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個人的にあまり納得できない出来の作品でしたが、一応完結させたものですので載せておきます。
惑わせ
◆1
ずっと、閉ざされていた門があった。何処ぞの人が『開かずの門』と名付けたその奥には、この町に似つかわしくない大きな屋敷がある。小学校低学年時に一度だけ屋敷近辺まで行ったことがあるが、聞いていた通り、その門を通ることは出来なかった。母が云うには、この町に引っ越してくる前から屋敷に人の気配はなかったそうだ。僕が生まれる前の、遥か昔のことだ。しかし、取り壊されるわけでもなく、屋敷は森の中にひっそりと佇んでいた。取り壊せない理由があるらしいが、僕も、周りの友達も、母でさえも知らなかった。
けれども何時までも廃墟が残されていることは、僕にとって好都合だった。
「何か考え事?」
後ろから幼馴染のマリが話しかけてきた。僕が机に突っ伏して寝ているふりをしているにもかかわらず、この幼馴染は無神経に絡んでくるのである。だが、少なくとも僕にとっては、幼馴染は得てしてそういうものだと思っている。「いや、何も」
僕は振り返らずに答えた。彼女が僕に用があるなら、この反応が一番正解に近い。
「今日、暇?」
「多分」
「じゃあさ、月見が丘に行かない?」
月見が丘とは、町の外れにある小高い山のことだ。月が美しく見ることのできる丘だからという安直な理由で、そのような洒落た名前がついたらしい。僕は漸く彼女の方に振り向く。彼女はセミロングのまっすぐな髪を、耳に掻き上げる仕草をしていた。
「何で?」
「小学校卒業して以来、一度も行ってないから。なんだか行きたくなっちゃって」そして、バランとギガを戦わせてみたいと彼女は付け加えた。バランは彼女のポケモンのヤジロンのことであり、ギガは僕のポケモンのウインディのことである。
「お父さん、ぎっくり腰が再発しちゃってさ、ポケモンバトルの相手も出来ないみたいだから……」
「僕が代わりに?」
「そう」
僕のついたため息が、教室の騒がしさに溶けていった。僕が彼女に勝てないのは、物心ついたときから知れたことだ。
「ホームルーム始めるぞ」
教室に入ってきた先生の言葉で、僕らの会話は途切れた。尤も、此処でこれ以上続ける会話などなかったが。
学校の正門を出る。家とは真逆の方向。横にはマリ。秋の終わりは空気が澄んでいる。空のオレンジ色は西の彼方に消えゆこうとしていた。
「月、綺麗なんだろうなあ」
マリはそんなことを言った。此処からでも月は見えていると言おうとしたが、止めた。マリの言うことは理屈じゃないのだ。
手が凍える。明日からは手袋を準備しようと思った。マリは寒さに頑丈なのか、全く平然そうである。
「スカートって寒くないのか?」
男から見れば、女子生徒の制服は理不尽な作りをしていると思う。夏ならまだしも、なぜ冬季もスカート着用が義務づけられているのだろう。
「私は平気。ストッキングあるし。他の子はどうだか知らないけれど」
ストッキングというものは、傍目から見た印象を覆せるだけの防寒機能があるらしい。少なくとも、マリにとっては。
「それよりさ、あの話聞いた?」
「……事件のこと?」
「うん」
学校中で密かに話題になっていることがある。
最近、三人の生徒が、何日か日をおいて一人づつ失踪するという事件があった。しかしそれは一日限りのことで、失踪した二十四時間後には彼らはちゃんと帰宅し、無事が確認されている。取り立てて言うほど事件性があるわけではないというのが大人の判断だった。偶発的な家出が一月の間に一極集中しただけだと解釈すれば、大人たちには都合がいい。事実、その四人の生徒は素行不良等の問題を抱えていた。だが、その生徒らが揃いも揃って家出中の出来事に関して口を閉ざしていた。それも、怯えたように。
教師にとっても生徒にとっても、それはある意味で万々歳だった。不良が勝手に大人しくなってくれたのだから、原因がどうであれ喜ばないわけがない。僕の教室もその恩恵を与っていた。どうにも手のつけられない暴力馬鹿が一匹、教室の後ろの隅に紛れ込んでいるからである。
「でさ……やっぱりあの屋敷と関係があるのかな」
マリは僕から何か意見を引き出そうとするのは、僕の頭の中を覗き見したからではないかと思った。僕が机に突っ伏して考えていたことは、まさしくそのことだったからである。
生徒の失踪事件と『開かずの門』の奥に聳える屋敷に関連があるらしいとの噂が、学校ではまことしやかに流れていた。とある人が、不良の一人が失踪する直前に屋敷へ続く道へ入っていくのを目撃したらしい。情報とは何処から漏れ出てくるか分からないものである。
「まあ……関係はあるんじゃないのか?」
マリは目を輝かせた。
「……可能性は高くないけども」
たった一人が屋敷に乗り込んだというだけで、失踪事件と関連していると決めつけるのはナンセンスだ。そもそも、屋敷への門は開けられない筈で、その辺りがどうにも腑に落ちない。
「でもなあ、失踪した全員が仔猫みたいに萎縮して大人しくなっちゃうのも可笑しいでしょ?」
素行不良者を仔猫と喩えた彼女の言に噴き出しそうになった。
「そうだな。……もしかしたら、あの屋敷には得体の知らない何かが潜んでるのかもな」
信号に引っかかり、僕らは車の往来の前で立ち尽くした。
「得体の知れないもの?」
「たとえば、幽霊とか」
「ああ、それはあるかも」
僕はふざけて言ったつもりだったのだが、マリは至極真面目な顔で頷いた。掴み所のない幼馴染である。それとも――僕が密かに大きな好奇心をあの廃屋に向けていることに気づいているのか。幼馴染なんだから、きっと気づいているんだろう。
信号が青になり、再び月見が丘への道程を歩きだした。
◆2
腕時計を確認すると、長針は零時を回っていた。家からだいぶ離れても、なお歩き続けている。僕は上下黒のジャージに栗色のコートを羽織るという特異な格好をしていた。背負っているリュックサックには使えそうなものをあれこれ詰めこんできた。
