それは、アオが初めての出産を終え、ミドリに酷いことを言って彼を追い出してしまってから数日の事。 アオの子供、ヒスイはシキジカ達と一緒に遊ばせてやると、すでにして彼らより一回り上な運動能力で、鬼ごっこという遊びで無敵の地位を不動のものとしている。 徐々に暖かさを取り戻して行く春の季節に、お昼寝タイムともなればヒスイは生まれたてのシキジカと一緒に日向ぼっこをしながら光合成。のんびりとしたかわいらしい彼の寝顔は、親ばかだとは思いつつも他のどんな子にも負けない魅力が感じられたものだ。 かわいい子供、初めての子供。同年代に生まれたメブキジカ達が次々と子を産み育てていくのを遠目で見守る日々はもう過ぎた。子供を育てるという行為の尊さと嬉しさを身に染みて味わうアオは、ミドリの事さえ忘れていれば幸せな気分でいられた。 「よっす、防人さん」 鬼ごっこに興じる子供を見守り、母メブキジカに混ざって平和な日々を満喫している最中に、背後から軽口をたたいて現れたのはゾロアークであった。彼は木の枝の上に股をあけっぴろげにして座り、いわゆるお座りの体勢でアオを見下ろしている。 「ロゼ……帰ってきていたのか?」 驚いてロゼの方を見上げるアオを、彼は笑って飛び降りる。深紅の髪が靡いて、着地と同時に軽く地面を踏みしめる音、髪を書き上げてロゼは笑う。 「いやいや、人間の街での暮らしもちょっとばかし息が詰まるものでしてね……」 「人間は騙せていたか?」 「騙せていますよ。家畜たちは騙せませんけれど」 アオの問いに、ロゼと呼ばれたゾロアークは笑って答えた。 かつてポケモンハンターにこき使われていたゾロアークの彼は、主人の命令によって一人佇んでいるアオの命を狙ったが、匂いや仕草で攻撃に入る前に正体がばれて、アオに骨を折られて返り討ちにされた。 その後、主人を失い狩りも出来ないような怪我を負ったロゼはこのまま野垂れ死ぬかないのかと途方に暮れたが、アオはロゼが人間へのスパイや防人の補助など何かに使えそうだからと彼を介抱し、肉食のゾロアークでも十分な栄養をとれるクラボの実を与えて優しくすることで手懐け、それから先は人間の生活に溶けこませては情報収集に当たれるよういろいろ訓練させていた。 雪花のような大きな町での情報収集破砕機人になって始めたもので、今までは軍隊の標的にもならないような小さな村を訪ねては、聾者の振りをして言葉を少なくコミュニケーションをとり、宿をとるくらいのものであった。言葉がしゃべられなくとも、何らかの珍しい品物を見せれば客人として扱ってくれるものも多く、万引き、置き引き、スリで手に入れたお土産を餌に、ロゼは多くの家にご厄介になっては人間の生活に慣れる訓練をしたものだ。 そのうち人間の言葉を正確に覚えると、聴覚にまで作用する幻影で以ってして人間と会話することも可能となり、匂い消しのための香草をたっぷり利かせた風呂に入浴しては、人間社会に紛れ込む。 「まぁ、城塞都市である雪花の街に入っても、私は後ろ指を指されることなく街を堂々と歩けたというわけです。農場に行くと、バッフロンやエルフーンにもモテるんですよ?」 「お前、そんな奴らよりもせめてムーランドにモテたほうがいいんじゃないか?」 「みなまで言わないで下さいよ。家畜を統率するムーランドはそれら数十頭に対して一頭いればいいのです。人口に差があるのだから、モテないのも仕方ないでしょうに……」 「ふっ、人間の社会に紛れ込むと嫁さがしに苦労するのか。お前は弱くないというのに難儀なことだな」 ロゼ人間に買われていたせいか、それなりの自衛能力だって備えている。その力がありながら、女性に対して愚痴を漏らすさまが面白くてアオは笑う。 「ですよ。まぁ、その気に成れば相手は選び放題なんですがね……さすがに人間も馬鹿じゃないから、ムーランドの匂いをこびりつかせるのは得策じゃあないんですよねー」 「そうだな。きちんと対策しているお前は優秀で結構なことだよ」 もともと、人間のハンターに捉えられてからというもの、人間暮らしの作法をある程度ぼ得ていたことも幸運であった。商店街の出店での買い物もきちんとした商店での買い物も、宿の取り方も、人間の主人についていくうちに自然に学んだことだ。 そのうち食料が安定して手に入る人間の暮らしも悪くないと思い始め、いつか人間になりたいと思うようになってからは、人間に化けることもしてきた。そもそもこのへんにはゾロアークも珍しく、ロゼのような有能なゾロアークを手懐けたアオの目は、非常に正しかったわけである。 「しかしまぁ、なんといいますかね。