに思っていた。
ガーリックとウルチがモンメンとチュリネだったころ、執事として果たして機能していたのかは、ウルチには分からなかったが、ウルチの父は、ガーリックを大層気に入っていたことは覚えていた。彼のようなポケモンがいれば、ウルチとも仲良くなってくれるだろう、そう言っていた。ウルチには仲良くという意味がよくわからなかったということもある、しかし、それ以前にニッキやクローブというお世話周りと仲良くなっていけなかったというわけでもない。おそらく、年齢が近しいということだろうと思ってはいたが、ガーリックはウルチの父やニッキ達に対しては普通に接してはいたが、ウルチと二人きりになった時に、妙によそよそしくなっていたことが多かった。照れているのか、それとも他人行儀の傾向が強かったのか。ウルチにはさっぱりわからないまま、二人の時間を過ごしていたことが多かった。何故ガーリックと二人になる時が多かったのか、彼女は考えてはみたが、曖昧な回答が浮かぶばかりで、それが正しいのかどうかは全く分からずに、首を傾げるばかりだった。
ある日、十二歳の誕生日、ガーリックと一緒に呼び出された。ウルチの父は何も言わずに、きれいな石を差し出した。ウルチはその時の太陽のように輝く、眩い石のことをいつでも覚えていた。ガーリックもそれを不思議そうに見つめていた。
――その石を託されるということの意味を、しっかりと覚えておきなさい。
父はどちらに言ったのだろうか、そう思いながら、ウルチは頷いて、石を受け取った。石は手に取られたときに、不思議な光を放ったことを、おぼろげだが覚えていた。石を受け取るということの大きな意味、石を受け取るために伴われる責任、そういうものを背負えと、声が聞こえた様な気がした。胸の奥が熱くなり、背筋になでられるような感覚が走って、知らないうちに二人は進化していた。
自分たちの生まれ変わったかのような姿を見て、視線が動いたのもそうだが、もこもこしたような感覚が右の方へ来るような感覚はあった。
――姿形が変わっても、お前たちはお前たちだ。それを忘れないように。
姿形が変わっても、そう言われて、ウルチはどうにも首をひねる回数が多くなった。首の調子がおかしいというわけでもないが、納得できない部分や、わからないことの方が多かったからなのかもしれない。背筋が寒くなるような感覚も、ウルチの父が何を言っていたのかも、ウルチにはいまいち理解ができなかった。どうして進化をしたんだろう。なぜ進化に責任が伴うのだろう。疑問は尽きないが、考えてもしょうがないと思った。
進化してから、ウルチには時間の自由というものが少なくなったような気がした。いろいろなことを学ぶという行為もそうだったが、何よりもガーリックと接する時間がなくなった。子供のころはいくらでも接していたのに、という気持ちではなく、ただ単純に、執事とお嬢様という関係が延長線上に伸びたようなものでもない。それは、会う時間という問題にさらに複雑怪奇なものが絡み付いたものかもしれなかった。執事として彼はお茶や部屋の清掃で入る時はあったが、それ以外で会うことはなかった。そんな中、いろいろなことを知っていき、知識を蓄えているうちに――彼はいなくなった。
ウルチが預かり知らないところで何が起こっているのか分からないまま、ガーリック・ファーバーは消えた。どこともわからないギルドに身を寄せて、そこで生涯を全うするような動きを見せていた。ウルチの父も、それを了承していたらしく。ウルチは知らないところで自分の周りのポケモン達が動き回ることに対して、静かに憤りのようなものを感じていたのかもしれなかった。自分の頭ではそれがよくわかっている。ポケモンは生きている、置物の様に動かずに時を過ごすわけではないということも分かってはいた。だがしかし、それで心の中で、絶対に自分の周りは変わらないと思い込んでいた自分を恥じ入った。
彼女は抜けていったガーリックに対して手紙を送った。七分八分と書きためていったときもあれば、もしかしたらまったく書かないまま机の上に突っ伏し、羽ペンをいじりまわしていた時期もあったかもしれないが、お付きの話では、たいそう熱心に書かれていたという話を聞いていたので、ウルチは安心したのか妙な気分になったのか、忙しく思考回路と感情が目まぐるしい錯綜を繰り返していた。笑ったり泣いたり、手紙を書くときだけ、大企業のお嬢様という大きな肩の荷を下ろし、普通の女の子に慣れるという気持ちを持ちながら、手紙を書くことを楽しんでいた。
もしかしたら、ガーリックが返事をくれるという期待をしながら、ウルチは手紙を書き続けた。雑務を終えると、すぐにペンをとる。まるで締め切りを迫られた作家のような感覚に陥りながらも、毎日筆をとり、文字を書くことが楽しくなるまで、ウルチは何分送ったのか分からない膨大な文章量と、自分の身の回りに起こった出来事を文字という情報媒体を使ってガーリックに送り続けた。たとえガーリックがそれを読まなかったとしても、ウルチは一向に構わなかった。結局、自分が送り続ける手紙の情報というのは、自分の善意の押しつけの一つにすぎないということを、ウルチ自身がよく知っていたからである。しかし彼女は、それでいて相手が迷惑を被っていたとしても、手紙を書き続けた。反応を求めるために、安否を確認するために。それが、彼を傷つける行為だったとしても――


話を聞き終えたときに、宿屋のレントラーが水を持ってきてくれた、器用に盆を頭の上にのせる行為は、果たして無意識のうちに培った技術か、それとも鍛錬の末に身についたものなのか、そんなことを考えているうちに、目の前に水が飛んできて、おしょう・とうろうは体を強張らせた。
「びっくりしすぎだよ」トリガラは水をそれぞれの口に注ぎながら、含みのある笑みを向ける。いつもの光景だと思い、知らないうちに声が出ていた。「びっくりするようなものを見たわけじゃないのに、どうしてなんでしょうね?」
「おしょうさん、と言いましたか?」
クローブはおしょうの姿をまじまじと見つめながら、ゆっくりとおしょうの足元に歩み寄る。
「なんでしょう?」
「いえ、たいしたことではありませんが」何やら口にものが入ったような言い方をして、クローブはすこしだけ体を震わせる、デンチュラ特有のなんとやらというものを見た様な気がして、おしょうは興味深げに見言っている。「あなたたちは、何を目的に旅をしているのですか?」
言葉が胸に突き刺さるような感覚、おしょうは少しだけ押し黙り、苦笑いを返した。
「旅するということは、目的というものが付いてくるでしょう」クローブの言葉は、的を得ていて、ざっくりと体を抉る。おしょうは忌み言葉のようなものを聞いた気になり、少しだけ口をゆがませる。「あなたたちは、ただ放浪しているのですか?」
「失礼なことをきかないでください。クローブ」
ウルチは静かに首を横に振り、頭を下げる。それに対して、おしょうは何も返さなかった。変わりに口をはさんだのは、ハッカクだった。
「おしょうさん、そろそろ目的を話してもいいんじゃないの?」
アスパラも興味深げに言葉を吐いた。
「僕も気になります、何の目的で、誰と誰がどんな形で僕たちを読んだのか、これは何を目的にした旅なのか?ただ漠然とした『宝探し』じゃ納得できないところがあると思いますし――」
「それに」トリガラはガーリックの目の前に置いてあるコップを手に取り、中の水を口の中に放り込む。「私たち、チームって呼ぶには微妙かもしれないけど、少しくらい溝が浅くなったって思いたいんだ」
溝が浅くなる。その言葉の意味をウルチ達には理解できることはないだろう。おしょうはすこし考えてから、ゆっくりと頷いた。ニップは耳を立てて、鬚をひくつかせる。
「私たちはお邪魔ですか?」ウルチの問いに、おしょうは首を横に振る。「いえ、かまいません、クローブさんは、目的を聞かれているのですから」
おしょうは肩の力を抜いて、息を吸う。ホタチが揺れて、少しだけ木の机を削った。
「私たちの目的は――グルメッカに行くことです」


4


「この世界には、『メッカ』というものがあります」
メッカという言葉を聞いて、トリガラは少しだけ目を細める。聞いたことのある言葉がおしょうの口から飛び出ることもびっくりしたが、何よりも事実自分だけが知っているような錯覚から抜け出せずにいて、少し困惑した。アスパラが横で口をはさむ。
「メッカって……中心地っていう意味ですよね」
「そうだよ」おしょうはそういうと、そのまま口を動かした。「メッカというのは物事の中心、土地の中心、心の中心、世界の中心。あらゆる意味での中心地。この世界には、滅んでしまった土地がたくさんあります。その一つが、この世界の中心大陸に存在した、食神の都市『グルメッカ』あらゆる食材が都市じゅうに回り、食べ物に困ることは一生ないと、おとぎ話の様に増長されたような情報が飛び交う国。ポケモン達の間でも、夢幻の類として認識されている節があるけど、私たちは、そこに向かうために動いているんです」
ハッカクは吠えるように言った。
「どうしてそんなことを黙っていたの」
「黙ってたのは悪かったけど、私はみんなの前でこんなことをいきなり言いたくなかった」
おしょうの声は、切迫したわけでも、動揺したわけでもなく、ただただ、本当にいたくなさそうな声を出しているだけだった。ハッカクが言葉に詰まり、狼狽するようにニップを見やる。ニップは考え込むように影を落として、左の前肢で口を押さ得ながら、力なく呟いた。
「僕たちの信頼関係が足りないから、もしかしたらおしょうさんも切り出せなかったのかもしれないじゃないかな?いきなりそんなことを言われて、はいそうですかってできるほど、このチームは仲が良かったっけか」
そう言われて、ハッカクは言葉に詰まった。それは出発の時にニップが言っていた言葉と非常によく似ていた節もあり、おしょう自身がそんなことを考えているなどとは露ほどにも感じてはいなかった。おしょうは誰にでも優しく接し、節度と理解を守る、絵にかいたような『良い子』であると思っていたからこそ、まるで暗闇が空洞を開けるかのようなおしょうの心の中を読み取ることができずに、友達という絆に少しだけ亀裂が走ったような気がした。
「言いたくないことは言わないっていうのが、おしょうさんの心の中であったんじゃないかな」ガーリックは、申し訳ない程度に口をはさんだ。言葉が乗らないのは、目の前にいるウルチに対して引け目のようなものを感じていたからなのか、元気もないように思えた。ガーリックの声を聞いて、同意を求めるようにニップとアスパラは曖昧な声を上げた。
「言いたくないことを言わない、確かにそういう風にとられてもしょうがないっていうのは、否定しないよ」
おしょうは涼やかな声でそう告げる。まるでそれが当然と言わんばかりの様な気がして、少しだけ仲間たちは不信感を募らせた。これも心の中に空いた空洞なのか、くみ取ることもできずに、ハッカクやニップは訝しげな顔をするばかり、心に鬼を飼う友人を、何を思えばいいのかわからなくて、ハッカクは背筋が寒くなった。
「でも、喋ったってことは、それなりの理由があるっていう風に思っていいんですか?」
アスパラの声を聞いて、おしょうは肯定するように頷く。「うん、私は、今なら語っても、みんなに伝わると思ったから」
語っても伝わるという言葉を聞いて、ハッカクは不思議な響きのように耳を傾けた。まるで今までの自分たちでは伝わらないという言葉を、直接聞いているような気がしてならない。間接的にそう言ったにも関わらずに、そう言われたような錯覚。少しだけハッカクは不安になった。
「語らなかった理由があるんだね」ガーリックはどこか憐憫を含んだ笑みをおしょうに向けた。それを見たおしょうは、少しだけ眉を顰めて、そう、と語る。
「本当はおやかた様に言われたんです。このチームでくむ理由も、バランスがとれるからって、そういったんだけれども、いくらチームのバランスが取れても、チームワークのバランスが取れないと何の意味もないから、だから、絆が少しでも深まってから、この話を切り出すことにしたんです」
騙していたみたいで申し訳ないといった風情の顔を揺らがせて、おしょうは謝罪をするように首を傾ける。それに対しての反論や避難をチームのだれかが起こすことはなかった。誰も気がつかなかったということがあるからなのか、その程度のことは怒り出すことのうちに入らないといえるのか。
収支話に耳を傾けていたクローブ・ウーは、大体の事情が分かったのか、しきりに体を揺すり、ふさふさの毛を飛ばした、肯定とも取れるその行動を見て、宿屋のレントラーが苦笑いをした。
「なるほど、そういう事情で旅をしていたのですか、それは大変な旅でしょうね」
「うーん、そこまで大変というわけでもない気がします」おしょうはそう言ってくすくすと笑う。「グルメッカに行くだけですし、まぁ、行くだけじゃなくて、ちゃんと仕事のために行くんですからね」
仕事という言葉を聞いて、ニップは少しだけ体をこわばらせた、何を思うのか、どう思うのか、知らないうちに、小さく震えていた。
(おしょうさんは――)
そこまで考えて、ニップはかぶりを振った、考えても意味がないと思うこと、または、考えたところで、なんら変わらないと思うこと。彼が何を言っても、運命は変わらないと思い、息を深く吐いた。それに気がついたアスパラが、不思議そうに声をかけた。
「ニップさん、疲れてますか?」
「ん、ちょっとだけね。やっぱり、町に着くとのんびりしたいっていう気持ちが先行しちゃうからかもしれない」
「――ん、そうだね」おしょうはニップの言葉を聞くと、少しだけ伸びをすると、話を中断した。「堅い話ばかりして、自由に行動する時間っていうのがなくなっちゃうのもあれだし、わかった、詳しいことは、また後日に話すことにするね。今日は夜まで自由行動にします、好きに楽しんでください」
本心はしゃべってしまいたいという気持ちに駆られている自分を恐ろしく思ってしまう、おしょうは胸のうちに手をあてて、心臓の鼓動を確かめるような仕草をした。この事実を胸の内に秘めておくには、重く苦しく、話して少しでも気分を鬱さんさせたいと思っていた。しかし、なぜそんなことを思うのかという気持ちは、おしょうはわからなかった。もしかしたら、とんでもない事実を胸の内に抱えて、それを仲間たちに刷り込むことによって、自分だけ難を逃れようとしているのかもしれない。
(まさか、そんなまさか――)
そう思って、違うとかぶりを振っても、もしかしたらそうなのかもしれないという自分がいることを、おしょうは恐ろしく思った。


