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わが師に告ぐ の変更点


Writer:[[赤猫もよよ]]
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&size(23){わが師に告ぐ};

 染め上げたばかりの反物のように、沁みひとつない青空。熱した白身をそのまま溶かし込んだような純白の薄雲が、滑らかに吹く秋風に流されては融けていく。遥か遠くに臨む山峰は山吹色に濡れそぼり、水平に伸びる野原は乾いた緑黄がせめぎ合って揺れている。天を裂いて伸びる鳥影が、淡く輝く早朝の太陽を背に受けて、その身を黒く焦がしていた。
 そんな、呆れかえるほど平穏な時間の中。
 しかし、とある山の奥深く。名も無き格闘道場の裏庭だけは、例外と呼ぶ他ない、張り詰めた空気がその場を支配していた。
 
 そこには、二匹の獣がいた。
 片や緋色の翼を衣のように纏う小柄なルチャブル。凛と佇む出で立ちに一切の動きはなく、されども一切の隙はない。鋭利に研ぎ澄まされた刃を連想させる剣呑な眼つきが、数多の闘いを勝ち抜いた豪傑であることを予感させる。
 片や薄黄色の棘甲羅を背負う大柄なブリガロン。身体こそ頑強に引き締まってはいるが、その顔には若さと未熟さが色濃く残る。ルチャブルから発せられる殺意に似た波動に心臓を激しく揺らしながらも、しかし堂々と佇むその姿勢はまごうことなき戦士であった。
 風が吹き、足元の草が揺れる度に、一触即発の雰囲気が高まっていく。
 全ての音は遠ざかり、限界にまで張った緊張の糸が、はちきれるのを今か今かと待ち望んでいる。
「始め!」
 空気を裂く咆哮が、ルチャブルの口から発せられた刹那。ブリガロンの肩から太い蔦が矢のように伸び、咄嗟に横に跳んだルチャブルの脇腹を掠める。そのまま着地点を刈り取るようにして第二の蔦を唸らせるも、翼衣を広げたルチャブルの一瞬の滑空によって着地点をずらされ、手ごたえはない。
 蔦を引き戻すより早く、つい数瞬前に地に足を付けたばかりのルチャブルの身体は目の前にあった。寸でのところで両腕を前方に交差させ、岩塊を叩きつけられるような威力の飛び蹴りを受ける。防御姿勢を取っていてもなお骨が軋むような痛みを感じるのだから、仮に身体に思いきり入っていたらと想像すると血の気が引くようだ。
 手ごたえが薄いと分かるや否や、ルチャブルは即座に飛び退いた。ブリガロンの剛腕が届かないギリギリの位置を陣取り、両の拳を静かに構えながら軽く跳ねる。フェイントを交えながら、隙を見つけ次第飛びかかってくる魂胆らしい。ブリガロンという種族の頑強さを知ってなお真正面からの衝突を望むのは、自らが上であるという絶対の自信に基づいているためか。
 ルチャブルに比べ機動力に欠けるブリガロンが攻撃を当てるには、間合いを詰める以外に選択肢はないように思えた。だがしかし、自分が一歩進むより早く、ルチャブルの足は自身の腹を二三度打ち抜いているだろう。防戦一方、万事休す、のように思えた、が。
 ブリガロンが大地を強く踏みしめた瞬間、地中から尖った岩の牙がいくつも突き出し、ルチャブルに噛み付こうと八方から迫った。さながら大地の咀嚼のように押し寄せる岩を跳躍で躱すも、牙が足先に掠ったのか、もんどりを打って地面に叩きつけられる。痛みに呻く暇も無く、ブリガロンの足による追撃を両腕で防ぐ。
「ぐ……少しはやるようになったな! 先程のストーンエッジ、見事だ!」
「ッ! 有難うございます! 師匠!」
 ルチャブルの言葉に、ブリガロンは子供のように目を輝かせる。
 会話から察するに、二匹は師弟関係にあるらしい。しかしその場には遠慮と言えるものはなく、ルチャブルの身体を踏み抜こうとするブリガロンと、踏み抜こうとする足を抑え、その場から抜け出す機を窺っているルチャブルのみがあった。紛うことなき、二匹の獣だ。
「ようし、ならば次の段階だ」
 にぃ、と殺意の籠った笑みを浮かべた後、ルチャブルは踏み付けをいなし、そのままブリガロンの片足に両脚で組みついた。想定外のことに動きの止まった瞬間を逃さず、両脚に力を込めてブリガロンの巨体を横に引き倒す。
「う、わっ!」
 天地逆転。
碌に受け身も取れず、ブリガロンは力の流れに身を任せるまま、後頭部をしたたかに地面に打ち付けた。重い衝撃に一瞬遅れてじんわりと頭蓋に鈍痛が広がり、強い眩暈と吐き気がこみ上げてくる。
「これならどうだ」
 玩具を前にした赤子のように愉快そうな声が、ありとあらゆる痛みに喘ぐ脳裏に過ぎったかと思えば、いつの間にかルチャブルのしなやかな肢体が、大地に投げ出された自身の右腕に絡みついていた。
「ひ――」
「さあ痛いぞ、食いしばれ! 漏らすんじゃないぞ!」
 慌てて振り払おうとするも時は既に遅く、ルチャブルはブリガロンの腕を思いきり捻じ曲げる。
岩のように固く重いブリガロンの四肢も、ルチャブルの鍛え上げた怪力の前では文字通り赤子の腕を捻るが如く。
「い゛――ッ! ぎいいいい゛い゛い゛い゛っ!!!!!」
 灼けた鉄塊に貫かれたかのような激痛が全身を襲い、ブリガロンは理性を奪われた獣のように叫んだ。
錆びた歯車が擦れるような悲鳴が、道場の裏庭にわんと木霊する。
「みっともなく叫ぶな! 手を打たねばこのまま折られるぞ! さあどうする!」
 骨が軋み、苦痛に満ちた絶叫を上げる。
肉が裂けるような冷たい痛みが、憔悴に満ちた脳裏を次第に白く染め上げていく。
酸素不足に喘ぐ口の端から唾が垂れ、目尻にはじんわりと熱い涙が浮かぶ。
耳鳴りが止まない。次第に痛みの感覚すらも薄れ、このまま昏い闇の中に沈んで――
「させ、るがあああ゛あ゛あ゛ッ!」
「むおっ」
――いかなかった。痛みを掻き消すように荒く吠えると、渾身の力を振り絞ってルチャブルの身体を振り放す。
「ぐう……っ。はあ、っ……はあっ……」
 万力に締め付けられたかのように鬱血した右腕を庇いながら、ブリガロンは立ち上がる。未だ涼しげな表情を崩さないルチャブルを血走った眼で睨み付けながら、未だ闘志は潰えていないとばかりに両の拳を構え直す。
「まだ立つか、その意気や良し! 来いッ――!」
「う、おおおおおおっ!」
 裂帛の気合と共に、再度二つの蔦先が矢のように放たれる。しかしその軌道を完全に見切っていたのか、ルチャブルは合間を縫うように掻い潜ってブリガロンに肉薄する。
「遅いッ!」
 振り下ろされたウッドハンマーを見切り、ブリガロンの開けた腹に拳撃を叩きこむ。柔らかな部分に正確に衝撃を叩きこまれ、ブリガロンの口から呻きと飛沫が漏れる。
「本気だったら五回は死んでいるッ! 今日はここで止めておくか!?」
「ま、まだですっ! 僕はまだやれます!」
 渾身のテイルスイングは難なく躱されるも、再度の腹を狙う拳撃は紙一重のところで防ぐことに成功した。少しずつだが、ルチャブルの速度に適応しつつあった。
あれだけの攻撃に晒されておきながらも、ブリガロンの脳はむしろ冴え冴えとしている。分泌された興奮物質が身体に回り切ったのか、もはや痛みは感じなくなっていた。
そしてついに、反撃の期は訪れる。
三度目に拳を腹に叩きこまれた時、直感的にルチャブルが右斜め後ろに飛び退く気がした。思考より早く、半ば反射的に蔦を伸ばす。今までは空を切ってばかりだった蔦の先に、確かな手ごたえがあった。
「……ほう、やるじゃないか」
 感心するような声がして、ブリガロンは蔦の伸びた先を見る。ルチャブルの右脚を、見事に絡め取っていた。
「……あ」
「ぼさっとするな。捕まえたらどうするか、まさか忘れた訳ではないよな?」
「は、はい!」
 蔦を目一杯手繰り寄せて、ルチャブルの身体を抱き寄せる。なにせ捕まえることが出来たのは十数年間に渡る訓練の中でもこれが初めてで、いまいちどうしてよいか分からない。
「おいおい、そんな優しい拘束では逃げられてしまうぞ。ほら、もっと強く」
「は、はいいっ!」
 言われるがままに強く、それこそ華奢な体躯が折れてしまうのではないかと思う程に、ブリガロンはルチャブルの身体を羽交い絞めにしてきつく締めた。
「ぐ、おっ……! 力、強くなったなあ!」
「ありがとうございます! 師匠のご指導の賜物です!」
 締め付けられ苦しそうながらも、白い歯を見せ豪快に笑うルチャブルの姿に、ブリガロンの胸中はぱあと光が差すようであった。やはり敬愛する師に称賛されるのは嬉しいものらしく、張り詰めた雰囲気は去り歳相応の幼い笑みを見せる。
「うむ。だがしかし――まだ終わってはいないぞ?」
「へ……あ、わあっ!」
 ブリガロンの両腕から逃れようともがくルチャブルを、寸でのところで取り押さえる。強烈な力で抑えつけている筈なのに、むしろこちらが力で押し負けているようだ。
 ルチャブルが暴れる度に眼前を羽衣が舞い、薄らと柔らかな毛が生えた身体がブリガロンの腹辺りに擦り付けられる。暖かいような、くすぐったいような、奇妙な感触を覚えた。
「し、ししょ……あばれ、ないでっ!」
「いいや暴れるね! 最後まで気を抜かず、私を落としてみせろ!」
 ルチャブルの身体が揺れる度に、不思議ととてもいい香りがした。様々な花の蜜を混ぜ合わせて作った水あめのように、甘く、蕩けるような、それでいてとても濃厚な。現実は汗と土にまみれている筈なのに、この匂いはいったいどこから来ているのだろうと疑問符を浮かべる。
 それだけではない。ルチャブルの柔らかな肌が腹にこすれる度に、なにか熱いものが下腹部からこみ上げてくるようだった。一瞬なにか搦め手を食らったのかと考えるも、師匠はそのように回りくどい技を一つも持ち合わせていない筈だ。
 だとすれば、これは一体――?
「おい、どうした? 力が抜けているぞ?」
「え、あっ。すみません!」
 下半身にじわじわと這い寄る奇妙な熱に気を取られていると、ルチャブルの訝しがるような声が飛んだ。慌てて、ルチャブルを抱き締め直す。
 息を吸うと、やはり花の蜜のような香りはルチャブルから発せられている事に気付いた。全く嗅いだことのない香りだが、不思議と心が安らぐような気がする。いつまでもこうして嗅いでいられるし、むしろ嗅いでいたいぐらいだった。
 ルチャブルを抱き締めた腕から、じんわりと他人の体温が伝わってくる。何を今さら、という感じだが、どうもこの時のブリガロンには魅力的なものに感じられた。
「おい、どうした? おい!」
 抱き締めたまま動きの止まったブリガロンに向けて声を掛けるも、返事はない。それも其の筈、彼は今、今まで触れた事のあるどの匂いよりも魅力的な芳香にたじろいでいたからだ。
「……いいにおい」
 うわごとのようにそう呟くブリガロンは、高い熱に浮かされたかのように惚けていた。やがてルチャブルの身動きを封じていた筈の両腕の力は解かれ、だらりと垂れる。
「おい、一体どうしたという――きゃっ!?」
 弟子の珍妙な行動に眉根を潜め、気付け代わりに軽く頬を叩くも効果はない。それどころか骨がへし折れてしまいそうなほどの怪力でガッチリと腕を掴まれ、逞しく発達した胸板へと強引に抱き寄せられる。
 理性の境界をひとつ飛び越えたかのように暴力的な仕草に、ルチャブルは思わず冷や汗を垂らした。絵に描いたように温厚な性格の持ち主であるブリガロンが、このように粗暴な攻撃手段をとることなど在り得なかったからだ。
 驚愕に身を凍らせていると、頬になにか冷たい雫が落ちてきた。獲物をまさに喰らわんとする肉食獣のように開かれた大口から、垂れた涎だった。
「お、おい!? 何をしている! いい加減にしないと怒るぞ!」
 再三の警告にも、ブリガロンは呆けたように頬毛を上気させ、ぽたぽたと顎を伝って垂れた雫をこぼすばかり。
なにかが変だと、ルチャブルの歴戦の勘が告げていた。具体的な事はわからないが、とにかくこのままの状態でいることは非常によろしくない。どうにかして、この怪力から抜け出す必要があった。
「……すまない――ッ!」
 かなりの手加減と共に繰り出された蹴撃が、ブリガロンの金的を綺麗に捉える。
瞬間、形容することなど出来ないほどに恐ろしい鈍音が地平に響き、巨木を思わせる大きな体が一瞬跳ね上がった後、糸の切れた操り人形のようにだらりと大地にくずおれた。
ぴくぴくと痙攣を繰り返すブリガロンは、白目を剥いたまま気絶していた。
 性別の壁故にその痛みをうかがい知る事は出来ないが、随分と残酷な事をしてしまったものだ、とルチャブルは溜め息を吐く。
愛弟子にこのような苦痛を負わせてしまったことに申し訳なさを覚えながらも、彼が気絶してくれたことに対しての安堵に胸を撫で下ろさずにはいられなかった。暴力的に抱き寄せられた辺りから、彼がルチャブルを見る視線は明らかに変化を遂げていたからだ。
上手い表し方をルチャブルは知らない。殺意、とは少し違うが、毛色は似ているように感じた。少なくとも普段の彼のまなざしから窺える、澄み通った闘志とは程遠い。醜悪ではないが、見ていて余り気持ちの良いものとは言えなかった。
「……一度エーシャに訊くべきか」
 一難は去ったとはいえ、今後手合せの度にこのような事が起こっていては大変だ。
無論一々対応していてはこっちの身が持たないというのもあるが、彼の身の凶暴性が解き放たれる度に、まだ若い彼の身体を傷付けることになってしまうことが、弟子の身を案じる師匠にとっては何よりも辛いことだったのである。

