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百代の用心棒 作:群々
1
かつて霊峰と崇められた天冠の山を、秋を過ぎた紅葉のような羽根を身にまとったジュナイパーが彷徨い歩いていた。かつてヒスイと呼ばれていたこの土地で旅寝を重ねて、幾年ぶりの山麓であったが、異国のポケモンを崇めたと思しき神前の高台も、古代の恐れ多い文明を忍ばせる石切場も、リングマやパラセクトどもが屯す巡礼者の道にも見向きもせず、すたすたと山道を登っていた。
自分より距離を置いてつかつかと付いてくる奴がいる。気配にさっと振り返って其奴を睨視すれば、随分と見覚えのある輩であった。見覚えも何も、ずっと自己に霊のように纏わりついてくる相手であった。バクフーンは軽薄にも佇んでいる。ジュナイパーに見つかるとみるや、別に慌てるでもなく、急ぐでもなく、ぼんぐりの木の陰に駆け込んで頭だけを覗かせる。
「……何だ」
頭の傘から覗き込むような塩梅で見知った者を睨みつけるが、顔だけ出したバクフーンは一向動じず、片手で口を抑えながら含み笑いをして、此方を見ているばかりである。
ふう、と息をついてジュナイパーは前を向き直す。サイホーンやドータクンの跋扈するカミナギの山道を抜けた先の、のどかな草原の広がる一帯である。近辺には往時フェアリーの泉と呼ばれていた辺りがあり、上方から流れる大滝がもたらす飛沫めいた白霧も、水面に屯すコイキングどもも、昔と変わることがなかった。
ジュナイパーはその光景を見遣りながら草原に趺坐してしばし憩うた。時折ちらと横目に見れば、バクフーンはさっきと同じぼんぐりの木陰に宿って、間の抜けたことに口を半開きにして涎など垂らしている。気づかれぬように気配を消して立ち上がり、念のため奴に近寄り、その阿呆面をマジマジと睨め付け、その容易に目覚めぬことを確かめた。音の立たぬように忍ぶようにその場を離れる足つきをしながら、自分のしていることの妙な滑稽さに失笑せざるを得ず、気を紛らわしに傘で目深に被り直した。
ゴローンどもの群れ集まっていたゴロゴロ山地を急ぎ足に登っていくと、俄に様相は変じてくる。忙しげな人夫や彼らに付き添うゴーリキーたちが目立った。数を減らしつつあるバサギリの姿もチラホラと見られた。一目見てコトブキより開拓の手を伸ばした一団であると見てとれたが、さほど気に留めるでもなく、むしろ彼らに気づかれないように、物陰を伝うようにして坂道を駆け上がっていく。
つづら折りの坂道を抜けると、列柱峠がある。両側を切り立った崖に挟まれたその場所は、段差上に積み重なって連なった小丘の先が迎月の戦場に繋がり、その奥の岩の門を潜ればかのシンオウ神殿の跡地がある。
そんなことをジュナイパーは知悉していた。他でもない、この土地自体何度その脚で訊ねたことか。天体の循環のようにヒスイという土地、日に日にその名が薄れる影のように忘れられつつある土地を彷徨ってきたジュナイパーにとって、やがては人々に崇められた神の名で呼ばれることになるこの土地に、踏み締めたことのない一点は無いとまで言えた。
列柱峠の由来ともなっている墓標と思しき苔むした石の前にジュナイパーはうずくまった。見慣れぬ客にふらふらと近寄ってくるドーミラーたちを一睨みの放つ凄みで追い払うと、その石の下に葬られたであろう古代のシンオウ人のことを考えた。
いかにも、今度こそ、この場所がふさわしいか。
とジュナイパーは直感する。刹那、背後のぼんぐりの木がミノムッチでも潜んでいるかのようにガサゴソと揺れるのにさっと振り返ると、ジュナイパーは毛並みを冬毛のように膨らませた。
果たして、バクフーンが木陰からじっと自分のことを覗き込んでいるのだった。あれだけ用心したはずなのに、いつのまに目を覚まし、鬱陶しくもここまで付いて来たことだろう。声をかけるでもなく、近寄るでもない。目にした事の次第を誰かに伝えるためでもなく、ましてや自分を労ったりするつもりも毛頭ないであろう立ち振る舞い。そのようにして此奴は影のようにジュナイパーに付きまとい続けている。謎めいた性分はかつて外来の博士と共にヒスイと呼ばれた地に降り立った頃から変わらぬのだった。
ジュナイパーは相手を威嚇するように凄んで、鋭い脚の爪を剥き出しにしたが、バクフーンの反応は相も変わらずである。ふふふ、と揶揄うように笑いながらいそいそと木に隠れたつもりだったが、細い幹には到底隠しきれない巨躯であった。
勝手にしろ、誰にも聞こえぬほど小声で毒づいて、誰かもわからぬ墓標の前にジュナイパーは跪くと、胸の羽毛に爪を突っ込んでガサゴソとまさぐり、一本の小刀を取り出した。それはかつて流しの行商人より頂戴した先住民の工芸品なのである。丹念に鍛えられた刀身は短小だけれども堂々たる反りを見せ、刃は悠久の時の流れを感じさせぬほど真新しい輝きを放っていた。ジュナイパーは目を丸くしながら切っ先の刺々しいものを見つめた。じっとその形状をためつすがめつしていると刀の閃光は生命の儚い煌めきを彷彿させた。
バクフーンがいつの間にやらジュナイパーの真前に居座っていた。馬鹿丁寧に両手を膝に置き、トロリとした目つきを向けて、今か今かと見物をしている風である。
馬鹿にしやがって、ならば見ていろとばかりに小刀の柄をキュッと握りしめると、鋭利な切っ先をそっと脇腹に当てた。羽毛に埋もれた刃はやがてチクと肉を突いた。俄に背筋が凍る。ジュナイパーは勝手に震え出す身体を単なる武者震いのそれと見なそうとする。まずはソイツをグッと押し出す、それから後は勢いのままに横へ一文字を書くように滑らせればよいはずであった。
「……」
首を内側へ丸め、ほんのわずかに剣先の刺さった白い腹をジュナイパーは血眼で凝視する。バクフーンの零度の視線が傘越しにくすぐってくるのも鬱陶しい。血の気が急に失せるのを感じて、目をキツく閉じる。
「……いぃきぃてぇいぃくぅんだぁ」
バクフーンは耳を欹てた。
「そぉれぇでぇいぃいぃんだぁ……」
ジュナイパーは消え入りそうな声で口ずさむ。その微かな歌声を聞こうとしてバクフーンはいっそう彼の近くにいざりよったが、それにも気づかない程だった。
「びぃるにぃのぉみこまぁれぇ……まぁちにぃはぁじかぁれぇてぇ……そぉれでもぉそのてぇをぉはなさぁないでぇ……」
ほんの少し、切っ先を奥へと押し出そうとした。それがあと僅かでジュナイパーの腹肉を引き裂こうとするかしないかのあわいで、刃の冷たさが全身を貫き、恐れ慄かせた。
「ぼぉくぅがぁいぃるぅんだぁ……みぃんなぁいぃるぅんだぁ……」
これを一念にと幾たびも試みたことである。そして何度もこの慄きに怖気だって宿願を果たせずにいたジュナイパーであった。今一度深呼吸し、腹蔵を大きく膨らませては萎ませ、柄をいっそう力強く握りしめては、改めて呼吸をし直す。
「あぁいはこぉこにぃあぁるぅ……きぃみはぁどぉこえぇもぉいぃけなぁいぃ……」
バクフーンは立ち並ぶ墓標から漂うものどもにとうに気を取られていた。相変わらず同じ姿勢で固まったまま、ジュナイパーはガタガタと震えていた。次に何を口ずさめばいいかも、失念してしまっていた。
「……いぃきぃてぇいぃくぅんだぁ……」
俄に辺りの空気が一変したのはその時である。日蝕が起こったかと思われたが無論そのようなはずもない。薄暗くなった列柱峠の一帯は、巨大な蚊帳のような天球に覆われ始めているのであった。
ジュナイパーの試みも一時中断せざるを得なかった。あるいは、ただ腹にあてた小刀をそのまま突き刺さすことができればよかったのであるが、また死に損ねた、と愚痴る暇もなく、みるみる変わる時の次元に仕方なしに小刀を懐にしまい、立ち上がった。気がつけばバクフーンの姿は失せている。ほんの少し刺した腹がチクチクと痛んだが、肉体の痛み以上にやるせない自己の心の方が痛ましい。
時空の歪みという怪現象は、しかしヒスイの土地にあっては時折の俄雨や地震と同様であった。ジュナイパーも幾度となくその歪みに不意に飲まれてきたため、その異常さに対してだいぶ感覚が麻痺していた。色褪せた風景から突如としてポケモンどもが姿を現す。それは一般には珍奇なイーブイであったり、自分の幼い頃であるモクローやフクスローであったり、古い地層から見つかった化石のありし日の容貌と思しき輩であったり、遥か未来に生み出されたポリゴンどもだったりする。けれどもジュナイパーは事もなさげに立ち上がり、その歪んだ時空を後にしようとした。
聞き慣れぬ轟音を聞いたのはその時である。次元からまたもやポケモンが現れたとだけ思い、さして気にも留めなかったジュナイパーは振り返りざま、それが咆哮するのを見たのである。得も言われぬそれは、けたたましく吼えるまもなく、ジュナイパーが身構えるよりも早く、その営利な爪を紅葉色の梟に向かって振り下ろしたのであった。
天冠の山麓に降る雪が劈くような悲鳴を吸った。
2
目に飛び込んで来たのは、いつまで変わることのないバクフーンの謎めいた好奇に満ちた顔であった。イモモチでも食っているのか、ビッパのように頬を膨らませながら口をもごもごとさせている。くちゃくちゃという口内の音がやたらとやかましい。
バクフーンは不意に首をもたげ、何かに目配せをするようにじっと向こうのどこか一点を見つめる。しばらくして横臥したジュナイパーに近寄ってくる何某かの気配がある。
「良かった! 目覚めたんだな!」
嬉しげに駆け寄って、此方を上から覗き込んで来たのはピカチュウの少年である。くりくりした顔つきで、丸く大きな目は澱みなくきらめいている。ジュナイパーは上体を起こそうとして、突き刺すような激痛に悶絶し、ピクと全身を震わせながら、苦し紛れにホオ、と鳴いた。
「動くなよ、ヒドいケガしてるから」
ピカチュウは躍起になってジュナイパーを諌めた。バクフーンはまだ口をくちゃくちゃと言わせている。その汚い音が澄んだ空気にやけに共鳴して、傷口が抉られるように感じた。
気持ちを落ち着かせて回顧すれば、意識の途切れる寸前のくだりまでは容易に辿ることができた。そうだ。僕は列柱峠を死に場所としようと自刃を試みた矢先に時空の歪みに飲み込まれた。そこまではいい。ただ、そこで何か得体の知れぬ何かに襲われた。恐らくは負傷し、気を失った自分を運んだのは——
バクフーンは事もなげにジュナイパーを見下ろしながら、口を動かす。やっとその中のものを飲み込むと、ふうと口元の涎を拭う。訝しげに目を細めて其奴を睨め付けると、バクフーンは平然として、げふとゲップをかます。
「どうしたんだよ」
事情もわからぬピカチュウは不思議そうにする。
「こいつがあんたを助けてくれたのにさ」
言わずとも知れることを言われたので、ジュナイパーは余計に虫の居所が悪くなる。放っておいて勝手に野垂れ死にさせてくれろとでも毒づきたかったが、腹に力を入れれば傷口が開きそうになる。それにつけても童部のように不貞腐れているのも情けなく、不本意である。仕方なくバクフーンではなく蒼空を睨め付けることにした。ぽかりと開けた空には下弦の月。
黙して藁布団の上に臥しながらジュナイパーは思い返す。朽ちた古代の柱が立ち並び、周囲を丸く崖に囲まれたこの場所をかつて何と呼んだか、知る者も少なくなった。迎月の戦場は、今や洞窟キングの住まう神聖な土地ではなくなっていた。看病するピカチュウにしても、新参者の気配である。自分らが憩うている木陰を成す大木が、いかに霊験あるものであったかと説こうとしても無駄であろうとジュナイパーには思えた。そこには昔、傾奇者のマルマインが実っていたなどと言っても、筋の通らぬことを言うねと首を傾げるに決まっていた。
元より、ディアルガ様を崇めていた一統が時と共に、血族のような結束を薄めながら緩やかに離散していったことで、この聖域を守る者も述べ伝える者もなくなっては致し方ないことである。ジュナイパーとて、バスラオのするように流れる川に逆らうつもりもないのだった。第一、儚くなりたいと欲する身の上であるからには、生きとし生けるものの事象などジュナイパーにとって関心の埒外である。
「変なの。だって、このバクフーン、あなたの知り合いなんじゃないの」
バクフーンはいつの間にやらまた口に何かを含んで咀嚼していた。今にも頬が落っこちそうだとばかりに両手で頬肉を支えている。
「僕にとっちゃ」
ジュナイパーはその場で言葉をこねくり回した。
「呪縛霊みたいなもんだ」
旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る、と、さして意味もないことを呟いた。
「え? 何?」
ピカチュウが訊ねるのを聞こえぬ振りをして、ジュナイパーはひと眠りを決め込みわざとらしいイビキを立てる。また死に損ねた。何よりもそのことが彼には肝腎であり、自尊心はひどく傷つけられた。
夢は見なかった。無理に深く寝入って目覚めれば、迎月の戦場の夜はすっかり更けていた。脇にすうと寝息を立てるものを首を傾けて見れば、バクフーンの奴が鞠のように丸まっている。看病のつもりか、それとも死に様を看取るつもりだろうか。いずれにしても舐められたものだとジュナイパーは思った。死のうと心に決めてまもない頃から、此奴は自分の周囲にまとわりつくようになった。大方、霊魂に釣られて来たのであろうが、凍土から原野までヒスイの南北をいかほど放浪しようが付いてくるのをやめなかった。僕の魂はよほど美味なのだろうか、それにしても貪欲な奴だと怪しがっても、バクフーンは口に手を当て、ふ、ふ、ふと笑うばかりである。物言わぬ此奴の考えることは、想像だにできなかった。
傷口が悲鳴を上げるのを堪え、二本脚で地べたを掴み、月明かりの差す古戦場を後にする。さっきはまるで気がつかなかったが、そこいらに藁布団が敷かれているのだった。だが、そこに横たわるものどもを覆うように筵が被せられているのを見れば、道理でバクフーンが食うに困らなかったわけだとジュナイパーは得心する。鬼火ポケモンが寝返りを打ち、薄茶色の腹を見せた。どれだけ魂魄を喰らったことやら、ご満悦に膨らんでいるのはいかにもおめでたい。
用途が忘れられ、そこら中が苔むし、濁った水の溜まった石壇の脇を過ぎると、天冠の山頂の開けた辺りはしばらくご無沙汰しているうちに随分と人の手が入ったようである。コトブキムラからの調査隊が仮の宿りを置いてから、そこを取り囲むように庵が造られ、自ずと集落が出来上がったと見える。夜も只中とはいえ、随分と静謐なのは不思議であったが、ジュナイパーにとってはこの土地を一刻も早く離れることだけが肝要であった。
崖際に立ち、先ほど腹をかっ切ろうと試みた列柱峠を見下ろした。もう少しだけ覚悟を決める時刻があれば、時空の歪みなどという邪魔が入らなければ、と重ね重ねも惜しいと思った。俄に山麓の寒さを覚えて身震いし、羽毛を二重三重に膨らませる。ふりさけ見れば、シンオウ神殿へ続く笠雲の切通しの辺りはいつまでも溶けぬ雪が被さり、そこで起きた全てを覆い隠してでもいるかのようであった。行かねば、とジュナイパーは思った。腹の傷を慎重に弄りながら、列柱峠の方へと下っていった。元より、これは目的地の無い旅である。
昼間来た道を逆に辿り、ゴロゴロ山地の三叉路に行き着いた辺りで一息をつく。傷跡からドクと鈍痛が鳴った。だがどうせ唾付ければ癒える程度の傷だと言い聞かせ、ジュナイパーは立ったまま岩陰に背をもたれる。道端に生えたクスリソウをむしり取ったのを齧ると、苦味に顔を顰める。死すべき場所はどうやら天冠の山脈ではないらしい、ただそれだけのことだとジュナイパーは考えた。幾度となく周回して最早自己にとって庭園になってしまったヒスイの土地を逍遥していれば、いずれ潔く割腹もできるだろう。
「何してるのさ」
不意に声がすれば、自分が憩う岩の上で、両手を腰に当ててピカチュウが見下ろしていた。頬の赤い頬から電撃が火花のようにパチンと音を立てていた。
「こんな夜中に、そんな手負いで」
「貴様こそ、一体何だ」
ジュナイパーは毛を膨らませながら答える。
「何って、色々話そうと思ったのにあんたが寝たフリしたからだろ」
胸を反った姿勢のまま、ピカチュウはぶっきらぼうに言った。
「せっかく助かった命のくせして、ぶすくれてさ……失礼もいいとこだよ」
