長い長い川でした。 長い長い旅でした。 枯れかけた小さな草の船に、白と黒のまだら模様の石ころがちょこんと乗って、ゆらゆらと流れていきます。 その石ころは、神さまがお作りになったものでした。 けれど、それは神さまが思い描かれていたものとは似ても似つかぬもので、とても醜い姿形をしていました。神さまは一目ご覧になるなりお嘆きになって、その石ころを草舟に乗せ、川に流してしまわれたのでした。 石ころは、神さまに捨てられてしまったのを知って、悲しくて寂しくて、ずっと泣いていました。 泣きながら川の流れにゆらゆらと揺られていました。 幾日も幾夜も、泣きながら川を下っていきました。 石ころが泣き疲れた頃、川辺にそれを拾う者がありました。 そこは寒い寒いところでした。石ころを拾った者の手も、とても冷えていました。 凍えたその手で強く触ったら石ころが冷たくなってしまいそうな気がして、その者は石ころを爪の先でそおっと持ち上げて岸に上げました。 灰色の大きな体を傾けて、その者は石ころの声に耳を傾けます。 自分が不完全だから嫌われたのだと、石ころは泣きました。 自分が醜いから捨てられたのだと、石ころは泣きました。 灰色の者は、そのまだらの石ころをじっと眺めていました。 たしかに不完全で醜い石ころでした。そしてどこか変な気持ちがしました。 何日か眺めていて、灰色の者は、どうしてこの石ころが不完全で醜くて、変な気持ちがするのか、ようやく気付きました。 気付くと何とかしてやりたくて、冷たい手で石ころを触り始めました。 あまりに寒くて、石ころはもう口もきけませんでした。ただ、灰色の者の手の中で、なすがままになっていました。 あまり器用とも言えない手で、まだらもようを慎重に解していきます。黒い部分と、白い部分。複雑に入り組んでしまった石のかけらを、壊してしまわないように選り分けていきます。 その作業に、また何日もかかりました。 白い石のかけらたち。そして、黒い石のかけらたち。分けてみると、とても純粋で綺麗だと思いました。 それらを集めて、灰色の者はふたつの石の像を造りました。どんな形が良いのか判らなかったので、自分の形に似せて作りました。 灰色の者は気付いたのです。あのまだらの石ころの中に、ふたつの魂が宿っていることを。 二つが混ざり合ったまま固まってしまった石ころ。だからあんなに、不完全で醜く見えたのでした。だからあんなに、変な気持ちがしたのでした。 そうして灰色の者は、白と黒の二つの像に、一つずつ魂を吹き込みます。 すると、二つの像はたちまちふわりと大きくなり、白い像からは灼熱の炎が、黒い像からは眩いばかりの雷光が迸りました。 灰色の者は驚きと感激で言葉もなくその新たな命を見つめていました。 輝きに満ちたその美しい生き物たちを、心から祝福しました。 二匹の体から溢れる熱量で、いつの間にか、凍てついた川辺の氷は溶けていました。 灰色の者も、いつの間にか居なくなっていました。 石ころだった者たちが、ゆっくりと目を開きます。 白い者の目の前に、黒い者が。 黒い者の目の前に、白い者が。 初めて見る互いの姿に、二匹は息を飲みました。 ───ああ、なんて立派で美しい方だろう。 そして、醜い石ころの自分を思って恥じ入るのです。 先に動いたのは、白い者でした。 我が身が情けなく恥ずかしくて、白い翼で顔を隠してしまいました。 そして居たたまれない思いのまま、黒い者に背を向け、さっと飛び立ってしまったのでした。 黒い者は、白い者が顔を隠してしまったのは、この不完全な石ころを見たくないせいだと思いました。 何も言わないまま去ってしまうほど嫌われてしまったのかと、悲しくなりました。 悲しみのまま、黒い者もまた、翼を広げて何処かへ飛び去ってしまいました。 川辺には、枯れた小さな草舟の残骸だけが、ゆらゆらと揺れていました。 ---- それから長い長い時が過ぎました。 白い者は岩山の間の小さな洞窟を住処にして静かに暮らしていました。 白い者はあの後、自分がもうあの醜いまだらの石ころではないとすぐに気付きましたが、戻って見ると誰も居らず、黒い者に非礼を詫びることも会うこともできないまま、ここまで来てしまったのでした。 時折空を雷雲が渡ることもありましたが、白い者はそのたびに洞窟の奥に逃げ隠れ、どうしても雷鳴に答えることが出来ませんでした。 今更会って謝ったとして、それでどうなるのか───そんな後ろ向きな気持ちで、しょんぼりと俯きながら雷雲が去るのを待つ、そんなことの繰り返し。 あの黒い立派な方は、こんなちっぽけな生き物のことなど、もうとうに忘れてしまっているだろう、白い者はそう思うようにしました。 そしてそんなふうに思うと、何故か胸が痛くなるのでした。 ---- ある日、洞窟の狭い出入り口の隙間から、白い者が顔だけを出して外を眺めていると、岩山を登って一人の人間が近付いてくるのが見えました。 白い者は、つい近頃まで人間という生き物を知りませんでした。初めてこの人間に会ったときは怖くて泣きそうになってしまったのですが、この人間は持ち前の誠実さと優しさで、白い者をすぐに打ち解けさせてくれました。 「久しいな。元気だったか? レシラム」 声が届くぐらいのところまでくると、人間は笑顔で声をかけてきました。 この人間は、いつの頃からか白い者のことを「レシラム」と呼んでいました。白い者は、始め不思議な気持ちになりましたが、そんな「名前」をつけてもらえたことがとても嬉しくなって、自分のことを「レシラム」だと思うようになりました。 レシラムは穴の外にとことこと出てきて、人間に挨拶をします。そして首を人間の目の高さに降ろして、頭を撫でてもらいました。 レシラムは少し甘えんぼうでした。 「貴方が来てくれて嬉しい」 レシラムが恥ずかしそうに言うと、人間はにっこり笑って何度もうんうんと頷き、またレシラムの頭を撫でてくれました。 「ほら、おみやげだ」 人間はレシラムの前に、担いでいた布袋の中身を開けて見せました。 袋の中には、おいしそうな木の実や、穀物を蒸して作った団子のようなものがたくさん入っています。 「また領地を広げることが出来たんだ。豊かな土地だよ。化け物どもが居なくなって、皆安心して暮らせるようになった」 人間は嬉しそうに言いました。聞くとこの人間は「王さま」なのだそうです。 