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エンブリオ・インユーテロ の履歴(No.1)


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 手術中である。
 ヒマである。

 ナミイルカは脳を器用に半分ずつ眠らせながら泳ぎ続けるらしいが、天才産婦人科医たる私は脳を半分休ませながら施術する。2度の進化を経て右脳と左脳が連携を取れるようになると、たいていの仕事は空間認識とイメージを処理する大脳皮質の一領域だけで済んでしまうようになった。その間ヒマな左脳は音楽を流したり、今晩の夕飯を考えたり、手術費用の計上をしたり。
 それにも飽きてしまうと、もう少し深いことを考える。主に、フラスコの中の胚子(ランクルス)なんて恐れ多い種族名を頂戴した私について。

 バイオ分野において古くから『試験管内で(in vitro)』という言葉があって、それは『生体内で(in vivo)』と対比するために使われる表現だ。まだ原腸陥入もしてないユニランだった頃、私はその違いが分からなかった。なんせ自分自身がどちらの形質も併せ持っているから。全身を包む蛍光色のゲルはビタミン完備でpH緩衝機能付き。必須栄養素の補給はマストだけど老廃物は分解するから、細胞にとって理想の寒天培地を再現してくれる。抗生物質を接種しておけばコンタミの心配もまずない。住環境にこだわるのは種族柄みたいで、1日のほとんどを引きこもって半ばマイルームと化している手術室も、こまめに整頓してたりする。
 じゃあ先生は子ども部屋おばさんってこと? なんて言われると、ソイツが患者だろうが誰だろうが私は自慢の腕をぶん回してぺしゃんこにしてやるだろう。ダブラン期にそのジレンマには脳が2つにちぎれるほど悩まされてきたし、いきなりナイーブな質問をするのは普通に失礼なので。
 ちなみにそんな陳腐な心身問題に付き纏われるのは太古のランクルスたちもうんざりだったらしく、『子宮内で(in utero)』なんて都合のいい言葉を残している。Embryo in utero――どうということはない、多細胞生物ならほとんどの種族が通る有性生殖の初期胚発生。産まれてくるポケモンはみな私の弟妹(ていまい)なのだ、なんて傲慢さで、我々ランクルスはのんのんと生きている。『我思う、故に我あり(Cogito ergo sum)』みたいな哲学の裾野は、自分探しの旅に出たミュウツーにでもお任せしよう。

 そう、私は神をも恐れぬ傲慢さの持ち主なのだ。ヒマにかまけてニューロンをずいずい伸ばし、軸索で生命倫理の卵殻へ神経接続したりする。万物を造りたもうたアルセウスへ唾を吐きつけるようなことを、手術の片手間に灰色の脳細胞で考える。
 重要なのは誰がミュウツーを産んだのかじゃない。いかにしてミュウツーが生まれたかだ。





 子どもが母親と同じ種族で生まれてくることはたぶん、我々が共通言語を操るようになる以前から経験として流布していたはずだ。ガマゲロゲの子はいつの時代だってオタマロであって、ニョロモでもケロマツでもズピカでもない。ましてムクホークがワシボンを産むなんてことはあり得ない。

 なまじ超能力を扱えるポケモンがそこら中に跋扈する中、世界を自然主義的態度で解釈しようと思い至った者は相当な異常者だ。私がサイコキネシスでコーヒーマグを掴むのは朝起きてあくびするくらい直感的動作であって、そこに科学的意識は介在しない。
 生あくびのついでに自室のカーテンを開ければ、お隣に住むマグカルゴが「今日は暑いですね」なんて声をかけてくるのである。1万℃の体温を保ちながら。自然界において1万℃の熱源は太陽の表面温度よりはるかに高く、LEDライト1500万本分の光量を放ち、窓越しに数秒被曝すれば致死量の紫外線を放出しているはずだ。チオンジェンよりもよっぽど災厄カタツムリなポケモンが、のんきに私と朝の挨拶を交わしている。
 それのみにあらず、斜向かいのハガネールが風船を咥えて空を散歩し、その頭上をポニータが軽々と飛び越えていく。蒸気機関を内蔵したトロッゴンと、エンジンをふかしたブロロンが徒競走をしている。追突されたマルマインが、核融合ばりにエネルギーを放出しながら爆散する。……うむ、本日も異常なし。こんな日常風景を体系的に説明せよ、なんて求められても、まあだってそういうものですから……と、偉大なる先輩たちの築いてきた科学史から目を背けるしかないだろう。

