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LH8 の変更点


[[てるてる]]
'''&size(19){ルイス・ホーカー(8)};'''
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・登場人物の紹介は[[''こちら''>ルイス・ホーカーの登場人物、世界観などの紹介]]
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&aname(louis);
 椅子から立ち上がったジュカインのトニーは、しばらく気まずそうに部屋を見回したのちサンダースのルイスに軽く笑いかけた。

「どうした? なにかあったのかい」

 穏やかな問いかけにのろのろと顔を上げたルイスは、表情をゆるめたトニーが大机を支えに足を引きずりながらルイス側へ回ってくるのを見た。

「そんな浮かない顔、おまえらしくないぞ。相談があるなら何だって聞いてくれ」

 片手を軽く振って自身とルイスとを交互に指し示すトニー、努めておおらかなその態度はまさしく落ち込んだ様子のルイスを励まそうとしていた。
親身な態度は普段のトニーそのものだった、いつもならその&ruby(かったつ){闊達};な態度に軽口の一つや二つをぶつけるのだが、今のルイスはつらそうな表情でぶつぶつと口元をまごつかせるばかりで一向にしゃべることができないでいた。
何かを言えば、どうあっても&ruby(やゆ){揶揄};を含んだ厳しい言葉しか出せそうになく、一言でも発してしまえば最後、なりふりそっちのけでわめき散らしてしまいそうだったからだ。
嫌悪感からではないその感情は裏切られたという悲しみから来るもので、純粋な怒りではない、それだけにただトニーを悪し様に思うことができなかった。
 ルイスには本当に&ruby(すが){縋};り付ける存在がいなかったのだ。
捨て子として町に放り出され、あざむき合いの跋扈する浮浪児集団の中で生き、トニーと出会うまで彼は愛されるということを偽りでしか知らなかった。
トニーは決して産みの親として甘えられる存在ではない、しかし自分を本当の意味で愛してくれるやさしさに、まるで親に対して抱くような思いでルイスはトニーを頼り切っていた。
頼り切っていただけに、先のルイスが出した結論はそれらの信じ切っていたものすべてが嘘かもしれないと疑いを持つことに他ならない。
 ――トニーさえいなければ。
確固たる根拠を持たない一方的な思念が出した思いこみによる結論、それが足りない部分をすべて個人の勝手な見解で補おうとしたためだということをルイス本人が一番良くわかっていた、しかし否定するだけの確固たる証拠も彼は持ち合わせていない。
 勝手な考えで懐疑心を抱いてしまう自らに情けなさを感じたルイスは小さく顔をしかめるとそれきりうつむいてしまう、肩を縮こまらせてうなだれるルイスの姿は、いまだ冬毛のまま伸び放題だということを考慮に入れても小さく見えた。
大机に寄りかかったままトニーは、何をしても自身の内を明かそうとしないルイスに行き暮れてしまったように首を振ると、わけもなく部屋を見回した。
背中から差し掛かる日差しは広い窓からほとんど垂直に差し込み、室内を照り返しでことさらに赤く染めている。
壁に掛けられた絵画や、彼の財産とも言える帽子と肩掛けカバンにひとしきり視線を巡らせたあと、ふとトニーは思いついたように&ruby(かしわで){柏手};を打った。

「しかしあいつもむちゃくちゃだよな」

 言ってトニーは、明るめの語調にルイスが顔を上げてくるのを待ってから、再び口を開いた。

「アルだよアル。昔から少々強情なところがあったんだがな、電話越しに聞いた限りちっとも変わってないようだったよ」

 微笑を含んだ声は、友人に語りかけるときのようにおおらかだった。
トニーはルイスと二人きりのときはいつもそうだった、普段の厳格な態度は他人への照れがあるからだろう、とルイスは独りごち、ふっと笑みを漏らした。

「そうか?」

「そうとも」

 やんわりと顔をほころばせたルイスの様子に安堵したのか、トニーはうれしそうに目を細める。
その晴れやかなそぶりは、ルイスの表面的な態度しか見ていないからこそ出来たものだった、微笑の裏に淀む彼のないまぜになった思いを汲み取っていたならば、決してそんな態度はとれなかっただろう。

「あいつはいつもそうなんだよ、ルイスおまえも何度か会ったことがあるだろう?」

 問いかけに対してルイスは首を横に振る。

「かなり昔に会ったきり。それ以来はずっと声すら聞いてないよ、あんたが……」

 あんたが足に怪我をしてから、と続けかけて口ごもる。
トニーの足首から膝までに及ぶいびつに走る傷跡にちらりと目をやったルイスは、トニーのため息を聞いて慌てて視線を逸らした。
謝ろうとする彼を、トニーは軽く手を振って止めさせる。

