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あんこくのそらに の履歴(No.2)


 

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 残花と呼ばれる季節の物語を、そもそもどちらが話しはじめたのか、ルカリオとレントラーの双方が覚えてはいなかった。世間話として漫然と会話に使われた手札は忘れ去られるのがさだめ。とはいえ追想の漣から最初にすくい上げられたのはひとつの噂である。
 ――夜空を黒い星がよぎってゆくのを見た。
 不可視の存在を見たと言い張る噂の絶えることはない。探検隊ギルドの拠点であるトレジャータウンにおいても。手のひらからこぼれ落ちる美しい幻影に等しいその噂を確かめるため、二匹のポケモンによる探検隊は、通常業務を兼ねて各地を飛び回り、つぶさに噂の収集を行っていった。やがて情報は枯渇し、彼らの活動による収穫も消え失せつつあったころ、二匹に(おさな)い疑問が生まれた。
 ――そもそも噂を言いはじめたのは誰だろう。
 これもまた過去のあらゆる世界が耽った噂のひとつではあった。故に探検隊の二匹は虜にされ、黄昏の空へ星が灯されてゆくように議論は重ねられていった。原初の夜空へ星座が組まれてゆく様にも似て、空想による仮定が心算に挿し込まれ増殖し、感覚による扇動が焚きこめられると情熱は再駆動をはじめた。最初に他者に黒い星の話を吹き込んだ何者かを辿ることは論理的ではなく、それゆえ探検隊の二匹は疑問を変質させて「噂の中心」たりうる幻想を目指すことにした。
 ルカリオの勘によって導かれた霧の湖で時空ホールにも似た結界を超えたころ、幻の星の噂は夜空から拭い去られようとしていた。

 真っ先に認識できたのは微かな光と緑に類する流動性の色である。点々と散りばめられたものではなく、眺めうる大地の隅々まで薄衣で包まれるような状態が息づいており、そのうち眼前の一帯が広大な森林であるとルカリオとレントラーには理解できた。夜の下、発光する森より外れた草原の一角に探検隊は立っているようだった。忍びやかに通ってゆく風は音を殺して歩く踊り子さながらに優美な感触をに匹の毛並みの上に残し、現実と異世界の境界線を越えたばかりの頭を沈滞させる。
「ここって、ダンジョン?」
「星がない」
 空を見上げ一抹の陰翳(かげ)を秘めるレントラーのつぶやきが探検隊の意識を瞬かせた。月がない夜にはこれまで幾度も出会った。だが星は? 二匹はしばし話し合うと当初の目的を果たすため、うっすら(とも)る森へ向かって歩きだした。
 茂る草種から絡み立つ匂いに足を止めたのはルカリオが先だった。鼻や腔内を過ぎ去っているものだとばかり思っていた香りはどこか歪んでおり、それから嗅ぐことを耳に依って行っている自身をルカリオは見出した。
「レントラー」
 呼びかけられたレントラーが振り返り、互いの目が会うと双方が口を開こうとした。(しま)いまで口にすることは許されなかったが。
 喉から言葉がひとつ流浪する。これが脳を走るよりも先に次の言葉が投げかけられる。耳鼻目膚が聞いた。それは上位語であり、それは海の底でかわされていた言葉であり、それは滅びた自閉症種らの用語であった。声を挟む間もない雄弁に無視は許されぬ。かといって答えようにも口では追いつけぬし、そもそもどこへ告白すればよいのか。混乱した自我は五感のすべてを返答に使おうと錯綜し、呆気にとられながら二匹の身体と魂は急速に活動を剥奪されていった。おびただしい苔に(おお)われるようにして失せてゆく二匹の意識は、しかしある光彩によって元の場所へすくい上げられることとなる。
 再び光景を取り戻した探検隊の前に広がるのは、かすかな光と紫に類する何かしらの色。聞こえていた言葉は消え失せ、草原から森へ向かって伸びる白亜で敷き詰められた道の上に二匹は立っていた。そして何より、三匹目のポケモンがそこにいた。
 その体は宙に浮いており、全体に淡い紫色と柔らかな曲線を帯びていた。ルカリオの両手でも十分抱えきれそうな小柄な体と同程度の長さを持つ尻尾は、先端が丸みを帯びている。頭部には小さな三角形の耳。そして大きな青色の瞳は――輝く両月は見たことがないほど老いており、公平さと酷薄さに燃えていた。
「地獄に仏とはゆきませんが、道ひとつならば私が()きましょう。現へ引き返しなさい。夢で迷い込むにせよ、こんな場所へ来るなんて。言語学者の子たちですか」
「あいにくと外れだね。それに地獄だって? 星の停止よりずっと華やかだ」
 ある種の威容に撃たれたながらレントラーは返答する。星の停止という言葉に顔をしかめたそのポケモンはルカリオにも一瞥を走らせた。
「あなたは……時間遡行系の力を使っていますね」
「いいえ」と、ルカリオは応じた。「それはぼくではないんです。未来の、ともだちの力です」
「そう……」
 小さなポケモンは静かに目を閉じた。
「生者が地獄を垣間見ることは珍しくないとはいえ、あなたたちは異世界に慣れすぎているように思える。夢から覚めそうにもない。とすれば、しばらく道同しなさい」
「なんだか高圧的だね」
 軽口をたたくルカリオの瞳はしかし、口調と裏腹に暗いものだった。
「警戒を解けとは言いませんが、私の示す道を進まないとさっきみたいに泡あぶくになってしまいますよ」
「おや。だったら道づれついでにここの説明もサービスしてくれない? お返しにぼくたちからも現状の報告をしてあげるよ」
「結構です」
 呆れた声音で返すポケモンへからかうように笑ったレントラーは、わずかの間ルカリオと目を合わせ頷いた。
「冗談にせよ、無駄な虚勢はやがて自分を貶めることに繋がりますよ。おいでなさい。眠気が覚めるまでのあいだ、私がここに至るまでの話をしてあげましょう」
 探検隊を引き連れて森へと進み始めたポケモンはアルセウスと名乗り、自らをミュウの複製だと説明した。アルセウスは永く眠りについているが、本来は時空を司る竜をはじめとする神々によって隔離された或る隠れ家が任地であり、自分は用あって分身を使いこの夢の世界へ赴いてきたのだと言う。返答として探検隊が自分たちを一通り紹介し終わると、ミュウは宣した。
 聞け。ひとつの徴候を。この世界の裏側において地獄の川の幅が短くなったことがそもそもの発端である。霊魂たちの罪の多少が原因ではなく水量そのものが減っていると判明し、いずれ干上がるのも時間の問題となったのがつい先日のこと。現世と地獄の境界が消えてしまえば数多の面白からぬ影響が百花繚乱することは考えるまでもなく、神々が解決策を求めて立ち回った。それに付随する形で川を断ち切ろうとしている意思が見つかったのだ。
 聞け。地獄の川が流れつく先の先に、とある最果てが造成されていた。川を吸い込んで霧散させるように消してゆく奈落のような現象は誰も目にできず聞くこともできない領域での出来事であり、結果とその反響から予想が積み上げられた。その奈落。地獄から延長された最先端を更に底へとむさぼり飲む穴の向こう側について、さらなる注力と観測が続行されて見出されたのがこの夢の世界なのだとミュウは告げた。
 聞け。
「聞いてるよ」
 探検隊のどちらかが応える。ミュウの声は子守唄のように優しく根気よく続けられており、探検隊は半ば無視をして共歩きをしていた。ミュウの後ろ頭を白い羽根が一枚滑り落ちてゆく。
 さて、夢の世界において地獄の川が出てくる話は少なからぬことからもわかるように、ふたつの間に何かしらの関係があるのは疑うべくもない。しかし地獄を飲み込むというのはあまりに動的すぎ、いうなれば意思に満ちていた。悪意を嗅ぎとらずにはいられぬほどに。
「その主を見つけるために私はやってきたのです。ルカリオ、あまり植物に近づかぬよう。先ほど体験したことをまた繰り返すことになりますよ」
 道を踏み外しかけていたルカリオがミュウの言葉に半歩退いた。連なる静やかな雪花石膏(アラバスタ)鋪道(しきいしみち)は前後に遠く伸び、森中の遠景へ呑まれて細い白線となっている。あたりは土――それ自体が銀のごとく輝いている――を覆い隠すほど波のようにうねる根々が地面を編み、形も色も千差の類型を見せる波濤は、もしかすれば一つとして同じものが無いのかもしれぬと半ば信じかけるほど。色は紅玉。蒼玉。金剛石。真珠。月長石と柘榴石が互いに打ち寄せ合って縞瑪瑙じみているものまであった。幹と枝葉は暁の月。もしくは星々のよう。
「地獄の川をたっぷり飲んだから、ここの植物は地獄とつながっているのかな。さっき体験した感覚は死国の入り口ってわけ?」
 森のまばゆさから自発的に道の中央へ寄ったレントラーが静かな声で聞くと、ミュウは川流れに任せるような飛行を止めた。
「この領域は未言語の集合区。あなたがたが生きるうえで膨大に積み重なってゆく、言葉にならなかった言葉を光景と仮定したのがこの領域です」
 正確さが煮とろけ、続けられるべき夢が寸断されてゆく。雲が破れるようにして。
 


