ポケモン小説wiki
さぁ御手を、レディ の変更点


作:[[ハルパス]]  


警告:ポケモン→人への恋愛描写、鬱展開、また登場人物或いは関係者の死亡シーンや惨殺等、非常に猟奇的で陰惨な描写が含まれています。無理を感じたり気分が悪くなってしまった場合、すぐに読むのを中止してください。万が一何らかの精神的損害やトラウマなどが発生しても、当方は一切責任を持てません。

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#contents

1、ミカナ


 ひんやりとした水が火照った身体に心地良い。煌めく水面、小川のせせらぎ、肌を撫ぜて行く清水と周囲よりいくらか涼しい空気。その中に身を置いていると、確かな達成感をもって高揚していた精神も、徐々に落ち着いてきた。
 手で水を掬い、再び身体にかける。滴る水と共に汚れが流れていくのを見送った。私の視線の先で、それらは小川の水を細く数本の筋となって染めて、すぐに拡散して見えなくなった。
 先ほどの戦闘で被ってしまった汚れを綺麗に洗い落としてから、私は漸く小川から上がる。念力を使って水分を粗方弾き飛ばしたところで、さてこれからどうしようかと考えた。与えられた自由時間はまだ残っているが、もう用事は済ませた。ここに長居する理由はない。だが別に急ぐ必要もないだろうと判断し、私はゆっくり歩きながら、集合場所である大きな樫の木のある空き地へ向かう事にした。
 麗らかな午後の日差しが木々の隙から漏れる。聞こえるものは風が草木を揺らす音と、時折響くポケモンの声くらいだ。まさに平和、と呼ぶに相応しい時間。もちろん周りの環境が穏やかなだけでなく、私の心にも余裕があるから平和を平和と感じられるのだ。
 こうして私がこの世界に存在していられるのも、全ては御主人様のおかげだと思う。
 御主人様とは私がまだ幼い頃、ラルトスだった頃からの付き合いだ。
 私は一度見捨てられた身だった。一部のトレーナーの間で行われているらしい、同じ種類のポケモンの卵を幾つも孵しては、基本能力の高い者だけを選び残りは野に放すという蛮行。「弱いポケモンは要らない」無表情に言い放たれ追い出された、悔しい事だがそれが私の一番古い記憶だ。
 生後間もなく捨てられた私が、一匹で生きていく術など持っているはずもなかった。宛てもなく彷徨い、無闇にテレポートを繰り返し、どこをどう移動したかも今となってはもうわからない。ついに力尽き、行き倒れていた私を助けてくれたのが私同様幼かった御主人様だった。全てを失い諦めてかけていた私の、それは唯一の光。
 御主人様は優しかった。身寄りのない私に居場所を与えてくれたし、知らなかった愛情を注いでくれた。私もそれに応えようと、常に御主人様に寄り添い、感情を共有し、バトルともなれば全力を尽くして戦った。二度の進化を経てエルレイドとなった今も、御主人様への忠誠は変わらない。
 いや、ひとつだけ変わったものがあった。いつしか私が御主人様へ抱く想いは、ただのトレーナーに対するものではなくなっていたのだ。本来ポケモンが人間に対して抱くはずのない感情。しかし私は想いを伝える事無く、御主人様を守り、支え続けた。私はいつだって御主人様に一番近い存在であり、それで十分なはずだったから。だから、私と一緒に旅に出たいと、そう打ち明けられた時は歓喜したものだった。 
「きゃあぁぁぁぁぁ!!」
 私の思考と平和な時間を破ったのは、森中に響かんばかりの悲鳴だった。瞬間、私の心臓がどくりと跳ね上がる。その声の主は他でもない、私の御主人様のものだった。
 早く戻らなければ、そう思う間もなく私の身体は反応していた。悲鳴のした方へと一散に走り出したのだ。
 一刻も早く御主人様の元へ、と気持ちばかりが焦る。私がいない間に御主人様にもしもの事があっては、傍に仕えている私の立つ瀬がない。
 だが生憎、限りなく人型に近い私の身体は森の中を疾駆するようにはできていない。木の根や凹凸のある地面に足を捕られ、どうしても減速してしまう。テレポートで行ければ楽なのだが、それには行く先に精神を集中して、つまり目的地を思い浮かべなければならない。漠然とした方角しかわからない以上、それは不可能に近かった。ただでさえ森の風景は似たり寄ったりで紛らわしい。闇雲にテレポートをして精神を消耗させるよりは、自分の足に頼った方が遥かに手堅かった。幸い先程の声の通り具合からして、御主人様との距離はあまり遠くはないようだ。まだ感情が察知できる程の距離ではないが、それも時間の問題だろう。
 行く手を遮る邪魔な枝草を、両の腕に備わった刃で薙ぎ払う。御主人様の無事を祈りつつ、私はひたすら走り続けた。途中、野生のムックル達の話し声が聞こえた。
「おい、あれ見たか?」
「ばっちり見ちゃったよー。酷かったな、あれ……」
 あれ、とは私が懸念している事なのか、違うのか。私は思わず足を止めた。と同時に彼らも私に気づいたらしく、枝葉の隙間から私を覗き込んだ。
「おいあんた、この先行かない方がいい。あんなの見るもんじゃねーよ……」
「何を……」
 詳しく聞こうとしたが、ムックル達は思い出したくないとでも言うように顔を顰め、飛び去ってしまった。私は彼らを追うよりも、先へ進む事を選んだ。不安は募るばかりだ。
 間もなく、前方から複数の悲しみの感情を感じた。その中には、私の大切な御主人様のものと思われる感情も混じっている。目指す場所はすぐ近くだ。
 唐突に視界が開けた。
「御主人様っ!」
 集合場所の近く、森に点在する幾らか木の少ない空き地。私は倒木の傍で地面にへたり込む御主人様を認めた。私よりも先にこの場へ辿り着いていた他のメンバーがこちらを振り向いたようだが、私は何よりもまず御主人様の元へ駆け寄った。良かった、御主人様は無事だ、とひとまず安堵する。力なく蹲っているものの、怪我などはしていないようだ。
 御主人様の身には何も起きていなかった。御主人様の身、には。
 目の前に横たわる『それ』に、私は見覚えがあった。
 改めて見ると、それは惨たらしい光景だった。現実離れした、真っ赤な水溜まりと浮かぶ塊。茶色と白だった毛皮は一様に紅に塗れ、所々棒状の白が覗く。首元と思しき場所には、他の部分同様紅く染まってはいたものの、辛うじて水色だった事がわかるリボンが落ちていた。『それ』がこの亡骸が彼であるという、唯一にして絶対の証。
「ああ、ぁああぁぁぁっ、モネっ、モネぇっ……!」
 もはや原型を留めていないイーブイの名を叫び、御主人様が&ruby(くずお){頽};れた。
「御主人様……」
 御主人様を抱きしめて視界を遮り、『それ』がこれ以上目に映らないようにする。泣きじゃくり震える御主人様の背を撫でながら、私自身、湧き上がる悲しみと怒りに必死に耐えていた。密着した御主人様から、受け止めきれないほどの悲しみの感情がはっきりと伝わってくる。まだ出会って間もないモネに、どれだけ深い愛情を注いでいたかが手に取るようにわかって、私は御主人様を強く抱きしめる事で心の痛みから逃れようとした。私がもっと早く行動していればこんな事態は防げたのではないか、と今更後悔しても手遅れだった。
 悲痛に暮れているのは御主人様だけではなかった。
「誰だよっ、こんな酷ぇ事しやがった奴はっ……!」
 アブソルのセンジュは鋭い爪を土にめり込ませて、絞り出すように吼えた。フローゼルのラベンダーは口元を押さえて肩を震わせていたが、
「ご、ごめんなさいっ」
 と言うや近くの茂みに飛び込んだ。
「っぐ、ぅぇっ……っ」
 苦しげな呻き声と、液状のものが零れる音が、御主人様の嗚咽の向こうから聞こえてきた。
「……ぐっ」
 そんな御主人様と二匹を見ていると、唐突に喉元にせり上がってくる何かを感じた。咄嗟に口元に手を当て俯き、生唾と共に呑み込む。駄目だ、ここで私までが感情を露わにするわけにはいかない。
「……ポケモンセンターに戻ろう。とにかく、早くここから離れようぜ」
 口を開いたのはセンジュだった。落ち着かなげに辺りを見回している。無理もない、モネを殺した犯人が近くにいるかもしれないと思っているのだろう。
 ここは街からは遠い森の中。昨夜泊ったポケモンセンターがここから最も近くにある安全な場所だった。
「そうですね……」
 センジュの意見に同意し、御主人様をそっと抱き起す。歩き出そうとしたが、ふと思うところがあって、私は立ち止まった。
「センジュ、先に御主人様とラベンダーを連れて戻って下さい。私はこの辺りを調べますから。モネも私が見ます」
 本当は、御主人様の側を片時も離れたくはない。だが私には、やるべき事があった。
 この辺りのポケモンに何かを見たか聞き、犯人に繋がる証拠が残っていないか調べるのだ。図らずとも周囲を怯えさせてしまうアブソルのセンジュ、足元がふらついているラベンダー。彼らには向かないし、何より私がやらなければならない。目の前に散らばるモネだったものにも、適切な対処をしなければ。
 私は独り、頷いた。




