SOSIA.Ⅲ
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◇キャラ紹介◇
・ローレル:ブラッキー
シオンの弟でハンターズ『グラティス・アレンザ』の頭領。
・アスペル:マニューラ
副業として情報屋を営む私兵隊員。
・ラ・レーヌ:バタフリー
娼館『蝶の舞う園』の経営者。
etc.
歓楽街の夜。表通りでは蠱惑的な身だしなみの
――そんな喧騒とは裏腹に。この胸は渇ききっている。乾いた風だ。潤いを求めて喉が喘ぐも、渇きは癒えるどころか一層
ドクン、と鼓動が高鳴る。
このカラダが、腕が、喉が、全身の細胞が、渇望する。
楽しげに笑いあう仔供達をみて、ついわけもなくその首を撥ねたくなったり。哀れな物乞いをみかけて、ただおかしくて、その身体を二つに裂いてみたくなったり。綺麗な
そうした衝動的な感情から発生するこの殺意は誰のもの? 自分でもわからない。あのロゼリアに会ってから、私はおかしくなってしまった。
いた。
その後についていって、振り返る間も与えず一刀のもとに斬り捨てる。その瞬間、私の身体から黒い花びらが舞い、何の抵抗もなくワンリキーの身体が上半身と下半身に分かれた。鮮血が路地裏の塀を、建物の壁を染め、その上に漆黒の花弁が積もってゆく。
――この薔薇は、私ではない。
◇
後日シオンに聞いたのだが、孔雀は令嬢をジュノー女学院大学まで送っていたらしい。大学に送り届けたあと
ともあれ、あと三匹。
「へえ、アタイがかい?」
「ジルベール王国の殺
「アタイがジルベールにいたのは、あっちの歓楽街との取引サ。内容は言えないけどナ」
「ふむ、歓楽街での取引……と。君は別の日に二つの現場で目撃されているようだが、どちらともその取引なのか?」
「商談やら何やらで向こうには頻繁に行ってる。そういえばジルベールの歓楽街でも騒ぎがあったナ。でもハリー、アタイが犯人なわけないだろ。メリットが全くないし、もしアタイが犯人だったらオマエに依頼したりしない」
「だろうな。少なくともランナベール側ではそうだ。アリバイさえ取れれば君は限りなく白に近い」
ハリーの言葉に、ビオラセアはやや不服そうに眉をひそめた。
「ランナベール側ではってのはどういう意味?」
「そのままだ。ジルベールでの殺人とランナベールの殺人が同一犯によるものであると断定するのはまだ早い。まあ、私が追っているのはランナベール側の事件で、私の依頼主は君だから、もし君がジルベールの殺人犯だとしても私には何もしようがないがね」
「ふん。容疑者は皆同格の扱いか。情は挟まないってことね」
ビオラセアは空になった紅茶のカップを置いて立ち上がった。
「さてと。アタイはオマエと違って忙しいから、仕事に戻ることにするよ」
「待て。依頼人の君に確認したいことがもう一つある。同一犯であるなら――もっとも、その可能性は限りなく高いが――犯人をジルベール国家警察に引き渡すつもりだ。異存はないかね」
ジルベール国家警察とて、犯人がこちら側で起こした殺人の罪を問うことはできないものの、ジルベール国内で三匹を惨殺したとあれば、少なくとも終身刑は免れまい。
「アタイは歓楽街に活気が戻ればそれでいいサ」
それだけ言い残して、ビオラセアは喫茶店を後にした。
残るは
◇
依頼主は娼館の経営者。ハンターズギルドの斡旋なしに直接依頼を受けることは許されないものの、依頼を請け負ったあとの面談はギルドの機密を漏らさない限りにおいて許可されている。
白昼のケンティフォリア歓楽街は廃墟とはいわないまでも、時の流れが感じられないほど静かで、
でも、俺はあまりこんなところに遊びに来たいと思ったことはない。兄ちゃんのことがなかったとしても、だ。最初から嘘だとわかりきった愛の原型とやらを買うなんて正気の沙汰じゃないと思う。
「へへ、この辺りはオレに任せな」
その一方で、セキイのように俺と同い年の十七歳にしてこの街を熟知している救いようのない馬鹿もいる。
「さすがに昼間だと閑散としてるわね」
「殺人鬼っつーのも昼は出てこねェんだろ」
キアラとルードはそう言いながらも、辺りを見回して警戒を怠らない。
「おれ一回娼館に入ってみようと思ったことあるんだけど、今ひとつ勇気がでないんだよね」
「ふん。メントは口ばかりデカくて気が小さいからな」
「何だよロスティリー。キミは行ったことあるっていうの?」
「俺は硬派なのだ。貴様のような色惚けと一緒にするな」
「でもよォ、その顔で硬派気取りはマジで一生童貞確定じゃね?」
セキイがヘラヘラと笑いながらロスティリーのひょっとこ顔を冗談めかして悪し様に言う。
「黙れ! 貴様こそ俺と変わらんではないか。少なくともファッションセンスにおいては俺の方が幾分マシだろう! 顔面に金属を埋め込むなどと……鋼タイプ気取りか? 確かにあらゆるタイプへの耐性は増すが、残念ながら弱点の水は克服できず地面タイプの技にはさらに弱くなるぞ」
「まあまあ。ファッションなんて自由でいいんじゃないかな」
「そういやお前、いつからピースリングなんか首に掛けてんだ?」
と、ルードがローレルの首を指さした。
円の枠の中に逆Y字の中央の線を貫通させて三叉にした図形が入っている、そんな模様のあれだ。平和の象徴だという。少し前に縛鎖公園の露店で見かけて購入したものだ。
「俺もルードみたいに見た目にアクセントつけてみようかなーって」
「似合ってるわよ。ルードはアレだけど」
「アレって何だキアラ? オレは似合ってねェとでも言うのかよ?」
「似合う似合わない以前に奇抜すぎっていうか……」
「着いたぜ」
セキイがファッション談議をさえぎった。いつもみたいに下ネタでなく、セキイのまともな台詞を聴いたのは久し振りだ。
「シャポーってブースターがいるんだけどよォ、ものすげぇ人気でいっつも予約で埋まってやがんだ」
が、二言目にはまた実のない話をする。
ここが依頼主の経営する娼館『蝶の舞う園』。石造りの三階建てで、入口の両開きの豪奢な扉と両側の石柱がどこか神殿めいた様相を醸し出している。
「牝も牡も両方いるんだ。その男娼も、あっちのほうにある『
「どうでもいいのはてめェのくだらねェ話だ。誰が娼館の紹介をしろって言った」
「立ち止まってても仕方ないし、入るよ」
◇
「いらっしゃいませ――」
店に入ると、カウンターにいたメガニウムが頭を下げた。が、総勢六名の牝牡を見て、すぐに修正する。
「あっ、ハンターの方々ですか?」
「ええ。店長さんにお会いしたいんですけど」
「仰せつかっております。地下の店長室ヘご案内します」
カウンターには料金の一覧が貼ってあり、基本料金五千五百ディル、その他オプションサービスあれこれの値段が書いてある。
体格差プレイ…千ディル ※娼婦の倍以上の体重の方はご遠慮願います
「倍、ね……」
「なんだローレル。仕事が終わったら遊びに来る気か?」
「べつに。ちょっと気になっただけだよ」
カウンターを離れ、メガニウムについて階段を降り、地下の廊下を歩く。小さな部屋がたくさん並んでいたが、それを全て通り過ぎて、たどり着いたのは一番奥の『店長室』と札のかかった部屋だった。
メガニウムは蔓でドアをコンコンとノックした。
「店長。ハンターの方々をお連れしました」
「おお、来たか。入れろ」
中から響いてきたのは、鷹揚な口調とは裏腹の、まるで歌唄いのような耳ざわりのいい澄んだ声だった。
店長のバタフリーはメガニウムにカウンターヘ戻るように指示したあとローレルたちを部屋に招き入れ、背もたれのない、椅子と呼ぶには小さすぎる丸椅子に座るというより、ちょこんととまった。
「なんだ、ハンターにしちゃ随分若いな……とりあえず座れ」
煌めくエメラルドグリーンの複眼。二十代とも三十代ともつかない顔立ちのバタフリーは、どこか貴族めいた雰囲気を
店長室は広くはなかったものの、大きなソファが二つ設えられていて、六匹+依頼人という大匹数でも窮屈はしなかった。
「あらためて自己紹介をさせてもらおう。俺はラ・レーヌ・ド・リークフリート。ここ『蝶の舞う園』の経営者だ」
ド・リークフリ―ト。コーネリアス帝国の貴族の出か。偽名かもしれないけど。本物の貴族がこんな国で娼館を営んでいるとはちょっと考えにくい。
「グラティス・アレンザのリーダー、ローレルです。早速ですが、依頼内容の詳細をご説明願えますか。ギルドの方からは暗殺としか聞いていないんで」
「ふむ。それがな……暗殺してほしいやつの名前だが、これがわかっていない」
「種族は」
「不明だ」
「……性別は」
「わからん」
――暗殺じゃなかったっけか。
「オイあんた、俺達をからかってんじゃねェだろうな?」
ルードがラ・レーヌを睨みつけたが、彼は表情一つ変えなかった。
「まあ聞け。そう怖い顔をするな。暗殺してほしいのは、この街で好き放題暴れてやがる殺人鬼だ。噂ぐらい聞いているだろう」
「現場に黒薔薇の花びらを撒き散らしているっていうあれですか」
暗殺対象を言い渡されても、メントを除いて誰も驚きはしなかった。
「ちょ、ちょ待っ……あんなヤバイのが相手なの?」
「何だ。だからこそ優秀なハンターを差し向けるとギルドから聞いていたんだが」
「ヘッ、サツジンキだろーがサクガンキだろーがオレ達には関係ねえンだよ。任せときな」
無駄に自信満々なセキイは、恐らく殺人鬼の噂を知らないに違いない。他のメンバーは動揺こそしなかったものの、みな気の引き締まった表情をしている。
「もう一つ補足がある」
ラ・レーヌは一同を見回した。
「歓楽街の奴らにはバレないようにしろ。この依頼は俺の独断だ。実はケンティフォリア会の会長が知り合いの探偵とやらに殺人鬼の捕縛を依頼したのだが、こんな国で探偵なんてモノが役に立つのかどうか不安でな。ジルベールでの事件を含めて、これまでの被害者七匹は七匹とも一刀両断されて即死。
「生け捕りって、殺すより遥かに難しいですしね」
「うむ。ま、暗殺とは言ったがジルベールに渡したけりゃそうしてもいい。渡すのは死体でも構わんがな。そういうわけでよろしく頼む。あともう一つ」
「まだ何かあるんですか?」
ラ・レーヌは丸椅子の上に立って、
「お前、俺の店でバイトでもしてみないか?」
「は?」
「……オレ? やるやる! つーかやらせろ!」
「……ピアスリザード、お前じゃない。ローレル、だったか。お前はなかなか綺麗な顔をしているからな。男娼の原石を探すのは大変だ。二年前に雇った、うちで第一号の男娼がそれはそれは綺麗なヤツでな。あれほどの逸材に巡り合うことは二度とないと思っていたが、お前ならあいつに匹敵する男娼になれるやもしれん」
「ちょっと、うちのリーダーを勝手に変な商売に誘わないでくれるかしら」
キアラの声は僅かに怒気を含んでいた。が、そんなことよりも、ローレルにはラ・レーヌの言葉の中に気になる節があった。
「二年前に雇ってた男娼って?」
「傾城の美女という言葉があるだろう。早い話があれの
「……そのエーフィの名前ってわかりますか」
「何だったかな。アフターとかアスパーとか……悪い、俺が訊いたらすぐに偽名だと認めたからきちんと覚えていない。二年も前だしな。うちでの源氏名はクラウディアだ」
「そうですか……」
「お前の知り合いなのか?」
「いえ……そう思ったんですけど、
「……なんだ。もしや親戚なのではないかと思ったぞ。あいつに似ているものでな」
俺と兄ちゃんが、似てる? 目の色以外はそうでもないと思うんだけど。
兄ちゃんは超がつくくらいの美人で小さい頃から周りに持て
――できることなら、もう過去は思い出したくない。
「それでは俺達はこれで。いい報せを待っていてください」
ローレルの合図で皆一斉に立ち上がる。
「ちょっと待て、バイト――」
「お金には困っていないんで」
「オレで良かったらいつでもやってやるぜ」
「ピアス野郎に用はない。鏡と相談してみるんだな」
「鏡と相談? ってーと……ドーミラーとかよ?」
「セキイ。もういいから、行くよ」
ローレルは今にもセキイをぶん殴りそうだったルードを制し、ラ・レーヌに軽く頭を下げて娼館を出た。
◇
「びっくりしたぁ……シオンさんじゃなかったんだね」
『蝶の舞う園』を出て、メントが呟いた。
「琥珀色の目をしたエーフィっていうから、おれてっきり……」
「や。はっきりとは言えないけど、あれたぶん兄ちゃんだよ」
「えっ?」
メントが目をまん丸くする。
「お前のあの姉貴みたいな兄貴ってたしかシオンとかいうこれまた牡か牝かわからねェ名前だったろ?」
「そうだよ。カフタンとかアスパラとか言ってたじゃんあのひと」
「馬鹿か貴様は。ヤツが言っていたのは『アンカーかアスパー』だろう」
「アンカーじゃなくて、アフターよ」
「やーいやーい間違ってやんの」
「黙れメント! 二つとも間違えた貴様と一つは確実に記憶していた俺とでは脳の構造が違う!」
「へん、中途半端が一番惨めなのさ」
「何オォォ!!」
あのー、ものすっごくどうでもいいんですけど。
メントとロスティリーは五十歩百歩ってやつだし、ラ・レーヌ自身の記憶があやふやなんだし、どちらにしても間違いに変わりはないし、ていうかまず俺に喋らせてくれないかな。
「それでローレル、あれがどうしてお兄さんだと?」
路上で喧嘩をおっ始めた馬鹿
「たぶん、『アスター』のことだと思うんだ。ほら、前に話したことがあるでしょ? 俺や兄ちゃんは、母さんが生きてる間は本名を知らなかったって」
母さんが死に際に告げた、俺たちの本当の名。『シオン』と『ゲッケイ』。だが、物心ついた頃から慣れ親しんだ名を捨てろと言われて簡単に捨てられるものじゃないし、母さんだって捨てろなんてことは一言も言っていない。兄ちゃんはすぐさまアスターという名を捨ててしまい、シオンと名乗りはじめたが。
「ローレルの本名は"ゲッケイ"なのよね。あの仔にもそういうのがあったんだ」
「俺と違うのは、どっちの名を取ったかってこと。兄ちゃんはそれまで呼ばれてた名前を捨てて、母さんが死に際に告げた名を。俺は変えなかった。この名前は父さんの形見だから」
父さんは婿養子で、ラヴェリアというのは父さんの旧姓だ。どんないきさつでローレル達の本名を隠し、ローレル・ラヴェリアという名を表に出したのかは俺にもわからない。本当の姓、即ち母さんの苗字も母さんの死に際に伝えられたが、
「じゃあ、アスターというのはあの仔のこども時代の名前なのね。それで偽名の代わりに使ったってわけ?」
「俺は父さんからもらった名前を、兄ちゃんは母さんからもらった名前を大事にしてるけど、やっぱりどっちも捨てられないんだよ」
「ローレルはお父さんっ仔で、あの仔はお母さんっ仔だったのね」
「ていうか兄ちゃんはただのマザコンだし……母さんも兄ちゃんを溺愛してて、見てるこっちが恥ずかしいくらいでさ」
昔の話はあんまりしたくないのに。いくらキアラでも、余計なことは訊かないでほしい。
だからといって別に答えたくないわけでもないんだけど――
「オイ、んなことはいいからあれ何とかしろよローレル。嬉しそうに思い出話なんかしてんじゃねー」
嬉しそう? 俺が?
「俺が嬉しそうに見えるのならピアスじゃなくて眼鏡を掛けたほうがいいよ」
今まで意図的に無視していたが、ボカスカ
本当に、この
「ルード、ロスティリーを押さえて」
「ああ。それにしてもあの馬鹿ども、仲間内でじゃれ合って何が楽しいんだろうな。俺は真剣勝負以外に興味はねェから理解に苦しむぜ」
きっと彼らは彼らで、不器用なりのコミュニケーション手段を身につけているんだ。
彼らだけじゃないかもしれない。俺たちって、みんな不器用だから。
◇
「ツェシーに関しては俺の耳にも入ってないわ。ただ、最近住宅街にある喫茶店の近くでよそ
アスペルの自宅は防音設備が整っていて、会話を外に漏らさない作りになっている。戦争、推理、喧嘩、駆け引きなどあらゆる分野において情報は最大の武器となり、逆に相手に情報を掴まれることは、ゼニガメが殻から引きずり出されるのにも等しい。知ってはならないこと、知られてはならないこと。情報とは、概して危険性を孕んだものなのだ。アスペルは実際に一度、ハンターに命を狙われたこともあるらしい。
「コロトックのエイドブルは中心街ヴァンジュシータのマンションに住んでてな。ケンティフォリア歓楽街のスナックで歌手やっとるらしいわ」
「昼間は家にいるわけだな。そのマンションの場所はわかるか?」
「ちょい待って。地図描くわ」
アスペルは奥の部屋から紙とペンを取ってきて、簡単に地図を描いてくれた。
「ほい。このマル印がエイドブルのおるマンションや。部屋は403号室な」
「わかった」
それにしてもこの牡、私兵隊という本職がありながらどうやってこれだけの情報を集めているのかは謎である。
「もう訊きたいことないんか?」
「ああ。何かあったらまた来る」
「ほな、今回は……せやな、九十ディルってとこで」
しかも副職に過ぎないからか、他の情報屋とは比にならないほどの安値なのだ。
信憑性の高い情報を破格で提供してくれるアスペルはランナベールではありがたい存在だ。もっとも、アスペルの存在を知る者は少ない。『アカシャの鉤爪』という通り名だけが噂のように囁かれていて、同業者の間では幻の存在ともされている。
アスペルに九十ディルを手渡し、裏口から外に出ると、そこは左右に伸びる細い路地だ。情報屋としてのアスペルに会うには、港市場から迷路の如く入り組んだ路地に入り、この裏口にたどり着くしかない。アスペルの客は彼の知り合いの一部に限られていて、誰もがそう簡単に会えるわけではないのだ。
「む?」
だから、途中、路地の曲がり角からフローゼルの
路地は狭く、
フローゼルの女性、で引っ掛かるところはある。グラティス・アレンザのメンバー、キアラもフローゼルだったと記憶している。とはいえ、まさか私兵隊員のアスペルがハンターと繋がっているなどということは有り得ない。保安隊とは違えど、自国の防衛と治安維持をその活動目的とする私兵隊と、秩序破壊者の最たるものであるハンターとは、決して相容れぬ関係にあるはずだ。
もう一つの依頼。グラティス・アレンザのアジトを特定すること。依頼主はリーダーの兄にして私兵隊員のシオン。果たして、彼ら兄弟をもう一度逢わせて良いものなのだろうか。
そこには哀しい結末しか待っていない気がして、ハリーはまず目の前の事件の解決に全精力を傾けることにした。
◇
ハリーと入れ代わりのタイミングで裏口を訪れたのはキアラだった。今日は客の多い日だ。
アスペルはアザトにいた頃から、下町をぶらついて人々の暮らしを眺めるのが好きだった。ランナベールに移住してからも相変わらず街を眺めている。通勤や帰宅の間に。買い物に出かけるときに。
視力も聴力も人並み以上で、運にも味方されているのか、それだけでアスペルには様々な情報が入ってくる。ヤバイ話を聞いてしまったこともあれば、ヤクの売買現場を目撃したこともある。怪しい集団を見かける。噂話を耳にする。気になったことは何としても知らないと気が済まない
「久々やな。今日は何聞きに来たん?」
ま、もともと副業や。儲けは二の次で構わへん。
「最近ホットな話題みたいだけど、ケンティフォリア歓楽街で起きてる連続殺人事件の話。知ってること全部教えて。ディルは弾むわ」
「そらまたざっくばらんな……ええけど、まず何から?」
「容疑者の氏名と種族、性別、年齢。これは外せないわね。その中で怪しいのは誰か、見つかってる証拠とか、できるだけ詳しく」
キアラは『マルパイムラック』というランナベールでは珍しい
「せやったら仕入れたての情報があんで。殺人鬼はジルベール王国から高飛びしてランナベールに
アスペルは目撃情報とアリバイから容疑者は四匹にしぼられたこと、さらにある探偵の見解ではうち
「なるほどね」
これで、キアラはハリーと同等の情報を持ったことになる。強いて言えば、写真がないことくらいか。
「エイドブルなら知ってるわ。彼、いきなりそんなことするようには見えないけど……」
「俺も一ぺん歌聴いたことあるわ。たしかに殺人鬼には見えんかった」
コロトック特有の喉で声を回転させるようなビブラートが印象的で、それでいて澄んだ歌声は、凶悪な心から発せられるものではなかった。
「で、もう
「写真はないけど絵やったら」
実は、ハリーに写真を見せてもらったときに似顔絵を描いておいたのだ。画才があるかどうかはともかく、特徴を掴むのだけはアスペルの得意とするところである。
「ふーん……住宅街付近に出没、か。あまり行きたくない場所ね」
住宅街に行きたくない、とはどういう事情なのだろう。気になったものの、問うことはしなかった。
アスペルの客は気の知れた相手ばかりだが、必要以上の詮索はしないようにしている。が、引き出す情報から大方予想がついてしまうのも事実。キアラをハンターズ『グラティス・アレンザ』の一員だと確認するのに時間はかからなかった。
「事件はまだ暗礁に乗り上げたままだと思ってたんだけど、さすがはアスペルね。予想以上の情報を得ることができたわ」
仮にも私兵隊員の俺が、ハンターに情報売るっちゅうのはホンマは有り得へんことやけど、キアラには何べんも酒飲み話に付き合ってもろて、信ずるに足るやつやと思った。その後でこいつがハンターやて知ったから言うて、
「ま、私たちは探偵みたいなまどろっこしいことはしないけどね」
一方で、キアラはアスペルが私兵隊員だということを知らない。大きな戦争でもない限り北凰騎士団斬り込み隊長アスペルの名が知れ渡ることもないが、彼女がもしアスペルの正体を知ったら、今まで通りの付き合いをしてくれるだろうか。
「そうだ。もう一つあるんだけど」
「何や?」
「シオンって仔、知ってるかしら? エーフィの男の子で……あ、もしかしたら女の子で通ってるかもしれないけど」
シオン。意外な名を出されて、アスペルは少し戸惑った。
「お、おう……知ってんで」
「あの仔の最近の動向ってわかる? 仕事が終わった後どこへ寄るとか、休日の過ごし方とか。家はあの丘の上の屋敷で間違いないのよね」
以前にも、キアラが薬の売人をしていたヤミラミについて尋ねてきたことがあった。いかなる理由によるのか、それは断定できない。事実としてあるのは、キアラが情報を引き出した数日後そのヤミラミは何者かに暗殺されたということだけだ。
「ちょい待ちぃな、何の目的でそないなこと訊くんや?」
「あら。余計な詮索はしないのがあなたのやり方ではなかったかしら」
「せやけど……」
「私たちの仲間内では、その仔が怪しいって話も出てるの。それが理由」
シオンに殺人の疑いが掛けられている?
