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辛抱する木に金はなる の履歴(No.4)


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※※※ポケダン風ながら独自設定が多々あります
※※※※(第十四回仮面小説大会にはエントリーできませんでした……)

辛抱する(かね)はなる 作:群々

目次


プロローグ「これを貯めたが1000日目!」



 「睡眠15分前に1回2錠服用すること」
 処方箋にはそう書かれていた。
 小瓶から取り出した2粒の錠剤を、木製の小卓の上に丁寧に並べ、俺は長いことその錠剤を眺めていた。早く飲めばいいものを……と自分でも思ってはいるのだが、ひどく疲れている時にひとっ風呂浴びたり溜まった食器を洗ったりするのが億劫なように、俺はこれを服用するのが面倒でたまらないでいる。
 もちろん、それを飲まなければならない理由があるから、睡眠薬を処方してもらっているのだ。諸々の理由で、俺はひどい不眠症を煩い、ついには薬の助けを借りなければならないまでになってしまった。現在の職場で働き始めてから、もう3度目のハロウィンが来ようとしている……
 夜はすっかり更けている……窓の外では、ゴーストやらムウマやらが我が物顔で世界を闊歩しているころだ。同じゴーストの第6感とでもいうやつが同士の存在を察知し、そのせいで頭の辺りがズキズキと刺激されるのが、また眠りを阻害してくるのだ。ああいう自由奔放な連中と違って、俺は朝になったらまた働かなくちゃならない。だから、どちらにせよ無理にでも眠らないといけない。
 したがって、俺はこのキノコのほうしを独自にブレンドしたとっておきの睡眠薬を口に含まなければならないのだ……かかりつけのスリーパー医師(いかにも眠りの専門家然としている)によれば、パラセクトとキノガッサとリククラゲの良質な胞子を彼独自の理論で配合した特製薬という。曰く、一口にキノコのほうしと言っても、その三匹のキノコのほうしは微妙に効用が異なっているという話で、それからパラセクトとキノガッサとモロバレルとマシェードとリククラゲの胞子が具体的にどう違うのかを、診療室では延々と聞かされた。スリーパー医師はどうも社会的に何らかの鬱憤を抱えているらしく、その類の連中には往々としてあるように、持論の開陳はやがて同業者への、そして何らかの権威に対する当てこすりへと変わっていったのだが、俺にとってはそんなことより問題なのはオニシズクモの水泡のようにねっとりと俺に付きまとっている、このどうしようもない不眠なのだ。
 厄介なことに、ゴーストポケモンという眠りとは無縁そうな俺のようなゴースト——申し遅れたが俺はオーロットである——でも、適切な時間を眠らなければろくに疲れを取ることができないときている。寝不足に陥ると、目元にぽっかりと開いた洞に灯る俺の一つ目の周りに隈ができる代わりに、輪郭がひどくぼやけて、色味もくすむので、まるでいい加減な水彩画のような塩梅になってしまう。それを見て同僚のブロロローム——後で話すが、非常に鬱陶しい——がすかさず、
「どうしたどうしたぁオーロット君! これはもしや……“寝不足”かあ?!」
 とか、心配しているのか揶揄っているのかわからないようなことを言ってくるし、
「タイヘン!! タイヘン!!」
 とガヤるミミズズもセットになる。わかりやすすぎる奴らの反応がもう目に見えて早くもうんざりしてくる。だから、せめて、俺はスリーパー医師がその芳しくない人生における唯一のレゾンデートルたるこの睡眠薬を飲んで、この夜を凌がなければいけないわけだった。
 この医師を勧めてくれたのは同僚である(さっきの馬鹿阿呆どもではない)。あまりにも死にそうな顔をしている俺を気遣って、効く薬というものを探してくれたらしい。心配してくれているというのは素直にありがたい。そうなのだから、とっとと飲んで眠れという話なのだが……
 そのくせ眠りたくもない俺もいる。
 というのも、唐突な話で困惑されるかもしれないのだが、俺は眠りにつくと必ずニンゲンの夢を見るのだ。
 ニンゲン。
 かつて、俺たちが住んでいる世界に暮らしていたという存在である。ニンゲンは、俺たち「ポケモン」と呼ばれる生き物が繁栄するずっと昔に存在していた種である。諸説あるが、少なくとも2000年前まではこの世界で暮らしていたのではないか、と「考古学者」の連中は考えている。
 「考古学者」というのは、この世界のあちこちに眠っているニンゲンの遺跡を調査し、その歴史を研究している者たちのことだ。そして彼らの調査にたびたび同行するのがご存じの通り「探検家」。遺跡への道中にはたびたび危険が伴うことから、「考古学者」はそうした危険地帯に精通した「探検家」と共に調査に向かうのがこの世界の通例である(中には両者を兼ねる存在もいるが、例外的だ)
 そんな連中が大勢いるのは、かつてこの世界にはニンゲンという存在がいたということが広く知れ渡ってからだ。この世界には非常に多くの遺跡やら文献やらニンゲンの痕跡が遺されていることが明らかになった。以来、数えきれない探検家と考古学者たちが手を組んで、危険を冒しながらそれを見つけ出し、研究調査を重ねているというわけだ。
 このことを世間では「ニンゲン・ルネサンス」と言っている。どんな教科書にも必ず太字で書かれている用語であり、それ以前と以後では、ポケモンたちの暮らしはバチュルとホエルオーくらいの差があるのだった。
 さっきハロウィンがどうのこうのと言った。そいつは10月の末日になると幼いポケモンたちが扮装をして大人たちからお菓子をくすねる行事なのだが、これも考古学者による発見の一例だ。十数年前にとある考古学者がそんな風習があったということを突き止めて以来、祝祭する理由を渇望しているポケモンどものあいだで急速に広まったのである。こういう例一つだけでも、彼らがどれだけ我々の日常に影響を及ぼしているかわかるだろう。
 俺が見る夢の話に戻ろう。
 その夢というのは……何といえばいいか、常に生々しい感触と居心地の悪さを感じさせるもので、その気味悪さはワンパチの尻にいつのまにかひっついているバチュルのように、ずっとつきまとうのだ。
 ある時は、どこか戦場と思しき場所にいる。俺はどうやらニンゲンのようであり、サダイジャの砂袋のような模様をした軍服を着、頭にはヘルメット、腕で細長い銃を抱きしめながら、窪んだ地形にじっと身を潜めている……頭上では絶え間なく銃声が轟いており、そいつはいつまで経っても止むどころか、激しい耳鳴りのようにますます大きくなっていた。辺りを見回せば、同じような姿をしたニンゲンたちが無数にいて、ある者は撃ち殺され、辛うじて生きている者も体中から夥しい血を流しながら大声で助けを求めていた……ニンゲンの言葉であるはずなのに、それが何を意味しているのか、夢の中の俺はわかった。「母親」だった……
 また、ある時は燃え盛る火炎に取り囲まれていた。今度の俺は身軽なシャツとズボン姿で、命からがら逃げ出してきたらしい。背後には瓦礫の山。ついさっきまで俺がそこにいたらしい場所は、何かの砲撃を受けてバラバラに倒壊していた。道端には倒れて動かないニンゲンの姿があって、周囲には夥しい血の跡が残っている。ついさっきまで生きていたと思しきニンゲンもあちこちに倒れていた。上空には、何やらいくつもの大きな機械——「戦闘機」と呼ばれているものだろう——が飛び回り、けたたましい飛行音に聴覚がやられそうになる。呆然としているうちに、火の手が少しずつ迫ってくる。けれども、逃げ場はどこにもなくなっている。狭い路地は瓦礫や何やらで塞がれ、しかも火が燃え移ってさながら炎の壁のようになっていた。俺は絶望することすら忘れて、ただその場に立ち尽くしている……と、まあ、このような夢を、俺は眠った夜の数だけ話して聞かせることもできるだろうが、そんなことをしても退屈だろうから、ここで止しておく。
 そういう夢を見ることは往々にしてあることだとは、かのスリーパー医師の言である。特にゴーストタイプの連中には傾向として比較的多く見られますね、とも付け加えた。これはあくまでも仮説に過ぎないが、ある種のポケモンにはニンゲンと共存していた古代の記憶や感覚というものが無意識下において保存されていて、それが夢というかたちで、頭隠して尻隠さず式に砂浜から飛び出しているカブトプスの尾剣のように、思いがけないかたちで表出するのではないか、という理屈である。
 あるいは——と、スリーパー医師は気の浮かない様子で付け加えた——ムシャーナどものようなオカルト主義者からすれば、俺は格好の研究対象になるかもしれないとも言った。ニンゲン時代の伝承によれば、進化前のボクレーはニンゲンの子どもの彷徨える魂が転生したものと言われる。その理屈から言えば、オーロットである俺の魂には最初からニンゲンそのものの記憶が内蔵されているのだから、そのような夢を見ても当然というわけだ。しかし、私は夢分析の専門家ではない。そんなものはムシャーナどもの非科学的仕事だからな。あくまでも私は眠りそのものに関する科学的な(ここに医師は強いアクセントを置いた)専門家なのだ……(と言って、その話は打ち切られた)。
 眠りたいけれども、眠りたくない。曖昧でどっちつかずで、したがって何にもならない思考を弄びながら、俺は何年費やしてきたんだろう?……いや、そんなこと考えていては駄目だ。余計に気分が落ち込むし、悪いことにしかならない。
 顔と胴の裂け目にある口と一応は呼べる部位にやっと錠剤を放り投げ、水を入れたコップを手に取り、俺の樹体を支える脊髄のような芯状のソウルに水をかけるようにして飲んだ。ため息を吐きながらコップを元の位置に戻すと、その脇に置いてある宝箱の形をした貯金箱に目を留める。
 こいつは3年ほど前、タウンの雑貨屋で買ってきたやつだ。店の片隅に放り捨てられたように置かれていたので、一見売り物には見えなかったのだが、なぜだか俺はそいつを見た瞬間に心を捉えられた。貯金なんてちっとも考えたこともなかったのに、これでお金を貯めようなどと我ながら謎めいた決心をして購入してしまったのだった。
 俺自身、意外なことだったが、それから今日まで1日たりとも貯金を怠ったことがない。どんなに疲れていても、部屋に帰ってくると必ず1枚、貯金箱に入れているのだ。誰しも不思議と忘れない習慣というのがあるものと思うのだが、俺の場合はこれだった。どんな夜であったとしても、必ずどこかで俺は貯金箱のことを思いだし、持ち合わせから1枚のコインを貯金していたのだ。
 試しに片手で掴んでみるとずっしりとした重みを感じる。いくらくらい貯まっているか、俺はぼんやりと頭を働かせてみる。これを買ってきた時から数えれば、そろそろコイン1000枚くらいにはなっていてもおかしくないんじゃないか。だとしたら、少し仕事を休んでどこかでゆっくり過ごすには十分な額になっているか。
 何か美味いもんでも買うか? それとも南の島にでも? それとも……ぼんやりと空想を巡らせているうち、ようやっと欠伸が込み上げてきた。パラセクトとキノガッサとリククラゲ、どいつのキノコのほうしかは知らないが、ともかく薬の効果が出始めたようである。
 ベッドに潜り込んで目を瞑ると、こわばっていた頭の力が抜けて、ゆっくりと枕とマットレスに樹体が沈み込んでいく。そうしつつも俺はただ朝を待っているようなのだが、ぼんやりとした思考に、またニンゲンのひどい夢を見させられるんだろうな、という懸念と諦念が鬱陶しい広告のように割り込んできた。



 申し訳程度に口元に巻いたクリムガン色のネッカチーフを弄りながら6本の根をもぞもぞと動かして職場への道を急ぐ。
 目覚めは最悪とまでは言わないが、最悪でないだけマシという程度だ。疲れは取れたようで取れていない。冬が近づきつつある冷え冷えとした朝の風は、樹木に魂を宿らせた俺にとってはいっそう辛い。うららかな春とかうだるような夏の方が、まだ生気を保つことができる。
 昨晩——といっても数時間前のことだが——はこんな夢を見た。やはり俺はニンゲンであり、真っ暗な闇の中にうずくまっている。周りには俺と同じようにうずくまっているニンゲンが大勢いた。驚くべきことには、一人いるだけでも息苦しいと思えるようなスペースにざっと100人くらいはいるのではないかというほどに密集している。手足を動かそうとしたが、どちらも鉄鎖で繋がれていた。まったく身動きの取れない俺は、外側から聞こえる激しい波の音を聞いている。どうやら俺たちは船の中にいて、どこかへ運ばれているらしい。薄暗い闇の中に、ニンゲンの白い目だけが光っていた。波と波のぶつかり合う音、突き上げられるような激しい揺れ、淀みきった空気には混じる耐え難い臭気……そこでは、その単調な繰り返しが、永遠に続くように思われた。
 うつらうつらしているうちに、いつの間にやら意識は現実に移っていた。一応、眠れたことは眠れたのだろうが、気怠さはほとんど抜けていない。安眠できそうなところに、悪夢じみた夢ばかりを見せられるのだから処置なしだった。
 石や木材や鉄骨を抱えたワンリキー種やドッコラー種の長い列にぶつかった。まるで何かのパレードのように、我が物顔に通りの中心を闊歩するのを、俺を含めた通行人たちは通りの端からどこか恍惚とした顔つきで見つめている。
 タウン。
 今は誰しもにそう呼ばれているこの土地は、かつてはとある探検隊ギルドの本部を取り囲む小さな集落に過ぎなかったそうだが、「ニンゲン」の遺産が次々と発見されるようになって以来、電光石火の勢いで発展を遂げていった。歴史あるギルドの建物を中心にして、同心円状に次から次へと目新しい建造物が形作られていった。
 せいぜい自分らの種族の外見を模した掘立て小屋とか木や石で簡単な作りの家を作るのがやっとだったポケモンたちは、ニンゲンの遺産を通じて次々とその様式を自家薬籠中のものとしていった。ニンゲンの技術を真似るうちに不思議な発見もあった。初めて見るはずの「ビルヂング」とか「マンション」という様式は、なぜだかポケモンたちにとって馴染み深いものであったし、あたかも失われた故郷に戻ってきたという感慨を抱く連中も少なからずいたのである。ニンゲン時代に彼ら彼女らと共生していたポケモンたちの深層記憶が呼び覚まされたのだ、と考える者もいた。 
 タウンの建築ラッシュは永遠に続くように思えた……建物が一つできれば、そこに住む連中が現れ、そこに出入りする連中も、その周辺にたむろする連中も現れる。そしてその隣にまた新しい建物や広場が作られ、どこからともなくまた新たな連中が流入し……タウンというのは、カビゴンの食欲にも等しい貪欲ぶりなのだ。
 とりわけ、タウンの建築で目を引くのは文字通りの中心点となっているギルド本部の建築だろう……地頭のいい連中が「ニンゲン」から取り入れたありとあらゆる建築技術を試す実験場と化した建築のユニークさについてここで詳述すると長くなるし、俺だってそこまで詳しく語れる自信がないから省略するが、その横幅はかのホウオウが翼を広げたかのようであり、本当に必要なのかと思えるくらいにつけられたいくつもの尖塔は、さしずめそのきらびやかな冠羽とでも言える……その上、建物の機能としては必要のなさそうなディテールが満載で、なんでも中央部の最も大きな尖塔には全てのポケモンたちの彫像があしらわれる予定と聞いた。ここのギルドのリーダーは、何か世界の全てを表現しないと気が済まない性癖でも持っているらしい。おかげでギルド本部の工事は、俺が生まれる以前から延々と続いている。
 こういうタウンの成り立ちを、俺はまだボクレーだったころに故郷で世話になったカメックスの爺さんから何度も聞かされたものだ。つまるところ、これだけの変化が、爺さんがゼニガメからカメックスに進化するまでのあいだに起こったってことなのだ。
 ああした建築資材を供給するために、探検隊や調査団の需要も跳ね上がっていた。今では大小のギルドがタウンには満ち満ちており、未開地の探検調査や遺構調査代行から、古式ゆかしいお尋ね者の大捕物やら迷子探しまで、年がら年中何かしらの仕事を受け持っている。ピンからキリまでいるこういう連中向けのビジネスがいくつも生まれるのも当然の成り行きである。というのも、俺がそのギギギアルの一部となっている仕事についても同じことが言えるからだ。
 とはいえ、俺はタウンの歴史について一から十まで詳述するつもりはさらさらない。脇道から逸れたことを仔細に渡って喋り散らかすのは、老人か無能な営業部の連中——俺はまもなくそいつらの騒音の悩まされることになるだろう——のどちらかだ。俺には俺の仕事があった。
 かくとう連中の行列がやっとまばらになったのを掻い潜って、俺は職場への道を急いだ。