■

 目が醒めると、僕の大柄な身体は藁敷きの布団の上に横たわっていた。見慣れた木の天井がぼんやりと焦点の定まらない視界に飛び込んできて、自分が今、自分の部屋で眠っていたということを理解する。外はもう夜の帳が降りた後で、果たしてどれ程眠っていたのやら。
半身を起こして、目を擦った。いつもと違うねっとりとした疲労感と、割れるような頭の痛みが襲う。遅くまで眠りすぎたときのような、そんな感じ。ぐぐっと伸びをすると、すこし全身が軽くなった。
「起きたか」
 真っ暗な部屋の中に、蝋燭の仄かな明かりが灯る。輪郭のない蜜柑色の光に照らされて、心配そうな表情をしたルチャブル――師匠の顔が浮かび上がった。
「気分はどうだ? どこか痛むところはないか?」
 いつもと同じか、それ以上に優しい声色で身を案じられて、僕は小さく頷いた。
いまいち何が起こってここにいるのか覚えていないのだが、どうやら僕は何か、師匠に心配をかけるようなことをしでかしてしまったらしい。その顔には、色濃い疲労と懸念の色が覗く。
「あの、僕は」
 何をしてしまったのか分からないが、師匠の顔を見ているとすごく申し訳ないような気持ちになって、僕は言葉を紡げずにうつむいた。心臓がきゅうっと痛んで、頭の中がざわざわとしている。両手に僅かに残る生暖かく嫌な感触。もしかして、僕は。
「僕は一体、その、」
 何をしてしまったのですか、と言おうとして、口に師匠の指先が触れた。緩くかぶりを振って、「なにもいうな」と嘴の下の唇が動く。
 細く小さな手が僕の頬に伸びて、ゆっくりと撫で回される。言葉は無かったが、僕を優しく見つめる金色の瞳の中には、なにか言葉に表すことのできないような、とろみを帯びた感情が渦巻いていた。
「大丈夫だ。分かっているぞ、ぜんぶな」
 そう言って、彼女は細くも逞しい腕で僕の身体を抱き寄せた。
鍛え上げられた胸板に顔を寄せると、僅かに砂糖のような甘い匂いがする。子供の頃は、よくこうやって腕に抱かれていたのを思い出して懐かしい気持ちに浸ると同時に、当時は微塵も感じることのなかった不可思議な感情――師匠の身体にもっと触れていたいという気持ち――が胸の内に渦巻いているのを感じていた。
 それは暖かみを帯びていて、しかしどこか疾しさのようなものを僕の胸に運んでくる。この気持ちに身を委ねることは、きっと間違ったことなのだろうと直感が告げていた。そんなことをしてはいけないという声が、どこかから聞こえてくるようだ。
しかし、肌越しに伝わってくる彼女の熱が、僕の下腹部にじんわりと暖かみを与えていく度に、声の制止も虚しくその感情は昂ぶっていった。半ば無意識の内に手が動いて、彼女の背中の柔肌をそっと撫ぜる。
「? マッサ-ジでもしてくれるのか?」
 僕の高揚など露知らず、無垢に笑う彼女の顔の、その全てを愛おしいと思った。
それと同時に湧き上がる熱い感覚に、臨界まで昂ぶったその感情が呼応する。下半身の熱は最高潮に達し、今にも灼熱を孕んだものが隆起しそうになっていた。
「その通りです。ここに、仰向けで横になって下さい」
 心の内でごめんなさいと呟いて、僕は藁敷きの布団の一部を空けた。なんの疑いもなくそこに横になる師匠の姿に、ちくりと罪悪感で胸が痛む。しかし、もう止まるという選択肢はどこにもなかった。
 師匠の身体に跨るようにして覆い被さると、彼女の全身を掌握しているような気分になれた。今この瞬間だけは、彼女の肉身全部が僕のものだった。
「では、いきます」
 息を吸って、吐く。早鐘を打ち続ける心臓の痛みが止まらない。もうすぐ師匠が僕のものになるという紛れもない事実が、嬉しくもあり、しかし怖くもあった。
「……君は、嘘つきだな」
 感情の濁流をいなそうと深呼吸を繰り返していると、不意に師匠はからかうような口ぶりでそう呟いた。
「私に隠し事など、百年早いぞ」
中空に投げ出された視線。だらりと横たわる四肢。
しかしその言葉は、確実に僕の方へと向けられていた。脳裏を金槌で叩かれたような衝撃に、思わず目を見開く。
「し、師匠。いま何と」
 二の句を継げずに口をぱくつかせていると、師匠の細腕がするりと伸びて、僕の股をそっと撫でた。別に逸物を撫でられたわけでもないのに、絶妙な力加減によって痺れるような甘さが下腹部にもたらされる。
「……っ、あっ……。な、にを……」
「君が私に情愛を抱いていることを、知らないとでも思ったか。いつだって師匠は、弟子のことなどすべてお見通しだよ」
 刺激によって飛び出してきた僕の逸物を、彼女の両手は陶器を洗うかのように優しく前後に扱く。その適度な温もりを孕んだ手が触れる度に、ぞわりとした感触が尻尾の先から首筋までを駆け抜け、気の抜けたような声が漏れる。
「ひ……し、ししょ……」
 びくびくと脈打ち、充血しながら大きくなっていく逸物を、師匠は物ともせずに扱き続ける。傷付けないよう配慮を配りながら爪で弱く引っ掻いたり、腕の羽根で亀頭を撫でつけられると、この上ないほどの快感の雷が僕の脊椎を打った。戦闘に明け暮れていた筈の師匠がどこでこのように巧みな性技を会得したのか、とても気になる。
 何度目かに逸物を突かれた時に、ふと自分の逸物がぬらぬらとした透明の液体に覆われているのに気が付いた。じんわりと沁みだしてくるそれが、師匠の胸にぽたりと垂れる。
 師匠もそれに気付いたのか、扱いていた手を止めた。しばらく考え込むように僕の逸物を眺めて、それから僕の逸物――ではなく、自分の股に手を伸ばした。
「よくよく考えたら、君の方ばかり快感を得るというのも変な話だ。私にも、見返りがあってしかるべきではないか?」
「え、あ、」
「私が欲しいんだろう? なら、くれてやるさ」
 師匠は自分の股の割れ目を、まるで僕を誘うかのように扇情的になぞった。くちゅ、と粘り気のある水音が淫らに響き、つられるようにして師匠の顔が仄かに上気する。
「ん……。どうした、見ているだけか?」
 師匠が股から汁まみれになった手を退かすと、半熟した桃を思わせる可愛らしい割れ目からとろりと僅かに濁った果汁が垂れた。餌を欲しがる雛のように、ひくひくと中の肉が震えている。
 蕩けるような蜜の香りが鼻腔を擽って、僕は思わず唾を呑んだ。あそこに物を入れたなら、その甘さはどれ程僕を気持ちよくさせてくれるのだろうか。想像するだけで、全身が燃えるように熱くなる。
「来なさい。キミを大人にしてやろう」
 そう言って、彼女は瞳を瞑った。身体からは完全に力が抜かれ、柔らかそうな腹の白毛ががら空きになる。
「し、失礼します……!」
「こら。……女性には、もっと優しくするものだぞ」
いきなり挿れてしまうのがナンセンスであることぐらいは兄弟子たちの会話から聞いていた。ぐぐ、と腹先を下から上へとなぞり上げると、彼女の口から扇情的な呻き声が漏れ、小さな身体がぴくんと跳ね上がる。その声色には僅かな不満が見られた。どうも、強くやりすぎてしまったらしい。
「こう、ですか」
「うむ……っ。初めてにしては、上手い、じゃないかっ……」
 毛を梳くようにして腹を擦ると、今度はお気に召したのか、表情は朗らかな笑みに変わった。
 もう一度、今度は上から下へと爪先を動かす。最初は表情を崩さなかった彼女も、ある地点に爪が辿り着いた時には、流石に平時の顔ではいられない。
「ん。もう、はじめるのか」
「だめ、ですか?」
「……いいや。だが、がっつく男は嫌われるぞ?」
 悪戯っぽく口端を歪める師匠は、飄々とした発言の割には頬を赤らめ、浅く息を吐いている。言葉では引き留めようとしているが、身体は欲しているというところだろうか。
「でも、師匠は僕のこと、嫌いませんもんね」
「全く、君という奴は! 本当に私のことを――」
 ご機嫌な言葉は最後まで紡がれない。その前に、僕の爪が彼女の湿った股に触れていた。
「ひっ!」
 彼女の口から、上ずった声が漏れだした。初めて聴くものだったが、とても耳触りが良い。ずっとこのままこうしていたいぐらいだ。
「ま、待て! まだっ、心の準備、がっ! ちょ、ひゃっ」
 執拗に股の中を撫ぜ繰り回す度に、粘り気のある水音と、師匠の嬌声は大きくなっていった。次々と襲いくる快感の波に耐えるように固く目を瞑り、紅潮させた頬が浅く息を吐く度に萎んでは膨らんでいく。
「う、くううっ。あっ……ま、おい、っ……!」
 ここまで取り乱した師匠を見たのは、生まれて初めてのことだった。そして取り乱した原因が僕の一手にあるという事が、たまらない快感となって僕の理性を粉々にする。
師匠はどうも、仕掛ける技術はあっても受けに回るととんと耐性がなくなるらしくらしく、僕が何をしても面白いように身を跳ねさせ、熱烈に喘いだ。平らな胸に舌を這わせれば吐く息に熱が籠り、蔦で股を擦れば荒い刺激に獣のような雄叫びを上げる。凛々しく立つ普段の姿と色情に喘ぐ今の姿の差異が、見ていてとても面白い。
