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戸がかたりと閉じる音で目が覚める。
薄明の刻、仄暗い部屋には空になった布団。衣紋掛けに主の着物は掛かっていない。
体が重い。臓腑に瀝青が詰め込まれたような倦怠感。夜半を過ぎてようやく寝付けたように思う。ここ数日、眠りは不足していた。
漆喰の壁に預けていた背中を離し、立ち上がる。目を擦りながら、主の後を追った。
芋蔓亭と雑貨屋の間の道から延びる橋を渡る。足下の川のせせらぎが、いやに粘着質だった。
平屋の人家が両側に建ち並ぶミオ通りの真ん中に、人影が三つ四つ。地面に転がっている何かを囲んで、話し込んでいる。
――主、警備隊の人間、警備隊長、そして芋蔓亭の主人。異変が生じたことを容易に察せられる面子だった。
「こりゃ酷いね……」
立派な体格の、赤髪の女警備隊長が顔を顰めた。
主の後ろに立つ。気付いた主に声を掛けられたが、転がっているそれらの正体を認識した途端、俺の耳には急激に遠くなった。
三つの黒い塊。丸焦げになって、煙が燻っている。鼻につく有機的な悪臭がなければ、それらが元々ポケモンであったことは判ぜられなかったかもしれない。
「ここまでしなくても……」
警備隊員が、その惨さに口を押さえた。
無理もない。たぶん、彼女の見知ったポケモンだ。そして、俺も。
脈が狂うような不快感に、俺はその場を離れようと一歩後ずさる。
「ふうん、けったいなこともあるもんやねぇ」
間延びした、せせら笑うような声。
俺は貝太刀に手を掛け振り向いた。
ミオ橋の上で、ぱちりと小さく爆ぜた紫炎と、白い吐息。
俺のうなじの毛が逆立つ。
――間違いなく、彼奴だった。
松籟に告ぐ
夜更けの始まりの浜は、がらんどうだった。掘っ立て小屋と荷車は、浜を彩るには無彩色が過ぎ、存在感は希薄だ。
空気を支配しているのは、静かに寄せては返す波の音と、それを掻き消さんとする、ざらざらと言う耳障りな松籟。
そして、がらんどうの中心――桟橋の先端で、奴は俺を待ち受けるかのように佇んでいた。こちらに背を向け、冷たく昏い海を見つめている。
奴の首回りから出ずる紫炎が夜陰に茫と揺らめいて、闇に溶け込む寸胴な輪郭が膨張する。
俺が桟橋に足を掛けると、板木がぎしりと悲鳴を上げた。
「風に松がそよぐ。星々が雲間に輝く。……風流な夜やなぁ」
奴は海に顔を向けたまま喋り始める。
「お月さんがもう沈んでしもたのが残念やけども」
松籟がざらりと、一際強くなった。
「お前の仕業だな、火群……!」
俺は吼えた。海岸に谺した声は、波に溶け切るにはいささか刺々しい。辺りに身を潜める野良共がざわめいた。
「わいのことは『火群兄ちゃん』って呼んでくれぇ言うたやん。寂しいで兄ちゃんはァ」
こちらに正対した奴は、猫撫で声で俺を宥めすかそうとする。
「俺の問いに答えろ」
「はあ……どこで育て方間違うてしもたんやろ。斑葉も『兄者』呼びで全然兄ちゃんって呼んでくれへんし。呼び捨てよりは幾らかマシやけど」
「お前に育てられた覚えはない!」
どん、と踏み込み、振り上げた太刀を奴の首筋に当てる。
「……五間はあったはずなんやけどなぁ、君との距離。縮地、いつの間に会得したん? 水門くんはえらい頑張り屋さんやねぇ。その調子で進化も気張りやぁ」
火群はへらへらと笑いながら両手を上げている。重たそうな瞼の奥にある深紅の瞳は、まだ最終進化に至れていない俺を見下すように歪んでいた。
「茶化すな」
太刀を強く押し当てた。弾力のある首の皮に、太刀が食い込む。火群が一歩後ずさる。もう二歩で、海に落ちる。
「……怒りん坊はモテへんで。それに」
奴の一段低い声に呼応するように、紫炎が明滅した。
(……ッ、消えた!?)