 
 既存の言葉に当てはまらない、もしくは撹拌されて判別できない複合体としての感情は時間に流されて消え去るのみであり、別の言語体系と遭遇し翻訳の必要が発生するなどして定義せざるをえなくなった場合をのぞいては捨て置かれる未言語たちの領土がここだという。言わば言語森とでも名付けるべき夢の領域に封された+収斂された+内蔵された+癒着された場所への存在をミュウは認可している。神の群れに助力されて。
 未言語でざわめく植物らの音に半ばほど消されたミュウの説明は途切れがちだったが、七遍のまばたきの後で探検隊は理解することができた。
 探索者としてミュウが選ばれたのは、己の中にあらゆる命の基準を持つものであり、変質しないものだからであるとアルセウスは語った。未知は幻想にとって危険である。先導者として夢の舌禍(羽とする。口伝機能は取り外された)から力を借り、ミュウにとって異物である力をなじませるために同じく異物である三日月の化身の力を借り、七色の角の効能で身体を補ってここへ訪れているミュウは、言うなれば神々に間接証明されたアルセウスの分体であり、自らの幻想と夢が混じり合った状態である。おとぎ話の兄妹のように帰り道へ印を落としているわけではないが、深海へ侵入する潜水夫の命綱のような物は結わえられており、非時空と非夢現で作られた物質による綱は裏世界側側と即時的で簡単な意思疎通を可能としていた。
 ざわめく植物らの音に半ばほど消されたのかミュウの説明は途切れがちであったが、十四遍のまばたきの後で探検隊は理解することができた。いつの間にか辺りの植生は見るからに変化しており、輝かしい星のごとき光はいくらか和らいで、森全体の奥行きと高さは深長を加えている。根束のひるがえりは鳴りをひそめ、代わりとばかりに緑の下生えや樹上からの垂れ枝が地表の上へ幾重にも広がっていた。星影の匂いが感覚をくすぐる中で、空間に氾濫した緑は層をなし、個々が深く浅く、もしくは広く狭く輝き、紡がれた糸翡翠のようにくねりつつ硬直していた。寄木細工(モザイク)じみた配列の色彩で輝くのは碧玉と天河石。と思えば翠玉と緑柱石の光彩に変じてゆく森の中を三匹のポケモンは進んでいった。
「催眠効果でもあるんじゃないの。ここ」
 レントラーがぼやくと、しばらく間をおいてルカリオが答えた。「眠りの中で眠るとどうなるか試してみる?」
「いけない。本当に夢を見ているような感覚になってきてる」
 そして二匹は一種の静寂を聞いた。弾かれたように揃ってミュウの方を向いてみれば、先を進むミュウは道の真ん中で振りかえっていたが、その顔は頭上より伸びてきた影により全てが黒で塗りつぶされてしまっていた。森のあちこちで地上の木漏れ日のごとく、枝葉を貫いて空から直ぐに影が差し込まれている。地に満ちる光のために端から削られながらも、影のいくつかは地上へこのれ落ちて溜まっており、そのうちのひとつをミュウは浴びていた。
 帰れ。
 ルカリオの波導が結界を観測した。現への帰り道がそばに現れている。いいや。はじめからずっとぼくの近くに境界はあったのではないか。七の三倍まばたきを落としたレントラーは時間の残響を目端にとらえる。いいや。はじめからずっとぼくの近くで時はひしめいていたのではないか。
 冬に食い殺され(すが)れてゆく花時のように霧散したレントラーとルカリオを影の中からミュウは見ていた。夢から現への帰還を見届けるとミュウは踵を返し、白い煉瓦の道が続く先を見据えた。はじめての夢の終わりがミュウに記されたのはこの時である。

 探検隊は夢から帰還した。交わされる意見は瑞々しく自らの歓びのために奮って語られ、しかし夢の残照を再び吟味しようかという矢先にある発見をさせられた。舌の操る言語の一部が変質しているのを偶然(もしくは言葉にできぬ直感に導かれて)見出したときの驚きといったら。聞き覚えのない単語は存分に二匹の知的好奇心を弄び、痕跡を嗅ぎ回させ、波々と欲望を脳髄へ溢れさせた。
 未言語の領域で遊ぶことにより、解らぬながらもそのいくつかを持ち帰ることができた。蒐集したそれらを並べることにより類型を見出し、意味を解きほぐすことができれば訳することができる。その中に我々が未だ扱ったことのない新しい概念――それこそ一冊の本が述べることを一言で括り付けてしまえる言葉か、あるいはその逆でも見つかりさえすればどれほどの利益を生むものか。
 一度歩いた道ならば再び赴くことは容易であり、加えて大いなる興味と関心を共連れにするならば嵐にも躍りこもうというもの。ルカリオとレントラーは地底の湖を進み、軽々と結界を抜けて緑の光海へ進んでいった。