2、センジュ


「御主人様……」
 マスターを抱きしめ、落ち着かせようとしているエルレイドの目には、多分俺達の事なんて見えちゃいないんだろう。一番マスターとの付き合いが長くて、人一倍忠誠心が厚いミカナの事だから、あんな悲鳴を上げたマスターが何よりも心配で心配で仕方ないに違いない。
 尤もそれは俺も同じ。マスターはいつも明るくて優しくて、俺みたいなポケモンにだって普通に接してくれるすごく良い人間だ。そのマスターが尋常でない悲鳴を上げるなんて普通じゃ考えられない。……だけどこの状況は、普通じゃ、ないんだ……。
 それにしても。暫く前から何となく嫌な予感はしていたんだ。それは俺がアブソルという種族に生まれついた以上、幾度となく経験した感覚だったけど、今回のはいつもと何かが違っていた。もっと暗くて粘っこい、喩えるなら濡れた毛布が身体に纏わりつくような感じ。振り払おうとしても重くべったりと張り付いて、ともすれば呼吸すら苦しくなるような圧迫感。
 でもその予感がこんな形で的中するなんて思ってもみなかった。抑えきれない感情に任せて、地面に爪を立てる。ざり、と砂が軋んだ。
「誰だよっ、こんな酷ぇ事しやがった奴はっ……!」
 吐き出すように言うと俺は目を固く閉じ、俯く。事実から目を背け、現実を否定するように。だけどどんなに締め出そうとしても、ズタズタに引き裂かれ、もの言わぬ物体となってしまった仲間の惨状が、噎せ返るような血の臭いが、脳裏にこびりついて離れなかった。
 血の臭いには慣れているはずだった。昔の嫌な記憶がフラッシュバックする。
 地面に這いつくばり、呻き声を上げるいくつもの影。ボロボロになった彼らを見下ろして、暗い愉悦に浸っているのは、他でもない俺自身だった。白いはずの俺の身体は真っ赤に染まっていて――。
 俺は身震いした。一体何人の人間、何匹のポケモンを傷つけてきたか。数える事すらできないほどの罪が、俺には常にのしかかっている。
「……ポケモンセンターに戻ろう。とにかく、早くここから離れようぜ」
 これ以上この場所にいたくなかった。凄惨な光景を見るに堪えないというのももちろんあったけど、早く離れないと、嫌な記憶がどんどん大きくなって、俺を侵食していくような気がしたから。
「そうですね……」
 ミカナも賛成してくれて、マスターをゆっくりと立ち上がらせた。そのまま歩き出すかと思ったけど、すぐに歩みを止めた。
「センジュ、先に御主人様とラベンダーを連れて戻って下さい。私はこの辺りを調べますから。モネも私が見ます」
 自分が残って調べると。そうミカナは言った。
「でも危険だ、もし……もし殺人犯が近くにいたら」
 俺は心配になって、止めようとした。ミカナは強いのはよく知っている。知っているけど、モネを殺した奴が近くにいるかもしれないのに、一匹で行動するのは危ないんじゃないか。
「私なら大丈夫です。この近くには危険な感情は感じられません」
 でも俺の心配を打ち消すようにミカナは返した。エルレイドであるミカナは、周囲の感情を察知する事ができる。例え姿が見えなくても、敵意を持った誰かが近づけばわかるのだ。そのミカナが大丈夫というなら、多分その通りなんだろう。
 俺はミカナを信じて、先にポケモンセンターへ向かう事にした。
「マスター。歩けるか?」
「う……うん……」
 ミカナに支えられているマスターに歩み寄る。マスターはゆっくりミカナの手を押して、自力で立った。
「モネは、ミカナがちゃんと見てくれるって。俺達はポケモンセンターまで行こう。少なくともここよりは安全だ」
「わかった……モネを……モネをよろしくね。それから、ミカナも気をつけてね……」
 マスターは声を詰まらせながらも、ミカナの身を案じていた。
「私なら大丈夫ですよ。できるだけ早く合流しますから」
 ミカナはマスターを安心させるかのように微笑んだ。でも、無理に笑顔を作っているのだという事がなんとなくわかった。あいつはいつもマスターを気遣っている。今だって悲しんだり怒りを露わにするのを抑えて、努めて穏やかにマスターに接しているんだ。
「ラベンダーも、大丈夫か」
 俺は吐き気が落ち着いたらしいラベンダーにも声をかけた。
「ええ……なんとか」
 ラベンダーは蒼い顔をしていたけど、頷き立ち上がった。少しふらついているけど歩けるだろう。それに、ここに長居したくないのはラベンダーだって同じはずだ。
「さあ。行こうぜ」
 マスターを寄りかからせて、俺は歩き出した。後からラベンダーも四足歩行でついてくる。一度だけちらりとあの場所を振り返れば、ミカナが険しい顔で辺りの様子を窺っているのが見えた。倒木の陰になって可哀想なモネが見えないのは、幸いだったか。
 無言で森の中を歩いていく。数分も経たない内に、俺達は木々のない、剥き出しの地面がまっすぐ続いている場所に出た。道だ。この道を西に戻ればポケモンセンターに出る。この頃にはマスターやラベンダーの足取りもましになってきて、俺達は小走りに簡素な道を進んだ。
 やがて目指すものが見えてきた。木々に囲まれた中にぽつんと建った、モンスターボールをあしらったデザインの、赤い屋根のこじんまりした建物。昨日も泊まった、小さなポケモンセンターだ。
 息せき切ってロビーに駆け込む。ジョーイさんが驚いて何があったのか聞いてきたけど、あの状況を思い出したくなくて誰も何も言えなかった。ジョーイさんは心配そうに俺達を見ていたけど、話せるようになったら話してね、と言葉を残して仕事に戻った。ロビーには他に人間もポケモンもいない。俺達の荒い息遣いと、思い出したような嗚咽だけが響く時間がしばらく続いた。
 俺達がどうにか落ち着いた頃、ミカナも戻ってきた。無事なエルレイドの姿を見て、俺は少しだけ安心できた。
「ミカナ、何かわかったか?」
 俺は尋ねた。あの場所に犯人の手掛かりが残っていなかったか、気になって仕方なかった。
「……いいえ、何も。誰もモネが殺された瞬間を見ていないそうです」
「そうか……」
 ミカナは残念そうに首を振って、押し黙った。また、ロビーは嫌な静けさに包まれた。
「……まさか、ギンガ団の仕業、でしょうか」
「……!」
 何か考え込んでいたミカナが、はっとしたように呟いた。その言葉を聞いて、俺の記憶が揺り起こされた。数日前、ポケモンセンターのロビーに備えられた大きなテレビで、報道されていたニュースが頭を過ぎる。
 何でも、ある特定の地域でポケモンの怪死事件が相次いでいるらしいのだ。被害に遭ったのは野生のポケモンではなく、皆トレーナー持ちで。また周囲では決まって、謎の組織ギンガ団と思しき連中が目撃されていたらしい。気にはしていたけど、事件が起こっている地域は俺達が今いる場所からは遥か遠く離れていたから、どこか他人事のように考えていた。
 まだ奴らの仕業と決まったわけじゃないけど、その可能性はある。俺達には心当たりがあったからだ。
 俺達は過去、ギンガ団と関わった事がある。谷間の発電所では幹部とか言われている奴とも戦い、旅の途中で知り合ったトレーナーとも協力してハクタイシティにいるギンガ団を追い払ったりもした。恨みを買う理由なんて十分すぎるくらいあったし、そもそも理由なんてなくても平気で人やポケモンを傷つけるような連中だ。ニュースで見た怪死事件。あれが今、本当に俺達の身に降りかかっているというのだろうか……。
「そうだミカナ、テレポートでマスターを街まで連れていけないのか?」
 仮にギンガ団が俺達を消そうとしているのなら、いつまでもこんな森の奥にいては危険だ。人目の多い街に行けばここよりも安全だろうし、警察ってところに事情を話してモネの件を詳しく調べてもらう事もできる。そんな俺の提案に、ミカナは項垂れて首を振った。
「すみません、無理なんです……今の精神状態では、テレポートは上手くいきそうにありません」
「そっか……そうだよな……ごめん」
 ミカナが落ち着いているように見えても、それは表面だけの事。マスターや俺達を気遣って、気丈に振る舞っているだけなんだ。考えてみれば、ミカナは自分自身の悲しみだけじゃなく、大切なマスターの悲痛な感情まで感じてしまっているんだ。辛くないはずがない。俺達の中で一番苦しんでいるのはミカナだ。なのに俺は無神経な事を言ってしまった。
「ああくそっ、なんでこんな事に……!」
 自分への苛立ちと、正体も目的もわからない犯人に対する怒り。口にしたところで暗い感情が消えるわけもなかったけど、吐き捨てずにはいられなかった。




3、ラベンダー


 モネ。つい最近仲間に加わったばかりの彼は、幼さも相まって随分甘えん坊な性格だった。いつもご主人にくっついて、話しかけて、定位置はご主人の肩の上。大きな尻尾でバランスを取りながらご主人にしがみつく姿は、たった一週間しか経っていないにも関わらず、もはや日常の一部分になっていた。少しは羨ましい気持ちもあったけど、屈託なくはしゃぐモネと彼をあやすご主人の姿はとても微笑ましかった。
 傍らのご主人を見上げる。その肩にモネの姿はない。当たり前だ。昼間にはその最期の姿を見てしまった。だけど、あんまりにも酷い状態で、あれがついさっきまで仲間だった何かだなんて信じられなかった。だけどあの千切れたリボンは間違いなく彼が首に巻いていたのもの。それにこの辺りに野生のイーブイはいないし、モネのモンスターボールは機能がリセットされていた。これは逃がした後か、もしくは収容されているポケモンが死んでしまった時にこうなるらしい。リボンもモンスターボールも、あれがモネだったという事実をあたし達に無言で突きつけていた。
「ああくそっ、なんでこんな事に……!」
 すぐ隣から聞こえたセンジュの怒声に、びくりと身を震わせてしまった。仲間の声にさえこんなにびくびくしてしまうなんて、我ながら情けない。気を強く持たなくちゃ、頭では分かっているけど、どうしても些細な事にさえ敏感になってしまう。こんな時だってしっかりとしてる、ミカナを見習わなくちゃ。
 あたしの怖がりは、漸くフローゼルに進化した今も治っていないみたいだ。その証拠に全身の毛が逆立ったままだし、二又の尻尾だって無意識のうちに股の間に挟んでしまう。今だって、本当は怖くて悲しくてどうしようもなくて、悲鳴を上げて少しでも安心できる水中に逃げ込みたい。少なくとも、以前のあたしなら絶対そうしていた。それを踏みとどまっているのは、やっぱり大好きなご主人を置いてはいけないから。
 あたしは小さい頃から弱虫で、引っ込み思案で、いつも誰かに引け目を感じておどおどしているようなポケモンだった。
 いつまでもこのままじゃいけない。そんな自分を変えたくて、人間のトレーナーを見つけて修行しようと決めたのは去年の事。あたしの住む谷間の発電所を荒らしていた怖い人間達を撃退してくれたトレーナーに、つまり今のご主人に頼み込んで仲間にしてもらった。一緒に色々な世界を見ながら、あたしは自分を変えるために頑張っていた。
 そのご主人はと言えば。普段の明るく優しい様子とはかけ離れた、沈痛な面持ちで、おうちに電話をかけていた。ジョーイさんの勧めで、家族の声を聞いた方が良いと言われたからだ。電話の前で震えるご主人に、ご主人のお母さんが声をかけてる。
「……とにかく気を強く持つのよ。とても辛いけれど……早く、犯人が捕まるといいわね。それから。あなたは一人じゃない。私もお父さんも、あなたを愛しているわ」
「……うん……ありがとう。私も……愛してる」
 ふと、隣のミカナを見上げると、口元を引き結んで目を細めていた。視線を下ろしていけば、ぎゅっと握り締めた手が僅かに震えているのが目に入った。きっと、ご主人を連れてのテレポートができない自分に苛立っているんだわ。早く大切なご主人を安全な、少なくともこの忌まわしい森よりも安心できる場所へと連れて行ってあげたいのに、それができない。酷くもどかしく感じているのは、エスパーの力を持たないあたしにだって容易に想像できる。
「じゃあ、また」
 ご主人は電話を切って、一度深呼吸した。それから、こちらに向き直る。あたし達一匹一匹の顔を見渡して、険しい顔のミカナに声をかけた。
「ミカナ、ミカナは何も悪くないからね。私はもう、大丈夫だから……」
 ご主人はこんな状況でも、ミカナの内心を察してあげたみたいだった。
「……はい」
 ミカナは感情を押し殺したような声で頷いた。
「そうよ。無理しないで」
 そんなミカナに、あたしは励ましの言葉をかけてあげるくらいしかできなかった。


