妄想が深まるばかり・・・
そこは狭い部屋であった。
暗闇に覆われた視界に一筋の光が見えたと思った直後、突如として私は狭い部屋にいた。部屋の中には卓袱台が置かれており、派手な装飾品を身に付けた白い馬のようなポケモンが向かっている。白いポケモンの近くには金色の装飾品をつけた黒い竜のようなポケモンの姿もあり、それは床に置かれている巨大なクッションに身を預け、寝息を立てている。
見慣れぬ2体のポケモンを目の当たりにして、私は呆然としたまま周囲を見渡した。
狭い部屋に窓やドアの類いはなく、天井から吊り下げられたランプの明かりが卓袱台を照らしている。ふと、白いポケモンが顔を上げると私を見つめ、前肢を器用に動かし空いている卓に腰かけるように促してきた。白いポケモンの手元にはタブレットが置いてあり、それは前肢を使い画面を操作すると、時おり『おっ』『うわっ』など意味のない言葉を漏らしている。
私が卓に腰かけた直後、卓袱台の上にコーヒーの入ったカップと焼き菓子が突如として現れた。
音もなく現れたそれらに私は目を丸くさせる。
白いポケモンは卓袱台上に現れたそれらに手を伸ばすと、器用に口許に運び、菓子とコーヒーを口内にいれた。卓袱台の周囲にコーヒーの芳ばしい香りと焼き菓子の甘い匂いが広がる。
嗅覚と視覚が私にそれらが実在する物である、と教えてくる。
それを意識した私は生唾を飲み込むと、焼き菓子を一切れ手に取ると、頬張った。口内に甘味が広がり、心地よい香りが鼻腔に伝わる。
「...不味い」
思わず口から飛び出した言葉に一番驚いたのは私自身だ。続いて私の言葉を耳にした白いポケモンはタブレットの画面から顔を上げると、不思議そうに首を傾げた。
『そうかい?僕は凄く美味しいと思うけど...ギラちゃんはどう?』
白いポケモンはそう感想を述べると、近くで寝ているポケモンに向かって声をかけた。ポケモン、ギラちゃんと呼ばれる存在は白いポケモンの呼び声で微かに目を開けると、口を大きく開き、眠たげに欠伸した。
ギラちゃんはゆっくりと身を起こすと、卓袱台の焼き菓子と私の顔を見比べ、何度か瞬きした。
『うん...私も好きだな。もっとも...お前が最後に食べた食事と比べたらお粗末な味なのは確かだな』
眠たげな声でギラちゃんはそう呟くと私の顔を見た。白いポケモンもギラちゃんの言葉に賛同しており、『うんうん』と言いながら何度も頷いている。彼らの言葉、それを理解した私の脳裏に映像が映る。
狭い部屋と格子。
白い衣服を身に纏い、年老いた牧師の唱える祈りの言葉を耳にする私。
私の周囲を取り囲み、腕を掴み歩かせる屈強な男たち。
注射器と針。
人々の視線。
鳴らない電話。
それらを思い出した私は直前に何が起きたか、その結果どうなったかを理解した。仮に私の思い至った考えが正しいとすると、今いる部屋が何であるかも自ずと理解できる。
眼前にいるポケモンたちが何であるかも。
私は閉口したまま白いポケモンとギラちゃんを見つめ、両者は私の視線に気がつくと再度卓袱台に目を向けた。
『美味しくないかもしれないけど...良かったら食べてみな』
ギラちゃんは私にそう言うと、身体を起こして卓袱台に向かった。ギラちゃんもまた何処からともなくタブレットを取り出すと、画面を操作しだした。
『ところでシステムメンテナンスは終わった?』
『うん、アップデートも終わったから期間限定の新しいガチャもできるよ』