「こっちや」
火群の姿は、桟橋の根本にあった。俺と奴の位置は奇麗に入れ替わっている。
「こない夜に貝太刀振り回すンは雅やないなぁ」
奴の首筋に当てていたはずの俺の愛刀が、掏られていた。
「しっかしこれ、研ぎすぎやない? 道理で当てられただけやのに痛いわけやわ。自分も怪我してまうで」
火群が貝太刀の柄を摘まんで宙に掲げ、四方からまじろぎもせず観察している。
「返せ!」
俺の愛刀が兄に品評される――屈辱極まりなかった。
「言われんでもすぐ返すわ。得物振り回して戦うンはおもろそうやけど、わいの趣味ちゃうし。あ、そうそう、質問の答えやけど……
――ご明察通り、わいの仕業や」
松籟と波濤の不協和音が、一層大きくなった。
奴に下手で投げ返された愛刀が、ひゅるると空気を切り裂いて、俺の足下にからんと転がる。
俺はそれを注意深く拾い上げる。傷は――ついていない。
愛刀を乱暴に扱われた怒りを抑えつつ、もう一度強く問う。
「何故だ」
「んー……せやなぁ。理由は色々あるんやけども、一つ挙げるなら……」
火群があり得ない角度で首をぐりんと傾げた――ように見えた。
「斬り殺して草叢に隠したはずの死体が、突然村のど真ん中に焼けて転がり出れば、犯人はさぞ驚いて腰抜かすんちゃうかなぁ、って思うてなァ」
火群の口角が吊り上がる。月のない夜に、真っ赤な粘膜色の三日月擬きと鋭い牙が顔を出した。
「なあ、水門クン? なんや心当たりあるんちゃうん?」
心臓が怒濤のように拍動する。
奴にはお見通しだった。
「……あいつらは泥棒だった。悪事を働く奴を殺して何が悪い」
半月の夜。賢しくも、門番の死角で。村の人間とポケモンが手塩に掛けて育てた作物が、丁度掘り返されているところだった。だから。
自らの呼吸がだんだんと荒く、浅くなる。
「水門クン、最近寝付きが悪いみたいやねぇ」
火群が桟橋の先端へ――俺のほうへとゆっくりと近づいてきた。
「懲らしめるにしては、随分と残忍な殺し方したんやない? 斬られた痕幾つあるか数えてみたんやけど、百超えた時点でやめてしもたわ」
薄ら笑いを浮かべながら、火群はひたひたと音もなく歩いてくる。
「来るな……!」
「そない言わんといてくれやぁ。お兄ちゃんはなぁ、水門くんに聞きたいことが仰ぉ山あるんやから……」
脚の震えが、桟橋に伝わってぎしぎしと軋んでいる。
――俺や斑葉に先んじてマグマラシに進化した頃から、火群は何を考えているのか判らなくなった。バクフーンとなってからは、その眼は何も語らなくなった。
不気味な笑みを湛えたまま宙空に視線を彷徨わせる火群に、いつしか俺は距離を取るようになっていた。
留守番を任されていた俺や斑葉と異なり、火群はいつも主の赴く先へと同行していたから、言葉を交わす機会はもとより少なかった。
「……!」
俺より遙かに図体の大きな火群の腹が、俺の眼前まで迫った。桟橋は、俺の踵の三寸後方で途切れている。
「……っ」
温い右手が俺の顎先を掴む。愛刀の柄を掴み直そうとして、落としてしまう。
火群が屈む。目線が合う。獲物を狩る眼。
「えらい震えようやな。……誤解しとるようやけど、別にわいは君を咎める気はないねん。怖がりすぎやで」
「……嘘だ」
火群が両目を眇める。舌舐めずりの意味が、理解できない。
「そこはお兄ちゃんを信用してほしいわぁ、水門くぅん。わいが可愛い弟を虐めるわけないやん」
――虐められたことは一度としてなかった。だが、俺を虐める姿だけはどういうわけか容易に想像がつく。