王さまというのは、他の人間たちを治めて、皆が仲良く暮らせるように決めごとをしたり、時には住む場所を豊かにするために、恐ろしい魔物などを追い払ったりするのが仕事なのだそうですが、レシラムは王さま以外の人間を見たことがないので、王さまの言うことがよくわかりませんでした。 何度か王さまから一緒に来るかと尋ねられましたが、そのたびにレシラムは首を横に振りました。 どうしてなのか、他の生き物の前に出るのが怖いのです。 レシラムの心の奥底には、自分を見降ろし嘆いておられた神さまのお姿が焼き付いていました。そうしてその御手から送り出されたときの悲しい記憶が冷たく横たわっていました。 またそんなふうに見捨てられてしまう、きっとレシラムの心にそんな怯えがあるのでしょう。 王さまもそんなレシラムの心を少しは察してくれているのか、無理を言うことはありませんでした。 そしてレシラムのことが気掛かりで、時折こうして訪ねて来ては優しく扱ってくれるのです。 レシラムもまた、王さまの優しさが本物であることを、すぐに見抜いていました。このひとなら裏切らない、そんな確信があったので、ぎこちないながらも、心を預けることができたのでした。 「最近は俺を助けてくれるとても頼りになる友が出来たんだ。この国、この地上を豊かにしたい、そんな夢を理解し力を貸してくれる。彼のおかげで、化け物退治で命を落とす危険もほとんど無くなったんだ。レシラムにも会わせたいよ」 友のことを話す王さまは、とても誇らしげで嬉しそうでした。 レシラムは、きっと素晴らしい方なのだろうなと思いを巡らせ、会ってみたいと思いました。 けれど、レシラムはやはり、首を横に振るのでした。 ---- レシラムは洞窟の奥で、うとうと昼寝をしていました。 浅い微睡みの中で、夢を見ていました。それは、怖いぐらいにはっきりとした夢でした。 王さまがいました。どこか怪我をしているのか、所々に血が見えます。長い剣のようなものを振るって、何かと闘っている王さまは、レシラムが今まで見たことがないほど、険しく恐ろしげな顔をしていました。 ───王さま、王さま! レシラムは必死に呼びかけますが、声は届きません。 レシラムは悲しくて恐ろしくて、ぽろぽろ涙をこぼしました。 魔物のようなものの影が、王さまに襲いかかります。それを薙ぎ払う剣。その合間に時折縦横に走る青白い光は雷光でしょうか。 王さまが何かを叫びました。次の瞬間、王さまの周りに赤い血飛沫が舞いました。 ふっと、目の前が真っ暗になりました。 そのあと、あの青白い光が視界一杯に広がりました。 飛び起きたレシラムは、荒い息をつきながら呆然としていました。 まだ胸がどきどきしています。 とても怖くて心細くて、レシラムはきょろきょろと周りを見回しました。 洞窟の中は、自分の息づく声のほかに何の音もなく、耳が変になりそうなぐらい、しんとしていました。あまりに音が聞こえないので、レシラムは足で地面をがりがりと掻いてみました。けれど足を止めるとまた同じように静まりかえります。 洞窟の中を照らすたった一つの光。首を巡らせて洞窟の入り口に目を向けて見ると、眩しく射し込んでくる筈の外の光が、何故かぬらりと歪んで見えました。 岩の間を流れてくる風はひどく湿っていてむっと温く、生臭い匂いがするような気がしました。 何もかもが、嫌な感じに思いました。 寒くもないのに、ぶるっと震えました。 胸の中にもやもやしたものがどんどん湧いてきて、口から溢れてきそうでした。 居ても立っても居られず、レシラムは洞窟の外に飛び出しました。 狭い出入り口を通るとき、岩で少し頭を打ちましたが、そんなことは気にしませんでした。 白い翼を広げて、岩山から飛び立ちます。 レシラムは普段滅多に空を飛ぶことはありませんでしたが、体が飛び方を知っていました。どこへ行くべきかということも、何故か知っていました。 全身の感覚の導くまま、レシラムは空を駆けました。 王さまの居るところを目指して。 岩山の下には広大な緑の森が広がっていました。それをまっすぐに飛び越えると、なだらかな丘のところどころに、森を切り開いた畑と小さな家並みが見えてきました。人間がレシラムを見上げて何か叫んでいましたが、先を急ぐレシラムはそれに見向きもせず、村々の上をものすごい勢いで通り過ぎていきました。 大きな川の向こうの森、その奥深いところから、細い煙が上がっています。 近付いて行くと、その煙の周り一帯だけ、木が根こそぎ吹き飛ばされていて荒れた広場になっていました。 その中心に王さまがいました。そして、そのかたわらに黒い大きなかたまりが横たわっていました。 「レシラム!」 王さまがレシラムを見上げて叫びます。そのとき、王さまに隙が出来たのか、周囲に転がっていたどろどろの魔物の残骸が王さまに向かって飛びかかってきました。 王さまが剣でそれを薙ぎ払おうとした寸前、バシッと鋭い音とともに青白い光が縦横に走り、魔物たちがまた周囲に散らばりました。 「ゼクロム」 王さまは黒い者をいたわるように声をかけました。黒い者は体中にびりびりと雷光を纏いながら、ゆっくりと身を起こしました。その足元には、血だまりが出来ています。 レシラムは王さまたちの側に降り立ちました。 ふっと、黒い者と目が合います。 その一瞬が、何故かとても長い時間のようにレシラムは感じました。 まだらの石ころだった自分から生まれ変わった、あのときあの瞬間以来の再会でした。 けれども、感慨に浸っている余裕はありませんでした。一人と二匹の周りで、斬っても断っても倒れない魔物たちがうぞうぞと蠢いています。 じわじわ間合いを詰めてくるそれらを牽制するために、レシラムは自分たちの周りに炎の円陣を張りました。 「ありがとう、レシラム。大丈夫か? ゼクロム」 王さまは黒い者のことを「ゼクロム」と呼びます。ゼクロムは自分の腹の傷をちらりと見て、「大したことはない」と答えました。 王さまはその返答にほっと安心したような顔を浮かべましたが、レシラムにはゼクロムが嘘を言っているのが分かりました。まっすぐ立っているように見えて、彼の視界がふらふらと揺れているのを、まるで我が事のように感じるのです。 ひょっとしたらあの夢は、彼の目を通して見た実際の光景だったのかもしれない、とレシラムは思いました。だとしたら、ゼクロムの傷はきっとかなり深い筈です。レシラムが夢の中で見たように、血が飛び散ったその瞬間、目の前が真っ暗になったのですから。 このままここで時を費やしては、ゼクロムを消耗させてしまいます。 