中学生の深夜徘徊を警察が許すはずはないが、所詮は田舎を辛うじて抜け出したような町だ。目立つ行動をしなければまず捕まることはない。僕の後ろを歩くギガが、くうん、と鳴いた。ただ歩き続けることに退屈さを感じているのか、それともこれから廃墟に向かうことに不安を感じているのかは判らない。
「あんまり怖がらないでくれよ、そんなに大きな体してるんだから」
僕の背丈よりも高く、伝説ポケモンの名に違わぬ雰囲気を持つこのギガというポケモンは、僕とは正反対の性格の持ち主だった。気が小さく、臆病。鳴き声のか弱さはガーディの時から変わっていない。バランとの戦いの結果はほとんど不戦敗だった。せめてその図体に似合うだけの心を持ち合わせてくれれば、バトルでも苦労しないのだが。
車が一台通り過ぎる。名称は知らないが、黒いオーソドックスな形をした四輪車だ。排ガスが白く霧散する。吐く息も白い。手袋している両手を、コートのポケットに突っ込んだ。
「寒いな……」
こんな冷たい夜道を歩くより、ギガを抱いて眠る方が好い。それでも歩き続けるのは、素知らぬ顔で湧いてくる興が手招きするからである。
「ギガ、こっちだ」
公道に別れを告げ、右手の砂利道に入る。道の先には、腐った木製の電信柱の上部に取り付けられた灯が点在している。屋敷へ向かうためだけに作られた私道。普段、こんな道を通る人間はいない。行き着く先は屋敷であり、行き止まりであるからだ。
暗い小道に入り込んで暫くすると、四方が木々に覆われた。森へ立ち入ったのだ。弱々しい街灯も後方に消えてしまった。僕は背負っていたリュックから懐中電灯を取り出した。スイッチを入れると、黄色がかった光が前方の地面を照らした。廃墟の敷地への入り口となる門は未だに見えない。ギガが不安そうに鳴いた。
「大丈夫だって」
砂利道にだんだんと茶色い土が混じるようになり、背丈の低い草もそこかしこに生えるようになった。地面を照らす懐中電灯の光を、遠く前方に向ける。
「あれだ」
まるで山のように聳え立つ、黒くおどろおどろしい影が、先の樹木の隙間から覗いていた。そしてまた、僕の背の二倍ほどありそうな門扉が、待ち構えるように立ちはだかっていた。
西洋画によく出てくる、上部がなだらかな凸状になっている扉をそのまま黒い鉄格子に置き換えたような、わかりやすい形状の門扉。一度来たことがあるとはいえ、圧巻だった。門の端は蔓植物が複雑に絡み合っていて、所々の塗料が剥げた部分は金属の腐食が激しい。錠は、僕の胸と同じ高さにある金属製の閂と、金具に掛かった錆びた二つの大きな南京錠がその役割を果たしているようだ。一番初めのステージとしては上々だ。
「入るぞ」
僕の後ろに隠れるように立つギガにそう言うと、僕は一歩前に踏み出て、門に手をかけてよじ登ろうとした。しかし、あることに気づく。
「鍵が……」
門扉の裏側についている南京錠が外れている。どういうわけかわからないが、幸運には違いない。『開かずの門』は、廃すべき名称なのかもしれない。敷地内に入れるためにギガを一度モンスターボールに戻すという作戦も省けた。
閂についている取っ手を思い切り右にずらすと、それは不快な金属音を立てて抜けた。開錠を済ませ、重い鉄格子を体重をかけて押した。ギガは手伝いもせず、後ろで傍観しているだけだった。錆びついた門は、派手な音を立ててゆっくりと開いた。屋敷の方から冷たい風が僕らの間を強く吹き抜けた。
「よし」
敷地内に踏み入る。道はほとんど無いに等しく、僕とギガは屋敷へと続く五十メートルほどの距離を、茫々と生えている草を踏みつけながら進んだ。森の中は、この屋敷とその敷地のために円形に切り取られていた。敷地は高い鉄柵で囲われていて、その中央に――幅五十メートルはありそうな屋敷が建っている。
接近すればするほど、月明かりに映し出されるその巨大さは僕たちを圧倒した。こんな辺鄙な町には不釣り合いの、立派な屋敷である。が、どうにも奇妙な景色だった。廃墟と云われている割には大量にある窓は一つも割れていないし、絢爛な装飾は欠けている部分もなさそうだ。本当に誰も住んでいないのかと疑わせるような外観である。
ギガは帰りたいと言わんばかりに鳴いた。僕は何だか申し訳ない気持ちになったが、ギガへの慰め方は自己中心的だった。
「大丈夫、ちょっと探索したらすぐに帰るよ」
僕はギガについてくるように言い、屋敷の玄関に近寄った。勿論屋敷の中に入れるとは思っておらず、玄関の扉を少し調べたら、此処の広庭を少し漁って帰るつもりだった。
でも。
観音開きになっている扉の隙間からすり抜けてくる微風が、その気を削いだ。
此処の、見渡せるほど広い庭には、風が渦巻いている。本来ならば、微風になど気付けるはずもなかった。
けれども、気づいてしまった。理由は分からない。何処かしらにその要因はあるはずだが。
僕は扉に手をかけた。
「開いてる……」
あの門と同じだった。鍵の掛かっている気配がない。僕の心に漸く、不気味だ、という気持ちが芽生えた。
ギガが僕のジャージの裾に噛みつき、後ろに引っ張る。もう帰ろう。早く。そんな意思が伝わってくる。
だが、僕は構わず右側の扉の取っ手を引いた。静かに、しかし力強く。ギガが唸った。
緩く、しんと冷える空気が入り口の向こうから流れてくる。中の様子は暗くて窺い知ることが出来ない。僕は下に向けていた懐中電灯を、屋敷の中に向けた。
景色が止まる。
ギガも唸るのを止めた。
一面の雪。光を白く反射する雪。僕は息を呑んだ。
こんなことがあり得るだろうか。季節は晩秋だ。雪が降ってもおかしくはない気温である。
けれども――建物の中に雪が積もっているのはどういうわけか。しかも、まるで冷凍庫の中に入ったのかと錯覚するほどに寒い。シンオウ地方の北部でもここまで寒くないだろう。
三歩、玄関内に立ち入った。ギガも渋りつつ、すごすごと僕についてくる。積もった雪に、浅い足跡がついた。懐中電灯の光を拡散状態にして、辺りを見渡す。多分エントランスホールと云われる場所だと思った。天井を見上げると、三階まで吹き抜けになっている。その天井からは、ちらちらと雪が降り続けている。
