ポケモン小説wiki
ウタノカタチ (後) の変更点


by[[ROOM]]

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この小説は官能的な表現を含む予定です。
前の部分は前回とかぶっています。内容に変化はありません。
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 草村を踏みつけて進むのは苦でなかった。サウンドは易々と、空気の間を通り抜けるように雑草の群れを押しのけ、小河に向かって躊躇なく近づいている。
 草村にてこずらなかった理由は、草村にうっすらと人工的な道が生まれていたからだ。サウンドが何度往復しても、これまではすこしもできる気配がなかったのに、今になってようやく緑の集合体はサウンドを受け入れ始めたようだった。
 サソリが通ったからかな。あいつでかくて重いからね。草もへこたれちゃったみたい。なんだかかわいそうだけど……これ以降は行き帰りが楽になるね。……いや、もう関係ない。関係ないんだ。それにしても、最後の最後でこういうことが起こるなんて、なんか皮肉だな。
 サウンドを導くように潰れた雑草が一本道をつくっていて、その道の上を指でなぞるように歩いているうちに、小河のウタが聞こえてきた。いつものようにさらさらと、誰かに後ろから追い立てられることなく、何かに追い詰められることなく、自分のペースで悠々と流れている。
ふと、そういうわけではないとサウンドは思った。小河は自分でペースを作ってるわけじゃない。小河自身がペースなのだ。
 自然に従ってあるがままに流れてる。逆らう必要がないから、何にも抗わず、ただ流れてるんだ。“僕”が言っていた、これが“諦める”ってことなのかもしれないね。そうか。それでいいんだ。無理をしてくねくね曲がることなんて、しなくていいんだ。僕も、河のように。
 サウンドは何言ってんだかと自分の頭を軽く叩き、ちょこんと舌を出した。進むほどに耳に響く小河のウタにサウンドはどぎまぎしながらも、同時に正体の知れない温かい気持ちが胸にこみあがってくるのを感じた。サウンドはそれを無視した。
 相変わらず俯きながら、サウンドは前へ前へ距離を稼ぐ。長めの瞬きを意図的に繰り返す。ため息混じりの深い呼吸を繰り返す。
 小河に接近するにつれて、サウンドは不思議なことに気がついた。
 小河の音が……二つ聞こえる?なんだこれ。さっきから聞こえる小河のウタに加わって、もう一つ違う音程で小河のウタが聞こえてくる。ついさっきまでは一つだったのに……。新しい方は元から聞こえてたのより小さい音みたいだね。だからここまでこないと分からなかったんだ。
 事態の異様さに、サウンドはさほど驚かなかった。まともなポケモンならびっくりして顔をおこしそうなものだが。しかし、この場に居合わせているのはサウンドであり、そのときのサウンドはまっとうな考えができない状態だったから、サウンドにとってみれば、小河のせせらぎが二つに分かれたことなど山を越えた先で発生した火事と同じくらいどうでもよかった。サウンドは足元を凝視している。
 雑草を右に左に掻き分け、自分の通った道の跡を尻尾のごとくたなびかせながら、サウンドはついに小河の手前までたどり着いた。赤い夕日が長いようで短い一日の終わりを低い声で宣言している。
シャープはいるかな?……いないでほしい、今日は。
 サウンドは一掻きで、残りの草村を払い除けた。
「シャープ?」
 期待に反して、シャープは小河のほとりで立っていた。まるで全ては自分の手の中にあるというふうに腕を開いた姿勢で、身体を左右に揺らしている。
 あの余裕たっぷりな格好……いったい全体どういう育ち方したらあんな堂々としていられるのかな?まるでおじさんみたいだ。
 サウンドはシャープの背中が酷く大きく見えた。
 今日はシャープの方が僕より早く小河にきてた。歌を教えてもらってるのは僕なのに。本当なら、僕が先にきて、僕がここで待ってなくちゃいけないに。シャープはどうして……どうせ今日で……なのに……。
 サウンドはまた情けなくため息をつきそうになったが、なんとなく、シャープには自分の落胆の塊を聞かれたくないと思い、我慢して喉の奥まで押しこんだ。嘆(たん)のからんだ生唾は不快でしかたなかったが、どうにかして押し通した。そんなことを頭の隅で考えているうちに、いつのまにかサウンドはシャープのすぐ後ろまで迫っていた。
 端から見たら、ピンクの雄は雌を狙う変質者のようである。だがサウンドにそんな趣味がないことは、本人が誰よりもよく承知していたし、シャープもまた、サウンドが色目な視線を向けることはないだろうと確信していた。そのことについてシャープがどう思っていたのか、知る機会はなきにしもあらず。すくなくともサウンドの関心の 範囲外であったため、語ることはできない。
 自分から話しかける意気地のないサウンドは、シャープの背中を凝視したまま突っ立っていた。サウンドにとってみれば、自分から誰かの注意を引きつけるなんて崖っぷちを沿って歩くようなものだった。実際はたいした高さでないのに、「えてして崖とは高い場所にある」という抜けないトゲがサウンドの頭の表面に突き刺さっていたせいで、彼はほんの短い一歩も踏み出せないでいるのだ。踏み外したら奈落の底に真っ逆さまだと思っているから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。
 いつまでぼうっと影を伸ばしていたか分からない。
 夕日はさらに高度を下げ、すべてのものから形を奪おうとしている。曖昧に過ぎ去っていく時間の中で、ようやくサウンドは異変に気づいた。
河の音が二つ聞こえる?これって……おかしくない?
 その異常を察したとき、サウンドの内側で何かがうごめいた。何か……サウンドの意志とは無関係な、一匹のプクリンとしての“何か”である。
 思わず身震いするほどの衝撃がサウンドにのしかかった。しかし、重くないし、不快でもない。サウンドは小さく笑った。素直な思いが形として表情に浮かんできた。サウンドは顔をあげ、シャープを見遣った。ためらうようにもう一度視線を足元に向けてから、意を決してシャープを見据えた。
 もじもじしてても始まらないか。このままじゃ、練習をやめることも続けることもできないじゃん。
 練習の続行を考慮に入れている自分がバカらしく、また同時に誇らしく感じられた。ゆったり流れる小河のウタがそう感じさせたのだという、予言にも似た確信が胸いっぱいに広がると、サウンドは開いた口を再び引き締める。
 分かれた小河の謎はすぐに解けた。
 シャープがウタっているのだ。それこそ、小河のせせらぎがそっくりそのまま口内で響いているようにサウンドには聞こえた。だが、まともなら、シャープは本物の小河が作り出す音色に合わせてウタを奏でているだけで、小河を思い浮かべながらウタっているのは間違いないにしろ、河の浅瀬から弾ける音色とは全く別物だと気づいたはずだ。それも聞き分けられないほどサウンドは普通ではなかったということなのかもしれない。身体を揺らしているのは調子……リズムに乗っている証だった。
 シャープのウタに耳を傾けているうちに、サウンドの口端はだんだん緩んでいき、当人もやっているか自信が持てないくらいうっすらと、再度笑みを零した。崖の下へ飛びこむ勇ましい心がふつふつと湧いてくる。
そういえば、なんだかんだ言ってもシャープが歌ってる所を見たのは今回が初めてだね。
「ふう……」
 サウンドは、触った途端に崩れてしまう砂細工に触れるように、シャープの肩へ慎重に手を伸ばしていく。
 やけに距離が長い気がした。プクリンはもともと腕が長い種族ではないにしても、滑稽なほど自分の腕が短く、使い物にならないように思われた。真夜中に明かりもつけず歩くのに似た感覚だ。それでも、ちょっとずつ、ウタうプクリンに近づいて行けば、やがては背中に手が届くようになる。
 もう、一息だ。
 シャープ、とサウンドが背中に呼びかけようとしたところ、気まぐれな風が悪戯っぽく笑い、その向きを変えたようだった。
「ばああ!」
 サウンドの緊張の糸がぶつりと音をたてながら途切れた。ぷるぷる震えていたサウンドの腕と、これまでにないほど脈打っていた彼の心が、ぎこちない形で硬直する。同じくして、小河のせせらぎも一つに束ねられる。熱中していたウタを惜しまず中断し、にんまりと屈託のない表情を前面に押し出したシャープが、さっと俊敏にサウンドに振り向いたのだ。
「ふぐう……」
 うー、びっくりした。
「あははっ!サウンドなにそのカッコ。率直に言って、変だよ。笑わせるのに作られた、ポケモンの人形みたいだね」
 シャープは口元を手で隠すように覆いながら、再度笑う。微笑みは、小さくても形の定まらない不思議な魅力と、高らかな気品が漂っているみたいだ、というのがサウンドの感想だった。
 サウンドは拘束されたように動かない(動けなかったのかもしれない)自分の身体へ視線を落とす。シャープの方へ身体を乗り出し、彼女の背後を抱えこもうと狙っていて、うまくいったら抱いたまま小河へ倒れこもうとしている雄、のように見えた。伸ばしていたのが片手だけだったため、おしなべてそうとは言い切れなかったが。
 へんてこりんな姿勢を維持したまま、サウンドはむすっと不機嫌に顔を歪ませ、シャープを見つめかえしている。ひかえめながら、シャープはまた顔を崩した。
「いつまでそんなカッコしてるの?まさかサウンドってそういう趣味があるとか?意外だなー。ふふ……おもしろいから、否定はしないけどね」
 違いますから。どんな趣味なんだよ。ヨガのポーズじゃあるまいし。だいたい、おもしろいってのもどういう意味なんだか。笑われて嬉しいポケモンなんているはずないでしょ。僕だって例外じゃないよ。笑われるのは、嫌いだ。僕の失敗で誰かを笑わせちゃうのは、もっといやだ。
 サウンドは目を細くしてシャープを睨みつけた。対するシャープは、余裕だと言わんばかりの鉄壁の笑みを、抑えるそぶりすら見せず、逆にサウンドの反発にくすぐられたのか、サウンドの目を真正面から見据えてみせた。サウンドは目をそらさない。シャープもにっとして譲らない。
 やがて、シャープが切り出した。無論、サウンドに怖じけづいた様子はない。
「そうじゃないの?なら……もしかしてそういう新しい遊びがあるのかな?私のあずかり知らぬところで、ますます村はイツダツした方向に発展しようとしてるってわけか」
「うるさいな。勝手なこと言わないでよ。こんな変な遊び、僕らの村ではまったくはやってないし、それに村はハッテンもスイタイもしていません。いつも通り、何にも変わらないよ」
 何にも変わらないよ。
 口から出してみて初めて、サウンドはその言葉に含まれる底なしの恐ろしさに気がついた。
 何も変わらない、変えられない。頭に張りついて離れないほど強烈だね。今日だけで何回連呼したんだろう。変われない……きっと、この言葉には、言葉として表面に現れている以上の、重くて暗い意味が込められているような気がする。それは何だ、ってきかれても、なんにも答えられないんだけどね。僕だって、自分が言ってることの意味が分かんないんだからさ。別に知りたくもないし。知ったってどうなるわけでもないし。
 ふと、サウンドはこうべを沈めた。表情が薄暗くかげる。一日の役目をまっとうし、晴れやかな心持ちとともに昼間に手を振る夕日の真っ赤に燃える最後のきらめきをもってしても、サウンドの顔を照らすことは叶わなかった。
 あの村は……変わらない。僕がきたときからそのまま、ずーっと同じ種族のポケモン達が暮らして、似たような毎日を、みんな平和に暮らしている。いざこざなんてあってもないようなもの。雨上がりの水溜まりに広がる波紋みたいに即座に静まる。でも、ひょっとしたら、それってとってもおかしいことなんじゃないかな。
 村というものは、能力や特性の違うポケモン各人が、それぞれの異なる役割を果たすことで、首尾よく機能するようになっている。ある者はきのみを集めるのにあくせくしなければならないかもしれないし、あるポケモンは村人が抱える悩みを取り除かなければならないだろう。それは、そのポケモンがそういう能力に長けているからだ。義務、というと押しつけがましいかもしれないが、限りなくそれに近いものによって、村人は日々を営んでいる。
“義務”にも、様々な種類がある。村人の中には、全勢力を一日中寝ることに費やすなまけものもいる小難しい顔をして明日の意義のなんたるかを熟考する堅物もいる。一見彼らは村に何も貢献していないようだ……むしろ厄介事を連れてきそうだ……が、そんな目の上のたんこぶのような彼らも、村を構成する一員として、疑いえない重要な役割を担っているのだ。村を明日に繋ぐために。
 ここには、不必要なポケモンなどいない。そこに存在するということ、たったそれだけで、誰かの何かを支える柱になることだってできる。各々で異なる、定められた役割を果たすこと。暗黙のうちに存在する、これこそが村の唯一の掟なのだ。
 けど、僕は?
 サウンドは、真夏日の下でうだったときに陥る朦朧と浮ついた状態に苦心するように、こうべを垂らし、肩幅を小さくした。半開きになった口から息が漏れる。
 僕は何をしてるんだろう。僕は何をしてきたんだろう。寝て、食べて、息すって……歌って。それで誰かの役に立ったのかな。自分勝手なことばっかりしてて、僕は誰かに感謝されたことがあるのかな?下手くそな歌……とは言いたくないけど……が、誰かを救うことが、これまであったのかな?僕の役割ってなんなんだ?僕なんかがこの村にいて、いいのかな……。
 吹き荒れる自問一つ一つにいちいち解答するまでもないだろう、とサウンドは苦笑した。一回首を横に振れば、すべての疑問に答えが出揃うのだから。
「ねえ、いつまでそのカッコしてんの?いい加減飽きてきたよ。サウンドももう少し気が利くといいんだけどな。ポケモンを笑わせたり感動させたりするには、常に新しい世界を切り開き、ハッテンを促進しなくてはならない、って誰かが言ってたよ。私だけどね」
 両手を腰に宛て、「へへーん」と得意げにシャープは胸を張った。サウンドは、はっと目を開くと、上官に従順な兵士のように黙って気をつけの姿勢をとった。
「別に、笑わせたり感動させたりしようとして、あんな格好してたわけじゃないからね」
「ふうん。なら、どうして今まであんな変なカッコしてたの?」
「それは……」
 びっくりして動けなかったとは口が裂けても言えない。口が裂けたらそれどころじゃないけど。だってさ、こっちに気がついてないと思って油断してたら、突然笑顔で振り返ってきたんだよ。ただ振り返るんじゃなくて、満面の笑顔。気味が悪いったらないよ、失礼だけど。
 だからと言って、それが、自分の身体が驚愕で固まったことの理由にならないことくらい本人が一番よく分かっていた。原因は小心者の自分にこそあれ、シャープの笑顔は持ち前のもので、彼女に悪気があったわけではない。
それでも彼は、何か理由が欲しかった。憧れる雌の目前で、自分が小心者だと公表するようなカッコ悪いマネをしたことが、納得のいかない結論に達するのを恐れた。あてつけでも道理に適っていなくてもいい。理由さえあれば、それを盾にシャープを責めることができ、自分の汚点が紛れると思った。その考えに気づいたとき、サウンドは自分の理不尽さに腹がたち舌を打った。 
 僕は自分勝手だ。勝手すぎる……。
「それは?」シャープは問い迫る。
「なんでもないよ。シャープが気にすることじゃない」
 シャープは隠すそぶり一つ見せず、苦手な味のきのみを舌の上でもてあそんでいるような不服げな顔で、細目にサウンドを見る。
 それもほんのわずかな時間。一瞬であった。
 サウンドがはっとして一歩後ずさりかけたときには、すでにシャープの表情に満面の笑みが戻っていた。その切り替わりの早さに、サウンドは、シャープが不可視の仮面を被っている姿を目撃したような気がした。
 だが、そのこともすぐ忘れてしまった。
 シャープの頭が本当は何を考えているか、シャープの中で、自分はどのように位置づけされているのか、サウンドはあまり知りたいとは思わなかった。すこしは、すこしくらいは、興味があったのかもしれないが。
「まあ、なんとなくきいただけだからどうでもいいんだけどね。気にならなかったと言えば嘘になるけど、別に大切なのはそんなことじゃないし、サウンドが答えたくないならそれでいいよ、私はね」と口に出しながら、シャープは意味ありげな視線でサウンドを探る。
 そんな興味津々な目をしてたら説得力がないよ。
 サウンドも、遠くの山裾を観察しするように目をこらしてシャープを見遣った。
 こういう場合、僕はなんて返せばいいのかな?複雑だね。「実は……」と続ければいいのか、やっぱり口を閉じているのがいいのか。んー……いいや、こんなのたいしたことじゃない。いちいち声にする必要もないでしょ。話したところでバカにされるだけだろうし。
 わずかでも、話したい、シャープに理解してもらいたいと感じる自分がいた。押しこめて薄く笑う。
「じゃあ、言わない」
「残念」
 無視しよう。
 シャープはふふんと鼻歌混じりに顔を起こすと、サウンドを真正面から見定め、捕らえた。大事なことを言いますよ、という暗にこめられたメッセージが、鈍い感覚のサウンドにもさすがに届いた。
「今日は何しようか」
 サウンドの顔が歪む。ついにこの瞬間がきてしまったのだ、歌を諦める瞬間が。ビートや、未来の成功を願い辛い練習を切実な思いで耐えたプリン、そして倦怠で覇気のない練習を続けてきたプクリンに手を差し延べてくれたシャープ……暗い影を光で照らそうとしてくれた、歌に関わる全ての人をうち遣って、自分一匹で闇の底に落ちようとしている。彼らは、自前の明かりでサウンドに纏わりつく濃厚な黒を追い払おうとしているのだが、光明を避けるようにサウンドもまた移動しているので、彼はいつまでも暗黒の布で包まれ続けているのだ。その光景がまざまざと目の裏に浮かんだ。
 次に、自分が歌をやめたいと宣言する姿を頭で想像してみた。始めは分厚い雲に覆われているような、おぼろげで判然としなかった景色しか思い浮かばなかったのだが、灰色の雲の切れ目から徐々に光が差しこみだした。空の色は青ではなく、終末を宣告するような真の黒色。光は鮮明さを失ったくすんだ色合い。切れ目から空を覗きこむと、そこには、飽き飽きした表情の雌のプクリンの目の前で、だらしなく頭を垂らし、情けなく肩をすぼめている雄のプクリンが見えた。漆黒の空に描かれた、実に現実味に富んだ“絵”だった。まさに未来予測図。
 いける、とサウンドは目立たないよう軽く首を縦に振った。どんな形であるにしろ、はっきりと想像できる。自分がやめる姿を。後はこのまま、頭の中にあるイメージを外に出してしまえば、それで全てにケリがつくんだ。
長かった。ここまでくるのは、本当に長かった。まあ、まさかこんな形で決着がつくなんて思いもよらなかったけどね。僕は、歌が上手に歌えるようになって終わるか、そうじゃないなら決着なんて永遠につかないものだと思ってたから。でもこういう終わりもありかなって、今は思う。だって……。
 ことを先延ばしにしている自分が突っ立っていた。憐憫(れんびん)だ。なんと自分は愚かなのか。
 不意にシャープの声が妄想に割りこんできて、邪魔をする。
「どうしたの?ぶつぶつ呪文唱えてるみたいだけど。もしかしてサウンド、魔法が使えるとか?まさか!ははっ」 シャープは口を手で隠す。
 またまた、その笑顔。どうしてシャープは、いっつもそんな顔でいられるの?羨ましいわけじゃない。でも……でも、僕は知ってるよ。君みたいなポケモンはみんな、何にも知らない、他心を持っていないような顔をしておきながら、最後には全部かっさらっていくんだ。何もかも知ってるくせして、僕にはカケラ一つも教えてくれないんだ。そうさ、あのプクリンのように。
 卑怯だ。みんなして寄り集まって、僕だけが役割のないことに腹を立てて、落ち着きなく走り回って。シャープは知ってるんじゃないの?僕の……役目を。担うべき役割を。それでも教えてくれないんだよね、分かってるさ。
 サウンドはむかむかしていたが、シャープの眩しい表情を潤んだ瞳で睨んでいると、何とも修飾しがたい気持ちが心の深遠からぱあっと広がり、揺らぎないはずの決心が内側から溶解し陳腐していくのを感じとることができた。
「さ、練習するよ。日が暮れちゃう前にできることはやっておかないとね」シャープは言った。
「……ねえシャープ」サウンドは努めて低い声をした。シャープにペースを合わせたくなかった。
「なあに?」
 シャープのさりげない表情は明日を知らない少女のようだったが、それが逆に「サウンドの考えは何もかもお見通しなんだよー、ははっ」と語っているようだとサウンドは思った。根拠のないで夢想である、と結論づけて隅へ蹴散らすと、取り直してシャープをひたと見据える。
 だが、すぐに彼の顔に影が被さる。
「僕は……」
 堅く決心していたつもりでも、いざ言おうとするとやっぱり戸惑っちゃうものなんだね。どうしようもないね。臆病で気まぐれな僕は、何をするにも迷って、迷って、結局目的地に辿り着けない。森から抜け出る前に凶暴なポケモンに襲われた。暗い洞穴に逃げこんだ。僕はそこでの生活が快適なことに気がついた。近くにきのみは生えてるし、人気がなくてとても静かなんだ。生きてくだけならそれだけで十分。僕は森を脱出する理由を見失って、そのままごつごつした岩穴に住み着く……。
「“僕は?”どうしたの?」シャープはサウンドの口マネをした。
 サウンドは喉から鳴咽混じりのうめき声をあげる。人生最大の決断をするポケモンのように……サウンドにとって人生最大の決断とは、雌と結ばれることではなかったから、もしかしたら実際に最大級の決定に悩んでいたのかもしれないが……腕で頭を抱え、その場に崩れ落ちる。弛みなく張られた糸に、どこからともなく刃が飛んできて 断ち切ったような唐突さだった。
 サソリから受けた呪縛の刻印のような生々しい傷に、新しく擦り傷が加わった。ごく小さいものだったが、大きさは問題でなかった。問題は、その傷を刻んだのが誰か、という問題に帰着する。サウンド本人か?そもそもサウンドを追い詰めたサソリか?諦観を助言した“サウンド”か?今でも彼は答えを導き出せていない。
「わわっ、なになに、一体どうしちゃったの?サウンド、大丈夫?」とシャープはサウンドに駆け寄り、サウンドが地面に突っ伏さないよう肩を支え、「お」と、シャープは何かに気づいた様子だった。
「大丈夫じゃ……ない」
 ああ情けない惨めだくだらないバカらしい……どうしようもない、何も分からない何もできない。涙が……止まらない。カッコ悪い、悪すぎる。
「ほっといてよ、もう、もう……」
 シャープの腕を払おうとしたが、力なく掴むに留まった。掴んだ手さえもすぐに解放し、地面につけた。
 なんて自分勝手なんだ。シャープは悪くないのに。なんで僕は……どうして僕は……くそ。
 溜め込まれた鬱憤と辛苦(しんく)は決して少なくない。吐瀉物の量もまた、触れがたいほど多い。
「サウンド……」シャープはそれだけ口にすると、唇を噛み、目を細くしてサウンドを見つめた。
 それから、サウンドが倒れないよう下から押さえていた腕を、支えを解いても自力で身体を起こしていることを確認しながら、ゆっくりと遠ざけていった。シャープは一回だけ目を閉じ、開いた……ような気がした。決意を固めるように。
 彼女はサウンドの隣に移動し、成り行きに任せてちょこんと座る。
「ふう」シャープは腕を背後に投げだし、身体をのけぞらせた投げやりな体制をしていて、気が抜けているようだった。黙然と河に反射した日の光を眺めている、それだけのようだった。
 サウンドの苦悩を問い質そうともしなければ、突然泣き喚き出した彼を叱咤しようともしない。彼女なりにサウンドを思いやっての行動だったのかもしれない。つまり、余計な口出しは、サウンドを坂道の球よろしくさらに突き落としかねないから、必要あるまいとシャープは判断したらしかった。
 しかしながら、自分で掘った墓穴に身体のほとんどが埋もれたサウンドは、無視されたのだと思い違い、彼女に愛想つかれたものだと勘違いした。サウンドの中で、見捨てられても文句は言えないというもっともな意見と、最後の頼みの綱であるシャープに断ち切られたという嘆きとが、壁に囲まれた岩窟に叫び反響するように乱れ鳴った。
 サウンドはいっそうわっと泣き声を強くする。あってなかったようなプライドや、意地は消滅しかかっている。あわててシャープは手を差し延べた。
「わ、わ、泣かないでよ」そこで初めてシャープは要求らしい要求を告げた。
 シャープは、他人に「あれやれ」「これやれ」「それするな」といった上からものを命令するようなポケモンでなかった。命令と呼ぶの誇張かもしれないが、とにかく、シャープはむやみに何かを強制しようとはしなかった。いつだって、してほしいことがあっても押し止め、頭痛を患うポケモンを自己解決させる方向へ導き、そのときをじっと待つ、そういうポケモンだった。今回を含めた数少ないお願いすら、その物言いはいつだって柔らかく、どれも冗談めいていた。
 サウンドが悲哀にもだえるなら、それはそれで尊重しよう。シャープは慈悲が深かった……ひとえにそう言い切るのは違和があるが。すくなくとも、か弱い者を意識的に見下し見えない爪で引っ掻き回したり、ただでさえ怯えるポケモンを罵声でさらに萎縮させたりといった、傷口に唾を飛ばすようなことはしなかった。
 優しかった。優し過ぎたのかもしれなかった。
 サウンドだって、彼女の行動が示唆する真意が実際のところ分かっていたのかもしれないが、サウンドにとってそれは受け入れがたい事実であった。
 なんで?なんでシャープは、こんな僕に気を遣うんだろう?目の前で意味もなく喚き散らし、アホみたいに気落ちして。それなのに、どうして?