  ★


 外はすっかり暗くなっている。あたし達はポケモンセンターの一室で、落ち着かない夜を迎えていた。
 あのギンガ団とかいう怖い人間達の仕業かもしれない。でも野生ポケモンの襲撃によるものという可能性もあるから、警察の人間やポケモンを呼ぶ事はできなかった。
 普段なら、野生ポケモンに人間や人間のポケモンが襲われた場合でも警察は動いてくれるし、保護もしてくれるらしい。だけど今夜ばかりは事情が違った。何でも森を抜けた街の、更に向こうにある湖で大きな爆発事件が起こって、警察はそちらへの対処で手いっぱいらしかった。申し訳ないが後二、三日は自分達で身を守って欲しい、と電話の向こうで人間のおじさんが心底済まなそうに頭を下げていたのが、はっきりと記憶に残っている。
 いつもポケモンセンターで寝る時は、あたし達はモンスターボールの中に入って休む事が多かった。でも、それだと何かあった時咄嗟に対応できないから、という理由で今夜はみんなボールの外に出ていた。
「皆さんは休んでいてください。私が見張りをしますから」
 ミカナがあたし達に寝るよう促した。自分だけ起きて、寝ずの番をするつもりらしい。
「待てよミカナ。俺もやる」
 ミカナが外に出ようとすると、センジュも見張りを名乗り出た。
「あ、あたしも」
 出遅れてしまったあたしも急いで声を上げたけど、センジュが前足を翳して押し止めた。
「ラベンダーはマスターの側にいてやってくれ。見張りは俺達にまかせて。……ミカナ、俺が先に見張るから、休んでて」
「……わかりました。お願いしますね」
 ミカナは一瞬間を置いてから頷いた。きっと一番目を買って出て、そのまま交代せずに見張りをしてくれるつもりだったんじゃないかしら。なんとなくそう思った。少し不満を残したミカナに、あたしも言った。
「ミカナも休まなきゃ。だって昼間も……その、調べてくれたんでしょう?」
 何を、とはっきり言う事はできなかった。言葉にすると、堰き止めているものが全て溢れ出してしまいそうだったから。
「センジュ。気をつけてね。怪しい人やポケモンを見つけても手を出したりしないで」
 ご主人はセンジュの頬に触れて、不安そうに言った。
「心配すんなよマスター。俺がそう簡単にやられるわけないし……あ、もちろん危険に飛び込んでいくような真似もしないから! な!?」
 ご主人の瞳が揺れたのを見て、センジュは慌てたように付け足した。それからあたし達を安心させるように微笑んでから、開けた窓からひらりと外に飛び出して行った。ここは一階だから、窓から出ても危なくはない。
 あたしは窓を閉めようと、窓辺に歩いて行った。何かあった時にセンジュが戻って来れるよう、鍵はかけないでおいた。
 戻り際になんとなく気になって、あたしは窓の外を覗き込んだ。
 硝子を隔てた向こう側では、センジュがひっそり座って周囲に目を配っていた。風に揺れる草木以外に動くもののない静かな世界、暗い森を背景に、純白の体毛に蒼白い月明かりを映して、朧に輝くアブソル。身動きする度に、夜空よりも黒い大鎌がきらりと光る。どこか現実離れした光景に見えたのは、仲間の酷い姿を見てしまったという非日常的な体験のせいかしら。それとも、あたしは心のどこかで彼を――。
「……モネ……モネぇっ……」
 あたしの思考を遮ったのはご主人の嗚咽だった。その声を聞いて、今まで耐えていた感情が一気に決壊してしまった。
「うぅっ……ごしゅ、じん……う、あぁっ……!」
 倒れ込むようにベッドまで戻って、あたし自身、泣きながらご主人をぎゅうっと抱き締めた。どうして、可哀想なモネ、誰があんな酷い事をしたの、どんなに怖くて痛かったでしょう、それだけでも悲しくて堪らないのに、泣いてるご主人を見るともっと辛くなってくる、なんで誰がどうして。答えのない疑問と悲しみが次々湧いてきて、涙が止まらなかった。そんなあたし達を見て、ミカナは辛そうに顔を歪めていた。でも「大丈夫」、そう伝えられる余裕はご主人にはもちろん、あたしにもなかった。
「……もう寝ましょう。御主人様も、ラベンダーも。私がついていますから」
 苦しそうにミカナが言った。そう、センジュもミカナも傍にいてくれる。だけど安心と悲しみは別ものだ。こんな気持ちのまま眠れるのかはわからない。でも、なんとか身体と心を休めようとして、あたしは目を閉じた。


  ★


 モネが殺されている。
 犯人はよく見えないけど、鋭利な刃物を翻して、何故か逃げる事ができないモネを切り刻んでいる。もう止めて、酷い事しないで、あたしは声にならない声で叫んで――。
「――ッ! はぁ、はぁっ……」
 あたしは飛び起きた。いつの間にか眠っていたようだけど、嫌な夢を見てしまった。汗で全身の体毛が張り付いて気持ち悪い。胸の奥から突き上げるような悪寒が込み上げる。
 悪夢を振り切るように、ここが現実だと再確認するように辺りを見回した。まだ暗いけど、東の空がほんのりと白み始めている。動きにくさを感じて体を捻ると、ご主人はあたしを抱き締めたまま寝息を立てていた。その頬に涙の跡。束の間忘れていられた悲しみが蘇った。
 少し頭を持ち上げると、ベッド脇に白い毛並みと黒い鎌が飛び出しているのが見えた。よっぽど疲れていたんだろう、センジュはぐっすり眠り込んでいる。ミカナの姿はないから、見張りを交代して外に出ているんだろう。あたしばっかり楽をして申し訳ないと思う反面、きっと何かあっても、あたしの実力じゃ役に立てないとも思う。ミカナとセンジュは、強い。


「ねぇミカナ。どうやったらあなた達みたいに強くなれるの?」
 以前、あたしはミカナに尋ねた事がある。ご主人の元で修行して、進化して、身体的にも精神的にも成長できたけど、それでもあたしの実力は彼らに遠く及ばなかった。彼らの強さの秘訣を知りたくて、素直にその疑問をぶつけてみたのだ。
「簡単ですよ」
 何の事はないと、ミカナは肩を竦めた。
「私には何よりも大切な、愛する人がいますから。彼女のためなら強くなれるし、どんな事だってできるんですよ」
 そう言って微笑むミカナの視線の先には、モネと遊ぶあたし達のご主人の姿があった。どんな風に鍛えただとか、戦闘のコツだとかは何も言わなかったけど、でもあたしはそれで納得できた。ミカナは一度捨てられた経験があるのだという。センジュは過去に重い罪を背負ってしまったのだという。でもご主人はそんな彼らの居場所となって、太陽のような温かくて優しい愛情を注いでくれている。もちろん弱虫だったあたしにも、純粋で未来への希望に満ちたモネにも同じように。
「そっか。じゃああたしも、まだ強くなれるかしら」
「ええ。焦らなくても大丈夫ですよ」
 あたしの言葉に、ミカナは頷いてくれた。
 ――数日前、まだ悲しい事件がなかった平和な日の記憶。でも今では遠い昔の、別の世界の思い出のように感じられた。