 はじめて夢の再開が記されたとき、ミュウは呆れた顔で探検隊を見ていた。
「来るなと言った覚えはたしかにありません。ですが言わずとも危険のほどを知ることはできたはずです。それは」
「それは間違ってない」
 ミュウの言葉を引き取って遮ったルカリオは自らにどのような変化が起こったのかを説明し、実際に発言してみせた。目を閉じてため息をつくミュウに二匹は未知の言葉がもたらす利益を説き、それから謝った。見ず知らずのポケモンをどうやら本気で心配しているミュウへ向けて、他の方法で誠意を伝えるすべを探検隊は知らなかったのだ。
「謝りさえすれば納得して手を伸ばしてくれる。私がそのような存在に思えているのでしょうか?」
 しかし、とミュウは続ける。二言三言とはいえ変質を遂げた言葉は本来生まれ得なかったはずのものであり、供養が必要なのも事実だと。
「事の次第を私が見届け対策が打たれたあと、貴方たちに根付いた言語はこの場所へ返します。そして貴方たちの頭から席を譲った元の言語も復帰させることを、アルセウスの名において約束しましょう」
「アルセウスってそんなこともできるの」
 レントラーがルカリオに呼びかけ、取り出した手書きのメモ帳へルカリオがペンを走らせる。
「勤勉なのは結構。私ではなく以前説明した隠れ家の者たちが為します」
「神様が生者に命令を?」
「まさか。ただ此度の役割に見返りを要求していなかったので、それを使うことにしましょう」
「これから先にすり替えられる言葉についても、後日の回復をお願いしたいんだけど」
「強欲は身を滅ぼしますよ。代償として一語につき一刻、私の薫陶を授けましょうか」
 探検隊の二匹は狡そうに笑って目を合わせると、ルカリオは鞄から手のひらに乗る程度の紙の包みを取り出してミュウに差し出した。
「これは?」
「お礼だよ」
「まさかとは思いますが、私を地獄の川渡しのような者だと考えてはいないでしょうね」
「まあまあ。お金じゃないから」
 引き続きルカリオとレントラーが粘り強く説得を試みる中で冷然とした態度をとるミュウだったが、受け取っていた包みがふとした拍子に緩み、中にあるものが目に入ると密やかに見つめた。それは他愛のない菓子ではあったが、ルカリオがかつて生活していた人間世界のものとあってはミュウと言えども口にしたことがないものだった。
「すごいだろ。ぼくの相棒は料理ができるポケモンなんだ!」
 ミュウの顔と菓子を交互に見ながら、レントラーが言った。
「元人間だからね」微笑むルカリオが穏やかすぎる声で促す。「どちらにせよ食べてもらわないと。前回のお礼とあわせてのものだし、気兼ねなくどうぞ」
 ふむ、と鼻を鳴らして、菓子に口をつけたミュウはそのまま咀嚼し、探検隊の二匹へ変わらぬ表情を向け、飲み込むより早くもう一度菓子を口へ含んだ。心底でルカリオは笑った。生地の中にどっさりとプリンとカスタードとキャラメルソースが詰め込まれているものであり、少々の理屈と多大な勘を根拠に選んだ手間はどうやら報われたらしい、と彼は悟ったのだ。
「気に入ってもらえたならよかった」
 ゆらゆらと笑うレントラーに応えて、口元で菓子を千切りながらミュウは頷いた。
「とりあえず進みましょうか。これからのことはおいおい話をしましょう」
 ルカリオは最初の一歩だけ歩いた。彼らは知っているのだ。一度歩きだしてしまえば歩みというものは止め難く、特に目的を持っている者にとっては呼吸のように続けられるものなのだと。菓子の真ん中を大きく頬ばりながらミュウは何も考えずにルカリオの横へ続いてしまった。
 言語森として名付けられたこの地の配合と装入は未だに変わるものではなかった。繁乱する木々。発光する地と遠景。空の全ては夜の黒。だが物体を構成するあらゆる曲線が細く鋭くのたうつように変わり、蜘蛛糸じみた疎密だけで色彩は分類されはじめていた。色付きの物で描くというよりは、黒く塗られた物から削り除いて作られる肌理(きめ)の溢れた世界を三匹は進んでゆく。
「方向は正しいようです」
 ついには探検隊の同行を許したミュウが空中浮遊を止めずに言った。
 未言語で咲き出された植物群はひとつの方向を持っているようだった。木々は独立した数々の点在ではなく繋がった巨大な管として、おそらくは地獄を吸い上げ動かしているようだった。森を通過する甲高い飛音の唱和が根拠であるとミュウは樹陰の方に顔を向けた。水を飲む命ではなく水を運ぶための駆動が森となって現出しているのだ。
「あ」
 うつろな声に振り返ったミュウの顔を白い羽根が一枚滑り落ちていった。追従者が眠りを振り払ったのを見届けてミュウは飛行へ戻り、夢を刳くるような声で説教をはじめた。結局のところ探検隊の失われる言葉は一段落の後にすべて戻してみせるとミュウは請け負ったが、この夜において探検隊の脅威となるのは失語よりも夢の中における自我の希薄症であり、道を踏み外して森に捕まればたちどころに己を(ひら)ききってしまう。ゆえに眠ることなかれ。理性の眠りは怪物を産むと知れ。
「どちらかといえば現に戻るんだけどね、ぼくたちの場合」
 合いの手を入れる余裕のあるルカリオのぼやきに仰々しく首を向けたミュウの頬を、雲の流れる速さで白い羽根が横切った。
「前から気になってたんだけど、なにそれ。頭にムックルでも入れてるの?」
「さっそく夢魔にやられましたね。鳥の怪物を私の頭へ勝手に生み出さないで」
 そもそもこの場へ立つ自分は完全なアルセウスではないとミュウは自らを断じた。危険な場所へ出向かせるための【使者、調査機といったたぐいの言葉】であり、夢に創造神の権能を混ぜ、その隙間に先導者の力を流し込んで(はた)織られた傀儡だと言った。半分以上は七色の角の効能で構成されており、先導者も月に由来する者であるため混沌の者であるアルセウスとは反りが合わず、これら一切をなじませるためにとある悪夢の化身から夢の力をまぶされているのだとも。こうして変容を()けたポケモンのようなものは薬を燃料として夢の領域を探索している幻想機械なのだとミュウは言葉を結んだ。
「怪物じゃん。継ぎ接ぎの」
「そうです。もしかしたら貴方たちの眠りが産み出した存在かも知れませんよ」
 


 
 時間がそこかしこへ点在していることにレントラーは首を傾げている。空にはむろん一滴の星もないのだが、明るく半透明な時刻は透視を可とする彼の目に次々と飛び込みかけており、肩から肩へ飛び移り沈黙をおいてゆく天使のように作用していった。ついでに先ほどのミュウの成り立ちをレントラーは以前にも聞いたのではなかっただろうか。あのときの時刻はいくつだったか。
 