彼を連れて、どうやってここから脱出すればいいのかと思案している矢先、炎の壁をかいくぐって、一つの魔物がレシラムに襲いかかって来ました。 「レシラムっ!」 王さまの声にレシラムは慌てて振り向き、咄嗟にその魔物を炎で焼こうとしました。けれど、魔物はもう目の前まで迫っていました。その魔物は激しく斬られてもうばらばらの肉の欠片となっていましたが、その一部が裂けて口のように開き、びっしりと生えた鋭い歯をガチガチ噛み合わせて恐ろしい音を立てていました。 肉片に口だけが開いた魔物。そのおぞましい姿にレシラムは息を詰めて一瞬硬直してしまいました。 「レシ……!」 王さまの声は、途中までしか聞こえませんでした。 翼に走った熱い痛み。真っ白な体毛にばっと赤が飛び散ります。 魔物の歯の食い込んだところから、レシラムに流れ込んでくる何か。 レシラムはぐらりとめまいを感じて、そのまま後ろに尻餅を付いてしまいました。 「レシラム!」 王さまの声ではない、もう一つの声が叫びます。 ハッとして顔を上げると、ゼクロムの手元で青白い光の玉がきらめくのが見えて、その瞬間、レシラムの翼を噛んでる魔物は弾き飛ばされました。 地面に叩き落とされてもなお食らい付いてこようとする魔物に、ゼクロムはとどめを刺そうと力を溜めます。 バリバリと堅い音を立てながら、ゼクロムの体から眩しい閃光の欠片がこぼれ始めたとき。 「待って!」 悲鳴のようなレシラムの声が、ゼクロムの動きを止めました。 魔物も一瞬ひるみを見せました。 皆が静まった中、レシラムはふらりと立ち上がって、魔物に一歩近寄りました。魔物は歯を噛み鳴らして威嚇しています。 「おまえは……無念だったのだな」 レシラムはおぞましい魔物の姿をまっすぐに見つめていました。恐怖はありませんでした。それよりも、その魔物を見て思わず息を飲んでしまった先刻の自分の反応を恥じていました。醜さを嫌った自分の弱さを責めていました。 「捨てられた辛さは……私も知っている」 震える声でレシラムが呟きます。 魔物の威嚇の声が、ふと止まりました。 ゼクロムもハッとしてレシラムを振り返りました。 魔物に噛まれたとき、レシラムに流れ込んできたのは、憎しみ。そしてそれに隠れて、無念と悲しみの感情でした。 この魔物は、あのまだらの石ころと同じでした。 神さまがたくさんのものをお作りになる過程で、どうしても生まれてしまう「意図せぬ者」のひとつでした。あのまだらの石ころと違っていたのは、それを拾う手がなかったこと、そして無念のあまりに異形の姿と化して現れ出てしまったことだけでした。 あのとき灰色の者に拾われていなかったなら、きっと自分も同じようになっていた、とレシラムは思います。 「こんなふうになりたい訳では無かったろうに……おまえは」 レシラムがそっと魔物に手を伸ばします。ゼクロムは魔物の反応に身構えながらも、レシラムを見守っていました。 しばらくそのまま時が止まったかのようでした。やがて、魔物が傷だらけの体で、ずるりとレシラムににじり寄ってきました。 レシラムもまた歩み寄って、身を屈めて小さな手の爪先で魔物に触れました。その様子は、あのときの灰色の者と同じでした。レシラムは、あの灰色の者のようになりたいと思っていました。 レシラムに触れてもらった魔物が、淡い光を放ち始めます。 そうして、その場に現れたのは、細い小さな草でした。この魔物は、本当は草になる筈の者だったのです。けれど、その本当の姿で存在するには、その草は弱すぎました。見る間にみずみずしさを失い、黒く変色していきます。 「ああ……」 レシラムは草を拾い上げました。その手の中で、草はその形を失ってぼろぼろに崩れていきます。 手の中で死んでしまった小さいものを、レシラムは呆然と見つめていました。 ざわ、とざわめきが広がりました。炎の円陣の外で、残された魔物の欠片たちがざわざわと騒いでいます。 レシラムは顔を上げ、炎を隔てた魔物たちに手を差し伸べました。 「無念だったろう……おまえたちも」 捨てられて、流れ着く処もなく。 誰からも愛されず、省みられることもなく。 自分が何であったのかも、知ることが出来ないまま。 『存在』すら、無かったことにされてしまった───異形の者たち。 オオ……と魔物たちが鳴きました。一斉に、響き渡るように声が轟きました。 レシラムの炎に、魔物達がじわりと詰め寄ってきます。ゼクロムは傷ついた体で王さまを庇おうとしましたが、王さまは「構わない」と言ってゼクロムを制しました。 ざわめきの中、一匹、小さな魔物が炎に飛び込みました。それが引き金になって、周りの者たちも次々に火炎の円陣に身を投げ始めました。 炎の中で、小さな魔物は羽虫になりました。その他の者たちは、獣になったり鳥になったり、あるいは花になったりしました。皆健気で美しい姿でした。 そしてすぐに、焼け死んでしまいました。それでも、皆嬉しそうでした。たとえ一瞬でも、輝いて見えました。 自分の本当の姿を知ってもらいたい。自分が此処にいたことを、誰かに見ていてもらいたい。 魔物たちのそんな気持ちが、レシラムには痛いほどよく判りました。だから、目を逸らさず散り逝く者たちをみつめていました。涙をぼろぼろ流しながら、じっと見つめていました。 王さまがレシラムを慰めるように優しく翼の先を撫でてくれます。その温かさに思わずレシラムは声を上げて泣いてしまいました。 こんなふうに暖かく触れてくれる者のある幸せのために泣きました。 こんなふうに暖かく触れてくれる者の無かった寂しさを思って泣きました。 魔物が消え、円陣の残り火が柔らかく燻る中、レシラムの泣き声だけが微かに響いていました。 王さまは、レシラムの気が済むまで泣かせてやりました。 ゼクロムはじっと立ち尽くしていました。腹の傷からは、まだぼたぼたと血が流れています。張り詰めていた気が緩んだせいなのか、何だか体が軽くなったような気がしました。 「ゼクロム!?」 ゼクロムの耳に、王さまの声は、何故かとても遠くに聞こえました。 そのすぐ後、ゼクロムの目の前が、本当に真っ暗になってしまいました。 ---- 森の奥深くに建てられた神殿には、鬱蒼と茂る木々の匂いが満ちていました。そして王さまの付き人や神殿の世話をする人などがたくさん居て、何やら忙しそうに働いています。 こんな環境にまったく慣れていないレシラムは、どうにも落ち着かず、ついつい肩身の狭いような気持ちになってしまうのですが、王さまがゼクロムの手当をしなければならないと言うので、仕方なく今夜は此処に留まることにしたのでした。 