「おやぁ?」
 俺の左側からねっとりとした鬱陶しい声が聞こえる。
「どうしたんだいオーロットくん!」
 俺はシカトするが、そんなことお構いなしだ。
「相変わらず死んだコイキングよりも死んだ酷い目をしてるじゃないか!……悩みがあったらいつでも相談していいんだぞ? だぞ!」
「……ちょっとうるさいんで静かにしてもらえるか」
「けど、この俺の眼は曇りないから間違えない! オーロットくん、イヤなことがあったんだろう。わかる! わかるよ!……」
 ブロロローム、という相手の名を呼ぶ代わりに俺はこいつのことをじっと睨みつける。できる限り、ベトベターやダストダスを見るような目つきで。
「別に、何でも、ない」
 句点までわかるようにはっきりと言ってやっても、ブロロローム(いちいち言うのがめんどくさい名前だ)は変に陽気な態度を崩さない。
「本当かあ?!」
 俺は心を無にして、ブロロロームの騒ぐのを聞き流しながら、目の前の仕事に集中する。右手でペンを握るというよりは掴み、我ながらすっかり手慣れた動作で書類の上にさらさらと文字を走らせていく。
 「お得()掲示板」社。それが我が職場である。ああ、「お得()掲示板」社とは全く関係ない。
 「ニンゲン・ルネサンス」以来、探検隊の需要が爆発的に増したことは周知の通りだが、そういう奴らが増えるということは、当然ながら彼ら向けのビジネスの諸々も発達することになる。単純なところでいえば、探検家の拠点を提供する不動産、奴らへの依頼を仲介する業者(あるいはその下請け、下請けの下請け……)であり、探検に必要な道具を売買する店(タウンの中心部に構えるカクレオン商店本店などギルド本部に負けず劣らぬの巨大さだ)、宿泊施設、不慮の事態に遭遇したために諸々の保険を提供する業者……それに、誰も表立って口にはしないが、どうしようもない性の捌け口を提供する風俗だとか。
 我が「お得の掲示板」社は、こうした探検家や考古学者向けのサービスや施設に関する情報紙を毎週発行している。西の大陸ならここの宿を拠点にするとこうこうこう言うサービスや特典があってお得ですよ〜、だとか、大陸間を横断するラプラス便を待つ合間に暇を潰すのにちょうどいい酒場はコレだあ! とか、とにかく探検家の連中が興味を持ちそうなものをなんでも紙面で紹介する。それで、そいつをあちこちのギルドとか探検家が集う店なんかに置いてもらう。
 俺はここの編集部に所属して、その「お得の掲示板」なるものに載せる記事を受け持っている。縁あってこの仕事に就いてから3年ほどになるが、仕事自体はだいぶ慣れた。楽しくか楽しくないかで言えば、楽しくないわけではない、といったところ。給与は低くもなければ高くもない。人手が少なく、俺にかかる負担が大きいことを除けば、特に不満は持っていない。
 真面目に仕事をしているとまでは言い切れなかったが、職場ではそれなりに働きぶりを評価されているようだった。編集長のジジーロンは、一心不乱にデスクに向かっている俺のそばを通りがかるたびに、何やら心配そうな視線を向ける。もともとお節介がちな種族であるせいなんだろうが、変に気を遣われても困る。努めて俺は目をニッコリとさせてご心配には及ばないと繰り返している。
「ああっ! また弊ラッ社の広告断られちゃっ……たああああああああああ!」
「タイヘン! タイヘン!」
 ブロロロームとミミズズのバカどものバカ騒ぎが俺のところにまで聞こえてくる。営業部、という部署名が真実であるならば、奴らは「お得の掲示板」の設置や紙面への出稿を受け持ったりしている、はずで、ある。とはいえ、こいつらがまともに仕事しているのを俺は見たことないが。このあいだ、ホクホク顔でブロロロームが持ってきた広告がろくでもない風俗だった時はウッドホーンを食らわせたくなった。
 とかく、この仕事をまともにしないバカどものおかげで、必然的に俺は営業までしないといけなくなる。それが、目下最大の不満である……
「校了2日前なのに、これじゃどうしようもできねえワラワラワラ! 終わったワラワラワラ!」
「カイシャツブレルゥ! ツブレルゥ! イクイクイク!……」
 ブロロロームのしゃかりきなエンジン音も、ミミズズの三対の奇妙な腕(じゃなくて、体毛か。正直どっちでもいい)がかちゃかちゃ鳴るのも、耳障りである。
 こんな連中に真っ当な業務を求めることは、サイホーンに掛け算を教えることよりも難しいのではないか(なんてことを言ったらサイホーンに失礼だが……)。とはいえ、ポケモンたちが従事しているビジネスの体系というのも、恐らくはニンゲンたちのそれを模しているのに過ぎず、それもメタモンのへんしんにも及ばぬ猿真似だから、こんなことになるのもごく自然の成り行きなのだろう……そう考えることにして、俺はさしあたって現状から目を逸らすことにする。
 オフィスの最奥にあるジジーロン編集長のデスクは雲がかっている。これも校了間際になると恒例のことで、普段は穏やかな編集長が、神秘のきりを身にまとわせてだんまりを決め込むようになる。朧げな霧の中から一対のほの赤い点がぎらりと光っている。
「うっす、お疲れ様です、先輩」
 そんな編集長を尻目に、後輩のギルガルドが畏まったシールドフォルムで俺に話しかけてくる。後輩、と言っても入社は俺とさして変わらないし、経験という意味で言えばこいつの方がだいぶ上だ。だから、先輩と言いつつも、ギルガルドはくだけた口調で俺に話しかけてくる。
「今日も眠そうですけど、大丈夫ですか? あの薬、ちゃんと飲んでるんです?」
「まあ、なんとかな」
 例のスリーパー医師を紹介してくれたのも、この後輩である。付き合いはそれほど長くはないが、何かと気を利かせてくれるので、数少ない職場の良心だ。
「先輩が倒れると、うち色々まずいんですから、ほんとカラダには気をつけてくださいよー」
 ギルガルドはなおも大騒ぎをするバカ二匹を見遣り、見なかった振りをするかのようにすぐ視線を戻した。
「相変わらず、やかましいですね」
「まったくだ」
「でも、まあ、静かすぎるよりはいいんじゃないか、とも思いますけどね。うち、人少ないし、なんだかんだ、あれ見てると笑えますし……あ、霧吹き、使います?」
「おっ、センキュ」
 ギルガルドがひらひらとした腕に隠し持っていた霧吹きを受け取ると、早速頭の葉に吹きかけた。潤いを得た葉がぴんと元気よくそそり立つのを、俺は葉脈に流れる神経から感じ取る。
 霧吹きはニンゲンの遺物のなかでも屈指の発明である、と個人的に思っている。ニンゲンの——おそらくは俺よりずっと小さい——手に合うように作られているから、扱いに少し慣れが必要なのが玉に瑕だが、最低限の水で、無駄に濡れることもなく頭を水分で湿らせることができるというのは、一応樹木の身である俺にとっては何よりも重要でありがたいことなのである。
「後ろ、やりましょっか?」
「頼む」
 霧吹きを渡すと、ギルガルドは帯のような腕を器用に使いながら俺の枝では届かないうなじの葉に水を吹きかけてくれる。別に頼んだりはしていないが、それ自体はとてもありがたい申し出である。不眠と目処のつかない仕事のストレスで憂鬱な気分が、これで少なからず晴れるというものだ。
「編集長、怒ってますねー」
 ギルガルドの言葉が、しゅっ、しゅっ、と水を噴く弾けるような爽やかな音のリズムに絡み合う。
「しょうがないだろ」
 霧の立つ方を見遣りながら、やれやれと両手をひらひらさせた。ジジーロンの姿がもはや視認できないほど、編集長のデスクは真っ白けになっていた。オフィスの湿度が高まって蒸し暑くなってきたので、ギルガルドは腕を如意棒のように伸ばして窓を開ける。
「明後日には校了紙を渡さないといけないのに、広告が半分も埋まってないんだから」
 俺は伸びをしながら答えた。
「今回も、やるしかなさそう……ですかね」
「だな……」
「楽しい楽しい電話攻勢のお時間がやって参りました」
 棒読みで独り言ち、しばらくしてから、ふう、とギルガルドは霧吹きを盾に持ち替えた。
「参りますね、マジ」
「本当だ」
 電話攻勢、とは文字通り電話で目星をつけた取引先に電話をかけ回ることである。あのバカどもが断られたところも含めて、俺とギルガルドが手分けして、懇切丁寧にご出稿をお願いするんである。どうせ、ブロロロームのバカもミミズズのど阿呆も、ふわっとしたことしか言っていないに違いない。相手方にはたぶん小社が何をして欲しいのかすらも伝わっていないことだろう。もしかしたら不審な電話と思われていたかもしれない。まあ、いつものことだ。
 というわけで、一息つき終わった我々は、棚から持ってきた連絡先のリストを二匹で半分こして、ノルマの広告数を確保できるまで電話をかけ続けることになる。
 余談ではあるが、世間一般的にはこの電話こそニンゲンの発見によってもたらされた最高の文明の利器と言える(俺にとっては断然霧吹きだが)。何せ、電話線を四方八方に巡らせて、電気を送るだけで、どんなところにでも連絡を入れることができるのだから。
 とかく電気に関して言えば、この世界では事足りないことなど何もない。これだけ肥え太ったタウンでも、電力はエレザードたった一匹でまかなえてしまうのだから。とある考古学者のつい最近の考察によれば、ニンゲンはこの電気を発生させる方法を巡る葛藤が衰退の遠因になったのではないかという。この点に関して言えば、俺たちの世界はだいぶ安泰のようである……。「お得な掲示板」社のようなビジネスが成り立つのも、ひとえにこの通信網のおかげだ。考古学者たちによるインターネットの解析が進めば、これよりも遥かに通信が速く、便利になるとかいう話だが、正直これでも十分という気もする。
「先輩、厳しそうだったら俺、多めにやっとくんで大丈夫ですよ? いい加減、電話攻勢も慣れましたし」
「いや、どうせいつものことだから……それに、薬もお前の勧めたやつを処方してもらってから、前よりはだいぶ楽になった」
「本当すかあ?」
 ギルガルドは俺の顔を覗き込む。柄のところについた薄紫色の目に浮かぶ白い瞳は、なんだか心を見透かしてくるようだ。
「何だ」
「いや、別に、何と言うこともないんですけど」
 いかにも何かを言いたげな素振りをしていたが、ギルガルドはそのまま向きを変え、盾で刃を隠した。
「とにかく、無理はしないでくださいよ……先輩」
 ギルガルドはその後の言葉を継がないまま、霧吹を丁寧に机の片隅に置いて、受話器を持つと、意を決したように数字の並んだボタンと電話帳を交互に見始める。まずは、馬鹿と阿呆がしくじった先方に連絡して、丁寧に事情を説明するところからだ……