 そんなわけで、子が親から引き継ぐものの形式として『遺伝子』という概念が提唱されたのはたった150年前のこと。その約50年後に遺伝子の物質的な実態がDNAだと判明し、またその50年後に転写や翻訳といった情報伝達のプロセスの全貌が解明された。今じゃ1000種以上のポケモンのゲノム解析はすでに完了し、ミュウツーに対して「ミュウの遺伝子のこの部分がmRNAの逆転写を起こしていますね。イラつきを抑えるためのホルモン剤を出しておきます」なんて診断してやることもできる。自分探しの旅の終着点は、二重の螺旋階段をひたすら上った先にあったのだ。あのガッチリした太ももは有酸素運動の賜物に違いない。
 破壊の遺伝子に振り回されてきたミュウツーが150年越しに、ようやくその原因に向かい合い治療へ専念するようになった。パラダイムシフトと呼ぶには大袈裟すぎるし、シンギュラリティと持て囃すには遅すぎる。外惑星じゃとっくの昔に常識らしく、隕石に乗って観光に来たデオキシスに「まだそんなことではしゃいでるんですか、やれやれ」なんて、ヌクレオチドな肩を竦められるに決まっている。





 私の元カレはブラッキーで、そいつは遺伝子工学の科学者だ。化石に残されたDNA断片を修復して、培養したメタモンの全能性幹細胞から一個体を復元した。数億年の眠りから覚めたタイムトラベラーにインタビューしてみればやはり、カブトプスは化石から蘇ってもカブトプスであり、オムスターは太古の昔から綿々とオムスターだったそうな。2匹はつがいで幸せなコロニーを形成していたけれど、産まれてくるのは母親と同じ種族のオムナイトばかり。末の子が覚えるはずのない超音波を使えたもんで、妻の浮気がバレました……なんて陳腐なエピソードまで披露してくれたんだと、元カレは言っていた。
 5年ほど付き合っていた私には、それがいつもの冗談だってすぐ分かる。科学は嘘をつかないけれど、科学者ってのは捏造と撤回を繰り返す生命体だから、これはまあ元気でやってますよっていう元カレなりの挨拶だ。
 そもそも何より斉一性を重んじた原初の時代、群れ単位で生活していたカブトプスが流れ者のオムスターを迎え入れるとは思えない。異種間交雑が一般的となったのは我々が文明を築いてからだ。仮にそんな夫婦がいたとして、浮気をするのはカブトをその鎌に抱きたくなった父親の方に違いない。

 私が創作をするならこうだな。天変地異が起こり、この星最後の1匹となったカブトプス。手当たり次第に他種族の雌と交尾しても、やはり一向にカブトは産まれなかったとさ。系統分類学の観点からすれば絶滅の悲劇だけれど、これが現代なら今ごろ彼は連続強姦魔のお尋ね者です。
 カブト族の名誉のために注釈をつけると、彼らはスクランブル交尾型一夫多妻制を取っていた種族なので、雄がひたすら雌を探し手当たり次第に交尾するのは、彼らの伝統的な繁殖スタイルなのである。絶滅の危機に瀕したせいで本能が暴走したのだ、と、獄中のカブトプスは語っている。

 元カレの冗談に付き合っても埒が明かないので、そろそろ自分のことについて。
 これはユニラン族に特異なパラノイアだったらしいけど、化学がまだ錬金術と呼ばれていた時代、孵化した赤児は「賢者の石をよこせ!」と叫んだそうな。フラスコに封じられた雄の精液から自然発生し、タマゴの殻が砕けたことで死に至ると思い込んでしまうのだ。産声の代わりに胚種説を唱え、遺伝的繋がりを放棄しようとする我が子に、ランクルスたちはほとほと手を焼いていたのだとか。……元カレの虚言癖が伝染したか、この話もだいぶ眉唾に聞こえるなあ。
 現代っ子の私は当然そんなこともなく、ちゃんと両親に帰属意識を持っているいい子ちゃんだ。ママは当然ランクルスだが、パパはピンク色をしたトリトドン。陸と海とを巡り巡る壮絶な恋愛を経て結ばれたらしいが、ここでは割愛する。