勿論ひとりでねぐらに戻っても良かったのですが、この優しい人間と、もう少しの間だけでも一緒にいたかったのです。そして、やはりゼクロムのことが心配で、側に付いていたいと思ったのでした。 神殿はとても大きな建物だったので、その内部は壁やカーテンでいくつにも仕切られていました。 体の大きなレシラムとゼクロムには一番広い大広間を貸し与えられましたが、いつも狭い洞窟でじっとしていることの多いレシラムには、なんだか開けっ広げすぎて余計に落ち着かない気持ちになります。 その上、この大広間はカーテンで半分に仕切られていて、その薄布の向こうにゼクロムが居るのです。姿は見えないのに気配が判ってしまう、それはこの上なく恥ずかしく居心地の悪いものでした。 いっそ同じ部屋で一緒に居させてくれたらいいのに、どうしてこんな事をするのだろうとレシラムは不思議に思いました。 レシラムはただゼクロムの顔を見て安心したいのです。けれど王さまは、彼が回復すれば会わせてやるから辛抱してくれ、とだけ言って、カーテンの向こうに行ったきり戻ってきてくれません。 カーテンの向こうはとても静かでした。王さまは何をしているんだろう、ゼクロムの具合はどうなんだろう、静かなところでひとりで居ると、いろいろな考え事が次々浮かんできて、とても不安になってしまいます。 「……みゅー」 カーテンの前までとことこ寄って、レシラムは甘えるように一声鳴きました。 しばらく何の返事もなく、ただ沈黙だけが帰ってきました。 寂しくなって俯きそうになったとき、ようやくカーテンの向こうでガサと音がしました。 何か大きなものが身を引きずるような音。ゼクロムに違いありません。 「王さまは居ないぞ」 カーテンの向こう、すぐ近くでゼクロムの声がしました。 レシラムは思いがけない近さと、そしてその言葉の内容に驚いて、ぽかんと固まってしまいました。 「用があるなら誰か人を呼ぶが」 「い、いや……いい。あの、傷の具合はどうだ?」 何かしゃべらなくては、と思ってレシラムは慌ててそう問いました。もちろんそれがレシラムにとっての一番の気掛かり事でもありました。 「ああ、傷は一応塞がった。心配をかけて済まない」 「……痛むか?」 きっと痛いに違いない、とレシラムは思いました。傷も何もない筈のレシラムの腹が、何故かズキズキするような気がするのですから。 「いや、大したことはない」 けれど、レシラムの予想に反して、ゼクロムは平然とそう返しました。 レシラムは首を傾げました。あの炎の円陣の中でも彼は同じ言葉を言っていたことを思い出しました。 「おまえは何故、いつも嘘をつくのだ?」 レシラムには不思議で仕方ありませんでした。痛い筈なのにどうしてそれとは反対の事を言うのか。 痛いことをきちんと伝えてくれさえすれば、癒してあげることだって出来るのに。 ゼクロムはカーテンの向こうで暫く黙っていました。 「すまない。やはり少し、痛いな」 苦笑混じりの声が帰ってきて、レシラムはホッと安心してやっと小さく笑いました。ひょっとしたら、今日初めて笑ったかもしれません。 「さすってやろうか? そちらへ行っても良いか?」 レシラムはゼクロムに触れたいと思いました。痛いところを撫でて癒してあげたいと思いました。 自分と彼とがとても近い存在であることを、レシラムは知っていました。だからきっと触れれば痛みも取り去ってあげられるとレシラムは思うのです。 「……いや、それは勘弁してくれ」 「え……」 ぽつりと呟くように告げたゼクロムの声は、嘘ではなく本当に困ったような響きがありました。だからレシラムは今度は何も言えませんでした。 レシラムは、浮き上がりかけた気持ちがシュンと沈んでいくのを感じました。どうして彼がこんなふうにレシラムに嘘を言ったり、避けようとしたりするのか、どうしても判らないのです。 自分がゼクロムを思っているように、ゼクロムは自分を思ってくれていないのかもしれない、そう思うととても寂しく悲しい気持ちになりました。 きっと嫌われてしまったのだとレシラムは思いました。 胸がぎゅっと痛んで、目の裏のあたりがじわっと熱くなってきます。 もう此処には居たくない───こうして隔てられているのが辛くて、レシラムはもう何処かへ行ってしまいたいと思いました。 「……みゅー……」 喉の奥から、悲しげな声を漏らして、レシラムはカーテンから離れようとしました。 しょんぼりと体の向きを変える動きにつられて、レシラムの大きな尻尾が、カーテンの裾をかすめます。その尻尾にカーテンではない何かが触れました。 「?」 驚いて振り返ってみると、カーテンの下から黒いものが少しこちらに伸びていました。 どう考えても間違いなく、それはゼクロムの手の指先でした。 「……」 ほんの少しだけ垣間見ることが出来た彼の姿の一部に、レシラムは思わず見入ってしまいました。 大広間の中は松明の薄赤い光しかありませんでしたが、こうして間近でまじまじと見てみると、彼の体は夜闇よりも深い漆黒の色合いをしていて、その張りのある滑らかな表面はつやつやと黒光りしています。自分とは何もかもが正反対でした。それでも、とても綺麗な膚だとレシラムは思いました。 嫌われていると判ってはいても、やっぱりレシラムはこの手に触れてみたいという思いが止められませんでした。心が惹かれて仕方ありませんでした。 「手だけでも良いなら……握っていてくれないか」 「えっ」 思いがけない言葉に、レシラムは驚いて聞き返してしまいました。たった今拒まれたばかりなのに、とうとう都合の良い幻聴でも聞こえ始めてしまったのかと思ったのです。 「駄目か?」 けれど、レシラムの耳に届いたのは、ゼクロムの残念そうな呟きでした。その声とともに、黒い手がカーテンの向こうへ隠れようとします。 レシラムは咄嗟にその手を捕まえました。 「駄目じゃない! 握ってる。お前の傷が痛くなくなるまで、握ってる」 必死で言いながら、ゼクロムの手を両手でぎゅっと握り締めていました。 カーテンの向こうでゼクロムが苦笑する気配を感じて、レシラムはハッとして握る力を緩めました。それでも、手放すことはありませんでした。 そっと、感触を確かめるようにゼクロムの手に触れてみると、硬そうな見た目よりもずっとしなやかで弾力のある手触りを感じました。そしてとても暖かい手でした。触れているだけで、何故かとても安らいだ気持ちになりました。 