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ウォール・オブ・ナッソス の変更点


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#include(第九回仮面小説大会情報窓・非官能部門,notitle)

 落日の迫る街並みに、喧騒と黒煙が溢れていた。堅固な城壁に構えられた門には大穴が穿たれ、幾つかの尖塔に設けられた見張り台には、強大な力によって刻まれた、破壊の跡が標されていた。門より続く大通りには瓦礫と残骸が散乱し、通りに沿って立ち並ぶ家屋の壁には、焔によって生じた焼け焦げと共に、数え切れないほどの征矢が突き立っている。至る所に転がる無数の物言わぬ人獣は、今しがた斃れたばかりである事を証明するかのように傷口から赤い滴をしたたらせ、虚ろに見開いたその瞳も、まだ乾いてはいなかった。
 戦いは既に街の中心部に達しているらしく、突破された城門の周辺には動く者もまばらで、時折新たに市街地に攻め込もうとする少人数の一隊や空を横切る獣の影が、その辺りで動き回っている、生ある者の全てだった。斃れている者には白銀の甲冑に身を包んだ者、鋲を植えた皮鎧を着込んだ者、どう見ても戦う事を生業としていない者など様々な輩の姿があったが、新たに城壁の外から押し寄せて来る者共は、皆一様に同じ見た目の者ばかりだった。彼らは手に手に反りの強い刀やメイスを持ち、色取り取りのターバンで頭を包んで、転がる死体を飛び越える様に、街の中心部へと攻め込んで行く。
 やがて落日の最後の光が消えなんとする頃、それまでよりも一層激しい黒煙が立ち昇ると共に一際大きな喊声が上がって、そして静寂が訪れた。時折疎らに怒声が行き来し、何かを打ち合わせたり砕いたりする音が木霊するものの、そうした物音はそれぞれ長く続く事も無く、先細りに止んでいった。
 焔を上げて崩れ落ちる砦の脇で、汗と埃に塗れつつ、それでもいっかな興奮冷め遣らぬ大勢の兵士達が湧き立つ中、町の中心に聳え立つ建物から、銀色の十字架が引き倒された。縄を掛けられ引いて行かれるその先には、大量の粗朶が積まれていた。それが火に焼べられるのだと言う事を示していた。
 
 千二百九十一年、五月だった。ムルク朝の指導者・ハーシム率いる軍勢が、二か月近くに及ぶ攻城戦の末、東方に於ける西方異教徒最後の拠点である、アクリの町を陥落させた。
 ――本書で語られる物語の、凡そ二百年ほど前の事である。



 走る走る。恐怖に駆られてただ走る。
 奴らが追ってくる。息遣いが聞こえ、土を蹴り散らす足音が響く。
 雄叫びが迫り、罵声が轟く。刻一刻と伸びて来る手と、突き立てられる蹴爪の鋭さを感じ取る。
 守ってくれる者はもういない。床しき人はもういない。立ちはだかって時を稼いでくれた家族がどうなったのか、背後から追いかけて来る者の存在が、何よりも雄弁に物語っている。

 何処までも続く枯れ切った荒野。一欠片の希望すら見出せない地の果ての片隅に、彼女達はいた。



[ウォール・オブ・ナッソス]



 共に走る、一組の主従。慣れぬ疾走に喘ぐ主人が、足元をふら付かせ先ず倒れた。
 赤と緑を基調とした上品な旅装は土埃にまみれ、マントと一体となった頭部を覆うフードが、衝撃と風圧の変化によって後ろに脱げる。露わとなった項に汗でへばり付く亜麻色の髪は、旅程の邪魔にならぬよう肩の辺りで刈り揃えられてはいたものの、無骨な武具で覆い隠すには、余りにしなやかで細きに過ぎた。
 何処か勢いに欠けた走り方も、細身の身体つきも今なら合点が行く。立ち上がろうにも息が乱れて動けない主人は、まだ年の頃十四、五と言う少女であった。
 更に続いて、後を追い慕っていた従僕の方が、地に伏す主人をかわそうとして短い足を縺れさせ、よろめき泳いで横様に倒れる。しかし此方は、熱された大地に叩き付けられながらも素早く跳ね起き、鮮やかな原色に染め分けられた華奢な体で、主人の前に立ちはだかった。
 上背こそ主より一回り以上小さかったが、雪の様に白い眉宇には決意が満ち、争い沙汰に向こうとは思えない痩身からも、後に引けない者特有の力強い覇気が、如実に滲み出ている。美しい大輪の花を頭上に頂いたドレディアは、捨て身の覚悟で追跡者達を迎え撃った。

 けれども、それも所詮は過ぎたる振る舞い。元より場数を踏んでいる襲撃者達を相手に、戦い慣れていない小柄な花人が立ち塞がったところで、一体何ほどの事があるだろうか? それに彼女達を追う賊の一団は、自らが追い詰めた獲物が予想もしなかった上玉であった事に、色めき立っていた。
 先頭を行く男が騎乗している異形の鳥に指示を出すと、命令を受けたドードリオは三つ首が一斉に金切り声を上げた後、一気に加速して脇をすり抜ける。それに慌てて反応してしまうのが、素人の悲しさ。身構えていたのを無視され、急激な加速に中途までしか溜まっていなかった『エナジーボール』をまんまと解き放たされてしまった彼女は、掠らせもせずに背後に回った尖兵の方へと、反射的に視線を巡らし振り返る。
 直後、間髪を入れず背中に衝撃が走ると共に、軽い体は突き飛ばされるようにして、仰向けに上体を起しかけていた主人の上に倒れ掛かった。
「フィオーレ!!」
 悲痛な声が上がるも、倒れた本人の耳には入らない。背中に突き立つ毒針の一本一本から焼き尽くすような痛みが伝わって来て、立ち上がろうとする意志を容赦無く呑み込み、必死に保とうとした意識諸共、闇の底へと引きずっていく。
 下敷きになっている主人の方も、受け止めた親友の有様にショックを受けたらしく、一切の動きを止めて、その場で呼びかけ続けるばかり。赤子の手を捻るが如く意のままとなった獲物の様に、追っ手の者共は上機嫌で近付くと、一番近くに位置した男が、動けなくなった花人を脇に放り出そうと手を伸ばした。
 が、そこで突然、空気が一変した。不意に飛び込んで来る呻き声と、体を捩(よじ)るようにして倒れかかる目の前の男。背後から心臓を貫かれ、痙攣覚めやらぬくすんだ色のマントには、一本の征矢が深々と突き刺さっており、うろたえた残りの三人が振り向いた時には、既に敵は目の前にまで迫って来ていた。
 一体、何処から現れ出でて来たのだろうか? 両手に二本の槍を携え、見事な鶏冠状の飾りを戴いた兜と白銀の甲冑に身を固めた異形の巻貝が、驚くべきスピードで飛来、殺到して来ていたのだ。
 突っ込んで来たその生き物は、瞬く間に野盗達の間に割り込んで来て、先ほど投げ針を放った紫色の大サソリを、鮮やかな槍捌きで切り捨てる。槍先をまるで剣の様に振るって放たれたのは、瞬速を極めた必中の妙技。タイプ上の弱点を突かれたスコルピは、背中に二筋の深手を負って、身構える暇さえ与えられずに突っ伏する。
 一呼吸遅れて、半月刀を手にした周囲の男達の方も、てんでに罵声を上げて反撃に転ずるが、頑丈な装甲は刃を通さず、打ち込まれた得物は虚しく跳ね返り、甲殻の傾斜に沿って刃先を滑らせるばかり。周囲の剣戟を歯牙にもかけず、甲冑に身を固めた白銀色の妖獣は、次なる相手と見定めた、三つ首の怪鳥へと矛先を向ける。
 更に此処に至って、最初に矢を放った張本人と思われる長身の男が、炎を纏った白馬に跨り、長剣を振りかざして乱闘に加わった。共に戦う二槍使いの相棒と同じく、些かも躊躇う事無く敵中に躍り込んで来た彼は、手近に位置して慌てて向きを変えようとする賊の一人を、あっと言う間に馬上からの一撃で切り倒す。首根を断たれた悪相の男は末期の叫びと共に突き転び、傷口からは赤い飛沫が奔騰するが、素早く駆け違えた馬上の騎士は、それを振り返る事無く次の相手へと馳せ向かってゆく。
 憤怒の形相で迎え撃つ残りの二人は、盗賊ながらも見事な気骨で踏み止まっているが、如何せん身体一つの徒歩立ちでは、勝敗の赴くところは自ずと明らかであろう。土埃に塗れた頭上のターバンも、馬上の騎士が戴いている鋼製のバシネットの輝きの前では、まるで無力さの象徴の様に力を失って見えた。

 彼女が最初に彼を目にしたのは、赤熱した鉄片をねじ込まれた様な背中の疼きを堪えつつ、身を起こそうとした時だった。
 親友の腕の中で覚醒し、強烈な悪寒と目眩に苦しめられながらも真っ先に思い至ったのは、当然襲い掛かって来ていた追跡者達の事。彼女の様子に気が付き、咄嗟に押し留めようとする主人の制止を振り切らんとした所で、突如ぬっと視界の内に、見慣れぬ生き物が姿を見せた。
『無理をなさらずに。安心して下さい、もう大丈夫ですから』
 予想もしていなかった穏やかな声音と、そこに満ちている精一杯の気遣い。ホンの一時の間に訪れていた運命の変転に追いつけないまま、ドレディアはただ言葉も無く、自分を見下ろしている目の前の相手を見詰めていた。
 毒に蝕まれ、軽くぼやけた視界の内に現れたのは、異様に大きな頭をした、見た事も無い生き物。重く硬質の輝きを放つ外殻の内側から、武骨な外見に似合わぬ柔らかな光を湛えた一対の目が、真っ直ぐ彼女を見返している。
 助かったのだ――そう思った途端、再び周囲を埋め尽くした漆黒の世界に、その両の瞳に宿っていた輝きが、しっかりと刻み付けられた。


 一行が目的地へと辿り着いたのは、二日後の昼下がりの事であった。
 荒れ地を行く事十数里。ギャロップの背中に揺られ続けた果てに姿を現したその場所は、巨大な石の防壁に守られた、堅固な城塞都市だった。赤土の丘の上から見下ろしたその光景に、馬上に続くうら若き主従は思わず息を呑む。
「これがナッソスの街……」
 感嘆の思いを漲らせ、少女は眼下に広がる街の名前を口にした。丘の麓から延々と続いて来ているその道は見事に整備されており、分厚い石壁に穿たれた城門を経て、遥か市街の中心へと繋がっている。深い堀の向こうに開け放たれた城門は、今この瞬間にも幾つもの隊商や荷車の群れが行き来しており、人の流れが吸い込まれていくその先には、無数の露店が連なる広大な市場が広がっていた。彼方に望む街の反対側はそのまま海に面しており、数え切れぬほどの商船が舫うその様子は、この街が港と一体となった港湾都市である事を示している。湾の中程には細長く突き出した岬があり、その突端にも丁度市街を囲む城壁を小さく縮めた様な砦が、港を守る様な形で鎮座していた。
 目路の限りを追って展開されている光景に、ただ圧倒されるばかりの彼女に対し、傍らに控えたもう一組の主従が、穏やかな笑みと共に視線を向ける。その内の一方、炎馬の主人でもある甲冑姿の男は、佇立したまま腕を持ち上げ、自らは見慣れたその街並みに指を向けると、誇らしげに口を開く。
「そう、あれがナッソス。我が騎士団の本拠にして、地中海屈指の貿易都市。……そして、我ら同胞が心安んじて祈りを捧げる事が許された、オリエント最後の防壁だ」
 言葉を切った男は、続いて改めて馬上の娘に向き直ると、精悍な表情に慈しみを湛え、若々しくも張りのある声音で宣告した。
「ようこそナッソスへ、マイラーノ嬢。貴女はこの地に於いて、正式に自由の身となりました」
 遥か水平線上に広がる蒼い海原を背景に、朗々と宣言したその人物――命の恩人でもある白銀の騎士の微笑みに、救われた当人である少女、マイラーノ嬢ことアルマ・マイラーノは、未だ実感の湧かぬその脳裏に、此処に至るまでの半月ほどの日々を思い浮かべていた。

 今から丁度一か月前、彼女の一家はアペニン半島の北に位置する故郷の町から、殆ど夜逃げ同然に商いの旅に出発した。彼女の一族であるマイラーノ家はそれほど有力な一族ではなかったものの、数代続いた商人の家柄だけあって取引先との関係も深く、普通に何事も無かったのなら、そのように惨めな体たらくにはなるべくもない筈だった。
 ところがある日、旅に出発する少し前の晩に、彼女の父親が町の顔役から呼び出され、真っ青になって帰って来ると言う出来事があった。なんでも彼の代理人を務めていた男が商取引に赴く途中、行程の遅れを取り戻したいがあまりに航海規約に反してしまい、巨額の罰金が科せられたのだと言う。しかも支払い義務を課せられていた当人は船が着き次第に何処へともなく雲隠れしており、そのまま何の手も打たなければ、彼女の一家は科せられた懲罰金による破産が免れぬ事態に陥ったのだ。
 降って湧いた凶事に慌てて親族会議が招集されたが、元々それほど大きな事業を展開していた訳ではないマイラーノ家では、科せられた金額を綺麗に収めきる事は不可能であった。そこで出した結論と言うのが、兎も角今ある金品を手当たり次第に投資して交易準備を整え、その成果によって懲罰金を支払うと言うものであった。成り行きが成り行きだけに町の代表達も同情的であり、一家は家屋敷を含めた財産の全てを抵当に入れる事で何とかこの提案を認めて貰って、取りあえず交易の旅に出発する所まで漕ぎ付けたのである。使用人は殆ど全て暇を取らせ、留守中の掛りをも考慮してまだ若い娘である彼女や、それより更に幼い弟さえも同行させる強行軍であった。
 けれども、当初は順調な滑り出しを見せたかに思えたこの旅は結局報われる事はなく、寧ろ最悪の結末を迎える事になったのは周知の通りである。小アジアの港から上陸した一家は、少しでも収益を増すべくスタンダードな海路ではなく、競合相手の少ない陸路での隊商活動を選ぶ。その為道中半ばには既に当初の目算よりもずっと多くの利潤を手にする事が出来たのだが、その代償は余りにも大きに過ぎた。 
 二日前のあの日、唐突に荷馬車の列が急停止して、案内人として雇い入れていた現地の男が、そそくさと持ち場を離れ始めた。奇妙な行動に訝る暇も無く、付近の岩陰からは無数の矢が降り注いで、残りの日雇い人足達をある者は殺し、幾許かの幸運な者達は追い散らして、あっと言う間に隊商の列を裸にしてしまう。取り残された一家と一握りの使用人達が荷馬車を盾に慣れぬ手付きで防ぎ矢を射る中、アルマは幼い弟を抱きかかえた母と石弓を振り回す父から、一家が連れていたただ一匹の魔獣――今も自分の後ろに腰を下ろしているドレディアのフィオーレと共に、その場から逃げるよう言い付けられたのだ。
 そしてそんな彼女達を助けたのが、今目の前に控える一組の主従――騎士修道会・ナッソス騎士団の一員であると言う騎士アンリ・ラヴァルと、彼のパートナーを務める魔獣、シュバルゴのランシエだった。追跡して来た盗賊の一隊を圧倒的実力で全滅させた彼らは、その後彼女の家族をも救うべく襲撃のあった場所へと急行してくれたものの、既に賊の一党は完全に仕事を終えており、アルマが望んでいたものは現場には何一つとして残ってはいなかった。
 未だ危険が去ったとは言い切れぬ中、無惨に変わり果てた家族の弔いを敬虔な修道士本来の姿で手伝ってくれた彼は、今や天涯孤独の身となり悲嘆に暮れる彼女を慰め、今度は同胞の安全を守る巡礼騎士として、此処まで導いて来てくれたのである。足弱の少女と傷を負った花人、それに乗り手を失ったドードリオや、本来なら捨てていく筈だった手負いの魔獣二匹を従えた旅程は相応の難事だったと思われるのだが、まだ若い男の表情からは疲労や憂いは何一つ読み取れず、ただ目の前の相手を祝福する温かみだけが、その時アルマに感じ取る事の出来た全てだった。
『安んじて祈りを捧げる事が許された最後の場所』。それは、今の彼女達が最も必要としているものに相違いなかった。再び動き出した一行は、徒歩の騎士主従と炎馬に乗せられた少女と花人、そして捕獲された三つ首の怪鳥とその背に揺られる二匹の手負いの魔獣達の順で、ゆっくりと丘の斜面を下り始めた。

 町の傍へと近付くに連れ、アルマは目の前に広がる城壁が、丘の上で見渡した印象よりも遥かに堅固な作りになっている事を知る。石積みの城壁を囲む空堀は想像以上に深く、更に堀の直ぐ向こうには強固な柵が設けてあり、城壁の所々から張り出した多角形の塔と連携して、前衛防御が出来るようになっていた。城壁そのものも非常に分厚く、また素人のアルマには読み取れなかったが、張り出した幾つもの塔を起点にジグザグに走る外壁は、それらの塔に陣取った守備隊が本来生じる筈の死角を補い合える様工夫されており、極めて効率的な防御戦闘を可能にしているのであった。
 一行が渡り始めた門へと続く渡しも当然の如く跳ね橋で、いざと言う時には直ぐに外界と遮断出来るよう、辺りに詰めている衛士や門番の人数も多い。しかし一方で、先導してくれている騎士のラヴァルは当然彼らとも顔見知りらしく、周りの旅人や商人達が通行手形や旅程の確認を受けているのを余所に、彼女達は全く引き止められる事もなく、町の中へと入る事が出来た。後ろに引き連れて来ていたドードリオらは、ここでそのまま衛士の一人に托されて、一行とは別に領主の館へ送られる事となった。
 町に入って先ず最初に目に入ったのは、門から直ぐの所に立てられた、立派な青銅の像だった。それは馬上で天に向けて指揮杖を掲げた甲冑姿の男を模ったもので、空を指した杖はどうやら銀で作られているらしく眩しく輝いており、馬腹に当てられた足は片方が義足になっていた。銅像の傍を過ぎると今度は露店が並ぶ広い通りが続いていたが、ラヴァルは甲冑で身を固めた今人混みでごった返しているそちらに入り込むのは避けたいらしく、そのまま一つ道を折れて、丁度城壁に沿う形で北の方角に進んだ。多量の土砂を突き固める事によって内側からも補強されている外壁の周りを辿る内、やがて先程よりもやや狭く、人通りもずっと疎らな通りに差し掛かると向きを変え、再び町の中心に向けて歩みを進めていく。
 先程の大通りと同じくしっかりと石が敷かれ、綺麗に整備されている道を暫く進むと、やがて周囲に並んでいた建物の様相が変わって、作りも大きく立派なものが増えて来た。
「ここは商人達の居住している地区だ。先程通り過ぎた辺りには使用人達の住居が、更にこの先には我々騎士団の構成員が居を構えている地区がある」
 説明してくれるラヴァルの言葉に耳を傾けながら、アルマは初めて訪れたこの街の、その内側の表情に見入っていた。通りに並ぶ家屋は申し合わせたように白い漆喰で塗られており、外壁は日の光を弾いて眩しいばかりに輝いている。所々では荷下ろしも行われており、手綱で繋がれたゴーゴート達の背中から屋内に向け、荷運び人足や使用人達が列を為し、様々な品物を運び込んでいた。
「この町の城壁や防備は諸国でも類を見ないものだが、町を主に動かしているのは我々騎士ではなく商人達だ。彼らは我々の活動と連携しつつも、実際の行動範囲は実に幅広い。そもそもこの町の領主であるマカーリオ家自体も、『辺境伯』として叙爵される前は商人の家柄だったからね」
 次いで彼は、これから向かう先がその領主の館であり、彼女のこれからの身の振りは、全てそのマカーリオ家で手配してくれるだろうとも言い添えた。再び歩き出したラヴァルは、加えてもしその気があるならば、この町の支配権を有するタッキーニ一族の来歴について話して聞かせようとも申し出る。彼女はそれに応じ、前を行く甲冑姿の若者から、更に詳しい情報を得る事に決めた。
「元々マカーリオ一族は、アペニン半島に本拠を置く当時でも有数の大富豪で、交易を主とする生粋の商人だった。それが一国の主にまで上り詰めたきっかけとなったのは、今から四百年ほど前。我ら騎士団が成立したのと同じ、聖地遠征に関してだった」
 語り始めたラヴァルの背中を見詰めつつ、アルマは先程までの様にあちこちと視線を彷徨わせるのを止め、流れ出す言葉に耳を傾ける。助けられた当初は感謝の思いがある半面、その激しい戦いぶりに若干の恐れを禁じえなかったが、そうした隔意はこの二日間で既に消えており、今では相手の声を聞くだけで、力強い安心感に包まれる様になっていた。
「第一回の聖地遠征(コンクエスト)に於いて、マカーリオ家の始祖タッキーニはその莫大な財産の全てを聖戦に捧げ、自らも一兵卒として戦いに参加して、聖地解放に多大な功績を残した。彼は自らが用意出来得る限りの戦士や装備、船舶を掻き集め、商会は総力を挙げて、遠征軍への物資の供給を続けた。その結果、遠征軍は無事聖地(イェルサレム)にまで辿り着き、激しい戦いの後に、そこを我らの側の手に取り戻す事に成功したのだ。遠征軍は始終深刻な物資不足に喘いでいたから、マカーリオ商会の献身的な支援と補給活動が無ければ、聖地の解放は到底成功し得なかっただろう」
 次いで騎士は振り返ると、当時の商人達は殆どが借財の取り立てやその見返りに得られる利権の獲得にのみ熱心で、タッキーニの様な行いは非常に稀有なものだったのだと付け加える。心なしかその表情は微かに上気しており、語っている内容が彼にとって如何に崇高なものであるのかが、アルマにもおぼろげながらに理解出来た。
「戦いが終わった時、マカーリオ商会は事実上破産状態にあり、タッキーニ自身も片足を失う等、一族の男達にも少なからぬ犠牲者が出ていた。しかしその代償として彼は、遠征の主力となった各国の諸侯達を通して、当時の法王庁より直接働きを認められる栄誉を得たのだ。時の教皇ウルバン二世はマカーリオ一族の功績を認め、タッキーニに対し聖地にほど近い幾つかの都市を与えると共に、そこを治める領主としての権限と、『聖地の守護者』としての爵位を与えた。因みにこの時、当時は『ガリラヤ騎士団』と呼ばれていた我々も、同じく複数の砦や町の守護を承り、守護者としての拝命を受けている。以後、マカーリオ家は嘗ての本業であった商会の運営を打ち切り、新たに聖地守護を任とする封建領主として、我々騎士修道会と共に共同戦線を張って行く事となった。これが、現在まで続くマカーリオ伯爵家の始まりだ。タッキーニは叙爵を受けてからも精力的に活動を続け、教皇から送られた銀の指揮杖を手に各地を転戦して、『銀杖伯』の異名で呼ばれるようになる。町の入口にあった杖を携えた騎士の象は、このタッキーニの姿を模したものだ」
 此処まで語り終えると、ラヴァルは小さく一つ頷き、ギャロップに再び前に進むよう促しながら、自らも再度前を向きつつ、最後の一節を紡ぎ始める。
「しかしやがて時が過ぎ、栄光ある時代にも終わりが来た。今から二百年ほど前にアクリの城塞が陥落し、我が方の勢力は完全に聖地周辺から一掃された。巡礼者の支援と聖地守護と言う騎士修道会本来の役割も失われ、この敗戦での実質的な損失もあって、多くの騎士団が解散へと追い込まれている。我がガリラヤ騎士団もその例に漏れず、行き場を失って消滅の瀬戸際に立たされていたが、そこに救いの手を差し伸べてくれたのが嘗ての盟友、マカーリオ伯爵家だ。マカーリオ一族は本領を失った後、属領として支配権を有していたこのナッソスの街に本拠を移していたのだが、そこに我ら騎士団を迎え入れ、我々に再び異教徒と戦い、奴隷として囚われている同胞達を救いだすと言う存在意義を与えてくれた。かくして我らガリラヤ騎士団は、オリエントに踏みとどまった最後の騎士修道会として諸国に認知され、名称もこの地の名を取りナッソス騎士団と改めて、現在に至っている。新たに侯爵として叙任されたマカーリオ家は、この町の統治と救出した同胞達の後援を、騎士団は町の防衛と異教徒との戦い手を担っている訳だ」
 騎士が話を終える頃、何時の間にか周囲の情景は移り変わって、吹きそよぐ風にも潮の匂いが混じり始めていた。一般住民と騎士達の居住区を隔てる内城壁が近付いて来る中、漸く目指していた建物が、視界の内に入って来た。