やっぱりこの獣臭い匂いを人間社会じゃおおっぴらに感じることが出来ないのが残念でなりませんでねぇ」 そう言って、ロゼはおもむろにアオに抱きつき、彼女の真っ白で柔らかな体毛の生える首に頬ずりをかける。 「な、何をするんだお前は」 「いいじゃないですか、減るもんじゃなるまいし」 「恥ずかしいだろうが!! 恥じらいが増える」 珍しく、命の危険でもないのにアオがあわてているのが面白くて、オラオラとばかりにロゼは離れず抱きしめる。発情期ならばもっと大胆なこともいくらでもやっているというのに、普通の時期にこんなことをされるのは耐えられないらしい。 「なあに、いつも子供にやらせているじゃないですか」 「子供は別だ!!」 そんな風に大声を出すものだから、子供たちが遊ぶのを見守っていた葉はメブキジカ達もちらちらとこちらの様子をうかがってしまう。見ないふりをするのも疲れそうだ。 「ほぅら、そんな風に大声を出すから、お母さんたちの注目の的になっているじゃないですか」 「知るか、お前のせいだろうに」 こんな調子で、ロゼはお調子者である。たまにイリュージョンを利用して子供に化け、手品を行い路上パフォーマンスで物乞いをしたりするときはこんな性格がとてもよく物乞いに馴染む。 アオも危害を加えられたわけではないので全力で拒むことは出来ず(人間だったらぶんなぐられていたところだろうが)、そんなアオの性格をわかってやりすぎないギリギリの行為を見極める。みんなが羨んでやまない防人にこんなことをしたのはロゼが初めてだが、加減はきちんとできている。 アオの胸にあるもふもふから顔を離してみると、アオは後ずさりをしながら顔をそむけて照れていた。 「ったく、とんでもない奴だな」 「うん、こういう匂いが好きなのに、人間は体臭が薄すぎるんですよ。あぁでも、久しぶりにアオさんの匂いが嗅げて満足です。癖になりますね」 「癖にするな! まったく……」 いつもは見られない彼女の一面を暴いて、ロゼはご満悦な様子で笑う。そのまま無言になってしまったアオをみて、一呼吸間をおいてロゼは本題を語りだした。 「アオさん」 「なんだ?」 先ほどのお茶らけた雰囲気を排しての、しんみりとした表情であった。 「本格的に人間の暮らしに溶け込んでみましたが、やっぱり人間はそこまで嫌いじゃないみたいです」 ロゼは肩を竦めて笑う。 「それでは、人間を殺すのはいけないというわけか?」 「いえ、嫌いな人間もいます。まぁ……その代表が、偉ぶっている兵たちなわけですが……」 「言っただろう? 私は諸悪の根源であるそいつら兵隊を狙って戦争を終わらせると。そうすれば、人間は森を侵さなくなる……かもしれないから……私はゼクロムを信奉する平等を謳うやつらを&ruby(みなごろし){鏖};にすると。 結局、長い間続いているこの戦争は奴らが起こしたものなのだろう? なら、原因を取り除くことに何の問題がある」 「あー……いや、もう皆殺しとかやめません? 落ち着いて聞いて欲しいのですがね……きっと、双龍や籠目にもいい人はいるのです。だから、そのー……人間を殺しても構わないですが、そうするのはせめて兵隊ぐらいに的を絞りませんかっていう話なんですよ。 聞く話によれば、どこも一般人は戦争で困っております。家畜にも兵隊にも使いやすいイワパレスやバッフロン、ムーランドを大量に維持するために、草も肉も、育てなければならない。税金のために争っているというのに、それらの育成にかかる費用を税金からまかなっているのですからわけがわかりませんが…… 生産活動を行わない、そんなポケモンの個体をわざわざ養うために弱い一般人が犠牲になっておるのですよ。そういった被害者である人間たちは時に嫌々ながらも子供を売ることもあるし、出稼ぎに出すこともあるし、同じく兵隊になるしか道がなくなったりもする」 「なんだ、兵隊が加害者だというのならば、一般人が兵隊になるということは結局被害者が加害者に変わっただけではないのか?」 「そういう言い方はよしましょうや、アオさん」 人間嫌いが深刻なアオは、人間なんて殺して何の問題があるのかとでも言いたげな高圧的な態度をとるばかりである。 「そう、確かに兵隊は加害者です。でも、兵隊にも階級というものがありましてね。アオさんのように、皆から恐れられるような身分の者もおります……そう言った者の命令には逆らえんのですよ。やれ税金を出せ、やれ穀物を献上しろ……アオさんはそんなことをしませんが、同じことをやれば森のみんなはきっとひれ伏すでしょう? そうやって、自分の生活がままならなくなったら、他人の縄張りを侵してでも生活を維持するしかないじゃないですか。