ゼクロムも同じように安らいでほしい、そしてこうして触れているところから、彼の痛みを吸い取ってあげたいと思いながら、レシラムはゼクロムの手を優しく撫でてあげました。 「ああ……痛みが退いていくような気がする」 静かに手を握り合う中、ゼクロムの穏やかな声が届いて、レシラムは胸がきゅっと掴まれるような気持ちになりました。嬉しいような、悲しいような、不思議な気持ちでした。こんな気持ちになるのは初めてでした。 この向こうに、彼が居るのに。こんなに近くにいるのに───遠い。 この薄布がとてももどかしく感じました。 「済まないな。今は酷い姿をしているんだ。お前には見られたくない……察してくれ」 レシラムの寂しそうな気持ちが伝わってしまったのか、ゼクロムは申し訳なさそうに言いました。 「傷が治ったら必ず顔を見せるから」 そこまで彼が言うのなら、レシラムは我慢するしかありません。小さく頷いて、それを伝えるように手をぎゅっと握りました。 「約束……?」 「ああ、約束だ」 それから二匹は、カーテン越しに手を繋ぎながら、いろいろな話をしました。 王さまとの冒険の話、ゼクロムの普段の生活の話。 ゼクロムの名前をつけてくれた前の前の王さまのことや、倒れたゼクロムを吸い込んだ不思議な珠のこと。 レシラムはゼクロムに聞かせてあげられるような珍しい話を持っていなかったので、ほとんど教えてもらうばかりでした。それでも聞いているだけでもわくわくしました。いつか彼と一緒に外の世界を見てみたいと、ほんの少し思いました。 先程からレシラムの返事が鈍くなってきたのに気付いて、ゼクロムはしばらく言葉を止めました。 「レシラム?」 あまりに反応が無いので、ゼクロムはレシラムに呼びかけてみました。やはり返事はありません。 ゼクロムはそっとカーテンを持ち上げてみました。 薄暗い灯りの中、ぼおっと浮き上がって見えるぐらいに真っ白い生き物が目の前に居て、静かに眼を閉じていました。 ゼクロムの手をしっかりと握っている手の元を見ると、翼の途中に血止めの薬草が貼ってありました。それは今、ゼクロムの腹に施されているものと同じ薬草でした。 そして何故か、レシラムの額には別の種類の薬草が貼られていました。ゼクロムの記憶にある限り、確かレシラムは頭部に傷を負うようなことは無かった筈です。後で聞いてみると、この傷はレシラムがねぐらの洞窟から飛び出した時に、出入口の岩に頭をぶつけて出来たものらしいと知りました。 額に葉っぱをくっつけて、こっくりこっくり舟を漕ぐレシラムは、とても幼く見えて可愛らしく思いました。 あまりに可愛くて呆然と見とれていると、レシラムの体がガクンと大きく揺らぎ、慌ててゼクロムはその背中を支えてあげました。ふわっとした毛の感触が、ゼクロムの腕と胸にかかり、思わず胸がドキっとしました。 ひっくり返ってしまわないように、そっとレシラムを横たえます。ころんと転がった白い生き物は、まだしっかりと手を握ってくれていました。 「……まっしろ。ふっくら」 ゼクロムは、思ったままを呟いていました。想像していた以上にレシラムの体はふわふわと柔らかく、そのあどけない寝顔を見ているとまるで子供のようです。 ゼクロムの想像の───夢の中で見たレシラムは、もっと大人びて色っぽくて、そしてものすごいことをしていました。 ずっと昔に見た夢の内容をここで思い出しそうになって、ゼクロムは慌てて頭からその残像を追い出そうとしました。 思い出してしまうと、自分の体が何だか変になってしまうのです。その変調を前の前の王さまに相談したら、男にとってそれは自然なことなのだと言って安心させてくれましたが、女の子の前でそんなふうになったら嫌われるかもしれないから、欲をコントロールすることが大事だと教えてくれました。 「……女の子?」 そう言えば、ゼクロムはレシラムの性別を知りません。外見からでは判らないから、何となく女の子だろうと思ってはいたのですが、もしそれが違っていたならこの変な心配も、そもそもこんな変な夢も、始めから意味のないものになってしまいます。 ゼクロムはおそるおそるレシラムの腹の辺りに顔を寄せてみました。寝息を立てるたびに、真っ白な毛がふさふさと揺れる腹の下、ひときわ毛足の長い部分にそっと鼻を近づけます。 どきどきしながら吸い込んだ空気には、微かながらも確かに女の子の匂いがしました。 うわっと思って息が止まりそうになりましたが、思い切って胸一杯レシラムの匂いを吸い込みました。いっそこのままこのもふもふとした良い匂いの毛並みの中に顔を突っ込んでしまいたいという衝動に駆られましたが、何とかそれだけは思いとどまりました。 それでも、胸のどきどきは止まりませんでした。それどころか、胸でないところまでどきどきし始めました。 追い出そう、追い出そうと思っても、あの夢がむくむくと甦ってきます。 待て、止まれとゼクロムは必死に念じましたが、とうとう意識の中にその映像が溢れてきました。 ゼクロムの腕の中で、真っ白な体を震わせて、泣きながら「好き」と言って縋りついてくるレシラムの夢。 ゼクロムとレシラムはきつく抱き合って、ひどく興奮しながら股を摺り合わせていました。ゼクロムの股から現れた熱い変なものがレシラムの股の間の穴に入っていました。それを動かすと目の前に星が飛びそうなぐらいに気持ち良いのです。はあはあと息を荒げながら夢中でレシラムを突き上げました。レシラムもまた滅茶苦茶な声を上げて乱れていました。 ゼクロムはその夢の中の自分がまるで粗暴な生き物になってしまったように思えて、目覚めた後ひどく自己嫌悪に襲われたのでした。しかもその夢の中だけではなくて、その夢を思い出しただけでも股がぎゅっとなってしまうのです。ゼクロムはそんな自分が嫌で仕方ありませんでした。 一目見ただけの、まだ名前も知らないあの白い者を穢してしまっているようで、申し訳ない気持ちで一杯でした。 ───お前はその女の子が大好きで、きっと妻にしたいのだろう。 ゼクロムは王さまの言葉を思い出しました。 その時は、あまりその意味が判りませんでした。 レシラムの寝顔を眺めながら、もう一度その言葉を思い返してみました。 今なら、何となくその言葉の意味するところが判るような気がします。 そして、今夜はきっと眠れないだろうな、と熱っぽくなった体を持て余しながらゼクロムは考えるのでした。 カーテンのあちらとこちらで、手を繋ぎながら寝転がっている二匹の竜。 