ギラちゃんの質問に白いポケモンはそう応えた。どうやら彼らはタブレットでゲームをプレイしているらしく、彼らの傍には課金に使用したゲームカードが何枚も落ちている。それらを見た私は思わず呆れた表情を浮かべてしまい、それに気がついた白いポケモンは若干不貞腐れた様に視線を逸らした。
『別に良いだろう...最近のオンラインゲームは課金しないと強くなれないから...』
ポケモンがタブレットでオンラインゲームを楽しみ、あまつさえ課金しているという事実に私は目を皿のように丸くさせた。そんな私の表情と振る舞いに白いポケモンとギラちゃんは罰が悪そうに顔を逸らし、タブレットの電源を落とした。
彼らはタブレットを卓袱台に置き、それは音もなく消えた。
室内に嫌な沈黙が広がり、私は極度の居心地の悪さを覚えた。
私は背筋を伝う嫌な汗を誤魔化そうと焼き菓子を頬張り、飲み込んだ。
口内に甘味が広がり、私は思わず顔を緩めてしまった。
『...それで、君は何で此処に来たか理解しているか?』
白いポケモンの質問に私は首を横に振る。私の動きから答えを理解した白いポケモンは『なるほど』と呟くと、口を開いた。
『...此処は特定の死者のみが訪れることができる空間だよ。つまり...君は死んでしまったということだね』
特定の死者。
白いポケモンの言葉が私の耳に突き刺さるが、あまり悲しみを感じることができずにいた。私は覚悟していた、こうなることを。今さら「お前は既に死んでいる」と宣告された所で、予想していた通りの出来事であるため悲壮感すら覚えない。
淡々とした考えを抱く私自身に対して、皮肉じみた笑みを浮かべずにはいられなかった。白いポケモンとギラちゃんは私の振る舞いに目を不思議そうな表情を浮かべると、私の顔を見つめた。
『お前は悲しくないのか...いや、この質問は不躾か』
ギラちゃんはそう呟くと、ため息を溢し、私の顔を見た。その言葉は私の終わり方を知る者からの質問としては、不適切な物かもしれない。もっとも、私は自身の死について悲壮感を抱いてはいない。私は死ななければならないことを、それほどの罪を犯したのだから。
私はギラちゃんの顔を見て首を左右に振ると、もう1枚焼き菓子を手に取り、口に含めた。
甘い味が口内に広がるが、私はギラちゃんの質問により私自身の終わり方を意識してしまい、口内に苦味が広がる。私の姿を見たギラちゃんは気まずそうに目を逸らした。
だが白いポケモンは空気を読まずに口を開いた。
『まぁ、早い話が君は罪を犯して人生を終えた人間...このまま三途の川を渡っても閻魔大王様との面談は不可避だね』
白いポケモンはそう話すと、再び前肢を使いコーヒーを口に含めた。その味に目を細めると、白いポケモンは再度口を開いた。
『そこで冥土の道に進めるように、君に救済処置を用意したよ。君はこれからポケモンとして転生してもらい、新たな生を謳歌し、ある世界を救って欲しい』
私は耳を疑った。
だが白いポケモンは私の反応など露知らず、話を続けた。
『その世界は1度災厄に見舞われた、僕はそれを止めようと人間を送ったけど...失敗に終わったよ』
「...」
『そして新たな災厄が起きようとしている...君の犯した罪を考えれば相応しい役回りだと思うけど...ヨロシクね』
唐突な白いポケモンの宣言、それを聞いた私の思考はフリーズした。私の思考など手に取るようにわかるらしく、白いポケモンはにんまりと笑みを浮かべると、口を動かした。