 疑問符の嵐がときを追ってやってくる気配がした。だが、先に話しかけたのは、いくぶんサウンドは落ち着いたなと判断したシャープのほうだった。
「歌、やめたい?」
「な」サウンドは絶句した。
 いよいよわけが分からなくなった。なぜ、シャープにそんなことが知れ渡ったのか。疑問付が思い浮かぶのも、今日だけでもう何度目になるか分からない。立ち振る舞いだけで、ポケモンの心情とはそこまで見抜けるものなのか、サウンドははなはだ疑問だった。確かに自分はオーバーリアクションで、思ったことを全面的に表情に押し出してしまうから、手玉に取って弄ぶのはたやすいかもしれないが、だからといって「歌をやめたい」という具体的な内容まで見透かすことなどさすがに不可能なのではないか。なら、どうやってシャープは知りえたのだろうか?
 サウンドは、小河の流れや背後に控える雑草の群れ、そして自分の足元で実物以上の大きさの影をたなびかせる、鮮やかながら過度に飾らない花といった、視界に占める全ての自然が結託してシャープの背を押しているように見えた。
 サウンドは身震いした。
 そう考えたのも一瞬のこと。ゆっくり息を吸ったり吐いたり繰り返したり、花を見たりしているうちに混乱は消え、サウンドは冷静さを取り戻しかけていた。主因になったのは、やはりシャープのにやにやだったけれど。
 まあ、あのシャープだからね。シャープなら対話するポケモンの心情をまるごと見抜いたっておかしくはないかもしれない。何と言っても、シャープだからこそ。
「どうなの?」シャープは微かに詰問口調をにじませていた。詰め寄るシャープは新鮮だった。
 サウンドは軽く舌打ちした。シャープも聞き取れなくらい、そっと。
 うーん、どうして分かったのか、一応聞いておこうと思ってたんだけどな。完全に機会を逃しちゃったみたいだね。いいさ。別のときに、いくらでも聞けるだろうから。今度、軽い調子で聞いてみればいい。“僕、そんなに顔に出る?”ってさ。“今度”があればの話だけど。
 考えるよりも先に、サウンドの口は開いていた。
「分からない」
「分からない?」咎めるようではない。
「うん」サウンドは自嘲気味な薄い笑みをくっつけ、続ける。
「自分でもね、よく分かんないんだ。僕は歌を続けて……それで、上手になりたいのか、それとももうここで諦めちゃって、二度と歌なんて口ずさむもんか、ってしちゃうのがいいのかさ。なんだか、どちらを選んでも後悔しちゃうような気がするんだよ。穴が二つ空いてて、どちらかに落ちてください、って命令されて、両方の穴ともに入るのは気が進まないんだけど、しかたなく片方を選択して。そしたら、落ちた瞬間実は二つの穴は繋がっていて、どっちに落っこちても最後に辿り着く場所は変わらなかった……それに気づいたときには身体が真っ暗闇にの一部になってる」
 シャープはサウンドの左隣に座り、腕を後ろに投げ出してくつろいだ。サウンドは、マネしたわけではないが同じ体制を取って、ほっと息をついた。
 いつになく饒舌(じょうぜつ)に語れる自分が、自分から剥離しているようですこし怖かった。そのまま自分の中から自分そっくりな姿をしたプクリンが光を背負って抜け出して、自分の大切ななにかを両腕にきつく携えたま ま、天国やら地獄やらに召されてしまう……奇妙な空想だったが、やたらと現実感があった。サウンドはまた恐れを抱いた。
 シャープが不意をつくかたちで尋ねる。
「プクリンなのに?」
 サウンドが頭痛の原因はまさにそこにあった。シャープの質問は的確で、サウンドの気になっている箇所を正確に突いてくる。グサリと腹に尖った物体が刺さったような鋭い衝撃があり、実際に腹部はへこんでいたが、それはサウンドが深く呼吸したためであった。
「そう、そうなんだよ。プクリンなのに、歌えない……それってやっぱり、変?歌えないプクリン……下手くそなプクリン。ダメなのかな。そういうのを、ろくでなしって呼ぶのかな」
シャープは慰めの言葉で応対してくるに違いないと、サウンドは期待していた。そしたら、逆ギレしてやろう、とも算段つけていた。
「そ」
 そ?それだけ?
 サウンドは不満をぶつけるように、河瀬付近の、水があまり染みこんでいないしっかりした地面を、投げ出した短い足でばだばだと叩いた。駄々っ子みたいだ、と自分で思いあたると、シャープに隠すように急いで止めた。
「……どう思う?シャープは。下手くそなプクリン。おかしい?異常?僕は」
「よく分かんないな」シャープの語調は突っぱねるようだった。
「分かんない?」
「ウタえないとか、下手くそだとか、私はそういうのよく考えたことないからね。さっぱりだし、ちんぷんかんぷんだよ」
 ああ、そうなんだ。シャープは最初から歌が上手だったんだ。生まれたとき、ろくに声帯がないププリンのときから、もううまかったに違いない。僕みたいに大変な練習を重ねなくたって、ちょっと意識しただけですぐに出したい声が出せる。天才としか言いようがない、きらびやかな能力が、元から彼女には備わっていた……僕のに比べたら、格差は歴然としてる。ふう、ため息、出ちゃうよね。
 結局行き着くところは、そこなんだ。才能、天性の力、生まれもってきた器の大きさの違い……。
「悪いけどさ、私だって最初からうまかったんじゃないよ」むっとした声音が雌らしく響いていた。
「え?」
「私だって最初から歌えたわけじゃないって言ったんですう。ウタはまんざらでもなかったけど」
シャープはわざとらしく頬を膨らませ、サウンドは困ったように笑った。そこで、サウンドは内心頭を捻った。シャープの言ったことには明らかなムジュンがあった。シャープの言葉を心中で復唱する。
 最初から歌えたわけじゃない。ウタはまんざらでもなかった。
「と、いうと?」
 歌が歌えて歌ができない?結局どっちなんだか分かんないじゃん。
「つまり、ウタえたけど、歌えなかったの」
「意味不明だよ」サウンドは頭を撫でながら、柔らかく、ただし要求をのむまでずっとそうしているぞというような威圧感でシャープへ視線を向ける。
 シャープは悪戯っぽい表情を隠したりしなかった。見ているサウンドのほうが戸惑ってしまうほど、シャープの表情はあどけなかった。
 だからこそ、底知れなかった。
「そうだねえ、何て説明すればいいんだろうね。うまく説明するのは難しいかな、私もよく分かんないところがあるしね」はは、とシャープは頭を掻いた。
「自分でも分からないことを僕に言ってるの?」
「ま、そうだね」
 不思議と腹がたたない。もしシャープが申し訳なさそうに顔を伏せたりしていたら、サウンドも頭に血が上って無責任な彼女を叱責していたかもしれないが、反省する様子も悪気があるそぶりも全く見せないシャープを前にしていると、怒るほうが不条理で間違っていることのように思えてくるから、おもしろい。
「強いて言うなら」とシャープは脇腹を突くように不意に切り出した。
「え?」
「ウタと歌の違いの話」
「ああ」サウンドは頷いた。
「歌はね、ただ歌うだけなんだけど……」
「うん」
 この時点でなんか変だよね。歌は歌うだけってさ、ようはそのまんまでしょ。説明になってないよ、分かってるのかな。多分、分かってるんだと思うんだけど。シャープも違い……僕にはあると思えない、歌と歌の違い……がどんなものであるかはっきりしないみたいだったし。ま、いいけどね。
 このままシャープと適当な談笑を芝居のように繰り返していれば、そのうち日が暮れて、今日は家に帰ることができる。そうすれば、歌をやめるとかやめないとか、そういうある意味重要な決断を急いで選択しないですむのだ。一日を乗り切る。さっさと跨ぎ越してしまえと朝日を祟った。サウンドはそうして生きてきた。
 シャープは続ける。
「……うんとね、それで……ウタは」シャープは適切な言葉を溜池からすくいとろうと顔を歪ませ、逡巡しながらも、言い放つ。
「ウタは、何も考えないで歌うこと、だと思うよ」
「思うよ、てねえ」
 最後まで歌がなんで歌がどういうものなのか、サウンドは判然としなかったが、シャープが大切なことを話しているのだとこのときになってようやく気がついた。
 シャープはなにか伝えようとしている。それは、恐らく、僕のためなんだ……。
「何も考えないで、歌う?」
 オウム返しはプクリンには覚えられないはずなんだけどな。
「そう、そうそう、そうなんだよ。ウタっていうのは頭ん中を真っ白にして歌うことを指すんだよ」
 さっきよりシャープの口調が強まったことから察するに、彼女は問いの答えを確認するようにとつとつと説明し始めたそのときよりも、今のほうが確信を堅固にしているようだった。サウンドはいまいち要領を得ることができなかったが、とりあえず「何かを考えて歌う歌」と「何も考えないで歌う歌」なるものが存在し、シャープが最初からできたのは「何も考えない」ほうらしいと見当つけた。
「何も考えないで歌う」
 偉大な指導をしかと噛み締めるプリンのように、サウンドは反芻していた。いつか、あまり遠くない昔、シャープは似たようなことをサウンドに言っていなかっただろうか。あれは、いつのことだっただろうか。近くにあるはず。思い出せ……。
 サウンドが手応えを感じ、記憶の池(半ば泥沼だったが)から目当ての記憶を引っ張り上げ、思わずびくんと身体を震わせたのと、シャープが話を切り出した瞬間は、寸分の差もなかった。
「サウンドは覚えてる?確か私たちが会ってから三日目だったと思うんだけど、私が言ったことをさ」
 自分のより先にシャープの口が開いたことの驚きを顔だけに留めながら、サウンドは応える。
「すこしなら、ね。あんまり覚えてないよ。……僕もあのときは必死だったから。人から稽古つけてもらうのは久しぶりだったしね、やっぱりどっかで緊張してたみたいだし……今思い出すと、そう思う」
「そっか」シャープはあっけらかんと言った。
「まあ、あのときは適当に流したみたいな感じだったし、仕方がないよね」
 斜め上を見上げると青い空が夕日に焦げていた。
「……ごめん」
「お、珍しい。サウンドが謝るなんて。成長したね、うんうん」
 そう思うんだったら声にしてほしくなかったな。褒めてくれるのは……そりゃあ嬉しいけど、わざわざ声に出さなくたって、ねえ。それに、別に珍しいことじゃないでしょ。僕だって申し訳ないと感じたらちゃんと謝るからね、そのくらいは分をわきまえてるつもりだよ。
 シャープは今この瞬間も笑っていたが、サウンドは、シャープの笑みがそれぞれその時々によって微妙に変化がついているのに気づいた。これまでの張り付いたような笑顔と、サウンドが頭を下げたときのそれとは、どことなく雰囲気が違うように見えたのだ。
「私はこうサウンドに言ったの」とシャープ。
 特に気にすることじゃないかな。差し障りのないことを大袈裟に見立てて、いちいちつっかかるのは僕の悪いクセの一つだ。今日見つけたけど。
「私たちが歌が上手になったのは、自信とかみんな放って、ひたむきにウタったからだって言ったんだよ。それが歌の基本なんだ、とも説明したと思う」
 うん、そんなことを言ってたと思う。だんだんはっきり思い出してきたぞ……あれ?何か足りないような。
「なんか足りないんじゃない?」
「そう。よく分かったね」シャープは心から笑っているようだった。まさに、弟子の進歩を目の当たりにしたセンセーの、混じり気のない笑顔だといえた。
「ゼンテイ条件があったんだ」とサウンド。
 ひたむきにウタうポケモンは、必ず“そう”だった。“そう”であることが、歌の始まりの一歩なのだ。しかしサウンドは“そう”ではなかった。かつては違ったのかもしれないが、すくなくとも今は“そう”ではないのだ。それは本人が熟知しているはずだった。
 あのとき、僕は嘘をついた。その場の空気を呼んで、シャープの質問に適当に相槌打っておいて、そのままあの日の練習は終わったんだ。
 シャープは仰々しく息を吸い込むと、一度止め、ゆっくり吐き出した。
「サウンドは、ウタを愛してる?」
 きたきた、とサウンドはため息をつきそうになった。予想はしていた。シャープはあの日、自分の雄叫びで草村を震撼させサウンドを仰天させたあの日、同じことを問っていた。
 ウタを愛してるなら、自信だとか上手に歌うだとかは全部放っておいて、ありのままを歌うものだ……シャープはそんな意味のことを偉そうに言っていたね。あははと笑いながら、分かったみたいな口をきいて。
 分かったような振る舞いをしている奴に限って、えてしめなんにも理解してないものだ。あのときのシャープも、そういう類のポケモンになっていたのだろうか?そうじゃない、とサウンドは自問自答した。当時のシャープの台詞は芯に迫っていた。そうだと思いたい自分を感じたし、さらにそれを信じたいと願う自分は疑いようなく存在した。
 本筋から逸脱していたことをサウンドは認めた。すなわち、自分は、歌を愛してる、愛してないという他のプリンやプクリンならたわいもなく返答できるであろう一件に、決着をつけたくないのだ。
「どう?」
 サウンドは顔の影を濃くして呻くのみ。
 シャープは分かってるんだろうね。僕が歌を好きだって言ったのが嘘なんだってこと。だからこそ、また同じ質問をしてきたんだ。シャープは僕のことならなんでもお見通しなんだろう。あんなへらへらした顔して、ビンの中で薬品を調合するポケモンのように、恐ろしいくらい他のポケモンを観察しているのに違いない。
 なら、僕は嘘をついたって結局無駄なんだ。シャープを欺くことなんてできるはずもない。だって、シャープだから。
 だが、その場で対峙していたシャープの観察眼が鋭かろうがなかろうが、サウンドは正直に受け答えただろうと思われる。つまるところサウンドは嘘を重ねるのにほとほと疲れ切っていた。さらに嘘(もしくはそれに準ずる悪行)を累々と積んでいると、それに伴って自分の愚かさに拍車がかかるような気がして、今以上に自分がぐらぐら根本から揺れていき、崩落していく様子が瞼の裏に浮かぶようだった。第一、偽ってまで隠す必要はないだろう?歌が好きであれ嫌いであれ、シャープはサウンドを必ず尊重してくれるのだから。
 信用……してるのかもしれない。この、ふざけた、くだけたプクリンを。
 答えるべきはすでに決めていた。もしかしたら、シャープが質問してくる前からあらかじめ返答を決めていたのかもしれないとも考えた。
 誰にも文句は言わせない、これが僕の答えだ。正直に、実直に言えば……。
「分からない」
「分からない?」サウンドもシャープも示し合わせたようにふんと鼻息を鳴らした。込められた意味合いはほぼ反対だったが。
 なんか、こればっかり口走ってるみたいだな。僕は、ふと都合の悪い事態に直面するとすーぐに「分からない」だもんねえ。はあ、子どもじゃないんだからさ、もうすこし凝った言葉は思い付かないものかな。けど、ホントに分かんないんだからしょうがないじゃんか……僕は歌が好きなのかな、それとも嫌いのかな。
 自分にきいても、答えは返ってこない。
「よかった」
 落ち着き払った声の主がシャープであると気づくまで間があったが、それはシャープの一言が彼の予想とあまりにも掛け離れていたからである。
「よか……た……だって?」ギシ、と音が鳴るほどにきつく拳が握られる。
 よかった?はあ?なんで、なにがいいっていうんだよ。こっちは本気で悩んでいるのに、それが、いいだって?ふざけるな……なんて無神経な。
「そういう意味じゃないよ」シャープはここならぬ遠い国を見上げながら口角をあげた。
「なら、どういう?」
 シャープはサウンドを無視して、サウンドに質問返しする。
「サウンド、歌は嫌い?」
「きら……」そこで言い淀む。
「分からない。ていうかさっき言ったと思うけど」
「違う、違う」シャープは顔の前で手を振って否定してみせた。
 サウンドの目が引き寄せられる。シャープが手の動きでサウンドの注意を喚起しようとしたかはなんとも言えないが、サウンドは、左右につりあがった口を背景に彼女が手を振る仕草を、これまで感じことのない感慨で見つめていた。シャープが笑って否定しているのは、サウンドの反論そのものではなく、これまでの彼の頑として譲らない態度であるように思えた。
 違う、違う。そうじゃない。そんなに肩に力を入れる必要はないんだよ。リラックスしようよ。もう、済んだことは、それこそどうやったって変えられないんだよ、サウンド。


「変えられない」
 サウンドは後ろへ投げ出してある腕に体重を乗せ、赤と青が触れ合った大きな空を、思いのままに見上げた。
 その言葉について、サウンドは幾度なく考え、その度に考えを深めてきたはずなのだが、シャープの口から念力のように聞こえたそれは、サウンドがいままで理解を確かなものにしてきたと思ってきたものとは方向性がまるで逆のように思われた。変えられないということ……サウンドは、そのことを、もがいても空を飛べないのに、さらにそれを分かっているくせして、必死になって腕をぶんぶん振り回してはくうを切るタツベイがそうするように、愚かなポケモンがする行為であると認識していた。だが、シャープの放った“変えられない”という言葉は……なにやら前向きなものが含まれているように汲み取れた。
 同時にサウンドは、頭の深層にカスのように残されている、かつて目を奪われた風景を想起していた。
時間は夕暮れ時。ちょうど現在と同じくらいの時間に、サウンドはぐったりと疲れた身体を引きずりながら、自宅へと短い歩幅で歩いていた。その原因は、生まれもって短足であるということ以外に、大股で鷹揚に歩くほど元気が残されていないためでもあった。
 疲労はピークに達していたものの、彼は見た目より疲弊していないように見えた。というのも、サウンドの目は爛々と夜空に輝く星のように煌めいていて、明日はもっとよくなるさと心中で呟いていて、そのプリンの外見は果敢に明日へ挑戦する無垢な少年の顔付きそのものだったからである。
 疲れてなどいられない。足が重いのなら、それでも構わない。けど、止まるのだけは、絶対嫌なんだ。
曇りガラス越しに見た像のように形のおぼろげな記憶の中のサウンドは、そこで夕焼け空を見上げ……正しくは高木の梢から落ちる黄色い木の葉に目を移して、こう思った。
 きれいだなあ……なんか、いさぎいいって感じ。
 以降の記憶は蓋をされたように思い出すことができない。臭いものには蓋がされるべきであり、サウンドは無意識にやってのけたまでだ。
 ビートと最後に顔を合わせた帰り道のフラッシュバックは、頭に染み出したときと同じくらいの唐突さで再び退いていったが、残像はサウンドに置き土産のごとく纏わり付き、脳裏にちらついて頑として去ろうとしなかった。このとき、サソリに醜悪な仕打ちを受け、“サウンド”に歌を諦めることを促されて以来ぽっかりと空いていたサウンドの一部に、かつてビートの元へ通って死に物狂いで歌の練習に励んだ、前に突っ走るしか能のないプリンが時空を越えて舞い降りてきた。空欄とそこに飛び込んだかつてのサウンドのカケラはちょうど一致した。
「どういうことなの?歌が好きとか嫌いとか……愛してるとか」気がつけば、サウンドは同じ質問を繰り返していた。
 なんか自分の声じゃないみたいだ。不思議な感覚……自分の中にストンとなにかが落ちてはまって動かなくなっちゃったみたいに、僕は落ち着いてる。自分でも、それがよく分かる。奇妙だけど……懐かしい気も、しないでもないね。
 シャープは陽気な雰囲気を余すことなく発散してますよというように誇らしげに微笑んでから、言う。
「私が思うにね……私が勝手に思ってるだけだけど、愛するってことと、好きとか嫌いとかってのはさ、違う話のような気がするんだ」
「違う話ねえ」サウンドの口調には賛同も否定もなかった。
「そう。ウタ……それだけでなくて、いろんなものに通じることなんじゃないかと私は思うんだけどね……」
 シャープはまだ笑ってるけど……これは、おもしろくて笑ってるんじゃない。これは……照れ隠し?それだ。シャープはこれから個人的で恥ずかしい話をしようとしている……そんな気がする。
「……うんとね……好きと嫌いは、ようはそのまんまだと思うわけだよ」シャープは頭の上のボンボンを手で持ち上げて遊びながら呟いた。
 サウンドは、これには笑うしかなかった。喉の内奥から響くような笑い声を張り上げ、シャープの目と自分のそれが一直線上に重なるようシャープを見遣った。おおかた無意識で、あとは自ら積極的に、サウンドはそのようにした。
「言葉通りって、そのまんまだよね」
「そうですね」シャープは独りごつようにサウンドに言った。
 繋がれたままの視線から、サウンドはシャープの意志を読み取ろうと直線の行方を目でたどっていく。行き着いたシャープの瞳から感じ取れるのは、微かな不安だったり、僅かな羞恥だったりしたものの、その大部分は指導者としての絶対的な威厳と自らの正当性を確信した自信である……とサウンドは思った。
 実際のところは、誰が知っていたというのだ?
 ためらいがちにシャープが目を細めたので、サウンドはごく自然な動きで視線をシャープから遠く彼方で光り輝く夕日へと方向を変える。シャープの威厳や自信は確固たるように見えるが、それはうわべだけの虚勢であって、一つ踏み間違えば同量の羞恥心に転換されるものであると、サウンドは熟知しているつもりだった。
 さすがに見つめられると緊張するからね。僕が実際そうだったわけだし。おお、僕、優しいんじゃない?