はあはあと息を荒げる口に粗雑に舌をねじ込んで、口腔の肉を根こそぎ舐め上げる。無防備に投げ出された彼女の小さな舌を絡めとって、ありったけの唾を流し込む。
息苦しさに身を引くと、唇と唇の間に白露の糸が伸びた。口元から零れ落ちた唾液の雫が、深く喘ぐ彼女の肌につうと沁み込んでいく。
「師匠。ぼく、もう我慢できません……!」
「……くはっ……はっ……はあっ……。いい、ぞ……挿れてくれえ……っ!」
 重厚な熱を求めてひくひくと震えを繰り返す師匠の股座に、灼けた岩石のように堅く熱を帯びたモノを宛がう。そのまま底なしの沼に足を踏み入れるようにして、恐る恐る挿入していく。
「……う゛っ! あ゛っ、ああっ……!!」
 きつく締まった膣壁を掘り進む度に、師匠の灼熱を帯びた嬌声は、そして肉棒を締め付ける膣圧は強くなっていく。股間を締め付ける激烈な痛みと快感――生まれて初めて振るわれる甘美な暴力に僕は思わず歯を食いしばり、くぐもった声の漏れる口端から涎を零した。
「いぎ……ああ゛っ! ……もっどぉ! ゆっぐりぃいい゛っ……!!!」
 嵐のように襲いくる激痛に対し、身を揺らしての懇願。あの師匠が、僕の手によってこんなに無様な醜態を晒していることが、辛うじて痛みによって平静を保っていた筈の僕の精神を堪らなくさせる。もっともっと、ダメにしてやりたいと思った。
「ごっ……おごっ……おごおっ……!!!」
 懇願を切り捨て、そのまま乱暴に突き進む。膣壁に肉棒が擦れる度に、師匠の口からは野生を濃縮したような悲鳴が漏れる。痛みと悦楽の境界で喘ぎ、汗と涎まみれでよがり狂う師匠の姿は姿は痛々しくもあり、しかしそれ以上に美しさがあった。
が、きつさを増していく締め付けに邪魔されて、僕の肉棒は半分ほど進んだところで完全に動きを止める。強引に突き出して進もうとするも、その度に漏れる師匠の声は最早悲鳴の域に達していて、これ以上は身体に関わるという事は嫌でも分かった。
 仕方なしに肉棒を引き抜こうとしたその矢先、全身が掻き回されるような痺れが全身に走った。尿道の奥から先端に向かって走ってくる鋭利な快感。じんわりと先端が熱くなったかと思えば、下腹部に生じたどんよりとした感覚が急速に膨らみ――弾けた。
「あ、はああ、あ゛っ……!」
 長い間続いた排尿のあとのように、ぶるりと身体を震わせる。目には見えないが、何かどろりとした液体を放出しているような感覚があった。
 どくどくと脈動するモノを引き抜くと、師匠の股座からは大量のぬめりが溢れ出てくる。ミルタンクの乳のように真っ白ではあるが、その粘り気の高さと言葉にし難い臭いは乳とは似ても似つかない。
 未だびゅるびゅると白くべたつくものを吐き出し続ける逸物に、自分のものでありながら困惑を隠せない。これが所謂精液と呼ばれるものであることは兄弟子達の猥談から聞こえてきた情報で理解してはいるが、実際に見るのは初めてだった。
 師匠の腹を受け皿に、こみ上げてくる液体の全てを出し切ると、急激に身体が倦怠感に包まれた。猛烈な睡魔に襲われ、視界が妙にぼやけてくる。先程眠ったばかりだというのに、脳の奥から透明な痺れの波がやってきた。
 ひっひっとグロッキーな様相で浅く息を吐く師匠の姿も、霞がかってぼやけていく。全身に張っていた力も次第に抜けていき、糸が切れたように布団の上に無造作に転がった。
 天井が遠い。部屋で燃える蝋燭の朱色も次第に薄れていき、全身が水の内に投げ出されたかのように重く沈んでいく。
 やがて何も考えられなくなって、そうして、そこで僕の意識はぷつんと途絶えた。

■

 目を覚ますと、清潔感のある白い部屋に僕はいた。大きく開け放された窓からは夕方の茜が覗き、緩やかに流れる春風が寝覚めの肌に心地いい。
 鼻を突く薬品の粉っぽい香りから、ここがどういう場所で、何故僕がここにいるのかを理解する。師匠と一夜の夢を結んだ後、気を失ったままの僕はここ、医務室へと運ばれて、そのまま呑気に夕方まで快眠を貪っていたのだ。
「……しまった」
 地平線の遥かに見える太陽は既に半身を沈ませていて、どう考えても毎日の稽古はとうに終わっている時間だった。今まで十数年、片手で数えるぐらいしか欠席したことはなかったというのに、ついに両手を使う時が来てしまったのかと思うと至極情けない。しかも、病気とかじゃなく、理由が理由なだけになおのこと。
 自己嫌悪に浸りながら呆然としていると、なにやら尻のあたりに冷たいむず痒さを覚えた。手を伸ばすと、ぬちゃりという水気のある感触。そして予想通り、大変に嫌な臭い。
「う、うそだ」
 この唾棄すべき感触を、僕は子供のころから知っていた。まだ齢十にも満たない頃、僕は毎晩のようにコレをやらかして、兄弟子たちからからかわれていたのだ。それだけでない、豪快に跡を残した藁敷きの布団と共に、仕置きと称して僕の身体も物干し竿に干されていたっけ。
 つまるところ、まあ、寝小便だった。
「う、うわあ。やっちゃった……」
 僕の身体が横たえられていた白い布敷きの布団は弁明のできないほどに大きな池だまりを作り、何とは言わなくても分かる汁に塗れてぐっちゃぐちゃだった。
 ぼやんとしていた脳から急激に熱が引いていく。それと同時に、頬が恥ずかしさでこの上なく上気した。寝小便など子供の内に克服すべきものだというのに、最終進化を迎えた今になってやらかしてしまうなんて、師匠が見たらどう思うだろうか。
 なんとかして隠ぺいを図ろうとした矢先、医務室の戸がぬるりと動いた。余りにも狙い澄ましたかのような瞬間の出来事に、思わず身体が固まってしまう。
「ロプカくーん。調子はどう? 起きてる?」
 絹糸のようにしなやかに絡みつくような声は、部屋に入ってきたニャオニクス――この道場の健康観察役兼医師を務める、エーシャさんのものだった。
「あ……や、その……」
「おや、意外と元気そうね。……ちょっと、なにそのかっこ」
「い、いえその」
 布団目一杯に広がる粗相の湖を覆い被さるようにして隠していると、当然のようにエーシャさんのするどい眼が突き刺さる。感情の読み取り辛い琥珀色の瞳がきんと光る度に、針のむしろにでも座らされているような気持ちが強くなっていく。
「……ふうん、おねーさんに隠し事するんだ。でもぉ、今まで隠し通せたことってあったっけ? うん?」
 小さな口元が僅かに歪み、声色が露骨なまでの猫なで声に変わった。どうやら、エーシャさんの感情の決して少なくない領域を占める&ruby(いたずらごころ){加虐心};に火を付けてしまったらしい。さも愉しそうに舌なめずりまでしている辺り、僕のけなげな隠し事を暴く気は満々のようだ。
「ない、ですけど……! 男には、その、譲れないものがあるっていいますか……!」
 ずい、と顔を突きだし、無理やり視線を合わそうとしてくるエーシャさんの瞳を避けようと、僕の視線はあちらこちらに逃げ回る。気分はさながらアリアドスの巣に絡め取られたバタフリーのようだ。無駄な抵抗と分かっていても逃げる為にもがかざるを得ないところなんか、特にそう。
「譲れないもの、ねえ。あかんぼのキミのおしめ代えたげたこともあるんだけどなあ。おねーさんたち隠し事する仲かなあ」
「譲れないったら譲れないんです! ってか、ちょ、顔近いですってえ……!」
彼女が口を開く度に、妙に湿っぽい吐息が鼻先にかかる。酸味とほろ甘さが入り混じったような上品な香り――例えるならばタポルの花のような――が鼻腔をくすぐって、ようやく忘れかけていた筈の下腹部の熱と強烈な心臓の鼓動が蘇ってくる。
こみ上げてくる熱情に一瞬身を固めた隙に、エーシャさんの折りたたまれた耳が開く。
しまった、と思った時にはもう遅い。紺色の手が僕の頬に触れた瞬間、紫色の鈍い光が眼前を照らし、なにか巨大な、しかし不可視の力によって身体が宙に持ち上げられる。
「上へまいりまーす」
「あっ! ず、ずるい!」
「警戒を忘れたキミが悪いのよー。ほいっと」
 身を包む強烈な浮遊感にもがいても、念力の糸に絡み取られた身体はもう動かない。エーシャさんはしてやったりという笑みを浮かべたあと、僕が渾身を込めて隠し通そうとしていた布団を無慈悲にめくり上げる。
「ちょ、やめっ!」
「……あらあら、これはこれは」
 布団の中身の大惨事をまじまじと見つめて、それからわざとらしく大仰に口に手を当て、天井に磔にされた僕をまじまじと眺めた。視線にはからかいの念が強く、強く込められている。笑い飛ばされないのが逆に辛いことを理解しているらしく、口端は敢えて歪んでいない。なんともいやらしいひとだ。
「わ、笑うなら笑ってくださいよ……! でででも師匠にはゴナイミツに……」
「笑う? しないわよーそんなこと。だってこれやったの、結果的にはアタシだし?」
 にゃは、といかにも猫ぶったように彼女が笑う(結局笑ってるじゃないか!)のとは逆に、僕はぽろりと彼女の口から漏れ出た言葉に眉根を顰める。
 