 
 予兆者としての一片(ひとひら)はミュウの周りを旋回し、常に視線から外れるようにして落ちては昇る。その速さは微睡みと昏倒の間ほどであり、進むべき先を教えると言うよりは匂わせるようにして方向を知らせ、道を敷いてゆく機巧だと説明された。
「きみが選ばれたのは道を造れるから? 地獄の神って土木業だったんだね」
 胡散臭げにミュウの背中をルカリオが眺める。
「それで選ばれるとすれば大地の巨人でしょう。道を伸ばしているように見えるのは、夢という曖昧なものへ在るべき形を私が定めているからに他なりません」
 いつの間にか影が頭上から降りてきていることに気づいた探検隊が頭上を仰げば、両側へ高さもわからぬほどの絶壁が空を切り取るようにして立っていた。壁は光の気泡に包まれていたが言語森の植物ではなく、地層がむき出しになった岩体であると最初は思えたものだ。しかしよくよく見れば質感が鉱物というよりは植物的であり、なによりも言葉ならぬ谺が風のようにそよいでいる。
 一本の倒木が割れ朽ちたあとの年輪と年輪の間を進んでいるのだと結論づけたルカリオとレントラーは、それでも目のする光景の巨大さを疑わずにはいられなかった。飲み込まれるようにして空へ消えてゆく左右の壁の高さも、長大な大地へ横たわる樹躯がどうやって生育できたのかを彼らは理解ができない。できようはずもない。存在し得ないものを見た彼らは興奮してさえずり続け、やがて定刻を迎えた。
 聞け。
 帰れ。

 前にも比して多くの聞き知れぬ言葉を収穫したルカリオとレントラーは分類に勤しんだ。残念ながら莫大な利益を生むものは脳髄へ刻まれなかったものの、蒐集の快楽と小さからぬ所有欲は存分に刺激され探検隊の活動としては及第点だろうと幸福を覚えたものだ。しかし瑕瑾もあった。割合で言えばルカリオより多くの言葉が変化していたレントラーは日常生活でもそこそこの頻度で使う【やさしい口づけ、もしくは肌を(すべ)る髪に該当する】という単語を使えなくなっており、それをついつい多数の隊員の前で使用してしまい、少しの恥と小さからぬ騒動を引き起こしてしまったのは、しかしこの物語の埒外にある出来事である。

 夢に舞い戻った探検隊を待っていたのは全面の暗黒だった。足元で体を支えるのは月から彫り抜いたかのような色を持つ階の一段。腐食して掠れた文字のように頼りない並びの螺旋をえがく階段たちのはるか下方には、広大な山脈を思わせる一本の巨大な朽木が地平の向こうまで倒れている。ミュウの念動力が二匹を支えていなければ、光景の沈殿につと足を踏み外していたかも知れない。
 三匹の姿は空の黒に飲まれて不可視となっており、わずかな光をはためかせる足元の階だけを道しるべにして進んでゆく。進行がさして困難と思えなかったことは探検隊の二匹にとって驚きだったが、夢であることを斟酌すれば不思議とまでは言えぬと思い改めた。ルカリオの差し出したジョウト風抹茶モンブランを食べるあいだミュウは無言であり、探検隊はただ光景を堪能しながら上昇していった。
 


 
 この灰は星の燃え殻。土砂のごとく台地の上に氾濫するほどならば、あるいは生まれくるはずだった全ての星が灼かれてできたのかも知れぬと聞いた。おそらくは花文字によって。
 


 
「行く先は空? それとももっと上?」
 ルカリオが訊ねる。
「わかりません。しかしこの空はおかしい」
「空じゃないからね」
 レントラーの声が割り込んだ。その薄々さに不安を覚えたルカリオが瞳を動かすと、ふと森の外れが見えたかに思われた。無論、枝葉と下草による仄光の茫々とした広がりを下に敷いた何ひとつ変わり映えのない夜ではあったが、森とは別の黒による境を見たルカリオは鼓動を速めたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた。―――――――――――――――――――――――――――――――――――夜半の傾く音を聞いたレントラーが自覚を揺らす。時の認識が変わったことは彼の動揺を間断なく全身へ伝えた。これまで透視によって遠雷のように種々の時刻を視ていたレントラーは、急に増幅した時間の揺籃へ怯えるように立ち止まり、半覚醒し、すでに道が移ろっていたことを知った。
 昇っていたことは間違いない。三匹の体の動き、道のりを伝える言葉の全ては真実であることはミュウにも記されている。だが頭上には植物の根が一所(ひとところ)へ流れる川もしくは美髪のように張り巡らされており、周囲には黒ではなく白熱したかのような尋常ならざる光が満ちていた。目を灼かれずにすんだのはその光には翳をも織り込まれているためであり、これらの煌めきは言語森における土――植物を支える銀の露地と同じものであると知れた。足元の道は変わらぬ白玉である。
 いつの間にか空から地の底へ道が変じていたことは明らか。そもそも空へ向かえば地底へ通じるはずもないという認識は夢の否定であり、提示された事実を前にすれば言葉を失う程度の失うこと程度の言葉をう失こ程度としか失もので言葉あるうこと度としか失うこ程るう―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 この時にレントラーは視力を失った。
「あ」
 声に反応して他の二匹が振り向いた時、中空から突然生じたかのような瑞々しい緑の花鬘(はなかずら)がレントラーの瞳へ絡まっていた。灰壁を縫い道の外から生え出ていた植物をミュウは摘み取ると、手の内で枯れる緑には目もくれずレントラーの顔を見て首を振った。レントラーの眼球は黒く染め上げられ、視る力の全てが失われていたのだ。
「言葉に(あた)りましたね」
 ミュウは―――――――――――――――――――――――――――――――――――溶解。耽瞳。言葉に中る。夢であれ現であれ、そこで使用する言葉の変質はルカリオとレントラー双方に影響している。未知の言語を使わずとも動作系に支障をきたし、蓄積された自覚症状を圧して進んだ結果、レントラーは視覚を焚かれた。
 夢の中で現を保てるルカリオはまだ軽症。生物は夢に耐えられるようにできてはいない。いないそうだ。



「私が夢と現実の分別をつけ、レントラーの小康を保つことはできます」
「時刻はまだ見えるよ」と、レントラーは言った。「目が潰れたわけじゃないみたい」
 ――視界外にいる素描の夢ら。
「おそらく夢過性のものでしょう。この夢の中で復調することは難しいかもしれません」
 ルカリオは言った。「ぼくの波導をレントラーに伝えて視界を共有すればいいんじゃない?」
「そうしてって言うところだった」
 言葉によって知識を伝えることに慣れきった者たちの――
 


 

 