酒のもてなしを抜け出してきた王さまが、そんな二匹の様子を大広間の戸口から覗き見ていました。そして、小さく苦笑しながらまた宴席に戻って行ってしまいました。 ---- 翌朝、ぼんやりした頭で目覚めると、カーテンの前にゼクロムが独りきりでした。繋いでいた筈の手もいつの間にか離れています。 それでも、カーテンの向こうには気配がありました。レシラムと王さまが居るようです。 腹に痛みが無かったので、ゼクロムはぐるぐるに巻かれていた包帯を思い切って全部ほどきました。膚に張り付いていた葉っぱを取り去ってみると、深く抉れていた筈の腹の傷はすっかり塞がっていて、傷口すらも見あたりません。 これだけ回復したなら、堂々とレシラムに会うことができます。ゼクロムは顔や体が汚れていないか手で擦って確かめてから、おもむろにカーテンを上げて向こう側へ顔を出しました。 「おお、ゼクロム! 具合はどうだ」 王さまが真っ先に声をかけてくれます。けれど、ゼクロムはレシラムしか見ていませんでした。 レシラムは山積みになった木の実を前に、口の中をいっぱいにしてもぐもぐしていましたが、ゼクロムの姿を見るなりそれを無理矢理飲み込んだようでした。 「ゼクロム……」 レシラムが、ぽぅっとした表情でじっと見つめてくるので、なんだか自分までぽぅっとした気分になってしまいます。 「おいおい、朝っぱらからお熱いことだな」 王さまが笑いながらからかうので、レシラムは恥ずかしそうに翼で顔を隠して小さくなってしまいました。一方ゼクロムは苦虫を噛み潰したような顔でのしのしと歩み寄ってきました。そして無言で木の実を食べ始めます。 そんなゼクロムの様子を、レシラムが翼の間から覗き見ているのに気付いて、また王さまは笑いました。 「ほら、ゼクロム。レシラムに声をかけてやれ」 王さまの言葉は助け船のようでもあり、からかわれているようでもありました。それでもやはりレシラムに言うべき事はあったので、ゼクロムは口の中のものをすべて飲み込んでからレシラムに向き直りました。 「レシラム……ええと」 急に改まった感じのゼクロムの様子に、レシラムも背筋を伸ばして向き合いました。王さまは立会人のような気分で二匹を見守っています 「おまえのお陰で痛みは無くなった。ありがとう」 ゼクロムの言葉に、レシラムは恥ずかしげにはにかみながら嬉しそうに笑いました。 「すごいな、傷がすっかり消えてしまってる。触ってもいいか?」 レシラムは本当に感心した様子で、ゼクロムの腹をじっと見つめています。あまりそんなふうに見つめられるとまたどきどきしそうで内心焦りを感じましたが、ここで断っては却って不自然に思えて、ゼクロムは頷いてレシラムに腹を見せました。 レシラムの小さな手がそっとゼクロムの腹に触れます。確かめるように撫でさする動きがくすぐったくて、ゼクロムはもじもじと逃げ腰になってしまいました。 「痛くないか?」 レシラムはそんなゼクロムの反応に気付いているのかいないのか、遠慮がちながらも丹念に撫で続けています。その手の動きにとうとう耐えられなくなって、ゼクロムはレシラムの手を掴んで離させました。 「ちょ……もう、大丈夫だから」 はっきりと言葉にはしませんでしたが、ゼクロムの声の中に困惑した響きを敏感に感じ取って、レシラムはシュンとして手を引っ込めてしまいました。 「済まない……もう痛くもないのに触られたら嫌なのだな……」 そのまま離れてしまいそうな気配を察して、ゼクロムは慌ててレシラムの手を取りました。 「いや、痛い! まだ痛い。うん」 「ゼクロム?」 またゼクロムが嘘を言っているのがレシラムには判りました。けれどその嘘はレシラムにとって、とても嬉しいものでした。だから敢えてそれを糺そうとはせず、わざと騙されてしまおうと思いました。 「で、では、手を握っていてやる。痛くなくなるまで」 力を込めてレシラムが言います。ゼクロムも思わず力強く頷きます。 王さまは苦笑しながらも、嬉しそうな顔をしていました。とても優しい顔でした。 ---- それからレシラムはまた岩山のねぐらでの独り暮らしに戻りましたが、これまでのように引きこもるばかりではなく、少しずつ周りの動物たちと仲良くすることが出来るようになりました。そして時折平地に降り、王さまと一緒に出かけたり遊んだりするようになりました。人間がたくさん居るという王都へはまだ怖くて行けませんでしたが、ゼクロムがいろいろな話を聞かせてくれるので、それで十分でした。 時折王さまはゼクロムだけを連れて魔物を追い払いに行っていましたが、あの日を境に無闇に斬り伏せるようなことは無くなったと聞いてレシラムも安心して任せることが出来ました。 それから何十年も経ち、この国の周りには、もう魔物が出ることも無くなりました。けれど近頃王さまは随分動きが辛くなってきたようで、レシラムともあまり遊んでくれなくなりました。先日ゼクロムが訪ねてきて、王さまが馬から落ちて酷い怪我をしたと聞かされましたが、レシラムには遠くから回復を祈ることしか出来ませんでした。心配で心配でたまらないのですが、王さまを訪ねて行って元気づけてあげるだけの勇気が無かったのです。 その夜、レシラムは夢を見ました。 王さまがすっかり元気になって、レシラムを連れて一緒に森へ散歩に出かける夢でした。王さまはレシラムにおいしい木の実の見つけ方などいろいろ教えてくれました。 初めて会った頃のように、たくさん頭を撫でてくれました。レシラムは嬉しくて王さまに何度も頬擦りしました。 元気になった王さまと、またこうしていっぱい遊びたいと思いました。 けれど、王さまは寂しそうに笑いました。 「済まない、レシラム。もうお別れだ」 撫でてくれる手が、だんだん薄くなっていきます。 レシラムは消えていく王さまを呆然と見つめています。 「王さま……?」 王さまは、微かに残った手の先で、もう一度レシラムの頭を撫でてくれました。 それが、最後でした。 「王さま、王さま!」 レシラムはぽろぽろ涙を流しながら王さまを探しました。木の陰や草むらの中に王さまが隠れているのではないかと思って必死に探しました。でも王さまはどこにも居ませんでした。 レシラムは声を上げて泣きました。子供のようにわんわん泣きました。 目覚めると、洞窟の外に大きな黒い者が立っていました。 レシラムが泣きながら飛び出していくと、何も言わずレシラムを抱きしめてくれました。 ゼクロムもまた、泣き顔でした。 それから二匹は連れ立って、王都まで飛びました。 