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中秋駆け足参拝記 の履歴(No.1)


 中秋駆け足参拝記

 作呂蒙
 
 
 <登場キャラ>
 結城・ナイルのご主人。歴史と旅が大好き。頭はそれなりに良いが、ポケモンの知識はないに等しい。
 ナイル・フライゴン♂ なんだかんだで結城とはうまくやっている。結城とは違い、旅の一番の目的は「食」 


 序章

 10月も下旬となると、真夏のギラギラとした直射日光と比べれば、日差しも随分と穏やかになった。日中は暖かくても、日が沈むと肌寒く感じるようになる日も増えてきた。
 こういう陽気だと、どこかに遠出したくなる。9月から10月にかけて3連休が何度かあったものの、どこも天気が悪く、遠出の計画は流れてしまった。
 3連休は活用できなかったものの、週末を最大限利用して、遠出の計画を立てた。さすがにどこか、遠出しないと精神的に参ってしまう。
「どうせだから、普段行かないところに行こう」
「例えば?」
 結城はこんなことを言い出した。大学の春休みは中学や高校と比べるとかなり長いため、それまで何とか我慢して、お金を貯め、1週間くらい海外旅行をするという計画も1つの案としてあるにはあったのだが……。
(ああ、こりゃあダメだな……)
 今は世界情勢に加えて、極端な円安。日銀が介入しても焼け石に水。当分、円高には振れないだろうと思い、この案はボツになってしまった。
「伊勢とか、意外と行きそうで行かないからな。今回は、三重県だな」
「三重県ねぇ……」
 ナイルにはピンとこない様だったが……。
「意外とうまいもん多いぞ?『松阪牛』とか有名だろ?」
 結城がそういうと、ナイルも行く気になった。結城はそこまで、食に興味がある方ではなかったが、それでも今回は食べ歩きというのも悪くはないかなと思った。今後また、とても旅行どころではなくなってしまうかもしれないではないか。
 三重県で有名なものといえば、松阪牛やイセエビ、真珠あたりであろうか? それと、旅の目的地としては、日本最高ランクの格式を誇る伊勢神宮がある。
「ご主人、他に有名なものは?」
「そうだなぁ……。伊賀忍者とか、後は、松尾芭蕉とか、江戸川乱歩?」
 松尾芭蕉(1644~94)、現代日本でも極めて知名度の高い俳諧師である。もともと伊勢・伊賀32万石の大名である藤堂家の一族・藤堂良忠(1642~66)に召し使いとして仕えており、良忠が俳句を嗜んでいたことに影響され、芭蕉も俳句を始めたといわれている。
 だが、主君である良忠が24歳で病死。主の菩提を弔うため、高野山に赴いた後に、藤堂家を辞し、数年後(1675年頃といわれている)に江戸にやってきたという。この数年間は資料が少ないせいか、動向が不明で、何をしていたのか分かっていない部分も多い。
 その後、生まれ故郷である伊賀には何度か里帰りをしているものの、江戸で過ごした時期が長かった。40歳を過ぎた頃から、日本各地へ旅に出るようになる。『おくのほそ道』は芭蕉が45歳の時に江戸を出発し、再び江戸に戻ってきたのはその2年後であった。
 この旅に同行していた河合曾良(1649~1710)が著した旅の記録『曾良旅日記』は歴史学上の貴重な資料である。
 江戸川乱歩(1894~1965)、三重県名張市出身の作家で「江戸川乱歩」というペンネームがアメリカの作家・エドガー=アラン=ポー(1809~49)のもじりであることは良く知られている。
『D坂の殺人事件』(1925年)『一寸法師』(1926~27年)などの推理小説や『人間椅子』(1925年)に知られるような、軽く言えば変態、重く言えば異常な嗜好を持った人間を描いた作品で知られている。
 ただ、江戸川乱歩の場合、出身は三重県なのだが、3歳の時には三重県を離れているので「三重県の作家」といっていいのか、微妙なところではある。