『ちなみに君の知識と記憶はそのまま残しておくよ、此処での記憶も含めてね。あと、色々と助けが要ると思うから、何時でも僕と話せるように君の頭の中にリンクを構成しておくよ』
まさかの人体改造宣言。
その言葉に私は唖然とした表情のまま白いポケモンを見つめた。私の視線に白いポケモンはニヤリとふてぶてしい笑みで応えると、『それじゃあ』と言い前肢を振った。白いポケモンの言動と私の様子を見比べたギラちゃんは呆れたようにため息を溢すと、白いポケモンと同じように前肢を振った。
彼らの振る舞いから拒否することは不可能であると悟り、私の口から落胆の声が漏れる。
私の視界が少しずつ暗くなっていく。
同時に視界に映る彼らが少しずつ遠くなり、小さくなっていく。
『あ、ところで...』
白いポケモンの声が聞こえる。
『何で君は死刑判決を下されたの? それほどの事をしたのかい?』
知らないのかい。
今まで散々私の事はお見通しと言わんばかしの発言を連発していたにも関わらず、眼前の白いポケモンは私が死刑となった判決理由すら知らないときた。白いポケモンの振る舞いに対して私は表現できない感情を胸中に抱き、彼に対して何かしらの悪態を投げ掛けようとした。
だが、急に最適な悪態が思い付くほど、私の語彙は優れていない。
薄れいく意識の中、私は言葉の代わりに中指を立てて返事をしてやった。
*
視界が赤く染まる。
外から投げ込まれた火炎瓶は床で割れると中の燃料を周囲に撒き散らし、あっという間に引火した。しかも1本だけでなく、幾本もの火炎瓶が投げ込まれ、廊下や部屋を火の海に変える。
レシラム教徒の暴動と罵声を耳にしたニコルは、続けて放り込まれた火炎瓶を見ると無意識に身を屈めた。火炎瓶はニコルと負傷したゼクロム教徒がいる部屋にも投げ込まれ、次々と割れていく。
「ぎゃあああああ」
寝台に横になり手当てを受けていたロズレイドの近くに火炎瓶が落下し、中の燃料がその身体を濡らす。草タイプのロズレイドの身体は燃料も加わり、瞬く間に燃え上がる。熱と恐怖にロズレイドは寝台から落下しのたうち回ると、誤って近くの作業台にぶつかってしまった。
台の上には高濃度の消毒用アルコールの瓶が幾本も置かれている。
アルコールの入った瓶はロズレイドがぶつかった衝撃に負け、次々と床に落下し辺り一帯を濡らした。室内に気化したアルコールの臭いが広まった直後、一瞬の内に引火した。床に広がったアルコールによる炎は病室全体を呑み込むと、寝台上で動けないゼクロム教徒たちを次々と呑み込んだ。
病室内に幾つもの悲鳴が響き渡る。
病室の入り口近くにいたニコルは無意識に身を屈めた事により、広がる炎の牙から身を護ることができた。だが、負傷したゼクロム教徒たちは生きたまま身を焼かれ、床を転がり窓から外に飛び出そうとする。
しかし、窓枠の大きさにも限りがある。
せいぜい小型のポケモンが1人通り抜けるのがやっとな大きさの窓枠に向かって、何体ものポケモンたちが駆け寄ったところで通り抜けられる訳がない。彼らは互いを押し退け、我先に逃げ出そうとするが、やがて力尽き炎に呑まれていった。
中にはニコルのいる入り口目掛けて走る者もいた。
だが、その多くは身体を焼く炎の熱を直接吸ってしまい、呼吸器系に重度の熱傷を負っている。熱傷は呼吸機能を阻害し、やがて窒息した者から力尽き、燃えながら倒れていく。
病室内に広がる地獄のような光景を見たニコルは、目尻に涙を浮かべると尻込み、壁にもたれ掛かった。
炎の中から手が伸びてきた。