「僕は一言も助けろだのと言った覚えはない」
咄嗟にジュナイパーは言い返す。
「あの呪縛霊が勝手に」
「呪縛霊がどうしたって?」
ピカチュウは心底呆れた顔をした。
「あのバクフーンが君を片手に抱えて僕らのとこに駆け込んで来たとき、あんた、本当に苦しそうにしてた。生きたそうな顔してるように見えたけどね」
「死ぬ時はせめて見てくれは良くありたい、それ以上でも以下でもないさ」
「変わってるね、あんた」
ひょいと岩場を飛び降りて、ピカチュウはジュナイパーの脚元から訝しげな視線を浴びせにくる。
「ここいらまで歩いて来た時、変な鼻歌を歌ってただろ」
「何が」
「『だ〜い〜や〜もんどだぁねえ〜……ああぁ〜い〜くつぅもぉの〜ば〜め〜ん〜』……とかいうヤツ」
「……カントー地方の古い民謡だよ」
「僕、そのカントーから来たけど、そんな歌全然知らない」
ジュナイパーは閉口した。ま、それはどうでもいいんだけど、と気のなさそうにピカチュウは続けた。
「どうするのさ、そんな格好で、どこへ行って、何をするの?」
「言わせるな」
うんざりしたようにジュナイパーは言う。
「僕は死に場所を求めてる。それも、真っ当に、潔く死ぬために」
「どうして?」
「子どもが知るにはまだ早いさ」
「なら、どうでもいいけど」
ピカチュウはその場に座り込み、腕を組んで、首を傾げた。
「じゃあ、ここで腹切ってみれば? 僕ここで見てるからさ」
挑発するように、ピカチュウは小型のポケモンらしからぬ不敵な笑みを浮かべ、口元から申し訳程度の犬歯を見せた。
ほお! と、ジュナイパーはひと鳴きし、身を奮い立たせた。懐から例の小刀を取り出すと、目を熱り立たせ、威嚇するようにその刀身をピカチュウに見せつけた。
「そういうのはいいから」
少々侮った態度を取りながら
「ちゃんと死ねれば天晴れな最期だったって伝えてあげるから」
「……ふん」
ジュナイパーは刃を掲げたまま、肩膝立ちからゆっくりと膝を折り曲げて正座する。俄に坂道から砂煙が立った。寝ぼけたゴローンが転がってきたものか、と瞠目すると煙の中から影が徐々に輪郭を露わにした。
これから念願叶って腹を切らんとする梟が唖然として目をまんまるくしているのを訝しんで、ピカチュウは後ろを振り返り、口角を吊り上げた。どこで聞き耳を立ててきたものか、バクフーンの奴が大股に駆けながら自分らのところへ向かってきたのだった。片足に重心をかけて“入”の字のような姿勢でブレーキをかけながら二匹の元へ到着した。
「やれ、やれ……」
ジュナイパーは落としそうになった小刀を力強く握りしめた。バクフーンは毛にまとわりついた砂埃を払いながらいそいそと真ん前で正座し、両手を膝の上に置くいつもの姿勢で、かぶりつきで芝居を見るようにジュナイパーの自決を見物する。ピカチュウもニヤニヤしながらその横に座り込む。
「どいつもこいつも馬鹿にしやがって……」
ブツブツ言いながら、心頭を滅却する。天冠の冷たい風はほんの些細に揺れ動いた精神程度であれば容易に醒ましてくれるのはありがたい。さて、これまで何度も繰り返した所作で、ひんやりとした切っ先を脇腹にあてた。しかと目を瞑り、顔を俯かせる。無我の境に入った。後は刃先を肉の中へと押し込むばかりである。
「……」
バクフーンとピカチュウは腕を組みながらその瞬間を待っていた。ジュナイパーは長いことその姿勢のまま動かない。1分経った。ジュナイパーの羽毛が水を被ったようにしとど汗で濡れ始めた2分経った。ジュナイパーはカタカタと震え始めた。
「……ぃつもいぃっしょにぃ、いぃたかぁったぁ……」
3分経ち、その嘴から小唄が漏れ聞こえ出した。バクフーンは唐傘のようなジュナイパーの頭の横で聞き耳を立てた。
「とぉなりぃでぇ、わぁらぁってたかぁったぁ……」
ピカチュウは撫然として頬杖を突いた。刃先がツンと肉に触れかけては咄嗟に離れるひどくもどかしい動きは、見物している側が頭を掻きむしりたくなるほどにむず痒かった。途切れ取れに、掠れる声で歌われるジュナイパーの小唄もじれったさを煽り立てた。
「そぉわぁんさげぇ……ほぉしぃがもりぃえぇかえぇるぅようにぃ……」
びくと体が痙攣したように震え上がり、やっと切っ先を押し込んだかと見えたが、それは単なる身振りに過ぎず、刃はむしろジュナイパーの体から一、二寸距離を取っているのだった。
小唄を一通り歌い終えると、ジュナイパーは凍りついた姿勢のまま沈黙した。バクフーンはとっくのとうに聞き飽きて、水溜りのように地べたに垂れながら耳をピクと動かしている。ピカチュウは腕を組んで仁王立ちし、ジュナイパーのうずくまる姿を刮眼していた。目はひん剥いたまま、いたずらに白目を充血させている。
「……」
「……」
「……ぃつもいぃっしょにぃ、いぃたかぁっ……」
「うつけものっ!」
ピカチュウは一喝した。
「ろくに死ねやしないなら、死にたがんな!」
赤く染まった頬から火花を立てつつ、電気を帯びたまま小柄な身で体当たりをかました。全身が灼けるような痺れに悶えながら、ジュナイパーは岩壁に背中を強くぶつけた弾みで、小刀がカラカラと音を立てながら地面に落っこちた。
「ったく、男らしくもない」
ピカチュウは首を横に振った。伸びたジュナイパーは、虫ポケモンどもが身を隠すために落ち葉を寄せ集めて作った山のように見えた。その脇にバクフーンが座り込んで人差し指で突いては興じている。
「そいつ、持ってってくれよ」
そうピカチュウが頼むと、バクフーンは奈落の底に落ちるものまでも見極めようとするかのような目でしばし相手を見つめ、やがてコクリと頷くと、肩にヒョイとジュナイパーの気絶したのを抱え、飛脚のような足取りでゴロゴロ山地の坂道を軽快に駆け上がっていく。
3
迎月の戦場に連れ戻されたジュナイパーはあと3日は床に臥しているように、ピカチュウの少年から厳命された。しかしいずれにせよ、傷が癒えぬのに急な坂道を無理に下ったせいで、胴を微かに捩らせるだけでも苦痛だった。癖で腹の辺りを弄ろうとしても腰まわりにはぐるぐるとサラシが巻かれて邪魔である。
おまけに、バクフーンの奴がずっと脇に控えて正座してじっと此方を見下ろしてくるから落ち着かない。看病するのではなく、単にピカチュウに命じられたままに自分が勝手なことをしないか見張っている。それこそ余計なお世話だと渋い顔で睨め付けても、バクフーンはその意図がわからぬとでも言うように曖昧な笑みを浮かべている。晒し者にされてもなお不敵な態度を崩さぬ大胆な罪人ででもあるかのようだった。
「やあ、元気?」
と煽るような調子で声をかけるのは、そのピカチュウである。ジュナイパーが凄まじい形相をしているのを、八重歯を出してうち笑いながら、足で傷口を軽く踏みつけると、ぴぃ、と悲鳴が上がる。
「まだだよ。どうやらあんたは頑丈なポケモンらしいけど、それでもここがちゃんと塞がるには3日はかかる。どんなことがあっても、ここから動くなよ」
そう言い残して、また自分は四つ足でまたどこかへと駆け去っていく。ジュナイパーはバクフーンの面を見つめながら露骨な吐息をつき、撫然として目を瞑る。
死に場所を探して放浪しているというのに、こうも気を遣われては閉口する。ヒスイの地はいつからこうも人情深くなったのだろう。ひと昔前ならば、余程の義人でもなければ、人の子でさえ行き倒れた者を介抱する余裕さえなかった。ポケモンにせよ、人と共にある喜びなど露も知らなかったでないか。自分がかたじけない死に損ないにせよ、うつけものと笑ってうち捨てておけば嬉しかった。だが、あのピカチュウはそんなこともしてくれない。
そうも不満を捏ねくり回していると、まるで自分が駄々っ子に思えてきた。意味もわからぬ恥ずかしさが全身を火照らせた。このまま我が身は燃えて、灰になればいかほどありがたいことだろうかなどと考え、また羞恥に身を丸めようとすれば、傷口がいたく騒ぎ、ぴいと鳴く。
耐えられずカッと目を見ひらくと、これまでの自己の心理をまるまる覗き見でもしていたかのように、バクフーンが片手に口をあてて薄笑いを浮かべている。それで雅やかなつもりか、と唾を吐く振りをした。
聖域に聳え立つ大木が山頂の峻厳な風を受けてざわざわと音を立てていた。往時の変わらぬヒスイの記憶を刻み込んでいる数少ない証言者たる大木は、物言わぬ葉ずれを奏でるのみである。シンジュとコンゴウの一統がシンオウ様の御形を巡って相争っていたころ、ギンガの開拓団がコトブキムラの一角より徐々にその域を広げていったころ、天冠の上空が卒爾にして裂けたころ、夜明けと呼ばれる時代が訪れたころ。走馬灯のような記憶を、この木は確かにその年輪の中に刻み込んでいながら、それらを懐かしむことも惜しむこともしなかった。
そのように泰然自若としてあれば、俗世に苦しむこともないだろうと羨ましかったが、過ぎゆく時の苦しさ、朽ちていく生の嘆かわしさを一刻も早く断ち切らんとして、グズグズしている身の上の馬鹿さ加減には自分でも愛想が尽き果てそうである。だが、こんな浮世をもたらしたのは、他の何者でもない、ジュナイパーにとり懐かしき——
俄に、聖域の周囲が騒がしくなった。ジュナイパーが上体を起こそうとしたのを、バクフーンの柔らかい手が制止したが、睨視してそいつをサッと振り払うと、それ以上抵抗する素振りもなかった。起き上がれれば幸いと、ジュナイパーは騒ぎのする方へ駆けて行く。
山頂の集落へ、傷ついた人夫やポケモンどもが続々と手製の担架で運ばれてきていた。その数の夥しいこと、岩盤が落ちたものかと始めは思われたが、ジュナイパーは山道の辺りに時空の歪みが広がっているのを確かに見た。聖域からでは、取り囲む岩壁で視認できなかったが、その領域の境に漲る不可解なエネルギーの迸りが、山頂からはよく見渡せた。息も絶え絶えな男たちの悶絶が聞こえた。女子供らの泣き騒ぐのも澄んだ山の空気に響き渡っている。
「おい、何してんだよ」
雑踏から抜け出してきたピカチュウが、集落に佇むジュナイパーを認めて怒鳴りながら駆け寄ってきた。余程恐慌を来してでもいるのか、その声は震え、掠れている。
「大人しくしてろって言ったからに」
「あれはどうしたんだ」
憤るピカチュウを気にせず、ジュナイパーは問いかけた。
「あんたみたいな死に損ないに何の関係がある」
「襲われたのか、あれに」
ピカチュウがぷいと顔を背けたので、ジュナイパーは羽根をそびやかせながら峠の方へと歩いていく。
「おい、馬鹿」
背後でそう怒鳴られるのを聞こえぬ振りして、すたすたと歩みを進める。ピカチュウはしばしその姿に呆気に取られていたが、四つ足で伸びをして身を奮い立たせると、ジュナイパーの脚元に付いていく。
「ったく、腹を切ろうとすれば意気地なしのくせして、さっぱり訳のわからない……」
ボヤきながらその姿を見上げれば、ジュナイパーは深く傘を頭に被り、表情は一向窺い知れなかった。次元のあわいまで来たところで梟は立ち止まり、首を上げて向こう側の見えるようで見えぬ領域を眺める。それから躊躇もなく、そこへ脚を踏み入れる。
「どうなっても知らないからな」
そう叫ぶ間に、梟は時空の歪みに吸い込まれて見えなくなる。追いかけるわけにもいかず、ピカチュウはブツブツと文句を垂れながらその場に座り込む。歪んだ時空を退屈そうに見つめながら、奴のお望み通りあの場で野垂れ死なせた方が良かったとまで考え始める。ふと、背中に気配を感じたので振り向くと、ジュナイパーが意地悪く呪縛霊と呼ぶバクフーンが佇んでいた。新たな霊魂を早速飯にでもしているのか、口をむぐむぐとさせている。ピカチュウは溜息をつき、横に座るかと地べたを指さすと、徐に近寄って座り込む。
「アレはあんたにとって何なんだよ」
物言わぬ故に無駄と思いながらも、そうピカチュウは問いかけた。バクフーンは黙ったまま、ぼんやりと宙空を見上げた。相変わらず咀嚼で口を上下させたまま、時折開く口から粘着音を鳴らしながら、考えているよりは惚けているような目であった。しばらくして、人差し指をピンと突き立て、それで得心しろと言いたげな表情をした。
「それで何かを言ったつもり、か」
ピカチュウは苦笑せざるを得なかった。バクフーンは片足をもたげて頸を掻いた。見ているとまるで忠実なガーディどものようである、とピカチュウは思い、吐く溜息に思わず勢いが出る。
「じゃあアレは潔く死ねると思うか、男らしく」
いきなりバクフーンは濡れてもいないのに身震いすると、童部が商人の持ってきた菓子を欲しがるように指を咥えた。しばらくして、ピカチュウの側に振り向くと、パッと両指の10本を広げ、中風に罹った病人のようにぶるぶると震えながらで一本ずつ閉じていく。片方をようやっと閉じ終えて握り拳を作り、もう片方の指を一本、二本、そこまで閉じたところで、軽く首をもたげた。それが終わりの合図だとピカチュウにはわかった。が、何を言いたいかはまるでわからない。
「なるほどなるほど」
ピカチュウはわかったフリをし、乱暴に話題を締めくくった。バクフーンも意図が伝わっていないさえ理解していないというように、喜ばしげな顔をした。改めて、歪んだ時空を見る。ジュナイパーは未だ帰って来なかった。
「とうとう、死んだかな」
本懐を遂げてまあめでたいことじゃあないか、とそろそろその場を立ち去ろうかと考え出したとき、時空の向こうにあからさまな気配を感じた。何かが領域を跨ごうとしている。耳を澄ませば、砂利を踏む確かな足音が鳴った。よもやと思い、その訪れに身構えていると、
「ワ〜ン、リぃル、キイっス」
おかしな小唄が聞こえ、ピカチュウはたちまちそびやかした耳をパタと折った。
「こっとっばにすぅればわっからないこっとで〜も、ワ〜ン、リぃル、キイっス、あっというまっぼ〜くらをっつぅなげ〜るしんしんし〜ん……」
にゅるりと境目から姿を出したのは、言うまでもなくジュナイパーであった。目を丸くしたピカチュウを、バクフーンがニヤニヤと見つめている。そんなことに構わず、ジュナイパーは聞き慣れぬ歌を口ずさみながら、二匹の前までやってくる。
「たぶんこぉのまぁますぅてきぃなっ、ひぃびぃがずっとつづく〜んだぁろっ……」
詞を忘れたのか、曖昧にふんふんと口ずさんでから、
「きぃみぃのこっころっのと〜びらをたったくぅのはっ、いっつもぼ〜く〜さってかんっがえてるう〜……っと」
「また、死に損ねたんだな」
妙に上機嫌なジュナイパーを皮肉るようにピカチュウは問うた。
「うん、まあ……」
などと適当な受け答えをするので、また電撃を浴びせてやろうかと邪心も湧くが、あの時空の歪みを傷一つつけずに戻ってくるのはどういうことかと怪しかった。
「殺されたものかとばかり思った。よく平然と……」
「時空の歪みなんてヒスイ人にとってはお馴染みなものじゃないか。それが、ひとつ現れただけであの被害だ。只事ではない、と思ったんだが」
すると、さっきから爪で引きずっていrたそれをひょいと地べたへ放り投げた。
「何だ、此奴は」
長い髪が目立つそれを一同はまじまじと見つめた。
「ムウマと思ったが、どうやらコイツは似て非なるもののようだ。気性もこの峠にいるものと違う。無論、ラベン図鑑にも載っていない」
不思議だ、と首を傾げながらジュナイパーはそのムウマに似て非なるものを検分する。ピカチュウにしても、此奴を間近で観察するのは初めてである。ムウマ、と言われればそうと言えなくもないが、頭に生えた赤いトゲは明らかに異なる種であることを物語っていた。
「ここいらの次元はおかしなほど歪んでいるらしいな」
「まったく」
吐き捨てるようにピカチュウは言い、脱力したように肩を落とした。
「何から話せばいいやら、僕にだってわかんない」
歪んだ時空からジュナイパーを追いかけるように何かが出てきた。ピカチュウはその姿に腰が抜けそうになる。本能的に死の危険を覚え、逃げようにも自由に体を動かせぬと冷や汗が出たところを、バクフーンがさっと掬い、すばしっこい動作でサッと岩陰へ逃げ込んだ。恐る恐る顔を出すと、ジュナイパーと歪みから現れたそれが対峙していた。
「おい……」
ジュナイパーの背中に向かって叫ぼうとするのを、バクフーンの手が塞いだ。見上げると、もう片方の人差し指を立てて、静かに、と言いたげである。