 第1章 電車ではない

 夜行の高速バスで、朝の名古屋駅に着いた結城たちは、関西本線のホームに向かう。乗り場は12番ホームである。越前行きの時は8月で、ベタベタ、ムシムシとした不快な空気が立ち込めていたが、さすがに10月の下旬ともなると、秋の乾いた涼しい空気になっている。
 最初に乗る列車は臨時快速「みえ51号」伊勢市行きで、発車時刻は7時43分である。終点の伊勢市駅には9時30分に到着する。終点まで2時間弱の旅となる。
「眠れはしたが、やっぱり横になって寝ないと疲れは取れないな……」
「そうだね……」
 結城は、夜行バスだと眠れないという懸念があったので、少しお酒を入れてから高速バスに乗った。その結果、眠れはしたのだが、座って眠るということ自体に無理があったのか、眠気はなかったが、疲れが残るという中途半端なコンディションになってしまった。
「座れないと、さすがにきついからな。早めにホームに向かうぞ」
 そう言って、発車の20分前には関西本線のホームで列車の入線を待った。一番乗りかと思いきや、やはり腐っても観光地へ向かう列車である。すでに先客がいた。
 結城が早めにホームに向かったのはもちろん座りたいからなのだが、この快速「みえ」は、たったの2両編成であり、早めにホームへ行っておかないと、始発から立っていないといけなくなってしまうのだ。
 もともと4両編成だったのだが、新型コロナウイルスの蔓延で、客足が遠のいた結果、半分の2両編成になってしまった。そのため、列車が入線すると、長大なホームの中ほどにちょこんと2両の列車が止まっているという、百万都市の駅らしからぬ何とも奇妙な絵面が出現することになる。
 発車時刻が近づくにつれ、乗車口で待つ人数も増えてくる。いざ、列車がホームに入ってくると、立ち客はいなかったものの、座席はほぼ埋まってしまった。
 7時43分発快速「みえ51号」は、2両編成で、快速列車としてはふかふかのクロスシートを備えている。電気が通っていない区間を走るため、電車でなくディーゼルカーである。
 その日は、土曜日ということもあってか、車内の乗客ほぼ全員が行楽客と思しきいでたちをしていた。
 東京から伊勢へ行くとなると、大体は名古屋に寄り、そこから、近鉄かJRを利用することになる。変化球として、愛知県東部の豊橋から、渥美半島を通過して伊良湖岬からフェリーで鳥羽に向かうというルートもあるにはあるのだが、乗り換えが多くなるし、交通費が嵩んでしまうという理由で今回は見送りになった。
「みえ51号」は時間通りに名古屋駅を発車した。ディーゼルカー特有のエンジン音を響かせ、伊勢に向けて順調な滑り出し……と書きたいのだが、そうもいかなかった。
 近鉄は伊勢まで全線が電車で、線路も複線なので道中障害らしい障害はないのだが、JRの方は、ところどころしか複線化されておらず、行き違いのために、時刻表の上では通過駅となっているはずの駅に停車(運転停車)したり、対向の列車がやってくるまで、駅でしばらく待つということがあり、それが足枷となってしまっている。
 近鉄の方は、安く早く移動できる手段として、急行電車を走らせており、こちらは6両編成の電車で、本数も多く、所要時間もJRとほぼ同じなので、利便性では近鉄の圧勝である。
 実際、結城も伊勢から名古屋に戻る時は近鉄を使う予定であり、JRを使ったのは「行きと帰りで同じルートってのも面白くないから」「ディーゼルカーなんてなかなか乗れないから」という理由でしかなかった。
 しいてメリットをあげるとするのであれば、伊勢市駅でJR側のホームの方が伊勢神宮の外宮に若干近いということだろうか。といっても、それほど距離の違いがあるわけではなく、誤差の範囲内だが。