 客人の到着と来意を告げられた時、館の主であるカルロ――ナッソス候マカーリオ家現当主、侯爵(マーキス)カルロ・マカーリオは、目を通していたパピルス紙の目録から目を離し、それを告げた使用人に対して、訪問者一行を丁重に迎え入れるよう言い付けた。予め東の門衛から帰着の報告は受けており、それに応じて一応の指示は与えていたものの、それで全て放り出して置けるほど、彼は横着な人間ではない。続いて彼は自らも腰を上げると、書斎から真っ直ぐ応接間へと足を運び、旅先から帰って来た友人が姿を現すのを、今や遅しと待ち構える。本心では自分で入口まで迎えに行きたい所だったが、相手の堅苦しい性分を考慮すれば、それでは反って作法が嵩張り、余計に手間を取らせるだけだ。先に腰を下ろせる場所で待っている事こそ、彼が年来の付き合いである友に対して示す事の出来る、最良の気遣いなのである。
 やがて正面の扉が開き、見知った顔が姿を現すと、カルロは尤もらしい顔付きで相手に声を掛け、姿勢を糺した若い騎士から、帰還の報告と挨拶を受ける。とは言え、彼が相手の折り目正しさに付き合うのはそれまでで、直ぐに片手を上げて言葉を制すると、穏やかな表情に声と手振りで、両者に腰を下ろすよう促して見せる。
「遠路御苦労だった、騎士ラヴァル。報告は追々聞くとして、先ずは寛ぎ給え。君はそれで良いかも知れんが、彼女まで立たせておくのは到底礼に叶った法とは思えない」
 生真面目な友人に浮かぶ困惑の色を目にした彼は、次いで今度こそ他人行儀な社交辞令を脇に退け、目の前に立つ両者に対し、改めて席に着くよう促した。おずおずと戸惑っている少女に重ねて腰を下ろすよう頷いて見せると、カルロは尚も姿勢を崩そうとしないラヴァルに向けて、敢えてぞんざいな言葉を投げかけていく。
「さっさと兜を放り出せ」と言われるに及び、遂に対戦相手も抗戦の意図を放棄した。溜息こそ漏らさぬものの、表情までは隠し切れなかったラヴァルに対し、カルロは陽気な笑みと共に両手を広げる。
「お帰り、友よ」
 不服気な相手の表情が、「仕方がないな」と言う風に綻んでいくのを目の当たりにしつつ。カルロはずっと機会を窺っていた部屋の外の従僕に、飲み物を持って来るよう言いつけた。

 二人の男達がやり取りしている間、アルマは万が一にもその妨げにならぬよう、自分の席で精一杯身を縮めていた。片や街の支配者で高位の貴族、そして自分を連れて来てくれた恩人の側も、カロスでは高名な貴族の家柄の出身であると聞かされた今、名も知れぬような一商人の身内である自分に、この場を騒がせる資格はない。出された陶製の器にも手を付けられぬまま固まっている彼女に対し、主の侯爵は遠慮せず寛ぎ給えと声を掛けてくれたが、アルマは飲み物に少し口を付けたのみで、結局最後まで気を楽にする事は出来なかった。
 やがて騎士の報告が終了し、彼女の身柄が正式に館の主へと引き渡される事になった時。アルマは漸く身動ぎすると、此方に会釈して部屋を出ていこうとするラヴァルに対し、声を振り絞るようにして感謝を述べた。「心配する事はない」と応じてくれた青年は、最後にもう一度領主に向けて念を押し、室外へと歩み去っていく。
「さて。では改めて、貴女の身の上を伺うとしようか。……と、その前に。アムジ!」
 呼び掛けに応え、一目で異教徒と分かる、褐色の肌をした少年が現れる。最初に蜂蜜酒を運んで来た時と同じく、部屋の直ぐ外に控えていたと思しき彼に対し、カルロは湯浴みの支度を命ずると共に、アルマの着替えを見繕っておく事、そしてその前に、温くなった蜂蜜酒を変えるよう申し付ける。機敏に反応した従僕が新たな器を二つテーブルに乗せて去っていくと、カルロは再び彼女に向き直り、先に喉を潤すよう勧めた。
「今度は冷たい内に飲むと良い。私としても客人が手を付けない限りは、呑んだくれる訳に行かないからね」
 飾り気のない言葉と微笑みに幾らか緊張を解された彼女は、今度は素直に目の前の器を手に取ると、中の液体に口を付ける。思わずハッとするほどよく冷えたそれは、木の実か何かで香り付けをしているのだろう。柔らかな甘みと果実の風味が口一杯に広がって、アルマはそのまま何も考えず、喉を鳴らして飲み干した。喉の渇きさえ失念していた彼女に対し、館の主は満足げに頷くと、「少しは落ち着いたかい?」と尋ね掛けて来る。「はい」と答えた彼女が味についての感想を述べると、カルロは自慢に思っているものを褒められた時誰もが浮かべる笑みを見せ、そうだろうと胸を張る。
「当家自慢のレシピだからね。地元の者から教わって代々伝え受け継いで来たものに、私の代で幾分手を加えさせて貰ったのだ。交易相手がより多くのものを持ち込むようになった関係上、手が届くものも増えて来たからね」
 更に彼は、常に飲み頃に冷やす為それ専門の魔獣を入手したり、このもてなしの効能が如何に商売に有益であるかについても触れてみせる。まるで少年のような熱意を込めて語り始めた領主だったが、幸い程なく自分の為すべき事を思い出したらしい。一度言葉を切った彼は、苦笑しながら謝罪の言葉を述べる。
「失礼した。まだ夜話に興じるには日が高かったようだ」
 次いで彼は、先ずはゆっくり休んで旅塵を落として貰うのが筋だが、その前に是非聞いておかねばならぬ事があるのだと言う。
「君が襲われた時の顛末を話して欲しい。どの辺りで襲われ、何を奪われたのか。行方の知れなくなった身内がいたら、その特徴も知っておきたい」
「我々の世界では、迅速さが何よりも重要なのでね」――そう口にした相手の真剣な表情に、アルマは一転して気圧されるものを感じつつ、数日前の苦渋に満ちた物語を、目の前の男に語り始めた。


 当時、カロスを中心とした西欧諸国は、大きな転換点を迎えていた。新大陸が発見され、イベリア半島の国々が続々とイッシュへの渡航を開始している一方、王族間の争いに端を発した旧大戦と、それに伴うカロス王朝崩壊の傷痕は未だ癒え切っておらず、分裂した旧大陸諸国は、暗黒時代最後の残滓を振り払おうと再生(ルネサンス)の大波に揉まれ続けていた。
 そんな欧州諸勢力の停滞を突いて版図を拡大して来たのが、同じく創造神を唯一絶対の存在として崇める、東方教徒の勢力である。熱砂が渦巻くアラビア半島、その片隅で生れたこの教義は、瞬く間に周辺の諸民族に広まり、それまで統一される事の無かった中東諸国を同じ旗の下に結集させて、新たな勢力圏を打ち立てる原動力となった。生命の再生と復活を象徴する十字架(クロス)を掲げた西方教徒に対し、偽りの闇を払い安らぎの光をもたらす三日月を旗印とするこの勢力は、以後も留まる事無く膨張を続け、歴代王朝は須らく異教徒との戦いに明け暮れる歳月を重ねる。相次ぐ転戦によってシルクロードを支配下に収め、名実共に世界帝国へと成長した彼らに対し、押される一方であった西方教徒も聖地奪回を目的に反攻を開始。『十字軍(クルセイド)』と呼ばれるこの遠征は数多の困難を伴うものだったが、最終的には聖地の奪回を始めとした主目的を全て果たし、栄光に満ちた『聖戦』として、西方教徒の間に語り継がれる事となった。
 その後も両者の戦いは止む事無く続き、今や東方教徒は十字軍侵攻で失われた地の大半を奪回し、既に聖地遠征以前より遥か西にまで進撃している。異教徒駆逐の主力を担ったムルク朝を併合し、小アジアを中心に中東からバルカン半島にかけての巨大な帝国を築き上げた東方教徒のアナトリア帝国に対し、ひたすら守勢に回るカロス王朝以来の西欧諸国の抵抗は、目下何一つ実を結ぶ気配はなかった。

 ナッソスについては、アルマも父親から繰り返し聞かされている。商人から立身した一族が治める、アナトリア半島の都市国家。そこは旅の最終目的地であり、膨張する一方の強大な異教徒の大帝国の内側に位置する、唯一の西方教徒の所領である。敵中に孤立しながらも完全な自治と独立を保ち、近海最大の交易拠点として繁栄する不思議な都市の存在は、西洋諸国において信仰と光輝が織り成した奇跡の一端のように語り伝えられていた。
 けれども実際に足を踏み入れて見ると、その様相は随分と異なるものであった。近隣では最強の城壁に護られているとは言え、そこは決して不可侵の聖域などではなく、聖地への巡礼者や地元の民は勿論の事、時には敵対している異教徒までもが足しげく交易に訪れる、いわば自由都市に近い存在だった。ここに来て未だ三日であるにもかかわらず、アルマは街を包む活気とそれを支える人々の意識に、徐々に流され始めている事に気が付いていた。
 彼女の故郷も、比較的自由な気風で知られてはいる。アペニン半島に点在している商人が力を持つ街の一つで、為に厳格な異端審問や、頑迷な排他主義とは無縁であった。異教徒に対する認識も、あの悪夢を経験するまではそれほど深刻なものではなく、親類縁者の旅行譚を聞かされては、異国の情景に憧れていたのが実情である。あの時から彼女の価値観は大きく変わり、教会や騎士修道会の主導する異教徒撲滅の戦いは、疑う余地もなく崇高な使命であるように感じ始めていた。
 けれども此処ナッソスに身を置いてみると、凝り固まった憎しみが行き場を失ってしまうのを、嫌でも自覚せざるを得なかった。この街に満ちた自由の気風は、文字通り次元が違っている。一般住民は勿論の事、本来なら不倶戴天の敵である筈の騎士達ですら、この街では異教徒に対し剣を抜こうとはしない。――後から知った事なのだが、騎士団は主に巡礼や奴隷の境遇から脱走して来た同胞達の保護を担当しており、街の周辺での積極的な活動は差し控える事になっているのだと言う。異教徒との戦いの主要舞台は海であり、同じくこの分野で活動しているドデカネス諸島のホスピス騎士団との共闘が、彼らの主な活動内容であった。
 その為、本来忌むべき存在である筈の異教徒達は通行手形こそ必要なものの、旅を終えれば普通に門番と挨拶を交わし、顔見知りの露天商に冗談さえ飛ばしながら、何不自由なく振舞っている。そもそも彼女の身の回りの面倒を見てくれているサリフ――カルロお気に入りの従僕からして、純然たる異教徒の少年なのであった。
 そうした現状を見守り維持する領主、カルロに対する住民の支持は絶大で、ナッソス市内は勿論の事、近隣住民に至るまで彼の影響力が隈なく広がり、浸透している。城壁外の肥沃な農地は収奪される事もなく、周辺の村々に住む者は何か特別な日を迎えると、信ずる宗派に関わりなく市内に遊び、気心知れた居着きの商人達と値切り交渉をかわす。敬虔な西欧の巡礼者、正教と呼ばれる宗派に属す現地住民、三日月を掲げる異教徒に救世主を信奉する旧教徒に至るまで、ここでは全員がほぼ同じ目線で扱われており、ただその身分と目的だけで立場を表明しているのだった。
 そしてその身分についても、此処では外の世界より遥かに流動的だった。異教徒に捕まり奴隷として売られた者は、首尾良く脱走に成功した場合、真っ先に地続きであるこのナッソスの地を目指す。無事辿り着く事が出来たなら、彼らは騎士団の武力によって保護された後、領主の持つ諸国へのネットワークを通じ、安全且つ確実に、故国の土を踏む事が出来た。
 また逆に騎士団によって囚われた異教徒達も、この地に留まって働く限りは生命の危険は無く、遅かれ早かれこの地を訪れる交易商人達に見出され、再び故郷に戻るチャンスが生まれた。もし天涯孤独で、誰からも顧みられなかった場合――その場合は他ならぬカルロ自身が手を差し伸べ、奴隷の身分から解放して、故郷に送り返す事すらあると言う。実際サリフ本人も、そうして自由になる事が出来た一人だった。アルマとは逆に騎士団側の襲撃により乗っていた船を沈められ、保護者であった叔父を殺され奴隷となった彼にとり、騎士修道会は無法な海賊と大差無く、逆に主人として仕えるカルロの方は、実の親よりも重く近しい存在だと言う。
「カルロさんほどの人物が、一体この地上に何人いるか」
 大仰な語り口のサリフに内心苦笑しながら、アルマは彼の動きに倣い、交易に使う品物を点検する。樽に詰めた蜜蝋は石のように固まっており、そうそう劣化する物でもなかったが、そうした事に手を抜かないのが信用を得るコツ、と言うのがカルロの持論であるらしい。
「次の商談が早まったからな。今回はこの程度だけど、何時もならこの部屋一杯にものが溢れてる。だから効率良くやらなきゃダメなんだ」
 少年の手慣れた仕事ぶりに感心しつつ、アルマは自ら手伝いを買って出た手前、遅れまいと奮闘する。樽の開閉くらいは出来るつもりだったのだが、実際にやってみると手順一つ一つに時間を取られ、消化速度はサリフの半ばにも達しなかった。
 それでも彼は文句の一つも言う事無く、寧ろ作業に没頭している彼女の邪魔にならぬ様、上手く迂回して仕事を終える。広い地下室の三分の一近くを占めていた品物の点検が終わった所で、二人は予め言われていた通り、主であるカルロの書斎へと向かった。
 報告しに来た両者に対し、カルロは常と同じ手厚い態度で労った後、サリフには交易品リストの確認作業を手伝うように言いつける。自らもまた貿易商人を志し、自由民になった後も望んで従僕に留まっていると言う少年は、新たな言い付けに嬉々として従うべく、自分の記録用紙を取りに走り出ていく。
 一方残ったアルマの側には、別の仕事が与えられた。客人の扱いを受けながら此方も進んで手伝いを申し出ている彼女に対し、温厚な領主は微笑を湛えて切り出した。
「アルマ。君には騎士団の本部まで、遣いに出て貰いたい。今後の出撃予定や、ロドスのホスピス騎士団との共同作戦について書面で報告するよう要請してあるから、それを受け取りに行って貰いたいのだ。土産として酒と塩漬け肉を幾らか用意してあるから、荷運び役の宰領も頼む」
 予想外の大任に思わず堅くなる彼女に対し、カルロは心配せずとも良いと言う風に頷いて見せる。
「流石にサリフの奴を遣る訳にもいかないからね。大丈夫、向こうも先刻了解済みだ。今月はラヴァルが応対してくれる筈だから、着いた後は万事彼に任せれば良い。その気があるなら君のドレディアも連れて行ってやると良いだろう。傷も癒えたし、そうなれば気晴らしも必要だからね」
 言外に「君と同じで」と匂わせつつ、人の良い領主は呼び鈴を鳴らし、手元に戻したサリフに変わる、別の案内役を呼び付けるのだった。

 数日ぶりに外に出たフィオーレ同様、アルマもまた、目的地までの短い時間を落ち着かぬ思いで過ごした。如何にもの知らずな彼女でも、騎士修道会が女人禁制である事ぐらいは知っている。異教徒であるサリフが代理人を務めるのは論外だとしても、自分もその点では似たり寄ったりの存在である。
 けれどもラヴァルと顔を合わせると、そんな心配は自然と消えて無くなっていた。番人の報告を受けてやって来た彼は、目が合った当初こそ「おや?」と言う風に表情を動かしたものの、直ぐに何時もと変わらぬ礼儀正しさで話し掛けて来る。挨拶に次いで要件を確認して来た相手に対し、アルマも丁寧に一礼すると、予め言われていた通りカルロの代理で来たのだと答えた。
 するとラヴァルは、少しの間考え込む。やがて顔を上げると頷いて、威儀を正してこう言った。
「マカーリオ侯爵家の代理人ならば、門前でのやり取りはあまりに礼に反している。どうぞ中へ」
「騎士団長にも報告しなければならない」と続けた彼は、思わぬ展開に動揺を隠せない彼女に向け、ついて来るよう言い添えた。
 石造りの館内は殆ど装飾の類が無く、とても質素な造りだった。元々騎士修道会は戦う聖職者の集まりであり、清貧がモットーとされている。如何にメンバーが貴族の出身者に限られていようとも、現世での享楽や栄華とは無縁の組織なのである。居心地の良さを追求し、客人のもてなしを生業の一つとする領主の館とは、まさに対極に位置する場所と言えた。
 時折すれ違う者も、皆騎士の身分である事を示す、十字の縫い取りの入った衣装を着ている。元は欧州各地に散らばる錚々たる名門貴族の一員だった彼らは、礼を失する事無く会釈は送って来るものの、同志が先導する見慣れぬ少女に一様に怪訝な表情を向け、好奇心を隠そうとしない。中には露骨に顔を顰める者もいて、アルマは誰かとすれ違う度に身の縮む思いがするのだった。
 やがて階段を上がってやや広い空間に行き着くと、ラヴァルは此処で待つように言って、正面の扉の奥に消える。程なく出て来た彼は、騎士団長が挨拶したいので中に入るよう彼女に向けて呼び掛けて来た。

 騎士団長を務めるジョルジュ・ド・ラグネルとの対面は、案じた事もなくすんなりと終わった。先方もどうやらアルマの様子に、こうした席での立ち居振る舞いには慣れていないのだろうと判断したらしく、型通りの挨拶に労いを添え、書信と共にカルロへの誼(よしみ)を託しただけで解放してくれた。深い皴の刻まれた初老の団長は、厳しく老いたその相貌に反して懐の深い人物であるらしく、傍らに控える剣の姿をした魔獣同様、言葉に出来ぬような安心感と犯し難い威厳を併せ持っている。
 その一方で、本部から出る前に出会ったもう一人の人物は、彼女にとってあまり関わり合いになりたいと思える相手ではなかった。丁度石の階段を上り終えた所と見えるその騎士は、ラヴァルの後ろについている彼女を一瞥した後、引き結んだ口元を開いて質問する。
「此方の方は?」
「先日から侯爵家に保護されているマイラーノ嬢です。今日はマカーリオ候の代理として来館されました」
 ラヴァルの返答に対し、彼は何処か険悪な沈黙で応じる。再び開いた相手の口からは、抑え切れぬ批判の思いがはっきりと滲み出ていた。
「候は相も変わらず気儘なようだな。使者に娘を起用するとは」
 呆気に取られて見送るアルマに、ラヴァルが代わって詫びの言葉を述べる。更に彼は、去っていく同志の事を取り成すように、相手の身分を明かし始めた。
「彼はルネ・ド・エーヴル。カロスはクノエを領するエーヴル家の出身で、我らナッソス騎士団でも最優秀の戦士の一人だ。エーヴル公爵家は現カロス王に臣従するまでは最も大きな独立領主で、百年戦争の際はブリテン島の王家と結んで戦いの帰趨をも左右した名家。カロス王に帰服し長きに渡った戦争を終息に導いた父君同様、彼もまた戦場での勇敢な戦いぶりは、誰一人として非の打ち様がないほど素晴らしいものだ」
 あの言い分も生真面目さ故の事なので、どうか大目に見て欲しい――そんなラヴァルの言葉に頷きはしたものの、アルマは先程の言葉の奥底には、それとはまた別の感情がとぐろを巻いていただろう事を感じ取っていた。
 ラヴァルと共に外に出ると、フィオーレが待ちかねた様に寄り添って来た。そんな両者の様子を見詰める騎士は、次いで「もし興味があるのなら、騎士団の所有している魔獣を見てみるかい?」と誘い掛けて来る。魅力的な提案にパッと顔を輝かせ、先の憂鬱もなんのそのと飛び付いた少女達に対し、ラヴァルはほっとした様に微笑むと、本部から程近い彼らの居館に向けて進み始めた。

 魔獣達の放牧地は、騎士達の居館が立ち並ぶ一角の外れにあった。簡易な柵に囲まれたその一帯はかなり広かったが、それは訓練用の馬場も兼ねているからだと説明される。騎乗する際に用いられる炎馬達は、臨戦態勢ともなると居館の一階部分に設けられている厩に繋がれるのだが、普段は他の魔獣達と同様ここで思い思いに戯れて、時を過ごす事になるのだと言う。
 物珍しげに見まわすアルマに対し、若い騎士があれこれと説明を加えている間。ドレデイアのフィオーレは逸早く見知った顔を探し当てて、そちらに向かって動き出す。恐る恐る声を掛けた彼女に、シュバルゴのランシエは虚を突かれた様に動きを止める。
『貴女は――』
『あの時は有難うございました』
 暫し遠慮がちな沈黙が訪れた後。不意に横合いから近付いて来た小柄な影が、無邪気とも言える様な声音で割って入った。
『兄上、このヒトは? と言うより、次は何すれば良いの?』
 ちぐはぐな敬語で顔を出したカブルモに対し、兄と呼ばれたシュバルゴは慌ててその頭を小突いてやると、見ているフィオーレが思わず吹き出してしまう程の取り乱し様で説教する。
『パリス、言葉を慎めと何度言えば分かるのか!? よりによって客人の前で……』
『だって……アンリ様にとってのお客様でしょ? 僕らにとっては同じ魔獣で――』
『馬鹿もん!』と言う一喝と共に、角脇に槍が降って来る。『いてっ!』と大袈裟に引っ繰り返ったカブルモの様子に、ドレディアも遂に堪え切れずに笑い出した。
『申し訳ない……。弟にも悪気は無いのだが、何時まで経ってもこの調子で』
 困り果てたと言う表情で謝罪するランシエに対し、それでもフィオーレはその瞳の内に、この困り者の弟に対する深い愛情が見て取れた。気にしないでと首を振った彼女は、次いで場の雰囲気を変えてくれたかぶりつきポケモンに向け、上品な仕草は崩す事無く、それでいてあえて砕けた口調で挨拶する。
『宜しくね、パリス。私はフィオーレ。……あなたの言う通り、此処では同じ魔獣同士。仲良くしましょ』
 にっこりと笑う彼女に救われた様に、僅かに顰められていた顔が明るく輝き。パッと跳び起きたカブルモが元気良く頷いた所で、彼らの主人に当たる二人の人間が、ゆっくりと傍に歩み寄って来た。


 騎士団との調整を終えた翌々日の夕暮れ時。予定していた交易船が、ナッソスの港に入って来た。湾内の砦を迂回し、他の船で混み合う奥側の停泊地ではなく、広々とした入り口付近に落ち着いた船の舳先には、領主本人の交易相手である事を示す小旗が、夕暮れ時の地中海の特徴である微弱な風に揺れている。
 着いたばかりの帆船から手を振る男に向け、カルロは両手を斜め上に差し上げて、全身で歓迎の意を示した。この地方の同業者なら見慣れた造りの、特徴的な平底帆船。『ダウ』と呼ばれるその木造船は、彼ら西洋の商人達ではなく、主に東方に蟠居している異教徒達が、好んで用いているものである。
 船端から笑い掛けて来ている相手の容姿も、当然ながらそれを肯定するもの。ゆったりとした着衣を身に纏い、傍らに従者と尾長鼬を引き連れた船主の相貌は見事な髭で覆われており、褐色の地肌が覗く先にある頭部には、落ち着いた色調の赤いターバン。布地の中央で控え目に輝く青い宝石(サファイア)が、日に焼けた壮者の頭上で夕暮れ時の光を弾き、淡く美しく煌めいている。
 やがて小舟が帆船を離れ、船着き場に客人を運んで来ると、カルロは満面の笑みを浮かべて、躊躇う事無く相手の肩を抱いて迎える。
「久し振りだ、シャヒーム。急な話だったのによく来てくれた」
「大した事は無いさ、友よ。神(アッラー)の御導き有らばこそだ」
 シャヒームと呼ばれた船主が、鷹揚な声音と好意で返す。足元にちょろ付く鼬の様な魔獣をあやし、見せびらかす様に肩に乗せた彼は、よく懐いていると見えるオタチを指して、「新しい我が子だ」と冗談を言った。
「腹が空いてると見えて落ち着かんでな。早くもてなしを受けたいそうだ」
 自らもいたちポケモンを優しく撫でた街の領主が、一足先に歓迎の為馬に跨り駆けていく中、舫いを終えた平底帆船から、続々と積み荷が運び出され始めていた。