まさか。ハリーでさえも疑いはしていないというのに。そもそも、シオンの種族と能力を考えても、いくら一般人が相手とはいえ
「……シオンは白やろ。あいつには無理や」
「知り合いなんだ? 私兵隊の仔とも知り合いだなんて、顔が広いのね」
「狭かったら情報屋なんかでけへんって。でもな、俺かて教えたくないこともあんねん」
「べつに今すぐあの仔の命を取ろうって話じゃないわ。私もエーフィにあんなことはできないと思う。ただ動きを把握すれば疑う必要がなくなるってだけよ」
「ああ……」
信じるって決めたやんけ俺。キアラが嘘までついてシオンの命を狙ってるなんてことがあるか? シオンかてそう簡単に殺られるタマやないし。
「……べつに面白みのない奴やけどな。飲む打つ買うはせえへんし、普段は仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰ってるみたいや。休みの日でも
「休みって、日曜日?」
「曜日は決まってない。いっぺんに全員休んだらなんかあったとき困るやろ。十日に一ぺんぐらいは非番の日があるみたいや」
「つまり、一度街で見かけたらそこから十日刻み……一番最近の休みは?」
「昨日は市場で見かけたで」
「なら、次の休みはだいたい九日後ね。平日の夜なんかはどうしてるの?」
「夜九時以降はほとんど家から出えへんっちゅうか、無茶苦茶厳しい家やから出られへんらしいわ。休み以外は基本的にインドアなやっちゃな」
「案外わかりやすいじゃない。それにしても、あの仔のことは随分詳しいのね」
――職場の同僚やし。
「あいつ目立ちよるやろ?」
「そうね……初めてあの美貌を目にしたときは
キアラは一通りの情報を聞き出すと、金を置いて立ち去った。
ハンターまでこの事件に絡み出したとなると、これは由々しき事態なのかもしれない。この国には私欲のために何十匹と
◇
マルパイムラックというバーの地下に、カルミャプラムはある。店員は厨房から地下と地上を行き来できるが、客は入り組んだ路地から階段を下って来なければならず、所属のハンター以外は入ることはおろか、存在を知ることすら難しい。
「候補はこの四匹。あとはどうやって突き止めるかだけど」
キアラの知り合いに腕のいい情報屋がいるというので、事件に関しての情報を仕入れてきてもらった。テーブルに並べられたのはその情報屋の手描きらしい似顔絵である。写実的すぎて、芸術としてはダメかもしれないが、似顔絵の用途からすると一級品だ。
「張り込みが確実だと思うよ。俺たちが探偵まがいのコトしたって成果は上がらないだろうし」
「だな。現場押さえたらまずオレにやらせてくれよ。六対一じゃ張り合いがねェ」
「んだよ兄貴、
「てめェはそんなことばっかりやってるから弱いんだ。そもそもタイマン以外の
「兄貴、チームワークも大事だよっ」
「楽しいかどうかって話。オレだって仲間のために戦うこともあるだろ。だいたいメント、てめェこそチームワークなんかありゃしねェじゃ
「全くだ。この俺でも立場を
「てめェは弁えすぎだロスティリー。何のために格闘タイプがついてやがる」
「おれのこと言えた義理じゃないじゃん。お? おれ今難しい言葉使ったかも。もしかしておれいきなり頭よくなった?」
「黙れ。例え西から月が昇ろうと、貴様の頭が良くなることは絶対にない」
「むー……ロスティリーの顔が良くなることも絶対にありえないよ」
「煩い! アリゲイツの巨大顎的美的感覚などアテになるものか! 俺の容姿はあらゆるポイントからみても、チャーレムの中では上位に属する!」
「この間、上のお客さんでチャーレムの男性を見たけど……私の『フローゼル的な感覚』で見てもすっごい男前だったわよ。もちろん、ロスティリーには似ても似つかなかったけど」
「ぎゃはは、やっぱり美的感覚おかしいのはロスティリーじゃん」
「何をオォ! キアラはともかく、貴様に笑われる筋合いはないッ! 表に出――」
「あのさ、君たち」
ローレルは見るに見かねて静かに口をひらいた。別段怒ったわけでもなかったのに、ロスティリーは続く言葉を飲み込んで席に座り直し、メントは立ち上がりかけた中途半端な姿勢のまま停止し、キアラとルードはグラスを片手にローレルに視線を向けた。セキイだけはいつの間にやら店の牝に声を掛け、瞬時に振られて落胆していたが。
「なんでこう話が脱線するかな……」
「ロスティリーとメントのバカがいるからだろ」
「そう? 最初に話をすり替えたのはあなただった気がするんだけど」
「殺人鬼を誰がブッ倒すかって話じゃねェのかよ」
「……違うって。みんなが張り込みに賛成なら、ポイントをどこに定めるとか、時間はどうするかとか、そういうコト決めなきゃ」
「犯行時刻は、昨夜の事件が深夜零時くらいよ。先の三件は不明。ジルベールの方ではこれまた深夜零時から三時にかけて……ほとんど夜中ね」
「じゃあ、時間は十一時半から三時まででいいね。それから、張り込みポイントだけど」
「六匹だから六ヶ所?」
「や、鋼タイプのポケモンを一撃で真っ二つにする相手だよ? 少なくとも攻撃力なら俺やルードより上だと見といたほうがいい。不意打ちでいきなりってこともあるし
「オレは背後に隙なんか作らねェ」
「ダメ。ルード、犯人見たら即飛び出しかねないでしょ。保安隊の巡回も増員されてるし、ハンターだと知れたらまた大変なコトになるよ」
「……ちっ。まあいい、リーダーの方針には逆らわねェよ」
「組み合わせは? やっぱり私はローレルと……」
「犯人候補はエスパータイプと虫タイプだよね。ルード、セキイ、キアラ、メントはどっちにも相性は悪くない。俺はエスパーに有利だけど虫に弱いし、ロスティリーは虫に弱い。あとは戦力的なコトを考えたら、俺とセキイ、ルードとロスティリー、メントとキアラってのがベストだと思う」
「ホォ、虫野郎が相手だったらオレがローレルを守るンだな。虫なんざ黒コゲにしてやるぜダハハハハ」
セキイがローレルの首に
「や。さっきも言ったけど、保安隊が増員されてるからケンティフォリアで戦闘になるのは避けたいんだ。万が一こっちが犯人に狙われた場合を除いてね」
「待て、タイマン張れねェのかよ」
と、ルードが立ち上がって抗議した。
「張り込みの目的は犯人の特定だから。確認したら集合して、可能ならそれから後を追って逃走ルートも突き止めよう。襲撃は別の日でもいいでしょ」
「その方が確実ね。ストライクのツェシー以外はだいたいの生活サイクルも聞き出しておいたから、
「タイマンは?」
ルードはグラスを握りしめて、ローレルに詰め寄ってきた。
……グラス割れそうなんだけど。
「わかったわかった、じゃあ最初はルードにお願いするよ」
「うし! んじゃ早速今日の夜から行くぞ!」
「どうしてあなたが仕切るの? ローレル、どうする?」
「昼間に仮眠とっとかないと厳しくない? 眠い頭で張り込みなんて自殺行為だ。万全の体調を整えて、今日は行けるペアだけ。俺は多少寝なくても大丈夫。もともと夜のほうが元気だし」
「んじゃオレとローレルはオッケーだな! オレも夜型だしよ!」
ローレルとセキイがまず決行。
「おれはパスしとく……」
「私も今日は忙しかったから、明日からの方がいいわ」
続いてメントとキアラが辞退。
「おう。お前らが休んでる間に解決してやるから安心しろ」
「待ってくれ兄貴。俺のライフスタイルは健康的なのだ」
やる気満々のルードに水を注したのは、常より健康指向を自称するロスティリーだった。
「夜は九時半に就寝、朝は五時に起床している。このパーフェクトなリズムを崩し夜中に活動可能な身体を作るには、少なくとも三日の調整期間は必要だ」
が、ルードが納得するはずもなく。
「ふざけんじゃねェ。んなもん気合でなんとかしろ。だいたいお前がケンコーだのライフラインだの言っても説得力がねェよ。貧弱そうな身体しやがって」
「貧弱なのではない! 体つきが細いのはチャーレムの仕様だ!」
「よーし。んじゃ俺の
「待っ、兄貴がやったら細かろうと太かろうと折れるッ!」
「安心しろ。折れなかったらお前の健康とやらを信じてやる。つまり三日待ってやる。折れたら死ぬか病院送りだ。みろ、どっちにしてもお前の望み通り、今日は行かねェで済むぜ」
ロスティリーはこれを拒否せざるを得ず、今晩は結局四匹で行くことになった。
集合ポイントはケンティフォリア歓楽街のほぼ中央に位置するこの店の表、『マルパイムラック』前に設定。北半分、南半分に分けて巡回することに決め、ローレルたちは十一時過ぎにバーを出た。
◇
エイドブル本人と彼のマンションの住人に話を伺ったが、彼はその歌によって相手を眠らせてしまう他に、攻撃力というものをまるで持たないらしい。
鋼タイプの身体を切断するほどの膂力を有しているはずはないという。
エイドブルがその能力を隠しているのでなければ、彼に犯行は不可能ということになる。黒い薔薇の花弁にしても、エイドブルの部屋を見た限りでは栽培はしていなかったし、最近花を買ったのを見かけたという者もいない。
未だ行方の知れないストライクのツェシーか、あるいは物理的に犯行が可能なのは孔雀か。夜は屋敷を出ていないとシオンは言っていたが、皆が寝静まった後にこっそりと抜け出して歓楽街で犯行に及ぶことはできるし、あの広い庭園なら黒い薔薇の一つや二つ育てているに違いない。ヴァンジェスティ家からケンティフォリア歓楽街まではかなりの距離があるものの、あの飛行能力なら往復も一時間程度で済む。
が、可能であるというだけで、裏は取れなかった。上空ではサーナイトは明らかに周囲から浮いているし、夜半とはいえ、鳥やドラゴンや虫ポケモン達が目撃していないはずはない。手当たり次第に聞き込みをしてみると、毎朝毎夕、エネコロロを連れて東門と屋敷を往復する姿は何度も見かけられているが、夜に彼女を見たと言う者は
怪しくとも、状況証拠も物理的証拠もない以上は外すしかない。となれば、残るはツェシーのみだが、居場所がわからないのでは話を聞くこともできやしない。
ストライク。薔薇。住宅街に出没――
――待てよ。
ハリーは再度写真を確認した。
間違いない。私は一度、彼に会っている。
◇
夜、眠りから覚めたケンティフォリア歓楽街は、色とりどりのネオンと虚飾に彩られ、手の届かない星空めいた様相を呈していた。
「サツジンキってどんなヤツなんだろうな?」
「さあ……噂が正しければ、少なくとも攻撃力だけは俺やルードより上だね」
殺人鬼の出現場所がわからないため、張り込みというよりは、セキイと
「ハーイ、かわいい仔達。ちょっとうちの店で遊んでかなぁい?」
「俺たち遊びに来たんじゃないんで」
セキイ曰く、こういうのはしつこいのではっきりと断らなくてはダメだそうだ。
「オレ? どうしよっかなー」
――ってセキイ、何その迷い。
「安いわよぉ、千ディルポッキリで一時間遊べるわよぉ」
「俺たちお金持ってないから」
「あらそぉ? じゃあね」
お。なるほど。向こうは金儲けだ。貧乏人の客を引くよりは、金持ちに豪遊してもらった方がいいに決まってる。良い断り方を覚えた。
「ちっ、すぐ掌返しやがンだよなァ」
「ちっ、じゃないよ。自分の仕事忘れないで」
そんなこんなで三時間半夜の街を歩き回ったが、この日は殺人鬼は現れなかった。ローレルとセキイはルードたちと合流して互いの調査結果を報告し合った後、帰路についた。
地道な作業でかなりの危険を伴うが、確実な手段だ。明日から六匹で手分けして、何としても正体を突き止めてやる。
◇
「シオン、貴方に限ってそのようなことはないと思うけれど」
晩餐の席で、フィオーナが突然そんなことを尋ねてきた。
「歓楽街に遊びに行ったりなどしていませんか?」
口に入れたステーキ肉を吹きそうになった。ケンティフォリア歓楽街といえば風俗店の宝庫だ。最も貞操が危なくなる街だ。
そんなことをいきなり訊かれたら、やましいことなど何もなくとも動揺してしまう。
「遊びになんか行ったことないよ。きみに助けられる前まで働いてたあの場所には嫌な思い出しかないし、僕がきみ以外の女性に身を許すわけないでしょ」
今言ったことは百パーセントの事実だ。フィオーナもシオンの目を見て信じてくれたのか、にっこりと微笑んで食事に戻った。
「それならよろしい。猟奇殺人の舞台となっているあのような場所に行くなど正気の沙汰ではありませんから。尤も、猟奇殺人事件が解決したとしてもわたしが許しませんが……ところで孔雀。シオンのステーキの焼き加減はウェルダムでとあれほど申し上げたでしょう」
「はあ。しかしシオンさまもレアをお好みのようでしたので……エーフィはエネコロロと同じ同じ食肉目系統のポケモンですから、生肉がお好きなのも同じでしょう?」
「万が一肉が傷んでいて当たったりしたら、貴女に責任を取ってもらいますからね」
こういう
「はい。シオンさまが倒れられましたらわたしがつきっきりで看病させていただきます♪」
「……つくづく油断のならない使用人ね」
がシオンに手を出せば、即座に暗殺者を送りこまれるだろう。欲しいものは全て手に入れてきた良家のお嬢様な彼女にとって、一度捕まえた獲物を逃がすこともまたあってはならないことなのだという。
食事が終わり、湯浴みのあと、今夜はフィオーナの"だめな日"らしいのでシオンは自室で
――そんなコトは激しくどうでもいい。
夜の帳が降りてどれくらいになるのか、時間は推し量りがたい。感じるのは布団の温もりだけ、というか暑さだけ。気づいたら耳がとんでもなく熱くなっていて*1、後足で毛布と羽毛布団を跳ね飛ばしながら目を覚ました。
「
とはいえ異常気象というほどでもない。もう冬も終わりかけているし、天の神のちょっとした気まぐれみたいなmのだろう。しかしこんな時期に毛布二枚と羽毛布団なんかに
体も頭もさらなる睡眠を要求している。暑さのせいで夜中に目が覚めて、また眠りに落ちる――誰にでもよくある行動を取ろうとして、やめた。
熱くなった耳が、常ではない物音を捉えたからだ。
勢いよくドアが開く音。遠くから……たぶん一階だ。
何事かと部屋の外に出ようとした時、かすかだが声が聞こえてきた。
「もう――――なの? 間隔が――これ以上は――――ダメ――」
孔雀の声だ。完全には聞き取れないが、口調から会話の相手は橄欖だということはわかった。
橄欖と孔雀さんが夜中に秘密の会話?
そういえば牝同士だし、なにより彼女たちは姉妹だ。シオンが介入すべきでない問題を抱えていて、それをこんな時間に話し合っているということもある。
しかしそうだとすると、ドアが激しく開いた音は一体何だったのだろう。突発的な事態であることを窺わせるが、その割に孔雀さんの声は落ち着き払っているし……
「――そろそろ――かしらね。シオンさまの――だけに――――何か別の――――ないと……」
会話の中で、確かに自分の名前が呼ばれた。
――ますますシオンが聞くべきでないような気がしてきた。
ものすごく内容が気になるけど……もういいや。寝よう。明日にでも橄欖に訊けば……教えてくれるかな?