 生まれたばかりの私は、それはそれはママによく似た単細胞だったとか。口の角度や目の扁平率、ゲルの透過率まで丸きり一緒。透けて見えるミトコンドリアまでそっくりだったらしい。そりゃそうだ。細胞小器官は全て卵細胞由来のものだから、そこにパパの付け入る隙はない。
 ママからは種族やら特性やらオルガネラやら愛情やら、実に様々なものを授かった。かたやパパから受け継いだ形質といえば『とける』の技と、バトルに関する幾つかの能力値だけ。
 本当に?
 XYの性染色体を持つ雄の精原細胞が減数分裂することで、XもしくはYの配偶子=精細胞が作られる。それがXのみを持つ卵細胞と結合することでXXもしくはXYの接合子が誕生する。これはどのポケモンにも当てはまる。鉱物グループには性別がなく無性生殖する種族も多いし、伝説や幻とされる極端に数の少ない奴らの繁殖メカニズムは謎めいているけれど、メタモンとの交配ではメタモン由来の能力遺伝子と乗換えを起こしているので、やはり有性生殖の範疇にある。つまり、父親由来の遺伝情報も確実に次世代へと引き継がれている。

 カラナクシ族に特異な形質といえば体色が有名だろう。彼らの育った海の温度に起因するものだと長らく考えられてきたが、近年雌の持つ遺伝因子に決定づけられていることが判明した。幾多の海を隔てて桃色と水色のトリトドンが結ばれても、母親と同色のカラナクシしか産まれないのである。片親の遺伝子のみが選択的に発現する=ゲノムインプリンティングの詳細な機構を説明するには余白が狭すぎるが、言いたいのは私のパパのママ、つまり祖母は体色を鮮やかなピンクに染める形質を発現したトリトドンで、それを父親は継承しているってこと。
 ちなみにカラナクシ族もユニラン族と同様とけるを覚えないから、これはパパのパパつまり祖父、あるいはもっとそれ以前にプルリル族がいて、そこから連綿と引き継がれたもの、ということも推測できる。私がよく患者に「先生もしかして不機嫌ですか?」と訊かれるのは、プルリルの口角を押し下げる因子が隔世遺伝しているからかもしれない。
 そうなると、カラナクシの体色を決定する遺伝子だけが断絶しているとは思えない。ゴンベの体毛に隠されたきのみが忘れられてしまうように、パパから受け継いだそれは私のどこかに大切にしまわれているのである。
 全く同じ遺伝子を持つ=クローンの一卵性双生児だって姉と妹で別個体なんだから、カラナクシのDNAが色濃く混入しているユニランは唯一無二だ。カラナクシ色に修飾されたユニラン族のゲノムを、私も次世代へと運んでいく。ハハコモリが絹糸のところどころを染色して、クルミル族の歴史が刻まれたような荘厳な文様の民族衣装を織り上げるように。





 そもそも種族とは何ぞや。
 バルビートとイルミーゼは別種として認識されているが、イルミーゼの産むタマゴからはどちらの種族も均等に生誕する。ならばニドラン同様シノニムとして学名を統合し、性差で特徴の異なる同一種と見なすべきではないか。雌雄で外見や能力に隔たりのある種族はイエッサンがそうだが、彼らはアイデンティティを共有しあっている。