 「お得の掲示板」社を退勤する頃には辺りはすっかり夜になっていた。校了日直前のてんてこまいの1日にしては、これでもまだ温情的な方ではあった。食事をするのも忘れるほどに——元々ゴーストだから、必ずしも食わなくてもいいとはいえ、なぜか味覚は存在するから食事自体はする、つくづく不思議なことだと思うが——仕事に明け暮れていたので、外がすっかり暗くなっていることも、まるで意識の埒外であった。
 あの業務執行妨害部の連中は、いても邪魔なだけなので早々にご帰宅願い、濃い霧をまとっているジジーロン編集長を尻目に、我々は懇切丁寧な口調で小紙への出稿をお願いし続けることをした。いつもお世話になっております、「お得の掲示板」社でございます……「お・と・く・の! け・い・じ・ば・ん・しゃ・です……へ? お世話になってない? いえいえ、ゆるく、ゆるく、お世話になっておりますから……ははは……このたびは少しお願いがありまして……はい……いつも弊社が出しております「お得の掲示板」のですね……はい……最新の号がまもなく校了になるんですが、実は広告枠に空きが出てしまいましてね……急なお願いで大変恐縮なんですが、×××××ポケ(広告料は企業秘密だ、一応)で結構でございますので、これもお付き合いですから、どうかご協力をいただけますと大変にありがたいのですが……はい……はい……
 どうにかこうにか、全体の8割ほどの出稿まで持ち込んだところで、流石に夜遅く電話をかけても迷惑がられるだけだからというのと、俺の顔がよほど怖いものだったのか、それとなくジジーロン編集長が止めに入ったために、戦いは翌日に持ち越されることになったのである。
 帰り際、ちゃんと薬飲んでくださいね、とギルガルドがウインクをした。まあ一つ目だから、瞬きしているのも同然なのだが。
「……あ」
 気がつけば、俺は石畳みの通りの上にぼんやりと立っていたんである。
 道中、考えにもならないことを頭で巡らせていた——いや、単に巡らせようとしていただけかもしれない——ので、どこをどう通ってここまで到達したのかも、記憶になかった。ただ、この場所が今朝出勤した時に、資材を抱えたワンリキーやドッコラーどもの大行列に遭遇した通りであることは確かだった。つまりは、俺はいつも来ては帰る道を夢遊病者的に歩いていただけなのだった。
 何を考えていたのか、夢のようにさっぱりと忘れてしまっていた。きっと、仕事のことだったのだろうが、それを思い出すことを無意識的に拒絶しているのか、俺は本当に思い出すことができなかった……こんな風にして、毎晩苦労して落ちた眠りで見せられる夢も、ど忘れできれば少しはQOL(この略語が「心身の健康や公私にわたる人間関係、経済的環境や住環境など、生活全般の充実度や満足度」を意味していることは、近年の考古学者たちによる大規模な調査で明らかになったことである)が上がるのだが。
 通りに整然と連なったレンガや石で造られた建物の向こうに、タウンの象徴たるギルド本部ビルが見えた。噴火してまもない火山のように、ねっとりとした岩石やマグマのような外装をまとったそのビルは、夜の灯を受けていっそう妖しい雰囲気をまとっており、ギルドの建築という以上に、もっと何かしら厳かなもの、例えば何か偉大なものを祀る霊廟を感じさせる。だとすれば、周辺を取り囲む建物たち偉大な者の墓所を守る副葬品といったところか。アリアドスが器用にも蜘蛛の巣の網目を広げていくように、その副葬品どもが増しましていくタウンのダイナミズムには、つくづくめまいがする……
 その街並みの間から、ズガドーンをずっと巨大にしたような、堅固な石造りの建築物があった。しまった、と思い俺は咄嗟に目を逸らした。だが、少し遅かったようだ。気分が少なからず沈んでいる時に、「大学」の建物は嫌味のように俺の目の前に現れる。
 何を言っているかわからないだろう。別にわからなくてもいいし、わからせたい気持ちもない。だが、時と場合に応じて、どうしても話さなければならないこともある。
 ……俺自身のことについて、簡単に話そう。
 といっても念押しするが、俺は別に偉大な探検家でも、これから偉大なことを成し遂げるであろう考古学者でも断じてないからには、さほど大したことなんかない。……
 ……
 …………
 ……………………
 まず、俺のニンゲンに対する関心はどこから来たのか。
 タウンの凄まじい発展ぶりを教えてくれたのはカメックスの爺さんだと、さっきどこかで言ったと思うが、それだけじゃなく、俺は爺さんからいろんな「文化的なこと・もの」を教えてもらったのだ。
 となると、結局は俺の生い立ちに軽く触れなければいけないのだが、まず俺には父親というものがいなかった。母親も……血が繋がっている、という意味でなら、いない。
 母はセキタンザンだったが、世間的な常識からしても血が繋がっているかどうかは甚だ怪しいものだった。後年発見されたニンゲンによる「卵グループ」に関する一連の研究を引用するまでもなく、母子の種族が一致することは誰しも経験から知っていた。ボクレーのころから、周囲が俺に対して注ぐ眼差しにどこかぎこちない、必要以上に憐れむような感じがあったことにも、早くから気づいていた。だからオーロットに進化する頃になって、母親に詳しい事情を打ち明けられた時も、さほど驚きもしなかった。
 この世界じゃ孤児なんてとてもありふれている。何せ、タウンから一歩でも外に出れば、そこはカオスの世界だ。例えば、ニンゲンの遺跡周辺は、時空間に原因不明の揺らぎが無数にあり、そいつをあるものは「不思議()ダンジョン」とか「不思議()ダンジョン」とか言ったりする(こんな細かな表記一つでも考古学者たちの間では二つの派閥に分かれて侃侃諤諤言っている……まあ我が社だって「お得の掲示板」である。本家本元の「お得な掲示板」ではない)のだが、腕に覚えのある探検家でもない限り、自由に探索することは無謀に近い。町外れのいわゆる「モダナイズ」されていないポケモンたちは、時空間の揺らぎが何らかの作用を及ぼすのか、極めて凶暴であり、丸腰で遭遇しようものなら命の保証なんてできなかった。
 そういう野蛮な連中に襲われて命を落とす者は少なくなかった。奴らの巣窟に足を踏み入れる探検家や考古学者たちはもちろん、ダンジョン周辺の小さな集落が奴らの襲撃を受けるなりして壊滅させられることも、決して珍しいことなんかじゃなかった。
 要するに、俺が元いたと思われる集落もそのような運命を辿ったようである。その頃の俺はまだタマゴの中だったが、幸いタマゴをかち割られることはなかった。それを哀れに思った誰かがタマゴを拾い、「育て屋」に預け、やがて今の母親がそれを引き取ったというわけだった。襲撃の記憶はない。あいにく、拾われた頃の俺はまだタマゴから生まれたばかりだったので、その時の記憶があろうはずがないのだが。
 波瀾万丈な生い立ちに思えるかもしれないが、わりかしよくある話だ。タウンを歩いてみて、すれ違う親子の組み合わせを調べてみれば、すぐにそのことがわかるだろう。「育て屋」にはタウンや集落の外で見つかったタマゴが今日も数えきれないほどに集まっているし、そんなタマゴを求める連中もひっきりなしなのだ。膨張を続けるタウンにあって、子どもやら人材はいくらあっても足りないくらいなのだ。
 つまらない身の上話を俺はしてしまっているようだ……単刀直入に話すのも、それはそれで面倒なことだ。
 カメックスの爺さんの話に戻ろう。爺さんとは、当然のことながら俺とは何の血縁的な繋がりはないし、母親ともない。ただ、一匹きりで子育てしている母親のことを心配していたのだろう、ふらっと家にやって来ては、すすんで家事を手伝ったり、母親が出かけている間に俺の面倒を見てくれたりした。
 俺にとっては、だからカメックスの爺さんは親父のようなもので、事情を飲み込めるほどに分別がついてからも、その意識はあまり変わらなかった。爺さんはむかしどこかの探検隊に所属していたらしく、よく昔の話をしてくれた。俺が爺さんから聞いた話はそれこそたくさんあるが、中でも俺の興味を惹いたのは、考古学者たちと一緒にニンゲンの遺跡を調査して回った時の話だ。爺さんの記憶は実に鮮明で、まるで昨日探検から戻ってきたばかりのように話すから、俺はすっかり夢中になって話に耳を傾けたものだ。
 カメックスの爺さんはよく、自分の蔵書を持ってきては読み聞かせをしてくれたものだった。それは調査の過程で拾ってきたものだったり、タウンにいくつかある古本屋でまとめ買いしてきたものだったり。とにかく、爺さんは何かしら本を持ってきては、一枚の紙にぎっしりと、俺には読めそうもない文字がぎっしり詰まった本を朗読した。幼いボクレーだった俺にはもちろん、爺さんの語り聞かせていることはほとんどわからない、のだが、俺はなんだかとてもワクワクして、少しも眠くなんてならなかったし、その不思議な文字列、言葉の思いがけない響きで、いくらでも楽しげな空想を膨らませることだってできた。
 一通り本を朗読し終わってから、カメックスの爺さんはいま読んだことが何だったのかを、噛み砕いて俺に説明した。それは「文学」のことであったり「音楽」のことだったり、そして「美術」のことだったりした。そして、俺がいま生きているよりも遥かに昔、ニンゲンというものがいて、奴らはそうした優れた「芸術」の数々をこの世に残した、ということを知ったのだ。俺はあの頃爺さんの話を聞くのが何よりも好きだった。いくらでも聞いていたかった。
 知識がついてくるにつれて、「考古学者」という存在に惹かれるようになったのもごく自然の成り行きだったと言えよう。カメックスの爺さんは探検家だったから、間接的にしか彼らのことを知らないと前置きしながらも、たくさんのことを教えてくれた。知らない、と言いつつもやけによく物事を知っているなと思って、何気なく突っ込んでみたことがある。すると、カメックスの爺さんは
「俺もな、むかしは『考古学者』になりたいと思った時期があるのさ」
 お前だけに言うけどな、と打ち明けた。
「ま、おつむが悪かったから、夢のまた夢だったけどな!」
 がははは! そう大口を開けて豪快に笑う爺さんの優しい表情は、ずっと俺の印象に刻まれている。
 かつて一度だけ爺さんの手引きでタウンへ連れていってもらったことがある。あれはちょうど「クリスマス」というイベントが行われている最中のことだった。この催しも考古学者たちの研究によって復元された、かつてのニンゲンたちに由来する文化だった。タウンのあちこちで、オドシシの橇を引かせたデリバードたちが、満足げな表情で子どもたちのプレゼントの入った箱を渡して回っていた。クリスマスが再発見されて以来、彼らは自分の忘れていた使命を思い出したかのようにいきいきとしていた……俺もそんなデリバードからプレゼントをもらった。何をもらったかはもう忘れてしまったものの、きらびやかなイルミネーションが至る所に巡らされたタウンの景色とともに、その思い出は俺のなかでずっとみずみずしい。
 成長するにつれ、タウンの誘惑に抗うことはできなくなっていった。もちろん、故郷に愛着がないわけじゃなかったが、カメックスの爺さんがその一部を話してくれたニンゲン時代の文化や遺物について、もっとたくさんのことを見聞きすることができるというなら、俺は何を投げ打ったって、たとい母親と喧嘩別れをしたって、村を出ていく覚悟を早くから決めていた。
 俺は、考古学者になりたかった。
 当然だが周囲には反対された。特に母を説得するのは至難のことだった。母もまた、かつては遠い別の集落にいたのを、ならず者の襲撃で追われるように転々として流れ着いてきた身だった。今では、母の気持ちもよくわかる。ずっと誰かと離れ離れになり続ける人生を送ってきた母からすれば、ようやく安住できた土地で得た誰よりも可愛い一匹息子である俺とまで別れるなんて考えられないことだった。
 けれど、カメックスの爺さんだけはただ黙って俺の背中を押してくれたんだ。だからこそ、あの時、俺は意志を貫き通すことができたんだと思う。爺さんも粘り強く母と話をしてくれたのもあって、母も最終的には折れてくれ、俺のことをタウンへ送り出してくれた。無茶を言ったことは承知している。俺がいた村は決して若いポケモンが多いわけではなかったし、ましてや森に近しいオーロットのような種族とあらば、親だけじゃなく、他の住民にとってもありがたい人材であることは明らかだった。だから、それについては、俺はひたすらに感謝することしかできなかった。
 ……じゃあ、なんで俺はいま考古学者とは微塵も関係がない「お得の掲示板」社でしこしこ働いているのか。
 簡単なことだ。結局、俺は考古学者になんてなれなかったからだ。
 探検家になるためにギルドで修行を積むように、考古学者を目指す者はタウンにある大学に入学する必要がある。それはカメックスの爺さんも言っていた。
 当然、俺はそうした大学を受験したけれども、ことごとく落ちた。筆記試験では、あまりにも多くのことを課された。それ自体は覚悟していたが、ニンゲンたちの世界に対する興味だけでは、到底補えないような知識がそこでは要求されていた。古本屋で買い求めたただでさえ古びた教科書を、まるで窯で焼成したかのようにくしゃくしゃになってしまうまで読み込み、ありとあらゆる文章に線を引いた。全てを捧げるつもりで猛勉強した。にもかかわらず、俺は常にあと一歩だけ、何かが足りなかった。
 それから浪人を何度も繰り返していたある時、俺の中で何かがプツンと弾けてしまった。枝が重みによって突然折れて、地面に落ちていくように、何を犠牲にしたとしても構わないと思っていた俺の熱意は、突如として萎えてしまった。幾度となく、あの頃の熱意を取り戻そうと試みてみたが無駄だった。一度消えてしまった火は、ヒトカゲの尻尾のそれのように、もう取り返しがつかなかった。そのことを察し、悟り、やがて受け入れるためには、それなりに長い時間を要することになった。そんなことを認めるなんてあり得ないことだと当初は思っていたが、ぼんやりと月日が経つのに身を任せているうち、渋々ながらではあるが、こんな自分を受け入れるようになって、何も感じなくなってしまっていた。
 俺はすべてをきっぱりと諦め、適当な職を得て、まあ曲がりなりにも平凡に日々を送っている、というわけだ。
「お前なら出来るさ」
 カメックスの爺さんは別れ際、そのふくよかな腹で俺を優しく包み込みながらそう言ってくれたのを、忘れることなんてできない。
 だが、今となってはこのザマだ。
 俺が挫折したという事実を、母やカメックスの爺さんに知られることが恐ろしかった。あれだけ俺の意志を受け入れ、信じてくれた相手のことを、俺はこんなにもあっさり裏切ってしまったのだから。合わせる顔なんてあるはずもない。
 別に今の仕事に深い愛着を持っているわけじゃない(辛いというわけじゃないが)。けれど、里帰りする気にもなれない。もしかしたら、案外みんな帰ってきた俺のことを受け入れてくれ、母親などはむしろホッとするのかもしれないけれど、カメックス爺さんが少しでも寂しげな顔をする想像は、俺を耐え難くさせた。
 石造りの街路に、小さな水たまりができていることに気づく。
 いま、雨なんて、降っていないのだが。そこだけ、にわか雨のようになっていた。
 ——俺はいま一体、何をしてるんだ?
 俺は足掻くように目に見えるものに目を留めようとし、じっくりと目を凝らしていた。石畳の繰り返される模様や凹凸、「カロス式」または「ガラル式」に積み重ねられたレンガの規則的な連なり、街灯の細長いフォルム、雄しべのように垂れ下がる電球、暗い空、どこにいても存在を主張するギルド本部の建物……だが、そんなものを気まぐれに観察したところで、得られるものは何もないことはわかりきっていた。実際、目を離せばすぐにそいつは俺の意識から消え失せ、覚えこんだつもりでいたその特長の一切も何一つ思い出せなくなり、残るのは心許ない印象だけだ。それにしたって、俺ごときの印象なんて、ただの虚像に過ぎないのだ。カメックスの爺さんが教えてくれた言い回しで、やけに印象に残ったものにこんなのがあった。「もねは一つの目にすぎない。だが、何という目なのだろう!」——「もね」というのが何を指すのかは諸説芬々で、ある考古学者は画家の名前というし、何かの機械の名称とも言うが、ともかく、それに比べれば俺は一つの目に過ぎない。本当に、単なる一つの目に過ぎないのだ(実際、俺は一つ目である)。
 そんな目をしているから、俺は何も見通すこともできなくて、当然なのだ。当然だったのだ。そうなんだ、そう……
 俺以外に誰も通行人がいなかったのは幸いだった。