「どうして」
発した言葉の意味は、自分でも瞭然としない。どうして虐めないのか? ――いや、違う。
火群は、俺の頭をぐいと抱き寄せて、耳打ちした。
「ぶっちゃけおもろかったやろ? 命を弄ぶンは」
「うああああああ!!」
俺は火群を突き飛ばす。
「おっと」
蹌踉めいて尻餅をついた火群に、俺は馬乗りになる。
貝太刀を振り上げるも、即座に右腕を掴まれる。応戦しようとした左手も万力のような握力に襲われ為す術がない。そのままひっくり返されて、押し倒された。
「離せ! 退きやがれ!」
暴れる俺を倍以上ある体重差で押さえ込みながら、火群はにやにやと気味の悪い笑顔で俺を見下ろす。
「……ははぁ、さては水門くん、罰されたいんやろ。ちょっと盗み働いただけの幼子を殺めたンは流石にやり過ぎたって、自分でも思ってるんやな?」
どうして、の後に続くはずだった言葉が、詳らかにされる。両腕に込めていた力が一気に抜けた。
「判りやすいなあ、水門くんは」
火群の挑発めいた誘いに乗った理由は――期待だ。人間はきっと、俺の犯した過ちに気付けない。他ならぬ自分の兄なら、俺を咎めてくれるだろうと無意識に考えていた。
兄を嫌っているくせに、どうしようもなく兄を頼ろうとしている。
「哀れやなあ。そない下らん人間の理に己の心を預けるから弱いのや、水門くんは。獣なら好き勝手振る舞ってナンボやろ」
兄は、しかし、俺の期待する言葉の一切を吐かなかった。火群が操る言霊は、俺の獣性を剥き出しにしてやろうという一心で幾重にも重ねられる。顔を近づけられ、甘ったるい吐息が吹きかかった。
「水門くんが盗獣斬ったンは、そら正義感もあるやろうけど、それ以上にただ研ぎに研いだ貝太刀の切れ味を試したかったから……やろ?」
「違う!」
火群を睨み上げても、返ってくるのは不愉快な微笑みだけ。
「ムキになって否定せんでもええよ。人間の下で育ったからといって、わいらがそれに従ごうことあらへん。己に枷を嵌めるなんちゅーのは阿呆のやることや。これからも気に入らない奴は自慢の太刀でぶっ殺していけばええやんけ」
「そんなの……許されるわけないだろう……!」
火群が俺の両腕を解放し、馬乗りになった俺から降りる。
しばしの間、俺は桟橋に仰向けになったままで、火群は俺を見下ろすように仁王立ちしていた。
「わいは許されとるで」
「……は?」
狼狽する。火群は何を言っているのだ。
「言うたやん。命を弄ぶンはおもろい。楽しい。至福。……君の百倍は軽ぅく手に掛けとる」
「お前……!」
立ち上がる。桟橋が軋む。松籟が浅ましく笑う。
「何怒っとるん? 君が怒る筋合いはないで」
わざとらしくため息をつく火群の姿に、どうしようもなく腹が立った。
「だいたい、許されないって、誰からや? わいは主にも村の人間にも怒られたことあらへんけど」
火群が背を向けて、砂浜へと歩きだした。
「それはお前の悪事を知らないからだろ!」
「せやったら、わいのこと全部見とるヒスイの神さんが、山のてっぺんで対峙したときに咎めとるはずやけどなあ。別に何も言われへんかったで」
言い訳をつらつらと述べながら、火群は桟橋の根元へと歩いていく。背中ががら空きだが、隙を感じない。
「神さんがええ言うとるのに、水門くんはわいを咎めるんか? まさか、自分の殺しは良くてわいの殺しはあかん言うつもりやないやろな?」
言うつもりだ。俺は――悪を誅しただけだ。気分の赴くまま、好き勝手に殺生したわけでは断じてない!