全身を炎に覆われてもまだ生きているサーナイトは、焼けただれた顔でニコルを見上げると絞り出すような声量で言った。
「だず...げで...」
気管と共に熱傷を負った声帯では上手く発音することができない。サーナイトの声はまるで地獄の底から木霊する怨嗟の声のように聞こえ、ニコルは思わず失禁してしまった。
「ひっ...」
眼前まで伸びてきたサーナイトの右手は、やがて力尽き床に落下した。それを見たニコルは悲鳴をあげながら立ち上がり、その場を離れた。
洋館内は炎に包まれている。
壁と天井は燃え上がり、周囲に熱気とガスが広がっている。不完全燃焼により生じた一酸化炭素が充満するかもしれないことに気がついたニコルは、涙目になりながらも頭から白衣を被り、床を這いつくばった。幸いにもニコルのいる場所は発火したばかりであり、まだ一酸化炭素は充満していない。それでもニコルは床を這いつくばりながら進むと、火の手のない裏口へと移動した。
ニコルは熱気と火災ガスにまだ覆われていないキッチンに辿り着くと、そこから廊下に向かって声を張り上げた。
「ヘレン!ヘレン!」
仲間が無事に洋館から逃げ出せたか不明である。故にニコルは廊下の奥、ヘレンが何時もいる部屋に向かって声を張り上げた。廊下の奥は火災ガスと黒煙が少しずつ発生しており、それを見たニコルは洋館の外からヘレンの作業部屋へと回り込み、彼女を連れ出そうとした。
裏口から洋館の外に出たニコルの耳にオズワルドの悲鳴が届いた。
「オズワルド...!?」
それを耳にしたニコルは力強く噛み締めると、オズワルドの声が聞こえてきた方向を見た。ニコルは悔しそうにオズワルドのいる方向を見つめると、一先ずヘレンを火災から救いだそうと作業部屋の窓へと近寄った。
窓から室内を見たニコルの視界に、炎に呑まれた光景が映り込む。
だが室内に倒れているヘレンの姿はなく、人影も見当たらない。どうやら火災が発生する前にヘレンは逃げ出せたらしく、それを理解したニコルは急いで駆け出すと、オズワルドの下に向かった。
森林の中にゼクロム教徒の遺体が転がっている。
親子なのだろうか、子供を護ろうと抱き締めたまま絶命しているガラガラとカラカラの死体を見たニコルは泣き出しそうな表情を浮かべると、そのまま森の中を駆け続ける。周囲には燃える木々の臭いに混じり、死臭と血の臭いが漂っている。
やがて、ニコルは森を通り抜けるとレシラム教徒のポケモンたちがゼクロム教徒のポケモンたちを惨殺している現場に出会した。ゼクロム教徒のポケモンたちは逃げ惑い、時に森の木々や岩の陰に隠れている。だがレシラム教徒たちのポケモンは入念に周囲を見回ると、隠れているポケモンたちを見つけては引きずり出し、暴徒が襲いかかった。
無抵抗なポケモンたちは暴徒の持つ包丁や農機具により串刺しにされ、牝のポケモンは暴徒の牡のポケモンにより犯される。貴金属や貨幣を持つゼクロム教徒のポケモンたちは命乞いをしながらそれらを差し出すが、暴徒は奪い去り彼らを殺した。
かつては同じ街で生活し同じ空気を吸っていたポケモン同士が一方的に虐殺する光景、それを見たニコルは顔をしかめると思わず嘔吐してしまった。医師として多くの怪我人や病人を診てきたニコルだが、目の前の光景を見て平然でいられる訳がない。彼女は胃の中身を全て吐き出し、汗と涙で汚れた顔を腕で拭った。
何人かのレシラム教徒がニコルに気づき、農機具を片手に襲ってきた。