 帰ってくる頃には、もう夜中だった。今日は色々なことがあったが、詳しく話す気力はない。ひとまずなんとか目処が立ちそうなところで切り上げて、残りは明日に賭けることにした、とだけ言っておこう。予断は許さないが、この職場で幾度となく経験してきたことだ。好むと好まざるとにかかわらず、慣れっこにならざるを得ないことなのだ。
「……」
 部屋の灯りをつけ、休憩の気持ちでベッドに横たわると、これまで感じていなかった疲労がどっと全身に押し寄せてきた。平日の真っ只中なのに意味もなくタウンをウロウロなんてして、翌朝クソほど後悔するのはわかりきってはいたことだった。何か食わなければいけなかった。いや、飯はパスするにしても、最低限シャワーを浴びておかなければ。植物のカラダは、そうでない連中と違ってあまりにも繊細で、少しの水やりを怠っただけで、随分と悲惨なことになってしまうからだ。
 とはいえ、固いマットレスに寝そべったまま、俺は何をする気も起こらなかった。ましてや、次の日のことを考える余裕など微塵も。いやが上にも朝というのがやってくる。そうなったら、その都度場当たり的に対処していくだけだ。対応が後手に回ろうが、悪手だろうが、知ったこっちゃない。
 そして、薬に頼らなければ眠気はやって来ないのだった。不眠にかかっていなければ、このままどこかで意識がぷっつり途絶え、朝の陽射しが顔に差して自然と目が覚めるのだろうに。こんな終わったコンディションで、俺はこれからもまだまだ働き続けなければならない。
 放り投げた鞄の中でコインがぶつかり合って、かちゃかちゃと音を鳴らす。おもむろに動いた指がそのうちの1枚をつまみ取って、何となく灯りにかざして眺めてみた。逆光を浴びた金貨は、当然のことだが真っ黒に見える。起きていることも、眠ることにも億劫でいる俺は、それにたいして何の感慨も持たずに、虚しく小一時間過ごすことができた。
 ああ、せめてシャワーだけは浴びよう。その後のことはその時考えよう……ぼんやりとしながら、俺は浴室へ向かいがてら、ごく自然な動作で摘んでいたその金貨を貯金箱へ押し込んだ。
「……?!」
 貯金箱が突如、真っ白な光を放ったのはその瞬間のことだった。そこから、まるでマルマインが大爆発する寸前みたいな放射状の光線が部屋中を照らしていたのだ! まばゆすぎて、部屋中の色という色が真っ白になってしまっていた。とても直視に堪えるような光ではなかったので、俺は咄嗟に顔を手で覆っていた。それでも指と指のわずかな隙間から光は水のように溢れ出して、俺の疲れ目を苛むように刺してくる。
 何が起こっているのか少しもわからないまま、俺はその場にうずくまってじっと耐えていた。どれだけ光が続いたのかわからなかった……けれどもやがて、激しい光の点滅は穏やかになり、そして静まった。
 俺はようやっと顔を上げた。視線は自ずから、貯金箱の方へと向けていた。だが、その途端に俺の脳裏から貯金箱のことはどこかへ消えてしまった。というのも、そんなことよりも、よくわからない奴が目の前にいたからである。
「あー! やっと気ぃついた?」
 見知らぬ相手は、いきなり俺の手を握ってぶんぶんと握手をしてくる。何が何だかわからないまま、俺は本能的に後ずさって距離を取った。
「だっ、だ、誰だ、お前っ!!」
「いやー、しばらく起き上がらなかったから、驚きすぎてソウルが飛んでっちゃったかも? って心配したけど杞憂だったねー、うん、良かった良かった!」
「ちょっと待て、ちょっと待て! だから!」
「ん? どったの?」
「『どったの?』も何もあるか!……お前、いきなり俺の部屋に忍び込んで、どういうつもりだ!」
「『忍び込んで』? ん?」
 そいつは首を傾げる。いや、傾げたいのはこっちの方なんだが……俺が何を言いたいのかどうも理解できていないらしい。面倒な。
「忍び込んだだろう! ここは俺の部屋だ。用がないならとっとと……」
「別に僕、忍び込んでなんかないよ! ずっと前からここにいたもん!」
「……はぁ?」
 悪気など少しもないどころか、相変わらず顔に張り付いたようなニッコリ顔を崩さない。俺は少々気味が悪くなってきた。あるいは、不眠が行き過ぎてとうとう幻覚を見るようになったか。もともと何年も前から、俺は夢か現か、よくわからない心地にしばしば陥ってはいたが……
「嘘つくな! これ以上、ここに居座ったらケーサツを呼ぶからな……!」
「もー、せっかちだなあっ」
 両手を腰に当ててそいつは憤る。だから、そうしたいのはこっちの側なんだっての!
「何がせっかちだ……どう考えてもこれは不法侵入……!」
「だーかーらあ! ほらほら、これ! 見てよぉ!」
 そう言って、腰に巻いたベルトを指し示す。そこにかけられていたのものは……なるほど、ようく覚えがある。俺が、ついさっきまで金貨を溜め込んでいた貯金箱。とはいえ、まだ俺の頭の中では何一つとしてつながらない。
「……それがどうした?」
「君、この宝箱に3年くらい? 毎日金貨入れてたでしょー? それが、さっきのでちょうど1000枚になったの!」
 だから、僕が生まれたってわけ、と奴は言った。俺は一瞬、言葉がわからなくなってしまったのかと焦った。
「え? 何が? 何だって?……」
 くそ、頭が痛すぎる。幹にヒビが入りそうだ。ひどい疲れと不眠に挟み撃ちされているというのに、不条理なことまで考えなければいけないとは! 何て一日!
「うーん、どこから説明すればいいのかなあ?……あっ、ってか自己紹介まだだったよね、僕ったら、うっかりぃ!」
 てへー! 茶目っけたっぷりのつもりか、舌を出しながらやつは言う。目頭を抑える俺を横目に、相手は勝手に話を進めていく。
「僕、サーフゴーっていうの! 進化前はコレクレーって言ったんだけど」
「……」
「そんで僕、ずっとこの宝箱で暮らしてたの。コレクレーって種族はこういうとこにこっそり暮らして、誰かに金貨をいっぱい集めてもらうんだあ。僕の場合は、たまたま君だったみたいだね」
 そこまで言われても、事の次第をすっかり理解できるほど大学にも入れない俺の頭は明晰でも何でもない……ただ、それを飲み込むまでの俺の思考をつらつら書いていては、いつまで経っても話を進めることができないだろう……かいつまんで言うと、コレクレーという種族は金貨を集めたがる生態を持っており、そのために多少悪どい手段でも何でもする。例えば、宝箱を拾ったやつに金貨を集めるように無意識的に仕向けるだとか。
 このサーフゴー? とかいうやつの言うことを間に受けるなら、この1000日もの間、俺が貯金するのにやたら執着していたのは、キノコに乗っ取られるパラセクトよろしく、こいつにいいように操られていたからということになる……が、それはそれとして、
「俺の貯金は……」
「え? 貯金?」
「俺がその貯金箱……に入れた、1000枚の金貨は……」
「あー! それはねー」
 と言って、サーフゴーは自分の脇腹を軽くつまんでみせる。意図のわからない行動に、俺は自ずと悪人ヅラになる。
「僕のカラダ、金貨でできてんの。要するに、君が集めたお金が僕になったってこと!」
「……」
「ん? どーした?」
「つまり……?」
「つまり? んー?」
「……お、俺の……貯金は……!」
「うん! 全部いただいちゃった!  いやー、ほんと協力してもらって感謝するよぉ、ありがとねえ!」
「…………」
 力なく腕が垂れた。すっかり脱力してしまい、振り上げたくても腕に力を入れることができなかった。何だろう、このままソウルがすっかり抜けて、普通の樹木になってしまいそうだった。
 俺はあの雑貨屋でとんでもない代物を摑まされたみたいだ。最悪、という言葉では済まされない、もっとどす黒い不運を踏んじまったも同然に思われた。
 しかし、このサーフゴーは、俺の気持ちにはとんと検討もつかないらしく、ニコニコとした笑顔を崩さないでいる。それ以外の表情など存在しないかのように。
「ってことで、今日からよろしくねえ、オ〜ロちゃんっ!」
「………………………………は?」
「こうしてコイン集めてもらえたのも縁だしぃ、僕、君と一緒に暮らすことに……うん! いま決〜めたっ!」
「………………………………………………………………はあ?!?!?!」
 ………………………………………………………………はあ?!?!?!
「いやいやいや! ダブルピースでテヘペロされても困るんだが! 何言ってんだお前?!」
「そんな辛気くさい顔しないでよー! 一匹より二匹の方が確実楽しいじゃん?」
「いやいやいや! 誰がお前と一緒に住むと決めたんだよ?! 俺はまだ何も言ってない!」
「えー?」
「空惚けんな……!」
「だって、これってど〜考えても、一緒に住む流れじゃない? オロちゃん僕のために1000枚しっかりコイン貯めてくれたわけだし? ほぼほぼ『運命』じゃーん?」
 何が「住む流れじゃない?」だ。
 何が「わけだし?」だ。
 何が「ほぼほぼ運命じゃん?」だ!
 何一つ理屈が通ってないだろうが!
 俺がコインを1000枚貯めたのは、文字通り貯金のためであって、あの宝箱型の貯金箱に忍び込んでたお前の私腹を肥やすためじゃ断じてなかった! それで勝手に進化されて、唯一の俺の縋りどころだったものが無に帰しただけじゃなく、その元凶であるこいつと何が楽しくて一緒に暮らさなきゃならないんだ……?
 そんなことを言っても、サーフゴーめ、聴く耳を持たないようだった。俺の話をさっぱり理解できてないような表情できょとんとして俺を見るばかり。どうなってんだ!
「もー、頑固だなあオロちゃんはっ!」
「いやいや、何がだ!」
 つうか「オロちゃん」言うな! 「ちゃん」付けされると、すごくそわそわする……それと、変な猫撫で声で話すのもやめろ。
「いったい、どういう教育受けてやがんだ……!」
「えー?」
「『えー』って言われても!……」
「んー……あっ、そうそう、言い忘れてたけど」
 そういうと、サーフゴーはそのニッコリとした笑みを絶やすことなく、指をパチンと弾く。驚くべきことに、指先からみずでっぽうみたいに金貨が飛び出して、床の上でじゃらんと音を立てた。
「!!」
「お! いい反応だねえ!」
 サーフゴーは大喜びしている。俺は何が何やらわからないで、ホゲータみたいに脱力している。
「ねー、すごいでしょすごいでしょ! これが僕の『ゴールドラッシュ』。これで、いっぱいオロちゃんのこと、養ってあげるからねえ!」
「……はあ?」
「んー?」
 サーフゴーは首を思い切り横に傾げた。傾げすぎて、もはや煽っているみたいだった。
「ほらほら、ここはもっと喜ぶとこだよオロちゃ〜ん!」
「いやいやいや! これは……駄目だろ!」
「いいに決まってんじゃん! だって僕から取れた新鮮なお金だよー?」
「いや、聞いてるのはそこじゃねえし!」
 こいつのやることなすことにいちいちツッコミを入れるのも疲れてきた……けど、俺はますます反応に困って、要らぬほどにオドオドとしてしまっている。
「でも、これならようくわかるでしょ? 1000枚の金貨は僕のために使っちゃったけど、僕がいる限り、オロちゃんはお金に困ること全然ないってことなんだから!」
「駄目だ、駄目だ!」
「ん〜?」
「だから『ん〜?』じゃねえ! そんな顔して指咥えんな! そんなことあってたまるか! だいたい、そんな金使ったら犯罪! どう考えたってドロボー……」
「犯罪? ドロボー? え? え? 何で? どーして?」
「お前って奴はああああああああああああああああ……!」
 俺はこいつに一体なんて話し聞かせればいい? アーケンからワンリキーまで、とことん話が通じず、俺はコダックみたいに頭を抱えちまってた。樹冠に生えた髪の毛代わりの葉をしゃにむに掻きむしると、何枚かちぎれて、はらはらと舞い落ちる。
 こいつが相当なマイペースらしいことはわかった。が、おろおろしていたらあっという間にペースを握られちまう。本来は、どう考えたって俺が優位に立つべきところ。不法侵入してるこいつと、被害者である俺……なのに、こうもじりじりとサーフゴーの思うようにさせられているのは、俺の話の持って行き方が下手だからか。確かに、大学での面接はそれはもう惨憺たるものではあったが……ってまた嫌なことを思い出させる!
「と、とにかく、この金は使えない」
「ど〜して?」
「出元がわからん金を使うわけにはいかないからな!」
「だから僕のカラダから出したって言ってんじゃん、オロちゃんも見たでしょ」
「そういうことじゃねえってのっ! 分かれっ! あとその……『オロちゃん』って呼び方やめろっ」
「もー、オロちゃんわからずやぁー」
「わからずやで結構! いいから、とっととここから出てけ……」
「……んー、でも、わからずやなところもぉ、なんだかオロちゃんのオロちゃんたる所以? って感じでいいかもってところあるよねー。よし、僕はもう決めちゃったから! オロちゃんとこで暮らすっ!」
「勝手に話進めんな!」
「これからよろしくねーオロちゃん!」
「お、おいっ!」
 訝しむ俺を尻目に、サーフゴーはもう部屋でくつろぎ始めた。ソファーで横向きになってバックルに取り付けた宝箱から取り出したロトム型スマホ(いや、そんなもの、いつどこで手に入れた……?)をいじくる。
「そんな心配しなくても大丈夫だってー、迷惑だけはかけないからさー」
「いること自体、既に迷惑なんだが……」
「僕にしても1000枚もコイン集めてくれたわけだから、恩義ってもんもあるしぃ?」
「いらん!」
「本当は嬉しいくせにー」
「何でそうなる……!」
 俺は裂けた口が塞がらなかった。そのうえ、自分の部屋、自分だけの部屋によそ者が居座るだけで気分が非常に落ち着かない。俺のプライベート以上の、もっと大事な何かを凌辱されたように感じた……くっそ、こうなったら。
 俺は根にぐっと力を入れて幹を屈め、ウッドホーンの体勢を取った。こんなこと滅多にしないことではある。かつてニンゲンとともに暮らしていた時代には、ポケモン同士が闘うということは当たり前だったとされているが、今日ではユナイト競技だとか一部のスポーツでしかバトルが行われることはない。無論、野外でそんなことしようとすれば即、保安官にしょっぴかれる。とはいえ、手荒いことは承知の上。少しでも威圧してやらなけりゃ、このバカにはわからない……
 後先のことは何も考えずに、横たわるサーフゴー目がけて尖った枝を突き立てた。
 手応えは、全然、なかった。
「……おおっと!」
「?……?!」
 何が起こったのかわからないままに、いつの間にか倒されていた俺は、そのままの勢いでベッドの上に寝そべるかたちにさせられてしまった。
「ふふふ……」
「お、お前っ……」
「僕を舐めてもらっちゃ困るよオロちゃ〜ん? 僕ってさあ、こう見えて結構タフなんだよ?」
「……お、おう」
「コレクレー族って、っぱコイン1000枚集めるにはど〜したってタフで時にはドライになんないといけないんだから。オロちゃんの今の腕力? くらいならぶっちゃけお茶の子さいさいよ?」
 ほら、もう離さないからね? といって、サーフゴーがかけてくる力は確かに凄まじいものがあった。金貨でできてるカラダにのしかかられると、しっかりとした重みがある。俺の細い枝ではビクリともしやしなかった。
「離せ! 離せって!」
「でも離したらまた手荒い真似するじゃんかー」
「だからどうした! ここは俺の部屋であって、お前に居候される謂れなんて……」
「僕のこと信用してない?」
「当たり前だ! いきなり現れてクソほど図々しい……!」
「じゃっ、今晩はもう離さなーい!」
「お、おいっ! 何言ってんだ」
「んー、いっぱいおしゃべりしてたら、僕、なんだか眠くなってきちゃったなあ……進化にも結構エネルギー使ったし……うん、じゃあ今晩はもう寝よっか、オロちゃん!」
 ってことで、おやすみ!……サーフゴーは仰々しく欠伸をすると、有無を言わさず、そのままへたり込んじまった。俺にのしかかったまま。
「おい!……おい!……」
 叫びかけたときにはもう健やかに寝息を立ててやがった。どかそうとしても、びくともしない。なんて奴だ! 全身の力が抜けて、その重みが全部俺の上にのしかかってくるので、身動きが全然取れない。
「く、くっそ……」
 悪態を吐いてもどうにもならなかった。もどかしげに枝先を動かすのが精一杯な俺は、不本意にもこのサーフゴーめと添い寝などする羽目になっちまった。
 まあ、前置きが長くなったが、幸か不幸か、これが俺の物語の始まり始まり、ってわけだった……どうなることやら。