「みえ51号」は名古屋駅を出ると、もう愛知県内の駅にはどこにも停車せずに、三重県まで行ってしまう。最初の停車駅は桑名である。
 名古屋市を抜け、蟹江町に入ると、住宅の数はまだそれなりにあるものの、背の高い建物の数は明らかに少なくなった。そして、あちこちに水田や畑が見られるようになる。蟹江駅を通過して、少し経つと列車はスピードを落とす。
「あれ? もう最初の停車駅かな?」
「そんな、バカな。まだ愛知県を抜けてすらいないぞ」
 列車はさらにスピードを落とし、何もない線路の上で止まってしまった。
「ご主人、止まっちゃったよ」
「まずいな、もしかして何かあったか」 
 これまでの旅では、幸運にも事故や災害で足止めを食うことはなかったのだが……。予定が狂うのは好ましくないなと思っていたが、何かあったわけではなかった。何でも、信号待ちのためだという。自動車でもないのに、なんだそれはと思うかもしれないが、関西本線はところどころしか複線化されておらず、このようにすれ違いポイントで止まることがある。これで遅れが出るわけではないのだが、スピードアップの足枷になってしまっているのは事実である。
 しばらく待っていると対向列車がやってきて「みえ51号」もエンジン音を響かせながら、ゆっくりと動き出した。
 弥富駅を過ぎると、長い鉄橋を渡る。この橋を越えると、三重県である。
「ご主人、ずいぶん大きい川だね。川というよりも海だね」
「ああ、木曽川か。この川を越えたら三重県だぞ」
 名古屋からやってきたJR関西本線や近鉄名古屋線は、弥冨を過ぎると、大きな川を3つ通過することになる。この3つの川が木曽川、長良川、揖斐川であり、いずれも東海地方の大河である。この3つの河川を総称して「木曽三川」という。
 この河川が、山から養分を運んでくるため、最下流に位置する桑名では特産品となる豊富な蛤をもたらすなど、恩恵もあったが、川幅が極めて広く、また国境が入り組んでいたこともあって、なかなか画一的な治水ができなかった。そのため、水害が頻繁に発生したという。
 桑名の近隣にある長島では、16世紀後半に石山本願寺からの檄文に呼応した信者たちが蜂起し、織田信長(1534~82)と敵対した。攻め潰そうにも、当時の長島は文字通りの島であり、川が天然の堀となり、さらには要塞化されていたため、さすがの信長も鎮圧に手こずった。
 組織化された一揆勢の勢いはすさまじく、戦上手として知られた滝川一益(1525~86)が鎮圧にあたったものの敗走し、桑名城に籠城を余儀なくされ、他にも武将クラスでの負傷者や討ち死が出てしまう。
 この一向一揆は元亀元年(1570年)9月に発生し、短期での鎮圧は難しいと判断した信長は長期戦に切り替え、一揆勢を干し殺しにするため、伊勢湾に水軍を展開して海上封鎖を行った。戦いは長引き、結局、鎮圧されるまでに4年もの歳月を要した。この鎮圧には、ほとんどの信長配下の武将が参戦していた。そして、信長の処置は苛烈なものだった。
 天正2年(1574年)9月29日、厳重な海上封鎖により、長島の兵糧が尽きたため、一揆勢は降伏を申し出てきた。信長はこの降伏を受け入れたのだが、実際は一揆勢を放免する気などさらさらなく、要塞から退去する一揆勢を片っ端から鉄砲で撃ち殺したという。
 だが、これは一揆勢の捨て身の反撃を招き、織田方にも被害が出たため、信長は方針を転換した。未だ籠城中の要塞は厳重に包囲したうえで火攻めにし、要塞もろとも一揆勢を焼き殺した。
 この苛烈な処置は、信長の残忍性を強調するエピソードの1つではある。しかし、当時は一揆勢の総本山である石山は健在で、放っておけばいつまた再蜂起するかも分からない危険な存在であった。信長にとっては、この苛烈な処置もやむなしだったのかもしれない。
 この後、長島は滝川一益の支配下に入った。関ケ原の戦いの後、桑名にやってきたのが、猛将として知られる本多忠勝(1548~1610)である。ただ、忠勝の没後の元和3年(1617年)に播磨姫路に国替えになったため、本多家による桑名支配の時間は短かった。
 江戸時代になり、天下泰平の世の中となり戦はなくなり、また五街道をはじめとする街道の整備も行われたが、この広大な川に橋を架けるのは当時の技術では難しく、また橋を架けてしまうと敵が攻めてきやすくなるという考える者も多く、木曽川に橋が架けられたのは明治時代になってからだった。
 そのため、五街道の1つ、東海道も熱田と桑名の間は「七里の渡し」という伊勢湾を船で突っ切るルートが設けられた。ただ、このルート確かに距離は短くなるが、航海技術が未発達な江戸時代においては、海難事故も多かったという。
「それじゃあ、安全に行き来する方法はなかったわけ?」
「まあ、安全にっていうか、そもそも通らなきゃいいのさ。遠回りするルートもあったし」
 五街道の脇道として機能していた「美濃路」も遠回りルートの1つであり、この美濃路に沿うようにして敷かれている鉄道が現在の東海道本線である。