「い、いま、なんと」
「え? だから、キミの師匠には言わないって――」
「いえ、そこじゃなくて。ほら、これやったのアタシだし、みたいな」
「ああ。えっとね、ロプカくんさ、さっき変な夢見てたでしょ」
 すう、と僕の全身を覆っていた念力が薄れていき、ゆっくりと湿った布団の上に下ろされる。どうせなら床に下ろしてほしかったんだけどなあ。
「変な夢?」
 エーシャさんの言葉がいまいち良く分からずに、僕は頭を捻る。
エーシャさんが言う変な夢とは、一体いつのことだろうか。確か僕は朝方の対決で師匠に思いっきり敗北を喫して、それから夜になって、師匠と激しく交わって――それから、ここに至るのだけれど。
そこまで記憶を掘り返して、まさか、と思った。身体から、温度が抜けていく。
「……もしかして」
「うん、そのもしかして。キミさ、……その、エッチ、してたでしょ。あれね、ぜーんぶキミが見た夢」
 流石のエーシャさんもその言葉は口に出しにくかったのか、雪のように真っ白な頬毛が仄かに明るみを増していた。そういう事に関しては割と手練れているように思っていたけれど、彼女もなかなかどうしてうぶらしい。
が、しかし、今の僕にとって、そんなことはどうでも良かった。肝心なのは、幸福の海で泳ぎ回るような心持ちだったあの夜の出来事が、全て現実のものではなかったということ。
そしてそれが、どういう訳かエーシャさんに知られているということ。
「……な、あれ、夢だったんですか! っててていうか何で知ってるんですかっ!!」
「だって師匠師匠ってうなされてたら覗きたくなるじゃーん!! アタシてっきりさーまたキミがリエッタにしごかれてる夢だと思ってさー! そしたらまさかキミとリエッタがあんなさーくんずほぐれつさー――」
「う、うわー!」
 その良く動く口からぼっろぼろと零れてくる僕の夢の中の話を食い止めるべく、僕はおもむろに肩から伸ばした蔦をエーシャさんの口に突っ込んだ。
「もがもが」
「ちょ、言わなくていいですって! うなされてたとしてもヒトの夢をゆめくいで覗くなんてマナー違反ですよ! ポッ権侵害ですよッ! 誰かに聞かれたら――」
「ぷはっ! ……ごめん、ごめんってば! 流石にアタシもそんな夢見てるなんて思わなかった! お詫びにほら、ちょびっとリアリティ足しといたから、ね?」
 ぱちん、とウインク。まるで反省していなかった。
「……りありてぃ?」
「あーほら。ナマモノ感あったでしょ、キミの師匠のその……中、さ。流石に夢精までさせちゃったのはやりすぎたかなーって思ったけど。」
「夢精って……まさか、布団のこれのことですか?」
「ごめーさつ。素晴らしい出しっぷりでございました」
 いやはやごちそうさまでした、と彼女は舌を出した。いったい何を食べたのだろうか。知りたいような、知りたくないような。いや、やっぱ生涯知りたくない。
なにはともあれ。布団の一件を「アタシがやった」とは、つまりそういう事だった訳だ。確かに急に師匠が部屋に居て、急に身体を交わらせたくなって、さらにあの師匠が一切の抵抗を見せなかったりしたけど。そういえば何故か夜だったし、そもそも僕の種族がら大きくなってしまう逸物が(自慢じゃなくて)、師匠の小さな体に奥まで入る筈がないというのに。
「……そっかあ、夢かあ。そうだよなあ」
「ん? どうしたの? 嫌だった? 気持ち良かったでしょ?」
「いや、まあそうなんですけど……現実じゃなかったのかあって。いや別に、エーシャさんを非難するつもりはないんですけど、ただ……すっごい現実的で、アレが現実だったら、どんなに良かっただろうって」
 奇妙なやりきれなさが僕の中に渦巻いていた。少しでも気を抜くと、エーシャさんを責めたててしまいそうになる。彼女は別に僕をこんな思いにさせようとした訳じゃなく、完全な善意から来た行動だってのは分かってはいるのだけど、どうにも。
「うーん。アタシ、キミを傷付けちゃったのかしら。ごめんなさいね」
「い、いえ、そういうつもりじゃ……。僕が勝手にそう思っちゃったってだけで、エーシャさんには感謝してますよ。多分、もう二度と出来ない経験でしょうし。夢であっても、良かったと思います」
 夢の中であれなんであれ、憧れの師匠と身体を交わらせることが出来たというのは、きっと僕の中で一生の記憶として残るだろう。それはきっとうれしいことだ。たとえ紛い物であったとしても。
「……まあ、夢の中でリアリティのある性交なんてなかなか出来ないわよね。……ところでロプカくん、話は変わるんだけどさ――発情期って知ってる?」
 はつじょうき。兄弟子同士の会話に出てきていたのを聞いたことはあったが、その意味は教えて貰えなかったことを思い出す。会話の内容から公には言えないような言葉であることは分かっていたけど、その意味までは知らなかった。
「いえ、知らないです」
 僕がかぶりを振ると、エーシャさんは安心したようにふっと息を吐いた。
「そう。発情期っていうのは、言っちゃえばキミが子供から大人になった証拠みたいなものね。身体がムズムズして、女の子と結ばれたーいって思っちゃう時期の事なんだけど。思い当たる節は?」
 その言葉を受けて、少し思い返してみる。思い当たる節は山ほどあったし、そのほぼすべてが、師匠との一件だった。
「その、言いにくい話なんですけど。一か月ぐらい前から、そんな気持ちになってることがよくあるんです。……師匠の、傍に居ると」
「そう。ありがとう」
 そこで話を区切ると、エーシャさんは僕の身体に自分の身体を引っ付けた。毛の向こう側からじんわりと伝わってくる熱と甘酸っぱい香りが、僕の心臓をどくどくと波打たせる。
「ね。今、どんな気持ち? どんな匂いがする? 正直に」
「……胸が、すごく、どきどきします。あと、良い香り。ずっと嗅いでいたいような、そんな」
 そこまで言うと、エーシャさんは身体を離した。
「そう感じるってことは、今がその時期なのよ。これは悪い事じゃなくて、生き物ならみんなに訪れるの。大人になったって証拠。特に男の子は激しいことが多くてね、だからこうして――」
 エーシャさんのしなやかな手が僕の下腹部に伸び、そのままねっとりと撫でつけられる。
「……っ。な、なにを!」
「――定期的にガス抜きしてあげないといけないの」
 仄かに念力の込められた手がモノの収納口をなぞると、狂おしいまでの痺れが全身に走った。身体がびくんと跳ね、身体の中にしまわれていた逸物が、天を貫こうと勝手に伸び始める。
「う……ああ、っ……じ、じんじんする……」
「こういうの、普通は自分でするんだけどね。今日はいろいろお詫びの意も込めて、おねーさんがやったげます」
 指先で撫で回され、いよいよ露わになった僕の逸物を、エーシャさんは宝石でも磨くかのように柔らかく、丁寧になで回す。粘り気を大いに含んだ水音が響き、お腹の中をちくちくと刺すような刺激が息をつく暇も無く襲ってくる。
「うわあ、ロプカくんのおちんちん、おっきいねえ。根っこみたい」
「や、やめてくださ……んっ」
 彼女の小さな指先が竿の裏筋に触れた瞬間、これまでにない快楽の杭が全身に突き立てられた。ふらりと一瞬眩暈がして、寒気を伴った熱がじんわりと立ち込めてくる。
 そのまま裏筋をねっとりとなぞり上げられて、僕は赤ん坊のような声を漏らした。少しずつ鋭敏になっていく肉棒に電流じみた快感の奔流が迸り、心臓の鼓動がどくどくと強く聞こえてくる。
 こみ上げてくる尿意に似た切迫感に抵抗しようとしても、肉棒を擦り上げられることによって生じる快感の波によって、身体は完全に抵抗の意を無くしていた。
 エーシャさんの手つきは巧みだった。荒っぽく強引に舐り回したかと思えば、不意に柔らかく優しい撫でつけが襲ってくる。そんな緩急が断続的に襲ってこれば、そういった感覚に不慣れな僕にはもうどうすることも出来ない。
「どう? きもちいい?」
「ん、きもちい……っ!」
「そう。じゃあ、これは?」
 まるで果実を食むかのように優しく、彼女は僕の肉棒の先端を銜え込んだ。柔らかく、甘い熱を孕んだ彼女の唇が肉を上下に扱きあげる。
「あ、ああっ……!」
 なるべく声を立てないようにと我慢していたが、それももうだめだった。身体の中で一番敏感な場所を息つく暇もなく責め立てられて、喉の奥から絞り出される声は僕が今まで一度も聞いたことのないものだった。
 仄かな湿り気を持つ彼女の腔内が、じっとりと僕の汁に塗れていくのが分かった。頬が汁気に膨らみ、堰き止められなくなった口端からつうと雫を垂らしてもなお、彼女は舌を転がしている。唾液と汁の重なり合う、ぷちゃぷちゃと淫らな水音が響く。
 息が続かなくなったのか、彼女は渇きを癒す旅人のようにして腔内に溢れた汁をごくごくと飲み欲し、僕の肉棒から口を離した。棒の先端と彼女の舌先に、つうと白い糸が伸びる。
「はあっ……はあっ。ここまで大きいの、はじめてっ……」
 そう言って、彼女は愉快そうに頬を上気させる。まるで砂糖菓子を目の前にした子どものように、その目には眼前のモノを食べ尽くすという意思しかみられない。
「あのっ……! い、いったん休憩に――」
「だめよ。ここからなんだから」
 彼女の金色の瞳が怪しく光り、身を捩って逃げようとした身体が動かない事に気付く。念力の糸に絡み取られた身体は、もう彼女に食べられるのを待つだけだった。
「う……あ……」
 逃げようとした罰、と言わんばかりに、彼女の舌遣いは激しさを増していく。快感は押し寄せる嵐のような過激なものに変わり、身体に走る疼きははっきりとした震えに変わった。
「う、く……あああっ!!!!」
 舌先がある地点に触れた瞬間、ぴくん、と身体が強張る。下腹部からこみ上げる焦燥感を抑えきれず、僕の逸物は今まで溜め込んできた精をどっぷりと吐き出した。天井まで届いてしまうのではないかというぐらいの勢いで噴出した精液が、仰向けになった僕の腹やエーシャさんの身体、布団周りにべっとりと撒き散らされる。
「あっ、あっ……とまらないぃ……!」
 情けない叫びと共に、逸物の脈動は数分続いた。今までの人生の劣情を全て解き放つようにして激しく蠢きながら、びゅるびゅると濃い匂いのする精液を噴き出している。
 粘り気のある液体が尿道に擦れると、たまらなく気持ちがいい。正真正銘、生まれて初めての感触。夢ではない、現実のもの。暴力的なまでの快感が僕の脳をがんがんと揺らし、それ以外の事を何も考えられない。
 ようやく吐精が止まり、だんだんと理性が形を取り戻した。
 ばくばくと波打つ身体を起こして、辺りを見回す。ひどいものだった。布団は先程とは比べ物にならないぐらいに精液にまみれ汚れており、床にまで白い液溜まりが広がっている。後始末に掛かる時間を考えたら、ぞっとするほどだ。
「……うう」
「全部出しちゃった? まだ出そう? 出そうならもっかいやったげるよ?」
 僕の精液で腹の毛をべったりと濡らしながら、エーシャさんは荒い息を吐く僕に声を掛ける。
「……多分、ぜんぶ、出たと思います」
「そう。気分はどう? ちょっとはスッキリしたでしょ」
 言われてみれば、心なしかさっきより少し全身が軽くなったような気がする。具体的には、お腹の中に広がっていたもやもやが晴れたというか。目の前が明るくなった気もするし。
「……ふむ。ロプカくんさあ、自慰の仕方って誰かから教えて貰ったことある?」
「自慰ってなんですか?」
 僕が首を傾げると、エーシャさんはあんぐりと口を開けて呆然とした。
「くそ、リエッタめ! ……弟子の性教育ぐらい自分でしときなさいってあれほど言ったのに!」
 僕の発言はなにか不味かったのだろうか。エーシャさんははあ、とため息を吐いて手で顔を抑えた。ぶつぶつと漏らす呪詛に時折リエッタという言葉が混じることから、なにやら師匠に対して怒りを覚えているようだった。
「ロプカくん、今いくつ?」
「え。えっと、十五、だと思いますけど。たぶん」
「だよね。んー……精通の時期としてはまあ普通、少し遅いぐらいか。となると、まあ、気付かなかったって可能性もあるにはあるけど……いやでも言い訳無用よね、お説教よね、うん。こーなったら意地でもアイツに……」
 何かに取りつかれたようにブツブツと呪詛じみた言葉を吐き出し続けるエーシャさんを、このまま放っておく訳にはいかない。おっかなびっくり、僕は声を掛けた。
「あ、あのう。結局その、自慰ってなんなんですか?」
「ん? ああ、それに関してはね、君の師匠に教えを説かせることにしたから」
「今教えてくれないんですか」
「ええ、アイツの口から直接言って貰うわ。恥ずかしさでもだえ苦しんで死ねばいいのよ」
「死んでもらっちゃ困るんですけど……師匠が何かしたんですか?」
「君の教育を怠った罰よ。あいつは恥ずかしいだろうけど、キミが困る事はないから安心なさい」
「……は、はあ」
 とっときの邪念が籠ったウインクを受けて、僕はそれ以上追及することを諦めた。ぐらぐらと煮立つ活火山をわざわざ登山する必要などどこにもないのだ。
「ま、とりあえずお風呂入っといで。疲れたでしょうし、その、結構臭うわ」
 彼女は鼻を抓んで、僕の事をまるでキタナイものでも扱うかのように見た。こんな風になったのは一体誰のせいだと思っているのだろうか。理不尽極まりない。
「キミがお風呂入ってる内にいろいろ段取りしとくから、ほら行った行った」
 しっしっ、と払いのけられ、僕は医務室から追い出された。
なんというかとても納得がいかないことだらけだし、エーシャさんはどうせまたロクでもない事を考えているみたいだったし、どうにも気分が重くなるばかりだ。
「……お風呂入ろう」
 僕は溜め息を吐いた。肩が重い。