「ん……」
 ベッド脇で声がして、センジュがむくりと起き上がった。センジュはほんの数秒、焦点の合わない目で周囲を見渡す。何回か瞬きをしてから、前足を伸ばして背中を反らし、大きく背伸びをした。
「あ……おはようラベンダー。ちゃんと眠れたか?」
「おはよう。おかげ様でなんとかね。……見張りはどうだったの? 大変だったでしょう?」
「平気だよこれくらい。それに、別に怪しい人間もポケモンもいなかったぜ」
「良かった。ありがとうね、センジュ」
 ご主人を起こさないように気をつけて、あたしはご主人の腕の中から抜け出した。そのままベッドから飛び降りてすとんと着地……したつもりだったんだけど、足に全然力が入らなくて崩れ落ちてしまった。
「おい大丈夫かラベンダー!」
 センジュもご主人を起こさないためか、小声で叫んであたしの方に身体を向けた。
「ごめん、ちょっとふらついちゃっただけ。大丈夫よ」
 平気だと示すために微笑んでみせたけど、センジュはますます表情を曇らせた。あたし、そんなに酷い顔しているのかしら。
「そうだラベンダー、昨日から何も食べてないだろ。ちょっとは何か食べないと、余計に塞ぎ込んじゃうぜ? ほら、これやるよ。見張りしてた時に、近くに生ってたの見つけたんだ」
 センジュが足元に置いていた木の実を、あたしの方に転がしてくれた。それはあたしの大好きなセシナの実、だけど、今はちっとも食欲が湧かないし、空腹だって感じていなかった。でもセンジュの言う事も尤もだ。無理にでも何か口に入れておかないと、心だけじゃなく身体まで弱ってしまう。足元がふらふらして、センジュが一目見て心配するような顔をしているのだ。こんなんじゃご主人にも余計な心配をかけてしまう。
「う……ん。ありがと」
 お礼を言ってセシナの実を受け取る。そのまま口に運び、もそもそと食べ始めた。昨日から続く沈んだ気分のせいで、味なんてほとんど感じない。それでも暫く咀嚼していると、慣れ親しんだ苦味と酸味がやっと口の中に広がって、少しだけほっとした気持ちになった。
 あたしが木の実を食べている間、センジュは何か思いつめるように虚空を睨んでいた。やがて思いが溢れ出したのか、急にだん、と床を踏みしめた。
「くそ! 犯人さえわかれば……俺がこの手で仇討ちをしてやるってのに……!」
 そう吼えたセンジュの頭上で光る、死神の鎌のような角。いかにも切れ味が良さそうで、生き物の身体なんか簡単にずたずたにできそうだった。
 不意にさっきの悪夢が脳内を過ぎる。動けないモネを切り刻む、鋭利な刃。何故かそれがセンジュの角と重なった。
 ――何を考えてるんだろう、あたし。きっと悲しみのせいでまともな思考ができなくなってるんだわ。センジュを、仲間を疑うなんて。
「ごめんなさい、少し、泳いできても良いかしら。落ち着きたいの」
「あ……ああ。気をつけろよ」
 いたたまれず、あたしは逃げるようにセンジュに背を向けた。ううん、本当に逃げた。このままここにいると、センジュにとても失礼な事を言ってしまうような気がしたから。
 昨夜センジュがしたように、窓から外に出る。今度は着地の時にふらつかなかった。あたしは朝露で湿った草の上を、小走りに森の方へ駆けていった。
 昨日の記憶と水の匂いを頼りに川を目指す。木々の間に飛び込んだところで、ふと違和感に気づいた。
 一匹になりたい一心でここまで走ってきたけど、見張りをしていたはずのミカナの姿がどこにもないのだ。もしかして、ミカナの身に良くない事が起こったんじゃ? 最悪の事態が頭を過ぎって、ぞっとした。まさか、ミカナはとても強いし、敵意を持った誰かが近づいてくれば事前にわかるはず、でももしモネを襲った犯人に遭遇していたら――?
 でも、あたしの不安は杞憂だったようだ。立ち止まったあたしに近づく足音。咄嗟に身構える間もなく姿を現したのは当のミカナだった。
「ああミカナ。良かった、無事だったのね」
 ほっとして声をかけた。ミカナは驚いたように目をぱちりとさせたけど、少し疲れた顔で微笑んでくれた。
「すみません、心配かけてしまいましたね。眠気を覚まそうとして水浴びしてきたんです。怪しい感情が察知できなかったので、少し離れても良いかと思ったのですが……」
「気に病む事ないわ。ミカナが一番頑張ってくれてるのはみんな知ってるもの。ありがとう」
 あたしは心からお礼を言った。危険を顧みず進んでモネの現場を調べてくれたのも、昨夜安心して眠れたのも、全部ミカナのおかげだ。感謝してもしきれない。
「いえ、当然の事をしたまでですよ。……私は先に御主人様の所へ戻りますね。今のところ、この近くに危険な感情は感じられませんが、お気をつけて」
「うん。落ち着いたらあたしもすぐに戻るわ」
 ミカナと別れ、あたしは彼とは反対方向へ進んでいった。間もなく、あたしの耳は水が流れる音を捉える。音に誘われて開けた場所に出れば、そこはもう川の畔だった。
 あたしは浅瀬を避けて、水の色が濃い、泳ぎに適した深そうな場所を探した。……うん、この辺りが良さそうね。
 思いっきり息を吸い込んでから、勢い良く川の中へ飛び込んだ。水飛沫が上がり、水中に大量の空気が混ぜられて重く泡立った音が全身を通り過ぎていく。ゆっくりと身を沈めていけば、優しい静寂があたしを出迎えてくれた。種族柄なのか、やっぱり水の中は心地良い。しばらくあたしは何も考えずに、ゆらゆらと川底を漂った。もちろん遠くまで流されないように気をつけたけど、元々そんなに流れの速くない川だから大した労力はいらなかった。
 なんとか人心地ついてから、考えるのは仲間の事。そして、センジュの事。
 正直、センジュを初めて見た時は恐怖した。だって彼はアブソルだから。
 アブソルを見たら気をつけなさい。彼らが現れれば、そこには近い内に災いが起こるのよ。小さい頃に、今はもう亡くなってしまったお母さんが教えてくれた。それは厳しい自然の中で生きていくための知恵のひとつ。実際にお母さんは急に姿を見せたアブソルから離れる事で、土砂崩れや津波から逃れ生き延びる事ができたのだそうだ。ただ、災いはアブソルを傷つけたり殺したりしても回避できないから、とにかくその場から逃げなさい、とも言っていた。そんな災いを引き寄せるポケモンといつも一緒にいても大丈夫なのかしらと、出会った当時はセンジュに随分失礼な事を考えていた。
 だけどセンジュと一緒に旅をするようになって、アブソルに対する印象はガラリと変わった。本当はアブソルは災いを呼び寄せているんじゃなくて、災いを感じる力に優れていて、危険を知らせようと他のポケモンや人間の前に現れるだけ。それがいつのまにか悪い迷信になってしまったらしい。センジュ本人も、弱い者への思いやりと正義感を持った優しいポケモンだった。時々暗い過去の事を話しはするけど、その時は決まって後悔の言葉を口にする。センジュもあたし達と同じ、笑ったり悩んだりする普通のポケモンだった。今ではもう、頼れる仲間の内の一匹だ。
 だけど、ここに来てその信頼が揺らぎ始めてしまった。
 一度湧き上がってしまった疑念が、なかなか振り払えない。
 本当にセンジュは何もしていないのかしら。彼は以前、辻斬り紛いの事をしていたと懺悔していた。今は深く反省していて、できる限り償いたいとも言ってたけど。もし誰かを斬る事に快感を感じていたら。何かのきっかけで、またその感覚を味わいたくなったとしたら。
「もしかして」
 例えばそう、遠くでポケモンの惨殺事件が連続して起きているというニュースを見て。消し去ったはずの暗い喜びが目を覚ましたとしたら。
 大丈夫、ミカナが周りに危険な感情を持った奴はいないって言ってたじゃない。あたしは自分に言い聞かせる。もしセンジュが犯人なら、真っ先に気づくはずだわ。それにあの場所を調べてくれて、何も証拠が見つからなかったって言っていたし。
 だけど……。あたしの頭の隅で、抗議の声が上がってしまった。
 エスパーの技は悪タイプには通じない。同じように、ミカナの能力でももしかしたら、センジュの感情を見通す事ができない可能性だってある。ミカナは正義感の強い性格だから、感情が読めなくても仲間を疑うなんて事はしないだろう。もしそれを逆手に取っていたら? 証拠がなかったっていうのも、それは見知らぬ人間、或いはポケモンの足跡なり痕跡がなかったのであって、元々あの場所にいたセンジュの足跡が見つかっても何も不審には思わないかもしれない。センジュが犯人だという証拠はない、だけど犯人じゃないっていう証拠もどこにもないのよ。
 ……ああ、あたし、最低だ。仲間を疑ってるなんて。こんな状況になって初めて、あたしは自分がなんて器の小さいポケモンなんだろうって絶望した。暗い過去があるから、悪タイプだから、禍々しい鎌を持っているから、災いを呼ぶから、アブソルだから。そんな理由で、あたしはセンジュを信用しきれてないんだわ。こんなんじゃ、センジュに申し訳なくて戻れない。
 きっと、ううん絶対センジュは犯人なんかじゃない。あたしは再度自分に言い聞かせた。悲しみの余り気が動転して、おかしな考えが浮かんでしまっただけ。センジュだって悲しんでいたじゃない、仇討ちがしたいって憤っていたじゃない。なのにこれ以上センジュを疑うのは、仲間を侮辱する行為に他ならない。もっと冷静になるのよあたし。
 ふと。息苦しさを感じて、あたしは意識を現実へと引き戻した。
 そろそろ息継ぎをしなくちゃ。いくらあたしが水中に適応した種族だといえ、鰓のような水中で呼吸できる器官は持っていない。物思いに耽り過ぎて、気がつけば潜水時間の限界が近づいていた。
 水面を目指し、浮上しようと泳ぎ始める。その時だった。
「ぐっ!?」
 痛い!!
 急にお腹の痛みに襲われて、あたしは呻き声を上げた。いや、痛いなんて生易しいものじゃない、ギリギリと締め上げられるような、鋭利な刃物で抉られるような、今まで味わった事のない激痛だった。思わず口から空気を押し出して、両腕と尻尾でお腹を抱えた。身体が重い。沈んでいく。
「……ッ! ……ッ!!」
 いたい、いたいよぉ! 目尻に滲んだ涙も噴き出る脂汗も、すぐに水に溶けていく。叫び声を上げて少しでも痛みを紛らわせたかったけど、息継ぎをしようとしていた矢先の事だ。無駄にできる酸素なんて、ない。
 どうしてこんな急に痛み始めたんだろう。仲間を失ったショックからくる腹痛、なのかしら。でも、それにしては痛みが強過ぎるようにも思う。何かがおかしい。でも何が?
「っ、がふっ」
 唐突に何かが喉の奥からせり上がってきて、噛み締めた牙の間から体液を吐き出す。瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
 嘘、血なの!?
 自分が出したものが信じられずに、目を見開いた。赤はすぐに薄まり、川の流れによって遠くへ運ばれていく。口の中に残ったのは強烈な鉄の味。やっぱり、吐血までするなんて異常だ、まるで毒でも飲んだみたい。――毒?
「……!?」
 たった一つ心当たりがあった。さっき、センジュに貰ったあのセシナの実。
 まさかあれに毒が入っていたっていうの!? 確かに今朝のあたしじゃ味覚もはっきりしていなかったし、何よりあれはもともと苦味の強い木の実だ。何か入っていたとしても気づかないかもしれない。ああそれに、よく考えてみれば、センジュにはあたし達が寝静まった間に毒入り木の実を用意する時間だってあった。こんな事考えたくないけど、他の要因は思い至らなかった。
 ねぇセンジュ、あなたなの? あなたが、モネを殺した犯人なの? そして今度は、あたしを殺そうとしているの? あなたはまだ、おぞましい死神を身の内に飼っているというの? ねぇ、お願い答えて。
 脳裏に浮かぶ仲間だと思っていたアブソルに問いかける。だけど、記憶の中の彼は口角を吊り上げるだけで何も言わない。答えてくれない。このままじゃ、ご主人も危険かもしれないのに。伝えなきゃ、でもそれを伝えるためには……もしミカナが近くにいれば、あたしの苦しむ感情を察知して助けてくれるかもしれないけど、彼はもうご主人の元に戻ってる。ご主人に危険を伝えるには、まずあたしが生きて戻らなきゃいけない。だけど。川底で芋虫のように身を捩りながら、あたしは苦痛にのた打った。身体中が酸素を求めて悲鳴を上げているのに、激痛の余り泳ぐ事ができない。浮き袋を膨らませたくても、中に入れるべき空気なんてとっくに底をついている。
 耐え難い腹痛と酸欠で視界が霞む。不意に幻想のアブソルの鎌が朱に染まったのは、彼が殺人鬼だという暗示か、それとも単にあたしが水中に吐き出した液体のせいなのか、もうよくわからなかった。
「うぐっ……がはっ」
 おなか、いたい。くるしい。たすけて。脈打つ激痛の波に合わせて、あたしは大量のどす黒い血と煌めく空気を次々吐き出した。代わりに流れ込んでくるのは大量の水、水、水。鉛のように重たくなった身体はもう言う事を聞いてくれなくて、水面から差す光に力なく手を伸ばす事しかできなかった。……ああ、あたし、フローゼルなのに、溺れて死んじゃうんだ。朦朧としてきた意識の中で、あたしは漠然と、自分の最期を悟った。
 ごしゅじん、しんぱいかけてごめんね。あたし、もうだめ、みたい。……ごしゅじん。おねがい。きを、つけて……。
 意識が薄れ、あれだけ激しかった苦痛がすうっと抜けていく。あたしは最期に、もう届かない声でご主人に呼びかけてから、全てを手放した。