 客人を迎えての晩餐の席は、情報交換の場でもある。カルロもシャヒームも商人であり、更に属する陣営は基本的に対立関係にある。情報第一の業界で立場が大きく異なると来れば、単なる雑談ですら熱が入るのは寧ろ必然と言うべきであろう。
 とは言え無論、機密に値する様な情報を曝け出す事は無い。双方共にこの道の作法は心得ており、深入りし過ぎて自らを破滅に追いやる様なリスクは、決して犯そうとはしなかった。内通は陣営内での孤立を生み、最悪の場合粛正の対象となって破滅する。為に互いに腹の探り合いは交えながらも、一線を越えさせる様な問い掛けからは、巧妙に距離を置いていた。
 しかしそれでも、匂わせる事は忘れない。互いに親しい付き合いであり、同時に相手方への交渉の伝手も兼ねている。利害が相反する事はあれど、一方が欠ければ損失となるのもまた自明の理なのであった。
「お主なら聞いていると思うが……近々遂に、アナトリアの宮廷が動き出すようだ」
「聞いてる。矛先はドデカネス諸島らしいが、スルタン直々の親征と言う噂もあるな。此処にも去年の暮れに年貢金支払いの勧告が来たが、今回はそれだけじゃ済まないだろう」
 シャヒームの言葉に、カルロが頷く。アナトリア帝国の最高指導者――事実上の皇帝に当たるスルタンは、近年代替わりしたばかり。新たに即位したイマーンは若年ながらも高い評価を受けており、スルタンの座について僅か一年で難攻不落と名高いバルカン半島のベオを攻略している。
「ドデカネスのホスピス騎士団は帝国の海上権益を著しく損なっている。遅かれ早かれ征討の軍が送られるのは避けられないだろう。……そうなると、ナッソス(ここ)の舵取りも難しい。規模に差はあれど、異教徒海賊の根拠地である事に変わりはないからな」
「いっそ帰服したらどうだ? 余計な世話かも知れんが、ここが決断のしどころだと思うぞ」
 シャヒームの提案に、カルロが苦笑しながら首を振る。「非公式の勧告と見るべきかな?」と応じた彼は、大きく息を吐いて友の言葉を否定する。
「同胞を裏切る事は出来んよ。確かに軋轢はあるが、騎士団(かれら)とは切っても切れぬ関係なのも疑いようが無いからね。彼らの存在こそが、この街の存続を可能にしている。我々は互いに必要とし合って、その上で今の姿を築き上げて来た」
「確かに連中が必要だと言うのは分かるさ。大義名分としてもな」
 シャヒームの言葉が、ナッソスの現状を的確に突く。教皇庁直属の聖職者集団であるナッソス騎士団が所属しておればこそ、この街は西欧諸国に対してその存在を主張出来るのである。もし彼らがこの地を去れば、ナッソスは異教と異端の蔓延る堕落の象徴として、領土拡大に血眼になっている西欧諸国の王侯達の手によって、討伐対象にすら指定されかねないのだ。
「だが、もう時代が変わった。現スルタンは英邁な上まだ若い。今後三十年は彼の治世が続くだろうと考えるなら、帝国に帰服してその保護を仰ぐのも絵空事じゃない。連中を放っぽり出せば、後はお主の才覚でどうにでもなるだろう。此処を今の姿のままで必要としている者も多いのだから」
 熱心に持論を述べる友人に向けそっと片手を差し上げてみせると、カルロは不穏な議論を切り上げ、相手の隣に控える従者の少年に、湯気の立つコーヒーを注いでやるよう促した。
 議論を切り上げた両者は、改めて姿勢を張って辞令を交わした後、いよいよ商談に入るべく品物の目録を交換する。幸か不幸か、準備不足気味だったカルロに対し、シャヒームの側は抜かりなく交易品を満載して来ており、差額が膨らむのは火を見るよりも明らかだった。
 部屋に運び込まれた見本だけでも、各種香辛料に東方産の木の実類が小山のように積み上げられ、その傍らには未だ年端も行かぬ少年奴隷が、身を竦めて立っている。多少の蜜蝋や獣の皮ではこの分量差は覆せるものではなかったが、此方から招いた手前積み荷は全て相応の価格で引き受けるのが鉄則である。「不足分は手形でも良い」と鷹揚に構えるシャヒームだったが、それでも出せる分は出して貰おうと釘を刺した。
「手持ちが無くとも取引は出来る。だが、誠意は尽くして貰わねばなるまい?」
「今出せる額は精一杯張り込んでいる心算だが」
 応じるカルロに、髭の友人はニヤリと笑う。
「こいつはそうとは思ってないみたいだぞ」
「……なるほど、そう言う事か」
 膝に乗った尾長鼬の頭を撫でてやっているシャヒームに、カルロは得心がいったと言う風に頷いて見せる。一部の魔獣には相手の持っているものを見透かす能力があると聞いた事があるが、尾長鼬にもその資質が備わっているものがいるようだった。
「態々大明国から草原の道(シルクロード)を通じて手に入れた個体だ。こうした席ではとても助かっている」
「事情は分かった。……だが、生憎これはもう使い道が決まっているのだ」
 懐を叩いて肩を竦める友人に、シャヒームは渋い顔を向ける。暗に手持ちがある事を肯定しながら誠意を見せようとしないのは、常の彼には見られない行為である。如何に信用があるとは言え、こんな論理が罷り通るほど彼らの業界は甘くはない。
「折角苦労して間に合わせたんだ。出来れば気の浮かぬ返事は聞きたくない。来週は末の息子の誕生日も控えてるし、少しは機嫌の良い顔をして帰りたいのだ。土産の一つも買ってやりたいし、色好い返事を期待している」
 やや硬い口調になった船主に対し、カルロは直接返答する事はせず、相手の背後に控えている少年に、客人を呼んで来るように申し付ける。そんな自分を注視しているシャヒームに向け、館の主はもう少しだけ交渉しようと、穏やかな笑みを向けるのだった。

 サリフが宴席に出るよう告げて来た時。アルマは最初、自分が客人の歓待に駆り出されるのではないかと、本気で心配した。朝から館の使用人達を手伝い宴会の準備にかかり切りで、それなりに役には立てたと思えていたが、流石に宴席に侍らされる事だけは避けたかった。
 だがサリフが伝えたのは、単に顔を見せるだけで良いと言う、カルロの強い希望であった。その代わり、出来るだけ急いで来て欲しいと言う。例え姿を見せるだけとは言え、異教徒の前に出るのは気が重かったが、そこは恩人の意向である。アルマも不快な気持ちをぐっと堪えて、サリフについて広間に向かった。
 しかし回廊を抜け、離れの形式を取っている交渉の場へと辿り着いた時――アルマは文字通り息をするのも忘れて、部屋の入り口で立ち竦んでいた。ただならぬ気配にサリフが振り向いてみると、娘の視線はある一点に向けて釘付けになっており、まるで見ているものが信じられぬかの様に、瞳が大きく見開かれている。
「パオロ!!」
 漸くその名を絞り出した頃には、既に彼女は駆け出していた。積まれた品物を飛び跨ぎ、勢い任せにもつれた足で最後の数歩を突き進むと、何も考えられないままに力一杯抱き締める。呼び掛けに気付き振り向いたまま固まっている、やつれかけた弟を。
「パオロ! よく無事で……。ああ、神様」
「姉さん……! 姉さんなんだね!? 本当に……本当に」
 交わす言葉も見付けられぬまま泣き崩れている両者の姿に、サリフは勿論一方の所有者であるシャヒームも、ただ茫然と眺める他に無い様子だった。そんな中、予め事情を知っていたただ一人の男は、ここぞとばかりに新たな提案を持ち掛ける。
「末の息子の誕生日が近いそうじゃないか。なら良い機会だし、ここで一つ奴隷を解放してみると言うのはどうかな? 善行を為して功徳を積むのは、少なくとも悪い事ではない。君にとっても息子にとっても、無論彼らの身の上に関しても、大いに価値ある行いだ」
 彼は更に、尚も反論の糸口を模索しているらしい相手に向けて追撃する。
「もしここで私的な損得勘定を優先し、息子と同じ年頃の姉弟の間を引き裂こうと言うのなら、私は君を軽蔑するな」
「……負けたよ」
 ニヤリと笑う長い付き合いの友人に対し、まんまと思うつぼに嵌められた子煩悩のムスリムは、差額を記したパピルス紙の片隅に線を引き、ゆっくりと自分のサインをなぞり始めた。

 見守っている弟が、安らかな表情で眠りに就いた後。アルマはサリフの言伝に応じて、独りカルロの待っている屋上へと向かった。港の方を眺めていた館の主は彼女の足音に振り向くと、強か飲んでいる気配も見せないで、穏やかな表情で手招きする。
「遅くに呼び出して悪かった」
 手振りに従い隣にやって来たアルマに対し、カルロは些かも酔った風情は見せず、何時も通りに話し掛けて来る。「眠ったかい?」と聞いて来た相手に重ねて感謝の言葉を述べると、男は何の事は無いと言う風に手を振って、彼女に楽にしなさいと言う。
「礼を言うのはこっちの方さ。君達の御蔭で、シャヒームもあっさり折れてくれた。あいつにしては珍しい事だ」
 フフフと笑ったカルロは、傍らのテーブルから杯を取って、ゆっくり一口流し込む。アルマにも別の杯を渡した後、良ければ付き合ってくれと言い添えた。
「ここで一杯やるのが一番の楽しみなんだ。――自分の街を、満天の星空が覆う。仕事も政情も忘れ、欲得ずくの生き方も全て投げ出して、そのままずっと眠っていたい様な気分になるのさ」
 蜂蜜酒を口に含んだまま、アルマは自分も空を見上げる。直ぐに口の中のものを飲み下し、煩わされるものが無くなってしまうのももどかしく、小さく感嘆の溜息を漏らした。空一面に広がる星屑と、控え目に片隅を飾る細い三日月。街の灯から幾分離れたこの場所は、道で見上げるより遥かに強く、天地の広さを印象付けてくれるのだった。
「我々の仕事。囚われた同胞達を救い出し、自由と信仰を取り戻す事には意義がある。そう思っている。……だが、この星空の下にある全ての者を救う事は叶わない」
 淡々と語るカルロの言葉に、アルマは黙って耳を傾ける。嘆くでもなく、愚痴でもない。そこにある事実を並べ置く様に、彼は静かに語り続けた。
「同胞だけではない。サリフの様な異教徒達も、日々新たな苦難に直面している。敵が我が同胞達を連れ去るのと同じく、私も囚われて来た彼らを元手に、この商売を続けている。みな家族がおり、帰るべき故郷がある。……それが分かっているからこそ、シャヒームも手を打つ事に同意したんだ」
 表情を変えたアルマには構わず、彼は更に続けた。
「けれども――いや、だからこそ私は信じている。この投げ出したくて堪らない生き方が、必ず意味を持ってると。商人と言う我らの身分が、その果たすべき役割が、きっと何かを変える時が来ると。それを信じたくて、私はこの街を治めている」
「見たまえ」と、カルロは振り向き背後を指差す。心持下に向けられたその先には、彼の領地であるナッソスの街並みが広がっている。遠くの城壁まで尽きる事の無い石造りの家屋には、まだ所々灯が点っており、そこに住む人々の息遣いを、微かな揺らめきと共に伝えている。
「私の領地は広くは無い。……だが、例えこの限られた範囲の中でも、思いのままの絵は描ける。異教や異端に束縛されず、あるがままを受け入れられる土地。違う事を認め合い、その上で同じ理想に向けて進んでいける国――」
 カルロの語り口に、徐々に力がこもる。それは決して酔いのせいでも無ければ、この場限りの思い付きでもない。表面上は軽々しく人の良さを押し出していくだけに見えたこの人物が、如何に強い思いを元に行く道を決めていたのかが伺い知れて、アルマは何時しか息を呑んで、男の言葉に身を打たれていた。
「私には宗教上の権限は無いが、商人として出来る事はある。出来る限りの豊かさをもたらし、可能な限り手を差し伸べて、その上で試したいのだ。我々は本当に、共に歩む事は出来ないのか。己が出来る事を為し、互いにそれを競い合い、育み引き上げ合う事で共存する、そんな生き方は出来ないのかを。豊かさは安寧をもたらし、安寧は寛容さを生み出す。生まれ出た寛容さ――自由はより多くの人間を集め、広範に散らばった技術と知識を集積させる。それがより大きな力となり、既にあるものを維持し、育て、更に発展させていく。そうして拡大された豊かさが余剰を生み出し、それがより多くの者を受け入れ、押し広げていく糧となる」
 一度言葉を切り、カルロはそっと息を吐く。杯を傾け、含んだ蜂蜜酒で熱を冷ますと、再び続けた。
「そしてそうした余剰を、我々は運ぶ。必要としている場所に。本当に求められている者達に。そうして培われた絆が、新たな我々の活躍の場を生み出してくれる。……商人が必要とされる理由は、本来はそうした姿であるべきなのだ。奪う事で得られる物は、何時か底をつく。我々は隔絶した両者を繋ぎ、結び合わせる存在でなければならない。そして、それは恐らく我々にしか出来ない事だ」
 カルロがゆっくり此方を向いた。熱意の籠った演説の直後。しかしにもかかわらず、浮かべた笑みは隔絶された様に柔らかで、淡く静かなものだった。
「だからアルマ。彼らを許してやって欲しい。憎悪に身を染めた異教徒であったとしても、彼らにもそうならざるを得なかった背景はあるのだ。もし生き方を選べるほど豊かであるなら、彼らも別の姿であったかも知れない」
 更に彼は、「自分が商人の血族である事に誇りを持ちなさい」と続けた。「ラヴァルから聞いたよ」と付け加えられ、ハッとした様子のアルマに視線を注ぎながら、自らも貴族の位にある男は、力付ける様に頷いて見せる。――あの時感じた冷たい底意の正体は、後のラヴァルの言葉で合点がいった。クノエの騎士が向けて来たのは、ある種の蔑視であったのだと。
「我々西欧の貴族には、『青い血(ブルー・ブラッド)』と言う考え方がある。民を護る神聖な役目、『戦い』を担う貴族即ち青い血こそが、真に尊い存在なのだと。騎士修道会が貴族以外の入会を認めないのもこの為だ。だが、確かに彼らにしか出来ない事はあるにせよ、彼らには補えぬ事があるのもまた事実なのだ。大工がおらねば船は造れず、技師が助けなければ城壁は維持出来ない。正教徒を除けば船乗りは足りず、ユダヤの民を排斥すれば医師と言う職そのものが欠落するだろう。……君には君にしかやれぬ役目がある。商人として、またその縁者として、出来る事だけを考えなさい」
「君の存在には意味があるのだ」そう結んだ小さな街の支配者は、最後にもう一度両者の杯に注ぎ直すと、新たな同胞の解放を祝って乾杯した。

 明けて翌日。無事品物の交換が終わり、積載を終えた平底帆船の傍らに、二人の有力者達の姿があった。
「今回は一本取られたよ」
「また会おう」と別れの言葉を最後に小舟に乗ったシャヒームに対し、カルロはゆっくり懐に手を入れると、中に忍ばせてあった皮の袋を掴み出す。離れ行く相手に向けて振りかぶり、力一杯投げ渡した彼は、受け取りはしたものの怪訝な顔付きの友人に向け、笑顔で手を振り締め括る。
「末の息子の誕生祝いだ!」
 順風に恵まれ、光り輝く海面をすべるように進む小舟の上で、異教の友は銀貨の袋を高く持ち上げ、零れるような笑みで応えてみせた。


 それから一月ほどは、平穏の内に過ぎた。両親を目の前で殺されたパオロの心の傷は深かったが、アルマは勿論カルロやサリフも出来る限りの手を尽くしてくれた御蔭で、何とか立ち直る事が出来たようだった。
 目下の所、全ては順調であるように見えた。アルマはパオロについてやりつつ、依然侯爵家の手伝いをして過ごしていた。当のパオロはカルロの計らいにより、将来支障なく実家の跡が継げるよう、サリフと共に商人の心得を学んでいる。実家の債務については彼が口添えしてくれたらしく、親族が一時的に事業を継いで、家業を切り盛りしているとの事だった。サリフはサリフで後輩が出来たのが嬉しいらしく、何かと進んで弟の面倒を見てくれるので、既に此処での生活に慣れて来ていたアルマには、自然自由な時間が多く持てるようになったのだった。
 そうやって生まれた空白の時間を、彼女はフィオーレと共に騎士団の放牧地を訪ねたりして過ごした。ドレディアはそこがお気に入りらしく、直ぐに彼女がいなくとも単独で出かけるようになっていく。ラヴァル自身は忙しいらしく滅多に会う事は無かったが、他の騎士達も概ね親切であるか、若しくは不干渉に徹するかと言った所で、クノエの騎士のように冷たい反応を見せる者は他にいなかった。
 だがその一方、領主であるカルロは積極的に動いており、城壁の修築や食料の備蓄、傭兵の手配に尽力しているのが窺われた。彼自身が語らなくとも、領主の館の付近に宿舎が増築され、屯する兵士や魔獣の数が増していくのを見れば、最近噂されるようになった戦争の影に備えているのは容易に想像出来る事である。同時に、サリフのコリンクを始め数えるほどしかいなかった領主所有の魔獣の数も、少しずつではあるが増え始めていた。

 人間達が戦雲の予兆を感じ始めているのに対し、パートナーである魔獣達もまた、その臭いを嗅ぎ取っていた。海上封鎖に従事する為、常に戦いと隣り合わせの運命にある騎士団所有の魔獣達も、迫り来るものの大きさを本能的に察知して、落ち着かぬ日々を過ごしている。
『戦いが始まったら、フィオーレ達はどうするの?』
 カブルモのパリスに尋ねられ、フィオーレは主人次第だと答える。『早く一人前になりたい』と口癖のように言っている若者にとって、戦争の足音はどうやっても無視出来ない事象なのだろう。兄のランシエは妄りに騒ぐものではないと言い聞かせるが、一日も早く進化して主人の傍らに立ちたいと夢見る彼の御喋りは、そう簡単には止まらない。
『アンリ様の話だと、街の魔獣達もいざとなったら防衛戦に参加させられるらしいし……。僕、早く進化してフィオーレ達の分も戦えるようになりたい』
『ありがとう』
 真面目な顔をするパリスに、フィオーレは微笑ましい思いで礼を言う。兄はもちろん自分と比べても年下になる相手の目付きは真剣で、ドレディアは内心無邪気な普段の表情と比較して、軽い驚きを覚えていた。
『パリスも言うじゃないか。なら、もう木の実の味で飯を残すような真似はしないな?』
『えー!? 渋いのやだよ……』
 傍で見ていたアブソルのライルが、小柄な後輩を茶化して笑う。ブリテン島からやって来た騎士のパートナーを務める彼は、嵐の気配を誰よりも早く察知出来る、海が主戦場の騎士団にとってなくてはならない存在だった。
『俺はそろそろパリスも進化の儀を迎えても良いと思うがな。皆はどう思う?』
 ライルの呼び掛けに、周りの仲間達が顔を見合わせる。騎士修道会の性質上、客人であるドレディア以外は、皆鍛え抜かれた精悍な雄ばかり。主人と一緒の時は威厳を保って傍らに侍するそんな彼らも、此処にいる間は街の魔獣達とあまり変わらない。サリフのパートナーであるコリンクのサラーなどは、主人の影響もあってか彼らを良く思っていないものの、双方と親しいフィオーレには、彼らの反目が実に残念な事に思えるのだった。
『私はそうは思わない。弟はまだまだ実力が足りていない』
『しかし、成長し続けているのも事実でしょう。それは兄である貴方が一番よく分かってる筈だ』
 言わずもがなのランシエに対し、座を温める中では最も大柄なブリガロンのポルトが取り成してみせる。二メートル近い長身と頑強な体躯を誇る彼は、クノエの騎士ことエーヴルの従者を務めており、自他共に厳しく頑なな主と違い温厚で、協調性に溢れた性格の持ち主だった。
『……手を上げているのは間違いない』
 そう相槌を打ったのは、黙り込んでいた草色の大ミミズク。普段は殆ど喋る事のない彼はシュッツェと言う名で、遠隔戦では誰一人として追随出来ぬジュナイパーである。暇さえあれば詩の一節の様な呟きを漏らす風変わりな主人を持つ彼は、カロス東方のクルムラントからやって来たと言う事であった。
『……だが、それで生き残れるかは別問題だ』
 ジュナイパーの冷めた発言に、束の間沈黙が訪れる。無事生き残れる保証は無い――そんな当たり前の現実が俄かに深刻な色合いを帯びて来たのを、その場の誰もが思い出したからだ。
『そんな事言って、パリスに脅かされて飛び上がったのを忘れようとしても無駄だぞ』
『……言うな』
 再び口を開いたアブソルの言葉に、僅かながら場の空気が緩んだ時。寡黙なミミズクは小さく一言抗弁して、敢えてその流れに乗る事を選ぶ。
 口々にパリスの成長を肯定する言葉が行きかう中、フィオーレはこの平和とは言えねど平穏な空気が続く事を、切に願わずにはいられなかった。

 けれども、やはりその願いは虚しかった。徐々に物々しくなる街の空気同様、刻一刻と現実味を増す危機感は、それから僅か一週間後、アナトリア帝国支配者からの親書と言う形で結実したのである。


 若き皇帝(スルタン)イマーンからの要求は、単純且つ明快なものであった。
 一、ナッソス領主はアナトリア帝国に忠誠を誓い、その勢力下に入る事。
 二、忠誠と服従の証として、年ごとに課せられた年貢金を支払う事。
 三、ナッソス騎士団を追放し、今後帝国に敵対する如何なる勢力も領内に駐屯させない事。
 以上三項目の実行を要求するもので、加えて付加条項として、街の形態は今のままで良しとし、帝国からの代官も置かない事。年貢金以外の貢納は求めず、通商料や各種課役についても免除する事、また住民は帝国内を自由に行き来出来る権利をも付与する事。騎士団の退去の際、アナトリア帝国側は一切の干渉や報復行為を行わない事を明記してあった。
 付加条項は異例なほどに寛大であったが、それでも立場上受け入れると言う選択肢はない。拒絶に対する措置は、当然戦争である。
 だが逃げ道を塞がれた筈のカルロ自身には、状況とは裏腹にまだ余裕があった。スルタンから征討の意思が示された事は、紛れもない脅威である。それを軽く扱う事は絶対に許されなかったが、その一方で彼は今回の軍事作戦の主目標が、ナッソスから更に南の沖合に位置するロドス島であると理解していた。くびきとなる領主を持たない独立した勢力であり、為にナッソス騎士団より遥かに危険で行動的なロドス島のホスピス騎士団こそが討伐すべき対象であり、彼らの協力者程度の役割に過ぎぬナッソスの街と騎士達については、強いて揉み潰すほどの存在ではない。ホスピス騎士団を駆逐すれば自然と勢威も弱まり、実質的な屈服・退去に追い込む事はそう難しくないと言う認識なのである。
 カルロの付け目もそこにあり、彼はあくまで粘り強く交渉の使者を派遣しつつ、片や先制攻撃の企図を起こさせぬ様、私財をなげうって戦備の拡充に力を注いでいる。――力無き中立は所詮絵に描いた餅であり、強者の気まぐれで立ちどころに崩れ去る、砂上の楼閣に過ぎない。勢力同士の力関係に敏感な商人の世界で生きて来たからこそ、カルロにはそれがいやと言うほど分かっていた。
 そして遂に、実際に攻略部隊が組織され、スルタン直属の大軍勢が帝国の首都を進発した頃――カルロはアナトリア帝国の宮廷筋から、不戦についての暗黙の了解を得るに至ったのである。
 時は千五百二十二年の六月初頭。アルマがこの地にやって来て、二月後の事であった。