だが――その言葉を口に出すことはついぞなかった。
「火群……昔のお前は、少なくともそんなことをする奴ではなかったはずだ」
意外な言葉だったのか、火群は驚いたようにこちらを見て瞠目したが、寸秒の間を置いて、けたけたと笑いだした。
「あはは、なんやそれ! いつの話や! そら時間も経てば心変わりもするやろ」
「だが!」
「……ヒスイはなあ、薄暗ぁい闇が巣喰っとる土地や」
ぴたりと火群の笑い声が止んだ。濤声と松籟が、ざん、と大きくなって、火群と俺の間にある空白を埋めんとする。
「闇……だと?」
「そうや。それがすぅっとわいの中に侵入ってきよる。……マグマラシになった頃から訳の解らんもんが見えるようになってしもて、今や寝ても覚めてもわいの眼と頭を苛んでくる……彼岸から押し寄せる恨み辛み妬みが、其奴を殺れ、彼奴を殺れって囁いてくるんや……」
悍ましいことを口走る火群の目は据わっていた。俺は怖気立ったのを気取られぬよう、貝太刀をぎゅっと握りしめる。
「わいは彼岸に足踏み入れてしもた。もう戻られへん。……別に後悔はしとらん。けど、やっぱ寂しいもんや」
火群が天を仰いだ。白い息が、闇夜に溶ける。
「……せやから、嬉しかったで。無残に斬り刻まれた死骸見つけたときは。他でもないわいの弟が、彼岸に来てくれるんやってな……!」
にたりと嗤った火群の紫炎が、囂と唸った。
「水門ォ! そないな離れた場所に立ってへんで、もっとこっちに来たれやァ!」
――知らぬうちに、火群は俺の知る火群ではなくなっていた。もはや、彼岸の獣を連れ返す術はないように思われた。
幼少期の凍れる冬の日に、主、火群、斑葉と共に囲炉裏を囲んだ夜。皆で同じ道を歩めると思っていた。
貝太刀をもう一度強く握った。俺は、俺の正義に則らねばならない。たとえ、これが間違った道だとしても。
「今からお前を斬る」
さざ波が鳴る溟海を背に、宣告する。
「その意気や、水門ォ!」
化け物の喚び声へ、ぐん、と右足を踏み込んだ。
(縮地!)
火群の懐に一瞬で潜り込む。
しかし、かわされる。奴はふわりと跳んだ。
(なんと身軽な……!)
だが空中なら俺の一閃は避けられない。足に溜めを作り、天を見上げた。
「っ!?」
一瞬、満天の星空と見紛った。星辰のごとく散りばめられていたのは、夥しい数の鬼火。
百鬼夜行。火群の最も得意とする技。喰らえばその火はじりじりと皮膚を焼き続け、深い火傷を負わせる。
一つたりとも当たるわけにはいかなかった。
「お手並み拝見といこか」
上に跳ぶことを諦め、鬼火の弾幕を避けることに注力する。
足の指一本一本に通う神経と、脹脛の筋肉を引き絞る。ぎりぎりのところでかわしながら、着地しようとする火群の姿を一瞥した。
(……見えたっ!)
鬼火同士の隙間を縫い、着地寸前の火群の背後を取れる最短距離の道程。左斜め前に三歩、そこから一直線。
火群は俺の実力を知らないのだ。この程度、怯むに値しない。
着地の瞬間、背後を取った。
「っぶ!?」
火群の後ろ回し蹴りが頬に入る。
吹き飛ばされ、砂浜を転がり、岩にぶつかった。受け身は辛うじて取るも、口の中を切る。
「すまんなぁ。接近戦もイケるクチやねん」
口の端から垂れる血を拭った。
火群が強いのは知っている。主が調査に行くときも、火群は手持ちの中で唯一、主のもとを離れて行動することを許されている。
(弾幕の隙間は……罠か。まんまと誘い込まれた)
二、三手のやりとりで思い知らされる彼我の差。
「もっと本気で来えへんと、わいの居る領域には届かへんで」
「……もとより行く気はない。彼岸など」
俺は立ち上がり、貝太刀を構える。
「水門くん、自分がまだマトモだと信じとるんか? おめでたいやっちゃな」
「何とでも言え」
火群が不服そうに眼を細めた。
「ふぅん、どうしても彼岸に来てくれへんっちゅーなら……」
地鳴りがする。火群の口角が歪んだ。
「死んでもらうしかあらへんなァ」
己が耳を聾するような爆発音。火群が足を踏み込んだ音だった。
真っ赤な炎塊が、まっしぐらに突っ込んできた。
(火炎車……!)