 DNA-DNA分子交雑法による解析をすれば、同じ種族では個体間の遺伝子一致率は99,99%に上るという。残りの0.01%が私の特徴――アルコールに強いとか、夏風邪を引きやすいとか、ピンクなカラナクシの血が流れてるとか――を決定づける。そんな細微な特徴で兄弟姉妹を見分けているんだから、我々はみな嵐の中で難破船を見つけるカイリューくらい視力自慢だ。
 種族間を調べると、例えばヤナップ、ヒヤップ、バオップなんかでは一致率は99%まで低下する。その1%未満が左右するタイプの違いなんてのは瑣末なはずなのに、我々はそこで種族の線引きをしているらしい。
 タマゴグループを隔てた、例えばランクルスとブラッキーなんかを解析すれば、一致率は60%程度にまで一気に引き下げられる。これがフリーマーケットならお買い得だけど、サイズの合わない服を買ったって世話がない。私たちが別れた理由も、根底を辿ればここに行き着くような気もする。
 けどこれにはタイプ相性みたいなものがあって、同程度の一致率でもデスカーンとバウッツェルの間ではタマゴができる。どのタマゴグループにも股をかけている種族はいるから、ランクルス同士が腕を繋いでニューロンネットワークを構築するみたいに、究極どんなに生殖隔離のある種族間でも遺伝情報を繋ぎ合わせることができのだ。

 mRNAの段階でスプライシングされる、もしくはそもそも転写されない領域について、我々の知ることは多くない。『ジャンクDNA』なんてSDGsに真っ向勝負を挑むような命名をされた領域は研究もまだ不十分だけど、ここにこそ種族の秘密が隠されているんじゃないかって科学者は躍起になっている。
 コイキングのゲノムはフカマル族と配列類似性が高いにもかかわらず、たったひとつの塩基対が置換されてしまったため凶暴性を欠如している。ギギギアルのコアの寸法が1nm違うだけで噛み合わなるみたいに、破壊の遺伝子は見事にスクラップされジャンク品に成り下がった。進化することで活性を取り戻すみたいだけど、その詳細なメカニズムはまだ解明されていない。

 遺伝子とは厳密には遺伝情報のことを定義していて、実は我々の持っているゲノムの1.5%程度しか遺伝子ではないことが近年分かってきた。つまりほとんどがジャンクなのである。垂れ流している私の空想なんて要点を抽出すればはわずかにしか残らないが、わずかに残された精髄だけででランクルスは設計できるらしい。

 そこで全くの専門外な私は、大胆な仮説を立てる。すなわち、我々ポケモンはみな、全てのポケモンの遺伝子を持っているのではないか。

 大抵の種族において、ひとつの細胞内に持つDNAの総延長は2mに達するとされる。それが直径10μmの細胞核に折り畳まれているのだから、我々はとことん小さくなって球体に収まるのが得意らしい。体細胞分裂のたびにこんがらかったモンジャラを解き、1塩基違わぬものを複製して、また包み直すという途方もないプロセスを経て我々は成長する。切り出したDNA断片をPCRで複製するのとは訳が違う。
 体重1kgあたり平均1兆個の細胞があるから、ランクルスな私は20兆個の細胞からなる。それらは全てひとつの受精卵から分裂してできたもので、一部のひねくれた免疫細胞を除き同じゲノムを有している。脳には脳のDNA、ゲルにはゲルのDNA、なんてことはない。
 なのにこれほど見た目も、それぞれの機能に特化しているのは、細胞ごとに発現する遺伝子を細かく調節しているからだ。転写因子とか、メチル化とかアセチル化とか、翻訳後修飾とか色々あるけど、1.5%しかない遺伝子をうまくやりくりしてランクルスを形作っている。

 もしそうしたエピジェネティックな調節を全て取り外し、2mあるDNAを全て形質発現させるとどうなるか。その答えは随分前から出している。
 30cm程度の、ピンクの生命体。
 ユニランが元来覚えない『とける』の技を遺伝的に受け継いでいることを逆説的に読み解けば、全ての技を行使できるミュウはすべての遺伝子を発現させていることになる。
 私だって以前は『とける』も、欠伸も飛び跳ねるも大爆発だって覚えていたかもしれない。そういった技に適合しない遺伝子を抑えることで、ユニランはユニランになっていった。もし科学技術が遺伝子に眠る技をアンロックすれば、私だって『ダークホール』『ロックオン』『ぜったいれいど』『すてゼリフ』なんて構成になることも夢じゃない。