 騎士修道会における騎士達は、厳格には『騎士(ナイト)』ではない。騎士(ナイト)とは、元々主君からの働きかけに応じて武器を取る武人階級を指していた。言わば階級呼称に近いものであり、為に貴族である事や馬に乗った騎兵(キャルヴァリー)である事と直接結びついている訳ではない。騎士修道会はあくまで戦う聖職者――僧兵の集団であって、世俗的な騎士階級とは武力を用いると言う点と道徳的な側面が合致しているだけに過ぎないのである。
 この両者の差異で最も甚だしいのは、言うまでもなく交戦意欲であろう。時代や洋の東西を問わず、宗教と戦いが結びついた時の破壊力は、歴史が証明している事実である。異教徒との戦いは全て神に捧げる聖戦であると位置づけている敵方のムスリム達もその点は同じであったが、『狂信』と言う面では騎士修道会の騎士達の方が遥かに当て嵌まる存在であった。彼らは入団した時点で世俗から脱却する誓約を結んでおり、生涯妻帯も私的財産も許されず、ただ神への奉仕と戦いにのみ身を捧げると誓っている。
 そんな彼らにとり、同胞であるのは勿論の事、長年の戦友であり同志でもあるホスピス騎士団への攻撃は、見過ごすには余りにも大き過ぎる事案であった。それは彼らの存在意義にすら関わる事であり、感情論だけでは済まされぬ深刻な乖離である。カルロもその点は十分承知しており、手を出さぬよう厳重に申し入れる一方、密かに参戦する事については黙認する意思を示していた。国として加担する事はどんな形であれ一切許さないが、個人として密かに加わるなら防止策は取らないと言う訳である。既に開戦のずっと前から、この意思表示に従い幾人もの騎士がドデカネス諸島に旅立っていた。

 やがて敵軍が到着し、城壁から少し離れた場所に包囲体勢を確立すると、ナッソスの街は訪れる船影も絶え、船着き場周辺は火が消えた様に静かになった。騎士達の居住区画も同様で、元々二百人足らずだった構成員の半数近くとその従者達が消えた今、通りを行く人影は、嘗ての三分の一以下にまで減っている。野生の魔獣達も戦乱の空気には敏感で、波止場に群れるキャモメや郊外で遊ぶメェークルも、忽然と姿を消して久しい。
 逆に近隣からも避難住民が押し寄せて来た一般市民の居住区は、毎日が祭礼の日の様な有様であった。本来はアナトリア帝国の臣民であり、逃げ隠れする必要の無い彼らであったが、大軍の駐屯時に付き物の略奪や日頃から恩恵を受けているカルロの人柄と政治手腕を閲した結果、家族共々城壁の内側に所属する事を選んだのである。
 カルロ自身の備えも、そんな彼らの信頼に十分応えられるものだった。武器弾薬の集積量は目を驚かすほどであり、食料は二年分を目途に有り余るほど備蓄している。雇い入れた傭兵は一千人を越え、その質も魔獣の保有率が高い、精鋭を選りすぐっていた。戦闘の際基幹となるべき領主子飼いの兵も二百人ほどおり、彼らに至っては全員が複数の魔獣を引き連れた、アナトリア帝国最精鋭の親衛隊(イエニチェリ)ですら遠く及ばぬ充実した戦力を誇っている。優秀な魔獣使いである一方大砲や大弩の操作に熟達した彼らはいわゆる常備軍に当たり、豊かさこそが国力を支えると言う領主の持論を体現した存在でもあった。
 これだけの戦力を持ってすれば、城壁外に陣を敷いた万にも満たぬ敵勢に攻撃を仕掛け、打撃を与える事も十分可能であったが、カルロは依然守りを厳重に固めるよう指示するだけで、此方側から打って出る事を許さなかった。此処に配された軍勢はあくまで監視と封鎖が目的であり、もし敵対意思を明確にすれば、たちどころに総攻めの手配が為される事を知っているからである。現に南のロドス島に指向された敵の本隊は十万人を超えていると言われ、尚も刻々と増強されつつあると言う。帝国と地続きの半島の一角にあるこの地に大軍を送り込む事は、離島であるロドスに攻城部隊を派遣するより遥かに容易であるに違いなかった。
 実際アナトリア軍の側も、事前の密約に沿う事に決めているようであった。砲座を設え形ばかりの攻撃準備を終えたものの、並べられた砲列は一向に火を吹く気配が無い。偵察目的の魔獣一匹飛来させる事も無く、封鎖状態を維持するだけで、天幕の群れは平穏な日々に終始する。防衛戦力の規模は事前に交易商人を通じてある程度喧伝させており、アナトリア側も自ら蜂の巣を突く様な真似は慎んでいるのだと解釈された。
 このまま推移すれば、何事も無く終わるかも知れない――。そんな期待を住民達が希望と共に抱き始めた頃、二隻の軍用ガレー船が封鎖をすり抜け、ナッソスの港に滑り込んで来た。封鎖開始から二か月ぶりに外の便りを運んで来た、その船の詳細を知った時。緊張感に苛まれつつ祈るように和平への道を模索していたカルロは激怒し、城壁の内に集う人々はいよいよ苦難に満ちた日々が始まるのだと、恐怖に彩られた重苦しい覚悟を決めねばならなかった。


 入港して来たガレー船の内一隻は、ホスピス騎士団所属のものであった。来航目的は、武器弾薬の支援要請と共同作戦の申し入れ。要請先は領主であるカルロではなく、ナッソス騎士団の団長に対するものであった。
 そしてもう一隻――このロドス島からやって来た同胞を支援し、道案内を担当したのが、四か月ほど前にこの港から出発した、他ならぬナッソス騎士団の軍用ガレー船である。しかも彼らは、途中でロドス島に向かうアナトリア帝国の船を襲い、輸送されていた兵と砲器を海に沈めて、奴隷から解放した漕ぎ手達を伴って来ていたのだ。
 当時は軍船と言えばガレー船の時代であり、櫂の漕ぎ手には捕虜にした異教徒を奴隷としてあてがうのが通例となっていた。アナトリアの艦船も例に漏れず、これらの船を襲撃し略奪する事は、騎士修道会にとり同胞の解放という面でも、立派に大義名分の立つ聖戦行為なのである。増してや現在は実際に興亡を掛けた戦闘の真っ最中であり、敵方の輸送船を撃沈するのは至極当然であると言えた。
 だが、それが中立的な交戦国に身を寄せたとなれば、事情は全く異なって来る。ナッソスは事実上彼らに支援を与え、しかも戦利品を受け取ると言う、この上なく明確な継戦支持行為を示す事になるからだ。
 しかもこの場合、捕虜の受け取りを拒む事は出来ない。ホスピス騎士団は同じ陣営に属する同胞であり、同じ戦争を戦う味方であり、更には西方教徒全ての頂点に立つ、教皇庁直属の聖騎士団である。もしこの受け入れを拒めば、ナッソスは西欧諸国から決定的に孤立し、裏切り者の異端者としてその存在は完全に抹消される。
 加えてその捕虜を解放すべく戦ったのが、他ならぬナッソス騎士団自体の構成員である事が致命的だった。ガレー船から上陸し、直接報告に来たエーヴルらの説明を受けながら、カルロは怒りで青ざめた顔をひたと向け、端正な顔立ちの青年騎士の冷たい双眸を睨み返す。激しい応酬こそなかったものの、状勢が決定的に動いた事を、誰もが覚らざるを得なかった。
「元より立ち上がるべきだったのです、侯爵殿。居ながらの背信行為など、光輝に浴する我が同胞に対して許される事ではありません。戦力が分散すれば、双方共に戦い抜ける公算も高い。これで良かったのですよ」
「君の願い通り、と言う訳かな?」
 領主の突き刺す様な一言にも一切表情を動かさず。未だ戦塵に身を汚したままのクノエの騎士は、礼に適った作法で淡々と退出の意を示し、他の者を従えて部屋の外へと歩み去っていった。

 ガレー船入港の翌日、早くも最初の兆候が見られた。ずっと鳴りを潜めていた敵陣に動きがみられ、天幕の海の傍で新たに整地が始まって、増援の到着を予感させる。砲列の周りに兵が群れ、火薬や丸くならした石玉の集積場所が作られる一方、物見の兵を背中に乗せたウォーグルが、数匹の魔獣と共に城壁近くに飛来した。流石に直上までは寄って来ないものの、城壁上に作られた通路の様子や配置されている大砲の数などを見回りつつ、遠巻きに配備状況を偵察する。守備側も手は出さぬものの、同じく数匹の魔獣を上空に放って、相手の行動を牽制させた。
 増援部隊は五日と経たぬ内に到着し、しかも日を追うに連れて加速度的に増えていった。二週間後には矢文が届き、スルタンは背信に対し激怒しており、明朝を期して攻撃を開始すると宣告される。敢えて攻撃を手控えていたカルロの最後の希望も虚しく、此方から出した釈明の使者については、一言も明記されていなかった。

 戦闘開始が確実になった頃、ロドスへ出向いていた騎士達の一部が、団長命令で続々と帰還し始めた。ホスピス騎士団側でも攻囲戦力が圧倒的な分人員不足は深刻で、引き留め交渉の末に戻って来たのは半数以下に過ぎなったが、ルネ・ド・エーヴルを始め主要なメンバーはそれぞれのパートナーと共に、残らず本拠ナッソスの防衛に招集される。
 目まぐるしく変わる情勢に翻弄されつつも、ドレディアのフィオーレと居残り組だった魔獣達は、無事帰って来たポルトやライル、シュッツェらの無事を祝う為、放牧地に顔を揃えていた。激戦となっているロドス島から戻って来たのもあり、皆一様にやつれた様な雰囲気はあったが、少なくとも彼ら親しい者の中には、犠牲となった者はいない。
 けれども戦いの情景について尋ねられると、暗い表情は隠せなかった。アナトリア軍の戦力は圧倒的であり、装備も攻城戦の規模も極めて大掛かりで、今まで経験して来た戦いとは比べるべくもないと言う。
『魔獣の数もそうですが、兎に角大砲の威力が量り知れません。大きな石の塊が際限も無しに飛んで来て、命中した所は一瞬でめちゃくちゃになります。技だけではどうにもなりません……』
『城壁の下を掘り抜いて来る。……それだと見つけるまでは手の出し様がない』
 ブリガロンやジュナイパーに次いで、アブソルのライルと彼の友人、フローゼルのカリツも口を揃える。
『船に乗ってる魔獣は大した事無いのが多いんだが、数が多過ぎて捌き様が無いんだ』
『海の中でも一匹(ひとり)につき四、五匹は喰らい付いて来る。魚の魔獣も多いから、囲まれたまま息が続かず殺られた仲間もいた』
 嘗て無いほど自信の揺らいで見える彼らに対し、他の者達も沈黙する。パリスの言葉が、そんな雰囲気を更に複雑なものとした。
『ポルトさんが聞いたら怒るかも知れないけど……僕、この間アンリ様に呼ばれた時、偶々擦れ違った魔獣に睨まれたんだ』
 皆の視線が集まる中、小柄なカブルモは迷いながらも続きを語る。
『そいつは外から来た人間の手持ちだったんだと思うんだけど、こう言ったんだ。『お前らの主人が余計な事したせいでこうなったんだ』って……。そのせいで、みんな死ぬかも知れないんだって』
『僕、アンリ様は大好きだし、僕達の戦ってる理由は絶対に正しいんだって思ってる。……でも、そのせいでみんなが死んじゃうのなら……僕だけじゃなくて、ポルトさんやライルさんでもどうしようもないのなら……それなら僕――』
『パリス、もう良い』
 俯いたカブルモに、兄のシュバルゴが制止の言葉を掛ける。周りを見渡し、話題に上がったブリガロンのポルトに済まないと言う風に目礼した彼は、顔を上げたパリスに向けて、諭すように言う。
『我らは主を信じて戦えば良い。弱さに流されるなと教えられたのは、こう言う時の為なのだ。……何と言おうと言われようと、現実はただそこにある。迷い戸惑う事無く、ただ信じる道を進むのだ』
 ランシエの力強い言葉に、周りの面々も思い出したように頷き合う。小さく縮んでしまった様なかぶりつきポケモンを力付けてやりたくて、フィオーレは静かに進み出ると、まだ戸惑いの色を残しているパリスの体を、包み込むように抱きしめてやった。


 本格的な攻城戦は、大砲による一斉射撃で幕を開けた。既に包囲開始から三か月近くが過ぎており、季節は九月に入ろうとしていた。両軍共に膠着状態に飽きかけていただけに、この激しい開戦合図は強い影響力を持って、双方の交戦意欲を刺激する。
 次いで息もつかさず、魔獣達の遠隔攻撃がこれに続く。距離がある為扱える技は限られるものの、石の砲弾より遥かに効率の良いエネルギーの帯が、砲煙と土煙を切り裂いて城壁に向けて伸びていく。それらはこれも一斉に展開された守備側の対抗手段に遮られ、何重もの『ひかりのかべ』に減殺されて先細りに消えていったが、エネルギーを消耗した分防衛側の障壁は薄くなり、その力は失われる。回を重ねるごとに突破の可能性が高まる事を知っている攻撃側は、砲撃共々再度の発射準備を急いだ。
 一方これに対し、守備側からも応酬が続く。数では及ばぬとも同じ様な遠隔攻撃――『ラスターカノン』や『はかいこうせん』が伸びて来て、同じく威力を減じながらも此方はそのまま壁を突き抜け、密集した敵陣のど真ん中に命中する。守るべき範囲が広く防壁を集中出来ない分、短期的な撃ち合いでは寄せ手の側が不利であった。例え砲列を吹き飛ばし、敵の魔獣を撃破するほどの火力が残らなくとも、人間を負傷させるには十分である。相次ぐ着弾と損耗に、攻撃側の戦列が若干乱れた。
 予想外の状況に慌てる余り、アナトリア側の指揮官は予定を繰り上げ、準備砲撃の効果が全く発揮されない内に、空からの攻撃命令を下す。陣地の後方からわっと飛び立った飛行可能な魔獣の群れが、あるものは兵を背中に乗せ、あるものは可燃物の充填された器を抱えて、てんでに敵陣に向けて殺到していく。防御側の張った障壁を飛び越え内側から攻撃すれば、城壁に直接ダメージを与える事も可能である。内部に兵を送り込めれば守備側の防備をかく乱する事も出来る為、上空からの攻撃はしばしば攻城戦に於いて決定的な要因となり得るのであった。
 しかし今回に限っては、この展開は城方にとって思うツボであった。相手の戦術転換を素早く見て取ったカルロ配下の守備隊長は、揮下の兵士や傭兵達に向け、即座に迎撃準備を命ずる。騎士達や騎士団が独自に雇った傭兵部隊が魔獣に指示を飛ばし、自らも石弓や小銃を手に空からの襲撃を迎え撃つ中、男達は予め物陰に隠しておいた大弩(バリスタ)を引き出して、慣れた手付きで矢をセットして引き絞る。
 襲撃者達が防衛側の意図に気付いた時は手遅れだった。砲丸が巻き上げた土埃が視界を遮ったのが災いし、攻撃直前になって罠に落ちた事を悟った彼らに対し、領主の信頼する熟練戦闘指揮官は、会心の笑みと共に号令する。「放て!」の叫びと共に風を切る大人の背丈ほどもある矢は、至近距離まで肉薄していた火竜や大鷲、空飛ぶ蠍の一群を、鉄串に貫かれた小鳥の様に射落とした。強靭な生命力を持つ魔獣と言えど、これほどの痛手を受ければ死ぬ他ない。急所を外れても助かる事は稀であり、例え翼の端に当たったとしても、二度と飛ぶ事は出来なくなる。騎乗する兵もある者は振り落とされ、運の悪い者は獣諸共串刺しとなって、その多くが運命を共にする事となった。
 一時に戦力を消耗し、崩れかかった敵の飛行部隊に対し、守備側は間髪入れず迎撃部隊を繰り出して、余さず一挙に覆滅しようと襲い掛かる。地上の魔獣達が石の弾丸を飛ばし、落雷を降らせて狙い撃つと同時に、待機していた飛行可能な魔獣の群れが退路を遮り、絶対有利な城壁周辺の空域でケリを付けるべく殺到した。アナトリア諸隊も友軍の危機を救うべく、必死に堀の向こう岸から援護攻撃を繰り返したが、砲撃は依然思うような効果を上げられず、魔獣達の働きも守備側の厚い障壁に阻まれて、殆ど効を為す気配はない。
 結局その日、攻撃側の飛行部隊は殆ど何の成果も上げられぬまま全滅し、逆に守備側は掠り傷程度の損害で、街上空の制空権を完全に掌握した。敵陣への空からの攻撃は大軍故の反撃能力の高さから難しかったが、空からの脅威を無力化出来たのは、防衛戦に於いて極めて大きな成果である。アナトリア陣営で指揮官の更迭と指揮統制の回復が図られる中、一般住民の居住区画では動員された住民達の浮かれ騒ぐ声が、夜遅くまで途切れる事無く続いていた。


 カルロが先代の進めて来た城壁修築作業を受け継ぎ、それを元に構築した防衛態勢は、戦闘開始当初完璧に近い形で機能していた。
 先代のマッテオが城壁の改造を志したのは、異教徒であるアナトリア帝国の軍勢が駆使する大砲の威力に、強い危機感を持った為である。堅固な城壁を打ち崩し、大型の魔獣ですら一撃で戦闘不能に出来る大砲の集中投入は、当時の城塞の防衛能力を完全に上回るものであった。彼はナッソスを守り抜くには、大砲の効力を可能な限り減衰させるしかないと正確に見抜き、為に城壁とその周囲の堀に対し、生涯を通して改築を施した。具体的には、従来は薄い壁の様に高く聳え立っていた城壁を削り、代わりにその厚みを数倍にまで増した。また壁面も垂直ではなく僅かに傾斜を付ける事により、命中した石玉の破壊力を可能な限り抑えられるよう仕向ける。高さを抑え、街の建造物を後退させてまで重厚な造りに拘った事によって、彼は城壁を大砲のみならず魔獣の攻撃にも耐久性を持つ、極めて強靭な陣地に造り替えた。同時に堀も大幅に拡張し、深さ二十メートル、幅は実に百メートル近くまで拡大させる。堀の規模が大きければ、それだけ敵の射程に制約が加えられるからである。既に完全な封建領主であったマカーリオ家が再び商人としての顔を取り戻し始めたのは、莫大な工事費の財源を何とか確保しようとする、彼の苦肉の策であった。
 後を継いだカルロは、父の築いた機構を更に活かせるよう各国から技師を招き、様々な工夫を追加した。城壁に張り出す様な形で砦を設け、出丸として機能する様仕向けたり、城壁各所を土で覆い、落下して来た砲弾を無力化出来るように配慮する。堀の水を堰き止めて空堀とし、内部に赤土を充填した蟻地獄の様な漏斗状の穴を穿ったり、その背後に防御陣地を置いて前衛戦闘が出来る様にしたのは、敵の戦力を少しでも削ぐ事を目的とした、彼の合理性の賜物であった。攻めるに難く守るに易いこの陣地は、陥落の際は速やかに城壁内へ退却出来る様になっており、後は堤を切って水を入れるだけで、敵の働きを無に帰せる。父親の重商主義を間近で見た事もあり、更に輪を掛けて商人に回帰していた彼は異教徒とも積極的に交易し、ナッソスを自由都市として発展させて経済の活性化を図る一方、こうして防衛力を梃入れしつつ私兵を養い、武器や砲門を少しずつ蓄える事で、自らの街を守る努力を重ねて来たのだった。

 そして実際に攻防戦が始まると、これらの備えは恐ろしいまでの効力を発揮した。よく訓練され装備も充実した彼の手勢は士気も高く、西欧諸国でも最精鋭と目される騎士修道会の騎士達からも、共闘に値する戦力として認められていた。敵の砲撃は引っ切り無しに実施されていたが受ける損害は軽微であったし、堀の中の前衛陣地は極めて有効に作用して、敵兵の死体で漏斗口が埋まるまで機能し続けた。敵の飛行戦力が殆ど活動出来なかったのもあり、結局堀に水が引かれたのは、攻城戦が始まって一か月以上も経った後だった。本来は事前砲撃と空撃で守備側の戦力を減殺してから攻撃に移るアナトリア軍も、これらの手段が思うような効果を上げられぬ以上、陸上戦力を主体にした突撃を行うより他無かったのである。
 陸上戦力が主体となれば、物を言うのは何と言っても魔獣達の練度であり、数である。魔獣は鍛えれば鍛えるほど強くなり、経験はそのまま戦闘能力に直結する。常に戦い続けている魔獣は、日常に埋没しているものの数倍の強みを発揮するのが常だった。
 そしてこの点に於いては、ナッソス騎士団が他を圧して強力であった。常時臨戦態勢にあり、異教徒に対して海賊行為を働くのが存在意義の一つであった彼らの魔獣は、絶えず実戦に晒され続けている。主人である騎士達共々、彼らの戦闘能力は強制徴募によって招集された敵の兵士や魔獣達を大きく凌駕していた。数に於いては圧倒的に不利であったが、城壁に拠って戦う防衛線では、平地での戦闘に比べれば負担は遥かに小さい。前面の敵が本隊から漏れたいわば予備隊に過ぎぬ事もあり、騎士団を始めとした防衛側の不利――限られた人員と疲労の蓄積による負担の増大――は、これまでの所馬脚を現さずに済んでいた。

 けれども堀に水が満たされた頃から、違う兆候も現れ始めていた。切っ掛けは既に二人の指揮官が更迭され、手詰まり感すら漂い始めたアナトリア帝国軍の陣営に、新たに三人目の司令官が着任した事である。スルタン直々に選出・任命したこの将軍は、為に必要な増援部隊も与えられており、その中にはロドス攻略に当たっている本隊から割き与えられた工兵隊が含まれていた。
 寄せ手に工兵部隊の精鋭が加わった事実は、ナッソスの城壁に新たな脅威を突き付ける事となった。アナトリア帝国の工兵隊の特徴は、戦場での土木工事のみならず、攻城戦でも極めて大きな働きをする点にある。バルカン半島の鉱山労働者を主体とする彼らは坑道掘削のベテラン揃いであり、連れている魔獣の力を借りてどのような地形の城塞にも抜け穴を作り、地下に爆薬を仕掛けて崩落させる技術をも有している。工兵部隊が投入された戦場では、城方の守兵は地面の下の状況にさえ警戒せねばならなかった。

 工兵隊の投入は予期されていた事であったが、それでも対策は困難を極めた。カルロは騎士団長のラグネルとも相談し、ロドス島で実際に坑道対策を見て来た騎士達の協力を仰いで、臨時の対策案を取り纏める。聴力の優れた魔獣を城壁背後の各所に配し、敵の掘削作業を未然に察知出来るように処置すると、同時に一般市民にも協力を呼び掛けて、城壁の背後に深い溝の様な穴を掘り上げる。この中にも手空きの人間や魔獣を潜ませ、少しでも早く敵の接近を予知する努力をするのである。
 しかし幾ら警戒したとしても、敵方の魔獣を倒さぬ限り奇襲の危険性を取り除く事は不可能だった。人間が掘り進むより遥かに早く掘削し、種族によっては城壁すら穿孔出来る地中棲の魔獣達は、捕えて飼い馴らすのが非常に難しい反面、利用価値はそれを補って余りある存在である。逆を言えば数は多くないので、首尾良く仕留められればそれだけ大きな打撃を敵に与える事が可能であった。
 城壁内への敵の侵入は死活問題となるだけあって、住民達の働きも必死であった。元々領主に従順なナッソス市民は、戦闘開始となった時点で男達の大半が補助戦力としての動員を受け入れている。そんな彼らであるから、今回の要請に際しては残っていた女子供も含めてほぼ全員が防御工事に従事した。溝の掘削は二日で終わり、新たにそこで配置についた住民達によって、複数の坑道が事前に察知される。予知した坑道は逆掘りと呼ばれる手法で此方から掘り抜いて爆破し、魔獣が掘っている気配を察知した場合は、接近して来たタイミングを見計らって『地震』を放ち、坑道ごと地中に生き埋めにして絶命させる。城壁が分厚く堅固に出来ている為、多少の衝撃では倒壊の恐れが無いのが防衛側の強みだった。
 だがやはり心配された通り、魔獣が掘っている坑道は殆どの場合、対応策が間に合わなかった。魔獣単体で堀り抜かれても撃退は容易であり、兵士が後に続くほどの坑道はそれなりに時間を要するので致命的とまでは行かないのだが、それとて地下からの対応に集中出来る場合のみ。絶え間無い砲撃と敵兵の強襲の最中に合わせられれば、数に余裕の無い守備隊の手が回らなくなるのは必然である。事実敵将もそれを望んでいるらしく、地下からの襲撃が常態化するに従って、砲撃や一斉攻撃の頻度も、回を追うごとに増していった。