「まあ気にするな、そもそも自分のばらまいた種でこうなったんだ。おまえが気にする必要なんてこれっぽっちもない、違うか?」

 上目遣いで見上げるサンダースに、努めて軽い調子を気取る。
それに対してルイスは、気を遣わせてしまったことに後ろめたさを感じたが、それ以上に思いやってくれているということが嬉しかった。
問いかけに頷きを返した彼の表情が笑っていたのは、脳裏に浮つく不安が少なからずに薄れたからだ。

「おれはあんたのそういうところが好きだよ」

 片手でトニーを示しながら快活に言ったルイスに、トニーは肩をすくめて見せた。

「こんな年寄りのどこが良いんだい」

「少なくともそこらの年寄りどもなんか比べものにならないさ」

 ルイスの言葉に、ああ、と答えたきり軽くうつむいたトニー、顎に手をよこしてしばし考え込むようなそぶりを見せたあと、変に改まった表情を投げ返した。

「それは言えてるかもな」

 まじめな顔つきに相反する返答に、耐えきれずルイスは吹き出した。
小刻みに肩を震わせて笑いを堪えようとするも、ゆるみきった口元はすぐに大爆笑へと変わる。
そんな彼が腹を押さえて大口を開けるころには、トニーもまたつられるようにして笑顔を作っていた。
 他愛ない軽口の言い合い、ルイスとトニーのそれぞれが持っていた本来の目的がそれによって解決に向かうことはない。
にも関わらず双方が目的達成への道筋に停滞を良しとするのは、互いが無意識に本題へ入るのをためらっていたからだ。
ルイスは今まで拠り所を持たなかった自身を支えてくれたトニーを失うことを恐れて。
トニーはトニーで、先ほどルイスの見せていた消沈ぶりから、彼がそれほど大きな悩み事を抱え込んでいるのだろうと連想したためだった、せっかく自身を頼りにしてくれたのに解決できなければルイスを落胆させてしまう。
お互いがお互い、別々の理由であれど本題を先延ばしにしようとしていた。
 だから、次にトニーの言った言葉は、決してルイスを苦しめようと意識して言ったのではなかった。
 収まりかけてきた笑い、やっと取り戻せた余裕に荒い息を繰り返しながら、目元に浮かんだ涙を拭い取るルイス。
しかし今しがた冬毛のままの腹に寄越していた手で拭ったため、団子みたく束になった毛が頬にこびりついてしまった。
そのことに気付いていないルイスに、トニーはやれやれと首を振り足を踏み出す。
おいルイス、と苦笑いで言った彼の意識は、絨毯に出来たしわにまで向いていなかった、足を取られたトニーはたたらを踏むひまもなく、床に倒れ込みかけた。
 あ、と短くうめいて斜めになる身体。
彼が実際に倒れなかったのは、直前に飛び出したルイスが床とのあいだに割り込み、頭を突っ張ってトニーを支えたからだった。
軽くもたれ掛かるようにしながら体勢を立て直したトニーは、ルイスの頬に乗っかった毛玉を払い落とすと、そっと頭を撫でる。

「だけど、おれがこんなに人に好かれる老いぼれになれたのも、言ってみればルイス――みんなおまえのお陰だよ」

 目を細めて喉を鳴らさんばかりに撫でられるがままになっていたルイスは、それとなしに言ったトニーの言葉に身体が固まるのがわかった。
戸惑う気持ちに見開かれるまなじりは、忘れかけていた&ruby(あんたん){暗澹};を再びまとってかぼそく震える。
――みんなおまえのお陰。何気ないそれは、解釈の取りようによっては自らがルイスを利用したと言っているようにも聞える。
 たとえトニー本人にはそのつもりがなかったにしても、ルイスの抱いている疑いを肯定しているとも取れかねない物言いに、ルイスは引き結んだ口の中に乾きを覚えた。
無意識にルイスはトニーから目を逸らす。
一度気付いてしまうと、やさしく撫でられることにすらも疎ましさを覚えてしまう。