 ここならぬ場所から「そうだ」と唱和する声が発せられたように思い、サウンドはうきうきした。もっとも“ここならぬ場所”とはサウンドの内部のことだったのだが。
 また、シャープに優越感か、あるいは優越感に限りなく近い意味をもつ感情を抱いたのは、サウンドは初めてというわけではなかったが、自分が気の効いた動作をしたことで大きくなった気になったのか、彼は嬉しさを噛み締めた。サウンドの微笑みはそのように多種類の複雑な心持ちが複雑に絡まりあい結果として表面に浮き上がってきたものだった。
「で、どういう?好きとか嫌いだとかは言葉通りの意味でいいとして……まあ一先まず置いといてってことだけどさ……愛するって?」夕日と対峙しているうちに目がひりひり痛み出したサウンドが問いかける。
 いつだったか、シャープに疑問を口にしたとき彼女から積極的だと褒められたのをサウンドは思い出していた。そんなに昔の出来事ではないのだろうけれど、サウンドは腕が何倍に伸びても先っぽすら届かない遥か遠い記憶であるように感じられた。
 今の僕は積極的だと言われても褒め言葉としては受け取れないかもしれない……だけど、そうなったのなら、それでいいのかもしれない。僕は、多分、成長してるんだ。
「愛することは……」
 頭から尻にかけて徐々にシャープの語調は弱まっていき、やがて言葉につまった。もし見たことがあるなら、ビンを想像してもらえばいいのだが、中から出口に向かって徐々に“口”が狭まっていき、それに伴って余裕がなくなっていくイメージだ。
 サウンドは口を挟まずにじっと待っている。昼間の終わりを告げる光が叱咤するように目に突き刺さってくるが、サウンドは平然と澄まして応じようとしない。目が潤むのは、ひとえに残滓のためであり、他の要因はまったく関与していない。
 シャープが呆然としたように佇んでいて、いっこうに口を開こうとしない。サウンドは我関せずの顔で夕日を見つめるだけだ。朝からつい先程まで後ろに影のごとくたなびかせていた暗い気持ちに侵されていたならば、いらいらし始めて仕舞いには激昂し、シャープを責めたかもしれないが、影は所詮影であり主人の許容範囲を越えた行動ができないのだと気づいたサウンドは、むしろこの沈黙が心地いいとさえ思っていた。
 それは、ひょっとしたらもしかすると、隣にいるのがシャープだからなのかもしれないね。
 風の吹いていなかった(それはそれで不可思議な現象だったものの、サウンドはそこまで気が回らなかったので、さして疑問に感じなかった)空気にふわりと風らしきものが現れた。シャープが息を吸い込んだんだと分かった瞬間、サウンドは視線を動かさずに、全ての意識を束ねて作った集中の棒の先をシャープに向け投げ付けた。そして見事、通り過ぎずに当たった。
「愛するってのは、好きと嫌いがいっしょになったことなんじゃないかと思うんだよね」それでもシャープは躊躇しているようだった。
 頭上にある丸くなった毛の塊みたいなものの下の眉間に微かにシワがよる。サウンドは横目でちらりとそれを確認した。
「いっしょに?」サウンドは言った。
「そうそう。うまく言葉じゃ説明できないんだけど……」シャープはまた言葉を見失った。
 サウンドはなにか助け舟を出したほうがいいのではないかとすこしだけ思案した後、シャープが大きく息を吸う音が耳に飛び込んできたので、口を結んでいることにした。
 途切れがちだけど、シャープがなにか大事なことを言おうとしてるんだ。僕がしっかり聞かないで、誰が聞くっていうんだ。余計な口出しでシャープの邪魔をしたくない。シャープが、恥ずかしいと思ってても話そうとしてるのは……外(ほか)ならぬ……僕のためなんだから。
 サウンドは、自分がシャープから信頼されているのを自負しているわけではないと信じていた。それは自負なんかじゃない、ホントのことなんだと吟味して疑わなかった。愚考といえばそれまでだが、裏を返せば、サウンドのほうがシャープに信用を置いているという意味でもあった。サウンドは、当座のところはそこまで把握できなかったが。
「……つまりね。次元が違うんだよ」シャープが言う。
 今度はシャープの言葉を繰り返さずに、サウンドは黙りこくっている。お構いなしにシャープは続ける。
「ウタを愛する。自分を愛する。誰かを愛する……それを好きになるっていうんだって、自分が言い出しっぺなんだってことさらにぎゃあぎゃあ高らかに熱弁振るう人がいるけど、そいつは勘違いしてるんじゃないかと思うんだ」
 僕のことを言ってるのかな。
 どこからともなくそうとは限らないと天のお告げのように声がサウンドの念頭に降って湧いた。
「だってそうでしょ?例えば家族が一匹しかいないポケモンがいたとするよ。そのポケモンは、親戚関係のポケモンが一匹しかいないんだ」
 サウンドは口を一文字にきつくしめ、頷いた。
「彼は、その血縁関係をもっている無二のポケモンがすごく好きなのね。そりゃそうだよね。だって家族なんだから。……おっと。誤解を招くかもしれないから一応言っておくけど、彼が家族を好きなのは、別にその家族が一匹だけだからじゃなくて、単に家族だからだよ。彼は、彼の周りを取り囲む家族が一匹だろうがたくさんいようが、みんな平等に好きだと感じるだろうね……ただ、彼の場合はそれが一匹しかいないから、“好き”が局所に集中するっていう、それだけのこと」
「ようするに、その彼ってポケモンは他に家族がいればみんなを同じように好きになったけど、実際は一匹しかいないから、その一匹だけが好きなんだってこと?」
「まあそんな感じかな。一匹だから好きってわけじゃないことが、大切なの」
 彼なる人がただ一匹の家族のことを好きなのは、“一匹しかいない肉親だから”ってわけじゃないってことか。
「かわいそうだね」サウンドは耳元に話しかけるようなぼそぼそとか細い声音で呟いた。
「え?」シャープは意表をつかれたように目をしばたたく。
 サウンドは口の周りを嘗めて心理的な反動をつけてから答える。
「その、一匹しか家族がいないポケモンがさ。なんだか、かわいそうだなあって思って」
 シャープはしばらく思案げに顎(首かもしれない。プクリンの場合、それらは境界がなく延長上に存在しているため、ほとんど同一のものである)を上げてから「そうだけど……例え話だからあんまり気にしなさんな」と笑いながら言った。
「そうですな」サウンドも笑みらしき表情を浮かべ、シャープの口マネをしながら言った。
 シャープは一瞬ムッとしたように下唇を突き上げたが、彼女が再びやんわりとした笑いを取り戻すまでさほど時間はかからなかった。
 サウンドはそれを見て、すこしだけ出した舌で再度口の辺りを嘗め回す。そうすべきだと、そうするのが自然なんじゃないかと思ったのだ。サウンドはおどけた表情になる。
「彼は、家族が好きなのね……今も昔も」
 シャープが出し抜けに話を再開したので、危うくサウンドは話の首を掴みそこねるところだった。シャープは意識さえすれば前触れを感じさせないで声を出すこともできる……そのことに気がつくと、サウンドはシャープが実は演技肌なのかもしれないと勘くぐり、眉根を近づけた。
 そんな考えも、シャープに着いていこうとひと思いなサウンドはすぐに忘れてしまったが。
 サウンドは、張り倒された後追撃を避けるために俊敏な動きで体制を立て直すときのように、なんとかシャープの話にしがみついた。
「でも、彼は最近家族に会っていない」とシャープ。
「どうして?」
 反射的にサウンドは問いかけてしまい、意図的ではないにしろ、結果としてサウンドはシャープの話に割り入ってしまった。申し訳なさそうに黄昏れからシャープへ視線をずらすも、些細なことを気にするシャープではない。最初からサウンドは何も言葉を発していないという態度で、シシャープは残光の光源を凝視したまま、魅入られたように視線を動かさなかった。ひょっとしたら演技ではなく本当にサウンドの言葉が耳に入らなかったのかもしれないが、そのようなことに真実を追求するほどサウンドは神経質ではなかった。どちらかといえば図太い性格であることは当人も自覚の上なのかもしれない。
「なぜならかっていうと、彼は家族に嫌われてるんじゃないかって思ってるからだよ」
「嫌われてるって?どうしてまた?」サウンドはこちらから質問をぶつけた方がシャープが弁舌をなめらかにすると思った。
「彼が……家族に酷いことをしたから」
「酷いこと」サウンドは独り呟く。
「もっとも、彼自身は家族を傷つけたり不快な思いにさせたりする気持ちは毛頭なかったんだけどね。でも、彼は家族に辛い思いをさせちゃって、彼は本当に独りになった」
 遠く村の方向から、帰りの遅い我が子を探して右往左往し叫んでいるポケモンの大声が耳に入ってきた。暗くなる前に見つけないと、どこからともなく現れる悪いポケモンにさらわれるかもしれないといういわれのない不安に駆られた声を聞いているうちに、サウンドも背中がなんだかむずかゆくなって、落ち着かなげに足を揺すりだした。
「もうすこしだから……多分、もうすこしだからさ、聞いててよ」シャープは軟らかく言った。
 サウンドは悪びれた様子で軽く首を左右に振る。
「あーいや、ごめん。そういうつもりじゃないんだけど」サウンドは努めてさりげなく言い返した。
 サウンドは足をばたつかせるのを止め、鼻から空気を取り込んだ。サウンドの顔つきに、急に年老いたシワが浮かぶ。
 帰りたい。どうしてかは知らないけど、今僕はものすごく帰りたいと思ってる。僕の家……日当たりは良好なくせして一匹しか住んでいない、部屋にはあちらこちらにきのみの皮が散らばってるし、屈辱の涙を落とした冷たい床からは、座る度に冷然とした青い拒絶を感じる……そんな場所でも、僕はものすごく帰りたい。どうして?
 頭を傾げる一方で、サウンドはその理由をすでに把握していた。しかし認めたくなかったから、サウンドは白々しいなと薄い笑みを作りながら、備わっていない尻尾を巻いて逃げてしまいたい衝動と攻防を繰り広げていた。
 サウンドは、シャープの紡ぐ物語が卑近な寓話的例え話ではなく、最も身近で、かつ事実に基づいた実話であると気づいたのだ。サウンドを冷たい家へと急かすのは時間だけではない。
「でもね、彼が突っぱねるみたいに家族に当たったのは、家族のことを想ってこそだったんだよ。わざとなんだ」知ってか知らずか、シャープは早口に言った。
「わざと?」サウンドはこれまでの人生でおそらく数えられるほどしかしてこなかった嘲笑を含んだ複雑な顔を浮かべた。
「家族のポケモンは、彼にお願いをしたの。弱い自分を鍛えてほしいって」
 吐(ぬ)かせ。
 家族のポケモンが彼から鍛えてほしかったのは、拳や爪や牙を交えた戦いのセンスなのか、あるいは絵や音楽といった芸術的な技術なのか、シャープは告げなかったが、サウンドはあえて問い質そうとしなかった。無論、分かっていたからというのもあるが、シャープが一歩離れた場所から話をしているのだから、自分から進んで寓話を現実に重ねるのは憚れたというのが主たる理由だ。
 シャープは“例え話”として語るつもりなんだ。だったら僕だってそのつもりで話を聞かせてもらうよ。
「彼は徹底的に鍛えてやろうと目の色を変えて勇み立った。ひたすら、ひたすら、そして明くる日も明くる日もきついトレーニング。毎日ガラガラ声になるまで悲鳴を吐かせ、弱音を吐いたら課題を追加していく。地獄のような練習。ときには暴力だって当たり前のように行われた」
 ああそうだったよ。最悪だった。ありえないくらい。
「彼は最善を尽くしたつもりだった」
「でも、家族は彼から去って行った」サウンドははっきりと口にした。「そうだよね?」
 シャープは口を閉じた状態で、口角を微かに上げたまま頷く。サウンドは訝しがる顔を作った。「うん。家族は彼から逃げるみたいに離れていっちゃって。ある日、突然。それ以来同じ土地に住んでいるのに顔を合わせようともしない。避けてるんだね、お互いに」
 サウンドの表情が俄かに硬直して、薄笑いにぎこちなく力が入ると徐々に笑みは波のように退いて行き、入れ違いに口から食いしばった歯が覗いた。
「そんなつもりなんてなかったんだ」サウンドの身体はわなわなと震え、声はかすれて聞きにくい。
 シャープは目を完全に閉じるギリギリの視界を取って小河の瞬きを見つめているようだった。
 そんなつもりなんて……裏切ろうとしたわけじゃない。分かってた。おじさんはできる限りのことをして、前例がないくらい上手に歌えないプリンである僕に、徹底的な指導をして歌えるようにしようとしてくれた。
「裏切ろうなんて……おじさんは……うっ」
 はっとしたときにはもう手遅れだった。
“おじさん”と口先に上らせたということは、サウンド自ら作り物から現実に凝固させてしまったということだ。決心したのもつかの間、すっぽり抜けてしまった……そのくらい動揺していた。
 途切れがちにサウンドの胸に沸き上がる悲痛の叫びを、シャープは目にしていないはずはないのだが、彼女はこの世に生を受けた際魂を授けられなかった石の彫像のように微動だにしなかった。シャープは微笑んだまま、サウンドの隣で、きらびやかな小河に流されている。彼女を取り巻く周囲一帯だけ、まるで時間から忘れ去られているように歪んでいる。
「でも、なんだかんだ言ったって、結局家族は彼を裏切ったん」
「違う!違う!」
「なにが違うの?」シャープは堂々とした様子で、サウンドとはまるで対称的である。
「だって……だって……仕方なかったんだ。厳し過ぎた。僕は着いていけそうになかった」
 ふん、とシャープは鼻を鳴らす。
「語るに落ちたね、サウンド。裏切ったっていうことを認めるんだね」
 サウンドは口ごもった。沈黙以外の選択肢があったなら喜んでそれにすがりつこうという意思が固まっていたものの、サウンドはそれ一つしか選択肢が思い付かなかったのだ。回転の遅い頭に地団駄踏んで叱責しても、サウンドは黙るしか能がなかった。
 小河の歌だけが空気に溶けていた。
「……かもね」
 最初、サウンドはシャープが言ったのかと思った。彼のスカスカな頭は一色に染まっており、言い訳は見苦しいと判断したうえで思考を停止していたからだ。だが、耳に入ったその声は明らかに長年慣れ親しんだ自分のそれで間違いなかった。サウンドは驚愕の念に打たれたように背筋を伸ばす。
 変わってないんだなあ、僕の声は……きっと、変わってないのは声だけじゃないんだろうけど。
「裏切ったよ。うん……うん」サウンドは何度も首を縦に振る。
 サウンドはシャープに振り返りしっかりと見定めた。静かな目はどこか諦観を漂わせている。
「ダメだった。耐えられなかった。我慢できなかったんだ……もう……もう」
 シャープがサウンドのほうに目を配ると、サウンドは彼女の眼力に押し返されるように視線を逸らした。シャープの揺るぎない眼目は天空から全てを俯瞰している誰かのもののように思われ、直視しようものなら天罰が下るような錯覚さえ湧いた。胸に締め付けられる痛みを感じる。
 真っ向こうからシャープの話を受け止めることのできない自分に義憤を感じつつ、視線が結ばれたときに自分がどんなにみすぼらしくシャープの目に映るだろうか想像すると、恐怖感に煽られて身体が震撼した。
「くっ、うあ……」
 寒さを緩和しようとするように腕を身体に巻き付け、さすり、うなだれた。頭を低くし腕の中に沈めて力無く頭を揺らす。
 だって……ああ……。
 真っ黒な泥沼に身体が飲み込まれ自分で脱することのできないもどかしさと、生来抱いたことがないほどの激情がぶつかり合い、火花を散らしながらも、境界線がだんだん溶け出し一つに束ねられたとき、サウンドは恍惚とした。瞳から色という色が落ちた。
「……悪いことしたって、思ってる?」シャープは悠然ときいた。
 ぴしゃりとした口調にサウンドは眉をピクリと反応させ、一度は目をつむったが、それは跳躍のバネのような効果を期待しての動作だった。実際、サウンドはすこしだけすっきりした気持ちになれた。
「悪かったって思ってる」
 もちろん。だからこんな思いしなくちゃいけないんだ。だからこんなにイタイんだ。物越し軟らかい村長の顔と、ほんの小さな隙間も見逃さない徹底主義の顔を使い分けるあのポケモンのことなんて、忘れてしまいたい。荘厳で、でも暴力も奮う酷いポケモン……そんなポケモンが、僕の唯一の家族。家族でも、忘れてしまうことはできるだろうに。嫌なポケモンなら、裏切られるのは当たり前のことであって、僕は正しい判断をしたんだって言い切れるはずのに……なのに、僕はおじさんに申し訳なく思ってるし、後悔してる。
 なぜ?
「後悔してるんだね?」
「……うん。できるなら、きつくたっておじさんを裏切りたくなかった。でも、できなかった」
「自分で選んだくせに、悔やんでるの?」
 きつい言葉だ。背中にもたれかかった亡霊がぐっと体重をかけて倒れてきてるみたいに、身体が沈みこむ。サウンドは黙って俯くように頭を落とした。
 シャープはわざとらしく息を継いでから切り出した。
「彼は、家族に裏切られたのを悲しんでいるけど、取り返しのつかないことをしてしまったって、同じくらい……ううん、それ以上に後悔してる」
 サウンドは寝耳に水が入ったように露骨に驚きピクリとした。
「おじさんも、後悔してるって言うの?」
「謝ろうにもなにをどう謝ればいいのか、家族になんて声をかけたらいいのか分からずに、済まないと思うココロだけがいたずらに空回りしちゃって、言葉にできない毎日が過ぎるのを、呆然と見つめている」シャープはサウンドを無視して語り続けた。
「きっかけさえあればっていっつも唸ってるんだけど、なかなか見つけられないのね……バカだよね。時間なんて生きてる限りいくらであるし、きっかけなんてそこらじゅうにゴロゴロ転がってるのに。そもそも、きっかけなんていらないのに。たった一歩前に踏み出す勇気さえあれば、きっかけなんて毎日だって確保できるのに。バカだよね。正真正銘のバカだよ、彼は」
 おじさんが?僕が歯を食いしばってたのと同じような悩みに、おじさんも苦心してたってことなの?
「まあ私から言わせればお互いに惨めだね。ちょっと気を遣い合えば齟齬(そご)なんて解消できるはずなのに、しないんだもん」
「そう簡単でもないんだよ」ため息混じりにサウンドは呟いた。
「ちょっと羨ましいかな」サウンドはそう耳に挟んだような気がしたのだが、シャープが早口に吐き捨てたので、うまく聞き取れなかった。
 だが、とりあえず聞き流しておくことに決めた。重点をおくべきはそこではないし、シャープが実際に言ったかは自信がなかったからだ。それでも後から自分に問い質すと、シャープは呟いたのだと彼は確執して譲らない。
 シャープはにっと歯を剥き出しにした喜色満面の笑みを浮かべ、横目でサウンドに視線を送った。
「愛し合ってるんだね、彼らは」
「ぶっ!」
 あいしあってるう?
「ちょっとちょっと、待ってよ!それじゃあまるで僕たちが同性愛者みたいじゃないか」
「違うの?」きょとんと零れた声がうそぶいているようにも真剣に訴えているようにも読み取れた。
「ち・が・う!」サウンドは一語一語区切った。
「嫌いと言えば嘘になるけどさ、別に好きってわけじゃ」
「なにそれ?結局どっちなんだか分かんないよ」シャープはにたにたしている。
 返答に困る。どう答えたってシャープに足すくわれてすっ転んじゃうじゃん。うーん……。
「ふふん」シャープは改めて笑い直す。
 サウンドは背中が氷柱に入れ代わったようにぞっと身震いして、恐る恐るシャープを盗み見る
 警戒していた通りの不気味な笑顔がサウンドの神経の表面を冷たい指でそうっと撫でて行った。ぞくぞく染みる悪寒が身体を走り抜ける。
「シャープ、怖いよ。前からずっと思ってたんだけど、そんなにいつも笑ってるとおかしくなったんじゃないかって冗談抜きで考えちゃう」
 それでもシャープは一向に笑顔を崩そうとせず、あかんべするように舌の先をちょこんと突き出すだけだ。
「笑うのは身体にも頭にもいいことなんだよ。ま、私は笑わなくたって不死身なんだけどね」
 やっと完成した自作の曲のメロディーをさっそく口ずさんでいるような、陽気で軽快な口調だった。
 シャープが不死身なのは否定しないけどね。もしこのポケモンがマグマに落っこちて、へらへらしながらはい上がってきたって、僕は不思議には思わないと思う。僕の知る限り、「無敵」という最大まで誇張したお世辞文句が、お世辞じゃなくて真の褒め言葉として取らえられるのは、シャープだけだ。
「……でもさ、愛するってのは、そういうことなんじゃないかと思うんだ。サウンド、聞いてる?」
「え、ああ。うん。聞いてるよ」
 刹那的にぼんやりとしていたサウンドは我に帰って相槌を打つ。
 シャープの天使のような笑みにうっすらと黒い雲が立ち込めたようだったので、サウンドは緊張して座り直した。シャープが真面目になる瞬間は突然で予測できないなあとサウンドは小さく笑窪を作った。本人も、振り返ってみてようやく笑っていたのだと気がつくくらいの、ごくごく小さな、ひとりでに湧いた笑いだった。
「『愛』って単語に抵抗があるようなら、『思いやり』だとか『真心』なんかと言い換えてもおんなじ意味になるかな……」シャープは思慮深げに呟いた。「ようは、好きなんだけど、嫌いじゃないわけじゃない。疎ましいけど、元気に生活してる姿を見たいと願う。そういう感情を、私は愛って呼んでる」
 言い始めたらつるつるの氷の上を滑るようにシャープの口はしきりに開閉を繰り返した。
シャープは、疲れたのだろう、身体の上半分をのけ反らしておおっぴらに深呼吸してから、閃いたようにもう一言だけおまけみたいに付け加えた。
「はい、これで例え話はおしまい。おもしろかったでしょ?なんていうか……作り話ってドラチックで素敵だよね」
 サウンドは呆気にとられて鼻白んだ。間抜けにも口を開けていたことに気がつき、慌てて閉じようとしたがうまくいかず、しばらく口をぱくぱくさせるしかなかった。口の中は渇き切っていて、シャープの目の前でなければ、またシャープさえ気にかけなければ、テッカニンにも負けず劣らずの素早さで小河まで足を運ばせる自信があった。
「あそこまで話しておきながら、まだしらばっくれるの……」サウンドは捻くれたように声を落とした。
「長い話だったからこんがらがっちゃったかな?心配なんだけど……でも、明らかじゃなくてもいいから、なんとか分かってくれたかな?愛するってことを」
 サウンドはシャープの言葉を歯の奥に含むようにゆっくり胸の中でかみ砕いてから、舌の上で転がした。
 分かったのかな?それがよく分からないや。「分かっただろ」って言い迫られれば「分かった」って答えるだろうし、「分からないのか」と詰め寄られれば……。分かったのか?分かってないのか?
 シャープはサウンドの歯ぎしりが鳴るのを堂に入った様子で耳に挟んでいた。彼女はサウンドを本人よりもよく理解していたし、倦怠感に思い悩むサウンドの身体を温かく抱擁する優しさも、そして必要ならば海辺の断崖の上から突き放す厳格さの両方とも持ち合わせていた。
 シャープは急ぐ様子もなく毅然と小河のほとりに座っていたが、内心は決して穏やかではなかったはずだ。それはサウンドも同様だった。サウンドは、夕日が沈む前に結論を出さなければならない、と見えない誰かにプレッシャーをかけられていた。
 別に、夕日が没するとシャープは存在できないとか、練習をしてはいけないとかそういう取り決めを二匹で約束していたわけではなかったが、夕日が見えなくなったら、それはお別れの時間なのだというのが暗黙の了解として 二匹の間に結ばれているように思えてならなかった。
命果てる直前の夕日が絶叫をあげるように赤々と燃え上がっていて、サウンドの緑色の瞳のほとんどを真っ赤に塗り替えていた。瞳の表面に薄く涙の膜がかかると、より一層炎は勢いを増して燃え盛り、さながら海に沈む夕日みたいにキラキラしていた。失われる時間。刻一刻と高度を落とす巨大な火の玉。そして切羽詰まった状況の中で、壁に囲まれ逃げ場を失ったサウンドは、最終的に、あの、どんな場合でも臨機応変に使用でき、彼自身は乱用していたあの文句を口ずさむしか思いつかなかった。
 胸中に絶望にも似た無力感を患いながらも、サウンドは唇を噛み締しめ、一心に言い切ってしまおうと息を取り込む。
「分からな」
「ねえ。サウンド」途中でシャープの乾いた声がサウンドのそれに被さり続きを遮った。
「なんだよ」サウンドは苛立ちを隠そうとしなかった。
 また片隅では、シャープは予めサウンドがどう言うか見当がついていて、言わせまいと口を挟んだのではないかとうたぐった。
 アキラメナヨ。
 シャープはにかっと口を割ってから耳元で囁いているとサウンドに錯覚を起こさせるほど明瞭な声を出した。
「それだけウタが嫌いで好きなんだから、サウンドは間違いなくウタを愛してるんだよ。認めなよ。なにも躊躇うことなんてないから」
 サウンドの身体が驚愕に硬直し、サウンドは無意識に荒っぽく空気を吸う。サウンドの頭のてっぺんから足の先端まで痺れない電流が滝の流れのように駆け抜け、サウンドは弾けんばかりの胸の高鳴りを統制できなかった。頭の中に白いペンキが流れ込んできて、しばらくの間ぼんやりとその場で揺らめいていた。すぐに乾いた白いペンキの上から、新しい色のペンキが塗りたくられる。
 どうして?
 いや、違う。「どうしてシャープが“サウンド”と同様、諦めるということをアドバイスしたのか」という疑念が浮かぶほど、サウンドに余裕はなかった。当時、彼に浮かんだのは疑問ですらなく、探求の末に世界の永遠の謎が氷解したような安堵だった。
 サウンドは気後れしていたのがなんだか急にバカバカしくなり、表情も一変、穏やかな顔付きに移った。そこで彼は改めて、自分の顔が強張っていたことに気づいた。
「諦める、か……諦めるか」サウンドは小さく笑った。
 そうか、そういう意味だったんだ。“サウンド”が言ってた諦めるってのは、歌が上手になるのを断念するとかじゃなくて……認めることなんだ。
 認めること。サウンドは歌が嫌いであったし、今だって嫌いかどうか問われたらろくに考えもせずに「嫌いだよ」と社交的な自己紹介をするように返事するかもしれない。
 当たり前だ。ウタなんていうものがなければ、ビートの血ヘドを吐くほど辛辣な練習を受けずにすんだし、彼との食い違いで腹を痛め眠れぬ夜の静寂に耳を澄ますこともなかった。
 独立して練習を開始したサウンド。しかし、独断練習を始め、必ず歌えるようになると自分に期待したすえ、サウンドの理想は手の中を擦り抜けて落ちてしまった。こんなはずではなかった……腹痛に新しい要因が加わった。
苦痛は螺旋階段を上から覗くように手段や形を変えてサウンドの胸を圧迫し続けた。怠慢な日々。虚ろに過ぎ行く時間。いたずらに頭上にアーチを架ける太陽。欠けては満ちる明度の高い月。気安く肩を叩く友人達……それら全てはいつもサウンドの身の回りに溢れていて、サウンドを完全な孤独から守ってくれたが、そのどれか一つでも、サウンドの消失したウタへの情熱を埋めてくれただろうか?彼らはサウンドの傍らにいて倒れないよう支えてくれこそすれ、内側から広がる心の腐敗の進行を食い止める気はさらさらなかったのだ。そのような能力自体、なかったのだが。なにより、サウンド自身が堕落を抑止する方法を知らなかったのだから、腐敗はテーブルクロスに染み込むきのみジュースのようにじわじわと陣地を広げ、衰える様子を見せなかった。
 サソリについても同様のことが言える。遅ればせながら歌がうまくなりたいと願望を抱きしめていた最中に、サウンドがビート宅から帰省中、サソリとサウンドは運命のようにばったり出くわしてしまった。もし、あの日、サソリが村長にリンゴを届けようなどと思わなければ?夕日がサウンドの殴られた頬を、サソリの鋭い目を盲目にすることで隠蔽していてくれていたら?そのときは、サウンドはサソリに見咎められることもなく、ビートの手厳しい練習を血の滲むような努力の末に耐え抜き、見事歌が歌えるプクリンとして胸を張って村道を歩けたかもしれない。
 昨日の事件も例外ではない。サソリはまたもサウンドをおとしめようと画策したのだ。険しい表情をしたドラピオンに反抗したばかりに、サウンドは小河へ放り投げられ、腹を殴られ、河辺に打ち捨てられたゴミのように突っ伏した始末だ。腹部を始めとした痛みは昨日からずっと全身にベールのごとく取り巻いていて、意識すればあのときの痛みが蘇り、サウンドの目を色彩の喪失した木偶(でく)のようにするだろう。
「下手くそ」。その一言が“現在も”楔のように深々と打ち付けられていて、身体から抜け落ちる兆しすら見えない。
 歌があったから、こんな思いした。歌さえなければ、もっと生きやすかったはず。歌なんてなければよかったのに……あんなもの……僕は、「大嫌いだ、歌なんて!なくなっちゃえばいいのにって何回も恨み言を吐き捨てたさ!むかつく。あー腹立つ」
 だが、ならばどうして、こんなにもサウンドは歌に執着するのだろう。嫌いなら、やめればいいではないか。なにもかも遥か彼方へうっちゃって、二度と手に取らないよう無視してしまえば、思い煩う日々にケリが着くのではないか。そうだ、それでいいではないか?現に、サウンドが重りのついた鎖でくくられた足を引きずって小河へきたのは、歌をやめるためではなかったか。諦めること……実行に移すために、不安定な足取りでシャープと顔を合わせにきたはずだった。
 そんなサウンドの胸から拘束を外し、彼を本来の彼に解放したのは、外ならぬシャープのウタである。小河を謄写(とうしゃ)した彼女の優しく温かいウタ声が、かつてサウンドが落っことしたウタのカケラをサソリに奪われた心中の空所に当て嵌めたのだ。
 サウンドはウタがいかなるものであるか薄々気がついている。サウンドはシャープのウタが、埋没した自分を再び奮い立たせた(まだ途中だが)ように、自分の頼りないウタもまた、窮地に陥った誰かに救いの手を差し延べられるのではないかと考え出した。
 すごい力が、ウタにはある。こんなどうしようもない、裏切り者で、落ちこぼれで、才能もなんにもないようなこの僕を根本から変えられるだけのとんでもなくおっきな力が、ウタには秘められているんだ。なんで気がつかなかったんだろ……いやそうじゃない。
“なんで忘れていたんだろう?”