ギャアンス、とその言語に絶する何某かは鳴いた。そのけたたましさにピカチュウは総毛立ったが、間近で咆哮を浴びるジュナイパーは大木のように動じなかった。どし、と其奴がジュナイパーに向かってき、またひとしきりアギャアと絶叫し、太い腕を振り上げた瞬間、ピカチュウは目を瞑った。まったく、本当にワケのわからないうつけものが、遮二無二に考え、確かにうつけものではあったが、こうもあっさりと横死されるのも面倒を見てやった身としては心外だ。
バクフーンのふさふさと暖かい毛並が小柄な黄鼠の身体を包み込んだ。こんな時に妙な気配りをするものだと呆れもするが、視界が真っ暗になってもなお、聞こえてくるはずのものが聞こえてこなかった。天冠の山々に降る雪が一切の音を吸い付くし、音のない世界にしてしまったかと思われた。
網膜の血管が真っ赤に染まっていた。太陽の日差しが閉じた瞼を照らしているのをピカチュウは感じ、おもむろに目を開いた。見ると、時空の歪みは消え失せ、辺りは何事もない列柱峠の坂道である。道の真ん中に、ジュナイパーは背中を向けたまま佇立していた。いつの間にやらそのぐるりにバクフーンは近寄って、彫像を眺めるように首を伸ばしている。ピカチュウは辺りをまだ慎重に見回しながら、ジュナイパーの正面へと回り込んだ。
放浪梟は首をもたげ、仁王像のように目を見開いていた。バクフーンは接吻を施そうかとばかりに顔を近づけたが、瞬きひとつしない。ピカチュウはその鉤爪の鋭利な脚をちょんと踏みつけてみたが、反応はない。バクフーンに少し下がっているように手で合図すると、太ましい脚元に頬擦りをしてみた。ぴい! とジュナイパーは鳴き、三寸ほど垂直に飛び上がると、支えを失った棒のように倒れた。二匹は側で介抱しようとすると、嘴から聞こえるか聞こえぬか、虚ろな言葉が聞こえてくる。
「……なぁがぁくぅ……あぁまぁいぃ……くぅちづぅけぇをかぁわぁすぅ……」
「コイツを連れてっておくれよ」
ぼりぼりと頭を掻きながら、バクフーンに命令した。目を開いたままの此奴のサラシを巻いた腹を苛立ちまぎれに踏みつけると、あふ! とまた変な声を挙げた。
4
寝床に釘付けにされ、ジュナイパーは大人しく三日を過ごした。というのも、三日三晩、一刻も目を覚まさず、傍目には死んだかと思われるほどに眠っていたからである。寝息すら健やかで、よくよく観察して微かに呼吸に合わせ腹の上下するのでやっと眠っているのだと知れた。まるで、動かずに目を覚ましていることが生命に対する深刻な苦痛ででもあるかのようだった。食事にと持ってきたオレンやオボンは、代わりにバクフーンの腹に収まった。此奴も此奴でピカチュウがなんと呼びかけても、一時もジュナイパーのそばを離れようとしないのである。この変鳥にして、この呪縛霊ありだとピカチュウもほのかに得心させられた。
四日目の朝、ジュナイパーは日の昇るのと同時に正確無比な目覚めをして起き上がった。大木に寝そべっていたピカチュウも、草の擦れ合う音で起床した梟に気づく。ピカチュウと目を合わせたジュナイパーは、これで文句はないだろう、と言いたげに羽根をそびやかした。
「変な奴」
ピカチュウは首を横に振りながら待ってろと言い、ジュナイパーの腰に飛び込んで黒いシミが滲んだサラシの縛目を解くと、はらはらと白布が落ちる。ジュナイパーがその辺りを弄ると、傷口はどうにかこうにか塞がっているようだった。
「寝てる間に、なけなしの傷薬を塗ってやった。感謝しろよ、うつけもの」
ありがとうの一言を述べる代わりに、ジュナイパーは片翼で頭の唐傘を掴み、お辞儀なのかどうかも曖昧に頭を前傾させる。
「で、どうするんだよ、あんた」
ピカチュウの問いかけに、ジュナイパーは俯き加減になる。その顔を一目見てやろうと意地悪さに脚元へ近寄って見上げてみる。ジュナイパーはぷいと顔を背けた。変な奴だ、何度でもそう思える野郎だった。
「またどっかでハラキリするつもり? だったら、この辺はやめとくれよ」
これ以上遺骸に接するのは勘弁なんだ、とピカチュウは言い添えた。気が付かぬうちに起き上がっていたバクフーンがゲップをしながらジュナイパーのそばにまとわりつく。ジュナイパーは唐傘を振り乱した。
「仕方がない。死ぬのはもう少し先にしてやる」
「どういう意味だよ」
「こんな落ち着かない土地じゃ、死ぬに死ねない」
「それはどうも」
「で、ここじゃ何が起きてるんだ」
ジュナイパーはその場に座り込んで、頭を上げてピカチュウに目を向ける。山麓からの冷気が迎月の戦場に吹きつけ、枯葉色の羽根をぶると震わせると、蕩けたような瞳孔が俄に引き締まり、そういえば此奴が猛禽の類であったと思い知らされた。
「妙に乗り気になって、変なの」
ほう、とジュナイパーが鋭い吐息をする。
「腑に落ちないものを見た。ヒスイはもう倦いたとばかり思ったが、まだやらねばならぬことがあるらしい……」
その言い草は、答えるというよりは独言ちているような風である。
「何言ってんだかわかんないけど」
人助けをしたいと言うならそう言えばいいんだけど、と思いながらピカチュウは聖域の境の洞穴に向かい、ついて来いよと手で合図する。ジュナイパーはその小鼠について迎月の戦場を出る。バクフーンも暗黙の了解とでも言うように、のそのそと起き上がり、大木の根本に転がった食い残しのオボンを二つ三つ抱えて、二匹の後を追いかけた。
三度、列柱峠を降り、ゴロゴロ山地である。ピカチュウは山道のつづら折りを見渡せる崖へとジュナイパー——と勝手についてくる呪縛霊のバクフーン——を案内する。草の生えた断崖から、先だってピカチュウの挑発に乗せられてジュナイパーが自刃しようとした三叉路が見下ろせた。分かれ道の中央に置かれている岩石の向こうには、坂を下ってフェアリーの泉へと続くのとは別に道がある。単なる行き止まりであるはずであったその岩壁に大きな穴が開いているのをジュナイパーは認めた。
「あれは、何だ」
と、翼を庇に打ち眺めながらジュナイパーは問うた。
「隧道のようだが」
確かにそれは、黒曜の平原にある黒鉄隧道と比べればこじんまりとしているけれども、人とポケモンの手で掘られた隧道に違いなかった。その闇の奥から足繁く逞しい人夫やゴーリキーが出入りしている。まだ若いワンリキーなどが手押し車に山と積んだ石をせっせと外へ運んでいる。
「見りゃ、わかるだろ」
何を今更とばかりにピカチュウは答える。
「あんた、何度もこの場所を通りがかったんだから、一目や二目、見てるはずじゃないか」
ジュナイパーは答えに窮し、胸の辺りを掻いた。あの時は早く死なんとばかり思っていたからと言い訳するのも決まりが悪い。
「しかし、何であんなものを」
「何でも何もさ」
ピカチュウは両手を腰にあてて、誇らしげに胸を張った。
「僕ら、山の向こうまで道を通すんだ」
「道?」
「そうさ、そして山のあっち側まで行ってそこに新しいムラ、作る」
ジュナイパーは説話のように事の次第を知らされた。無沙汰であった天冠の山麓にも、開拓の手が及んでいるらしいのは察していたが、人々はそれに飽き足らず、山脈の西側に広がる森林地帯にも住処を広げようとしていた。そこは、コトブキから北上した辺りの手つかずの場所であり、ジュナイパーとて足を踏み入れたことのない未開の土地であった。
「人の子のすることは果てしがないもんだ」
ピカチュウはさらに一歩を踏み出し、崖際に立ち悠々としてその掘られた壁面を見つめた。僕もこの手の、この小さな爪でほんの少しではあるけど掘ったんだと言う口ぶりはませていた。
「人間とポケモンたちで力合わせても日に僕の背丈ほども掘れない硬い岩盤だけど、きっといつかはあっちへ繋がる。あっちにムラを作りゃ、コトブキムラとここの交通も見違えるほど楽になる」
凄いってあんたも思うだろ、とピカチュウは八重歯を輝かせる。
「……ほう!」
「何だよ、馬鹿にしてるのかよ」
「感嘆してるのさ」
ジュナイパーは首元の蝶飾りのような羽根を弄り、まじまじと開削の進む隧道の暗闇を見つめる。
「しかし、事はそう容易には進まないと来ている」
「アレが急に出てきたのはほんの最近のことだったんだ」
ピカチュウは腕を組んで、工事の様子を見守りながら言う。その言葉には不安や憂鬱、怒りといったものがヌメラが垂らす粘液のように澱んでいた。
「突然辺りが薄暗くなったかと思えば、いきなり見たこともないようなポケモンどもが現れるというのは当然見知っていたし、経験則もある。だから、初めは誰も気にしちゃあいなかった。けど、ある時からそこにおかしなものが混じり出した。ソイツらは、僕らが知っているポケモンのようでいて、まるで違う。おまけに、凶暴さだってそこいらの連中とは桁が違ってる」
「こないだのムウマもどきも、その一体か」
「レアコイルのようなものを見たというのもいる。ジョウトにいるドンファンと似て非なるものとか、それに、居合わせたホウエンの人間曰く、ボーマンダとかいうのにそっくりだったとかとも言ってた」
ジュナイパーは寒風に身を強張らせる。天冠の山脈は何に対しても不動である。
「極め付けがあの『怪物』か」
ピカチュウはそれを思い起こすだけで震えが止まらないというように、カタカタとその身を顫動させた。
「アンタがこないだ対峙した野郎だよ。アレを何と呼べばいいの?」
「まあ、僕が見てきたポケモンたちのどれにも似ていないな」
「ただでさえワケがわからないというのに、アレが出てきてから余計ひどくなった」
「ここのところの大叫喚もそれか」
「こないだので、数少なかったバサギリまでやられちまって」
ピカチュウはほぞを噛み、ひどく肩を落とす。
「黒の輝石だってここんとこめっきり見なくなっちまったってのに」
地べたを蹴り上げると、千切れた草がピカチュウの周りに舞った。ジグザグと走る尻尾にくっついた草葉をバクフーンは指で摘み取り、まるで金剛石でも見るかのように太陽の光で照らし見た。
「ムラの中にはディアルガ様パルキア様の祟りだと言って、岩を掘るのを止そうという向きまで出てきた。今でこそまだ頑張ってるけれど、これ以上アイツらが出てきたらどうなるもんかわからない……ってアンタ、聞いてんのか」
「もちろんだ」
と言いながら、ピカチュウに呼びかけられた時にはびくりと頭をもたげるジュナイパーである。居眠りをしていたのではなかった。このあいだ次元の歪んだ列柱峠で立て続けに遭遇した「怪物」のことを考えていた。対面した時に瞼に灼きついた緋色のことを考え、額から生える羽根を染める群青のことを考え、まるでハリーマンが飛び出したかのように見える胸元の謎めいた部位について考えた。其奴に一度は不意を打たれ、二度目には互いに睨み合いをしたのであった。
「そういえば、こないだはあの怪物と一体何があったんだよ」
「……きぃみぃとぼぉくわぁいつでもー、こぉこぉであーっているのーさー」
「おい」
「冗談だ」
今度こそ10まんボルトの一撃でも見舞ってやろうかと構えるのを、ジュナイパーが翼を突き出しながら、まあ待てと身振りをして羽繕いしつつ、居住い良く座禅を組んだ。
「僕が見たところ、いくつかわかったことがあるんだ」
諭すような調子でジュナイパーは続ける。
「あの『怪物』が現れると俄に空が晴れ渡る。ヤツの存在そのものが雲を薙ぎ払い、太陽の光を招来するかのようだった」
バクフーンの腕の中ながら、目を瞑っている間やけに瞼の裏が灼きつくようだったのをピカチュウは思い出した。
「それとともにヤツの気性はいっそう荒くなった。鬨の声を挙げると、まるで体が一回りか二回りは大きくなったように見えた。胸のやたら大きいよくわからんのが、まるで心臓のようにドクと鼓動した。それに合わせて、他のヤツらもまた余計気性が激しくなっていたな。恐らくはヤツが総大将みたいなものなんだろう」
「アンタはあの『怪物』が何とかなると思うのか」
「わからん。だが、敵のことを知らなくっちゃ、対処もしようがない。最も、敵かどうかだってわかったもんじゃないが」
「あれが敵以外の何だってんだよ!」
熱り立って叫んだ途端、不意にその唐突な声の大きさに崖下の人夫や野生のゴローンたちがこぞって自分たちのいる方を見ていることに気が付き、それから天冠の山脈に吹き荒ぶ風の冷たさが身に染みて、ただでさえ小柄な体躯がさらに縮こまったように感じた。
「昔のヒスイだってそうだったさ」
瞑想をするように落ち着き払いながら、ジュナイパーは懐の羽毛を弄り、ほお、と息を吐いた。
「何だよ、それ」
ジュナイパーの片翼に握られている延棒のようなものにピカチュウは目を奪われた。延棒と言っても金色でもなく、黒々としている。かといってストライクをバサギリに進化させるための輝石にも似ていない整然とした形をしていた。無論見た事もないものだが、表面の片側には、丸い紋様のようなものが刻まれていたので、洒落た印籠の類とピカチュウは勝手に合点した。
「謂わば、人とポケモンの絆というものかな」
「だから、どういうことだって」
ジュナイパーは嘴を突くように古詩を口遊みだす。
昔 この地ができたとき ポケモンと人は
お互いにものを送り送られ 支えあっていた
そこであるポケモンは いつも人を助けてやるため
ほかのポケモンに 人の前に現れるよう話した
それから 人が草むらに入ると ポケモンが飛びだすようになった
ジュナイパーの声調は思いの外に雅やかで、平曲を歌った流しの琵琶法師とはこういうものかと思わせた。さっきから丸まって居眠りをしていたバクフーンもぱちくりと目を開いて、女房のように脇に座してその詩篇が詠まれるに聞き惚れた。
「ふざけた小唄ばかり歌う奴じゃないんだな」
少しは見直したとばかりに、二、三拍手を送る。ジュナイパーはそうでもないと唐傘に手をやろうとすると、翼を伸ばしかけた辺りをバクフーンが勝手に猫の手のようにして掻くので、電気に触れたように座禅のまま数寸、浮かび上がったようになる。雨が降ってもいないのに、羽根がしっとりと湿った。
「とにかく」
腹を一気に凹ませて息を吐いた。その間もずっと片翼に握りしめていた黒い延棒のような何かを慈しむように撫でさすった。
「まあ、落ち着いて考えてもみよう。時空の歪みからは、太古の洞穴で見つかる化石と覚しい連中も現れるというだろう。で、何の思し召しかは知らないが、あそこからはポケモンしか発生しない」
「アレもポケモンだっていうのか」
「たぶんね。卒爾にして天が裂けて生まれる虹色がかった天球の中では、どんなことだって起こり得る」
ジュナイパーは翼にしていた黒い石板のようなものをピカチュウに手渡す。
「何だよ」
「いや、ちょっとそいつに電気を浴びせてくれないかな」
突拍子もないことを言うとピカチュウは首を傾げたが、仕方なくそいつを握り、電撃を通してみた。すると、石板が急に白く光を放ち出す。目を丸くしていると、ジュナイパーの翼がひょいとそれを取って、まじまじとその柔らかい光を見つめる。
「かたじけない」
「で、何なんだよそれ」
ピカチュウが傍から覗き込むと、何かの紋様だと思っていたところをジュナイパーの爪が括ると、それに合わせて白く光るところがチカチカする。そこに小さく投影される写真だとか文字というのは全く見知らぬものであった。
「へえ、イチョウ商会もそんなハイカラなものを売り出すようになったのかい」
「そんなとこさ」
ジュナイパーは何度も頷きながら言った。
「……まっけないこと、な〜げっださっないこと、に〜げっださないっこと、しんじぬくこっとっ」
「何だよその歌」
「『閑吟集』にあるランセの歌謡だよ……だ〜めにっな〜りぃそ〜な〜と〜き〜、そぉれがあっいっちばんだいじぃ〜……」
「まっ、どうでもいいけど。……聞き損ねてたけど、結局、あんたは何者なんだよ?」
「『夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり』」
「ゲキリョ? コーイン? ハクタイ? カカク? 何だって?」
はぐらかされた意趣返しに電撃でも浴びせてやろうかとピカチュウが思った刹那、再び天空が裂け始めた。見張り役のペラップが警報の声をあげ、続いて人夫たちもそこを指差して声をあげた。仕事をしていた者たちは皆一様に、隧道を抜け出し、安全な場所へ避難しようと急ぐ。ジュナイパーたちのいる崖上にもじわじわと時空の歪みが広がっていた。巨大な蚊帳のように広がる歪みは、ゴロゴロ山地全体をおしなべて包み隠そうとしていた。