◇
「はい。ツェシーさんなら何度か訪れていますね。つい最近も、一人で来店されましたよ」
最初から彼女……うむ、彼女にも訊いておくべきだった。よもや、被疑者のうち三匹までもがこの店の客だったとはハリーも予想外だった。
ハリーは
張り込み開始から数日後、ツェシーはふらりと現れた。ストリートチルドレンのワンリキーが犠牲になった明くる日のこと。テレビはランナベール五匹目の被害者が出たという報道で持ち切りだった。
「いらっしゃいませ」
「いつものローズヒップティーで……」
彼はそれだけをペロミアに伝えると、テレビを横目に、入口から離れた一番奥の席へと向かった。ハリーの座るテーブルの隣だ。
ハリーの記憶に間違いがなければ、初めて会った時よりも鎌が随分傷んでいる。今まで戦場にでも出ていたのかと疑うほど刃零れしている。
「お待たせしました」
ローズヒップティーを運んできたペロミアもそれを不審に思ったらしく、心配そうな表情でツェシーに尋ねた。
「ツェシーさん、その傷……何かあったんですか?」
「また……仕事の途中で……悪党に襲われたんだ。使いっぱしりってのも楽じゃねえや……」
この街ではよくある話で、身寄りのない若者やストリートチルドレンに金を握らせて、運び屋として利用するのだ。身寄りもなく、定職にも就いていない身軽な者達が、最も情報漏洩の危険性が薄いためだ。しかも、いざとなれば消してしまっても誰も気づかない。
「お金を貯めて花屋を開くって夢があるんですから……あまり無茶しないでくださいね?」
「俺……弱くはないから大丈夫……」
風変わりだが、どちらかというと穏やかな部類の
話は聞きやすいかもしれない。
ハリーは席を立ち、ペロミアの隣からツェシーに近づいた。
「失礼。私は探偵業を営むハリー・ディテックという者です。少しお話をお聞かせ願いたいのですが、よろしいですか」
ツェシーはハリーに一瞥をくれると、「ああ……」と頷いてローズヒップティーを口に含んだ。
ペロミアが一礼してカウンターに戻ったのを確認し、向かいに座って写真を取り出す。
「この写真に写っているのは貴方で間違いありませんか?」
「それは……確かに俺の……あんた、それをどこで」
「わけあって出所は明かせませんが――」
「俺なんかに追手を雇うとは……ミルディフレインの家も金があり余ってるんだな……」
「追手?」
「俺を捜しに来たのなら、もう戻らない……いや……戻れないと、伝えておいてくれ……」
「ふむ。貴方は何か勘違いをしているようだ。私は貴方の言う追手ではない。ジルベールとランナベールの二国をまたいで起こっている歓楽街の連続殺人事件を追っているのです」
「なんだ……追いかけてきたんじゃないのか……そうだよな……逃げた庭師なんてわざわざ連れ戻す必要もない……」
ツェシー。種族はストライク。男性。見た目の年齢は三十代前半。どこかの富豪に雇われていた元庭師。現在は運び屋をして花屋を開店するための資金を貯めている。
彼の人物像が少しずつ明らかになってきた。
「それでは本題に入りましょう。実は、貴方を含めた四匹のポケモンにジルベール国家警察から先に申し上げた殺人の疑いがかかっています。貴方の姿がジルベールの現場で目撃されているようですが」
「たぶん
「ふむ……では、貴方はジルベールで何を?」
「さっきも言ったが、金持ちの家で住み込みの庭師をしてた……でも、事情があってそこには居られなくなったからランナベールに……」
「事情というのは?」
「あんたには関係ないだろ……」
「殺人を犯してしまった、とか?」
「違う……俺は……何もしていない……! あの変なやつのせいで……」
ツェシーは突然、刃零れした鎌で頭を抱えて叫んだ。全く心当たりがないにしては過剰な反応だ。共犯者の可能性もある。少なくとも何かを知ってはいそうである。
「……貴方のジルベールでの動向はこれ以上聞かないことにしましょう。では――」
差し当たって、昨晩のアリバイを確かめるか。四件目の殺人では、保安隊の巡回か強化されていたこともあって、殺害後間もなく死体が発見されたため、犯行時刻の特定ができた。犯行時刻は夜の十一時半から十二時半。
「昨夜の夜十一時半から十二時半の間、貴方はどこで何をしていましたか?」
「家で寝てたけど……」
「それを証明する
「十時頃……俺がアパートに帰ったところは……誰か見てたかも……」
「どこのアパートですか」
「港市場近くのダウンタウン」
「歓楽街までは距離がある……しかし、十時の時点でそこにいたとしても飛行タイプの貴方なら犯行は可能ですね。あくまでも可能性の話ですが。さて、それでは最後に一つだけ質問させてほしい。貴方は最近、そのカマで何を斬りました? 刃零れが激しいようですが」
ハリーの詰問に、ツェシーは口を噤んでしまった。態度にも、やや落ち着かないような様子が見てとれる。
「プ……プランターで育ててる花の剪定以外は……何も斬ってない……」
「先程は悪党がどうとかおっしゃっていましたが」
ツェシーは明らかに戸惑っている。論理に一貫性がない。
「み、身を護るためだったんだ。この国じゃ……それが掟なんだろ……? で……でも、俺は……殺してない」
「正当防衛まで咎めるつもりはありません。やらなければ死ぬのは自分のほうですからな」
「歓楽街の殺人も知らない……もともと、ランナベールに来て日の浅い俺には……あんたに話せることなんて何も……」
彼から聞き出せるのはこの程度が限界か。
限りなく怪しい男ではあるが、いまひとつ証拠を抑える手段がない。
最終手段としては歓楽街に張り込んで現場を押さえることも考えているが、強力な護衛でも雇わないと危険であるし、護衛を雇えば目立つので張り込みが難しくなる。
そもそもこの四匹の中に犯人がいるとするなら、ハリーが事件を捜査していることを皆知っているのだ。ノコノコと夜中の歓楽街に出かけていけば、真っ先に狙われるに決まっている。
やはり慎重に事を運ぶ必要がありそうだ。まったく先は見えないが、地道に情報を集めて整理するしかないだろう。
しかし……時には冒険もせねば、安全策ばかり取っていては無用に時間を消費してしまい、犠牲者は増える一方だ。たまには冒険も……そう、私が得意とする捜査の手法は何も、情報を集めて推理することだけではない。いざとなれば多少道徳に反していても、手段は選ばないのが私のやり方ではないか。
――よし。
ハリーは元の席に戻った。ツェシーが席を立ち、清算を済ませて店を出て行くまでこれまでの情報を整理しつつ――否、しているふりをしつつ。
ガラス張りの店内からツェシーの姿が見えなくなったあと、ツェシーの後に続いて店を出た。
住宅街を歩くツェシーの姿を確認し、適度な距離を保ちながら気づかれないように後をつける。
実際、探偵というのは推理よりもこうした実行動の方が大事だったりする。尾行はその際たるものだ。そういえばツェシーの住処だけは知り得ていない。有用な情報を得られなくとも、彼の行動を知ることができれば、少しではあるが確実に事件解決に近づく。
ツェシーは住宅街の西端にあるウェルトジェレンクを出てやや北上したあと、路地を左に曲がって、さらに西へと向かっている。この先は海に面した崖があるのみで、ちょっとした観光スポットになっているが人気が少なく危険な場所でもある。そもそも護衛もなく戦い慣れしていないポケモンが一匹で観光などできる国柄ではない。
そんな疑問を余所に、ツェシーは崖に出た。幾重にも重なった平たい岩の隙間から雑草が顔を見せている。ヴァンジェスティの屋敷裏の通称"九段壁"と呼ばれる崖には劣るものの、高所から見渡せる海景は荘厳の一言である。
海景。
海と崖。
――ストライクの姿は……?
「馬鹿な……消えた、だと?」
たしかにそこにいたストライクが、瞬きの間に消えてしまった。
この岩場、様々に浸食されたせいかかなりの高低差がある。あの岩の後ろかも知れない。海に寄れば、見上げなければならないような高さの岩の上に木が生えたようなところもある。
岩陰には見当たらない。ハリーは足を速め、崖際に駆け寄って下を覗き見た。まさかとは思ったが、誤って落下するなどということは……いや、仮にも飛行タイプだぞ。それはありえない。
ハリーの予想はその一瞬にして、三度裏切られた。
一度、飛行タイプのストライクが崖から落下するなどありえない。
二度、実はツェシーを犯人ではないかと疑っていた。
三度、犯行は夜にしか起こらない。
「な……」
遥か下方、崖の低い位置から海の方へ突き出した岩場の上に。青緑色の血に塗れた、二つの
――否、二つではない。あれはもともと一つ、いや
起こった事が理解できず、とにかく近寄って確かめたくなった。が、降りられそうな足場もない。孔雀のように
刹那――ハリーの上で轟音が鳴り響いた。ハリーの立っているのは段差を通ってちょうど半ばあたりまで降りた部分で、背後を見上げると切り立った崖が上まで伸びている。轟音はその上からだ。
ハリーの頭上で崩れた崖が大岩となって、降り注いでくる。ハリーは咄嗟に元来た道の方へ跳んだ。幸い、崩れた崖からみると真横だ。間に合う。前に向かってサイケ光線を放ち、反作用で多少の距離を稼いだ。一番大きな岩がハリーのいた地面に当たり、さらなる破壊の連鎖。崩れ落ちる岩はその量を増して、海へと落下してゆく。ツェシーだったものは突き出した足場ごと、大量の岩石と砂煙に包まれて消えた。
「むう……」
足場が崩れたものの、間一髪、ハリーはスプーンを崖に突き刺して体を支えることができた。岩の破片が当たって足に傷を負ったが、上ることはできる。銀のスプーンの力を以てしても這い上がるのに苦労し、不覚にも年を感じることとなったが、何とか助かった。
負傷した足に意識を集中して自己再生に入りつつ、真っ二つの死体があった場所を見た。
跡形も無く。岩雪崩に飲み込まれてしまった。
花屋を開く夢があったと言っていたな。それがこんな形で終わることになるとは。
情が移るほどの会話もしていなかったが、なんと残酷なことだろう。無念どころか、何かを思い感じる
ふと、海上を飛ぶ白い
◇
全く、何故この俺がバトル兄貴と組まなければならないのか。
兄貴は俺達の恩人であると共に尊敬に値するポケモンではあるのだが、これに戦闘馬鹿が加わると折角の感謝の心も尊敬の心も削がれてしまう。
「いねェな……五件目のときにも誰も会わなかったって話だしよ。どうなってんだ?」
歓楽街は広い。ロスティリー達六匹が歩き回ったところで必ず遭遇するとは限らないだろう。
「会ったらオレがタイマン張ってボコにしてやるんだがな」
「兄貴、犯人の顔を確認したら一旦集合だ」
「そうだったか。そうだな。んなことしてたら追いかけられやしねェと思うがな」
だからそれは二の次だ。この張り込みは犯人を突き止めるのが目的なのだから、無理に追う必要はない。そう説明するのは何度目だろう。
それにしてもこうも何も起こらないのでは、兄貴でなくともいい加減嫌になる。他人の死を心待ちにするのも複雑な気分だが、殺るならさっさと殺ればいいものを、何をもたもたしているのやら。
「おいロスティリー、犯人は誰だと思う? オレはあのサーナイトじゃねェかと思ってる」
あのサーナイト……大陸縦断大山脈より東部に生息する形態の若いのサーナイト。ヴァンジェスティ家に仕えているとか何とか。
「俺はあの歌唄いだな。顔が胡散臭い」
「コロトックか? お前に顔で文句言われる筋合いはねェと思うがな」
「俺の顔は胡散臭くなどない! そういう兄貴は何故そいつなのだ?」
「似顔絵でも分かったぜ。ありゃかなりの戦闘力隠してるに違いねェ。そういうツラだ」
俺には気の良さそうなただの女に見えたがな。兄貴に理由など尋ねた俺が馬鹿だったようだ。兄貴基準では何もかもが戦闘力に帰着してしまう。
「戦闘力高いやつは皆殺人鬼か。兄貴もそうなるが」
「一緒にするんじゃねェよ。オレは正々堂々タイマン一本だ」
そもそも似顔絵で戦闘力の何がわかるというのだ。全くこのバトル兄貴の脳内構造は想像がつかない。
ロスティリーが嘆息していた時――路地裏から、嫌な音が聞こえた。
レアコイルやイワークの出す音も相当耳にざらつく感触を受けるが、これはそんなレベルではなかった。とても大きな肉と骨を切り裂くような。例えばポケモンとか。
「ロスティリー! あっちだ!」
言われるまでもなく、兄貴に続いて路地裏へ飛び込む。数こそ少ないが、事件の報道で客足の遠ざかった店が始めたセールに乗せられて歓楽街にやってきたポケモンたちとすれ違う。俺達がとんだ間抜けに見えることだろう。皆が逃げる方向とは逆に、犯行現場と思しき場所へ向かっているのだから。
二度目の切り裂き音。今度は小さい。むしろ風切り音に近い。カス当たりか、斬り捨てた後の血振るいか。直後の破砕音は石の塀を打ち砕いた音か。間近だ。もうそこに殺人現場が――
「ほらみろオレの予想通りじゃねェか」
強烈な血臭漂う路地裏で、これまでの事件と同じく真っ二つになったポケモン――トドゼルガ。標準サイズでもかなりの巨体で、そんなポケモンを一刀で斬り伏せるなんて尋常な力の持ち主じゃない。返り血一つ浴びずに、月明かりに照らし出された純白の、皮膚が変化してできた布のような袖をはためかせたポケモンがその主だなんて信じられなかった。
「おいお前。クジャクって野郎に違いねェか?」
その右手には、アブソルの角やストライクの鎌をもう少し細く長くしたような、切れ味鋭そうな鈍い光を放つ刃を携えていた。
「他人に名前を尋ねるときはまずご自分から名乗られるのが礼儀というものですよー」
「殺人鬼相手に礼儀もへったくれもあるか! 兄貴、とにかく確認したんだ、逃げ――」
「アホか。ここまで来たらタイマンだろうが。オレはルードってんだ。いざ尋常に……」
「ルードさんですね。お察しの通りわたしの名は孔雀と申します。ですが、わたしは取り込み中ですのでこれにてっ」
さしものルードの兄貴もこれには拍子抜けしたらしい。この孔雀というサーナイト、当事者意識というものがまるっきり欠けているかのようだ。笑顔で答えた孔雀は、こちらが逡巡する間にふわりと浮き上がり、壊れた石の塀の向こうへと消えた。
「なっ、待ちやがれこの……!」
それが、本当に消えたのかと見紛うような速度だった。ロスティリーとルードが壊れた塀の向こうに顔を出した時には孔雀は既に空高く舞い上がり、闇に揺れる白点と化していた。
「ふざけんじゃねェあのアマ……オレのタイマンを断りやがって……」
「兄貴を恐れて逃げたんじゃないのか?」
「何度も言うがアホかてめェは。これを見ろ」
ルードは二つに割れたトドゼルガの死体を指した。こんなことのできる奴が自分を恐れるはずがないと。そういう事か。
「だが兄貴、強い奴だからこそ兄貴の強さがわかるということも考えられるぞ。兄貴だって似顔絵だけで強者を見分けるくらいだからな」
ぽん、とルードの肩を叩いた。
その肩が、若干震えていた。
「兄貴……?」
「ビビってねェ。武者震いだ……久し振りにものすごい奴と出会ったぜ……」
嬉々として孔雀の飛び去った空を見上げるルードの姿は、一瞬兄貴が殺人鬼なんじゃないかと思うくらい恐ろしかった。
◇
ルードたちによると、殺人鬼孔雀は北の方角へと飛び去ったのだという。場所はケンティフォリア歓楽街北端にある娼館『
明朝、ローレル達グラティス・アレンザは東門から出た先二百メートル、ジルベールとランナベールを結ぶ大陸南横断道の両脇に六匹で待機している。キアラの仕入れた情報では、孔雀はほぼ毎朝ヴァンジェスティの令嬢をジルベールの大学まで送りとどけ、屋敷に帰って雑務に戻る。この時間はジルベールからの帰路についているはずだ。
「来たぜ」
ルードが皆に促した。まだかなり遠い。それに高い。そのせいで速度は推し量りがたいが、かなりのスピードだ。サーナイトがあんなに自由に飛びまわれるなんて、やっぱり普通じゃない。それはもとより覚悟の上だった。あれだけのことをやる殺人鬼だ。普通のポケモンではありえない。
「ていうかあれ、止めないと無視されそうじゃない?」
「任せろ。オレは一回会ってんだ」
ルードが考えなしに道の真ん中に躍り出て、
両手を引いた姿勢のルードを蒼炎が包み込み、それが両掌で作った空間へと球体状になって圧縮されてゆく。
「てめェーーッ! 昨日の晩はよくもこのオレを無視しやがったなああアァ!!」
そんなに叫ばなくても、十分ド派手だ。相手はすでに気づいていることだろう。
ルードの気合の声と共に発射された波導弾は飛行する孔雀を追尾するかのような軌道で弧を描いて飛んでいく。ルードの波導弾は破壊力もさることながら弾速もかなりのものだ。
孔雀はその波導弾を――
――さらりと受け流して後方に逸らしてしまった。手に持ったあれは……箒?
「何ですって? ルードの波導弾を……」
「ヒャハッ! 凄え!」
「なにあれなにしたの? ねえ?」
「黙れメント」
「ヘッ、やるじゃねェか」
孔雀は更に加速して急降下し、ルードの真正面に降り立った。
「はあ、申し訳ありません。昨夜はいろいろと取り込み中でして……ええと、ルードさまでしたでしょうか? あなたからの勝負、お受けすることができませんでした」
そして腰を九十度に曲げたお辞儀をして謝った。
――何このひと。
「昨日のことはもういい。今オレと勝負すればな」
「ルード……!」
「最初はオレに戦らせてくれるって約束だっただろうが。ローレル、お前が言ったんだぜ」
そうだ。確かに俺はそう言った。でも、このサーナイトは並みのレベルじゃない。スピードだけでもアレだ。ルード
「ローレル? もし、そこのブラッキーさん。あなたのお名前はローレルさまというのでしょうか?」
「ああ……そうだけど」
ふと尋ねられて、さらりと答えてしまった。
敵の会話に乗るとは不覚――というより、あまりにも自然体で尋ねられたものだから自然に答えてしまっただけだ。
サーナイトは袖で口を押さえてくすくすと笑った。
「そういうコトでしたか。なるほど……あ、その風体はハンターさんですか? わたしを狩りに来たと」
「殺人鬼の始末を依頼されてるんだ。二匹が現行犯で見たと言ってる」
「手を出すんじゃねェぞローレル。まずオレだ」
不意打ちで悪の波導を放とうとしたら、ルードに制された。
「わかった……無茶しないでよ?」
ローレル達五匹は岩影に下がって、
「正々堂々の一対一ですか? 陽州にいた頃を思い出しますねー」
孔雀はおもむろに、左手に持っていた箒の柄に右手を添えた。彼女の手そのものから、微弱な
金属と木が擦れるような独特の音だった。
――視えなかった。手の動きもあの金属棒が出てくる瞬間も。
「刀を見るのは初めてのようで? おや。お見受けしたところ貴方も
サーナイトなんかの力であれを振り回すのか、と思いきや、孔雀は刀を元の鞘に収めて箒に戻し、地面に放ってしまった。
「お前、誤魔化しちゃあいるが見たところ随分
「あららー。見抜かれてしまいましたか。ですがご心配なく。上手に扱う術は身につけておりますゆえ」
孔雀は直立姿勢のまま両手を開き、ふわりと低く浮き上がった。
「上等じゃねェか。んじゃオレからいくぜ!」
ルードが孔雀に向かって疾駆する――
◇
ルードの初撃は"神速"のジャブからワンツーだった。孔雀の予備動作だけを見れば、明らかに反応できていなかった。あのタイミングなら、当たる――ローレルの目にはそう映ったが、結果としては二発とも当たらなかった。
三撃目、四撃目。ルードの鋭いパンチやキック、尾撃の悉くが外れる。ルードの攻撃の全てが空を切る。孔雀はふわりふわりと低空でウィービングやスウェーバックし、上段は当たらないと踏んだルードが下段、中段にも突きや蹴りを散らしはじめたが、体捌きや打ち払い、いなしで全て確実に防御している。ゆっくりとしたリズムを急に速めて小さな波導弾も織り交ぜつつラッシュ――それも、ルードの攻撃のリズムががゆっくりなら緩慢に、速くなれば敏捷にとその動きを変える。あたかも一本の白い羽毛を相手にしているかのようだ。
「鋭い突きですねー。当たったら死んじゃいそうですー」
しかも笑顔で冗談まで言う余裕まであるときた。しかしルードが本気で打っているのは明らかだ。
「でもせっかくですし、地上で戦りあった方が楽しいかもしれません」
孔雀はルードのストレートの一発に手を添えていなし、その隙に地面に着地して構えを取った。両手を前に突き出した妙な構えだ。
「ぬかせ、オレを舐めると痛い目にあうぜ。本気で来ねェとぶっ殺すぞ!」
ルードの言ってることが矛盾してきた。言葉とは裏腹にかなり焦っている。
「しょうがない仔ですねー」
滑った。一瞬本気でそう思った。
足を動かしたのが見えなかっただけか。瞬時にルードとの間合いを詰めた孔雀の右の掌底がルードの顎を打ち据えた。まさか格闘術を使うとは思わなかったが、サーナイトの力では大した威力は無いはず……
「ぐっ……」
ルードは大きく仰け反り、後退せざるを得なくなった。驚くべきことにあのサーナイト、力もある。とんだ種族詐欺だ。すぐさま後ろに回りこんだ孔雀が手を突いて両足を回転させ、足払いをかけた。ルードの体が錐揉みながら空中にはじけとぶ。
そこへ飛び膝蹴りからの流れるような二段蹴りが入り、その勢いが加速した。こうなるとまるで不定形の大きなボールだ。跳躍――少なくともローレルにはそう見えたが、跳び上がってルードに追いついた孔雀は胴回し回転蹴りでルードを地面に叩き落とし、地面にバウンドさせてさらに空中からの
「横槍とはいただけませんねー」
「タイマンはそいつが勝手に言い出したことなんだ。こっちも遊びじゃなくて仕事だから、確実な手段をとらせてもらうよ」
「五対一、それもわたしの苦手な悪タイプのあなたが参戦するとなると……」
孔雀は目にも止まらぬ早業で地面に放った箒を回収した。
「本気でやらせてもらいますよー。全員死んじゃいますよー」
孔雀はローレル達を脅し、左手で持った箒――いや刀の柄に右手を添えて腰を落とした構えを取った。あの体勢なら、いつでもあれを抜ける。迂闊に近寄れない。かといって止まっていたら向こうから来る。そこへきて相手のスピードは尋常じゃないときた。
「ローレル。あのサーナイト、信じられないけど自分の体に
「視力がよろしいのですねー。視えちゃいました? インパクトの瞬間に青く光っちゃうのが」
ここへきてまだ口調は変わらない。楽しんでいるのか、本当に余裕があるのか。
「てめぇこのアマ、ルードの兄貴をやりやがったなァ? 姦っちまうぞテメェ!」
「あの方ですか? まだ生きておられますよー。殺人愛好癖などはありませんので、死なない程度に加減させていただきましたゆえ」
セキイの挑発もサラリと流してしまうあたり、戦闘だけでなく精神面も強い。それにしても殺人鬼が自分の口から"殺人愛好癖はない"なんてどこかで聞いたような科白をよく笑って言えるものだ。しかしそこに突っ込めないのもまた事実だった。
五対一で圧倒的有利なはずの状況で、ひしひしと感じるこの威圧感は何だ。ありていに言えば、怖い。正直言って五匹でも勝てる気がまったくしない。メントとロスティリーにいたっては、孔雀が刀を拾う前から黙りこくったままだ。
「ですがコレ使っちゃいますと、さすがにそのようにはいきません。やめるなら今のうちですよー」
これまでの被害者の姿が脳裏によぎる。真っ二つになったポケモン。あれがローレル達の末路なのか。
何を。諦めちゃダメだ。弱点はあるはずだ。ルードも言っていた。彼女はESPの力が弱いと。ならばどこからあれほどの膂力が生み出されるというのか。体つきを見てもそんなに筋肉がついているようには見えない。ルードほど敏感ではないけど、意識を集中させればローレルにも感じられる。今、彼女から感じる神秘の
全く感じられない。ゼロだ。わずかな揺らぎもない。何の技も行使せずに自らの足だけで立ち自らの筋力だけで構えている。今の彼女はただ刀を持っただけのサーナイトだ。いくら彼女が鍛えていようとも、肉体の力だけなら並みのポケモンとさして変わらない。
「あ、そうそう、あなたそういえば……」
「はい。なんでしょ――」
孔雀が答えようと口を開いた瞬間に、瞬発力に身を任せ電光石火のごとく飛び出した。軌道は孔雀への最短距離を――
「うわっ!」
ローレルは直感的に顎を引いて前足を曲げ、頭を下げて停止した。ローレルの頭上で甲高い風切り音がして蒼い光片が弾ける。コンマ一秒送れて、右の耳に灼熱感が走った。
「いきなりの騙しうちとは粋なブラッキーさんですねー」
左の頬にピタリと冷たい物が当てられた。
同時に、右の頬には温かい液体が流れ落ちる。右耳の先が斬られたようだ。ローレルは自らの血が目に入らないよう、右目を瞑って孔雀の顔を見上げた。
「ローレル……!」
キアラの声が残った左耳に入る。孔雀はその声の方を向いていた。
「この仔がリーダーさんなのですか? ただいまこの仔の命はわたしの掌の上に……どうなさいます?」
不覚。仲間たちから恐怖を取り払うために先陣を切り、相手の出鼻を挫くつもりだったのに、あろうことか
この孔雀というサーナイト、会話に乗ったふりをして騙されなかったのもさることながら、筋瞬発力が尋常じゃなかった。というか、刀を振るう瞬間だ。一瞬ではあったが、ESPの波導が急激に大きくなった。今はまたもとの凪に戻っている。普段は消費を極限まで抑え、動かす一瞬にだけ爆発させる。それが彼女の言う上手に扱う術というやつか。
「わかったわ……見逃してあげる。だからローレルを殺さないで。あなた、殺人愛好癖はないんでしょう?」
「見逃してくださるのですか……誤解を解くために申し上げておきますが、巷を騒がせる殺人鬼はわたしではありません」
「白々しいわね。あそこで倒れてるルードとこのチャーレムのロスティリーが殺人現場で貴方を見ているのよ?」
「全てはシオンさまのため。この猟奇殺人事件はあなた方ハンターさんや探偵さんの出る幕ではありません。わたしたち
孔雀はローレルから刀を引き、垂直に浮き上がった。
「ええと、ローレルさまでしたか。かわいいお耳を傷つけちゃって申し訳ありません。ブラッキーなら月光を浴びていればいずれ再生するでしょうけど……これを傷口に貼っておけばきっと治りが早いですよー。それではご機嫌用♪」
ギザギザした多肉のアロエの葉を懐から投げてよこし、孔雀はランナベール方面へと飛び去った。
こちら側? 兄ちゃんや令嬢がこの猟奇殺人に関係しているのだろうか?
