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翡翠式間狂言 の履歴(No.1)


※示唆的な暴力描写、性的描写(あるかもしれないしないかもしれない)有


翡翠式間狂言 作:群々


 1

 雪見の出湯に怪しの者がいるという報知が頻りに来るものだから、ウォーグルもやむなく様子を見に行くことにしたのである。
 人の子らでは既に古のしきたりが色褪せて久しかったものの、ヒスイの地——もはやそう呼ぶべきかどうかは彼自身にも判然としなくなっていたが——に生くるポケモンどもにとっては、彼は未だに頼るべき凍土の英傑には違いなかった。塒にしているキッサキ神殿の屋上に憩うていても、凍土中より彼らの懇願が精神に流れ込んでくるからたまらない。
 ったく、俺の果たすべき役目はとうに終わったってのに。愚痴の一つ吐かれてくるが、そのくせ彼らを無視することもしなかった。義理に篤いのはウォーグルという種の本能故か、とすれば困った本能だと閉嘴しつつも、神殿の屋根の縁を強靭な趾でしかと掴みながら、白銀に覆われた凍土の一帯を見栄切って見回すと、ひとしきり鬨を挙げ、飛び立った。俄かに凍土のポケモンどもはもう事態は解決したばかりに動揺した心が凪いだようであった。
「おいっ、そこに止まれ!」
 エイチ湖畔の上空に差し掛かると、居丈高な誰何とともにパタパタと自己の行く手を塞ぐものがある。といっても、賢しい一羽のワシボンに過ぎない。ここいらに屯している小童どものなかでも、此奴はとりわけ血気盛んで、キッサキ神殿にいますウォーグルをいつか簒奪せんと本気で野心を抱いているようであるので、その姿を認めるやいなや決闘を挑まずにはいられないのであった。
 ウォーグルは律儀にワシボンの前に留まった。ワシボンは小翼を懸命に忙しくはためかせながらも、自分の命令によって英傑たる大鷲を引き留め得たことに無上の誇らしさを感じ、一杯に胸を張ろうとするものの、それでは空中でバランスを崩してしまいそうになるから、ほんの少しだけ首を後方に反らすだけで満足していた。
「貴様ー、どこへ、何をしに行くつもりだっ?」
 声の凄みだけは一丁前に詰問する。ウォーグルは悠然とその場で羽ばたきながら、ワシボンの少年を見つめる。小さな体躯は上空の急な気流に煽られてたびたびよろめき、ふにゃふにゃとした八の字を描くようにはためている。けれども、相手と対峙するその眼差しには既に未来に冠たる猛禽の威容が宿っているのを認めるにやぶさかではなかった。
「凍土の秘湯へ向かうところだ。不審なものが居座っているというから、どんな相手か見にいかないといけなくてな」
 ウォーグルは至極真面目に答えてやる。
「ふん!」
 ワシボンは、聞くまでもなくその答えを唾棄した。ウォーグルがどこへ行って、何をしようなど、この小童にはおよそ関係のないことのようであった。
「だったら、まず僕を倒してから行けえっ!」
 横に首を振りこそすれ、そのまま素通りすることはしなかった。凍土の守護たるウォーグルは今日もまたそのワシボンとの決闘に臨むのである。
「『じゃきぼーじゃくのぼーくん』め、覚悟しろおっ!」
 それっ、くらえーくらえー……ワシボンは威勢はよくウォーグルの胸元に飛び込んで、しきりに嘴を羽毛の奥にまで突っ込ませてつつく。ワシボンとしては、その一撃一撃が彼の言う「邪智暴虐の暴君」に対する着実な攻撃になっていると考えているらしかった。実際にはその短い嘴はウォーグルの胸毛をこそばゆくくすぐるばかりでちっとも筋肉まで届いていないのであるが、ウォーグルはそのことは嘴に出さず、じっと相手の攻撃を受け止めた。
 俄かに翼を俊敏にはためかせて突風を起こすと、コロコロとしたワシボンの身はその風に敢えなく煽られて、張り付いていたウォーグルの胸から矢庭に吹き飛ばされてしまった。宙でいよいよ均衡を取れなくなって、あれよと真っ逆さまに落ちようとするその子鷲を、ウォーグルの背中が優しく受け止めた。
「ちくしょーっ」
 命の助かったのを有り難がるでもなく、ワシボンはウォーグルの背中の上で悪態を吐いた。
「俺に勝つんだったら、もうちょっと翼を上げてから来な」