「畜生っ」
ピカチュウは歯を食いしばり、異様な磁力を放ちながら乱れ始める空間に虚しくも威嚇する。
「『怪物』だかなんだか知らないが、俺らのこと邪魔しくさって!」
徐にジュナイパーは立ち上がり、崖際に立って隧道周囲の騒ぎを見下ろしていた。不意に、両翼を広げると崖から飛び降り、ひらひらと坂道に着地すると素早い身のこなしで隧道へと駆けていった。
「お、おい!」
追いかけようとして、高所に身を竦めるピカチュウの身をサッとバクフーンは行李のように抱えると、躊躇いもせずピョンと飛び降りた。ピカチュウは絶叫する暇もなかった。砂煙を上げながら着地しバクフーンは、大股でジュナイパーの後を追いかけた。
5
隧道の前には、時空の歪みから逃げ遅れた人々が立ち尽くしているところであった。逃げ惑う彼らの前にジュナイパーは立ち塞がるように手羽を懐に隠した姿勢でしかと地面を踏み締めている。
「あんた、何のつもりだよ」
戸惑う人々を他所に悠々と押し立っているジュナイパーに向かって、ようやっとバクフーンの拘束を逃れたピカチュウは呼びかけた。
「こんなとこでぼうっとしてたらみんなやられちまうだろ!」
「……慌てるな」
「でも」
「慌てるな、と言ってるんだ」
脚元から見上げるピカチュウには、ジュナイパーのがっちりとした太ももが迎月の戦場に佇んでいるあの大木のように見えた。戸惑う人々の前を行き来しながら、ジュナイパーは滔々とピカチュウに語り聞かせた。
「さっきも言っただろう。いくらラベン図鑑に載っていなかろうが、奴らは僕らポケモンと同じ存在のはずだ」
「だから、どうすれば」
「まずは動じないことだ。慌てず騒がず、みんな事が収まるまでここいらで待機するように伝えてくれ」
「あんたはどうすんだよ」
ジュナイパーは歩みを止め、ぶるると震えながら冬毛のように毛を膨らませて、ほう、と鳴いた。
「なあ」
ジュナイパーは人々に背中を向けると、おもむろに後ろを振り返った。
「ちょっくら、僕に手助けさせてもらえないか」
「どういうことだよ?」
人々を代弁するべく、ピカチュウが問いかける。
「用心棒になってやる」
その言葉と同時に、おどろおどろしい物音がこだまして、辺り全体がいよいよ時空の歪みに変わった。何もない場所が俄に裂け、そこからいくつもの見知らぬポケモンたちが姿を現した。先だって見たムウマもどきがいた。それから、言葉にし難いものどもが続々と発現した。どよめく人々をよそに、ジュナイパーは動くなと命令するように、両翼をサッと大きく広げる。
「まあ、ここで見ていろ」
ジュナイパーはゆったりとした足取りで彼らのもとへ近寄った。追いかけようとしたピカチュウの身を、バクフーンの腕がひょいと掬った。見上げれば、首元から紫色の炎をチロチロと立ち上らせ、妖美な雰囲気を漂わせながら笑いを堪えているような風であった。悪態の一つでもついてやろうと思ったのを、バクフーンの物言わぬ態度に気圧されて、脚の力が抜けるかのようだった。
ピカチュウの目には、時空の歪みから現れ出たポケモンどもの前を堂々と横切る梟の後ろ姿が見えた。ムウマもどきが額から翼のように生えた髪とも言い難い何かをはためかせているのが見えた。カントーで見かけたプリンを一回り大きくしたようなものが険しい目つきで睨んでいるのが見えた。レアコイルの奇形とでも呼ぶしかない砂鉄をまとった物体がその歪曲した足でにじり寄っているのが見えた。
「く〜も〜りぃ、が〜ら〜すっのっむぅ〜こ〜おはっ、か〜ぜ〜のぉまちっ」
張り詰めた空気を破るようにジュナイパーが裏声で口ずさんだ。異形のポケモンたちが一斉に目を怒らせて踊りかかろうとしたその瞬間にサッと跳び上がると、脚を振り上げてムウマもどきの額に一撃を喰らわせた。そのまま宙高く浮かび上がったままくるりと向きを変え、背後から牙を向けようとするプリンのようなものの髪を爪で鷲掴むと、其奴を鉄槌のように振り回してレアコイルの化物を薙ぎ倒すと、手車のように岩場に打ち付けた。ピカチュウは刮目し、瞬きをする間もないことだった。
安堵してもすぐさま次の怪異どもが次元の狭間より現れ出てきた。ジュナイパーの体躯を優に上回る四つ脚は、ドンファンをいっそう凶暴にしたナリをしていた。上空を我が物顔に飛び回るのは、ホウエン人がボーマンダを彷彿させると言った竜そのものであった。ふわりと着地したジュナイパーは彼らの容姿をまじまじと観察しながら、その嘴から小唄を漏らした。
「か〜れ〜は〜ひぃとっつのお〜もっさもぉな〜いいのっちっ……あ〜なた〜をう〜しなってか〜ら〜……」
再びふわりと浮き上がると、気がついた偽竜が格好の獲物とばかりに飛びついて食らいつこうとするのをヒラリと交わし、懐から矢を一本取り出した。胸元に隠した蔦を弦代わりにして、手早い動作で弓を引いてひょうと放った。一直線に飛んでいった矢は、ボーマンダならぬものの血走った目を貫き、真っ逆さまに墜落させた。バサバサと羽ばたきを続けながら、地べたを震わせるような轟きをあげて向かってくる偽ドンファンの四肢に向けて、驚くべき早業で矢を撃ち込んだ。脚を傷つけられた其奴が萎えたようにその場にうずくまった隙に、ジュナイパーはその真正面に降り立ってほお、と息を吐き、全身に力を込めた。ジュナイパーの全身から仄かな光が差したかに見えると、両翼の間から大型の真珠のようなものが膨れ上がった。腰を屈め、両脚の鉤爪で力強く地面に踏ん張りながら、胸で暴れ回るその弾を渾身の力で前へ押し出した。ルカリオが放つ波動と思しき弾丸は、そのまま巨大なドンファンに直撃し、猛烈な断末魔とともに其奴は横倒しに粉塵を巻き上げつつ倒れるのだった。
歪んだ時空が、水を打ったように静かになった。人夫やピカチュウ含め手伝いのポケモンたちも、岩陰に身を潜めながら呆気に取られたようにジュナイパーの戦いぶりを見つめていた。それには目も暮れず、倒れ伏した謎のポケモンたちの姿を、野梟は顎をさすりながらあちこちから観察していた。
「そ〜し〜てぇ、にぃ〜ねんのっつ〜き〜ひぃがっ、な〜が〜れっさ〜りっ……まちでっべ〜えじゅのっこ〜とをっみ〜か〜けるとっ……きみにぃる〜び〜いのっ、り〜んぐぅをっさ〜が〜すぅの〜さあっ……あ〜なた〜をう〜しなってか〜ら〜」
などと、相変わらず小唄を挟んでいる振る舞いは余裕綽々として、むしろ腹立たしくすらある。ピカチュウは傍まで駆け寄って、怪我はなかったかと念のため訊ねた。ジュナイパーは首元を掻きながら、なんでもないさと首を横に振った。
「もう、大丈夫なのかよ」
「小康状態といったとこだ。歪みが消えるまでは下手に動かない方がいいよ」
そう言いながらしゃがみ込み、伸びたボーマンダならざるものの顔を覗き込む。破れた扇のような翼は、此奴の凶暴性を証するような鮮血に染まっているが、翼の先端は唐突な群青色で、けばけばしい色合いに、ピカチュウの目はチカチカして落ち着かなかった。ささやかな復讐のつもりで、ピカチュウは小さな足でその顔を踏みつける。
「ったく、舐めくさりやがって」
「時空の歪みが消えれば、此奴も直に消える」
落ち着いた調子でジュナイパーは言う。
「やはり見たところ、異形なれども僕らと近しい存在ではあるらしい、が、それはともかくとして——」
感じないか? ジュナイパーが不意に問いかける。訝しげにピカチュウが見上げると、時空の歪み越しに見える太陽がやけに眩しかった。
「気づいたか」
「もしや、まさか」
「幸か不幸か、今から真打のお出ましだ」
ゆったりと地を踏み締める音がした。誰一人誰一匹として動かぬ者のない中で、その足音は歪んだ時空そのものを揺さぶるようにゴロゴロ山地に響いた。一歩ごとに近寄ってくる気配にピカチュウは無意識に腰が抜けそうになる。
「逃げるなら逃げろ。まあここは僕が何とかしよう」
示し合わせたようにピカチュウの隣にはバクフーンが控えていた。何とかできるのかよ、返事をするまもなく、またしても小脇に挟まれて岩陰の辺りまで運ばれてしまう。物陰より眺めれば、ジュナイパーは羽根をそびやかし、小石を蹴りながら自分のいる場所をくるくると回って飄々とした体でいる。人々は騒めいたものの、ピカチュウを含め誰しもこの後起きることを見守っているしかなかった。
アギャアス、とそれは叫んだ。忽ち、岩が砕け、崖が崩れ落ちた。ガブリアス一匹でも起こしえぬ崩落を起こした辺りから、のっそりとそれは巨躯を立ち上がらせた。ジュナイパーはひらりと翼を翻し、其奴に向き合った。屈強な体格をした「怪物」は、額から生え伸びた仰々しい羽根をちらつかせた。眼球が弾け飛びそうなほどに目を見開き、眼光鋭くジュナイパーを睨みつけると、即座に驚くべき軽快さで跳ね上がった。地響きを起こしつつ、それが空中でくるくると前転すると、速度が増すうちにまるで一箇の火車のようであった。
ジュナイパーはただその前で佇んでいた。嘴から低く何かを漏らしていたが、岩陰からこそこそと覗き込む者たちには聞き取ることはできなかった。空中に浮き上がって回転の速度を速め続けるそれは、見るからに眩い光を放ち、まるでそれ自体が太陽であるかの如く自転していた。
息をつくまでも、心の準備をする暇もなく、地震が起きるようにいきなり其奴はジュナイパー目がけて突進した。間髪入れずに跳び上がったジュナイパーが、脚を振り下ろした。両匹がぶつかりあった瞬間、まるでこの世の終わりかと思われるような眩い光が広がった。時が止まったような心地がした。誰もが、ほんの一瞬だけ気を失ってしまったかのようだった。気がついたときには、ジュナイパーだけがその場に立っていた。「怪物」も時空の歪みも、幻のように消え失せ、いつもながらの天冠の山麓である。乱れた羽毛を整えると、ジュナイパーの嘴から空気の砲弾が吐かれた。
バクフーンに抱えられながらピカチュウは、佇立するジュナイパーに声をかけた。
「また、気絶なんてしてないだろうな」
「平気だよ」
やけにそっけなくジュナイパーは答えた。
「あの野郎、どうだった」
「なかなか骨のある奴だ」
「何とかなりそうなの?」
「うむ」
ジュナイパーは懐を弄り始める。取り出されたものを見てピカチュウは一瞬のけぞった。この梟がいきなり胸を引き裂いて、自分の心の臓を取り出したかのように見えたからである。薄紫色をしたそれをジュナイパーは嘴に咥えると、純白の羽毛に包まれた胸を大きく膨らませながら艶美な調べを奏でた。それは、冷えた天冠の空気によく響きわたった。緊張から逃れた人々は覚えず呆けたようになってその笛の音に耳を傾けていた。
「いきなり、なんだよ」
ハッと正気に戻ったピカチュウがジュナイパーに問うた。
「突拍子もないことして」
やはり何も起きないか、それもまたよし、とジュナイパーは小声で呟きながら、得も言い難い笛をまた腹の羽毛の奥深くへとしまった。
「冷静に考えるにはやはり今様が良いと思っただけのことさ」
「どういうことだよ」
ジュナイパーは天冠の空を見上げ、冷たく澄んだ空気をいっぱいに肺へ取り入れた。しばしの沈黙のあとで、ピカチュウとその背後に控える人夫たちを交互に見渡した。
「何とかしてみせよう。用心棒に雇ってくれ」
「ったく、もう!」
ピカチュウは呆れながらも、そう宣言するジュナイパーのただならぬ様子に気圧されていた。思わず、後ずさると、その身がちょうど背後にいたバクフーンのフサフサの腹の中に絡め取られてしまった。脂肪は思ったよりも分厚くて逃れ難く、まるでカミナギ山道に住まうカバルドンの胃臓に収まった気分であった。もぞもぞと蠢いてようやっと逃れ出たピカチュウは、牙を剥き出してバクフーンを罵るが、当の鬼火ポケモンは涼しげな顔である。
「ちょっと前まではあんだけ死のうとしてたくせに、やけにやる気が出たんじゃないか?」
ジュナイパーは意味ありげな眼差しをピカチュウに注ぐだけで何も答えなかった。
「わかってる。あんたは強い野郎だってことぐらい。あの『化物』どもも、もしかしたらあんたなら何とかできるかもしれないよ。ただ、それなら、どうして」
ピカチュウはジュナイパーの顔をしかと見つめ、問いかけた。
「あんたはああも死にたがる?」
「……『我を棄てて去る者は昨日の日にして留むべからず、我が心を乱す者は今日の日にして煩憂多し』」
「真面目に答えろ、うつけもの!」
ジュナイパーの脚に抱きつきながら電流を流すと、ぴい! とジュナイパーは鳴いた。しばらく地べたをのたうち回っている姿は、先刻まで異界のポケモンどもに堂々と相対していた姿とはまるで違った。ほんの少しでも、此奴を頼り甲斐のある梟と感じ入ってしまったのを移ろう心理の酔狂と反省したくなった。核心に触れようと思えば、どうせ適当にあしらわれるのだからと、ピカチュウは話題を変えた。
「そういや、アンタの名前、まだ聞いてなかったよな」
「名前?」
「アンタのこと、何て呼べばいい?」
ジュナイパーはくねくねと畝る坂道を見つめた。野生のゴローンどもがでんぐり返しで気の赴くままに転がっているのに目が留まった。随分と長いこと考え込んでから、意を結したようにして答える。
「ライカ・ローリンストン」
「は?」
「『ライカ・ローリンストン』っていうのが僕の名……」
「嘘をつけ」
小馬鹿にしたように赤い頬をジュナイパーの腿に擦り付けると、今度はコイキングのように跳ね上がった。あわや仰向けのまま落ちそうになるのを、バクフーンのフサフサとした両腕が巧みに受け止めた。
「名前がないなら、あれ、さっき変なこと言ってただろ」
「何をだ」
「それてんちはばんぶつの……とかいうの」
「『夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり』」
「そうそう、それそれ。だから今からあんたは『ハクタイ』さんな」
「……何故」
「だってそれがいちばん響きがよかったんだもん。ま、用心棒の契約ってことで。いいだろ、『ハクタイ』さん?」
「……ませたガキめ」
バクフーンが勝手に頭から首やらを毛繕いしてくるのを仕方なしに受け入れながら、ジュナイパーは懐から件の黒い延棒を取り出した。そこに白く浮かび上がるものを長いこと眺め、嘴先に込み上げてくる小唄を口ずさんだ。
「てーん〜ごくぅ〜じゃあなぁくぅて〜も〜ぅ……らーく〜えんじゃっなぁくぅて〜も〜ぅ……」
だから、どこの歌謡なんだっつうの? ピカチュウは訝しげに首を傾げる。
6
ゴロゴロ山地の九十九折りになった坂道を、壮健な人夫たちが行き来している。人と慣れ親しんだゴーリキーやワンリキーがこばしりで彼らに付き従う。一行は三叉路の片方に入ると、陽気な談話を交わしながら突き当たりの隧道の中へ意気揚々と入っていった。彼らとすれ違いに一仕事を終えた面々が洞穴を抜け出して、汗を拭ったり、卑猥な冗談を飛ばしながら、山頂の自分らの拠点へと帰っていく。
ジュナイパーはそんな人々を崖の高みから胡座を掻いて見物していた。そこから見下ろすと、人間やポケモンたちはまるで点のようであり、黒曜の原野に群れを成すビッパやらコリンクやらブイゼルのようでもある。傍目から見れば心もとない連中が、しかしこうして向かい側へ続く隧道を掘ろうと試みている。そうすれば、天冠の山麓とまだ名もないあちらの森は繋がり、忽ちにして人やポケモンたちがそこへ流れ込むだろう。ピカチュウの少年が興奮気味に語っていたように、森が切り拓かれた中にムラができ、そこにあらゆるものが流入するのだろう。ありとあらゆる感情や欲望がないまぜになって、一つの街を作る。ヒスイと呼ばれた土地の名は、シンオウ様の記憶、キング、クイーン、そして無数のオヤブンたちの記憶とともにゴースの漂わせるガスのように薄れ、消えていくのだろう。ジュナイパーはそのようなことを考える。
隣には頼んでもいないのに、バクフーンが正座して侍っている。短い「おてて」とでも呼べそうなそれを丁寧に膝上に置いた佇まいはイヤに雅な雰囲気を醸し出すのがジュナイパーには落ち着かない。
キイ! と自身も一応は猛禽の一種であると主張するように鳴く。肩をそびやかし、鍛錬された胸元の羽根をそば立たせて威嚇するが、バクフーンはその素ぶりにしばらく気が付かずに、鷹揚な欠伸をした。不意に、一回りも身体を膨らませた梟が丸みを帯びて、顔をどことなく真っ赤にしているのを目に留めると、口元に手を当ててクスクスと笑うのだった。