人間も大半は被害者なんです……特に、都市部以外の人間はそれが酷い。雪花には大量の食糧が備蓄されていますし、城壁の中には耕作地もありますが……その食料の大半はどこで生み出されると思います? 外ですよ。城壁の外。城壁の外から自分たちが収穫した作物をどんどん奪われていくんです。自分では生産活動をしないような兵隊たちのためにね……そして、それは雪花のみならず双龍も同じ。 いけすかねぇ兵隊を倒し、戦争を終わらせる。それには同意しますよ……でも、私は民間人も皆殺しにするというのなら同意しかねます。人間を嫌うのは結構ですが、アオさん……貴方は人間を嫌いすぎです。まぁ、なんといいましょうか……人間に対して愚痴をこぼすとき、アオさんいっつも言っているじゃないですか。 『人間は際限を知らない』とか、『やりすぎはよくない』とか……我々もそうじゃないでしょうかね?」 「人間のやりすぎがよくないのは……相手が反撃してこない自然相手だからだ。人間がやっているのは自然への反逆だ……しかし、我々自然が立ち上がる以上、反撃をされる心配がないくらい徹底的にやっておくべきではないのか?」 「だから、民間人も殺すと?」 「あぁ、&ruby(みなごろし){鏖};だ」 アオの決意は変わらない。ロゼは、アオが『ミドリは頑固で困る』などと愚痴を漏らしていたことを思いだすが、それは自分も同じことではないかとため息を漏らす。 「頑固なのはいいですが……台風で木の枝は折れても、葦は折れないってこと、よく心にとどめておくべきじゃないですかね? 私も今のままのあなたには協力できません」 「仕事を放棄するのか?」 「きちんとやり遂げますよ。でも、あまりに意見が変わらないようならそれもアリかもしれませんね……」 ロゼはアオに睨まれてうつむいた。そして、肩を落とすが、振り返るとすぐにアオの胸のもふもふに飛び込む。 「隙有り!!」 「な、何をするんだ!!」 当然アオは振り払おうと体を揺らすが、がっちり抱きついたロゼはアオから離れない。 「やめろ! 離せ!!」 抱きついたロゼをアオが激しく振り払う。しかし、曲がりなりにも味方であるロゼに対して、アオが攻撃してこないのをいいことに胸のもふもふを味わい続ける。彼は年甲斐も威厳もなくわめくアオの声をよそに、息すらできないほど顔をうずめたもふもふの中。 しばらくして息が切れたところでようやっと腕を離したころには、アオも息が荒くなるほど興奮していた。 「貴方が私に攻撃をできない理由を考えてください。私も、同じように攻撃したくない人間がいるのです」 そう言ったロゼは笑顔で髪を掻き上げると、アオの方を向いたまま後ろにジャンプ。まるで背中に目があるかのように木の枝に飛び乗った。 「レンガさんにも同じ話をしてきますが、問題ありませんね」 アオは口元を歪めて罵声を浴びせようと思ったが、あいにくロゼに浴びせられる罵声のボキャブラリーが少ない。 「こぉの、変態!!」 「おやおや、怖い怖い」 母親どころか子供にまで凝視されるほどの大声で罵倒されながら、ロゼはその場を逃げるように立ち去った。ロゼの非常識な態度に毒づきながらも、アオは抱きしめられた後のロゼの言葉を思い返す。 「攻撃したくない人間がいる……か……」 そう言われて人間の事を思い返すと頭の中に浮かぶのは子供が、胎児が人間の手により死ぬ光景。人間にいつか同じことをやられるような気がして、それがひたすら怖くて、そうなる前に殺さなきゃいけないという義憤に駆られてしまうのだ。 これは正義の行いなのに、ミドリもロゼも、いったいなんだというのか。 「この上、もしもレンガまで同じことを言い出したら……そう思うと、少し怖いな」 ◇ 「そうか……アオにそんなことを話したわけか」 「えぇ、そうなんですけれど、アオさんってば頑なで……どうにもこうにも説得がうまくいきませんね」 ロゼが愚痴を漏らすと、レンガは考える。 「やっぱり、まだあの夢の事を気にしているのかな……」 「あの夢? アオさんの夢ったら、確か子供を流産する夢ですよね……人間に同じことをされそうだとか、正夢になりそうだとか、繰り返し言っている」 バカバカしいとばかりにロゼがため息をついた。 「夢の事を気にするだなんて、そんなのアオさんらしくもない」 「実際に正夢だからな」 「はい?」 レンガが告げた事実を文字通り受け止められず、ロゼは首を傾げる。 「……我々の脳というのは都合の良い物よ。あまりにも悲しすぎておかしくなってしまいそうだったアオは……その記憶を無かったことにしたのさ。