 桑名駅の次の停車駅は四日市駅であるのだが、その直前の富田駅でまた止まってしまった。
「ご主人、なんか止まったね」
「ああ、運転停車だな」
 快速「みえ51号」は、またしても、対向列車との行き違いのため、途中での停車を余儀なくされている。特にやることも無いので、窓の外を眺めて、列車が動き出すのを待つ。
「あ、ナイル。あそこに『地方の商店街バスター』があるな。あれ、四日市が発祥らしいぞ」
「『商店街バスター』って……」
「だって、事実だろ? 立民の岡田元外相って『商店街バスター』の創業者の一族だぞ」
「そういうことは良く知っているよね、ご主人」
 四日市市は、三重県内で最大の人口を有する工業都市として知られている。昭和41(1966)年に四日市市長となった九鬼喜久男(1918~2005)による極端な工業化政策の結果、工業都市としては発展した。
 だが、その代償として公害という問題を引き起こしたが、九鬼や与党である四日市の自民党市議団は地元企業と癒着しており、当然といえば当然だが、公害に対しても何も手を打たなかった。さらに「経済発展のための代償だからやむを得ない」「漁業は時代遅れだから廃業すればいい」という九鬼の発言が住民の怒りに火をつけた。
 最終的に、謝罪に追い込まれたが、それでも諦めきれなかったのか、昭和47(1972)年の県知事選に出馬することにしたが、市長時代の積もり積もった悪評が致命傷となり、自民党と財界の支援があったものの、落選してしまった。
 かつては公害が蔓延している評判の良く無い都市だったが、現在は普通に住める都市となっている。
 県最大の都市の駅らしく駅は見合ったものであったと書きたいのだが、そういうわけではなかった。JRの四日市駅は、駅というよりも貨物線の待機場というような趣で、旅客用のホームはその片隅におまけのように設けられているというような感じであった。
 きちんと駅員が常駐しており、特急列車も停まる駅ではあるのだが、ホームで列車を待っている人は少なく、快速「みえ51号」の乗客の入れ替えもわずかであった。
「ご主人、なんだか随分寂れちゃっているね」
「まあな。ここからちょっと離れたところにある『近鉄の』四日市駅の方は栄えているらしいがな」
 JRの四日市駅から15分ほど歩いたところにある近鉄四日市駅の方は、商業施設などもあり、それなりに栄えている。名古屋と四日市間の運賃は近鉄の方が高いのだが、利便性は近鉄の方が圧倒的に良く、そのことを差し引いてもおつりがくるのか、関西本線の利用客は多くないというのが現状である。
 四日市も定刻通りの発車であった。四日市から2つ目の河原田駅というところで、伊勢鉄道伊勢線という路線に入る。JR線だけで、名古屋から伊勢方面に行こうとすると、伊賀地方の入り口である亀山まで行き、そこから紀勢本線に乗り換えなければならないが、そんなことをすると、遠回りで時間がかかってしまう。
 そこで、当時の国鉄が昭和48(1973)年に敷設した路線が、現在の伊勢鉄道である。が、近道をすることが最優先で需要のことなどは全くといっていいほど考慮されなかった路線なので、利用状況は良くなかった。さらに近鉄という強力なライバルがいたこともあり、たった10年で「廃止もやむなし」とまで言われてしまうが、どうにか廃線だけは免れた。
 廃線こそ免れたものの国鉄路線ではなく、地元沿線に必要な資金を出資させる方式(第三セクター方式)で存続が決まり、今に至っている。ちなみにかつては超赤字路線だったが、現在は沿線の宅地開発や路線の高速化が進み、利用客が増えたこともあって、赤字を出し続けるという状況ではないそうだ。

 レース場で有名な鈴鹿を過ぎると、次の停車駅は津である。三重県の県庁所在地なのだが、人口は四日市市の方が多い。かつては伊勢から伊賀にまたがる津藩32万3000石の本拠地で、伊勢神宮への参拝ルートの途上にあったことから宿場町としても栄えた。
 ところで、三重県といえば何地方に属するのか? 答えに窮する人が多い。近畿地方ではあるのだが、関西かと言われると何だか違う気もする。一方でテレビのニュースなどでは「東海三県」という括りの一員になっている。これについて結城は
「位置が微妙過ぎるんだよ。本当は伊勢志摩と伊賀は分けたほうがいいのかもしれないな」
 と言っている。さすがに、今更、伊勢志摩と伊賀を分けてしまえというのはいささか乱暴かもしれないが、伊勢北部の四日市や桑名は愛知県との結びつきが強いのに対し、伊賀地方は関西地方との結びつきが強い。
 三重県そのものは複数の地域にまたがるほど面積が大きい……わけではなく(47位中25位)隣の岐阜県の方が面積はずっと大きい(47位中7位)のだが、微妙な位置にあるため、県内で結びつきの強いエリアが大きく異なり、それが「結局、何地方なのか?」と言われてしまう原因の1つになっている。
 津は対向列車が遅れているとのことで、定刻から5分遅れでの発車となった。津駅は三重県内ターミナル駅の1つなのだが、車内の客の入れ替えはほとんどなかった。やはり、ほとんどの乗客は伊勢市駅まで行くのであろうか?
「あ、そうそう。ここから紀勢本線だな」
「ちょっと遅れたみたいだね」
「まあ、大丈夫だろ」
 紀勢本線は、ローカル線ではなく幹線という位置づけにはなっているが、ほとんどが単線で三重県側E%3??至っては、電気が通っておらず、鈍行も特急もディーゼルカーが走っている。ちなみに全線開通したのは昭和34(1959)年7月15日と比較的新しい。
 亀山から和歌山までを紀伊半島の海岸線沿いに敷かれた全長400キロ近い路線で、かつては名古屋発天王寺行きという紀勢本線を通しで走る夜行列車もあったようだが、夜行列車そのものが絶滅寸前の今となっては、当然そのような列車は運行されていない。
「全線通しで走る列車はないようだけど、亀山から新宮まで通しで走る普通列車があるようだな」
 結城が持参した時刻表のページを見ながらそんなことを言う。亀山から新宮までは約180キロの距離がある。
「で、ご主人。普通列車だとどのくらい時間がかかるの?」
「えーっと、亀山発が6時08分で、新宮到着が10時21分だそうだ」
「え……。4時間以上かかるの……」
「まあ、幹線と言えど、実質ローカル線だからそんなもんだろ」
 ところで、これだけの長時間運行でありながら、亀山と新宮の間に走っているのはキハ25系という列車なのだが、なんとこの列車、大都市でよくみられるのと同じロングシートオンリーという設備で、長距離・長時間の利用客にとっては全然ありがたくない仕様になっている。
「やわらかめのベンチに座らされる、ドS仕様というわけだな」
 別にイジワルということではなく、全線通しで乗る利用客など、相当な物好きに限られるのだから、そういったことは想定していなかったのかもしれない。
 津を出ると、次の停車駅は松坂である。
「読みは『まつさか』なんだよな」
「ふ~ん、濁らないんだね。……ところで、寄り道はしないの?」
「ふふふ、残念だったな。まあ、後でうまいもん食わせてやるから」
 現在の松阪市の礎を築いたのが、近江出身の武将・蒲生氏郷(1556~95)である。氏郷が松阪を治めたのは天正12(1584)年から6年ほどと長くはなかったが、精力的に領内の発展に力を入れたことが伝わっている。
 氏郷は、農業よりも商業を重視しており、旧領・近江日野の商人を松阪へ招いて商いをさせたことが「伊勢商人」の起源であるとされている。
 氏郷は会津に国替えとなり、その後、松阪を治めたのが服部一忠(?~1595)である。桶狭間の戦いで、今川義元に一番槍をつけた「服部小平太」と同一人物である。もっとも一番槍をつけたものの、義元が反撃に出たため負傷し、義元を討ち取ったのは助太刀にやってきた毛利新介なる人物だとされている。
 一忠は、織田家に仕えているときはパッとしなかったが、豊臣家に仕えると順調に昇進し、豊臣家の次世代を担う……と思われた関白・豊臣秀次(1568~95)の側近として活動していた。このまま、出世街道を歩み続けるかと思われたが、文禄4(1595)年7月に発生したいわゆる「秀次事件」に連座し、最終的に自害に追い込まれてしまう。
 その後、江戸時代になると、松阪は将軍家の一族である御三家の1つ、紀伊徳川家の領地となった。本拠地である和歌山からは遠く離れているため、松阪にも統治のために城がおかれ、役人を派遣してこの地を治めたという。