「馬鹿にするな」
ジュナイパーはそんなことを吐き捨てるように、そのくせたどたどしく嘴にするのだった。それにしても、守るべき彼らから距離を取ってジュナイパーは座している。元より群れることを嫌う性分ではあったが、空恐ろしいと人間は人間でなかなか近寄ってもくれない。
「『ハクタイ』さん!」
ピカチュウが腕いっぱいのきのみを抱えながらこちらへやって来る。用心棒の請負料としてジュナイパーが要求したものであった。視界を遮るほどの量を持ってきたにもかかわらず、小鼠らしく器用にちょこまかと運んでくるのは殊勝である。
「オボン、オレン、ズリ、ヒメリにあとポフ、ナナシ。この辺で取れるやつはあらかた持ってきてやったからな。足りる?」
その場に転がされた木の実のなかから、バクフーンがヒメリを一つ何気ない様子で手に取ると、果皮の艶を太陽の光に照らしながら丹念に確かめる。それから、満足げに頷くと、ジュナイパーへと差し出す。梟はしばらく間を置いて、ふんだくるようにヒメリを受け取る。
「なんつうか、あんたら夫婦みたいだよなあ」
ピカチュウが揶揄うので、ジュナイパーはもう一度先ほどの猛禽の唸りをしてみせるが、バクフーンは艶美な表情で微笑んでいるし、小鼠もそれに乗じて八重歯を見せて打ち笑うので、閉口するしかなかった。黙って、ヒメリを啄めば何とも言えない味がする。図星か、ピカチュウがニヤリとする憎たらしさをまとめて果実とともに嚥下した。
「にしてもさ」
崖の先端でピカチュウは爪先立ちをして、大道芸人のような身のこなしでゴロゴロ山地を眺望する。
「あの化け物をどうにかする手立ては思いついたのかよ」
「がっつだぜぇ〜ぱぁわふるっだ〜ま〜し〜いっ……がっつだぜえ〜」
「おい」
頬から飛ばした火花が腿にかかると、ジュナイパーはカッと目を見開く。
「……冗談だよ」
「で? で? どうなんだよ?」
「うむ」
頷いて、山麓を照らす太陽を見上げる。梟がずっと黙りつつ笠ごしにそれを見つめているので、ピカチュウは訝しんだ。
「まず、太陽をモノにしなきゃいけない」
「ちょっと待って全然わかんない」
もどかしげにジグザグとした尻尾を地べたに叩きつける。
「もっと詳しく教えてくれよ」
「奴が現れると俄に空が晴れ渡る、こないだ言っただろう」
「なんか言ってたね、そういうこと」
おうむ返しに答えるピカチュウに対して、先ほどおちょくった意趣返しとばかり殊更に胸を張る。ムッとする小鼠を尻目にジュナイパーは得意げに話を継ぐ。
「あの緋色のポケモンが現れ出る間際に、天冠らしからぬ快晴がわたり、刺すような日射があった。連中、それで余計に力を増幅させていると見える。時空の歪みで奴と対峙した刹那、その肉体がぶくぶくと膨れ上がって二回りも大きくなるのを僕は確かに見た」
「だからどうすんだよ、そんな奴」
「まあ聞け。だからあの太陽を何とかすればいい、と言ってるんだ」
「だからどういう意味なんだっての、遠回しでなく、ちゃんと言ってくれよ」
ピカチュウは歯軋りしながら言った。
「あんたはどうしてかはわからないけど、並のポケモンよりかは確かに強靭みたいだ。あのバケモンどもにも動じないだけの力があるのは認める。けどさ、一羽でこそこそ事を進められても困る、それはわかるだろ?」
横目に見遣れば、バクフーンは仰向けに寝そべってすっかり寝息を立てているのだった。此奴も此奴で剣呑な野郎だ、野郎かどうかすらわからないけれど。
「言いたかないけど、アンタは『梟』だ。僕は何とも思わないけど、ヒトの中にはアンタを恐れてるのもいる。なんかさ、『梟』を縁起の悪いもんとして気味悪がるのもいるって、薄々あんたも感じてるだろ」
「何が言いたい」
「とりあえずさ。『用心棒』とはいっても、こんなとこから高みの見物ばっかしてないで、みんなの中にもっと気さくに混じっていいんじゃない? ってそんな話しようと思ったわけ」
ほう! ジュナイパーは腹の底から声を出した。天冠の冷徹な空気を劈く音によって、工事現場を行き来する者たちが一様に崖上に直立する梟を見上げ、それから慌てて目を逸らしていそいそと歩き去っていく。
「まあ、さあ」
ぴょんとジュナイパーの肩に乗りかかったピカチュウがそっと電気を溜めた頬を近づけるので、ジュナイパーは思わず身震いする。
「いっぺん、みんなの前でえ、そのおかしな歌謡歌ってみたらどうよ? って僕なりの提案をしてみるんだけど」
「そんなことをする謂れは……」
などと嘯いていると、いつのまにか目を覚ましたバクフーンがコクコクと頷いてピカチュウに同調する気配である。
「だろ?」
得意気にニヤニヤと笑みを浮かべるので、ジュナイパーはまたしても閉口した。
「ほら、ほら」
指先で頬の辺りをつねってくるのが疎ましいが、パチと爆ぜるような音を立てているピカチュウの丸い頬っぺたに脅されて、抗いようもないのが情けない。バクフーンめも、小鼠を摘み出そうともせず、両手を口にあててクスクスと笑うばかりなのには業腹だった。
「せっかく見晴らしいいところなんだ。声もよく通るし、何より目立つ。見た目のわりにはいい節で歌うんだから、そういうとこもっと見せつけた方がいいぜ、『ハクタイ』さん」
「というか、僕の話はどうでもいいのか」
「その話は後で! いちいち木のみ抱えてここまで来るの正直めんどくさいんだから!」
「……やれ、やれ!」
畏怖のために自分のことを見てみぬ振りする連中をジュナイパーはキッと睨め付けながら、思い切り胸腹を膨らませる。羽毛で隠された筋の豊かさが垣間見えるその胴に、バクフーンが興味津々に掌をあてるのも構わなかった。そぉれ、いち、に……! とピカチュウが囃し立てる調子から少しずらして、さん! と叫ぶのと重なるように、ジュナイパーは彼なりの「今様」をがなり立てる。
「……まけぇな〜い〜よ〜うに! か〜れぇな〜いよ〜うに! わ〜らってさ〜く〜はなにぃな〜ろ〜う!」
人夫たちが一様に目を丸くして崖上の梟を見上げる。刺すような視線を避けるようにジュナイパーは頤を突き出し、半ば自棄になって歌った。
「ふぅとじぃ〜ぶぅ〜んにぃ! まぁよ〜う〜とぉきぃは〜かぁぜぇを〜あ〜つぅめてぇ〜そぉらぁに〜はな〜つよ〜! いまぁ〜!……」
天冠の山麓の空気がいつも以上に冷たく、澄んでいるように感じられた。山彦が何度もこだますうちに弱まって、山頂に積もる雪が音の残滓をすっかり吸い込んでしまったかのようだった。ジュナイパーの聴覚には嘴から白い息とともに漏れる呼吸と、体内で鼓動する臓器のバクバクいう音しか聞こえなかった。
瞳を下端に動かして、それとなく隧道の様子を斜視する。棒立ちになっている人影らしきものが何となく見える。それらはこんもりとした盛り土に乗せられた粗末な墓標のようにピクリともしない。ジュナイパーも敢えてそれ以上動こうとはしない。沈黙がやけに長引くように思えた。
肩をチョンチョンと突くのは、バクフーンの指である。意固地に無視していると、指はいっそう羽毛の奥に埋まっていく。やがて張りのある肉に触れると、爪先を突き刺すようにグイと動かす。
掠れた笛のような鳴き声を立て、ジュナイパーはつい視線を崖下の山道に動かしてしまう。人群たちが注ぐ視線と目が合った。ゾッとして顔を背けたが、またぞろゆっくりと首を動かして、恐る恐る彼らの様子を確かめる。
——よッ
威勢よく誰かが叫ぶと、一瞬の気後れのあとで疎らながら拍手が鳴り始める。それは純白の凍土に降きすさぶ吹雪のようにやまず、さらに誰がしかの加勢する音頭を加えて、俄かに雷神が到来したかのように大きくなった。
全身の羽毛を膨らませながら、何が何だかわからないままに喝采を身に受けていたジュナイパーはむしろ首を傾げていた。
「な?」
ピカチュウが得意気に耳元で囁いた。
「肝心なのは親しみやすさだよ。なんだか自分らのいる片隅で凄い形相して構えてる梟と思われるよりは、こうしてトンチキリンな真似して面白がられる梟の方がありがたいのさ」
「ト、トンチキリン」
「カントーで聞いた落語の熊さんみたいで面白かったぜ、『ハクタイ』さん!」
「……むっ」
どこか合点の行かぬジュナイパーの無防備な横っ腹を隙ありとばかりにバクフーンの食指が突っつくと、むず痒さが全身を伝って、ひん! と惚けた悲鳴を上げてしまう。まったく、どいつもこいつも。俯き加減で肩をヒクヒクと震わせながら、ジュナイパーはくぐもった声で独りごちる。高熱に罹ったかのように顔が熱かった。地団駄を踏みたくなるのをようやっと我慢して紅葉色の梟は、脚でトントンと地べたを叩きながら、嘴から何か漏らした。
「……ダバダバダバダバ……ダッバ〜ダダバダバァ……!」
ピカチュウが首を傾げる。バクフーンもそれにつられて艶な表情でジュナイパーを見遣る。
「ダッバ〜ダバダバダバダバダッバア〜ダバダバダバダ〜……はっ!」
いきなり腋に隠した翼を全力で開いたので、肩に留まっていたピカチュウは尻餅を付いて落ちそうになったのを、バクフーンのふさふさな掌に優しく受け止められた。目を丸くして見れば、ジュナイパーは神がかりにでもなったかのように全身を揺さぶって踊っていた。突然何の加持祈祷でも始めたものかと驚いていると、木の葉のように肩にかかった羽毛をしゃかしゃかと鳴らしながら、しゃにむに跳ね上がっては強靭な鉤爪で何度もゴツゴツした岩に生えた雑草を吹き飛ばした。
「どぉ〜あのぉ〜むっこ〜お〜きぃづぅかぁな〜い〜でえ〜!」
「な、なんだよいきなり」
「こいをっしてったあ〜ゆめっばっかっりっみって〜たあ〜そぉしぃてっぼっくっわしゃ〜べりぃすぅぎ〜たあ〜!」
真上のバクフーンは、柔和な顔つきを微塵も崩さない。それどころか、何かを納得したかのようにうんうんと相槌を打っている。ひとまず此奴が狂ったわけではない、ということがピカチュウには察せられた。ジュナイパーは羽ばたきもせず一気に崖下の人夫たちのもとへ飛び降りた。
「ほぉて〜るぅのや〜ねぇ〜すぅべりぃお〜りぃて〜え〜! ひるぅす〜ぎぃにわ〜ねっぶっそっくのぉぼ〜く〜にっ! て〜くわんのこ〜えがすっるっ!」
呆気に取られる群衆を掻き分けながら、ジュナイパーは嘴を大に開いて裏声でがなり立てる。
「ま〜よなか〜のまっしんっがんっでえ〜きぃみぃのは〜ともうちぬけぇ〜るさ〜あっ!」
ピョンと飛び上がると、思わず手の出た人々に担がれる姿勢になったジュナイパーはその上でゴロゴロとのたうち回りながら、燦々と輝く太陽に向かって挑みかかるように絶唱し続けた。天冠の山麓にはただ梟の裏返った声だけが囃子のように響いていた。
「は〜しるぼ〜く〜らっ! ま〜わるか〜め〜らっ! も〜っとすなおにぃ〜っ! ぼくがっしゃべれ〜るぅ〜な〜ら〜あ〜!」
ダバダバダバダバ……ダッバ〜ダダバダバァ……ダッバ〜ダバダバダバダバダッバア〜ダバダバダバダ〜……はっ!
最後に石の上にピョンと飛び移ってジュナイパーはぜえ、ぜえと息を吐きながら片翼を思い切り誇示して見せた。誰もが目を点にし、何が起きたかを解せず、じっと黙り込んでいた。ピカチュウも崖から顔を覗き込ませて黙っていた。バクフーンは妖美に微笑んだ。
その日以来、集落の者たちにとってジュナイパーは得体は知れぬがどうやら愉快な梟だ、ということになった。
7
宴も酣の折り、酔い騒ぐ連中の内より密かに出て、ジュナイパーは一際寒い夜風を浴びていた。集落から少し離れた仮寓たる迎月の戦場である。
ピカチュウに唆された勢いで、あのような大立ち回りを演じてからというもの、天冠の人間どもはすっかりジュナイパーと打ち解けて、事あるごとに例の今様をと囃し立てるようになった。不幸と音が似る梟を恐れる人心が鎮まったからには喜ぶべきことではある。実際、ジュナイパーも隧道で立ち働く人夫たちが一息つく時、夜になって労働者たちが酒を酌み交わす時、自然と自己を取り囲んだ人群に向かって一曲朗するのもやぶさかではないのだから不思議である。
「りぃず〜む〜おんぷぅ〜! は〜ずぅむ〜かんじぃ〜! みみぃ〜す〜まぁ〜しぃ〜! すっこっしい〜ま〜し〜いぃ!……よくよ〜がじゅ〜よ〜! きぃぶ〜んへんよ〜! きぃみょ〜な〜げんっしょ〜! く〜っき〜しんど〜!……」
などと胸を突き出しつつ絶唱すれば、意味はわからずとも喝采が飛ぶ。気分は悪くなかった。調子に乗ってもう一曲、また一曲と朗せば、男女も老若も問わずますます笑って興ずるのであるから、こよないことである。今宵もまた、嘴で吟ずる程に一杯の酒を勧められ、断るもあえないから盃を取って、高揚したままに飲み干したのであった。
しかしながら今日の吟醸は効いた。猛り狂った人々の間にいる内は酔いも失念する程であったが、ふと、頭の片隅に一念が思いもあえず過った途端に、頭が重くなってくる、噦が込み上げてくる、胃がもたれてくる。表向きは平然と立ち上がるが、随分酩酊している。東屋を抜け出すと早速、寒風が梟の身を刺した。囲炉裏の火で暖かかった屋内とは打って変わって、天冠山脈の剥き出しの寒さである。酔いは醒めるどころか、むしろいっそう冴え渡った。不覚にも吐き気を覚え、人知れぬ物陰でジュナイパーは戻した。嘴を広げて嘔吐すると、何故か自分がモクローだった頃のことを思い出した。やれ芋餅だ、木のみだと言われれば勝手に嘴を開いていた雛のことが、まるで他鳥のように思われた。兎角、この場にバクフーンめがいなくて良かったと衷心から思った。奴がいれば、ただ慈悲とも嘲弄とも知れぬ微笑を浮かべながら、何も言わずとも己の背中を摩るのだろう。
気分は多少楽にはなったが、なおも頭はくらくらとした。その身は自ずから、かつて迎月の戦場と呼ばれた空地へと向かっていた。ムックル足でようやっと大樹の側に至ると、ジュナイパーは逞しい幹に寄りかかって、そのまま、崩れ落ちた。
手持ち無沙汰に懐の毛並みを弄ったが、そこにあるのは物言わぬ黒い延べ棒と臓器を思わせる笛ばかりである。所持していた小刀は、ご丁寧にもピカチュウに取り上げられていた。これも契約の一つ。ピカチュウは傲岸にも言ったものだ。事が何も解決してないうちに死なれたら大迷惑だろ? その隣で手弱女の如く正座していたバクフーンの意味深の微笑からして、奴めも一つ噛んでいたに違いなかった。賢しらな奴らめ、と声にもならぬ声でそう毒づくと、また俄かに吐き気を催したので、ジュナイパーはしばし黙った。
大樹の根本に横臥して、只管に感覚が平常になるのを待っていた。ジュナイパーの意識に様々なものが去来していく。そうした記憶や思い出を、梟は最早懐かしむこともせず、悼むこともしなかった。そのようなことをするのは今となっては無粋であるようにさえ思われた。続々とヒスイの地を踏む人々の口にやがて上らなくなるであろうもの。幻のように掻き消えて去るもの。
渇きのように死への願望が押し寄せてきた。水分を切らしたかのような全身の痙攣が始まり、肉体はギャロップのだいもんじの火焔を浴びたかのように燃え盛って、ジュナイパーは身もだえした。今や誰も護る者のない大木のぐるりを人知れずにのたうち回った。精悍な幹に体をぶつけると鈍痛が染み渡ってくるのを、また別の鈍痛によって誤魔化した。最早、自分がどのような格好で転げ回っているのかわからず、往古来今之を宙と謂い、四方上下之を宇と謂う、などと懐かしき何者かが囁いたかの「宇宙」を漂っているとはこのことであった。
——貴様!
霧の中から誰かが呼びかけている。声は驚くべきほどの透明さを以て香りのように鼻腔へ、味覚のように口舌へ、生きとし生けるものの肌の温かみのように皮膚へと染み渡った。どうにかして体を起こすと、あれだけ自己を苦しめていた酔いが嘘のように消え去っているのは何というお守りの加護だったか。
「何奴」
脚でしかと地を踏みしているのを確かめながらジュナイパーは尋ねた。
——妙なことを嘴走る、俺のことを忘れでもしたか
それで、ジュナイパーは思い出した。迎月の戦場に立ち寄って、主たるマルマインとしばし談笑を交わしている最中であったことを。
「いや、ちょっと気がぼうっとしていてね」
——貴様は昔からそうだ。せっかちな俺にはちと呑気が過ぎるぞ
「相変わらず手厳しいね」
肩をそびやかして苦笑もされた。天冠を司る洞窟の大王は、随分と短気でせっかちなマルマインであったと思い直した。
——それで、お前は何を見、何を聞いて来た?