「へらずぐちをっ!」
 減らず口などと、どこでそういう生意気な言い回しを覚えてきたのか、ワシボンは悔し紛れに翼の先端を振るってウォーグルの後頭をポカポカ打つ。それにしてもさしたる痛痒を感じさせないが、あまり空中で暴れられても困るので、ウォーグルは不意に勢いをつけ、雄大な翼を枝のようにしならせて急降下の体勢を取ると、ワシボンは慌てて短い翼を伸ばして憎き暴君の頸にしがみついた。
「おう、坊主!」
 首元に抱きついたまま憤然と黙り込んでいるワシボンに呼びかけた。
「このまま一緒に付いていくか?」
「そんな甘い言葉には騙されないぞ、『ぼーくん』めっ!」
 気高いワシボンの子はキッパリと言い放つ。けれど、ウォーグルの首に付きまとったまま離れようともしなかった。何かを言い放とうとする代わりに、言葉が中途半端になってくちゅん、と立て続けに嚔が出た。唾がウォーグルの鬣にかかり、ねっとりと絡みついた。それが僅かながら報いた一矢であるかのように、ワシボンは嚔のあとでかえって誇らしげに、ふん! と鼻息を荒くした。
「これはれっきとした無垢な子どもに対する『ぼーりょく』なんだからな」
「わーってるよ」
「でも僕は『がしんしょーたん』の思いでこれを耐えてやるんだ。後で貴様を打倒するときには罪状の一つに数えておいてやる!」
「そうだな」
「貴様が泣いて命乞いしたって『おんしゃ』はしないんだからなー!……」
 エイチの湖を過ぎると、眼下には一面の氷原が開けていた。遠くには心形岩山の異形やクレベース氷山の輪郭までもが、冷えた空気のなかで明瞭に浮かんでいた。川沿いに、寿村からの入植者たちによる掘立小屋が点在しているのが見えた。昔は調査団の粗末な天幕一つあるきりだったのが、次第に人の子らが数を増やし、今ではいっぱしの集落となりおおせているのである。かつて神殿の麓にあったシンジュ団の共同体をもはや凌駕せんとする勢いで集落は拡大しているようであった。上空からだと胡麻のようにしか見えぬ人間らが、地面に映る只ならぬ物影で気づいたのか、ウォーグルの飛行をいかにも物珍しげに手庇して見つめ、剰え感嘆の声さえ聞こえてくる。
 ヒスイの伝承の次第に廃れつつあるいま、ウォーグルがかつて神に時めかれた英傑の末裔だと知る者も少なくなったのであろう。それについてウォーグルは特段嘆きもしなかったし、正義の人のような義憤に駆られたりもしなかった。元来の鷹揚な性格ゆえか、畢竟神とやらの思し召しであるからには致し方なしと割り切っていた。他の地にいる末裔どもが夜明け以来どうしているか、暫く消息も聞かなかったし、彼自身にしても大してそれを気に揉むということは特段しなかったのである。
 これもかつて自分を大鷲に進化するまで養ってくれた緑髪の少女の賜物だろうか。千里眼を持つという摩訶不思議な少女の腹蔵はウォーグルの念力をもってしても到頭最後まで読むことは適わなかった。手持ち無沙汰になればすぐ神殿の屋根の縁を歩き出し、ウォーグルの心肝をしばしば寒からしめたのも懐かしい。細い丸太橋を渡るように、両手をピンと伸ばして均衡を取りながら、体幹をブルブルと小刻みに震わすたび、三つ編みにした豊かな長髪がたわわに揺れ、髪にまとわりついた霜が煌めきながら舞い落ちるその輝きを、長い時が経ったいまでもありありと眼前に思い浮かべることができた。
 そんな少女に振り回されて、ウォーグルは日毎突拍子もなく滝上の心形岩山のてっぺんやら眼光鋭いガブリアスの牛耳る雪崩坂やら、凍土に訪ねぬところはない程には彼方此方に飛んで行かされたものだった。しかも、そこは少女にとって目的地ではちっともなく、かといって通過点でも休憩地点でもなく、ようやっと辿り着いて息をつく間もなく、次の場所へ名指す始末なのであった。かといって、何の考えもなしに飛んでいるとも思わせず、彼女には何らかの彼女の理屈があるのだと感じさせたのは顧みても不思議としか言えなかった。彼女の顔を覗き見れば、あたかも世界の全てを天冠山の頂点から俯瞰し、あるいはやぶれの世界の深淵より仰ぎ見ているかのような得も言われぬ少女の眼差しを浴びて、覚えず動悸が打ったものだった。バクフーンが宙に漂う霊魂を目で追うように、彼女の瞳もまた決して目に見えぬものを見えるように見ているような感があった。無論、それが何かであるなど、はっきりと口にしてくれる彼女ではなかったが。
 だが、これも全て過去の話となった。シンオウさまを奉じていた人々はみな時の流れ空間の変容とともに散り散りになっていった。緑髪の少女も、畏まった挨拶とてなしにある日忽然とウォーグルの前から姿を消してしまった。彼女らしいと言えばらしいと、さりとて根に抱くわけでもなかったけれど、やがて風の噂より天冠山の西側に広がる森林でその姿が見掛けられたらしいと耳にした時には、何故にか、寂寥の念のようなものを覚えたのは確かである。ウォーグルは無骨な雄である。故に、繊細な感性だとか明晰な精神などとは無論縁もないはずであった。そんな彼をしてかくも思念せしめたのは、敢えて言えばヒスイという地は蜃気楼のように掻き消され、俺には与りの知らぬ新しい世界が開闢したのだ、という前々から委細承知していたはずの事柄が実感をもって迫ってきた、ということであったろうか。
 少女が凍土を去ったのを悟った日、ウォーグルは凍土の北方に広がる海へ飛んでいた。なぜそうしたのか、鷲自身にも説明することはできなかった。海面を埋め尽くすクレベースどもの上に佇んで、ただ際限なく広がっているかに思える灰白色の空間に身を委ねていると、そこからはキッサキの神殿も点にしか過ぎず、やがてヒスイという土地の感覚さえ希薄に思われてきた。ウォーグルは嘴を力無く開いたまま、漂い動くクレベースどもの緩慢な動きを見つめ、囁くような波の音を聞いた。世界はウォーグルにとってあまりにも広大であり、自然は言語に絶する怪物のように大口を開いているかのようであった。所詮はちっぽけな存在に過ぎぬ鷲を其奴は一飲みに平らげようとしているのだと感じ、俺は其奴の喉元を過ぎ、狭い食道に揉まれ、ゆっくりと胃袋に収まってゆっくりと消化され、やがて血肉となっていくのだということをウォーグルは想像し実感し、そして経験のない眩暈に襲われたものであった。
「隙ありい!」
 背後からしがみついたワシボンが出しぬけに頸をつついてきて、ウォーグルの意識は現生に戻された。いつも良いようにあしらわれている返報(しかえし)にか、飛行中で無防備にならざるを得ないウォーグルの頸筋をしつこく嘴で攻め立ててくるものだから、流石にチクチクとして気が散り、ヒスイについての思念も雲散霧消してしまうのであった。この小童は、自分らが生きている土地がかつて何と呼ばれていたかなど知る由もないし、知る必要も最早ないのだろう、とウォーグルは思った。目を合わせるたびに、この子が蛮勇にも決闘など挑んでくるのは、彼が古代の英雄に付き従った10のポケモンの眷属であったからでは断じてなく、ただワシボンという種の本能が要請するものに従って下剋上をしているに過ぎないのであった。いまはただ我武者羅に攻めるばかりだから取るに足りぬが、いずれ此奴が悔しさを糧にウォーグルに進化した時が、おそらくは俺の最期だろう、という確信を既に抱いていた。幸なるかな、か。
 だが、それはまだ先の話であろう。さしあたって、ウォーグルは合図もなく急降下して聞き分けの悪い餓鬼であるワシボンをその身から振り払うと、いきなり鞠のように虚空に放り出されてあたふたとしているその小鷲を、颯爽と捕捉した。
「な、なにをするぅ!」
 ワシボンが必死に身を捩らせて抵抗するのを、殺さぬ程度にわきまえながらもしかと趾で握りしめると、流石にしゅんと大人しくなる。
「ちくしょうっ……」
 しかしながら、そんな捨て台詞を残すから一丁前な小童である。
「後ろで暴れられちゃたまらないからな、ちょっと我慢してくれよ」
「どうかな!」
「どうだか」
「なにをーっ!」
 わちゃわちゃと趾の中で暴れるのを苦笑しつつあしらって、ウォーグルは先を急いだ。氷河の段丘を臨みつつ飛べば、氷山の戦場のある山まではすぐであった。
 氷山の王がその姿をお隠しになってから、やはり長い時が経ったものである。あの小高い山一つ分はあるであろう巨躯で、いったいどこに姿を消したものだろうと、流石のウォーグルも驚き呆れるほどなのであるが、自己の役目の終えたことを聡くも知るや、ご聖断というものはいかにも恬淡として、あの緑髪の少女と同じようにある日を境に尽く姿形も失せてしまったのは驚心した。爾来、人はもとより流れる水のように早く循環するポケモンたちのあいだでも急速に王の記憶は薄れ、英雄たちの逸話もいつしか朧げな夢のようにしか思い出されなくなっていった。ただ、ウォーグルのみが、しぶとくもか、単に消え去る時期を逸しただけなのか、凍土に生き続けていた。
 俺はこの新しくなりゆく土地でどのように生きていけばいいのだろう? そう自問しては緘黙するを繰り返している。かつての英傑としての大義は有名無実となったのであるし、謂わばウォーグルは古い慣習から自由になったのではあるが、そこでもう隘路に迷い込んでしまう。かつて共にあった少女よろしく他所の土地へ渡ろうとも思ったが、いざ行動に移す段になって俺は随分この場所に愛着を持っていたのだと気付かされ、その事実の存外さに呆気に取られさえした。一面を白銀の内に覆われた大地、そこを囲繞する山脈から成る純白の凍土、そしてそこに生くるポケモンども、敷衍すればウォーグルを取り巻くこの小さくも大いなる世界に対する得も言われぬ情愛が己が胸中に満ち満ちていることを否定することなどできそうになかった。
 これは英傑の子孫である寿ぐべき美徳か、時代遅れの唾棄すべき宿痾であるのか。いずれとも答えかねたまま、ウォーグルは今や護る人間とてなく荒れ果てつつあるキッサキの神殿から変わりゆくかつてのシンオウさまの土地を打ち眺めているばかりなのだった。
 そして、今日もまた昨日、一昨日、それから蝋燭のように連なった過去の日々と同様のことを考え、同様のところでまたもや思考は中断した。考えども考えども、精神を覆う霧は晴れず、次第に心の奥底に蟠っている叛骨の神のごとき暗い感情が、溶けた氷土から露出する古代の化石のように剥き出しになってくるのだ。ウォーグルは自身の死について考え、それが極めて慈悲もなく、残酷な有り様であるに違いないと想像して、かえって心の安らぎを覚えるのだった。例えば、今は自分の趾にあっさりと服従しているこのワシボンも、やがては立派なウォーグルに進化して、老いさらばえた俺を殺し、俺の喉元を喰らい、ありとあらゆる内臓を引き摺り出して、後は自然の成すがままに晒し者にしておくであろうことを、まるで予言者ででもあるかのように想像し、寧ろそうであってほしいと懇願さえしていることには驚かされた。
「いつか絶対にお前を『打破』してやるからなっ! 首を洗って待ってろーっ……」
 まるでウォーグルの思考を読んでいたかのように、ワシボンがそう気障に呟いたことに、思わずドキリとさせられた。
 引幕のように山脈が横に退いていくと、出湯から立つ湯気が高く昇っているのが見え始める。凍土のポケモンどもなら誰もが知っている秘湯であり、万人は万人にとり敵であるという陰惨な法則に束縛された彼らにあって聖域と呼ぶべき空間。平素は生きるために互いの命を奪い合い歪み合っていても、この場所に限っては敵愾心を打ち棄て、思い思い極楽に安らうべきであると、法を定めるでもなく合意された場所。
 ウォーグルが敢えてこの場所を訪ねるのはいつ振りのことだったろう。一つ、鮮明に記憶していることがある。やはりあの少女に関わるものである。その時も突拍子なく、出湯に飛ぶように命じられたウォーグルは彼女をその場所に連れて行ったのであるが、意表を突かれたことには、少女は出湯に降りるやいなやいきなり三つ編みを解いたかと思うと、藍染の制服をはらりと脱ぎ捨てて雪の中で一糸も纏わぬ姿になったのである。初めて見る熟視する少女の肌は絹のように白く、真珠のように艶やかであった。まだ十分に膨らみきっていない乳房はいみじくも咲きかけの蕾のようであったし、その中央部にそそり立つ乳首はほんのりと桃色を帯びて、真っ白の雪と湯気に覆われた凍土の背景と、地面のすれすれまで垂れ下がった豊かな髪の緑色とも相まって、いっそうのこと眼底に強い印象を与えるのであった。
 益荒男たるウォーグルも流石に目を点にしてその少女の熟れぬ肉体に狼狽し、猟銃で撃たれでもしたかのように卒倒しかけたのを、少女は不思議そうな顔で見つめているのがまた不思議であった。
 ——あなたはいま幸せ? それとも不幸せ? さてどっち?
 ねえ、ウォーグル? あの時、不意に投げかけられた問いは、時を経巡って今また出湯に舞い降りようとするウォーグルの頭蓋にこだましていた。もっとも、そう問いかけた少女にとってはそれこそいつも口に出していることの延長に過ぎず、さしたる意味もなかったのかもしれないが。それから間も無くして少女はしれっと凍土を去ったのもまた確かなことであった。少女の発した一字一句から、露わな肉体の仔細に至るまでを未だありありと記憶しているウォーグルにしてみれば、それが意味することについてどうしても気にかかるのだ。もし叶うのであれば、いまもどこかで生きているのであろう彼女に、改めてその真意を尋ねたいと思う。
 出湯から立ち上る湯気が、ウォーグルが飛ぶ辺りまで漂っていた。視界はまっさらになり、熱を帯びた煙は思いの外、目に沁みる。趾に捕らえたワシボンは煙に覆われたどさくさに逃げ出そうとでもいうのか、やたらと身じろぐのをきつく戒めながら、ウォーグルはその場に滞空して、問題の出湯を偵察する。気を集中させると、額の薄紫色をした冠羽から目のような形をした青白い紋様が浮かび上がる。すると、五感では知覚できぬものが、あたかも水がさらさらと喉から胃腸を過ぎるように、明瞭に脳裏に認識されてくるのである。
 確かに、出湯には一匹、何某かがいる。それは平素入り浸るワンリキーやベロリンガではなく、時折傷ついた体を癒しに来るルカリオでもなかった。異質な存在である。が、そのくせ全く知らぬでもない気配でもあるのは妙だった。訝しんで、今一つ湯気を湛える出湯の方を凝視していると、薄らとした影が微かに見えた。
「『ぼーくん』がっ、いい加減降ろせー! 降ろせってば! ふんっ! このっ、このーっ!」
 出湯に潜んでいる怪しの物のことなど此奴にはどうでもいいらしいワシボンは盛んに騒ぎ立てた。その声はやたらと凍土の冷えた空気に通って、遠く天冠山の方まで響いて、山びことして返ってくる。ワシボンの騒ぎ声に反応したか、影が揺らめいた。ぴちゃ、と立つ水音がまるで間近で聞いているようにウォーグルには観想できた。そいつはいま声がした辺りをじっと見つめている。ウォーグルはその視線を感じ、首元がムズムズとする。湯煙を介して暫時見合っていたが、相手は逃げ出すでも、威嚇するでもない。
 あるいは、俺と同じことでも考えているのか。
「ちょっと気張ってろよ、坊主」
「な、なにをするー!」
 今一度、ワシボンの幼気な身を趾でがしと掴んで落とさぬように気をつけながら、ウォーグルは直下、出湯へ急降下した。翼で風を切って、瞬く間に地上のすれすれに達すると、雪の深いところを見てワシボンを落とした。小鷲がぎゃあぎゃあとウォーグルを罵りながらコロコロと雪に転がってくるのを後目に、そのまま湯煙へと突っ込んだ。暖かな煙が目に染み、瞳が潤んで視界が揺らいだ。群青の海に浮かぶ火噴き島の噴煙はこのようなものであったかと思い出されるほどの勢いであった。
 かつて天冠の山上で冠のように裂け目が開いていたころ、ヒスイの各地に現れたものだった時空の歪みのことを、ふとウォーグルは思い返した。実に白煙は霧よりも分厚く、濃く、周囲の空間を、時間さえも包み込み、覆い隠し、紛らわし、前も後ろも判然としなくなるほどであったので、もしかしたら歪みと同様に神の御業なのかもしれないと感じ、そうであるならばこの向こうには、かつて共にあった緑髪の少女がおり、シンオウ様を信仰する人々がおり、ヒスイの各地を司った同胞たちがいるのかもしれないとウォーグルは思いさえした。所詮、そんなことは烏滸な空想に過ぎぬとわかっているはずであるのに、ばさと斬り捨てることもできないのは、一体何故であろう。けれど、そんな自己を嘲る気にもならなかった。
 俄かに白煙から一箇の影が浮かび上がった。まるで一体の案山子に直立したそれは、みるみるうちに視界を占有した。今だ。ウォーグルは大嘴を開けて低く獰猛な鳴き声を上げた。同時に集中させた精神の力を一挙に解き放つと、その声は岩のように重みを持ち、剣のように刃を持って影に向かい突進した。刹那、大地が鳴動し、火噴き島の火口が爆発したかのように湯が勢いよく噴き上がった。それは、雨の如く地上に降り注ぎ、積もった雪をじゅわりと溶かした。突風が起こり、出湯を取り巻いていた白煙はまとめて吹き飛ばされ、霧が晴れたかのように雪見の出湯の全景が須臾にして立ち現れた。
「ご無沙汰だな」
 ウォーグルは力強く翼を羽ばたかせながら、そう話しかけてきた其奴と面前していた。その全身を凝と点検しながら、嘴から出すべき言葉を探していた。
「もー! なんだってんだよー!」
 小童のワシボンが憤激しながらウォーグルの元へようやっと来た。深雪に時折趾を取られては顔を真っ白にしながらも、肩を精々怒らせて如何にも堂々たる威厳を湛えたつもりでウォーグルの脇に立った。そして、顰め面をしながらウォーグルと、その向かいにいる何某かとを交互に見遣った。両者はしかと見つめ合ったまま微動だにせず、ただ上空を吹き回る風の寒々しい音ばかりが聞こえるのであった。
「おい! 貴様あ!」
 しかしながらはち切れんばかりの蛮勇心を持ち合わせたワシボンは一向に動じずに叫んだので、ウォーグルは夢から醒めたかのようにハッとして趾元の小鷲を見下ろした。小癪にもワシボンはふんぞり返って、出湯に佇むその何某かを凄みを利かせた気になって睨め付けていた。
「この『ごーがんぶそん』な『ぼーくん』をどーしても倒したいっていうんなら、まず僕を倒していくんだな! なぜならっ此奴は……」
 僕が打破するからだあっ! さっきから叫び通しだったワシボンの声は既にカラカラになっていて、墨の掠れた文字のようだった。
「はははっ!……」
 笑い声が沈黙を破った。ウォーグルに相対する其奴は上体を微かに曲げながら全身をカタカタと震わせながら笑っている。その表情は唐傘のような頭の羽根に隠れて伺うことはできなかったが、嘴元から込み上げてくる声の調子で、どことなく小憎たらしく思われる其奴の揶揄うような顔つきを容易に想像することができたのである。
「とうとうお前にも弟子ができたんだなあ!」
「違うっての」
「なんだ貴様あっ!」
 ワシボンが腹蔵からありったけの声を出した。
「僕がこの『ぼーくん』の弟子だと?! しつれーせんばんなやつ! このっ……!」
 嘴から放つのが憚られるような侮蔑語をワシボンは矢継ぎ早に繰り出しながら、出し抜けに突進し、電光石火かと驚かれるほどの俊敏さで相手の懐に潜り込むと、勢い趾で思い切り下腹の肉を握りしめてしまったのでたまらずに、
「ぴ……ぴ゛い゛い゛い゛い゛い゛っ!」
 雪見の出湯に甲高い悲鳴が劈くように響き渡った。
「ははははははっ!」
 その滑稽さにウォーグルも思わず腹を抱えて雪原に笑い転げ、ヒクヒクと腹部の筋が痙攣するのを止めることができなかった。悲鳴と哄笑が混じり合って、渦を巻いて天高く舞い上り、天冠の山を突き抜け、その先にある銀河にまでよもや届くのではないかと思われるほどであった——



途中までだけれど、何も更新せずにいるとさもしく思って、冒頭だけをあげることにした。
続きをちまちまと書いて後半か、あるいは中編と後編かを上げたい(と思う)。


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