 ウォーグルとムクホークのカップルがいたとして、遺伝子操作でワシボンを産ませることができたら、お父さんはさぞかし嬉しいんじゃないでしょうか。そのワシボンを息子ではなく娘にすることも、近いうち普通にできそうだ。
 1/4096で生じる体色異常は先天的な遺伝子疾患によるものだけど、受精卵のうちに発見して不活性化させておけば、将来的に立ちはだかる偏見や迫害を未然に防ぐことができる。進化に伴い不稔を引き起こす遺伝子を抑制しておけば、ニドクインは娘へ気兼ねなく月の石をプレゼントできる。そもそも進化を抑制する遺伝子を操作すれば、雄のヤトウモリだって妖艶なエンニュートへと転身できる。
 もちろん何かしらの規定を設ける必要はある。腐食毒を吐くなんてヤトウモリが不幸極まりないので、代わりに爽やかなミントの香りにしておきました、では困る。フローラルな吐息の代償に種族のアイデンティティを失うのはよろしくない。いよいよ種族なんてものから解放されて、親が子をシルヴァディみたいにデザインする未来が待っているのかもしれない。

 妄想は自由だけど、それを行動に移せる奴は真っ当な倫理観を持ち合わせていない。元カレはそういうことを研究している。ゲノム編集は臨床実験の段階にまで来ているんだよ、と力説されたけど、それがいつもの冗談であることを願うばかり。そもそも研究を始めた動機が、どう足掻いたってタマゴのできない私と子孫を残すためなんだから笑ってしまう。陸上と不定形の遺伝子は相性が悪いのか、ランクルスとブラッキーがタマゴを授かるためには、例えば鉱物グループを経由して、バウッツェルとデスカーンの少なくとも4世代を仲介しなければいけない。ブラッキーらしからぬせっかちな性格をした元カレは、150年近くを待つよりアルセウスの定めた仕組みに風穴を開ける方法を模索しだした。
 イーブイ族の遺伝子はメタモンに次いで不安定で、進化に伴い活性化する遺伝子群=オペロンは現在見つかっているだけで8種、周囲の環境に合わせて切り替えられる。陸上グループの中でも脅威の遺伝子不安定性を誇る彼だったらあながち、成し遂げてしまうんじゃないかしら。

 何度も元カレの話が出てくるのは、ヨリを戻したいわけではない。「ブラッキーこそが最も優れた種族なので、あなたのお子さんをイーブイにしておきました」なんてことを言い出したらすぐさま気合玉をぶち当てられる距離にいるためだ。150年前の過ちを顧みず、ミュウスリーだかミューフォーだかを生み出す結末になるのはあまりに気の毒だから。





 ――あった。
 ようやく探り当てた。ゲルの指先で触れる、0.1mm程度の受精卵。透明帯によって防がれた精子たちが、なんとか細胞膜に穴を開けようと懸命に群がっている。その中央で誕生したばかりの接合子はちょうど、16の母細胞が32の娘細胞へと分裂するところだった。ユニラン胚やダブラン胚だった時期はとっくに過ぎている。大抵の種族で卵割は受精から約1時間後に開始され、1回目以降は30分おきの急速な分裂を繰り返すから、このままにしておけば4時間後には卵割が完了し、じきに卵殻が形成され始めるだろう。そうすればこのコジョンドの患者は産卵――母となる。いままさに新たな命が産声をあげる瞬間に立ち会っているのかもしれない。
 このまま私が何もしなければ。
 ゲルの硬度を鉄と同程度にまで引き上げ、生命活動を始めたばかりの(ユニラン)を、指先で擦り潰した。ぷち、なんて音も聞こえない、実にあっけない感触だった。