 それは戦闘開始から二か月目に入ろうとしていた、十月末の出来事だった。その日アルマはフィオーレと共に、城壁の一角で伝令役を務めているサリフに会いに、北側正面の城壁際を歩いていた。折悪しく使用人が全て出払っていたので、彼女が臨時に伝言役を引き受けたのである。
 ところがもう少しで城壁に登る階段まで辿り着くと言う時点で、敵の砲撃が始まってしまった。慌てて近くの坑道警戒用の溝の中に飛び込んだ両者だったが、次の瞬間少し離れた場所に砲丸が落下し、衝撃で一帯の溝が崩されて、一人が生き埋めになるのを目撃する。
「大変! フィオーレ、早く……! 手伝って!」
 急いで駆け付けたアルマは必死に土を掻いて掘り起こすも、道具が無い為なかなか思うように進まない。何時しか砲撃は止み、城壁の上では戦闘が始まったらしく、豆を炒る様な銃声が立て続けに降って来て、気が急く彼女を煽り立てる。
 漸く相手の腕を見つけ、更に顔を掘り出した所で、不意に凄まじい音響と共に瓦礫が飛び散り、直ぐ傍の城壁から何かが飛び出して来た。思わず悲鳴を上げた彼女に向き直ったのは、巨大な爪を持つ一匹のモグラ。更に続けてもう一匹が同じ穴を広げる様に飛び出して来て、城壁の根方に身を落ちつける。アルマを目にした最初の方のドリュウズは、自分を見つめる主従にあからさまな敵意を示しつつ、鋭い爪を構え直した。
 丁度その時、破壊音に気が付いた傭兵の一人が、城壁の階段を駆け下りて来る。二匹目のドリュウズが素早く反応し、一瞬で体を円錐状にして突っ込んでいくと、男は手にした小銃を構える暇も無く引き裂かれ、左肩を胸乳の辺りまで引き千切られて、鮮血と共に地面に叩き付けられる。最初のモグラも身を沈めかけた所で、膝を着いたまま逃げる事も出来なかったアルマは、立ち塞がろうとしたフィオーレを目にし、思わず止めさせようと口を開いた。

 背後の主人の盾になろうと必死に走り出たフィオーレのその目の前で、飛び掛かろうとしたドリュウズが先に誰かに襲われて、横様に突き転がされた。こめかみを抉られたモグラの体は既に痙攣を始めており、薄赤い液体が血潮と共に地面に染み通っていく。相手の白い毛皮を目の当たりにして、彼女は漸く助けに来たのが誰かを覚った。
『ライルさん!』
 フィオーレの声に、アブソルがチラリと此方を見やる。『下がってろ』とだけ答えた彼は、普段の明るい性格とは打って変った厳しい目付きで、素早くもう一匹のドリュウズに向き直る。一瞬視線が逸れたのを狙い目に、全身を穿孔機に変え突っ込んで来たモグラポケモンの攻撃を、ライルはあっさりと『見切り』で避ける。『ドリルライナー』をすかされ、勢い余って地面を削った相手に対し、アブソルは目にも止まらぬ速さで踏み込んで、額の鎌を振り下ろした。
 だが迅速な追撃だったにもかかわらず、ドリュウズは荒々しい動作で爪を振り上げ、彼の繰り出した『辻斬り』を受け止めた。次いで首を薙いで来た一撃を、ライルは掠らせる事も無く後ろに跳んでかわしたものの、予想よりも手強い相手の実力に、慎重に足場を確かめる。次の仕掛けを待つ姿勢の相手に対し、ライルは束の間呼吸を計っていたが、城壁に穿たれた穴から更に何かがやって来る気配を察した事で、一転して攻勢に出る。踏み込み様に素早く右前脚でブレーキをかけ、『フェイント』で相手の迎撃タイミングを外した彼は、相手の腕を引き裂いた左前脚を地に着けて、そのまま額の角を一閃させる。傷を負った分備えの遅れたモグラの眉間が縦に割れ、そのまま声も上げずに倒れ伏すのを見届ける暇も無く、ライルは新たに穴を抜けて来たオノンドに向け、まっしぐらに突っ込んでいった。
 だが、今回は形勢不利だった。オノンドの後からは続々と兵士達が続いて来ており、彼らが構える石弓が、ピタリとアブソルに狙いを定めている。ライルは一瞬フィオーレの方を見たが、半身の埋まった女の救助に掛かりきりで逃げる余裕もない事を確認すると、そのまま躊躇う事無く敵中へと躍り込む。二本の矢を掻い潜り、オノンドに額の角で切り掛かりながらパッと身を翻して、背後から半月刀を振り被っていた茶色いターバンの男の喉を、着地間際に爪で引き裂く。更にもう一人に飛び掛かり、耳の後ろに爪を突き立てた所で、彼は左の腰の辺りに杭で突かれるような衝撃を受けた。直ぐに息詰まる痛みが襲って来るも、ここで退く心算は無い。苦痛に反発する様に身を捻ると、新たな矢をつがえようとする敵兵に飛び掛かり、一気に肩口から腰骨まで切り裂いた。
 直後、背中に火の様な一撃を受ける。怒りに燃えたオノンドの『ドラゴンクロ―』に対し、ライルは歯を食い縛って反転すると、更に追撃しようとしていた相手の腹を、横に深々と切り払った。胴体を半ば切断されたオノンドが断末魔と共に横転すると、ライル自身も踏み止まれずに脚を折る。……が、敵はまだ残っていた。
『ッがあああぁ!?』
 不意に脇腹に喰い付かれ、今度こそ戦う力を失っていた彼は、激痛に耐え切れず絶叫する。何時の間にか穴から這い出たハブネークが、巨大な牙を深々とアブソルの毛皮に喰い込ませ、そのまま力任せに振り被って、城壁に向かって投げ付けた。
 舌をチラつかせながら這い寄って来る毒蛇に対し、ライルは最早為す術無く、ぼんやりと相手の姿を見詰めていた。ハブネークの顎が開き、襤褸の様なアブソルに止めの一撃を加えようとしたその刹那、何処からともなく飛来した征矢がその側頭部を打ち抜いて、短くも激しい死闘にピリオドを打った。
 駆け付けたフィオーレが、その傍らにしゃがみ込んだ時。孤軍奮闘していたアブソルには、まだ息があった。薄らと目を見開いた彼は、相手が誰かを覚ると弱々しく苦笑を浮かべ、か細い呼吸と共に零してみせる。
『格好悪いとこ、見せちまったなぁ……』
 今にも首を振って溜息を吐くかと思われた災いポケモンは、代わりに疲れた様に目を閉じると、静かに永い眠りについた。

 その日、多方面に渡った波状攻撃により、守備隊側は戦闘開始から初めて城壁の内外で敵と交戦し、十名を越える犠牲者を出した。――今日確認出来る記録には、犠牲者として騎士三名、傭兵六名、市民二名の存在が明記されている。
 最初に包囲が始まってから、既に半年が過ぎようとしていた。


 十月二十九日の戦闘は、その後の戦況を予感させるものであった。実際以後、アナトリア軍の攻撃は空・地上・地下からの同時進攻が基本となり、防衛側の負担は増大の一途を辿る。海側からの威力偵察も始まり、限られた戦力は二分されて、優位も徐々に失われていった。
 住民達を前線に投入せざるを得なくなった辺りから、街の空気も微妙に変わった。領主であるカルロへの親愛の情はそのままだったが、街の守護者である騎士達への視線に、若干の冷たさが感じられる様になったのである。それは戦闘が激化し、味方の損害が目立ち始める様になるにつれ、どんどん顕著になっていった。
 とは言え、街の運命が等しく共有された問題である事に変わりは無い。騎士達と住民の利害は一致しており、彼らは領主のみならず、騎士達の命にもよく服した。アナトリア軍の戦後処理は有名で、住民はほぼ一人残らず虐殺されるか奴隷に売られ、街は略奪し尽されるのが常であった。

 冬が近付いても包囲を維持する敵軍に対し、カルロは遂に外界への支援要請を決断した。既にホスピス騎士団とは協力体制を確立しており、弾薬を融通する代わりに敵状交換や知識面での支援を受けていたが、今回は西欧諸国に対しても、援軍派遣の要請を送る事に決めたのである。内政干渉や略奪行為を招く危険から手控えていたが、最早背に腹は代えられなかった。幸い海上封鎖はアナトリア帝国の海軍力が貧弱な事もあり、突破するのは難事ではない。事実、途中で沈められた船は最後まで一隻も出なかった。
 しかしその成果はと言うと、待てど暮らせど皆無であった。旧カロス朝の落とし児達は互いの領土を奪い合う傍ら、王権を強化する為内部の地固めに忙殺されており、名誉と義務に縛られるだけで実利の薄い異教徒との戦いは、完全に当事国に任せきりの状態であった。
「時代の流れさ」
 溢れる焦燥をそんな言葉で誤魔化して、カルロは苦い笑みを見せる。あの時以来城壁には一切関わらせない様にしている客人の少女に対し、彼は為すべき事も思い付かぬまま、先の発言の意味する所を語り始める。
「大国主義とでも言うべきかな。何処の君主も土地の確保と、立場の強化に奔走している。アナトリア帝国の実力を目の当たりにして、漸く彼らも広大な領土を持つ意義と、専制君主としての強みを理解したのだ。人の手に例えれば、指一本で持てる物など知れているが、五本の指を全て使えば遥かに重い物が運べるだろう。同様に如何に指が五本あっても、てんでんばらばらに指先で突いた所で、大した打撃にはなり難い。同じ条件で最も大きな破壊力を引き出すには、五本の指を一つの意思の下に握り込み、拳で殴り付ける必要がある。領域内の資源を全て管轄出来てこそ大軍を催し、大砲や魔獣の大量保有も可能になる。小規模な領主では幾ら寄り集まっても、それぞれで用意出来る装備はたかが知れていて、結果的に同じ規模でも矮小な軍勢しか組織出来ない。訓練の容易さや維持管理、指揮統制の難しさを考慮しても、どちらに軍配が上がるかは考えるまでも無いと思う」
 実際に自分の手で比較しながら、カルロは現在カロスを始め西欧で起きている政治の流れを、アルマに説明してくれる。
「今までは教皇庁を頂点として、宗教が全体を緩やかに纏めていた。領主達は同じ宗教を信ずる同胞としての意識は保ちつつも、それぞれ独立した存在として動いて来たのだ。王はいたが、それとて主と言うより同盟のリーダーと言う程度の地位に過ぎない。けれども今、王達はアナトリアに倣って、彼らの主として君臨する事を目指している」
「元は盟約で繋がっていた領主を今度は実力で従え、貴族としての爵位を与えて、支配体制に組み込むのだ。盟約で繋がっているだけでは要請までで命令は出来ず、その土地の兵力や物資を意のままにする事は出来ないからね。そうして力を得た君主が、同じ様に勢力を拡大した他国の王と激突し、今の西欧の戦乱がある。例えばカロスとブリテン島の王家の戦争は、この両者が互いに中間地点にあったクノエ近辺の領主連合を、奪い合う事で始まったのだ。結局この戦いはエーヴル公の帰服を境にカロス側の勝利に終わったが、これが遠因となってブリテン島とイベリア半島の王家が盟約を結んだ。彼らの抗争は激しさを増す一方で、為に我々のようなオリエントの片隅で戦っている同胞には、兵を割く余裕も無いと言うのが実状だろう」
「他方配下に組み込まれた側の領主は、最早その土地の主ではない。彼らが支配していた場所は、王の領土になったのだからね。貴族の地位を保証され、『侯爵(マーキス)』や『アール(伯爵)』などと言った大層な位で呼ばれても、実質は王家の僕(しもべ)であり、国家の歯車の一つに過ぎない。今でこそまだ自前の軍隊を率い、将軍や騎士の身分として相応の扱いを受けているが、やがてはそれも消えていくだろう。豊かな資産で戦い専用の魔獣を育て、高価な甲冑と乗馬を揃えられたからこそ彼らは他を圧していたが、大砲や小銃が発達して来たせいで、それも大きな意味は持てなくなった。どちらも幼少期から鍛錬していなくとも扱えるし、こと魔獣に対しては手練の騎士でさえ農民上がりの小銃隊に勝る働きは出来ないのだから。大砲にしても同様で、騎士は勿論鍛え上げた魔獣ですら、直撃されれば命は無い。何れ戦士としての騎士の身分は消滅し、貴族の位はただの称号として、拝受者の肩書を飾るだけの時代が来る筈だよ――」
 自らも貴族であり、領主として君臨するその男は、自分の言葉を未だ実感として捉え切れていない目の前の若い娘に向けて、まるで韜晦する様に微笑んで見せる。次いで彼は真剣な目付きになると、既に何度目かも分からぬ質問を繰り返して、控え目に彼女の説得を試みる。
「ところで、敵の攻撃はこの分じゃ冬も休まず続くだろう。次の日曜にまた援軍派遣の使者を送るが、その船に乗って故郷に帰るつもりは無いかね?」
「いいえ。……お気持ちは嬉しいですが、私はまだ此処に残りたいと思ってます。どうか今暫くの滞在をお許し下さいますよう、お願い申しあげます」
 彼女の心は決まっていた。恩愛に満ち、ゆかしい人々が身を置くこの街を離れる気は、現時点では一切無い。
 弟のパオロは既に、包囲が始まる直前に故郷に向けて送り出している。――例えこの地で果てる事になろうとも、跡目は彼が継いでくれるだろう。

 ライルが戦死して以降、フィオーレは以前ほど熱心に他出する事は無くなった。放牧地の空気はすっかり変わり、以前は頻繁に顔を揃えていたメンバーも、引っ切り無しに続く戦闘に出払っていて、殆ど見える機会が無い。欠かさず会えるのは、急な戦闘開始で進化の相棒となるチョボマキが間に合わず、未だにカブルモのまま後方に止め置かれているパリスぐらいのものであった。パリス自身はそれが残念で堪らない様子だったが、目の前で友人のひとりを失ったドレディアには、その事実は寧ろ天に感謝したいほどに望ましいと思えるのだった。
『昨日はシュッツェがいたんだよ。……主様が亡くなったんだって』
 最後は気の毒そうに結んだカブルモの言葉に、フィオーレはまだ戦争が始まる前、時たま此処に足を向けていた、ミミズクの主を思い返す。聞き慣れぬ言葉で始終何事かを呟いていた彼を遠巻きに眺め、不思議がっていた彼女に対し、アルマはそれが祈りの言葉であると教えてくれた。
「あれは聖書の一節よ。ドイツ語だからどの部分かは良く分からないけど……」
 領主の居館に残った彼女の言葉を思い出しつつ、フィオーレはパリスに向けて言う。
『シュッツェさんならきっと大丈夫。それよりあなたも無理しちゃだめよ? 最近は直ぐ近くの港の方でも、敵の魔獣が現れるらしいから』
『知ってる。シュッツェも今日は、カリスと一緒に向こうにいる筈だよ』
 言外に自分も参加したいのだと匂わす彼に、彼女は仕様が無いなと言う風に一息吐くと、そっと身を屈める。顔を近付けられ、やや怖じた様に角を反らせる相手に向け、ドレディアはにっこり笑って言った。
『なら、あなたが此処にいる間――その間は、私を護ってくれる? 誰も残ってなくても、あなたは何時も此処にいてくれるから』
『……うん! 分かったよ』
 少なくとも、これで少しは落ち着くだろう。何かを見つけた様な表情のパリスに、フィオーレは何処かほっとした様な思いで目を逸らし、雨雲に陰った初冬の空を振り仰いだ。潤みを帯びた潮風に乗って、再び始まった砲撃の音が遠雷の様に、家々の白壁に木霊していた。


 その後も戦闘は続き、双方共に損耗を重ねながら、季節は冬に入っていった。当時冬は疫病の季節でもあり、時によってはダストダスの様な魔獣が敵陣に向けて汚物を振り撒き、それによって誘発された伝染病で、一夜にして大軍が撤退に追い込まれる事も珍しくなかった。この戦術は防御側にも病死体が投石機で投げ込まれるなどリスクが高く、カルロ自身も許そうとはしなかったが、元より衛生と言う概念が希薄だったこの時代、冷たい雨や雪の降り続く冬の戦争は、それだけで莫大な経費と危険性が伴う。その為余程の事が無いと大規模な戦闘が続く例は無かったのだが、アナトリア軍とその指揮官は防衛側に休息期間を与えるよりも、自軍の損失を容認する道を選んだのである。
 最早主戦域は、堀の向こう側ではなかった。巨大な堀は一部とは言え埋め立てられ、敵兵はそこを渡って城壁目掛け殺到する。守備側は限られた道筋に押し寄せて来る敵に攻撃を集中するも、背後から剣を抜いた督戦隊に追い立てられる彼らは死に物狂いの勢いで、城壁に蟻の群れのように取り縋って来る。飛び道具を放ち、攻城器具に身を任せて這い上って来る敵兵に対し、待ち構える守備隊は魔獣の炎や投石を駆使して対抗する。やがてそれでも対応し切れなくなると、縁に手を掛ける敵兵を槍で突き落とし、這い上がって来た者には戦い慣れた騎士や傭兵達が剣を手にして立ち向かった。白兵戦が始まると敵の攻撃は勢いを増し、殺到して来る飛行部隊を魔獣達や大弩が懸命に支える傍らで、戦士達が屍の山を築いていく。攻囲軍の死者は既に二万に達しようとしていたが、守備側も遥かに少ないとは言え、確実に戦力を消耗していった。
 十二月に入って間もなく、最初の降伏勧告がナッソスの街に送られた。迎え入れた使者達に対し、カルロはある程度の意欲は覗かせつつも、継戦の意思は固いと伝えて返す。示された条項がかなり厳しく、また信用出来るかどうかも確信が持てなかった為である。騎士達も「降伏など論外」と言う立場を堅持しており、現時点では受け入れられる余地は無かった。
 とは言え、状況の悪化が進んでいる事も事実である。戦闘は勿論、破損が目立って来た城壁の修理や地下攻撃への後始末、敵の魔獣隊に備えて展開する防御障壁の維持と言った要素は、確実に彼らの余力を奪っていった。特に防衛の要である『ひかりのかべ』などの使用を担当する、エスパータイプの魔獣達の疲労は深刻で、夜間も警戒を続ける必要上、状況の改善も到底望むべくも無かった。
 その後も一週間ごとに降伏勧告が示されていたが、十二月も終わりに近づいたある日、衝撃的な事実がもたらされる。予想だにしなかったその事態により、ナッソスの街は一方ならず動揺し、その防衛体制もまた、大きな転換を余儀なくされるに至るのである。
 街全体を震撼させたそれは、唯一の友邦であるロドス島の降伏であった。


 ロドス島のホスピス騎士団は、最早西欧でも唯一の独立した騎士修道会である。アクリの陥落で確定したオリエントからの潰走以降、名や体裁は保っていても王の配下に過ぎなかったり、聖地奪回とは関係の無い世俗の利権獲得に血眼になっている組織ばかりが残る中、ただ独り真っ向から異教徒と戦いつつ踏み止まったのは、彼らだけである。ナッソス騎士団とは共闘関係にありながら、その意向を左右する領主のカルロとは決して妥協しようとせず、彼の保護下にある交易船ですら襲う事を辞さなかった彼ら。その彼らが不倶戴天の敵である異教徒に降伏した事実は、否応無しに防衛戦に引きずり込まれたナッソスの人々を動揺させずにはいられなかった。百戦錬磨の騎士達ですら茫然と言葉を失ったほど、その衝撃は大きかったのである。
 ホスピス騎士団降伏の一報が届いた夜、直ちに招集された首脳会議は、不安と沈黙に満ちていた。カルロは元より騎士団長以下の騎士達も、孤軍となった深刻さは骨身に沁みて理解している。ロドス島遠征に投入されていた兵力は、常時十万を越えていたのである。大半が休息に回されるとしても、主戦力となった工兵隊や魔獣達、そして最強の兵団として知られるスルタン直属の親衛隊は、殆どがこの半島の一角にある小さな街に殺到して来る。スルタン本人が戦闘を見守る事態となれば、落城は必至と見るしかなかった。
 だが互いの温度差に関しては、尚大きな隔たりがあった。事此処に至っては、条件次第では開城も已む無しと見るカルロに対し、騎士団の主張は戦闘続行である。組織としての性質は勿論の事、最早正真正銘オリエント最後のともし火となった事に対する強い自負が、彼らに断固とした姿勢を貫かせる大義と責任感を与えていた。
 明敏な領主はその頑なな姿勢に強い懸念を抱いたものの、その時点ではそれが如何に強く恐ろしい物であるかを見抜くまでには至らなかった。時は千五百二十二年の、十二月の末であった。

 防衛側にとって、その年の新年は極めて重苦しいものであった。前年の、あろう事か一年で最も神聖な生誕祭の日に同胞が降伏した事実も相まり、人々の希望は打ちひしがれて、士気の沈滞は覆うべくもない。彼らの祈りも虚しく、若きスルタンも安息の地である帝都の宮殿に戻る事無く、直接新たな戦場に身を移して、戦闘指揮を執り行う決断を下す。大アナトリアの専制君主が姿を現したその日、防衛側は一切の攻撃が途絶えた城壁の上で、数をも知れぬ軍勢が夥しい獣達と共に繰り込んで来るのを、息を潜めて見守っていた。
 けれどもその翌日、改めて送られて来た降伏勧告を目にした時。城壁の内側の人々は、アナトリア帝国の指導者が現れた事に対する見方を、幾分改める事となる。勧告書に記された条文は内容がほぼ一新しており、その条件は驚くほどに寛大で、カルロ自身も我が目を疑うばかりであった。――後に彼らは、まさにこの寛大な方針こそが若きスルタンの英知であり、信仰心の権化たるホスピス騎士団の交戦意欲を揺るがせた最大の武器であった事を知るようになるのだが、この時はただ信じ難い思いのみが先行し、流石のカルロも詳細を詰める事無く使者を帰す。
 しかし、種子は蒔かれた。ナッソス攻防戦の幕引きに向けた動向は、此処から一気に加速していく事となる。――そしてそれは、消えゆく運命にあった中世騎士階級最後の光芒として語り継がれる事となるのを、その場に集う人々は皆、夢想だにしていなかったのである。


 降伏勧告の条文とは裏腹に、攻撃の規模は遥かに大きく、激烈なものとなっていた。地上に於ける神の代理人とされるスルタンの権威と存在は、一司令官のそれの比ではない。押し寄せる敵兵は文字通り死をも恐れず、味方の砲撃が続いていようが構わずに、遮二無二城壁に取り付いて来る。これまでは突撃の間は砲列も魔獣達の遠隔攻撃も沈黙していたのだが、スルタン臨席となってからはその様な配慮も不要のものと解釈されたのか、あらゆる戦力が一丸となって、ナッソスの城壁に雪崩れ込んで来た。
 防衛側の損失率も、それに従い飛躍的に跳ね上がった。これまでは独立して組織的に動いていた対抗策が、最早互いの様子を垣間見る事も出来ず、てんでに死力を尽して奮闘している。騎士や傭兵達は城壁の上を走り回り、そこら中で乗り込んで来つつある敵歩兵の迎撃に追われ、防壁担当の魔獣達は、片手間で肉薄して来た敵の魔獣に対応すべく、疲れに鞭打って技を繰り出す。空飛ぶ砂塵竜を狙っていた大弩が向きを変え、城壁の上に半身を覗かせたクリムガンを地獄の淵に突き落とすと、降り注いだ砲丸が瓦礫の破片を撒き散らしつつ跳ね飛んで、矢を放ったばかりのバリスタと操作員の一隊を、子供の石投げに使う的の様に押し潰す。城壁外に身を乗り出して炎を吐いていたリザードの右目に銃弾が直撃し、悲鳴と共に引っ繰り返って息絶えるパートナーの傍らから、怒りに燃えた街の守兵がテラコッタ製の器を抱えて走り込み、下に向かって投げ落とす。ギリシア火炎薬が充填された陶器の壺は寄せ手の真っ只中で炸裂し、飛び散った炎が人獣問わず包み込んで、梯子を立て掛けようとしていた一帯を即席の火刑場に変貌させた。
 過酷な攻防が日没と共に終了すると、守備側の兵は後方に引き上げる事も出来ず身を横たえ、その場で死んだ様に目を閉じて、戦いの後始末に必要な気力が満ちるのを待つ。言葉に出す事はなくとも、誰もがこのまま行けば破局はそう遠くはないと感じていた。