ホールには、左右へ廊下が通じている。三十メートル程前には、二つの螺旋階段が左右対称に、広々とした間隔をもって鎮座していた。二階と三階に通じているそれは、何処となく神々しさを感じさせた。それぞれの階には空中廊下が連結されていて、左右の廊下に延びていた。二つの階段の間から覗く正面奥には、重々しい雰囲気を醸し出している扉もあった。
「凄いな……。こんなの映画でしか見たことないぞ……」
尤も、映画では雪など降り積もっていなかったが。ギガもギガなりに何か感じているのだろう、吠えることなく天井を見上げている。僕達は雪に大小の足跡をつけながら、ゆっくりと前へ進んでいく。ホールの壁を懐中電灯で照らすと、興味深いものが並べられていた。
「燭台か……」
幾多もの燭台が壁に取り付けられている。高い所、低い所に構わず配置されているそれらは壮観だった。後ろを向いて、入り口付近にまで丁寧に並べられていることを確認する。きちんと蝋燭まで挿げられている。
「圧巻だな」
ギガも僕に頷くようにわうんと鳴いた。しかし、僕もギガも、すぐに驚嘆と恐怖の表情に変わった。
突如、全ての蝋燭に灯りが点った。
息が止まる。ギガも、失神寸前だったことだろう。僕達は立ち尽くす以外に何も出来なかった。
『よくぞ……』
「え……?」
声がした。透き通るような、それでいて冷気を感じさせる声だった。しかし、届いたのは耳に響いたわけではなく。
心の中に響き渡る声だった。わけもわからず辺りをぐるぐると見渡す。すると、左手の螺旋階段上、三階の高さの所に、白く揺れる何かがいるのを見つけた。それはそっと滑るように降りてくる。ポケモンだ。
僕とギガは止まった時間の中で過ごすように、ただそれを見つめ続けた。酷く現実味を欠いた、不可思議な光景だった。降りゆく雪が、蝋燭たちの放つの光を幽かに反射して煌めき、その白いポケモンを彩る。実際に見たことはないポケモンだったが、学校図書にあったポケモン図鑑を捲っている途中で、一度だけ出会ったことのあるポケモンだった。この雪だって、あの白いポケモンの仕業だと考えれば合点がいく。それでも、やはり夢の中に紛れ込んでしまった感覚は抜け切らない。非現実的な、幻に囚われたと思い込んだ方が――心地良いのだ。
白いポケモンが、僕たちのいる階に降り立つ。鬼のような短い氷の角。頭の側部から伸びる、着物の振袖のような長い腕。腰のような場所に締められている真っ赤な帯。紫色の顔は、白い雪のような仮面で覆われている。
半開きの目が、僕達を捉える。ギガが僕の小さな背中の後ろに隠れた。
『よくぞ御出で下さいました』
矢張りとは思った。エスパータイプやゴーストタイプ、悪タイプのポケモンはテレパシーを使って人間と会話することがある。このポケモン――彼女も、テレパシーを使えるのだ。
『どうぞ此方へ』
彼女はすうっと、螺旋階段の間を通り抜けた。僕は躊躇しつつも、彼女の後を追った。ギガは戸惑いながらも、置いていかれるのが嫌なのか、悲痛な顔をしながら僕についてくる。僕は何をやっているのだろう。伝説では、雪山の奥深くに棲みつき、人を氷漬けにして喰らうなどと云われるポケモンである。警戒などしてもし足りない程だ。
にもかかわらず。
僕は彼女についていっている。
惹かれるのだ。自発的にそうしなければいけない理由はない。彼女が僕の心をけしかけているのかもしれない。それなら、僕は彼女に操られていることになるが。
ギガには申し訳ないけれど、それでもいいかなと思った。。靴に入り込んだ雪の冷たさだけが、辛うじて僕を現実に繋ぎ留めていた。
彼女はエントランスホールの奥にある、重厚で華美な扉を念力のような力で開けた。
『どうぞお入り下さい』
扉の奥は暗く、入ることは憚られた。しかし、僕の心を察するかのように、中でぽつぽつと光が点っていく。この部屋もまた、エントランスホールのように燭台が至る所に取り付けられていたのである。
橙色の柔らかな光が、僕とギガを優しく誘う。一歩踏み入ると、そこは奥行きが甚だしい程大きく採られているダイニングルームだった。ダイニングルームだと判断したのは、金持ちの家でよく見かけそうな何十人と座れる縦長のテーブルが、部屋の中央を割っていたからである。そのテーブルの上には三つ又の燭台が等間隔に七つ置かれていて、全てに火が揺れている。
僕は何も言わぬまま、部屋の奥へと歩いていった。ギガも諦観したように僕にくっついて歩く。幸いにもここには雪が積もっていない。それどころか暖がとられていて、歓待されているような気分になる。
テーブルの最奥端には、豪華に彩られている椅子がこの部屋の出入り口に正対するように鎮座している。テーブルに据えられている、それぞれが向かい合わせになるよう置かれた他の椅子とは一線を画す――多分、この屋敷の主が座る場所であるのだろうと思えた。
『奥の椅子は主人が座られる椅子でありますので、その隣にお座りくださいませ』
後ろをついてきた彼女が、僕に声を掛ける。言われたとおりに、テーブルの端の普通の椅子に座った。ギガは僕の椅子のそばに大人しく座った。羽織っていたコートを脱ぎ、椅子の背凭れに掛ける。リュックサックも下に降ろした。
『お食事をお持ち致しますので、少々お待ちください。……シャドウ』
『はい』
また僕の中で声がしたかと思うと、テーブルを挟んで向かい側にポケモンが突如として現れた。黒紫色の塊の中に光る赤い目が、僕をぎろりと睨む。ゲンガーだった。ギガが委縮しつつも激しく吠える。こんな吠え方をしたのは初めて見た。
『大切なお客様です。お持て成しなさい』
『仰せのままに』
他人の会話が胸の中で響き渡るのはおかしな感触だと思った。この場合はポケモンだが。
ユキメノコがふっと消える。部屋には僕とギガ、そしてシャドウという名のゲンガーが取り残された。沈黙が暫く続いて、その間シャドウは僕のことをじっと見つめ続けた。よく見ればシャドウはなぜか単眼鏡を装着している。人間の真似をするのがそんなに面白いのだろうか。シャドウが僕のそばに移動する。僕は体を硬直させた。