 
 地獄を奪った悪意はこの領域の空を燃やしたのかもしれない。レントラーが観測している薄い時刻群は燃え尽きた灰から視えていると彼自身が呟いた。大地を星の灰でいっぱいにして言語森の根を張りめぐらせる下地にしたとする。もしかすれば天地を逆にしてから地に落ちたままの星を灰燼にしたのか。
 どうあれ目的はそれだけではあるまいとミュウの中にある悪夢の要素が告げた。星を焼くならば廻天を止めるも同じであり、時の否定に端を発しているのだとも。
「じゃあ、空から降ってくる黒い光はどういう星が」
 言葉を止めたルカリオは口元を指でなぞった。思わぬ動作をした口先を確かめでもするように。
「夜は黒を降らせはしません。そうですね。天の光を見に行きましょう」
 白い道はおそろしく急な上り坂となって森の中へ出ると、やがて広々と開けた場所に三匹を導いた。地面はびっしりと灰で覆われており、広場の中央へ近づくにつれて幾多の根がまっすぐに伸びてきて絡まりあい、切り株じみた異様な瘤を形成していた。そこをぐるりと囲む高い樹々の枝葉は空から振ってくる強い黒光によって半ば飲み込まれるようにしてまたたいていた。
 広場にそのまま入らず、木の陰から辺りをうかがいながら葉群(はむら)の一点をじっと見つめていたミュウの口がほぐれた。
「見つけました」
 燦々と非輝を降り注いでくる天にあるものをミュウは読み取っていた。この世界の空に浮かぶ暗黒星を。
「竜を――? 未生。階位ならば先ごろ……」
 あとに続く断片的な独り言に業を煮やしたレントラーが説明を求めると、時々虚空を見つめて止まりながらミュウは語った。
 隠れ家と可能な限り情報をやり取りして受け取った仮説によれば、暗黒星は、死んだ暗黒の未来で生まれるはずであった知性の一つであろうということだった。非生に端を発している存在といえど莫大な言葉に囲まれたならば誕生は道理であり、そのうち存在の肥大化に使用できる物を発見してしまった。それが地獄の川であり、化石燃料を燃やすようにして力をつけた未言語は次に時を()やしてさらに大きくなっていったのだという。
「吸い上げた大量の水に着目した仮説が竜です。地獄の川を動力として使用していることは予見されていましたが、この彼方を見てしまえば竜を呼ぼうとしているのが妥当な予測でしょう」
「竜を呼んでどうするの。自分を食べてもらうとでも」
「であればこちらも助かるのですが。そもそも我々の隠れ家を成立せしめたのは竜たちの力が大きい。というよりは最後の承認として用いられました。暗黒星はそれを識っている」
「承認?」
「現と袂を分かち、別世界として成立するための。一度成立した儀式を模せば失敗も少ない。なるほど想念から生み出されただけあって知恵をよく使い、吸い取った地獄の川から我々をよく学んでいる」
 ミュウの言うことを理解しようと首を傾げる探検隊を置いてミュウは踊り出した。広場へ出るための道を伸ばして。
「あれは閉じた世界をひとつ作るつもりです。我々の世界を踏み台にして、空を焼きつくし星を()べつくしたこの言語炉の大地において」
 声の角度が変わったミュウをレントラーは不安げに見ようとした。
「きみはこれから帰るんじゃないの? 場所はわかったんでしょ?」
「ええ。私が一度帰還すれば詳細が解析されるでしょう。時間を消費して。いまよりさらに遅れることは摂理が許しそうにない。場所さえわかれば即座に行動は起こされますが、見知らぬ夢における位置を正確に知らせるというのは困難な事なのです。基準をどうするのか。隠れ家における基準とどうやって相対させるのか。いまのやり取りで大雑把には掴んだでしょうが、大海の底で一粒の真珠を探すに等しい所業です。さあ、貴方たちは道を戻りなさい。私はなんとかします」
 そうして軽やかに根塊へ向かって歩き始めたミュウへルカリオが声を荒げた。
「なんとかもなにも、空の中心をひとりでどうにかできるわけない!」
 ミュウというポケモンにそのような逸話も権限もなく、それどころか管轄ですらない別世界とあっては試みるのも愚かなことだと言える。ルカリオの叫びも当然のものとして受け取られるべきだったが、ミュウは決断したのだ。そもそもこの暗黒星を成長させたものは地獄の川であり、冥界は多少とはいえポケモンの力が及ぶ世界であったこと。また月に親しい力も運良く携えていたこと。空を黒く塗りつぶしているとはいえ、中点に輝くものを月と見なせぬこともないだろう。あの化身のように目につく宇宙すべてとまではいかぬまでも、些かなれば空へ告することもできよう。心許ない手法ではあったが為すべきだとミュウは裁定した。
 ゆえに空へ向けてミュウは告げた。
 落ちよと。
 存在せぬはずの風が森によって模された。かん高く疾走する音と気配が坂道を転げ落ちる大木さながらミュウの周囲をうねり捻じれ、それに乗せられた黒光が荒れ狂う中で地上の僅かな光はかき消されてしまっており、その中でミュウだけが昼間の月のように朧気な姿を見せていた。遠く離れた木陰から揺れ動くミュウの姿を見て、やはりミュウでは天球には至らないのだとルカリオは悟った。出番はまだか、と現の世界へ戻る結界が自らの側で囁いたように思えてしまい、ルカリオは頭を振った。幻聴だと言わんばかりに。風のようなものは存分に未言語の植物をちぎりかき混ぜ爆ぜ舞わせ、白い道へ座り込んだ探検隊にさえ花を撲つようにして叫喚を聞かせる始末。その全てをルカリオは無視した。
 黒濁した瞳で空を見上げながらレントラーは探した。この状況を打破する何かを。耳に入ってくる言葉に脊髄を噛まれながら。何も視えはしない。何もわかりはしない。ルカリオを通してレントラーが見たのはミュウの孤立した灯。塗りつぶされた黒の黒。そして大地へ潜らんとする蛇虫のように荒れ狂う木々の根に加えて、巻き上げられる星色の灰――
「【夜の底深い時間を示す言葉】」
 花洎夫藍(クロッカス)のようなレントラーの声が探検隊の間に流れた。何をすべきかが二匹の間で話し合われたのは間違いない。あらゆる言葉が混在するこの場所においてはもはや、探検隊の間でどのような会話がなされたのか知るすべは失われおり、あとに残されたのは何を行ったのかという事だけだ。それすら曖昧ではあったが。
