ポケモン小説wiki
:紅 の変更点


**3 [#t1592a63]

此方へと飛び掛かる白き獣を、ラグスは両腕の口にくわえた闇の&ruby(つるぎ){剣};を交差させ迎え撃つ。振るわれた漆黒の角はその剣へとぶつかり、耳に残る高い音を立てて受け止められた。それでも勢いづいた一撃は、宙に浮くラグスの腕に力を込めさせ、後方へと下がらせる。それでも何とか受けきったラグスは得意気に笑うと、両腕に力を込め直すと獣を押し返す。
「へッ、少しは強くなったみてーだが、そんなんじゃ俺様には勝てやしねーぜ?」
乾いた音と共に弾かれた獣は、素早く四肢を拡げて着地する。硬い土を爪が抉る不快な音を聞き、獣は顔を歪めたが、次の瞬間には再びラグスへと視線を向けていた。
彼の瞳に宿るのは、まさに狂気そのもの。怒りや悲しみ、憎しみ感情が入り雑じり、彼の頭は目の前のその者を「殺す」ことしか考えられなくなっていた。心の奥底に芽生え始めていたレナと同じ「助けたい」という思いも、今は心の奥深くに沈んでしまっている。そこにいるのは最早シクルではない。狂気に囚われた&ruby(ケダモノ){獣};だ。
「ラグスウゥゥ…ッ!」
獣は獲物である目の前の者の名を憎々しげに呟く。それは既に唸り声と化していた。
身を屈めたかと思うと、獣はラグスに向け再度突進する。その単調な動きにはラグスも呆れ振るわれる角が当たる寸前防がずに身を左に反らして攻撃を回避する。そして隙だらけな獣に向け容赦なく右腕の剣を振るった。今の獣は宙に浮くラグスに攻撃を放った為、両足が地を離れている状態だ。只でさえ回避困難であろう状況下で、攻撃の体勢をしたままの彼が回避する事は不可能に近かった。それはラグス自身も確信しており、数秒後に感じるであろう肉を裂く感覚を想像し、思わず笑みを浮かべた。