けれど、都合よく全ての記憶を消しきれなかったのだろうな。その記憶の残渣が、夢として表れてきているのだ」 「……アオさんは、それを夢だとずっと思いこんでいるのですか?」 「言葉のとおりさ。まだアオは夢だと思い込んでいる……おそらく、ずっと。だが……」 「なんですか?」 思いつめた表情で何かを言いかけたレンガに、ロゼは首を傾げる。 「いや、今はもう無事にヒスイが生まれたのだ……もう、そろそろ……真実を告げる時なのかもしれないな。今のアオならば、きっと受け入れられるだろうよ……」 「大丈夫なんですか、それ?」 「今までは大丈夫だとは到底思えなかったが……そうだな。アオはその夢のせいで、何かと人間に対して悪い印象を持ちすぎているのだと思う。だが、夢が正夢だと知ったら……今のアオが変ってしまう可能性は大いにあるが、必ずしも良い方向に進むかどうかはわからないし……」 「悪い方向に進むことも?」 言葉を濁したレンガの後を継いで尋ねたロゼに、レンガは頷く。 「あるだろうな……正夢であることを思いだして、人間を虐殺氏に飛び出したりでもしたら目も当てられない」 ふー、とレンガはため息をついて、その重厚な体を地面に下す。 「それが怖くて、私はアオに優しくしていた。現状維持さえできていればいいと思っていたからな……だが、それももう潮時かもしれないな。ロゼ……何かあったときは協力を頼むぞ。私ではアオには勝てないから、悪の波導でも何でもいいから」 「無茶なことをおっしゃいますね……」 「仕方がないだろう。何かあったときは本当にそうするしかないのだから……」 そうして脳裏に浮かぶのは、ミドリの事。奴のように追い出されるくらいならばまだしも、本当にアオの心が壊れてしまったら、自分はどうすればいいのか。 (それが最悪の事態に発展するのであれば、いっそのこと……アオを殺さねばなるまい。まだアオは跡継ぎを残していないが、それでも……) うつむいて、思いつめた顔をするレンガの顔を見て、ロゼも覚悟を決める。 「わかりました。協力します」 ロゼの頷きは力ない頷きであったが、覚悟は決まっているようだった。 気は進まないが、もしもアオがどうしようもなくなってしまったならば、そうするのもやむを得ない、と。 ◇ 「レンガ……ロゼ。居るんだろ?」 夕暮れ時になると、アオ子供が寝ているところに寄り添って、静かに寝息を立てるヒスイの体毛を毛づくろいしていた。子供たちが遊び疲れてからは母親メブキジカ達とも別れ、一人子供をあやすアオは、幸せそうな母親の顔。邪魔しちゃいけないような気がしてじっくりゆっくりと見守っていたつもりだが、アオはきっちり気づいていてこちらの方へ微笑んだ。 「話でもあるなら聞くから……ただし、ロゼは抱きついたりするなよ?」 「抱きつく?」 アオの言葉にレンガは首を傾げる。 「いえね、アオさんの胸の白い体毛に顔をうずめてみたくって、ついつい抱きしめてしまったんです」 「なんとまぁ……」 悪びれずにそう答えるロゼに、レンガはため息交じりに呆れていた。 「それよりも、アオさん……最初っから話を聞く気になっているのでしたら話が早い。レンガさんから、大事な話があるそうです……それを聞いたうえで、またさっきの話をしましょう」 「ロゼ、お前……」 レンガを味方につけて得意になっているのか? と、言いかけたがどうもそんな感じではないことに気がついてアオは言葉を止める。 「いや、レンガ。お前一体何の話をするつもりだ?」 「お前に嘘をついていたことを謝ろうと思ってな……その、なんだ。色々あったんだ」 「また、回りくどい言い方をするものだな。前ふりはいいから、話せよ……今は子供がかわいいから気分が良いんだ」 アオは今の状況では逃げることも出来ないからと、おとなしく話を聞く体制になる。言葉を終えると、アオはヒスイの頭を顎で撫でて微笑む。子供が気持ちよさそうに眠っているこんな状況だからこそ逃げられないというのはもちろん、気分が良いというのも偽りのない真実のようである。 ただ、レンガが語ろうとしていることが、いいお知らせではないことを感づいている彼女の仕草は、どちらかというと気分がよいと言い聞かせているようでもあった。 「じゃあ、単刀直入に話をしようか、アオ……実はな、お前はヒスイが初めての子供だと思っているようだが、その……本当は、お前にはもう一人子供がいたんだ」 アオの目が丸くなる。 「もうちょっとわかりやすく話してくれ、アオ」 「わかっている。アオ、お前は……自己暗示を使って、上がった攻撃能力を自身にも写せるようにしているが……お前は、その自己暗示を使って、子供を流産した記憶を消したんだ。