■

 身体にこびり付いたぬめり気を落として、熱い湯がなみなみと張られた檜の湯船にゆっくりと体を沈める。ざばあ、と大きな音がして湯水が湯船からあふれ、一人で使うには広い浴場の全体に、木の格子窓から洩れる茜色の光と同じ色の湯気が立ち込めた。
 脱いだ甲羅を腹に抱え、湯船のへりにもたれ掛かる。身体をお湯に任せて力を抜くと、張り詰めていた気が緩んだのかどっと疲れが襲ってきた。湯の中でなければもう一眠りしてしまいそうだった。
「……はあ。あーあ。あー……夢かー」
 心の中のもやもやとした気持ちが、声となって湯気の中に吸い込まれていく。幸いにして浴場には誰もいなかったので、世の中の無常を嘆く言葉は誰にも聞かれずに済んだ。
 確かに僕は、夢であったとしても良かったと言った。それは本心だ。貴重な体験をさせて貰ったと思う。
「……夢かあ」
 だけど、あれがもし現実であったならば――という気持ちは、どうしたって消えない。あの夢のように、師匠が僕の事を一匹の男性として好いてくれていたならば、どんなに幸せだろう。師弟の境界を越えて、そういう関係になれたのならば、どんなに。
 そこまで考えて、僕は自分の考えの幼さが嫌になった。
 彼女にとって僕は、鍛えるべき弟子の一匹。それ以上でもそれ以下でもない。
幾ら他の通い弟子とは違い赤子の頃から寝食を共にしているとはいえ、彼女がまさか僕に対して恋慕の念を抱いているなど在り得ないし、甘い夢の残り香に酔っているのならば早々に目を覚ますべきだ。しっかりしろ、僕。
「ううう……やりきれないよお……!」
 額をがんがんと浴槽の縁に打ち付けて、叫ぶ。
エーシャさんの前ではあんな優等生じみたこと言ったけど、本当は物凄く悔しいし悲しいし、辛い。目の前に好物を吊り下げられて、ようやく飛び付けたと思ったらそれはハリボテだった――なんて、そんな残酷な事実、最悪だった。
アレは夢で、今のが現実。所詮は夢物語。そんなことは分かっている。分かっていても、どうしても心は割り切る事が出来なかった。もしも、という言葉がきりきりと痛む胸から離れようとしてくれない。
「何がやり切れねーの?」
「だって! あれが現実だったらこれからも師匠とああいうこと出来るってことだし!」
「ああいうことって?」
「そりゃあ……キスとか、エッチ、とか……あとおちんちん触ってもらえたり……」
「へー。お前ししょーとそーゆーことしたいんだ。好きなん?」
「大好きだよ! 当たり前じゃん! 何年も前からずっと――」
 ……いや、ちょっと待って。僕は今、誰と会話をしてるんだ?
「――ずっ、と?」
「お? どうした?」
 弾かれるようにして顔を上げると、目の前にはキノガッサの爽やかな笑み。
「う、うお゛お゛おおおおおおおっ!!!! おっ、おわっ、お゛おおおっ!?」
「うおっ、どうした! つーか何つー声上げて――んごおっ!」
 パニックのあまり突き出した正拳が、キノガッサの鼻っ面を綺麗に捉える。べご、とひときわ鈍い音がして、哀れキノガッサは放物線を描いて吹き飛んでいく。壁際に積まれた桶の山に突き刺さって、からんどごんと軽い音が浴場に響き渡った。惨状。
「う、うわー! ななな、なんで!? なんでギィ兄がここにいるのさ! 通い弟子でしょ!?」
「いや、汗かいたし浴びてこうと思って……えってかなんでなぐるの……?」
「ご、ごめん。パニックになって、ギィ兄がそこに居るという事実を抹消したくなって、つい」
「りふじん」
「ごめんってば! っていうか、入ってくるなら一声かけてよ!」
 浴槽から出て、桶の山に埋もれたまま動かないギィ兄を強引に引っ張り上げる。
「痛つつ……いや、俺ちゃんと声かけたぞ? でもなんかお前、うおーやりきれねー!!!って叫んでて全然返事返してくれなかったし、急に叫ぶから心配になって入ってきたら、こう」
 ギィ兄は、ややオーバーに自分の鼻面に拳を当てる仕草をした。ちょっと根に持っているらしく、やや視線がきつい。
「……ごめん」
「うはは、そんな縮こまるなって冗談だから。ちょっと取り乱しただけだもんな、別に怒ってねーさ。で、何があったん? 頼れるギィ兄に話してみ?」
「誰にも言わないって約束してくれるなら話すけど」
「言わない言わない。ほれ、寒いし湯船に浸かろうぜ。ゆっくり聞いてやるからさ」
 促されるまま湯船に浸かって、僕は今日体験した事、それから感じたことについてぼつぼつと話し始めた。