第2話「帰りたくない夜は!」



「オーロットくんオーロットくん、いったいどうしたあ?!」
 隣のブロロロームはまるで子供の遊びのような掛け声で、俺の顔をジロジロと見つめている。無視していても、いやらしい視線を幹に感じる。
「なんだか、今日やったらと顔色いいんじゃないんかあ?!」
「……気のせいだろ」
「バカこの! だって、いつもの例の邪気がねえじゃんかよ!」
「知るか」
「ウソッキー! ウソッキー!」
 何のためにいるのかよくわからないミミズズが囃し立てる。こいつが叫ぶだけで、世界がひっくり返ったような騒ぎになる。やかましい。
「そんなことより」
 俺は極力感情を交えずに言う。
「明日、校了日だが、お前ら、広告はどうなってるんだ」
 がたがたと騒いでいたバカどもがぴたりと動きを止める。ディアルガの心臓が止まったかのような、静物画もかくやという静寂が職場を包み込んだ。
「あっ……」
「アア、オワッタ……」
 そう言って、エンジンをがた、と一瞬震わせたかと思うと、ブロロロームは舌を垂らしたままそのまま昇天した。ミミズズも、イベルタルに睨まれでもしたかのように固まって動かなくなっていた。こんな奴らにため息を吐くのも無駄と、俺はさっさと机に視線を戻した。いっそ、固まったままタウンのどっかで彫刻にでもなっていてほしかった。そっちの方がみんなにとって、ちょっとだけだが有意義だろう。
「本日も残業確定、ですね」
 それとなく俺のそばにやってきたギルガルドが声をかける。
「知っていた」
「今日も頑張りましょうね、先輩」
「言われずとも」
 幸い、昨日無理をしたおかげで俺のタスクには余裕がある。できれば、次号の準備も早めに進めておきたい時期ではあったが、広告収入がなければ成り立たないのが出版社の辛いところだ。一時休戦していた「電話攻勢」に、俺とギルガルドは早速取り掛かった。
 文字通り社内の公共美術と化した何ちゃって営業部を尻目に、ようやっと目ぼしい取引先リストの8割ほどに連絡を終えた。とりつく島のないもの、柔和な対応ながらも手応えのないものはさっさと諦め、ほんの少しだけ躊躇いを見せるなりした相手に的を絞り、うまいこと話を引き延ばしつつ、ここぞというタイミングを見計らって、すかさず泣きを入れ、最終的に「お付き合い」の一環で契約がまとまる。書類は後日ひこう便で送ることにして、真っ白な広告欄が一つ埋まる。これを1セットとして、毎号必要な広告数はおおよそ30程度だから、30セット繰り返せばいい。
 言葉にすれば驚くほど簡単だが、本来これをやるべき連中が、この期に及んで全体の1割も埋めていない体たらくなのである。我が社のことながら、ひどい話だ。
 こんなギリギリの状況だが、昼休みはしっかりと挟む。どうせ働いても給与が発生しない時間だし、今日はまだまだ先が長い。
 ギルガルドはふわりと宙に漂いながら今日のニュースペーパーを読んでいる。
「おっ」
 目を丸くして、紙面に目を留める。「おっ」などと言うのは、記事に興味を持ったからというよりは、俺に話を向けさせるためのギルガルド特有の素振りだ。
「あのリザードン、まだ見つからないんですね」
 水の入ったタンブラーを片手に、俺は目線をギルガルドに向ける。話題にしているのは、このところタウンを騒がせたお尋ね者のことだった。
「どこに逃げたんでしょう。あんだけ騒がれてんのに見つかんないってことは、もうタウンにはいないんでしょうかね」
「そりゃ、あんな翼を持ってるんだからな」
「部下のプテラも一緒なんですって」
「何があったんだろうな」
「いろいろ噂されてますよねえ。恋仲だったなんて話もありますすけど、本当なんですかね? ね?」
 ギルガルドは新聞越しに、俺のことをじっと見つめてくる。同じ一つ目同士だから感じるのかもわからないが、彼の目の方が俺よりもだいぶ澄んでいるように思える。
「どうした」
「いやあ、何でもないんですけど?」
「何だよ」
 それには答えずに、ギルガルドはまたぞろ新聞に目線を落とす。
「なるほど、なるほど、何でも彼ら、『メガストーン』とかいうものを持っているとか」
「ああ、あの、ミアレ第19号遺跡で見つかった、小ぶりのガラス玉のような奴だな」
「流石、先輩、詳しいですね。むかし考古学者目指してただけある」
 俺は苦笑しながら、お茶を口にする。こういう話題になると、つい余計に舌が回ってしまう。どうせ、すぐにそんな自分のことが浅はかな存在に思われてきて、言わなきゃ良かったと後悔してしまうとわかっているのにだ。ギルガルドの言うように、俺は「むかし考古学者目指してただけ」のしがないオーロットに過ぎない。
 俺の様子を察してか、ギルガルドはまた紙面に視線を移した。
「なんでも、そのストーンの力で見た目が化け物みたいになるんですって。目撃者の話ですと、リザードンは真っ黒な姿になって、吐いた炎は地獄の業火のようだったとか言ってますよ。怖いですね」
「ニンゲン時代の遺物だからな。何が起こるか、知れたもんじゃない」
 スカしたことを言って話をまとめるが、そいつはいかにも小綺麗で、中身のない結論だし、何より俺自身の気持ちに反していた。
 俺は根の先っぽで床に敷かれたカーペットをぽんぽん、とさせながら——地べたに根を張りたがるオーロットの本能だ——気を紛らわすために、ニュースについて思いを巡らせる。ついこのあいだまでは、タウンの中心に巨大な拠点を構える名高いギルドでSSランクの「探検家」であったリザードンが、今では同ランクのおたずね者。つまりは、タウン全体の敵になっている。ポケモンといえど人生ってのは、どうなるかわかったもんじゃない……のだが、今の俺にとってはどうしてだか、他人事には全然感じられないのは何故だ。
——オ・ロ・ちゃ・ん!
 幻聴が聴こえたので、俺は傾けたお茶を一気飲みしてしまった。あとわずかだと思っていたお茶は、案外量があって、危うく口から溢れさせてしまうところだった。
「おっ、懸賞金上がったんですってえ。ねえ先輩、いっそのこと、一緒にひっとらえに行きません? 死なせてしまったら半額だとしても、すごい額ですよ、これ」
「……お前、炎に弱いだろうが」
「ああ……先輩も、見るまでもなく炎に弱い」
「じゃあ、無理だな」
「……けど、ここで働き続けるよりはマシかもしんないっすよ?」
 編集長には聞こえない声でギルガルドはそんなことを言う。だが、そんなことを言ってしまっては、おしまいなのだ、俺たちは。
「霧吹き、使います?」
「おう」
 さっと気持ちを切り替えたギルガルドが霧吹きを渡してくる。そんなに入れ替える必要はないはずなのだが、霧吹きの水量は常に満タンに保たれている。
「ブロロロームの奴が言うことに賛同するのも変ですが」
 リズムよく霧吹きを吹きかける俺に向かって、ギルガルドはわざわざシールドフォルムの畏まった姿勢を取って言う。
「確かにいつもより顔つき、良いような気がしますね」
「あー……そうか?」
「ええ」
 ギルガルドはまじまじと俺の顔を見つめる。いつもよりもやたら時間をかけて見ている気がするので、俺は気恥ずかしくて目を逸らす。
「後ろ、やりますよ」
「……頼む」
 しかし、実を言えばいつもと違って調子がいいのは確かだった。普段と比べれば眠くはなかったし、思考もどんよりとしてはいなかった。こんなにも目が冴えているなんて、いったいいつぶりのことだったろう?
 それはそれとして、寝起きはいつにもなく最悪最低なものだったのだが。
 昨晩、いきなりサーフゴーとかいう野郎が俺の部屋に現れ、コインを1000枚集めてくれてありがとうだの訳の分からんことを言って、勝手に部屋に居座り出した。追い出そうとした俺の渾身のウッドホーンは虚しくかわされ、逆にあいつに組み伏せられる形で、不本意にも添い寝などしてしまったのだ。
 これを最悪じゃなくて、何と言う?
 サーフゴーは抱き枕の要領で俺にしがみつきながら惰眠を貪っていた。目覚めた俺は、すぐに昨晩の出来事を思い出し、ベッドから飛び上がらんばかりになった。敏感に跳ねた俺の樹体の動きで目を覚ましたのか、
「んー……おはよー」
 とやおら目を擦っている。
「……」
 俺はさっと起き上がり、こいつのことなんて最初からいなかったかのように振る舞った。一度も目を合わすことなく、手早く仕事の支度を済ませると、振り返ることなく部屋を出ていった。
「あっ! 今日もいってらっしゃーい、オロちゃん!」
 だなどと、呑気に呼びかけるのも無視した。とっとと目の前から消えてほしいとしか俺は思っていないのに、何を考えてんだか、さっぱりだった。つうか、「今日も」じゃねえ、「今日も」じゃ。
 会社へ急ぐ道中、またぞろかくとう連中の行列に道を遮られているタイミングになって、いつものように見ていた後味の悪い夢を見なかったことに気がついた。それに、常日頃付きまとう眠気も、今は無縁だった。まあ、あまりにも異常なことがありすぎたショックで、そんな夢を見る気力さえ削がれてしまったのだろう。そんな理屈を捏ねていた。
「先輩?」
 ギルガルドの呼びかけで、俺ははっとする。クソっ、今朝のことを余計なまでに考えてしまった。今はそんなもの、全部頭から追い払わないといけないのに。
「ああ、いや、霧吹きされてると、リラックスして、どうもな」
「先輩、何か良いことでもあったんですか?」
「え?」
「いや、だって本当に、昨日までとは打って変わって別人みたいですもん」
「あの薬のおかげだよ」
 とりあえず、その場を取り繕う。
「飲んでるうち、だんだんカラダに成分が馴染んできたんだろう」
「本当ですか?」
「あの医者だってそんなことを言ってたからな」
「そうだとしたら、この上なく幸いですね」
 ギルガルドの口調は半分嬉しそうであり、半分どこかお堅くも感じられた。
 彼に俺の陥っているよんどころない事情を切り出すべきかどうか迷っていた。すべきかもしれない。彼ならば、今すぐにでも保安官や何でも屋の調査団にでも相談しようと言ってくれるだろう。けれど、どうも話をめんどくさい方向に行きそうな気がして、ギリギリのところで躊躇われてしまうのだった。
 そう思ってしまう程には、目の前の仕事の方が肝心なのだった。最新版の「お得の掲示板」は通常の進行よりは大幅に遅れているものの、あらかじめ設定した校了日をオーバーするわけにはどうしてもいかないのだ。印刷会社の連中はこちらの事情など知ったものではないし、そもそも「お得な掲示板」に擬態しているかのような我が社がこちらの事情を切々と訴えかける権利があろうはずがない。
 締切の時間になれば、印刷会社が送り込んだペリッパーが窓際にやってきて、さっさと校了紙を寄越せと急かしにかかってくる。1分の猶予も許さず。顔つきこそいたって普通のペリッパーだが、窓辺に止まっているその佇まいからは、フリーザーもかくやとばかりなプレッシャーを放つんである。以前、校了予定から1分遅れたというだけで、馬鹿にならない延滞料を請求されて以来、ジジーロン編集長はとりわけ校了日については神経質になっていた。
 鷹揚で無害そうに振る舞ってこそいるが、考えようによっては編集長こそが諸悪の根源と呼べなくもない。編集長であり、実質的にこの「お得の掲示板」の社長でもあるわけなのだから。タウンのみならず、探検隊しか近寄らないような僻地にさえ広告を打っている「お得な掲示板」社と紛らわしい社名をしていること自体、悪どい臭いがぷんぷんするが、誰か一匹欠けようものならすぐにでも瓦解しそうな状況を、何も理解していないように思える。
 俺はせめて一匹くらい新規に採用してくれと、事あるごとに言い続けているのだが、反応は芳しくなかった。経営の話をこちらから仕掛けた途端、編集長はヤドンのように鈍感になって、その答えにしても就業規則を改正するのは想像以上に手間がかかるのだとか、わかったようなわからないようなもので、結局俺は閉口してしまうのだった。入社してからずっと、この繰り返しだった。ギルガルドの方はとうに編集長を説得するのを諦めたかの様子である。
 この会社のために全てを捧げます! なんて気は毛頭ない。もちろん。もともと仕方なしに入社した会社だ。考古学者になることを諦め、故郷との連絡も断ち切ってしまったあとで、働いてポケを貰えれば何でもいいという投げやりな気持ちで就職した弊社に、思い入れもへったくれもありゃしない。
 経営難、慢性的な人手不足、昇給制度があると言いながら入社以来ちっとも増えた試しのない給料(おまけに、ブブブロームとミミズズと大して変わらない額ときている。奴らの机に置き去りにされた給与明細など、見るものじゃなかった!)……だがそうした鬱憤は、今すぐ退職届を突きつけることを意味はしない。考えるだけなら痛快で結構かもしれないが、探検隊でも考古学者にも属さないような奴がタウンで職を得て生きていくことが、どれだけ大変なことか。ホエルオーのデカさを知らない奴が、現物を見て寒気を感じるのと同じことで、「お得の掲示板」社の職を得られるまでの俺は、本当に生きた心地がしなかった。所詮本気ではないが、死のうと思ったことは一度や二度じゃなかったのだ。当分は、あんな思いはしたくない。
 それに運よく転職が叶ったとして、今の会社より好待遇な環境を得られる保証などどこにもない。幸い、あの営業のサイホーンを山のように重ねたバカどもはともかくとして、ギルガルドがいることはせめてもの救いだ。効き目がいいという睡眠薬のことを教えてくれたのも、霧吹きの偉大さを教えてくれたのも、彼あってのことだから。
 そんなわけで、不満を抱えながら結局はだらだらと現状を維持しているばかり。先のことなんて考える余裕はなく、ただ今現在をどうにかこうにか乗り切ろうと俺は懸命なのだ。
 それに、故郷に戻ることは……まず、考えられなかった。それだけは、勘弁してほしかった。