お前のあの夢……本当は正夢なんだよ。実際にあったことなんだ……」 「ど、ど……どういうことだ? あれが正夢ってのはなんだ? それはつまり私が……矢傷を受けたときに、私は、転んで、私は自分の子供を……」 アオは黙る。 「いや、思い出せないな、レンガ。そもそも、私はミドリと交尾した時に初めて子供が出来たのだぞ? 交尾したのは確かにお前が最初だが……」 アオは自分の中にある事実を確認するように記憶の糸を探る。 「初めて子供が出来るからと、私はよくお前の腹に耳を当ててワクワクしていたし……お前に口移しをして食料を与えたりもしたな」 「それは、ヒスイを産んだときにもしただろ?」 「あぁ、したな。二回目だから結構なれたものだったろう?」 レンガはアオの否定を聞き入れず、真実を口にしてひたすら諭す。 「アオ。私たちが祭りに乗じて殺されそうになったとき、お前だけ祭りに参加していなかったのはなぜなのだ? 妊娠中だから、なるべく無茶をしないようにって、お前は祭りへの参加を辞退したのだろう?」 「でも、お前らが危ないそうだったから、助けるために飛び出した……?」 自分で発言して、自分の発言なのに信じられない。 「……まさか」 認めたくなくて、アオは否定する。 「あの祭りの後……目覚めた後お前はどんな腹をしていた? 腫れ上がった乳房をぶら下げた、母親のそれではなかったのか? お前はそれを、どうやって見て見ぬふりをしていたんだ? 我らは、お前が辛いことをわかっていたから触れぬようにしてきたが……あの乳房が意味するところを……わからぬお前ではなかろう?」 「言うな!! 皆までいうな……」 アオは子供を起こさないように、叫ぶような声色で、しかし震える小さな声で、レンガに懇願する。会話に全く入れないロゼは、へそあたりに手を当てながら不安そうにレンガとアオを交互に見ていることしか出来なかった 「もう、わかった。わかったから、勘弁してくれ。私は、悲しくって……」 アオの目が、泳ぐ。視線が泳いで、どこを見ていることも出来ない、景色が歪む。 「子供が、生まれないままに死んじゃうなんてかわいそうで、だから……考えたくなくって……」 景色が歪む。ざわざわと音を立てて歪んで崩壊する。赤い世界でアオは自分の産道から激痛と出血を感じる。 「あの夢はもう見たくないのに……なんで、なんで夢じゃなくて現実なの!?」 たまらず、彼女は駆け出した。 「おい、アオ、どこに行くんだ!!」 「アオさん!!」 レンガとロゼの制止も振り切って、彼女は走った。走って、自身の痛みから逃げた。怪我の痛みなんて、どれだけ走っても消えるはずなんてないのに。 「……あの馬鹿、子供も起きてしまったぞ」 アオが突然立ち上がり、枕を失ったことで子供はぱっちりと目をさまし、母親がいない不安からなのかわんわんと泣いている。何度か面識のあるレンガはどうにかその子をあやそうとしているが、母親以外では。ましてや男であるレンガでは難しいのかもしれない。 すぐにでもアオを追いたいところだが、こうなってしまってはロゼも放っておくわけにはいかない。ロゼは幻影を纏い、アオそのものの姿になって、ヒスイをあやして安心させる。レンガが横で見守る中、母親の顔で優しく微笑みかけ寝かしつけているうちに、ヒスイはほどなくして再び寝入ってしまう。 「……全く、困ったお母さんだな」 ロゼはため息をついて、ヒスイの顔を指で撫でる。鋭い爪で傷つけてしまわぬよう、白い頬から若葉色の首筋へ。愛でる手つきは、二足歩行ゆえの丁寧さといった所か。 「さすがだな、ロゼ」 「人間の子供を抱いて上げたことだってあるんです。人間なんかよりもはるかに逞しい防人が相手なら、これくらいはまぁ……と、それよりも、アオさんはどうしましょう? たぶん、一人でどこかにいると思いますけれど……」 「ロゼ、お前……迎えに行ってやれないか? 我はこの子の面倒を見ている」 「え?」 どうするかを聞いてみて、面倒を見ることを頼まれると思っていたロゼはレンガの意外な言葉に思わず聞き返す。 「レンガさんが迎えに行くんじゃなくってですか?」 「今、アオを追いつめたのは我だ。だから、今はお前がアオを支えてやって欲しい……」 レンガは申し訳ない気持ちを振り払うように、軽くかぶりを振る。 「頼めるか?」 自信に乏しい、威厳の無い声色であった。 「仰せの通りに」 頼まれても良い結果を残せる保障などどこにもないのだが、肩の力を抜いてため息一つ。一切迷いのない瞳でロゼは答える。 