 今日一日で起こったことと、それに関して僕が感じた複雑な気持ちについて、上手く整理して話すことはとても時間が掛かった。いつの間にか格子窓から差し込んでいた筈の夕陽は透明な月の光に変わっていて、外はもう真っ暗だ。
「ははあ、お前もそんなスケベな夢見るようになったんだな。まあ確かに現実じゃなかったってのは辛いだろうけど、貴重な体験てことで良いじゃん。だめなの?」
「それは分かってるし、僕もそう思ってるよ。……でもさあ、なんかもやもやするっていうか、イライラするっていうか、よくわかんないの」
「ふーん」
 ギィ兄は随分と間延びした声で相槌を打ち、湯船から出て身体を洗い出した。
「真面目に聞いてよ」
「聞いてる聞いてる。……俺が思うにさー、お前もう師匠に好きですって言っちゃうべきだろー」
 もこもこの泡だらけになってから、洗い流す用の桶を手元に持ってこなかった事に気付いたらしい。泡に塞がれた視界でよたよたと危なっかしく桶を求めて歩き出したので、蔦を伸ばして桶を渡してあげる。
「ちょっと、真面目に答えてよ。僕本気で悩んでるのに」
「いやいや、大真面目だって。結局お前は師匠と付き合いたくて、そういう関係になったと思ったら夢でしたーってなってて悶々としてるんだろ? だったら現実にしちまえばいいじゃん」
 ざばあ、と湯を浴びて、頭の傘から泡交じりの湯を滴らせながらギィ兄は口を尖らせた。
「現実に出来たらそりゃいいけどさ。……できないでしょ」
「なんでさ」
「だって……僕をそういう風に見てくれてると思う?」
 首まで湯船に沈んでぶくぶくしてみる。ぽこんぽこんと桶の底を軽快に叩くギィ兄は、なにかを思案するようにして口をつぐんでいた。
「無理ならまあ、無理でも……仕方ないなって思うけどさ。でもさあ、もし、その事で師匠が僕を破門にするとか、そういうことになったらさあ」
 師匠が僕に破門を言いつける姿は想像できなかったけれど、仮に僕が師匠だったとして、弟子から性的な目線で見られていると分かったなら、多少なりとも接し方は変わってしまうだろう。間柄に亀裂が入ることも、容易に想像できる。
「破門……多分そりゃないと思うけどな。まあ、無理って言われる可能性はあるわな」
「でしょー。だから、心にそーっと留めておこうかなーって……」
「この先ずっと悶々とするぐらいなら、はっきりさせちまった方が良いと思うけどなー」
「そうかなあ……」
 納得がいかず、なおも悶々とした面持ちでぶくぶくしていると、湯熱にあてられたらしいギィ兄はおもむろに立ち上がって湯船から出た。
「のぼせそうだしもう行くわ。がんばれよー兄弟子さん。成せばわりと何とかなるぞー」
 きざったらしくニッと笑って、ギィ兄は浴室から出て行った。
「適当だなあ……」
 そして一人になって、また静かになった。格子窓から溢れる月の光を溶かし込んでキラキラ光るお湯に潜ってみたり、なんとなくで大量の桶を湯に浮かべても気分は晴れない。あれやこれやと考えてみるけれど、結局どうにもいい案は浮かんでこないままだった。
 いい加減身体がふやけそうだったので、風呂から上がって身体を拭いた。甲羅を背負い直して外に出る。煩悩と湯熱に火照った身体に、吹き抜ける初秋の夜風が気持ちいい。
 ふと見渡すと、師匠の部屋からは橙色の光が漏れていた。いつもは食事のあと、一番風呂を浴びたらすぐに眠りに就く筈なのに、まだ起きているだなんて珍しい事もあるもんだ。
「……怒ってるのかなあ」
 人には言えない諸事情によって修行をすっぽかしてしまったことを、僕は謝りにいかなければならなかった。きっとすっぽかした理由を問いただされるだろうし、そうなると僕はあの夢の内容を包み隠さず話さなくてはならない。師匠は何よりも嘘を嫌うからだ。
「夢の事話しても話さなくても、どっちにしろ嫌われるじゃん……」
 人生の中で体験したことないぐらい最悪の気分を抱えながら、重い重い足取りで師匠の部屋へと向かう。額を床に何度こすり付けたら許してくれるだろうか、とか、最悪腹を掻っ捌く羽目になるんじゃないか、とか、先ずどうやって謝ろう、とか、思い浮かぶのはそんなところだった。
「……師匠、あの、僕です。お時間宜しいですか」
 障子越しに、笑いたくなるぐらい震えた声を投げかける。返事はなかったが、障子に映る師匠の影がゆらりと動いて、戸が静かに開けられた。
「身体はもういいのか?」
 僕を一瞥して、それから一言。
いつものように研ぎ澄まされた顔からは、一切の感情の揺らぎを感じ取る事は出来なかった。
「はい。……あの、僕」
「湯冷めするぞ。とりあえず、中に入りなさい」
 歯切れの悪い僕の言葉を遮って、師匠はくるりと踵を返した。その背中に引っ張られるようにして、僕もおずおずと師匠の部屋に足を踏み入れる。
 囲炉裏の火がちらちらと燃える部屋の中は、いつものようにこざっぱりとしていた。最低限の寝具と書物以外に生活を感じさせるものはなく、相変わらず克己心の塊のようなひとだ、と感服してしまう。
「……あの、もしやもうお休みになられるところでしたか」
 部屋の隅に敷かれた藁敷きの布団は、明らかに就寝の用意のそれ。しまった、期を誤っただろうか。
「すみません、その……大したことではないので、明日にでも――」
「君を待っていたのだ」
 ぴしゃり、と言いのけられて、無意識の内に逃げようと障子戸に手を掛けていた僕の身体は動かなくなった。心臓の鼓動が少し強くなって、僅かに体が冷える。待っていたとは、一体どういう事なのだろう。待たれるような事情は……ああ、嫌という程思い付くなあ。
「寝具は準備だ。それは置いておくとして、うむ、先ずは座りなさい」
 はい、と僕は言った。
囲炉裏を挟んで対面する。パチパチと音を立てて燃える炎に照らされた師匠の顔は、いつもの堅さとはまた違った硬さがあった。いつものようにきんと研ぎ澄まされた堅い心を抱いているというよりは、緊張のあまり硬くなってしまっているというか。
僕がそれについて問いただすよりも早く、師匠は口を開いた。
「エーシャから全て聞いたよ。君が今どういう時期であるのか、本来私が何をすべきであったのか。それから……君の見た、夢の中身も」
「――!」
 さっと血の気が引いて、囲炉裏の炎が遠くなった。
 心臓がどくどくと波打つ。喉の奥から言葉にならない嗚咽が漏れた。最悪だった。
 師匠は相変わらず表情を崩さずに、しかしその双眸は僕ではなく囲炉裏の炎を追っていた。無理もない、自分を性のはけ口として見ていたような奴と、視線を合わせるなんてそんな恐ろしい事はできないだろうから。
 エーシャさんから夢の事実を告げられた時、師匠は何を思ったのだろう。嫌だ、という感情を前提として、僕の事を怖いと思ったのだろうか。それとも、手塩にかけて育ててきた筈の弟子がこんなにも腐敗した男であったことが、悔しかっただろうか。
冷たくとがった針のような沈黙が、部屋全体から熱を奪う。身体の震えが止まらない。今すぐにでもここから消えてなくなりたかった。
「ごめんなさい」
 それだけ言って、それ以上の言葉が思いつかずに僕は頭を垂れた。
淫らな夢を見てしまったことが事実である以上、うまい弁明の言葉などどこにもありはしない。後はもう、師匠の下す処罰に従うしかなかった。
「……一応、うむ、確認……の為に、その、君に、聞いておくのだが」
 師匠の声が聞こえて、僕はおずおずと顔を上げた。てっきり厳しい叱責の言葉か侮蔑の音色が聞こえてくると思っていたばかりに、なにやら言い辛そうに言葉の断片を口の中で転がしている師匠の姿が、より奇妙に思える。
「き、君は……私の事が、その、好き、なのか? いや、エーシャにはそう言われたのだが、その……なんというか、どうも信じがたくて、だな」
 どうにも、様子が変だった。怒っているというよりは困惑、それよりも、なんというか……照れ、に近いような?
「知っているだろうが、私と君は……随分と、歳も離れている。んん、だから、つまり、だな……なんというか、私でいいのか、と聞きたいのだ。ほら、エーシャの方が女性として可憐だし、女性らしいし、そうでなくとも、弟子の中にも少なくはあるが女子は居るだろう。私でなくとも、その」
 腕の羽で口元を隠して、しどろもどろになりながら師匠は言った。視線はあちこちに泳ぎ、決して目を合わせようとはしてくれない。こんな、まるで平常心を遥か彼方に放り投げたかのような必死な態度は、長い付き合いの中でも始めて見るものだ。
「あ、あのう。えっと、お身体でも悪いんですか? 顔が随分と赤いようですが」
「わ、私は質問に答えろと言っている!」
 師匠は口元を隠していない方の手で、板張りの床を強く叩いた。
 どん、と太鼓をたたくような鈍い音がして、床板に僅かなひび割れが走る。握りしめられた拳はぷるぷると震えていて、師匠は一体どうしてしまったのだろうか。
「う……いや、すまない。感情的になってしまった。で、どうなのだ。君はその……私の事が、す、すきなの、かね?」
「……え、ええっと」
 急な展開に、僕はたじろいだ。これはどうなのだろう、言うべきことなんだろうか。いや聞かれているのだから答えるべきなんだろうけど、例えば正直に答えたとして、師匠が僕に幻滅するなんてことはないだろうか。
 言うべきか言わざるべきか葛藤していると、ギィ兄の言葉が脳裏に過ぎる。
「……なせばいがいとなんとかなる、かあ」
 小さく呟いて、ちょっとして、僕は覚悟を決めた。折角だ、ギィ兄を信じてみよう。
「あ、あの師匠。その……好き、です」
「……!」 
 僕が勇気を振り絞ってそう言うと、師匠は小さく呻き声を上げた後うずくまって動かなくなってしまった。寒さに耐える鹿の子のごとく、なにかを堪えるように震える様は、まるで僕の発言を受けてのもののようであった。
「ほんとうに、好き、なんだな?」
「はい。……あ、あのう、どうなされたのですか? 体調が悪いなら、エーシャさんを呼んで――」
「呼ばなくていい。呼ぶな。大丈夫だから、頼むから呼ばないでくれ!」
 あいつにからかわれるのは絶対に嫌だ、と最後に付け加えて、師匠は僕に懇願した。
「……もう大丈夫だ。ふう、うむ。んー……その、私は別に、怒ってなどおらんよ。君がそういう夢を見たということについても、どうとも思っていない」
「え、でも……見た僕が言うのもなんですけど、気持ち悪くないですか? だって、自分がそういう風にされてるって」
「確かに見ず知らずの輩にそういう目で見られていたとなれば、私も気味悪がっただろうな。……いや、きっと他の弟子にそういう目で見られていたとしても、か」
「それじゃあ、やっぱり」
「だが君は別だ。君にそう思われているというのは、その……むしろ、嬉しい」
 ふふ、と恥らいながらも小さく笑った師匠の頬には、薄くもはっきりとした春色の感情が注がれていた。
 その感情が、その言葉が、一体どういう意味を表すのか、幾ら鈍感が甲羅を背負って歩いていると称されているような僕でも察することが出来た。察して、すこしして、理解して、身体中にくすぐったい思いがこみ上げてくる。
「え、ええっと、それって、つまり……師匠は、僕の事が好き……?」
「……うむ」
 こくん、と師匠は頷いた。どくん、と心臓が唸る。
「最初は違った。抱いているのは親が子に注ぐ類の愛情だった。君が言葉を、新しい技を覚える度に、背が伸びる度に、進化を遂げる度に、私は君のことを誇らしく思いはすれ、それだけだった」
 だが、と彼女は微笑んだ。
「ブリガロンへと進化を遂げた君の姿を見て、私は思わず息を呑んだよ。いつも私を見上げていたあの円らでか弱い瞳が、いつの間にか溢れんばかりの豪勇の光を湛えていたことに。ああ、君はもう大人になったのだな、一人の男になったのだな――と、そう思わされた」
 感傷に浸るような師匠の瞳は、いつものように優しく、しかしどこかいつもとは違った。
「力は強くなり、動きは洗練され、しかし幼き頃より変わらない優しさが君にはあった。ハリマロンの頃より変わらない笑顔が私に向けられる度に、不思議と私の心は湧き、踊った。それが恋だと気付いたのは、エーシャに指摘されてからだったがな」
 師匠はぱきりと手元の枝を折って、囲炉裏へと投げ込んだ。燻っていた炎が立ち上る。
「発情期の件で、エーシャに怒られたよ。どうして彼に何も教えなかったのかと。……私は怖かったのだ。それを知る事で、君はまた一つ大人になるだろうことが。いつしか恋の相手を見つけ、そうしていつか、私の傍から離れていってしまうだろうことが。君を失いたくなかった。許してくれ、ロプカ。私はほんとうに、狡い女だ」
 煽られた炎に照らされ、自嘲気味に笑う師匠の影が揺れた。僕はゆっくりと首を横に振る。
「僕はそれに感謝こそすれ、怒ってなどいません。だって、たぶん知識を教えられていたとしても、僕は師匠以外を好きになる事なんてなかったでしょうし」
「……私は、時折君が恐ろしくなるよ。ありがとう」
 口端を緩く歪めて、師匠はゆっくりと立ち上がった。
「エーシャから、君に自慰を教えてやれと言われた。だが、君は本当にそれだけでいいと思うか?」
「……は?」
 呆気にとられている僕の頬を、歩み寄ってきた師匠の指先がなぞる。
「私には、贖罪の義務がある。君に本来与えられるべき可能性を捻じ曲げたのは事実なのだからな。例え君が許してくれようと、私が私を許せないのだ」
 師匠の、深い疚しさに曇る瞳に映る僕は、対照に酷く呆けた顔をしていた。何が言いたいのか、良く分からなかった。
「あ、あの」
「君の願いを聞こう。何でも一つ、どんなことであっても。例えば――」
 頬に触れていた師匠の指先が、ゆっくりと下へ向かって流れてゆく。
頬から顎に、首に、喉に、胸に、腹に、そして――
「こういうことでも、構わない」
 僕の股座で動きが止まり、くすぐるようにして指先が踊る。
なぞり跡から伝わる熱。忘れかけていた筈の甘い香りが、痺れるような快感のさきがけが、僕の身体をびくりと震えさせた。ようやく理性を取り戻してきた筈の頭が、ぼんやりとかすんでいく。
「君は大人になるべきだ。なあ、甘い現実に帆を浮かべようじゃないか」
 耳元で、砂糖を溶かしたような声で師匠は言う。心躍ることだと言わんばかりに、まるで子供のように、あくまでも楽しそうに。
 踊る指先の誘いは、そのお願いをそういうことに使って欲しいという師匠の気持ちの表れなのだろう。互いが互いを好きでいるならば、その意図に乗らない手はない。身体を交わらせてほしい、という形だけのお願いを投げかけ、承諾して、そうして僕らは一つになる。
 促された通りに言おうとして、しかし僕は、少しだけ迷っていた。
さも愉快そうに誘う師匠の、その瞳に浮かぶ本当の色を、僕は見抜いていたからだ。