4、センジュ


 そのおぞましい連絡があったのは、正午を過ぎた頃だった。
「ああ、あなたが――」
 血相を変えたジョーイさんが、マスターのトレーナーカードを確認した。
「あの……何か……?」
 ただならない様子に、マスターはおそるおそる問いかけた。ジョーイさんは悲しそうな瞳でマスターを見つめて、一度深呼吸をした。
「とても言いにくいのだけど……落ち着いて、聞いてね。……昨夜遅くに、あなたのお宅で火事があったそうなの」
「!?」
 吐き出された言葉に一瞬、思考が止まった。火事? 何処で? なに、が。ジョーイさんの震える声が、奇妙な質量を持って頭にねじ込まれてくる。きーんと、嫌な耳鳴りがした。 
「焼け跡から……二人の男女の御遺体が見つかったそうよ。それで……」
 ジョーイさんは声を詰まらせた。これ以上言えなかったんだろう。つまり、見つかったっていう遺体はマスターの……でも俺達も、マスターも、これ以上は聞く事ができなかった。
「……マスター?」
 心配になって、ちらりとマスターの様子を伺う。瞬間、俺は言葉を失った。
「……」
 マスターは何も言わなかったし泣きもしなかった。ただ、感情が全て抜け落ちたような虚ろな顔で、茫然と立ち尽くしていた。その姿は取り乱して泣き叫ぶよりも、もっとずっと痛々しい。こんな時にどう慰めていいのかわからず、俺は俯いた。いやきっと、今はどんな慰めも意味を成さないんだ。


  ★


「急、過ぎて……全然実感がわかないよ……」
 知らせを聞いて、どれだけ経ったか。マスターがぽつりと漏らした。
「だって昨日、話したばかりで……元気だったのに、愛してるって、言ってくれたのに……」
 今、俺達は昨晩泊まったセンターの一室に戻っていた。マスターはベッドに力なく腰かけ、消え入りそうな声で言った。
「う……そ、だ。どうして……お母さん……お父さん……なんでぇ……」
「……マスター」
 もうかける言葉さえ見つからなかった。ミカナも手で顔を覆って俯いている。よく見れば小刻みに肩が震えていて、きっと嗚咽を堪えているんだろう。
 あの後マスターに代わり俺が人間達から聞いた話では、今夜は今いるポケモンセンターに寄せてもらって、明日の午後にはカントーにいるマスターの祖父母が迎えに来てくれるらしい。その後はお葬式や、捜査協力の情報提供、他細々したものを片付けた上で、祖父母の家に行くそうだ。こんな状況になってしまっては、当然だけど旅どころじゃない。
 それにしても、どうしてこうも次々と仲間と、マスターの両親まで死んでいくんだ。まさか俺が、アブソルの俺なんかが傍にいるからこんな災いが――。
「セン、ジュ……」
 弱々しい声でマスターが俺を呼ぶ。視線を上げれば、まるで別人のように憔悴しきったマスターの顔が目に飛び込んできて、心が鋭い刃物で引き裂かれたような痛みに襲われた。
「センジュは悪くない、からね……?」
「!?」
 ああ、マスターはこんな時でも俺を気遣ってくれるの? やつれた顔と精一杯の微笑みが、どうしようもなく優しくて苦しくて。堪らなくなって、思わず片方の前脚を伸ばしてマスターを抱きしめた。マスターは俺のふかふかの飾り毛に寄りかかって、か細い声で言った。
「さっき、ね……ジョーイさんから電話があって……その、火事の時ね、……緑っぽい髪の、怪しい人影が目撃されたの、わかったんだって……」
「!? マスター、それってもしかして……!」
 緑髪の怪しい連中には嫌という程心当たりがある、ミカナもはっとしたように顔を上げた。
「やっぱり、ギンガ団なんかに……関わるべきじゃなかったの……中途半端な正義感なんて、出さなきゃ良かった……!」
 俺達が何度かギンガ団を蹴散らしたのは、決して悪い行いじゃなかったはずだ。それを悔やむなんていつものマスターらしくないけど、こんな状況に置かれては無理もないか。
「ねぇセンジュ、ミカナ……次は私達なのかな」
「マスター、何言ってんだよ!」
 俺の胸に顔を埋めたマスターは、とうとう泣き出した。
「死にたくないよっ……! お願いだから、傍にいて……一人にしないで、いなくならないで、死なないでっ……! う、あぁぁぁっ……!」
「マスター、俺達絶対死なねぇから! マスターを守ってみせる、な!」
「そうですよ御主人様……私が必ず、不審な連中を排除しますから」
 ミカナも寄ってきて声をかけた。自分に言い聞かせるように、はっきりと。