レシラムが初めて見た王都は、白い建物が日に映えるとても美しい街でした。けれどそれに影を差すように、黒い旗がいくつもいくつもたなびいていました。人々も皆黒い服を着ていました。 王宮の東西にそびえ立つ二つの塔のそれぞれに、レシラムとゼクロムが降り立ちました。 立派な王宮の奥の神殿に、たくさんの人が集まっていました。一段高いところに花で飾られた美しい大きな箱が安置されていて、あれが王さまの棺なのだとレシラムはすぐに判りました。 こんなふうになってしまう前に、あんな箱に入ってしまう前に、どうして会いに来なかったのだろうと後悔が押し寄せて来ます。あともう少し早く来ていたなら、一言だけでも言葉を交わすことができたかもしれないのに。 きっと王さまも会いたいと思っていてくれたに違いない、そう思うと悲しみと悔いで胸がいっぱいになりました。 嘆く心のまま、レシラムは天に向かって鳴きました。 ゼクロムも同じように鳴きました。 二匹の声は高く低く、歌のように折り重なって、白い王都に響き渡ります。 白と黒の大いなる竜が王の死を悼んでいるのだと人々は思い、その声を聞きながらまた悲しみに暮れるのでした。 ---- 王さまが亡くなってから、レシラムはまた引き篭もりがちになってしまいました。そんなレシラムを心配して、ゼクロムは王都を離れ、岩山の洞窟に寝泊まりするようになりました。 すっかり塞ぎ込んでしまったレシラムは、ゼクロムが木の実を持ってきてもほとんど口をつけません。このままひょっとしたらまたあの石ころのような姿に戻ってしまうのではないかという危惧さえ感じて、ゼクロムは途方に暮れながら、何とかレシラムの心に力を与えてあげたいといろいろなことをしてみました。 珍しい甘い木の実を採ってきたり、美しい声で鳴く鳥を連れてきたり、面白い話を聞かせてみたり。 そんな中、一番レシラムが応じてくれたのは、甘いものでも美しい歌でもなく、ゼクロムの手のぬくもりでした。 ゼクロムが手を握ってやると、レシラムは少しだけ食べ物を口にしてくれました。言葉も話してくれました。 握った手から、レシラムの悲しみがゼクロムにも伝わってきます。こうやって手を繋いで、少しでもレシラムの悲しみを吸い取ってあげたいとゼクロムは思いました。 遠い日に、怪我をした自分の手をレシラム優しく握って、痛みを取り去ってくれたように。 このままふたりで手を握り合って、いつかまた混じり合って一つの石ころになってしまっても良い───そんなことを、ふとゼクロムは考えました。 心の底から、レシラムをいとおしく思いました。 ---- 誰かが岩山を登って来る気配を感じて、ゼクロムはレシラムを連れて洞窟の外に出てみました。 大きな布袋を抱えたその人間の、日に焼けた精悍な姿。その出で立ちがレシラムの記憶の中から何かを思い出させました。 「王さま……っ」 掠れた悲鳴のような声で大好きだった人を呼び、レシラムは駆け出そうとしましたが、ゼクロムが引き留めました。 「……あ」 レシラムの声が落胆に沈みます。それは、レシラムが思い続けていた王さまではありませんでした。 「やあ、ゼクロム。ここに居たか」 近付いてきた人間は、親しげにゼクロムに話しかけました。そしてレシラムを見てにっこりと笑いかけます。その笑顔は、あの王さまにとても似ているとレシラムは思いました。 「初めまして、レシラム。父の葬儀の日に塔に来てくれたね。ありがとう」 そう言って人間は手を差し出します。 レシラムは戸惑って傍らのゼクロムに助けを求めるような視線を送りました。 「王さまの息子だ。新しい王さまだ」 「……あたらしい……?」 レシラムは辛そうに口をつぐみました。レシラムにとって王さまはあの人だけでした。それなのに人間は自分たちの王さまが亡くなったらすぐに代わりを立ててしまうのかと思うと、何だか悲しくなってしまったのです。 レシラムのそんな気持ちを察したゼクロムは、レシラムの手をぎゅっと握ってやりました。 「国には統べる者が必要だ。王の努めに終わりは無いんだ。……俺も、最初は戸惑ったがな」 ゼクロムの言葉の最後の方は、独り言のように弱く掠れていました。 ゼクロムはもう何代も王さまの交代を見てきましたが、初めて仕えた王さまを失った時の事は今でも忘れることはできません。きっとレシラムも今同じような気持ちなのだろうと思うと、懐かしいような切ないような感慨が込み上げました。 「……?」 そのとき、ふとレシラムが顔を上げました。 ふもとへと続く岩の道を、青い目がじっと見つめています。ゼクロムもつられてそちらを注視します。新しい王さまは二匹から離れてそちらの方へ近付いていきました。 「父しゃまー」 岩の間からひょっこり姿を見せたのは、とても小さな人間でした。 レシラムはびっくりして目を丸くしてそれを見つめています。人間の子供を目の当たりにするのは初めてでした。 「おお、よく頑張ったな」 王さまは小さな子供を抱き上げます。そしてしばらくすると、もう一人別の人間───今度は小さくはありませんでしたが、王さまに比べて随分華奢で美しい人が登ってきました。 「俺の妻と子だ」 新しい王さまがレシラムに二人を紹介します。 王妃さまは子供を抱いて、レシラムに挨拶をしました。レシラムも呆然としたまま挨拶を返しました。 「れしらむ、れしらむっ」 王妃さまの腕から今にも飛び出しそうに、子供が身を乗り出してレシラムに触れようとします。 レシラムは子供に目が釘付けになっていました。その可愛い小さな生き物に、触ってみたくて仕方ありませんでした。 子供があまりに暴れるので、王妃さまは仕方なく子供を下に降ろしました。その途端に、子供はレシラム目がけて突進してきます。 もふっ、と子供がレシラムの腹に体当たりしました。そのまま柔らかな毛の中に潜り込むような勢いで、子供はレシラムに抱きついてきます。 レシラムはどきどきしながら、爪をたてないようにそおっと子供に触ってみました。子供はすぐにレシラムの腕に掴まってきました。レシラムはそのまま子供を抱き上げ、ぎゅっと胸に抱きしめてみました。 小さくて軽くて柔らかな体。何の躊躇いもなく抱きついてくるその無邪気さが、とても可愛く思えました。 塞ぎ込んでいた気持ちに、日が差すような思いがしました。 レシラムはすっかり子供と仲良くなって、楽しそうに遊んでいます。レシラムのそんな明るい顔は、本当に久し振りでした。 ほっと安心したゼクロムは、王さまに向き合い、じっと目を合わせました。 