 スルタンから二度目の使者が送られて来た時、カルロは騎士団側とも協議した上で、三日間の休戦を提案する事にした。折り返し使者が訪れ、受け入れると回答したのを受けて、カルロはかねてから予定していた通り、自ら直接交渉の席に立ちたいと申し入れる。当時としては非常に思い切ったこの意思表示に、アナトリア側もやや面喰ったらしいものの、身の危険を恐れず重ねて申し入れたカルロの姿勢に感銘を受けたと見えて、交渉の場をナッソス市内に指定する事でその意に応えた。これもこの手の交渉の形式としては、全く異例の決定である。
 実際の交渉の席では、領主側と騎士団との折り合いが不十分な事もあり、条件の提示を受けた上で互いの意思を確認し合う以上の進展は見られなかったが、その席上でカルロは決着を急ぐアナトリア側の意向と、その背後に見え隠れするスルタンの思惑を、おぼろげながらに感じ取る。――商人としての彼の勘は、この降伏勧告が破滅への旅程ではなく、実質的な和睦交渉に近いものである事を告げていた。
 既に三万人を優に超える損害を出したアナトリア側の提示条件は、次の通りである。

 一、ナッソス領主は街と領土の主権をアナトリア帝国に明け渡し、派遣された代官にその全権を委ねる事。
 二、ナッソス領主はこれまで通り街に留まる権利を有し、統治に関して帝国代官への助言を認める。またその活動及び私的財産については、帝国側は一切干渉を行わない。
 四、ナッソス領主が当地を退去する場合は、必要とされるもの全てを自由に持ち出す権利を有する。またアナトリア側は必要ならばそれを支援し、輸送手段についても最大限の援助を行う。
 三、ナッソス騎士団は街を退去し、当地における全ての権益を放棄する事。
 四、ナッソス騎士団は必要とされるあらゆるものを域外へ運び出す権利を有し、アナトリア側はこれを一切妨害しない。また輸送手段についても、領主と同様の支援が与えられるものとする。
 五、騎士団については退去の準備期間として、半月の猶予を認める。領主については退去の意思・時期共に領主側の判断に委ねる。
 六、ナッソス住民及び城内の近隣住民への制裁は行われず、その生命財産はスルタンの名において完全に保証される事を約束する。
 七、ナッソス住民の中で当地を去りたいと希望する者は、向こう三年間に限り自由に退去する事を許す。
 八、在留する者に対しては、向こう五年間に渡り税の半分を免除する。またアナトリア領域下における非アナトリア人に課せられる年貢金についても、当地においては支払い義務を免除される事とする。
 九、ナッソスに残る西方教徒には、完全な信教の自由を保障する。またアナトリア領域下における異教徒に課せられる人頭税についても、当地においては支払い義務を免除されるものとする。これはその他の異教徒についても同様である。
 十、以上の条項は今後五十年間は絶対に変更される事は無く、その後も最大限維持される事を此処に明記する。

 事此処に至って、カルロは悟った。あのホスピス騎士団が何故憎むべき異教徒に膝を屈し、最後の砦であったロドスの地を放棄したのかを。
 降伏勧告の内容を知った住民が動揺の色を示し始めたのは、条項の内容を布告したその翌日からだった。

 騎士団の意志は明確で、揺らぐ余地も無いものだった。聖地を臨む最後の拠点であるこの土地で、最後の一人まで殉教する――それが数百年に渡り異教徒との戦いを続け、その生涯全てを神に捧げて来た男達の、唯一無二の願いである。存続の為であるとは言え常に領主の制約を受け、二百年もの間騎士として地を駆ける事を手控えて来た彼らにとり、この戦いは単なる存亡の問題ではなく、彼らが関わって来た全ての事象の帰結点であった。
 一方街の住民達にしてみれば、そんな騎士達の誇りと美意識など、現実から乖離した狂信者の自慰感情に過ぎなかった。彼らは同じく理想を掲げたカルロの熱烈な支持者だったが、それはあくまで彼が自分達の庇護者であった為であり、今自分達が生活しているこの街を、より望ましい方向に進めようとしていたからに過ぎない。個人への敬愛はあったが、その理想に共感している者は、サリフを始めほんの一握りの人々に限られていた。
 そして領主のカルロはと言うと、優れた交渉能力や先見性を備え、両者を共に歩ませるだけの影響力はあったものの、彼個人の資質と言う点に関しては、真の危機管理能力があったとは評し難い一面があった。彼は人の良い男だったが、それ相応に優柔不断な性質も持っている。為に強権的な働きかけが出来ず、騎士達の手を縛り切れぬまま暴走を許し、今の事態を招いてしまっていた。自らの作り上げた機構を過信し、その効用は存分に発揮しつつも、根本的な部分において認識の甘さを露呈してしまってもいた。
 その決断力に欠ける人物が、此処に至って再び深刻な亀裂に直面し、乖離する一方の二つのグループを纏める役目を課せられたのである。真のリーダーシップを持ち得ぬ人物がこのような場に至った時、繰り返される形式は決まっている。双方に対し譲歩を呼び掛け、その上で何とか自分の意思に近付けようと工作する。……それは時間が十分にある時は妥当なやり方だったが、緊急を要する場面においては、事態の急変に間に合わなくなる危険性を常に孕んでいるのだった。

 それでもこの時点では、事は何とか収まりそうな気配を見せていた。騎士達は度重なる戦勝によってある程度誇りを満たされ、住民達にもまだ戦う余力は残っている。スルタンは自由都市であるナッソスの性格を尊重する姿勢を見せており、騎士団に対しても名誉ある降伏を保証して、可能な限りの譲歩を約束していた。互いの擦り合わせに必要な心の余裕は残っており、この手の交渉術に関しては、商人として生きて来たカルロには絶対の自信がある。
 そしてそんな中最悪のタイミングで訪れたのが、サリフの死とその裏切りについての、騎士団からの報告であった。


 サリフが敵方に内通していたと聞かされた時、カルロは勿論同席していたアルマでさえ、その報告をもたらした使者に対して詰問せずにはいられなかった。久し振りに顔を合わせたラヴァルの表情は硬く、引き結んだその口元は頑なで、瞳には迷い以上に強い意志の光が、不屈の輝きを宿していた。
「彼が敵方に通じていたのは間違いない。マメパトに書を括り付けている所を、直接押さえられたのだから」
 次いで彼は、サリフを手に掛けたのは自分であり、騎士団としてもこの事態を見過ごす事は出来なかったと言い添える。常日頃から見知った相手であり、決して険悪な間柄でもなかった少年を切って捨てたと知らされて、アルマは到底信じられぬと言う思いで、目の前の命の恩人を凝視する。彼は異教徒の少年に対しても礼儀正しかったし、サリフ自身も彼に関しては「神も過ちを許されるだろう」と、別格とすら言える好意的な見方をしていたのである。
「だからと言って、その場で殺したと言うのか? 私に一言も知らせようともせず……? ……もし必要なら、私が自分で手を下しただろうに!!」
 カルロには、友の考えが読めていた。サリフは自分の息子とも言える程の間柄だったし、それは街の人間にとって誰一人知らぬ者はいない事実である。もしサリフが背後関係の究明の為拷問され、万が一カルロの名前が出でもすれば、友人の立場は愚か防衛側全体が崩壊の危機に直面する。最早なりふり構わずに、彼を殺すしかなかったのだろう。
 だが頭では理解出来ても、感情を押し留める事は難しかった。彼は少年の成長を見守っていたし、恵まれなかった家族の情を、相手に注いで憚らなかった。自分の下に送られて来たとして、果たして手を下せたかどうかは確かに心許無い。……だが彼は領主であったし、その為の決断からは逃れられなかった。ならばせめて最期に伝えるべき事柄だけは、人として伝えて置きたかったのだ。
「彼の遺骸は引き渡そう。本来なら城壁に吊るされるべき罪人だが、これが我々として貴方に出来る、精一杯の譲歩だ」
 彼は最後に「騎士団としては今回の出来事を鑑み、今後降伏に関する一切の交渉を拒絶する」とだけ言い置いて、足早に部屋の外へと去っていった。

 休戦の三日間が過ぎても、アナトリア側の攻撃は尚差し控えられていた。だが四日目にサリフの死と騎士団側の決別が告知されると、スルタンは彼が保有する最強の兵団に対し、攻撃の再開を命じる。大アナトリアが世界最強の軍団と自負するそれは、皇帝直属の親衛隊イエニチェリの、一万五千に及ぶ大軍であった。


 ナッソス攻防戦において最大の激戦となったその戦いは、千五百二十三年の一月二十日に始まった。
 肌に冷たい早朝の冷気を切り裂いて、両軍の砲撃の応酬が戦闘の先触れを告げる。防御障壁を張る守備側の魔獣達は休息期間を得て大いに増強されていたが、今回は攻撃側の技の威力に最初から押され気味だった。イエニチェリ軍団直属の魔獣達の練度は、徴兵によって掻き集められた一般兵卒付きの魔獣達とは比べ物にならない。耳を立てて必死に念波を送る猫達が、何とか防壁到達前に技を食い止めようと奮闘する中、黒い津波の様に押し寄せて来る敵兵に向け、胸間城壁からあらゆる攻撃が注ぎ掛けられる。大砲から放たれた石玉は密集した敵勢を小虫の様に押し潰し、バリスタから放たれた矢はあるものは飛行する魔獣を打ち落とし、あるものは的を外して地面を滑り、進路上の人間の足を引き千切って肉片に変える。火炎や稲妻も引っ切り無しに浴びせられ、炎に包まれた軽装の兵が絶叫と共に転げ回って、黒焦げの死体と共に進路上に溢れた。損害続出する異教徒の非正規兵に続いてムスリム信徒の正規兵が投入され、持ち前の狂信を支えに城壁にまで到達すると、降り注ぐ味方の砲弾によって飛び散る瓦礫や防御側の反撃も恐れず、魔獣達の援護を盾によじ登っていく。戦死者は瞬く間に二千人を越えたが、寄せ手の勢いは増すばかりである。
 屍の山を乗り越え、正規軍の兵卒達が飛行部隊の支援の下に城壁を登り詰める姿が見られ始めた所で、更に待機していたイエニチェリの精兵達が、満を持して進撃する。予め数日前から断食を行い、攻撃精神の極致に達していた皇帝直属の精鋭達は、降り注ぐ砲弾の中でも一糸乱れぬ行進を続け、突撃の瞬間まで一切動揺の気配を見せない。彼らが喚声と共に城壁に殺到すると、共に前進して来た魔獣達も、我先にと城壁の上部目掛けて突っ込んで来た。
 イエニチェリ軍団の魔獣達は、主人ら共々城攻めに熟達していた。砂塵竜が巻き起こした砂嵐が視界を遮る中、陸鮫が高速で飛来して城壁に降り立ち、下方に気を取られている守備の兵士や魔獣達を、圧倒的な実力で薙ぎ倒していく。迎え撃つカルロ直属の兵士達も精兵と言う点では引けを取らなかったが、砂塵を利して姿をくらませる陸鮫達の攻撃は、彼らの大弩ですら容易には捉えられなかった。
 至近の相手を射ち損ね、慌てて継ぎ矢を準備する彼らを、狙われたガブリアスが憤怒と共に襲撃する。手近の相手を引き裂こうとした彼に対し、護衛に当たっていたルカリオが間一髪間に合って、波動で察知した相手に横合いから飛びかかると、無防備な脇腹に渾身のはっけいを叩き込む。打ち込まれたエネルギーに内臓を破られ、蒼い狗人を振り飛ばしながら苦悶の咆哮を上げる陸鮫は、操作要員達の放つ矢玉を全身に浴び漸く力尽きた。

 やがて遂に守りの一角が綻んだと見え、攻撃が集中していた北側正面の砦に、敵の旗が上がったと言う報告が入る。敵味方の兵が北部に集中する中、騎士団長率いる騎士団最後の遊軍部隊も、領主カルロが直率する予備兵力と共に急行する。領主の私兵は皆城壁に張り付いており、カルロの手勢は全員が港の守備に向けられていた市民兵だった為、勢い戦いの矢面に立ったのは、団長のラグネルを先頭に立てた騎士達の混成部隊であった。
 領主の率いる石弓兵に援護されて砦の中に突入した騎士達は、即座に内部で行われていた白兵戦の大渦に巻き込まれる。圧倒的な戦力差に喘いでいた味方の兵は、騎士団長直々の救援に一時に生色を取り戻したものの、騎士達と同じく生涯妻帯を許されず、幼少期から神とスルタンのみに忠誠を捧げて生きて来たイエニチェリの精兵達は、戦力の逆転にもいっかな怯む気配は無かった。彼らは元々アナトリア領内の西方教徒達の子息で、僅か七歳ほどで親元から引き離された後に強制的に改宗を受け、パートナーとなる魔獣達と共に、スルタンの下で戦う事のみを目的として育てられている。特殊な生い立ちがもたらす狂信と忠誠心は、生涯を掛けて磨かれた戦いの技と相まって、並みの戦士では到底及ばぬ恐るべき戦闘力を発現させた。無論、唯一の家族として生活を共にして来た魔獣達も同様である。
 対する騎士達と従者を務める魔獣達も、同じ様な立場だけあって全く遜色は無かった。出口を塞がれ寧ろ狂乱の度合いを増した親衛隊の兵士達に対し、我先に自らの相手を選んで切り込んでいく彼らの間で、壮絶な乱闘が展開される。騎士団長も自ら先頭に立ち、幾代にも渡って仕えラグネル家の歴代当主を見守って来たギルガルドのリッシュモンも、その傍らで盾となって離れようとしない。ラヴァルにランシエ、エーヴルにポルトと言った主従達も、相手取った敵兵を次々と斃し、続々と雪崩れ込んで来る敵の新手を喰い止めようと、砦の入口で剣を交える。
 剣と剣の戦いが続く中、砦の外部ではカルロ率いる応集兵が、後詰に駆け付けた領主の私兵部隊と共に、懸命の反撃を行っていた。剣では抗すべくもない彼らを、カルロは巧みに矢を放つ対象を見定める事によって、最大限に活躍させる。飛行しているものなど難しい標的は私兵達に任せ、よじ登って来て砦に繰り込もうとする集団を横合いから狙い撃つ内、漸く内部での戦闘が有利に傾いたと見えて、掲揚されていたアナトリア帝国旗が引き摺り下ろされ、傭兵達に踏み付けにされた。

 砦の奪還が漸く終わりを迎えつつあった時、フローゼルのカリスはポルトと共に、敵方の魔獣達を掃討して回っていた。騎士団所属の仲間達の中でも最も身が軽く、海の戦いでは船団の指揮官を務める男のパートナーでもある彼は、本来の役目である港の守備から急遽引き抜かれ、援軍として派遣されて来たのだった。傍らのブリガロンも騎士団の魔獣達の中では最も膂力に優れた戦士であり、彼らの存在は敵であるアナトリアの兵士達の間も有名であった。
 そんな彼らに向け、場に残ったアナトリアの魔獣達はせめて最後の道連れを作ろうと、捨て身の覚悟で襲い掛かって来る。対するカリスはその短い脚からは想像も出来ない様な身のこなしで立ち回り、先手先手と攻撃を加えて、敵の鋭鋒を未然に挫いた。
『毒針』を飛ばそうとしたドクロッグは、技を放つ前に脇下から逆袈裟に『きりさく』を受け、続くキリキザンは『アクアジェット』に反応し切れず、顔を裂かれて視力を失う。素早く地を蹴り向きを変えたフローゼルは、閃く毒鞭を鮮やかにかわし、石の壁面を蹴飛ばしながら反転すると、尚も『マジカルリーフ』で追撃を狙うロズレイドに向け、飛燕の如く逆襲を加える。蔓を操る片腕は斬り落とされ、揺らぐ胴体にもう一撃を叩き込むと、『ダブルアタック』をまともに受けた親衛隊付きのブーケポケモンは、緑色の体液を奔騰させてくず崩折れた。
 一方のポルトは、キリキザンに止めを刺した直後に背後から急襲され、苦戦中だった。一対一では引けを取らぬ彼もスピードには恵まれず、同時に複数から攻撃されるとどうしても応じ切れずに、守勢に回らざるを得ない。背中に飛び乗ったレパルダスの牙は頭の甲羅に阻まれたものの、バランスを崩された彼は踏み止まろうした所で、しなやかな尻尾に脇腹を強か打ち付けられる。『アイアンテール』に急所を突かれ、えずきと共に膝突く彼に爪を振り上げる猫豹に対し、カリスは間一髪『ソニックブーム』を命中させて、手を着き息を喘がせる友人の危機を救う。
 だが、完全に意識が逸れていたこの隙に、今度は自分が狙われた。側面から体当たりして来たサンドパンに為す術も無く突き転がされた彼は、戦い慣れた手練と見える砂鼠に起きる間も無く跨られ、胸元に爪を突き立てられる。一抉りされて引き抜かれた『ブレイククロー』は肺の動脈をまともに引き裂き、既に毒の棘によって侵されていた海鼬は、そのまま反撃に及ぶ事も無く力尽きた。
『カ……カリス!!』
 何とか立ち直ったブリガロンが慌ててそちらに駆け寄る一方、サンドパンは傍に倒れている一人の兵士を抱え上げると、レパルダスに向け頷いて見せる。後を追おうとするポルトの前に立ち塞がった猫豹が、騎士側の攻撃を一手に引き受けて斃れる間、主人を引き摺る砂鼠が砦の外に避退したのを最後に、北側砦の争奪戦は騎士達を中心とする守備側の勝利で決着した。

 終日に渡ったその日の戦闘で、アナトリア側は精鋭部隊を含む一万四千の損失を受け、その後数日間は攻撃を手控える事となる。一方の守備側も死者は四百名を越え、その中には砦の外で砲弾の直撃を受けて落命した、騎士団長のジョルジュ・ド・ラグネルが含まれていた。


 翌日送られて来たスルタン直筆の親書には、この上抵抗するならば当初の意向を撤回し、落城の場合は住民の皆殺しもやむを得ないだろうと結ばれていた。激戦の反動は大きく、アナトリア側も即時の再攻撃を行う事はなかったが、先日の戦いで多くの仲間を失っていた市民兵達の動揺は激しく、最早カルロの存在を持ってしても、士気の高揚は望むべくもなかった。敬愛する指導者を失った騎士達は最早自己保存の意識を完全に失ったらしく、カルロの降伏についての交渉要請には一切応じようとしない。遂に此処ナッソスの地でも、階級間の分断は決定的となったのである。
 アナトリア兵の戦後処理の凶暴性は、誰一人として知らぬ者はいない。帝国によって吸収され、その前身の一つとも言えるムルク朝がアクリの街を占拠した時、街の住民はほぼ全員が殺されるか奴隷に売られ、その数が余りに膨大だった為、少女一人が銀貨一枚にすら値しなかったと言う。今回は実際に皆殺しを警告しているのだから、恐怖は遥かに深刻だった。
 そんな状況を見越しているのか、その翌日も降伏を勧める使者がナッソスの街を訪れる。そして、何時次の攻撃が始まるか戦々恐々としている住民達が見守るその中には、意外な人物が含まれていた。

 書の受け渡しならば城壁で済む筈の所を、真っ直ぐ領主の館まで通されたその男は、一年近く顔を会わせていない友人に向け、屈託の無い笑みを浮かべた。
「久し振りだ、友よ。船を忘れて来たのは初めてだが、今回ばかりは許して欲しい」
「変わらないなシャヒーム。まぁ見ての通り、此方も準備が出来てないのは同じだ。どうか気を楽にしてくれたまえ」
 嘗てと変わらぬ友人の態度に、カルロも思わず疲労を忘れ、軽い口調で調子を合わせる。聞き慣れた友の気を置かぬ振る舞いが、今更のように有り難く感じられた。
「今回は支度に金が掛かってな。品物を仕入れる余裕も無かったのだ。此処に入るには随分骨が折れたよ」
 シャヒームの言葉に、カルロは無言で頷く。常識で考えて、彼の身分でこうした重要な席に立ち入る事は決して出来ない。余程のコネが無ければ、皇帝の親書を託される様な立場に身を置ける筈がないのである。彼の言う骨折りとは、アナトリアの大臣達へ嗅がせた鼻薬に違いなかった。
「スルタンは英明であらせられるが、大臣共は必ずしもそうじゃない。わしは勿論此処を贔屓にしてる者が総出で動いて、漸く潜り込めたのだ。……だからこそ、この機会を無駄にしたくない」
 声音を落とし真剣な表情になった髭の友人は、カルロの目を真っ直ぐ見据えて話し掛けて来る。
「此処らが潮時だ、カルロ。降伏して開城しろ。城外の兵力はまだまだ豊富だし、魔獣だってどんどん増やせる。集積した物資で城が立つほどだ。お主でもあれは想像がつくまい」
「見て来いカルロ、と言う訳か」
 苦笑して応じる領主だったが、目の内は笑っていない。アナトリア帝国の底力は、長年交易して来た彼が一番良く知っている。
「サリフの事は聞いている。……惜しい奴だった」
「その口振りじゃ、何か知ってるようだな」
 友の口から発せられた言葉を聞いた時、カルロは瞬時に厳しい表情に立ちかえると、相手に対して質問を返す。果たしてシャヒームは難しい表情で頷くと、「わしがやらせた事ではない」と前置きしてから話し始める。
「サリフは去年の攻撃開始からずっと、此方に情報を流していたのだ。元々わしに送る商談に言付けて、いざと言う時は戦いを短期間で終わらせたいのだと言う理由でな。……勘違いしないで欲しいが、わしは止めたのだ。あんな子供に、そんな危ない橋は渡って欲しくない」
「……」
「だが、奴は聞かなかった。協力してくれなきゃ独力でやると言い出して、已む無く手を貸したのだ。……あいつはお主の立場を心から気にかけておった。戦争が長引けばナッソスは廃墟となり、お主らは罪人としてアナトリアの手で処刑される。逆に早期に戦いが決着すれば、街は破壊される前に残り、お主の身の上も何とか保てるだろうと」
「……馬鹿者めが」
 吐き捨てる様に呟いたものの、カルロが憎しみから言い放った訳でないのは、シャヒームには痛いほど良く分かった。――彼が怒りを覚えたのは、他ならぬ自分自身に対してだとも。
「カルロ。スルタンは、イマーン様は偉大な御方だ。わしは此処に来る前特に許されて拝謁を賜ったが、御言葉に嘘偽りは無いと感じ入ったぞ。彼はこの街の存在価値を理解し、お主の誠実な対応に感心しておられる。当初は騎士達の暴発などと言い訳をしてと腹を立てたが、交渉の際の提案と言い周辺の住民が身を寄せた事と言い、信用のおける人間の様だと。彼は今本心から、街の存続を望んでおられる。取り返しが付かぬようになる前に、降伏を受け入れるのだ」
 赤心から忠告していると分かる友人の言葉に、カルロはただ黙したまま、口元を引き結び腕を組む。……その場では応とも否とも答えなかったが、彼の腹はもう決まっていた。