横っ跳びで避ける。俺の背後にあった岩が砕け散る。
転がって、体勢を立て直そうとするも、左足が痛んでわずかに遅れる。――技が掠っていたらしい。
瞬く間に飛んできたスピードスターを、思い切り腹に喰らった。
「げほ……!」
吐血する。火群の持つ技の中では比較的低威力のはずなのに、一つ一つが重かった。
(歯が立たない……!)
横臥した俺のそばに、化け物が近寄ってくる。
「こんなもんかァ。案外つまらんかったな」
「来るな!」
息が詰まる。火群の目に、もう俺は映っていなかった。あれだけ俺に注いでいたはずの興味が、失われていた。
(まずい……!)
殺される。殺されてしまう。
「ひっ……」
這いつくばりながら逃げようとする俺を、火群が捕らえる。
仰向けにさせ、両腕を押さえつけ、馬乗りになる。
絶対に覆せない、絶望的状況。
「ま、あの世でも頑張りぃ」
火群の口から灼熱の業火が漏れた。
■◆
『水門くん、ちょっと頼みがあるんやけど』
『頼み? 兄貴が俺に?』
『うん。……もしな、お兄ちゃんが頭おかしくなって、どうしようもなくなってしもたら、引導を渡してほしいんや』
『は? 引導……って何? 兄ちゃん、どこか悪いのか?』
『……やっぱやめた。変なこと言うて悪かったな。調査行ってくるさかい、斑葉と留守番頼むわ』
◆■
火群が突如飛び退いた。奇跡か、必然か。いずれにせよ、難を逃れる。
異変。俺は眩い光に包まれていた。己の細胞に備えられし、最後の力が発現する兆候。――進化だった。
星々の冷光冴え返る寒空に、新たな俺が見参する。
「追い込まれてからが本番っちゅうわけやな。……美しいなァ。闇にも映える艶やかな漆黒の兜。……血ぃで染め抜いたような禍々しさやわ」
火群は恍惚としていた。
奴が見蕩れる己が身体というものを、自分でもまじまじと観察する。
鍛錬の日々は、決して裏切らぬ形で結実していた。隆々としつつも撓柔な筋肉が、肩、胸、腰、脚と均整に配置されている。目深に被った重い兜にもぐらつかないのは、首の筋肉が発達したからだろう。
初めて進化したとき、突如高くなった目線と骨格の変わりように、脳が酷く混乱した。
しかし今は――さらに骨柄の変遷が著しいというのに、進化酔いは皆無だ。分析的な観察眼のお蔭か、地に四つ足が付いている。
先程まで抱いていた不安や懼れは、光と共に発散してしまったようだった。
「……いざ参る」
左前脚の鞘に収められた刀を抜く。
歪んだ刀身に刻まれた稲妻のごとし緋色。
「見せてみぃ……その肉体に宿る技が如何程のモンか!」
火群が吼え、空気が焦げ付いた。紫色の鬼火が夜空に散らばる。二度目でも慣れるものではない。圧巻の一言に尽きる。それでも。
(百余り八つ、か。先ほどまでは手数すら判らなかった)
時の流れが遅い。次々と襲い来る燐火を薙ぎ払う。腰の捻転と最小限の足捌き。一切の砂埃を舞わせず、二振りの刀で止むことのない攻撃を斬り続けた。
最後の火を斬る。闇がはらりと落ちてきた。
「……はは、魂消た。全部捌き切りよった」
涼しい顔をしていたはずの火群の顔つきが変わる。
「秘剣――千重波!」
足運びは縮地に用いる要領で。だが、一直線には詰めない。
翻弄に翻弄を重ね、常に相手の死角から刀を振り続ける。
火群は攻撃をいなし続ける。会心の一撃は当たらない。それでも、火群に少しずつ傷が増えていく。
一瞬、距離を取る。次の一手に進むための空隙。
火群の火炎放射が程なく飛んできた。
属性有利と言えど、喰らえば軽い損傷では済まない。
頭を下げ、火炎の下に潜り込んで距離を詰めた。
俺が死角を取ることを火群は読む。誘き寄せるための火炎だ。蹴りが飛んでくる。
それを俺は読んでいた。詰めたのは――火群の真横。
「ぐあ……!」
横っ腹に一閃。紅が飛び散る。
このまま、殺す。もう二撃で終わる。
「死ね、火群」
振りかぶる。怨みがましい深紅の眼。映るは、紫火に照らされた己の顔。――高揚する。
これが彼岸に足を踏み入れた心持ちというのなら。成程、存外悪いものではない。
(さらば……、!?)