 見ず知らずの雄に襲われ、心を深く深く傷つけられながらも、彼女は手遅れになる前に診療所まで来てくれた。『サバイバー』なんて呼ぶのも恐れ多い、素晴らしい勇気と行動力だ。
 タマゴを取り上げるだけが産婦人科医のお役目じゃない。生命誕生という強すぎる後光に翳った、誰もが目を逸らしてきた薄暗い仕事。
 本当は受精卵を探り当てる必要すらなく、ゲルを弱塩基性にして子宮内洗浄をすれば1発だ。だけど以前そう施術したラティアスに後々「産もうと、思っていたんです」と告白されて、私は耳を疑った。結実する確率の極端に低い種族である彼女にとって、我が子を抱えることは何にも変え難い幸せだった。それが恋仲のラティオスの遺伝子でなくとも、だ。

 臨床倫理の信条を遵守するにあたり、患者の自己決定権を尊重することが何より難しい。被害者の種族ごとに、あるいは文化・宗教の観点から優先すべき価値観には大きな差異があって、こと生命の根幹に関わるなら尚更だ。医師視点のバイアスを孕んだパターナリズムの押しつけは、なるべく回避しなければならない。
 以来は最低1時間をかけ、インフォームド・コンセントを取る。性被害者の応急処置として必要なケアは、とにかく寄り添ってあげること。患者が錯乱している場合は、精神科医であるママの手を借りることもしばしば。Embryo in uteroな私は、幾つになっても母親離れできない運命らしい。

 科学者が50年後のポケモンたちを幸せにする仕事なら、医者は今現在目の前で苦しんでいる患者を救うのが仕事です。そのためだったら何だってします。
 それが命を奪うことでも。
 私のゲルは錬金霊液(エリクサー)みたいに崇められがちだけど、そんな神秘主義めいたもんじゃない。不老不死を授ける? ご冗談を。誕生した命を今まさに圧殺した凶器だ。かつて水銀が万病に効く妙薬だと信じられてきたみたいに、それはタチの悪い勘違い。
 掲示板に手配書が張り出されていないだけで、私はこの手で幾つもの命を葬り去ってきたお尋ね者だ。それこそ、このコジョンドを襲って孕ませた雄よりもよっぽど多く罪を重ねてきただろう。受精卵のゲノムを編集する元カレと、受精卵を殺す私。どちらが生命倫理に抵触しているんだろ。





 雄性アイデンティティの不連続性は種族絶滅の悲劇を招くけど、現代文明においては簡単に悪用できる。雄が子孫を残すつもりがないとき、つまり雌を暴力の対象として、支配欲のはけ口として、性的に搾取したいときなんかには、この上なく免罪符にできる生殖システムだ。別に俺は関係ないし、と雄の認知を歪ませ、軽率にそういった行動へ駆り立てる。ある日突然尊厳を剥奪され、雌という記号に押し込められ、体にも心にも消えない烙印を捺される被害者の心情たるや。

 診察台から立ち上がったコジョンドの足取りは、震えは残っているもののしっかりしたものだった。ゲルの腕で肩を支えながら手術室を出て、何度も頭を下げて帰っていく彼女の背中を見送った。……まあ、手術費用は後日でいいだろ。

 白衣をゲルから排出して、凝り固まった腕をほぐすようにブンブン回す。診療所の掛札を『休診日』に裏返しておく。

 彼女は勇気がある。犯人をちゃんと覚えていた。いつどこで、複数いる相手の種族はもちろん、体格、喋り方の特徴まで。
 医者は患者の意思に沿うことが第一です。1時間のカウンセリングの間、コジョンドは恨み言のように何度も「殺してやりたい」と呟いていた。「性犯罪を軽々しく思っている雄は、その意見を改めてほしい」とも。
 引きこもりがちな私が何日かぶりに外へ出る。分裂した脳細胞をフル稼働させ、試算を弾き出す。月のない夜道を進みながら、ターゲットの頭数と種族を再確認。戦闘シミュレーション、逃走ルートの確保。私はもう止まらないだろう。カブトプスの挿話を鼻で笑い被害者の雌について心を痛めなかったおまえ(・・・)を、サイコキネシスで捻り潰すまで。





 メタモンは繁殖するし、アルセウスは倫理を敷く。ミュウはずっと狂っている。
 ランクルスに残された仕事は、吐き気のする現実世界をちょっとだけ幸福にすることだ。



 


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