 松阪の次の停車駅は多気であった。紀勢本線と参宮線の乗換駅ではあるのだが、松阪と比べると、駅の周りに住宅やビルの類は少なく、畑が広がっている。松阪が人口15万4千を抱える「市」であるのに対し、多気は人口1万3千余りの「町」なのだから、当然といえば当然だが。
「まずいぞ、ナイル。何か雲行きが怪しいな」
「本当だ、曇ってきたね。今にも雨が降りそうだよ?」
 多気駅に着いたところで、ふと窓の外を見ると、空には灰色の雲がどんよりと垂れ込めている。
 多気駅から、参宮線に入る。その名の通り、伊勢神宮への参拝のために敷かれた路線である。神社の中でも由緒正しい最高格式を誇る伊勢神宮へ簡単に行けるためか、利用客はかなり多く、ローカル線扱いされている現在とは違い、大都市を走る幹線路線と同等の扱いであった。
 が、戦時中、物資が不足してくると、金属供出の一環で線路の片方を引っぺがされて、単線になってしまう。戦後になって、需要も回復してくるだろうと思われたが、その矢先に近鉄という強力なライバルが出現。着々と路線の整備を進める近鉄に客を奪われた結果、伊勢神宮という集客スポットを抱えているにもかかわらず、赤字路線に転落。現在に至っている。
 多気駅を出て、しばらくすると、雨が降ってきたが、幸いなことに10分もしないうちに止んでしまった。傘を持ってきていなかったので、どうしようかと思っていたが、とりあえずは一安心だ。
 多気駅から5つ目の駅が、伊勢市駅である。参宮線の駅の中では唯一、自動改札機が設けられている駅である。
「やっと、着いたな」
 結城たちは列車を降りる。伊勢市駅に時間通りに到着した「みえ51号」は、お勤めを終えたので、車庫に入る……わけではなく、今度は鳥羽行きの普通列車として、そのままの車両で運行される。だから、鳥羽までの乗車券を持っているのなら、そのまま列車に乗っていてもいいのだそうだ。
 