しかし、ラグスにとって思いもよらない事が起こった。
「なにぃ!?」
獣は避けられない事を悟ると、自分が持つ本来の力とは別の、内なる力を放った。瞬時に彼の身体から無数に溢れた光の弾は弾けると同時に風となり、彼の身体を浮き上がらせた。咄嗟の対処であまり力は無かったが、攻撃を回避するには十分な高さを得られていた。獣の前方から迫っていた剣はそのまま獣の下を通り過ぎる形になる。しかし、それで終わりではなかった。獣は大きく首を上から下へ振るい重心を前へ移動させる事で前方に素早く降下した。ピンと伸ばした前肢の先には、振るわれている剣。彼はその剣脊((剣の平らとなってる場所、もしくは山状になっている部位))に前肢を乗せたのだ。ラグスは彼の体重などものともせず剣はそのまま真っ直ぐに突き進む。前肢だけを乗せた獣の身体は剣に引っ張られ左へ回転する。そして、回転の勢いに身を任せ獣は鋼の輝きを放つ尾をラグス目掛けて振るったのだ。
攻撃が当たると過信するあまり、力を込めて剣を振っていたラグスは手応えなさに体勢を崩しかけており隙が出来ていた。咄嗟に身を引き深手を負う事は避けられたが、突き出したままだった右腕にはしっかりと赤い線が引かれていた。龍である彼の皮膚は堅くちょっとやそっとでは傷付くことは無いが、自分の力まで利用された攻撃の前には意味を成さなかったらしい。傷口からは真っ赤な血の飛沫が上がり、後に残った旋風に流されてゆく。ラグスは顔を歪め左腕で傷口を抑える。猪口才な方法で傷をもらう結果になってしまったラグスは苛立ちを覚え、本体の口で歯をぎりりと噛み締める。しかし、傷口から伝わってくる脈打つような痛みを受け取り、流れ出る真っ赤な血を眺めている内に、獣と化しているシクルの予想以上に大きな憎悪を強く感じ、この憎しみを絶望に染めながら壊す瞬間を思い描き興奮し鼻から息を吹き出した。
やがて獣が地面に降り立ち唸る声を聞くと、ラグスはゆっくりと振り返る。その顔には、不気味なまでの笑みが張り付いていた…
「ックク、随分と大胆な行動に出るじゃねぇか。こりゃあ期待させてくれそうだなァ…ッキヒヒヒ」
発狂している状態であるシクルも、彼の表情に警戒心を剥き出しにし更に激しく唸る。しかしその次の瞬間には、既にラグスは動き出していた。六つの翼を羽ばたかせたかと思えば彼は疾風の如く速さで獣へ接近していたのだ。彼は下劣な笑い声を上げながら鈍く輝く剣を滅茶苦茶に振り回す。四足のポケモンは飛び退くことでしか距離を確保することが難しい。獣は角で剣から繰り出される斬撃を一つ一つ弾く事しか出来ない。攻撃に転じようにも、相手は二方向から攻撃してくる。一方向からでしか攻撃出来ない獣には、攻撃を防ぐだけで精一杯だった。更に暴走しているとはいえ、ここまで全力で駆けてきたのであろう。獣には確かな疲労が見え始めていた。その場で待ち構えていただけのラグスと比べれば一目瞭然だ。だんだんと動きが鈍り防ぎきる事が出来なくなったシクルの身体には徐々に細かい傷が出来始める。赤茶に汚れた彼の体毛は傷口から流れる血によって更に汚れていった。
狂ったように剣を振るうラグスは肉を切り裂く感触に悦びを感じ、真っ赤な血飛沫が上がる度に興奮を覚えていた。その感情は収まることなく更に膨張してゆく。もっと、もっと感じたい。そればかりが彼の頭の中で渦を巻き、支配していた。破壊衝動にかられ、感情の制御が難しくなってしまったようだ。
「さっきまでの勢いはどーしたァ!?動きが鈍ってやがるぜぇ!?」
「ッ…!」
挑発的な言葉に苛立ちを覚えたのか獣は苦し紛れに連続切りを発動させるが、やはり攻撃に転じるまでにはいかない。が、連続切りは放つ度に威力が上がる技。それを知らない程馬鹿ではないラグスはさっさと片をつけてしまおうと動きを変える。左に握る剣を右の剣を突き出すと同時に獣に投げつける。攻撃を防ぐ事に躍起になり、集中力を欠いていた獣は攻撃の変化にすぐに気付く事が出来なかった。右の剣を角で受け止め前脚で投げられた剣を弾こうとしたが、ラグスの腕から離れた途端に悪の波動は消え、刃の部分を弾こうとしていた獣の脚は宙をかいた。投げ付けられた闇の石は彼の脚を切り裂き、右肩に突き刺さる。飛び散る血はラグスの顔を汚し、突然走った激痛に獣は怯んでしまう。六つの目がその隙を見逃す筈はなく、石を手放した事で自由になった左腕で手早く獣の脇腹を咥えて持ち上げ、獣が抵抗を始める前に自分の前に投げやった。獣は痛みに歯を食い縛りつつ、視界を確保する為に何とか閉じていた目を開く。しかし──
「ッッ…!?」
突然、視界が真っ白になった。意識が自棄に遠くに感じる。何が起こったかも判らないまま、全身の力が抜けてしまいふわりと宙を舞う。焦点の定まらない瞳は自分の身に危険が迫っている事に気付く事すら出来なかった…。
ラグスはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべると、さっと左腕を伸ばし肩に突き刺さったままの石を掴み思い切り引き抜いた。再度走った痛みに獣は漸く意識をはっきりさせられたが、まだ視界はぐらぐらと揺れるばかりで状況を読み取る事は難しかった。ラグスは更に本体の口を大きく開く。涎を垂れ流すそれは両腕の口と違い鋭い牙がずらりと並んでいる。その牙が青白い光りを放ち、バチバチという弾ける音を立て始めるのを確認するとラグスは無防備な獣に襲い掛かった。丁度頭を振って何とか視界を取り戻した獣の目に映ったのは、大きく開かれたラグスの口だった。
「グァッ…!」
電気を放つ鋭い牙が、獣の脇腹に食い込む。呻き声を漏らした獣は抵抗する事も出来ずにぐったりと脱力してしまった。ラグスは彼を咥えたまま満足げに口の端を吊り上げる。ラグスはゆっくりと彼の身体を持ち上げると、左側の翼のみを羽ばたかせ素早く向きを変える。そして、先程積み上げておいた木々の山に向けて思い切り投げ付けた。へし折られた木々の山に頭から突っ込んだ獣は、ぶつかった拍子に上から木が降り注ぎ一分も立たない内に姿が見えなくなってしまった。
「へッ、所詮いきがってもこの程度だったのか?拍子抜けだなぁ。こんなんじゃ殺る気失せるんだがなァ?」
ラグスは頬に付着したシクルの血を細長い舌でぺろりと舐め、満足げに微笑む。同時に呆気なく攻撃を喰らったシクルに少々物足りなさを感じ、地に唾を吐き捨てながら不満そうな言葉を漏らした。しかしその言葉は、木々に埋もれてしまった彼には聞こえる筈もなかった…。