「きっと、良い結果を連れてきますから」 言うなり、ロゼは真っ暗になった道をつまずくことなしにやすやすと歩く。悪タイプは夜目の利く種族が多いが幻影を駆使するゾロアークは、普段の生活への必要以上に物がよく見える。どんなに目の良い種族にも、そんなに夜目の利く種族にも等しく幻影が見せられるようにとは発達した彼の眼は、観察眼にも優れている。 アオがついさっき走った痕跡を闇の中で見つけては、レンガでは到底追いつけないような尾行速度でアオの元へと向かう。彼女が本気で走っているのであれば一生追いつくことは出来ないが、彼女もそこまえ遠くまで逃げる気力はなかったのか。月が一番高い場所に上ったころにはアオの元にたどり着いた。 彼女はまだ水が冷たい季節だというのに、アオの身長二つ分ほどの高さの小さな滝を浴びている。何がしたいのか、頭でも冷やしたいのか、それはわからない。 滝の水を浴びているせいなのか、彼女はいつもならば気付いているであろうロゼの存在にも気づかずに、壁を見つめて泣いている。 正確に言うと泣いているのかどうかはわからず、そういう風に見えるというわけなのだが―― 「アオさん」 気が付かれないので、ロゼはアオの尻に触れて話しかけた。 「ひゃっ」 と短く声を上げて、アオは驚き身構える。 「私ですよ」 と笑ったロゼの顔を見ると、ひきつったアオの顔は、申し訳なさそうに目をそらした。 「ロゼか……」 舌先だけで出したような、小さな声。冷たい水に長く使っていたせいか、やはり寒いのだろう。彼女の体は震えていた。 「私は、ずっと自分を騙していたのだな……」 「ですね。でも、誰かが損したわけでもないですし、悪いことではないんじゃないですかね?」 誰にも見せたことの無いような、アオの涙。ずぶぬれになっていてもわかるそれを目の当たりにして、慰めるよりも先にロゼは肯定する。しかし、今度はアオがロゼの言葉を否定する。力なく振った首は彼女の後ろめたい心境を表している。 「私は、人間の事を思い浮かべると、必ずと言っていいほどあの夢の光景が脳裏に浮かぶんだ……そして、人間が許せない、殺さなきゃって、思ってしまう……」 ふむ、とロゼは相槌を打つ。 「昔は、いや……今までずっと、その殺意を義憤や正義感から来るものだと、私はずっと勘違いしていたのだ……私が人間を殺そうと突き動かしていたのは、そんな高尚な感情ではなく……ただの憎しみだったのだ」 憔悴したような顔でため息を一つ。アオはうつむいた。 「それが、恥ずかしかったというか……なんと言いますか。いろいろ思うところがあるわけですね」 「自分がわからなくなっている。自分が、本来ならあの村の住人に対してどんな気持ちでいたのか。ミドリに対してどう向き合うべきだったのか、それが……いまさら後悔しても遅いのに、あのときに戻りたくってたまらない……」 「戻ったところで、アオさん現在をどういう風に変えられるというのですか?」 「せめて、お前の言うように殺す相手を絞るくらいの冷静さはあったと……信じたい。&ruby(みなごろし){鏖};も……なんでかな、そんなもの今となっては馬鹿らしくすら思えてしまう……」 「それなら、良いじゃないですか。馬鹿らしいと思うくらいならば、今からでもやり直せますよ……まだ、ミドリさんは生きているじゃないですか。ですから、何とか探して謝ってみれば……皆殺しもしないって約束すれば……」 「出来たらいいがな……あいつは完全に行方不明さ。どうにもならないよ……一人ケンホロウを連れて行ったようだが、何をしているのやら……」 「生きているんです。いつかどこかで会えた時に、説得しましょう……」 ロゼに濡れた首を触られるが、今度は身体が震えなかった。 「重要なのは、貴方がこれからどうしていくかですよ……反省も必要です。後悔することで心の整理をつけるのも必要です」 濡れた首の体毛を指でなぞりながら、ロゼは笑う。 「アオさん。私は貴方に人間と我々ポケモンの関係を変える力があると信じております。ですからこそ、貴方には期待をかけておるのですよ……」 「今でも、その期待は変わらぬか?」 「ええ。皆殺しをおやめになるとして、その他……この森を守るという目的はお忘れではないのでしょう? それならば、考えましょう……私も、人間の動向や考え方を見聞きして、貴方の防人としての役割を立派に遂行できるように手助けいたします。 むしろ、皆殺しなんて乱暴なことを考えていない今のアオさんならば……前よりも協力したくなるというものです」 「そうか」 ロゼの言葉に少し救われた気分で、アオは頷く。