だがニコルは強靭な脚力に物を言わせ飛び上がると、木の枝に飛び乗り周囲を見渡した。遠くに見える街からは黒い煙が幾本も昇り、家々が激しく燃えている。街の大通りには周囲を破壊する暴徒、そして逃げ惑うゼクロム教徒の姿が見える。崖の上に建てられたプクリンギルドはまだ無事であるが、そこにも怒りに狂う暴徒が向かっている。
ヘンデルの性格を考えれば、ギルド内にゼクロム教徒を匿っている筈である。
現状はギルドメンバーが暴徒たちを抑えているが、それも何時まで持つかわからない。ニコルは激しい焦燥感を抱くが、勤めて冷静になろうと周囲を見渡した。
ニコルの視界に1人の牝のバシャーモが映り込む。
レシラム教の白い礼服を身に纏い、そこには異端審問官の紋章が刻まれている。教会により送り込まれた牝のバシャーモ、そして彼女が率いる部下により拘束されているオズワルドを見たニコルは、思わず悲鳴を上げそうになった。
だが、ニコルはそれをすんでのところで堪えると、深く息を吸い、心を落ち着かせ冷静になろうとした。教会の異端審問官に囚われた以上、オズワルドを待ち受ける運命は明白だ。だからこそ、ニコルは冷静になりオズワルドをどの様に救出するか考える必要がある。
ニコルは何とか心を落ち着かせると、木々の合間を移動し、レシラム教徒や暴徒がいない場所を探し着地した。街は暴徒に襲われ、拠点である洋館も火に呑まれた。ギルドメンバーも暴徒の対応に追われ、ヘレンもいない以上、オズワルドを救出できるのはニコルだけである。彼女はとりあえず落ち着こうと、何度も深呼吸し目を伏せた。
直後、背の高い草の間から腕が伸びてきて、ニコルの口を強引に塞ぎ、彼女を草の中へと引きずり込んだ。
*
開け放たれた窓から吹き込む風が寝台に横たわるルカリオ、オズワルドの身体を撫でる。風に混じり室内に広がる甘い花の蜜の匂いにオズワルドは無意識に寝返りをうつと、ゆっくりと目を開いた。
オズワルドの視界に古びた洋館の一室が映り込む。
木の板が張られた天井からは火の点いたランプが吊るされており、蝋と油の焼ける匂いがオズワルドの鼻に届く。花と蝋と油の匂いを認識したオズワルドはゆっくりと身を起こすと、誰も居ない室内を見渡した。
「...?」
初めて目の当たりにする光景を見たオズワルドは不思議そうに首を傾げると、視界の右端に映り込むモノに目を向けた。そこにはオズワルドの背丈よりも高い棒が設置されており、そこには透明なガラス製の容器が下げられており、その中には何かの液体が満たしている。ガラス製の容器から延びたゴム管はオズワルドの右腕まで延びており、銀細工により作られた針が血管内に射し込まれている。
それを見たオズワルドは初見の異物に対して不思議そうな表情を浮かべると、それを触ろうと左手を動かした。
「触るな」
オズワルドの耳に牡の声が届いた。
声の持ち主、ガブリアスのゼーンは室内に入ってくると、手に持った篭をテーブルの上に置き、寝台の脇まで歩いてきた。ゼーンはオズワルドの顔に手を当てると、目を大きく開けさせ、瞳孔の動きを観察した。突然のゼーンの行動にオズワルドは悲鳴を上げそうになったが、ゼーンの纏う雰囲気がそれを許さず、オズワルドは思わず閉口した。
オズワルドの鼻はゼーンの匂いを嗅いだ。
ゼーンはオズワルドの瞳孔の大きさと動きを観察すると、オズワルドの脳に損傷が無いことを把握した。
続けてゼーンはオズワルドの右腕に射し込まれた点滴針を観察すると、異常が無いことを把握し安堵したように溜め息を溢した。