 第2章 天気は気まぐれ

 結城たちが伊勢市駅に着いた時は幸いにも晴れていた。時間がまだ、午前10時前ということもあって、参道のお店はまだ開店準備をしているところがほとんどであった。
「それじゃあ、まずは外宮だな」
 伊勢神宮には伊勢市駅の近くにある「外宮」と伊勢市駅からバスで15分ほどのところにある「内宮」がある。内宮が日本神話に登場する「天照大神」を祀っており、外宮の方は同じく日本神話に登場する「豊受大神」を祀っている。皇室の祖先とされる「伊邪那(イザナミ)美命」の孫で、衣食住をつかさどる神様なのだという。
 ちなみに外宮と内宮の片方しか参拝しないのは「片参り」といって、禁忌とされる行為である。外宮は伊勢市駅から徒歩で簡単にアクセスできるが、内宮は駅から離れたところにあるため、路線バスに乗るか、でなければタクシーを使うしかない。
「内宮までは距離があって、行くのに時間がかかりそうだからな、さっさと参拝を済ませてしまうとしようか」
 時間に限りがある上に、内宮までどのくらいの時間がかかるか予測が立てづらかった。伊勢市駅前から路線バスが走ってはいるのだが、道路が狭いうえに、日本有数の観光地ということもあって、しばしば渋滞が発生するからだ。だから今回も例によって駆け足観光である。
 いったん雨が上がったが、またパラパラと弱い雨が降ってきた。傘をさすほどではなかったので、濡れながら、参道を歩く。
「外宮」という呼び方をされているが、正式名称は「豊受大神宮」というのだそうだ。「火除け橋」という木製の橋の先に鳥居がある。その鳥居の周りは木々が茂っている。誰が見ても、浮世とは別空間への入り口ということを実感するだろう。
「すごいね、なんか……。別世界への入り口みたい」
「まあ、あながち間違いではないかもな」
 神社や寺というのは、言ってみれば聖域であり、俗世間とは異なる領域なのだ。嘘か真か知る術はないが、パワーをもらえるスポットとして神社が紹介されるのも、分からなくもない。
 平家の総帥・平清盛(1118~81)も勅使として、外宮に三度訪れたことが記録に残り、清盛にゆかりがあるといわれているクスノキが境内に現存している。もし、本当に清盛にゆかりがあるとするならば、8~900年は存在していることになる。気の遠くなるような時間だ。
「それにしても、雨が降ったり止んだりだな」
 木々の枝で、ある程度はブロックされるので、そこまでは気にならないが、パラパラと弱い雨が降ったり止んだりを繰り返している。
「豊受大神」が祀られている正宮に参拝を済ませる。このまま、内宮へ移動しても参拝の作法として問題はないのだが、せっかくここまで来たのだから、もう一ケ所くらい参拝しておくか、という気持ちで「多賀宮」にも行ってみることにした。
 境内の中に小高い丘があり、そこに鎮座している。祀られている神様は「豊受大神」で、正宮と変わらないのだが、なんでもここで祀っているのは「豊受大神」の「荒御魂(あらみたま)」を祀っているのだそうだ。
(神様は一緒なのだから、別々に祀る必要があるのか?)
 と、結城は思った。調べてみると、どうもこういうことらしい。ものすごくざっくり説明すると、神様を魂(人間風にいえば、一面?)ごとにお祀りするという神道特有の現象であり「荒御魂(あらみたま)」とは、活力を生み出すエネルギッシュな魂のことらしい。つまり「多賀宮」とは「豊受大神」の持つ「エネルギッシュな御魂」祀っている場所……ということになる……のだろうか?
 多神教の複雑さというものを改めて思い知らされる。その点、一神教はシンプルである。乱暴な説明かもしれないが「唯一神は全知全能である」という説明で、ある程度は片が付いてしまうのだから。多神教のように「〇〇を司る神様」なるものは存在しない。とはいっても、凄惨な宗教戦争が発生しているのは、一神教の国家がひしめく地域である。
(そう考えると、日本って宗教戦争ってないよな。一向一揆はあったけど、宗教戦争かって言われると違う気もするし)
 あとは、大和時代に仏教を受け入れるのか否かで、対立した蘇我と物部の争いなどもあるが、実際は仏教がどうこうよりも皇位継承をめぐっての対立だったといわれており、これも宗教戦争とはみなされていない。
「まあ、だからさっきのはだな、ナイルに例えると、こういうことだと思うぞ?」
(……まーた、変なこと言いだす気かな?)
「ナイルにも、まあいろいろな状態があるわけだな。まず『空腹でご飯を早くよこせモード』それから『満腹で眠くなってきたモード』『お風呂に浸かってリラックスモード』」
 とまあ、ここまでは良かったのだが……。ネタが尽きたのか、ナイルの予想通り変な方向へ話が進んでしまったのか
「えーと、あとは『妙な夢を見たせいか、朝立ちモード』『発情期に入ってムラムラモード』『最近、出してないから、出しておきたいモード』……」
「後半、全部言っていること一緒だよね、うん?」
 ナイルが睨んでも、その程度では結城は動じない。
「だって、お前『えっちドラゴン』じゃん、そういう年頃だから分からんでもないけどさ。外見もなんかいやらしいしな、えっちで」
「さっきから、黙って聞いてりゃ、ずいぶん失礼なことを」
「じゃあ、これなんて読むよ?」