木々に埋もれた獣の身体には落下してきた大木をぶつけたのか所々に色濃い痣が浮かび上がっている。脇腹や全身に付けられた傷からは未だに血が流れ、チラーミィ達の返り血の痕の上を更に汚してゆく。美しい純白だった体毛は赤茶の斑に染まり見るも無残な状態になっていた。幸い骨や筋肉に大きな損傷はなく、機動性に問題が生じなかっただけマシだろう。
が、身体を起こそうにも何本もの樹木が重なり合い引っ掛かってしまっている為に起き上がる事が出来ない。想像以上の痛手で技を使う気力すら彼には失われていた。

このまま何も出来ずに死んでゆくのか。朦朧とした意識の中で獣の…否、シクルの頭にそんな言葉が響いた。その言葉を合図にするかのように、燻っていた怒りの感情が徐々に冷めてゆく。先程の攻撃で頭部に強い衝撃を受けた上、全身を駆け巡る電撃を喰らった。本来電気信号で動きを示している中枢神経が刺激され、シクルに僅かながら冷静さを取り戻させたのだろう。本来の意識を取り戻すと同時に大きな苦痛と疲労を味わう羽目にはなったが、無闇に突っ込もうとする意識はこれで抑える事が出来そうだ。

シクルは硬く閉じられていた瞼を薄く開く。木々に埋もれている為周囲は薄暗く、重なり合う巨木同士の隙間から差し込んでくる紅い月明かりだけが、唯一の灯りだった。

自分は何をやっているのだろう。次に彼の頭に浮かんだのはその言葉だった。レナにはああ言ってしまったけれど本当はシクル自身、彼らとの殺し合いにはもう嫌気が差し始めていた。復讐など、本当は彼女が望んでいない事も分かっている。それなのに何故こんな事をしているのか、シクル自身にも解らなかった。否…理解はしているのだ。結局自分は自己満足の為に復讐をしようとしているだけだという事も、その先にあるのが虚しさだけだという事も。しかし、それでも復讐をを止めようとしない自分がいる。そして、力を抑えられないばかりに、幾度となく同じ過ちを繰り返してしまう。更にその衝動は月日の経つごとに次第に強いものへと変わってゆく。ついには復讐に一切関係の無い者にまで矛先を向けるようになってしまった。彼は形振り構わず人を殺める自分が恐ろしくて堪らなかった。ただ、その“現実”を認めたくないだけなのだ。
僅かだが神経系が回復してきたらしく、彼の鼻では鉄臭い血の臭いや枯れ果てた碧の臭い、耳では木々の隙間から吹き込む風の音を感じ取る事が出来るようになった。

『あの日』を境に生まれてしまった、自分の内なる陰の存在…彼はそんな陰の自分を抑える事が出来ない。普段は未だしもいざ仇を目前にすると、初めの内は平気でも何れ自分の感情を抑えられなくなってしまう。今の状況が、その事実をはっきりと証明していた。

自分は何の為にここまで来たのか。シクルは歯を食い縛る。レナを護るべき状況下にあったにも拘らず彼女をあんな発狂鼠と二人きりにした挙句、仇に感情任せに飛び掛った結果がこれだ。
(…何も、出来てないじゃないか)
シクルは顎の力を抜き、口角を吊り上げ自嘲する。同時に目頭も熱くなってくる。自分が情けなさ過ぎて、悔しさばかりが込み上げる。自分の勘定もコントロール出来ずして、どうして人の心を動かすというのだろう。“自分”の始末も自分で出来ずに他人の問題に首を突っ込むなど、狂人の沙汰である。結局自分は1人狂っていただけなのだとはっきり突きつけられた様な気分になり、シクルはただただ悔恨と罪悪からくる涙を流していた。