 ウタは元々、誰かのためにするものじゃなかったはずだ。がむしゃらにウタって、ウタって、騒いで、それで自分だけが満足して……それで、それだけだ。でも、それでいいんだ。シャープだって僕を励まそうとしてウタってたわけじゃない。シャープがウタってたちょうどそのときに僕がタイミングよくきちゃっただけで、偶然だ。だけど上手なウタには、たとえ自分で勝手にしてただけでも、誰かのなにかを揺さぶる感動が確かにある。だって、僕はこうして……まあ、こうしている。
 サウンドは自分がリズムに合わせてウタを奏でている姿を頭の中で膨らませた。いつかそうなりたいという願望が、夢見がちな雄のプクリンに一瞬幻想的な景色を見せる。
 サウンドは周囲よりすこし高く段差のついた舞台から、ウタを聞きに足を運んだポケモンを達観している。サウンドは視界が高いせいもあって、自分がいつもより一回り大きくなっているような気になっている。
席のポケモンの数は至極少ない。どんなに多く見積もっても三匹程度で、もしかしたら席に着いているのはたった一匹かもしれない。サウンドはそれの顔を見遣るが、なぜか景色と顔の線が溶けているようにぼんやりしている。いずれにせよ、ポケモンの顔はまるで靄がかかっているように判然とせず、体格もよく分からない。だが、何者かがサウンドのウタを聞きにここにいるのは確かなのだ。サウンドはそれを察知した。
 綺麗な場所だ。ここは野外。視野を狭くする室内特有の壁は取り払われ、開放的な空間を実現している。
 綺麗な時間帯。美しい黄昏れ。ここも、現実の世界と同じように夕暮れ時なのだ。
 サウンドは些か緊張気味で、やたら目をしばたたいたりすることで、緊張を発散しなんとか平静を保っている。幻想のサウンドは、ウタを上手にウタえるようになっていたのだが、人前でウタを披露するのはまだほとんど経験していないから、揚がっているのである。
 緊迫した空気に引き締まったサウンドは、ため息と深呼吸を同時にしてから、目を閉じ、これまで踏みしだいてきた高低差の激しい道のりを反芻して味わう。
 カッと目を見開く。
 その瞬間、サウンドは集まったポケモンの数を一瞬だけ確認できた。四匹だ。サウンドのウタに集まったポケモンは、全部で四匹である。その内には、おそらくサウンド自身が含まれていることだろう。すぐにさっとしぶとい霧が再び覆いかぶさり白一色に染め、彼らをぼかす。
 サウンドはもじもじと小さな子どものように逡巡していたが、やがて高をくくったのか、キッと鋭い視線を席に立つ彼らを通り越し彼方へ投げかけると、胸に飛び込もうとする雌を受け止めるように両腕を広げ、ゆっくり口を開く。
 サウンド。
 シャープがサウンドの名を呼ぶ。サウンドは耳だけで聞き取る。
 サウンドはこれから、自分勝手なウタを歌おうとしているのだ。自分の声に自分のココロを乗せ、自分の好きなウタを口ずさもうとしている。
 客はあくまでも引き立て役の飾りか演出であり、サウンドは決して彼らのためにウタおうというつもりはない。しかし、サウンドは知っている。まさに自分のウタが、自分のしがなくて目茶苦茶なウタだけが、誰かのなにかを刺激し、再始動させることができるのだと。
 僕にしかできないことがあるんだ、きっと。僕には僕の役割がある。助け合いで成り立っている村の柱の一本になれるんだ。役割を担うのにウタか不可欠なんだったら、あんなに嫌いな歌だって、好きになれる!絶対!
 シャープはより一層口角を上げ、心から嬉しいのだというのを明らかにするように笑った。サウンドのほうを見ず、さりげなく尋ねた。
 サウンドは、ウタ、愛してる?
 あの日の問いが時空を越えてもう一度試練のようにサウンドに降り注がれたとき、サウンドは心なしかぽかぽか身体が暖かくなったように感じた。恥ずかしさが頬に漏れ出したが、それにも増す、シャープの質問にうやむやでない受け答えができるという歓喜がサウンドを綻ばせた。
 サウンドは笑っていたのだ。
「僕は……」
 サウンドの頬は本人が思っていたほど従順に動いてくれなくて、サウンドは訝しく思った。分厚い埃の層が下りるくらい使用されていなかった筋肉にいきなり命令したのだから、当然なのだが。サウンドはしばらくぶりに使った頬の筋肉が後日悲鳴を上げやしないかと不安にかられたが、即座にどうでもいいやと思った。
 痛くなっても構わない。だって嬉しいんだから、それを思いきり表出したって罰はあたらないでしょ。ホントに……嬉しいんだ。こんなに晴れ晴れとした気持ちになるのは久しぶり……初めてかもしれない。
 急にサウンドはシャープへ身体を向け、大きく開かれたまんまるの目でシャープを直視した。
 不意打ちに驚いたシャープのぎょっとした表情があどけなくて、かわいらしくて、いつまでも眺めていたいと望んだ。
「僕は……ウタを愛してる!」まるで遠くの誰かに叫んでいるように声を張った。
「いろいろ嫌な体験もしたから、もう関わりたくないと思ったし嫌いなんだけど、やっぱり忘れられない。ウタが……大好きだから」
 サウンドに虚をつかれ、唇を突き出していたシャープも、にっこり笑ってサウンドに振り向く。
 シャープは勢いづいて立ち上がり、ゆったりした動作で片手をサウンドに差し延べて頷いた。「よかった。じゃあ、これからもよろしくね、サウンド」
「それは僕が言うことだよ」
 サウンドも力いっぱい二つの足を踏ん張って、シャープと向き合う。
「これからもよろしく。センセーとしても」僕にウタを思い出させてくれた、かけがえのない友達としても。これからも……ずっと。
 二匹は互いの手を握った。目撃者は当人らを除けば、小河に夕日、さざめく草村と、案外大勢見ていた。
 こうして、かつて一度は手放したものをサウンドは胸中に取り戻すことができた。ほんの数日前までは頭を過ぎりもしなかった夢が、実体となって懐(ふところ)に蘇った。シャープに出会わなければ絶対にありえなかったのは言うまでもない。全部シャープがいてくれたから。シャープがあのとき手ほどきしてくれたからこそ、現在のサウンドはここにいて、ウタを愛していられる。
 サウンドは少年のように垢抜けない笑みを飾りはしゃいでいる。シャープはうっとりとサウンドを見つめていたが、思い出したように暗い表情になった。申し訳なさそうに視線を足元に落とす。黄金の喜びに心酔したサウンドが深く突き詰めようとしなかったのは、双方にとって幸いだった。



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 ほう、と語り手はため息を落とす。目に飛び込んだ床は、村の周囲一帯をなにか災いから守るように群生している森から一部を拝借し(というと聞こえはいいが、ようするに切り取ったのだ)、加工し、組み立てた結果、ようやく姿をあらわにした、人力の賜物だ。それを言うなら、この建物そのものが森から授かった木で作られているのだが。
 木を切り取るときは、申し訳ないなあと謝罪の気持ちが心いっぱいに広がったが、建物の建築を開始した時点で無駄にしてなるものかというある種の脅迫めいた意思に取って変わり、作業が終了し、全貌が明らかになり、腰に腕を当てて胸を張ったときには心底感謝したものだ。
 語り手は口から声が漏れないよう注意を払いながら微笑み、当時を懐かしく思い出す。
語り手は頭を起こす。彼の視線は目前で興味深そうにこちらに丸い目を向けている幼いポケモン達を通りすぎ、建物の内部全体に投げかけられた。
 釘を一切使わずに木材のみで建てたこの建物は、たとえその事実を知らなくても、入った瞬間なんだかふわりと柔らかい気分にさせる空間を内部に蓄えている。それは、恐らく建物の持ち主に由来している。彼はどんな急な事態にも取り乱さず行動、指示できる冷静さと、人生のほの暗い深淵を誤って覗いてしまい失望に暮れる村民をなんの抵抗もなしに手を差し延べる温情の両方を併せ持っているからである。
 語り手は、村の誰かの力になるのは自分の役割であり、義務を果たしているだけだと称賛される度に苦笑混じりに否定していたが、村のポケモンがあまりにも囃し立ててしょうがないので、多分、今の自分の仕事は特別なものなのだろうと諦めることにした。労を賭してわざわざ流れに反抗することはない。評価するのは常に他人であり、自己評価を推し進める人間ほど嘘をつきやすい。
 釘を打たなかったことについては、特にはっきりとした目的があったわけではなかったが、最近になってようやく理由らしい理由に思い当たった。ここに足を運ぶ子供の内一匹をなんの気無しに見つめていたら、降って湧いたように唐突にピンと閃いたのだ。
 彼は後天的な尖端恐怖症で、取り分け差し込むために先が鋭く尖れた物体は、それを掴んだ手が震えるくらい嫌悪した。あの、先端が近づくにつれて段々幅が狭くなり、末端に到達すると一点に終着する形状が目に飛び込んでくると、途端に竦み上がってしまい肩を上下に揺すらなければならないほど呼吸が荒々しくなってしまう。先が尖って光を受けると銀色に瞬く「釘」から、あの毒の染みついた「針」を連想するからかもしれない。
 いつから針に恐怖感を覚えるようになったのは判然としなかった。はっきりさせようとしなかった。もうじき思い出せるだろう……正確に言い換えれば、認めることができるだろう。彼は直感的にそう予測した。
 そうしたら、日常生活に荷厄介な、このどこまでも付き纏うまどろっこしい先端恐怖症にも手を振ることができるだろう。語ることで、それは硬質な形で姿を見せることだろう。
「あの、先生」一丸となったポケモンの中から一匹のポケモンが声を上げた。
 群集は驚いたようにそのポケモンを振り返り、たった今思い出したようにしきりに瞼を打っていた。これまで集中していた証拠だ。きのみに刃を入れたようにざっぱり一群に切れ目が引かれる。語り手もびっくりしてそのポケモンに眼差しを向けた。
「む……なんだい?」
 語り手は傾きかけた平常心を口元に曖昧な笑みを浮かべることでなんと隠すのに精一杯だった。よく萎縮せずに声を出せたなと感心さえした。
 いつの間にかどこか遠くへ“ぶっ飛んで”いたのだ。プリンの少年時代はもとよりプクリンに成り立てだった若い青年のときもよく現実と夢に見境がつかなくなり、それらが境界線を跨ぎ越して交流したものだが、それは改善するよう努力しているにも関わらず、現在も変わっていない。ここまでくると病的ではないか。語り手はクスクス笑う。
 だが、それもいいだろう。オーバーリアクションはあの出来事を境目にしてぱったり止んだ。気づいたのは随分時間が経過してからだったが、あのときは悲しかったなあ……うんうん、悲しかった。
 プリン時から治したい、治したいってあれだけ切願してたくせして、いざ収まってしまうと、自分の身体のかけがえのない一部分を喪失してしまったようにそわそわした。身体が一回り小さくなって、体重も軽くなったように感じると、中身のない脱力感に襲われた。……しかしそれすら、ばったり布団に倒れて枕に頭を沈めるごとに薄れてしまい、もう今となっては意識して思い起こさなければすっかり抜け落ちてしまってる始末だ。無意識を意識して、というのもなんだかおかしいけど。
 身体の奥がちくちく痛む。
 でも、このぼうっとする癖はなくならないような気がする。これは先天的に持ち合わせた、僕の根本を支える部分だから。
 思うに、人の本質とは生まれてきたら最後、変更不可能なのだ。その人がどんなにあがいても、もがいても、じたばた身をよじったところで、巨大な岩石に小石をぶつけるようになんの影響も与えられない。些細な物事に大きな反応を示す癖はなにかの拍子に後天的に身についたもので、きっと自分の本質ではなかったのだろう。だから時期……またはきっかけがきたら、焚火から天に昇る煙が白い雲に溶けるように姿をくらました。
 ふとすると自分の殻に閉じこもるこの習性たる癖は、昔も今も変わっていない。色あせることもなく、現についさっきも遠い国に一人で出かけていた。
 これは変えられない。変えようとも思わない。
 語り手は息を吸い込む音を耳に挟むと、また自分が夢想の世界を徘徊していたのだと気がついて、やれやれと薄く笑った。
「あの……続きはまだですか」
 おずおずとした口調で、尋ねるように少年……青年と呼ぶには歳が足りないが、大人びていて少年と呼ぶのも適正ではない……は言った。
「ああ」語り手は顔を起こしながら呟いた。
 微笑みを維持した状態で語り手はつまらなそうに首を左右に振ると、彼を取り巻くポケモン達全員の表情に、意表を突かれたように疑問付が浮かぶ。その場の範囲で、年少のポケモンですら語り手の意図を直感で感じ取り「え?え?」と身を乗り出した。
 語り手が笑みを強調すると、顔のシワもその色を濃くした。
「話してくれないの?続き、ないの?」子供じみた声がふっと湧く。
 年長の者は黙って語り手の次の動向を伺っているが、いくら落ち着き払っていても、語り手の目の前で偽りは仮面を剥がされてしまう。語り手の目はココロの変化やしぐさ、ちょっとした手悪戯など全て白日の下に曝すのだ。
 語り手は、商品の品定めをするように、各人を上から下までじっくり観察した。少年少女は明らかに訝しんでいるし、幼い子供が困惑して指を弄んでいるのも見て取れた。食ってかかるような威嚇的な視線で見つめているポケモンもいる。そのポケモンは語り手の視界の隅に自分の姿が捕らえられていることに気がつかず、語り手の死角に自分がいるものだと高をくくっている。
 からかってみることにしたのだ。
 これまでの語られてきた話は、村の中では知らない者がいないくらいかなり有名な話だが、それは年長者の間に限ったことであり、この場にいる幼子は語り手の不可思議で現実離れした境遇について知らないはずなのだ。まあ、知っている者から先に話を聞いていれば……。
 と語り手は仮定してから、ありえないことだなと打ち消すように鼻息を切る。他人の境遇をおもしろおかしく公言することは、おこがましいことだと考えるのが普通だ……この村には、他人の傷の割け口にきのみの汁を垂らすような劣悪なポケモンはいないと語り手は信じて疑わない。だから、この子達は誰しも初耳のはずなのだ。
 彼らはきっと、語り手の常識では考えられないような昔話を興味深く拝聴し、その特異な内容に引きずりこまれることだろう。そして、これ以降、語り手への印象は、がらりと変わるかもしれない。いいほうへなのか悪いほうへなのか、何を基準に善し悪しが決定するのか、語り手には分からなかったが、漠然と予想していた。……そして見事に予想は的中し、彼らは話に入り浸っていたわけだ。
 語り手自身、予想以上に饒舌に話を進められる自分にうっとりしていて、これまで話が途切れなかったことに感心していた。
 ウタに気づいた……というか、ようやく思い出したところで話に一区切りついて、真っ直ぐだった集中力の糸が緩むと、語り手の心に余裕が生まれた。その余裕から発生した空白に悪戯心が芽生えた。語り手は聴衆をおちょくりたくなった結果が今の状況である。
「どうしようかなあって思うんだよね」語り手はわざとらしく間延びした声を発した。「もうそろそろ時間だし」
 語り手は、強い西日が窓辺に作り出した光と影の明瞭な曲線を眺めながら呟いた。ついつい話に没頭してしまったようだ。今日は練習らしい練習はなに一つ満足にできなかったではないか。彼らはウタに興味をもってわざわざ足を運んでくれているというのに、これでは申し訳ないじゃないか。
 語り手は残念だと思っていたが、顔に浮いた笑みは彼の本心に忠実だった。
 建物は本来の用途に反抗するように、また普段の喧騒を跳ね返すように静まり返っていた。離れた村から声が風に乗って流れてきさえしそうだ。語り手は素知らぬ顔で不満げな周囲を見渡す。
「……まあ時間は時間ですけど……ここまできて、そんな」
 年かさのポケモンの痺れを切らした声がまた、心地よかったりする。すると、我慢の限界を超えた、さっきとは別のポケモンが口を開く。
「焦らさないでくださいよ」「そうですよ。なんなら小さい奴らはさっさと帰して」「俺のことか?」「だったらどうする?」「小さいってなんだよ!でかいくせに!」「な……でかくて悪いかよ」
 一匹の発言を発端にそこここから様々な文句が頭上を飛び交ったが、どれもが無粋な興奮と僅かな憤りを漂わせていた。
 打って変わるざわめいた建物で、語り手の目だけが据わっていた。呆然としていたわけではなく、意識はこちらの世界に留まっていたが、ちょっとでいいから子供の他意ないやりとりを眺めていたかったのだ。自分もあのように一つの話題に顔を真っ赤にして夢中になれた時期があったことを思い出していた。
 腕を振り回す子が現れた時点でさすがにやり過ぎたかと反省し、声を張り上げる。
「静かにね」
 語り手のたった一言で、叫び声が急速に鎮火し水を打ったようにしんとする。
 喧騒が幻のように消え失せたが、耳にへばりついた残滓のツーという高い音が、実際にあの騒ぎはあったのだと語り手に物語る。語り手の透き通った声は喧騒を真っ二つに引き裂いてしまった。
 耳に挟んだ誰もが思わず注意を向けずにはいられないような明々白々としたその声は、初対面の者にも語り手がただ者ではないと知らしめることができる。事実、奇声と雄叫びを上げていた、自己制御力がまだ発達していない子達は、一様に弾かれたようなぎこちない体勢で硬直し、あてどもなく視線をさ迷わせていた。
「うるさいよ。もうすこしおとなしくね」柔らかい物腰で語り手が言う。
「でも……ね。気になりますよ」自分に言って聞かせるような小声だ。
 語り手は芝居がかった動作で首を捻り、あたかも続きを話そうか真剣に悩んでいるように見せかけた。
 不意に、この重苦しく淀んだ空気の影響で身体がくすぐったくなる。笑い飛ばしたくなったが、きゅっと口を引き締めた。
「そうだねえ」もったいぶる口調は神経を逆なでする。
「……話したくないとかですか?」
 一堂みなの驚愕に縁取られた眼差しが、発言した一匹のポケモンに集中した。その太く束ねられた視線の縄のうち一本は語り手のものである。普段はなにかに心奪われたり、最低限、現(うつつ)を抜かさない語り手が、このときは違った。
 そのポケモンは語り手の見ていた限り、周囲がざわついてもきょとんとしていて、押し黙ったままその場にしゃがんでいたので、てっきり話に興味がないんだなと語り手は考えていただけに、唐突に開口した彼には露骨に驚いた顔をしてしまった。不覚である。それに彼女は頭が切れる上に聡明で明るいから多くのポケモンに慕われているが、強調性の薄い子で、公(おおやけ)で発言することなどは滅多にないので、語り手は至極意外だった。
 彼女が興味を示すほどの内容とは……光栄なんだか、なんなんだか。複雑だ。
 一瞬、彼女の視線と自分のそれとが一つに重なり、胸を掴まれたような苦しみが走り、時計の針は動きを止めた。
 ホントウニソレダケナノカ?
「話したくないわけじゃないんだけどさ」語り手は複雑に笑った。
「なら話してくださいよ」「そうですよ」
「しょうがないな」
 語り手は密林の奥深くに眠る財宝を枝葉が覆うように、口元に手を宛がい笑みを隠す。
「分かったよ、話の続きをしよう。いつもより帰る時間が遅くなるかもしれないけど、我慢してね」ため息が、病気が伝染するように広がった。ため息病だ、と語り手はおもしろく思う。
 語り手をその気にさせた彼女も、ホッとした様子で肩の力を抜いている。
 ホントウニソレダケナノカ?
「どう話せばいいんだろうな……」
 語り手はどのような順序で話を進めれば彼らに分かりやすいか熟考し、入れたり出したり入れ替えたりしながら構成を組み立てる。
 ホントウニニソレダケナノカ?
 胸中を抉らんと欲する鋭利な刃物は、疑問を問う形で語り手の神経を震え上がらせる。
 語り手は気づいてしまった。
 彼女がなに気なく問った一言……彼女は本当になんとなく聞いただけかもしれないが、語り手は突然流れの停止した湖に巨石が投じられたような衝撃を受けた。薄々そうではないかと感づいていたのかもしれないが、彼女と視線を交わしたその瞬間から、形の定まらない憶測は骨肉を纏った確信となって彼に蔓延した。
 彼は、自分が子どもをからかうつもりがなかったことを認めた。
 語り手はしょっちゅうきっかけもなく茫然自失となって“ワールド”に飛んでしまうが、人を小バカにしたり中傷文句を言うことで他者に傷をつけることはあっても、それを自らの心の喜びに転換できないポケモンだった。語り手は一般的に“優しい”とされるポケモンだったのだ。常態の彼は他人をからかったりしない。
「うーん……」
 悪戯目的ではない。だったら、なぜからかったのか?理由はもう分かっていた。
「そうだな……」唸り声は語り手の心中を子どもから隠す役割をしている。
 単純に、“続きを話したくないのだ”。
 彼女が気づかせたのだ!彼女さえこの場にいなければ、僕は話の続きを語らなくてすんだ。“からかった”という名目に身を寄せることで、この話を円滑に終了させることができたのに……すくなくとも今日のところは。
 あいつらは知らないのだ。僕がこの先どんな悲哀に苦しんだのか。他人にとっては取るに足らないかもしれない。僕はウタのカタチを嫌というほど思い知った。結果だけ見れば、ああハッピーエンド。古風な物語風に言うなら“めでたし、めでたし”だ。
 だが僕は苦しんだ!思い起こすたび、苦痛は一瞥もくれずに記憶のカサブタを剥ぎ取り、長い月日をかけて癒された箇所から再び血を流出させるのだ。未だにカサブタは治癒されず、下を流れる血が外に出して欲しいと言わんばかりにドクドクと脈打つのを感じる。だから、僕はなるべく当時のことは考えないよう心がけてきた。できるだけカサブタから目を反らすことで、それを厚くして、簡単に剥がれないように気を配ってきたはずなのだが……。
なんとなくで始めた昔日の暴露を、今となっては後悔していた。なぜ話す気になどなったのだろうか?語り手は甚だ疑問だった。
 もっと慎重に行動すべきだったのに……迂闊だった。
 それとも、話をしたかったのか、僕は?
 胸でそんなことを呟いてから、頭で意を唱える声が反響した。バカバカしい。僕の過去は僕だけのものであって、誰にも理解できまい。してほしいとも、正直、思わない。
 ホントウニ?