 どちらにせよ語部(かたりべ)は虚言をよくするもの。そのうえで再解釈と補遺を織り込めば以下のようになろうか。
 探検隊は白い道の外側に広がる灰地を目指して飛び出した。灰の上へと翔けたのはレントラー。その腰へ制止するように両腕を絡めたルカリオの顔はしかし、前足の先が灰に沈みはじめたレントラーと同じ表情をしていた。ひとつの季節を燃え上がらせるときの表情を。燃える灰さながらの。
 灰の中へレントラーは沈んだ。
 正確には星と灰の境界に生じる裂け目を観測したルカリオの指示によって、境界を越えたのだ。
 星と灰の境界。本来これらの間に境界は存在しない。それでもなお見出すのであれば多大な力が要求され、とても転換できるものではないだろう。しかしこの領域であれば話は別。星が燃え尽きて灰となったことは理として世界に横たわっていたし、星の残滓をレントラーが観測もしていた。世界を別々に隔離するために引かれた線――結界、すなわち時空ホールは発生していた。
 レントラーの感じる重力が変化した。下半身は言語森でルカリオに掴まれているはずだったが境界を超えた後で前足は支える大地を失い、灰の中を墜ちてゆく。加速する落下速度と全身の膚を撫でつける灰片の僅かな抵抗が全身の触覚を塗りつぶし、無覚へと変え、星骸の中をレントラーはたゆたってゆく。もはや瞬かず、しかし星は星。かつて夜空だった場所の全てに光は蔓延していた。何者かが言ったのではなかったか? あるいは生まれくるはずだった全ての星が灼かれてできたのかも知れぬと。とすればポケモンの目に耐えうる光量ではない。静かな星影のため身を焦がされることはないとしても(古今のあらゆる生命が夜空の星のために焼死したという事実はない)、まともに見つめれば瞳が灰となって消散することもありうる。しかしレントラーの瞳はすでに言葉によって盲いていた。一度灼かれた瞳を囚える光などなく、全てが黒く染まったレントラーの目は星の白の中でいつもとかわらず開き、そして(にら)いでいた。燃える灰さながらに。
 灰の中へレントラーのまずるから泡となった言葉が漏れる。それは【祈りの空を告げる時の意味】であり、探検隊が慣れ親しんだ地上の言語ではない。次の気泡は【水面を駆ける天の意味】であり、次は【いつまでも明るい雲を纏う氷原の意味】。いずれもレントラーが見えぬながらも受け取れる時刻であり、地上の時刻ではない為すり替えられた言葉を用いてつぶやかれていった。やがて目当てを探り当てたレントラーのまずるが引き絞られると、彼は結界面上に突き出ているはずの尻尾を思いきり振り乱した。()れた感覚はレントラーの足先を硬直させ、続けて誤った指令が肺に残っていた何かを半分以上吐き捨てさせてしまった。見当違いな動きを繰り返し、何が間違っているのか曖昧になってきた中でさえ、レントラーは愚直に尻尾を動かすことだけを実行していった。
 その途端、レントラーの上半身は横薙ぎの突風の中に戻ってきた。思い切り尻尾を振るという合図を受けたルカリオがなんとか灰の境界から相棒を引き上げ、潜灰者の胴を脚で挟み込みながら引き上げてゆく。
 ――!
 朦朧から醒めたレントラーは叫んだ。地上の言語を。今この領域のこの時刻、暗黒星が燦々と聳えるこの時を。
 騒然とした風のなかを透かしてその声はミュウへと届き、あとは暗黒星に膝を屈するのみと思えたミュウの口元へ弱々しい驚きを添えた。時刻を定めたということは過去未来を等量で刻むことと同様であり、その尺度をポケモンがどこから引用してきたのかと言えば答えは一つしかあるまい。再び空へ向けてミュウは告げた。
 その姿を見せよ、と。
 暗黒星を落とす権能は持たずとも容姿の開陳ならば可能だった。そして空の果てあたりから彼らを覗きこんでいた黒の円形は姿を現し、ルカリオの目には映らなかった。生物の瞳で黒を夜空に見つけることが叶わぬことは噂が証明している。しかしレントラーの瞳には観測された。言葉で盲いた瞳の裏で、ひとつの言葉が生まれて口から湧きたった。
 ――||。
 灰の中で掴んだ時刻から秒数だけが経過しており、時が動いたという事実を耳に香らせたミュウは()まいを咲かせた。生者が時を刻むために振るう(のみ)の名は天をおいて他にない。そして時の不在にかこつけて天頂の座に君臨していようとも、たかが一つの星でしかない暗黒星は廻らねばならぬのだ。命が老いねばならぬように。暗黒星がぐらつくのをミュウは感じた。
「さあ。時の取り立ては神々もすくみ上がるほど苛烈ですよ」
 力を使いすぎたために体の末端が崩壊をはじめ、中空へ銀色の煙をくゆらせるミュウが一点を見上げて宣告する。
「廻りなさい。暗黒星。今まで支払わなかった分も含め、疾く速やかに絢爛と地平ヘ没せ」
 暗黒星はつまずき、ゆらぎ、そして天をめぐる円線へもたれかかると、そこから手を離してはるか遠くの地上へ墜落した。凡百の数ならぬ星の一つとして生きることはできぬとばかりに。音ひとつたてぬ堕天ではあったが、森に落ちた衝撃でその身が砕けたのか黒い闇の突風が探検隊のいるところまで席捲し、しばらくは白い道の上にさえ闇を滑らせ馳せていった。
 あとに残ったのは灰の地面と根塊の丘。林立する言語と夜より黒い頭上の天鵞絨(ビロウド)。三匹のポケモンと白い道。暗黒星の屍風に濯がれたものか、通常の瞳と視力を取り戻したレントラーは初めて見る光景へ感心しきりで、そんな彼を未だに灰の中から引き出そうと苦戦しているルカリオがひとつの疑問を口にした。探検隊としての活動を優先するのは見上げた熱心さだが、今は他にやるべきことがあるのではないか、と。二匹を一瞥したミュウが色味を失い透けつつある身体で元の白い道へ戻ってゆく。
 ミュウの身体を天上より黒い光が貫いた。
 一条。二条。四条。十六条。
 異変を目の辺りにして硬直する探検隊へ向けてミュウが小さな指を振るうと、白い道が上下にうねり探検隊を跳ね上げる。わななくミュウの指先から白い羽根が矢のように真っ直ぐ探検隊へ飛び、その先にある夢と現実の虫食い穴へとルカリオの視線を誘導した。思わず羽根をつかんだルカリオは結界に投げ入れられる前に見てしまった。空に燦然と輝く黒の星々。視覚すらできる黒の中の黒をまとった、大小様々な暗黒連星――