ふいに、彼の耳が声を捉える。先程から意識の外側で聞いていた声だ。
「…オイオイ、マジでこの程度だったってのかぁ?チッ、見損なったぜ。こんな事ならあんとき女と一緒に殺しとけばよかったぜ…」
シクルは全く動かずに思考を廻らせ続けていた為、痺れを切らしたようにラグスが声を上げたのだった。どうやらシクルは気を失ったと判断したらしい。まさかあの程度の攻撃で倒れる程ではないと思っていたのか(実際に意識はあるが)、苛立たしげに愚痴を漏らし表情にも落胆の色を露にしていた。彼の表情を窺うことの出来ないシクルも、その野太い声に力が籠っていないのを感じる事は可能だった。が、当のシクルも意識こそあれど既に満身創痍の状態。ラグスにとっては『あの程度』で済まされる攻撃であっても、シクルにとっては深手を負う程に強力な攻撃なのだ。そう簡単に動けないのは確かだった。
「…まぁいい。雑魚は消し飛ばすだけだしな。雑魚と分かりゃぁ生かしとくギリもねぇしよぉ」
己の無力さに歯噛みしている間にも、ラグスの声は淡々と響いてくる。おまけに言葉が途切れると、木々の隙間から淡い光が入り込んできた。風が渦を巻く音も聴こえてくる。強大な力の放流。どうやら相手は本気で自分に止めを刺すつもりらしい。シクルは勿論そう察したが、身体は言う事をきかない。
両手にくわえていた獲物を手放し、その3つの口を大きく開くラグスは容赦する気は無いのか先程までの狂喜の様は何処へやら、自棄に真剣な表情をしていた。呆れているものとは明らかに違う顔。その顔も口内で渦巻く波動の輝きが強くなると、光の中に隠れ見えなくなる。

左腕の口で燃え盛る火球は彼自身の内なるもう1つの力により、更に火力が強まってゆく。結構な距離があるというのに、シクルを下敷きにしている枯木の表面が熱で燻り始めるほどだ。
右腕の口で輝く&ruby(おうに){黄丹};色((黄赤色。昇る朝日の色を写したとされる鮮やかな色))の弾は、彼の士気を具現化した闘球。彼は勿論、シクルのような悪族にとっては天敵とも言える力の塊である。物理的攻撃よりも遠距離からの特殊的な攻撃を得意とするサザンドラのそれは、不定の力であっても侮れない。況して瀕死の傷を背負ったシクルの息の根を止めるには十分すぎる力量が見て取れた。
そして本体の一際大きな口には、己が持つ龍の波動を凝縮し最大にまで高めた球が渦を巻いている。遠く離れた都会の地イッシュ地方では、伝説に称される三神龍を除けば最強とも言われる龍族である彼の波動は、薄荷の様な明るい色をしているが辺りに放出されている波紋の力は相当なもので、彼の付近の地が砕け宙にふわふわと浮き上がっている。
「まったく情けねぇ。あの化物女も、まさかこんなに簡単にブチる((ぶっちする。約束を破るという意味。))とは思ってなかっただろうなぁ」
ラグスは両腕をしっかりと構え直すとやはり少々名残惜しそうに目を細めた。今まで散々殺そうとしてきたというのに、何故そこまで残念がるのか…シクルは気に掛かったが、「ブチる」という言葉を聞いた途端、不思議な感覚に包まれた。

彼女との約束。そんな憶えなどシクルにはなかった。ないと思っていた。しかしそれは思い違いだったのだ。彼女の仇を…ラグスを怨み、殺意を抱くあまりその「言葉」が、彼女との「約束」が、彼の中で隅に押しやられてしまっていたのだ。それが改めて指摘された事により呼び覚まされたのである。
頭の中に冷たい風が入り込み渦巻いているかのような、記憶が呼び覚まされるという経験した事のない感覚に戸惑うシクル。薄く開いていた眼を大きく開き、全身をびくりと振るわせる。靄の掛かっていた彼の意識は徐々に鮮明になり脳裏には1つの光景が浮かび上がってきていた…。