・ 万古焼

「え?えーっと、まん……」
「ブッブー。はい、外れー! ほら見ろ、変なこと考えているじゃないか! いやらしいことを考えているから、そういう言葉が出てきちゃうんだよ」
 万古焼(ばんこやき)とは、三重県四日市市を中心に生産されている陶磁器である。戦時中、四日市に大規模な空襲があり、窯元がやられ大打撃を受けたが、戦後早い段階で復興を果たした。現在でも、広く使われており、鍋料理に欠かせない土鍋は、万古焼であることが多い。
 外宮を一通り見たので、今度は内宮である。徒歩で行けるような距離ではないので、駅前から出ている路線バスかタクシーを使うことになる。
(うーん、10分ちょっと時間があるか……)
 バス停の時刻表で、時間を確認していると、結城の背後から路線バスがやってきた。回送のバスかと思ったが、なんと時刻表には載っていない臨時便であるとのこと。伊勢神宮という極めて需要の大きいスポットを抱えているため、正規便だけではお客を捌ききれないのだろう。
 ありがたいことに内宮まで途中のバス停に停まらずに行ってくれるという。ある程度のお客を乗せると、バスは動き出した。
 曲がりくねった県道を進むが、内宮へ続く道とあって、車の数が多い。近くに駐車場があるそうなので、自家用車での参拝も可能ではある。しかし……。
(ええ……まだ午前中なのに……)
 途中、内宮の駐車場案内の看板があったのだが、それによると、入場まで90分もかかるという。早朝に来るのでなければ、自家用車で来るのは得策ではないだろう。たかが車一台を止めるのに1時間半も待たされては、疲れて参拝どころではなくなってしまう。
 道中、いくつかバス停はあったが、案内通りすべて通過し、終点のバス停に到着した。かかった時間は15分くらいだっただろうか。
「あ、そうだ。ナイル。このすぐ近くに『おかげ横丁』っていうエリアがあるから、昼はそこで何か買って食べるとしようか」
「あ、それ、いいね」
「で、その際の注意点だが……」
「えっ? 何か、作法とかあるの?」
「作法ではないんだが、食べ歩きしていると『強襲カラス』が出てくるらしいんだ。それには気を付けないとな」
「何それ?」
 何でも、おかげ横丁で食べ歩きをしていると、食べ物を狙ってカラスが襲い掛かってくるらしいのだ。
「どんだけ、凶暴なカラスなんだよ……」
「だから、食べ歩きしないで、屋内で食事をとったほうがいいな。さすがに屋内までは入ってこないだろうから」
 終点のバス停「内宮前」から少し歩くと、鳥居が見え、そこには橋が架かっている。日本が誇る最高格式の神社ということもあって、多くの人が行き交っている。
「おお、これが有名な宇治橋か!」
 宇治橋の始点と終点にはそれぞれ鳥居が立っている。この橋の下を流れるのが、五十鈴川である。ちなみに自動車メーカーの「いすゞ」はこの川が由来になっている。内宮の敷地内には、五十鈴川の川岸まで下りられる場所がある。この場所は「御手洗場」と言われており、おそらくは手や口を洗って清める場だったのだろうが……。
「あっ、ひどいな、これ。トレビの泉か何かと勘違いしてるんじゃねえのか?」
 なんと、川には小銭が大量に投げ込まれていた。川岸には「小銭を投げ込まないでください」と書かれた看板が立っているのにもかかわらず、だ。結城たちが行った時もそのような有様であった。百歩譲って注意書きの看板が茂みの中など、分かりにくいところにあったら、神社側にも責任があるかもしれないが、看板は川岸の目立つところに立っており、意図的に無視しなければ、見落とすということは考えにくい。
 寺社仏閣はテーマパークではなく、厳粛な祈りの場である。こんなことをした阿呆には、神罰が下ればいいと思いながら、結城はその場を後にした。
 ちなみに結城は後で知ったのだが、この「御手洗場」のすぐそばには祠があり、五十鈴川の守り神が祀られているのだそうだ。そんな神様の前で堂々と禁忌行為を犯すとは、命知らずもいいところである。
「『オーバーツーリズム』ってやつなのかな。銭を落としてくれるからいいってわけでもないんだよね」
 結城はそんなことを言う。観光地でも、観光客、それもマナーの悪い観光客が大挙して押し寄せて、地元住民の生活環境を破壊しているようなところさえある。銭を落としてくれるのは確かだろうが、長期的な視点で見るとどうだろうか?
「じゃあ『来るな』って言えばいいじゃん」
「いやそんなこと言ったところで、どうせ来る奴は来るって」
「あ、そっか」
 そんな聞き分けの良い人間ばかりなら苦労はしないのである。