『あなたも物好きですね。わざわざこんな所に』
シャドウが話しかけてくる。
「いや……はは、何というか、成り行きで……」
シャドウがわざとらしくため息をついた。僕も僕で同じようにため息をついた。
周りを見渡せば見渡すほど、自分はなぜこんな場所にいるのだろうと思う。紛れもない現実だが、人間が住んでいないはずの屋敷に入ることが出来たり、ポケモンと会話したり、どうにも幻想の中にいるとしか思えなかった。
『いつまで隠れているのです? 出てきなさい』
シャドウが単眼鏡に手を掛けながら宙に向かって言う。いったい何だというのか。
『はーい』
ダイニングルームの至る所から声が一斉に降りかかってくる。突然テーブルの上の七つの三つ又燭台が浮き上がり、宙を縦横無尽に舞い始めた。
「うぇ……」声にならない声が出ると同時に、ギガに飛びつかれて椅子ごと倒れた。ギガの心境を、鈍いながらもようやく理解できた気がする。
視界を埋め尽くすゴーストポケモンたち。ムウマ、カゲボウズ、デスマス、ヒトモシ、ゴース、フワンテ……みんな小さなポケモンだった。それらが、何十という数で群れている。
「はは……」
とんだ幽霊屋敷だ。此処は間違いなく――現実じゃない。
◆3
悪夢に近い状態であることは違いない。現にギガは部屋の隅で耳を折りながら目を瞑って伏せている。ゴーストポケモンが部屋中で舞い遊び始めたのだから無理もない。
僕は夢現でその様子を眺めていた。危害を加えてくる様子もないから、ぼうっとしていても問題ないと、漠然と思った。思考は完全に毒されていた。
『して、玲太様……』
ゲンガーが僕の名前を呼ぶ。
「何で僕の名前を?」
『そこのウインディをちょっと脅かして聞き出しました』
僕が知らない間になんてことを。
『そろそろお帰りになられてはどうです? もう幽霊屋敷も十分に堪能したでしょう』
落ち着いたようでありながらも、僕を急かすような口調。
「でも、さっきのユキメノコが食事を――」
『雪奈様は気が狂れておられるのです』
あのユキメノコ、雪奈という名前なのか。
『最近むやみやたらと力を振りかざす所為で玲太様のような子供達が迷い込んでいますが、私も大変焦燥しているのです。あの方と人間が関わると碌なことが――』
『シャドウ、何を話しているのです?』
あ、とシャドウが目を見開く。雪奈がシャドウの背後に現れた。音もなく現れるのは卑怯だと、柄にもなく思った。浮遊していたゴーストポケモンたちは、雪奈の登場と共にテーブル周りに並んだ。
雪奈は何か言いながら、僕の目の前に料理と食器を置いた。そしてテーブルの端から端まで、丁寧に皿を置いていく。僕はシャドウの『気が狂れて――』という言葉を頭の中で反芻していた。確かに雪奈は妖しい雰囲気を湛えたポケモンではあるけれど……。
雪奈が、テーブルを挟んで僕の前に座る。そして口を開いた。
『では皆でいただきましょう』
ゴーストポケモンたちが一挙に食物に齧り付いた。一気に賑やかになるダイニングルーム。ただ一匹、シャドウだけは食事せずに雪奈の後ろに控えていた。僕もフォークとナイフを持った。
が、僕は皿に手をつけなかった。何かが僕の手を留めている。
引っ掛かる。
拭いきれない違和感が押し寄せる。
そして、気づいた。
僕の右斜め前、主人と呼ばれる人が座るはずの席には誰も座っていない。にもかかわらず、料理は律儀に置かれていた。
唐突に母の言葉が想起される。屋敷に人の気配はない――。
「あの……」
この妙な屋敷に持つ雰囲気に流されるように、何の疑問も抱かずにこの場に座っていることに恐怖を覚えた。多分、主人と呼ばれる人間は此処にいないのだ。
「この席には誰も座らないのでしょうか」
豪華に装飾された椅子を指差して、僕は雪奈に尋ねた。刹那、雪奈の陰にいたシャドウが瞠目した。
『何を仰られますか。主人はちゃんと座っておりますよ』
「え……」
全身の毛穴という毛穴が閉じた。冷や汗も出ない。戦慄する。
未だに部屋の隅で縮こまっているギガの気持ちに、僕は漸くシンクロした。
『如何致しましたか? お顔色が悪いようですが』
「いや……」
雪奈の眼を見る。決して狂人のそれではない。むしろ普通で、ありふれていて、自らの言ったことに何の疑いも持っていない。
気が狂れている――。
目を伏せると、ごちゃごちゃと盛りつけされた料理が目に入った。一言で形容できないような可笑しな色合いをしていて、肉なのか野菜なのかも判別できない。途端に気持ち悪くなって、僕はフォークとナイフをテーブルに置いた。
『お気に召しませんか』
雪奈が僕の顔を覗き込むように尋ねる。
「食欲が湧かなくて」
咄嗟の嘘に罪悪感は湧き起こらなかった。
『それは残念です』
雪奈は構わず食事を続ける。心なしかダイニングルーム全体が静かになったような気がする。いや、実際に僕が雪奈に余計なことを訊いてから、ゴーストポケモンたちは騒がなくなっていた。皆、どこか悲しみを纏った瞳を虚空に向けていた。
やがて料理がなくなって、雪奈は大量の食器と共に何処かへ消えた。ゴーストポケモンたちが再びざわめき始める。
『だから言ったでしょう。余計なことをしなかったからよかったものの、一歩間違えればここに来た子供達と同じような目に会っていましたよ』
テーブルの向こうにいるシャドウが僕を戒めるように言う。シャドウが繰り返す子供という言葉に、僕は此処へ来た理由を思い出す。不良達は本当に此処へ来たのだ。「そいつらが何か?」
『雪奈様の言葉を戯言だ、と嘲笑したのです。雪奈様は烈火の如くお怒りになられました。彼らの命を奪おうとしなかったことだけが不幸中の幸いです』
彼らを殺してしまったら、それこそ事件だ。いくら僕でも喜べない。
『玲太様がそのようなことをなさるとは到底思えませんが、それでも私は心配なのです。だから早くお帰りに……うわっ』