■

師匠は身体を藁敷きの上に投げ出して、その小さな全身を僕に見せつけるようにした。
万遍なく鍛え上げられ、おおよそ余分な肉と呼べるものが見当たらない引き締まった身体はとても雄々しく美しく、それでいて僅かに丸みを帯びた柔らかそうな身体は、母性を感じさせるようなあたたかみをも兼ね備えている。
「やっぱり、師匠は綺麗です」
 そういうと、師匠は花がほころぶような微笑みを見せた。
可愛い、と思った。夢の中で抱いていたような熱い気持ちがぐんと腹の奥底からこみ上げてきて、ふわりと砂糖を焦がしたような甘い香りが鼻をくすぐる。頭の中が熱でぐらついて、少しでも気を抜けば本能が鎌首をもたげそうだった。
このような気持ちは、少し前に感じていたことがある。エーシャさんに発散させて貰った筈の甘い衝動。まだそんなに時間は経っていない筈なのに、もう発情期特有の心の荒ぶりがぶり返してきたようだ。
 こみ上げてくる感情に背中を押され、僕は寝転がった師匠の上に覆い被さるような形をとった。視線が重なる。師匠は嬉しそうに目を細めながらも、やはりどこか遠くを見つめているようだった。
 わからない。師匠が一体何を考えているのか。互いの吐息が掛かるぐらいの距離に居られるようになったというのに、互いの心は前より遠くに行ってしまったようだ。
 そんなことを考えていると、気が付かない内に呼吸は荒く、吐息は熱くなっていた。性をぶつけたいと思える対象を目の前にして、何を怖気づく必要があるのだ――と、発情に茹る僕の身体は言っているようだった。師匠が何を思っていようとそんなことは関係なくて、承諾という強靭な後ろ盾がある以上、何も考えず身体を重ねればいい、と。
 師匠の柔肌に触れると、身体は僅かに強張った。状況からして、それはきっと緊張からくる強張りなのだろうと思ったけど、師匠とのまぐわいという状況下で始めて見る夢との相違点に驚き、僕は思わず手を離してしまった。
 師匠のその瞳はきつく閉じられていた。僅かに体が震えている。
怖いのではないか、と思った。僕と身体を重ねることが。口では誘ってみせているものの、師匠の身体――本当の心では、やはり嫌がっているのではないか、とも。
益々師匠のことがわからなくなってきた。例えば僕と身体を重ねることが怖いとして、ならば何故僕を誘うような発言をしたのだろう。その瞳の中に込められているのは、いったいどんな感情なのだろう。
師匠が好きだからこそ、やはり僕は、曖昧なまま事を運ぶわけにはいかなかった。彼女の中になにかの迷いがあるならば、僕はどうにかしてそれを分かち合いたい。全て分からないまま、惰性のままに、師匠を愛することはたぶんできない。
身体中に張り巡らされた欲求の熱を振り払って、僕は投げ出された師匠の小柄な身体をそっと両腕で抱き抱える。身体の大きさの割には重さがあったが、訓練で鍛えた身体にはどうってことない。
「ロ、ロプカ!? なにを……!」
 僕の急な行動に、流石の師匠も慌てずにはいられなかったらしい。持ち上げられた身体をばたつかせるが、僕の腕にガッチリと固められてしまっているので抜け出すことはなかった。
「っ、お、おいっ! どういうことだ! 離しなさい! お願いはいいのか!?」
「……少し落ち着きましょう。お互いに」
 両腕に師匠を抱きかかえたまま、蔦を操って戸を開ける。外の冷たい空気が流れ込んできて、熱した鉄のように昂ぶっていた気持ちに平静の水が注ぎこまれる。
「今日は少し冷えますから、月が綺麗に見えますよ。一緒に見に行きましょう」
 僕は腕の中の師匠に笑いかけた。師匠はもう観念したらしく、暴れることはなかった。