 しかし……話したくはないにしても、語るところまで語ってしまったのだから、最後まで話を貫きたいという思いもある。それは僕のためじゃない。この場に集まったみんなの期待に応えるためだ……多分。
 意識せず視線をポケモンからポケモンへ右往左往と泳がせていると、彼女がじっと見定めていることに気がついたが、動揺は悟られなかったと思った。
 組み立てた話の構成がついに完成した。無意識の作業だったが、別に惰性だったわけではない。意識しないほうが物事はうまく運ぶことがあると語り手は主張する。
 語り手が大きく深呼吸するのを目にしたポケモン達は、同じように背筋を伸ばし、好奇心を滲ませた似たような目を見開いた。語り手は、自分がいつになく真面目な面持ちをしているんだろうなと想像すると、鼻でせせら笑った。まさに滑稽としかいえないではないか。
 一秒がまるで永遠のように引き延ばされた異様な緊張感を携えた沈黙のベールが建物に被さったとき、語り手は 熱意のこもった青緑色の瞳を揺らし、ついに口火を切った。

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 単調な毎日、という言葉であの頃を形容するのは若干抵抗がある。一日とはそれぞれが分厚い灰色の壁に仕切られて独立しており、太陽と月がバトンタッチするように交互に昇っては沈むというサイクルが淡々と繰り返されるという点では同様であるにしても、一日としてまったく同じ日などなかったし、一度として同じ長さに影が伸びたこともなかったはずだ。
 そんなことを公然に高らかな声で熱弁振るうのは、もはや陳腐か。当然だろう、と一言で片付けられてもサウンドは反論できないが、念のため、ここに改めて告げておく。
 昨日と明日、そしてこの先の何十何百という日々はたとえ変化の波の高低差が少なくても、一日として無駄などない、かけがえのない時間なのだと。
 だからサウンドは、シャープと本格的な練習を始めてからの日々をとても大切にしている。愛している。
 西日に目を細めあった時。一通り発声して、ふと休息を取っていたときに訪れた沈黙。二匹の息遣いと、小河のせせらぎと、林のさざめきが和音を奏で、そこに音楽が生まれた。喉が痛くなってしまい小河の水でうがいしていると「ププリンじゃないんだから」と笑われたこともあった。むっとしたら、また笑われた。珍しいきのみの噂でも聞き付けたのだろう、朝から森の深奥へ遠征していたムックルとムクバードが、夕方になってようやく帰ってきた。夕日を背に負い、二つの小さな点が一つに合わさった光景は、まるでサウンドら自身の影写しのようだった。
大切な時間。綺麗な記憶。その世界では永遠の夕日があらゆるものから角を奪い丸く形を象(かたど)り、赤色と黄色の中庸をなす色が、どんな物にも共通点を与える……同じ色をしている、という点で。
 サウンドは、可能ならばその美しい日々を言葉に表したいと切に願っている。しかし、サウンドとシャープが過ごした日暮れの練習がいかにきらびやかであったかは、筆舌に尽くしがたい。語り手は、自分の語彙のなさを怨みつつ、乏しい表現能力を申し訳なく思っている。
 ただ、現在のサウンドが振り返っても、あの日々は魅力的だったことだけは断言できる。
 粉々に飛び散った断片を見せることしか叶わないが、辺の尖った断片であるからこそ、断面が鋭い光を反射するのかもしれない。
 不思議なものだ。まるで金色に世界が沈むような美しい日々だったにも関わらず、印象は薄く、具体的にどんな練習を受けたのか、どんな話題に一喜一憂していたのか思い出そうとすると、途端に白い高波が轟音とともに頭に押し寄せ、記憶を掻っ攫っていくのだ。サウンドの人生の転機になった重要な期間。それをサウンドが具体的に説明できないからといって、彼は漫然と時間を過ごしていたわけではないことを断言しておかなければならない。
 むしろ、最も尊い記憶というのは、言葉で語り尽くせないのではないか?サウンドが、ドラピオンとの悶着を雄弁に語れ、シャープの主張を一言一句正確に再現できるからといって、サウンドはその時間を尊重しているわけではない。
 言葉は本当に大事なものを収縮させ、安っぽく見せてしまう。だから、本当に大切なものは目に見えないと盲信する者がいつの世にも一匹はいるのかもしれない。多分語り手は、宗教的で、不確かな存在にすがるそんな愚者の一人なのだ。
 シャープにウタとはなんたるかを諭されて以来、サウンドは人が変わったようにウタの練習に打ち込んだ。それまでだらんとだらしなく曲がっていた背筋は背中に木の棒を添えているかのようにしゃきりとし、野心満々の目は眩しいばかりで、溌剌さと威厳の漂う顔には底なしの力が漲っていた。少年、というよりは幼児の傲慢さが浮き沈みしていたかつてのサウンドは、深く暗い洞穴に身を潜めた。
 意気揚々とした青年の大人びた姿へ変貌を遂げたサウンドを見た当時の村人は、彼の背中越しに村長の面影を目にしたという。サウンドの変化に仰天する者も多かったが、サウンドは一歩身を引いた視点から、そんな者達がばたついている様を達観していた。
 そういえば、サウンドの様変わりを眩しそうに目を細めたり、怪訝そうに首を傾けるポケモンがたくさん目についたが、サウンドを故意に傷つけるような意地悪を仕向けるポケモンはいなかった……思い返せば、サウンドの様変わりは突発的でかなり奇異だったのに、村人は清々しいばかりにあっさりとサウンドを受け入れてくれたのだ。語り手がこういうのも難だが、おおざっぱなのか寛大なのか分からない辺りが、実に村らしい。
 ウタうのが毎日楽しくて、退屈することはなかったとサウンドは記憶している。何度もウタい、褒められたり励まされたり、ときには悪態をついたりつかれたりして頬を膨らませたりする愉快な日々を、快活に笑い飛ばして過ごした。
 シャープの練習についていくうちに、少しずつだが着実にサウンドは上達していった。これまで十分に実力を発揮できなかった憂さを晴らすかのごとく、サウンドはめきめき歌えるようになっていった。
 サウンドは、自分でも追いつけないほど早く歌の実力が身につくことに疑問を感じた。もちろん、早くうまくなれるならそれに越したことはないのだが、今まで必死こいて練習してもちっともうまくなれなかったくせに、シャープと顔を付きあわせてあれこれしているだけでほとんど時間がかからずに上達していったものだから、その較差がサウンドに疑念を抱かせたのかもしれない。
 サウンドが抱えた疑念は、急激な変化に目が回り最終的には自分が自分から乖離(かいり)してしまうのではないかという畏怖の念にも近かった。
 なにかの拍子にサウンドはそのことをシャープに尋ねたことがある。
 どうして僕は、こんなに短期間で歌えるようになったのかな?
 すると、にわかに切り返された。あのときのシャープの応対の軽快さといったら……最初からサウンドが質問する内容を知っていたかのような(本当に知っていたのかも)電光石火のスピードで、こう答えた。
「なに言ってんだか。当たり前でしょ?」
 シャープは頭を撫でながら恥ずかしそうに笑う。「私達はプクリン。初めから、ウタえるようにできてるんだよ」
 そう返答したうえで、シャープはいきなり神妙な表情でサウンドを睨みつけた。
「いや……私の指導が上手だからかな」
 シャープの強面にサウンドは薄く笑って渋々頷くしかなかった。
 有無を言わせぬ迫力が全面に浮かんだシャープを見ていると、厳格な雰囲気漂う村長のことを想起した。
「そうだね。シャープのおかげだよ、僕がここまでこられたのは」
 どこまで本心だったのか、本人もよく分からない。

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「え!明日は休みたいって?」シャープは素直に驚いているようだった。
 ……そうなるよね。いきなり練習休みたいなんて言ったら。
「うん。明日は練習休みたいんだ」サウンドの口調は沈んでいた。
 いつものようにサウンドとシャープは、日の輪郭が真っ赤に燃え上がる頃合いに、約束したわけでもないのに小河で落ち合いウタの練習に精を出していた。そしていつものように、練習の終わりを意味する、夕日が世界の向こうに没する時間が訪れた。しかし、いつものように二匹で口裏あわせたように「じゃあ」と手を振り合って別れようとシャープが手を上げかけたところ、サウンドが出し抜けにこう呟いたのだ。
「明日は……練習休ませてもらっていいかな」
 シャープはこれまで身体が消化してきたきのみの総数を打算するような、渋面を現わにしていた。顎に腕を乗せ、明らかに不満そうである。
「どうしてまた」
「ちょっと都合が悪くて」
 サウンドは悪びれるように目を足元に落としたが、決してシャープを騙そうという目的があったのではない。それは裏表のない仕種であり、サウンドは心から申し訳ないと感じていた。
 サウンドの頭に、シャープに反対された際、なんとか許してもらうための謝罪の文面が次々と浮かんでは消え、「使える」と思った言葉だけが厳選されて脳裏に焼き付く。自分の用意周到さを褒め称える声が上がり、それらがまとまり、巨大な声援となって応援してくれるような気になった。
「ふうん……ずっと練習してきたのに、なんで明日に限って都合が悪いの」とシャープ。
 サウンドが見た限りでは、シャープの物言いはいつも通り柔らかく、叱責する様子は伺えなかったものの、やはり威圧的な姿勢を取っているようにも見受けられた。それはもしかしたらサウンドの妄想がかなり含まれているのかもしれないが、とにかくサウンドはいたたまれないプレッシャーを感じずにはいられなかった。
「それは……」
 その後が続かず、サウンドは言葉を濁した。
 サウンドは、シャープが申し入れを許さなかった場合にどうにかして許可が取れるように彼女を説得する文章はまとめていたが、シャープにその理由を尋ねられるなどという場合は考慮に入れていなくて、どう答えるべきなのか、もじもじするしかなかった。サウンドは咎められるに違いないと覚悟を決めていたのだ。
「それは?なんだよ」シャープがこちらを見据えているのを、サウンドは伏し目の片隅で確認した。
「それは」
 理由か。言ってしまったほうがいいのかな。個人的には言いたくないんだよね。やっぱり恥ずかしいっていうか、バカにされちゃうかもしれないし。
 サウンドは頭を僅かに上げる。シャープは氷像のように微動だにしない。
 適当な理由つけて言い逃れできないかな。うん、できないものかな。シャープがあの調子だと、練習を休むに足りる歴(れっき)とした理由がないと、休むのを承諾するどころか今日は家に帰してくれないんじゃないか……シャープは無言で語ってる。どうしようか……。
 サウンドの口からは話を先延ばしにする言葉に至らないため息だけが漏れる。
「どうなの?」
シャープがここまで言及するのも珍しい。そんなにシャープは繊細だったかな。どちらかなら鷹揚だと思うんだけど……それほど、僕が練習をするかしないかがシャープにとって大切なことなのかな?よく分かんない。
 一度はずれた思考の矛先を、サウンドは元のあるべき方向へ修正した。
 危ない危ない。また変な方向にずれるところだったよ。どうでもいいことは放置して、今はこの場を乗り切らないと。
 意気込んだところで、サウンドの視線はシャープの足元を行ったりきたりするのみである。埋まらない沈黙とシャープの重圧に疲れたサウンドは、それとも、と眉間にシワを作る。
 それとも、正直に言えばシャープはなにもかも了解してくれるかな?「無防だ」とか「自信なくすからやめておいたら」とか気持ちを削ぐようなことを言わないで、真摯になって、笑わずに認めてくれるかな。どうだろう……いや、淡い期待だね。
 ここでウタの練習を中断しちゃったら、それはシャープを裏切ることになるんじゃないか。僕はもう誰かを裏切りたくない。シャープですら一度は裏切りかけたじゃないか。シャープが親身になって僕に“例え話”をしてくれてなかったら、シャープを裏切った僕は……考えたくない。冗談抜きで悪寒が走るよ。
「ふうう」サウンドは肩の力を抜いた。
 おじさんと決着をつけたい。ウタえないプリンだった僕が、自分だけの力じゃないにしても、こんなにもウタえるようになったってことを、おじさんに見せ付けたい。
 別に自慢したいってわけじゃない。ただ、昔は手を焼いてくれたおじさんには僕が変われたんだってことを知ってもらいたいって純粋に思ってる。
 それに……おじさんの姿が、久しぶりに見てみたい。シャープの話が本当なら、おじさんだって僕に会いたいはずだし。
 サウンドは口から笑みを零す。シャープはそれを薄気味悪そうにしているようだった。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」サウンドは俯いてその笑みを隠した。
 きっかけなんてどうにでもなるという意味のことをシャープは言っていた。そんなのは探そうと思えばいくらでも見つけられるって。
 そうかな?やっぱりきっかけはなかなか発見できないものだと思うし、久しぶりに話をするにはきっかけっていう糊代が絶対に必要なんじゃないかな。おじさんはきっかけを探しているのか分からないけど、もし、足元を探していて、拾うことができないのなら、僕のほうからきっかけをばらまくのも一つの手段だ……そう考えたのはついこの間。
 会いたい。会って、ウタで勝負して、おじさんが知らないうちに僕がこんなに大きく成長したんだってことを認めてもらいたい。そして結果はどうであれ、歌を教えようとしてくれたおじさんに感謝したい。その会合を“きっかけ”に。
 だけどおじさんと面と向かうために練習を休むことがシャープへの裏切りを意味するのなら、僕はおじさんとはもうしばらく会わない。シャープだけは裏切れないから。まだおじさんと勝負するには時期早計だったんだって言い聞かせるさ。だってしょうがない……事実でもあるし。僕はまだおじさんに刃向かうには力が足りない。
 サウンドはわざわざゆっくりとした動作をシャープにアピールするように顔をもたげると、諦観による無念というよりは幾分すっきりとした表情で彼女と視線を合わせた。どこか遠い世界に必ずあるが、噂しか耳に挟んだことない海のような、深くて波打つ色が瞳で揺れていた。もしかしたら自分のそれが揺らいだせいでそう勘違いしたのかもしれない。
「はっきり理由を言えば、どんな理由でもさ……いいよ。休んでも」
 最初、シャープが言ったのだとまるで気づかなかった。サウンドはてっきり自分がまた意味の分からないことを口走ってしまったのだと呆れ返る思いで手で額を打ち付けた。
「ごめん。変なこと言った」
「サウンドなんにも言ってないじゃん。言ったのは私だよ」シャープはアハハと爽快なくらいに笑う。
 曇っていた空が先触れのない強風に煽られて一気に吹き飛んでしまい、眩しい太陽が颯爽と照り映えるみたいだった。一時は軽い雨が降るのではないかと身構えていたサウンドは、咄嗟の状況判断ができずに呆然と立ち尽くしていた。
「なにしてんの?固まっちゃって」
「ああ……いや、うん。シャープが突然人が変わったみたいになったから」
 そういえば、シャープは演技肌なんだっけ……顔をつくったり相手にばれないような嘘をつくのがすごくうまいんだ。忘れてた。
 遅れてやってきた感情が、氾濫する大河のようにあらゆるものを瞬時に一塊にする圧力と勢力をもってサウンドを巻き込む。それは歓喜。シャープはやはり自分を尊重してくれるのだということが、身に染みるような喜びを呼び起こす。やはりシャープを信用して正解だったのだと痛感し、サウンドは思わず涙ぐむ。
 だがこの場で涙を落とすわけにはいかない。恥ずかしいし、せっかくのチャンスを必ずものにしなければならない。手にしたら離さない。シャープがくれたこの機会を逃すわけにはいかないのだ。
 故意に鼻をすすると、サウンドは聞き返す。
「理由がちゃんとしてれば……本当に認めてくれる?裏切ったことにはなんないかな?」
「ならない」断定的にシャープは頷いた。
「そう……」
 この期に及んでも気掛かりな点はあったが、サウンドはなんでもお見通しのシャープにもう隠し事はできないと感じていたし、そうでなくてもしたくないと思っていた。彼女に嘘をつくようなことがあれば、それこそ練習を休むこと以上の裏切り行為であるとも考えた。自分の背中をプクリンが押してくれるような錯覚が沸く。
「村長と……ウタで勝負したいと思う」サウンドは決して毅然としているわけではなかったものの、語調は強かった。
 だが、シャープの反応は意外なものだった。
「ぷっ」シャープは吹き出した。
 本日二度目、サウンドはシャープの目前で放心状態に陥った。二度目だけあって今回のそれは一回目よりも長くは続かず刹那的であったが、腹にくる衝撃は二度目のほうが大きかった。
 笑ってる。シャープに……笑われた。
「なんで……笑うの」疑問を口にしている様子ではない。
 先程サウンドを奇襲した洪水はどんどんドス黒い色に塗り潰されていき、あっという間に全て真っ黒に染まる。サウンドは内側から汚される。サウンドの目はシャープの顔の輪郭をすっぽり捕らえ、口端は抑圧しきれなかった怒りで歪んでいた。拳が固められ、腕の筋肉がぷるぷる震え出す。
「だってそうじゃない」シャープはこれみよがしに深くえくぼを掘って見せた。「練習休みたいなんて、サウンドが深刻な顔して言うもんだから、もっと重要な問題なのかと思ったら……なに?村長と勝負?ふうん」とシャープ。
「うん……じゃあ、シャープにとっては重要な問題じゃないってこと?」
「そうだね。私はそう思う」しれっとシャープは言い切る。
 サウンドは歯を食いしばった。歯が口内から見え隠れする。シャープは視線を反らすことなく、いつ爆発するかも知れないサウンドの様子を上から観察しているようだった。
「僕にとっては大切なんだ……もの凄く。たとえシャープにとってはなんでもない、些細な出来事かもしれないけど、僕にとってこれは」
 語尾が乱れて聞きにくくシャープは顔をしかめていたが、サウンドはこう言ったつもりだった。
 人生をかけた、最高に大切なことなんだ!言い過ぎじゃない。僕は全てを賭けているんだ。
 シャープは言葉こそうまく拾えなかったかもしれないが、サウンドが伝えんとする内容はよく理解できたことだろう。サウンドは全身全霊を捧げて言葉を紡いだものだから、その意気込みは身体の動きとして露呈した。彼の意思は誰がどう見ても不撓不屈だった。いかに目が節穴であるポケモンでも判断できる、揺るぎないプライドを掲げた雄々しいプクリンの姿が、そこには存在したのだ。
「お願い。明日は休ませてほしいんだ。お願いだから」サウンドはシャープを凝視して頼む。
 シャープも浮き彫りになった対抗意識を燃やしてサウンドと対峙する。二匹の視線が危ない緊張の糸で一つに結ばれ、不意に真ん中で切れんばかりに両側から強く引っ張られている。どちらかが動こうものなら、対するほうがつかみかかって直接ケリをつけようとするような、まさに一発触発の危険な状態だった。
 ツーッと冷たい汗が頬を伝うが、伝ったことにサウンドは気がついていないようだった。目に汗が入ろうが、仰々しい音をたてながら背後から拳を当てるポケモンが近づいていようが、きっとサウンドは分からなかっただろう。集中している彼は盲目になっていた。
 一方、若い者だけに与えられるすべすべすべの肌を露ほども動かさないシャープは、サウンドを切り取って壁に貼付けたように尖った視線を送り続けている。
 しかし、この世の終焉まで持続するかと思われた重い沈黙は、唐突にシャープが相好を崩すことにより、あっけなく幕を降ろしたのだった。
「くっ……ははっ!」
 サウンドの驚愕も三度目となると一回転して戻るまで間もなかった。呆然としていたのもつかの間、即座に体制を立て直し、引っ込んだ我を意識の表面に引っ張ってくる。
「な……いきなりなんだよ。気味が悪い」サウンドは呟く。
「ひど…雌に気味が悪いなんて言っちゃいけないんだよ」シャープは無邪気に笑っている。
 シャープは笑顔が口から零れて地面に落下するのを防ぐかのように口元に手をもってくると、我慢できなかった分の息を鼻から漏らす。サウンドが怪訝そうに見ていることを察知し、笑ったままシャープはさらに大きく口を開ける。
「サウンド、私は言ったじゃない。ちゃんと理由さえ話せば、私はサウンドが練習さぼったって私を裏切ったなんて思わないって」
 サウンドは胸を殴られたように顔をしかめる。
「いや言ったけど……でも賛同してくれてる様子じゃなかったし……。あと、さぼるわけじゃないからね」
 ふん、とシャープは鼻を鳴らす。「その後なんでか知らないけど、サウンドが『お願い』なんてマジな顔して言うんだから、参っちゃうよね。誰も駄目なんて言ってないのにさ。許してもらってないみたいに思い込んで」
 また騙された。あーなんていうか……シャープには敵わないなあ。真面目なんだかふざけてんだか分かんないや。でも、とりあえず、「じゃあ、明日は休んでもいいってこと?」
「誰も駄目なんて言ってない」困ったような微笑みを浮かべ、シャープは肩を竦めてみせた。
「そう……そっか」
 日暮れの河縁は、まるで二匹のポケモンを発見した沈黙の天使がやおら立ち寄ったような、すっきり充実した時間が刻々と流れた。サウンドも、そして恐らくシャープも、空白であるがゆえに中身の濃いその時間を心から満喫していた。思わず笑い出してしまいそうな、しかし笑ったら睨めっこに負けてしまったような明るい屈辱を味わうと思うと笑うことが躊躇われるような、弛緩した緊張が二匹の間に横たわっていた。
 サウンドは顔を赤く染めていたが、シャープは涼しい顔して舌なめずりなんかしていた。
 サウンドはがんばったが、彼がこのある意味閉鎖的な空気に堪えられるはずもなく、シャープに勝てるはずもなかった。
「くっ!ふはは」大爆発が起こったようにサウンドは笑い飛ばす。
「よっし!」シャープも笑い、拳に丸めて腕を引く。「私の勝ち!」
「どんな……くふ……勝負だよ」
「ふん。こんな勝負だよ」まるで豪華な夕食の席に招待したように両腕を広げたシャープは、得意げに空を見上げる。
「……そろそろかな」
 サウンドは身体をよじり、真顔になって夕日を直視する。
 シャープも同様に、夕日へ目を配る。
 二匹の目には同じように焦躁と不安の入り交じった複雑な色が浮かんでいた。疎むように二匹に睨みつけられた夕日は、それを気にするそぶりをちっとも見せず、ただ悠然と森の彼方を目指して沈んでいく。老若を問わずポケモンに一日を振り返させるその夕日はいよいよ赤い。毒々しいまでの赤色が目に見えて落ちていく。円の縁が木のてっぺんと交わり、ちりちりと葉っぱを焦がすような錯覚をサウンドは抱いた。
「うん」遅ればせながらシャープは答えた。
「帰らないとだね」
「うん」シャープの反応は薄い。
 シャープは身体を腰の辺りに手を宛がう。身体を反らして「くうう」と喉から音を漏らして伸びをした。
「サウンド。最後に、いいかな」
“最後”という言葉がいつまでも耳に残って跳ね返るのを煩わしく感じながら、サウンドは力強く首を縦に振る。
「うん、なあに?」
「サウンドは覚えてるかな。私がサウンドに言ったこと。最初の練習でサウンドに言ったことなんだけど」
「最初ね……」
 思えば遠いところまできたものだね。あの頃がもう何年も前みたいに思う。
「んー……よく覚えてない」サウンドは舌の先を少し出しておどけた。「言われれば思い出すかもしれない」
「しょうがないな」
 こんなとき、シャープは同年代とは思えないほど老成した顔立ちになる。その表情は、温厚だが、親しい友人のではなく卓越した実力をもつセンセーのものへと変化する。
「ウタにはカタチがあるって言ったの、覚えてる?」
「ああ」
 外の出来事に関心をもち始め、大分物覚えがよくなったサウンドは、記憶の整理がいき届いていたのだろう、すぐに思い出した。
「うんうん。言ってた」サウンドは頭を擦る。爪がないから、むず痒い思いはなかなか退かなかったが。「それさえ分かれば楽勝、なんだっけ?」
 ウタのカタチ。考えてみれば印象的な言葉じゃないか。ウタは見えないが、形のあるものに影響を及ぼすことができる。それはまさにウタの本当のスガタなのかもしれない……なんてカッコつけちゃいけないよね。教えてくれたのはシャープなんだし。
「そう。ウタにはカタチがあるんだ」シャープは言った。
「それさえ覚えていれば、サウンドは絶対大丈夫。この先どんな結末が待っていても、あなたならなんでも乗り越えられる……見えないものをカタチにして。存在していなかった新しい道を創り出すことで、サウンドはもっと遠くまで歩いていけるから……だから……」
 急に語調が早くなり、内容も深刻になってきたシャープにサウンドがぎょっとして振り向くと、一瞬彼女は狼狽した表情を覗かせたように見えたが、慌てて顔をサウンドから背けたので、はっきりとそうだったのかは分からない。しかし、シャープが動揺していることをサウンドは察したし、もっと悪いことに、隠し切れていないのをシャープ本人も分かっていたに違いない。
 シャープの語尾が震えたことなどこれまであっただろうか?