仲間たちがまばらになっていくのを見送ってから、ガーリックとトリガラは残った。目の前にいるウルチ達に目線を合わせて、少しだけ顔をそむける。
「お嬢様、僕に会うことの目的って何ですか?」
「父が、亡くなりました」ウルチは端的に用件を告げた。「もともと胸を患っていたのですが、ここ最近はちゃんとした治療環境を作ること自体が難しくて――」
それを聞いたガーリックは、まるで意味がわからない言葉を聞いたかのように硬直し、目を瞬かせた。
(お嬢様は何を言っているんだろう――)
どうしても、理解できない言葉を聞いたような気がした。
――父が、亡くなりました。
ウルチは何を言っているのだろう、なぜそこまで寂しそうな顔をして、なぜそこまで重いような口調で、どうして自分にそんなことを話すんだろう。そんな言葉を使ったら、まるで旦那様が死んでしまったようではないか。
「旦那様が――」
――父が
口から出す言葉は、何かに引っ掛かってうまく伝えられそうになかった。ウルチの言葉を吟味して噛み砕いても、出てくる真実は、ウルチの父が死んだという訃報を伝える言葉。意味がわからなくて、ガーリックは口をゆっくりと閉じた。
――亡くなりました。
ガーリックは考えた。ウルチが一見して彼女の父の訃報を伝えるような口調を。本当は何を伝えようとしたのか想像した。どんな単語が脱落し、言葉上のどんな過ちが起こっているのか――
宿屋のテーブルに座ったまま動かないガーリックに声をかける者はいなかった。クローブは透き通る青い瞳でガーリックを静かに見据えている、ニッキは静謐な笑みを湛えて、ただただガーリックを見守るような仕草をするだけ、トリガラも、何も言わない、ただ顔を顰めているだけだった。どうしてだれも何も言わないんだろう、なぜみんなこれがジョークだと気がつかないんだろう、彼は頭の固い知人たちを見据えて、もう一度言葉を思い出す。
――父が、亡くなりました。
言葉を頭の中で何度も反芻する。(旦那様が――)知らないうちに手が震えていた。(亡くなった?)体も震えている、ジョークだというのに、自分の体は震えていた。(信じられない)思考は死んだという事実を受け止めようとはしていない、それは当たり前だった。それはジョークなのだから。(何で?)今すぐにウルチの屋敷で業務をこなしている旦那様のところに行きたい気分だった。この話をしたら、きっと大笑いされるだろう。彼女はブラックジョークも言えるようになりましたと、穏やかに告げてあげよう、昔と何一つ変わらないまま――
「ガーリック」沈黙を保っていたトリガラが、静かに息を吐いた。吐く息と一緒に、言葉が漏れたのか、連敏な眼を彼に向けている。
「なぁに?」
「死んだんだよ。頭が付いていかなくても、事実は受け止めて上げて――」
彼女も何を言っているのかわからずに、ガーリックは目を大きく開いた。同じようなジョークをトリガラが言うなんて信じられない。彼女は冗談が嫌いなはずだった。少なくとも、自分の頭ではそう思っていた。
「あはは、トリガラでも冗談を言うんだね」ガーリックは笑う。「ガーリック、自分で何を言ったのか、今ウルチさんがなんていったのか、わからないわけじゃないんでしょう?君は子供だけど、もう大人の考え方もできるはずなんだから、もうわかっているんでしょう?」
――父が、亡くなりました。
トリガラの言葉と一緒に、もう一度頭の中で再生される、ウルチの言葉。自分ののんきな振る舞いや言葉が、まるでそぐわないという感覚。何が「そぐわない」のかは、まるで分らないけれど、おそらくそれは、親しい人の訃報に対して、自分が笑っていることなんだと、理解した。理解した時、体に脱力感が走った。馬鹿な、と思う。悪いことなんて何も起こらないと思った。思っていたと――錯覚したかった。
「旦那様――」
知らないうちに視界がにじむ。よくものが見えなくなるガーリックを、トリガラは俯いて、直視することができなかった。彼女は何も言わずに、ガーリックの手を握る。震えていて、それでいて、力を加えると折れてしまいそうな、弱さだった。
「ガーリック」
ウルチの声も、ガーリックには届かない。
なんでもっと早く、患いの悪化に気がついてあげられなかったのだろう、どうしてもっと早く、旦那様の思いに報いて上げられなかったのだろう、頭の中で、やり残したことへの後悔がせきを切って溢れ出す。何もしていなかった、毎日怠惰な時間を過ごしていただけだった。その思いが、ガーリックをさらに締め付けた。大丈夫だと思っていた。何も起こらないと思っていた。起こるはずがないと、変わるはずがないと。勝手に思い込んでいた。そんなことはあり得ないのに、そう思っていた。
「なんで……どうして――」
何故そんな誤解をしていたのだろう、どうして分かってあげられなかったんだろう。自分は受け止められないほど、旦那様からもらっていたのに、返す人もいなくなり、抱えきれないものを借りっぱなしになってしまった。
いや、とガーリックの理性は思う。胸を患っていたという事実はガーリックも知っていた。しかし、それでも元気すぎるほど働いていた旦那様の姿を、ガーリックは毎日見ていた。本当に病人とは思えないほどの。そう思ったのがそもそも間違いだったのだ。悪化したら、そのまま引かれるように「死」というものに取り込まれて行ってしまう。結局、ガーリックが気づこうと気付くまいと、結果は変わらなかった。
自分にそう言い聞かせるものがあったが、到底、ガーリックはそれを理解できなかった。自分が気づけば助かったのではないかと思ってしまうほど。どこかの時点で、自分が誤らなければ、修正は可能だったはずだ。今からでも遅くない、何か方法があるはずだ。すべてを正常に戻すための方法が何か。
だが、そんな方法など存在しないことは明らかだった。
「……申し訳ありません」
ガーリックは、涙をぬぐうことも忘れて、机に突っ伏した。
「……申し訳ありません……旦那様ぁ……」


無言の沈黙を保った宿の中で、ガーリックはただ一人、うつろな瞳で天井を見つめていた。宿の主に賃金は払ったので、この町に滞在している最中は、この部屋はガーリックのものだったが。他人から貸し与えられたという感覚がどうも気になるのか、落ち着かないかのように、時折体を揺する。ノックの音が聞こえて、何も言わずただただ呆然としていると、聞きなれた声と一緒に、クローブが部屋の中に入ってくる。
「ガーリック、ひどい顔をしているな」
「君には関係ないだろう」ガーリックはひどくつっけんどんな態度をとり、またすぐに瞳を濁らせた。そんなガーリックを見て、クローブは失笑を漏らした。「やれやれ、まだ子供のころの気持ちが抜けきってないようだな」
「うるさい黙れ」
ガーリックの横着した態度を流すように、隣のベッドにぴょこりと飛び乗るベッドに腰をかけていたガーリックの瞳は泣き腫らして真っ赤になって、濡れて潤んだ瞳からはまだ涙があふているようだった。何か声をかけようかと思ったが、いい言葉が浮かばずに、クローブはどうしたものかと思案に暮れていた。
「旦那様……」
抑揚のない声で、ガーリックはかつての主人のことを思い出す。いろいろなことを教えてもらった毎日、いろいろな出来事が廻った季節それはガーリックの心の中で「思い出」という形に形成されて、ゆっくりと浸透していく。たとえ記憶が旦那様の顔を忘れても、体中に刻まれた旦那様との思い出が、僕のことを見ていてくれる、そう思いながらも、隣に乗って無表情のデンチュラを見つめる。
「クローブ」
「何?」
「お前、泣いた?」
「いや、全然泣いてない」
「……泣きもしないなんて、恩はないのかよ」
子供のころから敬語なんて使わなくていいと言われたから、クローブに対してガーリックは敬語を使うことはなかった。それが今、ささくれた心のせいで無性にいらだたしく感じた。そう感じたのはクローブの方ではなく、ガーリック自身が感じたことだった。
「涙を流して思い出に浸って、旦那様が帰ってくるならいくらでもそうするけどな」
ひどい物言いに、ガーリックは顔をゆがめた。苛立たしい言動と顔、目の前のデンチュラを見ていると心が煮えたぎりそうだった。
「お前は――」ガーリックの言葉を、うっとうしそうにクローブは遮った。「そんな事でいちいち絡むな」だったら出ていけ、と言いたい衝動を堪えて、ガーリックは大きく息をついた。いまにも殴りかかりそうな綿毛の塊を見て、クローブは旦那様が死んだ時の自分を思い出していた。
(悲しんでないなんて言ってないし、恩がないとも言ってない)
だけども、ここでそんなことを言っても多分信じないだろうし、そういうことをむきになっていうのは自分の柄じゃないと思った。クローブは旦那の姿を見たとき、言いようのない虚脱感と不快感、そして少しの後悔が体に染みついていたのを思い出す。臭いがこびり付いて取れないような感覚とよく似ていて、本当に頭が痛くなるような光景だった。
最初に棺を見た時は間違いか何かだと思っていた。しかし、クローブは頭の中でそれが瞬時に自分の下らない妄想だということを理解した、同時に、理解しなければいけないと思ってしまう。そんな自分に嫌気がさした。
――クローブ。
声が聞こえた。奥様の声だった。その時奥様はどんな顔をしていたのかわからなかった。クローブが見た感じ、憔悴しきっているという顔ではなかった。しかし、生気のない瞳で、クローブの名前を呼んだとき、彼は臓腑を鷲掴みにされるような感覚がした。その感覚が、思い出すうちに舞い戻って、少しだけ嫌な顔をした。
――奥様、旦那様は……
その時自分は何を言っただろうか、抑揚のない声を出して、奥様に対して何を言っていたのかわからなかった、ひどいことを言ったわけでもないのに、なぜか手ひどく裏切られたような気もした。誰に対してでもない、旦那様に対して。
あまりにもあっけなく、早くに逝ってしまったことを後悔するわけでもなく、逝ったことに対する深い悲しみがこみ上げるわけでもなかった。どこか心の中にぽっかりと、埋めなければいけない穴があいてしまったかのような気分になった。
目の前の棺を改めて確認すると、現実が飛び込んできそうで嫌な気分になった。それほど自分は旦那様の死というものが嫌だったのかもしれない。信じたくなかったのかもしれない。自分の期待になど、世界は何の頓着もしてくれないことを改めて感じて、子供の様に落胆する。何度経験しても慣れることのない、吐き気のするような気分。誰かの死というものは、そういうものだと割り切るしかないことが、さらに嫌なむかつきを促進させる。
――顔、見てもいいですか?
奥さまはその時、何も言わずに棺の蓋を開けてくれた。クローブがやるのではなく、奥様がやってくれたのは、優しさの表れなのか、最後まで旦那様の妻であろうという気持ちの表れなのか、クローブには分からなかった。わかることは、自分の目の前に存在する旦那様「だったもの」は、花に包まれて、この世界から引かれていったという事実だけ。ぽっかりと空いた穴が、さらに大きくなるような気がした。奥様が壊れ物を扱うような手つきで、顔に乗っていた白い布を取り払うと、旦那様のきれいな顔が、クローブの瞳にいっぱい映り込んだ。間違いなく旦那様だった。瞬間的な吐き気が戻ってきて、この期に及んでもまだ、すべてが間違いであってほしいという期待が捨てきれない女々しい自分がいるものだと、心の中で悪態をついた。
まじまじと顔を見る。傷一つない旦那様の死に顔だ。安らぎも、恐怖も、喜びも感じない、ただただ「死」というものをすべて受け入れた顔だった。これが生きているときの顔ではない、死んでいるときの顔だというのだから、と、クローブは笑みを漏らした。その笑みには、何も込められてはいなかった。
――クローブ
ニッキが声をかけた。その時、知らないうちに振り向いて、こういった。
――旦那様の……「抜け殻」だ。
ニッキは目を細めて、そうか、とだけ言い、頷いた。誰でもない、なぜこんな言葉が出るのかも分からない。どうしてこんな言葉が出るのか、クローブ自身不思議だった。
体に触れたくてもきっと冷たく手触れられない。旦那様のぬくもりはもう戻ってこない。そう思えば思うほど、目の前の「抜け殻」に目が集中する。生きた旦那様の軌跡を、この「抜け殻」はずっと保存しておくのだろう、誰もかれもが腐り、塵となり、土に還ったとしても、軌跡だけのを残しておくのだろう。旦那様の姿を照らし合わせれば合わせるほど、目の前のそれは「抜け殻」だということを教えてくれた。
――旦那様は、どこに行かれてしまったんだろう。
その言葉の真意は誰も知らない、もちろん、言葉を発したクローブ自身も知るわけがない。これは何を意味するのか、どういう理由でこうなってしまったのか、それがわからなければ、知ることもできない。
――さあ。
奥さまはごく短い返答だけを返した。まるで自分だけが寂しいと思っていないことに対して、安堵のようなものが入った気分になりながらも、クローブは言葉を続ける。
――探す方法が、あればいいですね。
――本当に、そのとおりね。
奥さまは深く頷いた。クローブは静かに頭を下げる。
――お悔やみを申し上げます。私は、こういうときの常套句というのはわかりませんが……残念です、すごく。奥様やお嬢様にとっては、それ以上かもしれませんが――
――そうね、とても残念、私も、自分が情けなくて、悔しくて……
――私もです。
奥さまとそれ以上何を言っていたのかわからないが、あの時のことを思い浮かべながら、目の前のガーリックを見ていると、まるで自分だけが悲しんでいるというようなものを見ている気がして、非常に鬱陶しく感じてしまう。
(ガーリック、お前が思っているほど、おれは軽いポケモンじゃない)
そういったとしても、ガーリックはまともに聞く気はないだろう。いくら仕事が優秀だったとしても、こういうやつだと割り切っている。子供っぽくて、人の死に対して、すぐにむきになる。他人事なのに、悲しめ、共感しろと強制する。クローブにはそれを強制する意味が分からない。
悲しみ方は個々で違うものだ、他人と共感してむせび泣いたからと言っても、それが悲しむという行為につながるとは思っていない。静かに冥福を祈り、ただただ心の中で思いをつづるのも、一つの悔やみと思っている。クローブは、小鳥のように喚いているガーリックの口に、自分の手先を突っ込んだ。
「んふぁっ……!?」
「少し黙ってろ」クローブはそれだけ言うと、口の中から勢いよく手先を抜き取る、シーツにガーリックの涎をすりつけて、やれやれとため息をつく。
「お前――」ガーリックは口から何かを言いたげにもごもごとさせて、息を大きく吸う。「冷たいよ、情とかないのかよ、いっつもいっつも、僕が見ているお前はただ仕事仕事って、いつもそんなことばかり、僕が何かを誘っても、お前は何も言わなかったし、ニッキと一緒に食事をしているときだって、お前は何も喋らなかった、人の心とか入ってないのかよ」
「お前がそう思うならそうなんじゃないの」
「馬鹿にしてるのか」
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とうとう我慢できずに、ガーリックは両手で思い切りクローブの手先をつかんだ。軽い浮遊感と一緒に、苛立ちが鬱積するのを感じた。
「してねぇよ」うるさそうに顔をそむけながら、クローブがそういった。「僕の顔を見て話をしろよ、心が入ってるなら」
「うるせぇな」
力を込めてガーリックの拘束を振りほどく、手が離れた瞬間に、ガーリックは尻もちをついた。
「何するんだ」
「何もしてねぇだろ。難癖をつけるな」
「難癖をつけたのはおまえだろ、クローブ」
「あっそ、そういうことにしとけば」
「なんだよ、その物言いは」
「餓鬼かよ」クローブはぴしゃりと言い放った。「俺達が喧嘩して、旦那様が帰ってくるのかよ、いい加減、泣いたとか泣かないとか、どうでもいい事で絡んで来るな、迷惑だし、気持ち悪いよ」
「お前――」
「二人とも、落ち着いてください」
ガーリックが思い切り殴ろうとした時に、ゆっくりと扉を開けて、両者の動きが止まった。ニッキは“サイコキネシス”でお互いの動きを止めて、ゆっくりと両者の間に割って入ると、大きなため息をついた。
「クローブ、ガーリックを刺激しないでください。声が大きくて、お嬢様が何事かと心配されてましたよ。どうせまた、子供みたいな理由で喧嘩をしたのでしょう、クローブは自分が大人だと思っているのなら、子供みたいな喧嘩の誘発はやめなさい」
「へいへい」
「それと、ガーリック」ニッキはゆっくりとガーリックを見据えると、口を低く開いた。「あなたが旦那様の死を悔やむ気持ちはわかりますが、それを理由に、旦那様の死を穢さないでください。あなたの行動は、死を悲しんでいるのか、死を穢しているのかまるでわかりません、私にけんかの仲裁をさせるほど、旦那様の死は安くはないです。仮にもお嬢様の執事だったものならば、わきまえなさい」
ガーリックは何も言えずに、唇を思い切り噛んだ。ぬるりとした赤色が垂れて、体につたう。こんな分からず屋と話していても、何も変わらない。「死」というのは、どれだけ思っているかで変わるのだ。お前たちの悲しみよりも、僕の悲しみの方がよっぽど上だ。
ガーリックはそんな思いを抱えながら、ニッキを睨みつけた。
「さも自分の不幸のようにふるまうのはやめていただきたい」ニッキは汚れものを見るような眼でガーリックを見た。「あなただけが悲しいわけではないのですから」
「もういい、お前らなんか大嫌いだ、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿。ニッキもクローブも、大嫌いだ」
ガーリックはわめき散らすと、勢いよくドアを開けて、そのまま出て行ってしまう。結局、自分に割り当てられた部屋だったというのに、ガーリック自身が出て行ってしまった。しかし彼はそんなこともうどうでもよかった。ニッキも、クローブも、最低だ。もう二度と口なんて聞いてやるものか、と、子供のように憤慨した。
「ガーリック」
ニッキが心配そうな顔をしているのを見ながら、クローブは軽く息をついた。
「ほっとけよ、まだガキなんだから、結局、どんな風に誰が悲しむとかそういうこと分からないんだってば」
「煽る方も子供ですけどね」
ほっとけ、と不貞腐れたクローブを見て、ニッキは苦笑した。


宿屋から逃げるように外にまろび出ると、待ち構えていたように、ニップ・シャドーホップが口の端を釣り上げて笑っていた。
「聞こえてたの?」口からその言葉が出るのがわかりきっていたかのように、ニップはもちろん、と頷いた。「最初からとまではいかないけれど、怒鳴り出したあたりからは聞こえていたよ。ほんとはすぐに部屋を出るつもりだったけど、薄い壁から聞こえてきた言葉が気になって――ね」その言葉を聞いた時に、あの時――ギルドでトリガラに言われた言葉を思い出した。
――人のことを詮索するの
やめてよとはいえなかった。自分がそういうことを、以前したことがあり、そしてそれで、本心からやめてほしいといわれているのかもわからないまま、その話は終息してしまった。これ以上何かを求めたり、何かを傷つけたりするのは、もう耐えられなかった。
「聞いたら君は怒るかい?」
「わからない、ぼくは、ニップを怒鳴りつける権利なんてないから――」
ガーリックの消えるような声を聞いて、ニップは少しだけ眉を顰めた。いやなものを見てしまったという印象よりも、そんな風に考えているのが、らしくない、というように、いつもと違うものに違和感を感じるような、そんな顔だった。
「君らしくない――っていうと、どうなんだろうね、僕はガーリックのすべてを知っているわけじゃない。さっきも、君は彼らのことを隠していたからね」
「僕は――」隠していたわけじゃない、というのはうそになる。かといって、みんなにしゃべった、というのも嘘になる。そう揺さぶられると、ガーリックは何を返していいのか分からなかった。自分はいつもそうだと、心は叫んでいた。自分の話に整合性を持たせようとしたところで、自分自身が言わない事実があるからこそ、ぼろぼろとほつれて、崩れて溶けて混ざり合う。理屈をひねり出して弁解しても、結局はほころびを見つけられて、つつかれる。そこから崩れていく、自分の言葉――
そう思えば思うほど、ガーリックの顔は陰鬱に沈んでいく。秘密にしたいと言えばしたかった。なぜこんなところで会ってしまったのか、という思いも心にぬめりつくように残った。まじまじとニップに見つめられて、ガーリックは目をそらした。痛いほどの沈黙が、心を締め付ける。秘密、隠し事、秘め事――
誰でも持っているような気がしたが、自分だけがばれてしまって、悪いことをしてしまったような気分になる。そんなことはないと思おうとしても、本当は知られてしまったことで、自分は仲間たちとは違う、隠し事をしてしまったポケモンという言葉が張り付いたような気がして、ガーリックは生唾を飲み下した。
「隠し事をすることは悪くない。それを詮索する人が――悪いんだよ」ニップはほほ笑んで、ガーリックの頭をくしゃくしゃとなでる。ぬるい風が二人の間をなでるように通り過ぎて、ガーリックは無意識のうちにニップと視線を合わせた。「だけど――さっきの会話を聞く限り、意識の一辺倒で、ガーリックは自分の気持を押し付けてたような気がしたなー」
「気持ちの押し付け、自分ばっかり、そんなことは――もう知ってるよ」
ガーリック自身は、もうそれは思っていた。いつもいつも、感情が先行して、心ない言葉をたたきつける。そして後で冷静になって、自分は何を言っていたんだろうと考えてしまう。普段陽気で明るくふるまっているガーリックは、その面の皮をはがせば、融通の利かない子どもという惨めな姿をさらしているだけ。だからこそ、クローブ達といるときは、自分自身の言動にいつもいつも、決まって同じことを考える。
(なんで、スマートになれないんだろう)
相手の話を受け身で聞けばいいのだが、どうしてもクローブやニッキと話していると、自分の感情が先行してしまう。擦りつけるような意識の押し付けがおき、そしてそれに対して指摘される。それが正しいとわかっていても、どうしてもくってかかってしまう。悪いと思っている、間違っていると思っていても、どうしても起きてしまうそれは、ガーリック自身も、どうしてこうなってしまうのだろう、と思ってしまう。
「わかっているなら、謝ればいいと思うよ」ニップはさも当然のように謝る、という言葉を発したが、ガーリックは首を横に振った。「無理だよ、僕が謝っても、きっと二人ともまた何か言うだろうして、それでまたこじれる、それの繰り返し。あの二人とはいつもそうなんだ、僕はどうしたいのか、わからない」
そういうと、ふと、ニップとの距離が縮まった。それはニップが、ガーリックの手を引いて、抱きしめたのだと認識するのに時間はかからなかった。ぎゅっと抱きしめて、頭をやさしくなでる。ひげがぴくり、と動いて、うれしそうに吊り上る。
「ガーリックはさ、もしかしたら、うまく言葉を伝えられなくて、自分の友達とうまくいかないときがあるんだって、そういうのがあると思う。それは悪いことじゃないし、自分の気持ちを主張することも大事なことだと思う。でも、自分の気持ちばっかりを先行せずに、自分はこう思っているから、相手はどう思っているんだろう、って思うことも大事、だと思う」
「……ニップ」
「僕はガーリックの気持ちは分からないけれど、今ガーリックならどんな風に考えるだろうって、そう思うことならできる。共有したいっていう気持ちはないけれど、こういう風に思ってくれていたら、とっても嬉しいって、そう思う時ならいっぱいある。だけどそれは、思うだけ。絶対に口に出しちゃ、いけないんだって――」
ガーリックはゆっくりと、ニップの胸に顔を埋めた。やわらかいふわふわの毛の感触に心地の良いものを感じながら、優しくなでられて、少しだけ気が楽なったような気がした。
「ガーリックがどうするかは、ガーリックが決めていいと思う。だけど、自他共に、最善って思うことをしたらいいと思うな」
「――うん、そうだね」
「どうするのかは自由だけど、僕はガーリックがちょっとうらやましいかな、悪いって思うけど、あんな風に喧嘩しあうことなんて、僕にはできなかったから」
ニップの言葉が、妙に頭に残ったガーリックは、抱きしめられている自分の顔を、少しだけニップのほうに向かせたいという気持ちがあった。


5


ウルチが窓の外からガーリックを見つめて、溜息を吐いたときに、向い側の部屋から、紙の擦れる音が聞こえた。外の景色に移ったガーリックとニップにも視線が言ったが、身近に聞こえる音に興味を持ったウルチは、視線を移しかえると、紙の擦れる音と、鉛筆の固い芯が折れる音が聞こえるドアのほうを見た。
「あの、もしもし?」
「へあっ?」
素っ頓狂な声とともに、ドア越しに紙がくしゃりと丸められるような音がする。ウルチは少しだけ体をこわばらせた。静かな沈黙が流れる中、遠慮がちにドア越しの声が返答を返した。
「あ、あの」少しだけ怯えているような、初対面の人と話すことに緊張しているような、そんな声を聞いてウルチは少しだけ微笑んだ。「はいっても、よろしいですか?」そう聞いてみると、少しの沈黙の後、遠慮がちに部屋のドアがゆっくりと開け放たれて、アスパラ・ザイロフォーンは恥ずかしそうに両手のようなものを絡ませた、かちり、と金属の音が耳に響いて、ウルチは少しだけ唇を引き結んだ。
「あ、あの、どんなご用件です――か?」
「あら、かわいいランプさんでしたね。先ほどお会いしましたね」
「あ、その、はい……」
「先ほどの自己紹介でもしかしたら聞き逃したかもしれませんので、もう一度あらためて自己紹介をさせていただきますね。私は、ウルチ・ウール・ラ・サンダルフォン。大企業のお嬢様、と一般的にみればそういう位置づけになりますね」
一般的にみて、そういう位置づけ。ウルチの自虐のような自己紹介を聞いて、アスパラは少しだけ眉を顰めた。
「アスパラ・ザイロフォーンです。――自分のことを、世間体からみた一般論に置き換えないでください、ウルチ「お嬢様」……」
知らないうちに声を荒げてしまうのは、もしかしたらアスパラ自身も、ウルチからみれば、一般世間から見た、大企業の令嬢というイメージを定着させているだろうと思いこまれたからなのかもしれない、などと思い。ランプの蓋を両手のようなものでぐっと握りこんで、ウルチを静かに見据える。「僕が見たあなたというイメージと、あなたが見た僕たちの思い描くイメージは違うかもしれないのに、初期からそんな風に固定化されたら僕もどうしたらいいのかわからないですよ」少し早口にそういうと、ウルチはまるで違うものを見たかのように目をぱちくりとさせた。そして、少しだけ笑った。「あら、あなたは私の先入観を変えていただけるのですか?」その言葉の真意を知るかどうか定かではなかったが、アスパラは、どうして彼女がこんなことをいうの不思議だった。
「先入観を変えるですか?」そういうアスパラの言葉に、ウルチはそうだと頷いた。「ええ、もちろん。私が見たところ、私の名前を聞いた人たちは皆、同じような反応を示しました。それは私が大企業のお嬢様、という位置づけだからこそ、私の名前を知っている人たちは、恐れ多い、触れるのもおこがましいなどというような存在だとみられています」
「でも、それは知っている人だから、ですか?」
「ええ、もしかしたら、アスパラさんは私のことを知らなかったかもしれません、ですが、私のことを知ったら、そんな風に思うのではないかと思いました。今までも、知らない人たちの反応はそんな感じでしたから、ニッキに聞きました」
なるほど、とアスパラは余計に強く、自分の頭の蓋を握りこんだ。偉い人や身分の高いものは、基本的な一般人からの先入観で、その人の個人思考を関係なしに、この人はこういう役柄だから、こういう奴だ、と決めつけるのだろう。割り振ってもいない役柄を押し付けられた本人は、もちろん違うという意思を示しても、結局は大衆からみた役柄は、「そういう役柄」というイメージを固定されて、否定されてもそれを頭の中にしみ込ませるものだ。このウルチというドレディアも、おそらくそうなんだろうと思い、鬱蒼と顔を曇らせて、アスパラは口早に言葉を吐いた。
「ウルチお嬢様の言うことももっともですが、僕は違います。今ここにいる時点で、あなたはただのドレディアですから」
「私が?……そうですか、その考え方は思い浮かびませんでした」
「え?」アスパラは間の抜けたような声を出して、ウルチを見据える。
(まさか、僕の言いたいことがわかった?)
そんなはずはない、と思いたかったが、アスパラはあいた口が塞がらなくなる。ウルチは首をかしげながら、独り言のようにアスパラに話しかけた。
「アスパラさんの言いたいことは何となく理解しました。大企業の令嬢という肩書でも今はそんなものはどこにもなく、私自身の心になりを潜めています。そしてそれを口に出して相手の反応を伺うかのように試す行為をしたとしても、アスパラさん自身は、その肩書に今は意味なんてないとおっしゃるのでしょう。確かにその通りですね、一戸団体の意見を意識しすぎて、私は人の言葉に耳を傾けることを放棄してしまいそうな気分だったのかもしれません、私の軽率な発言で不快にさせてしまいましたことをお詫びします。この場所では私の肩書なんて、何の意味もなく、ただ、ウルチという名のドレディアがこの場にいるだけ、ですものね――」
口から出た言葉は、大体的を得ていたこともそうだったが、何も言っていない状態で相手の心理をくみ取る思考の回転の速さと理解力、そしてそれを的確に伝える認識力を目の当たりにして、アスパラは天才という存在が本当に存在したのだと改めて目を見開いた。しかし――
(この人――もしかして&ruby(ミュータント){突然変異種};……)
生物学上、そんなものは存在しないが、まれに変異的なものが生まれるという仮説を、アスパラは出鱈目だと思えなかった。眉唾ものだと理解していても、実際にいるのではないのかという気持ちもぬぐい去れなかった。そしてその変異体が、今目の前にいるドレディアだったとしたら――
(変異体だとしたら……この人は思考系かな?)
変異種にはいろいろなパターンに分かれるということを思い出し、考えた。頭が高速で回り出す思考系、超人的な体力を持つ肉体系、そして、そのどちらをもあわせもつ完璧系――
(どれだったとしても、それだけなんだ。普通のポケモンと、何ら変わりはしない)
その事実だけは揺らぐことはないと思い、絶対にそれだけは忘れてはいけないことだと思う。
「でも、アスパラさんのような思考を持っている人はきっと稀ですわ、私、アスパラさんのことを忘れないうちに書き留めておきませんと――」
「??――書きとめる?」アスパラがどういうことだと問いただす前に、ウルチは忘れ物をしたかのようにあわてて、アスパラの宿泊部屋から抜け出した。その数秒後に、手帳のような大きさの分厚い記録帳のようなものを取り出して、羽ペンを使い優雅な文字を紡ぎだす。
「??」
アスパラが気になって少しだけ顔をのぞかせる。つらつらと書き連ねた記録帳には、アスパラのことが書かれていた。
――アスパラ・ザイロフォーン。種族・ランプラー。一人称・僕
人を思いやる気持ちがとても優れている、話していてとても優しいポケモンだと思う。思いやりを持って接してくれた。●●月××日ここに人生の出会いを記録する。
「……これは?」
後のページは真っ白で、何も書かれてはいなかったが、その前のページには、今日一日の出来事がびっしりと書き綴られていた。物珍しいことではない、日記のようなものだったが、複雑怪奇な人間関係や、今日一日の出来事を不思議な表現で肉付けした文字が、隙間を空けることなくびっしりと埋まっている。
「これは、私の人生の「記憶」です。私は――記憶障害者らしいですから」
「記憶――障害……」
らしい、という言葉。アスパラの耳に痛いほど響いた「らしい」という言葉。つまりウルチは、記憶障害かどうかすらも、わからないのだろう。
「らしい、としか言えません。私は、一週間ごとにすべての記憶が、頭から抜けてしまいます。それに気がついたお父様とお母様が。私の記憶を残すために、この日記手帳をくださったらしいのです」
らしい、という言葉を聞くたびに、自分の中の炎が消えるように小さくなるような感覚がした。何か声をかけようとしたが、どんな言葉を思い浮かべればいいのかと考えて、恐ろしいほどに、何も思い浮かばない自分の思考が薄れていくような感覚、喉の奥からひりつく様な嗚咽。何かを話そうとしても、口の中がざらりと乾燥して、何も喋ることができないような気分だった。
「一週間毎に、眠り、起きれば私の記憶はすべて抜けて落ちて、なくなります。本当は、ニッキとクローブも、私の従者なのかといわれると、少しだけ首を捻ってしまうかもしれません。でも、それをしたら、きっとあの二人に怒られてしまいます。大事なことは忘れないでほしい、って言われるんでしょうね」
だからこそ、と言わんばかりに、ウルチは書き終わった厚い自分自身の「人生」を、両手で大事に覆った。「これをめくれば思い出す。もちろん、それでも少しだけ抜けたりするかもしれません、その時は、ニッキに脳を活性化させてもらいます。そうすれば、私は、今まで生きてきた十七年間を、すぐに思い出せますから」ウルチはそういうと、優しげな笑みを湛えた。
そんな彼女を見て、アスパラは瞬間的な吐き気を覚えて、顔を歪ませて、口元を押さえる。突然変異種は、その異能な能力のせいで、肉体に負担がかかり、短命になったり、体のどこかに障害を持っている、という話も聞いたことがあった。実際に彼女が異能者であるのかどうかは、まだアスパラの頭の中で組み立てた想像でしかない――しかし。
(違ってたとしても、これは死ぬよりひどいことじゃないのかな……)
「この間記憶をなくしてから、ちょうど一週間がたちます、おそらく明日になったら、私とアスパラさんは、「初めまして」ということになるのですね」
そう言って、呑気に笑う彼女を見て、アスパラは自分の蓋が焼き切れるほど熱いような感触を覚えて、思わず握りこんでいた両手のようなものを離した。
記憶に障害を持つ、天才。彼女がいくら記憶力・計算力・反射神経などに優れていたとしても――記憶に関してはどうしようもないということを、頭の中で構築する。そして彼女は、一週間で知り合った人たちに対して、その次の日にこういうのだろうか――
――はじめまして、と……
「つらく……ないんですか?」口から出た言葉がしゃがれたような苦く重い声だったことに少しだけ、びっくりした。「ええ、つらくないか、と言われれば、それすらも分からないかもしれません、もしかしたら、一週間前の私は辛いというかもしれません、でも、今の私は、辛いと思わない、というかもしれません。記憶って、案外曖昧ですから」そう言ってまた笑う。どうしてそんなに笑っていられるのだろうか、それがわからなかったアスパラは、さみしそうにくゆらせた瞳を、少しだけ蓋を目深に動かして、蔽い隠した。「ウルチお嬢様は……その、笑顔を作ることも、苦痛なのではないのですか?」
「いいえ、笑顔を作るのは、私が障害者だと思われて、同情されたくないから、などではないですよ。ガーリックが昔言ってくれた、ような気がしたんですけど……人生は、深い悲しみがある分、たくさんの笑顔が満ち溢れるんですって。悲しみと喜びは対比になっています。悲しみが食い込む分、喜びも膨らむ。だから、喜びを呼び寄せるために、常に笑顔でいること、ふとしたことで笑うこと、それが一番大事です――と、私に教えてくれました」
「ガーリックのことは、覚えて?」
「いいえ、記録に書かれていた文字を読み取って、初めて思い出しますから、いつも同じイメージが頭に浮かびます。明るく、元気で、太陽のよう、可愛らしくて、誇らしい、私の執事――と」
それを聞いたときに、アスパラは蓋を押し上げて、ウルチを見た。彼女は笑いながら、首を傾げている、まぶしいほどのその笑顔は、とても明瞭に見えた。
「ガーリックは、ウルチお嬢様にとっても――大切な人なんですね」
「ウルチでいいですよ。呼びにくいし、一般世間論に置き換えないで、と言ったのはアスパラさんじゃないですか」
「そうですか、じゃあウルチ――さんで」
思わず呼び捨てにしようとして、あわてて訂正する。ウルチはそんなアスパラを見て、やはり笑顔を作った。
「うふふ、……もう少し、アスパラさんとの出会いを細かく書きたいですね、この後、どこかに行きませんか?一緒に……アスパラさんさえよければ――ですけど」
「え?」
アスパラは突然の誘いに、眼を瞬かせた。女性関係で交友など持ったことのない彼は、その誘いがデートだと気がつくのに、一日かかった――


6


路地裏は汚い所だと認識していたニップ達は、この街の奇麗に清掃された地面を見て、感嘆の息を漏らした。普段ポケモン達が通る道を、毎日清掃しているかのようにその清潔さを保っている地面や、決して汚いイメージを持たない路地裏を見て、この街の治安の高さに驚いた。露店を営むポケモン達もみんな気さくで、話していて遠慮や物おじを感じることなく接することができる。世界の交流を通じて、さまざまなポケモンたちの礼節を詰めた町のような印象を持ち、なおかつ対話をする時に関しては、そのポケモンに合わせた接触を持とうと努力する姿が、この街からは感じられたような気がした。総合的にみても、ここはいい街だろう、と感じることができる。
「無法者の住む町かと思ってた――うん、反省」ニップはそう言って、恥言ったように自分の左前肢で自部の頭を打った。そんな姿を見たトリガラは、少しだけ吹き出して笑う。「あらら、ニップってば、そんなこと思ってたんだ。案外認識視野が狭いんだね」トリガラの隣にいたガーリックも、うんうんと頻りに頷いていた。「そうだね、認識視野が狭いと、もしかしたら勘違いの印象を持ったまま過ごすことになるかもしれないし、そうなっちゃうとあれだもの。その町の人たちがかわいそうだよね」
単なる便乗のような気分だったが、ガーリックはすこぶる調子がいいと思った。先ほどのすさんだ気分が嘘のように晴れやかで、澄み切っている。腹の底にたまっていた赤茶けて淀んだものが、清水で洗い流された気分だった。あの時、ガーリックは足早に宿のほうへもどると、まだ中で話をしていたクローブとニッキを見つけて、頭を下げた。申し訳ない、と、謝罪の気持ちをあらわにしたガーリックを見て、クローブはこういった。
――おれは悪くない。話を振ったのは、お前だったからな。
そんなことを言って斜に構えたような態度をとるクローブを見て、ニッキは呆れるように息を吐いたが、それでもガーリックは続けた。
――それでも、ごめんなさい。
その言葉を聞いたときに、クローブの目が少しだけ歪んだ、悪い方に、ではなく良い方に。
――そうか、わかった。
そっけない言葉だったが、ガーリックにはそれだけで十分すぎた。彼が想像してた言葉よりも、もっと単純で、もっと力強い言葉だったことに、ガーリックは安堵した。もしかしたら、別の言葉をかけられていたら――もっと違う、クローブらしくない言葉を耳にしていたら。おそらく自分は辛いと思うだろう。辛くて辛くて、その辛さのせいで身動きが取れなくなってしまうのではないのかと誤解するくらい、辛い気持ちが圧し掛かるのだろうと。そしてその辛さの原因は、自分であることが、さらにその辛さに拍車をかけて、自分自身が保てなくなってしまうのではないか――と。そう思ったとき、ガーリックは背中にうすら寒いものを感じ、身震いをしたことを覚えていた。
(だから……あのぶっきらぼうな返事が、僕にはありがたかったんだ……)
もしかしたら勝手な解釈かもしれないし、被害妄想の一種かもしれないと思った。別の言葉をかけられて、それが自分を苦しめる――まるで幻覚に取りつかれた妄言者の戯言だ、と言われるだろう。だが、ガーリックは本当にそうなってしまうのでは、という恐怖から、クローブの返答を聞くまで逃れられなかった。返答を聞いたときに、安堵の息が漏れて、淀みが消えていった。深いよどみを、清らかな心で流してくれるかのような安心感、いつも通りの投げつけるようなぶそんな言葉の中に、確かな安心というものを感じながら、ガーリックは息をついた。そんな深い表情を表皮に張り付かせる友人を見て、ニップも少しだけ緊張を解くようにゆるりと顔に笑みを張り付けた。
「元気になったみたいだね、ガーリック、よかったよ」
ニップの言葉に、ガーリックはそうだね、と頷いた。このまま深く塗りたくられた闇のようなものを抱え込んだまま、何かをしようとしても必ず何か間違いをおかしてしまう、そういう気持ちが拭い去れなくて、心の中では思いの芯がぶれていた。元気、というにはほど遠いかもしれなかったが、ガーリックは頷いた。
「うん、少し気が楽になった。そんな気分」そう言ってもう一度笑う、少しだけ体が前のめりになって、地面に視線を移すと、レンガが敷き詰められた歩道に少しだけ亀裂が入っていた。いくら清掃されていても、ポケモン達が歩き続ければ、そこは痛み、作り終えたばかりの奇麗な状態は保てないという証明のような気分がして、ガーリックは口内の上歯の犬歯を少しだけ舌でなぞった。妙にピリピリとしたような気分になって、自分の心と同じようなものを見ている気分になった。
「どうしたの?」ニップに声をかけられて、少しだけびく、と体を震わせた。ガーリックはかぶりを振ってなんでもないと笑顔を作ると、トリガラの背中によじ登る。
「すすめートリガラ号。チョコバナナ食べようよ」
「はいはい、アボガドね」
トリガラは苦笑しながら息を吐いた。ガーリックもその言葉に対してまるで面白い笑い話を聞いたかのようにくすくすと喉を鳴らした。のどかな時間という言葉は、こういうときのためにあるのだろうと、ニップは完全に緊張をといた。妙な視線にとらわれているような気がして、頭の後ろが焦げ付くような感覚がした。見られている、というよりも、強い力で縛り付けられている――そんな気分だった。
(強い眼が、制圧しているみたいな感じ)
ぞっとしない話だった。それを彼は知っていた。それはとても強い力で、人の良識など簡単に狂わせるほど、人の頭を侵食する。かつて、その傾向を見たことがあったからこそ、その薄気味の悪い視線と同じ不快感と嫌悪感を感じて、唾を飲み下すことも恐ろしいと思うほどに、目を吊り上げて周りを確認していた。それが杞憂に終わったかどうかは、まだ心の中で警笛が鳴っていたが、ひとまず不快な気持はぬぐい去れたのだと、安堵した。
(なんだろう――さっきのはもしかして――)
強い視線を、再度感じた。今度は気がした、という問題ではなく、強い視線で縛り付けられている。喉の奥からひりつく様な嗚咽とともに、背後の悪寒が妙な不釣り合いをすり合わせて、ニップの体を摩耗させた。痛いほどに感じる眼球の直視が、ニップに言葉を無くさせていた。
「ニップ?」
「どうしたの?」
二人が声をかけるが、ニップはその言葉を耳からゆっくりと消し去った。眥をあげて、西の方角を見据える。視線が向けられたような形跡は、いつも西から来ていた。彼は体の疼く場所を抑えながら、ぎゅ、と上顎に歯を打ち合わせる。口の中に生ぬるいものが広がって、少しの酩酊感が頭を支配した。ぐっと口を引き結び、息を静かに吸う。
「ニップ?」ガーリックが再度声をかけたが、ニップは何も言わずに踵を返した。ニップがいいにおいがするから何か食べよう、僕が奢るよ、などと言った分、言い出しっぺの本人が妙な行動をとっているのに、ガーリックとトリガラは違和感を覚えた。「どうしたの?腹痛?」トリガラが心配そうにニップに肩をかけると、それをニップはやんわりとどけて、ゆっくりと紙幣をトリガラの右の頭に握らせた。この世界の通貨はポケ、と言う単位で割り振られているが、紙幣や硬貨の概念はある。両手に握らされたその紙幣の単位が、トリガラの体が強張るには十分すぎるほどの額だった。
「ごめん、急に急ぎの用事が出来たみたい。それで勝手に何か食べてて、僕がもし戻ってきたら、ウインナーコーヒーが飲みたいから、頼んでおいて」
文法がめちゃくちゃな言葉を口早に捲し立てると、ニップは二人が何かを言う前に矢のような速度で駆けていく。ぽかんとそれを見送った二人は、互いに顔を見合わせた。困惑するような、あきれ返るような、そんな顔がお互いの眼球にうっすらと映る。
「どうしよう?」
「そんなこといわれても」
殺気立った目をぎょろつかせていたニップの姿を思い浮かべて、もしかしたら彼の本当の姿というのはああなんじゃないだろうか、などと人一つの像を己の無知蒙昧な想像で勝手に決めかけたことに対して、あわててトリガラはかぶりを振った。せっかく打ち解けてきた仲間に対して、そんな不信感は抱きたくなかった。その気持ちが勝っていたはずだったのだが――
(ニップ、もしかしたら、本当はあれが本心なんじゃ、ないよね)
そう思っていると、慰撫するような感覚が首まわりについて、くい、とよった。ガーリックは子供のように甘えるような仕草をしながら、トリガラの毛をもさもさといじりまわす。
「大丈夫だって、あれが本当のニップだったら、僕たちにお金なんて渡さないさ、彼は良識があって、とっても素敵な男性、じゃないの?」
「それは――」トリガラは言葉に詰まった。確かにそう言われればそうかもしれないが、どうも心に引っ掛かって仕方がなかった。本当にニップはそうなんだろうか、という気持ちがわきあがるのと同時に、絶対に何か裏がある、という気持ちも捨てきれなかった。そんな試行が絡み合い、もやのように心に膿を作る。ガーリックの男性、という言葉に対しても、トリガラはいまいち信用性を感じることができなかった。時折見せる女性のような柔和な心と、中性的な体つき、男なのか女なのか分からないような、本当に謎の姿形。
(ニューハーフってことはないよね)
そんな気分になれるわけがないというのに、トリガラはそんなばかげた想像をしなければ、その先に思い立つ自分の仮説が、どんどんと黒いものになっていく気持ちを止められなかった。そもそも彼は――いや、彼女は――いや、ニップ・シャドーホップという生き物は、本当に生き物なのだろうか?その気持ちがどうして湧き上がるのか、今一理解できなかった。それでも、どうしても心の片隅でそう思ってしまう。もしかしたら、という気持ちを持ってはいけないのに、もしかしたら、という思いが膨らむ。(彼は、ううん彼女は、いや――ニップは)それはもしかしたら、ニップという外殻を形作る何か対しての(この世界の生き物じゃないのかもしれない)暗喩なのかもしれないと思った。(私は、何を考えているんだ)かぶりを振って少し頭を押さえる、右の頭がくわえていた紙幣が、くしゃりと乾いた音を立てた。
明るく、そしていつも元気に、みんなと一緒にみんなを陰からまとめている、ニップ。そんなニップの本当の姿は、薄黒くて胸の中にぽっかりと空洞のあいた、化け物のような存在かもしれない、と、無意識にトリガラはそう思っていた。


地面を大きく蹴り、ニップはとにかく人気のないところを走り回る。背中に纏わりつく視線は、どんどん大きくなるばかり。これはだれかを見ているのではなくて、ニップに対してまるで呼び出しているような感覚を受けた。
(僕が、私が、俺が――引き寄せられてる)
心の中でニップはぎり、と歯を思い切りかみ合わせる。焦りと恐怖から脳みそが沸騰しそうだった。なぜ恐れるのか、なぜ焦るのか。まるで意味が分からなかった。
あるわけがない、そんなことがあるわけがないんだと言い聞かせながら、それでも見られていた、という事実が抉るように体中を刺し貫く。言い聞かせなければ、ばらばらになってしまいそうだった。
(でも、やっぱり――)
そう考えて、激しく頭を振る。間違っていることを考えることほど愚かなことはあり得ないのだから。自分自身がそんな風に思ってしまった事実、ひどく荒唐無稽な念に操られているようで、馬鹿らしくもあり、溜息をつきたくなる。でも、実際突き動かされているんだと、ニップはいやになった。
「嫌になる、嫌になる、何もかもが嫌になる、そんな顔しているよ、君はね」
後ろから声が聞こえて、はじかれたように振り返る。体中の毛が逆立って、冷汗が浮かんだ。周りを見渡しても、人の影は見えなかった。人払いをされたかのように、街には人の姿が見えなかった。虚を突かれたようにぐらりと体が傾くと、彼を見ていた目は、ゆっくりとその全容を現す。その姿に、すべてを取られてしまいそうで、ニップは目を細めて、口元を歪めた。
「そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃないか、僕と君は兄弟のようなもの、たぶんね」
「君と僕は、お互いに原種に近い存在だ。兄弟、なんて概念を超越している。僕という個体と、君という個体は非常によく似ている、そうじゃないのか!」
癇癪を起したような声を出して、ニップは歯を思い切り打ちならす、眉根を寄せて、忌みものを見るような顔つきで対峙している。そんな彼に対して、視線を受け流し、ゆっくりと口から言葉を吐いた。
「やれやれ、嫌われたもんだけど……君はいつも仲間内で初対面のポケモンにそんな妄言を喚き散らしているのかな?だとしたら、とっても滑稽だと思わない?君のことは僕は知らない、僕のことも君は知らない……そうじゃないのかな?『初対面』同士って」
「ふざけるな」ニップは張り詰めた剣幕をすべて口の中に放り込んだ。「そんな風にとぼけても、お前は僕を見ていたんだ。僕が何なのかわかって、わかってたから見てたんだ。『薪』を取られて、その腰をあげたんだ、その一番最初が、お前なんだ。メルト」
メルトはため息を漏らして、そのまま笑顔を作る。その笑顔に張り付いていたものは、とても信じられないような、邪気に満ち溢れているような気がした。いっそ無慈悲に何も張り付けないでほしいと、懇願したい気分になった。
「そうだねぇ、こういうことはしたくないし、もしかしたらって思いたくなかったけど。僕はスポットを攻略されるのは反対だったんだ。まだ欲望は達成されていないからね」
「お前たちの欲望なんて知ったことじゃないんだ」ニップは声を張り上げた。「止めてやる、絶対に」その言葉を聞いて、メルトはにこりとほほ笑んだ。これもまた、邪気に満ちていて、気味が悪いと思いながら、ニップは勇気を鼓舞した。もうあんな目には合わない、自分は変わったんだ。と、決別の気持ちをこめて。大きく息を吸い込む。
「止められると非常に困るなぁ……うーん、じゃあ、僕は君の止めるという行動を、止めるとしよう、ね、ハッピー」
昔の名前を舐めるように弄び、メルトはほほ笑む。そんなメルトを見て、ニップは気持ち悪いと思いながらも、毅然とした態度をとり続けた。
「僕はニップだ、君たちとは違うんだ」
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その言葉は、相手にも、自分にも、言い聞かせるようだった――


7


外に出ると、まぶしい光が頭に降り注いで、少しだけ中の炎が緩く燃え盛るような気分だった。ウルチはにこやかにほほ笑みながら、リードするようにアスパラの手を引いた。
「こっちですよ、アスパラさん」ウルチの声に導かれるように、アスパラは頭の蓋を抑えながら、少し控え目に、しかしそれでもしっかりと手を握るウルチの顔を見た。とてもまぶしくてよくは見えなかったが、やはり笑っていた。「ウルチさんは、どこに行きますか?」
ためしに聞いては見たが、ウルチは首を捻る。「どこに、と言われましても、この街には来たばかりで、よくわからないんですよ。ですから、いろいろ練り歩けば楽しいと思います」
大企業の令嬢にしては危機意識というものが欠けているような気もした。「大丈夫ですか?危険だと思いますけど」などと言ったら、ウルチは首を横に振った。「大丈夫ですよ、ほら、よく見てください」
そういうとゆっくりと右腕を町の家の角に向ける。不審げに思いながらもそちらに視線を寄せると、何かがこちらの様子を窺っているような印象を受けた。そのポケモンの全容は見えないが、一部の姿や退職、身長などで何となく把握して、なるほど、と息を吐いた。
無言で何も言わない寡黙なポケモンたちかと思っていたが、ガーリックと喧嘩をしたり、ウルチのことを見守ったりと、案外身が籠っているんだと思った。そうでなければ、こういうところにウルチは来ないだろうし、行きたいといってもおそらく反対されて窮屈な家の中に押し込められるだけかも知れなかった。(窮屈な場所)それはガーリックの勝手な想像かも知れなかったが、ウルチはご令嬢という建前の中で、大きな家の中で、おそらく窮屈な思いをしていたと思った。(それは、外に出たいという欲求)はたしてそれが合っているのかどうかは分からなかったが、ガーリックにはそう思えた。(外に出たいという、行動欲)
「あの、ウルチさんはどうしてこの街に来たんですか?」
そう問いかけると、少しだけ黙り込んだ。何か失言をしてしまったと思い込んだが、違うと思った。ウルチの顔は何と説明をすればいいのか分からないような、そんな顔をしていた。どうすればいいのか、どう説明をすればわかってもらえるのか、それを言いあぐねているような印象を受けた。「何と言えばいいのやら、私のわがまま、と言ってしまえばそれでおしまいですから」
「それはつまり、外に出たかった、ということですね」
その言葉に、ウルチは少しだけ硬直した。まるで真意を分かっている、と言われたような顔をして、驚きと喜びの表情を浮かべた。そしてそんな顔を見たアスパラ自身もまた、驚いていた。当たった、ということよりも、喜んでいる、という表情に対してだった。
「アスパラさんなら、わかってくれると思っていました」
どうして分かったのか、などというありきたりな言葉を使わないのは、彼女が自分の考えをすでに分かってもらっているという信頼のようなものでもあったのだろうか、アスパラは気恥ずかしそうな顔をするばかりだった。「わかってくれるって信じてもらえるだけでも、なんだか恥ずかしいです」
「そんなに謙遜なさらないでください」ウルチはほほ笑むと、ガーリックの手を引いた。どこに行くのか分からないが、ただ歩くだけでも楽しいものだ、といった風情だった。
(謙遜しますよ、あなたの前では)
ガーリックは何も言わないまま、心の奥底でつぶやいた。果たしてこの考えは読み取られるのかどうか、などと不謹慎なふっかけをも試してみたいような、そんな気分でそう思った。
「私の前で謙遜しているのかも知れませんね、大丈夫ですよ、私はただのポケモンですし、そのように振舞ってもらわないと、なんだか余所余所しい気分がしませんか」
もともと余所余所しい関係であり、これ以上何が余所余所しくなるのだろうかと思う。おそらくなるのかもしれない。他人同士は、どこか絶対に溝を作っている、表面上は取り繕っていても、恐らくは一歩引いて様子を見る類の者がいるだろう。ウルチはそれが気に入らないのかも知れない。たとえ誘う方も誘われる方も隔てをなくし、普通に接したいと思っているのかも知れない。その気持ちは何となくわからないわけでもないが、必要以上に隔てを無くす必要性もない、とアスパラは思った。
「これ以上どう余所余所しくなるのか、ちょっと見たい気もします」アスパラは冗談めかして笑うと、ウルチに握られた手を少しだけ強く握り返す。それに気がついたのか、ウルチも少しだけ微笑んだ。「うふふ、アスパラさん、温かいです」
ぎゅ、と抱き寄せられて、自分の体と呼べる部分に頬ずりをされる。なれない行動に戸惑いながら、アスパラは愛想笑いを返した。「温かいのは、ランプラーだから」
「そうですね、でも私は、それ以上にあなたの心の中も暖かいと思いますよ」
不思議なことをいう人だと思いながらも、その言葉に不快感は募らない。以前はいつも温かい、しかしほかの関心を示さない、などという揶揄を含んだ嘲笑を向けられていたせいか、少しだけ心が自閉気味になったことを思い返していた。初めておしょう達と出会った時は、自分に関心を示したおしょうが珍しくもあり、逆にどうして関心を示したのか珍しくもあった。あの後おしょう達と行動を共にするとは夢にも思わなくて、困惑と同時に興味も浮かんだことを思い出した自分を思い直して、少しだけ傾いた蓋をゆっくりと元の位置にずらして直す。
「どこかでお茶でもしますか?ウルチさん」
「そうですねー、じゃあ、あそこなんてどうですか?」
ウルチは上機嫌にアスパラを抱えながら片手をゆっくりと上げて、一つの喫茶店を指した。木でできた質素な作りの喫茶店だが、外でお茶を飲めるように作られており、日が照っている今日のような天気の日にはほかの人たちが来るのだろう、それを示すように外の席には様々なポケモンがいた。今日は風も少し強めに吹いていて、涼しげな時間帯だった。アスパラは真夏の熱砂がウソのようだと思った。秋は急速にやってくる。旅をしているうちに、いつの間にかそんなに立っているんだと実感した。
「いいところですね。じゃあ、ここでお茶にしましょう」
アスパラはウルチの腕の中でにこやかにほほ笑む。ウルチもそれにつられてほほ笑んだ。


「すいません、外の席は空いてますか?」
アスパラとウルチは店に入り、空席があるかどうかを聞いた。外から見たところ、人数が多く、空いている席がないような印象を受けた。喫茶店の店長であるバタフリーは、お客の席の票のようなものを手に取り、少しだけ頭を捻る。
「うぅん、そうですね。満席なのですが、相席、という形でしたら外の席がお一つ空きますが、どう致します?」
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりました」バタフリーは恭しく礼をすると、少々お待ちを、と言って、相席の了承を得るために飛んでいく。その姿を見送りながら、ウルチとアスパラゆっくりと待ち時間のベンチに腰を掛ける。しばらく無言でいたが、アスパラは何を思ったのかおもむろに持っていたカバンから原稿用紙を引っ張り出した。「なんですか?それ」ウルチは興味深そうな視線をその真っ白な原稿用紙に落とす。それが何を意味するのかはわからないが、アスパラは癖のようなものだと自覚していても、それを他人にどう伝えればいいのか、と困っていた。「ええとですね、これは僕の副業の道具なんです」
「副業――タイプライターは使わないんですか?」ウルチは興味深げに話しに食い入る。タイプライターはいともたやすくやり直せてしまうので使う気にはなれない、その気持ちはいつまでも変わることがないだろう。自分の胸に手をあてて、それを確かめるように思いなおす。機械に頼るということ自体がいけ好かないだけなのか、それとも、自分は手書きで文字を綴り出すことで、ほかの作家とは『違う』という優越感のような気分に浸りたかったのだろうか。それがわからなかった。
「ええ、タイプライターは使わないんですよ。ただ、たやすくやり直せるちゃうのが嫌いなんです」
「へぇ、風変わりな考え方ですね。でも、鉛筆で書きだした文字というのも、味があっていいかもしれませんね……なるほど、アスパラさんは、鉛筆書きが好きなんですね」いいことを聞いたかのように瞳を瞬かせて、ウルチは自分の記憶に新たにアスパラのことを書き連ねる。とても美しい字ですらすらと、ウルチの記憶に新しい情報が入り込む。そんな様子を見ていて、アスパラは何とも言えない顔をしていた。
「どんな小説を書いているんですか?」ウルチの興味は、自分の日記を書き終わり、それをしまいこんで、そのまま再度アスパラの原稿用紙の世界に向いた。荒涼とした荒野のようなぼろぼろで固い地の文章を書き連ねているだけと知ったら、恐らくがっくりと肩を落とすかもしれないだろうと思ったが、アスパラはウルチのために論文を書いているわけではない。どう思われても、それはそれ、これはこれだった。「小説、というものは書いてませんね。なんて言えばいいのか、自分の頭で思ったことを文章にしているんです。ええと、自論文章っていう感じです、精神論とか、そういう類のものです。煩悩とか、欲望とか、それらはどんなふうに自分や他人に対して浸透するのか、とか――」
「もしかして、アスパラさんって、煩悩と理性の境目について本を出した人ですか?」
「え?」とアスパラは驚愕に眥を大きく開いた。その反応を見て、やはり、という風情で、ウルチはうれしそうに声を出した。「やっぱり、私、アスパラさんのファンなんです。とっても面白くて興味深かったので、すごく印象に残ってました。よろしければ、サインをもらえませんか?」急にそんなことを言うと、手持ちのカバンからとてもつまらなさそうな黒塗りの厚い本を出した。そこには大きく白い文字で『煩悩と理性の境界線』などと書かれていた。アスパラは自分の出した本を自分で見て、恥ずかしそうに蓋で顔を覆い隠すような仕草を見せる。「うわぁ、自分で自分の本を見ると、なんだか気恥かしいです」
「この本の目次にサインしてくれませんか、ウルチさんへって」子供のようにサインをせがまれて、アスパラは困ったように笑う。サインなどをせがまれたことは、おそらくこれが最初だろう。アスパラはしばらく沈黙した後に、おもむろにカバンの中から小さなペンを取り出すと、ウルチが開いた目次の右下の空白に申し訳ない程度に自分の名前を書き入れる。アスパラ・ザイロフォーン。この名前を書いたとき、少し歪んだような気がして苦笑いを漏らした。「ごめんなさい、ウルチさん。少し歪んじゃったかも」
「いいえ、ありがとうございます」くしゃくしゃの名前を宝物のように抱いて、ウルチはほんのりと頬を主に染めた。それほどまでに嬉しいのか、それともただ単にファンとして気恥ずかしい思いでもあるのか、何を思っているのかはわからなかったが、ただ複雑な思いを重ねているようには見えなかった。大きな憧れと、少しの自重。その狭間で揺れているような、そんな微妙な感情を持て余しているようだった。
「お待たせいたしました」慇懃な声を聞いて、沈黙を保っていた二人の体がびくり、と跳ね上がる。目の前にバタフリーが現れて、仕事をやり遂げたかのように声を弾ませて話しかける。「先にいたお客さまに許可をとりましたところ、快く了承していただけました。相席という形にはなりますが、ごゆっくりしていってください」
これまた恭しく礼をすると、バタフリーはこちらに、と誘うように手を引いて誘導する。それに引かれるように二人は外のテーブルに向って歩き出す。扉を開けると様々な賑わいと、ポケモン達の活気あふれた声がウルチとガーリックの耳を通り過ぎる。周りの声を聞きながら、指定された席に誘導される。三つの椅子を円状に囲んだ木の円形テーブルの前にたどりついたとき、対角線上に一匹のポケモンが、眠そうな瞳でコーヒーをすすり、新聞を読んでいた。氷のような冷気をそのポケモンから感じるあたり、恐らく氷のポケモンだろう、少し幼い顔つきに、ぴょこりと生えた耳がだるそうに垂れていた。耳の近くから垂れるもみあげのようなものも、妙に湿っぽく、元気がないように見えた。
「あ、あの」アスパラが声をかけると、さも興味のなさそうな顔をして、そのポケモンはコップの中に注がれたコーヒーを再度口に運ぶ。「相席の話は聞いてるから、勝手にどうぞ」
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素っ気ない返事をして、近くにあったおにぎりを口の中に放り込んで頬ばるその姿を見て、アスパラは妙な緊張感に取り包まれたような気がした。