  ★


 泣き疲れたのかマスターは眠っていた。添い寝している俺に安心してくれたんだろうか。ミカナは今夜もボールに入らず、見張りをするように窓の外を見つめていた。
 まだ頭痛のような、耳鳴りのような感覚が微かに残っていた。災いの予感、だけど災いなんてもう十分過ぎるほど起きている。マスターは俺のせいじゃないって言ってくれたけど、やっぱり俺といるからこんな事になってるんじゃ、そんな後悔や自責の念で酷い自己嫌悪に陥る。 
 ラベンダーもまだ戻って来ない。もしかすると、俺の事を恐れて離れていったのかもしれない。もしそうだとしても、俺にはラベンダーを非難する資格なんてなかった。災いを呼ぶアブソルだから、そんな理由で人間からもポケモンからも疎まれ、蔑まれ続けた昔の俺は、他人から恐れられるのに十分な罪を犯してしまっている。
 マスターと出会うずっと前。独り立ちして世間に飛び出した俺を出迎えたのは、いわれのない敵意の奔流だった。
 初めのうちは必死に否定したが、誰も聞く耳を持たなかった。俺は耐えきれず、両親と隠れ住んでいた山に戻った。唯一俺を信じ受け入れてくれる存在に会いたい一心だった。だけど、戻った俺が見たのは無残に焼けた禿げ山だった。
 落雷による大規模な山火事で、両親は行方不明。死んでしまったか、遠くへ避難したのか、それすらもわからない。なんとかして両親の痕跡を探そうと駆けずり回っていた俺の耳に飛び込んできたのは、周りのポケモン達の声。
「ほら、やっぱりアブソルが」
「あいつのせいで私達の森は焼けてしまったのよ」
「早く逃げろ! もっと悪い事が起こるぞ!」
 ……ああ。また、か。
 あの時だった。俺の中の何かが、ぶつりと切れた音がしたのは。
 それほど俺を疫病神扱いしたいのなら、いっそお望み通り本当の疫病神になってやるよ。変に開き直った俺は、いつしかポケモンや人間を襲うようになっていた。気の向くままあちこちを渡り歩き、俺を蔑む奴や、或いは単に強そうな奴を見つけては叩きのめして、ボロボロで這いつくばる様を逆に見下しては悦に入っていた。今になって思えば寒気がするけど、当時の俺は戦って勝つ事でしか自分を保てなかったんだ。ただ、心のどこかでは自分を受け入れてくれる存在を探していた、ような気がする。矛盾を抱えながら、俺は彷徨い続け、戦い続けていた。もしかしたらこんな疫病神となった俺に、止めを刺してくれる相手を求めていたのかもしれない。
 そんな俺に救いの手を差し伸べてくれたのが今のマスターとミカナだった。あの日偶然、森を歩くマスター達を見つけた俺は、いつものように彼らに襲いかかった。エルレイドは悪タイプの俺には若干不利な相手だったけど、それまで何回か格闘タイプのポケモンを相手にして勝ってきたし、孤高の死神を気取っていた俺が、人間に飼われてぬくぬくしているポケモンなんかに負けるはずがないと思っていた。
 結果、俺は負けた。惨敗だった。
 俺はトレーナー共々ぶちのめす気で向かっていったのに、エルレイドは軽く俺の攻撃を躱し、いなし、そのくせトレーナーには一切近づけさせずに距離を保ち、苛立った俺の一瞬の隙をついて懐に斬り込んできた。そこからは演舞のような斬撃の嵐。とどめにこめかみに峰打ちを食らって、俺は気を失った。
 気絶している間に、俺はうわ言で身の上を口走ったらしい。ポケモンセンターで目覚めた俺に、エルレイドのトレーナーはとんでもない話を持ちかけてきた。なんと自分達を襲った俺に、アブソルである俺に仲間にならないかと誘ったんだ。
 信じられない話に思考が追いつかず、呆気に取られていた俺にトレーナーはこう付け足した。
「ただし、条件があるの。この先一切、無意味に他人を傷つけるような真似をしない事。そう約束できるなら……一緒においでよ」
 あの時のトレーナーの――マスターの優しい笑顔は今でも忘れられない。俺を取り巻いていた他者を拒絶する壁が、その言葉と微笑みによって跡形もなく崩れ去った。
 俺はみっともなく泣きじゃくりながら、懺悔と感謝の言葉を止めどなく口にした。マスターはそんな俺を抱き締めて、優しい手つきで撫でてくれた。俺が両親以外から初めて感じた愛情は、あまりにも大きくて温かかった。
 この人の優しさに応えたい。この人の為に生きたい。そして、少しでも罪を償いたい。
 あの日から俺は心を入れ替えた。犯してしまった罪は消せない。けれど、これ以上罪を重ねない事ならできる。マスターと共に旅をしていく中で、俺はできる限り他人に優しくするよう努めたし、ポケモンを道具扱いする怪しい組織とも進んで戦った。それにまだ出会ってないけど、過去に傷つけてしまった誰かに会ったなら、心からの謝罪をしたい。許されるとは思っていないけど、そう願わずにはいられなかった。
 最初の内は、やっと自分を受け入れてくれる居場所が見つかったと喜んでいた。災いを呼ぶなんて、あくまでも噂でしかなかったんだと安堵していた。荒んでいた当時は俺自身が災いを引き起こしていたけど。悪意を持って他者に接すれば相手からも拒絶され、恐れられるのは当然で、それはアブソルに限らずどのポケモンや人間にも言える事だ。
 アブソルは災いを感じ取る力があるだけ、実際に災いを引き寄せる存在じゃない、と。そう信じていた。
 だけど、俺を仲間にしてから段々マスターの旅が芳しくない方に向かい始めた。
 ギンガ団なんて怪しい集団との争いに巻き込まれたり、仲間が殺されたり、そして大切なマスターの両親と帰るべき家にまで災いが降りかかった。
 もしかしたらこれは呪いなのかもしれない。俺が過去に傷つけてしまった者達が、俺が幸福になるのを許さないのかもしれない。
 別に俺自身が不幸になるのは構わなかった。一生消えない罪を背負ってしまったのは事実だし、それが償いになるというなら進んで受け入れる覚悟だってある。だけどマスター達に、俺を受け入れてくれた彼らにまで不幸が及ぶのは耐えられなかった。
 本当に俺は疫病神なんじゃないかという疑問が俺を締め付けて、しかもそれを否定できない。マスターを守る以前に、これ以上災いが降りかからないようにマスターの元を離れるべきなんじゃないか。疫病神が護衛を気取るなんておこがましい。でも俺がいなくなったらマスターはもっと悲しい思いをするに違いない。マスターは優しい人だから。本当に俺はどうしたら良いんだろう。傍にいても、離れていってもマスターを苦しめてしまう。
「……センジュ、話があるんですが」
 暗い出口の見えない思考を断ち切ってくれたのはミカナだった。内心感謝しながら、俺は上半身だけ起こしてミカナを見つめた。ミカナは窓を背にしているから、影になったその表情は見えない。
「何?」
「……御主人様には、これ以上手出しをさせません」
 静かな声だった。何かを決意したような。しっかりとした強い意思が伝わってきて、俺は一筋の光を見つけた気がした。
「ああ、そうだな。俺達で守り抜いてみせる。俺達が、マスターの光になるんだ」
 俺も応えた。そうだ、俺がくよくよしてたって起きてしまった惨劇は元に戻らない。ならばせめて、これ以上悲しい事件が起こらないようにしなければ。俺が災いを引き寄せていると決まった訳でもない、誰かに指摘された訳でもない。きっと思い過ごしだ。気分が滅入れば、暗い考えばかり浮かんでくるものだから。
 俺もミカナもそれなりに強いしタイプの弱点も被らない。団結すればどんな敵だって返り討ちにできるはず、いやできる。ボールに入らず常にマスターの傍に控えて、悪い奴らから守るんだ。マスターはもちろん、俺の仲間であるラベンダーも守ってやらなきゃ。悪い奴らが捕まって安心できるその日まで、何日でも、何年でも守り続けてやる。それが、今の俺に唯一できるマスター達への恩返し。
「違いますよ」
「……え?」
 だけど、何故か俺の言葉をミカナは否定した。意味がわからなくて混乱した俺は、首を傾げてミカナの表情を覗き込もうとする。今の俺達にマスター達を守る以外の使命があるだろうか。正義感が強く、マスターへの忠誠心が人一倍厚いミカナなら尚の事、否定する理由なんてあるはずないのに。じっとミカナの方を見ていると、なんだか耳鳴りが酷くなった気がした。
 何だろう、この重苦しい違和感は。本能が異常を知らせている。災いが近づいてきている、もう目の前まで迫っているような。
 ……目の、前? 今。目の前にいるのは。
 まさか! 一瞬頭を過ぎった恐ろしい考えを振り払おうと、俺は頭を振――ろうとして、全身が動かない事に気づいた。
 嘘だ。こんな事があっていいわけがない。
「これ以上御主人様には触れさせません。センジュ、貴方にもね」
 ぞっとする程静かな声、それでももう隠そうともしない圧倒的な憎悪と殺意。きっとあいつの技、金縛りにかかっていなくても、余りの殺気に声なんて出せなかっただろう。
 俺の中でパズルのピースが組み上がり、一つの結論へと完成していく。ずっと纏わりついて離れなかった嫌な感覚、ズタズタになった、そう鋭利な何かで切り裂かれたような遺体、緑髪の人影。目の前に佇むエルレイドは、常に俺達と一緒にいて、両腕に刃を備え、緑色の頭部を持った人間に近い体系のポケモン。初めからギンガ団なんて関係なかったんだ。信じられないし、何より信じたくなかったけど、目の前で恐ろしいまでの殺意を滲ませるミカナが全てを肯定してしまった。
 俺の中でパズルのピースが組み上がり、一つの結論へと完成していく。ずっと纏わりついて離れなかった嫌な感覚、ズタズタになった、そう鋭利な何かで切り裂かれたような遺体、緑髪の人影。目の前に佇むエルレイドは、常に俺達と一緒にいて、両腕に刃を備え、緑色の頭部を持った人間に近い体型のポケモン。初めからギンガ団なんて関係なかったんだ。信じられないし、何より信じたくなかったけど、目の前で恐ろしいまでの殺意を滲ませるミカナが全てを肯定してしまった。
 でも一体どうしてこんな酷い事を? ミカナ、あんたは誰よりも他人の心がわかるんだろう? マスターの事を、誰よりも愛していたんだろう? どうしてみんなの命を奪って、マスターの心をぐちゃぐちゃにするような事件を起こしたんだ?
 せめてそれだけでも問いただしたかったが、喉さえ目に見えない力で締め上げられ、声が出せなかった。
「御主人様は私だけのものです。誰にも渡しません」
 一歩一歩近づいて来るミカナ。角度が微妙に変わって、今では月光に照らされたその表情を見る事ができた。
 身動きのできない俺の目に映るのは、口の端を吊り上げて笑っているエルレイド。見慣れたはずの仲間の笑顔。ただ両の瞳だけは冷たくぎらぎらと輝いて、少しも笑っちゃいない。顔の上半分と下半分で正反対の表情を形作っていて、その異質感がおぞましかった。こんな狂気を秘めたまま、今まで平然と俺達やマスターと接してきた、その事実に寒気がした。
「貴方達は邪魔なんですよ。私の御主人様の周りをうろちょろと……目障りです」
 ミカナの言葉遣いはいつもと変わらず丁寧だったけど、声に込められた憎悪は俺の全身の毛を逆立たせるのに十分だった。
「――! ――!」
 締め付けられ、空気の入って来ない喉。息が苦しくて堪らない。俺は無駄な努力と知りながらも、必死に酸素を求めて空を噛んだ。その間にも近づいてくる足音。
「私の御主人様の名を気安く呼ぶ貴方達が憎い。私の御主人様に薄汚い手で触れる貴方達が憎い。私と御主人様だけの世界に割り込んでくる、お前らが、お前らが憎い!!」
 不自然に微笑んだまま、ミカナは呪詛のように静かに吼えた。
 金縛りにかかった身体が、内から湧き起こる恐怖でがくがくと震えだす。嫌だ来ないでくれ、苦しい、動けない、殺される、逃げなきゃ、でもマスターをこいつから守らなきゃ、でも動けない!
「ずっと耐えてきた。お前らが私の御主人様へ抱く愛情を、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日感じ取りながら! 心優しい私の御主人様が、お前らに笑顔を向けるのを、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日傍で見ながら! 私はずっと耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて……」
 イカレたペラップのように何度も繰り返すミカナの声を聞きながら、恐怖に震えながら、俺はパニックに陥りそうになる意識をどうにか繋ぎ止めていた。何処か金縛りの緩い部分はないかと、全身に意識を走らせて必死に探る。
 あった! 左後足が僅かに動く。ここを中心に力を込めて暴れれば、金縛りを解除できるかもしれない。早く金縛りを解いて、空気を吸わなきゃ死んでしまう。それに不意打ちを食らわせれば、なんとか逃げられるかも。
「ああ、御主人様は悪くないんですよ? 悪いのは私の御主人様に纏わりつくお前らだからな」
 いや、駄目だ! ミカナの言葉に、俺はすぐ横で眠っているマスターに思いを馳せる。
 こいつからマスターを守らなきゃ。今俺がこの場から動いたら、ミカナとマスターの間を隔てるものは何もなくなる。気の触れたミカナがマスターに何をするか、わかったもんじゃない。今マスターを守ってやれるのは俺しかいないんだ。さっきマスターの光になると決めたばかりじゃないか。例え相手が仲間だった誰かだったとしても、俺が、俺がマスターを守るんだ。
「……こんな状況でもまだ、私の御主人様の事を考えるのか」
 急に考えを読まれて、どきりとした。ミカナは憎悪と狂気で染まった顔に、更に憤怒を付け足していた。
「お前らが御主人様を想う事ですら、私には耐え難いというのに。それを今までずっと耐えてきたというのに!」
 ……ああそうだ。ラルトス系列のポケモンは、相手の感情を感じ取る力があるんだよな。俺達アブソルが災いを感じ取るのと同じように。だったら俺が逃げ出そうとしている感情だってミカナにはお見通し……。念の為左後足を動かそうと力を込めても、もう動かなかった。
「……だが、それももうすぐ終わる。この手で全て葬り去ってきた。お前で最後だ」
 酸欠で頭がガンガンする。とうとうミカナはすぐ目の前までやってきた。涙で滲み出した視界の中、立ち止まったミカナはふ、と目を細めて笑った。それはさっきまでの歪な笑顔じゃない、普段と変わらない穏やかで優しい微笑み。少なくとも、俺にはそう見えた。
 見逃してくれるわけないって、本能的に悟っていたけれど。まだ生きていられるんじゃないかと、淡い希望を抱いてしまった。
 ゆっくりと、ミカナが腕を振り上げた。
「さよなら、ゴミ屑」
 その言葉で全ての光が断ち切られた。代わりに俺を支配する、絶望。
 何度も血を吸っただろうミカナの刃が、嫌に煌めきながら真っ直ぐ俺の首元を狙って落ちてくる、バトルで使う技じゃなく本気で首を落とす気なんだ、一瞬のはずなのにスローモーションのようにはっきりと軌道が見えた、だけど俺の時間は止まったまま動かない、やめろ嫌だ嫌だ嫌だ来るなやめろ死にたくない苦しい動け俺の身体嫌だマスター助けて守らなきゃ来るなお願いだやめて助けて嫌だ死にたくない!!
 奴の刃が触れたと思った瞬間。首から今まで感じた事のない衝撃と灼熱感が湧き上がって、俺の視界が大きくぶれて、舞い上がって、
 首のない紅いアブソルが倒れる姿が見えた。