「ど、どうしたの急に?」まだ話したげだったシャープをサウンドは口を挟んで制する。
「なんでもないの。ただ……」
「ただ?」
 表情を確認しようとシャープを横から盗み見てみたものの、夕日はシャープの味方だった。
「忘れないで。ウタのカタチを。ううん、忘れてもいいから……思い出して。目には定かでないものにも、カタチがあるってことを」
「あ……ああ、うん。分かった」
シャープの抑圧的に震えた声がサウンドの胸の奥深い部分をくすぐる。はああと長いため息を一つつくシャープ。サウンドも強張った身体がだらんと弛緩し気の抜けた風船みたいにだらしなくなるのを感じた。
「でもよかったよ」サウンドに背中を向けたままの体制でシャープは言う。
「サウンドが本気なんだって分かって。サウンドの決意は本物なんだね」自分に言い聞かせるかのようだった。
 サウンドははっとして目を瞬く。
「そのために一度反対するフリをしたの?」
「さあね」シャープの笑い声が夕日に吸い込まれる。彼女はまだ背中で語っている。「明日、がんばってね」
「まあ……できる限りはね」
「自信もちなよ。私が教えてあげたんだから、うまくいかなかったらおかしいじゃない。成功するよ」
 サウンドは照れ臭くなり、無意識ににやにやしていた。
「これでホントに最後だけど」
 シャープはくるりと身を翻しサウンドの目を見る。サウンドはうろたえるのをごまかすことができず、目線を下にして悟られまいとした。
 目に見えないものをカタチにできる、それがウタなんだ。 
 シャープの口が動いた。
「シャープ……」
「きゃあかっこいい!やばいやばい、決まったよお!」シャープはきゃっきゃっと一匹で騒いでいる。
 言葉を遮られたことが腹立たしかったが、わざわざシャープに言う必要はないかとサウンドは苦笑した。知る必要のないことは案外多いものだ。むしろ口に出していたら後悔していたかもしれないとサウンドは思い至ると、シャープに中断されてよかったとも思った。
「それを言わなければもっとよかったのにね」
 サウンドは顔を起こしてシャープに笑いかける。逆光でシャープの顔には影が落ちていた。それでも彼女の目は光っていた。

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草村に薄らと浮かぶ道は、サウンドが毎日同じ場所を通って小河へ行っていた証である。まるで小河までサウンドを誘うかのように、草村の上に踏み慣らされた跡が直線状に伸びている。
時間をかけて、同じ箇所を踏みしだいたからこそここに生まれた緑の小道を進んでいると、サウンドは草村に妙なシンパシーを感じた。ポケモンは踏まれるものなのか、という誤解を恐れずに言えば、反復によって新しい道ができるという点において、ポケモンとこの雑草の群れとに大それた差異はないのかもしれない。
サウンドは黙々と倒れたままの草の上を歩いている。
時折サウンドを妨害せんと足に絡み付いてくる草も、彼の眼中にはないようで、サウンドは一目もせずに力で押し退けながらさらに奥へと歩数を重ねる。
サウンドの表情は、遥か彼方上流から河の流れに乗って浅瀬にたどり着くまでに角という角が全て削り取られてしまった小石のように、触ると危ない突起した部分がまるでなかった。また、これからさあ絵を描こうと手を叩いた芸術家が前にする、純白の紙のようにも見える。
断続的に繰り返される深い呼吸の息遣いだけが、サウンドが生きて歩いていることを証明してくれているようだった。不可視の神秘に魅了されたかのように無表情なサウンドは、黄泉の国へ着実に距離を稼いでいるようにも見えたかもしれない。
表情こそ透明だったものの、サウンドの心の目は視覚的にはもちろんのこと聴覚的にも未だその存在を確認できない小河を意識していた。厳密さを求めるなら、小河で待ち受ける者の存在を。
足元に捕われることなく、しかと正面を見定めた雄のプクリンは、厳めしく胸を張っている。ざく、ざくという足音に、思い出したように泥を踏むぬめぬめした感触が混ざり、そのつどサウンドは居心地が悪そうに目を細めたが、動作に現れているほどサウンドは不快に感じなかった……というより、あらゆる感覚が鈍くなっているため、快、不快というポケモンが生まれてから一番最初に手に入れる感覚すら感じることがままならない状況だった。それは、サウンドの表情が石のように変化に乏しいことと原因は同じである。
どんなに足取りが重くても、そしてどんなにそこにいきたくなくても、足が前に進む間は身体が小河に近づくのは世の必然。必然とは、例外を除いて自然に忠実なものを指す。サウンドはその法則たるものを否定はしないが、素直に認めることに違和感を感じている。前進と向上は必ずしも等号で結ばれるわけでない、とサウンドは思った。
いずれにせよ、サウンドが小河のせせらぎを耳で拾えるくらい距離を縮めたころには、視線の先に一匹のプクリンが背を向けて直立していることを認めざるをえなかった。
決してそのプクリンと接触することが怖かったわけではないが(いや……やっぱり怖かったのかな)、サウンドは草村の中で足を止めた。悠久の昔から会っていなかったように思われたおじの姿を、サウンドは離れた位置からしばらく観察してみることに決めた。
ビートは小河を眺めているため、草村で息を潜めるサウンドには背中を見せる形になっている。サウンドは、我が子を見守る親のように、じっくりとビートの後ろ姿を窺うことができた。
率直な感想を始めに言ってしまえば、変わっていなかった。真っ直ぐではなく、心なし丸まっているビートの背中は、サウンドの記憶の中のそれを引っこ抜いて景色として設置したように寸分も違いがなかった。まだ身体の小さかったプリン時から大きいと常々感じていた背中は、背の高さが同じくらいまで成長した今でも、見つめているとなぜか見上げているような心地がした。その背中から放出される気迫は、当時と変わらないようだった。本人が押し止めようとしても抑え切れない分の貫禄が、まるで立ち上る湯気のようにビートの周囲を取り巻いていて、サウンドはひたすら雰囲気にたじろいでいた。
後ろから見ただけでこれだけの気迫なのだから、正面から彼に見つめられたら、果たして自分はショックで正気を失わずにすむだろうか。サウンドは慄然とも呆然とも判断しがたい、絶望的な気持ちで表情を曇らせた。
シャープの練習を休んでまでおじと勝負をするという選択が、本当に正解だったのかどうか、サウンドは分からなくなっていた。
昨日はいい判断だと思ってた。おじさんには歯が立たないかもしれないけれど、それでもいい……おじさんに成長した僕を見てもらう、それが主たる目的で、おじさんに自分の歌を聞いてもらうこと自体に意味があるんだ。勝敗は二の次。負けたっていい。だから余計なプレッシャーを感じる必要はない……。
サウンドはそう自分に言い聞かせていたのだが、この調子ではビートを前にしたとして自分は口を開けられるかどうかすらサウンドは自信がもてなかった。
絶壁の断崖を下から見上げたかのように、サウンドはビートの背中がひどく巨大なものに感じられ、宙に浮く能力をもたない以上、崖を攻略するのは不可能ではないかと悲観した。
よじ登る?
光を受けた表面は、磨いたみたいに光っているぞ。足をかけたら最後、一歩も身体を持ち上げることができない現実が、無力という言葉を背負ってお前にのしかかってくる……そんな気はしないか?するだろう?
「どうかした?いつまでもそこに突っ立ってないで、こっちにきたらどう?サウンド」
サウンドは驚いた顔をしたが、ビートがサウンドの存在に気づいているのではないかと薄々予想はしていたので、大袈裟にはびっくりしなかった。ただでさえ丸い目はコンパスで描いた正確な円のように見開かれたし、喉元まで叫び声がせりあがってくるのは自分でも気がついたものの、うまく飲み込めたのだから、あまり動揺はしていないだろう、と本人はあまい自己評価を下した。
それなりに距離は取ってたんだけどね、ばれちゃった。やっぱりおじさんは変わんないや。僕が知ってるどのポケモンよりも、隙がない。
サウンドは腹から息を吐いた。ため息ではなく深呼吸だと納得させようとする、そんな自分に心の中で嘲笑をくれてやった。
わざとらしいゆったりとした足取りでサウンドは村長の背中に迫る。みっともないが、最後の悪あがきとして、おじと接触するまでなるべく多くの時間が欲しかったのだ。
おじには会いたいが……会いたくなかった。シャープが言うところの“愛”と理屈は似ている。唐突に、シャープに「サウンドはおじが好きだから同性愛者だ」とからかわれた記憶が脳裏に蘇り、サウンドは点いた瞬間消えてしまいそうな、ぼんやりした笑みを浮かべた。
ビートは、サウンドに呼びかけたときからずっとそうなのだが、身じろぎ一つしないで小河の辺(ほとり)に佇んでいる。小さいながらも村を一つにまとめる村長には、突然の甥っ子の面会にも慌てず自分を見失わない悠々とした姿勢がとてもよく似合っていた。
彼の目はなにを映し、瞳の奥で一体どんなことを考えて甥を待っていたのだろうか。サウンドには図りかねた。知って得するほどのものとも思えなかった。
一歩、また一歩と、速まる胸の鼓動を反映したかのように前に踏み出される足は、ついにサウンドを草村から抜けさせた。サウンドは草村と小河の間にある、砂と石と花を寄せ集めたような空間に放り出された。余計なことを頭で思い浮かべている間に、小河にたどり着いたというその状況を考えると、まさに“放り出された”という表現がぴたりと当て嵌まる。
不意に開けた場所に身を放り投げられたことが、暗い穴の底から真昼の空の下に這いあがるポケモンが必要なように、サウンドは目を光に慣らす時間を要した。再会を遅らせようとしているから、こんなことをしているのだろうかと、苦い気持ちを奥歯でかみ砕く。
さらに一歩。
もう一歩……気づけば、おじは目と鼻の先だった。
「おじさん」気弱で甲斐性のない声が自分のものでないと信じたかったが、受け入れがたい真実とは往々にして無感情である。また同時に、受け入れられるべき真実にも、感情の入る余地を与えてはならないのだが。
ビートは一度、頭だけサウンドの方に向けてから、重い仕種で身体ごとサウンドを振り返った。
大きい、とサウンドは感じた。背中から盗み見ようが、正面から面と向かおうが、サウンドにとって村長は強大で遜色を抱かずにはいられないポケモンだった。
「久しぶりだね」ビートは、まるでサウンドに会ったらそれを言おうとあらかじめ胸で決めてから言ったような、上手な役者が舞台の上で行う演技のような口調で発声した。
完璧に管理された声音。嘘をついているようには聞こえなかったものの、なにかを隠しているような思わせぶりな物言いは、神経過敏なサウンドを困惑させた。
おじさんはなにを隠しているの。
疑問ではなくただの呪文だった。サウンドのはかない問いは咀嚼されることなく、すぐに彼の中に埋没して無意識と同化した。もうすこし心に余裕があったならば、サウンドと同様繊細で脆い心をもつビートの、激動とまではいかないが変化に高波を打つ感情を汲み取ることができただろうに。
「そうだね」サウンドは言った。
「大きくなったね」
サウンドは照れたように頭を掻く。「そりゃあ、プリンのときから比べれば大きくもなるよ」
サウンドは引き攣った笑みを浮かべるが、上辺だけの笑みでも自分はできるのだと分かると、すこしだけ心穏やかになった。
サウンドは、今度は前からビートを観察してみる。はっきり言って、変わってない。立ちはだかる者を尻込みさせる、これみよがしでない自信が溢れた姿勢。誇示する素振りは見られず、あくまで彼の堂々たる態度は生来のものなのだろう。胸を張っているのは常であり、サウンドに特別な敵対意識を抱いているわけではなさそうだ。
威光を放つ態度。歳月が養った老獪さが窺える知的な目。目前に立つ対象の全てを見透かしてしまうような鋭利な瞳。サウンドはビートの視線が自分を貫通し、腹部に穴を空けてしまうのではないかと幼稚にも本気で不安になった。
元来若い顔立ちではなかったから、歳を取ってもあまり時を感じさせないのだろう、ビートの容貌は時の乗り物に乗りそびれたように変わっていない。よく目をこらせば、もしかしたら目尻の辺りのシワが増えたかもしれないと思ったが、長らく顔を会わせていないことを考慮に入れれば、誤差の範囲内である。夕日の角度が悪いというわけでもなさそうだ。
それなりに時が過ぎたのだから、小さくても変化があるのが通常だと思うのだが、サウンドに立ちはだかるビートは、まるで置物のように時間に左右されていなかった。
「そうか、どのくらい会ってなかったかな?」ビートは穏やかに呟いた。
沸々と煮える感情を抑制しているような響きがないか、サウンドは耳をすませてみたが、どうにもビートの口調は裏表がないようだ。サウンドの個人的な見解だが。
「そうだね。僕がプクリンになったとき以来だから……よく分かんないや」サウンドは毅然と言い切れたと思った。
おじの目がわずかに泳ぐ。サウンドは極力気にしないことにした。
「そうか、あのとき以来か。言われてみれば、サウンドに月の石を渡してから、私も君に会った記憶がないな」
「実際会ってなかったんだから、記憶なんてあるわけないけど」サウンドは些かざっくばらんに言う。
数年ぶりの再会にも関わらずほとんど動かないビートの表情に対して、多少皮肉を込めたつもりだったが、ビートはその意図を知ってか知らずか、小河の音色のように静かな笑みを見せるだけだった。発火する前からいさかいの煙に水をかけるようなうまい回避とも、サウンドの皮肉を一方的に踏みにじる冷淡な返答とも、どちらとも取れるビートの笑みをサウンドは目を細くして見る。
「言われてみれば、まあそうだ」ビートは薄く笑い改める。「私が君に月の石を手渡したときのことは覚えてるかい?」ビートの声音は平穏だ。
「覚えてるよ」
「サウンドが歌の練習をやめたい、独立して練習したいって言い出したとき、私は君に月の石を手渡した」ビートは一度サウンドから視線を反らし、薄く笑ったうえで、再びサウンドに向き直る。
サウンドはビートがどのような考えをしてこんな話題を提供しているのか、想像もできなかった……不可能なのではなく、したくなかった。
僕に不安の種を植えつける効果を狙っているのかもしれない、とちらっと頭の片隅が光っただけで、追求はあえてしようとしなかった。
「僕はその場で使った」俯いたサウンドの声は地面に落ちる。
「そう」ビートはそれだけ口にする。抑揚の有無を確認するには短すぎた。
サウンドは不快さが顔の表面に露呈するのを抑えることはできなかったが、ビートに自分の不穏な気持ちを悟られるのはごめんだったので、下を向くことでなんとか直接見せないよう努めた。無駄だ、ということは、本人が誰よりも分かっていたけれど、そうでもしなければ自分の胸が空気の重みに堪えられない気がしたから。
あのときはどうかしてた。いくらおじさんと僕の間でいさかいがあって、おじさんから一刻も早く離れたいとは思ってたけどさ。せっかく貰った月の石を、ありがたみもなにも感じないまま、勢いだけで使っちゃって……。せっかく、貰ったのに、ありがとうも言わなかった。
あれは、歌ができない僕をいつも罵り、哀れむように首を傾げたおじさんへの、僕にできる最大の復讐だった。天地がひっくり返っても歌でおじさんをあっと言わせることのできない僕は、せめてこれくらいはという咄嗟の判断で、おじさんの好意に片足を乗せるようなまねをした。狂気だったんだ、僕は。
やや呼吸が乱れていた。サウンドは深呼吸して、高まりかけた気分を落ち着かせる。胸を掻き乱す煩雑したものの処理がそれなりに完了し、ある程度整理がついたところで、サウンドは顔をあげる。
ビートの張り付いたような微笑みから目を側めたくなるのを無理に固定する。
「こっちにこないか?」
ビートはくるりと半回転して小河に振り向くと、その小河へ足を踏み出した。所々思い出したように咲いている花をかわすため、足の踏み場を選んで進む。
サウンドは、あじの前屈み気味の背中がまるで自分に手招きしているように思えてきて、催眠術にかかったようにビートの後ろ姿を追った。河と陸地の、形の定まらない境界線の上にビートが立つのを目で追い、サウンドもビートの横に立つ。二匹で並んで、端から見れば仲睦まじく、小河を見下ろしていた。
「驚いたよ。突然会いたいなんて聞いたときは」
サウンドはビートに会いたいという旨を人づてに伝えていた。だから、そのメッセージを受けたビートが、願ったり叶ったりの出来事だと喜色ばんだのか、あるいは晴天の霹靂のような事件だと顔を歪めたのかは、「驚いた」という彼の表現では推測しかできない。
どちらともとれる場合、どちらを取ればいいのだろう?サウンドは己に問いを発した。「そう、そう」が、自ら打ち消した。今は関係ないとサウンドは断定した。
この一件が終わったら、伝言をしてくれたポケモンにありがとうって言っておかないと、とサウンドは胸に明記してから、愕然とする。
この一件が終わってから……サウンドには、それが気の遠くなるような長い距離の先に待つ一縷(いちる)の光の筋のような気がしてならなかった。
しばらく二匹で小河に見とれていた。
サウンドは足を軽く上下に揺すりながらも、なかなか発言する機会が見つけられず、ずっと辟易していた。こちらから小河に誘っておきながら、これはないだろう、と口をつぐむ自分がもどかしかった。
出し抜けに、タイミングを見計らった様子もなく、ビートが口を開いた。
「どうして小河に呼び出したの?」
「話があって」一瞬で繕った声にしては上出来だった。内容はすかすかだったが。
「話をするんじゃなかったら、わざわざこんな辺鄙な小河までこいなんて言わないでしょ」ビートは楽しそうに笑う。「それで、話って?」
サウンドは腹から込み上げる吐き気を堪えるように左腕で腹部をさすった。身体が視覚になってビートには見えないはずだ。
サウンドはぼそぼそと文句を呟く。人に聞かせるための言葉とは到底思えない、小さくて手で摘んだらそのまま潰れてしまうような細い声である。
「えっ?なに?」案の定ビートは甥の顔を覗き込む。
「歌を……勝負を……聞いてほしくて……」本人ははっきり意味の込められた言葉を伝えられているものと思っていたが、実際は、サウンドの口から漏れるものはただの言葉の羅列のようだったらしい。
だが、ビートは、サウンドがなにをしたいのか了解したように頷いた。
語り手は天井を見上げる。見当はついていたに違いない。ビートが望んでいたこととサウンドの目的は一致していたし、ビートはそれが分かっていたから、わざわざ声に出させる必要はなかったのだろうが、それでもビートはサウンドに強いた。試してたのかな。彼なりに。
「歌の勝負を?サウンドはしたいの?」とビート。
サウンドは無言で頷く。視線は夕日を映す小河に釘づけになっていて、横にあるおじの顔には向けられていない。
「そうか。歌ねえ……」ビートの悠々と伸びした語尾が、最悪の返答を考慮に入れているサウンドの腹に負担をかける。おじと比較した自分の貧弱さが、脆さが、至らなさがひしひしと身に染み入り、またたく間に冷たい絶望感を呼び起こす。
サウンドはいたたまれない思いに苛(さいな)まれながらも、ビートの重厚な口が開かれる瞬間を思い描く。堅苦しい、押し潰されそうな空気の中で、ビートが開口する像が頭に浮かぶが、口がぱくぱくしただけで、内容までは聞き取れなかった。
静まり返った小河の空気が、よりサウンドを憂鬱な気分にさせる。こんなときに限って、いつもはサウンドとシャープの練習風景を色鮮やかに飾ってくれるはずの小河のウタ声も、加速度的にスピードとパワーを拡大し、万物を一つにまとめる濁流のような轟音にしか聞こえない。それも、ガラス数枚を隔てたような、くぐもった音だ。迫力は感じるが、音自体は小さい。サウンドに付き纏う濃厚な不安と否定的な憶測は、サウンドの奥に潜む形の確かでない耳でさえ手で覆ってしまっていたのだ。
盲目、プラス、難聴ときた。サウンドは顔をしかめる。救いようのないプクリン、それが僕、サウンドだ。
「んー……そうだな」
サウンドは、隙を見せびらかした横腹を急に突かれたように、肩を震わせる。半端なビートの返答を前にして、サウンドは長時間拷問を受けて半殺しにされたポケモン(サウンドははるか昔、サソリに腹部を殴られ、きのみの皮のように河に投げ捨てられた自分の姿を想起した)の気持ちが分かるような気がした。
どうなの?
サウンドは顔だけで疑問を表現した。
行き場に困った視線は若干さ迷った末に、結局ビートに向けられることなく、小河の端辺りを捕らえていた。無意味じゃないか、と自分を叱責する。
疑問は怖くて口にできないから、せめてそれらしい表情くらいは作ろう……それで作っても、おじさんに見てもらわなくちゃ無駄なことじゃないか。こんなんじゃいつまで経っても進歩しないじゃんか。
「どうしよう」ビートの口調は笑うのをを我慢しているようだったが、ただの錯覚だろうとサウンドは結論づけた。
迷った。そして、苦心した。なにより、歯痒かった。
やりたいのかやりたくないのか、ビートの気持ちは今どちら側に傾いているのか皆目想像できなかったけれど、このまま時間が手の中を擦り抜けていくのを野放しにしているわけにはいかなかった。シャープの練習でもそうだったように、今回晴れて実現したビートとの会合も、夕日の光が絶えるのと同時に消えてなくなってしまうような錯覚が生じる。まだそれなりに時間はあるが、だからと言ってタイムリミットの“リミット”が限界を意味することに変わりはない。
今こうしている間にも夕日は沈んでいくのであり、幻想的ではあるが現実を突き出されたような悲惨な光景を、手をこまねいて見つめているだけで、いいのか?
望まずとも、質問された限りは、律義なビートは受け答えるだろう。申し出に受ける、受けないに関わらず。サウンドと自分の念願の決闘が実現するかしないかは、ビートの一言で全て決定してしまうのだ。サウンドは己の無力さに愕然とし、あらゆる決定権をビートに譲り渡したことを今更ながらに後悔した。
ビートは唸り続けている。まるで夕日が世界の反対を照らすそのときを気長に待っているような、のんびりとした調子だった。
冗談じゃない。
サウンドは頭部で鬱血が起こるのを、頭の重さが増したことで初めて自覚した。それまで気がつかなかったのか、もしかしたらビートが決断を躊躇している可能性を疑い始めた時点から頭に血が集中し始めたのか、サウンドはどちらとも知れなかったが、確かなことは……。
おじさんはなにかを待っていること……だが、なにを?
ちょっとだけ首を捻ってみたが、サウンドは一つしか思い浮かばなかった。
夕日しかない。
夕日が没するまで口を開かないことが、おじの答えなのか?
冗談じゃない。
サウンドはもう一度声にならない悲痛の叫びを胸で発す。
今日というこの日をどんなに待ち侘びたか……また、どれだけ怖かったか。普段は忘れている。朝起きてきのみを口に含んだり、村に出てぶらぶら歩き回ったり、その村で他愛のない話を他のポケモンとしたり、一日の締めくくりである、夕日を傍観者に据え置いたウタの練習をしていたり……日常生活を営んでいる間は意識することはないし、ふと漏れそうな気配があっても、首を振れば日常に埋めることができた。しかし、ふとしたとき、例えば夜床につく直前、強すぎる月の明かりがしつこく瞼の裏に白い闇を映し、眠りを妨げたりするときなどは、まるで予想だにしない場所から顔を覗かせた伏流のように、恐怖はサウンドの目を丸く形取る。
おじと会わなければならない、誰かに強制されていたわけではなく、外ならぬ自分自身の声は抗いがたく、サウンドは自身の声に恐慌してここ数日を過ごした。
そしてついに、こうしておじと夕日を共にし、過ぎ行く小河の流れに身を任せている。こうして平然を装っておじの横に立ち尽くしているわけだが、ここまでこぎつけるまで費やした勇気や労力は、もし重ねられるとしたら村を覆い尽くしてしまうくらい巨大に違いない。
勇気を振り絞ってようやく実現したチャンス。この機会が損なわれるとしたら……恐れおののいた眠れない夜が、全部骨折り損になってしまうとしたら。おじさんは、実は僕のウタなんて聞きたくないんだとしたら……時間稼ぎのためにこうして返答を先延ばししているのだとしたら……。
不毛な妄想は留まることを知らず、サウンドは風船のような柔らかい身体が不安と焦りではち切れんばかりに膨脹してしまうような気がした。
嫌だ!そんなのありえない。なにがなんでもおじさんには話に乗ってもらうんだ。そのために、今日はシャープに無理言ったんだから……絶対に、やるんだ!