それとも、陽州人の――?
「本当かしら……彼女が犯人じゃないって」
「だが俺と兄貴は確かに見たぞ」
「でも、殺すところ見たわけじゃないんだよね」
「ああ……ってそうだ兄貴だ! 大丈夫なのか?」
四匹はローレルを置いて、ルードに駆け寄っていった。
「大丈夫よ。失神してるだけみたい」
「よかったぁ……」
「ヘッ、兄貴がそォ簡単にブッ死ぬタマかよ」
ま、今度は金と仲間ではなく、向こうも仲間だから良しとしよう。
「おいローレル! またキアラに運んでもらうのかァ?」
「いや……耳だけだし、歩けるから。俺は大丈夫。皆でルードを運んであげて」
孔雀が殺人鬼でないとすれば、孔雀は……殺人鬼を追っていたということか?
こちら側の問題。つまり、殺人鬼の正体は陽州人かヴァンジェスティ内部の者ということだろうか?
何にせよ、ここで手を引くわけにはいかない。体勢を立て直したら、また一からやり直しだ。
◇
「ツェシーさんが!? そんな……!」
自分でも気づいていないのか、低い声だった。悩んだ末、翌日ハリーはペロミアにツェシーの死を告げた。いくら客にすぎないとはいえ、完全に割り切ることは難しい。カウンターごしに会話を聞いていたトモヨも黙って目を伏せていた。
それにしても疑問が残る。
まずあの崖の崩落だ。いわゆる岩タイプポケモンの岩雪崩とは違っていた。岩雪崩は大地の
崖下のストライクの死体を消し去ってしまうことだとしたら。そもそも、ツェシーはなぜあの場所に向かう必要があったのだろう。ツェシーは使い走りをしていた。何かの取引であの場所へ? いや……もしやこれは別件、ツェシーは単に雇い主の組織に消されただけなのかもしれない。殺害方法が同じだからと言って、この猟奇殺人を実行している者の他にポケモンを一刀両断できるほどの膂力を持つポケモンがいないとも限らない。
目を逸らさずに、考えてみよう。あの白い影は十中八九孔雀だ。海上を飛行する直立二足歩行型ポケモンなど他にいない。あの場に現れたのが偶然とも思えない。何らかの形で関わりがあることは間違いない。
では、果たして彼女に一匹のポケモンを一刀両断するほどのパワーがあるのか。
ハリーも一度彼女の斬撃を受けた。スプーンをクロスさせて受け止めたが、彼女の一撃は速度とタイミングこそ素晴らしかったが決して重くはなかった。あれではよほど防御力の弱いポケモンでない限り一刀両断など不可能だ。せいぜい半分くらいまで斬り込めればいい方だと思う。トドゼルガのあの分厚い体ともなればそう簡単にはいかない。ツェシーの件なら、固い外骨格さえ破ればできないこともないかもしれない。
情報を整理して推察する。
猟奇殺人の犯人はツェシーで、どういうわけか自分の体を破壊してしまうほどの力で次々と殺人を行っていた。鎌がボロボロになっていたのはそのためだと考えられる。
どういうわけかそれを孔雀に見抜かれ、ツェシーは巧妙にあの場所に呼び出された。そして孔雀がツェシーを殺害し、証拠を隠滅すべく崖を破壊。ハリーは偶然それに巻き込まれた。
「……うーむ」
客観的に状況を説明することはできるが、因果関係や動機が全く掴めない。
「どうかされましたか?」
平静を取り戻したのか、ハスキーな声でペロミアが訊いてきた。
何はともあれ、彼女に取ってみればツェシーも一人の客で、仕事で彼との会話に付き合っていただけなのだ。むろん、ハリーとて彼となんら変わりない。もし私が死んだら、ペロミアは悲しむだろうか?
見知っているポケモンが
「どうもしっくりこなくてな。動かされているような気がしてならないのだ」
「動かされて……いる?」
「ああ。私の捜査も推理も、この猟奇殺人という大きな河の流れに飲み込まれ、導かれるままに河口へと運ばれているだけなのではないかとな。
河の流れを遡り滝さえも上ってしまうアズマオウのように、運命や因果の流れに捕らわれず自由に泳ぎ回ること。それはやはり、神に近しい者だけに与えられた特権なのだろうか。
「馬鹿言ってんじゃないよ。アンタ、ただのオッサンになりたいのかい?」
ハリーの自虐に近い呟きに答えたのはカウンターの向こうで前足の蹄に挟んだ煙草を吹かすトモヨだった。
「探偵として事件を追わなきゃ、それこそ何の取り得もないオッサンじゃないか。シオンちゃんみたいに、そこに存在するだけで
「マスター……」
捜査を放り出すつもりは毛頭ないが、心は半分折れかけていた。諦観の情を以て捜査に当たっても良い結果などあろう筈がない。
よもや、やる気のやの字も失ってしまった、少なくともハリーにはそう見えていた彼女の口からこんな言葉を聞かされようとは。
「自分はなーんも輝いてねえくせに偉そうなことを……」
全くだ。まあ、張り込みのときは差し入れをしてくれたこともあったがな。中年のツンデレは可愛くもなんともないが――
「――む?」
「はっ? あ、いえ、はい、つ、ついマスターの言葉に聞き入ってしまいまして、あの……」
「ペロミア、アンタこのオッサンしか客がいない時は職業意識薄れてんだろ」
「そそそそ、そんなことありませんよ、私はウェイトレ~ス……や、やあっ、く、クビにしないで下さい!」
やはり、バレたらクビになるのだろうか。どういう契約なのか非常に興味深い。
「ハリー。アンタがここに来るのは可愛いペロミアに会うことかい?」
ペロミア。ハスキーな声が愛らしい、それでいてちょっと凛々しいような、独特の魅力があるウェイトレスのリーフィア。
「私が気に入っているのは店の雰囲気だ。もちろんそれもあることは否定できないがね」
「そんなハリーさん、私なんかを目的にされても困りますよ、一応私まだ十八ですから……」
「安心したまえ。君に対する感情はそういうものではない。容姿が綺麗だとかきたないとか、性格が良いとか悪いとか、牝だとか牡だとかそういった問題ではなく、君という存在を気に入っているというだけだ」
ペロミアは焦りの表情で首を引っ込めながら、ハリーとトモヨの顔を交互に見た。
「……というわけだ。もともと客引きが目的だからね。ハリーは事実を知ったからと言って来なくはならないそうだ……ということで今回は見逃してやるよ、
ペロミアは安堵のため息をつきながら、目はトモヨに抗議しているという複雑な表情を見せた。
「だからってマスター、本名バラさないでくれます?」
それにしてもこの発声、どうやって身につけたのやら。
「今までごめんなさいハリーさん。私は……」
孔雀とここに来ることがなかったらハスキーな牝の声にしか聞こえなかった。
「……オレの本当の名前はエリオットっていうんだ。勘違いすんなよ、シオンの野郎と違って女装趣味なんかじゃねえからな。マスターの悪趣味でこんな格好させられてんだ」
今までに何度か暴発していた地声だ。ごく一般的な、変声期を過ぎた少年のそれだった。
「客引きのためだって言ったろ」
「まあ、マスターには恩があるから無茶な条件を飲んでここで働いてやってるってわけ」
「他に行き場なんかないだろ。女装だけで働けんなら苦労しないじゃないか」
「声作んのにマジ苦労したんだからな? あんたこそこんな悪条件でも働いてくれるオレみたいな店員いなくなったらやべーんじゃねえの。後継なんてなかなか見つから――」
と、入り口の外に
「いらっしゃいませシオンさま。ご注文はいつものアールグレイミルクでよろしいですか?」
「うん。それとなんかテキトーにケーキ一つお願い」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
声も性格も一瞬で切り替えるとは。
いやはや、驚いたというより感心した。
◇
「シオンさま……朝ですよ……」
朝の冷え込みはまだ厳しい。
毛布を後ろ脚で蹴って足元に丸めておいたのが完全に裏目に出たらしく。
「ふぃぃぃいーっ。さっぶっいっ」
足先で探ってみても、毛布がない。ベッドの下に落としたかな。
「大丈夫ですか……?」
一瞬だけ薄目を開けると、ベッドの横から橄欖に心配そうな目で覗きこまれていた。
「ふにゃ……かーんりゃん……」
ちょっとだけ暖かくなった。しあわせ。
「わひっ、ちょっと、し、しししシオンさまっ!」
体温はエーフィの方が高いから気休め程度だけど、なんか普段聞かないような声も聞こえてたりするけど、起きたばかりのときってなんか甘えたくなってさ。
いいや。今はあったかければそれで――
「何事ですか」
あ、フィオーナの声だ。
「し、シオンさま……そ、その……非常に申し上げにくいのですが……早く……」
あれ。僕、今なにやってんだろ。
「シオ……なっ」
サアァッと血の気が引いた。せっかく暖まったのに、体の中がまた一気に冷たくなった。
だって、この状況はまずい。
シオンが前足で橄欖に抱きついていて、橄欖はベッドに倒れ込んでしまっている。ちょうどそこへフィオーナが入ってきたのだ。
眠気も寒さも一瞬で吹き飛んだ。もはや忘却の彼方だ。
「フィオーナ……あっ、これはその」
慌てて橄欖から
「橄欖。これはどういう事かしら? わたしを即座に納得させ、かつ貴女に一片の下心もない事を証明しない限り、その童子の如き純粋無垢を装った顔を千往復ビンタの刑に処します」
こういう時フィオーナの最も恐ろしいところは、怒りの矛先を向けるのがシオンではなく必ずその相手の方だということだ。フィオーナの声は
「恐れながら……フィオーナさま、誤解です……シオンさまにはいかなる&ruby(かきん){瑕瑾}もございません」
ちょっと、それじゃまるで橄欖が僕を襲ったみたいな言い方じゃない。まずいって。フィオーナの怒りのボルテージ上がってるし。てか、きみも僕以上に感じてるでしょ。感情ポケモンなんだから。
「このような冷え込みの厳しい季節……寝起きのシオンさまに……迂闊にも前足の届く範囲まで近づいてしまった……全てわたしの過失によるものです……どんな処罰もお受けします……」
そう言って橄欖は深々と頭を下げた。
さすがは橄欖だった。一連の出来事をただ伝えただけでは、今のフィオーナには例え事実でも言い訳に聞こえてしまう。まずは自らの非を認めて素直に謝っておく。誤解していたことを知ったフィオーナも、ここまで言われるとさすがに大人げがなかったと反省するしかない。
「そういうこと」
フィオーナは不機嫌そうに答えたが、怒りは収まったようだった。
自らの感情のみならず、相手の感情までコントロールしてしまう。橄欖も存外恐ろしい女性なのかもしれない。全然似ていないが、なんたってあの孔雀の妹なわけだし。
「わたしの誤解だったようね。面を上げなさい」
ともあれ処罰を免れて良かった。こんなことで橄欖の顔が変わっちゃったら、あまりにも可哀相すぎる。
フィオーナは橄欖の横を通り過ぎて、つかつかとベッドまで歩み寄ってきた。
「それで。寒さに耐え兼ねて橄欖に抱きついたというの」
「や……成り行きっていうか、ね?」
「寒いならわたしが添い寝だけでもしてあげるのに」
「一緒のベッドに入ると我慢できなくなるから別々に寝ようって最初に言ったのはきみでしょ?」
「それはそうだけど」
僕だって朝目覚めたときにフィオーナのメロメロボディが横にあったら、暖まるだけでは済まないかもしれない。お互いさまだけど。
「とにかくほら、わたしの背に乗りなさい」
「え?」
「わたしも寒いのよ。食堂まで運んであげる、と言っているの」
ああ、なるほど。
過程はどうあれ、フィオーナは橄欖がシオンを暖めたのが気に入らないのだ。だから対抗して急にツンデレなことを。
「いいよ。フィオーナの方が暖かそうだし」
シオンはベッドから這い出してフィオーナの背に跨がった。
ふわふわした体毛と柔らかで温かい体、鼻腔をくすぐる仄かな匂いに酔いそうになって、それはダメだと顔を上げたところで、こんどは耳が熱くなった。
橄欖と目があったからだ。
てゆうか、物音一つ立てずに突っ立っているものだから完全に存在を忘れていた。
あんな話を橄欖の前で。
フィオーナの顔は見えないが、すぐに歩き出すことなく固まっているところをみるとシオンと同じ心境にあるのに違いない。妙に暑いのはシオンの体温が上がっただけではないだろう。
「いっ、いつまでそこに突っ立っているのですか! 先に食堂ヘ行って準備しておきなさい!」
「申し訳ありません……承知いたしました……」
とっくにできている、とは答えないところも、今のこの変な状況には触れずに即刻立ち去ったのも橄欖の気遣いなのだろう。
「……橄欖って気配薄くない?」
「薄いというより、時折消えるわね。あの孔雀の妹なのだから何を隠しているのかわからないわ」
「孔雀さんって何か隠してたの?」
「いえ、それは」
フィオーナはおそらく、シオンの知らない孔雀の何かを知っているのだ。
でも、さすがの僕でももう薄々感づいている。ESPで飛行したり、突然背後に出現したり、橄欖の読心術以上に相手を見抜いてしまう心眼の持ち主だったり。初見でシオンの性別を間違わなかったのは彼女とペロミアだけだ。フィオーナの送り迎えをたった
「橄欖ちゃんはわたしとは違いますよー」
「ひぎっ!?」
「孔雀、貴女という
背後だった。シオンのベッドに腰掛けた孔雀がにこやかな笑顔を浮かべている。
神出鬼没は毎度のことななのだが、だからといってフィオーナみたいに冷静に対処できない。ドアはシオン達の前なのに、一体どこから入ってきたのか。いや、多分窓から侵入したのだろうけど、まったく音がしなかった。
「シオンさまのベッド、いい匂いですよねー。つい二度寝したくなっちゃいます」
フィオーナを前にしてこんな発言ができる無神経さも、普通ではありえない。もしシオンがフィオーナの執事という立場だったら、彼女の機嫌を損ねることなど到底できないだろう。実際、対等であるはずの婚約者という立場にある今でさえまだ少し怖いのだから。
「私のシオンの匂いは私だけのものよ。それを勝手に……」
突っ込みどころ満載でどう言及して良いやらわからなくなってしまうが、敢えて一つ言うなら。
なんで僕の名前にきみの所有格がついてるわけ?
「それではシオンさまに近づけないではありませんか。身辺のお世話もできません」
言いながら、孔雀はベッドに倒れ込んで羽毛布団の中に顔を突っ込んだ。
「なな――く、孔雀ッ!」
孔雀の突然の行動に声を荒げたかと思うと、フィオーナは背中のシオンをはね退けてベッドに突撃した。
「うわあぁっ」
その勢いで飛ばされたシオンは、床に体を打ち付け――なかった。
床スレスレで青い光に包まれて停止し、そのままふわりと浮き上がったのだ。
何故か、目の前に孔雀さんの顔が。
「フィオーナさまったら、いけませんねー。わたし達の大事な大事なシオンさまがあわや固ーい床にたたき付けられてしまうところでしたよー」
「なっ……!?」
孔雀を止めようとしたのだろうが、結果的には立場が入れ代わってしまう格好となった。
そこに言及するのも気恥ずかしいけど、匂いくらい好きに嗅がせたっていいのに、余計なことをするからこうなるんだ。
「ああフィオーナさま、申し訳ありません。わたしがシオンさまを抱き留めて差し上げるより他になかったのです」
顔が近い。
朱い瞳が、シオンの琥珀色の瞳を覗き込んでくる。なんていうか、こう、吸い込まれそうな魔性の瞳――や、近いってほんとに。
「シオンさま……」
孔雀が愛おしむように呟いたとき、思わず顔が熱くなってしまった。これはまずいと思い恐る恐るフィオーナの顔色を窺う、と――
怒りに先行して、不安に押し潰されそうな――フィオーナにしては珍しい表情をしていた。
「え、や、その、く、孔雀さん……?」
「ふぅ。罪な方ですこと」
目を閉じてため息をつき、意味深な言葉を放ったもののさすがの孔雀もそれ以上は何もしなかった。
孔雀はシオンを床に降ろすと、フィオーナに微笑みかけた。
「わたしも分は弁えておりますゆえ、そこまでご心配なさらずとも」
「黙りなさい! 貴女は全く弁えてなどいないでしょう!」
「はあ。シオンさまもわたしのご主人さまですから、時には身体的接触もありますけども……ときにフィオーナさま、そろそろ朝食をお召し上がりにならないと学校に遅れてしまわれますよー。本日非番のシオンさまと違って朝から遊んでいるお時間はありません」
「貴女に言われずともわかっているわ。シオン」
「あ、はい、急ぎますっ」
あまりの怖さに敬語になってしまった。
あれを受けて笑っていられる孔雀さんの精神力には恐れ入るばかりだ。
シオンは部屋を飛び出して洗面所で顔を洗ったあと、食堂に直行した。
◇
朝食の間、フィオーナはずっと不機嫌だった。
孔雀さんに連れられて出発する時も、シオンは元気よく見送ってあげたのに力なく挨拶を返すだけで。
「やはり……わたしの責任なのでしょうか……」
傍らの橄欖は自責の念に駆られているようだ。橄欖との一件も一因ではあるだろうけど。
一番の問題はあれだ。孔雀さんがシオンを誘惑しようとした(?)ことだ。彼女のシオンに対する態度や振る舞いは徐々にではあるが日に日にエスカレートしている気がしないでもない。分は弁えているとは言ったものの、今朝のはいくらなんでもやりすぎではないのか。だってフィオーナの目の前だ。
「姉さんのこと……ですか?」
フィオーナを見送ったあと、庭を歩いて屋敷に戻る途中そんなことを考えていると、橄欖が感情を受信する能力で読心術を発揮してきた。
「言わなくてもわかっちゃうんだね。実は今日、きみが食堂に戻ってから孔雀さんが来てさ」
事の顛末を話し終えたのは、ちょうど噴水を回って屋敷の正面玄関にたどり着いた時だった。扉に手を掛けた橄欖の動きが止まる。
「姉さん……またそのようなことを……本当に申し訳ありません」
「や。橄欖が謝ることじゃないよ」
あのフィオーナが怒ることも忘れて不安に顔を曇らせるなんて。承知の上でやったのだとしたら、もしかして孔雀さんは本気で僕のことを。
「それは……さすがに……」
「心読むのやめてよね」
「感情……です」
◇
ひとまず居間でくつろぎのひとときを。
と言っても、橄欖はこれから屋敷の掃除なのでそれほどゆっくり時間はとれない。
「それにしても……困りものです……ね……」
これまでも様々軽いセクハラ行為をされたことはあったが、誘惑までされたことはなかった。
「……姉さんが……シオンさまを大切に思っていることは……確かなのですが……」
「そだね……」
橄欖がその程度の認識しか持っていないなら、大丈夫だということか。感情ポケモンである以前に、姉妹なんだから孔雀のことは一番よく分かっているはずだ。
「罪な
「は、はいっ!? ね、ねねね姉さんがそのような事を言っていたのですか?」
「へ……?」
珍しく橄欖が戸惑いの表情を見せた。
普段は何を考えているのかわからないくらいに声まで無表情なのに。焦ると急に変わるものだからある意味わかりやすいかもしれない。
「言ってたけど、どうしたの」
「いえ。シオンさまを罪人などと、いささか姉さんの発言には問題があるのではないかと思いまして」
いざ慌てると平静を装うのが下手なのか。これが他のポケモンだったら平静そのものなのだろうが、基本が半死人ボイスの橄欖だ。こんなに流暢に話していると違和感ありまくりだ。
ていうか、橄欖って普通に喋れたんだ。
「決して深い意味はありません」
そんな、ねえ。
たしかに毎日、悪い意味ではないがあのツノにずっと心の一部を覗かれているのだ。一緒にいる時間もフィオーナを差し置いて一番長いし、橄欖はある意味フィオーナより僕のことを知っているかもしれない。
だからといって橄欖がシオンを異性として意識しているのかどうかは別問題だ。あくまで仕事でシオンの世話をしているだけなのだから。いや、別問題と割り切るのも難しいか?
シオンとて橄欖に対して何らかの形で好意を抱いているのは事実だ。そうでなければ今朝みたいなことはしない。あれが同性の執事でもあんなことをしていたかといえば、かなり疑問符がつく。
でもそれはフィオーナに向けるような恋心や愛とは別物だ。端的に言うならば、主人とメイドの信頼関係、絆、そういったものである。極限に達しても牝牡の仲には発展しない。方向が違うから。どこかで踏み外さなければ、いくら仲が良くなっても間違いは起こり得ない。フィオーナにはその点を理解してもらいたいところではあるが、シオンより一年人生の先輩とはいえ、いかにも恋愛経験のなさそうな橄欖にとっても同じだとは限らない。主従の絆を恋と勘違いして道を踏み外し、意識し始めると果ては本当の恋に発展してしまうことも有り得る。
今の橄欖はまさにその状態なのではないだろうか。それともシオンが自意識過剰なだけなのか。
「ねえ橄欖」
橄欖に擦り寄ってみる。
「なぬにのねにのねな、なな何でしょうか?」
何はともあれ、反応がいちいち面白いのでついからかいたくなってしまうのも事実だった。居間で
果たして、橄欖はシオンから遠ざかるように身を
「橄欖って孔雀さんみたいに僕を抱っこしたりしないよね?」
「ちょ、だっだだだ……こ? そ、その、ね姉さんみたいにはで、できないといいますか……い、ESPでは解決できない問題といいますか……そっ、そもそも、だ、だっこって、ど、どうして急にそのような事を……?」
「や。孔雀さんにはよく抱っこされちゃうんだけど、橄欖ってそういうコトしないなーと思って」
「あ、あっ、あ、あああああ当たり前じゃないですか! そ、そのような我が身に余る行為、どどどうしてできましょうかっ」
「いいじゃない。きみは僕の侍女なんだからさ。少なくとも孔雀さんよりはそういう権利みたいなのはあるはずだよ」
ちなみに橄欖は進化が遅いせいか、標準サイズのキルリアより随分大きい。シオンがエーフィとしては小柄なのも相まって、体重は大差なかったりする。
「け、権利と申しましても、わ、わたしごときがシオンさまを抱きかかえる栄誉に浴させていただくわけにはいきません」
「ごめん。ちょっとからかってみただけ。実は訊きたいことがあってさ……」
「は、はい」
どうにも言い出し辛くてこれまでお茶を濁していたが、橄欖に聞かなくてはならないことがある。
あの夜、孔雀と何を話していたのか。部屋から飛び出したのは橄欖なのか。
乙女の内緒話に僕が首を突っ込むのも間違っているような気もする。が、聞いてしまった以上はもう仕方がない。それにあの時、確かに僕の名前が呼ばれたのだ。少なくとも無関係ではない。
「この前だけどさ。夜中に孔雀さんと何か話してなかった? ちょっと目が覚めたら一階で大きな音がして、話し声がさ」
とぼけられないように、シオンがそれを聞いたという事実を最初から強調した。
「起きて……いらっしゃったのですか?」
「暑くて目が覚めちゃったんだ。毛布被りすぎててさ」
橄欖は表情に影を落とした。いや、普段どおりに戻っただけか。
「その節は申し訳ありませんでした……ベッドメイクの際……わたしがもっと考慮していれば……」
「や、それはもういいから。毛布一枚増やしてって頼んだの僕だしね」
いけない。論点がずれてきている。こういうところは孔雀さんと確かに似ているかもしれない。誘導に乗っちゃダメだ。
「孔雀さんと何話してたの? なんか僕の名前も聞こえたんだけど」
「シオンさまはどうかお気になさらず……わたしと姉さんの問題ですから……」
そう言うと橄欖は背を向けてしまった。これ以上立ち入るなと、そういうコトなのだろうか。
「わたしはこれから屋敷の清掃がありますので……」
「え、ちょっ」
歩き出した橄欖の前に回りこんだ。
その顔が、とても苦しそうで。
「橄欖……?」
「わたし……
「へ?」
「感情ポケモンなのに……シオンさまのお気持ちも手に取るようにわかるのに……自分自身の感情がわからないなんて……」
震えながらそんな言葉を絞り出した橄欖の姿に、呆気にとられていた。
その掌がシオンの額に翳されるのを、ただ黙って見ていた。
「いっそ……壊してしまいたい……」
最後に耳に残ったのは、橄欖には似つかわしくない物騒な一言だった。
橄欖の瞳が青白く光ったのは錯覚か幻か?
目には映ったけれど、それを正しく認識することはできなかった。
意識の糸が一瞬で切れてしまったのだ。海に沈められるというより、地上から海底の砂の中に瞬間移動させられたような。
時の感覚さえも、もはや消失してしまったかのように。
◇
ブラッキーは月の光を浴びて組織を再生することができる。
孔雀に渡されたアロエベラというらしい天然の薬の効果もあってか、先端が切れてしまった右耳もあれから二日でほぼ元の長さに戻った。再生した部分だけ毛がまだ薄いが、そのうちきちんと生えてくる。
「つーかもう二匹ともブッ殺せばいいんじゃね?」
カルミャプラムのいつもの席で、セキイが麦酒を片手に物騒な提案をした。
「だから阿呆だというのだ貴様は。コロトックはともかく、このビオラセアとかいう奴はケンティフォリア歓楽街のトップだぞ。依頼人の娼館の上部組織の一員だ。もし冤罪で殺してみろ、それこそ次は俺達が同業者に命を狙われる番になる」
ロスティリーは冷静でさえいてくれれば話し合いの場ではまともな意見を述べてくれる。
「んじゃァコロトックとストライクだけとりあえずブッ殺そーぜ。オレが焼いてやるからよ」
「ふん。貴様ごときでは焼く前に真っ二つだな」
「ついでにロスティリーも真っ二つぅ☆」
そこへきてメントがまた要らんコトを。
「何だとメント。強さの順序を考えれば、その前に貴様の上顎と下顎が二つに分かれているに決まっている!」
スルースキルと
「おれの顎の威力をばかにしないでよ? そんなとこ斬られそうになったらガッチリ挟んで止めてやるもんね」
「牙ごと切断されてジ・エンドだ。殺人鬼は鋼タイプをぶった斬るような化物だぞ?」
「まあそう言うなって。メントが牙ァ折られてる間にオレが焼けばいいンだろォが」
「そんな、ひどいよ! おれをエサにするっての?」
「貴様の利用価値など所詮その程度だな」
と、そこへキアラが店に入ってきた。新しい手がかりがないかと、再度情報屋を訪ねていたのだ。
「まーた馬鹿話ばかりしてるわね」
「ごめん、ホントはリーダーの俺がうまくまとめなきゃいけないんだけど……で、どうだった?」
「ツェシーが死んだわ。死体は海に沈められたみたい」
「うし決まりだあのコロトックを焼ぶへっ」
「アホか」
裏拳に沈められたセキイに代わり、これまで空気を決め込んでいたルードが話に割り込んだ。
「ぶっ殺せばいいってもんじゃねェだろ。オレ達だって冤罪でポケモン殺しちまったらいい気はしねェしな。セキイは知らねェけどよ」
「ああ……」
さて、完全に驚くタイミングを逃してしまったが、容疑者の中に被害者が出た。これで三匹、孔雀を信じるなら二匹だ。ブーピッグのビオラセアとコロトックのエイドブル。
どれだけ容疑者が減ろうと増えようと迷宮入りしようと俺たちのやることは変わらないけど。張り込んで現場を押さえる。殺人鬼は今も、そしておそらくこれからも殺人を続けるのだから、いつか捕まってしまうだろう。
しかし保安隊やジルベール警察も同じことを考え、実行しているはずなのにまるで捕まらないのは何故なのか。それに孔雀の言葉も気になる。兄ちゃんのためだとか、あっち側のポケモンの問題だとか。
「つーか、あの孔雀とかいう陽州
「そうだろうね。でも、また会って訊いても教えてくれなさそうだよ? 関わるなって言われたし。依頼を放棄するわけにもいかないし」
「アカシャにも訊いたけど、彼女のことはヴァンジェスティ家に仕える使用人だって事と、陽州の出身だって事以外は何もわからないそうよ」
「えー、また明日から地味に張り込むのー?」
「そうだね。正確には、今晩から、だけど」
即答すると、メントは嘆息した。他の面子も、あんな事があった後ではさすがにやる気十分とは言いがたい。
たった
「……今度彼女に会ったときは同じ結果にはならないと思うよ」
まさか、あれでまだ力を隠しているなんて、このときは思わなかったけど。
◇
殺人鬼は暗礁に乗り上げた私を嘲笑うかのようだった。
これでついに十匹目だ。
暗礁に乗り上げた、とはいったが、あれから情報を整理し考え直した結果、私の脳内ではもう答えは出ている。
しかしいつどのタイミングで犯人に接触するか?
話しかけた瞬間に一刀両断にされては元も子もないし、そもそも話しかける機会が得られるかどうかすら危うい。
ハンターを護衛に雇って張り込みをすることも考えた。だが、それでは出費が報酬を超えてしまうし、経費として依頼人に請求すれば良心的な低価格が売りだったこれまでの信用を落としてしまう。
コスト削減も考え物だな。
――アスペルによると、ビオラセアに内密でケンティフォリア歓楽街の娼館の経営者が雇ったハンターが動いているらしい。
接触してみる価値はある。
「ふむ……」
ハンターの
「あのー……そこのラズベリーをこの革袋にいっぱい下さい」
背後からだ。心なしか、聞き覚えのある口調だった。
「またニイチャンか……そろそろ来ると思って大量に入荷しといたぜ」
店主のドタイトスが重低音で応対した、その視線の先には。
「えー。たまたまでしょ?」
まだ麗若いブラッキー。
琥珀色の目と、ピースリングの首飾り。
「かわいいツラしてかわいげのねえやつだぜ」
「残念ながらね」
シオンの弟にしてハンターズ『グラティスアレンザ』を率いるブラッキー、ローレルだ。
ドタイトスは蔓で巨大なスプーンを操り、ローレルが両前足と口で広げて持った紙袋に、がさがさとラズベリーを入れた。
「まいどあり。ちょっとオマケしといてやるぜ」
袋を計りに乗せたあと、ローレルがディルを払ってから、ドタイトスはそう言って少し継ぎ足した。
「わ、ありがと」
「まあお得意様ってヤツだしよ……ところでそこのフーディンのオッサン。何も買わねえなら邪魔なんだがな」
「あ、ああ……その林檎を一つ貰おうか」
成り行きで林檎を購入したあと、慌ててローレルの後を追った。
「君……! 待ってくれないか!」
「むゅ?」
早速袋の中身をつまんでいたのか、口に物を入れているせいで奇妙な声を出してしまったようだ。この辺のある種無神経なところも彼にそっくりである。
「――えふん。これはお見苦しいところを。俺に何か用ですか?」
「うむ」
思わぬところで二つの依頼が一つになった。偶然とは恐ろしいものだ。
ともあれ、シオンから受けた依頼のことは内密にしておかねばなるまい。
「君が猟奇殺人犯を追っているハンターのリーダーだね?」
「……へ? ハンター?」
「私は怪しい者ではない。君達と同じく殺人犯を追っている。探偵だ」
「探偵……」
ローレルは思い当たる節でもあったのか、表情を変えた。瞬時にして、少年から大人の目つきになった。
「……ついてきてください」
◇
ブラッキー――ローレルに導かれるまま市場を離れ、貸家街の入り組んだ路地を何度も曲がった末に、たどり着いたのは二階建ての小さなマンションだった。
「ここで待っててくれませんか? 仲間と少し相談することがあるので」
ローレルはそう言って階段を上っていった。
ハリーを信用するか否かという問題を話し合うのだろうか。もし信用できないという結論に達したら……素直についてきて良かったのか?
だがしかし、ここまで来て逃げるのも馬鹿げている。アジトらしきマンションまで連れてきたということはそれなりに信用されたのではないか。
待つこと数分、ローレルが階段を下りてきた。
「入って下さい」
やはり杞憂だったようだ。
ハリーはローレルについて階段を上がり、マンションの一室に通された。
広くはないが狭くもない、台所を含めて部屋が三つあるだけの簡素な造りだった。
「お前が例の探偵野郎か……」
そこにいたのは、首の毛を黒染めにしたルカリオだった。染め方が雑なのか故意なのかは不明だが、メッシュ状に染め残した部分がある。遠巻きに見ただけでは奇抜な印象を受けるが、このルードという
「例の、とは? 以前より私を知っていたのか?」
「名前は知らねェけどな。ケンティフォリア歓楽街のトップ、ビオラセアとかいう牝豚が探偵雇って殺人鬼を追ってるってよ」
「君たちは別口で雇われたそうだな」
ハリーが同じく情報を握っていることを示すと、ルードは苦い顔をした。内密であったはずが、ハリーの耳に入っているのだ。ビオラセアにまで伝わっているとしたら、彼らの依頼は失敗という事になる。
「心配は要らん。ビオラセアにはまだ話していない」
「そうか。話してたら首がなくなってたぜオッサン」
どうやら今すぐハリーをどうこうする話にはならないみたいだ。
「ルードっ。また失礼なコトを……ごめんなさい探偵さん」
ローレルがハリーの後ろからルードを注意した。シオンによるとローレルは十七歳だそうだが、リーダーというだけあってルードより立場も力も上なのか。
ルードは見るからに難しい事は考えられそうにないし、上下関係がそのまま力関係を表していそうだ。
「そういえばお名前、まだお聞きしていませんでしたね。俺はローレル、あっちはルードっていいます」
「ハリー・ディテックだ」
ハンターとは思えない丁寧な物腰だった。どうもハンターというと荒々しいイメージが先行してしまうのだが、これは認識を改めねばなるまい。今回の件だって、任務内容こそ抹殺だが対象は殺人犯で、これを国の秩序を破壊する行為だとするのは無理がある。保安隊にいた頃、私は知っているつもりで何も知らなかったのではなかろうか。
「ハリーさんですね。よろしく。とりあえずソファにでも腰掛けてください。俺は床でもあんまり変わらないんで……ルード、悪いけどとりあえずお茶でも出してくれない?」
「はあ? 何でオレが」
言いつつも、ルードは立ち上がってキッチンに向かった。ローレルと話しているところを見ると、第一印象とは随分違う
「それでハリーさん。要件を聞かせてもらえますか」
「うむ。殺人犯の正体に見当がついたのだが、何せ相手は化物のような殺人鬼だ。そこで同じく殺人鬼を追っているハンターの情報を耳にして、接触しようと思ったわけだ」
「なるほど……しかしその情報といい俺があそこの常連だってことといいどこで知ったんですか?」
「探偵というものはね、人脈が命なのさ。知り合いが多ければそれだけ得られる情報も多いだろう?」
「……答えになってませんよね、それ」
「すまないが教えられん。自分の信用した者にしか情報を提供しない牡でな」
ローレルは思い当たる節でもあるのか、首を捻って不可解な顔を見せたが、すぐに頭を下げた。
「ごめんなさい、つかぬ事をお聞きしました」
「いや、君が謝ることではない。当然の疑問だ」
「ほら、茶淹れたぞオッサン」
と、ルードがぶっきらぼうな言葉遣いと動作でティーカップを置いた。ローレルは深めの皿に入れたミルクだった。
「どうも」
「なんで俺はミルクなんだよ?」
「紅茶は苦くて飲めないとか言ったのは誰だよ。お仔様はミルクで十分だろ」
「き、客の前で言うなよ!」
ローレルが怒りに声を荒げるのを見て、少し安心した。仔供みたいなところもまだ残っていたのだな、と。
「ハハ、仲が良いことだな」
「ち、違いますよ、ルードが勝手に……」
「つーわけでだ。ハリーとかいったな。正直お前、猟奇殺人犯との単純な戦闘力の差で行き詰まったんだろ? 頭でっかちでは勝てねェってな。そこでオレ達の力を借りようってか」
「スルーしないでよっ」
このルードという
「うむ……そのような言い方では元も子もないが、まさに君の言う通りだ。もちろんタダでとは言わない。私の得た情報と推理をお聞かせしよう」
「ハリーさんまで……」
「生憎とこっちは情報には不自由してねェんだ。なあローレル」
「俺は紅茶も飲めるんだからね、砂糖の入ったミルクティーなら……」
「真面目モードに戻れボケ」
「……わかったよ。ええと、確かにキアラがいるから情報には不自由しないけど――」
キアラ?
フローゼルの牝性だったと記憶している。
情報を得る手段が、そのキアラだと?
もしやあの時のアレは……
「――推理ってのは聞いても損はないと思うよ」
「ごちゃごちゃ考えて何になるってんだ? 殺人鬼が今でもまだ殺しまくってるんだからよ。張り込んでりゃそのうち当たるって」
「それでこの前ハズレだったじゃない」
「あれはタイミングが遅かっただけだろうが。つかあの牝の事思い出させんじゃねェ。このオレが手も足も出ねェなんて、ああッ、思い出しただけでも胸糞が悪くなる!」
グワッシャン! 床をぶっ叩いた音が凄まじかった。腕だけでなんて力だ。
ところでそんな事をすれば、下の住人に迷惑がかかるんじゃないのか。
「だが、いつか超えてやるぜオレは」
「その前に兄ちゃんも倒さないとね? あの孔雀とかいうサーナイト、どう考えても兄ちゃんより上だったでしょ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君たちは張り込んでいて孔雀に会ったのか?」
「はい。トドゼルガの時でした。殺人現場に駆けつけたら彼女が佇んでいたんです」
殺人現場に、孔雀が? 一体何の目的で。
「その時は逃げられたんですけど、後日六匹で襲撃しました。結果は惨敗でしたが……しかも彼女は犯人ではないと言うんです」
「主にローレルが同じ失敗を繰り返したのが原因だけどね」
急に入り口の方から声がした。
見ると、
「ノックぐらいしねェか。オレの家だぞ」
「ああ、ごめんなさい。つい自分の家感覚で」
キアラは鞄を置いて、ハリーに微笑みかけてきた。
「あら、こんにちは……どこかで会ったかしら」
「まさかとは思っていたがな。私はハリー・ディテック。探偵だ。君と会ったのはこれで二回目だな。一回目は、そう……情報屋の前だ」
「あ、あの時の!」
ハリーたちの会話に、ローレルとルードは目を見合わせた。
「知り合いだったの?」
「たまたま会っただけよ。同じ情報屋の客としてね」
「そういうことだ。どうやら情報交換はさほど意味がなさそうだな」
アスペルが、ハンターとも繋がっていたとは。
しかし今ならわかる。ハリーがハンターに対して持っていたイメージはあまりにも固定された観念だったということを。アスペルが彼らを信用し情報を提供していることも。
「それで、どうして探偵がうちに? 探偵って例の探偵さん?」
ローレルがキアラに事の顛末を説明する。
聞き終わると、キアラはハリーに厳しい視線を向けてきた。
「正直に言うわ。今の状況だと、貴方は足枷にしかならない。一方的な協力はできないわね」
「やはりそうか。君の言う通り、私はもはやただのオッサンだ。賢明な判断だと言わざるを得まい」
「でもさキアラ。推理を聞かせてもらって犯人の目星がつけば俺たちもやりやすくなるでしょ。タイプ相性を合わせるとか」
「その代償が彼を守りながらの張り込みでは費用対効果が悪すぎるでしょう。殺人鬼の正体なんて現場を目撃したら分かることじゃないの」
同じ情報源を持つとなれば、こちらから彼らに提供できるのはこの頭脳のみだ。だが、今回の件に関して言えばその頭脳も不必要ときた。キアラの言っていることはまったくの正論だ。
「うーん……」
「オレは取引してもいいと思うぜ」
救いの船を出してくれたのはルードだった。
「この探偵野郎が死のうが生きようがオレ達には関係ねェ。オレ達の後に隠れてるのはオッサンの勝手だがな。空気だと思って戦えばいいだけの話じゃねェか」
暴論に近いが、ハリーには十分すぎる条件だった。
「私はそれで構わん。守りに徹すれば自分の身くらい守れるよ。あの孔雀と戦ってヒゲ片方で済んだ牡だぞ」
最後のは軽いジョークのつもりだったのだが、ローレルとルードは真剣な顔つきで目を見開いた。
「嘘でしょ……? 俺だって耳片方斬られちゃったし、ルードなんか素手でボコボコにされてましたよ?」
「うるせェ」
「いや、私は運が良かっただけだ。あと一分戦闘が続いていたら確実に死んでいた」
「それは私達も同じよ。しかも六対一でね」
キアラもしきりに頷いている。
しかし、あれだけで納得してしまうとは。グラティス・アレンザにとって孔雀はそれほどに強大な存在なのか。
「よし、そうと決まれば残りの皆を呼びますね。夜の張り込みのためにまだ寝てるかもしれないけど」
「オレがぶっ叩き起こしに行ってやるぜ」
「や、べつにそこまでしなくても。今日の張り込みは中止して、ハリーさんの話を聞いて作戦を立てようよ」
「それがいいわね」
かくして、ハリーはハンターズ『グラティス・アレンザ』と手を組むことになった。
少なくとも今回の殺人鬼の一件では同志として。
シオンに受けた依頼のことが脳裏を
◇
「ぅ……ううん」
どれくらい寝ていたのだろう。妙に瞼が重くて、目が開けられない。開けたくない。もっとずっと眠っていたい。
「シオンさま? お目覚めになられましたか?」
いいえ。
「シーオーンーさーまー」
相変わらずはきはきと明るい声だ。意識が引きずり上げられる。
目覚めたくないのに。
「いけませんよー。これ以上眠り続けると死んじゃいますよ~」
いいえ。
「いいえではありません。シオンさま、もう丸二十日何も食べていらっしゃらないのですよー」
「ふぇえっ!?」
衝撃の事実を伝えられて、跳ね起きた。
ここは……僕の部屋?
「あ、孔雀さん……おはよ」
「おはようございますシオンさま。といってももうお昼ですが」
見ると、パンやら肉料理やらスープやらがダイニングワゴンに乗せてあった。
食事を運んできてくれたらしい。
「あの、僕……二十日も寝てたの?」
「ふふ、冗談ですよ。いくらお休みだからってお昼の時間まで寝ているのはどうかと思いまして。いけませんよ、こんな生活してちゃ」
「あ、はい……ごめんなさい……」
だって体が重くて、首を起こすだけで精一杯なんだもの。
――何か忘れてはいないだろうか。
「でも、日々つらーいお仕事に従事されていますものね。お咎めするのも少し酷というものかもしれません」
孔雀は
「毎日の疲れが蓄積して起きられないのでしょう? 今日は前足のツメ一本動かさなくても生活できるようにわたしがサポートして差し上げますから。はい、あーん」
ベッドに腰掛けた孔雀が、木製スプーンでスープをすくって口に運んでくれた。
起きられないのは事実だし、誰かに見られてるわけでもなし、ちょっと恥ずかしいけど拒否する理由もなかった。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
でも、明らかにヘンだ。
孔雀さんはこの流れが当たり前であるかのように取り繕っているけど。
ハーブチキンをナイフで切り分けて、その一切れをフォークで挿した。陽州では箸とかいう二本の棒を使うのが一般的で、ナイフやフォークはあまり使われないのだが、孔雀は器用に使いこなしている。それを言ったら、エスパータイプでもないのにナイフやフォークをそつなく扱えるフィオーナだってかなり器用だ。四足歩行のポケモンはその必要にかられない限りは好んで道具は使わない。機術の発達とともにそんなことも言ってられなくなってはきたが、少なくとも一般庶民レベルでは料理に直接口をつけてもマナーには反しない。
孔雀はときどきシオンの体勢にも気を使ってクッションの位置を調整しながら、早すぎず遅すぎないペースで料理を口に運んでくれた。何も言わないのに、こちらが食べたい順に回してくれたり、飲み物がほしいと思った瞬間にストローを口に持ってきてくれたりと、本当に体を動かす必要がなかった。最後にナプキンで口を拭くのも丁寧で、いっそ自分
「ごちそうさま。ありがと」
「いえいえ。こんな時くらいしかシオンさまに付きっきりでいられませんから」
それって僕の体調がすぐれないとき?
孔雀はクッションをそっと外して、シオンの首を下ろして寝かせてくれた。
「それでは食器を片づけて参りますので、少しの間お待ちくださいね」
「あ、うん」
もう眠くはなくなったけど、相変わらず体がだるくて動きたくない。
でも孔雀がいれば食事の世話はしてくれるし、喉が渇いたらすぐ何か持ってきてくれるだろう。しかもほとんど先読みで行動してくれるから本当に何もせずに全自動生活ができてしまう。その上、孔雀なら話し相手としては退屈しない。
――なんか体
いいや。どうせ明日からまた訓練だし。
「お待たせしましたー」
「早っ」
いつもそうだが、孔雀のハウスワークをこなす速度は異常だ。なおかつ雑でもなく、それどころか丁寧で、使用人スキルは神の域に達していると言ってもいい。
「うふふ。できるだけ長く、シオンさまのお側にいたいからですよ」
「それはうれしいな」
「光栄です」
孔雀がシオンの傍らに腰掛けるとベッドが少し軋んだ。
「何なりとお申しつけくださいな」
優しい手つきでシオンの頭を撫でながら微笑んだ。
「じゃあ、退屈しのぎに話し相手になってくれる?」
「もちろんです」
もう考えるだけ損に思えてきた。今日は孔雀さんと
「ときにシオンさま、話し上手な女性と聞き上手な女性、どちらが好みですか?」
両方、ってのは欲張りか。
でも今は自分で話題を探すのも億劫だし、孔雀さんに話してもらおう。
「話し上手なひとかな」
「かしこまりました。それでは何をお話ししましょう?」
「そうだなぁ……あ、孔雀さんってなんか謎多いよね。身の上話でも聞かせてくれたら楽しめそう」
「わたしの身の上話ですか? そのようなつまらないものでよろしければいくらでも……しかし、どこからお話しすればよろしいのでしょう」
孔雀は丸い顎に手を当てて、思案する素振りを見せた。
「そうですね、まずはフィオーナさまとの出会いの経緯などいかがでしょう」
「うん」
祈るように目を閉じた孔雀は、ゆっくりと口を開いた。
「わたしはシオンさまもご存知の通り、極東の島国陽州で生まれました。そこからランナベールに来るまでの経緯もまた複雑ではあるのですが、話すと長くなってしまうので又の機会に」
シオンも目を閉じて、耳だけを働かせることにした。
「あれは三年くらい前のこと――――」
孔雀さんが語り始める。フィオーナとの出会い。なんでも、ひょんなことからフィオーナの危機を救って、孔雀さんは仕事を探していて、フィオーナが雇うことになって――話がきちんと入ってこなくて、シオンの頭でなんとなく把握できたのはそれまでだった。
「うーん、やはり退屈でしたか?」
「や、そんなコトはないんだけど、やっぱり眠くて……ごめん」
「仕方ありませんねー」
孔雀の右手が、すっとシオンの首の下に入れられた。
「ときに今、わたしには欲しいものが一つあるのですが」
左手は腰の下に。
「孔雀さん……」
そこからは目にも止まらぬ早業。孔雀はベッドに座ったまま、シオンを胸に抱く姿勢になった。
「目を閉じてください、シオンさま」
彼女の朱い目に覗かれると頭がくらくらして顔が熱くなって、何も考えられなくなる。
僕は今、どんな顔をしてる……?
きっとフィオーナが見たら怒るだろうな。
怒る? もしかしたら、怒るよりも――
不安に押しつぶされそうで、今にも泣き出しそうな、今まで目にしたことがないはずのフィオーナのそんな顔が浮かんだ。
なされるがままに目を閉じてしまいそうになったのと、ドアが内側に吹っ飛んだのとはほぼ同時だった。
「姉さんっ! 図に乗るのにもほどがあります!」
その声は細いけれど鋭く、威圧感があった。そんな声の持ち主を、シオンは知らない。
入り口のところに立っている
「あら、橄欖ちゃん……今はシオンさまと顔を合わせてはダメだとあれほど言ったじゃないの」
「どの口で言いますか! そんなものは口実で本当はシオンさまと二匹きりになって悪戯しようと企んでいたのでしょう」
どうして忘れていたんだろう。
この空間が何か現実離れした、夢幻のような雰囲気に包まれていたのは。
「うふふっ、さすがは我が妹。全てお見通しですか」
「妹でなくともこの状況を見ればわかります。今すぐシオンさまを離してください」
橄欖の存在が、頭の片隅にすら残らず消えてしまっていたからだ。理由は分からない。
ただ、いつもの橄欖とは違っていた。いつも大人しいポケモンの方が怒ると怖いというが、孔雀を睨みつける橄欖の目はフィオーナに勝るとも劣らぬ迫力がある――ように見える。
「仕方ありませんねー」
孔雀はため息をついてシオンをベッドに寝かせ、丁寧に布団を掛けてくれた。
「申し訳ありません……わたしがしっかりしていれば……」
橄欖が駆け寄ってきて、ベッドの上のシオンに何度も頭を下げた。いつもの橄欖に戻っていた。
「や、いいよべつに……元はといえば、昼まで寝てる僕が悪いんだからさ。しかも疲労でろくに動けないみたいで」
説明すると、橄欖がきょとんとした顔で見つめ返してきて、次いで孔雀を見た。孔雀は無言で頷き、にっこりと微笑みを返した。
「いえ……シオンさまに非はございません。今日はお休みの日ですし……お疲れでしたら……ご無理をなさらず……ゆっくりお休みになってください……わたしと姉さんが……できうるかぎりのお世話をいたしますので……」
もちろん孔雀さんでもいいんだけど、やっぱり主人とメイドの絆を深めているのは橄欖の方だから。
「……ありがとうございます」
「だから心読まないでってば。口にするのが恥ずかしいから心の声で言ってるのにっ」
「心ではなく……」
そう言って微笑んだ、そう、微笑んだ橄欖の表情は、姉に負けず劣らず、ほんとうに華のようだった。
「……感情です」
初めてだ。少なくとも、シオンの前では。
――橄欖が、笑った。
◇
「あっちよ!」
「今度こそ逃がさねェ」
断末魔の叫びすらもない。
ただ派手すぎる、歓楽街の喧騒など吹き飛ばしてしまいそうなほどの切断音、破砕音が響き渡った。それが、殺人鬼の出現と新たな犠牲者が出たしるしだった。
「くっ、できれば犠牲者が出る前に発見して取り押さえたかったがな!」
「今は言っても仕方ねェよオッサン、足動かせ! 遅いのはてめ……え?」
ハリーは急加速してルードとキアラに追いつき、追い越した。
「フーディンの足の速さを舐めてもらっては困るよ」
スプーンを二本とも後ろに向け、斜め後方の地面をダブルサイケ光線で叩く。
両手が後ろで体は前のめり、トリの走り方に似ているとか、早い話がジャンプの連続で見た目がアレだとか、地面を破壊してしまうとか、現場から遠ざかるべく逃げてくる通行
「ヘッ。キアラ、本気で走っても大丈夫そうだぜ!」
「若い私達が負けてられないものね」
若いとはいいものだ。このような逼迫した状況下でも、彼らはそれをある種楽しみに変えてしまっているかのようで。
彼らといると私もまるで十五年若返った気分だ。
だが、冷静さは失わない。
路地裏に入り、次の角を曲がれば凄惨な光景が広がっているであろう場所で、立ち止まった。
「キアラ君、この辺りで準備を頼む!」
「了解」
「あとは任せたぞ、ルード君!」
「オッサンが仕切ってんじゃねェ!」
毒づきながらも、ルードは狭い路地を走ってゆき、角の向こうへ消えた。
キアラはその間に氷の
ハリーは
「上だぜ!」
ルードの合図通り、路地裏の空間からほぼ真上、一階建ての建物の上へ飛び出した影へ、キアラが口から放射した吹雪が襲い掛かった。
「ぐっ、待ち伏せかっ――!」
殺人鬼の体は瞬く間に真っ白い霜に覆われ、
路地裏に落下したのを確認して、ハリーはサイケ光線を空へと放つ。
別行動のローレル達が駆けつけてくるまでどれくらいかかるかはわからないが、どちらにしても保安隊が出てくる前に決着をつけねばなるまい。
ハリーとキアラは路地裏の空間へと飛び込んだ。
ハリー達が入った細い通路以外は四方を兵と建物に囲まれた空間だった。
被害者は若いカメールの牡。胴体の部分で甲羅ごと真っ二つにされた死体の口のそばに落ちている小さな革袋から、鮮やかなオレンジ色の錠剤が零れていた。この国に特定の薬品を取り締まる法はないが、闇市を取り仕切るグループがある。このような場所で隠れて取引をするのは、大抵闇市のピンハネを避けて売り買いする者だ。
ハリー達の踏み入った反対の角に、氷づけになった殺人鬼が倒れていた。
「やはりお前だったなツェシー。一度は騙されたよ。死んだものとばかり思っていた」
「お前は……あの喫茶店で会った探偵……」
「私を欺くためだけに罪のないストライクを殺し、あの崖の下に仕込んでいたのだろう。間近で、あるいは長時間見ていればあのストライクがお前ではないことはわかったはずだ。だが、直前までお前を追っていた者が崖の上からあの光景を見れば誰でもあれがツェシーだと思い込む。そうして事実を確かめる前に岩雪崩で証拠を隠滅した。私はまんまと利用されたわけだ。お前の死の証人としてな」
地面に伏せった傷だらけの緑色の体に、波導弾を宿らせたルードの右前足がポイントされている。
「だがツェシー、お前の思惑もここで――」
「オッサン、御託は死んでから好きなだけ聞かせてやれ」
有無を言わせぬ口調だった。至近距離で放たれた波導弾がツェシーの体を――
「うがぁああッ!」
バキン、と様々な物が砕ける音がした。
それは氷だったり、ツェシーの外骨格だったり、左のカマだったり。
「なっ――!」
なんと、ツェシーは片方の前足と引き換えに波導弾を弾き返したのだ。氷づけになった前足を無理に動かしたせいで、奴の左前足は砕け、もはや使い物にならない。
それどころか、ツェシーは跳ねるように立ち上がった。
「神経はまだ繋がってるか……っと!」
さらに続けて、先程と同じ音が響く。力ずくで右の鎌の氷づけを解くと同時に、そのまま一番近くにいたルードへ斬りかかった、というよりは鎌を叩きつけた。
ルードは咄嗟にバックステップでこれを躱したが、地面が弾け、
「嘘でしょ? あんな事をしたら自分の体が……!」
地面を砕いた瞬間、その衝撃でツェシーの肩は明らかに可動範囲を超えて曲がっていた。
「貴様ら並のポケモンごときが、調子に乗るなよ!」
おまけに、声も口調もまるで別人のごとく変貌している。
「そろそろこの体も限界だ。次の体を探す前に、貴様ら三匹と心中してやろう」
波導弾から身を守ったのはともかく、その後の反撃は死を覚悟したからとてできるものではない。だが、ツェシーが常識の範疇を完全に超えてしまっていることはもはや認めないわけにはいくまい。今のツェシーは、例え残った鎌を失おうとも、意思ある限り体当たりででもハリー達を殺そうとするだろう。
生命活動を完全に止めない限り、ハリー達に勝利はない。
「まずは貴様からだ」
奴の体に纏うは、神秘の
ツェシーの体を包んだ光が奴の体に吸い込まれたかと思いきや、瞬時に距離を詰めてきた。
銀のスプーンが弾き飛ばされ、ハリーは大きくのけ反った。向かって左からハリーの首を狙って振るわれた鎌を十字の形に構えた二本のスプーンで受け止めたのだが、あまりの膂力に押さえ切れなかった。
しかし相手も無事では済むまい。エスパー技の『高速移動』を使って全体重を乗せた一撃と、全精力を防御に傾け念力を用いて補強した銀のスプーンの衝突。
これまでの所業が祟って痛んでいたのもあってか、ストライクの鎌が半ばから折れ飛んでしまったのは必然の結果だった。
硬質の鎌が大きく欠けた左前肢に、半ばから折れて半分の長さになった右前肢。凍って飛行できない翅。満身創痍、と言っても過言ではない。
それでも奴は攻撃をやめなかった。
痛がる素振りすら見せず、半分になった右の鎌を振りかぶり、再度こちらへ突進してきたのだ。
咄嗟に
だが、それで稼いだコンマ一秒は無駄ではなかった。
ハリーの右手からルードが"神速"のタックルをツェシーに炸裂させ、左手の塀に叩きつけた。
「どこ狙ってんだ? この俺を差し置いてオッサンを狙うってお前、舐めてんのか?」
「はぁッ!」
気合いの一声、キアラが両前足を突き出すと、水の流れが発生してツェシーの周りで竜巻のように回転し始めた。
「ルード、ハリー! 私が渦潮で動きを止めている間にお願い!」
「くッ……」
「やるぞオッサン!」
「私は空気ではなかったのかね!」
ルードは闘気の
水と空気、水流と暴風の織り成す渦に飲まれたツェシーは体を浮かされて、なされるがまま回転するしかない。
ハリーのスプーンが虹色のマーブル色に染まり、発射準備の整ったことを知らせる。
ルードの波導弾も、今やハリーの頭部ほどの大きさへと成長していた。
互いに目で合図を交わし、弾速の差を考慮して先にルードが波導弾を、続いてハリーがサイケ光線を発射した。
「ぐぎぎぎがご――があぁぁああああああっ……!」
これで終わりだ。
その場にいた誰もがそう思った。
同時のタイミングで渦潮に吸い込まれたサイケ光線と波導弾が虹色と青紫の爆炎を上げ、轟音が空気を震わせる。ハリーのところまで爆風が吹きつけ、肩掛け鞄とヒゲが後ろに靡いた。
その爆風に乗って奴が飛んでこようとは。
「ふぐぁッ――!」
胸に鈍い痛みが走り、同時に背中を強打して息が詰まった。
何が起こったのか瞬時には理解できなかった。星空を視認してようやく、突き倒されたのだと知る。胸からは出血――斬られたか。咄嗟に体を捻ったのと、奴の鎌がもはや原形を留めていなかったお陰で急所は外れたようだが、息を吸い込むと胸が激しく痛んだ。肋骨を何本か持って行かれたらしい。爆風で加速した突進の破壊力は凄まじかった。下手をすればそこに倒れているカメール
「ハリー!」
刹那、水の噴射音とともに飛来した何かに体を持ち上げられ、空間の隅へと運ばれた。
「つっ……」
胸が痛んだが、今の今までハリーの倒れていた場所の地面の末路を考えれば軽い痛みだった。
コンクリートと共に奴の残った前足は砕け、右後肢はついには関節ではないところで折れ曲がっている。一部が刔れて半分の太さになってしまった左後肢一本で、ツェシーは辛うじて立っていた。
辛うじて立っている、だと。生きているだけでも不思議なくらいなのに。
「大丈夫?」
キアラがアクアジェットで救出してくれたようだ。
「ああ、何とかな……」
「オッサンは大人しく自己再生でもしてろ!」
ルードが叫びながら、奴の左後肢を完全に叩き折るべくローキックを繰り出した。
ツェシーは避けなかった。それどころか、ルードの攻撃を受けずして、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
そう、ここでついに力尽きた。
もしそうであったなら、どれだけ良かっただろうか。
ツェシーの体から魂が――
魂というものが存在し、また視認できるならばまさしくこんな感じであるに違いない。
――ツェシーの全身から金色の光が帯状に溢れ出して、宙の一点に集まってゆく。
いや、光ではない。あれは……刺のある蔓。蔓が光っているのだ。
絡み合い、球状になった光る蔓は次第に形を成し、ポケモンらしき姿へと変わってゆく。それは成長のある一点で進化が起こるときの様子に似ていた。
蔓が互いに融合し、蔓の様相を失うにつれ徐々に光量がしぼられ、シルエットが明らかになってゆく。
そのポケモンが両腕を胸の前で交差させ、胸を張るように左右に開いた瞬間、進化の完了を告げるのと同じ、フラッシュのごとく強烈な光が放たれ、あまりの眩しさにハリーは思わず目を閉じた。
そして目を開けると、そこには。
一面に舞い落ちてくる漆黒の花弁。
その中心に、ポケモンが立っていた。
左右の腕に黒と紫の薔薇を咲かせた、色違いのロゼリアが。
◇
「ふ、僕がまさかこの姿をさらけ出すことになるとは……」
しかも、仔供だった。
十代前半くらいのロゼリアの少年だ。
黒と紫の薔薇は、その小さな体には不釣り合いなほど大きな大輪咲きだった。
「僕の
そうか。自分の体ではなかったから、あれだけの無茶ができた。彼にとってはツェシーなど使い捨ての
納得しつつも、寄生木の種を利用してそんな離れ業をやってのけることができるなど到底信じられなかったが。
舞い散る花弁が、年齢にそぐわない喋り方の彼を、舞台上の役者に見せていた。ハリーもルードもキアラも、その圧倒的な存在感に動くことはおろか言葉を発することもできず観客と化すしかない。この閉じた空間は、血塗られた劇場だった。
「特に貴様だ」
ハリーに漆黒の薔薇を向ける動作も華麗な演技のようで。
「ハリーとかいったな。忌ま忌ましい、この僕がたかが探偵ごときの名を覚えてしまったではないか。あの変態の時も、今回の殺人愛好庭師の件も」
あの変態……?