「……違う」

 半ば縋るような思いでつぶやいたのに、いかがわしげに手を止めるトニー、しかしすぐにまた口元をゆるめて元気づけるようにルイスの頭を軽く叩いた。

「違うもんか、まったくその通りだろう。おまえがいなければ、今ごろおれは博物館の中で腐りきっていただろう
さ。これだけは言い切れる、ぜんぶおまえのお陰だ」

 決まり悪そうにはにかみながら言ったトニーが、返答を聞いていたルイスの表情が途中から苦々しさを露わにしたのに気づけなかったのは、すでに窓のほうを向いてしまっていたからだった。
照れくささに鼻の頭を撫でるトニーの輪郭を黙って見つめるルイス。
最後の頼みでもあった否定を糸もたやすくつっぱねられた彼に残るのは、今まで腹の中でとぐろを巻いていた無力感を伴った屈辱の念のみで、悔しさに全身の毛が逆立つのをルイスは自覚した。
 自分は利用されているのだという不安からきた恐怖心、最初にそれを真っ向から意識したのは酒場から帰る途中の車の中だった。
あの時に感じた恐怖が単にルイスを震え上がらせただけだったのは、そこに恐怖しかなかったからだ。
しかしいま、利用されている、と思う気持ちから生まれた恐怖に、現実になる、というさらなる恐れが加わった、その恐怖と憎悪はルイスの生気を確実に削っていた。
 とっさに、違う、ともう一度言おうとしたが、トニーの言葉に胸を衝かれて虚脱しきった彼の口から出たのはかすかな嗚咽の声のみだった。
棚の上の時計から響く秒針の音にすら蹴散らされそうな小さな声だったが、もしかすると聞えたかもしれない、と小さく思ったのに任せて改めてトニーを見ようとしたが、もうほとんどその姿を捉えることが出来なかった。
窓の不気味に揺らめく赤とその前に立つジュカイン、二つのあいだを埋める曖昧にぼやけた境界線に目を細めると、はずみでじわりと溜まった涙がこぼれ落ちた。
絶え間なく溢れそうなそれにぎゅっと目をつぶって堪えようとするも、押し出されるように流れ出した一筋は頬を伝い落ち、ペンダントトップを小さく濡らした。

「そういえば――」

 そんなときに飛び込んできた明るい調子のトニーの声。
目を開ければ、相変わらず背を向けたままだということがわかった。

「――そういえば、またおれのことをトニーと呼んだよな」

 言って、冗談っぽくわざとらしいため息を吐いてみせた。
 唐突に変わった話題に、これ以上心をえぐられることはない、となかば安心を得たルイスだったが、その行き着く先は彼をもっとも嫌悪させる内容だった。

「いつも言ってるじゃないか、おれとおまえの二人きりのとき以外は名前じゃなく、きちんと姓で呼んでくれって」

 トニーはあいかわらずルイスを振り返ることなく続ける。

「まああれだ、おれも堅苦しいのは嫌いだよ。だけど人目がある時にもそうトニー、トニー、と仲むつまじく言われちゃあなあ。おれの面目がなくなっちまう」

 さらりと言ってから振り返るトニー、これといって&ruby(がんちく){含蓄};を持たせたつもりの無かった彼は、予想だにしなかったルイスの悲しみに満ちた表情につかの間、言葉を失った。
 かなたより細く響く砂粒の音、それが無言の室内を跋扈する。
唖然とするトニーを睨むルイスの面持ちにただならぬ怒りが浮かび上がったのは、今まで自身が抱き続けていた疑念が最悪の形で肯定されたことと、そこから至ったトニーへの絶望からだった。
トニーの言う面目、それはトニーが今なお大勢に敬われている紛れもない要因であり、ルイスを孤独へと追いやった張本人である。
彼を悩ませる直接の原因であるそれを、あからさまに大事にしていると言ったトニーをルイスは許せなかった。

「面目だと……そんなにその面目ってのが大事なのか」

 冷たく言い放ったルイスの片手は、十字型のペンダントトップをすがりつくように掴んでいた。
内側より溢れる怒りの衝動にただ突き動かされるという事態を拒もうと思えば思うだけ、込もる力がその手に血色を失わせる。
 長らく彼をむしばんできた思いは、ゆっくりと時間をかけて形作られていったものであり、軽々と結論に結びつけられるものではなかった。
だからルイスがこの結論づけられない思いに帰着を見出そうとすれば、すぐさまそれは怒りに結びつく。
怒りは数ある感情の中でもっとも曖昧な立場にあり、他の感情にもっともつながりやすい。
自分をただ浮浪児ということで揶揄を含んだ目でしか見てもらえない苛立ちと、心の拠り所となってくれた最愛の人に裏切られたという悲嘆、そしてなぜ自分がここにいるのかという疑念、それらすべては抑えることの出来ない憤怒となってトニーにその切っ先を突きつける。
 どうなんだ、と窮したように僅かに身じろぐばかりのトニーをルイスはせき立てる。
紛錯する感情が逆立った背中に電流を走らせるのを、彼は緊張にうち沈む室内に漂う独特のつんとしたにおいに悟る。
 程なくして、トニーは顔を上げた。
激情を押さえ込むルイスの姿をちらと見やると、言おうか言うまいか迷っているような風情で視線を泳がせたあと、結局口を開いた。

「そりゃ、そりