おおっと だぶんさくしゃの ウロの しょうせつだ めがくさりそうだとおもったら にげるしかないじゃない! ---- 体の炎がゆっくりと揺れて、燭台を左右に揺らす。体中が燭台の自分を見ながら、シャンデリアの炎はもっと淡く、弱い炎をたたえていると思った。アスパラ・ザイロフォーンは左右を見渡して、部屋の暗さよりも、自分の体の明るさの方が気になり、ベッドで眠っているウルチ・ウール・ラ・サンダルフォンを起こさないか、ということを心配していた。 (どうかおきませんように) そう願いながらも、心は絶対的に考えの違う方向へ進んでいる。それは四百字詰めの原稿用紙に目を移し、荒涼とした世界に自らの意識を移すこと。このたびの終点が、ニップの記憶を取り戻すこと、世界のスポットを巡ること、そして、コルメリカを手に入れること―― あまりにもいろいろなことがおきすぎて、執筆に手が回らなかったことに少し体が痛んだ。しかし、自分の本業はもっと違うところにあるというのに、執筆の方に手が回らないことに心を痛める自分がいて、それが嫌になった。どういうわけか、アスパラは心の中では執筆の方が、今世界をめぐる混乱よりも優先事項になっている気がしてならなかった。 (逃げている……僕は、この旅から逃げているんだ) 自覚はしていた。自分はこの旅から逃げている、文章の執筆という、別の世界に逃げ込むことで、自分を安心させている。そう錯覚させている。自分は違う。他のポケモン達とは違う世界にいる、と自分の存在を騙して、安定していると思い込んでいる。それこそが間違っているということに、気が付いていても、それに縋ってしまう。子どもの様な幼稚な発想でも、そう思わなければ、と思ってしまう自分がいる。それがたまらなく、自分の矮小な姿を曝しているように見えて、しょうがなかった。 (この旅から逃げて、自分自身の世界に入り込んで、結局、僕は何がしたい――) その自問を答えようとしても、曖昧模糊とした回答は答えと呼べるものがない。答え、と呼べるものは極僅か。それ以上に、わからない思いが渦巻き、心の中を塗りつぶす。仲間内でもこの異質な考えを読み取られているだろうか、と思ってしまうときがあった。おしょう達はこの姿を本当は知っているのではないか、と思ってしまう。所属している、という思いにも関わらず、安堵感を感じない。懸念するのは、奇異な目で見られている、という思い。この感情こそ間違ってはいる、しかし、そう思ってしまうという不信。この考えは、間違っている―― (間違っていたとしても、僕にはこの考えを消すことはできない――) 固い芯が机を弾く音、硬質な机はもの言わず、自分の使いなれたそれよりも鉛筆の先を弾いた様な気がした。それはまるで、自分は違う、という答えを弾き、お前も元は同じだ、と訴えているような気もした。それこそ馬鹿げていると、笑えない自分は無機物かも知れなかった。 (……どっちにしても、決断しなくてはいけない) 自分はどちらに行けばいいのか、右に行くのか、左に行くのか。どちらにしても決断を鈍らせることはいけない。自分は進化して、体の構造とともに、考え方まで変わってしまったわけではない。自分の意思はしっかりと持っている。それは揺るぎない不動を貫くと信じている。だからこそ、どちらにつくかは自分の気持ち次第だろう。 硬質の机に弾かれているうちに、鉛筆は悲鳴をあげて、高い音をひとつたてる。折れた、と思うのと同時に、起きた。という思いが過った。そしてそれは、的中した。 「おはようございます。初めまして」ごく一般的とはかけ離れたその言葉は、以前聞いたかのように、驚きを感じなかった。そう思う自分の思考は、やはり狂っているのかと思う。 「おはようございます。ウルチさん」 「はい、おはようございます、あなたのお名前は?」 答える代わりに、無言でウルチの『人生』を手渡す。ウルチはそれを分かっているかのように受け取り、まるでいつも通りのように、自分の歩んだ道をめくり始める。乾いた音は断続的に続き、早いながらもリズムを感じさせるような音だった。すべてを吸収するには、三十秒もかからない。彼女はやはり、変異体だ。 (そして僕も、変異体だ) 自分の死に対する感情はそんなものだった。死んで蘇った。何のことはない、人生の闇を吸い取り、石が変異的に自分を蘇生させた。自分は起き上ったという感情すら分からないまま。死人らしくふるまうことも、墓を建てられることもなく、そのまままた何事もなかったかのように進んでいく。これからの人生を、新しい形で―― 「一週間がたちましたね」 「ええ、たちました」 二週間前の衝撃よりも、二週間後の別れ、一時とはいえ、敵はどこからでも襲い掛かる、高い再生能力、驚異的な攻撃能力。個々に持っている特別な能力。その中で、すべてを持っているニップは『特別』を超えた存在だった。異彩を放っている。しかし、それだけだ。敵になるわけでもない、自我を失うわけでもない、自分を保ち、仲間だ、と言い切った。記憶を取り戻した時に、果たして仲間だ、と言い切れるのかどうかは知らなかった。記憶が戻った時に、彼は、いや、ニップという存在は敵になるかもしれない。それはどうなるのか、わからない。だからどうなってもいいように、彼の動向を探る必要がある。しかし、自分にはできそうにもないと、他人に任せているのは少しだけ心の中を疑った。大丈夫なんだろうか、このままでいいのだろうか、流されるままでいいのか。そう思っても、結局流されるままである自分に落胆する。 「ウルチさんは、どちらに行くか決めましたか?」アスパラの言葉に対して、ウルチは自分の日記を閉じて、頷いた。「私は初めから決めています」ウルチの言葉に、アスパラは眉をひそめた。もう決めている、という言葉、記憶が抜けて、それを補填した彼女の口からは、到底信じられないような言葉だった。補填した記憶をたどり、彼女は一週間考えた結果、もう決めた、という記憶をたどり思い出し、口に出す。作業のようなその行動、生きるための行動。(もう決めている)彼女はその行動をすでに決め、どうしたいかをしっかりと吟味し、それを実行しようとしている(僕は何をやっているんだろう)体をなでながら、折れた鉛筆を弄ぶ。どうするべきなのか、それを考えるには、あまりにも時間がなさすぎた。 [[挿絵1>http://pokestory.rejec.net/main/index.php?plugin=attach&pcmd=open&file=%E3%81%8A%E5%AC%A2%E6%A7%98%E3%81%A8%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88.jpg&refer=%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB-%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%BE%E7%AB%A0-]] 「アスパラさん――あとでチョコレートパフェを食べませんか?」 「は?」 「甘いものを食べたいんですよ。まだ時間はありますし。悪いことではないと思います。この街の最後のお茶の時間は、チョコレートパフェで決まりですね、とろける舌触りに、甘い芳香、考えただけでよだれが出そうですよ」 「……」 「実際、悩んでもしょうがないですよ、どちらに行っても困難が伴うというのなら、自分から飛び込んでいくしかありません。悪い方向に物事を考えるよりも、おいしいものを頼んで、楽しんで食べながらリラックス。その方がいいですよ、今までも、そしてこれからも」 彼女の言葉に対して、素直にはいと頷くことはできなかった。まるで貧乏籤をひかされたような気分になり、深く息を吐く。こうなりたくてなったわけではない、そういう気持ちは捨てたつもりだったが、やはりどうもわだかまりというものが残ってるのか、それが余計にアスパラに苛立ちを募らせた。捨ててしまえ、と思う自分、持っているべき、と思う自分。どちらも自分の思いには違いなく、どちらもおざなりに投げることができな自分が嫌だった。うかつなことを考えれば、それは口から全く捻った言葉になり、それがいらない誤解を招く。そこを容赦なく指摘する仲間たちの言動にはいつも屈託を抱かざるをえない。 「一週間かそこらで、決められるわけないじゃないですか」 心中で忌みごとのように思い。口の中にたまったものをこみ上げる嗚咽とともに飲み下す。つぶやきは風のようにウルチの耳に入り、ウルチはにこりとほほ笑んだ。 「そう思うなら、ますます何か食べに行きませんと。おなかに何かを詰め込まないと、柔軟な発想は働きませんよ」 屈託なく笑うウルチを見て、これが本当に決めたという意味だろう、などと思い。ますます自分の優柔不断な気持ちが嫌になる。 (どちらにせよ、あと少ししかないんだから) 決めるのなら、早めに決めなくては、時間は一刻と迫る。中途半端な気持ちを持ったままでは、足を引っ張ることになってしまう。いや、とアスパラは自虐的な笑みを浮かべた。 そもそも足を引っ張っているから、二週間前に、自分は骸になったのではないか、と笑う。昔だろうが今だろうが、いつまでも優柔不断な子供のままなんだと思う。そう思ってしまう自分に腹が立ち、そう思って諦めている自分の心に嫌気がさした。 誰よりも子供で、だれよりも情けないアスパラ。自分の位置づけを自分で決めて、溜息を吐いた。 ――なぜ自分はあの時おとなしく死ななかったのだろうか。 頭によぎるのはそんな言葉だった。答えにならないと自分で嘲るように笑い。早く出たくてうずうずしているウルチを見つめる。視線を動かして、窓の外に目をやると、何かが爆ぜるような音が、断続的に聞こえる。おそらく何かを知らせるためのものだろうが、アスパラにはそれがおしまいを告げるような音にしか聞こえなかった。 「仰々しいね」 「お祭りが始まったんですね。この時期は確かこの街でのおまつりが――」ウルチが上機嫌に説明しようとしたときに、アスパラは首を横に振った。「ああ、別に言わなくてもかまわないよ」 (どうだっていいことだからね) 周りのポケモン達はおそらく、これから祭りが始まるんだ。と、さも重要なことのように話してはいるが、結局のところそれは物珍しさの対象になることと、ただ単に騒ぎたいというポケモン達の心理を汲み取っているだけのように思えた。さも一台名イベントのようにふるまい、偉い人たちは目を輝かせる。口先だけで楽しそうとか面白いとか言っているが、結局それは場の空気に合わせた発言にすぎない、祭りは自分だけが楽しめればいいという空気が、隠れて充満している。それこそ見えない疫病のように。そしてそれを興味がない、面白くない、という言葉をはなとうものなら、見下げ果てたような顔をするんだろう。 (くだらない) そう、すごくくだらなかった。祭りというのはどこでも総じてそういうもんだと、アスパラは息をついた。ウルチは不満げな顔をして何かを言いたそうに口を動かしているが、結局何も言うことはなかった。くだらない行事、くだらない思考の奔流、くだらない統一の喜び、どれもこれもがくだらなかった。アスパラにとって、大きな音は不快な喧騒、人々の笑い声は耳障りな雑音、何にしても、騒がしいものは嫌いだった。 「好き嫌いが激しいと嫌われますよ」 「僕は騒がしいのが嫌いなんですよ。ウルチさん」 お互いの思考を読み取ったように、会話が流れていった。 薄く眼をあけると、ガーリック・ファーバーがお腹の上に乗っていた。丸い体に羊の毛の様なふさふさが、体をこすり、少しこそばゆい様に、トリガラは身をよじる。 「トリガラ、起きて」 「眠い、お休み」 「君はもう決めたかな?」 「私はガーリックと違う道に行くよ、お休み」 「さも面白くない返答を返すね、君は」 「朝何時だと思ってるんだ」 時計に目をやると、午前三時十二分、起きる、という時間にはいささか早く、まだ薄闇の幕が剥がれてはいない。心地の良い眠りを邪魔されたことに苛立つよりも先に、ガーリックの言葉を考える。 ――もう決めたかな もちろん、決めてなどいない。どちらに行っても易い道ではないことは変わりないのだから。それを思うたびに、溜息が漏れる。ただのギルドに所属し、ろくに仕事もしなかった自分たちがこんな大命を帯びるなど可笑しな話だと思い、そしてそれこそ理不尽だと思った。親方の思考は、恐らく無名のチームが生きようがのたれ死のうが大した問題ではないということなのかも知れなかった。 「東に行けば海が待つ。西に行けば森が待つ」 不意に、ガーリックが言った言葉が耳に入る。東に行けば海が、西に行けば森が、それぞれ待っている。それは何を意味するのか、まだわからない。 「海に行けば風鈴が見られるかもしれないよ」 「風送りの?」 「そう、風送りの風鈴、風避けでもいい音色はなるものさ」 「呪いの音色に良いも悪いもあるものか」 トリガラの言葉に、確かに、と苦笑した。古来から、風というものには制限というものがなかった。水も陽気も加減というものがある、多くても足りなくても不都合があるが、風にはそれがない。よって、古人がやってきた呪いの類は、風鎮め、風封じ、風送り。この三つだ。風を鎮め、風を封じ、風を送ることで終わらせる。 風を鎮めるためには陰陽五行説でいうところの金気を用いる。相克説によれば風は木気、そして「金剋木」だからだ。金気は木気に尅つ。異国の土地には薙鎌という風習がある。樹木に鎌を打ち込むのだが、これは木気の樹木を同じく木気の風に見立て、そこに金気の鎌を打ち込むことで、風を断つことを意味している。 逆に風送りは、風が吹きつくすことを願う。風送りは未の月――六月に行われる。十二支の未は五行で言えば「木気の墓」だ。物事にはその始まりと終わりがある。「墓」はこのうちの終わりを意味する。木気の衰える月に、さらに風を呼んで吹きつくすことを促し、これによって早々の終焉を願う。それが風送りである。 水の栄える街には、必然的に漁業というものが盛んになる。それはその街が水と生活を共にし、木気を寄せ付けることを嫌うために、必然的に風送りを六月に頻繁に行うことがある。今は八月の終に落ち着いている。しかし、漁業を生業とする者たちは、家に風鈴を取り付けることが多い、これはまだ残っている風を完全になくしてしまおうという呪いじみたものが多いのかも知れない。効果のほどは疑わしいが、ガーリックの言うとおり、東には海に面した場所が多く、もしかしたら風鈴をお目にかかれるのかも知れない。 それは、逆に西に行けば、風封じが多くみられるのかも知れない、という考えを伸ばす。森が多くある街も、基本的に風が吹きつけることを快くは思わないだろう。微風程度ならまだ許せるかもしれないが、強風が吹きつければ、農作物が駄目になり、その生業を持つ者たちにとっては、終焉のようなものが訪れる。風を多く吹きつけることを嫌うのは、農産業でも漁業でも大して変わらない、風を封じ込め、未の月になれば送りだす。西に行けば風封じ、東に行けば風送り、それが何を意味するのか、トリガラには何となくだが理解したような感覚がした。 「どちらに行っても、金気の力が必要かもしれないね」 「あいつらの木気は、すさまじいよ」 あいつら、というよりも、おそらく一人の木気だろう。彼女は――サーズデイは言っていた。自分の力を解放すれば、町一つをジャングルにするなど容易いことだ、と。それだけの力を持ちながら、こちらの動向を試すように不規則に動き、気まぐれに消えていく。まったく心の中がつかめずに、面喰ったような感覚が思い出されて、トリガラは舌打ちをした。 「嫌なことを思い出したな」 「僕の木気じゃ、相殺できないからね。トリガラは、火気、水気、金気、三つの力を持っている特殊な技が使えるから、どっちに行っても安心かな」 「トライアタックのことね」 自分の技を思い起こして、ふと首を傾げる。火気、水気はわかるが、果たして電気というのは金気に入るものなのか、木気は金気を嫌う。しかし草に電気など有効ではないことは、すでに科学的に証明されている気がした。苦手意識のない金をぶつけたところで、相手は怯むことがない。そもそも、あのポケモン達は怖れや恐怖というものを持たず、 呪い事など何の意味もない。ただの気休めにしかならないだろう。 「五行説だが陰陽だか何だか知らないけど、あのポケモン達にそんなもの通用しないでしょ」 「腕をちぎっても生えてくる、頭を吹き飛ばしても再生する、なんだかよくわからないけど、気持ち悪い生き物だよね」 「生き物、って一括りにしていいのかどうかは、判別しかねるけどね」 あの生き物たちは、自分たちのことをポケモンではないと言い切った。ポケモンの姿形をしているが、原種に最も近い存在。始まりの人というものに近しい存在。意味はわからないが、ニップもそれだという。ニップはそれを一括りに「原種」と呼んでいるらしいが、トリガラには今一理解ができなかった。いきなり現れたそれと、自分たちと行動を共にしていた仲間をいきなりそんな種族に例えたとしても、実感というものは到底湧きはしない。目の前に見えるのはただのレパルダスで、自分たちが見ていたのはただのイーブイ系統の進化種、感情も、言葉も、知性も兼ね備えている知的生命体。それを「原種」などというわけのわからない存在と認識するには、自分の脳は現段階で順応してくれはしない。 「あいつらとニップが同じって思うと――」 「ニップはニップだ。それ以上でもそれ以下でもない」トリガラはうんざりしたように上半身を起こして、両の頭でひょい、とガーリックをつかんで、腋の下をねっとりと舐めあげる。急な行動に面喰い、されるがままになったガーリックは苦い笑みを浮かべて、顔を紅潮させた。「それ以上チーム内の仲間を変な風に言うのなら、体中唾液まみれにしてあげる」 「参った、降参ですってば」 脇の下から滴る滑りに身を捩りながら、ガーリックはぷるぷると震える。トリガラはふん、と鼻を鳴らして、ゆっくりとガーリックを抱き寄せた。ふわ、とした感触を感じながら、ガーリックと一緒に入浴した時のことを思い出した。 「トリガラ……?」 「ニップは、僕たちの仲間だ。そう信じてあげようよ」 「……そうだね、信じないと、仲間じゃないもんね」 日が昇り、朝靄が晴れていけば、約束の時間になるだろう。東に行くか、西に行くか、どちらにしても、危険は伴う。それを頭に置きながら、トリガラは無意識に抱きしめたガーリックの額に、自分の額をくっつける。そのまま、ゆっくりと目を閉じた。 「どっちに行っても、私は後悔しないようにする。ガーリックと別れても、私は君の笑顔を忘れないようにするよ」 それは呪いなのか、それとも儀式的なものなのか、自分の頭で形式化するより、自分がそれをすることで、この先に何があったとしても、乗り越えられると思う。そう信じる、トリガラ専用の呪いだった。 「君に金気の力を送ってあげる、だからもう少しだけ、こうやって抱きしめていいかな?」 ガーリックはそれに答えない、ただ抱きしめられて、にこりとほほ笑むだけ。それを無言の肯定ととり、さらに強く抱きしめる。この感触を忘れないように、ガーリックの顔を忘れないように、もし自分が何かあっても、彼だけは無事でいられるように。 「私を助けてくれたんだもの、ガーリックはもっともっと、誰かに助けられるべきなんだよ」 「それって、僕が頼りないって思ってる?」 そうじゃないよ、と笑う。不意打ちとはいえ、一瞬の虚をつかれた時、自分自身の特性と、それ以上の機転でトリガラに襲い掛かる危機からガーリックはトリガラを救った。その時の彼はとても凛としていて、トリガラは一瞬だけでも見惚れてしまうほどの強い意識を持ったガーリックを、あの時視界に収めた。それはまだ脳裏に焼き付いて、離れないでいる。 「君はとっても頼りになるし、強い人だと思う。だけど、危険っていうのは強くても弱くても、襲い掛かるものだと思う。だから、もし君が危険な目にあいそうだったら、今度は私が君を守るよ」 「それって、僕と一緒に行くってことになるじゃないか」 「……うん、そうだね」 「さっき言った言葉は取り消すの?」 「うん、取り消す。私は、君と一緒にいたい」 そんなことを言って笑う。自分はガーリックの前では、優柔不断で頼りない、女の子を演じたいのかも知れないと、少し自嘲気味に思う。 「もしかして、僕に惚れちゃった?」 「かもね」 彼のお茶目な回答に、彼女ははにかんでみせる。決断の時間はまだまだあるが、もう心は決まっている。そう思いながら、トリガラは登ってくる朝日を拝む。窓から見える陽光の光は、何とも不思議な感慨に浸れるものだと改めて思う。この時間に起こされて、悪かったとも言えるし、良かったとも言える。そんな気分だった。 「この先にあるものはきっと胡乱な思いを吹き飛ばしてくれるよ」 「そうだね」 二人が見た朝日は、靄の中でも輝いて、よく映えていた。体を震わせて、ガーリックは少しくしゃみをした。 「ごめん、お風呂入ってくる」 「行ってらっしゃい」 ガーリックはぬめった体をゆすりながら扉を軽く押してそのまま出て行った。 その島を古来からグルメッカと呼んでいた。何がグルメなのかは全く分からないし、島なのか大陸なのか、それすらも分からない。本当は島ではないのかもしれないし、大陸ですらないのかも知れない。火山の名前をもじって取ったという話だが、真相はわからないし、そもそもその大陸やら島やらに火山があるという話など聞いたことはない。まず、そこに行く手段がないことと、長年にわたり秘密に閉ざされたためか、それに関しての情報など皆無に等しいだろう。 「やれやれ」 ニップ・シャドーホップは地図を睨んで体をほぐす。その島を尊崇していた人物でも知ることができれば、こういう調査というものは非常にやりやすくなるものだ、島を神に例えるのは珍しくないし、そこには懼れるばかりではなく、畏敬の念もまた含まれていることが多い。はたしてそれが、伝承どおりに見た情報と照らし合わせて、合っているかどうかが問題ではあったが。 「難しいことばかり考えて、頭が回らなくなる前にやめた方がいいと思うよ」 ハッカク・ノレンは心配そうに林檎を齧った。その言葉に対しての返答は特になく、地図を丸める乾いた音と、後ろで眠っているおしょう・とうろうの寝息が小さく聞こえるだけだった。確かに難しいことばかりを考えていては進むべき事柄も進まないのかもしれない、だからと言ってなにもしないでいるのは、どうも自分の性には合わないとバルカンは口を引き結んで険しい顔を作る。 (せめて土地の伝承でも昔話でも何でも残っていればな)ニップは思う。もしグルメッカに近い土地なら、その土地を崇拝した民族や、その土地に対して尊崇の念を抱いていた人物や種族は少なからず存在しただろう。航行標識の未整備だった時代において、秘密のある古き土地というものは、海上に勃然として聳えるものとして格好の目標物だったからなのかもしれないし、もしくはもともとグルメッカのある大陸(島かもしれないが)は、何か神秘的なものでも働くようなイメージがあったのかも知れない。 だが、その名も地図の上から消えて久しい。ニップがめくっていた地図はとても古いものであるのと同時に、古いからこそ見えるものがある。最近の地図にはおそらく乗ってはいないだろう。大陸が消失したわけではもちろんない。時代の趨勢に従って、無害で凡庸な名に書き換えられてしまったのである。地図の上部が破けているのはなぜだろう、とニップは首を傾げた。 「……忘れられた大陸、グルメッカね」 日に焼けた顔に深い笑い皺を刻んで、ハッカクは残った林檎の芯を指でつまんで屑かごに放り投げる。その凡庸な名を繰り出し、息を吐く。 「このあたりじゃ、グルメッカなんて呼ばないだろうね、せいぜい教科書どうりに沿ったような大陸名とかそんなんじゃないかなぁと思う」 ハッカクは言って、木枠の窓から見える街に目を移した。一週間前の騒動が嘘のように静まり返り露店を営む者の準備やら、朝市でにぎわう人の姿やらが見える。それでも、この街本来の活気というものは消え、その半分くらいしか賑わいが見えていない。自分達が来たせいだと思っている住民は少なくないし。少なくとも、自分達がやってきてから騒動は起きた。そのことを疎んでいる者もいるだろう。少し開いた窓からからからと乾いた風の音が聞こえる。風音を聞きながら、ニップは眠っているおしょうの顔に目をやった。 憔悴しきっているのが見て取れる、寝息こそ穏やかだが、圧迫するような不安に身を蝕まれているのがよくわかる。最初のうちでこんな状態になってしまえば、もう後がないのは目に見えて分かっている、だが、彼女は自分がリーダーであるという責任を放棄することはない。それが彼女の美点であり、欠点でもある。 (おしょうさん、死なないでね) 口にはしない、彼女の重圧を自分がすべて受け持つことができれば、どれだけいいだろうか、それができて、彼女の思いを振り払うことができれば、どれだけいいだろうか、それをするだけの力を持っていると自分は思っているし、それができるだろうとも思う。だが、それをしないのは、自分がポケモンでありたいという気持ちの表れなのかもしれない。 自分自身の隠蔽したい過去をすべてさらけ出し、そしてそれでも、自分は仲間だと言い放った自分が、何を求め、何をしたかったのか、なぜこの世界に自分は生まれたのか、自分という存在を確立するには、自分のことを知らなさ過ぎていた。 「賢者様、今一度会えるならば、僕は今度こそあなたに挑戦します。僕の存在を――確かなものにするために」 西と東に分かれるスポット、それらを集めて北の山へ、御伽噺のような冒険だが、それらはすべて必要だから行う行為である。自分達は今、御伽噺の世界へ行くのだと思う。それは誰もが憧れて、だれもが望んだ世界ではないかもしれないが、ギルドから旅立った時から、自分たちの想像とは違う世界への挑戦が始まっていたのかもしれない。探検隊とは、未知なる世界に飛び込むことを恐れてはいけない。それを今一度思い出すように、ニップは強く両前肢を握り込んだ。 思い起こすのは、一週間前の出来事、すべてが露呈し、全てを曝け出した。自分が思ったことは全て、言った。後は、そこからどう転がるかなのだと思う。息をついて窓を閉める。おしょうが少しだけ寝返りをうって、また穏やかな寝息を漏らした。そんな姿を見て、ニップの記憶は遠く昔の出来事に飛んでいく。それは一週間前の、全てが始まり、全てを曝けたその時間に―― 2 食事処についたというのに、相席の相手はほとんどと言っていいほど沈黙を保っていた。何か声をかけても、「ああ」とか「はい」などの扁平した返答を返し、泥水のように濁ったコーヒーを啜り、相も変わらず同じような項目を見続けている。ほとんど注文した料理も食べつくしてしまったので、もうここにいる理由がなかったのだが、妙な沈黙と威圧感が向かい側の席から放たれるような気がして、アスパラとウルチは動くに動けなかった。軽い食事のつもりが、無意味に量を頼んでしまい、若干残っている。会計は大丈夫かと少し落ち着かなかったが、ウルチが出すと言ったので、あとでおしょうにお金を借りて返そうと、妙に律義な発想をした。 空に浮かぶ雲の隙間から覗く太陽の光に炙られて、じりじりと頭から焦がされるような感覚がした。外の席にはパラソルがしっかりとついてはいるが、アスパラの席だけなぜかパラソルの布が破損して直射日光を浴びていた。こつん、と頭を触る、金属同士がぶつかる音がして、妙な暑さが伝わって慌てて手を放す。熱さよりも、気まずさの方がアスパラには圧し掛かるものがあった。この状況を何とかしないといけないと思いつつも、それができな自分が何とも統率力のないことか、と自嘲気味に笑い、結局原稿用紙の世界に逃げ込んだ。乾いた紙の音がしたときに、少しこちらに反応したのか、隣り合わせに座って新聞紙で顔を隠していたポケモンがゆっくりと手に持った新聞紙を下げて、こちらを見た。透き通った蒼色に、ぷるんとした唇、顔をあまり見なかったので大人かと思っていたが、その顔には少年少女特有の幼さが残っている。よく見ると可愛い顔をしているが、眉間に寄った皺と、険しい目つきがそれを覆い隠していた。 「原稿用紙?」そのポケモンが発した言葉は、それだけだった。「え、ええ、そうです」アスパラはその刺すような視線を受けて、背筋を伸ばして、びくりと体を硬直させた。特にこちらの行動に対してけちをつけたり難色を示したりしているわけではないのに、なぜか怒られたような気分になって、アスパラは泣きたくなった。「あなたは、物書きですか?」 それに対しての返答は、どう答えればいいのかわからない。物書きなのは確かだが、本業は探検隊。しかし何やら威圧するように睨みつけられているような気がして、喉の奥に張り付いて言葉が出ない。しどろもどろに口を開閉させていると、隣で呑気にコーヒーを飲んでいたウルチが代弁してくれた。 「この人は作家さんですよ。アスパラ・ザイロフォーンという作家さんです。知っている人しか知らない作家さんです」 「アスパラ……」 そのポケモンは険しい顔を少しだけ緩めると、ふむ、と思案をした。何かを思い出すように、記憶の糸を手繰っているようにも見えたし。それ以外に何かの引っ掛かりを感じているような風でもあった。 「この本を書いたのは、あなたですか?」 しばらくの沈黙の後、そのポケモンは下に置いてあった大きめのポーチから一冊の本を取り出した。黒塗りで厚い、つまらなさそうな本には自分の名前と大きな文字で『煩悩と理性の境界線』と書かれている。同じ日に同じものを見るとは縁起が悪いと思ったが、こんな偶然が起こったことに対して眥を吊り下げて気恥ずかしそうに頷いた。 すると、そのポケモンはに、と破顔した。それは笑顔と呼べるもので、笑った時の彼女の顔は、あけどない子供のそれであり、とても可愛らしく視界に映った。 「やっぱり、アスパラ先生って貴方のことなんですね。こんなものを書くのだから、てっきり子供ではなく、年を食った爺かと思っていましたわ」 口調こそ気品に満ち溢れるようなものを感じたが、口から出た言葉ははっきりと物事を飾ることなく、野生のそれをまるきり切り出したような辛辣さを含めていた。野性的とは違うものを感じた。それに対してアスパラは乾いた笑いを漏らして閉口するしかなかった。 「でも、僕この話は好きですよ。人の心に裏側に対しての一歩引いた視線から見た感じ、見たときにぞくっとしましたし。考察も結構考えられます。そうですね、一目見てファンになりました。――サインしてもらえます?僕の名前書いて」 [[挿絵2>http://pokestory.rejec.net/main/index.php?plugin=attach&pcmd=open&file=%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%A3%EF%BC%81.jpg&refer=%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB-%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%BE%E7%AB%A0-]] ずい、と表紙を開いて、口の端を吊り上げる彼女の姿は、先ほどの険しい顔とはうって変わって、調子はずれで陽気な感覚だった。先ほどの険しい表情の方が長く視界に入っていたせいで、どちらが本当の彼女なのか、と疑問が浮かぶ。 「先生?サインしてくれないんですか?」 「え?あ、ごめんなさい、ちょっと待って」 慌ててアスパラはペンを探そうとしたが、事前に用意をしていたのかのように、す、とそのポケモンは黒いペンを差し出した。 「はいどうぞ、高級品ですよ」 高級品だなどと口でいうところがまた変に自慢癖でもあるのかと勘ぐってしまう。開いたページはウルチと同じページであったため、同じところに書こうとして、ふとアスパラは動きを止めた。 「どうしました?」不思議そうに見つめるポケモンと視線が合う。完全に険しい顔つきは消えて、あけどない子供のきょとんとしたそれが視界に移った。自分も子供であるために、そういうところはよくわかっていた。「名前を聞いてませんでした。名前を教えてください」 それは失礼、とグレイシアははにかんで、ゆっくりと口を開いて自分の名前を告げた。「僕の名前はサタデイ。チルド・サタデイですよ」 にこやかに話すその姿を遠目に見ながら、ウルチは自分一人置いてきぼりにされたような感覚がして、街の道路へ視線を移した。自分は特にアスパラと接点があるわけでもなければ、ただ昨日今日で見知った仲であるということを十分に理解しているため、悋気や嫉妬の感情は特に浮かばない、ただ会話に入れないことへのもどかしさはしっかりと感じていた。それゆえに視線を移し替えてしまうのは、自分の心が寂しいと感じているからなのか、などと感慨に耽りながら外を行きかう人々を見ていると、そこに見慣れた姿を見た。その姿はわかりやすく、見間違えるはずもない。自分のお付きの者二人が、誰かと会話をしている、その誰かの姿はよくは見えないが、二足でたち、片方は壁に体を預けている。ウルチは目を細めて、なんとなしにその姿を見た。この地方では見ないポケモンだ。それだけではなく、何やらニッキやクローブの顔色が優れないようにも見えた。とても楽しい会話をしているとは思えないので、少し気にはなったが、あの二人のことを心配する必要性は彼女にはなかった。なぜならお付きのものというのは自分の身も守れなければ、付き人になる意味がないからだ。それは彼女の中で静かな信頼の証となっている。 (うーん、会話に入れないのが少しさみしいですね) 改めて向き直ると、アスパラとチルドはサインが終わったのか、何やら気さくに話し合っている。先ほどのイメージが完全に払拭できたのか、アスパラも少しだけ笑っている。特に見ることもなかった彼女は、二人の会話に耳を割り込ませた。 「先生がこんなところにいるとは驚きでした。ここからは近いので、僕もう毎日ここに来ようかな」 「あはは、嬉しいんですけれども、僕は、いや、僕たちは旅をしている最中なので。ここには情報を得るために立ち寄った、という言い方の方が正しいですね。だから少ししたら、僕たちはまた移動しますよ」 「おや、それは残念」チルドは寂しそうに瞳を潤ませて、サインをもらった本をゆっくりと抱きかかえた。「どちらに向かう予定ですか?」 「うーん、今じゃほとんど御伽噺みたいに言われてる場所に行くんですけどね。グルメッカ、という場所です」 それを聞いた時に、チルドの瞳が裂けるほど大きく見開かれて、そのまま先ほどの険しい顔に戻った時、アスパラは何かいいようのない戦慄のようなものを感じて、思わず身構えた。いくら子供で、副業が物書きとはいえ、探検隊の本業は危険な場所への宝探しや人助けが主である。ギルドの掟に従いそれらの基本をしっかりと身に覚えたアスパラは、本能的な何かを感じ取った。それは暗黒の底辺から噴き上げる虚無や、人に対しての猜疑心や怒りなどが綯い交ぜになったような強烈な何かだった。その正体がわからないからこそ、アスパラは身構えた。それは彼女から感じたものなのか、それとも別の何かから感じたものなのか。 「グルメッカ……知ってますよ。幻の大陸と呼ばれた場所――御伽噺じゃない、本当の大地をね」 不意に、口の端を吊り上げてチルドはそういった。それはこちらの思考を試すような、あえて情報をちらつかせて、こちらの反応を見るような、獲物を狩る狩人のそれに似ていた。アスパラは体に走る戦慄を抑えながら、その言葉に乗った。 「本当ですか?――もし差支えがなければ、教えていただきたいのですが、私たちもその大陸を知っているというだけで、それ以外の情報はさっぱりなので」 チルドは張り付けた笑みを崩さないまま、テーブルの上に乗っていたベルを鳴らした。店員らしきビークインが飛んできて、チルドは底冷えするような表情から、先ほどの子供の笑顔へと張り替えて、メニューを開いて大きな声を出す。 「すみません、この蜂蜜のケーキ、三つください。追加でコーヒーを五杯分。ええと、砂糖はなくていいです」 かしこまりました。という声を出し、ビークインはゆっくりと飛んでいく。完全に姿が見えなくなったのを確認して、改めるようにチルドは向き直る。その顔には先ほどのような張り付いたものを感じることはなかった。 「そんなに身構えないでください、先生。ちょっとびっくりしただけですから。僕の知っていることなんて拙いものですが、それで先生のお役にたてるのなら、光栄です」 「……そう、ですか、いや、ごめんなさい」 アスパラは自分の行動を恥じて、椅子を引いてそこへふわりと体を寄せる。ゴーストタイプに椅子は必要ないが、気分的な問題だった。一瞬でも、チルドから湧きあがる何かに対して身構え、それが彼女という確信がないのに警戒を張り詰めた自分が恥ずかしくなり、頭をカリカリと掻いた。擦れた金属音が響いて、チルドは少しだけ口を歪ませた。 「まぁまぁ、お話が長くなりそうなので、一応何か食べようかなって。僕が奢りますから、食べなかったら僕が食べちゃいますけど。ええと、そっちの人もそれでいいですか?」 「……」 「ウルチさん?」 「……ええ、それでいいです」 ウルチは得体のしれない何かをチルドから感じ取り、ぎゅ、口を引き結んだ。いやな汗が背中を薙がれて、感じてはいけない何かを感じる。それが何なのかはわからないが、それを早くわからなければ、何か大変なことに繋がるようで、今こうしている状況がひどく安穏としていて、平穏の裏に隠された陰惨な部分を露呈したときにすべて終わってしまうのではないかと危惧した。 「大丈夫ですか?」 チルドの声ではっとして、ウルチは無意識に頭を下げる。大丈夫とはとても言えないが、とりたてた以上は感じられないので大丈夫だと思った。いや、思いこみたかった。 (考えすぎ……ですよね) ウルチが嫌なものを感じて身震いするのと、店員がたくさんのコーヒーを運んできたのは同時だった。 時たまにわからなくなる仲間の行動は、誰かが監視しなければいけないほど深刻なわけでもなく、かといっていきなり、唐突に突飛な行動を起こし、周りをきょとんとさせる様な行動を起こすのはどうだろうかと、彼女は考えた。それは確かに突飛で、いきなり大金を握らされて時間を潰しておいてくれなどと言われても、しわくちゃの紙幣を持って適当な喫茶店に入り込むと、そこでしばらく時間を潰すトリガラとガーリックの姿を視認したのか、ハッカクがひょいひょいと寄ってきて何をしているのか、と問いかける。そんなことをしているうちにいつもの顔馴染みが三人集まって、結局同じ顔が寄り集まる。確率の問題ではなく、ほぼ必然のようだった。まだであってそう時間はたっていないが、顔馴染みと思わせるには十分なほど、三人は顔を合わせてきた。 「おしょうさんは大丈夫なの」コーヒーを喉の奥に流し込みながら、トリガラは首を傾げた。「しばらく一人で考え事したいんだって、大丈夫でしょ。別に子供じゃないんだから」ハッカクはそういうと、とくにそれ以上言葉を吐き出すこともなく木の実のソテーにフォークを立てる。果汁が飛び散り、中のどろりとした部分が周りの野菜と絡み合う。しっかりと味の浸透したホウレンソウを口の中に放り込んで咀嚼する。 一連の動作を横目で見ていたガーリックは、彼の思う子どもという言葉を頭に思い浮かべてみる。ハッカクはほかの人物たちとそう打ち解けている方ではなかったが、おしょうとはよく話している印象を受けていた。それは誰がその現場を見たわけではない、こういうときと同じように、誰かと一緒になって話している時に、よく二人の声を耳にしていたという、そんな些細な会話の流れだったが、ガーリックはそれをよく頭に入れていた。入れるというよりは、自然と耳に入り込み、そのままそれを記憶しておいたような感覚だった。 (他愛ない話で、盛り上がってたっけか) 彼女と彼がどんな話で盛り上がっていたのかはあまり頭を働かせても思い起こすことができなかった。普段の私生活について語り合っていたのかもしれないし、もしかしたら他愛のない話で盛り上がっていたのかも知れない。 しかし、その中のどれをとっても、彼は彼女に心配そうにこう告げていたような気がした――食べ物は食べているか、と。 (食べ物を食べているかって、おかしいよね) 食事をとるということは、生き物として欠かせない行動のひとつ。ガーリックはそう考えて、少し首を傾けた。彼が見てきた仲間たちの行動の中、果たしておしょうは食事というものをとっていただろうか、そこに疑問が浮かんだ。彼女の料理を作るところは確かに多く見かけたかもしれないが、彼女が食事をとるところは、そう見かけただろうか、と思った。もしかしたら、ガーリックが見ていないだけかも知れなかったし、そもそも食事を同じ時間にとるわけでもないと思った。団欒の家族ならあり得ることだが、こちらは奇しくも数奇な運命とたどって集まったただの同じギルドの仲間たちという位置づけだ。特に何かを共同することに強制も共有もしないと思っていた。今の自分達がいい例だと、自嘲気味に笑う。 だが、少なくとも知っている者同士は共有するところがあるのだと、ガーリックは思っていた。彼の眼からはおしょうとハッカクは少なくとも何か一つ関わり合いを持ったものとして、そしてそれを知りあう者同士としての何かを共有しているようにも見えたし、少なくともその共有するものが何か一つの話題として口溢すほどに、親密になっていることも理解していた。それを人前にさらしても特に何の変化も示さないということは、二人の間だけで曝してもいい言葉と曝してはいけない言葉を使い分けているような感じがした。距離のようなものを感じる前に、それを使い分けていると錯覚した自分の頭がおかしいのかと一瞬だけ疑った。 そう思うのは、まだやはり打ち解けるほどの時間がたっていないのかと思ってしまった。ガーリックは己の心を打ち明けた目の前のサザンドラ、トリガラ・リングフープには自分のすべてを曝け出したことにより、打ち解けたのだと思った。トリガラがどう思っているかはわからないし、もしかしたら勝手な思い込みかもしれない、しかし、トリガラは特にそういう行動や言動に顔を顰めはするものの、邪険に扱うことはしなかった、彼はそれだけでも、きっとちゃんと自分のことを見てくれていると思った。それも一つの思い込みでしかないのかもしれないが、少なくともガーリック自身はそれを思い込みだと思っていても、邪険に扱われないということはトリガラとの間に溝ができているということはないと確信していた。 (そう言えば)ガーリックは小さめのピザを両手でしっかりとつかんで小さな口を目いっぱい大きくあけて、そのまま齧り付いた。トマトピューレの様に濃厚な味が口いっぱいに広がり、チーズと絡み合って、まろやかな口当たりがガーリックの口内で旨味を伝える。とろりととろけるチーズの風味が鼻まで伝わって、味の余韻に浸る。卓上に並べられた料理に視線を移しながら、これだけ注文してもおそらくあまるだろうと顔を顰めさせるトリガラを見て、口を忙しなく動かしながら苦笑いをした。(僕たちは、ある特定のペアでしか、話さないことが多いな) ガーリックは思考を働かせる。特定のペアとしか話さない。トリガラは自分としか話さない。おしょうはハッカクと話すことが多い、アスパラはニップとよく話をしていたような気がした。それぞれ誰と話そうが恐らく個人の勝手かもしれないが、打ち解けた、輪に入ったというにはあまりにも現実味を欠いてはいないだろうか。いくら仲間内だったとしても、仲間内でさらに絞られるようなグループ分けされたポケモン達と同じように会話をしているのは、打ち解けることとはほど遠いように思えた。事実、今現在ハッカクはコーヒーを啜りながら沈黙を保っている、とガーリックは彼を一瞥した。 [[挿絵3>http://pokestory.rejec.net/main/index.php?plugin=attach&pcmd=open&file=%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB%20%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E3%81%AE%E9%9D%A2%E5%AD%90.jpg&refer=%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB-%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%BE%E7%AB%A0-]] ハッカクは視線に気がついたのか、苦笑いを少しだけする。そのまますぐに視線を違う方向へ移してしまった。誰とも話したくないが、誰かのそばには居たいという気持ちを、ガーリックは理解したが、それはすなわち、ただおしょうが一人にしてほしいとだけ言ったわけではないのかも知れないと思った。 食べ終わった皿に残ったピザのかけらを口に放り込みながら、大においてあった紙ナプキンで口周りを拭う。トリガラは左右の口とパスタの引っ張り合いをしていた。本能で動く二つの頭は、自分が作ったものよりも美味しいものであると認識し、全て平らげたいと強い本能が働く。食欲には理性を必要としない、ただ舌の上で溶ける食材に旨味を感じるだけ。それを分かっているのか断として行動を止めようとはしない。 食事をしているから喋ること自体汚らしい行為と見てとる人もいる。それはもちろんだが、それ以上に食事中の会話というものに意味を感じる人もいる。食べて話す。礼儀作法がおかしいように見えるが、うまいものを食べてうまいと漏らすのは礼儀に違反しない。そのあたりの差異や語弊から食事中に会話をするという意識が生まれたのかも知れなかった。 ガーリックはいったん思考を元に戻す。食事中に話す相手が限定されているということは、統率というよりは、輪の中の個別に分けられたグループで繋がっているというのが正しいことになる。他の人とも話すかもしれないが、進路の確認や、水分補給の有無などを少ない口数で伝達するくらいだと思った。言葉が少なく交わされる上に、他愛のない話ではなく、あくまで雑務的な会話しかこなさない。それが必要であるからであり、もし必要なければ話すことなどしないかもしれない。多少の会話がある時もあるが、すぐに途切れて消えて無くなる。最初にアスパラと会話した時がそうだったように。 (でも、おしょうさんは)ガーリックは思い直す。彼女はどんな時でも律を持とうと、誰でも気さくに話しかけてきた。どんな相手でも物おじをしなかった。柔和な顔をして話しかけてくれる裏に、どれだけの勇気とそれに伴う行動力があっただろうか。そう考えると、彼女はリーダーとしての役割をしっかりとになって、責任とともに行動を起こしているようにもみえた。(……想像)想像をしてみると不思議だった。押しが弱そうに見えるおしょうが、一番仲間のために奔走しているのだ。自由行動にするという言葉も、裏を返せばゆっくりと考える時間が必要なのではないかと、大切な話を夜にすると言ったが、夜が来れば、また一つの塊を統率するリーダーという仮面をかぶることになる。 彼女はそれが耐えられないのかも知れないと思ったし、自分でもきっと耐えられるわけがないと思っていた。結論を先急ぎにするような性格には見えないが、彼女は彼女で、一人で考えたい時があるのかも知れない。仲間の輪から外れ、一人の時が、恐らく彼女がチームリーダーという仮面を取り払い、おしょうという一つの人物像を作り上げるに至るのだろう。その時が、彼女が何かを考える時かもしれない。好んで一人を選ぶのではなく、皆のために一人になって考える。そんな姿を見れば、いかにもろく壊れやすいことか、と、そこまで考えて、ガーリックは苦笑した。 「何か面白いことでもあった?」 トリガラの言葉に、ガーリックはいいや、と言葉を濁す。 「おしょうさんって、すごいよね」そういうと、ハッカクが興味深そうに耳を傾ける。ちびちびと胃の中に押し込んだコーヒーの量が、半分くらいに減っていた。「僕たちさ、同じ人としか会話しないじゃない、どんな時でもどんな場所でも、それってグループの輪の中で、一つの固定概念みたいに出来上がってる節があると思う。ハッカクはおしょうさんとしか話さないし、僕はトリガラと話すことが多いじゃない、ニップとアスパラはよく一緒にいるけどさ、そういう形式上のグループが、勝手に出来上がってるような感じがしない。それでもさ、そんな形式上のグループの中で、全員と対話を試みようっていう気持ちが、おしょうさんから伝わってくるじゃない。ちゃんとまとめてくれて、ちゃんとみんなのことを見ててくれる。話上手で、聞き上手。リーダーだからそういう風に取り繕ってるかもしれないけどさ、その取り繕った自分を曝け出して、壊れない人物像をみんなの前で堂々と律することができる、自分を御して、自分の思いを閉じ込めてる。それは私情をしまって、皆の前ではちゃんと統率のまとめ役でありたいっていう気持ちを強く持ってる気がするんだ。そんな風にリーダーをリーダーらしくできるおしょうさんは、やっぱりリーダーに相応しいんだなってね、トリガラと一緒にご飯食べててそう思ったの。それだけ」やや早口に捲し立てると、残ったポテトサラダをスプーンで多めにすくい上げると、口をあけて頬いっぱいに咀嚼した。食べながらポテトの風味と少しの香辛料の刺激にキュウリとトマトが絡み合って、まろやかな味が口の中に留まる。 「うーん、おいしい。トマトときゅうりが絡み合って、ポテトがそれを引き立てる。料理を食べてる時は、みんながみんな、楽しく食べられることが一番幸せだね」 ガーリックの言葉に、トリガラは頷いた。ハッカクも多少何考え込むような顔はしたが、頷くような仕草は見せた。 「ちょっと躊躇したでしょ、ハッカク」 「まぁね」それを隠すこともなくハッカクは温いコーヒーを一気に胃の中に押し込んで、ガーリックが手を出したサラダの横にあるカボチャのケーキを手にとり、フォークを突き立てた。かちりと打ち鳴らす金属音を耳にして、ハッカクは乱暴にケーキに食いついた。「そういうのは違うって思ったけど、以前それのせいでガーリックたちに、仲間に迷惑かけちゃったからね、自分が間違えたことを繰り返すほど僕は物忘れが激しくなんてないさ」 生クリームを指ですくい、舐める。指ごと舐るように口の中に入れて、ゆっくりと出す。唾液が尾を引いて、ぽとりと机の上に落ち、粘り気のある水滴を作り出す。 「ハッカクって、僕たちと旅をし始めた頃は、ご飯流してたりしてたもんね。すごくもったいないって思って、すごく罰あたりだなーって思ったなぁ」 「気づいてたのか」 「あれだけ残ってる料理持ったままどっかに言ったのなら、そりゃ気づくさ。ご飯持ったままトイレ行くとか汚いしね」 違いない、とハッカクも苦笑交じりに言葉を返した。 「あの時はね、食事に嫌悪感みたいなものを感じていたんだ、どうにも食べれないっていうか、体が受け付けないって思った。その割にはおしょうさんには食事とってるかって聞いちゃってたから、言葉に身がともってなかったような気がする」 「連帯意識共有みたいなもの?」 「それに近しいものは感じてた、勝手にだけど」ハッカクは自嘲気味に笑うと、残りのケーキを口の中に押し込んで、少し待てと手で合図をする。口の中でもごもごと蠢き、咀嚼して喉の奥に押し込んだ。「うん、ごめん、続きだけど、おしょうさんも食事取ってなかったから。あまり、だけど……どうにも自分と似たような感じがして、心配しちゃうんだよね、余計なことかもしれないし、おしょうさんっておにぎり一個食べればいいっていうくらい燃費いいらしいけど、嘘だよね」 「おにぎり一個!?」 「なにそれぇ、私おにぎり一個じゃ生きていけない」 ガーリックは驚いて、飲み込んだものを詰まらせて、慌てて胸を叩く。トリガラも取り合っていたスパゲティをほとんど左右の頭に持っていかれていた。驚きと驚愕、食事をとってないと思っていた彼女は、おにぎり一つという奴隷のような食事量であれだけ行動をしていたのかと思うと、開いた口が塞がらなかった。 「おしょうさん、莫迦?」ガーリックは思わずそんな言葉を口走る。「莫迦っていうか、自分の体を虐めて、即身仏になっちゃうよ……」トリガラも何か間違っているような顔をした。確かに間違っているし、非効率的だ。自分の体を即身仏に近づけるような行為をしてまで。彼女は――おしょう・とうろうは何がしたいのだろうと二人は顔を見合せながら食事をとり続ける。おおよそ燃費が悪そうだと二人を見てハッカクは笑った。 「そうだよね、さっき二人でいたときも、それとない話になったらさ、一人にしてくれ、疲れてるからって言われた」 やっぱり、とガーリックは一つ自分の思案していた事柄が当てはまったことにくすりと微笑んだ。憶測で言ったことが当たるということほど、滅多なことはないと思っていたが、少なくともこんな風に思って、どんなふうに行動を起こしたかの先読みくらいはできるもので、それがわかった時にちょっとした満足感が支配する。ガーリックの微笑みとは対照的に、トリガラは何やら訝しむような瞳をハッカクに向けて、押し黙る。 「……」 沈黙が滑るなか、ハッカクは唐突に、一つ昔を懐かしむように、何かを語り出した。 「おしょうさんは大丈夫って言っているかもしれないけれどさ、やっぱりおにぎり一個しか食べられないのって、あの時のことがまだ、彼女の心を引きずってるんじゃないのかなって――」 あの時のこと、それが何なのかを詳しく聞く前に。日常ではまず聞かない音を耳にして。三人の意識が全てそちらに向いた。轟音、土埃が舞いあがり、悲鳴と怒号が遠くから耳に入ってくる。何事、と思う前に、そちらの方角を見て、二人は顔を見合わせた。 「ニップが走って行った方角だ」 「――え?」 食事をとっていてすっかり忘れていたが、一つ空いた空席にはしっかりと、その存在を主張するようにウインナーコーヒーがおかれていた。誰がいつ注文したのかはわからないが、ニップのほしいものをしっかりとくみ取っていたのだと、トリガラは不思議な気分になると同時に、音のした方角へと切迫した思いが走った。右の頭でウインナーコーヒーを掴むと、左の頭に流し込む。ほとんど冷めきったそれはぬるりとした甘さが広がって、左の頭が少し顔を顰めた。それが神経を通して本体であるトリガラも少しだけ甘ったるい味が口に広がって、思わず口を窄めた。 「よくこんなもの飲みたいって思ったなぁ」 ぼやきながら、ふわりと浮かび、ガーリックとハッカクを抱え込むと、六枚の羽根を大きくはばたかせる、浮き上がる浮遊感と、加速の風が体に吹きつける。強く埃を舞いあげながら、代金の紙幣を皿の下において、トリガラ達は市街を疾走した。 土煙で煙幕が張られたそこに降り立つと、それは信じられない光景のようだった。膝をつくものは紫、武器を構え、見下ろすように視線を移すものは水色―― 「え?なんで――」 「……」 「おしょうさん……ニップ」 血塗れになり、肩で息をするニップとは対照的に、おしょうは呼吸一つ乱すことはなかった。瞳孔が収縮し、濁った瞳は焦点をとらえていない。まるで死人のような雰囲気をまき散らしながら、おしょうは呪い事を呟くように口からドロドロとした言葉を吐き出す。 「ニップ、バルカンを殺した化け物……今ここで、――死ね」 「……」 それに対する返答はない、ニップは悲しげな双眸を燻らせて、ただ息を整えるだけ。その姿の、何と脆く、崩れやすいことか。ガーリックもトリガラも、ただ呆然と立ち尽くした。その光景はあまりにも非日常で、その光景はあまりにも漠然としていた。その光景は―― ――味方が味方を、攻撃していたのだから。 子供の頃はよく草原に出かけておにぎりを作って食べていた。それが誰と食べるかなど、幼い彼女には見当もつかなかった。ただただ、草原でおにぎりを食べるのが好きだった。周りの景色も、深く覆う雲の動きも、そこから切れ切れに見える陽光も、何もかもが素敵で、何もかもが新鮮だった。彼女の子供時代は、美味しい空気や素晴らしい緑に包まれて、少なくとも不自由という文字はなかったように見えた。 何も変わらないと思ったその景色に変化が訪れたのは、バルカン・レッドスワローが現れたからだった。彼女は彼と友達になり、長い人生の中で、友人といえるものに出会った。 彼は何をするにしても前向きで、後ろ向きな自分を後ろから押し、夢を語る語り部となり、行動で示す男気の溢れる人物であり、自分がしたいことをはっきりと言える決まりのいい性格でもあった。夢を語るだけでなく、それに向かうために邁進する努力を惜しまない。そしてそれに見合う実力をしっかりと身につける。まさに理想の男性と呼べるものだった。おしょうはそんな彼を見て、自分も変われるだろうかと思った。それは願いよりも羨望、願望、理想とする人物への崇拝的な要素が強かった。彼は何を思い、何を考えたのか、いつか大きな冒険をしたいと言った。ギルドに弟子入りし、自分の夢と目標を叶えたいとも言っていた。彼の夢とは何だったのか、おしょうはそれを子供の幼いころに聞いたことがあったが、それが何なのかは忘れてしまった。律儀に懇切丁寧に話してくれたので、大まかには覚えてはいるが、それ以上の情報の蓄積に、古い部分からゆっくりと切り離されるように忘れていった。 彼が何を言っていのかをおしょうは必死に思い出そうとする。しかし思い出せば思い出すほど、記憶の中の彼は血を吐き、鮮血を地にまき散らす。嗚咽と咳の混ざった擦れた様な声を出す彼の姿を視界が覗きこみ、自分の体も芯から燃えるような激痛を伴い、同じように血反吐を吐いた。ぼやけ、滲む視界の中で無念の表情と苦悶の声を上げ、彼は逝った。逝ってしまったという表現の方が正しいのかもしれない。それを齎したのは誰だったのか、それを思い起こすたびに、自分の所為ではないんじゃないかという疑念が頭を過る。おしょうはそれだけは考えたくないと思っていても、いつもそれだけを考える。無意識に自分がやってしまったという思いが、彼女の心を苛んだ。 「バルカン――」 目を覚ますと、涙のつたう跡ができていた。自分の所為ではない、自分がやったわけではない。そう言い聞かせてこの夢をみると、いつも寝た後に自分は罪の意識で涙を流す。上半身を起こして生乾きの顔をこすり、涙の跡を消す。 「いつもこんな夢ばっかり」 「魘されているのは夢の所為か、それともそれは夢じゃなかったか」 ふと後ろから声がして、おしょうはぎょっと背中を凍らせた。ドアにしっかりと閂をかけておいたにも関わらず、誰かが入ってきていたという形跡を気づくこともなく、ただただ眠りこけていた愚かな自分自身を内心で毒づきながら、ゆっくりと腰のホタチに手を伸ばした。 「いきなり攻撃かぁ、友達の顔を忘れるなんてひどいなぁ」 その声は嫌に懐かしく聞こえた様な気がした。思い起こすような意識とともに、ゆっくりと警戒心が消えていく。背中越しに聞こえる声は懐かしくも恐ろしく、何か別の部分から声を震わせているような――そんな印象をおしょうの脳に告げる。 「私たちは友達、でしょ?おしょうさん」 「……フラッドさん」 「そうだよ」フラッドはゆっくりと身を翻し、首周りのひれを右手でいじる。彼女の癖のようなものだった。なぜそんな昔の彼女を覚えているのだろうと、おしょうは心がざわつくのを感じ、ベッドから反射的に身をはね起こし。半歩後ずさった。「おしょうさんの昔の友達、フラッド・ウェンズデイじゃない。おしょうさんはミジュマルの頃から私と一緒だったのに、覚えてないなんてひどいなぁ」 「久しぶりですね……フラッドさん」 ぎこちない口から、ごく普通の挨拶が飛び交わされる。何を言っているんだと思いながらも。彼女は付け加えた「閂をかけておいたはずですが、不法侵入ですか?」 「おやまぁ、不法侵入だなんて、カギは開いてたよ。ノックしても返事がなかったから勝手に入っていいかなって思ったんだけどね、でもなんだか取り込み中って言うよりは、寝てたみたいだったからね」 閂をかけてなかったと主張して笑う彼女を見て、背筋に寒いものが走り抜けた。晒を撒いたはずの後ろ傷が滲むような感触がして、嫌な汗が背中を伝い、宿の安張りの木目の床に吸い込まれる。 「私……かけ忘れるなんて……」 「かけてなかったんだもの」くっく、と笑う。フラッドはひれをいじりながら、ゆっくりとおしょうに近づく。「こないでください」無意識に声を出すのは、彼女を恐れているのではないと、おしょうは必死に自分に言い聞かせた。彼女を恐れているのではなく、彼女の持っている何か一つおかしな雰囲気を恐れているのだと。「怖がらないで」フラッドは言うが早いか、おしょうの後ろに回り込み、ゆっくりと背中から抱きしめる。「何もしないよ、ほら、ゆっくりベッドに体を預けて」 言われるがままにゆっくりと体を預け、互いに顔を見合せたまま横倒しになる。彼女に敵意はないというのが、体温の緊張を通して伝わってくることに、おしょうは疑いの心や恐怖の念を抱いた自分が恥ずかしくなった。 (何を怯えていたんだろう) そう思ってしまうほどに、今の彼女の姿は滑稽に映っていた。 「落ち着いた?」 「うん」 「そう、よかった」 フラッドは笑うと、ゆっくりとおしょうにまかれた晒を解いていく。おしょうは緊張と興奮の中、か細い声で呟いた。 「だ、ダメだよ……傷が」 「治してあげようか?私が?」 「――え?」 フラッドの顔はよく見えなかった。暗い影を落とし、口元は嫌に吊り上がっていたような気もした。笑っているのか、憐れんでいるのか、それとも、ぶしつけな訪問に対して謝罪をしているのか、それがわからなかったけれども、息と頬の紅潮具合で、多少緊張していることくらいはわかった。何をするのだろうという想いよりも早く、晒が取り払われて、膨らみかけた乳房と背中のおぞましい蚯蚓腫れが露わになった。 「これをつけたのは、誰だろうね」フラッドは悲しげな声でそう呟いた。ゆっくりと丸い指先を背中の骨筋に合わせられて、おしょうはわけもなく緊張した。部屋の中に籠った熱気と、嫌に緊張する気分が混ざり合って、荒い呼吸をし始める自分がいた。それに気がつくと、フラッドは何やら神妙な趣きで、笑った。「緊張……してる?」 口の端を吊り上げたフラッドとは対極的に、極限状態のようにおしょうは小さく頷いた。何かの合図のような息継ぎの音が聞こえて、ぷにぷにとしたシャワーズ特融の肌がゆっくりとなぞるように背中を這っていく。 「――ぅあ」 柄にもなく緊張して声を出してしまう。自分は何をやっているだろうと思っていても、結局はそんなこと自体がどうでもよくなってしまうような気がしてならなかった。ぴくり、と大きく背中がのけぞる。ざらつく舌の感触が傷口にしみ込んで、少しだけ苦痛に顔を歪ませる。フラッドはそのまま傷口をなぞるようにゆるりと舐めあげる。外から聞こえる喧しい声や砂ぼこりの乾いた音に混ざる、湿った嬌声。自分があげているものだと気づくには、おしょうの意識は別の部分に行きかけていた。 (フラッドさんは――どうしてここに) それは今一番の疑問であり、なぜ彼女が今さら、自分のもとを訪れたのだろうか、という思いが張り巡らされる。意識を考えていても、体は彼女の治癒と称した触診行為に、甘美な声と蕩けるような反応を起こしているのみだった。傷をなぞられているというのに、体は驚喜の反応を示す。不文律、不理解、さまざまな言葉が頭の中で飛び交い、ぶつかって砕け散る。 (いまさら……私に出会って何をしようというのでしょう……) 彼女の心が考えていることはそれではあった。おしょうとフラッドが面識したのは、もうずいぶんと昔のことのようだとおしょうは思っていた。自分で思ったことほどに、自分でいつぐらいかすら覚えていない。それがいつだったのか、どのような季節だったのか、それすら覚えていなかった。ただ、彼女と会ったときは、自分はフタチマルに進化していたような気がした。それだけは鮮明に覚えていた。そして決まったようにフラッドとは、なぜか見上げるような形で別れを告げているような思い出が過る。 (私の記憶も、昔の思いを取り戻したくなくて、忘れてしまった方がいいのかもしれませんね) おしょうはフラッドと一緒にいたときに、自分の姿がミジュマルのころから、彼女とは付き合っていたことも覚えていたような気がした。果たして進化前に彼女と出会ったのか、進化後に彼女と出会ったのか、彼女の口からはミジュマルの時からと語られていたために、恐らくは前者なのだろうと、そう思った。 (私に再開して――彼女は何をしたいのでしょうか?) おしょうは微量に与えられる痛みと快楽の中、ゆっくりとそんなことを思っていた。最後に彼女とあった時、おしょうは確かに事件に接触し、つらい過去を経験した。その時から彼女とも会わなくなり、結局思い出の中で強い印象として残る程度で終わった。それだけの存在であったはずだった。友達として付き合いもしたし、会話もそれなりにしていたのかもしれない。バルカンほど親密な交流があったわけではなかったが、おしょうは少なくともフラッドをないがしろにした覚えはなかった。 「あっ……フラッド……さんっ」 喘いだ声を上げながらも、おしょうは弱くシーツを握り込んで、潤んだ双眸にフラッドの姿を移す。フラッドの顔はやはり陰っていてよくは見えなかったが、少なくとも何か一つの事柄に対して悪意のあるような顔ではなかった。そう思わせるのは、彼女の顔が陰っていることが、何より恐ろしいからなのだろうか……そう思いながらも。おしょうは声を絞り出す。 「な……なん……でっ……私の前に……またっ――今まで、なにをしてぇっ」 「おしょうさんが人として磨滅したって聞いたから、本当に死んだのかと思ったの」 何の気なしに紡ぐように、彼女の口からは信じられないような言葉が吐き出される。ゆるりと紡がれる言葉に混ざる湿った粘着質な音、おしょうに混ざりあう荒い吐息。恍惚の声が漏れ、おしょうは何をされているのかすらわからなくなってきた。 「私は信じられなかったよ、友達がそんな風になるなんて思いもしなかったからね。あの時のこと、思い出したくないけど、君の事だから頑張って思い出したよ……」 「わ、私――思い出したくても」 「思い出せないんだよね……記憶って言うのは厳粛に包まれている感じがするね、巌のようなものが外壁となって、嫌なことを封印する。固くて黒くて、しっとりとしてごつごつとしたものが、嫌なものに蓋をする。おしょうさんは思い出したくなくても、思い出すと疲れちゃうんじゃない」 「それでも……夢で私は――バルカンを殺した……」 「それは、錯覚さ」フラッドはおしょうの傷口を舐め終えると、自身の指先を押し当てて、なぞる。蚯蚓腫れの引っ掛かりのようなものが消えて、つう、と滑る感触に、嫌が応にも背筋をそらせて反応し、興奮と快楽、そして驚愕が綯い交ぜになる。 「傷が……」 「もう消えたよ。嫌な膿は、消さないとね……この傷、だれに付けられたかわからないけど、ひどいことをするもんだね」 「……」 おしょうは沈黙した。背中の傷は誰がつけたんだろうか、消えないような滲みと、心を蝕むような痛みがずっと続くことを願ったものの、悪意のある一撃。何時からついていたのかわからない。恐らくフタチマルになってからこんな傷が大仰に現れたのだろう。晒を巻いている理由も、それが傷を隠すためだと誰かに言わなければ、趣味や仮装目的で巻いていると思われる。しかし後ろに滲む赤黒いものを見れば、仲間たちやギルドの同僚たちは黙り込む。これはひどいという言葉すらかけることを躊躇い、腫物を扱うように彼女を見続けるだけだった。そのことからだったのか、同僚たちは傷について触れることはなくなった。以前のように接してくれることが嬉しくもあり、同時に申し訳なくもあった。おしょうは薄々思ってはいた。この傷が、自分の周りを遠ざける間接的な原因になっているのだと。 (もしそうなら、私は傷を付けた人を許せない) おしょうはそう思っても、昔の記憶すら曖昧模糊の暗黒に投げうっており、自分自身で記憶を拾い集めることなど不可能に近かった。その気持ちの沈みを感じ取ったのか、フラッドは笑い、首周りのひれをいじる。 「傷を付けた犯人を知りたいっていう顔をしてるね」 「……」 「教えてあげようか?私は、あの時のことを思い出したの。ショックで忘れたかったけど、決着はつけないといけないから。私は少なくともそう思うよ」 口から軽々しく、自分が思い出せもしないことを、あの時居合わせていたかどうかも分からない彼女の口から出たことがおしょうには耳を疑う発言だった。その言葉の信憑性を探るよりも早く、フラッドはに、と口の端を吊り上げた。 「信憑性がないって顔してるね。もちろん、何の脈絡も理由もなくこんなこと言ってるわけじゃないよ……君は僕で、僕は君……お互いずっと一緒にいたんだもの、子供のころからの、友達――でしょう?」 「フラッドさん……」 「心配しないでいいよ、僕は教えるだけ、決着として諸手を緋に染めるのは君の役目だ。見つけたら逃がしてはいけないよ、追いかけて追いかけて――追い詰めるんだ」 「――言われなくても、わかってます」 口からごく自然にそんな言葉が出た、そのことを恐れるよりも、歓喜の思いが腹の底からわき上がることが、自分は恐ろしく思わなければいけなかったのにと――そんな事すらも、おしょうの心は忘れている。人を思う気持ちが鈍麻し、手掛かりをつかんだという情報に心躍らせる。おしょうの心は、無となり宙を舞った。 「それで――」 「ちゃんと話すよ。だけど今くらいは、君とこうして触れあいたいな……昔はよく触りっこしてたじゃないか」 そんな昔にそんなことをしていただろうか、と思うよりも先に、膨らみかけたものにフラッドの手が伸び、やんわりと揉みしだく。かすかに体が反応して、冷めかけた熱気と興奮が戻ってくる。 「――あまり、激しく触らないでくださいね」 「もちろん」フラッドは明るく笑う。触れられること自体に抵抗していたおしょうの口からその言葉が聞くことができることが、よほど心に打つものがあったのか。満面の笑みを張り付けた。「私はそんなひどいことしないよ。おしょうさんだもの、久しぶりに会えた再会を、貴方の存在を確かめさせて。――くすっ」 最後に笑った彼女の――どうしようもないくらいの不気味な顔に、少しだけ身震いをした。なぜそんなにも怖いのか、なぜそんな顔をするのか。おしょうはゆっくりと体を触れあわせながら、そんなことを考えた。 話しかけてみると案外、チルド・サタデイは気さくな人物であった。誰とでも同じように話すようなその仕草が、ウルチにも伝わったのか、体した会話もしてないのに、すぐに打ち解けてしまった。しこりが少しだけ残ることが妙に気になったのだが、そんなことはあまりに些細な事だと、ウルチは三人で混ざり込み、幻じゃない御伽噺の大陸の話に耳を傾け、考察を述べていた。 その奇妙な音を聞いたときは、三人でそんな他愛のない話をしていた時だった。街の至る所で慌ただしく人が移動していた。人々は耳から情報を注ぎこまれると、それが零れ出ないように小走りに歩き、たどり着いた先で内圧でもって弾けるようにしてから吐き出す。にも関わらず、ランチを取りながら何の気なしに会話をしていた三人の中で、チルドがその異常に気づいたように、口を止めて何事かと尋ねる、しかしそれに対しては何か言い淀むように、ぴたりと口を閉ざすような感じがして。積極的に口を開いたのは、店の会計係だったバタフリー唯一人だった。 「向こう側で暴動が起きているようで、何か悪い喧騒事でなければいいのですが……」 「悪い喧騒事ですか」 受付の声にウルチは身を乗り出すと、アスパラはきっぱりと土煙が他よりも巻き上がっている方角に目をやった。 「あの方角ですか……何か悪いことでも起きなければいいんですけどね」 「悪いことというものは、得てして必ず嫌な方向へ当たるものですよ、アスパラ先生」 そういうことを言わないでくださいよ、とアスパラは苦笑したが、行こうとした動きを止めるチルドの手を話そうと思ったが、チルドはそれを話してくれることはなかった。どうして放してくれないのだろうか、事態をこの目で見届けたいのに。 「悪いことが起こります。先生はきっとその事態に飲み込まれます」 「……予見ですか?」 そういうわけではありませんとチルドは笑う。氷が張り付いたような笑み、その奥に秘められた忠告に、誰でもないウルチがなぜか身を震わせた。 「予見ではありませんよ……事実の先読みです」チルドの言葉にアスパラは何か嫌なものを感じ取ったように身を震わせた。それが嫌だと思う思わない、その前にウルチが口を開いた。「私も見に行くことをあまり賛成はしません、野次馬というものはいつだって、騒動の中心地で無為に害を散らす存在です」 傍らで声をかけられて、アスパラは眉根を寄せた。もし騒動の中心に仲間たちが絡んでいたら、と思えば思うほどに、他人事では済まされないような気がしているから。パラソルの下から身を出すと、日差しがゆっくりと冷めたアスパラの体を炙り始める。日差しの眩しさに目を細め、それでもと何か後ろ髪を引くような思いで土煙が立ち上る場所を眺める。チルドはそんなアスパラの手をいつまでもつかんで離さない。そのことにもどかしさを感じ、嫌なものを見るような顔をすることもできずに、アスパラは進退極ってしまう。 「チルドさんの言うとおりにして、一度身を落ち着かせてはいかがでしょうか……予見――ではなくて、事実だとしたら、アスパラさんに害が及びます」 「ウルチさんの言う通りです。僕は先生の本が大好きです。先生が僕にグルメッカのことを聞いたのも、恐らく次の本の題材的なものだと思い、お話をしたのです。嘘偽りのないグルメッカの大陸。その全てを――冒険心を忘れない先生の興味関心、好奇心行動力は素晴らしいものです。ですが、我が身を省みないのは愚かものの行動だとは思いませんか?」 ウルチとチルドに板挟みのようにまくし立てられて、アスパラは寄る辺を亡くし委縮する。こういう時に限って、自分は何か物事をはっきりと申し立てることができない性格だと嫌な気分にもなった。アスパラの体に伝う汗を、ハンカチで拭いながら、チルドは元の席に座らせた。 「先生、続きを話しましょう」 「アスパラさん、一度気を抑えてください」 先ほどまで、警戒心を強めていた自分とは思えないほどだと、ウルチは思った。しゃべっているうちにあまりそういうことを考えなくなったどころか、チルドもアスパラと同じように、外面的な部分でものを見る性格ではないということがわかると、自然と会話が進んだ。興味関心も同じような方向性が高く、中々に結託できる部分もあり、数分会話をするだけで打ち解けられるとは思ってもみなかったとウルチは思う。それでも、まだ違和感のようなものをぬぐい去ることができずに、その部分だけをウルチはチルドに申し訳ないと思い続けた。 「二人とも……意地悪ですね」 「え?」 「いじわる?」 「目の前に起こっている出来事に、行くなという、今、目の前にあるというのに、なぜそれがいけないことなのですか?」 口早に捲し立てる言葉に、ウルチとチルドはびくりと身を固まらせた。好奇心や興味で言葉を紡いでいた先ほどのアスパラとは違う、何か強い巌のような顔をした彼のその姿を見て、何か一つ違うものを感じ、口から出かかった言葉をウルチは呑み込んだ。 「チルドさんのお話はとても嬉しかったです。夢幻のような出来事を事細かに語ってくれる貴方の心には本当に優しさがありました。ウルチさんも、いろいろな考察を交えてくれて、おかげで一つ物語が書けそうなほどに情報は集まりました。それは興味や好奇心を満たすのに十分なほどでしょう。ですが、今二人が行っていることは、意思の拘束ではないのですか?」 それは、とウルチは言葉を詰まらせて、救いを求めるようにチルドの方に目を配らせた。チルドも何を言えばいいのかわからずに、申し訳ないといった風情で首を振るばかり。 「僕は、自分の身に危険が降りかかったとしても、何か自分たちに関連性のある事柄だと思うと、見過ごすことはできません。街に来た旅のもの、こんな暴動が起こるなんて、そういうのにはうってつけの存在が僕たちという存在です、それ以外に、考えられない」 騒動の原因は自分にあるものだと信じて疑わない彼の思考を垣間見たような気分になり、ウルチはすっかりその気に入り込んで舞いあがっているアスパラを見て困った顔をすることしかできなかった。自分自身でそこまで考え込んでしまうと、ある意味凄まじい妄想壁の類のようなものだと、ウルチはうんざりとした目を泳がせるしかなかった。彼女の心はどこでもない中立的な立場であり、関係がないことには首を突っ込まない方が賢明な判断だとそう告げている。そしてそれはチルドも同様に思うところがあったのだろう。その二人の意見を押しのけて、自分の我を通そうとする彼の姿は、欲望に囚われているという感じがしないでもなかった。彼の責任感の強さや好奇心も、一歩間違えれば欲望にすり替わる。それがわかっているからこそ、ウルチとチルドは切り替えのわからない部分に対してうんざりとした視線を送ることしかできなかった。数日間も一緒にいたわけでもないのに、彼の半分がわかったような気もして、それでもやはり心配だから放っておけないという感じ、彼女達の心は心配という一つの点で結託していた。 ふと何の気なしに煙の上がった方向とは逆の方へ、チルドは目を向けた。彼女の耳にはなにやらアスパラの心意気のような言葉が届いているような気がしないでもなかったが、それはすべてウルチに任せ、ゆるりと伸びる雲を見上げ、サンドイッチをほうばる。アスパラが何かを物申していたようだったが、ウルチがそれを窘める。下水道から流れる水の音を聞いて、稜線が炙る山の深い緑を見つめる。集団で密着し、こもった熱気に軽く辟易しながら、自分が氷であるということを自覚しながら、濃い緑を双眸に移しながら、深く息を吸う。 「先生」 チルドは振り返り、アスパラを呼ぶ。心の中では決まっているが、どうも踏ん切りがつかない、彼はその資格を得るのだろうか、果たして本当に大丈夫なのか、それが一番心配だった。それだけだ。自身の好きだと思う作者の心、夢を求め、好奇心と知的興味で動き回る作家のランプラー。心が、体よりも成長を求めている。彼の心が、本当にそれを求めているのか、それがわからなければ、これを渡すことに抵抗ができる――そう思っても、彼の意思の灯った瞳は簡単に燃え尽きそうな感じはしなかった。 (先生もやっぱり、冒険者なんですね) 言えばぼろが出るものの、言わなくても結局はわかってしまう。感情はないに等しいが、自分の興味には顕著に表れる。こういうところは、変わることができなかった。それを今どれほど悔やむことか、さもしい想いが駆け巡るのを感じながら、チルドはゆっくりと下に置いてあるポーチから一つの石を取り出す。 「……これは?」 「もしも先生の身に降りかかる出来事があるのなら、この石を身につけ、強く念じてください。闇に自分を同化せよと」 含みのある者いいで、チルドは問答無用といった風情で、石に空いていた小さな穴にひもを通すと、ゆっくりとアスパラにかける。その石は光が届かない真っ暗な何かを連想させるようで、霊体であるアスパラもその石を見ることに対しては何かの抵抗を示したくなった。 「お守りです。どうしても行かれるようですし、止められません」 「チルドさんは?」 事情を分かってくれたことへの安堵と、彼女の行動の是非を問うと、チルドは首を横に振った。「ここでお別れです。短い間でしたが、先生とウルチさんとお話できて、楽しかったですよ」 「そうですか、では、また会いましょう」 「ええ、さよなら、ウルチさん、頼みますね」 「わかりました」 また会いましょうという言葉に対しては、さよならと返す。それは一つの決別であり、その姿をした彼とはもう会わないという思いへの必然性を混ぜた言葉だったのかもしれない。それがアスパラに届いたかどうかは、本当にわからない。心が綯い交ぜになる様にぼやけ、霞んで消える。礼を言いながら小走りに立ち去っていくアスパラとウルチを見送りながら、後ろの観葉樹に身を隠していた存在に話しかける。 「サーズデイ」 「はぁい、サタデイ」 フォレス・サーズデイは草葉の陰から身を乗り出し、自慢の萌黄色の頭の葉を揺らす。塗りこまれた深緑の耳は、ぴくぴくと動いて、先ほどの二人の様子を遠目で観察をしながら、消えた後に現れているということだった。 「のぞき見」 「気まぐれさ」言葉を短く切って、フォレスは笑った。「言葉は気まぐれ、行動も気まぐれ、日々研磨されていくものさ、僕は気まぐれにここにきて、気まぐれに君達の様子を覗っていたんだ。嘘ついてまで、あのランプラーと戦いたくないんだね。いいねそれ、気まぐれだよ」 「悪い気まぐれではないと思うけど、少なくともいい気まぐれとも言い難いんじゃないかな、僕たちにとっては」 「でも君は、行動欲と興味欲にかられて、本を読み漁った。ゲームもいっぱい知ってるし、僕もそのゲームのルーラーのひとりさ。そのきっかけをくれたのは君だからね」 「先生とウルチさんは、ゲームにかけないでよ」 「大丈夫大丈夫、彼らのことは君に任せるよ。どのように転んでも、気まぐれ気まぐれ。風吹くままさ」 曲芸師のようなどっちつかずな飄々とした態度、煮え切らないものを感じながら、チルドはため息を吐いた。姿が見えなくなってしまったとしても、気配くらいはわかる。明滅する弱い気配に、強く強く光るおぞましい気配。 「……ウェンズデイ」 「彼女の心配ならいらないさ、彼女は死なない、僕たちも死なない、そう、僕達の弱いものをつかれない限りね。大丈夫さ」 「生死の安否よりも、洗脳したポケモンの安否の方が気がかりね」 「……謀反かい?」 「先生を殺しちゃいそうだもの、嫌だよ僕はそんなの」 「でも君はきっかけを与えたじゃないか」 「きっかけだけだよ」 他愛のない会話が流れるような風情で、不可思議な言葉の羅列が流れる。それは言葉としての意味をもっているのか、それとも言葉一つ一つに意味があるのか、それがわからなくて、ただただ不思議なものを見るような顔をするばかり。それに気がついたのか、サーズデイも何やら不思議そうな顔をする。 「君がそんな顔をするなんて、あのランプと御嬢さんは、本当に興味があるポケモンだったってことかな……いいことだね、気まぐれに人を選び、気まぐれに興味を移す」 「悪いことでもいいことでも、どちらでもいいです」 「そんな冷たいことを言って、心配なら助けてあげればいいじゃないか、人一人助けたくらいじゃ、だれも君を咎めたりはしないさ。君は過去に一度だけ、少女の命を助けているだろうしね。そのくらいなら、問題ないじゃないかな」 「でも、彼らはいずれ真実にたどり着く」 「なるほど、生かすも殺すも、彼らの心次第ということかい」 そう言って笑う。サーズデイはそのままくるりと踵を返すと、ゆっくりと尻尾を揺らし、その場を離れた。 「僕の気まぐれは、今ちょっとした興味好奇心に動いてるからね」 「行ってらっしゃい」 行ってきますとだけ告げると、サーズデイはそのまま飛び上がる。遠くでさらに爆音が聞こえた様な気がしたが、そこまで気にしないことにした。どうせすぐに収まると思うから、そんなことを考えながら、食事の代金を払うために立ち上がる。テーブルを見ると、嫌に律義な金額が乗っていた。おそらくアスパラとウルチがどさくさに紛れて食い逃げをしないというために置いておいたものだろう。 (先生……ウルチさん) 何を考えて、何を原理に行動するのか、自分達の意思は、いつだって一つに統一されている。こんなことならば、その意識とやらも個別に考えるように作られれば良かったというのに、個体で別の行動、言動をしていたとしても、一つの大きな目的のために縛られる、そんな不思議で曖昧な目的のために動く。それがどうにも、チルドには意思の灯らない集団の行動に見えてしょうがない。こう考えること自体間違っているのではないかと、彼女は思い続けた。これからのこと、この先のことは、全てが全て、自分達を生み出した、あの壺に握られているのか……そう思うと、どうにもやるせなさが加速した。 「自由はいい」 誰に言うわけでもなく、彼女はそう呟いた。 ---- [[グルメッカ-ほんとのことを言いま章・2-]]へ続く ---- - 「僕は、このたびから逃げているんだ」 「素直にはいと頷く」 「面白くない、という言葉をはなとうものなら」 変換忘れ、区切り忘れがありました。 時間軸が二週間ほど進み、その間にいろいろな事があったようですね。 アスパラは一回死んでしまって進化してるし、ニップは記憶喪失であったり、目指すものがいつの間にか明確に決まってるし…… 例の奴等から奇襲を受け、ニップが激強で一応は退かせる事が出来たようですが、少しついて行けなくなりそうですよ。 回想とかでその事について言及し語られることを願います。 新章の執筆頑張ってください。 ――[[ナナシ]] &new{2011-07-10 (日) 15:16:28}; - 「それができな<い>自分が何とも統率力のないことか」 「(渇いた→{乾いた})紙の音がしたときに」 「先ほどのイメージが完全に(払しょく→{払拭})できたのか、アスパラも少しだけ笑っている」 間違いがありました。 一週間前の出来事へ…いったい何があったのか、どんな事があったのか、気になりますね。 挿絵のグレイシアのチルドはかなり可愛らしい印象を受けますが、あっち側なんだろうな…。あと『煩悩と理性の境界線』って相当分厚いのね。 ――[[ナナシ]] &new{2011-09-06 (火) 16:20:57}; - 最初の方にサーズデイ、途中からサタデイ。 二人とも名前が曜日という共通点があるから何か関係が…? ナナシさんと同じく、新章の執筆、頑張ってください。 ――[[Ndrピけ]] &new{2011-09-06 (火) 23:40:06}; - コメントありがとうございます。 >ナナシさん 誤字の報告ありがとうございます。毎度毎度お目汚しすいません。添削してもどうもめちゃくちゃ多いみたいです。一週間後から一週間前へ、彼らはどこへ行き、どこへ行きつくのか、彼らの活躍にご期待ください。かわいらしい印象を受けるけどあっち側、ちょっと安直すぎますね、もうちょっと謎めいたキャラクターにしたいですw >ピけさん 曜日に何か秘密があるのかもしれません。このままいくとすごいことになるかも(ry ありがとうございます、死なない程度にがんばらせていただきます。 ――[[ウロ]] &new{2011-09-07 (水) 11:49:28}; - 「“大”においてあった紙ナプキンで口周りを拭う」間違いがありました。 ほのぼのとした、そんな日常的な風景・雰囲気で始まったと思ったら、それは嵐の前の静けさだったんですね。 仲間三人での食事。ガーリックが感じた仲間内での違和感は早めに対処するべき事象ですが、リーダーとして頑張るおしょうは凄い…と思います。 おにぎり一個では到底一日間も動けないと思いますね自分も。おしょうが小食になってしまった理由が気になりますね。 さあ、おしょうとニップの間に何があったのか… いろいろ先が読めません。 ――[[ナナシ]] &new{2011-10-26 (水) 15:37:07}; - あれ?トライアタックは氷、炎、電気だと思ったのですが……間違っていましたらすいません。 ――[[α]] &new{2011-10-31 (月) 03:49:10}; - >ナナシさん 誤字の報告ありがとうございます。毎度すいませんorz ポケモンとしての日常風景と、そこから瓦解する描写をうまくかければいいかなと思います。リーダーっていろいろ大変ですしねw小食になっちゃった理由はしょうがない理由があるのか意図的にそうしているのか、その辺はまた楽しみにしていてください。 >αさん トライアタックの水気というものは元をたどれば氷も水と同じ分類として扱います。氷としての水気、とお考えいただければと思います。金気というものは一応微量電気も含まれるので電気で合ってると思います。まぁそこまで深く考えずこんなもんか程度で読んでいただければすいませんorz コメントありがとうございました ――[[ウロ]] &new{2011-11-24 (木) 12:24:36}; - 「嗚咽と“堰”の混ざった擦れた様な声」 「口元は嫌に“つり”上がっていたような気もした~~~口の端を吊り上げたフラッドとは対極的に」 「自分が“挙げ”ているものだと気づくには」 「それだけの存在“だった”はず“だった”」 「これはひどいという言葉すら“描ける”ことを躊躇い」 間違いがありました。 新キャラ(…と言う訳でもないか?)の登場。シャワーズのフラッドの言う事では、おしょうとは子供の頃からの友達のようですが、おしょう本人の記憶とは少し噛み合わない部分がちらほらある感じがします。加えて何だかおしょうを何かに嗾けている様な、人の翳りに付け込み内側から干渉している様な、何とも言えない雰囲気がありました。更に何だか治癒能力の様な物まで出て来て、より怪しさが自分の中では上がっています。 やや湿っぽい艶めかしい感じの回でしたが、これが前の事件へと繋がって行くのでしょうか…。wktk これからも頑張ってください。応援しております。 ――[[ナナシ]] &new{2011-11-25 (金) 19:24:20}; - >ナナシさん 毎度のように誤字の指摘ありがとうございます。とても助かります。これからが佳境に入るって感じですが、個人的にはどっちに転がってもおしょうさんはひどい目に会いそうな気がしないでもありません。その時はその時、おしょうさんさよならコールでもかけておいてあげましょう(ry コメントありがとうございました ――[[ウロ]] &new{2011-12-02 (金) 00:49:56}; - 「“体”した会話もしてないのに」 「チルドの手を“話”そうと思ったが、チルドはそれを“話”してくれることはなかった。どうして“放”してくれないのだろうか」 「含みのある“者”いいで」 間違いがありました。 様々な謎がたくさんあるグルメッカ。今回もまた新たな謎が浮上して来ましたね。……「死なない」「弱いものをつかれない限り」「謀反」「洗脳」「壺」…… 組織かと思えば意外とそうでもなく、個人を尊重するかと思えばそれもまたそうでもない様子で、彼女たちはいったい何者なのか謎は深まるばかり… ミステリ要素も含む作品な匂いが漂ってきた? そう言えばアスパラは両手に花ですね。 ――[[ナナシ]] &new{2011-12-07 (水) 13:30:49}; #comment IP:180.11.127.121 TIME:"2012-11-23 (金) 16:45:35" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%AB-%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%BE%E7%AB%A0-" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.1; WOW64; Trident/5.0)"