 夢から【帰還に該当する】探検隊は、【秘密の黄昏に該当する】【 咲いた黄色の殺意に該当する】【欠落した第九番目の文字に該当する】【木の葉の間を垂れてくる風に該当する】【空転する雑踏に該当する】 【獰猛な踊り子に該当する】 【おおよそ夜の寓話に該当する】 【写真へ垣間見る覚醒に該当する】 【少女の時間的隔たりに該当する】 【東に差し出される血流に該当する】 【古の死体挿絵に該当する】 【異色の夢幻に該当する】 【魔術背景腐刻に該当する】 【再び灯る妖猫に該当する】【過去の未知に該当する】 【計画の決行に該当する】 【葬られた造形媒介に該当する】 【永遠に該当する】……
 探検隊の二匹は多くの言葉を口にすることができなくなっていた。幸いにも読むことは可能であったため、メモ帳を使ってのやり取りを駆使して意思疎通を続けていたが、このままでは行き詰まるのが目に見えている。ルカリオとレントラーは水晶の湖を目指して地底を駆けた。解決を急いだ。
 


 
 二十九にも及ぶ空からの黒光で串刺しにされたミュウはどうすべきかを思索し、諦めてから瞼を閉じた。暗黒星が一つだけだと思っていたのは迂闊と言う他なく、言語の本質が増殖であることを考えてみれば当然自得するべき事態だった。わずかに残されていた力は急速に消失してゆき動くことも叶わぬ。やがて霧散するとはいえ竜たちに警句のひとつも持ち帰れぬ己を恥じたが、最後に探検隊を救えたことに安堵してもいた。羽根を持ったままいずれ世界の裏側へと入り込むだろう二匹は見咎められ、羽根へ付随しておいたミュウのメッセージを読み取り、彼らは言葉を取り戻すことができるだろう。それまで現実世界と裏世界が無事とすればの話だが。どうあれ帰還した探検隊は恐怖を堪能した思い出としてこの夢を記憶の奥底へしまいこみ、この冒険は終わるのだ。
 ゆえに境界から探検隊の二匹が戻ってきたとき、ミュウは目を疑った。ルカリオとレントラーが自分へ向かって白い道を一目散に駆けてくるのを見て今いちど道を動かそうと試み、それが叶わぬほど力を失っていることへ底深い喪失感を味わってミュウは凍てついた。目の前で子供らが悪鬼に裂かれるのを瞳に映さねばならぬかのように。
 結界を越えるなり全力疾走をはじめたルカリオとレントラーは、まずミュウをどうするのか決めていた。彼らを逃がしたミュウに対して何を行うのか。自らの言葉を取り戻すということは脇に置かれた。ミュウが言葉を戻してくれると約束していたこともあったが、何よりもミュウをあの森から救い出さねばならないと探検隊は決めたのだ。探検隊だけでこの夢へおもむき、熱い蒸留酒のように冒険を啜ったのち逃げ出したのであれば、二度と言語森へ近づくことはなく次の冒険へ彼らは足を向けていただろう。
 つまるところルカリオとレントラーには我慢がならなかったのだ。ミュウがあのまま消えることに。かつて歴史改変に手を染めた傲慢な探検隊は現在(いま)を失ってゆくすべての者を否定し、同時に彼らが存分に飽食する現在から忘れられるすべての者を否定していた。すべての生命の死を拒む子供と変わりない。多くの者に比してはるかに幻想に浸かっているはずの若いポケモンたちは、しかしミュウを実存の友として見る倒錯を許していた。夢を現に見るごとく。
 再び訪れた探検隊に気づいた暗黒星らが黒い光をまっすぐに下ろそうするより先に、ルカリオが片手だけを相棒の背へ伸ばした。その手を通じてレントラーが己の両目を閉じると、相棒の波導が視界を共有する。彼らには見えていた。すでに落ちた暗黒星へ生じている――堕ちた宇宙の中心と夜を司る、旧い象徴の境界を。
 星のひとつとして堕ちた最初の暗黒星ではあったが、その兄弟が空を埋めたことにより黒い太陽としての屍衣を被せられた黒躯を探検隊は視た。射殺された太陽が月へと変じることは地上における多くの神話が指し示しており、暗黒星は二面性の狭間を携えることとなった。そして月としての顔を持つに至った暗黒星の成れの果てをルカリオは見つめ、レントラーは観測した。墜ちたる星の新たなる被衣(かつぎ)から伝い流れる銀光が、暁における初光さながらに言語森へ注がれ、暗黒連星の光と縦横に交差しながら機織(はたお)りとなってレントラーの瞳にきらめき、見通した。
「【空を焦がす場所にて死せる月に該当する】!」 
 レントラーの咆哮を聞いたミュウからさらに色彩が揮発する。残された諸々の己を糧に、裏世界へ言葉を送ったのだ。
 雲耀のあと、時を引き裂く竜の宣告を聞き、宙をねじ切る神の(かいな)を見るルカリオの横顔をよぎって白羽根がひらめく。薄玻璃は宙を舞い、と見えるや月華が葉ごもりを縫う速度で遥か後方より飛んできた光に砕かれ四散した。遠い闇の火口から三日月の化身によって放たれたそれはそのまま真っすぐに空へ向かって躍り上がり、遠く遠く、空の広さよりなお広い隔たりを走り()ってから消えると夜空に月が一つ、にじみ出るようにして現れた。指を動かすミュウが霞むと、ルカリオの前に天へ駆け上るための階段が置かれてゆく。いつかの夜のように。
「【空を焦がす陽月が集う場所にて死せる月に該当する】!」
 自らの透視に相棒の波導を注ぎ込み、ほころんだ二の月を見たレントラーが再び地上の物ならぬ言葉を空に吼える。空を見ることに集中する彼が落ちないよう全開の波導を共有しながらルカリオは光の階段を飛びこえてゆく。探検隊を追い抜くように二の光が放たれ来たり、細い銀糸じみた旋条を風の中に残しながらのぶかく夜空に立つと、月の近くにもうひとつの月がじわりと現れた。ふたつの月は水面の油玉のように境界線が触れたところから融け合わさり、大振りな月へと変わって空の低いあたりを照らしはじめた。
 おびただしい空に比してあまりに小さな探検隊ではあったが、月白で身体の境界線を染めて黒に塗りつぶされることなく上昇を続けてゆく。夢中のこととて疲れも知らぬとばかりに二匹は駆け続け、その時々で月を仰いでは、意思と記憶と感情によって規定されるすべての己を以て、使われたことのない名を(ちりば)めると、緑と灰の向こうより天走(あまばし)る光が天体的死所を定めるために空を突いた。花が落ちる速さで姿を表すひとつの月。新しい光によってさらに輝きを帯びてゆく階と、二匹のポケモンによる探検隊。
 悪夢の化身によって、夢世界の言葉がひとつ授けられた。それは意思を先んじて持ちながらも不必要なために用いることをしなかった暗黒星たちの言葉であり、他の誰かに向けて放たれた言葉ではなかった。ゆえに声もしくは感覚器官を反応させる手段は何ひとつ使用されていなかったが、ミュウは聞き届けた。そもそもが幻想の存在であること。あらゆる生命の種を持つ問題によるためか。無論ことばではあるがいかなる言語にも当てはまらないため書き記すことは叶わぬ。とはいえ微かに残された記録、事後に何者かの口端を流れていった流言をかき集め、当て推量で編み上げた想像であれば叙述は可能。真実そのものではなくとも、その兄弟の程度には似せることができようか。語部は虚言をよくするものだ。夢と同じく。
「知らなかったのですか? あの子らの中で流れているのは、ここの黒とは似つかわしくない赤。そちらに拝跪する謂れなどないのですよ」
 ミュウは言った。進んだ。前に。黒光に()まれこそげ落ち千切れ飛ぶ自らの身体と苦痛を一顧だにせず、色を失いつつある己を自覚し常のごとく振るまいながら。
 ワレらを無為に蹴りこんできた現へ関わらぬことで独自の宇宙を作り上げたかった。
 そう天の星々は語っただろうか。しかしその夢は愚かで幼い二匹の探検隊のために叶わなかったとも。座標を裏世界へ送り、探検隊の道を作りながらミュウはこぼれてゆく。
「知るがいい。生まれ損ねた暗黒の未来よ。私の中に流れているものは自らが規定するすべての命のみであり、天よりの黒で我が裁きを止めることはできない。ひそやかな物を暴くために侵入してきた彼らもまた同じである。生物の御先は常に暗黒で包まれているがゆえに」
 聞け。
「すべての始祖にして御先を歩むものがアルセウスである。私はその模倣を纏うことを許された者。生命に裁定を下す振る舞いなど本来許されることではないが、お前の見る夢であればその限りではないと知りなさい」
 月が増えてあふれだした光が黒い杭をぬぐいとると、拘束を解かれたミュウはよろめき、一度だけ探検隊を見た。そして暗黒星へ瞳だけを動かした。
「貴方は未生にすぎる。生まれてくるべきではなかったとはいえ、我が弔いは受けてもらいます」
 数多の裁きの光がミュウを取り囲む。暗黒星もまた、最後に神の力を放つミュウを見下ろしていたのだろう。おそらくは。少なくともこの間に記すべき事柄は何も残されていない。