本当はわかっている、後悔なんてしても仕方がないから、今できる最善の事をするべきなのだと。でも、自分がそれをしていいのか、前へ進む権利なんてあるのか? どうしようもないくらい、それが気になったアオは、誰かに背中を押してほしかった。 ロゼの言葉は、アオの考えを肯定してくれる、優しい後押しだ。心の重荷を背負ってくれるようで、アオはもう少しだけそれに甘えたくて口を開く。 「以前話した、村一つを廃墟にした話……あれが義憤ではなく、ただの復讐心であったことを、今後悔している……なあ、ロゼ。そんな私でもついてきてくれるか?」 アオはロゼに問いかける。ロゼはまず、頷いてから一呼吸の間をおいて、河原の岩に腰掛ける。そうして促されるままにアオは岩の隣の地べたに座り、二人は腰を落ち着ける。 「先ほどの問いの答えですがね。過去はどうでもいいというわけではないですが……虐殺した理由が何であれ、いまさらですよ。あなたががこの森を守りたいという思いでつるぎを振るうのであれば、私はついてゆくまでです。実際、この森も人間が寄り付かなくなった……これは貴方のおかげです。 その方法の是非はあれど、過程や思惑の良し悪しはあれど、住処を荒らされ人間に強引に連れまわされた私は、人間とポケモンの暮らしはわけるべきだと思う。 人間は悪い奴ばかりではないと知ってはいますが、彼らとて生きるのに必死。我々の住処を荒らすこともあれば、我々を支配してでも生き残ろうとする……それは仕方のないことです」 「ああ。しかも、ただ生きようとするだけでなく、自然の理を無視して急速に数を増やし始めている……それが見逃してはおけない」 「人間は悪い者ばかりではないから、共存の道はあると思います……ですから、皆殺しはされたくないのです」 共存できるという言葉。意外すぎるその言葉に、アオは驚いて目を丸くする。 「共存ってお前、正気なのか?」 「アオさんも言っておるではないですか。人間は次々と新しいものを作ってきた歴史があると。いずれ、神をも超える力を手に入れ自然の摂理を越えるのならば……今は悪い方向に自然の理を踏み越えていますが、食料も住処も、良い方向に作ってゆけるとすれば……」 「なるほど、な」 相槌を打ちながらも、アオは内心途方もない話だなと苦笑する。 「しかし、今はその時ではないと思うのです……」 「だろうな」 ロゼの言葉に相槌を打ってアオは苦笑する。 「ですから、その時が来るまで、アオさんや、その後継者たる防人の子供たちに……森を。そしてポケモンたちを守ってほしいのです」 満足げに言い終えると、ロゼは立ち上がってアオの目を手で隠す。 と、軽く口づけを交わす。 「ね?」 目を覆っていた手を離すと、悪戯っぽく笑いながらロゼは言った。 自分の口に感じた違和感の意味を考えると、どうしてもアオは恥ずかしくってロゼの顔をまともに見れなかった。発情期でもないのに、恋をしているなんて言えやしない。 「あ、ありがとう……」 目をそらしながら、混乱でめちゃくちゃになった語彙の中から唯一探り当てた言葉がそれである。ロゼの言葉を飲み込むように頷いて。さらにアオは口を開く。 「あとは、少し気持ちを整理したい……励ましてくれて本当にありがとう……その、うん」 恥ずかしくって口がうまく回らなかった。そんなアオを見ながらロゼは微笑む。 「それに対して、私が出来ることは?」 目を合わせようともせずに口にしたアオの言葉に、ロゼは問う。 「何もないよ。強いて言えば……息子の世話を頼む。明日には、戻るから。一人で心の整理をつけたいんだ……大丈夫、今度は誰かの前からいなくなったりはしないさ。今はどうせレンガがヒスイの面倒を見ているのだろう? 少し心配だから……」 「確かに、心配ですね。私があやしたらぴたりと泣き止んだのに、レンガさんってあやすのが苦手で……」 笑ってそう話したロゼの言葉で、アオは安心する。 「それじゃ、頼むよ。私は……明日の昼には戻るから……その、今日は相談に乗ってくれてありがとう」 「いえいえ」 まだ恥じらいの抜けないアオを楽しそうに見て、ロゼは謙遜した。 「貴方が元気になってくれないことには、私もどうしようもありませんから。私のためなのですよ」 「お前にとって私が大切な人だという意味で受け取っておくよ」 「光栄です」 言うなり、ロゼは跪いて恭しい例をする。そんな彼の仕草に、アオは笑顔で応えて見せた。 「それでは!」 アオが『早く行け』と、顎をしゃくりあげたのを確認して、ロゼは立ち上がる。来た道を颯爽と駈け抜け、夜の帳を抜ける姿を見送って、アオはロゼの口が触れた場所を舌なめずりする。