――朽葉色の矢羽根。刀を持つ俺の右手に。痺れ。何故。――斑葉?
さらに二本、矢羽根が刺さる。右足、そして左肩に。
激痛が走る。刀を振り下ろせない。羽交い締めにされる。
「やれ、兄者」
「おーきに、斑葉」
どういうことだ。ふざけるな。こんな終わりなど。俺は火群を殺さねばならないのに。
二振りの漆黒の刀が、手から滑り落ちる。
「お前もかァ! 斑葉ァ!!」
俺を締め上げる力が一段と強まった。骨が、軋む。
「……堪忍な、水門くん」
火群の口が大きく開き――俺の右肩に噛みついた。
■■■
「……ごちそーさん」
俺は尻餅をついて、中空を見つめていた。
永遠を逍遙したような気分だった。実際は、一瞬だったのかもしれないが。
俺は、火群に何かを吸い取られた。
火群は両手を合わせ、ぶつぶつと不明瞭な言葉を唱えた。拡げた手のひらには三つ、ささやかな光を放つ青紫色の珠が浮かんでいた。
それらはゆっくりと、桟橋の向こうへとふわふわと飛んでいき、わずかの間だけ留まる素振りを見せたあと、昏い海原へと消えていった。
「さて」
火群と斑葉が並び立ち、座り込んでいる俺を見下ろしている。火群は穏やかな顔で、斑葉は険のある顔をしていた。
火群の左腹には、深々とした切創から赤黒い血が溢れていた。
「兄貴……!」
火群が左手で俺を制する。
「そんなことより、どや、水門くん。気分悪ぅないか?」
「気分……?」
当然、戦いで体中が傷だらけだった。にもかかわらず、五臓六腑が清浄な水で清められたかのごとく軽い。寝不足により霞掛かっていた脳は、すっきりとしていた。
まるで、憑き物がが落ちたかのように。
「この虚け者めッ!」
斑葉に突如として喝破され、俺は仰け反った。紅葉色の笠から覗く金色の眼はおどろおどろしく見開いており、俺は思わず伸びた体を屈めた。
「こらこら斑葉くん……水門くんに悪気はなかったんや。あんまり虐めんといて。な?」
「兄者も兄者だ。もっと他に良い方法はなかったのか? 弟にまた屍を作らせる気か! それも身内の!」
「そないなことにはならへんよぉ。本当に斑葉くんは心配性やなァ」
斑葉はきっと火群を睨みつけるが、火群はまったく意に介さない。
「腹を斬られておいてよく言う。……残るぞ、その傷は」
「むしろ貫禄が付くやろ。丁度ええわ」
まだ状況が上手く飲み込めていない。ただ、俺が大きな思い違いをしているということだけを、朧げながら理解する。
「……まだ何が起こったのか解らんっちゅー顔しとる。案外鈍いなあ、水門くんは」
へらへらと笑いながらしゃがみ込む火群は、俺の兜にすっと右手を伸ばした。
(この手は……)
在りし日、主に同行したいと駄々をこねた幼き俺を優しく諫めた前足。
「君、殺めてしもた彼らにずぅーっと憑かれとったんやで?」
火群は、俺の頭を撫でながら諭すように言った。
「そらちょっとばかし盗み働いたぐらいで、全身ずたずたに斬り裂かれて死んだんや。恨みは深いなんてもんやないわな……。彼らは悪霊となり果てて、君に取り憑いたんや。君の骨髄にまで染み込んでしもた魑魅を引きずり出すンは、流石のわいでも骨が折れたわ」
俺は口をぱくぱくとさせながら、斑葉と火群を交互に見た。