 翌日、カルロは独自の判断でアナトリア側に三日間の休戦を提案すると、そのまま騎士団の本部へ使者を送り、会議の招集を要求した。折り返し包囲軍からの了承が届くと、彼は配置についていた騎士達がまだ帰還する前に居館を発ち、直接本部へと乗り込んでいく。無理矢理開催させた交渉の席は緊張した空気に満ちていたが、彼はいっかな怯む事も無く、「領主の立場として、事此処に至っては最早開城は避けられぬ」と強い調子で告げた。
「この上の抵抗は無意味だ。住民は動揺の極みにあり、今後は招集に応じるかも怪しいだろう。彼らの協力が無ければ、兵力は五分の一にも満たない。城壁は修復出来ず、坑道を察知する事も対処する事も叶わない」
 騎士団長を欠いた騎士団首脳には、本来なら代表して答える者がいない。だがこの議上では、秩序さえ保てば自由に発言して良いと、カルロは予め一同に通達してあった。ややもして、事実上の副団長の立場にあったブリテン島出身の船団指揮官が口火を切る。
「意味についての論議を我々は求めていない。この地を明け渡して逃げ伸びる事自体が、我々には受け入れ難い提案である」
「それが理由で住民の虐殺を容認する事は断じて認められない。彼らを救う手立てが残っている以上、私には手を講じる義務がある」
 カルロの言葉に、今度は別の騎士が反論する。住民はカルロの所有物であり、そもそもの決定は彼の一存でなされるべきであると言う論である。――これは決して暴論ではなく、当時の貴族階級にとって、寧ろ普遍的な考え方と言って良い。領主は施政権や徴税権は勿論裁判権も有する絶対の存在に近い立場であり、極端な話になると趣味で殺人を犯した場合でさえ、それ自体が問題視されて罰せられる事は無かったのである。
「この地を明け渡すか否かは、一重に貴方の意思によるものだ。栄光ある銀杖伯以来の末裔として、是非光輝の道を外れる事の無い様御決断なされたい。御先祖の願いもこの地を賜った教皇庁の思いも、その選択を祝福される筈である」
「英祖タッキーニの名を汚すつもりはない。……だが、時代が変わった事も事実なのだ。聖地への巡礼活動は保証された権利であり、アナトリア側もそれは認めている。此処で無辜の血を流し尽くすよりも、私は彼らの子孫を以って聖地への道程を辿らせる事を選択したい」
 だがこの言葉に、怒りを表した者がいた。卓上に身を乗り出して発言したのは、クノエの騎士ことルネ・ド・エーヴルである。
「時代が変わったとはどういう言い草か!? 聖地が我らが支えである事は変わらず、神の教えも何一つ変わってはいない。異教徒の存在も、我らの戦いの意義も同様である。十字軍の栄光から様変わりしたのは、ただ貴方がたの心の内だけではないのか? ……やはり所詮は商人貴族だ。青い血の流れぬ者に、戦いのなんたるかが分かる筈も無い!」
 この発言に、カルロの側も激怒する。内に宿していた自らへの怒りが化学変化を起こし、目の前の相手に向かうのを自覚しつつも、彼はその勢いを押し留める事が出来なかった。
「過去の栄光の正体が分かって言ってるのか!? 神の戦士と呼ばれた十字軍諸隊がどのような災いをもたらしたのか、悪徳と血で購われた旅路の姿が如何様なものか、私はちゃんと知っている!!」
 彼は知っていた。あの時何が起きたのかを。あの栄光がどれだけ血塗られたものだったのかを。始祖タッキーニは敬虔な信徒だったが、同時に生粋の商人でもあった。商人はその性質上、記録を残す。敬虔であるが故に堕落を忌み嫌ったタッキーニは、熱情と理想に満ちた内心を綴りながらも、遠征の大義を信じながらも、その途上で行われた背徳行為の数々を、包み隠さず記録の上に書き残していた。幼い頃から館の諸記録を読みふけるのが趣味の一つだったカルロは、そこに綴られたおぞましい実態に触れたが故に、ナッソスの街を今の姿に導こうと決めたのだ。――凡そ物心に限る事無く、貧困こそが人の心に悪魔を生み出す、無二の存在であると信じて。
 彼は怒りに任せて語り続けた。十字軍が如何に不当な行いで、現地の民衆を恐怖の底に突き落としたかを。貧しく資源の乏しかった当時の欧州諸国には遠征軍に満足のいく物資補給が出来なかった為、食料に窮した数万の大軍は行く先々で徹底した略奪と殺戮を行い、打ち殺した魔獣は愚か住民の肉ですら食らいながら、町から町へと移動していたのである。同行していたパトロンの商人達は物資の補給と引き換えに略奪品を欲しいままにし、飢えた兵士達を余所に旨い汁を啜りながら次の町への道筋を教え、人肉さえも売り捌いて利益を得た。貴族階級は奪った土地に勝手に建国し、その途上で夥しい同胞や異教徒達が命を落とした。
 目的を達し聖地の奪回を果たした後、これらの現実は尽く美化されるか正当化され、栄光に満ちた戦いの詩だけが残った。蛮行は消され神話が蔓延り、今ある現実だけを見据えて、正義の根拠に割り振り語る。その姿勢の恐ろしさと愚かさについて、カルロは余す所無く吐き出し続けた。
 最早誰も発言しようとはしなかった。議論の雰囲気は完全に破綻し、怒りに満ちた場の空気が、関係の決裂を告げている。
 退出するに当たり、最後にカルロはこの場におけるただ一人の友人に、ほんの一瞬だけ視線を向ける。同じく此方を見ていたラヴァルの瞳の内には、何の感情も読み取る事は出来なかった。


 領主と住民の代表が、騎士団とは別に和平交渉を行うと決まった時。アルマは一人その決定を納得出来ず、カルロから事情を聞かされても、抱える思いを清算出来ずにいた。カルロは無二の恩人だが、直接命を救ってくれたラヴァルにも、彼女は未だに深い思いを抱き続けている。確かにサリフを殺したと聞いた時は衝撃的だったが、あの時彼の瞳の内には、紛れも無く苦痛の色が感じられたのだ。明敏なカルロが、その兆候を見逃していた訳は無い。彼女は未だ、あの日の事を――彼らが親友として笑い合っていた時の事を、鮮やかに思い出す事が出来た。
 そして遂に彼女は、準備に追われる領主の館を抜け出して、単身騎士団本部に向かう事を決意する。誰にも知らせず館を抜け出た彼女は、この地に残った唯一の家族、ドレディアのフィオーレだけを連れて、あれからずっと足を向ける事の無かった場所へ向け、真っ直ぐに歩き続けた。

 到着した騎士団本部の雰囲気は、極めて物々しいものだった。厳重に警戒する傍仕えの達の様子に、アルマは大いに戸惑ったものの――後から考えれば、そのまま引き下がるべきだったのだ――ラヴァルと話す機会を得たい一心で、こっそりと建物に忍び寄る。元々、隠れ遊びは得意であった。
 ところが中庭の辺りまで入り込んだ時、この辺で良いだろうと座り込んだ彼女の目の前で、不意に完全武装の騎士達が集まり始め、中庭に整列した。ずらりと並んだ甲冑姿の男達に対し、集団を代表すると思われる数名の騎士が、彼らの前で指示を与え始める。語られるその内容にアルマは圧倒されると共に、抜き差しならぬ状況に足を踏み入れてしまったと臍を噛んだ。
 直後、見回りに当たっていた従者の連れたグラエナが、鋭い唸り声を上げる。風向きが変わり居場所がばれた彼女達は、最早これまでと観念しつつ、その場を動かず捕えられるのを待った。
 しかし場の緊張は、アルマが思ったほどに生易しいものではなかった。駆け付けた傭兵は相手を引き据えようとするよりも、秘密を知った者の口を塞ぐ方が優先事項であるらしく、彼女達の姿を見る前に、既に手にした剣を振り被っていた。彼が植え込みを掻き分けて現れた時、アルマはその殺気溢れる姿に恐怖して、思わず腰を浮かしかける。男はてっきり逃げられると思ったのだろう。逆上した表情で真っ直ぐ剣を振り下ろし、少女目掛けて斬り掛かって来た。
「ガキン!」という音がして、男の剣が弾かれる。身を縮めるアルマは先ず助けられた事を知り、次いでそれはラヴァルに違いないと、弁解の言葉を探しつつ顔を上げた。
「お前は愚かだ……!」
 ラヴァルではなかった。傭兵の男に剣を収める様に言い、彼女に向けて吐き捨てる様にそう呟いたクノエの騎士は、駆け付けて来た騎士の一人に対し、捕えた両者を連行する準備をするよう命を下した。


 ナッソスの街には、市街を囲む主城壁の他にもう二つ、防衛拠点に出来る場所があった。
 一つは一般の住民と騎士達の居住区を分ける、区分用の隔壁である。この壁は必要ならば防衛線としても機能するよう作られており、騎士団本部を拠点に一定の防衛ラインを張る事が可能であった。けれどもその堅固さにおいては、もう一方の予備陣地には比べるべくもないものである。
 二つ目の拠点は、港のただ中を真っ直ぐ海に向けて伸びている、跳ね橋の先の小島であった。海に浮かんだこの小さな島には小さな城ほどもある堅固な砦が築かれており、これが港の防備を一手に担うと共に、全ての防備を破られた際の最後の抵抗拠点として立て籠もれる様になっていた。備蓄食料や飲料水も幾らかは此処に保管されており、主城壁には及ばぬものの、一定の防御力向上処置が繰り返されている場所でもある。
 領主と住民の脱落によって主城壁が維持出来なくなった今、騎士団は領主所有のこの砦を奪い取り、最後の抵抗を試みる事に決めたのであった。

 砦の奪取は、休戦が明けるその前日に行われた。既に領主側と攻囲軍の交渉はほぼ纏まっており、休戦終了と同時に開城する為、騎士団に対しても降伏勧告を受け入れるよう、カルロから要請が来ていた。アルマは表向き騎士団にその要望を「個人的に」伝えに来たのだと説明されており、領主側はその言葉と彼女の不在を、騎士団側が客人の説得によって降伏に傾きかけているものと解釈してしまっていた。
 為に、本来は難攻不落である筈の要害は、実にあっさりと騎士団側の手に落ちてしまう。カルロがその報告に茫然としたのは、一月も終わりに近付いた二十六日の深夜であった。

 翌朝、騎士団決起の報に接した住民達は、これで全てが終わるのではないかと言う不安を前に、半ば恐慌状態に陥っていた。カルロは直ちに住民達に落ち着いて身支度をするよう呼び掛け、加えて開城の交渉相手であるアナトリアの皇帝に、不測の事態を包み隠さず報告する。
 この知らせに対しスルタンは大いに激怒したものの、その一方でこの三十を手前に控えた若き専制君主は、持ち前の自制心を決して曇らせる事は無かった。一時の激情を静めた彼は、この事態は寧ろ頑迷な騎士達と領主以下の住民を隔てる良い機会であると考え、カルロに予定通り開城せよと申し送る。市街での不測の事態と予想される戦闘行為への影響を鑑み、住民の一部を一時的にアナトリア軍の天幕に収容するとの命も下され、予め避難の準備を始めていた海側の市民は、城外に出るべく荷造りを急ぐ。
 騎士達の説得の為尚二日の猶予を願ったカルロの要請は、今回は拒絶された。

 アナトリア軍の進駐は、その規模を考えれば驚くべき静粛さを以って実施された。海側の市民が八か月ぶりに開かれた門を潜って城外の指定区域に集合し終えると、代わって三万を越えるアナトリア軍の正規兵が、市内の区分隔壁を前に陣を張る。イエニチェリ軍団も八千名が布陣を終えて、後はスルタンの攻撃指令を待つばかりになった。
 冬の到来と共に弱体なアナトリア海軍は所定の港に引き揚げており、戦闘は全面的に、精強を持って鳴る大陸軍国アナトリアの歩兵部隊の手に委ねられていた。

 両者の戦端は、翌日突出して来た騎士達の遊軍部隊によって開かれた。既に援軍の望みも無く、限られた地域に魔獣達の生み出す障壁の援護もろくに無い状態で立て籠った彼らにとって、ただただ持久戦に徹する意味はもう無かった。隔壁から矢を射込んで来た小部隊に対し、アナトリア軍は我先にと門を潜って突入し、敵影を求めて駆け走る。そうやって突出した彼らに向け、騎士達はほぼ二百年振りに騎乗した姿で攻撃を仕掛け、大半が初めて活躍の場を与えられ勇躍する愛馬達と共に、思う存分疾り回った。
 やがてイエニチェリの精鋭達も到着し、圧倒的な戦力差から押され始めると、騎士達は思い思いに後退しつつ、ある者は馬上から石弓を放ち、またある者は思い煩う事も無しと、敵中に駆け入って最期を飾った。
 街中での戦いは夕暮れ時にまで及んだが、その頃には出撃した者も殆どが疲れ切り、互いの援護も出来ぬ状態で、走り込む様に砦に続く橋を渡った。渡り口付近を急襲した敵の一隊により、多くの騎士達が取り残されかけた場面があったが、唯一匹踏み止まった魔獣によって、退却路は死守される。
 最後の味方の一隊がこの魔獣を助ける為に加勢しようとしたが、姿が埋まるほどに取り付いた敵の魔獣の群れが、その試みを諦めさせた。――主と共に殿に属していたシュバルゴのランシエが最後に見たのは、複数のマニューラやヘルガーに押し詰められたギルガルド、リッシュモンの姿であった。

 砦に籠城した騎士達に対し総攻撃が企図されたのは、その二日後の事である。前日は一日中空地から攻撃が加えられ、島を巡る城壁に多くの損害を与えたものの、中枢への攻撃は騎士団側も限られた障壁を有効に重ね、容易に有効打を許さない。塔に籠った射手達の善戦もあり、最早早期決着は、白兵戦の実施以外に無いと結論付けられた。


 総攻撃に至るまでの二日間、アルマはフィオーレと、奇しくも半月ぶりに再開したサリフのパートナー――コリンクのサラーと共に、砦の奥の一室で幽閉の日々を送っていた。サラーはサリフの死んだ後、カルロが引き取って世話をしていたのだが、戦況の逼迫に止むを得ず補助戦力として、海側の抑えであるこの砦に送られていたのである。騎士団が攻め入った際は守備に当たっていた傭兵達が次々と降伏して味方に加えられる中、ただ一匹最後まで戦おうとして、元々仲の良かったフィオーレに止められている。騎士達に対する怨みは根深く、彼女やフィオーレには心を許すものの、それ以外の相手を目にすると部屋の隅に陣取って、毛を逆立てつつそっぽを向く。相手が騎士ではなく従者を務める魔獣であっても同様であった。
 当初は三者とも機を見て解放される手筈だったのだが、騎士達の見方が甘かったのもあり、機会に恵まれる前に包囲されて、そのまま身動きが取れなくなってしまっていた。如何に領主側とは講和が成立したとは言え、攻囲軍の側にしてみれば、彼女は騎士団の従者と見分けが付かない。無論そう言い張る事も出来る訳だから、カルロが迎えを派遣してでもくれない限り、外に出る事は難しかった。
 だが実際のカルロの方は、既にその為の影響力を失っており、この件について干渉する手段が無かった。彼女もそうした情報に接した訳ではないものの、一向に働きかけが無い事もあり、薄々それは察している。今はただ自分の軽挙を顧みて、馬鹿な真似をしたと後悔するだけであった。
 一応此処に来た事で、当初の目的であるラヴァルとの会話は果たせた。面会に来た彼に対し、彼女はただ一つだけ率直に、若き騎士に向け質問する。カルロをどう思っているのかと言う質問に対し、彼は寂しそうに微笑むと、「悪い事をしたと思っている」と打ち明けた。
「彼を恨んではいない。我々にはこうする事が必要で、彼にはあの選択しか無かった。主が我らを隔てられたのなら、私はただそれに従うだけだ」
 更に彼は、今しか機会は無いと思ったのだろう。改まった口調で、意を決したように話し始める。
「……本当の所、私は彼の言葉をずっと恐ろしいものとして受け止めていた。騎士の誓約とは余りに相入れぬ事が多過ぎたにも拘らず、彼の思いもその言葉の意図する所も、心の何処かで共感し、受け入れられるものだったからだ。彼の存在は悪魔の教えと等しい部分があったが、一方で彼自身は紛れも無く良き隣人であり、羊飼いだった。……主の造りたもうたこの世界に理解に苦しむ事があるとすれば、私の場合は彼こそがそうだった。主が魂の救済をなさるのなら、彼が異端として地獄に落ちる傍らで、どうして自分が救済されると言い得るだろう? 彼を受け入れれば受け入れるほど、私は自分の信仰心を疑わざるを得ず、心安く思えば思うほど、誓願からは遠ざかる。……このような結果になったのは残念だが、私は与えられた運命について、主に心から感謝している」
 相反する二つの感情を赤裸々に語るその表情は真剣で、アルマは自分がラヴァルに抱いていた印象が、如何に勝手なものであったかを知らされる。理想の騎士として見ていた青年の実像は、迷い戸惑い苦悩しつつも懸命に答えを探し求める、人間の縮図そのものであった。

 一日中激しい砲撃が続いたその日の夜、エーヴルとラヴァルの両名が、連れ立って彼女達の部屋にやって来た。明日に予想される攻撃に備え、部屋を移したいのだと言う。
 相も変わらず冷たい口調のクノエの騎士に急き立てられ、石の階段を登って辿り着いたその部屋は、沖に面した側に聳える塔の上部にあった。古い調度品が飾られた部屋の中央には大理石のテーブルがあり、石壁には年代物の甲冑らしきものが掛けられている。元々は砦の司令官の個室であったと思われるその部屋に、アルマ達は護衛に見張り番も兼ねるカブルモと共に収容された。食料と水の入った袋を渡されたアルマは、カブルモの主人でもあるラヴァルに、戦闘が始まったら出来るだけ身を低くして、窓には決して近付かぬ様に言い聞かされる。
「明日はどうなるか分からない。……力及ばなかった時は、此処にも直に敵の手が伸びるだろう」
 次いで彼は、こんな事になって本当に申し訳ないと、悲痛の色を隠そうともせず詫びる。立場上貴族でも無い平民の彼女に謝罪するなど思いもよらぬ事なのだが、アルマはだからこそ彼は領主の友人であったのだろうと、思わず口元を綻ばした。
 考えてみれば、元よりあの時死んでいたのだ。――そう思えば、目の前の騎士が与えてくれた時間が言い表せぬほどに愛おしく、価値あるものであったと思える。少なくともこの目の前の相手を責める気には、アルマは到底なれなかった。

 部屋から出た両者は、クノエの騎士が鍵を掛けるのを待って歩き出す。関係が深く、態々見習いとは言え魔獣を護衛に付けたラヴァルの表情が暗いのは当然だったが、隣を歩くエーヴルの方も、機嫌が良いとは到底言えぬ顔付きだった。元より厳しい表情を崩さぬ男であったが、ラヴァルは心なしかこの同僚が嘗て無いほどに顔を顰め、早足で歩いているように思えてならなかった。
 やがて塔の中ほどにある踊り場まで降りた所で、彼らは重い扉を軋ませて、上に通じる石の階段を遮断する。敵に攻め込まれた時、少しでも時間を稼ぐべく配されたその隔壁は分厚い鉄で出来ており、鍵無しでは例え魔獣でもそう簡単には抉じ開けられない。しっかりと施錠したエーヴルはその首尾を確認すべく二度ほど押して、小さく頷くと踵を返した。
「行こう」と言う呼び掛けに促され、後に続いたラヴァルは、次いで今では騎士団のリーダー格の一人となったこの人物に、翌日に備えて傭兵達に大砲の点検をしておくよう伝えてくれと頼まれる。二つ返事で引き受け、抱える思いを振り払う様に早足で傭兵達の詰め所に向かう同志の背中を見送った後。クノエの騎士は最後に胸元に手をやると、自らも明日に備えて準備すべく、ゆっくりと踵を返して歩き始めた。


 アナトリア軍の攻撃は、翌日の早朝から始まった。例によっての砲撃を経て繰り返されるパターンは、最早慣れっこになっている守備側の足並みこそ乱せなかったものの、それでも相応の負担と損害を以って、ナッソス最後の要害を襲う。主城壁の時より砲の数こそ減ったが、撃ち手の技量は向上しており、発射した砲丸の大半が砦を捉え、瓦礫と塵埃が海に向けて雨の様に降り注ぐ。
 これに対し、人員不足で実際に稼働出来るものは数えるほどしかないとは言え、防御側の砲門も力の限り応戦する。流石戦争を生業とする傭兵達だけあって、発射した砲丸の的中率は、アナトリア兵よりも数段高い。落下した石玉は歩兵の列を押し潰し、据えられた大砲を破壊して、圧倒的な敵軍に少なからぬ損害を与えた。
 だが既に、戦争は数の時代へと移り変わっている。傭兵達の妙技も通用するのは最初の間だけで、程なく敵の物量に押され沈黙した。纏まって降り注ぐ石玉は砲台を打ち崩し、砲手達は石壁と瓦礫の間に押し潰される。数で圧倒すれば当たるかどうかは確率の問題に過ぎず、一度劣勢に陥れば、後は優位を維持する側の為すがままだった。
 砦からの反撃が弱まった所で、空からの攻撃が勢いを増す。塔に配置された兵や魔獣が矢継ぎ早に敵を打ち落とすが、漏れた戦力は砦に直接兵士達を運び下ろして、海と言う障壁を実に呆気無く突破してしまう。対岸に渡った兵が守備隊の射撃に晒されつつも一帯を確保し、上がっていた跳ね橋を下ろした所で、満を持していた歩兵達が一斉に突撃を開始した。

 着弾する砲丸に砦の壁が鳴動する中、パリスは身を寄せ合う娘達の姿を、思い詰めた表情で見詰めていた。彼は目が覚めてから延々と、昨日兄と交わしたやり取りを思い返している。パリスには最早、自分が課せられた役割を承服する事は出来なかった。
 主から彼女らに付いていて欲しいと言われた時、彼は当然主や兄も行動を共にするものだと思っていた。彼はその時点でもまだ、客人達が無事安全な場所に移されるものと、信じて疑わなかったのである。
 彼は今の主に仕えてからずっと、騎士の従者となるよう育てられて来た。騎士の心得として第一に挙げられたのは、「服従」である。主人に服し、自ら誓った行いに服して、決して違えない事。それが、彼の道徳の規範だった。
 だが同時に彼は、その他の事柄についても固く守るよう教え諭されていた。弱者を守り、盾となる事。偽りを口にせず、誠実である事。――そして、それらの為には喜んで命を投げ出すべきとも。主や兄の教えを誇りとし、常に自分の指針として来た彼は、為に今の状況を容認する事が出来なかった。
 フィオーレ達が留め置かれると聞かされた時、彼は真っ先に兄に対して抗議した。戦う訳でもなく、騎士団と何の関係も無い彼女達を、何故避難させないのか? 最早先は無いと見越しているにもかかわらず、どうして危険な場所に閉じ込めようとするのか? 主のアンリもまた、彼女らを巻き込む事を望んでいないではないか、と。
 しかし兄のランシエは、ただ『命に従え』とだけ答えた。騎士団の決定に、主は騎士として服従した。従者である自分達もまた、それに従わねばならないのだと。――その時彼は、嘗て余所者から吐きかけられた言葉を、はっきりと思い出していた。
 彼は心の底から、騎士になりたいと願っていた。身分はあくまで主のパートナーであり、従者に過ぎなかったが、卵から孵り物心ついて見上げた仲間達は、皆偽りも無く真剣に、自らも騎士であろうと志していた。服従を美徳とし、弱者を守り戦う事を誇りとする騎士の生き方が、今自分の目の前で真っ二つに割れたのだ。
『おい、チビ』
 懊悩している所に不意に呼び掛けられ、パリスは内心ムッとしながらも、声の主に目を向ける。捕虜のコリンクは到底友好的とは言えない態度で、それでも精一杯譲歩したような物言いだった。
『扉をぶち破りたいから手を貸せ。このままじゃ、俺達みんな此処でやられちまう』
『そんなの……出来る訳無いじゃないか』
 頭の片隅にあったものを指摘された様に錯覚し、彼は思わず声を上ずらせる。パリスの思いを知ってか知らずか、サラーは乾いた口調ながらも真剣な目付きで言葉を続けた。
『俺達は兎も角、フィオーレ達は何の咎も無い。此処でじっとしてるぐらいなら、俺が連れて逃げる。……そもそもお前も騎士なら、彼女達を死なすより守る為に戦ったらどうなんだ!?』
『……!』
 コリンクの言葉に、パリスは反論出来ず立ち尽くす。一瞬自分は見習いだからと脈絡も無い言い訳が頭を過ったが、直ぐにそれが別の形で力を帯び始めた。
『分かった』
『良し。なら、とっとと始めよう。その角で――』
『だから、ちょっと手伝って欲しい』
 今度はサラーが腰を折られて、不機嫌そうに口ごもる。そんな彼を尻目に、パリスは部屋の一角に飾られている古い甲冑に走り寄る。彼は、それが何であるかを知っていた。
『……僕は今から、騎士になる』
 突いて落とした鋼の殻を身に付けながら、パリスは何を言っているか分からないと言う表情で唖然と此方を見やる相手に、合図したら自分に向けて電撃を放つよう頼み込む。
『何をする気なの?』
『見た方が早いと思う』
 心配そうなフィオーレに早口に答えた後。ゆっくりと呼吸を整えた彼は、身に着けた殻をしっかりと握り締め、サラーに向けて合図を送った。コリンクの躊躇いがちな電撃に、パリスは全身に感じる痛みを堪え、もっと強くやれと促す。口元を引き結んだサラーが更に電流を強めると、不意に眩い光がカブルモを包んだ。
『これは……』
 無意識の内に放電を止め、茫然と見やるサラー達の目の前で、小柄なカブルモの身体が見る見る内に大きくなる。幼さの残っていた目元は鋭く尖り、短かった腕は伸びて、引っ掛けていた鋼の殻から突き出した。身に着けていた殻にぴったりと収まるサイズにまで成長したパリスは、これも壁に掛けてある二本の槍をゆっくりと手にし、見守る一同に力強く頷いて見せる。
『行こう……!』
『その前に、誓いとやらをやらなくて良いのか?』
 扉の前に向かおうとしたパリスを、サラーが意外な形で呼び止める。思わず振り向きながら間抜けた声を出す彼に対し、コリンクはチラリと苦笑して続ける。
『知ってるぜ。騎士ってのは先ず最初に忠誠を尽くす相手を決めるんだってな。……あいつがそう言う事にはうるさかったからな』
『サラー……』
 コリンクの言葉に、ドレディアが視線を落とす。しかし彼はそんな彼女に対し、敢えて明るい口調を装いながら、さっさと終わらせようと笑い掛けて見せる。
『主になれそうなのは彼女かあんただ。……彼女に説明するのは無理だろうから、あんたが主人役を務めるしかないぞ』
『わ、私……?』
 思いもかけぬ展開に慌てるフィオーレを尻目に、サラーはパリスにとっとと来いと合図すると、手にした槍を床に置き、その内一本をドレディアに渡すよう告げる。
『誓いの言葉はよく知らんから適当だ』と言い切った彼は、両者に基本的な形を説明して、さっさと終わらせるよう促して見せる。フィオーレは尚も戸惑っていたが、パリスが目の前に首を垂れると、意を決したように手にした槍を捧げ持つ。傍らのコリンクが厳かな口調で、儀式の進行を介助した。
『汝此の者に忠誠を誓い、勇武を貴び、礼を尊び、誠を尽くす 騎士として一命を捧げ、生涯に渡り仕える事を此処に誓うか?』
『誓います』
 コリンクの言葉に応じたシュバルゴに対し、ドレディアは目の前に侍する騎兵ポケモンの肩口を、手にした槍で三回触れて刀礼とする。
『許します』
 出来る限りの気持ちを込めて返答しつつ、彼女は顔を上げた相手に対し、手にした槍を授け渡す。これまでの経緯を無意識の内に振り返りつつ、暫し互いに見つめ合うそんな両者を、サラーは先程までの口調もどこ吹く風と言った調子で急き立てた。
『終わりだ終わり。……愚図ついてないで、さっさとあれを突き破ってくれ』
 騎士宣誓の介添えを務めたムスリムの元愛獣は、慌てて床から槍を拾うパリスに『働け』とだけ言い捨てた後、一同を見守るアルマに向けて、ついて来いと言う風に鳴き声を上げた。