両側から板で挟まれたように恐圧迫されたサウンドは、弾けた。
「お願いだから!」
ビートがはっと息を飲むのが、距離を置いたサウンドにも分かった。ビートは顎に当たる部分をすこし上げてから、驚いたようにサウンドに振り向く。度重なる戦いをくぐり抜け、戦闘技術に熟練した百戦錬磨のポケモンが、牙を沈めんとする相手の動きをスローモーションで見るように、サウンドはビートの僅かな仕種を横目に見た。
「サウンド?」
「お願いだから!」
サウンドの念頭に、様々な光景が細長い筋となって、残光を残しながら右から左へ直線を描く。光が通りすぎた後の、緑色の場所から画像の束が姿を表す。
その画像は、一日も早く歌を上達したいと殴られても躍起になって練習に励むプリンから始まり、「下手くそ」とにべもなくはねつけられ、蔑まれた帰り道のプリン、孤独と孤高をうまく線引きできず自分は孤高の側にいるのだと疑念を持たなかった、小河と鼻を突き合わせたった一匹で声を張り上げるプクリン、びしょ濡れになったうえ、打ち捨てられたように硬質な地面に顔を伏したプクリンと続いた。
一見すると入り乱れているが、それらの画像は時間という秩序の下に、過去から現在へ橋渡しされていった。
まだ続く。
自宅だ。もう限界なのだと自分を納得させようと試みた自分を、外側から見た。諦めろ、諦めろと呪詛の言葉を吐き捨てるように自分に擦り込むと、納得するどころか反って暗澹たる気持ちになり、悔しさともどかしさに唇を噛み締めた。自然と拳は熱を帯び、震え、持ち主は過剰に上がった熱を逃がすための場所を探し求める。拳を床に叩きつけた。不動の地面に震える拳。
揺れていた思いは一時的に動きを止めたが、まるで悪戯を親に注意されたやんちゃな子どもが悪ふざけを繰り返すように、再び彼の心を掻きむしり始めるまで間もなかった。熱は、場所を変えただけで発散されなかった。拳からじわじわと腕を這い上がり、やがて目元まで達する。
目の裏が熱くなり、その表面は止むに止まれず滲み始める。
何時間もその場で石像になっていたが夕方になると、苦い味をざらついた舌に乗せながら、歌と決別するため、足枷に嵌まった楔に手をかけた……。
舞台は変わって、小河。まるでこの世に存在する全ての罰を受けなければならないことを宣告されたようなやつれた様子のサウンドは、不安や絶望など微塵も感じさせない、照り映えるような明るい笑顔をしたシャープをまともに見ることができない。
それでも、彼女の話に耳は傾ける。夕日が潜るころには、夢から覚めたような心地になっていた。陽光とは無縁な暗い建物の中で耳を塞いで縮こまっていた自分が、シャープの言葉に感銘を受け、いつの間にかカーテンの隙間から差し込んでいた光に向かって歩いていた。気づいたら立ち直っていた。
あのときは、数年という単位の月日を越え、その間ずっと探し求めていた落とし物と再会したような、爽快な気持ちになった。
そしてこれは……昨日だ。明日は練習を休みたい。シャープに深々と仰々しく頭を下ろす自分が、いた。シャープは理解してくれた。一芝居打ってまでして、おじとウタで交わることに懸けるサウンドの熱意が本物であるかを確かめた。あのとき、夕日を背後に控えたシャープの目は、やはり……。
不快。脱力感。倦怠感。自己憐憫……その先に待っていたのは、再び手に取り戻したウタのカタチという……なにか。希望、とはまたすこしカタチが異なっている、なにかだ。
長いようで一瞬だった記憶の旅からサウンドは現実に舞い戻る。
乗り越えてきた記憶とそれらに付属していた感情の波が退いた後、残された場所に湿っぽい泥はなかった。決まりのいい、さっぱりとした心持ちで、サウンドはシャープは今頃どうしているんだろうななどと持て余した余裕を使って考えていた。
「サウンド?」ビートが心配そうに呼ぶ。
サウンドはついに(というかやっと)ビートと視線を繋げた。一瞬ビートは気後れした顔をして、明らかに怯み、サウンドは珍しいこともあるものだと軽蔑したように若干口端を上げたが、ビートはすぐに村長の威光を取り戻した。
当然か、とサウンドはがっかりするどころか安心した。
「おじさん、お願い」
サウンドの語調は低く、従わなければどうなるか分からないぞと言い張るような、脅迫まがいの雰囲気を醸し出していた。ビートはそれを察したのか、曲がった背筋を伸ばした。サウンドに呼応するかのようにビートも目を尖らせ、サウンドを半ば威嚇動作のように睨み付ける。
サウンドは怖じけづかない。むしろかつて感じたことがないくらいの高揚感はサウンドの身体を熱くさせ、頭は、そこだけ絶対零度近い極地に追いやられているように冷たく静かだった。
「僕は今日おじさんと会うために、多少なりとも犠牲を払ったんだ」サウンドはおじを見定めたままである。「同性愛者」とからかったシャープの声が遠くのほうから聞こえたが、無視する。
「多少の犠牲?」
「なんなのかは気にしないで。おじさんには関係ないから」はっきり言う。事実、関係ないとサウンドは思った。不意にビートは真顔になった。
ビートはサウンドと鼻を突き合わせたまま、味の薄いきのみの風味を味わうな顔で目を閉じて、開く。
ビートがサウンドから上のほうへ視線をずらしたので、サウンドもおじに倣(なら)って空を見上げる。一つ二つ雲があるだけの、見ているだけでうきうきしてしまうような麗らかな天気で、サウンドは我を忘れて魅入った。普段は当たり前のようにあるから意識しないが、こうして改めて見てみると、空の高さと大きさ、それらから連想される多らかさに度肝を抜かれそうになる。
そしていくら懸命に背伸びしても届かない空の高さを想像し、気が遠くなるのを感じる。
発火寸前まで発熱していたサウンドの頭が、大空の青い色と同化し、張りがなくなるように音もなく萎む。頂点を極めてから崖下まで落ちるまでが短いのは、短気ということではないのだろうが、サウンドの特徴とも言える。些細なきっかけ一つでころころ顔色が一変二変する激しさは、ウタがウタえるようになってもサウンドに残っている。
頭上から、サウンドに声が響く。
一匹のポケモンが努力したって、お前の手が届かない場所ってのは常にあって、それなりにウタができるように自惚れているようだがな、真実はねじ曲げることができないんだぜ……そう言って指を差す見えない何者かに俯瞰されている気がした。
ビートがそっとサウンドを盗み見ていたのだが、サウンドは何者にも干渉されずに悠然と広がる空にうつつを抜かしていた。
ビートは、隙アリ!と言わんばかりに「わっ!」
「うっ!」サウンドは小さく肩を震わせる。
ビートは思い切り相好を崩してサウンドに目をくれる。「ぼうっとしてたよ」
「あ」サウンドは俯く。
それを目に留めたビートは鼻から息を漏らした。
「ダメじゃないか、答えないうちにぼうっとしたら」おじの声音は穏やかなもので、その内容とは裏腹に、我を見失っていたサウンドを責めるような様子は微塵もなかった。
都合が悪くなるとすぐに飛んじゃうんだから……これは治んないな、ホント。でもおじさんも酷いよ。真顔になったと思ったから真面目に考えてくれるのかと思ったら、これなんだから。参っちゃうよね。
おじのいる位置から死角になるよう笑窪を作る。
どこまで行っても平常心を保つ温厚の塊のような村長が、人をからかうなんてことは前代未聞だったから、驚くのが通例だったのかもしれない。だが語り手は、おじがサウンドをからかったことが、当時からなぜか不思議には思えなかった。ポケモン誰しも、他人を“からかって”みたくなるときがあるのだ……僕のように。
「初めて見たよ。サウンドがあんなふうに声を荒げるところ」おじはサウンドの顔を覗き込む。「あんなに不安そうな顔してたのに、突然『お願いだから』なんて大声出すからびっくりしちゃったじゃないか」
「それは……ごめん」サウンドはくぐもった声で言う。
「どうして急にあんなことを?」
「うんと……おじさんがやってくれないかと思ったから」
「逃げると思った?」
サウンドは大袈裟に首を横に振り、さらに身振り手振りを交えて否定の意味を余計なくらい強調した。
おじさんが逃げるわけがないじゃん。おじさんの実力はいつもそばにいた僕が一番よく知っているわけで、今の僕では到底歯が立たないということは、逆立ちしたって変えられない。なにがどう働いたって僕はおじさんには勝てない。それを承知でここにいるんだ。
だったら、どうしてそんなに身体を固くしている?負けると分かっているんだろう。おかしくないかね。感じるか……お前、肩が震えてるぜ。寒いのか?春と夏のあわいに世界が沈むこの時期に、お前の周囲一帯だけは雪が純白の花を咲かせる冬ときたものだ。笑えないジョークじゃないか。
それともなんだ、もしかして気温は高めだが遠くの地方から風が運んだ空気は寒い、なんて理屈にもならないことを言うのか?おもしろい。他の誰の頬も掠めないほどの小さな風を、敏感なお前は感じているんだな。ほう……ところで、その風の名前は“臆病風”か?
「いいよ」
「は?」サウンドはビートの言ったことの意味が把握できず、きょとんとした。
「だから、いい、って言ったんだよ」
「なにが?」
「ウタの勝負がしたいと言ったのはサウンドじゃないか」喜劇の途中でわっと湧く会場に混じって出すような、ポケモンをおもしろがる声だ。「サウンドがそこまでやりたいのなら、いいよ、やろう」
ビートの微笑みはどこか殊更めいていた。
「ああ……うん」
唐突な物言いはぶっきらぼうと言えばぶっきらぼうだったが、サウンドはあまり不愉快には感じなかった。極度の緊張のために感覚が麻痺していたのか、はたまた底に一摘みだけ残っていた冷静な部分が首をもたげ、言動の影になって見えないビートの本心を見抜いたのかは判然としなかったが、とにかくサウンドは不審がらなかった。
また、サウンドが大声で希(こいねが)った途端、判断を先送りしていたはずのビートが、手の平返したようにあっさりと勝負を引き受けたことを、サウンドは意外だとは思わなかった。こういう表現をすると誤解を招くかもしれないが、なんというか、自分がおじを説き伏せたなら、おじはころっと態度を変えるのではないか……サウンドは、その計算に誤算があるとは思えなくて、絶対うまくいくという勝算があった。根拠のない危ない予感だったけれど。
それに、直前にサウンドは、料理が完成しテーブルの上から湯気を天井に伸ばす鍋をひっくり返すかのごとく、サウンドは自分の過去を掘り返していた。
これは、ついさっき気づいたことなのだが、サウンドは自分の選択で今後が大きく左右されるような、重大な決定を下す際一度過去を振り返る、という妙な癖があるようなのだ。自分が首を縦に振るか力強く頷くかで今後の未来ががらりと変わってしまうような曲面で、その決定をするというのは、貧弱な自分を叱咤激励し、やる気を奮い立たせる気概と、身近まで迫りくる暗闇と臆病を振り払う勇気がどうしても必要なのだ。必要なのなものを入手するために、ポケモンは視界にあるものの中で頑張れば手が届く範囲に落ちているものなら、横暴にもなんでも使おうとする。緊迫感で覆いつくされた場面において、決断力を存分に発揮するためにサウンドが縋る存在こそ、まさに自分自身の過去なのだ。過去を見反ることにより、サウンドは身体に溜まった臆する心を外へ吐き出すのであろう。
考えてみれば、不思議なことではないだろうか。
サウンドは自分の過去を嫌悪している。血ヘドを吐くような苦しかった毎日は、普段意識して思い出そうとしたら、それだけで全身の身の毛が総毛立つような居心地の悪い気持ちに捕われてしまう。身体にたなびく影は、持ち主が動いた通りにしか行動できないのだから恐れるに足りないと、心の中では納得しているのだが、特に夜暗の気配が濃厚になる夕方は、足元から張り付いて離れないはずの巨大な黒が、己の許容範囲を越えて現実世界に侵略してくるのではないかと本物の恐怖を感じる……そんな妄想が弱点をつくように頭に湧く、という瞬間がないだろうか。
過去は、ときとして恐怖の権化になり果てる。
過去を直視することに躊躇いを覚えるサウンドが、勇気を振り絞るときだけは打て変わって辛苦な過去に身を寄せるのだ。つじつまが合わないではないか……。
「ねえ、サウンド」ビートの低い声がサウンドの腹部のあたりをさする。
「な、なに?」
ビートは憮然とした表情のままろくに呼吸すらしないで黙り込んでしまって、それに影響されてサウンドの息もつまる。苦しくなったところで、ほんの小さなポケモンの鳴き声のような呼吸を喉でする。
「いや、なんでもない」ビートはにっと歯を見せる。
「な」冷やかしか!おじさんらしくない。もう、つきあってられないよ。
 サウンドは安堵と落胆の入り混ざったため息を地面に落とす。
首を振って声を振り切り、再び思考をビートに断ち切られた“過去に縋る自分”に戻す。
……つまるところ、サウンドは自分が思っている以上に過去に怯えていないのかもしれない。血と努力、苦心と達成感の堆積はある方向から見上げれば針山地獄にも負けず劣らずの悲惨な情景なのかもしれないが、立ち位置を変更すればなだらかで穏やかな、腰を下ろすのに調度いいくらいの傾斜をしているのかもしれない。
足の短い、歩幅の狭いサウンドでも高所に上ることができるように作られている……むしろ、サウンドのために形成された上り坂なのだ。
いろいろあったけどさ、なんだかんだ言ったって、僕は過去を“愛してる”んだろうな……あんまり認めたくないけど。
サウンドは身体がすこしだけ軽くなったような気がして、そのまま空中に浮いてしまうのではないかと苦笑したが、浮かんでも違和感はないように思えた。
一歩前に踏み出し、坂道の上に辿り着いてしまえばおよそ願いは叶う……大人と大差ない体格をしながら幼さの残るサウンドは、安直にそう考えていた。自分にはあと一歩前進する勇気がないだけで、それさえあればどんな夢でも叶えるとこが可能なのだと高をくくっていたからこそ、大声でおじに喚き散らした。実際サウンドに足りなかったのは決断力だったから、一概に間違ってはいないのだろうが、恥ずかしい限りだ。相手がビートだったからいいものの、異なる場面で同様の考え方をして進んでいたなら絶対にドジを踏んでいる。
すでに「お願いだから」と言った自分がすでに随分過去のもののようだった。
とにかく、もう、おじさんに遠慮したり怯えたりする必要はないし、敬遠するのも昨日までだったのだとサウンドは強く感じた。
「よいしょ」
ビートは腰を浮かせ立ち上がるやいなや、大空に触れようとするかのように腕を頭上に突き上げ、伸びをした。くうう、と背筋を伸ばしたときに発した声は、気持ちが引き締める前兆のようサウンドには聞こえた。
同時に、「よいしょ」と年寄り臭く反動をつけたビートの姿が、サウンドの頭の裏側に鮮明な像を残していった。ここでようやく、サウンドはビートの老いを認識したし、伸びているさなか、ビートは口角を軽く持ち上げたので、きっとビートも内側に身を潜める老化した自分を自覚したのではないかとサウンドは思った。
即座にビートの表情は熱で溶かされてから冷えた鉄板のように滑らかになったが。
ゆっくりと、しかし確実な足取りで、一歩、また一歩とビートはサウンドから離れ小河に近づいて行く。サウンドもいつの間にか立ち上がっていた。知らずのうちだった。そのままビートの後ろを追おうと試みるものの、なんだか影みたいだから嫌だなと足を止め、その場で地面に根を下ろした。目だけでおじの背中を追跡する。
小河の淵に到達したビートは与えられた役を完璧に熟(こな)す舞台役者のように颯爽と身を翻し、サウンドに視線を集める。目前に立つのはおじ一匹だけであるにも関わらず、サウンドは、あたかも大勢のポケモンが集う広場のど真ん中に追いやられ、その視線を集めているような気になった。大衆に囲まれた羞恥がくるよりも先に目眩がした。
ビートの表情は平穏だったが、目は違った。その奥深くに幾千匹もの息の荒いポケモンを封印しているかのように、熱気と興奮、それらを外には漏らさない圧倒的な冷淡がないまぜになっていた。
草村から小河までのほんの短い距離を移動した刹那の時間の中で、ビートは鋼鉄製の、重苦しく、冷たく、見た者の首を竦ませる仮面を被った。……あるいは、今、脱ぎ捨てた。本当のビートは、村を抱擁し温情味に溢れ、称賛に値する素晴らしき村長なのか、甥の頬を赤く腫らしても泣き言を耳にしてもお構いなしに罵言雑言で畏怯させ、稽古をする血も涙もない機械なのか、サウンドにも判然としない。
「やるんだね?」ビートはあえて確認する。
お節介な。
サウンドは憤(いきどおろ)しく眉を下げ、おじの目に訴えかける。「やる。対決しよう……ウタで」語尾が乱れなかったことをサウンドは見えない誰かに感謝した。
「よし」ビートは腕を手前に引かんばかりに勢い込む。
多少ビートが顔を綻ばせたようにサウンドには見え、目をしばたたかせて再度よく見つめるが、跡形はなく、結局ビートが笑ったのかどうかははっきりしなかった。だいいちこんな状況でにやけるのはおかしい、とサウンドこそ薄く笑った。
「じゃあ、やろう」
ビートの、またサウンド自身の、なにかに決着をつけ終止符を打つための戦いに用意された開始の宣言は、淡々と進行する村の恒例行事の開会宣言のように待ち遠しく、欝陶しく、なぜか腹立たしい。痒い場所はすぐそこにあるというのに惜しくも手が届かないような不快感をサウンドは背負う。
さっさと始めろ。目がビートにそう語ろうとする。目はビートを直視していない。
ビートは、サウンドのことなら一日の呼吸の回数まで熟知していますよと今にも鼻を鳴らすような得意げな表情で鼻を高くし、サウンドを見下してみせる。卑下されたり邪険に扱われたりされるのには慣れていたはずのサウンドも、村長のそれとなると話は別だ。
「うん」
サウンドは俯き加減に答える。まるでビートの目が腹部に移動し、その移動を辿ったかのようだ。便宜上ビートはサウンドの同意を聞き入れた、ように振る舞った。事務的な仕事には職業……村の役割上、使いこなされるのだろう。
ビートは、トランセルだったものの殻を突き破り、今まさに羽根を広げ、純心無垢、いかなる色にも汚されずどんな色にも干渉しない青空に羽ばたくバタフリーのように、両腕を許される限り遠くへ左右に伸ばす。
「では私から」
戦いの火ぶたは切って落とされた。後戻りはできない。なぜなら、両者ともに同意してしまったからだ。サウンドは後悔とも諦観とも潔く腹をくくったとも見分けのつかない複雑な表情のままに、黙って腰を下ろした。
ビートの背中に輝く夕日が、村のためなら多大な時間と日々の労働を惜しげもなく発揮する村長を背後から援護しているように思え、一方、縦横無尽に村のポケモンの間を行ったりきたりする自由気ままなサウンドに対しては、目を焦がし揶揄(やゆ)するために最後の光を放っているような気がしてならなかった。
夕日はまだ沈みそうにない。時間だけは残っている。裏返せばそれしか残されていないとも言えた。



冒頭部分の旋律からすでに、サウンドは背筋がそわそわと落ち着かなくなるのが分かった。いずこからきたとも知れない幽霊の冷たい手の平に背中を撫で回されたように、高く突き上げられた耳の先っぽから腰の辺りまで、一息に悪寒が走り抜ける。
こんな声を、ウタを、ポケモンが表現できるものなのか?
耳にした他人の、秘密にしておきたい重要な部分や、日常生活では意識されない奥深い場所まで一瞬で到達し骨抜きにするようなビートのウタ声は、最初のたった数秒でサウンドを粟立たせた。
ウタとは奈落の落とし穴のように奥深いもので、理解したり自在に扱えるようになるのは至難の業だということを、シャープに教えられるまでもなく、サウンドはよく分かっているつもりだった。これは、積極的に練習をするようになったからこそ抱くようになった、サウンドの持論である。
ウタに言葉以外のなにかを込め、音楽という捕われた枠を超越させ、聞き手のココロを掴むには相当な技術が不可欠であり、熟練した者でもありのままに制御するのは難しいのではないか。あくまでサウンドの勝手な考えだが、全く的外れというわけでもないだろう。ウタを制御下に置くまでには多大な努力が必要であることに、サウンドはウタ通してシャープと接し始めてから気がついたのだ。突き詰めて言うならば、シャープに気づかされた、のかもしれないが。
ウタは楽しいものでもあるが、完成は困難で、完成させたいのなら厳しい道を通るしかない。ポテンシャルだけではいくらもがいても無駄なあがきだし、努力だけでウタがウタえるようになるわけでもないから、才能と努力が両立することによってのみ、真の意味でウタは完全になれるのだ。
ココロ揺さぶるウタを奏でるとは、ごく一部のポケモンのみ可能な芸当あり、許された特権である。
しかしながら、今聞いているこのウタは、まさに熟練した者の中でさらに卓越したプクリンのみができるウタのようだった。ビートのウタ声は、初めて光を浴びたときから備えた才能を十分に発揮するため、他人の想像を絶するほどの努力を惜しまなかった結果、ようやく身につけた並外れた能力であることが、初めの一部分だけで窺い知ることができた。
サウンドのココロを掻き乱しひっくり返すウタはどの程度の努力を積んだ結果なのか、サウンドは、確かなことはなにも言えなかったが、血ヘドを吐くくらい、それこそサウンドが村長の家に通い指導を受けていた頃と同等かそれ以上に辛苦な思いをしたことは、想像するに難くない。
こんなウタが、存在するの?僕とおじさんは同じプクリンなのに。その前に、僕もおじさんも、一匹ポケモンであることには変わりないはずなのに。こんな、こんなウタができるポケモンが、いるって言うのか!
こんな声を、ウタを、ポケモンが表現できるものなのか?……と、少し前に自問したまま、答えを出していなかった質問をもう一度自分自身にぶつけてみる。大勢の子どもの騒がしい声であれ、一匹のプクリンのウタ声であれ、たかが空気の震えだという点に関して言えばどちらも同一であるのに、村長のウタに戦慄を覚えずにはいられず、座っていて奇妙な居心地の悪さを感じるのは、ありえないことなのか、と。
しかし、そう質問を投げてかけてみると、いかにバカバカしいことであるかはっきりしただけだった。
解答は目と鼻の先にあるではないか。目の前に立つプクリンが、この世には信じられないようなことが、一般に奇跡と持て囃される出来事が現に存在しているということを象徴しているかのようだった。
奇跡は起きるものではなくて起こすものだ、とどこからともなく浮かんできた文句に一瞥をくれてそっぽ向こうとするが、サウンドは、奇跡はやっぱり起きるものなんじゃないかなと反論してみた。このように信じられない光景を目の当たりしてしまったら、奇跡なんて起こそうと思って起こせるわけないじゃんかと悲観したくもなる。
しかし、おじはその奇跡をいとも簡単そうな様子で実際にやってみせているということを実感すると、キリキリと万力で挟まれたような痛みに頭が割れそうになる。
頼りない呻き声は、おじのウタに紛れたおかげで耳でこそよく聞き取れなかったが、喉の震えからサウンドは気がついた。
僕には、できない。こんなウタはウタえない。ウタえっこないよ!
サウンドは今すぐにでもおじの元に駆け寄り「これ以上ウタうな!」と脅しとも要求とも懇願とも取れるような言葉を発し、とにかくおじにウタを中断させるためならなんでもするという意思表明をするための必死の形相で、ビートの喉元に食ってかかりたくなった。
もうウタうな……頭が割れてちゃうよ……。
あとすこしでもサウンドの精神力が強くなかったら、サウンドはビートに手をあげていたかもしれない。あるいは、腕を振り回しながら駆け出した瞬間に、ビートは目を閉じているから見えないはずだと高をくくっていたサウンドは背後に回り込まれ、返り討ちになっていたかもしれないが、どちらにしても穏便に一日を終えることはなかっただろう。
サウンドは崖の淵に立たされた翼を持たないポケモンのようなぎりぎりの状態の中で、自分の中で燻(くすぶ)る葛藤と戦い、僅かな差で勝っていた。
お前の主人は僕なんだ。勝手に動いちゃダメなんだ。言うことに従うんだ……頼むから。
ビートはウタを続けている。口の開閉運動を繰り返し、こともなげに言葉に強弱と高低の波を調節しその度にサウンドをおののかせる姿は、サウンドなど眼中にないかのようだった。
目を閉じていたから、言葉の上では見えなかったのだろうが。おじがどの程度サウンドを意識してそのウタを口ずさんでいたのかは、よく分からない。
次第に自分を統制できるようになった。感情の波が氾濫する直前で踏み止まる。とりあえずおじに手が及ぶ危険性はなくなったようにサウンドには思われた。油断しているつもりはないが、自分は暴力でこの場を治めようとはしないだろう、もう大丈夫だろうとサウンドは思った。
サウンドの内部からくぐもった低い笑い声が湧いてきた。
それを油断って呼ぶんだぜ、サウンド?いいか、ポケモンが油断してない唯一の、そう、唯一のときってのはな、自分が油断しているかどうかを吟味しているときだけなんだよ。油断している自分に絶えず疑念を抱くことによってのみ、ポケモンは油断しなくなるんだ。でだ。今のお前は、油断してるのか、してないのか?