5、ミカナ


「ぅ、うん……」
「目が覚めましたか、御主人様」
 私の腕の中で御主人様が目を覚ました。御主人様はまず私を見て安堵の表情を浮かべ、次に辺りを見回した。
「ここは……? それに、ラベンダーと、センジュは……?」
 御主人様の口から私以外の名前が出た事に僅かな苛立ちを覚えたが、すぐに抑えつけた。奴らも私が殺したのだから、もうこの世にはいない。もう二度と御主人様の目に映る事も馴れ馴れしく触れる事もない。他のゴミ屑共と同じように。
「……すみません、私が見張りから戻った時には……」
 それでも、私は辛そうに目を反らしてみる。自分でも白々しい程の演技だが、判断力の鈍った今の御主人様にはわかるはずもない。思った通り、御主人様は目を見開き、次いで震え始めた。
「そんな……嘘でしょ……嘘って言ってよ、ねぇ……!」
 御主人様の嗚咽は古びた木製の壁に吸い込まれ、閑散とした室内に木霊する事はなかった。
 センジュを始末してから、私は御主人様をテレポートでここまで運んだ。ここは旅をしていた時に見つけておいた、人里離れた場所にある放置されて久しい廃墟。過疎が進んだ末に滅びたであろう村の、一番状態の良い屋敷の一角だ。ここに住み着いていた連中は、前もって丁寧にお引き取り願っておいた。
 ゴミ掃除に、他者を伴ったテレポート。昨夜も余り寝ていない為かなり疲弊していたが、やっと御主人様を私だけのものにできた喜びに比べれば安過ぎる代償だった。そうだ、私はとうとう御主人様を独占する事に成功したのだ。
 旅に出て二人きりになれたと思ったら、次々増えたゴミ屑共も殺した。帰る場所と、御主人様を愛しているなどとほざく人間達も消した。御主人様を取り巻く全ての邪魔者を取り払い、御主人様を孤独の中へと突き落とした。こうなればもう御主人様には私しかいない。だから、私だけを見てくれる。
「そんなっ……ラベンダー……センジュぅぅっ……!」
「……ッ。御主人様、私がついていますから。どうか泣かないで下さい」
 私の目の前で。私以外の誰かを想って泣かないで下さい。その涙にさえ嫉妬して、気が狂いそうになるから。


  ★


 いつからだろう。傍で支え続けるだけでは耐えられなくなり、御主人様を自分だけのものにしたいと思い始めたのは。確かに御主人様は私を愛してくれているし、私も人とポケモンの境を越えて御主人様を愛している。けれど、恋愛感情を抜きにしても、私と御主人様の愛情には差があったのだ。
 私は、御主人様がいなければ生きていけないのに、御主人様は私がいなくても、多少寂しい思いはするだろうが生きていける。その事実に気づいた時には愕然とした。そして、どうしようもない寂しさを覚えた。 
 どこにこの違いがあるのだろう。考えて、考え続けて辿り着いた答え。答えが出てしまえば、簡単な理由だった。
 私は一度、全てを失っている。そして孤独と絶望の中で、唯一の光となった御主人様に依存した。だからこそ、ここまで深い愛情を御主人様に抱く事ができたのだ。
 ならば同じ状況にすれば良い。御主人様から全てを奪って、私が光になれば良い。
 結論は出たものの、私はなかなか行動に移せずにいた。御主人様から全てを奪ったのが私だと知れれば、御主人様に嫌われてしまう。そんな事になったら――。考えただけでも恐ろしかった。
 そんな折、ふとニュースでギンガ団が原因と思われる事件が起きているのを知り、これに偽装しようと考えた。
 最初の標的は、新入りのくせに御主人様に執拗に纏わりついていたモネにした。
 御主人様から離れて探検していたモネを誘い出し、殺すのは実に簡単だった。図々しくも私の御主人様に甘え媚を売った罰として、金縛りで喉を締め上げ声を封じてから全身を切り刻んでやったのだ。無音の絶叫がなんとも小気味良かった。
 だが奴の為に泣きじゃくる御主人様を見て心が痛んだ。たった一週間で、モネは御主人様の中でかけがえのない存在になっていたのだ。あんなに悲しむほど、御主人様の愛情を受けていたモネに怒りを覚えた。奴がいなければ、その愛情は私に向けられていたはずなのに。御主人様が私だけに与えてくれるはずの愛情を、欠片でも奪う奴が憎くて堪らなかった。
 あの人間達、御主人様の両親にしてもそうだ。私の見ている前で、御主人様に向かって「愛している」などと……例え実の親であろうと許せなかった。普段の私ならまだ見逃せたかもしれないが、計画を実行に移し、やっと鬱陶しいモネを消して清々しているところにその言葉。次に消すのは奴らにしようと決めた。
 夜、皆が寝静まってからテレポートで御主人様の生家に戻った。なかなか眠ろうとしないセンジュに催眠術をかける必要があったが。
 眠っていたただの人間を殺すのも、モネと同じように造作もない事だった。その後無人となり、もう必要のなくなった家も鬼火で火を放ち燃やした。その時まさか誰かに見られていたとは不覚だったが、その誰かもギンガ団などという都合の良い勘違いをしてくれたようだ。便乗して正解だった。人型に近い容姿と、ラルトスの頃から変わらぬ緑髪もこんな所で役に立つとは思わなかった。
「両親が亡くなった」
 知らせを聞いて泣き崩れる御主人様。御主人様、そんなに悲しまなくても良いのですよ。だってあの人間達よりも、私は御主人様を愛しているのですから。尤も、御主人様がこの世に存在しているのは奴らのおかげ。だから奴らには特別に情けをかけて、眠っている間に一撃で首を落としてやった。驚くほどあっさり死んでいった奴らを思い出すと、込み上げる笑いを耐えるのに苦労した。
 ラベンダーは身のこなしが素早く、川の中にいれば尚更手を出しにくい。だから自慢の刃で切り刻む事はせずに、念力で内臓を捻り潰してやった。大量の血を吐きながら溺れるフローゼルを見て、随分無様な最期だと嘲笑ったものだった。 
 センジュは。残念ながらゆっくりと罰を与えている時間はなかった。御主人様に現場を見られるわけにもいかないし、何よりポケモンセンターという場所は、いつ他の人間やポケモンがやってくるかわからない。もちろん周囲に誰かの感情や気配がないか、しっかり確認した上での掃除だったが。
「ミカナ……! 怪我してる、大丈夫?」
 ひとつひとつ、ゴミ掃除を確認するように思い返していると、御主人様が私の腕に触れた。御主人様の視線の先には酷い裂傷と火傷の跡。
 センジュを殺し、御主人様を連れ去る間際。私だけが忽然と姿を消せば不自然だろうと、自らの片腕を切り裂き、溢れる血をあの部屋に振り撒いておいた。鬼火で傷口を焼いた為に、出血はもう止まっていたが。激しい疼痛も、御主人様を手に入れた今はさして気にならなかった。
「こんな酷い怪我をしてまで、私を守ってくれたの……? ああミカナ……」
 これだけ憔悴していても、私の身体を気遣ってくれる御主人様がいじらしい。自分がどんな環境に置かれようとも真っ先にポケモンの、いや私の事を考えてくれる、それでこそ私の愛する御主人様だ。
「どうしよう、ミカナ。次は私かもしれない。もしかしたら、もしかしたらミカナが殺されるかもしれない……そんな事になったら私っ……わた、し……あ、ぁあっ、いやぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁっ!!」
 ……馬鹿な御主人様だ。私が御主人様の命を奪う事も、私自身を殺す事もありはしないのに。もちろん真相を知る由もない御主人様は、私に縋り、泣き叫んでいた。傍目に見てもはっきりわかる程がたがたと震え、幼子のように私にしがみ付くその姿は支配欲をそそられる。抱いた腕の中からはっきりと伝わってくる、圧倒的な恐怖、身を裂くような悲しみ、狂おしい不安と底のない深い絶望。あらゆる負の感情を渦巻かせたそれらが、何故か無性に心地良くて、私は窶れた御主人様を強く抱きしめた。終わらない絶叫が耳を&ruby(つんざ){劈};くが、それすらも甘美で、愛おしい。
「大丈夫。私はいなくなりません。ずっと傍にいますよ、御主人様」
「……っぐ、ほ、んとう?」
 嗚咽は震え、掠れた声は今にも尽きてしまいそうだ。いつの間にこんなに弱々しくなったものか。
「ええ、本当です。だから、私から離れてはいけませんよ」
「う、ん……。私、には、もうミカナしか、いない、から……」
 嗚咽をはさみながら、御主人様は消えかけた蝋燭のような微かな笑みを見せてくれた。御主人様を一筋の希望と安堵で満たす事も、絶望のどん底に突き落とす事も、全ては私のさじ加減一つだと思うと、まるで神にでもなったかのような錯覚に陥った。
 御主人様に笑顔を与える事は、恐らく誰にでもできてしまうだろう。だが、絶対的な絶望に染める事ができるのは私だけだ。他の誰にもできない、私だけが御主人様にこの表情をさせる事ができる。そう私だけ、私だけが! 愛する御主人様が、世界で唯一、私だけに特別な反応を返してくれる。これほど素晴らしい事が他にあるだろうか。
「御主人様、外は危険です。御主人様の家族や仲間を殺した奴らが、いつ襲ってくるかもしれない。だから、安心できるようになるまで私と二人でここに隠れていましょう。わかりましたね?」
 『安心できる』ような時。当然、そんな時は来はしないのだが。御主人様を外に出せば、以前のようにまた悪い虫がついてしまう。第一外に出す必要もないか、御主人様には私だけがいればいいのだから。他の誰かに会う必要もない。
「うん。ミカナがそう言うなら、言う通りにする……」
 御主人様は頷いた。ああなんて愛おしいんだろうか。私の愚かで可愛い御主人様は。私の事を微塵も疑いもせず、一途な信頼を寄せてくるなんて。
「ねぇミカナ。お願いだから、ずっと傍にいてね。私を、独りぼっちにしないでっ……」
「もちろんですよ。私が、御主人様を死ぬまでお守りします」
 私は幸せだった。御主人様と私だけの理想の世界が、やっと手に入ったのだから。


  ★


 欲とは恐ろしいもので、目標に達したと思えば更に上を求めてしまう。
 御主人様をもっと独占したい。私に依存させたい。私なしでは生きていけないようにしたい。どうすれば良いだろう?
 例えば。……そう例えば、足を斬り落としてしまうのはどうだろうか。そうすれば、もう私から離れていく事はないだろう。移動する時は抱き上げて、長距離ならテレポートを使う事もできる。いっそ腕も一緒に斬り落としてしまうのも良いかもしれない。そうすれば身の回りの事は何も出来なくなる。食事も、水浴びも、排泄も、生命維持に必要な動作全てが私の介助なくしては成り立たない。本当に私なしでは生きていけなくなるだろう。
 手足を失って小さくなった御主人様を想像してみる。可愛らしくて人形のようで、しかし人形とは違い意思を持ち、私を頼って短い腕を差し伸べてくる。その目に映るのは私の姿だけ。その耳が捉えるのは私の声だけ。その口から紡がれるのは私の名だけ。――ああ、ぞくぞくする。
 手足を斬り落とすのは、催眠術で意識を失わせてからが良いだろうか。御主人様は優しい方だし、私に絶対的な信頼を置いている。目覚めた時に手足がなくなっていても、御主人様のためだと説明すればきっとわかってくれるだろう。
 いや。むしろ敢えて意識のあるまま行って、痛みとショックで壊してしまうというのも悪くない。ゴミ屑共をこの世から消し去っても、御主人様の中にある奴らの記憶までは取り除く事はできないからだ。ならば一度壊してしまって、白紙の状態から私以外の記憶を持たない御主人様に組み立て直す。私にとって御主人様が全てであるように、御主人様にとっての全てが私になれば良い。それに手足を斬るなど、私以外の誰にもできない事だ。御主人様は私だけのために、どんな反応を見せてくれるのだろうか、ふつふつと興味が湧いた。
「いつにするか……」
「……ミカナ?」
「失礼。なんでもありませんよ」
 怪訝そうな顔で私を見上げる御主人様を撫でてやる。何度か身体を交わしてからの方が良いかもしれない。もうここは私と御主人様だけの世界なのだから、人であってポケモンである、そんな種族の区別など意味がない。手を握りあって、足を絡めて、その感触を記憶にしっかりと焼き付けて。手足を斬り落とすのはその後でも遅くはないだろう。壊すなら、その時に一緒に。
 今の御主人様は恐怖と不安感に怯えきっている。温もりと快感を与えてやれば、きっと今よりも深く、私の存在を心に刻み付けてくれるだろう。
「心から愛しています、御主人様」
 ――だから御主人様も、私だけを愛して下さい。 
 私は愛しい愛しい御主人様の手を取って、そっと口づけた。



&size(20){さぁ御手を、レディ};
(私が貴女の光になるから。他の光は要らないでしょう?)