「お腹は空いているか?」
ゼーンはオズワルドにそう尋ねると、テーブル上に置いてある篭の中から焼きたてのパンを取り出した。香ばしいパンの香りにオズワルドは生唾を呑み込むと、ゼーンからそれを受け取りゆっくりと口に含めた。
口内に広がるパンの香り、そして咀嚼する度に唾液により甘くなるパンの味に、オズワルドは無表情のまま食べ続ける。
オズワルドの目尻から涙が垂れる。
奴隷として扱われ、売春宿の商品として飼われていたオズワルドはパンの味とゼーンの言葉に溢れる涙を抑えられずにはいられなかった。彼はひたすらにパンを食べ続けると、続けてゼーンの差し出した果実ジュースの入った杯を受け取った。口内に溜まったパンの塊をジュースで流し込むと、オズワルドは嗚咽を漏らしながら口許を拭いた。
その姿を見たゼーンは嬉しそうに目を細めると、点滴セットとオズワルドの顔色を見比べた。
「どうやら体力も回復しているみたいだね」
ゼーンの言葉を聞いたオズワルドは、自身が彼に救われた事を思いだし、嗚咽を殺しながら「ありがとうございます...」と言った。彼の感謝の言葉にゼーンは照れ臭そうに目を逸らすと、口を開いた。
「既にあの売春宿は保安官に摘発されたよ。君の他に監禁されていた者も、既に保安官を通してプクリンギルドが保護しているよ」
ゼーンの知らせにオズワルドは「そうですか...」と呟くと、視線を点滴セットに向けた。始めて見る異形の物にオズワルドは目を丸くさせると、疑問の目をゼーンに向けた。
「それは...いわゆる水分を補うためのセットだよ、異大陸で使われている物だね」
オズワルドはゼーンの説明を耳にして、納得したように頷いた。続けて彼は室内を見渡すと、不思議そうな目をゼーンに向けた。暗に「ここはどこだ」と尋ねてくるオズワルドの視線の意図を見抜いたゼーンは、近くの椅子に腰かけると口を開いた。
「俺の名前はゼーン、ここは俺の仲間が運営している診療所みたいな物だよ」
ゼーンの紹介を理解したオズワルドは目を伏せると、戸惑うように口を開いた。
「私は...オズワルド...他はわからないです」
オズワルドの返事を聞いたゼーンは「わからない?」と鸚鵡返しのように応えた。彼の反応を見たオズワルドは困った表情のまま頷くと、絞り出すような声量で話した。
「覚えているのは...海辺で倒れていた事...人買いに拐われてあの宿に売り飛ばされた事だけです」
曖昧なオズワルドの話を聞いたゼーンは眉に皺を寄せると、「記憶喪失か?」と疑問の声を漏らした。彼の質問にオズワルドは首を左右に振ると、わからないと暗に答えた。その反応にゼーンは首を傾げると、オズワルドの顔を見て口を開いた。
「何か覚えているか?」
オズワルドはゼーンの問いに対して首を左右に振り、否定の答えを返した。彼の反応にゼーンは困惑の表情を浮かべると、開いている扉に向かって「ヘレン!」と誰かの名前を叫んだ。
激しい頭痛がオズワルドを襲う。
オズワルドの脳裏に記憶の映像が再生される。霞みを帯びた映像は古びたビデオテープのようにノイズが入っており、はっきりとしない視界と人影がオズワルドの脳裏を横切る。
『君はこれから...もらい...を...欲しい』
『君の...を考えれば相応しい...と思うけど...ヨロシクね』
人影の言葉、脳内を過ぎる映像がオズワルドに激しい頭痛をもたらす。同時にこみ上げてくる吐き気を懸命に抑えると、オズワルドは冷や汗を流しながら顔を上げた。
(今のは...)