王さまも和やかな表情を収めて、真剣な面持ちでゼクロムを見つめ返しました。 無言のまま、ふたりの間で、意識のやりとりがありました。 そしてしばらくして、ゼクロムは王さまにゆっくりと頭を下げました。緩やかな儀式のようなそれは、主従の誓いでした。 日が傾き書ける頃まで、王さまとゼクロムは話をしていました。 途中で子供が遊び疲れて眠ってしまったので、レシラムもふたりの側に寄って横で話を聞いていました。 本当は子供が寝付くまで抱いていたかったのですが、眠くなるとやはり母親が恋しいのかぐずぐず言い出してレシラムの手に負えなくなり、仕方なく子供を王妃さまの手に返したのでした。王妃さまの腕に抱かれ、乳のあたりを小さな手で触りながら眠りに落ちていく子供をじっと眺めて、もし自分にも子供がいたら、こんなふうにずっと抱いていたいな、とレシラムは思いました。 「まだ俺は父のようにはいかないだろうけど、父の志を継いでいくつもりだ。物も心も豊かな国になるように……どうか、手を貸して欲しい」 レシラムとゼクロムを前にして、そう語った王さまの目は、ひたむきで生き生きとした輝きが溢れていました。 そのまっすぐな情熱は、あの王さまの面影そのままで、レシラムは胸が締めつけられるような切なさを感じました。 王さまたち三人は、夕焼けの頃ようやく岩山を降りていきました。それを見送ったレシラムとゼクロムはそのままごつごつした岩の端に並んで座り、今日の余韻に浸るかのようにぼんやりとしながら夜の訪れを眺めていました。 「お前は、あの新しい王さまのところへ行くのか?」 ぽつりと呟いたレシラムを振り返り、ゼクロムは頷きました。 「ああ、でも今すぐじゃない」 「いつ?」 問いの中に寂しげな響きを感じ取って、ゼクロムはレシラムの手をそっと握ってやりました。 「お前が元気になったら」 レシラムはゼクロムの言葉にしばらく答えませんでした。いろいろな思いがレシラムの心を巡っているのが、繋いだ手から伝わってきます。 ずっとこのまましょんぼりしていれば、ゼクロムはここに居てくれる。でも─── 「なら、早く元気にならなくては、な……」 レシラムの言葉が、自分の心を偽って告げられたものだとゼクロムはすぐに気付きました。そしてその健気さが愛しくて、抱きしめたいような衝動に駆られました。けれどゼクロムは、そうする代わりに、レシラムの手をぎゅっと握りました。 「あの新しい王さまは、きっと立派に亡き父君の志を継ぐだろう。だからお前も……努めを果たせ」 「レシラム……」 「人の命は儚いものだが、志というのは父から子へと受け継がれ、決して儚くはない……こんなふうに受け継がれてきた壮大なものを、お前は見守りたいのだろう?」 淀みなく問うようなレシラムのその言葉は、ゼクロムの胸の内をはっきりと見抜いていましたが、それだけがゼクロムの思いのすべてではありませんでした。胸の中にわだかまるもう一つの心。レシラムと離れがたいその心をどうやって伝えればいいのか、ゼクロムには判りませんでした。 ゼクロムが複雑な思いに葛藤する横で、レシラムは遠く東の空に昇る大きな月を、まっすぐに見つめていました。 「いつも前を向いて進んでいける、お前のその強さが好きだ。だからお前はお前の道を行け」 それは、ゼクロムを高い志の道へと進ませようとする、レシラムの精一杯の励ましでした。精一杯の強がりでした。 本当はここにいて欲しい。手を握っていて欲しい。けれどそれでは彼のためにはならない、ゼクロムが大切だから、自分は我慢しなければならないのだとレシラムは自分に言い聞かせたのでした。こぼれそうになる涙をレシラムはじっと我慢していました。 「レシラム……っ」 苦しげなゼクロムの声が聞こえたと同時に、レシラムはゼクロムの腕の中に居ました。 ゼクロムは、とうとう自分を抑える術を手放してしまいました。 「ゼク……」 痛いほどの力で掻き抱きながら、ゼクロムはどうしても自分の理想とは矛盾する思いを止めることができませんでした。 「俺は……いつもまっすぐな心で癒してくれるお前の優しさが好きだ。ありのままを受け入れる強さも、寂しがりで甘えんぼうなところも、ドジで泣き虫なところも全部好きだ。お前が好きだ。だから……だから、俺の側に居て欲しい」 途中から、ゼクロムは自分で何を言っているのか判らなくなっていました。伝えたいことがたくさんありすぎて、どんな順番で伝えたらいいのかも、もう判らなくなってしまっていました。 「ゼクロム……でも」 「ずっとお前が好きだった。初めて会ったときから」 遠い遠い過去。 神さまに捨てられた哀しさ寂しさがまだ胸に刺さったままの中、初めてまみえることができた「対」の存在。 心惹かれない筈はありませんでした。生まれたときからふたりでひとつのかたまりだったのですから。 「ゼクロム……」 初めて会った時から好きだった───それは、レシラムも同じでした。側に居て欲しい、側に居たい、その思いも同じでした。 彼と一緒に未来を見たい。受け継がれる志というものを、自分も祝福したい。 今、レシラムは新しい世界へ、彼の居るところへと踏み出したいと、強く願いました。 レシラムの翼が、ゼクロムを抱き包みます。 「連れて行ってくれるか、私も……」 腕の中で遠慮がちに問うレシラムを、ゼクロムは手放すつもりはありませんでした。 「ああ、一緒に来てくれ。共に……共に生きよう。ずっと」 ───お前はその女の子が大好きで、きっと妻にしたいのだろう。 かつての王さまの言葉の意味が、はっきりと判りました。 「いつか俺の志を継ぐ者が必要になったら、俺の子を産んでくれ」 脈々と受け継がれる王の志のように。 もしも子にすべてを託すことがあるのなら、それはレシラムとの子であってほしい。そんなゼクロムの願いを、レシラムはすべて受け止めてくれました。 「そうだな……私も、おまえの子供が欲しい」 ふわりと笑ったレシラムの顔は、今まで見た中で一番幸せそうでした。 その夜、ゼクロムはレシラムを妻にしました。 ---- それから、王都には白と黒の大いなる竜が護り主として住み着くようになりました。 竜たちは歴代の王さまを支え、王さまたちが志した豊かな国への道のりを、ともに歩みました。 レシラムとゼクロムはいつも一緒にいて、深い信頼で結ばれていました。 この幸せが、ずっと続くと信じて疑いませんでした。 やがて来る悲しい別れを、このときはまだ、誰も知りませんでした───