単刀直入にそう尋ねる。
「今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき、かな」
うち笑ってジュナイパーは心に移りゆくよしなしごととして、ヒスイを旅して得た見聞を語るのだった。黒曜の平原にましました森の大王が薨じるのに立ち会った顛末を語り、そこで大王は事切れる間際までただ一匹の小柄なストライクのことを気にかけていらっしゃった、不本意にも黒曜に触れ、王と同じ御有様になったことがあさましくて森を去ったものの心安からんことをと、奥の森で人知れず横臥したバサギリ殿はそう僕に言い残したのだと語るにつれて、ジュナイパーは自己がまるで古の里の住民のように幾重も時代を重ねたかのように思われた。
あるいは、群青の海岸の話でもしようか、かの剛毅を以て名高いイダイトウめが突如改悛し、砂の手に奥津城を積み重ねつつ勤行した説話を。時めいて衷心より慕った火吹き島の王が不慮の死を遂げし折りに
あるいは、あるいは、舞台の戦場で崇められた女王が見せた力強くも哀れな舞のことも。いつしか人も絶え、戦場が荒れ果てて凄まじくなってもなお美しき舞踏を止めることのなかった可憐な女王の振る舞いを、健気な微笑みを。そしてあの新月の夜に、不信心な連中どもに舞台を荒らされ、女王自身も忘却された古詩の断片のように崖下へ捨てられてもなお、その凛々しさを失わなかったことを、言の葉によって永久に石板に記憶を刻もうとするかのように語り聞かせた。
——話せ、話せ。俺はヒスイの来し方行く末を知りたくてたまらんのだ!
あるいは、そうだ、まだ話したことのない話があった! 純白の凍土はキッサキの神殿にいまいますウォーグルが、その勇猛と蛮勇とを奮って、果敢に挑み、ひどく傷つき、それでもなお最期の瞬間まで守ろうとしたものは何だったか?……さあさあ、聞け、聞くがいい、ヒスイと共に生き、生かされ、そして共に死にゆく運命を背負い、争うわけでもなく、従うわけでもなく、川の流れのようにあるがままに身を任せた僕の話を。ただ天冠の山麓に落ちた一滴の水が渓流となり、数多くのバスラオどもを押し流しながら大河となって下り、古人の隠れ家、湿原の集落、海岸の漁村をくぐり抜けて、遂には一匹の龍となって天に昇っていく、まさにそのように「ヒスイ」と渾融したこの僕のよしなしごとを聞け!……
調子が出てきた。ここは一つ歌謡と行こうか。ジュナイパーは意気揚々として立ち上がり、右爪で軽く宙を摘んで扇子を持っている風を装った。大樹を書き割りの松に見立てつつ、見えぬ扇子を蜜を吸うアゲハントのように流麗に、あるいは火焔に誘われるドクケイルのように剽軽に舞わせながら、甲高い声も朗らかに、古歌を歌唱してみせる。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
一頻り嘴ずさめば大いに愉快な心地になって、ガチグマのように豪快な哄笑もされた。腹が裂けんばかりにクツクツと胴を震わせながら、しかし何が愉快なのか、何が自分をこうも狂ったように笑わせるのか。ジュナイパーはしゃにむに翼を振り乱しながら、即席の舞台を端から端へヨタヨタ歩き回っては、闇に向かって見栄を切ってやった。己が睨めば俄かに闇も晴れるぞと言いたげに、そんな力があるのだと自身信じ込んでいるかのように瞼を頻りに波うたせ、あたかも英雄然として。
——貴様はいつだって変わらぬ!
満足げに洞窟の王が囃し立てた。
——も少しおとなしくしておれば良き伴侶もできたものを!
「はははっ!」
ジュナイパーは短な両翼を羽ばたかせて、迎月の戦場をまるで人魂のように飛び回った。モクローの頃に還ったかのように心身が自由になった気がし、自分がしていることの滑稽さ馬鹿馬鹿しさも気にならなくなるほどに心地よく麻痺した精神をそれこそ翼のように羽ばたかせ、枝から枝へ、岩から岩へ、飛び移って興じるのだった。下半を踏ん張らせて力強く跳躍すれば、梟の身体は手毬のように弾んだ。このまま月まで飛んで行ってしまおうか、それでも悪くあるまい……
——やれやれ。
背中を舌で舐められたように、ぞくりとした寒々しい戦慄がジュナイパーの身に走った。
——貴様はそうして何時まで見苦しく生きるつもりだ?
振り返りたくなかったが、ジュナイパーは振り返らざるを得なかった。そこにあったのは洞窟の王たるマルマインのものでは無論あり得ない。
憎悪と喜悦が綯い交ぜになった感情が湯の煮えたぎるように起こった。月光のみが照らす闇にあっても断じて見紛うことのない白髭だった。ジュナイパーは瞳孔をきりきりと狭めつつ、自己の存在を確かめるために脚爪で地べたの感触を確かめる。
立ち現れた濃藍の鎧に蔦のような朱色の模様が映えている。その陰で妖しくも光る眼光が、ジュナイパーを冷ややかに見つめていた。いつ邂逅しても、少しも変わることのない立ち振る舞いである。
——やれやれ、死に損ないめが。
嘲弄を含んだ哀れみが梟に向けられる。そのような眼差しに晒されることには慣れきってはいたが、かつては朋友とさえ呼ぶこともあったダイケンキに浴びせられる侮蔑は、凍土に囲まれたエイチ湖の冷えた水をかけられるかのようだった。
——往時を知るものは最早貴様を除いて誰一人としていまい。お前の役目は最早終わった。お前の念願する相手だって幾世代幾千年待とうが決して、現れることはないと知っているくせに。
お前こそ何だ、いつにもまして無作法な挨拶をする。そう嘴に出そうとしたが、飽きるほどに暴れ回っていたおかげで喉がカラカラに乾き、掠れた声しか出すことができなかった。
——怯えているのか。所詮、死に時を見失って愚図愚図しているだけか。無様だ、あまりにも無様だな。
「黙れ、狼藉者が!」
——声が上擦っているぞ、道理を知らぬモクローの頃の方が無知故にまだ堂々としていたな。
最も、遠い昔の話だがな、と何の感慨もなく言い放つ。嘴をカチン、と強く打ち鳴らしても虚しかった。何か言い返す代わりに、唾を吐くのが精々だった。何故だ。ジュナイパーは独りごつ。どうして僕は、いつまでも彼奴の影にビクビクしなければならないのか。
「お前はいつもそうだ」
しかし、溜め息を吐きつつそれだけ言うのがやっとだった。
「都合の悪い時に現れては、僕をコケにしていくんだな」
く、く、く。ダイケンキが不気味に笑えば、俄かに月明かりが差し込んだ。眩さに俯けば、白く輝いた地面に伸びる幾つもの影が見えた。風に揺られて気味が悪いほどゆっくりと揺れるそれを直視するのは忍びなかった。
——何故目を逸らす?
煽るような口振りでダイケンキが言うと、ジュナイパーは目を瞬かせながら顔を上げてしまう。そうなることがすべてわかっていたかのようにダイケンキは満足げに頷いた。
——いずれ、貴様も同じようになるというのに。
顎でくいと上を指す。ジュナイパーは見上げないわけにはいかなかった。何もかも弄ばれるがままだとわかっていても此奴の挑発から逃げるのも悔しく勢いよく首をもたげたが、強烈な白光に目潰しされ、思わず尻もちをつきそうなほどにクラクラするのを何とか堪えた。ようやく目が慣れてくると、それらが少しずつ明瞭に浮かび上がってくる。
大木はポケモンどものなる木だった。バサギリが力なく石斧を垂らして首を吊っていた。白目を剥いたガチグマは幹を獲物のかかった竿のようにきつくしならせ、ドレディアは両葉をだらりと下げてチリーンのように風に揺られていた。鰓に縄を通されたイダイトウは上半を切り取られて赤い身を曝け出している。吐き気を覚えて咄嗟に目を逸らせば、目と鼻のすぐ先で、ウォーグルが首を上に向けて寒々しい姿で事切れていた。
——貴様も既に片脚は死者の世界に突っ込んでいるんだぜ。貴様の腹蔵にどんな未練があろうがな。
木の枝にただ一つ、まだ何も吊るしていない縄が結ばれていた。先端に輪っかの作られたそれは、物惜しげにぷらぷらと揺蕩っている。
——死にたいのだろう? ならば、素直に死ぬがいいさ。俺がしかとそのザマを見届けてやろう。
冷ややかな視線を向けながら、ダイケンキは静かな口振りで挑発した。心臓の裏側にできた襞まで凝視されているような気味の悪さを、ジュナイパーは顔を顰めながら必死に堪えていた。
——感謝しろよ、これでも俺なりの
「僕は」
一語一語、言霊の響きを確かめるようにジュナイパーは言い返した。
「死ぬにしても、見てくれよく死にたいと思っているのさ」
——見てくれ、か。
案の定、ダイケンキはジュナイパーの意地を軽蔑する。そんなことは袂を分った瞬間から既にわかりきったことだった。
「お前には決してわからない」
梟はダイケンキを見据え、全身の震えを隠した。
「わからなくたって大いに結構。所詮は自己満足に過ぎないことも承知だ。けれど、これは」
一瞬嘴ごもったあとで、何クソと自己を奮い立たせた。
「僕にとっての……」
突然、脚元から強い風が吹き上げたかのように全身がフワリと宙に浮く気がした。ダイケンキも、枝に吊り下げられたヒスイの仲間たちも視界の外へと消えていった。煌々と輝く月が視界にゆっくりと、段々と、大きくなった。そういえば、数えきれないほどの夜を明かしたにもかかわらず、これほどまでにまじまじと月を見つめたことなどなかったことが、今更ながら感得された。
呆気に取られ、思考はしばらく沈澱していた。目に見えるもの、耳に聴こえるもの、肌に感じるものが、どれも別人の感覚であるかのようにバラバラに知覚された。自分が自分であるという感覚は希薄になって、卵から孵り直しでもしたみたいだった。ジュナイパーは自己に起こったことを考えようとして、朧げながら自分が泥酔しているということを思い出した。
背中を包む優しく柔らかい感触が、ジュナイパーの意識を醒ます。皮膚という自分の境界にピッタリと密になり、襞さえも捕えようとする心地よいような気色悪いような指の一本一本が、梟の引き締まった肉をしかと掴んでいた。肩甲と臀部の辺りを揉まれるこそばゆさに、つい腑抜けた声をあげそうになった。
自分を抱くバクフーンの媚びたような笑みであるなど見たくはなかった。酔いのあまりに幻影に囚われていた自分の醜態を此奴はいつから眺めていたのか。きっと能劇の観衆のようにシテを演じるジュナイパーの姿を、淑やかに座しながら初めから見物でもしていたのかと思うと急に腹立たしくなってくる。そして、序破急と進んだ夢幻劇の幕が切れるか切れぬかというあわいで、俄かに立ち上がって錯乱する自分を介抱し、こうして満足しているのか飽き足りぬのかわからないような惚けた笑顔を浮かべているのだ。
僕は赤子じゃない、と身じろぎすればするほど身体は豊かな毛並みと肉を持ったバクフーンの腕の中に沈み込んで行ってしまう。ぶり返した酩酊の疲れが、ジュナイパーから考えることも行動することも億劫にさせていた。やれやれ、いたずらに酒を煽るのは止そう、とさもありなんな教訓を胸に刻んでみることをした。またろくでもない夢を見るといけない。
頭上を覆う迎月の大木には、無論何も実ってはいなかった。風にそよぐ葉音が、過去も未来も関係なくさらさらと音を立て続けていた。
8
氷を吐けるヤツをありったけここに連れて来い、とジュナイパーは命令した。ピカチュウはその旨を身振り手振りで集落の者どもに伝えると、人々はうち驚きながらも、早速純白の凍土に一団を派遣することにした。まるでありし日のギンガ団を思い出す、とかつて寿村の開拓に携わった派遣団の一員は梟の唐突な頼みにも寧ろ意気揚々であった。で、どれくらい必要なのだと人々が尋ねると、ジュナイパーは目一杯に冬毛を膨らませた。人々は笑いながら合点した。
隊の帰りを待つ間にもムラの人々は隧道を掘り続けた。一日かけて爪ほどもない幅の岩盤を削っては、破片を外へこんもりと山のように積んでいく。人々の道を作らんとする欲望と熱情は果てしがなかった。傍目から見れば進んでいるのか沈滞しているのかもわからぬジュナイパーはただその姿を目を丸くして見つめているばかりである。
「あんたもちょっとは手伝ってみたらどうだよ」
「ハクタイ」さんといかにも気安くピカチュウが呼びかける。
「……何でだ」
「だって『ハクタイ』さんって風来坊で用心棒気取りではあるけど、実のところ風太郎なわけじゃない? 駄目だよそんなんじゃ、これからのヒスイは働いてナンボなんだから」
ふん、と梟は息を吐く。
「なんだよ」
「つくづく時代は変わったと思っただけのことさ」
また気障なこと言いやがるねえ、と旭日のような赤い頬っぺたを脇腹に擦り付けようとするのに、咄嗟にきゅっと腹を凹ませるのは自分でも滑稽である。自分の隣に影のように控えているバクフーンは口に手をあてて典雅に微笑んでいるのも己を子供扱いしているようで業腹だ。
「そんな怖い顔をするなって」
訝しげな視線を向けると、ピカチュウは八重歯を見せながら苦笑する。
「やってみると案外楽しいかもしれないぜ。それに、いま働き手のあいだであんたの歌が流行ってるんだ」
「何がだ」
「『ふ〜ゆのぉ〜りび〜えら〜っ おとこ〜ってやつ〜は〜』、ってヤツ。なんかみんな口ずさんでるよ」
けど、「りびえら」って何なんだよ「ハクタイ」さん? そう小鼠が問いかけると、ジュナイパーはそれに答える代わりにすっくと立ち上がって、
「みなと〜をでて〜ゆ〜くぅ〜! ふぅ〜ね〜の〜よ〜だね! かなしけ〜ればっ! かなしい〜ほど〜おっ! だ〜ま〜り〜こぉむぅ〜も〜んだねぇ〜っ!」
「曲調はともかく、言いたいことはわかるってさ」
ピカチュウは細長い耳をぱたと倒した。
「『ハクタイ』さんもさあ、一緒に歌いながらどう? いっぱし汗でも流してみたらどうだよ? 汗も滴るいい男っても言うだろ?」
「やたら今日は執念深いな」
「だって言わなくてもわかる、だろ?」
ニャスパーが揶揄いに前脚で打つように、ピカチュウの手がジュナイパーを小突いた。
「あんたの命令で隊を凍土に遣ってからあ、人手がちょっと足りなくってさっ」
ジュナイパーは惚けたように空を見上げた。冷えて、澄んで、綺麗な空だ。ピカチュウの電撃が飛んだ。ぴい! 劈くような悲鳴が天冠の冷厳な空気を震わせた。梟はぱたと後ろへ倒れた。目を丸くして改めて空に刮目すれば、やはり冷えて、澄んで、綺麗な空である。忽ちそれを覆い隠すようにピカチュウのしたり顔と、腹の底の読めぬバクフーンの中性的な顔がにゅるりと視界に現れた。
「なあ、頼むよ『ハクタイ』さん!」
そう頻りに頼まれるとにべに断ることもできないのがジュナイパーであった。わかった、だがいいか、ほんの数蹴りだぞ、僕はあくまでも用心棒なんだから……と念を押して、何度もくすくすと笑う二匹を振り返りつつ、羽根をそびやかして隧道につかつかと入っていった。日が沈む頃おいになって、またつかつかと踵を返してきた梟は、顔を上気させながらやけに堂々と誇らしげな様子であった。
「何だよ」
ピカチュウが呆れながら問う。ジュナイパーは頷く。
「……きのみを一個増やしてくれるなら、これから手伝ってやらないでもない」
「素直じゃないなあ、『ハクタイ』さん!」
バクフーンが労うようにジュナイパーの後方に回って柔らかい毛をまとった手で肩を揉んだ。もぞもぞと微かに嫌がる素ぶりをしつつも、全く拒絶する風でもない。
「やっぱりあんたらってお似合いだよなあ、どういう関係だか全然わかんないけど」
「そんなわけは!」
躍起になって叫ぶジュナイパーの身に、バクフーンはしなだれる。何とは言わぬが、見せつけるような姿態である。ピカチュウは腹を抑えてくぐもった笑い声を挙げ、ジュナイパーはすっかり全身が紅葉してガタガタと震えた。
依然として時空の歪みの脅威はあった。とはいえ、それが起きればすぐさまあの用心棒のただならぬ梟が駆けつけてくれると、人間では暗黙の信頼が醸成されていた。実際、俄かにその気配がすればすぐさま駆けつけたジュナイパーが、現れ出たおどろおどろしい怪奇どもを蹴散らした。
だが連中の首領と思しき怪獣はこのところ姿を見せなかった。歪みが立ち現れる刹那に全身の羽根の汗ばむ感覚がしないことで、ジュナイパーはそのことに気がついた。牙を剥いて襲いかかってくる連中が思いの外手応えのないことで、そのことを確信した。ムラの人々も、あの言語に絶する敵の不在に安堵するべきか訝しむべきか戸惑った。ともかくとして、そうした木の葉の擦れるような動揺を尻目に、ジュナイパーは一仕事を終えるとまたその場にどさと腰を下ろして、堂々と胸を張って小曲を嘴遊むのが決まりであった。
「ふ〜ゆのぉ〜りび〜えら〜っ! じんせ〜ってやつ〜は〜! お〜も〜いぃ〜ど〜ぉ〜りぃにぃ〜! ならなぁ〜い〜ものっさ〜!……」
やがて、凍土の調査団からの手紙を電信役のムクバードが届けに来る。曰く、あらんばかりのからくり玉にオニゴーリ、マンムー、ユキノオーを詰めた、これより天冠に帰ると言う。ピカチュウはその旨をジュナイパーに伝えた。梟は満足げに頷いた。
「これで怪物に勝算ありってこと、なんだろうね?」
まあ見ていろ、とでも言いたげにジュナイパーは蓑のような両翼を翻した。言いたいことがあるんだったら格好つけずに直截言えよ! ピカチュウが足元に電気の火花を浴びせると、梟は威勢よく垂直に跳躍した。あまり跳び上がったので、山並みの向こうに森が見えた。未知の世界、世界の果てである森が一様に己のことを見つめているような不思議な感覚を覚えた。