例のごとく首を左右に振って“サウンド”を追い払うが、いつもより大袈裟だったかもしれない。首に筋状の痛みが残る。
それといっしょに、「あの頃の報復だ」といわんばかりにビートを殴ろうとする自分を、完全に隅に追いやることに成功した。しばらく見張ってみて、抵抗しないようだったが、食い入るようにそのまま視線を送り続ける。
物憂いそうに拳を握りしめる自分を監視しながら、逸れた神経をビートのウタに傾ける。
唐突に、ビートのウタ声がやたら大きくなった。仰天して叫んでしまうすんでのところで持ちこたえる。まるで、自らの気配を消し、足音を立てずに耳元まで一気に移動して、怒鳴り声を浴びせられたかのように、いきなり声のボリュームが上がったのだ。
なに事だろうかとサウンドは首を振り回し辺りを見渡す。彼が真っ先に疑った可能性は、おじはまた僕をからかおうとしているんじゃないかということだった。
サウンドを畏怯させたところでどんな利益が生まれるのか判然としなかったから、目的は全くもって定かではないが、おじは再びサウンドを怯ませようとわざと声を張り上げたのだ、とサウンドは考えた。
数瞬後には自分の推測が間違えをであることを思い知った。
よく耳を傾ければ、ビートは声に張りを出したり沈めたりと、強弱の調整こそしていたものの、突拍子もなく罵倒まがいの大声は出していなかった。
ある一定の秩序に治められた音色は、嵐の真っ只中の暴れ狂う大河のような荒々しさと迫力をときに醸し出したが、その根幹たる部分はすぐそこを流れる小河のように穏やかで、淀みもしなければやたらと陸を侵食しようともしない。ビートというポケモンによって規律が整えられた世界を音として表出させたもの、それがこのウタである。コントロールされた世界を前に、彼が完全無欠の王として玉座に腰を下ろしている様子が、サウンドの目に浮かぶようでもあった。
おじが前触れなく壊れたように声を大きくした本当の原因は、ビートにではなく、サウンドにあったのだ。サウンドは平手打ちされたように目を見開く。
おじさんのウタに集中しようしたところで、おじさんのウタが大きくなったって勘違いしたんだ。それなら答えは一つじゃないか。
サウンドは実のところ、ビートのウタなどろくに耳に入れていなかったのだ。
無意識のうちにサウンドは己の耳を、不可視の、しかしそれゆえにいかなる耳栓よりも効果が絶大で、かつ取り外しに必要なのは自分の気持ちであるという特別な物体で耳の穴を覆っていたため、ビートの素晴らしかろうウタ声は、壁一枚を隔てて抑制されたような、どこか現実味にかけた音としてしかサウンドに届かなかった。嵐よ、過ぎよと家の中で膝を抱える要領だ。
ビートがサウンドになにかをぶつけようとウタっている姿は、故意に難聴になったポケモンに囁きと身振り手振りで意思を伝えようとするくらい無駄だった。なんといっても、故意なのだから。サウンドの根本がそのような選択を彼に選ばせた。
サウンドは無意識だったし、ビートは勝手なのだから、誰も悪いことはしていないかもしれない。しかし罪があるポケモンがいるとしたら、自分である、とサウンドは顔を歪めた。
いつから“耳栓”なんてつけてたんだろうね。
考えた一瞬後にも答えは見つかった。容易だった。
ビートが最初に発声したときにはすでについていたに違いない。
あの冒頭を耳に入れたときから、サウンドには嫌な予感がして、脇の下に汗をかいた。もちろん、ビートのウタの出来栄えの高さに戦慄し、寒気立ち、身を半回転させてそのまますたこら逃げてしまいたい衝動には駆られたのだが、サウンドを本当の意味で恐怖に貶め、歯を食いしばらせ、サウンド専用の耳栓を作るに至らせた原因は、また別に存在する。
ビートの開口一番の声音から、サウンドはなにかを察知した。悍(おぞ)ましく、疎ましく、できれば永遠にお目にかかりたくないと思わせる類のなにかを、ビートはウタでカタチにしようとしていたのだ。生ある全てのポケモンが生理的に嫌悪し、疎外したいと願うそのなにかを、あえてビートはウタに乗せるという形でサウンドに言い渡そうと試みた。サウンドには知ってもらいたいと切に願うような響きが、ビートのウタには混ざっていた。
こうしたことをサウンドは無意識に汲み取った。
ビートはサウンドになにか重大なことを告げようと手を差し延べるが、サウンドはそんなものは聞きたくもないと必死の形相で手をなぎ払う。
ビートはなにか重要なことをウタにしているが、サウンドはそんなものは知らないというフリをする。
聞いたら後戻りできないというような恐怖が、なにかには内在していたのだ。そしてサウンドが導き出した答えが、ビートのウタを耳栓で退けることだった。なにかには、人並みに責任感を感じるようになったサウンドにそうさせるだけ力が蓄えられていた。
ふと眉間にシワを作る。自分がおじのウタを嫌悪していた理由を考え内なるもう一匹のサウンドと論争を繰り広げているまさにこの瞬間も、自分は集中を分散させウタを聞かないようにするための逃避行為をしているのだと気がついた。どこまでも、サウンドは逃げるつもりだったのだろう。
しかし、ここまで話を煮詰めてしまったからには、これ以上の議論は不可能のように思われた。
ビートのウタに耳を塞ぐ理由がはっきりとしてしまったということは、論争の終着を意味しており、これより先は選択の問題だ。
聞くか。
聞かないか。
選択肢が二つしかない問題というのは一見すると答えやすそうだけれども、選ぶまでに消耗する気力が半端じゃないな、とサウンドは顔をしかめる。将来の運命を決するような、深刻な二者択一を前にしたときポケモンが取れる行動といったら、三つしかない。
するか。
しないか。
新しい道を探すか。
その中で三つ目を選択した者はたいてい、問題を先送りにしていつかなんとかなるだろうと楽観しているか、選んだ道の先に待つ後悔を見越して一歩を逡巡しているかのいずれかだけれど、どちらにせよ、そのポケモンはたんなる臆病者である。臆病は必ずしも悪いことではない。長いものに巻かれた生活は自ら率先して行動しなくても流されるまま脱力していれば毎日を送れるから楽だし、わざわざ危険を犯して安全な生活を犠牲にしたくないといい欲求は、個人差はあれど誰しもが抱えるものである。外敵が触手を伸ばさない安住できる地を求めて駆けずり回るのを臆病と呼ぶなら、生きとし生けるポケモンは全員臆病者になってしまい、そもそも臆病という発想自体、ポケモンに浮かばなかった可能性だってある。
臆病は悪くない、臆病は悪くない。
救いの文句を脳裏に刻みつけるように、何度も何度も口内で呟く。そうしていれば状況が打破できると信じているふうでもある。
そしてサウンドは、三つ目の選択に身を寄せている自分をようやく認識する。
キカナイホウガイインジャナイ?頭の中でけたたましく鐘が鳴るような音がする。
聞いたほうがいいんじゃない?頭の中に、自分のそれとは思えないくらい、冷たく身の毛がよだつ口調で告げる誰かがいる。
逃げれば?と最後におまけのように着いてきた声は、疑いようもなく今ここに佇む自分のそれだった。
どうしよう。
いつの間にか立ち上がっていたサウンドは、刃物が暴れ回っているような、切り刻まれてぐちゃくちゃになってしまいそうな苦痛を腹部に感じた。またすぐにしゃがみ込み、生まれて間もない泣き叫ぶププリンを懐に抱いてあやすように腹を摩る。
その間にも、サウンドの耳に流れ込むビートのウタは、サウンドに受け流され、ただ耳から耳へ通過するのみだ。
どうしよう、どうしよう……。
サウンドは悩んだ。聞けば苦悩に苛まれるのはなんとなく予想できたし、聞かなければおじをここに連れ出した意味がなくなってしまうし、このままウタが終わるで耳を傾けているフリをしているのは、罪悪感に近い感情を感じる。
おじさんを呼び出したのは自分なのに、聞かないっていうのは理不尽で身勝手なんじゃないか。聞き飛ばすのくらい、できるかもしれないけど、したくない。けど、聞きたくない。
ひたすらにサウンドは悩んだ。
どうしたらいいの?
そこに全知全能の存在が佇んでいて、疑問を投げかければボールを投げ返すように何事もないような仕種で適切な判断をしてくれるとでもいうように、サウンドは空を見上げる。
仰ぎ見た空は高かった。昼間、太陽がえっさこら昇るのにかかる時間より、夕焼けが青空に追いやられて山の向こうに沈む時間のほうが、明らかに短い。サウンドはそんな気がした。一日という時間枠の範囲で、太陽が怒ったように頬を赤くして、涙の跡を拭いきれない悔しさを滲ませた表情を見せる時間は、あまり長くない。はっとしたときにはもう幕を引いている日すらある。
それでも、ビートが始動したときと比較しても、夕日は目立つ程その位地をずらしていないことから、あれから時間はあまり経過していないことが分かった。サウンドにとっては、一秒が永遠のように引き延ばされたような、重圧と緊張にがんじがらめにされ身動き一つにも神経質にならざるをえないような時であるのに、外側では、物事が彼の苦悩など意に介さず、月並みな進行に飽き飽きしているような様子で、回っている。
自分が深刻な事態に直面していようとも、他人には関係のない話であって、知らん顔して通過されても文句を言う権力はない。分かっているつもりだが、切羽詰まった状態は誰にも共有してもらえないということが、不平等で、残酷なことだとサウンドは頭(こうべ)を垂らす。
でも……すこしくらい、いいじゃんか。これまでいくつもの分かれ道に遭遇して、その度に、なけなしの勇気やあってないような気概を捻出して決断し、進んできた。ずっとしてきたことだ。これからも、僕はいろんな選択を迫られて、悩んで、それでも決断して、前に足を出さなくちゃいけない。その先に横たわっているのがいつも羨望したものと一致するとは限らないし、むしろ望まない結果というのはいつだって望んでないときに訪れるものなんだけど、それでも、足を止めたらいけないんだ。
誰かの力なんて借りてこなかった。決断し行動する際の行動に移せるのは自分たった一匹だけ。だから決断するのも自分一匹。他の誰かじゃない。僕は誰にも頼ってこなかった。そんな選択肢が手のうちになかったのもそうなんだけど、誰かに助言を求めるっていうことがひどく恥ずかしくて、度量の知れた自分をひけらかしてしまうような気がして、いやだったんだ。
だから、とサウンドは改めて空を見つめ返す。透き通るような青色をした空に夕暮れが混ざった情景を目にしたサウンドは、生まれてから初めてそれを発見したような新鮮さを感じた。
昨日と同じはずのものがいつもとは違うように見えたのなら、昨日か今日にかけて変化したのは自身の心持ちである可能性が高い。
お願いだから。どうしたらいいか、教えて!
返答がくるとは予想していおらず、準備を怠ったのが災いしたのだろう、頭上から声が降ってきたをサウンドが認識するかしないかの間に、声は雨水のように地面に吸い込まれて消えてしまった。もちろん、予想はしていなかったが、期待は本人が思っているより多くしていたに違いなかった。胡座をかいて頭上から世界を見下ろすなに者かだって暇ではないだろうが、一匹の悩めるプクリンが(当人が思う範囲で)最大の敬意を払って懇願したのであれば、すぐではないにしろ、ひょっとて、年寄り臭いかけ声で重い腰にエールを贈り、持ち上げて、決断の代行を引き受けてくれるのではないか、と希望していた。
ところが即断したように返事が落下してきたものだから、ありがたいというより拍子抜けしてしまい、サウンドは首を傾げた。
サウンドは頭の上に慈雨のごとく降り注いだ断片の中で、地面まで到達せず頭に乗っかった分を広い集め、並び替え、必要な箇所があるなら自分で言葉を補いながら、文字の羅列に隠された救済の言葉を見つけ出す。
そこに現れた言葉は、サウンドの期待を遥かに超えていた。この場合、「越えていた」という表現は適していないかもしれない。もうすこし厳密な表現をするなら、その言葉はサウンドの期待とは方向性が異なっていた。
サウンドの落胆は、なぞなぞが出題され「必ず当たっている」と意気込んでいたが、結局間違えており、見当違いなことを考えていたのを知らしめられたような感覚に似ていた。なぞなぞの失敗は、出題者に意地悪な喜びを、解答者のその後に教訓を与えるという点でもそっくりだった。
顔面蒼白としていたサウンドの顔付きに変化が現れ、彼は、痛みの前兆である違和感を首に覚えるまでずっと大空を見ていた。ぼうっとしていて、まさに棒になったようだった。空の澄み渡った青色に自分が溶けて消えるのではないかとも考えた。
ビートのウタは続行されているようだった。もし途中半ばでビートの絶えていたとしても、サウンドは翼を生やして遠くの世界に飛翔していたから、気づかなかった可能性も否定できない。
お前、本当に誰にも頼ってこなかったのか?
サウンドは、空から僥倖のように舞い降りた言葉を咀嚼するために復唱するが、すでにこれ以上理解できないほどまで味わい尽くしていたからか、歯は空回りした。本意とは裏腹な歯ぎしりが鳴る。
鼻から息を取り込み、空気が喉を通り過ぎ、腹が膨らむのを感じた上で間延びした吐息を漏らす。
おじさんに、シャープに、あのマッスグマに、おじさんに僕が会いたがってる旨を伝えてくれたあのポケモンに。依存の仕方に違いこそあれ、僕が彼らを頼りにしたことには変わりないじゃん。僕はここにはいない誰かに支えられて、ここに立ってるんじゃないか。決意を固めるときは一匹かもしれないけど、分かれ道に差しかかるまでは誰かの肩に捕まって歩いていたんじゃないのか。全くの一匹、真の意味で孤独だったときなんて、なかったんじゃないか。
なかったよな、と愉快そうな声が胸中に浮かぶ。
聞こう。
サウンドは頭をもたげる。ビートがなにを告げたいのかも予測できないし、それを知ったとき、軽率な行動に駆けだした自分を呪うのか、正しい判断だったのだと充実した気分で納得するのか断定できなかったけれど、聞いてみれば分かることだろう。サウンドは道楽だった。
見えない手を、見えない耳栓に向けて伸ばしていく。そして、抵抗心と嫌悪感から形勢されたという点において、いかなる詰め物よりも断固な耳栓は音もなく抜け落ち、消滅した。
サウンドは笑った。確かに、村人とのおじゃべりに時間を投じた際にもその場の雰囲気を取り繕うような笑みを何回か浮かべたが、この微笑みは嘘偽りが微塵も込められておらず、つまり今日という一日で浮かべた笑いと比較しても最高のものだった。サウンドは自分が微笑していることを遅れて理解する。
ちょっと強めの風が吹き抜けたらその途端虐げられる、小枝の先に点灯した弱々しい火のように脆弱(ぜいじゃく)な明かりだったものの、サウンドの内心には熱く紅潮する場所があった。胸の深奥でその熱を受け止め、抱きしめ、身を温める。
自己満足に浸るのも程ほどにしな、とポケモンらしさを感じさせない、あしらうような声が反響する。
足元がぐらりと揺らいだような感じがして、よろめいたサウンドは危うく手を地面につきそうになるが、体重を足にかけてなんとか踏ん張りバランスを取る。突然の異常事態に身体がついていかない。ぎこちない動きで、体制を立て直そうとするが、地震のような足元の揺れは止まる気配を露ほども見せず、しかも悪いことに時が経つにつれよりその反復の幅を広げているようにさえ思われた。
人前で奇妙なダンスを踊っている挙動不審な変質者のように怪しげに身体をくねらせて、きょろきょろ辺りを見渡す。本人は、至って真面目だったが。
こ、これは……なんなんだよ。
地震が起きているわけではないということは、尻目に見た草村が風に吹かれているときに出すような音を立てなかったことと、なによりもビートが顔色一つ変えずにウタを中断していないことから計り知れた。
いくらビートでも、サウンドが感じている地震のような現象が身に起きたら、平然とウタをウタい続けるのは不可能だろう。ビートは予期せぬ動乱の襲来にうろたえたり慌てふためいたりはしないと思うが、それとこれとは事情が異なる。ということは、この振動は内側から発生しているらしい、とサウンドは見当をつける。
サウンドは心当たりがありそうな場所を手当たり次第に探そうとする。だが、一掻き目にして原因は判明した。つっかえが外れ聞こえが数段によくなった耳が、サウンドの身体の異常を起因しているのはなにかを教えてくれた。ビートのウタだ。
まさに主に忠誠を誓おうとする部下のように、サウンドはビートを前で片足を折る。頭に疼痛が走る。目をぎゅっと強くつむる。視界が黒くなるが、完全な黒ではない。緑と赤が黒を下地にごちゃまぜになったような混沌とした色は瞼の裏に焼きついた夕日の残滓。赤と緑の波が瞼の裏で行ったりきたりを繰り返す。まるでサウンドの戸惑いと内面の痛みを表現しているかのようだ。
ぐにゃりと歪んだ空間は、サウンドに吐き気を催させ、事実サウンドは喉元まで食べた物の塊が混み上がってくるのが分かった。手で口を塞ぎ、どうにか喉の奥に押し入れ、飲む。いい気持ちではない。
貫禄のある老人のシワとは別種類のシワが眉間にできていることも分かった。年長者のシワは歳月に培われた狡猾さや気苦労の表れだが、まだ若々しいサウンドの額に浮上する深いシワは、その場限りの苦悩による頭痛を必死に堪えていることを伝えている。
懲りずに吐き気が再来する。同じように口を手で閉める。
ビートのウタは衝撃的だった。それはもはや「ウタ」というスペースに収まり切ることができなくて、箱の中から蓋を破って飛び出し、そのはみ出した部分から、この世のありとあらゆる負の感情が生成されているのではないかと想像させるくらい陰湿で重圧的だった。
無力さや絶望。不満や嫌悪。怒りや悲哀。ビートのウタは、ポケモン達の内側に潜む影の領域から、黒い感情を引っ張りだしているようで、サウンドはそれ自体に目眩を感じるようだった。
喉の付近までものが戻り、おえっと声を上げる。衝撃を和らげる受身のように、嘔気を誇張するのは気持ちの悪さを緩和するには調度よかった。
これがおじさんの、ウタ。
昼に食べたものが重たい無機質に変換されたような感覚に、下腹部が見舞われ、声なき悲鳴を響かせる。頭痛と目眩は酷くなる一方で、波のように戻っては押し寄せる吐き気は加減することを知らず、不快な思いが込み上がってくる度にサウンドは眉間にシワを深くする。
「うう」サウンドは、長年見続けた夢を破られ人生に幻滅したかのように両手で頭を押さえ、呻く。
頭が割れそうだった。呼吸は荒い。肩が上下する。サウンドはそのとき、ひよっとしたらビートがウタっているかどうかなどお構いなしに批難と抗議の雄叫びを上げていたかもしれないが、実のところサウンドは当時の記憶がおぼろげで、よく思い出せない。
あのときを断定できることがあるとすれば、吐き気が酷かったとか、石で殴られて頭に亀裂が入ったんじゃないかと真に心配になったとか、その程度だ。重度のかぜをさらにこじらせたような気持ちの悪さが腹でうごめき、解放される瞬間を待ち望んでいるようだった。
振り返ると時間を越えてまた吐き気が訪れ、語り手は手で口元を覆う。
しかしながら、いかなることにもポケモンは慣れるものである。とても辛くて、たなびく尻尾のようにいつまでも影響を及ぼすような経験であっても、慣れる。薄れる。
実際にあり、またかつてあった出来事なのに、忘れる。
サウンドもそうだった。
身体中の筋肉が緊張感に引き攣っていたのも、ウタは絶え間なかったが、だんだん弛緩しリラックスしていく。
このままじゃ、やられっぱなしみたいでなんだか嫌だな。
自己を抑制するのに精一杯で歪んでいたサウンドの表情には若干余裕が見られ、相変わらず頬は白かったが、ビートへの挑戦心は彼の目に闘争心めいた火を点した。
一方的なのは好きじゃないしね。ウタを聞き、おじさんがそこにつめたココロを受け止める決断を、一度は固めたのなら……キケ。サウンド、いくらうまいからって、面食らっている場合じゃないだろ。キクンダ。
サウンドは頭に手を乗せたまま、立ち上がろうと足に力を入れる。ふらつく足取りは頼りなかったものの、叱咤激励のつもりで足を二度三度叩くと、どうにか力が入る。
目をこじ開ける。数年振りに光を拝んだポケモンの気持ちが断片ながら理解できたような気がした。色彩豊かで、なんて綺麗なんだろう、と詠嘆する。
ますます重くなる頭の痛みを除(の)けて、サウンドは顔を起こすと、ビートの表情がぱっと目に飛びこんできた。まさに血気迫るという感じの表情で、直視されたら気圧されるなとサウンドは頬を緩める。ビートの目は閉じられているようだったが。
そこでサウンドはあることに気がつく。ビートもまた、苦心惨憺(さんたん)しているようなのだ。一見すると、ビートは悲哀な世界をウタで展開し、その世界の頂点に君臨し「私はあなた達とは違う」と豪語しているかのようだった。
サウンドは、おじはウタでサウンドと自分の格の違いを思い知らそうとしていると思っていた。
だがビートもまたも苦しんでいるとしたら、この侘しく、胸を引き裂く音の響きは、なんなのだ?
これは……。
サウンドは酔っ払いのように身体をよたよた持ち上げ、姿勢を正すと、ビートを睨みつけた。その研ぎ澄まされた視線はビートにというよりは煩雑している自分に向けられていた。片手は額に置かれていて、目は一つしか開かれていなかったものの、芝居がかっていない執念深さが十分に現れていた。片目だけであるがゆえに、サウンドの熱心がより増幅されて見えたかもしれない。
肩で呼吸しているが、堂々たる態度は勇さましく、一匹のポケモンとしてサウンドを魅力的にしていた。燃えるような興奮が縁を越えんばかりに溢れた瞳の中には、白い冷気が地を這うような冷静さが漂っている。サウンドの瞳で炎が凍る。
あまりの頭痛に舞い降りた凍てつく熱は、サウンドが限界ラインを突破した証かもしれない。「おじさん」音量は小さく決してビートには届かないが、恬淡とした口調でサウンドはおじの名を呼ぶ。
当然ながらビートはまともな反応を示さなかったが、ぴくりと小さく顔が歪んだようにもサウンドには思えた。そう思い込んでるだけだろ、と指摘されたら、そうかもしれないと控えめな肯定をするしかないのたけれど。
穴が開くほどビートを凝視する。実際、サウンドはビートの身体に風穴のような場所を発見し、そのことを告げようとしているのだから、比喩ではないとも言えた。
「このウタは」このウタにおじさんが込めた思い……僕に伝えようとしたことっていうのは……。
 サウンドが襲撃を見切ったポケモンのように、かっと色の鮮美な目を見開くと、ビートはサウンドの目に捕らえられる。
「この、悲しくて、切なくて、孤独感で一杯な気持ちは……」おじさん自身のココロなんじゃないの?
どうして?
サウンドは頭に血が上るのを感じ取った。これまで、一匹では解決策を思いつけない村人の相談に乗り、打開し、道から外れた村人の道しるべになってきたビート。誰の相談も聞いたが、誰も頼らず村の指針として立派に村長を熟すビート。歌のためなら尾井でも平気で暴力を振るうビート。
そのビートが、サウンドに自分の弱みを握らせようとしている。言葉で直接ではないから、ビートがなにに悶え、苦しみ、蔑ずまれているのかははっきりしなかったが、村の指導者であるビートが悩みを抱えているということを知っているかどうかということ自体が問題なのだ。、具体性が欠けていることがさらにサウンドを圧迫する。
これまで、ビートは他の村人に相談を持ちかけたことがあっただろうか?
サウンドは責任の重さを痛感し、同時に、また疑問に思う。
なぜ、おじさんはそんなことを僕に伝えたいと思ったのか。どうしてウタの勝負に乗じる形を取ったのか。今まで僕にはもちろん村にも隠してきた憤りや落胆を、どうして今になって露出させようとしたのか。
そうこう考えている間に、どこからともなく嘔気が湧き、サウンドは「うっ」としかめ面する。おじのココロが自分の中にそのまま流れ着いているのだろうかと歯を食いしばる。
なにがあったの?
サウンドは甥としては恥ずかしいことかもしれないが、ビートの過去をまるで知らなかった。どういう経路で村長になったかとか、どういういきさつがあってその剛健な風格を身につけたのかについて、知識は皆無だった。
ビートの悲しみを起因しているのはなんなのだ?過去にどんな楔を打たれた?ビートの抱く闇とは、なんなのだ?
奥歯に粘着力の強い唾液が絡みついて離れない。苦い味が口内に広がる。現時点ではなにも知らなくて、知りえない自分がもどかしくてしょうがなかった。
どのくらいの間ビートがウタを奏でていたのかはなんとも言えない。あの日のサウンドは時間の概念を完全に忘れており、同じ時間でも感じる長さが大きく異なっていた。それだけに、ビートのウタにどれくらい耐え忍んだのか、どのくらい頭痛と嘔吐の波を丸めこんだのかは言えない。
唐突に、サウンドは身体が軽くなって風に飛ばされたような気分になった。肩からつき物が落ちたようになって全身の力が抜けた。色彩を取り戻したようにモノクロだった景色が綺麗に色づき喝采に湧く。眠気が奇襲をかけてくるような安心感に包まれたサウンドは突然の変化に混乱した。
「あれ」とサウンドは頭を傾ける。
「どうしたの?」赤の他人を見るような目つきでビートが顔を寄せてきた。
「え?あ、いや」
いつの間にか、ビートのウタが終わっていた。サウンドはため息を落とすが、それは呪縛から解き放たれた安堵から出たものなのか自信がない。重荷が取り除かれた後特有の徒労感と馴染み深い感覚に、サウンドはぐったりする。
「ふう……やっと終わったよ」ビートは視線を落とし、肩に手を回して揉みほぐす仕種をする。右と左と、二回ずつ叩いている様子を見ると、おじさんは歳を取ったんだなあとサウンドは改めて実感し、なぜかすこし感傷的な気分になる。
サウンドの目前で平然と振る舞い、微笑みを浮かべる余裕さえ滲ませたビートと鼻を向きあわせていると、違和感を覚える。先程までウタっていた、荘厳な村長の面持ちを杳として残っておらず、サウンドはほんのすこし前まで吐き気に苦心していた自分が幻影だったように思えた。
が、サウンドの胸に残留する、用途の定かでないぬるま湯のように、後味が悪くむかむかした感じが、ビートがウタっていたのだという確かな形跡と言えた。
「さてと」ビートは俯き加減に河瀬からサウンドのほうに移動し、サウンドに振り返る。
サウンドは顔を繕っては怯んだのをごまかした。
「さあ」
ビートはパーティに招待したお客を出迎え会場に誘導するように、片腕を腰に回し、かたやもう片方の腕を小河の流れに差し出した。会釈する程度に腰を折ってすらいる。
サウンドは一瞬ビートのいわんとすることが理解できず唖然としていたが、それからしばらくして目を見開く。見開いてから、落ちこんだようにがっくり肩を落とす。
「さあ……」と催促するビート。
頭痛で頭がぱっくり裂けてしまうのではないかとサウンドは錯覚した。裂けてしまったらどんなに楽だろうかと鼻白む。腹も痛くなったが、視線だけはビートを標準をあわせていた。その目をしばたたく。さながらなにかを要求するような動作だったが、ビートはなにもくれないだろうとサウンドは推測していたし、渡されても困ってしまう。
腹をくくれ。
背中を押す“サウンド”の冷淡な口調が、冷静さを忘れるなと忠告してくれているようで、このときだけは有り難く思えた。それでも反射的にサウンドは拳を作る。
ビートの射抜くような醒めた視線と、気楽な日常とは一線を画す決心したサウンドの鋭い視線が重なった。火花を散らしそうな勢いが両者にはあった。
頭痛も腹痛も根強かったが、サウンドはなるべく遠ざけるよう心がける。激しく拍動を打つ胸は疑いようもなく自分自身のものだったが、それすら受け入れる覚悟を固めた。“諦めた”、いい意味で。
ここまできたからには後戻りはできないよ。したくもない。だよね……シャープ。
「次は君の番だ、サウンド。あなたのウタを、聞かせてくれ」低く、地面を揺らすようなビートの声音は凄みが効いていて、有無を言わせぬ迫力でサウンドを威圧した。
遠くの山裾をキッと睨でから、サウンドは前に足を踏み出す。小河までたどり着き、身体を半回転させると、なんの感情も浮かべていないのっぺらぼうのようなビートが腕を組むのが目に飛びこんできた。

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