深い、深い森。生い茂る葉が光を遮る森は月も雲に隠れた夜では暗闇に包まれていた。そんな暗い森の一角で何者かが倒れている。シクルと同じアブソル種の中でも、比較的長い純白の美しい体毛。その大半を、赤黒く染めながら…。
そして、それを護る様に前に立ち、返り血を浴び狂喜に満ちた笑い声を上げる龍に対峙しているかつてのシクルの姿。既にボロ雑巾のようになっている己の姿に、シクルはますます当時の無力さを呪った。
突然TVのノイズ音に似た音が脳裏を掠め、光景が切り替わった。飛んだ、というべきか。声を上げながら龍に飛び掛るかつてのシクル。しかし龍は嘲笑すると両腕に咥えた獲物を交差させ強く振るった。それは現在の戦闘でも使用している闇の石。咄嗟に角で防御するも圧倒的な力の差により弾き飛ばされ、後方に聳えていた大木に叩き付けられてしまった。それだけでは収まらず、防御した角には二筋の傷が出来ていた。圧倒的力量の差の前に戦闘不能に陥った過去の己を見て、シクルはただただ悔しさに歯噛みしていた。
またしても光景が切り替わる。しかし今度は龍の姿も、過去のシクルの姿も見えない。心臓を打ち抜かれ、四肢を切り落とされた彼女の姿だけが、脳裏にはっきりと映し出されていた。彼女の上に雫が落ち、震えた謝罪の頭に響いていることから、どうやら当時のシクル自身が見ていた光景なのだろう。
シクルは悲惨では済まないほど酷い姿の彼女を見て、胸が締め付けられる思いだった。自分が無力なばかりに、夭逝した彼女の姿はこんなに酷くなっていたのだと思うとますます自分の無力さが恨めしい。

自分がもっと強ければ。心からそう思った。

雫の冷たさを感じて眼を開く彼女。これほどの傷を負っていながらまだ命を繋いでいる姿は逆に痛々しい。まるで無理矢理生かされているかのようにも見えた。否…実際に、彼女は生かされていたのだとシクルは思い出す。
かつての己の声が聞こえる。必ず仇は討つと。自分の声ながらその響きには決意染みたものが感じられた。同時に彼女の頬に大粒の雫が幾つも幾つも降り注ぐ。しかし、彼女は首を横に振ったのだ。これには現代のシクルも当時のシクルも驚くばかりであった。それだけではない。どうして、という言葉が響くと共に彼女は心から安堵したように笑ったのだ。ここまで惨たらしい姿にされたというのに、何故笑っているのか。シクルには皆目検討がつかなかった。
彼女は何かを呟いた。しかしまたしてもノイズ音が鼓膜を揺らし、小さな囁きは彼の耳に届かなかった。
そのノイズ音を合図に、脳裏に映し出される光景も靄が掛かり始めた。言い切ると同時に一筋の涙を流した血濡れの顔が歪み、薄れてゆく。
シクルは心中で必死に叫んだ。まだ約束が何なのか解っていない。せめて、彼女の声だけでも、もう一度。

彼女の口が動く。懐かしい声。いとおしい響き。そして、彼女の言葉。

──。


「もう関係ねぇか…あばよ」
ラグスの三つの口から攻撃が一斉に放たれる。シクルを殺す事を惜しみ少しばかり挑発を続けていたラグスだったが、やはり反応を示さないシクルに諦めたらしい。それぞれ膨大な力を秘めた攻撃弾は、カーブするような軌道を描き枯木の山へと飛んでゆく。あまりの強大な力に弾と平行の関係にある地面が大きく抉れていく程である。絶妙な距離感を保っている為普通に回避するだけでも困難であろう。深手を負ったシクルが回避することなど出来るはずがない。ラグスはシクルの死を確信しもう勝負はついたとばかりに背を向けた。
直後、凄まじい爆発音が辺りに鳴り響いた。衝撃が地面どころか大気を揺らし、強烈な爆風が雲を吹き飛ばす。爆炎は紅く輝く月に届きそうなほどに吹き上がり、枯れた山で敵を待つ狐にも異変を知らしめた。
バクオングが咆哮したかのような轟音に顔を顰めつつ、ラグスはちらりと振り返った。枯木は火球により一瞬の内に焼き尽くされ、灰は弾けた波動の残留に吹き飛ばされ、地面は闘球によりクレーターと化していた。が、ラグスは更に顔を顰めた。幾ら爆炎が高く上がったとはいえ、まだ煙が晴れるには早すぎる。こうも状況の把握が出来る筈がない…そう感じた、刹那。