8


おしょうは宿の机に向かって、何かを書き始める。ハッカクはお結びを頬張りながら、窓を開けて、風を室内に入れる。口の中で舐めるように咀嚼しながら、怪訝そうにおしょうを見据えた。おしょうはそれに振り向くことはなく、息を吐くようにゆっくりと体を木製の椅子に預けた。
「ダメかな、浮かばないや」
アスパラのような言葉を口から出して、苦笑交じりに伸びをする。ハッカクはそんなおしょうを遠目に見ながら、憐憫のまなざしをおしょうの背中に向けた。よく目を凝らすと、胸に晒の様に巻かれた包帯から、血が滲んでいる。おしょうはそれに気がついているのかいないのか、時折思ったように背中を痒そうに掻いているだけだった。
「おしょうさん、包帯、血が滲んでる」ハッカクはいやなものを見てしまったかのように重い口をあけて、お結びを頬張りながらそう言った。米粒がベッドの上に飛んで、少しだけもったいないという気持ちが膨れた。「え?」おしょうは今気がついたと言わんばかりに目線を背中に移した。確かに、血が滲んでいた。赤々とした健康的な血ではない。赤黒く、腐りかけたような色だった。「大変だ、包帯を取り換えないと」慌てているものの、落ち着いた様子で胸の包帯を取り払っていく姿を見据えて、ハッカクは苦いものを噛み潰したような顔をした。この街に着くまでに、おかしなことが起こったような違和感をぬぐい去れていない自分がいて、しかしそれはすべて幻だ、と主張する自分もいた。この記憶はどちらが正しいのだろうか、などと思いなおす。おしょうの赤黒い血を見て、思い出してしまったことに少しだけ気味の悪いものを感じた。
「ああ、また出血してる」おしょうはいやなものを見るように自分の背中を見つめた。小ぶりな胸が少し揺れて、ハッカクは無意識に目をそらす。そんな彼に視線を移して、申し訳なさそうな顔をした。「ごめん、ハッカク……気持ち悪い――よね」そんな言葉を聞いたときに、ハッカクは頭の後ろを蟲に刺されるような感覚と一緒に、じわりと広がるものを思い起こした。そもそも、おしょうはなぜ出血するような怪我をしたのだろうか。それはいつつけられたのか、だれにつけられたのか、それを思い出そうとするが、おしょうは悄然とした様子で、ハッカクに対して無理に笑いを作った。
「すぐに済ませるから、待ってて」
「大丈夫だよ、ゆっくりやりなって」
彼女を責めることもなく、間延びしたような声を出して、米粒が付いた右手を舐める。口の中に梅干しの酸味が残って、少しだけ唾を飲み下した。(あの傷はいつ?)ハッカクは物思いに耽るようにごろりとベッドの上に自分の身を投げ出す。(誰がつけたんだろう)それが分かれば、恐らくおしょうにたいしての処置の仕方もわかるのかも知れない。(でも、それはわからない)何も言わず、いつついたかもわからない腐った傷跡を眺めて、ハッカクは憂鬱な思いが纏わりついて目を細めた。
「ひどい蚯蚓腫れ。そんな傷、いつついたんだっけ?」
考えても分からないのなら、おしょう自身に聞けばいいことだが、どうしてもそれはためらわれた。言いたくない自分がいて、聞かないといけないような気がする気もした。少しの問答を繰り返して、結局ハッカクは申し訳ない程度に口を開いて、傷のことを聞いた。
「これ?子供のころ遊んでた時に、野生のポケモンに襲われた傷、今でも治らないんだ。変だよね、毒がしみ込んでるみたいに、血がどくどくって――」
「もういい、わかった」ハッカクはそれ以上聞きたくない風情で、諸手を挙げて汗を流した。首を横に振り終わり、大きく息をつく。(聞くんじゃなかったかな)おしょうは申し訳なさそうな顔をして、包帯を巻き終える。平然としているような顔をしているが、ハッカクにはそれが無理をして取り繕っているような印象しか受けなかった。
「ごめんなさい」
謝られて、ハッカクは言葉に詰まった。後頭部を鈍器で殴られたような気分になり、唇を固く引き結ぶ。これ以上何を求めればいいのか、それとも何が必要なのか、おしょう・とうろうというフタチマルに対して、何をすれば謝罪になるのか。ハッカクは渋い顔を作って、結局そっぽを向いて寝転んだ。
(最近は出血することなんてなかったのに)
旅をし始めてから最初のころに、アスパラやガーリックに聞かれた。おしょうさんはどうして胸に包帯なんて巻いているのかと、それに対して、バストアップのためじゃない?などと冗談めかしてニップがいうものだから、おしょうはそのまま自分の口から蚯蚓腫れの癒えない傷がある、と説明するタイミングを見失った。これは仲間内に話すべきなのか、それとも話さない方がいいのか、それすらも決めあぐねてしまい、そのまま引きずるように旅を続けた。時間がたつうちに、胸の内で正体不明の不安が盛り上がる。頭の中にまで入り込んで、手ひどい間違いを犯しているような気分にもなる。これ以上ないというくらいの寂寞とした気持ちに駆られて、不安に押しつぶされそうになる自分が、鏡を見るたびに映し出される。それがたまらなく嫌だった。
(私は……リーダー)
そんな器ではないということは、自分が一番よくわかっている。おしょう自身、そこまで人を率先して導いていく性格ではないということも重々承知している。だが、ギルドの親方は、おしょうを中心に、この依頼を達成してほしいと、願った。おしょうはその願いに応じ、この冒険をやり遂げるという意思を示さなければいけない、そんな気がした。
(私たちが、やり遂げること)
それが何を意味するのか、おしょうにはいまいち実感というものが湧かなかった。慣れない土地、慣れない時間、慣れない仲間たち、絆が深まって入るが、やはりどこかぬぐい去れないものがある。完全にうちとけるには、どれほどかかるのだろう。その時に、自分たちはどのように成長しているのだろう、それがわからないまま、どこかも分からない場所で自分の人生を全うするのだろうか――
「おしょうさん」ハッカクに呼ばれて、おしょうははっと意識の海から自分の心を引き戻した。時計に目をやると、午前十一時を回っている。今日一日は疲れをとり、明日になればまた、次の情報を求めて街の中を散策するだろう。そしてこの街を離れる。作業のような行動、作業のような冒険。この冒険は本当に胸躍るような世界に飛び込めるような冒険なのだろうか、心の中で疑問が浮かび上がる。「おしょうさんってば」ハッカクが再度声をかける。おしょうはびくりと体を震わせて、不安を再現するようにきょろきょろとあたりを見回した。ハッカクの姿を探すようにもみえたが、ベッドに転がったハッカクはやれやれと口を動かす「僕はここ、ベッドの上」
「あ、ごめん、考え事してて……」
不安を取り除きたいという気持ちがあっても、どうしても不安が強く頭に残り、考えてしまう。そのせいで仲間たちとたいしたコミュニケーションもとれないことを深く悔やみ、そしてまた考え込むことに没頭する。頭の中で強くこうなりたいと理想の姿を描いたところで、それはすべて霧散してしまう。
「考え事、ねぇ……これからの目的のことでも考えてたの?」
「そうだね、グルメッカ。滅んじゃった大きな町は、大陸の中心に存在する。そこにどうやって行けばいいのか、わからないからかなぁ……行く方法もないし、情報も眉唾もののことばかり――」
「そういうところから情報を掴みだして、冒険をするっていうのが探検隊の主な行動理念だったっけ?」
「そうかもね」おしょうは空気が抜けたようにゆっくりと椅子から降りた。そのまま何を言ったらいいのかわからないハッカクを見て、くすりと口を歪める。「私はもしかしたら、探検隊には向かないのかも知れない。これ以上ないってくらい、優柔不断だもの」
「別にそうは言ってないよ、ただおしょうさんは――」
「ただ――何?」
「おしょうさんは押しが弱いんだよ。たぶんね。みんなを率先したいっていう気持ちは十分に伝わってくるけど、主導権を握るのはいつだった料理のときだけだ。おしょうさんがおしょうさんらしくあるのは、料理の時だけのような気がするんだ」
的を得たような言葉を突き刺されて、むっつりと押し黙る。抑制された声が、おしょうの胸を抉った。押しが弱い。当たっている分、他人事のように思えず、胃の中に薄気味の悪いものがたまっていくような感覚に陥る。
「これから変えていけるのかも知れないけれど、おしょうさんはもうちょっと声を調子を変えるとか、溌剌とした感じを見せるとか、そういうのが一番身近に自分を変えられる方法だと思うよ」
発覚の言葉に、おしょうは人形のように頷いた。変える、変えられない。二つの言葉が、目まぐるしくおしょうの頭の中を行き来し、錯綜して、せめぎ合う。
――おしょう、もっと笑って。
そう言われたのはもっと前だったような気がする。おしょうは昔を思い出すように、頭をあげて、目を細めた。
(バルカン……)
自分は笑っていただろうか、彼が死んでから、自分の心の中は進んだだろうか。それがわかりたいような、わかりたくないような、微妙な気分だった。バルカンが死んだとわかった時、ひどく裏切られた気分になった。彼の思いを聞かないまま、自分は淡い慕情を募らせたまま、気持ちが上滑りする日々を繰り返し、そしてそのまま記憶から彼のことを忘れていくのだろうか。自分は何を思い、日々を生きているのだろうか――そう思えば思うほど、今の自分の生き方がみじめでくだらなく思えてしまう。
――だが、とおしょうは自分で自分を責め立てた。そんなことしか考えられない頭になってしまったのか、もしかしたら自分以外にももっとひどい惨状を体験してる人もいるのだろう、そう思えば思うほど、自分がどれほどくだらないことで前に進めないのか、という叱責が槍のように降ってくる思いが深くなる。苦く重いものが胸の中にわだかまって、傷がまた開くような気分だった。
(わかってる)
わかっているはずだった。わかっていながらも、自分はやはり前に進めない、くだらない生き物だったのだ、とあきらめてしまう自分がいて、それに対して激怒する自分がいた。どちらの意見が正しいのかわからずに、おしょうは考えるのを放棄しそうになった。もうどうにでもなってくれ、自分には何ら関係がない。これ以上何かを考えたところで、無意味だ。そんな黒い思いを抱えながら、口を真一文字に引き結ぶ。
「おしょうさん」
ハッカクの声はやけに鮮明に聞こえて、おしょうはわかっているとでも言いたげに頷いた。
「自分を変えることって、ずいぶん難しいかもしれない。私って、こういう性格だからかな」
「そんなことはないよ」ハッカクは上半身を起き上がらせて、笑った。「そう思っちゃうのはやっぱり、まだまだ不安があるんだと思う。その不安は、僕たちにはわからないかもしれないけれど、みんなと支えあって解消できればいいかなって」その言葉を聞いて、おしょうはなぜか自分の心が怒りに満たされていくような感覚に陥った。それが信じられなくて、口の中を少しだけ噛んだ。ハッカクの言い分は理解しているつもりだった。そしてそれを理解しているからこそ、どうしても許せなかった。そう思う自分がいて、心に穴があいたように、虚脱が襲いかかった。
(ハッカクは、私がそういうポケモンだって、割り振っているのかな――)
おしょうはチームのリーダー、内気で気が弱く、押しが弱い、肝心な時に対しての判断力というものにかけている、そういう印象を受けるような、そんなキャラクターである。ということに対して、ハッカク・ノレンはおしょうをそのような役割だと割り振って、決めているのかも知れない。そう思えば思うほどに、憤慨する気持ちが膨れ上がる。こちらの勝手な想像だとわかってはいるが、みんなと支えあって、解消をしていきたい、という言葉が、まるでおしょうが無能である。と思わずにはいられなくて、口の中の犬歯を噛み合わせる。
わかっている。おしょうはハッカクではない、ハッカクもハッカクなりの思いやりがあって言った言葉かもしれない。そう思い想像するしかないが、その想像の真意を確かめる方法などない。人と人とはそれほどに隔絶されているのだと思う。それゆえに何気ない言葉一つで憤り、悲しみ、喜ぶ。そして今は、その言葉がおしょうに憤りを与えている。そう考えることは傲慢なのかもしれない。そんな風に考えているのか、と思う気持ちと、そんなことは些細な問題だ、と片付けてしまえと思う気持ち。どちらも間違ってはおらず、そんな風に思ってしまうこと自体がおかしいという新しい気持ちが膨れ上がり、体中が擦り切れるような思いだった。それほどまでにおしょうのハッカクに対する理解が、確実に不足している。
(けれども)
おしょうは自分自身すら理解することも、制御することもできずにいる。その自分がどうして他人に対してそう思う権利があるのだろうか。と思った。わかっている。おしょうはそう自分に言い聞かせた。何もかもが、自分の不足が招いてしまった愚かな思考の濁流だということを、理解しても心は腐ったように痛みだす。背中の傷が疼くようにじくりとした。
「おしょうさん」
再度呼ばれておしょうははっとしたように顔をあげた。再三にわたって人の言葉を聞き洩らすとは、どういうことだろうかと思ってしまう。自分の思考はどこに行ってしまったのだろうか、まるで茫洋とした海の中を、無意識に泳いでいるような感覚、逃れられないような、腹の底にたまるものを感じ、右手で口を押さえた。
「ごめんなさい、疲れてるんだと――思う」
疲れているんだ、と言い聞かせなければ、自分には何もできない気がした。そんなことを考えること自体が、嫌なことで怖気がさす。腹の底からぞわりと粟立つものを感じて、嗚咽がこみ上げる。口から何かを戻してしまいそうで、瞳を潤ませる。
「ごめん、ちょっと、一人にしてほしい」
「そっか、わかった」
それ以上は何も言わなかった。ハッカクはゆっくりと立ち上がり、そのままドアを開ける。最後にドアを閉める前に、一言だけつぶやいた。
「無理をしないでね」
その言葉の意味を汲み取りたくはなかった。おしょうは静かに椅子に腰をかけなおして、もう一度亡き人の名前を呟いた。「バルカン……」おしょうと違い何に対しても積極的に身を粉にしてやり遂げた友達を思い浮かべて、陰鬱な気分になった。比べてはいけないとわかっているのに、比べてしまう自分がいる。
「ごめんね」
誰にいうわけでもなく、おしょうはひとりごちた。