隊の帰りを待つ間、山頂のムラは一段と活気付いた。多大な犠牲を払ったとはいえども、西の森へ続く隧道も開通まであと一息というところまで達していた。それに、あの剽軽な梟にはどうやら秘策があるらしい、怪物の総大将が現れ出ればきっと美事に退治もしてくれよう。民衆の期待と興奮に満ちた眼差しを至るところで浴びながら、ジュナイパーは肩を聳かせながら練り歩いた。時空の歪みのないときは人夫に混じってその精悍な脚で岩盤を削り、夜になれば人に混ざってほどほどに酒を飲み交わしつつ興にのって謡曲を歌う。天冠の日々は慌ただしくも過ぎていく。
ジュナイパーは時折、そもそも自分はここへ死にに来たのだということを忘れ物のように思い出し、やれ、やれ! と首を打ち振った。死のう死のうと愚図愚図しているといつも邪魔が入る。あまつさえ絆されてしまうのも不本意である。けれども、心地よい疲労と酩酊のために迎月の戦場に横臥するたび、ジュナイパーは己の肉体がかくも存在を誇示していることを狂おしいまでに意識せざるを得なかった。心の奥底でなおも自分が何かを強く熱望していることを、思いたくなくても思わざるを得なかった。自己にまとわりつく呪いのようなこの感情を、どうすることもできずに身悶えしつつ忍ぶしかないことに、ジュナイパーは苦しまざるを得なかった。
隧道を見下ろせる崖に陣取ってジュナイパーは胡座を掻いていた。まともに眠られそうになかった。昂った感情が、自己の心臓を晩鐘のように鳴らしている。天冠の冷厳な風を浴びながら、じっくりと火吹き島の溶岩のように燃えたぎった心境が冷めていくのを待っていた。
ジュナイパーは立ち上がり、雪をかぶった山脈の向こう側に広がる未知なる森を凝視した。数々の開拓団が翡翠に入植してもなお侵食されることのなかった森。物言わぬ緑青と群青をまとって地の果てまで広がる森。最後の秘境であり、まもなくその無二の地位からも引き摺り下ろされるであろうこのわたつみのような森……
全身を軽く揺すりながら梟は自然な間隔に足を開き、勢いよく肩をいからせてから、ふう
! と息を強く吐いて上体の力を抜いた。
「あ〜わ〜きぃひかりたつぅに〜わかっあめ〜! い〜と〜し〜おもかげのち〜んちょ〜げぇ〜!……」
何をどうすればいいかわからなくなるといつもそうなるように、ジュナイパーは歌った。
「あ〜ふ〜るるぅ〜なみだのぉつ〜ぼみぃからぁ〜! ひ〜とつぅ〜ひ〜とつぅ〜! かおりぃ〜はじぃ〜めるぅ!……」
ジュナイパーは歌い続ける。祈るようになのか、願うようになのか、縋るようになのか、それはもはや翡翠の人民が、かつて彼らとともにあった「シンオウさま」の影も形も思い出さなくなったのと同じようにわからず、また考えようとしても敢えないことになっていた。ジュナイパーは歌い続けた。
「そぉれは〜そぉれはぁ〜! そぉらお〜こ〜えて〜! やぁがて〜やぁがてぇ〜! むかえぇ〜にくるぅ〜!」
嘴から吐き出される白煙が幼子を拐かすフワンテのように宙高くたなびいた。ジュナイパーは咄嗟に空気を胸のうちへ取り込んだ。そして獲物を啄むときのように嘴を縦に開き、唾を飛ばしながらジュナイパーは歌い続けた。
「は〜るよぉ! と〜おきぃは〜るよぉ! まぁぶぅた〜! とぉじぃれ〜ば〜そ〜こにぃ〜!」
梟は目を閉じた。そうすれば自分の冀うものが眼窩裏に浮かび上がってくるものと思い込んでのことだったが、暗闇はいつまでも暗闇だった。そんなことはわかりきっていた。けれどそうしないではいられなかった。ジュナイパーは歌い続けた。
「あ〜いをぅ〜! く〜れ〜しぃき〜みぃの〜! なつかぁし〜きぃこ〜えがするう〜!」
ふうっ! 寝床に立つ蝋燭の火を子どもらが大袈裟に吹き消して興じるように、ジュナイパーは語尾を切る。己の歌声が山びことして夜更けの天冠の山麓に反響しては少しずつ遠ざかり、小さくなっていくのに耳を傾けた。
目を開くと、足元にピカチュウが立っていた。腕を組み、口をへの字に曲げながら崖際に棒立ちになっている梟を不思議な表情で見つめていた。
「真夜中なのに遠くから変な声すると思ったら、果たしてあんただったよ」
チョン、と背筋をつつかれたのに微かに身をひくつかせる。その指の感触で振り返らずとも正体は知れるのだが、ジュナイパーは振り返った。果たしてバクフーンめが自分のことを揶揄ったつもりでニッコリと佇んでいる。
「……で、何の用だ」
「結構いい歌じゃんか」
ピカチュウがゆったりとした動作で拍手した。ぺたぺたと手がくっつき合うような微かな音が鳴る。
「あんたが歌ってる変な歌ん中じゃ一番好きかも」
「……そうか」
「ねえ「ハクタイ」さん、もっと何か歌ってよ」
ジュナイパーは呆気に取られたように目を丸くした。
「なんでだ」
「なんだかあんたの歌を聞くのもこれで最後って気がしたんだ」
「……いきなり塩らしいことを言う」
「凍土に送ったヤツらは明日帰ってくる。それに、あの化物はここんところ姿を見せてない。根拠があるってわけじゃない。ただ、なんだかソワソワするんだよ」
なんていうか、ポケモンの勘、ってヤツ? 牙を見せながらピカチュウは笑った。
「明日、か」
ジュナイパーは遥か高みにある天冠山の頂を仰いだ。そこに今はただ「やりのはしら」とだけ呼ばれる廃墟があった。そして、その天上をかつては得も言われぬ次元の破れが包み込んでいたことを思い返した。全ては失われた過去であった。
「ねえ歌ってよ、『ハクタイ』さん!」
ピカチュウは既に梟の真正面を陣取って腰を下ろしている。バクフーンもその隣で恭しく正座などし、品をつくってこちらを見ている。ジュナイパーは息を吐いた。
「ほら、ほらいつもみたいに舞台袖から出てこないと駄目だろお」
そう小鼠が茶化すのに適当に肩をすくめつつ、ジュナイパーは二匹の観衆から見て左端のところまで引き下がると、精一杯深呼吸してその身を倍に膨らませながら、カツカツと脚音を立てながら舞台の正面に仁王立ちする。視線は座る二匹の頭上に据え、そうするとまたしても今はまだ名もなき森の広がるのが見えた。
「……ぼく〜ら〜い〜ま〜ぁ!」
ジュナイパーは歌った。
「は〜しゃぎ〜すぎ〜てる〜! なぁ〜つの〜こぉどぉもっさあ〜! むねと〜むね〜からまるゆび〜! うっそぉだろ〜! だれかぁ〜お〜もい〜だ〜すっな〜んてさ〜!……」
自分にしか聞こえない音楽が全身の骨を伝い、筋肉を震わせ、羽根を聳かせていた。脚で音頭を取り、身体を揺らし翼を翻して拍子を刻みながら、自分にしか歌えない、けれども自分では伝え得ぬ言葉を、歌謡を、ジュナイパーは歌った。
「かみさまさえ〜! ゆだんするぅ〜! うちゅ〜のいりぐちでえ〜ぇ〜! めを〜ふ〜せ〜て〜!……」
誰のためでもなかった。誰に対して、何に向かって捧げるでもなかった。懐に仕舞い込んだ臓器の形をしたただならぬ笛のように、何を呼び出すでもなかった。凡そ古きものは意味を喪失し、形だけが残った。そして翡翠も消え、やがて新たな土地の名が生じるだろう。山麓の向こうにある森もまた、その運命は逃れられないだろう。だが、それがどうした? それが一体何になる? ジュナイパーは脚を軸に一回転し、歌い続けた。
「そ〜さ〜! ぼく〜ら〜い〜ま〜ぁ!……」
夢中になって、躍起になって一節を歌い切って、やっと視線を下へ落とす。ピカチュウはぽふと柔らかい音を立てて拍手した。慈悲深い微笑みを湛えるバクフーンの眼差しが肉体を内側から火照らせた。
「いい感じじゃんか『ハクタイ』さん」
「適当なこと言いやがって」
「あんたのことちょっといいな、って思ったよ。これは僕なりの素直な気持ち」
「……そうか」
「ほら、『ハクタイ』さん、せっかくだからもう一曲!」
一定の拍子でぽふ、ぽふと手を叩いてピカチュウは梟を煽り立てた。赤い頬っぺたから高揚した火花が漏れていた。ジュナイパーは息を吐く。とはいえ、黙っていると皮膚ごとはち切れてしまいそうなものが内にこもっているような感覚はまだ残っていた。名付け得ない強烈な欲望を乱暴にでも抑えつけるには、まだ足りなかった。
「か〜ぜったちぃ〜ぬぅ〜っ! い〜ま〜はあっきぃ〜! きょ〜お〜からわったっし〜いっは〜っ! こ〜こ〜ろ〜のた〜びぃ〜びっ〜とぉ〜!……」
だから、ジュナイパーは空が白むまで歌い続けた。天冠の山麓は梟の声を除いて、神妙なほどの静謐を保ち続けていた。
9
凍土に派遣された者どもは朝まだきに意気揚々と山頂のムラに帰還した。出迎えに来た者どもの前に、自分らが身を挺して捕らえてきた氷ポケモンを収めた色とりどりのボールを山のように見せて得意がった。これを持ってくるように命じた当のジュナイパーは、大樹のそばで眠りこけていたところをピカチュウの電撃によって起こされた。目を鬼神のように剥き出しにして、ジュナイパーは確かに自らの要求が果たされたことを確認した。
「で、これをどうすればいいんだよ、『ハクタイ』さん」
ジュナイパーはしばらく宙の一点を見つめひとしきり思考してから、両翼を煽り立てるように突き上げた。酒に酔って人どもの前で朗唱した後にするのと同じ素振りだった。拍手しろ! もう一曲歌えよと僕に言え! と言わんばかりに見栄を切ってするあの素振りだった。それから、翼を大きく振りかぶって物を投げる動作をした。
「……合図をしたら、ボールを投げろ?」
ジュナイパーは頷いた。奴の言わんとすることをピカチュウは人々に通訳する。その時が来たら、此奴がこんな風に合図をするからみんな一斉にそのボールを投げてくれ、ってこの梟が。
空が白んでくると、ジュナイパーは迎月の戦場に聳える大木の陰に胡座を掻いて、ピカチュウが小さな腕いっぱいに抱えてくるきのみを喰らった。オボンを啄み、オレンの果汁を吸い、ズリやヒメリを齧り、ポフとナナシを嚥下した。付近にはなっていないカゴのみもあった。凍土への派遣団が道すがら拾ってきたきのみのあまりということだった。ピカチュウはいかにも語気を強めながらここでは取れないということを言うのだが、山麓を降りて妖精の泉と呼称されていた辺りに出れば、見かけることもあるのだった。ただジュナイパーは特に横槍を入れることはせず、黙ってきのみの山を一つ一つ崩していった。
バクフーンが正座して何も言わず、梟の食う姿を横から眺めつつ品を作っているのはいつものことである。その艶やかな視線が雪肌のように白くふわふわと膨らんだ毛並みを撫でている。ジュナイパーはこそばゆい思いをしながら、黙々ときのみを喰った。適当に翼を伸ばして掴み取ったものをしゃにむに貪ったから、口内は甘いの渋いの苦いの辛いのとで一向に秩序というのがなかった。それでも十二分に腹は膨れた。最後のきのみさえ嘴に運んでしまうと、咀嚼され細かく分かたれて欠片と果汁との区別もつかなくなったきのみの残滓が胃臓の内で微かにたぷたぷと音を立てるのを、骨肉を通じてジュナイパーは聴き取ることができた。
「今日はいい食いっぷりだ」
満足げにピカチュウは腕を組んだ。
「まるで最期の晩餐みたいだな、『ハクタイ』さん」
ジュナイパーはその揶揄いには応えず、ほう! と大仰に息を吐きながら、両の脇腹を軽くつねった。目を閉じて瞑想をするかのていで、何かを確かめるように繰り返し深呼吸をした。
「なあ、あんたもそう思う、だろ?」
ジュナイパーが黙っているので、ピカチュウは代わりにバクフーンにそう尋ねた。バクフーンは首を少し傾げて、小鼠の言う言葉の意味をじっくりと吟味するかのようにしばし間をおいて、口元をやわらかく緩ませた。そして、何を言わんとしてのことか、ジュナイパーの脇に寄りかかって紅葉色の羽根に包まれた肩に頬擦りをしてみせる。
「はははっ! アンタたち、やっぱりおしどり夫婦なんだなあ」
「そんなことはないっ」
すかさず反駁するジュナイパーの脇腹にバクフーンが指先をそっと挿し入れる。柔らかい羽毛にその指はあっさりと関節まで埋まった。
たまらずジュナイパーは立ち上がり、唐傘のようになった頭をしゃにむに掻き、踏みしめた地べたの感触を確かめつつ樹上を仰いだ。いま自己に見えるものだけを切り取ってしまえばいつの時代のことであったかもわからぬ程であるが、事実としてこの迎月の戦場を司る王はもういないのだし、その存在を記憶しているのも恐らくは己と物言わぬ大樹だけなのだろうとジュナイパーは思った。空は文字通りの蒼天であった。かつてそこに次元の破れ目があった。かつてそこにヒスイがあった。
洞穴の外に出ると、山頂のムラは既に隧道へ向かう人夫たちがいそいそと群れを成していた。人々が怪しの梟を認めると、老若男女一様に挨拶をした。子どもらははしゃいでその周りを駆け巡り、上目遣いで二足立ちする猛禽の立ち姿をじっと見つめる。ジュナイパーは小さく頷いて、つかつかと列柱峠の下り坂へと歩き出した。ムラに居残る者どもがぞろぞろとその背中について歩き、峠の境目のところで立ち止まった。振り返れば、皆が横一列になってジュナイパーのことを見ていた。そこには控えめながらも、煮えたぎる寸前の湯のような興奮が隠されていた。既に希望が見えたという風情である。
ほう、と周囲に悟られぬ程に息を吐いた。林立する人々の足を縫うようにして、ピカチュウが姿を見せジュナイパーの元に駆け寄る。
「んだよ、勝手に置いてくなって」
「……知るか」
「あとさ、『奥さま』がちょっと不満げみたいだぜっ」
見れば、横一線に並んでいた人々が自ずから道を空け、バクフーンを峠の道へ通していた。やたらしとやかな立ち振る舞いをしてバクフーンが一人一人に恭しくお辞儀をする。きょとんとする幼子の前では、鬼火ポケモンと呼ばれていたその獣は徐にうずくまり、綿のような毛に覆われた掌で優しくその頭を撫でてやる。慈愛に満ちた眼差しに人々は驚嘆し、ポケモンながらいかにも清げと顔を見合わせている。それにしても挨拶にやけに時間をかけるのは一体どういう高貴な身分の振る舞いか。
ようやっとバクフーンが前に手を組みながら立ち尽くすジュナイパーのそばに追いつくと、顔をまともに見合わせる暇も許さず、キツく梟に抱きついてきた。咄嗟に身構えることも避けることもできずにジュナイパーは相手に抱き寄せられるままになり、翼持ち無沙汰な両翼がぷらぷらと宙に揺らいだ。まるでドククラゲが獲物を自らの触手のうちに絡めとるように、バクフーンは腕や顔をジュナイパーの羽毛に埋めた。その力は底知れぬほど強く、ジュナイパーの力をもってしても、微塵も抗うことができなかった。私はあなたの影であり、私はあなたにとってもう一つのあなたであり、私とあなたは伝説に言う比翼であるのだとバクフーンは言いたがってでもいるかのようだった。
「ヒューっ!」
足元のピカチュウが口笛を鳴らした。絡み合う二匹を緊張の面持ちで見つめていた人々も、力を抜いてその姿にひとしきり笑う。不服なのは絡め取られたジュナイパーばかりであった。
「お似合いだぜ、『ハクタイ』さん!」
「違うっ!……」
キッパリと断言しようとする語調は、バクフーンが頸をくすぐる手付きで間の抜けたものになる。それは人々の微笑を誘いこそすれ、ジュナイパーの苦悶を伝えてはくれなかった。バクフーンは気が済むまで決して梟からその身を離さなかった。随分と長い、乱暴な雄が唇を奪うような抱擁だった。白くふうわりとした羽毛から、しばらくバクフーンの腕の跡が消えず、ジュナイパーはバツの悪い思いをした。
辺りが俄かに薄暗くなった。曇天に覆われたわけではなく、単色なれども空はしっかりと晴れ渡っている。時空が歪む予兆だったが、それだけではなかった。羽毛の奥深くに染みて、じんわりと湿らせてくる汗の感覚があった。
「来たな」
「なあ『ハクタイ』さん、さ」
色褪せた青空を見上げながらピカチュウが言った。額から流れる汗が一際白く輝いた。
「なんとなくではあったけど、なんだか思ったことが本当になりそうだよ」
「そうだといいが、な」
ジュナイパーは翼をバタバタとさせ、身振り手振りで人々にまずは歪みの外へ避難するように言伝ると、歪みの震源地へと駆けていく。バクフーンがピカチュウを両手に抱え、まるで宙を翔ぶような大股でジュナイパーの後をつけた。
「あんたもあんたで、不思議なヤツだよなあ」
ピカチュウは感心したように独りごつと、バクフーンの目玉が玉を垂直に落とすようにすとんと真下へ落ちた。曖昧な微笑は変わらぬ代わりに、首飾りのように見える赤紫の斑点模様が鈍く輝いた。
峠の坂道を下り切り、隧道へと続く三叉路へ辿り着くと普段この辺りを闊歩するゴローンやゴローニャの姿は既になく、件の異様なる未知のポケモンどもが一帯を占拠していた。ムウマに似て非なるものら、ラベン図鑑に云うレアコイルを彷彿とさせる怪物、牙を見せ頻りに叫声をあげるプリンに似た何か、傘の模様がモンスターボールのそれに見えなくもないキノコ姿の妖怪、そして上空を飛び回る竜ども。最早馴染み深い面々であった。
ジュナイパーは臆することなく、連中の中に入り込んでいった。赤く輝いた眼差しが一斉に睨みつけてきたが、ジュナイパーは動じなかった。翼は折りたたんだままで、遠いどこかの時空から迷い込んできたポケモンどもを一瞥し、何を納得したか、うん、うん、と頷く素振りをする。
ピカチュウはバクフーンのやわらかい腕に包まれて、物陰に隠れてその様子を眺めている。太陽の存在が一段と強く感じられた。あたかも太陽それ自体が巨大な流星となって、ジリジリと地表に迫っているかのようだった。天冠の空気が温められ、ここいらでは見ることなどありえぬ草いきれさえ立ち上ってくるのを、ピカチュウは確かに認めた。このたび歪んだ時空は、いよいよ強大な力を持つ何某かを招来するものだ、と小さな身ながらも直感した。
それを最も強く意識しているのはジュナイパーに違いなかった。しかし自らを取り囲む剥き出しの敵意を意に介さず、タン、タン、タン、タン、タン、タン、タン!……片脚でリズムを刻みながら、全身をゆさゆさと揺らし、徐々に振れ幅を大きくしながら、ダン、ダン! ダ、ダン、ダン! ダ、ダン! ダン!