 橋の守りを抜かれた後は脆かった。既に八十名を切っていた騎士達の戦力では、数万の大軍を支える事はどだい無理である。雪崩れ込んだ異教徒達は諸所で敵を孤立させ、必死に抵抗する騎士や従僕、パートナーの魔獣達を鏖殺する。橋周辺の戦闘で斃れた中には、フローゼルのカリスの主だった、副団長のサー・ウィリアムも混じっていた。
 戦死した副団長に代わって指揮を執るのは、騎士団最高の戦士と讃えられているルネ・ド・エーヴルである。騎士道精神の権化と呼ばれたカロス騎士の亀鑑と評される彼は、この期に及んでもその信頼を裏切る事無く、陣頭に立って味方を指揮する。跳ね橋奥の門の先には広場があったが、攻撃側は此処を一挙に突破しようと突き進み、結果反撃によって大損害を被った。
 騎士達はエーヴルを先頭に剣先に火花を散らし、魔獣達も斃れるなら一所でと、一歩も引かずに敵を支えた。左右の塔からは全軍の中から選ばれた射撃の名手が配されており、敵勢の中から優先すべき目標を選び抜いては、的確に射込み打ち倒していく。膠着状態は右側の塔が制圧されるまで続き、アナトリア兵は奥の砦に攻め込むまでに、二百に近い犠牲者を出した。

 塔の階段を降り切ったパリスは、背後に続く三者に向け、離れないよう重ねて指示する。途中の隔壁は何故か開いており、比較的スムーズに此処まで来れたが、此処から先は何があるか分からなかった。
 そして実際、彼の不安は的中する。石の廊下を突き当たり、火影の踊る広間の中へと駆け込んだ時、彼らは侵入して来た敵と戦う、一組の主従を目の当たりにする。縦長の帽子を被り、握りに獣毛の房が飾られた半月刀を振るう親衛隊員と切り結ぶのは、他ならぬ主・ラヴァルであった。鮮やかに相手を切り伏せ、気配に気付いて此方を振り向く育ての親は、同じく前面の敵を打ち倒したランシエ共々、目の前の一行を声も無く見やる。
 けれども、それも長続きはしなかった。戦塵に汚れ、渦巻く炎に半身を照らし出された若き騎士は、逞しく姿を変えた従騎士に向けて力強く微笑んだ。
「パリス!」 
 傍らの入口から、更に敵の増援が迫る。それを確かに視界の端に留めつつ、しかしラヴァルは彼を真っ直ぐ見据えたままで、誇りに満ちた声音で続けた。
「アルマを頼むぞ!」
 身を翻して新手に向かう主の後を追いかけるべく、兄のシュバルゴも無言で――それでいて、確かな思いを視線に込めて頷くと、後は一切脇目も振らず、敵の集団に切り込んでいく。
 鋼鉄の障壁の如く、何者も寄せ付けようとしない気迫に溢れる彼らの背中に、パリスはただ『はい……!』とだけ答え、手にした槍を砕けんばかりに握り締めて、家族の絆に別れを告げた。

 外に飛び出した彼らの前に広がったのは、最早終幕も間近に迫る、彼我入り乱れた白兵戦の光景であった。広場一面に繰り広げられる本能そのままの殺し合いは、既に覆い難い戦力差の下虐殺へと移りつつあり、残された勇士が最後の力を振り絞って、敵の攻撃を食い止めていた。
『あの先だ! あの門の脇に、船着き場への階段がある!』
 サラーの言葉に、パリス達は彼が指し示す永い道程に息を呑む。広場の脇から続いている、砦側面の砲台への道。その入口に当たる門の傍に、要塞点検用の小舟が舫われている小さな舟泊まりがあるのだと言う。走れば一分と掛からぬ距離であったが、アナトリア兵が渦を巻いている現状では、そのまま跳ね橋を渡って市街まで行くのと大差ない。だがコリンクが言うには、他に抜け出せるようなルートは無かった。
『走り抜けるしかない。愚図ついてると味方は誰もいなくなるぞ! 囲まれる前に突っ切るんだ!』
『……分かった!』
 覚悟を決めたパリスが応じ、フィオーレも腹を据えたようだった。言葉の通じぬアルマにドレディアが付いて来るよう手振りで示す中、此方に気付いた兵士の内の何人かが、殺意も顕わに走り寄って来る。
『来るよ! 僕が食い止めるから、サラーはふたりを守って!』
『とっとと追い付いて来いよ! 俺だけじゃどうにもならねぇからな!?』
 返答する間も有らばこそ。半月刀を振りかざして迫って来た髭面の男達に、パリスが両手の槍で立ち向かうのを目の当たりにしつつ、サラーは娘達を先導してその傍らを駆け抜ける。案の定向きを変える黄色いターバンの男に『スパーク』で突っ込むと、悲鳴を上げて引っ繰り返ったその髭面を踏み付ける。……が、それから後が続かなかった。
 ぞろぞろと集まって来た敵兵に彼らが完全に囲まれた時、不意に側面から大柄な影が突入して来て、手近の男を一薙ぎする。太い腕で叩き飛ばされた兵士が潰れた蛙の様な声を放って転がる一方、乱入した魔獣は慌てて反撃しようとする敵勢の抵抗を寄せ付けず、瞬く間に味方全員を救出する。
『ポルト!』
『ポルトさん!』
 パリス達が喜色を浮かべて名を呼ぶと、傷だらけの甲羅を背負うブリガロンは、ほっとしたように頷いた。
『今度は間に合ったみたいですね』
 多くは語らず、また説明する必要も無く。自ら先頭に立ったブリガロンに援護されつつ、彼らは再び退き口目掛けて進み始めた。

 ブリガロンの勢いは、予想を遥かに越えて凄まじかった。パリスは彼が戦う姿を初めて目にしたが、その規格外の制圧力にはただ圧倒されるばかりである。腕と背中を覆う甲羅を盾に敵の矢玉を跳ね返すポルトは、向かって来た兵士をまるで木切れの人形の様に打ちのめし、殴り飛ばして前進する。何とか行き足を止めるべく、ヘラクロスが角を構えて突っ込んで来るが、彼は突き出された相手の角を引っ掴んで受け止めると、そのまま巨大な甲虫の身体を浮かせ、片手で棍棒代わりに振り回し始めた。
 圧倒的な怪力を見せつける彼を、更に塔の味方が援護する。飛来した大雉が下方で暴れまわるブリガロンに風の刃を見舞おうとすると、直後その首を何かが突き抜け、『エアスラッシュ』を放ちかけていたケンホロウは何が起きたかも分からないまま絶命し、城壁目掛け墜落する。
 当たるを幸い薙ぎ払うポルトが、力尽きた甲虫を投げ捨てて敵中に攻め入る一方、矢羽根を放った塔の上の狙撃手は、ブリガロンの背後を離れ門に向かって突き進むパリス達の一行を、油断する事無く見守っていた。

 シュッツェはその日自らの最後の役目を果たすに当たり、今まで取り置いていた矢羽根の全てを、塔の上へと持ち込んでいた。粗末な手製の矢筒の群れに差されたそれらは、一足先に「神(しゅ)」とやらの許に旅立った、主が集めてくれたものだ。
 騎士団でも指折りに信仰篤かった彼の主は、為に現世利益の獲得――ロシアへの植民活動に熱心だった故郷クルムラントの騎士修道会には見向きもせず、オリエントで異教徒と戦うナッソス騎士団への誓約を選んだ。豊かな故郷の荘園を去り、家族も捨ててこの地に至る理由となった神というものを、彼は未だに理解出来ない。主が問わず語りに教えてくれた内容は余りに曖昧で、彼にはその存在を感じる事は出来なかった。
 けれども、それが障碍となった事は無い。彼は主を「親」として尊敬していたし、家族として愛していた。主の祈りは生活の一部だったし、その戦いは彼の運命そのものであった。シュッツェの羽が抜け落ちる度、敬虔な主はそれを拾い上げて丁寧に形を整えながら、書の一説を唱え始める。祈りを込められた彼の矢羽根は戦いの際の予備として、何時も彼らの傍らにあった。シュッツェが的を外さない為、その数は戦いの日々を送る内にも増え続け、決して目減りする事は無かった。
 そして今、彼はその全てを自分の脇に積み上げて、数人の傭兵と共に塔から下界を見下ろしていた。目に付いた相手を片端から射倒す内、使える矢羽根は目で見ても分かる速度で減っていき、今や彼は自分の羽を使い切って、積み重ねて来たストックに手を伸ばしていた。既に半ば以上を消費したそれを尚もつがえ、眼下を移動していく仲間達を助けるべく、矢継ぎ早に速射する。誰の指示も受けず、何にも煩わされぬまま戦う孤独なジュナイパーは、何時しか奇妙な境地に達し、今や全く意識する事無く、無数の存在がてんでんばらばらに行動している、戦場全体を把握していた。遮二無二突っ切ろうとする一隊を補足しようとする者達に向け、彼は生死を意のままに操る神(かみ)の如く、精確無比な矢羽根の応酬を以て応える。
 石弓を構えた兵士のこめかみに枯れ草色の矢が突き立つと、その反対側で部下達を指揮していたイエニチェリの隊長の背に、心臓を抜いた矢先が突き出す。娘の背中に追い縋っていたデルビルは首元を射られ、行く手に立ち塞がろうとしていた四人の兵士は、まるで一陣の風に薙ぎ倒されるかのように、順繰りに胸を貫かれて倒れ伏した。慌てて投石機の陰に隠れる兵達の脇を、パリスらは見えない力に守られているかの如く、何者にも煩わされずに走り抜けた。
 細った翼は滑らかに躍動を続け、炎を纏い急降下する隼に漆黒の影を的中させると、後ろに続く闇色の竜の三つ首を、身構える間もなく縫い止める。再び地上のターゲットに狙いを移したシュッツェは、ヘルガーの隣で小銃を携えた一隊を全滅させ、炎を吹き出しかけた獄炎犬の眉間を打ち抜いて、門脇に固まる敵の戦力を一掃した。尚も近い範囲に位置する者を手当たり次第に射倒す内、彼の翼は不意に空を切る。だらりと垂れた緑の蔓は、最早つがえるべき矢が底を尽いた事を示していた。
 台車に乗って押し運ばれた一門の大砲が、多くの同胞を射止め続ける憎むべき塔の先端に向け、ピタリと砲口を向けて据えられたのは、丁度その時の事であった。背後で切羽詰まった声が上がり、傭兵達が動揺する気配が伝わって来る。直後慌ただしく立ち上がった彼らは、互いに押し退け合う様にして降り口目掛け殺到する。揉み合う男達の絶望した悲鳴に対し、しかし矢羽根を打ち尽くしたジュナイパーは、そのまま塑像の様に動かない。
 今更振り返る気にはなれなかった。……目にすればきっと、自分は平常心ではいられない。常に冷静であれと教えた主に、再会した早々醜態ぶりを指摘されるのは嫌だった。――戦士として終えるなら、土産話は華やかな方が望ましいに決まっている。
 耳元に主の声を聞いた様な気がして、シュッツェは最後にふっと微笑むと、嘗て事あるごとに耳にしていたその一節を、和するように凪風に乗せる。
『ダス・グラス・イスト・ヴェアドレット・ウント・ダイ・ブルーメ・アブゲファーレン――』

 ――草は枯れ、花は散るものならん


 轟音と共に塔の先端が砕け散った時、パリス達は門を潜り終え、船着き場に通じる階段を駆け下りている最中だった。思わず振り向いた彼の目に、砲弾の直撃で木端微塵に粉砕された塔の破片と、その中に微かに舞い散る、緑色の羽が飛び込んで来る。
『シュッツェ……』
『何してる!? 止まるな!!』
 小さく呟く彼を突き飛ばす様に、コリンクが身体に似合わぬ怒声を浴びせる。再び進み始めたパリスの後を、サラーが娘達を急き立てつつ追い掛ける。フィオーレもアルマも黙したままだったが、言葉以上にその表情が、胸の内を物語っていた。
 やがて階段が尽き、潮の揺れる小さな船泊めに降り立った時。サラーは静かに足を止めると、舫われた小舟を見やって告げる。
『此処でお別れだ。……俺は行かない』
『何言ってるの! どうして!?』
 フィオーレが咎めるも、彼は小さく首を振る。
『この街を出る気は無い。あいつを置いて行きたくないんだ』
『サラー……』
 寂しげに笑うコリンクが、野良として生きるよと付け加える。見守るアルマもその様子に、彼の思いが伝わったのだろう。差し伸べていた手を下ろし、悲しげな顔で小柄な魔獣を見詰めている。
『良い旅をな。……あばよ!』
 最後にパチリと火花を散らし、元来た道を駈け上がっていったコリンクを見送った後。パリスは悲哀の情に鞭打って、両者に舟に乗る様促した。

 既に剣の音も疎らになった城内で、ルネ・ド・エーヴルは目の前の最後の敵を斃し終え、疲労と手傷に押し倒されるように膝を突いた。小さな礼拝堂は敵兵の死体が点々としていたが、乱戦の最中だと言うのに此処だけは静寂そのものである。石弓の矢が突き立った肩の甲冑の繋ぎ目と、最後の揉み合いで刺された脇腹の傷が痛む以外、彼を煩わせるものは何もなかった。
 奇跡的に生まれた空白に、為す事も無くたゆたう内。彼はふと首元に手をやって、胸に下げた小さな十字架を取り外す。流れ込む煙が天井を漂い薄雲の様に広がる中、死にゆく男は自然と嘗ての日々を思い返す。……まだ純粋な若者で、生きる意味と愛する事が同じ価値を持っていた頃を。
 十字架の持ち主を、彼は心から愛していた。政略結婚に熱心だった父が生まれて直ぐに取り決めた婚約だったが、若い二人は運命に祝福されていたかのように、互いを思い焦がれていた。会える機会は年に一、二度。その空白を埋め合わせるかのように、彼らは熱心に文を交わし、日々の暮らしを伝え合った。――遠い空を見やり、封印の蝋を剥がす時に感じた思いは、孤独な騎士となった今でも鮮やかだった。
 そしてそんな日々は、ある日唐突に終わりを迎えた。父の「政治的決断」により、エーヴルの家が対カロス同盟から離反した時、二人の婚約は自動的に解消された。……だが若い彼らの胸の内が切り替わるまでに与えられた猶予は、余りにも短過ぎた。
 同盟解消から僅か二日の後、父の手引きで侵入したカロス王の軍勢が、クノエ一帯を攻撃した。奇襲は大成功に終わり、同盟勢力は崩壊。父の目論見は図に当たり、真っ先に王権を認め忠誠を誓ったエーヴル一族はクノエ一帯の領有権を与えられて、本家に当たる彼の家は貴族としては最高位である公爵の位を約束された。
 同盟からの離反を知らされた時、ルネは真っ先に手紙をしたため、内密の内に従僕に託した。家の大事も顧みず送った使者がもたらしたのは、迅速な侵攻に対応出来ず包囲攻撃を受けている、彼女の居館の有り様だった。……そして入れ違いに彼女の従僕によって送られて来たのが、今手にしている女持ちの十字架であった。館はその日の内に陥落し、マリアンヌと言う名の娘は猛火と共に燃え尽きて、彼の手元にはルビーの輝く小さな形見だけが残った。彼が生まれて初めて父の思惑に反し、ナッソス騎士団に誓約の意思を申し送ったのは、それから間も無くの事である。
 あの日以来、彼は誰一人として愛さなかった。生涯を信仰に傾け戦う傍ら、想いはあの時失った、娘に捧げると決めていた。騎士修道会所属の騎士に課せられる貞潔の誓いは、彼にとっては己の生き方を覆い隠す、カモフラージュに過ぎなかった。……だがそんな彼も、嘗てと同じく運命に翻弄される娘の姿を前にしては、鉄の仮面を被り続ける事は難しかった。
 扉の鍵を密かに解いた時の事を思い出す。ほんのささやかな反抗に過ぎなかったが、彼女らに抗う意志があらば、主は新たな道を指し示してくれるかも知れない。――少なくとも、自分はその意志に従えなかった。
 何時の間にか、背後に誰かが蹲っていた。床に映る大柄な影を見れば、振り返らずとも従者である事は一目で分かる。そっと持ち上げられた彼は静かに前へと運ばれると、十字架が安置された聖櫃の正面に横たえられる。……背後の入口で異国の言葉が交わされるのを、最早彼は聞き取る事が出来なかった。
 ただ身体が、石の様に重い。目を閉じた彼が最後に垣間見たのは、遠い昔に空の彼方へ昇っていった、懐かしい娘(ひと)の面影だった。背中に感じる温かみが渾然一体となって混じり合い、何時しか彼は礼拝堂の真ん中で、彼女の胸に抱かれていた。
「マリアンヌ――」
 微かに浮かんだ微笑を覗き込むポルトが、慈しみに満ちた表情で主の体を包み込んだ瞬間。入口から吹き込まれた灼熱の炎が、堂内の全てを一握の灰へと変貌させた。

 海上に浮かんだ小舟から、アルマはただ言葉も無く、遠ざかる砦の姿を見守っていた。足早に降り来た夜の帳を赤々と染め、オリエント最後の防壁は、夜空に向けて手を差し伸べる。崩れた塔をも越えて噴き上げる深紅の炎は、空の頂に向けて駆け上っていく煙共々、まるで殉教した男達の魂の様に、棚引く事無く星の海へと続いている。――そしてそれは、彼女の身知った全ての男達の証であると共に、領主であるカルロが夢見た地上の楽園の終焉でもあった。
 立ち尽くしたまま滂沱の涙に頬を濡らす彼女の後ろで、パリスとフィオーレもまた身動ぎもせず遠望を見やる。潮の流れに乗った小舟は港を離れ、一つの時代の終わりを告げるその舞台を後にして、遥かに広がる深夜の海へと漕ぎ出していった。


 ナッソスの陥落の後、騎士達は教皇庁によって正式に、殉教者と認定された。領主の課した制約の下常にロドスのホスピス騎士団の下風に立っていたこの組織は、主の御心に最期まで従った偉大な聖者の集いとして年代記に記される。騎士団長ライネルは聖人に列し、圧倒的な異教徒の攻撃を前に華々しく散っていった騎士達は、その後西欧各地で騎士道精神の理想的発露として称賛された。

 勝利者となったスルタン・イマーンは、その後も各地に遠征を繰り返し、その殆どを成功裏に終える事によって、アナトリア帝国の最盛期を現出する。「世界の帝王」と呼ばれた彼は帝国内の法整備を推し進め、そちらの面でも大きな功績を残したが、情愛深き私生活にも関わらず後継者にだけは恵まれなかった。
 彼の死後、既にその晩年には陰りが見え始めていた大帝国は徐々に力を失っていき、やがてルネサンスを経て産業革命を成し遂げた旧カロス王朝の末裔達によって、逆に蚕食されてゆく事になる。圧倒的な力と先進性で西欧の近代化を促したムスリム達は、膨張の果てに月の満ち欠けの様に力を失い、今日に至るまで近代化と因習の狭間で揺れ動いている。――それは、古代カロスの栄華が朽ち果てた後新たな時代を築き上げた、彼ら自身の道程の投影だったのかも知れない。

 領主の座から追われたカルロは、その後もナッソスに拠点を構え、今度は一介の貿易商としての人生を送る。アナトリア宮廷からも賓客として遇され、スルタンから数々の特権を認められていた彼だったが、如何に周囲から進められようとも、ムスリムに改宗する事は無かった。
 その後も西方教徒として同胞の解放に尽力するも、千五百三十四年マルタ島へと拠点を移していた嘗ての友邦・ホスピス騎士団の襲撃を受けて捕えられ、翌年移送された教皇領において、ナッソス騎士団を売り渡した異端者として火刑に処され、四十四年の生涯を終えた。異端審問裁判においては一切抗弁せず、黙々と罪を認めて処刑されたと言われる。
 彼が生涯に渡って解放した奴隷の数は、残された記録によると三百十七名となっている。カルロの死によってマカーリオ家は断絶し、その財産は大半が教皇庁を始めとした西欧諸侯によって横領された。彼の覚え書きを基軸に書き上げられた『ナッソス攻防記』は、現在に至るまで第一級の歴史資料として知られており、当時の情景を詳細に伝えてくれるものとして多くの歴史研究家を支えている。

 またマカーリオ商会の販路については、その大部分が生前の遺言によってアペニン半島の商人であるパオロ・マイラーノが継承している。近年の研究により、彼は一時期ナッソスのカルロの下に賓客として滞在していた事が知られており、研究者の間ではマカーリオ家の養子的な立場にあったと推察されている。マイラーノ商会はカルロの事業方針を引き継ぎ、伝統的に慈善活動に熱心な組織として現代に至っている。近年では欧州一円における大戦とそれに伴う旧教徒迫害運動の際、アルプスを越えて逃れる彼らに密かに援助の手を差し伸べていた事が話題となった。
 尚そのマイラーノ家に関する文書として、近年同じアペニン半島の小さな修道院から、当時の主人であるパオロ直筆の手紙が発見された事が報じられている。中世から伝わる甲冑虫の全身甲が聖物として知られるその修道院とマイラーノ家当主との関連については、今後の研究が待たれる所であろう。


 ナッソスの攻防とその陥落の物語は、中世宗教騎士道最後の輝きとして喧伝され、その後生まれた多くの騎士道叙事詩の主要なテーマとなった。騎士達は信仰に身を捧げた理想の戦士として描写され、街の存続を図る邪な領主の介入を廃しながら、真の騎士道精神を貫いて玉砕する。
 また近年では、逆にカルロの抱いた自由主義的な融和姿勢と統治方針が見直され、信仰に燃える騎士達との軋轢を描いた悲劇形式の物語も数多く誕生している。語り継がれるに従い時代と共に変遷を重ねて来たこれらの物語は、街の名が「ボドルム」と変わった今でも廃れる事無く継承され、かの都市に住まう多くの語り部達によって謡い継がれている。語り手によって数多くのバリエーションを伴うこれらは無形文化財として高い評価を受け、近年ではその保存を目的として、多くの研究者がこの歴史ある貿易都市を訪れるようになった。

 だが、そんな数多の形式が存在し、幾つもの視点から語り継がれる物語がある一方、同じく彼らの下で戦い消えていった、無数の名も無き戦士達がいた事に。――更にはその中に、自ら進むべき道を選び取り、己が信念を貫き通し駆け抜けた一組の主従がいた事について謡い聞かせる語り部に、筆者は未だ出会った事が無い。

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