ニッキ・ロートヴァローナと、クローブ・ウーが、ウルチ達を見ていた時に、そのポケモン達に気がついたのは、ほんの一瞬だけ、視線を町の大通りの方へ移した時だった。いつものように、ウルチの周りに不審なポケモンがいないかどうか、それを確認しながら、周りに気配を配っていた時、その姿を垣間見たクローブは、それになぜか引き込まれるような印象を受け、そして見てはいけない、何か恐ろしい塊のようなものが犇めいている、という思いがよぎった。見た目は何の問題もないと思っているのに、心の中では警笛が慣らされて、それに近づいてはいけない、目線を合わせてはいけないと、水際でせきとめようと奮起している。それに若干の違和感を覚えながら、クローブは同じようにそのポケモンを見ていたニッキに話しかけた。
「ニッキ」クローブの声に、ニッキは答えない。瘧のように震えながら、何か見てはいけないものを見てしまったかのような顔をしていた。しかし口は、それとはまた別の言葉は紡ぎだしていた。「なんだろう、あのポケモン達は、見に行ってみませんか?」その言葉に、クローブは背中に刺すような痛みが走るのを感じた。いやなことがあったり、いやな予感がすると、背中に痛みが走るのは、昔から何も変わってはいないが、事件の臭いすらないこの街で、なぜこうも嫌な予感がするのかすらも、クローブは理解ができなかった。「見に行くって、お嬢様は」いいかけ、そして口をつぐんだ。ニッキはまるで憑きものが張り付いたように、濁った瞳を燻らせるばかり、その顔を見て、言葉が通じないと理解する頃には、ニッキはもう歩きだしていた。
「おい、ニッキ!!」
声を上げても、ニッキは答えない。何かがおかしい、なぜこうなってしまうのか、ということ自体、クローブにはわからなかった。ほんの一瞬視線をそれに合わせただけで、それ自体に引き込まれるような感覚が、腹の底から湧きあがる。臓腑が腐るような嘔吐感、目線が釘を刺されるような気分になり、一瞬は数秒に、数秒は永遠に変わる。
「お嬢様は、大丈夫、恐らく、彼が、守って」
千切れるような声を漏らして、一歩、また一歩と歩みを進めるニッキの後ろにへばり付くようにして後を追うクローブは、とらえようのない焦燥を感じた。(ニッキが、どうして)エスパータイプのポケモンは、感受性が強いという話は聞いたことがあったが、一瞬の時間で、ここまで強く引き付けられるというのもおかしな話だった。(何かをされた?)そう思うのが妥当かもしれないが、一瞬のうちに、ニッキは何をされたというのだろう、そう思えば思うほどに、ニッキの不可解な行動が分からず、体中から悪寒が走る。
足を進めれば進めるほどに、なぜか自分たちの身に危険がせまるという気持ちが強くなる、不安が蓄積し、体中を蝕む。緊張で唾を飲み下して、不安とも焦りともつかないような息を吐き出す。何も言わずに視線の先へ進むニッキ、それについていく自分。ある意味操り人形のような奇天烈で奇異な行動だった。これ以上進んではいけないと思うことと、大切な友人がおかしくなってしまった焦りが、クローブの中でわだかまる。吐きそうになって、それをこらえて足を進める。
「なんだ?」ニッキは足を止めて、我に返ったように周りを見渡す。「おい、ニッキ」クローブは話が通じるようになったのかを確認するように再度話しかける。
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「やあ、こんにちは」
「すぐに引っ掛かる、エスパータイプって、馬鹿ばっかり」
一瞬の視線の先に移ったポケモン達は、そろって口を開いた。何を言いたいのか全く分からなかった。目の前のポケモンは、そもそもポケモンであるかどうかすら、怪しいと思ってしまう。なぜそう思うのかはわからない。唐突に体が拒絶反応を起こした。虫の知らせはいつ来るかわからない。それが今来た。という感じがしてならなかった。
「あなたたちは」
ニッキは不審げにそのポケモンに目をやる。奉仕服を身に纏い、二本の後ろ脚で器用に立ち上がり、町の建物に背中を預けるその姿は四足歩行ということを忘れそうだった。着衣のポケモンというのも珍しいが、なぜ奇異な格好をしてこの街を練り歩いているのだろうという疑問よりも、なぜ自分を呼び寄せたのか、ということの方が気になった。その疑問はまるで植物のように思考に根を張り、それ以外のことを考えさせないような勢いだった。
「私、アポロ」
「僕、ヘカテ」
二人はまるで昨日知り合った知人用に気さくに口を開く、一方の瞳は重苦しく眉尻がつり下がり、もう一方は陽気に眉尻を吊り上げる、まるで対極の二人を見て、クローブは背中にうごめくような恐怖を感じて後ずさる。
(この感じは何だ)疑問よりも大きな不安が拭い去れず、体中を汗が伝う。体毛が妙に湿るような感触に、若干の辟易を覚えた。(こいつらは、いったい何なんだ)こういうときに、クローブの仲間たちなら言っていたのかも知れない、それは虫タイプが過敏で神経を張り巡らせているせいかもしれないといって、笑い飛ばすのかも知れない。本人も一時それで納得してともに笑い崩れていた時もあった。しかし、今のこの二人は『異常』という気持ち以外、うまく膨れ上がる気持ちが見つからなかった。
――謎の変死。この言葉が、頭の中によぎる。世間では一般的に騒がれていたニュースを、クローブももちろん拾っていた。どこの町だとか、どんなポケモンというのは詳しく書かれてはいないが、突然生きていたものが死体になる。という変則的な急死は、共通していたのだ。死んだポケモン達に何か共通する点があったのか、それはわからなかったが、噂ではどれもこれもが、巨大なギルドの有能なチームたちである、ということが噂されていた。その噂も、しょせんは噂であると鼻に掛けなかったが、妙な疑問がわいていたことは拭えなかった。
(奇妙なポケモン、奇妙な変死、ガーリックの仲間たち)
まるでかみ合わない、合うはずがないと思いながらも、クローブは複眼を二人に集中させた。
「やだなぁ、オニイサン。ぼくをそんなに見つめないでくれよ」
「ヘカテ、気持ち悪い。しゃべらないで」
無邪気に笑う一人、口から罵りを吐く一人。口から嗚咽が漏れそうになり、クローブは無意識的に目をそらす。それに気がついたのか、ヘカテはにやりと口の端を吊り上げた。
「まぁー、よんじゃったのはー」話している最中に、アポロは口を割り込ませる「私たち」
まるで会話が通じない障害者たちと会話をしているような気分になりながら、ニッキはここまで呼ばれてしまったという事実を頭に留め、警戒を強める。「私たちを何のためによんだのですか」
「呼んだのは、あなただけ」
「そこのオニイサンは、勝手についてきただけだよね」
指を差されて、クローブは言葉に詰まった。確かに呼ばれてはいないが、なぜかクローブが付いてきたことに対して、二人はそれを歓迎するような態度をとっているようにしか見えなかった。あるいは、初めからどちらをも呼び寄せるつもりで、こちらのどちらかに対して、誘う様な行動をとったのか、それがわからなかった。こまごまとした違和感が蓄積し、不快感が少しだけ募る、小さな齟齬、思いの錯綜、そして、唐突に浮かんだ変死のニュース。この世界で何が起きているのか、クローブはまるで知らないことだらけだった。
「まぁ、勝手についてこなかったらオニイサンも呼び寄せてたから、安心してよ」ヘカテは薄い笑みを浮かべる。呼び寄せる、という言葉に、心臓を鷲掴みにされるような恐怖が一瞬だけ浮かび上がり、思わず身構える。やはり、このポケモンは敵なのかも知れなかった。「怖い顔、人の話なんてまるで聞かないって感じ、ヘカテと一緒」アポロは毒を吐いて、ゆっくりと四歩の足を地につける。「そんなこといわないでよー」ヘカテは困ったように笑い、同じような仕草をとる。ニッキは何が何だかわからないまま、クローブと同じように身構える。
「理由もなく人を呼び寄せるのは感心しませんね、何が目的ですか?」
「んー、オニイサン達ってさー、あのランプのポケモンのこと見てたでしょ?」
「それが何か?」そう言いながらも、ニッキは警戒心を一層強くする。奇妙な格好をした、奇妙なポケモンの二人組、世界から切り離された違和感が、そこに収束していた。それらは積み重なり、ニッキたちとアポロたちの間に、障壁を作る。外界から遮断され、殻に閉じこもるように、その場所に自分たちだけの食うかのを作っているような印象を受けた。「うーん、別にどうってことはないんだけどさ、あのランプ、ギルドっていうところに所属してるんだよね?リーダー?」
その言葉を聞いたときに、二人はぞわりと湧き上がるものを感じた。ただ聞かれているだけなのに、答えると大変なことになる気がして仕方がなかった。これ以上会話をしてはいけない、この場からすぐに立ち去らなければいけない、という気持ちが頭に湧き上がっているのに、二匹の視線がまるで絡みつくようにニッキたちを見つめて、逃げるタイミングを見失ってしまった。赤と薄紫の瞳には、虚無しか巣食っていなかった。
「あ、あのランプラーは、リーダー――では、ありません」
口から出た言葉がほぼ潰れてしゃがれた声になり、喋り終わった後に大きくえずく。少ししか話していないのに、無意味に喉が渇いて、苛立ちが胃の中に鬱積する感覚がする。得体のしれない何かを突き付けられているような気分さえ湧き上がり、視界に霞がかかる。
「そっか」素っ気ない言葉を吐いて、ヘカテは鼻先を右の前肢で擦る。アポロはやはり、というような顔をして、つり下がった眥をぎょろり、とヘカテに向けて、地面に唾を吐きかけた。「馬鹿、人違い、無駄足、死ね」辛辣な言葉を受けて、アポロは笑う。「悪い悪い、ごめんチャッピー」
クローブとニッキは硬直したまま、二人の様子をただただ見つめるばかり。ヘカテはアポロに何かを色々と言われていたが、やがて思い出したかのようにニッキ達の方へ体を向き直すと、含みのある笑いを送る。
「ごめんなさい、人違いみたい。悪かった。じゃあ、もう会わないけどバイバイまたね――オニイサン達」
陽気な口調で尻尾を揺らし、ゆっくりと二人は歩み去る。完全に姿が見えなくなってから、金縛りが解けたように、二人はその場に座り込んだ。力をすべて抜かれてしまったように、立ち上がろうという意思が体に回らない。「なんだ、あの得体のしれない物体は」口に出すと、恐ろしさがさらに増した。クローブは忘れようと思っても、この出来事を果たして頭の中から消し去ることができるのだろうか、と不安と疑問が混ざり合って、嗚咽を漏らした。お互いがお互いに、なにもされなかったことが不思議だ、と思い合った。なぜアスパラを見ただけで、ギルドに所属しているとわかったのか、なぜ会ってもいないニッキ達を見て、アスパラたちと接触した。ということがわかるのか。二人は心臓に刃物を突きつけられるような緊張の中、それらの疑問を考えることを忘れた。それがどれほど恐ろしいことかわかっていながらも、それ以上の恐怖が目の前を焦がすように立ち塞がっていたことにすべてを奪われた。
(……この世界はおかしい)
ニッキは体中に浮かぶ汗を左の手でぬぐいながら、その体が瘧のように震えていることを確認した。最初から最後まで、自分は震えていたのだと、改めて確認するようだった。違和感も、齟齬も、会話の成立も、すべてを恐怖と威圧が擂り潰した。何かが狂ったという気がしてならなかったが、それが何かわからず、得体のしれないものが蠢いているような感覚にとらわれる。
(いったいこの世界は、どうなるのだろう)
何も起こらないとわかっていても、ニッキは不安のようなものが振り払えず。呻くような息を漏らすことしかできなかった。
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[[グルメッカ-ほんとのことを言いま章-]]へ続く。
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- "項のあたり"何て読みます?分からないです。「囲碁お見知り置きを」間違い報告です。
あの作品を仄めかすような(お嬢様と執事)表現がありますが違いますよね?それともコラボ?
少し時間が進んでチームの結束がやや強くなった感じがします。新たな町で新キャラのウルチ達とどの様な絡みが展開されるのか、ガーリックの過去も気になります。第三章の執筆これからも頑張ってください。
サザンドラは"粗暴"でしたっけ?"狂暴or凶暴"では? ニップとハッカクもどうなったのか.....
――[[ナナシ]] &new{2011-05-01 (日) 14:48:52};
- >ナナシさん
誤字脱字申し訳ありませんでした。添削をし切れなかった私の責任です。お見苦しい文章を謝罪いたします。うなじのあたりと読みます。ルビを振らないとわからなかったかもしれませんね、申し訳ありませんでした。
こちらの作品に出てくるキャラクターとほかの小説は一切関係ありませんのでご了承くださいませ。
そぼうというのは、食事をとらくて、粗暴な態度をとるという意味合いで使っています。ポケモンを表す言葉ではありませんので強暴とかは関係ありません、ややこしくて申し訳ありませんorz
いろんな方向に進んでいくような気はしますが、気長に待っていただければと思います。コメントありがとうございましたorz
――[[ウロ]] &new{2011-05-01 (日) 15:27:40};
- 「誰と誰がどんな形で僕たちを読んだのか」....."呼んだ"では?
ようやく目的を話したおしょう...今まで何故話さなかったのかは後々語られると思いますが気になる所です。これからも執筆頑張ってください。
ウルチことドレディア、グローブことデンチュラ、ニッキことオーベム達が珍しいとはここは何処?おしょう達はイッシュ支部所属のなはず.....
最近「キャットニップ」と言うハーブを見つけました。(これか~~~!!)
――[[ナナシ]] &new{2011-05-09 (月) 00:37:11};
- 「~なんら変わらないと思うこと。"彼"が何を言っても~」ニップのセリフです。文脈的に"彼女"のはず....おしょうのことを言っていますから。自分の思い違いだったらスミマセン.....
ガーリックの過去の一端が分かり、彼にも色々あったんだなと思いました。旦那様はかなり大切な人(ポケモン)だったんですね。恩返しがしたいのにその相手はもう居ない....悲しいです。
これからも頑張ってください。
――[[ナナシ]] &new{2011-05-14 (土) 11:19:54};
- 久々の更新ですね。
グルメッカはここまで覗かせて頂いていました。
個人的にはニップが好きです。摩訶不思議なところが(笑)

修行中も楽しみに待っております!
――[[スペード]] &new{2011-05-31 (火) 02:48:35};
- 久々ですね。ウロ氏のページその物にはちょくちょく顔を出しておりましたけど。
友情のハグ....良いですね。ただ、ニップが男か女か分からないので、場合によっては.....
果たしてガーリックは仲直りが出来るのか。次の更新待っております。執筆頑張ってください!
――[[ナナシ]] &new{2011-05-31 (火) 12:54:44};
- >ナナシさん
目的を話さなかったのはどうしてなのか、なんで目的を話そうとしなかったのか、そういうのはまだまだ謎に包まれてるかもしれません、もしかしたらおしょうさんの性格上、話すの忘れてただけかもしれませんねwwwその辺も予想して楽しんでいただければ嬉しい限りでございます。ちなみにキャットニップであってます。ウルチさんたちが珍しいと思うのは、もしかしたら見たことがないからとか、そういうのかもしれませんね、同じ地方にいてもなかなか見ないポケモンとかもいっぱいいますし。種族だけは知ってるけど見たことないポケモンっていうのが多いのかもしれませんね。うーん、書いている私自身にも何が珍しいのかわからないですわwww申し訳ありません。
大切な人が亡くなったらそりゃガーリックも悲しみます。彼も陽気とのんきで生きているというわけではなかったみたいですね、やっぱり陽気の仮面をはがしたら、自分の悲しみやらなんやらの気持ちで詰まった本当の面の皮が出てくるんでしょうね。恩返しをしたいポケモンもいなくなって、ちょっと子供に戻ってけんかしたりするのも、ガーリックの「らしさ」かもしれませんね。私はガーリック好きなんですけど、なんかガーリックをガーリックらしく書くことができずにちょっと困ってます;;
友情のハグを受けて激励されたので、たぶん大丈夫です。きっと仲直りできるさ、仲直りしてくれないとお話が進まないしね(ryガーリックは男の子男の子男の(ry
コメントありがとうございました。
>スペードさん
ニップが好きなんですか、妙に浮かれてたり、かと思ったらシリアスになったり、でもあまり人に関しては何もしなかったり、妙でつかみどころのないポケモンですね、ミステリアスとも摩訶不思議とも違う可笑しさを持ってますが、それもニップらしさですね。好きになっていただいて作者としてはうれしい限りです。
コメントありがとうございましたorz
――[[ウロ]] &new{2011-06-01 (水) 11:35:34};
- 「背中に散りつくし選は、」“纏わり付く視線”だと思います。
う~む……やっぱりニップは謎キャラだなぁ。前の名前があったり、おそらくあの目玉を煮込んでいた奴らの仲間と思われる者と知り合いそうだし、まだ男か女か分からないし……気になってしょうがない。
一悶着ありそうで、次がどうなるのか……これからの執筆頑張ってください。

「すすめートリガラ号。チョコバナナ食べようよ。」「はいはい、アボガドね」で吹きましたwww
――[[ナナシ]] &new{2011-06-13 (月) 17:35:47};
- 「発覚はいやなものを見てしまったかのように~」「おしょうは発覚ではない~」間違いがありました。それから、“粟立つもの”ではなく“泡立つもの”では?
「グルメッカ」の目次ページではおしょうは普通なのに、キャラ説ページでは晒を巻いていたので不思議に思っていましたが、実際に巻いていたんですね。
アスパラとウルチ、おしょうとハッカク、様々なキャラの心情や関わりなどの描写を書かれてきましたが、どれも“山場”の手前と言えるような所で次のお話に移っているので非常に気になります。今とっても焦らされています。
待っておりますので、執筆頑張ってください。
――[[ナナシ]] &new{2011-06-19 (日) 22:33:41};
- >ナナシさん
コメントありがとうございますorz
誤字脱字が多く申し訳ないです;;添削をしてもやっぱり見つけられないことが多いのを改善できていませんね、申し訳ありませんでした。こんなダメな私ですが長い目で付き合っていただければと思います;;orz
 アスパラとウルチ、おしょうとハッカク、ニップ、それにニッキやオーベムたちの言動は基本的にこの続きは、という形で次の視点に回したほうが面白さが増すかなと思いながら書いたのですが、非常に気になっていただいて誠にありがとうございます。こういう書き方は私の癖なのかどうかっていう感じがしますが、こんな書き方です、もし変だと思ったらすぐに直しますね;;
晒の件についてですが、実はこれほとんど考えてなかったという落ちがwフタチマルって若侍のイメージらしかったので、女の子だし晒をまいたほうがカッコいいかな?などと当初は安直な発想で晒をまかせましたが、お話を書いているうちに晒に隠された腐敗したような蚯蚓腫れ、なんていう設定が自然に思いつきました。前につけようかと思ったけど、前につけたらおっぱいが(ryみたいな理由で背中にけがをしております。他意はないですよ。たぶん;;
ニップのなぞ、おしょうさんの不快感、ウルチさんとアスパラと相席したポケモン。いろんなものが絡み合って、次に進むという感じだと思います。それがどう転ぶのかは続きのお楽しみということで、気長に待っていただければ、と思いますorz
コメントありがとうございましたorz
――[[ウロ]] &new{2011-06-20 (月) 11:41:27};
- 「私たちを何のために読んだのですか」「ごめんない、人違いみたい」間違いと、チャッピーは愛称ですか?
後、齟齬(そご)は分かるのですが、他にも難しい漢字があり読めません。ルビや注釈をお願いします。
またしても新キャラの登場。こいつらも敵側の仲間っぽいですし、種族が何であるかもよく分かりません。脳内アニメでは黒塗り一色の不気味な奴に……(目だけある)
 おしょう達に何のようが有るかは分かりませんが、今後どうなっていくのか楽しみに待っています。頑張ってください!!
――[[ナナシ]] &new{2011-06-21 (火) 08:31:48};
- アポロとヘカテの挿絵がなんだかうみねこの絵に見える…
グルメッカは全て楽しく読ませて頂いておりますが、ブイズの皆さんはなんとも不思議な動きをされているようで…むむぅ、続きが気になります。ニップを攻撃したおしょうさんの様子も気になって仕方ないです。
ウロさんの作品、どれも本当に大好きです。他の作品もあり、大変だと思いますが、これからも頑張ってください!!応援しております。
―― &new{2011-12-21 (水) 21:18:59};

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IP:180.11.127.121 TIME:"2012-11-23 (金) 16:45:17" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB-%E6%97%85%E3%81%AE%E7%94%BA%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%A7%E7%AB%A0-" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.1; WOW64; Trident/5.0)"

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