記憶を検索するのに時間はかからなかった。
ジュカインのナイリルから飛び出した光と、先程の光。あまりにも突発的な、自らの欲求を満たすためだけの連続事件。それらの類似性。寄生木の種。今回は自らが宿り主。
「……思い出したようだな」
「あれもお前の仕業だというのか? だが寄生木の種とは本来体力を奪って自らの養分とする技のはずだ」
「一般人と一緒にしてもらっては困る。何代にも渡りチカラを蓄えてきた、
その何代にも渡り蓄えたチカラとやらはたかが庶民ごときに二度も破られたのではないのか、という突っ込みは控えておいた。傷を負ったこの状況ではそんな余裕はない。
「ヘッ、カクだかコケだかフケしらねーけどよォ」
声は通路の入口からだった。
「うっとうしいから灰になりやがれってんだ!」
リザードのセキイが、現れるなりロゼリアに火炎放射を仕掛けた。
「……ただの不良に用はない」
ロゼリアは弱点である炎が迫り来るのにも動じることなく。
左手の黒薔薇を地面に向けたかと思うと、何かの反作用を利用して飛び上がった。何の技だったのかまでは、発動が早過ぎて確認できなかった。
「そもそも僕は貴様ら掃き溜めのポケモンと遊ぶためにランナベールくんだりまで来たわけではない」
空中で高く掲げられた右手の濃紫色の薔薇から、同色の毒々しい光が吹き出して渦巻く。
「だが、僕の邪魔をするなら排除するまでだ」
「セキイ、危ない!」
ローレルが縺れ合うような体当たりでセキイをその場から遠ざけていなかったら。
投げつけられたヘドロ爆弾の直撃を受けて骨まで溶かされていたかもしれない。爆発の規模は小さく、破壊力が圧縮されていた。地面が、壁が、煙を上げて溶けている。
「まだいたのか。後ろにも二匹隠れているな。全部で七匹、か」
ロゼリアはふわふわと落下してきて、音を立てずに着地した。
「ハリーさん、大丈夫ですか?」
セキイを守ったのもそこそこに、ローレルがハリーの所に駆け寄ってきた。
「ああ……動ける程度には自己再生した」
答えて立ち上がる。ローレルは頷き、ロゼリアの方に向き直った。
「やっと揃ったわね。正直どうしようかと思っていたわよ」
ローレルとキアラがハリーの前に出て、他の面々はひとまず壁を背にロゼリアを取り囲む格好になった。
「タイマン張りたかったが仕方ねェな。同じ失敗はしねェ」
「ぶるぶる」
「恐れを口に出す阿呆がいるか。だから貴様は馬鹿だというのだメント。俺のように泰然自若と構えていろッ」
そう言うロスティリーの位置取りは壁に張り付くほど後ろで、足はガクガク震えて膝が笑っているが、突っ込んでいる余裕はない。
「あそこに倒れてるストライクが犯人だったんじゃないの?」
「そうだけど、
しかし、合流したローレルたちも動けずにいた。こちらが一匹二匹の死を厭わずに戦えるなら多対一の有利を存分に引き出せるのだが、ハリーはもちろんのことローレル達にとっても、これは明日を生きるための戦いなのだ。
グラティスアレンザに協力を要請した夜、ローレルは言っていた。死の覚悟もなしに囮になろうなんて考えたら失敗すると。今の我々には、戦って死ぬ義理も理由もない。
それにしても何だこのバトル展開は。
自ら飛び込んだとはいえ、私の得意とする領域ではないというに。
◇
「どうした? 取り囲むだけ取り囲んでおいて仕掛ける勇気もないのか」
囲んでいるからこそ何もできない、というのもある。遠距離攻撃は躱されると反対側にいる者に当たってしまう可能性があり、迂闊には撃てない。
しかし動けないのは向こうも同じ。一方に動けば他方に背を向けることになるし、かといって下手に空中にでも跳ぼうものなら集中砲火を浴びること必至だ。しかも今度は自分の体だ。もう使い捨てはできない。
なら、跳ばせばいい。
ロゼリアに悟られぬよう小声でローレルに伝えた。
「ローレル。私が足元を狙う。跳んだ所を全員で頼む」
「オッケー。俺が動けばみんなちゃんと反応してくれますよ」
タイミングが重要だ。弾かれては困る。咄嗟に跳ぶしかないような、反応できないタイミングで。
だが、ロゼリアは隙を見せまいともう口を開くことすらしない。
膠着状態。
保安隊の足音はまだ聞こえないが、双方とも保安隊を怖がるような者達ではない。
勝負を急いでいるのはハリーだけだ。
最速で銅のスプーンを引き抜いて飛ばせば何とかなるのではないか。何度かそんな考えが頭を過ぎっては否定された。保安隊は気づいていないのでは。いや、ケンティフォリア歓楽街の巡回は増員しているはずだ。この辺りから逃げ去った者の会話がいずれ隊員の耳に入り、駆けつけてくるだろう。
刹那の出来事だった。
ロゼリアが腕を振り上げて小さな何かを弾き飛ばした。
「なっ……?」
それが何だったのか、何故誰もいないはずの上空から飛来したのかは知らない。だが、この機会を逃す手はなかった。
ハリーはロゼリアが振り上げた腕を下ろすまでの一瞬で銅のスプーンを引き抜き、
「ちっ……!」
果たして、ロゼリアはスプーンを回避すべく跳躍した。が、垂直跳びではなく後方だ。高さが足りない。
ハリーとて相手がそこまで浅はかだとは思っていなかった。立て続けに発射した二本目が再度ロゼリアの足元を襲う。
すぐ後ろにはルードがいる。それ以上は下がれない。空中に逃げる一手だ。
この間に準備にかかっていたのか、ローレルが"手助け"*2を発動した。ローレルの体から霧のような光が四散し、仲間たちに吸収される。合図としては最良の選択だ。
仲間達も痺れを切らしたかのように、宙へと逃げたロゼリアに一斉に攻撃を浴びせた。
セキイの火炎放射。キアラの
「しまっ――」
空中のロゼリアに回避行動は取れない。
「――た、なんてな」
「何?」
ロゼリアが両腕を後ろに回すのが見えた。
次の瞬間、様々なタイプの技が一点で炸裂。混ざり合う爆炎と爆風、真空の刃が空気を裂く音、ジェット噴射の如き水流が弾ける音が、大音量でド派手な不協和音を奏でた。
「やったか……?」
凄まじい攻撃だった。ローレルやルードは若干飛び出しているものの、個々の能力はそこまでではない。だが、一致団結した時の強さ、ピッタリと息の合った戦いぶりは味方のハリーでさえ恐ろしく感じるほどだった。
跡形も残らなかったのか。直撃すれば小さなロゼリアの体など散り散りになってしまう。それほどの攻撃だった。
「――やっていない」
「むっ?」
煙が晴れた時、奴の体は存在していた。
何事もなかったかのように四階建ての建物の屋上の縁に立っていた。
「躱されたか……いや」
よく見ると、腕先の薔薇や体の一部が少し焦げている。
「自分の体を傷つけられたのは久しぶりだ」
その声は怒気を孕んでいたが、視線はハリー達ではなく空の上に向けられていた。
「どこに隠れた? まさかもう一匹いたとは思わなかったぞ」
ハリーがスプーンを発射する前にロゼリアがはたき落とした何か。ロゼリアに隙を作り、攻撃の突破口を開いた何者か。
「いや……お前か? ハリー。未来予知でもしていたか」
ロゼリアの視線がこちらに向けられた。未来予知。ごく近い未来を予見し、予め敵の移動する場所に攻撃を置いておく技だ。
先の攻撃は私の未来予知ではない。が。
「さあな。生憎とこちらには手の内を明かす余裕はないのでね」
私を警戒するように仕向けておいて損はない。第三者がまだどこかに潜んでいるのなら尚更のこと。
未来予知は時間差攻撃として使えるが、先の未来であるほど的中率は下がる。ハリー達がここへ来る前に予知していた者がいるとは考えにくいし、奴が弾いた物からはESPの波導はまったく感じられなかった。
「まあ、どちらでも良い。あんな攻撃では致命傷にはならん。貴様らの一斉攻撃も恐るるに足らずとあらば、ハリー。貴様の言葉を借りれば、僕にはその余裕というやつが有り余るほどに有るな」
ロゼリアは不敵な笑みを浮かべてハリー達を見下ろしている。
ローレル以下グラティス・アレンザの面々が次の攻撃の準備に入っていることも承知の上でそんな態度が取れるのは、いつ攻撃されようとも避ける自信があるからだろう。
「余裕、ね」
口を開いたのはローレルだった。
「それじゃあきみの名前くらいは聞いておきたいな。墓石になんて刻んだらいいのかわからないからさ」
しかも挑発だ。
「面白いことを言う奴だな。いいだろう。僕の名を教えてやる。自分達を殺したのが誰なのかくらいは知っておきたいだろう。もっとも、僕の祖国陽州ではまず互いに名乗り合うくらいの礼儀は皆持ち合わせているが……大陸のポケモンは野蛮だと聞いていたのでな」
陽州、だと?
やはり孔雀がローレル達に言ったらしい『こちら側の問題』というのは……
ロゼリアは両手を左右に広げ、夜の闇に溶け込む黒い花弁を辺りに舞わせた。
「陽州武家八卦、
八卦、という聞き慣れない単語にハリーは自らの記憶を検索した。
そして過去に読んだ書物が画像となって脳裏に浮かび上がる。華州で生まれた陰陽思想だったか。陽州はその昔、華州から様々な文化を取り入れた歴史があった。天空の神ホウオウを信仰していることは有名だが、そのホウオウももとは華州で生まれた神なのだとか。
「御大層な肩書き並べてんじゃねェよ。ひらひら逃げ回ってばかりいねェで何ができるか見せてみやがれ」
「言われなくてもそのつもりだ。だが僕が名乗ったのだから貴様らの名も聞いておきたいものだな」
「俺たちはグラティス・アレンザ。それだけだよ」
「皆で一つ、か。悪くない」
黒夢は同じ年頃の少年に相応しい、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
しかし純粋な仔供のそれとは違っていた。どこか邪悪で、どこか悲しげだった。
「ならば、それこそ一匹のポケモンの命を断つかのように」
黒夢は両腕を広げて屋上から身を投げた。
「まとめて消し去ってやるまでだ!」
◇
この依頼は受けちゃいけなかったのかもしれない。
途中でやめるチャンスもあった。孔雀の言う通り引き下がっていればこんなことにはならなかった。
頭から落下する黒夢をピンク色の光が覆い、両手の薔薇へ集まってゆく。風の
「みんな、伏せろ!」
ローレルが叫ぶまでもなく、着地点を狙おうと中央に接近していたルードも慌てて下がった。
まさか、と思った。
こんな狭いところでそんな技を使えば――
中央の地面に激突する直前、黒夢はその力を爆発させた。地面に向けられた両腕から大量の花弁が、強風に乗って空間の端にいるローレル達に襲い掛かってくる。
とんでもない勢いで浮き上がった黒夢の体が、その風の強さを、花びらの舞の威力を物語っていた。
そこから先はもはや確認できなかった。
「くっ――」
緑の
花びらの余りの数と吹き荒れる風が体の自由を奪い、満足に躱すことができない。
気づいた時には、足に地面を感じていなかった。
「ふ、わああぁぁっ」
巻き上げられた体はまるで言うことを聞いてくれない。制御しようとして四肢をばたつかせても、拠り所のない空中では虚しい空回り以外の何物でもない。
キアラが。ルードが。メントが。ロスティリーが。セキイが。大量の黒い花弁が。視界の左から右へ、下から上へ。花弁が体力を奪う。誰かとぶつかった。星空が見えた。コンクリートの壁に体を打ちつけた。
特殊攻撃への耐性が高い俺でも、長く晒されると耐えられない。
まして草タイプ技を弱点とするキアラやメントなど、既に命の危機にあるかもしれない。
黒夢はどこにいる?
彼自身も立っていられないはずだ。
時折視界を横切る緑の影。
体力を削られ尽くされる前に、冷静に考えられるうちに、
どう捉える? 視界に入るタイミングも方向もランダムだ。かといって下手に広範囲攻撃をすれば仲間まで巻き込んでしまう。選択肢は多くない。意思の疎通を経ずして使うことは普段あまりないけど、皆なら大丈夫なはずだ。いや、絶対に大丈夫だ。
――光れ。
光れ。一瞬でいいから、思いっきり強く光れ!
「ふわぁあっ、きっ、きさ……まッ!」
奴の声に柔らかいような固いような激突音が重なった。数瞬遅れて風が止み、皆が地面に落下するのが見えた。ローレルは体を捻って着地し、状況を確認した。
腕から放出する花びらの舞の風を利用して飛び回っていたらしい黒夢はフラッシュで視界を遮られ建物に激突後落下。ルードとセキイはなんとか持ちこたえたようで、立ち上がっていた。ローレルがフラッシュを使うのを予想していたのか目を閉じて躱したのだろう、影響は受けていないみたいだ。
元カメールの遺体と元ストライクの遺体は原型を留めておらず、もはや肉片と化していた。
メントとキアラが立ち上がってこないので心配したが、キアラは僅かに前足を上げて無事をアピールし、メントは胸が上下していることから生存は確認できた。ロスティリーは片膝をついた姿勢のまま黒夢を見つめていた。この短時間にして、たった一発の技で、こちらの被害は甚大だった。
「フラッシュとは考えたな。だが、僕の技はこれで終わりではないぞ」
花びらの舞はその消費
しかし、その技を完全に制御していただけのことはあり、黒夢は多少足元が覚束ない程度で済んでいるようだ。
「二匹は虫の息か。次で死ぬな」
「次など無い」
声は頭上からだった。
花びらの舞を放つ前に黒夢が立っていた建物の屋上、同じ場所に。
「なっ、いつの間に……!」
右腕に
と、ハリーはローレルに目配せをした。その意図を受け取ったローレルは、黒夢に向かって飛び出した。
発射されたサイケ光線に重なるタイミングで、命中の直後に追い討ちをかけた。悪タイプである俺ならサイケ光線に当たっても無傷で済むことを見越しての連携だった。
「ぎゃああっ」
花びらの舞の精神ショックで反応が遅れたか、サイケ光線と追い討ちをモロに食らった黒夢の体が宙を舞う。そこへルードの波導弾が、セキイの火炎放射がさらに追撃を加えた。
紫と赤の炎に焼かれた黒夢の体が煙を上げながらふらふらと落ちてきて、そのまま地面に倒れる。
そしてしばらくの硬直。
「ふぐっ、ぎっ、こ、この僕が……」
死んだかと思ったが、しぶとくも彼はまだ生きていた。
でも、もう抵抗はできないだろう。
「今、楽にしてあげる」
ローレルが悪の波導を準備した時だった。
黒夢が焦げた腕を地面に向けた。
「貴様ら、僕の邪魔をしてただで済むと思うなよ……」
その体がふわふわと浮き上がる。奴の力が激減した今、花びらを乗せて放出させる風も、もう攻撃力を持たない。軽い体を浮かせるので精一杯なのだろう。
かと思った、次の瞬間。
「なっ――」
「ま、待てッ!」
花びらの舞の出力が上がり、奴は見る間に空高く飛び上がった。
再度のセキイの火炎放射、
最後の力を振り絞って逃げに転じたか。
悔しいが好判断だった。
「逃げられた、か……くそっ」
◇
僕が。陽州の武家当主のこの僕が。
掃き溜めの国の寄せ集めを相手に敗走だなんて。今の陽州には僕を咎める者はいないが、一昔前だったら自害ものだ。
身体のあちこちが傷つき、焼け焦げてボロボロ。花びらの舞もいつ出せなくなるかわからない。飛べるだけ飛んで、逃げて。体勢を立て直したら、
ハリーの奴め。探偵のくせに真っ向から勝負を挑んでくるとは。やはり大陸のポケモンは野蛮だ。
苦労してダミーとなりそうなストライクを探したあのトリックも見破られ、待ち伏せての吹雪――こちらの種族を最初から分かっていたが故の作戦。
――ふと、背後に何者かの気配を感じた。
いままで逃げるのに必死で気づかなかったのか。
後は振り返らず、両手を気配の方へ向けて花びらの舞の出力を上げた。
「きゃっ……!」
女の声だった。
先制攻撃を浴びせると同時に反作用で加速した黒夢は、そこで振り向いた。振り返る瞬間の隙を突かれないよう、まず優位な状況に立ってからというわけだ。
――そこにあったのは、夜の闇だけだった。
「いない……?」
「お久しぶりですね、黒夢くん」
声は頭のすぐ後ろから。
「なっ」
首を少しだけ回して、横目で背後を確認した。
――誰もいない。
しかし、この声には聞き覚えがある。
「うふふっ。ここですよー」
再度向き直った黒夢の前に、薄青い燐光に包まれたポケモンが出現した。出現した、というよりは、最初からそこにいたようだった。
その白い姿は星空と街のネオンに挟まれた闇に映えていた。緑の体毛は頭部にのみ集中し、代わりに白い衣が全身を包み込んでいて、胸には赤い突起がある。緑の髪を黄色いリボンで束ねた東洋のサーナイトは、抜き身の刀を手に、笑顔で浮遊していた。
もちろん自らを
「孔雀……」
巽丞家の長女、孔雀。彼女がここにいるということは。
「……僕の得た情報は間違いではなかったということか。やはり、姫女苑はランナベールに」
「ええ。そのようですよー」
「その情報を得てここへ来たのか? いつからランナベールに」
「二年半ほど前ですかねー」
「そんなに前から? 二年半もの間何をしていたんだ。よもや目的を忘れたなどということはないだろうな? あの事件の時もここにいたのか」
「あの事件、とは?」
「ベール半島にてハンター十数人が一夜にして虐殺された事件だ。僕はその情報を得てここに来たのだ」
「犯人がサンダースだと聞いて、ですか。たしかに、わたしがランナベールで調査したところによると、そのサンダースが姫女苑ということで間違いはないと思いますね。しかし、黒夢くんの得た情報というのも曖昧なもの。隣国のジルベールとランナベールのどちらかも分からなかったなんて。それに、五年前の事件ですよ。調査には苦労しました」
「五年も前だと? じゃあもうここにはいないのか」
「ええ、いません」
「馬鹿な! それでは僕は何のために……待て孔雀、貴様こそ姫女苑がもうここにいないと知りながら、何故ランナベールに留まっている?」
まったく頭にくる。
僕は姫女苑を誘き出すためにわざわざこの国を騒がせる猟奇殺人事件を起こしていたというのに。
「その事件で姫女苑は死んでしまったようです。彼女には、両院の力を行使するには負担が大きすぎた」
この牝、陽州にいた頃から信用のならない奴だとは思っていたが、これだけの情報を抱えておきながら仲間に報せないとはどういう了見なのか。
いや、仲間というのも語弊がある。共通の仇を持つというだけで、八卦はもともと勢力を競い合うライバル同士だ。
「死んだ……? ならローラスはどうしたんだ!」
「ローラスは事件の前に何らかのトラブルに巻き込まれたようで既に死亡していました。今、この世に残るは彼女の息子だけ」
「息子がいたのか。ならば消さねばなるまいな。兩院一家を根絶やしにするのが僕等の仇討ちの旅の目的。僕らは兩院の血を一滴たりとも残すまいと誓った」
そうだとすると、孔雀がランナベールに留まり続ける理由は一つしかないのではないか。
孔雀は姫女苑の息子を討つべくここに。
「そしてその息子はランナベールにいる、と?」
「はい」
「だが姫女苑が死んだのなら息子に血は継承されているはずだ。僕のやり方なら誘き出せるはずなのに」
兩院はもともと、陽州を護る一族だ。外から攻め込まれるにしろ内戦にしろ、秩序を破壊する者を葬ることによって陽州の平和を維持してきた。あの力は、
「そうですねー。主に四つの理由で黒夢くんの作戦は実行不可能なのですよ」
「できないだと?」
「第一に、彼の血は眠っています」
「眠っている? どういうことだ」
「詳しくは存じませんが、姫女苑は陽州
ようするに血が薄まっているということか?