「せやから、一芝居打たせてもらったというわけや。君に本気の殺意を向けさせれば、奴さんたちもわいのこと殺そ思うて出てきよるんやないかなァって」
「では、狂うとか、彼岸とか……火群の言っていたことは……」
「ぜぇーんぶ虚言や! はっはっは」
体の力がすべて抜け落ちて、後方に倒れ込んだ。俺はずっと火群の手のひらの上で踊らされていたらしい。
「俺は……虚け者だ……」
「その通りだ、水門」
険しい表情を一切崩さない斑葉は、言葉もまた手厳しいものだった。
「無闇な殺生は己が身を滅ぼすと知れ」
「……諒解した」
俺は息を深く吐く。体調は良くなれども、心の内にはなお澱が積もっていく。漉し取るには、己を正面から見つめ直すほかないのだろう。
「それから、お前が命を奪った者たちを近々に荼毘に付す。中座は許さんぞ。兄者もだ」
斑葉の刺すような視線が、俺から火群へと移る。
「荼毘? 要らんやろ。わいがさっき成仏させたさかい、そない無駄な――」
「吾は手続きの話をしているッ! 壽村、ひいてはヒスイに平穏を取り戻すためのッ!」
わざとらしく大欠伸をした火群が大音声に飛び上がり、「せ、せやな……」と怯んで俺に目配せをした。
「……兄貴、俺にもう気を遣うな。斑葉の言う通りにするし、罪も償う」
ぎろりと睨めつけてくる斑葉の眼を真っ直ぐに見返す。ややあって、黄金色の瞳に影が差した。
「吾にも……お前のことをしっかりと見てやれなかった責任がある。……無論、兄者にもな」
斑葉は浜を後にし、俺と火群、ふたりだけが残された。
俺は火群の横顔を見た。戦っていたときとはまるで別人で、いくら偽装だと言えど、様変わりするにも程がある。
――差し延べた手がどれだけ温くとも、やはり遠い存在なのだろう。
「……水門」
「なんだ、兄貴」
火群は流し目で俺を捉える。瞳に映る俺は、随分と腑抜けた顔をしていた。
「ヒスイは、異世界から人間攫ってくる頭のイカれた神さんの御在す土地や。神さんがおかしいんやから、わいらもちょっとぐらい狂ったり間違うたりしてもええと思うんや」
手のひらに浮かべた鬼火を遊びながら、火群は独り言のように言う。
「道を誤ってしもても、また戻ってこられればええ。なんせここは、道に逸れてばかりのはぐれ者が、最後に居着く土地やからな」
ほな、帰るで――と、火群は、俺の傷つけた脇腹を押さえながら、ゆっくりと歩いていった。
そして俺は、火群の背を、幾つもの青白い鬼火がふらふらとついていくのを見た。
『引導を渡してほしいんや』
全部虚言というのも、狂言であるならば。
「……兄貴」
やはり、『お兄ちゃん』とは呼べそうになかった。
了
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あとがき
時間に押されすぎて初稿をそのままぶん投げてしまい、恐る恐る見返したら誤字脱字やら意味不明な描写のオンパレードで、一週間くらいベッドの中でのたうち回ってました。結果発表された瞬間に爆速で修正版に差し替えました。
さて、なんかヒスイバクフーンにめちゃくちゃなことさせたい! 関西弁で闇満載な台詞言わせたい! っていう欲望をぶちまけたらこんな感じに仕上がりましたが、皆様お味はいかがだったでしょうか?