シャドウの体が浮く。部屋を見渡すと、天井に張り付いているムウマの一匹が笑いながら光っていた。念動力でシャドウを浮かせているのだ。
『シャドウ遊んでー』
子供のような声だった。もしかして、ここにいる未進化のゴーストポケモンはすべて子供なのだろうか。天井に吸い込まれていったシャドウを何匹かのポケモン達が取り囲んで騒ぎ出す。
『こら、止めなさい!』
シャドウは抵抗虚しく、いいように玩ばれていた。その光景が微笑ましくて、一瞬此処が幽霊屋敷であることを忘れた。ギガも隅で固まっているのが疲れたのか、げっそりとした顔でやって来た。椅子に深く腰掛けて、シャドウの忠言を潔く受け入れるべきか考えた。そのうちに、一匹のデスマスがふわりと僕の前、テーブルの上に着地した。
『帰らないで』
デスマスは一言そう言って、涙を流しているように見える赤い目を瞬かせた。
「え?」
此処の屋敷のポケモンは皆テレパシーが使えるんだな、と暢気に構えていた。
『雪奈様に教えてあげて欲しいの』
「教える? 何を?」
デスマスの目がより一層赤く濡れた。
『もうダイジロー様はこの世にいないんだよって、教えてあげて欲しいの』
「ダイジロー様?」
僕は訊き返した。天井の喧騒が遠くに聞こえる。
『此処の屋敷の主人。もうずっと前に亡くなってる。でも雪奈様はまだダイジロー様の影を追ってるの。雪奈様にはダイジロー様の姿が本当に見えてるのかもしれないけど、そんなのゴーストタイプの私達にだって見えてないよ。だからみんな雪奈様のことを怖がってる』
先程の狂気じみた芝居にはそんな理由があったのかと、判断力の鈍った頭で納得する。
「でもどうやって?」
『……私にもわからない。でもシャドウが一度だけ言ったことがあるんだ。雪奈様はダイジロー様が天国に行ってしまわないように、ダイジロー様の魂を屋敷のどこかに縛り付けてるって。どうやってそんなことをしたのか分からないけど、それで雪奈様にはダイジロー様の姿……姿だけじゃなくて声とか、食事する様子だって見えてるんだって』
どんどん話が突飛なものになる。魂を縛りつけるなんて。
『シャドウは雪奈様が飽きるまで続けさせればいいなんて言うけれど、もう二十年以上前からずっとこんな調子らしいし……』
「らしい?」
『今は沢山のポケモンがここに棲みついているけど、ほとんどはダイジロー様が亡くなった後に棲みついたの。私もそう。初めからここに住んでいるのは雪奈様とシャドウだけ。だから詳しいことはよく分からないし、雪奈様にどう付き合っていけばいいかも分からないの。でも、雪奈様が冥界に還るその時までずっとダイジロー様を追うつもりなら、それは間違ってると思う』
デスマスは決然と言ったが、その鬱々とした瞳にギガが重なった。
「でもそれって僕に頼むことか? だいたい魂を縛りつけてるって、それこそゴーストポケモンの君や上で遊んでいる彼らがどうにかできる問題じゃないのか?」
『それならとっくの昔に解決しているよ』
デスマスが落胆した様子で僕の鼻先に近づいた。
『私達はこのダイニングルームを出られないの。雪奈様は此処に棲みついたゴーストポケモンをダイニングルームに誘導して結界を張ったんだ。多分雪奈様は無意識に私達と縛りつけている魂を離そうとしているんだと思う。ダイジロー様の姿を追い続けるのに、私たちは邪魔にしかなってないから。だから雪奈様が此処に惹きつけてきた外部の人間に頼むしか方法が――』
「ちょっと待って」
僕はデスマスの話を遮る。
「惹きつけてきたって……うん、確かに僕はこの屋敷に勝手に惹かれたんだと思う。他の不良達も。でもそれってその……雪奈さんが僕をここに呼び寄せたってことでしょ? それって雪奈さんの行動と矛盾していないか?」
『そうだよ、矛盾してる。でも何で雪奈様がそんなことするのかさっぱり分からないの。結界と同じように無意識でやってるのかも……あ、来た』
ギガがくうん、と怯えるように鳴き、再び部屋の隅に縮こまった。デスマスは消え、代わりに僕の後ろには冷たい空気が立った。
『私は主人に寝室まで付き添います。玲太様はご自由にお寛ぎ下さいませ』
ダイジローさんが立った、ような気がした。頭を振って僕は振り返り、「分かりました」と雪奈に言った。雪奈は妙な動きで大きな椅子のそばへ行き、それからゆっくりとした足取りでダイニングルームを出ていった。
シャドウはまだ天井で揉みくちゃにされていた。単眼鏡が落ちてきて、からんと床を鳴らした。
◆4
これは断じて此処に棲みつくゴーストポケモン達のためではない。そもそも何かを頼まれたとして、その具体的な解決方法など知りはしない。僕の好奇心を満たすための、下らない探索の延長なのだ。そう思わずにはダイニングルームを後にすることはできなかった。
雪奈がご自由にと言ったのだから、僕はその言葉に最大限に甘えさせて貰おうと思った。ホールはまだ雪が降り続いていた。入り口からつけてきた足跡は微かに残っている。真っ白に光るホールの天井を見上げ続けていると、やはり自分は幻想の中にいるのだと再確認させられる。
「いくよ、ギガ」
僕の後ろをつけるギガにそう言い、僕は玄関から向かって右手の螺旋階段を上り始めた。雪で滑ってしまわないように、氷のように冷たい手摺を掴みながら上った。ギガも滑ったり転んだりしながら健気に階段を上った。こんなトレーナーで申し訳ないと心から思った。朝になる頃には此処から出るよと声を掛ける。
二階を通り越して一気に三階まで上る。上り切ったそこには空中廊下が左右に延びていたので、僕は右側の廊下を辿った。廊下には灯りが点っておらず、薄暗かった。僕はリュックサックから懐中電灯を取り出して、この屋敷へ来た時と同じように散策体勢に入る。
凍えるような寒さは変わらないが、廊下に雪が積もっていることはなかった。雪奈の気紛れなのかもしれない。ホールと同様に、廊下も全体的に装飾が施されていた。燭台、壁にあるわけの分からない出っ張り、緋色のカーペット。いずれも庶民の趣味とは大きくかけ離れていた。左右には幾つも扉があり、見えることのない廊下の奥まで続いている。僕は歩くのを止め、適当に左手の部屋に入り込んだ。扉を開け、ギガも招き入れる。