 天気は短い周期でころころ変わり、晴れていたかと思うと、パラパラと雨が降ってきたり、雨が降っていたかと思うと、上がってしまう。よく山の天気は変わりやすいというが、伊勢神宮は山の中にあるわけではない。どのようなメカニズムが働いているかは、分からなかった。
 境内の砂利道を歩いていると、参集殿授与所があった。授与所のほうへ視線を向け、足を止める。普段、結城は授与所で何かを買うことはなく、御朱印を集めているわけでもない。
「どうしたの、ご主人?」
「いや、本当かどうかは分からないんだが……。伊勢神宮のおみくじには『凶』が入っていないらしいんだ」
「へぇ~……本当かなぁ?」
「いや、だから、本当かどうかは分からないって言っただろ?」
 日本が誇る最高格式の神社にお参りすることができた以上、これはめでたいことである。どうして「凶」であることがあろうか……という理由で、凶を入れていないらしい。確かに理屈として通ってはいる。本当なのかと疑う気持ちが全くないといえば、ウソになるが、それでも、おみくじを全部買い占めて確かめようという気にはならなかった。ご利益にあずかるために参拝しに来ているのに、そこまで疑っては神様に失礼というものだろう。
 結城たちは、授与所をスルーして、正宮に向かった。ここには、皇室の祖とされている神様・天照大御神が祀られている。ちなみに女性とのことである。
 昼食時で、参拝客も少ないと思われたが、そこは伊勢神宮。正宮の鳥居の外にまで、列が伸びていて、参拝には少々時間がかかりそうだった。
 しばらく待って、ようやく、賽銭箱の前まで来ることができた。形式通りにお参りを済ませ、そそくさと本殿をあとにする。本当は一人一人が賽銭箱の前で、賽銭を入れ、きっちりと時間をかけ、参拝をするべきなのだろうが、あまりにも人数が多いせいか、横一列に何人かが並び、一度に参拝する形になってしまっている。人数が人数なので、これは止む無しなのかもしれない。
「じゃあ、参拝も済ませたし、おかげ横丁のお店で、何か食べて帰るか」
 内宮の入り口まで戻ってくると、パラパラと降っていた雨が、どういうわけか、俄かに強くなり、お店を探すどころではなくなってしまった。やむなく、路線バスの待合室に入り、雨宿りをする。ついでにバスの時間も確認しておく。
 帰りは名古屋駅まで近鉄線を使うので、伊勢市の中心部にある宇治山田駅まで行く予定だ。15分ほど待っていると、雨が上がり、晴れ間が見えてきた。雨がざっと降ってきたこともあり、多少ムシムシしてはいるが、店を探すのには差し支えなかった。
「『伊勢うどん』というのがあるらしいから、それにするか」
 近くの店に入り、料理を注文する。しばらく待って、器の中に極太の麺が入った料理が出てきた。この麺の太さが一番の特徴である。器の底にたまり醤油が入っていて、それに面を絡めて食べるシンプルなものである。結城はこれだけだと、何だか味気ないような気もしたので、生卵を別に注文し、それをかけて食していた。
 まだ、バスの時間まで少し余裕があるので、おかげ横丁をぶらぶらと歩くことにした。当てもなくほっつき歩いていると、宝くじ売り場があった。買わなきゃ当たらないのは確かだが、1等に当選する確率は、雷の直撃を受けるよりも低いらしい。よって、結城は普段は宝くじなど買わないのだが……。
(参拝のご利益で意外と当たったりして……?)
 なぜかそんな風に思ってしまい、数字を自分で6つ選ぶ形式のやつを600円分だけ買うことにした。バスの時間が近づいてきたので、バスの乗り場に戻り、伊勢神宮をあとにした。


 後日、結城は宝くじを買ったことを思い出し
「ナイル、この前、宝くじ買ったよな。当たっているかどうか、調べてみようぜ?」
「え~……。どうせ外れでしょ?」
「いや、分からんぞ?」
 結城も1等当選はないだろうなと思っていたが、それでも、下のほうの等に引っかかっているのではと、淡い期待をしていた。調べてみると……
「あ。当たっているな、やったぞ」
「え~? ウソでしょ~?」
 ナイルは信じていなかったが、確かに当選はしていた。
「ほら、見ろ。当選金1000円だって」
 ご利益なのか、偶々なのか、一番下の等に引っかかっていた。600円の出費で当選金が1000円だから、確かに損はしていない。
 どうせなら、1等が当たっていれば、旅行し放題だと思ったが、そういう不埒なお願いというのは神様は聞き入れてくれないらしい。結局、その1000円は何か特別なことに使うわけでもなく、日々の生活費で消えてしまうこととなった。


 『中秋駆け足参拝記』おわり

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