以前に見たことのある光景、だが何時見のか、誰と話したのか思い出せない記憶に対してオズワルドは言いようのない不気味さを覚えた。はっきりと思い出せない記憶の光景、それにオズワルドは翻弄される自身がいることに気がついた。
ふと、オズワルドの視界に新たな人影が映り込む。
人影、赤と黄色の体毛に覆われた二足歩行の狐、マフォクシーは室内に入ってくると、寝台に横たわるオズワルドを見て微かに微笑みを浮かべた。
「良かった、目が覚めたね」
マフォクシー、ヘレンはそう呟き寝台の傍に歩み寄ると、オズワルドに向かって「気分はどうですか?」と尋ねた。彼女の質問にオズワルドは戸惑いの表情を浮かべたまま頷くと、ゆっくりと起き上がり寝台脇に腰掛けた。
オズワルドは自身の身体の動きを確かめるように手足を動かすと、直後臀部に走る違和感に顔を歪めた。臀部、いや排泄孔から響く痛みが昨晩の醜態の記憶を喚起させ、オズワルドは思わず顔を伏せた。そんなオズワルドの変化に気がついたゼーンは、オズワルドの腕から点滴針を抜くと止血した。
ゼーンはそのまま蓋付きのゴミ箱に針と点滴セットを捨てると、オズワルドの顔を見ないまま口を開いた。
「ありきたりな言葉かもしれないけど、あの宿の事は忘れた方がいいよ。精神衛生的にも悪影響なだけだね」
オズワルドはゼーンの言葉を聞くと、もっともだと言いたげに頷いた。そもそもこの世界では奴隷や人買い、売春、人身売買を取り締まる法律など合ってないようなものである。先日のバンギラスが運営していた売買宿の件も、影でプクリンのヘンデルという実力者が動いていた事で取り締まれただけに過ぎない。
異端者、異教徒、奴隷は爪弾きにされる世界において、奴隷階級でしかないオズワルドが救い出された事は幸運としか言いようのない。
オズワルドはゼーンのアドバイスを素直に受け止めると、痛み右腕をさすりながら立ち上がった。急激な体位変換によりオズワルドの視界は一瞬揺らぐが、彼は両脚と体幹に力を込めて堪えると、倒れないように気を配った。
存外無事に立てることにゼーンとヘレンは安堵のため息を零すと、ゼーンは口を開いた。
「彼女はヘレン、俺たちの仲間で薬の調合が得意な変わり者だよ」
「丁寧なご紹介ありがとうございます」
ゼーンの紹介に対してヘレンは慇懃無礼な口調で応えた。その言葉からオズワルドが保護されている洋館が診療所であるという認識をより強くさせ、オズワルドは納得したように周囲を見渡した。
「此処は...トレジャータウンですか?」
オズワルドの質問に対してヘレンが口を開いた。
「トレジャータウン近郊にある森だよ、もっとも診療所以外の建物は一切ない...辺鄙な場所だけどね」
ヘレンの説明を聞いたオズワルドは昨晩見かけたポケモンの顔を思い出した。それはトレジャータウンの名士であり、ギルド連合の幹部でもあるプクリンギルドのトップ、ヘンデルだ。ヘンデルのギルドがある街こそトレジャータウン、トレジャータウンにこそプクリンギルドがある、と人に言わせる程、名のあるギルドである。
ふと、オズワルドは違和感を覚えた。
眼前に立つヘレンはマフォクシーである。
マフォクシーといえば、リザードン・バクフーン・バシャーモ・ゴウカザル・エンブオー・ガオガエン・エースバーン・ラウドボーンなどに並ぶ種族である。
この世界にはメランコリーという考えに則り、血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁から構成される四体液説という考えが古来より存在する。だが時間の経過と共に、四体液説に四大元素説が入り混じり、現在では火・土・水・風の四種を重要視する傾向にある。
同時期にレシラム教の勢力が著しく発展し、巨大な影響力を有するようになった。
その結果、四大元素とレシラム教に重複する炎タイプ、特にレシラムの眷属とされるポケモンたちが神聖視され、レシラム教や公的機関の重要ポストに就いている。
かつては貴族として扱われていた火族のポケモン達だが、現代では公家・貴族を捩り、華族と呼ばれ絶大な影響力を有している。