 俺は時計台を睨む。夜7時少し前。残業ではあったが、さほど遅い時間ではなかった。仕事はいつにも増して散々な状況ではあるが、俺はそれなりに折り合いをつけられるようになってきたからか、思いの外早く退勤することができたのだった。
 この目抜き通りから俺の部屋まで、目を瞑っていようが、ゴースト特有の第六感だけでイトマルの織りなす巣のようなタウンの街路を間違えることなく、縫うように歩くことだってできるだろう。弊社に入ってから3年近く歩き続けてきた道なのだ、根にまで染み付いている。
 今朝も通ったこの道は、ギルド本部の建物がよく見える目抜き通りで、タウンを円の中心として、ちょうど東側の円周に向けて半径を引いたような街路である。東の街区のどこへ行くにも拠点となるこの道は、朝方になればタウンを拡張する絶え間ない工事のために労働者が行進する、文字通りタウンの大動脈なのである。
 その一角にあるハハコモリの切り盛りする糸屋のあるところを左に折れると、這いずるアーボよろしく蛇行している細い路地に入る。そこを道なりに辿っていくと、打って変わって豪壮な屋敷が立つ通りに抜ける。
 敷地の広さで言えばギルド本部や大学よりも広いその屋敷の主の名前を取って、通称「ガブリアス通り」と俺たちが呼んでいるところだ。タウン外れの鉱山と、そこで産出される宝石の一切を握り、俺たちが想像だにできないほどの金を持っているとかいうガブリアスに関する話は、タウンに住んでいるならば、幾度となく耳に挟む。実際、残業明けにここを通ると、夜も随分更けているというのに、屋敷はいつもランターンが深海から灯す光のように輝いている。下卑た笑い声だとか、時には露骨な嬌声が、広大な庭を隔てて、通りを歩く俺にまでありありと聞こえてくる。
 ギルド本部に背を向けながら「ガブリアス通り」に沿って歩くと円形の広場に出る。こうした広場はタウンのあちこちに点在しているのだが、その中心には、必ずノズパスが一匹佇んでいる。こいつらはただ、ぼうっとしているのではない。わかるやつにはもうわかることなのだが、鼻を北に向ける習性がありノズパスの役得というやつで、奴らはタウンの至るところでコンパス役の務めに与っている。ごちゃごちゃしたタウンの真っ只中に置かれると、方向感覚を見失うことがたびたびあるので、ノズパスの向きと、どこからでもその一部を垣間見ることのできるギルド本部の位置を照らし合わせることで、大まかな位置を把握できるというわけだ。
 そういうわけで、ノズパスの向きを目印に北側の通りに入って、しばらく歩けば俺の住処がある「わいわい区」に着く。「わいわい区」だなんて、随分子どもじみた名前だが、タウンが今のような姿に変貌するより昔、この辺りが「わいわいタウン」と呼ばれていた名残だそうである。その時代から軒を構えるきのみカフェに務めるもう5代目とかいうパッチールが、いつだったかそんなことを話していた。しかし、カメックスの爺さんが話して聞かせてくれた時代よりもずっと前、まだ開拓地のようだったタウンの面影を見出すのは、今となっては困難だが。
 ……そんな帰り道をシミュレーションしているうち、ぼうっとしていた俺は、無意識に石畳に根を張ろうとしていた。もちろん、固い石を突き破ることなどできず、ちょんと突き出した俺の根はあえなくも冷たい石に弾かれ、ちっ、という舌打ちのような音が俺をハッとさせた。
 いつもの帰路を辿れば、1時間もしないうちに部屋に辿り着くことができるだろう。残業をしてすっかり疲れ切った今日のような日は、当然すぐに帰りたいところである。
 ……そんなことはわかってる。もちろん。
 にもかかわらず、俺はすぐには帰りたくなかった。明日は校了日で、少しでも万全のコンディションで事に臨まなければ、ということがわかってはいても、俺の6本の根は自宅の方に向かって全然動こうとしなかった。
——オ〜ロちゃん!
 なぜ、こんなにも帰るのが憂鬱なのか。職場を後にして、一息をつく間もなく、俺はまたぞろサーフゴーのことを思い出さざるを得なかったからだ。あいつは、俺の事情も気持ちも知らず、勝手に帰りを待っている。おそらく。
 考えるだけでぞっとしてしまう。恐怖というより、地の果てまでに億劫な感情が湧き起こってくる。やはり、あいつはまだ部屋にいるのだろうか? 何かの手違いであってほしかった。それか、奴の気まぐれでもう部屋からいなくなってはいないか……そう考えてはみるものの、どれも希望的観測に過ぎなかった。
 家に帰れば、確実に奴はいるだろう。というか、今も俺の帰りを待ち構えているに違いない。昨日のことは夢だと思いたいが、どう考えても夢じゃない。俺は何の罪も犯していはしないのに、突如として現れたサーフゴーとかいう奴に、勝手に部屋に居座られ、一オーロット個人の自由を大いに侵害されている。結局はその結論に達せざるを得ず、俺は疲労とは別の原因からクラクラしそうになって目頭を押さえ、ぶんぶんと幹を振った。頭の草葉がゆさゆさと揺れて、擦れた葉が何枚かはらはらと石畳に舞い落ちていった。
 ………………
 俺は「わいわい区」とは違う方向へと歩き出していた。
 通勤路から外れた裏ぶれた路地に折れると、年季の入ったレンガ造りのアパルトマンが立ち並ぶ一角にさしかかる。長手と小口のレンガを交互に積み上げる所謂「ガラル積み」の壁面が連なった通りは、華やかな目抜き通りとは対照的に、取り残された水たまりのように、タウンの淀んだ部分というのを密かに象徴している。申し訳程度に設置された街灯の明かりは、もう長いことメンテナンスが施されていないためか、瀕死のヒトカゲのように弱々しく、その仄かさは、かえってこの路地の侘しさを倍増させている。
 俺はそこにある年老いたアパルトマンに根を踏み入れる。入り口の階段を降りて、ちょうど半地下のようになっている区画の、とある部屋の前まで来ると、木製のドアノブを摘んで、指の力だけで回した。橈骨と尺骨などない樹木のカラダでは、こんな動作でさえひどく苦労させられるんである。
 部屋の中に入ると、カウンターでポケモン向けの本を読んでいるキルリアがおもむろに顔を上げて、俺のことを見た。ここ最近、ずっと店番をしている奴だ。俺はそいつと軽い目配せを交わすが、挨拶というほど親しみのあるものではなかった。あくまでもお互いの存在を認識した、というだけのこと。カウンターでのやり取りを除いてまともな会話を交わしたことさえないのだから。
 カーテンが閉め切られた一室にはみっちりとプラスチック製の透明なケースが並べられている。俺はそのうちの一つに手を伸ばし、「取り放題」の要領で中のものを掴めるだけ掴んで取り出した。
 俺の手元にあったのは、いくつもの古びた紙葉の束。この店は「紙焼屋」の類で、「紙焼屋」とは何かと言えば、ニンゲン時代の遺跡から発掘された古写真や古い書籍や雑誌の切り抜きなどを扱っている店である。この手の紙焼は、大概は長い時間とともに土へ還ってしまうものだが、保存状態の良かった一部の紙は運よく我々ポケモンたちだけが生きている世界にまで残存し、かつての時代の片鱗を教えてくれるのである。
 重要なものは大概、考古学者たちの研究対象として独占されてしまうのだが、考古学的価値の低かったり、あったとしてもかなりの部数が残存して相対的に価値の低くなってしまったものなどは、こうして場末の紙焼屋に流れ、俺のような奴でも、考古学者たちのおこぼれに与ることができるというわけだった。
 手に取った紙焼きを俺は目を細めながら1枚1枚点検する。オーロット種の大きく樹皮がみっちりと鱗のように詰まった手に、薄っぺらい紙焼はいかにも扱いにくく思われるかもしれないが、もう随分紙焼屋には通ってきた甲斐もあって、写真を手繰る手つきは我ながら専門家のようにこなれてきたと感じている。
 ニンゲンと思しき生き物が写っている画像、何と読むのか想像もできない文字がびっしりと記された紙切れがほとんどである。この手の紙焼きを調べていくうちに得る気づきとして、たびたびよく似た人物に遭遇することが挙げられる。この店の馴染みになっている俺からすれば、店番の連中よりも見知った顔が既にいくつもある。恐らくは当時のニンゲン世界においての権力者か、はたまた指導的な立場にあった文化人だろうか。とはいえ、今となっては彼らの素性を調べるにも一苦労で、辛うじてイッシュだとか、カントーだとか、その辺りで権威を握っていたのではないか、と推定されるくらいだ。彼らについて調査に取り掛かろうというのであれば、すぐに浩瀚な書物がカビゴンの食事のように積み上がることだろう。
 だが、俺個人が関心を持つのはそのような類の紙焼ではない。むしろ、そうしたものは丁寧に傍へ退けるようにしている。
 そのうち、俺は1枚の紙焼を手に取った。そこには海辺を描いたと思しき1枚の絵が写っている。カラー焼きのもので、保存状態は比較的良好。少なくとも色落ちはほとんど見られない。元の——といっても2000年以上は優に遡る——持ち主が、よほど大切に保管していたのだろう、と想像を思い巡らせることができた。
 そいつを電灯の光にかざして、目を凝らす。見たことがないほどに鮮やかな青色の絵の具で、丁寧というよりはとても荒々しい感じで塗っているようである。けれど、全体を見た印象はとても爽やかで快いものになっている。そこに描き出された景色は驚くべきものだった。恐らくは海辺の景色なのだろうが、こんな景色がかつて本当にこの世界にあったかどうか、とても信じがたい。けれど、問題はそんなことではなかった。絵の世界でしか見ることができないような不思議な景色それ自体に、俺は強く惹かれるものがあった。それがどうしてなのか、紙焼きだけではうまく説明しきれないが。しばらくその紙焼をじっくりと眺め終えると、そいつをキープする。
 他のケースに目を移して、気にいる紙焼を漁るのを繰り返した。凝り出すとこの作業は果てしがない。一つのケースに無造作に入れられた写真は軽く1000枚は超えているだろう。大きなものから、細かなものまで。俺は気が済むまで店内のケースを物色する。俺が少しでも動くと、腕や頭に生えた草が擦れ合う音を立てて、屋外だとさほど気にならない音も、密室では耳に障るのだろう、キルリアの視線をたびたび感じながら、1時間ほどしてから厳選した紙焼を10枚ほど買った。
 ——1000ポケです、と店員のキルリアは言った。取り立てて何の感想もなさそうな様子で、俺からポケ金貨1枚を受け取ると、一瞬気まずい間が生まれた。慌てたことを悟られないようにしながら、俺はカウンターに置かれたままの紙焼を取り、そそくさと鞄に押し込み、店を出た。