 青白い月明かりが降り積もる道を、師匠を抱き抱えたまま歩いていく。
初秋の夜ともなると、やっぱり少し肌寒い。吐く息がほんのりと白みを帯びて、透明な夜空へと溶けていく。緩く風が吹き抜ける度にからりとした清々しさを身体に感じ、そわそわと身を揺らす草木は月光の青に染められていた。
月を見に行く道すがら、僕らの間に会話はなかった。立ち込める秋の寒さの中、腕の中にほんのりと感じる温もりだけが、僕と師匠が共にいるというただ一つの証明だった。
「着きましたよ。僕が小さい頃、よく来ましたよね、ここ」
 大きな湖を望む小高い丘に辿り着いて、僕は師匠の身体をそっと地面に下ろした。
「……どうして、なんだ」
「師匠?」
「君は……私と結ばれるのを、望んでいたんじゃないのか?」
 眼下の湖に映る月の鏡像を見つめながら、師匠はぽつりとそう言った。
「望んでますよ。望んでるからこそ、ぜんぶすっきりさせたいんです」
 きっとあのまま結ばれていたら、僕はずっと曇ったような師匠の瞳を思い出しながら、しかし後戻りはできずに生きていっただろう。結果的に見ればそれはきっと悪い事ではないのだろうけど、どこかにしこりが残っていくはずだ。
「全部話してください、師匠。贖罪とかそういうんじゃなくて、本心で。本当に、師匠は僕の事が好きなんですか?」
 だったら、と思った。すべてさっぱりして、本心同士でぶつかり合う方が、僕は好きだった。仮に師匠の本心が僕の身体を拒んでいたとしても、それを受け入れるだけの覚悟を持とうと思う。
「……怒らないで、聞いてくれるか?」
 暫く目を瞑って、それから師匠はしずしずとそう言った。
 怒らないで、とは、つまりそういうことなのだろう。あの瞳に隠された表情を考える限り、こんな答えが返ってくるのは分かっていた。耐えようと構えていたにも関わらず、胸の内がちくりと痛みはじめる。
「怒るなんて、そんな……。僕は大丈夫ですから」
 なんとか形だけでも微笑んで、僕は師匠の次の言葉を待った。
「……私は、ずっと怖かったのだ。君にそういう目で見られる事ではない。それはむしろ嬉しい。君のことが好きなのも事実で、誘ったのも……一応、本心だ。そこじゃないんだ」
 僕が本当は嫌われている訳ではなかったようで、気取られないようにそっと胸を撫で下ろす。だとしたら、彼女の中に残るもやつきとは、一体。
「……一度関係を持ってしまえば、もう以前の純粋な師弟関係に戻れないような気がして、それが怖かったのだ。弟子と師匠という切っても切り離せない筈の繋がりが、私の中でなによりも居心地の良かったそれが、形を変えてしまうことが怖かった」
 私はわがままばかりだな、と師匠は自嘲気味に口端を歪めた。その顔には、いつものような余裕はない。
「関係の停滞が好ましいものでないのは分かっている。互いに合意があるなら進むべきだ。それは分かっていて、しかし私は怖かった。……だから、君に「お願い」という形で、全てを委ねてしまおうと思ったのだ。君が決めた事なら、と無理やり納得させようとした。君の好意を利用したのだ」
「……師匠、僕は」
「そろそろ私に幻滅してもいいのだぞ。私にとって君はやはり、掛け替えのない愛弟子で、そういう風に見ようとするが為に君が一人の男であるという事実を無視しようとしている。こんな面倒な師匠に、これ以上不毛に付き合う必要もあるまい?」
「そ、そんなこと……!」
 師匠は身体を翻して、僕に背を向けた。
「君は誰よりもやさしい。きっと君に相応しい、素敵な女性が現れる。それは私が保証する。……もう帰ろう。明日も修練はあるぞ」
 ほんのわずかに声を潤ませて、師匠はそう言った。今にも歩き出そうとするその小さな身体を、僕の蔦が優しく絡め取る。
「離してくれ。痛いんだ」
「嫌です、行かせません。どうしても帰るというのなら、僕の話を聞いてからにしてください」
 彼女の身体をそっと持ち上げて、抱き寄せる。暖かくて小さい背中。
「師匠の話を聞いて、僕思ったんです。やっぱり、師匠と弟子という関係を捨てるにはまだ早すぎるんじゃないかなあって」
 そのままゆっくりと、彼女の背を抱く。包み込むような形で。
「僕はまだまだ弱いです。師匠には勝てません。でもこれから、いっぱい強くなります。師匠の元で一杯強くなって、いつかこの身体で、貴方を護れるようになります。いつか貴方を、男として振り向かせてみせます。――だから一つだけ、お願いがあるんです」
 師匠は押し黙ったまま、きっと僕の言葉に耳を傾けていた。
 すっと息を吸って、僕は師匠にこう告げる。
「――僕が一人前になるまで、待っていてください。貴方の弟子で居させてください。そして、貴方が僕を一人前だと認めてくれた日には」
「誓うよ。君を一人の男として、迷いなく愛そう」
 僕の腕に抱かれたまま、師匠はゆっくりと体重を僕へと傾けた。顔を上にやって、僕と視線を重ねる。鋭敏で凛々しい、いつもの師匠がそこに居た。
「その日を、楽しみにしているぞ」
「――はい!」
 彼女は小さく笑って、それからゆっくりと、天頂に煌々と揺らめく半月へと視線を映した。
「確かに、今日は月が綺麗に見える。だがまだ未熟な、上弦の月だ。私が好きなものは成熟した満月でな、ロプカはいつになれば、満月が見られると思う?」
「僕の予想だと、きっとすぐですね」
「それはまた頼もしい。――無論、私もそう思うぞ」
 そう言って、お互いに顔を見合わせて、いつもの様に笑いあった。
 そういう関係になれなかったのは確かに残念だけど、体も心も、秋の夜空の様にすっきりとしていた。これでよかったのだ、とはっきりわかる。
 結末と、それに続く道が見えた今、僕に残されたやるべきことは、前に向かって歩く事だけだ。幸いにして素敵な師匠が傍に居るから、きっと道に迷うことはない。足が動く以上、叶えたい願いがある以上、僕はいつだって前に進めるはずだ。
 初秋の夜、爛々と輝く月の下。
 腕の中の大好きなひとを、もう一度強く抱き締める。
「大きくなったな、ロプカ」
 師匠はそう言って、僕の手にそっと触れた。

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あとがき
第八回仮面大会において5票獲得、準優勝を頂きました。もよよです。
wiki内での大会に参加するのは初で、様々なことが不安だらけでしたが、結果的に多くの方に作品に目を通して頂いたようで大変嬉しく思っています。熱の籠ったコメントも多く頂いていて、大変励みになりました。まだまだ拙い点ばかりが目立ちますが、この調子で多くの作品を生み出していけたらなと思っています。
票を投じて下さった皆様、並びに作品に目を通して下さった皆様に、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

あまり創作において陽の目を見ることの少ないブリガロンですが、この作品を通して少しでも魅力に気づいて貰えたならば作者冥利に尽きます。体型に似合わず童顔なところとか、図鑑で説明されているように、率先して自らが弱者の盾になるような心優しい性格であったりとか、ポケパルレでの笑顔がハリマロンの頃と何も変わらぬあどけなさであったりとか、怒り顔も微妙に可愛らしいところとか、まあなんだ、かわいいんですよ。ほんとに。ね。かわいいの!!!

以下コメント返信

・物語の構成、着地点、それを下支えする登場人物と何処に目をやってもしっかり形作られており、一つの作品として非常に素晴らしいものだと思います。描写も官能描写はもちろんの事、情景や心理面でのそれも最後まで緩みなく、此方もハイレベルな印象。個人的には文句無しに最優秀作品でした。

 中々に難産な作品でしたが、そう言って下さると書き上げてよかったなあとしみじみ感じます。私は割と心情描写が苦手なクチなのですが、今回の作品は上手くみなさんに伝わるような表現が書けていたのではないかと(個人的には)思っています。
 ともあれ、これを励みに益々多くの作品を生み出していくつもりなので、ご縁があれば別作品にも目を通して頂ければなあと思います。

・なんというかこう、純粋で、甘酸っぱくて、ちょっと苦くて、でも優しくて、恋愛ってこういうことだなあと思いつつ読ませていただきました。
どちらも不慣れな分、可愛さが垣間見えてましたね。ブリガロンはもっと流行っても良いと思います。
いつかふたりが結ばれる事を信じて一票を。あのおっきなのが果たしてきちんと入るか心配ですがw

 恋の駆け引きもなにもない、互いに初心な恋愛ものっていうのは書いててなかなか面白かったです。お互いに敬意を払っているからこそ生まれるほろ苦さというか、もどかしさを含んだ関係が次第に形になっていくっていくのが私は好きでして、今作は思いきりその兆候が出ていますね。あとブリガロンはもっと流行るべきです。可愛いんやで。
 この二匹を題材にすると決めた時から、体格差というのは深刻な問題でして……。結果的に夢オチに逃げたんですけど、いずれ本番も書いてみたいですね。

・奥手なリエッタと、積極的なエーシャが対照的で面白かったです。

 どうていボーイが好きな相手の為に切磋琢磨するのも、大人のお姉さんに絡めとられるのもどっちも書いてみたい! ということで、半ば無理やりエーシャさんのパートをねじ込みました、実は。大人のお姉さんに手玉に取られるのっていいですよね。

・熟女に憧れつつも、中々踏み出せないもどかしさや、エッチなお姉さんに食べられちゃうシーンなど、美味しく頂きました

 リエッタ師匠は熟女だった…!? というのはさておき、今回の作品はもどかしさを如何に出すかというのが私の中のテーマでした。上手く表れていたなら良かったです。
 ちなみにリエッタさんは20後半から30代のイメージで書いてました。歳の離れたお姉さん、って感じですかね。

・比喩が! スゴい! いろいろ書きたい感想はあるのですが、スゴすぎて言葉が出てきません。こんなにストンと心に落ちる比喩表現を連発してくれると、納得させられてしまいます。ここまで面白く読みやすい文章には素直に尊敬します。うーん、スゴい!

 とても熱の籠った感想をありがとうございます。比喩表現は昔から結構得意な方だったのですが、今回も上手く書けていたようで幸いです。よく胃もたれのする文章と言われていたので気持ちさっぱりとした文体を意識していたのですが、読みやすいと言っていただけたなら効果はあったかな?
 とても熱の籠った感想をありがとうございます。比喩表現は昔から結構得意な方だったのですが、今回も上手く書けていたようで幸いです。よく胃もたれのする文章と言われていたので気持ちさっぱりとした文体を意識していたのですが、読みやすいと言っていただけたなら効果はあったかな?と思います。


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