部屋全体を照らす。さほど広くない部屋だった。
「あれ……?」
高価そうな家具や装飾品などが設えてあるのだろうと思っていた僕は、がらんどうの部屋に拍子抜けした。大きな窓から無味乾燥な月の光が差し込んでいた。
「外れ……みたいだな。行こう、ギガ」
廊下へと踵を返した。そのまま向かいにある部屋へと入る。しかし此方にも何もない。
「豪華なのは外面だけなのか」
雪奈や、この屋敷の主人とやらが聞けば怒りそうな台詞を吐きながら探索を続ける。ひとつ、またひとつと扉を開け、何も得ないままついに廊下の端まで来てしまった。右手の扉を開けて、矢張り何もないことを確認した。
「あとこの廊下に残っているのは此処の部屋だけだな」
ギガを見遣ると、さっさと探検を終わらせろと言いたげな顔をしていた。それに背中を押される形で、左手にある扉を開けた。機械的に、こなれた動作で部屋を懐中電灯で照らす。
「……お」
そこは今まで見てきたような空っぽの部屋ではなかった。ざっと見渡すと、壁全体が大量の本で覆われていて、入り口から見て右奥隅には簡素な作りの机が置かれている。此処は所謂書斎と云われる所だろうと思った。この部屋には窓が存在せず、採光能力というものが欠如していた。天井まで届く本棚の存在感も相まって部屋が僕達を威圧してくる感覚に襲われた。
「入ってみよう」
僕はギガに声をかけ、大きく中に踏み出す。
「うおっ……」途端に、何か変なものを踏んだ。慌てて地面を照らす。
ギガもそれに気づいたようで吠えた。
床一面に散乱している夥しい数の本の残骸。部屋の隅から隅まで、その異様な光景は広がっていた。これらを踏ん付けていっていいものなのだろうか。頁が破れていたり、背表紙が剥がれたりしていたから恐らくごみに違いない。構わず部屋に踏み入ると、がさがさと音が立った。不安定な足場にバランスを崩しながら、暗い部屋を掻き分けていく。俄然探検しているという気分になった。
『何をしているんですか』
例のテレパシーが聞こえた。ギガもそれを聞いたのか、驚いて僕に飛びかかってきて、僕はその場に尻餅をついてしまった。部屋の照明が点く。天井に豪華なシャンデリアがぶら下がっていて、それが強い光を放っている。同時に、僕の目の前にシャドウが立った。
『いつの間にかいなくなったと思ったらこんな下らないことを……』
シャドウは部屋を見渡した後、僕の方を向いて単眼鏡に手を掛けながら嘆息した。
「あのデスマスに頼まれてさ。ダイジロー様の魂がどうのこうのって。……って、さっきのダイニングルームって結界張ってあるんじゃなかったの?」
シャドウは驚いたような顔で僕達を見遣り、その後引き攣ったような微笑みを見せた。
『あの子たちは抜け出す術を知らないだけです。それをいいことに玲太様に余計なことを吹き込んだみたいですが……。私は生まれてこの方雪奈様と共に暮らしているので、クセはすべて知っているのです』
「だ、だったら、魂が云々って、君が解決できる問題じゃないの?」
『私も一度解決を試みたことがあるんですがね、無理でした。結界は抜け出せてもダイジロー様の魂は解放できませんでした。色々と危険も伴います。ですから雪奈様が寿命を迎えるまでは諦めるしかないと思っていましたし、面倒事が起こらないように玲太様を帰そうともしました』シャドウは一度単環境を押し上げた。『しかし……玲太様が協力してくれるのであれば話は早い。幸いにも連れているポケモンはウインディ……望みはあります。あの机の上にある物を見ていただけますか』
シャドウが早口に捲し立てながら部屋の隅に寂しく置かれている机を指差す。目を凝らすと、白い紙が一枚乗っているようだ。僕は足元を掻き分けて、机のそばへと歩み寄った。
「これは……」
何か文字が書かれているようだが、埃が降り積もっていて判別できない。埃を何度も払うと、黄ばんだ下地の上に掠れた文字が浮かび上がってくる。しかし、はっきりと黒々とした色で『遺書』と紙の右手に書かれているのを見て、僕はどきりとした。これはつまり……ダイジローが書いたものなのだ。僕の周りだけ、時間が巻き戻ったように感じた。
雪奈へ
この遺書を雪奈が読んでいる時には、私はもう死んでいるだろう。
もう僅かな時間も残されていないので、此の遺書を認めている次第だ。
思えば、私が君に文字を教えたのは正に此の遺書を読ませる為だ。
さて、私は死よりも恐れていることがある。
私が死ぬことに縁って、君との絆が消えてしまうことだ。
然し、私は既に君と永遠の絆を手に入れる方法を知っている。
世間が幾ら馬鹿にしようと、君に読んで聞かせたことは全て真実だ。
敢て此処に記す必要は無いだろう。私の言った通りのことを実行すれば好い。
もう地下室に準備はしておいてある。
手順通りに私の魂を保存す
彼の遺志は半ばで途切れていた。怪しげな雰囲気を纏う遺書を気味悪がっていると、またしてもシャドウが語りかけてくる。
『ダイジロー様は遺書を書いている途中で亡くなりました』
もう一度遺書を見遣ると、風化して薄くなった紅色のシミが文字の隙間に点在していた。多分病魔に巣食われていたのだろうと思った。
僕は足元に散らかっている紙片を手に取った。見たこともない文字で書かれている。どれもこれもそうだ。更に、不思議な形をした紋章やら記号やらが埋め尽くされている頁もある。
『雪奈様がおかしくなった原因は、半ばダイジロー様のせいです。晩年、狂ったように黒魔術の研究をして、魂の保存など云うわけの分からないものにも手を付け始めました。本人は良かれと思ってやったこのなのでしょう。肉体が消えても、雪奈様と永遠に暮らせるのですから。ですが副作用については何も理解されていなかったようです。雪奈様はダイジロー様の魂に憑りつかれてしまったかように変わってしまった。……いや、実際に憑りついているんでしょう。雪奈様は自分が取りつかれていることに気づいておられない。だから余計に……可哀相なお方なのです』