彼の唾液の味が感じられるわけでもなかったが、防人以外と初めて交わした口付けに、彼女の心は高ぶるのであった。 ◇ 「これは何かな?」 「お花!!」 「そうそう、それじゃあこれは?」 「蝶々!!」 「よく覚えているね。ヒスイ……君は賢い子だ」 「かしこい……?」 ロゼはヒスイに幻影を見せて、言葉を覚えさせながらあやしていた。あやされているヒスイも見事なもので、一度見て覚えた者の名前は忘れることがない。この調子ならば、動作に関する言葉を教えてやることも、近いうちに可能なんじゃないかと思うほど。 ヒスイより早く生まれたシキジカはまだ、やっと物の名前を一つか二ついえるくらいになったばかりだというのに、ヒスイは将来有望な子である。それは防人として当たり前の事なのかもしれないが、こうもすんなりと物事を覚えてくれると教える方にも熱が入る。 ためしに、ロゼは『飛ぶ』という単語を教えてみることにする。 鳥も、蝶も、花びらも飛ぶ。翼で、羽で、風で、飛ぶ。飛ぶというのは空を浮かぶこと。そんなことを教えるために、手のひらの上にいくつもの飛ぶものの映像。動作を理解してくれるかなんて考えて、何度か根気よく教えてあげればヒスイはいつの間にか『飛ぶ』という言葉を理解する。 『食べる』という言葉も、『走る』という言葉も、彼は理解した。 「さすがはアオさんの息子だな……」 彼は、自分の事を指して『食べる』と宣言しては地面の草を食んだりして。まだ母親の母乳が恋しいだろうに、動詞を覚えることであらゆる動作に対しての憧れが生じたようである。明らかにシキジカとは異質な速さで成長していくヒスイを見て、自分はどんなふうに成長していったのだろうかと、ロゼは幼いころの自分に思いをはせる。 人間に連れられたのは、進化直前であった。親の母乳を卒業してしばらくたったころに、あの人間、ロウキはシンボラーと共に巣に押し入り、母親を惨殺した。どうにも毛皮が必要だったらしく、そいつは時間をかけてけだ話だけをはぎ取っていくと、呆然とする自分を首輪に繋いで連れて行ったことを覚えている。 何度噛みつこうとも殴り飛ばされ、シンボラーに無駄だと諭されながらも、野外で寝たときは寝首を掻こうと襲ったこともある、ゾロアークに進化してからも変わらずに何度も何度も襲い続けたが、それでも勝てないことを知って自分は人間に尻尾を振るしかなくなった。 「その結果、アオさんに救われたのだよなぁ……」 ロゼがアオを気に入った理由は、救われたという結果に対してもさることながら、最大の魅力はアオの強さである。強すぎるくらい強かった主人に加え、これまた強いはずのシンボラーと二人掛かりでアオは襲われたはずだ。彼女は仕掛けられた罠を簡単にかわし、多少の傷は負ってしまったものの勝利を収めてしまったアオの実力。 思いがけず目をつけられてからというもの、高嶺の花とは思いつつも惚れたその気持ちを抑えることは出来なかった。出来る事ならば、そのまま浚ってしまいたいくらい。 しかし、彼女は防人である。彼女は次世代の防人を残すために、テラキオンとコバルオンを産まなければならないのだ。 (それを横取りすることも出来ないのだろうな……) ため息をついていると、不思議そうに見上げているヒスイの顔。 「これは何?」 「ママ!!」 コバルオンの幻影を見て、元気よく答えたヒスイの声に、ロゼは思わず笑みを浮かべる。防人の跡継ぎを産まなければいけない彼女は、少なくとも防人の女としての役割を果たすまでは誰のものでもない。 (だったら、今は報われない恋でもいいか) なんて、そんな気持ちが湧き上がってくるくらい。 (今は、少しでもアオさんの役に立ってほかの有象無象よりもアオさんの近くに置いてもらおう……こうして世話をしているだけでも、私は幸せ者なのだしな) そんなことを思いながら、ロゼはアオを待つ。彼女が心を決めて、これからどうするかを定めたうえで会いに来てくれることを信じて、今はかわいらしいビリジオンの笑顔に癒されながら。 [[:開戦]] IP:223.134.158.230 TIME:"2012-07-02 (月) 00:05:24" REFERER:"http://pokestory.rejec.net/main/index.php?cmd=edit&page=%3A%E7%A9%BA%E7%99%BD%E3%81%AE5%E5%B9%B4%E3%81%AB" USER_AGENT:"Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.1; WOW64; Trident/5.0)"