 半ば無言の圧力で紙焼屋を追い払われる形となった俺だった。店員のキルリアの目線がキツくなるほどに——おおかた俺の人相が良くないから、万引きでもしないかと疑われているのだろう——閉店ギリギリまで粘ったのだが、それでも夜の8時。背の低い建物の合間からすくっと立って見える時計台から、夜勤のイキリンコたちのけたたましい鳴き声が8度、聞こえる。
 それにしても、まだ、帰りたくない。
 奴がいるかもしれない部屋へ帰るのは依然として躊躇われていた。俺はできる限り、帰りの時間を引き延ばしたかった。明日もまだ仕事があることを差し引いたとしても、一匹きりでろくにくつろぐことさえできないいま、とっとと帰る意味なんてない。あの金ピカ野郎が今も図々しくも俺の部屋を占有しているさまを想像すると、腹が立ってきた。
 目抜き通りに面する一角には保安官が常駐する事務所がある。とぼとぼと歩きながら、そこに駆け込んで、サーフゴーめを不法侵入だの何だのでしょっぴいてもらおうかと何度となく考えたが、決心のまともにつかぬままにそこを素通りしてしまっていた。毎日金貨を貯金していたら、貯金箱だと思っていた宝箱が突然サーフゴーとかいうやつに変わり、おかしな理屈をつけられて部屋に居座られているんです、助けてください! お願いします!……
 しかし、文面を頭の中で巡らしていると、俺は俺の言っていることすら馬鹿馬鹿しいと感じられてくる。こんなことを、こんな夜、保安官のところに駆け込んで訴えたところで、どこまで信じてもらえるか、心もとない。幹を大ぶりに動かして身振り枝振りで窮状を話して聞かせる俺の姿を想像すると、まるで芝居がかっておかしい。話していることは一言一句違っていないにもかかわらず。
 第一、大学の面接でもあたふたしてまともに喋れなかった俺だ。実際、古来のしきたりで保安官職を世襲しているジバコイルの前で、頭に思い浮かべている通りに喋ることが、俺にできたものだろうか? いや、できるわけが……
 などと、くよくよ考えているうち、保安官事務所はとっくのとうに通り過ぎてしまっていた。夜も深くなってくると、目抜き通りでも人通りは少なくなってくる。今日はどこも店じまいをしてしまった通りは、毎日のように見慣れた光景ではあるが、やはり物寂しい。深夜まで開いているいくつかのパブも、騒がしい連中がいないのか、どこもひっそりとしている。時折すれ違う奴らだって、帰路を急いでいるのか足早だ。
 いっそどこかホテルにでも泊まってしまうか? だが、正直に言って、宿代すらもったいないほどには金に事欠いているのだった。
 しばらくは道沿いに適当に根を進めていたが、不意に俺は立ち止まり、街灯に幹をもたれさせて考えを巡らす。帰りたくない。疲れた。帰りたくない。休みたい。帰りたくない。帰りたい。帰りたくない。
 ………………
 考えがろくにまとまらないまま、俺はもぞもぞと根を動かして、紙焼屋のある路地とはまた別の路地へ入った。そこはタウンが形成されてまもない時期の面影を残した土地柄で、立ち並ぶ建物も古めかしい印象を残す。紙焼屋のあった通りよりも古い時期にできたところだから、レンガの積み重ね方も手探りしている感があり、なんだかキョジオーンの見るからに不安定なプロポーションさえ想起させる。ドサイドンが大群を成して横道を闊歩するだけで、簡単に崩れ去ってしまいそうな造りをしている。
 当然、タウンの中でも治安がいいとは決して言えない通りを、俺はのそのそと歩く。街頭はまばらで、それも半分近くは壊れかけて、ばちばちと穏やかじゃない音を立てながら小刻みに明滅している有様で、この時間ともなれば、灯りの下を除けば闇に包まれているといってもいい。
 そんな路地にぽつぽつと、物憂げに突っ立っている影がちらほらと現れ出す。俺が近づくと、俄かに辺りはしんとする。立ち止まって、その気配に身を晒せば、すぐにいくつもの目線が俺の樹木のカラダを貫く特有の感覚に襲われる。とくん、と俺のソウルが震える。目を凝らして、そこにいる影を確かめてみる。街路にいるのは6匹ほど、だろうか。
 ゆっくりと歩を進めると、左手にいる奴と一瞬目が合った。セキタンザンだった。立ち止まった俺の姿を睨めるように観察しながら、俺の出方を伺っている素振りである。少し距離を取っていても、相手の炎タイプ特有の温もりが熱く感じられてくる。
 数秒ほど黙り合ってから、俺はそっと目を逸らした。すると、セキタンザンは途端に俺に対する関心を無くしたのか、それからは目を合わせようともしなくなった。一応植物である俺からすれば、熱いのは苦手だということ以前に、セキタンザンの姿を見ると、性別に関わらずどうしても母親のことを考えてしまうからいけなかった。くそっ、そんなこと考えるためにわざわざ来たわけじゃない。
 ——既にお分かりだろうが、この栄えたタウンにあってはいっそうと鄙びてしまった通りは、今ではそういう趣味嗜好を持った連中の溜まり場になっていた。
 なぜ、そんなところに俺が根を運んだのかというのも、もう事細かに説明する必要もないだろう。今は詳しく話す気分ではさらさらないが、ともかく、それが俺にとって自然の成り行きだったということ、それ以上でもそれ以下でもない。タウンで生活を初めてまもなく、俺は自分のそういう性嗜好をゆっくりと自認していくことになるのだが、それはまた別の話だ。
 言いようのない情欲が沸点を越してしまうと、自分で処理するか、ふらふらとここへ根を伸ばすしかないのだった。いまだにうまく言語化できないのだが、根の方から栄養が上って維管束を伝って全身に行き渡るように、如何ともしがたい感情が全神経に染み渡ってどうにもならなくなってしまうのだ。
 サーフゴーめにいきなりおかしな絡み方をされたせいもあって、昨日は自分の内に籠った欲望を発散することができなかったというのもあるかもしれない。その前日、前々日だって慢性的な不眠も相まって、そんなことに気が回らなくなっていたのが、急に今になってたぎり出してしまったのだ。
 ……当然のことだが、あの金ピカ野郎めに対してそういう感情を持ったわけでは断じてない(いきなり現れた不審者に好意を持つなんて異常者のやることだ)。俺が言いたいのは、同性の肌に触れながら一晩眠ってしまった、ということそれ自体に対して、思うところがあったというまでのことだ。
 初対面でろくに挨拶も交わさないうちに、同性と添い寝なんてしちまった! 当然、そんなことしたこともないってのに。何度も繰り返すが、こんなこと傍迷惑以外の何物でもなかったんだが、きっぱりとそう割り切ってしまうことができないのは、経験不足から来る俺の優柔不断さが原因なんだろうか?
 俺があくせく貯めた金貨でできているらしいサーフゴーの肌は、重々しく苦しくはあったけれど、確かに温もりはあった。ひょろひょろした腕が不用意にも俺の幹に巻きついてくるのは、気味が悪いと同時に、けれどもそれだけでは切り捨てられないものを感じてしまったのは否めない。
 確かに人肌(と言うと何だか変だが)恋しいと思わなくもなかった。できるものなら、そりゃあ俺だって、屋敷に住まうガブリアスが毎晩のようにしていると噂されるように、好みの相手とベッドに潜り込んで、燃え上がる欲望のままに行為をしてしまいたかった。だが、 この界隈じゃ、俺のような種族が醜男の部類に入るだろうことは重々承知している。連中が求めているのは、もっと単純に弄ばれたいほどカッコいい雄か、逆に己の欲望を乱暴にぶつけたいくらいカワイイ子か、そのどっちかだった。そういう意味では、俺は種族の時点で、ハンディキャップを課されていることは確かだった。
 とはいえ、幸いにも多少の金の持ち合わせがありさえすれば、俺のような雄でもそれなりの経験をさせてもらえるのがこの場所だった。互いに好き好んでいるかより、金次第の方が俺に取っては与しやすかった。
 一匹のガラガラが階段に腰掛けて、上半身を前傾させながら道ゆく者を観察していた。ガラガラといっても、霊感の強い亜種のガラガラだ。一般のそれよりも一回りは大きいホネこんぼうを脇に無造作に置いて、何かのリズムを取っているのか、一定の間隔で頭を前後に振っている。
 狙いを定めるように俺はそいつのことをじっと見つめながら、少し離れたところからじわじわと距離を詰めていく。通常種とは違って、先祖の霊に捧げる儀式のために夜な夜な踊るというガラガラの体つきは、小柄ながらも程よく引き締まって唆られるものがある。恐る恐る、何の気もないように俺はそいつの方へと近づいていく。不器用に両腕を上げながらにじり寄るオーロットの姿は客観的に見れば不審者の動きでしかないだろうが、タウンの澱のようなこの空間であればこそぎりぎり許容される振る舞いだった。
 俺の存在に気がついたガラガラがものうげに首をこちらに向けた。俺は一瞬、どぎまぎして立ち止まるが、少なくともその目つきに敵意や一方的な拒絶が含まれていないことを確かめると、むしろ落ち着き、手首の辺りに生えた葉をかさかさと音立てながら、相手の目の前に立った。階段の高いところに座っていたガラガラとちょうど目線が合う位置だった。
 ガラガラは黙りこくったまま、値踏みするように俺のことを見つめている。頭がすっぽり骨に覆われているのもあるが、その目つきからはいかなる感情も伺うことは難しかった。俺は鞄からもたもたと金貨を3枚取り出して、ガラガラに差し出した。相手は表情を一切変えず、俺の様子を眺めている。沈黙が流れ、耳鳴りがしそうなほどの静寂が俺を包む。
 気圧されていることを悟られぬよう俺も気難しい表情を貫きながら、ポーカーで賭け金を増やすような仕草で、もう2枚ほど金貨を追加した。なおも沈黙。考えていると悟られたくなくて、間髪入れずにもう1枚。それでようやっと納得してくれたのか、ガラガラは黙ってそいつを受け取り、執拗なほどにそいつが本物のポケであることを認めたうえで、こくりと頷き、背中を向け、石造りの階段を上っていった。
 白い紋様が刻まれ、小柄ながらオーガポンのお面を思わせるような険しい背筋をしたガラガラに続くと、四方をプテラの肌を思わせるコンクリート打ちっぱなしのグレーに囲まれた部屋に通される。セミダブルのベッドが一床設られたきりの物寂しい部屋で、室内を彩る花の一つもなかった。
 使用感のあるくたくたのマットレスに、おもむろに腰掛けたガラガラは、手持ち無沙汰にホネこんぼうをいじくりながら、頻りに俺に目配せする。場を繋ぐ気の利いた会話などないし、そんなものはもらったお金の中には入っていないとでも言いたげに、ガラガラは口をつぐんでいる。もちろん、そんなことはとっくに織り込んでいる。俺は、鞄を壁際に立てかけてから、ゆっくりと相手に手を伸ばし、その骨で覆われた頭を両手で捧げ持つようにしながら、接吻をする。
 口を合わされたことで、自分が何をするべきか了承したガラガラが、俺の口元の裂け目に舌を伸ばした。生暖かいベロの先端が俺の口に入り、黒いソウルにちょんと触れる。ディープキスを交わすのにお誂え向きの舌などないから、舌同士をねっちょりと唾液の粘る音を立てながら絡み合わせることなど望むべくもないが、猛り狂った欲望を発散できるとあっては、ただ口を重ね合っているだけでそこそこの気分にはなれるものだ。
 樹体から汗が蒸散している。この程度のことでも、全身が熱く、あのSSランクのお尋ね者であるリザードンの地獄の業火を浴びでもしたかのように燃え上がっていたし、そんな普段だったら口にするのもおぞましいようなありきたりの比喩が飛び出してしまうくらいには、精力が盛り上がっていた。
 ガラガラはさらに口吻を俺の口元に挿し込んできて、あたかも俺は大口を開けて無理やり奴を頬張るような姿勢になった。息が苦しくなってきたが、それでももうしばらく、ソウルを奴の舌に弄ばれていたくて、されるがままになっていた。
 やっと満足したガラガラが口を離すと、ぷっくりと膨らんだ筋肉に浮かび上がる血管のような太さをした銀糸が俺たちのあいだで糸を引き、やがて切れ、床へ垂れた。次はどうする? と訊ねる代わりにガラガラは上目遣いで睨め上げてくる。
 相手の胴回りをそっと掴み、胸から腰にかけてゆっくりと扱きあげるように撫でさすってやると、ガラガラは体をくねらせる。場末のバーででも披露しているのかもしれない、締まった筋肉の感触が黒ずんだ肌ごしに感じられて、いやが上にも官能的な気分を刺激される。
 深いため息を吐きながら、腹の辺りで裂けた上体を折り曲げ、相手の股ぐらに顔をくっつけた。ほんのりと桃色に灯っている細い筋に口元を当て、ハトーボーが暇つぶしに嘴で地面を掘るように、捲り上げているうち、次第にそこから赤みを帯びたセクスがはみ出してきた。それはむくむくと大きくなって、ガラガラの肢体には不釣り合いなほどに勃起し、俺の顔にぺっとりとまとわりついた。
 時間をかけて深呼吸をした。
 それから、今度は俺が上目遣いになる番で、口をいっそうと開いて、ゆっくりと相手の勃ったセクスを咥え入れるのだった。
「……っく」
 口の中、というよりは俺のソウルの中に、ガラガラのセクスが挿入る、というよりは浸る。むっつりとしていたガラガラから、低いうめき声が漏れたのを聞き逃さなかった。普通の口に突っ込むのとは、多少は違う感触に驚かされたのだろう。強いて近いものを挙げるなら、ランクルスの本体を覆うゼリー状の粘体に突っ込むようなものだろうか(もっとも、アレはランクルス以外には劇薬だが)。
 ガラガラの腕が俺の角のような頭枝を握り、快楽から逃れようとしてか、レバーのようにぐっと押し込んでくるのに抗して、俺はいよいよ深くセクスを咥え、付け根まですっかりソウルの中に沈めてしまう。普通の喉なんてものはないから、無理に咥えてもえづいてしまう心配もない。両手でガラガラの腰をウォーグルのごとく鷲掴んで拘束して、かげふみをするソーナンスよろしく、決して逃げられないようにしてやる。
 すっかりガラガラの体を固定してしまえば、俺が頭を前後に動かすだけで良かった。ぢゅるぢゅるとかいういやらしい水音は一切立たないが、並のフェラチオでは到底味わえないだろう感覚は与えてやれるだろう。
 言葉にするのは、とてつもなく恥ずかしいことではあるが、誰かのセクスを口いっぱいに詰め込んでいるのは好きな方だ。こういう行為に耽る段になると、俺は相手を支配するよりも、逆の方が興奮できるのである。こういうのを「ネコ」だとか、ニンゲンの語彙では言ったそうだ。大学を目指していた時期、考古学者の論文を拾い読みしていた時に得てやたらと記憶に染み付いているどうでもいい知識の一つである。
 ソウルからガラガラのセクスを引き出し、ホッとする暇も与えず、波が打ち寄せれば当然引いていくように、またソウルいっぱいにセクスを包み込んでやる。ガラガラは麻痺したように、何度もぎこちなく体を捩らせ、筋肉を震わせた。この世のほぼ全てのポケモンがそうなのだが、包皮のない剥き出しのセクスはとても無防備かつ敏感だ。ゴーストでもない連中にとって得体の知れないダークマターのようなソウルに絡み取られるなら、最初の一回くらいは物珍しさで相手をしてくれる……という算段もあるっちゃあるのだ。
 初めての感覚に面食らったガラガラも、それでも次第に慣れてきたのか、おもむろに俺の頭に手を伸ばして草葉を撫で回してくる。そうされると、言いようのない安心感がしてきて、乳飲み子になんてなったことないけれども、もしかしたらこんな心地なのかもしれないなどと馬鹿な空想に浸りながら、しゃぶり続けていた。これは一種の「バブみ」(考古学者の論文を拾い読みしていた時に得てやたらと記憶に染み付いているどうでもいい知識の一つ、その2)ってもんなのかもしれない。ああ、セクスを咥え、舐め回すだけで、ここまで頭が馬鹿になっちまうとは。
「……あ゛あっ」
 ガラガラが身を捩らせるのを、がっちりと抑え付けた。どす黒いソウルの中でペニスが一際、跳ねた。間を置いて、一発、二発と、白く細いものが飛んだ。一滴も取りこぼすことがないよう、俺は全部飲む。顔にかかったりしたら、後処理が面倒だから染み付いていた習慣だったが、「ごっくん」(考古学者の論文を拾い読みしていた時に得てやたらと記憶に染み付いているどうでもいい知識の一つ、その3)することも、今となっては慣れっこだった。
「仕事は?」
 ベッドに腰掛けたまま、ガラガラは初めて口を開いた。鞄を取りかけた俺は、少しどぎまぎして、
「まあ、物書きみたいなこと、ですかね」
 と、どうにも俺らしくない受け答えだとわかっていながら、そう答える。
「ふうん」
「そっちは?」
「え?……ううん、見ての通り、かな?」
 見ての通り、というのがどちらを指すのかいまいちわからなかったが、それに突っ込むより先に、俺は「ああ」と相槌を打ってしまっていた。
「この辺に住んでるのか」
「いいや」
 しばしの沈黙。まあ、ここで「どこ住み?」(考古学者の論文を拾い読みしていた時に得てやたらと記憶に染み付いているどうでもいい知識の一つ、その4)だなどと言うのもおかしいだろう。
「仕事休みは?」
「まあ、カレンダー通り、です」
「そう」
「そっちは?」
「まちまち」
「なるほど」
 やっと鞄を手に取って、会釈もそこそこに部屋を後にしようとしたら、ガラガラがベッドからひょいと飛び降り、俺のそばに寄ってきた。
「今日は、ありがとな」
「んっ……!」
 最初よりもねっとりとしたキスをされた。次があるかどうかは知らないが、こういうこともあるのだ。少なくとも、良くも悪くも、このガラガラはおよそタイプではないであろうオーロットの俺に対して、不快感などおくびにも出さず、俺の欲望に応えてくれていた。金貨さまさまってもんだ。
 まあ、これもまた俺の一つの側面ということだ……悪いか?