「ッ──!?」
一筋の風が、身体を掠めた。ただらぬ感覚に思わず身構えたラグスだったが、風は彼の身体を撫でるようにしながら過ぎ去っていった。
一瞬の沈黙の後、龍は驚きで僅かに開いていた口を笑みの形に歪めた。両腕の口も喜びからかパクパクと開閉をし始める。否。
「前言撤回だ。少しはマシになったみてぇだな」
それは、士気から来るものだった。
ラグスは実に嬉しそうに言葉を放つと翼を羽ばたかせゆっくりと振り返る。後方に佇んでいた白き獣の姿をその眼で捉えると、フッと息を漏らして両腕を開閉した。周囲を風が渦巻いている事から察するに、己の内なる力を全力で駆使し、加速したのだろう。薄汚れた体毛が風に靡き、鈍い輝きを放っていた。ラグスは気合を高めるように鼻息を吹きだし、両腕の口を地面に伸ばすと地に突き刺さっていた闇の石を拾い上げる。見せ付けるように頭の上に振り上げた石は、月明かりを浴び怪しげな光を放っていた。
「その様子じゃあ、頭は冷えたみてぇだが…どうして俺様を斬らなかった?」
ラグスは彼の瞳を見て、&ruby(ケダモノ){獣};のそれとは違う色に変わっている事に気が付いた。冷静さを取り戻した彼の強さは仇として長年闘ってきたラグスはよく分かっている。だからこそ、確実に攻撃できる状況にあったにも関わらず反撃してこなかった事が疑問だった。
彼…シクルはリラックスした様子でその場に座り込み、じっとラグスの姿を見つめていた。ニヤつきながら獲物を構え、どこか楽しげに左右に揺れながら浮いている。その様は完全に今の状況を楽しんでいた。
それでも。