多分ですけど、方言喋るキャラを書いたのは生まれて初めてです。それだけで書く速度が普段の半分になって苦戦しました。言い回しが正しいかどうか逐一確認しながらの作業だったんですが、名探偵コ○ンの服部○次が喋ってるのは大阪人から見ればエセもエセ、というのを知って、どうせ関西弁といっても現代の話じゃないし細かいこと考えたらキリが無いから、それっぽければOKということにしました。変なしゃべり方してても気にしないでね。
いろいろ詰め込みまくった割にはいい感じにまとめることができて良かったです。
ちなみにテーマ「らい」は、「松籟」ではなく「ウソ」で適用させてもらいました。
というわけで、第十八回短編小説大会で8票をいただき、3位でした。
以下投票コメント返信です。
とても面白かったです。個人的にはヒスジュナ視点の話も読みたいと思いました! (2022/07/03(日) 20:41)
ありがとうございます! 話の都合上どうしても斑葉の出番を少なくせざるを得なかったのですが、僕自身も彼視点の物語はとても読みたいなって思ってます。
1万字の間に起承転結でまとめる文章の構成力、最後に複数のひねりを加えたストーリー、読んでて飽きない文章と語彙とどれをとっても1番の作品でした。 (2022/07/05(火) 21:34)
なんとか上手くまとまってくれました。1番くれるんですか!? 嬉しい!!!
死と暴力からしか接種できない栄養があります (2022/07/06(水) 22:46)
シンジュ団とかコンゴウ団がめちゃくちゃ争い合ってたし古代ヒスイ人は絶滅危惧種っぽいし、ぜってーヒスイの大地には血が染みこみまくってるよなとか考えたらこんなことになってしまった。
ネタに振り切った参加表明文章からは想像できないほど濃いお話でした。時代設定と文体、そしてキャラの口調や地の文章に統一感があり、お話に没入して読み進める事ができました。 (2022/07/09(土) 08:24)
新参者のふりして爆弾投下しようと思ったんですが、普通にバレバレでしたね。誤字脱字多すぎましたけど文章は頑張りました! ありがとうございます!
LEGENDS アルセウスの、黎明期特有の彩度低い雰囲気。それが文体から表現されていて圧倒されました。ヒスイの薄暗い闇に見初められたバクフーンは言霊を操り、フタチマルの秘めたる心を暴いていく。京都弁の口調がのらりくらり、他者の命をなんとも思ってないような口ぶりがヒスイバクフーンにピッタリでした。
実力差を見せつけられてからの、進化――そし怒涛の展開からの、終幕。オチもいい……後ろ暗い謎が残される余韻。バクフーンの言葉はどこまでが冗談で、どこまでが本当だったのか。同じくヒスイの闇を受け入れたダイケンキは、いつか真実を知ることになるのでしょうか。気になります。 (2022/07/09(土) 20:12)
時代を遡れば遡るほど命って軽くなりますよね。火群くんはその権化みたいなイメージでした。あれって京都弁なのかな? 私は生まれ育ちが青森で関西地方とは縁もゆかりもないので、火群君の喋る言葉が正しいのか自信が無いんですが、違和感無ければいいなあ。
文章は時代背景に合うように、比較的硬質に仕上げました。うまくハマったと思います。
水門くんは最終的にどんな道を歩むのか、結局お兄ちゃんはどうなるのか、ぼかして終わらせたので僕自信もめちゃくちゃ気になってます。試される大地だしこれからも試されまくりそうですね。
ヒスイ地方は厳しい大地。死と切っても切り離せないほの暗さがあることを思わせてくれたお話でした。昔は分け隔てなく接していた兄弟関係が成長することによってどこか危なげな雰囲気になるのも良いものですね。 (2022/07/09(土) 20:36)
「道を違える」っていいですよね(は?) 多分こういう話になったの、最近呼んだNAR○TOの影響かも知れません。主人公とライバルが道を違えて、最後には戻ってくる、みたいな。
ヒスイ御三家それぞれのキャラ付けがいいですね。アクション描写も面白く、筋の捻りも良かったです。読み切り短編としてうまくまとまっていると思いました。 (2022/07/09(土) 21:54)
キャラのアク強めでした(当社比)。バトル描写は不得手なんですが、短編であればなんとかうまく料理できますね ……。
いつかのその未来があったとしても。
今度は彼が、其の手を取って帰ってくることを祈るばかりです。 (2022/07/09(土) 22:27)
円満には終わりませんでしたが、なんとか彼らには最後に納得できる道にたどり着いて欲しいなって思います。
読んでくださった方々、そして票を投じてくださった方々に深く御礼申し上げます。次のお話でお会いしましょう。
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