「くぅ〜ちぃびるう〜、つぅんとお〜とぉがぁら〜せてえぇ〜!」
矢庭に響いた歌声に一瞬身構えたプリンもどきに向かって、ジュナイパーはすかさず蹴りを見舞う。大きな鞠のように弾んだそいつは、背後にいた他のプリンもどきを玉弾きの要領で巻き込むと、鼠算のように次々と弾け飛ぶものは数を増して、やがて時空の歪み全体を覆い隠すかのようになった。四方八方に飛び回るプリンもどきに視界を奪われてポケモンどもは呆気に取られる。
「な〜にかた〜くらむぅひょ〜じょ〜おわあ〜……」
ジュナイパーはプリンもどきを潜り抜け連中のすぐ前に迫り、其奴らが応戦する暇も与えずに素早い動作で立て続けに矢を放った。矢尻はキノコの化物どもの傘を串刺しにし、ムウマもどきどもの長い髪を貫き、忽ちのうちに気絶させた。
「わ・か・れのけは〜い〜を〜……ぽ〜け〜え〜とぉ〜にぃ〜……か〜くぅ〜し〜てぇ〜いぃたか〜ら〜あ〜あ〜……」
プリンもどきを潜り抜けてきたレアコイルらしき何某かが背後に迫ってきたのを、ジュナイパーは身を翻してさらりとかわし、その勢いで軸足を回転させて力強く蹴り飛ばす。正面を向き直せば、もう一体が眼前に迫って電撃を浴びせようとしていたが、驚くほどの足捌きで相手を鷲掴んでそのまま地べたに叩きつけた。嘴から歌声を漏らしながら、次々と襲いかかってくる敵を脚と弓で薙ぎ倒していく。
「……お〜も〜いで〜わ〜も〜の〜くろ〜むぅ〜……い〜ぃろ〜おっづぅ〜け〜てくれ〜え〜ぇ〜……」
ジュナイパーは空を見上げ、飛び交いつつ怒号を上げる龍どもを見遣った。血走った眼で急降下して肉を食いちぎろうとする龍どもの突進をひょいと飛び越え、血染めの月のような翼に乗っかった。振り払おうとする龍が暴れるのを脚先の力だけで堪えながら、自分を取り囲む龍どもの脳天に向かって立て続けに矢を放った。急所を突かれ、全身の力が抜けて墜落していく龍どもを見下ろしながら弓を引き自分が乗った最後の一匹を仕留めた。其奴の意識が飛んで、空中でバランスを崩す前にジュナイパーは跳び上がると、両翼をはためかせながらゆっくりと地面に着地した。
「……も〜お〜いっちぃ〜どぉ〜そ〜ばぁ〜に〜き〜て〜……は〜なやいでえ〜ぅるわしのぉ〜から〜が〜う〜……!」
「『ハクタイ』さん! 大丈夫そうかい?」
物陰から首を出したピカチュウが声を張った。ジュナイパーは両翼を折り畳むようにして、静まり返った辺りに注意を払った。内側から滾るように肉体が燃え上がる感覚は全く止まなかった。普段はそばだった毛並みが汗のせいで強風に煽られた稲穂のように皮膚に沿って寝そべっていくのがわかった。歪みの外側を見遣れば、隧道で立ち働く人夫どももひどく暑そうに着物を肌けている。
「無闇に動くな! 言うまでじっとしていろ」
そのバクフーンから離れるなと言おうとして、ジュナイパーは嘴ごもった。言われなくとも、とばかりにひょっこりと顔を出したバクフーンが妖美に笑い、ピカチュウを自分の腕の中に引っ込めた。それは憫笑か嘲笑か、その気になればどうとでも取れそうな笑みだった。思えば此奴は己にまだ生きていてほしいのか、とっとと死んで欲しいと願っているのかすらジュナイパーにはわからないのだった。
静かだった。太陽はまた一段と熱と輝きを増したようであった。ヒスイの地とも思えぬ猛暑が辺り一帯を覆い尽くした。普段は氷のように冴えた天冠に吹く風が、今は吐息のように熱かった。ジュナイパーは場違いな陽炎を睨みつけながら、来たるべきもののために耳を澄ませた。ゆっくりと首を動かし、地に伸びた百鬼が折り重なっているなかに、異変はないかを慎重に見極めた。
「あっ」
岩陰からまたぞろとピカチュウが首を出して、間の抜けた声をあげた。無闇に動くなと言ったからに、聞き分けの悪い餓鬼めと思ったのも束の間で、坂道のこんもりと隆起したところから見たこともないものが、こちらをじっと見つめているのに気がついた。
「なんだよ、アレ……」
忠告などすっかり忘れてピカチュウはそれを見遣り、目を点にした。なるほど、そこに佇立していたのはいかにも未知の存在であった。件の緋色の怪物とも違う。まず第一に、目を引いたのは縦に長い六角形の角であり、中心には繰り抜いたような穴が開いている。その図形を支えるようにさらに角は左右に伸びて、それ自体一つの生物であるかのように威圧感を放った。獰猛な顔を取り囲むように伸びた淡紫のたてがみは、まるで此奴を覆い隠す雲のように怪しく風に靡いていた。華奢ながら力強い脚の後ろ側で、二股の尾が神経質に振れていた。
其奴の視線はピカチュウのいる方へと注がれていた。不意に目を合ってしまった小鼠は得も言われぬ力に圧倒されて、目を逸らすことも、首を引っ込めることも、その場から逃げだすこともできなくなっていた。新種の怪物は紅色の舌を出して舌ねぶりをしていた。たてがみから覗く小さな前脚に生えた爪は柔い肌など容易に断ち切れそうなほどには鋭かった。
まったく、世話の焼ける。小さく独りごちてジュナイパーは軽く身を揺さぶり、木の葉の擦れるような音を立てる。怪物の目が一瞬、梟を向いた。深呼吸を挟む。
「……れ〜でぃっ、きみは〜あめにぃけ〜むるぅ〜! すいたえきを〜すこしぃ〜はっしぃいぃぃったぁ〜!」
見せつけるように歌声を張り上げながら、ジュナイパーは一歩一歩ゆったりと坂道を上り、怪物へと近づいた。童らがヤンヤンマを捕まえようと試みるときのように相手の目をじっと見据え、その注意を強く引きつける。果たして怪物の視線はじりじりと近寄りながら歌を嘴ずさむジュナイパーへと移った。
「……どしゃぶりでもっかまわないっと〜っ! ずぶぬれでもかまわないっと〜っ、しぶきあげるきみがぁ〜っ、き〜えてくうっ〜! うぉううぉう!」
薄青磁の肌が日の光に照らされて艶やかに白い輝きを放つのが見えた。怪獣らしからぬ清げなナリだ、とジュナイパーは思った。すっかり梟に向けて固定された其奴の眼差しは敵愾心と好奇心が混在していた。
「ろじうらではあさがはやいからっ、いまのうちにきみをつかまえっ! いかないでっ! いかないでえっ〜! そ〜ゆ〜よっ! うぉ〜うぉ〜!」
互いの距離は僅かに数歩隔てるほどに近づいた。ジュナイパーはそこで立ち止まって、凄みを効かせた目で相手を見上げる。決して小さくはない自己の体躯さえこの怪物の前では小童のようだ。其奴の攻撃をまともに喰らえば、忽ちにして己の肉体は衣のように八つ裂きになってしまうだろう、と冴えた意識の下で思った。
対峙する二匹を見て、誰もがただ固唾を飲むことしかできなかった。歪みの外に避難して戦況を見つめる人々も、物陰のうちで息を潜めているピカチュウも、突然現れた新種の妖怪への困惑と恐怖に捕らわれていた。ジュナイパーはいまから写真を撮られるかのように、仁王立ちした姿勢そのままで静止していた。巨大な怪獣もまた荒々しく呼吸しながらジュナイパーを睨みつけていた。
無理だ、あんなデカいヤツ、「ハクタイ」さんだって、いくらなんでも——そう口に出そうとしてピカチュウは自分の舌が恐怖でひどくもつれていることに気がついた。脈拍が普段の幾倍も速く感じられた。天冠の山頂よりもさらに高い笠雲の切り通しにいるかのように酸素が薄く思われた。用心棒たるジュナイパーがいるとはいえ、絶望的なイメージを想起しないわけにはいかなかった。ジュナイパーと怪物はまだ至近距離で向き合い、まっすぐに視線を交わしながら黙りあっていた。周囲の者どもにとっては永遠かと思われるほど、崩れぬ均衡であった。
ただ、ピカチュウを腕に抱き止めているバクフーンだけが穏やかな表情を絶やさなかった。超越的な微笑を湛えながら、まるで玄人同士が競う将棋盤でも眺めているかのように頻りに相槌を打っている。それが何を意味するのか。恐らく誰一人誰一匹として理解することのできない事象なのだと、異国の椅子よりもずっと心地のよいバクフーンの柔らかな毛並みに包まれながらピカチュウは考え、そうして張り詰めた心が僅かながら解れたのは幸いではあった。
卒爾として怪獣が全身の筋肉をくっきりと浮かび上がらせた。まるで肉の内側に別の生物が潜み、何かをキッカケに急激に成長したかのようであった。今にも肉という繭を引きちぎって現れ出ようと欲して発達した筋肉が蠢いていた。白日に向けて怪獣は咆哮した。忽ちにして周囲に衝撃波が立った。大地は鳴動し、岩壁には乾いた音と共に罅ができた。ピカチュウたちが潜んでいた岩からもぽろぽろと小石が崩れ落ちてきた。バクフーンの暖かく甘やかな腕にピカチュウは抱き寄せられる。
ジュナイパーは微動だにしなかった。羽根が激しくはためきながらも、しかとその場に屹立し、獰猛な相手を真正面から見つめ、断じて目を逸らすこともしなかった。天冠の山麓らしからぬ暑気が羽毛に覆われた身体を燻すようだった。視界は陽炎に揺らいでいた。だが、これまでもそうしてきたように、これからもおそらくはまたそうするであろうように、ジュナイパーは耐え続け、目の前の怪獣を曇りない眼の中に収めることをやめなかった。
蒸気の噴き出すような鼻息をしながら、怪獣がおもむろに脚で地面を二、三度蹴り上げた。あ、と誰もが口を弛緩させた。何の前触れを感じさせる暇も与えず、其奴はジュナイパー目掛けて矢のように突進し、全力で角を振り上げたからだった。ピカチュウにはその瞬間が不思議とゆっくりと移ろって見えた。ジュナイパーの身体が勢いよくはねられる。言わんこっちゃない! と思わず口に出した文句は、激しい動揺のあまり痰が絡んで掠れ掠れだった。茫洋としてピカチュウはバクフーンを見上げた。バクフーンは変わらぬ笑みを顔に浮かべ続けていた。なぜこの期に及んでそうも表情を変えぬのか、さてはお前鬼神の類かとさえ愕然とし訝っていると、それに気がついたバクフーンは観音のように慈愛深く頬を緩めながら、顎でくいと一方向を指した。見よ、とそれは厳かに命じているようであった。
見れば、ピカチュウが予期し絶望したこととは真逆の光景があった。地に伏していたのは襲いかかった怪獣の方であった。たてがみを力なく地べたに垂らし、陶器のように滑らかな肌のそこかしこから鮮血がじんわり滲んでいた。その脇にジュナイパーは二本脚で立っていた。何が起きたのか、肝心の場面から目を逸らしたピカチュウには何もわからなかった。
「『ハクタイ』さん!」
そう叫ぶ小鼠の声は、静まり返った天冠の山並みに場違いなほど大きくこだました。
「大丈夫だったのかよ!」
ほう! と梟は大袈裟に息を吐いた。
「見ていなかったのか」
「やられたと思ったんだ」
バクフーンに赤子のように高く掲げられながらピカチュウは率直に伝えた。
「あんた、其奴に思い切り吹き飛ばされたから」
「奴の動きに合わせたまでさ。僕に突っかかって、思い切りこの大きな角を振り上げる瞬間の隙を狙えばよかった」
手早く弓を放つ所作をするジュナイパーの言い草には少し自慢げで自己愛さえ感じさせるところがあったので、ピカチュウは黙っていた。
「ったく、心配して馬鹿を見た」
皮肉っぽく言葉を返すが、なおも荒ぶった臓器の鼓動は落ち着かなかった。それは、ジュナイパーとバクフーン以外の連中みんながそうであったろう。ピカチュウは深呼吸したが、思い切り取り込んだ空気が熱いあまりに、不慣れに煙管の煙を吸い込んだときのように激しく咽返った。時空の歪みはなおも消え去らなかった。太陽はさらに大きく宙に浮かび、絹本に描いた雪のように白い輝きを帯びていた。
「まだだ」
ジュナイパーは呟いた。
「だがあと一息だ」
首を上げ、視線を地に伏した怪獣から離すと、梟は悠然と振り返り歪んだ時空の一点を見た。そこに何がどのようにして現れるかを猛禽の本能で察したかのようだった。ピカチュウもつられてそこを見た。おずおずと戦況を見守る人の子らの視線たちもその場所に集中した。大地がジリジリと灼けるような音を立てていた。
空間が鎌鼬のように裂けた。アギャアス、と劈くような声が聞こえた。みるみるうちに、巨大なトカゲのような体躯をしたそれが姿を顕した。
ジュナイパーはここぞとばかりみんなに向かって両翼を振り上げた。
中書き2(2023/04/27)
9話更新しました。
次のけもケまでには完結させます、取り急ぎそれを誓います。絶対にそれを誓います。
中書き(2023/01/15)
仮面は剥がすまでもなかろうと思われますが、群々です。
知る人ぞ知る? 前回の短編小説大会に投稿し損ねたライ麦畑で踊れの続編です。
完全新作でなく続き物で仮面に出すことの是非は知らないけれども、前回審査の対象にすらならなかったあの世界で一本書かずにはいられなかった。
残念ながら制作途中のまま投げざるを得ませんでしたが、最低限の目的は達成できたかと思います。まあ、まだ続くんですけどね……
後半パートは感想会その他諸々の反応伺いながら書いていこうと思います。
以下コメント返し
ジュナイパーの独特な雰囲気に惹かれました。LEGENDSアルセウスを彷仏とさせる描写がたくさんありますが、彼が世を捨ててしまったのは主人公を喪ったからなのでしょうか。ピカチュウやバクフーンといった脇役たちも魅力的。「枯葉ひとつの重さもない命」に安寧の時が訪れるのを願い一票。
あのヒスイジュナイパーに関して言えることはただ一つ、「彼は、ただ耐え続けた」。9日遅れにもかかわらず1票&感想ありがとうございました。
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