姫女苑め。陽州人の風上にも置けん。
「第二に、今の黒夢くんのチカラでは兩院の力を受け継いだ彼には勝てません。眠っている今ならともかく、黒夢くんのやり方で呼び覚ましてしまっては。彼は兩院の血に相応しい器を備えています。姫女苑とは比べ物になりません」
「僕には無理だと……お前なら殺れるのか、孔雀」
「血を目覚めさせなければ――普段の彼なら、ですが。悟られぬよう不意打ちで首を刎ねることもカンタンですよー」
まるで世間話でもするような調子だった。本気なのか冗談なのかさっぱりわからない。
だが、それが本当だとしたら。
「そこまでわかっていながら何故殺せない? いや、殺していない? それに孔雀、貴様随分とそいつを近くで見ているような言い方だな」
孔雀は微笑みを崩さない。
ここまでくるとさすがに不気味だ。
「察しがよろしいですねー。おっしゃる通り、彼はわたしのごく身近にいます。一つ屋根の下で暮らしていると言ってもいいくらいに、ですよー」
「貴様、まさかそいつと……」
「ふふ。これでもわたし、乙女ですから。情に
乙女――
……乙女、だと?
「孔雀……貴様――!」
「敵討ちなど不毛な争いの最たるものだとは思いませんか? 姫女苑本人はともかく、何も知らない息子に罪はありませんし」
「ふざけるな! 兩院の血を根絶やしにすると誓ったじゃないか! 恨みを忘れたのか?」
「そう言うと思っていました。黒夢くんにもわかるように説明いたしましょうか。あなたは今、何匹のポケモンにとって仇となりうるのでしょう?」
「手段など選んでいられるものか。数多のポケモンを敵に回すことになろうと仇討ちのためなら僕は構わない!」
「そうですか。話を続けますよ。第三に、わたしと橄欖ちゃんは彼には指一本、爪の先も触れさせません。彼を守ると誓いました」
「橄欖もか。全く巽丞家の馬鹿さ加減には呆れる」
「黒夢くん。だから仔供は大人しく陽州に残っていなさいと申し上げましたのに。第四の理由。それはですね」
ピタリ、と冷たいものが首筋に当てられた。
動きが見えなかったなんて。
「なっ――」
この僕に不可抗力なんて。
「こういうコトです」
信じない。
◇
「それは艮藤家の血がここで途絶えるということ」
虹色に光る羽がひらひらと彷徨い、空に消えてゆく。
この
皮肉にも事件の被害者たちと同じ末路を辿ることになった犯人――二つになって眼下の街へ落ちてゆく黒夢に、目を閉じて黙祷を捧げた。
幼少の頃は一度か二度遊んであげたこともあったけれど、すでに普通の子供ではなかった。彼の両親である華赤とその妻が黒夢を仇討ちの道具として育ててしまったのだ。直接姫女苑を知らないはずの彼の瞳に宿る炎は、幼いながら他の誰よりも熱かった。
元はわたしも彼と同じだったのかもしれない。
あなたがわたしを変えてしまいました。
猟奇殺人を起こした黒夢くんを悪とするなら、わたしは悪なんてものじゃない。あまつさえ誓いを破り、敵に寝返ったわたしに黒夢くんを裁く権利などない。
あなたを護る、それだけのために。
いずれにせよ、これでもう後には引けなくなった。
他の六つの家の者達も世界中に散らばっている。黒夢を手にかけたと知れれば、八卦の全てを敵に回すことになる。
わたしがあなたを護ると決めたその時から、いつかこうなることは分かっていました。
「シオンさま……」
わたしはあなたにならこの人生を捧げても構わない。
本当は伴侶としてその隣にいたい。
でも、それは叶わぬ願い。
そこにはフィオーナさまがいる。そこはわたしの場所ではない。
ならばわたしは、あなたの守人となりましょう。
復讐の刃を、騎士の剣へと変えて。
◇
「すまない、期待外れかもしれんが」
依頼された調査の結果を報告すると聞いて来てみれば、何故かいきなり謝られた。
「私の力量ではこの程度が限界だった」
ウェルトジェレンクのカウンターに程近いいつもの席で、ハリーは表紙に調査報告書と銘打たれた数枚の紙束を差し出してきた。
報告書に零さないようにアールグレイミルクティーの皿を前足でそっと動かして、高鳴る胸の鼓動を抑えながら、早速目を通してみる。
○ローレル・ラヴェリアとその対人関係について ・ローレル 純粋で仲間想い。 リーダーシップを発揮。仲間に指示を飛ばす前に自ら体を張って見本を示すタイプ。 ベリー好き。 また、以下に挙げる五名と深い交友関係にある。 ・ルード 直情径行の戦闘マニアだがローレルの指示には従う。 一方で面倒見がよく、皆からは兄貴分として慕われている。 ・キアラ こちらは姐御肌、皆のまとめ役としてローレルを補助、または頭脳部分を担当している。 ・セキイ ただの不良かと思いきやローレルをいたく尊敬しているらしく、また仲間意識も強く持っているようだ。根は純粋でさっぱりした性格。
「あの」
以下、ロスティリーとメントに関する記述は、シオンの知る彼らとなんら変わりなかった。
「何だ?」
ハリーは新聞の切り抜きに目を落としていた。
「真ん中の三匹以外の情報は僕ぜんぶ知ってるんですけど。ていうかこれってただ
「いや、だから私の力量ではだな。まあともかく二枚目を見てくれ。そこからが本題だ」
ハリーに促され、シオンは半信半疑ながらも肉球を舐めて湿らせ、紙をめくってみた。
紙の上部に数行だけ文が書いてあって、気になって三枚目以降を見てみたらぜんぶ白紙だった。
白紙で厚みを稼ぎ、わざわざ表紙までつけてそれっぽく見せるための工作?
からかわれているのかと少し頭にきたが、とりあえずその文を読んでみることにした。
以上の六名は黒薔薇事件の解決に大きく貢献した。 徹底した張り込みとチームワークで見事に真犯人を追いつめ、重傷者二名を出す辛勝ではあったが、その正体を暴き出したのだ。 『グラティスアレンザ』。ハンターの中にも、こんなにも愛すべき者達がいた。 彼らなら、ハンターそのものを変えてしまうのではないか。そんな予感が持てる。彼らの今後に期待するばかりである。
「ハンター……ですって?」
「うむ」
ローレルったら。
一体何考えてんだろ。
「短期間ではあったが、行動を共にした。彼らを間近で見ての感想だ」
「ローレルたちと一緒に? でもハリーさんって元保安隊なんじゃ……それがハンターとだなんて」
「ああ、最初は私も相容れないものだと思っていた。だが実際に触れてみてわかったのだ。考えてもみたまえ。私兵隊にも様々な者がいるだろう。それと同じ事さ」
「それは……」
わかってる、けど。
ローレルがそんな例外で、他のハンター達に影響されないとも限らない。
――それに、父さんのことだって。
「君の弟は弟なりに自立して生きていこうとしているんだ。兄として
ローレルを信じて。それもそうだよね。
父さんのコトがあったから、なのかもしれない。ローレルは父さんが大好きだったから。
顔を上げると、ハリーさんはいつになく優しげに微笑んでいた。
「とっ――いえ」
「む?」
「な、何でもありませんっ。うん、ハリーさんの言う通りですねー。ローレルを信じて見守ろーっと」
「えらく棒読みだな……?」
危うく間違えるところだった。
――父さんとハリーさんを重ねちゃうなんて。僕ってば……
「お、おい……」
ハリーが妙に慌てたので、何事かと思った。
視界が揺れてる。
「な、ど、どうしたんだ? わ、私は何かまずい事でも言ったか?」
「べつにっ……な、泣いてなんかないんだからっ」
ちょっとうるっときただけだ。
父親のような、大きく包み込んでくれるような優しさに触れて。
シオンは乱暴に前足で涙をぬぐった。
ハリーも小難しい顔で黙り込み、それ以上は追及してこなかったので、早いうちに話題を変えてしまおうと思い、ハリーの手元にある新聞の切り抜きに目をやった。
「ところでハリーさん、その記事……」
「ああ、これか」
見出しには、黒薔薇事件に残された謎、とあった――
◇
黒薔薇事件は私立探偵ハリー・ディテック氏により、犯人のツェシーとされる遺体がジルベール国家警察に引き渡されたことで幕を閉じた。
だが、ハリー氏が犯人を捕まえたとされる同日のほぼ同時刻、現場から離れた場所で二つに切断された色違いロゼリアの遺体が空から落ちて来たという。さらに、直後に飛び立つ白いポケモンの姿を見たとの目撃情報もあるが、こちらの詳細は不明だ。ロゼリアが黒薔薇事件最後の被害者であるとも、模倣犯であるとの説もあるが、以降一ヶ月、現在に至るまで同様の事件は起きておらず、真相は謎のままである。
「姉さん……やはり……戦うつもりなのですね……」
黒薔薇事件から一ヶ月の節目、特集記事が組まれていた。先はその一節である。
「シオンさまをお護りすると決めた以上はね。敵の敵が味方なら、味方の敵は敵でしょう?」
「それは……わたしも……ですよね……」
「そうよ橄欖ちゃん。これでわたし達は兩院の側についたということ。あなただって、シオンさまを護りたいと思う気持ちはわたしよりも強いじゃない」
「ですが……」
わかっていた。シオンさまを護るということが、どういうことなのか。
「黒夢は……人道的にみても、仕方ない……として……仮にも……故郷を同じくする、同志……ですよ……?」
「なら、橄欖ちゃんが説得することね。仇討ちなんて不毛だってコト。陽州
確かにそうだ。自分の国で生まれたときから少しずつ形成され、固まってしまった価値観なんて簡単には変えられない。わたしや姉さんも、ランナベールに長く留まっているうちに柔らいでいたのかもしれないが、武士の信条を頑なに貫き大陸を飛び回る八卦の者達が、わたしの話など聞くだろうか。
「……」
「覚悟を決めなさいな。橄欖ちゃんもシオンさまのコトが好きなのでしょう? もう武士であることをやめてしまったのだから、普通の牝になればいいじゃない」
ふ……つうの?
「は? い、いえその……姉さんは一体、何を」
「時々シオンさまをぼーっと見つめていたり」
「は……う、それは」
孔雀は橄欖の目を覗き込むように顔を近づけてきた。
「ちょっと体が触れ合うだけで慌てたり」
「はわわわわわ……っ、な、ななな何を言うんですかっ」
「進化を止めてるのだって。使用人の職業意識だけでなんてありえないでしょう。シオンさまの心が見えにくくなるのがどうして怖いのかって、そんなの決まってるじゃない?」
「それは……」
姉さんの意地悪。
「ライバル同士だな、妹よ」
「姉さんもですか……」
それは驚かなかった。まあ、姉さんの場合見え見えだからフィオーナさまも気づいていらっしゃることでしょうけど。だから、シオンさまが姉さんの方をお気に入りでも、絶対に姉さんをシオンさま付きにはしない。
「ふふ……今のところは……わたしが、リード……して……います、けどね……」
「あら。それは使用人としてでしょう。牝としてはわたしの方が好きみたいだけど? シオンさまって年上で頼りがいのある牝性が好みだって知ってる?」
「知っています、それくらい……でも、わたしも……シオンさまより年上、じゃ……ないですかっ……何を……根拠に……」
「橄欖ちゃんは年上の風格がないんだもの。たまにはシオンさまを叱ってあげたりするといいかもよ」
「……いいの……ですか……? 敵に塩を……送って……」
「とある国の大佐が残した有名な言葉、知ってる?」
「何……ですか……?」
孔雀は橄欖の頬をつん、とつついてウィンクした。
「『甘いぞ橄欖! 姉に勝る妹などいない!』ってね♪」
「な……」
余裕だというのか。何があっても妹には負けないと?
「ま、フィオーナさまがいるからなかなか難しいけどね。しかーし世の中にはNTRという――」
「ただいまー」
「姉さんっ」
……まったく不謹慎な発言を。
玄関口などで話し込んでいるから、こういうことになるんだ。わたしも悪かったけど。
「お帰り……なさいませ……」
「お帰りなさいませシオンさまっ。お早いお帰りで」
普段どおりに対応することができたから、怪しまれてはいないはずだ。
でも姉さんは無駄に声が大きいし、途中から聞かれていたかもしれない。でも、シオンさまはドアの外で立ち止まって聞き耳を立てるようなことはしないだろう。
いいとこ、最後の数秒くらい――
「なんかうっれしそーにえぬてぃーあーるって言ってたけど……何なのそれ?」
そこですか。
シオンさまがその意味を知らなくて良かった。
「シオンさまはまだ知らなくても結構なのですよー。大人のお話ですからねー」
「むー。また僕を仔供みたいに言うんだからっ」
なんて膨れながらも、内心は満更嫌でもなさそうだったりする。二本の角がシオンさまの感情を受信しているからすぐにわかる。
意識の転換。姉さんがダメとみたシオンさまは、次に橄欖を見た。
「かーんらんちゃんっ。お・し・え・て?」
これは冗談だ。
シオンさまがわたしに甘えることなんてない。そんなふうにすり寄ってこられても――
「ま゙……」
――冗談だって、分かってるのに。
シオンの飾り毛の付け根のあたりが胸に触れた瞬間、電気ショックを受けたみたいに体が痺れて硬直してしまった。
「れ? どうかしたの?」
橄欖が衝動的に催眠術をかけてしまったとき、前後の記憶が飛んでしまったらしい。橄欖に対する態度が前と変わらないのは嬉しいけれど――なぜだか、少し距離が近づいたような気さえする。
姉さんはシオンさまの後ろでくすくす笑っている。
年上の風格がない、だって?
そうだ、シオンさまはまだ十九だ。まだ大人じゃない。わたしはもう成人している。なのにわたしの方がどぎまぎしてどうするんだ。
――勇気を出して。
「ダメ、ですよ……わたしと……姉さんの……大人の、女同士の……話に……シオンさまの、ような……男の子が首を……突っ込まれては……」
今度はシオンさまの戸惑う番だった。
シオンさまの混乱する様子と姉さんの驚く様子が角に伝わってくる。
が、立ち直りは早かった。
「ふぇーん……橄欖までそんなコト言うのやだー。ねー橄欖ちゃーん。おねがぁい」
「わ、わたしは……シオンさまよりも……年上なのですよ……使用人といえど……そのような、言動は……不適切です……」
今度こそシオンさまは戸惑いを通り越して、呆然と立ち尽くしてしまった。
そのまま、数秒。
「あ、え、その、ごめん……?」
「謝るのに……疑問形は、いけません……よ……」
「は、はいっ、ごめんなさい」
「……わかれば、よろしい……です……」
そうして頭を撫でてあげると、シオンさまはおとなしくなった。心の中は錯綜しているみたいだけど。
「シオンさま、お疲れではありませんか? わたしがお部屋までお連れしますよー」
「それは……わたし……の、役目……です……から……」
出しゃばろうとする孔雀を制し、橄欖はシオンの背に触れた。
「や。べつにそんなに疲れてるわけじゃ、ひゃぁっ!?」
体高がシオンさまの倍近くある姉さんと違って、ほとんど変わらないので少し不恰好かもしれない。姉さんみたいに肩に顎を乗せて抱く格好は難しいので、いわゆるお姫様抱っこだ。
「わたし……は、今……体力が有り余って……おりますので……甘えても……よろしいのですよ……」
「そ、そんなコト言われても」
「このまま……お部屋へ、お連れ……します……ね」
「や、その……うん。それじゃお願いします」
触れてみれば、なんというコトはない。
わたしはシオンさまの付き
許される範囲なら、触れ合っても構いませんよね。
姉さんと違ってシオンさまに直接
「孔雀さんも上手だけど橄欖の抱きかたってすごく優しいね」
「ありがとう……ございます……」
どの姿勢になったときに一番楽に感じるか、それがわかるから。
サーナイトに進化したらツノが一本になり、しかも胸の中心を貫通する形になる*3から、脳からの距離が遠くなることで感度はかなり低下する。でも、ふくよかな体で包み込むような抱擁はどんなポケモンをも凌ぐほど癒し効果が高いという。サーナイトが感情ポケモンでなく抱擁ポケモンとされるのはそのためだ。
「橄欖ちゃんもスミに置けませんねー。わたしも本気でシオンさまを抱きしめちゃいますよー。サーナイトが抱擁ポケモンと呼ばれるゆゑんを――」
「何の話ですか。眠っていてください」
右手を孔雀に向けて、シオンさまを左手だけで支える格好になった。
一瞬の後、孔雀はばったりと倒れて寝息を立て始めた。
「え、橄欖……?」
「姉さんが……また、よからぬ……事を……考えて、おりました……ので……」
「だいじょーぶかな。玄関なんかで寝てたら、フィオーナに見つかったら怒られるよきっと」
「姉さんには……いい薬です……」
もう姉さんの好きなようにはさせませんからね。
シオンさまのことも含めて。
「今日の橄欖、なんか孔雀さんみたい」
螺旋階段を上っているとき、シオンさまはそんな事を呟いた。
「……ポケモンは……変わるもの……ですよ……それに、わたしたち……これでも、姉妹です……から……」
姉さんみたい、か。
残念ながらシオンさま。わたしは姉さんよりうまくやってみせますよ。
~Fin~
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