オズワルドの眼前に立つポケモン、ヘレンは華族であるマフォクシーだ。本来ならば位の高いマフォクシーと対話するなど、奴隷階級に落とされたオズワルドには許されない事である。それ故にオズワルドは困惑の表情のままヘレンから顔を背けると、不思議がる彼女を尻目に口を開いた。
「貴方は...華族では?」
華族であるマフォクシーが何故診療所にいるのか、わかりやすい質問にヘレンは目を細めると、戸惑うことなく話し出した。
「華族の中にも爪弾き者はいるよ、私のようにね」
ヘレンは笑いながら語ると、近くのテーブルに目を向けた。その上には調剤に使う道具や材料が多種多様に渡り置かれており、中には異教徒が使う物もある。
レシラム教は真実、根拠の無い理論よりも古代から伝わる事象を善とする。
故に錬金術や科学などの新興的な事象よりも、古来より受け継がれるレシラム教独自の治療や呪いを重視する。それ故に科学・医療などの発展が異大陸・異教徒よりも遅れており、未だにシャーマニズムなどによる治療に頼っている事もある。
対してゼクロム教は理想を善としており、錬金術・科学などの空虚な新興的事象も受け入れる。
だからこそ、ゼクロム教は異教徒の教えや技術を柔軟に取り込んでおり、新たな技能の習得に余年がない。
全体主義であり変革を望まないレシラム教と個人主義であり変革にも柔軟に対応するゼクロム教、どちらも相反する面がある。
このような考えがあるため、レシラム教の華族の中にはゼクロム教に信仰を変える者もいる。
ヘレンもレシラム教から離れた1人であり、薬の調剤や新薬の開発などに従事している。先ほどゼーンが話した変わり者という言葉の意味を反芻したオズワルドは、納得したように頷くと彼女の顔を見た。
ヘレンは室内に設置されているケースを開けると、中からガラスの容器を取り出した。ケースの中は氷により一定の冷気で保たれており、冷たさがまだ残る容器をオズワルドに手渡した。
その冷たさにオズワルドは身体を無意識に震わせた。
「オレンの実をペースト状にして、食塩水と混ぜ味を調整した...いわゆる栄養剤だよ」
「食塩水?」
オズワルドはヘレンの言葉に対して不思議そうに呟くと、容器に目を向けた。
ヘレンはオズワルドの反応に対して口を開く。
「大半のポケモンの身体は水分で構成されているから...それのような水分補給剤が必要になるよ。特に君は脱水状態にあったからね」
「...私は濡れ鼠でしたよ」
オズワルドの言葉を聴いたヘレンとゼーンは、思わず吹き出した。
「...私の言う脱水状態とは、体内の話だよ。例え濡れ鼠であっても、体内の細胞が脱水状態にあったら意味がないね」
「そういうこと」
ヘレンの説明にゼーンは賛同すると、オズワルドに栄養剤を飲むように促した。オズワルドは手元のそれに目を向けると、戸惑いの表情を浮かべたまま口をつけた。
オレンの実の甘さと若干の塩辛さが口内に広がり、オズワルドは初めての味に不思議そうな表情を浮かべた。
「...変な味です」
彼の感想にゼーンは楽しそうな笑い声をあげると、手を叩いてオズワルドの注意を引いた。
「さてと...君も動けるようになったから、食事にしようか」
「向こうの部屋に美味しいご飯を用意しているよ」
ゼーンとヘレンの言葉を聞いたオズワルドは「はい」と応えるとゆっくりと歩き出した。まだ排泄孔が痛むが、今のオズワルドはそれを無視できるほど回復している。
ヘレンの先導に従い、オズワルドは隣室へと歩いていく。
ふと、ゼーンの視界に古い本が映り込む。それは昨晩確保したレシラム教の聖典であり、オズワルドが無意識に読んでいた本である。
「...」
それの表紙、そして中に記されている活版印刷の文字を思い返したゼーンは、オズワルドの背中を横目で見ながら思う。
奴隷階級のポケモンが文字を、しかも既に滅びたアルファベットを読める。
足形文字ならば多くのポケモンが読むことができる。だが、アルファベットは既に滅んだ言語であり、それを読むことができるポケモンの数は自然と限られてくる。
それでもオズワルドはアルファベットを読めていた。
奴隷階級に相応しくない知識を持つオズワルド、その背中を見つめるゼーンの目には不審の色が滲み出ていた。
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