──最初から平気で人を殺せる者などいる筈がないのだ。

「…何があったんだ」
「あん?」
「…昔。何があったんだ」
シクルは静かに問い質した。ラグスの問いに答える事も無く、ただ静かにラグスを見つめていた。先程とはまるで違う、決意を新たにした様子のシクルの姿と強い言葉にラグスは少々驚いていたが、すぐにニヤついた表情へと戻った。
「なにが言いたい?」
嘲笑を含んだ馬鹿にするような声を漏らしシクルを睨み返す。そんな事よりも早く戦闘を再開したいのか、ラグスはそのまま翼を僅かに羽ばたかせゆっくりとシクルに近付いてゆく。そんな舐めるような視線を向けられてもなおシクルは眉ひとつ動かすことなく真っ向からラグスを睨んだ。そして、大きく深呼吸を1つすると相手にしっかり聞こえるよう、はっきり、ゆっくりと言葉を発した。
「僕は、もうお前を殺すつもりはない。和解しに来た」
その言葉を聞いた途端、ラグスの顔から笑みが消えた。動きも止め驚愕に眼を見開いている。ここまで長年に渡り互いの命を狙ってきたというのに、何の前触れも無く終止符を付けようと提案されたのだから当然だろう。そんなラグスを無視し、シクルは更に続けた。
「さっきお前に…君に攻撃しなかったのも、もう殺す気はないからだよ…。それに、僕は約束を破りはしない」
シクルは出来る限り相手を刺激過ぎないよう言葉を選び、静かに語りかける。そこまで言い切ったところで片前脚をゆっくり持ち上げ角に付けられた十字の傷を擦る。眼を瞑り今まで薄れてしまっていた彼女との思い出を呼び覚ますように、何度も何度も擦ってゆく。先程1つだけ思い出した、彼女の言葉を。彼女との、その約束を。
しかし──思い出に浸る時間を与えてくれるほど、相手は気の長いものではなかった。
「てめぇ…調子に乗ってんじゃねぇぞッ!!和解だァ!?頭でも逝ったかァッ!!」
ラグスは獣じみた怒号…咆哮をあげると、本体の口から鉄の粒子を大量に含んだ光線…ラスターカノンを放つ。不意打ちに近い形で放たれた光線はシクルへと向かうが、怒りに任せられた攻撃だった為に直線的な軌道を描いていた。当然、冷静に状況を把握したシクルは右へ高く跳躍し光線を回避した。地面が大きく抉れる。
ラグスが怒るのも無理はない。彼はシクルがレナの話を聞き動揺していた事や、過去の記憶が呼び覚まされた事など知る芳もないのだ。シクルが心変わりした意図など解る筈も無く、彼からしてみればシクルの言葉は全て、己を見下されているようにしか感じる事が出来なかった訳だ。シクルも彼の挙動によりその事に気が付いたらしい。ラグスが二撃目を放ってこない事を確認すると、シクルは再度その場に座り込み息を荒らげる彼の姿を瞳に映した。
「僕はもう正気だよ…。これは、彼女が望んでいること。だから僕は、彼女の望みを叶える。約束を、護るんだ」
シクルは自分に言い聞かせるように言葉を紡いでゆく。それでもやはりラグスには理解できないようで、既に怒りで般若の様な顔つきをした彼は今にも飛び掛ってきそうだ。しかしそうしないのは、僅かながらシクルの言葉に興味を抱いているからでもあった。
「だったらッ、なんで俺様の過去なんざ聞こうってんだ!?」
ラグスの怒鳴り声が荒地に木霊する。シクルは彼の怒りに満ちた表情を見詰め暫し考えを巡らせていたが、やがて深く溜息を吐き口を開いた。

「今まで命を狙い合ってきた君の事を理解しないで話をつけるだなんて、それこそ不可能な話だから。だから君が…人を殺すようになったきっかけを、教えてほしいんだ」

直後、空気を切り裂く音が鳴り響きシクルの白毛の先を切り裂いた。ラグスの動きを予測していたのか、シクルは二振りの刃をギリギリのところでかわしている。そのまま地から離した四肢の内の左前脚で目の前の黒い体毛に覆われた胸を軽く蹴り素早く離れる。対して剣を振るい奇襲を掛けた龍は一時の間だけ攻撃後の体勢を保ったまま停止していたが、やがてゆっくりと顔を上げると、初めに見せたような憎たらしい笑みを顔面に張り付けてシクルを睨んでいた。
「どーやら、マジでぶっ壊れちまったみてーだなァ…。こりゃあ、もう使い物にゃならねぇか…」
軽い口調で淡々と話すラグスは、その笑みからは想像もつかない程におぞましく、膨大な殺気を全身から醸し出していた。シクルの言葉に、怒りを通り越して開き直ったらしい。両腕の剣を構え直し何時でも飛び掛れるよう身構え、改めてシクルを見据えると口角を更に吊り上げ一言言い放った。
「殺すっきゃねぇな」

たった一言呟かれただけだというのに、相当な重みの感じられる響きが辺りに拡がってゆく。彼から距離を取り彼を睨み返していたシクルも、流石にその言葉の覇気には苦笑せざるを得なかった。正直なところ勝てる訳がないと自覚してしまう程の凄まじさをシクルは感じ取っていた。逃げ出そうとしても、無理だということも感覚で理解した。ならば。
シクルは目を閉じ深呼吸をすると、ゆっくりと四肢を開き四本の脚でしっかりと大地を踏みしめる。気合を高めるように頭を振るい、鎌状の角を月明かりに当てるとその目を開いた。
その瞳は戦士そのものだった。
「こうなる事は大体分かってたさ…。君が抵抗するなら僕は話が出来るよう、君を止めるまでだよ」
「へッ、上等だ」

両者は互いに言葉を交わし笑い合うと、ほぼ同時に地を蹴った。どちらも目的は同じ。因縁の闘いに終止符を打つため。それがどのような形で収まるのかは、まだ2人にも分からなかった。

ただ。シクルの瞳に映る月には、もう雲は掛かっていなかった…

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