 最後の暗黒星が落とされた後に訪れたのは静寂の一種である。空の九割を覆う月球の重たい光芒は森のあらゆる部分を煌々と息づかせており、宙から外界を見とおすルカリオとレントラーの目にも感じ取れるほど旺盛な律動となっていた。スケールが桁外れではあるものの彼らにとってはどこかで見たことのある光景であり、夢の中の夢ではなくなってきている。日の後を歩むのは夜と月。ダンジョンは踏破された。探検隊によって。
「行ったね」
 ルカリオが静かに告げる。たあいなく。
「うん」
 返答をしたレントラーは森の一点、おそらくはミュウがいたあたりを見つめている。静けさは続いていた。高空を滴ってゆく風も今においては黒百合の花びらを濡らす夜色のひとつにすぎぬ。蕾を霜枯れさせるかのような音を引いて銀の一矢が彗星じみた動きで走り、地上で溜まっていた最初の暗黒星を貫いた。星の骸は空のものと同じく銀色に輝き、霧散した。その光は瀑布のような勢いで四方八方へ飛び出し、凄まじい放埒さで森を飲み込んでゆく。相変わらず静寂が()みる上空から絶滅の様を見下ろしながら、探検隊は一言も交わさない。植物の根先ひとつすら逃さず丹念に掻き取るような渦旋を繚乱させ、全ての樹木の痕跡を水底に押しやりながら月光は地上をどこまでも広がっていった。やがて合わせ鏡のようになって天地を染めつくす月面が毛ほども揺るがなくなった後も、寂漠は永く永く留まり続け、そうなる一万年ほど前に探検隊は夢から覚めていった。

 地獄の片隅であることは間違いない。なんにせよ川を渡った向こう側にあることだけは確実であったのだ。陽光(もしくはそれに準ずる光を空から降らせることのできる天体の光)に染められた浮綾織りを広げたかのような、地平線上まで続こうかと思わせる種々様々な花を蝟集する平野にアルセウスは佇んでいた。休憩時間にでも当たるのか、眠りから醒めた神の佇まいはくつろいでおり、青空の爽やかさに勝るとも劣らぬ静かな所作をたたえていた。
「地獄に仏って、思ったより普通の場面だね」
 背後からかけられた声にも動じずアルセウスが振り向くと、そこにはポケモン(しかも見たところただの若い二匹)が歩み寄ってきていた。
「私は仏ではありませんし、冒険先を間違えてはいませんか? あなたがたは定められた命の刻限には程遠いと見ますが」
「あれ。地獄にもオバケって出てくるの」
「無論そのようなことは許しません。生者の場合は……さて、どうしましょうか」
 アルセウスが来訪者の瞳を覗き、二匹のポケモン――ルカリオは両手に、レントラー背中にそれぞれ持参した大きな包みを見せつけるように小さく振った。
「はじめまして。アルセウス」
「はじめまして。ルカリオ。レントラー。しかし分霊の記憶は取り込んでいるので、あまり正確な挨拶ではありませんね。なぜここに? 失われた言葉の復旧はすでに済んだと聞いていますよ」
「その件についてはどうも。今日は別件で参上したよ」
「では注意しなさい。夢の私とは違いますよ」
 その威容にレントラーは口をつぐみ、ルカリオは小さく鼻を鳴らした。たしかに精緻な石細工を思わせる冷たさと威光でアルセウスは立っていた。しかし石細工は瓦灯(かとう)。中で咲く灯については、すでに探検隊は夢の中で出会っている。
「そういえば取り戻した一語につき一刻の約束だった」
「境界を超えて侵犯してきた者たちをそれだけの説法で許すと? 寿命の限りが夢の中で尽きると知りなさい」
「まだぼくたちには返してもらっていない言葉がある。引き取りに来たのは探検隊の正当な要求だよね。それができるのはきみだけだというのに、仕事にかこつけて異世界から出てこない始末」
 ルカリオが肩をすくめてみせると、レントラーが続く。
「わざわざぼくたちを出向かせたとなれば、説教の支払いには色を付けてもらいたいな」
「よろしい。ではこの場でやり取りする一語につき一刻としましょうか。そのような言葉が残っていればですが。嘘の類は承知しませんよ」
「承知はしてもらうよ」
 レントラーは頭を垂れるようにしてアルセウスの前に包みを降ろした。ルカリオも同様に包みを降ろし、それぞれを開いて見せられたアルセウスは、それらの間で視線を往復させる。
「ケーキ。クッキー。シュークリーム」
「紅茶。コーヒー。グリーンティー」
 布の敷物を広げるルカリオを見ながら、なおも怪訝な反応のアルセウスへルカリオが言う。
「きみ、ぼくの作ったおやつに一言も感想を返してないんだよ」
「――なるほど」
「だから今回はお茶も持ってきた。お茶請けのお供えだけじゃあ、神様はきっと物足りないんだよね?」
「なるほど」
 三匹は花群(はなむら)の中で、多くの香と光が波うちあふれる中で忘れられていた言葉をひそやかに語った。時のまたたく中で茶杯は重ねられ、笑いが咲き、思い出は洗われ、やがて誰もが去っていった。もはや一顧だにされず時の流れにひたひたと暗黒星は沈んでゆく。漫然と会話に使われた手札は忘れ去られるがさだめ。会うはずもない創造神と探検隊の夢も、噂もそうしたもの。
 これは残花と呼ばれる季節の物語。
 やがて散ることを知らぬものがいようか? 回(めぐ)れば再び咲くものなれば。
 
 


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