いよいよこの屋敷は化け物じみてきた。雪奈よりも、この屋敷の主人の方が気が狂れている。死後も雪奈に憑りついているなんて。それを雪奈が幸福に感じているのかは僕が判断できることではない。が、その所為で雪奈が変な力を使って屋敷に人間を呼び寄せたり、ゴーストポケモンたちを閉じ込めているのだとしたら、それは良くないことだと思う。
『この部屋の惨状も、既に冷たくなっていたダイジロー様を発見した雪奈様が取り乱した際に……』
ダイニングルームで僕をもてなした雪奈からは想像もできなかった。
『事情が呑み込めたなら、早く行きましょう。雪奈様はもう寝ている筈ですから』
「それって……」
『地下室ですよ』
シャドウが身を翻して部屋を出るのに続いて、僕とギガも書斎を後にした。
◆5
純白の雪に彩られ歩きにくくなっている螺旋階段をゆっくりと下りる。シャドウは浮遊しながらするすると下りていく。ギガは上るよりも下りる方が大変らしく、四足を四苦八苦させていた。
『なんでホールには雪が積もっているのだと思います?』
シャドウが不敵な笑みを浮かべながら僕に振り向く。暗闇だったら、さぞ不気味な顔だろうと思った。と同時に、シャドウの表情の意味を察した。「もしかして地下室って……」
『その通りです』
降り積もった雪の下に地下室が隠れているのか。さながら謎解き中心のアクションアドベンチャーゲームのようだ。階段を下りきって、白く染められた床を見渡す。
『しかも雪の下には硬い氷が張ってあります。用心には用心を、ということでしょうね』
シャドウ、僕、ギガと順番に一階に降り立つ。しかし、雪の積もったこの床の下に地下室があるというのは何とも不思議な話だ。死人の魂が眠っていることも、此処が眩惑的な空間でなかったら間違いなく信じてはいけない話だろう。
「で、地下室の入り口はどこに隠れてるんだ?」
『二つの螺旋階段を結んだ線上……その丁度真ん中です。ウインディ君、出番ですよ』
書斎でシャドウがギガに言及していた意味がやっと分かった。ギガならば積もった雪や張られた氷も楽に溶かすことが出来る。僕はシャドウの示した方へ歩いていき、ギガに指示した。
「ギガ、此処に向かって火炎放射だ」
ギガは露骨に嫌そうな顔をした。間接的にシャドウの言いなりになるのが嫌なのかもしれない。しかし、僕の指示とシャドウの間で板挟みになるのが耐えられないらしく、やがてのそのそと地下室の入り口があると思われる場所へ歩みだした。
『そうそう、主人の言うことはちゃんと聞くべきですよ』
シャドウのおちょくるような言葉に、ギガが振り向きながら唸る。普段ギガの臆病な姿しか見てこなかった僕には、ギガがここまで敵意を剥き出しにする様子を新鮮に感じた。
「これが終わったら帰るからな」
ギガの頭を優しく撫でると、ギガは安堵したような表情を僕に見せた。そして、積もった雪に向かって勢いよく炎を吐きだした。雪は一瞬で溶け、姿を現した氷もみるみるうちに溶けていく。硬い氷と言っても所詮はただの氷で、ギガの火力の前には大した障害にもならない。これくらいならギガの力を借りなくても何とかなったのではないかを疑問を抱いたが、すぐに立ち消えた。
ギガが炎を吐き終わった後に溶けた氷の下に現れたのは、地下室の入り口ではなく大理石の床だった。てっきり巨大な穴でも登場するのかと思い込んでいたが、そうではないらしい。
『あとは絡繰りですよ』
シャドウは小さなシャドウボールを作り始める。『玄関付近に挿げられている蝋燭を一つだけ吹き飛ばすんです』、と言いながらエネルギー弾を発射し、燭台ごと蝋燭を壊した。
「乱暴だな……うおっ」
燭台を破壊するとスイッチが入る仕組みなのか、床が轟々と音を立てながら凹み始めた。階段を形作るように段々になり、地下への入り口が開ける。
『ダイジロー様も随分と面倒な方法で地下室を隠したものです』
「広い入口……ギガでも楽に入れそうだな」
『さあ行きましょう。暗いのでお気を付け下さい』
僕とギガは一抹の不安を抱えながら、シャドウに続いた。
長い螺旋階段だった。下りれば下りるほど、より寒さがしみる。手をポケットに突っ込んでも何の意味もなかった。寒さを凌ぐ為に、ギガにくっつきながら歩いた。暗闇の中、懐中電灯の光だけが僕らを勇気づけた。そういえば、具体的にどんな方法でダイジローの魂を解放するのだろうか。今まで有耶無耶にしてきたものの、やはりイメージが湧かない。
『もう懐中電灯はいらないですよ……地下室は常に灯りが点ってますから』
確かに、下方から灯りが漏れてきている。僕は懐中電灯を仕舞い、いよいよ気を引き締めた。
階段を下りきると、まるでエントランスホールの階段を下りた時のような既視感に見舞われた。あまりにも広い地下室だった。空気が肌を直接叩くような寒さだ。そして、思わず声を上げた。
『これがダイジロー様の魂を保存している容器です』
立方体のうつろで大きな部屋の中央に、六角柱の巨大な水晶が真っ直ぐ天井に向かって生えていた。そして、その中で何か丸いものが青白く光っている。
『そして、あの光こそがダイジロー様の魂です』
今の今まで、完全には信じることが出来なかった。しかし、目の前に現れた幻想的な光景が、怪しい話に信憑性を持たせた。皆でそのオブジェに近寄り、まじまじと観察する。するとその結晶から強烈な冷気が押し寄せ、体中の細胞組織が氷つくような感覚に陥った。
「もしかしてこれって……氷?」
摩天楼の様に立ち塞がる結晶を前に、シャドウに尋ねる。
『そうです。雪奈様が魂を閉じ込めるために作った器です。これを溶かしてください』
漸く、ギガが必要な理由がわかった。巨大な氷塊を溶かし切るだけの火力は、ギガのような体の大きな炎ポケモンでなければ出せない。
「ギガ……これを炎で散らしてくれ」
ギガは恐れ戦いているという風に僕を見つめている。怖がっているのは明白だが、この状況で落ち着かせるのは厳しい。だが、やらなければいけない