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*あとがき [#fc7f61a1]
恐ろしい事件に巻き込まれながらも、トレーナーを守ろうと必死に立ち向ったポケモン達の物語。
と、見せかけて、ヤンデレなエルレイドに死ぬほど愛されて夜も眠れないどころじゃねぇトレーナーのお話でした。感動どころか鬱しか生まないようなお話で、一票でも頂けたら嬉しいなーと思ってたんですが、まさかのベスト3入りしちゃいました。わぁぁありがとうございます!恐縮です。
さて、お気づきになられた方もいるかもしれませんが、このお話の登場ポケモンの名前には花の名前やその一部が使われており、役割、性質もその花言葉にちなんだものとなっています。以下あれやこれや解説。


エルレイド:ミカナ
やんでれいど。ミカナ(美加奈)は竜胆の古名です。竜胆の花言葉は正義感、寂しい愛情、悲しんでいるあなたが好き。
竜胆の花言葉を知った時からいつかどろどろのヤンデレを書いてみたいと目論んでおりました。本来は悲しみにくれているあなたでも受け入れます、私が傍にいますよって意味らしいですが。
ヤンデレといえば刃物(安直ですが)。というわけで刃物を持ち、尚且つ催眠術鬼火金縛りテレポート等々、悪用の利く補助技をたくさん覚えるエルレイドを選びました。でもミラクルアイ覚えませんでした、すみません。目マークの技使われた覚えがあったんですが、調べたら黒い眼差しでした。というわけでその部分削除しました。
ヤンデレといえば刃物(安直ですが)。というわけで刃物を持ち、尚且つ催眠術鬼火金縛りテレポート等々、悪用の利く補助技をたくさん覚えるエルレイドを選びました。
重度の御主人様依存症。過去の経験から見捨てられる事に強い恐怖心があります。トレーナーさんの関心が自分以外に向いて、やがて離れていってしまうのではという不安から、トレーナーさんを自分に依存させたいと考えるようになりました。感情を察知する能力故に、「トレーナーの愛情が自分以外に向けられている」のを常に感じ取る羽目となり、余計に精神を病んでしまいました。
当初は監禁ENDで終わる予定でしたが、書いてる内にヤンデレが進行したのか、手足ぶっち切った上に精神壊して上書きとかとんでもない事言い出しました。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ。

アブソル:センジュ
センジュはマリーゴールドの和名千寿菊から。マリーゴールドの花言葉は予言、悪を挫く、絶望。
他の子と違い名前よりも先に種族が決まっていました。災いを察知し、他のポケモンから疑われやすく、実際に犯行に使えそうな刃物持ち。このお話の災いは天災ではなく人災ですが、強すぎる狂気ゆえ何かを感じ取っていたようです。
過去に通り魔をやってますが、殺した事は一度もありません。根は優しい性格なので完全に疫病神になりきれなかったのと、殺すのが目的ではなく力でねじ伏せる事で自分の存在を認めさせようとした、ようは自分を見てもらいたかったんです。トレーナーさんと出会った事で居場所を見つけ、束の間の幸せを感じていたのですが……。
花言葉の通り、冒頭でこれからの災いを予知し、悪を挫こうと決意し、そして最後に絶望してもらいました。

フローゼル:ラベンダー
そのままラベンダーから。ラベンダーの花言葉は優美、疑惑、私に応えて下さい。
DPのストーリー前半まででギンガ団イベントのある場所に住んでいて、優美という言葉が似合い、何らかの理由で一匹になる必要があるポケモン。という事で、谷間の発電所に住み、しなやかな体型で、水中が落ち着くから皆から離れて川に行く、という理由で自然に一匹になれるだろうフローゼルを選びました。
最後までセンジュを疑ったまま死んでしまいましたが、悪い子じゃないんです。やはり幼い頃から信じていた事(アブソルは怖い)は、そう簡単に拭い去れるものではないと思うのです。

イーブイ:モネ
モネはアネモネから。アネモネの花言葉は純真無垢、可能性、嫉妬の為の無実の犠牲。
嫉妬の為の無実の犠牲っていうのがあまりにも的確で即採用。もうひとつの花言葉である可能性、から様々に分岐進化するイーブイを真っ先に連想し、可哀想ですが犠牲になってもらいました。またwikiでも人気の高いイーブイが殺される、という事でより一層事件の悲惨さが出せればという狙いもあったりします。

トレーナー
心優しい人です。困っている人やポケモンを放っておけなくて、自分を襲ってきたセンジュでも受け入れてあげるような女神のような人です。そりゃミカナも惚れるわーその結果がこれだよ!


以下、コメント返信です。

>久し振りにゾクッとするお話でした。
愛をこじらせたその狂気がとんでもなく恐ろしいですね。
果たしてご主人様はどうなってしまうのか……。 (2013/04/02(火) 00:56)

 なかなか文章だけでゾッとしてもらうっていうのは難しいと思うんですが、上手く狂気が伝わったみたいで何よりです。
トレーナーさんのその後はご想像にお任せします。でもしない方が良いと思います。書いてみたい気もするんですが。ポケモンに傷つけられる女の子って需要あるのかなぁ。


> エグいなんてもんじゃなくて……こういう作品が苦手な分、一転した話に引き込まれましたわ。 (2013/04/06(土) 02:38)

 精神的なグロさ、的な何かを表現できるように頑張ったつもりです。苦手なのにも関わらず投票してくださりありがとうございました。


> サスペンス的な物語の流れ、それぞれの仲間たちの心情の交錯。
どんどん引き込まれていきました。ラストまで読めばしっかりタイトルともつながってなるほどと納得させられましたね。 (2013/04/06(土) 20:56)

 複数の視点による一人称もの、というのは初挑戦だったのでぶつ切りにならないか不安でしたが、どうにか形になっていたようで安心しました。
タイトルはかなり後半になるまで決まりませんでした。ただ、お話の最後に持ってきて、印象に残ればという思いはありました。


> 先の読めない展開にグッときました。描写やポケモンたちの表現も良く個人的に話の詳しい内容など聞いてみたくなりましたw (2013/04/06(土) 23:55)

 センジュだけやたら背景に凝ってしまいましたが、他の子でもそれぞれ短編ができそうですね。しかしいずれ殺される(或いは狂う)子のお話というのも……うーん。


> ギンガ団やセシナの実でミスリードさせ、終盤にあっという展開。
とても計算されたサスペンス小説だと思います。 (2013/04/07(日) 20:28)

 最初に犯人の一人称をさせつつ、疑いの目を他に向けさせるために色々仕込んでみました。
しかしこれはサスペンス小説と言って良いんでしょうか……個人的には壮大な前振りのヤンデレ小説、と思っておりますw


> とても陰惨な話で読むのが少し怖かった部分もありましたが、畳み掛けるような展開についつい引き込まれて一気に読んでしまいました。
読み返すとまた新たな見え方ができたりと、何度も楽しめる作品だと思います。 (2013/04/14(日) 02:34)

 ミカナの行動の基準はあくまでも「愛」なんで、反省も罪悪感も感じてないのが余計救いがないですね。
全てわかった上で読み返すと、ミカナの行動の本当の意味が見えてきます。返り血を洗い流していたり、笑いを堪えていたり、「御主人様に媚びてんじゃねぇよテメェ」とイラついてたりしてます。ぜひ何度も読んで鬱になってくださ(ry


最後になりましたが、投票して下さった方、閲覧して頂いた方、本当にありがとうございました!

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- 元を辿ればこの惨劇の発端はミカナを捨てたトレーナーが原因だったんですよね。
ゲームでは良個体を得るために日常茶飯事で行われてることでしょうけど文章に書き起こした途端に業が深く感じられます(
最初は平和な生活を送っていたトレーナーの元に訪れた事件で、手持ち達が犯人を追いつめていくのかなと思いきや。犯人が自分の身内で結局事件が解決しないどころか悪い方向へどんどん進んでいるであろう事実が陰惨さを際立てているように感じられました。
無限回廊の時も思いましたがハルパスさんの書かれる狂おしい愛は印象に残ります。ちょっと纏まらない感想になりましたが、ベスト3おめでとうございましたー。
――[[カゲフミ]] &new{2013-04-21 (日) 20:38:56};
- >カゲフミさん
確かに色々と辿っていくと廃人トレーナーに行きつきますね。ただこれはあまり深い意味はなく、捨てられる理由として真っ先に思い浮かんだのが厳選による遺棄だっただけでした。私はあまり厳選はしないのですが、もし私達が逃がしたポケモンがどこかで何かやらかしているかと思うと、ちょっと怖いですね。
センジュの決意と共に良い方向へ向かうかと思わせて……一気にバッドエンドでした。いつか発見されるかもしれませんが、その時にトレーナーさんが心身共に正常でいられるかの保証はありません。ついでに、ミカナは追い詰められたら心中します、多分。
そうですね、前も歪んだ愛書いてましたね。ヤンデレが好きなんです。リアルでやったらただのきちがいで犯罪ですが、二次元だと何か惹かれますえへへ。

コメントありがとうございました。
――[[ハルパス]] &new{2013-05-26 (日) 21:19:59};

#comment

IP:218.124.142.248 TIME:"2013-10-05 (土) 09:53:08" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%E3%81%95%E3%81%81%E5%BE%A1%E6%89%8B%E3%82%92%E3%80%81%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0)"

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