「あっ、おかえり、オロちゃ〜ん!」
 俺の願いも虚しく、サーフゴーはそこにいた。ここまでいろいろ考えていたことすべてが、途端に馬鹿らしくなるくらいには当然のごとくそこにいた。
 ベッドの上で寝っ転がりながらコンソメ味のポテチなど貪っていやがる。ポテチの食い方はいい加減で汚い。こぼれカスが床に散っているのにも、頓着している様子はない。
「遅かったじゃーん。ずっと待ってたのにー」
「余計なお世話だ! つうか、何でまだここにいる……!」
「だって僕、ここに住んでるんだもん!」
「んなわけあるか! 昨日から言ってるが、勝手にヒトの部屋住み着いて、一体どうするつもりだ……」
「それは昨日言ったじゃーん! サーフゴーになったあかつきに、オロちゃんのこと幸せにしたげるって!」
「信じられるか! 馬鹿も休み休み……!」
「もー、そんなかりかりしないでって。こんな時間まで働いて、お仕事疲れたでしょー? 今日はゆっくり休みなねえ」
 俺は帰宅して早々頭を抱えなくてはならなかった。開いた口からソウルがナマコブシのようにはみ出してしまいそうだった。
「オロちゃんご飯食べた? 何か食べる? もし何だったら、僕すぐ用意するから!」
「……」
 パートナー気取りなことを何やら言ってるサーフゴーのことなど無視。俺は避けるように浴室へ向かう。
「オロちゃん?」
「もう他所で食ってきた」
「ほんとお? でも、なんか顔がげっそりしてなーい?」
「うるさい……つうか余計なこと、すんな」
「えー」
「……」
 しつこくつきまとってくるサーフゴーを振り切って、浴室に一匹きりになると、シャワーのノズルを回す。
「……熱っ!」
 慌ててシャワーを止めて、温度を確かめると40℃になってやがった。
「あ! そういや、お風呂先に入っちゃった! ごめんねっ」
 開閉扉の向こうで、サーフゴーの影がにぎやかに動いている。他所ん家の風呂を勝手に使うとは、図々しいにも程がある。おまけに、シャワーの温度も勝手に変えて、元に戻さないし。シャワー浴びたの、もう何年ぶりだったかなあ? なんて、俺からすればあまりにも物騒なことを呟いてもいる。
 俺のような植物にとって、適正温度は20℃そこらだ。一般のポケモンにとっちゃ冷たすぎるだろうが、「草タイプ」に分類される俺のような者にとってはこれくらいがちょうどいいのだ。
 改めて温度を調整したうえで、シャワーを浴びる。シャワーヘッドの細かな穴から噴き出す水飛沫を、全身に浴びていると、完全とまではいかないが生き返ったような心地がする。タウンに住んでいると、生の自然と触れる機会が少なくなるがゆえに、俺が生きる上に必須である水を浴びるのでさえ、こうした文明の利器に頼らざるを得ない。この部屋は、今の給料からすれば決してお安いとは言えないのだが、やはりシャワーがあるとないとではQOLに雲泥の差が生じるのだ。
 だが、シャワー音が止まれば、扉越しに再びやつのやかましい騒ぎが聞こえ出す。
「オロちゃーん! どう? 気持ちよかった? お風呂」
 聞かなくてもいいことをわざわざ聞いてくるのは、どういう心理なのか。俺にはこういう奴の考えがちっともわからない。
 音高く扉を開けると、そのまま奴の傍を素通りしてバスタオルで包み込むように水気を拭き取ると、これまた文明の利器であるドライヤーに手を伸ばし、手早く髪の葉を乾かす。その様子をサーフゴーはすぐ隣で興味津々に見つめているが、無視だ、無視!
「へー、オロちゃんもドライヤーなんて使うんだねえ。何気に、その髪? 葉? の形も決まってるし、カッコいいなあ!」
「……」
「櫛も使うんだね! だからオロちゃんの髪、いつも決まってんだー、流石ぁ!」
「……」
「そのカラダに塗ってるのは何? 木肌を保護するため? オロちゃん、結構そういうのこだわる方なんだ? 覚えとこー」
「……」
「もー、オロちゃんったら、何か言ってよー」
「……」
「大丈夫? 何か嫌なこと、あった?」
 俺は忌々しげな目で奴を見た。何か嫌なこと? そんなもん、考えなくたってわかるだろうが! お前だよ、お前! 罵詈雑言をぶちまけたくてたまらない衝動に駆られたが、口に出かかった途端に、そんなことさえ馬鹿らしくなってきて、俺は口をつぐむ。
「そこ、どけ」
 サーフゴーをモノのように押し除けて部屋に戻ってくると、早速というか何というか、妙な気分に覆われた。ここは俺の部屋である。それは間違いない。おかしな出来事が相次いで、俺の精神に多少の狂いが生じようとも、断じて自分の部屋の場所を間違うことはない。あまつさえ、そこでシャワーを浴びようなどするはずもない。それにもかかわらず、ここが俺の部屋であって、そうでないような違和感に捉われざるを得なかった。
 俺は目をぎょろりと動かし、慎重に部屋の中を確認する。今まで買い溜めた本を詰めるだけ詰めた木製の本棚があり、申し訳程度に残されたスペースのほかは本棚に収まりきらなかった古書がうず高く積まれた机、壁際に置かれた横長の戸棚、ギルガルドに教えてもらった睡眠薬と例の貯金箱を置いていた小卓。
 葉に滴る水が、一定の時間を刻みながら、俺の眼前を滑るように垂れ落ちていった。さして装飾にこだわりのない俺の部屋は、このようにほんの少し言葉を費やすだけで足りてしまう。さっき亜種のガラガラと行為をしたあの殺風景な部屋と、実はそんなにかけ離れてもいない部屋に、懲りずに何年も住み続けてきて、初めて抱く違和感だ。俺は覚えることができないが、きけんよちのようなものである。当然、サーフゴーとかいう奴の存在は、ここでは考えないものとする。
 サーフゴーのやつは、俺に邪険に扱われたのもまるで気にならないようで、相変わらず平然とした様子でベッドの上に腹這いになって頬杖をつきながら、本棚から適当に取り出したファイルを広げ、まるでガキが絵本を楽しむかのように眺めている。そのファイルは、俺が今晩みたいな要領で紙焼屋からかき集めてきた古書の断片をまとめたものだった。大学に入ろうと躍起になっていた頃の遺物ともいう。
 そんなもの読んだって、意味なんてこれっぽっちも理解できないくせに。気でも引こうとしてんのか。奴の読めない行動に呆れると同時に、かつて俺が尽くした努力の一切が、時折空から降り注ぐメテノの命のように儚く、虚しいファルスだということを改めて突きつけられているようで、気分が鬱々としてきた。せっかくシャワーでさっぱりしたというのに、これじゃ台無しだった!
 ……そういえば、奴がさっきから寝転がっているマットレス。イワパレスの背負う地層のような分厚さをしたそれは、今まで俺が使っていたものとは違っているということに俺はここで気づいた。
「それ……どうした?」
「あれ、わかっちゃった?!」
 オロちゃん流石あっ! 見る目あるねえーっ! 悪びれる様子もなく、サーフゴーは嬉々として言った。こら、馬鹿にしてんのか。
「なんかぁ、オロちゃんすっごく眠りにくそうにしてたじゃん? だからぁ、せっかくだし、なんか良さげなマットレス買っちゃったの! いいでしょー」
「……はあ?」
「なんか適当にこれ(と言って、俺ですら持っていないロトムスマホを堂々と見せつける……)で探してみたら、この『ネッコアラマットレス』? ってのが良さげだったから買ってみたんだけどすごいよーコレ! 僕、一生ここで寝られるかも!」
「『ネッコアラマットレス』?!」
 唖然としている俺のことは気にもせず、サーフゴーは仰向けになったり、うつ伏せになったりして見せるのは、まさしくガキの振る舞いだ。キャッキャッと楽しげにしているにつけ、俺の気分はますますどんよりとしちまう。ちなみに「ネッコアラマットレス」というのは、あの、ユナイト競技のトップ選手なんかが使ってる、アレのことを言ってるのだろうが、俺の理解はすぐには追いつかなかった……真面目にそれを買おうと思えば、俺の心もとない生活費がマルマインよろしく大爆発するくらいの値段をしていたはずだからだ。
「色々、待て、ちょっと、その……なんだ」
「んー?」
「その、金は、一体、どこから……」
「決まってんじゃん!」
 悪びれもしなかった、サーフゴーのやつめ。
「僕のカラダぁ、ちょっと『ゴールドラッシュ』すれば、そんなお金すぐ用意できちゃうんだもん!」
「お……お前……!」
 俺の樹体は勝手に震え出していた。震えずになんていられるか!
「どったの? オロちゃん? 今にも枯れそうな顔しちゃって」
「それ、本当にいい、とでも思ってるのか……?」
「いいに決まってるでしょ。実際、普通に買えたもん」
 幹全体がぴきぴきと音を立てていた。この部屋で、俺だけが猛烈な地震に襲われているかのようだった。
「もー! オロちゃんったら!」
 とか何とか、サーフゴーは何食わぬ顔をして言うが、こんなこと、許容されていいわけがない! ないんだぞ!
「僕がいれば、お金なんてどんとこい! なんだからさー、どしてそういちいち心配するかなあ」
 こいつは無責任にも請け合ってくれるが、俺としては動揺しっぱなしだった……いや、いいのかこれ、本当に、どうすんだこれ! いくら、自分のカラダからいくらでも金を出せるからといって、今の時代にあってそんなことが許されていいものか? 何か、経済の法則に甚だしく逆らっているような気がする。どう考えても不法な金だ、つまるところ! 詐欺っているもいいところ! いや、もうこれは立派な詐欺……許されなかったとして、こいつが罰を受けるのは当然だけども、じゃあ一緒にいる俺の責任がないかというと、絶対そんなことはない。一緒にいる以上、疑いをかけられて然るべき、ってことになっちまう。
「もー、頭抱えてないで、オロちゃんも一回寝てみ? いや、ほんとヤバイから! 僕、買ってきて早々爆睡余裕だったし」
「断る」
「なんで?」
「そこで寝たら、俺も共犯になるだろ」
「んー?」
「そんなどこからともなく沸いた金で買ったものなんて、盗んだも同然だろうが! 今すぐ返品しろ……」
「オロちゃんって、気難しいところあるよねー、まずカラダの力抜きなってえ」
「どの口が言ってんだ! どう考えたってこれは……」
 だとか言っていると、いきなりサーフゴーがネッコアラマットレスから、ガオガエンのごとくダイブを決めて、思いっきり俺に覆い被さってきた! そうされっちまったら、もう俺に勝ち目はなかった……ふざけた野郎なくせに、どうしてこうも腕っぷしがやたら強いんだ!
「ごらっ、どけ……!」
「そうやって強情張らずに……さあ!」
 いかにもらしいニコニコ顔。しかし、俺にかける力は馬鹿力もいいところ。それで、どうしてそんな顔ができるのか? 俺は薄気味悪くさえなってきた。
「嘘だと思っていっぺん寝てみなって、ほんとヤバいんだよお!」
「……っ!」
「ねーって!」
「あっ! 重っ! 潰れっ!……」
 サーフゴーが全身に力を込めると、俺の幹がみしみしと音を立てた。ヤバい。顔では相変わらず笑っちゃいるが、断固とした、揺るぎない態度だった。俺をここに寝かさずには何としてでもいられない、謎めいた決意を抱いているようだった。結局のところ、俺は苦々しい顔をしながら、奴の言う通りにしなければならなかった。数分後、俺は自分でもびっくりするほど従順に「ネッコアラマットレス」の上に横たわっていた。
「オロちゃん、どうお?」
 俺の横で横臥するサーフゴーは、いかにも眠りにつく赤子に子守唄でも歌おうかという姿勢を取っている。手のひらが俺の樹皮の上にそっと触れているのが鬱陶しい。つうか、何で一緒に寝るのがデフォルトになってんだ。まだ遭遇して(出会って、だなんて言うもんか!)2日目なんだからな。
「……」
「オロちゃ〜ん?」
 俺は意地でも返事をしなかった。したくなかった。するものか。修行中のルカリオのような心持ちで、黙って白塗りの天井の任意の一点を見つめていた……しかし、ユナイトチームの連中が広告塔になっている「ネッコアラマットレス」の寝心地が素晴らしいということに、異論を差し挟む余地がないのも、残念ながら事実で……俺のような樹体でも問題なく、そいつはチルタリスの正羽よりも柔らかく全身を包み込んでくる。横になっている間、まるで重力というのが感じられなかった。
 疲れ切っていた俺が、すっと、健やかな眠りについてしまうまでさほど時間はかからなかった。悔しいことに。
「ふふっ。ほんっとに、素直じゃないんだからさっ。じゃ、今晩もおやすみ、オ〜ロちゃんっ」
 奴が耳元でそんなことを囁いているのが鬱陶しいが、目を瞑れば、俺の意識はトランセルがバタフリーへと脱皮するように、すっと、遠ざかっていった。
 結果から言えば、その晩もよく眠れた。眠れてしまった。ずっと悩まされてきたひどい夢も……見ずに済んだ。
 なぜかは、知らん! 断じて! くそっ。



中書き

第十四回仮面小説大会に出せなかった作品、第2話更新しました。
ここで初めてR18っぽい描写を書きました。といっても、そんなに濃厚ではないですが。
前置きとしては長めですが、オーロットくんの日常がなんとな〜くわかっていただければ幸いです。
あと、さかなさかなさん、コメ返滞って、ほんとすんませんでした!


作品の感想やご指摘はこちらかツイ垢 へどうぞ

お名前:
  • オーロットくんうらやましすぎる〜〜〜自分もこんな同居人がほしいよ……
    日銭を稼ぐために苦労しながら仕事をこなし、寂しさ故に男を買って紛らわせているわけですが、彼の求めている金も人肌のぬくもりもサーフゴーくんが難なく与えてくれることに気づいたとき、一体どうなっちゃうのだろうか……。少なくとも今回はちゃんとマットレスを返品しようとしててオーロットくん偉すぎる。自分だったら一瞬で堕落してる。
    あと、サブキャラですが職場(というか本作品?)随一の良識人ギルガルドもめちゃくちゃ好きになってきました。幸せになってほしい。 -- さかなさかな 2025-03-01 (土) 01:04:34
  • >さかなさかなさん
    ありがとうございます! ポケ生に挫折したオーロットの前に突如として現れた陽キャの権化・サーフゴーが大暴れすることになります。サーフゴーだけに、テーマは金、金、金! です。あと、余談かもしれないですし、もしかしたら既に気付かれているかもわかりませんが、本作はとある過去作と世界観を共通させています。それは、登場人物同士を交錯させることを必ずしも意味はしませんが、話としては何かと広げやすくはなるのです。少なくとも、二匹とも幸せになれるように、頑張っていきたいですね。 -- 群々 2025-02-27 (木) 03:50:32
  • 陽キャサーフゴーくん積極的〜! いきなり添い寝でドキドキさせられました
    前半、オーロットのうだつの上がらない半生に交えて語られる作中世界の設定も気になりました……ただオーロットが考古学に興味を持ってるから語ってしまっただけなのか、それともこれから更にスペキュラティヴな展開が広がっていくのを暗示しているのか……
    いずれにせよ、疲れ切ったオーロットくんには押しかけ同居人にエネルギーを貰って早く元気になって欲しいですね! 更新急がず待ってます! -- さかなさかな 2025-02-02 (日) 08:36:07

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