「振り回してごめんな。これが最後だから」
こういう時に相棒の不安を取り除けるようなトレーナーでなければならないのだけれど、未熟な僕にはそれが出来ない。ただ、そんな僕の気持ちを推し量ってくれるのがギガである。ギガは心の奥に潜む恐怖を押し込めて、僕に『頑張ってみるよ』と微笑みを向けるのだ。
『健気ですねえ』
「ギガ、火炎放射!」シャドウの冷やかしを無視し、ギガに指示を与える。しかし、ギガは炎を吐きだすことが出来なかった。
ギガを氷の礫が襲う。ギガの悲鳴を聞くまで、何が起こったのか分からなかった。
「ギガ!」
『ゆ、雪奈様!?』
いつから後ろにいたのか。シャドウが、雪奈はもう寝たと言っていたので、全く油断していた。
『一体何をなさっているのですか? 主人の墓に悪戯なさるのはお止し下さい。シャドウ、貴方も何故此処にいるの?』
靭やかな歩調で歩み寄ってくる雪奈は、彼女の背景さえ知らなければ、優雅な振舞いをする淑やかなポケモンにしか見えない。しかし、今の僕には彼女の背中にダイジローの亡霊が張り付いているように見えて仕方ない。
『そ、それは――』
「雪奈さん、もうこんなことは止めにしましょう」シャドウが雪奈に話しかけるのを制し、シャドウに言われたことや書斎で読み取った真実を頭の中を整理して、雪奈の逆鱗に触れないように慎重に語りかける。
「雪奈さんがこんな風になるなんて、ダイジローさんも思ってなかった筈だ」
『何を仰っているのですか』
「いつまでも死んだ人に縋りつくのは――」
一欠片の氷の礫が頬を掠める。
『貴方まで私と主人の絆を愚弄するのですか! 此処を訪ねてくる人は皆そうなのですね!』
雪奈の宿した狂気が露顕して尚、僕は口を開く。
「無理矢理繋がっているものを絆とは呼ばないよ。デスマスも言ってたけど、僕がここまで難なく辿り着けたのは偶然じゃなかった。門の錠がされていなかったのも、玄関の鍵が掛かっていなかったのも……。それって、雪奈さんに何かの目的があって、外部の人間を招き入れたんじゃないの?」
雪奈が口を閉ざす。まるで彼女の心の中で、相反する二つの何かが鬩ぎ合っているように見えた。
『雪奈様……私は二十余年、雪奈様の側にお仕えしてきましたが……なぜあの男が死んでも囚われ続けようとするのです? もう雪奈様を蝕む脅威はなくなったのですよ?』
シャドウがダイジローを『あの男』と呼んだことに、僕は驚いて目を見開いた。それに構わず、シャドウは淡々と雪奈を諭し続ける。
『もう苛烈な虐めを受けることもないんですよ……』
突如語られた真実は、僕を混乱に陥れた。雪奈が虐められていた?
『それでも……それでも私は主人を――』
『愛故の暴力など存在しません。貴方は長年此処に閉じ込められて精神や考え方が歪んでしまっているのです。あの男の暴力を自分にとって都合よく解釈するくらいに……』
雪奈は震え、俯き、何かをぶつぶつと呟いている。
「虐めていたって……そんなことが」
一人の人間が犯した過ちは、一匹のポケモンを哀れな傀儡へと変えていたのだった。
『申し訳ありません玲太様。あまり雪奈様の汚点をお見せすることはしたくなかったのですが……魂の方を宜しくお願いします』
シャドウの言葉で、なぜ自分が此処にいるのかを思い出す。
「ギガ、火炎放射!」
ギガは僕の顔を見遣った後、いつもとは違う精悍な顔つきで、炎を操り氷を溶かし始めた。シャドウや雪奈の話を聞いて、恐怖を超える何かに背中を後押しされているようだった。
『止めてください!!』
雪奈が此方に手を伸ばしてくる。その表情は、怯えた子供そのものだった。シャドウが素早く雪奈を地面に押さえつけて尚、雪奈は此方に向かって来ようとする。
『止めて、お願い……主人に怒られる……お願い……』
『そんなことはありません! 貴方は幻想を見ているんです!』
涙を流しながら訴える雪奈の姿が可哀相で、僕は思わず目を背けた。僕や不良達を屋敷に呼び込んだのは、雪奈の深層意識の底にある悲鳴だったのかもしれない。
時間が経過し、氷柱はもう大部分が溶けていた。一気に片づけてしまった方が、雪奈を苦しませずに済むのかもしれない。
「ギガ、最大火力でオーバーヒートだ!」
地下室に雪奈の叫び声が木霊する。この屋敷の主が犯した罪は、今、漸く消え入ろうとしていた。
◆6
「で、その後ユキメノコは人が変わったように大人しくなった。憑き物が落ちたんだろうね。何事もなかったかのように帰されたよ。未だに実感がわかないけど」
「ちょっとした人助け……いや、ポケモン助けだね。そういえば、その閉じ込められいてた魂はどこ行ったの?」
「さあ……ギガのつけた炎が消えたら氷もろとも消えてたし。大体、あそこはお化け屋敷みたいなもんだから……魂って云ったってただの光るボールだったし、鬼火か何かを見間違えただけかもしれないしね」
僕とマリは下校途中の道で、例の探検の話をしていた。
「なんだか不思議な話だけど、私は信じたいな」
「僕はあんまり信じられないかな……」
「どうして? 体験したことなのに?」
ポケットに手を突っ込む。
「今朝、あの屋敷に戻ってみたんだよ。……もぬけの殻だった」
「え?」
「何もなかったんだ。雪も、遺書も、ポケモン達もね。屋敷だって、手入れされている立派なものだと思ってたけど、ただのぼろぼろの廃墟に成り下がってた。だからきっと、夢だったんだと思う」
右手に冷たいものが触れる。
「……幽霊が玲太を楽しませるために見せた幻だったのかもね」
「そうだといいんだけど」
「あ、そういえば寄る所があるんだった。また明日ね」
「あ、ああ」
慌ただしく駆けていくマリを見送りながら、僕はポケットからある物を取り出す。
氷で出来たような歪な五方結晶。僕が夢から醒めることを妨げ、惑わそうとする冷たい結晶。
僕とギガが見た筈の彼らは、一体何処に行ってしまったのか。
僕は再びそれをポケットに仕舞い込んで、寒空の下を歩いた。
了
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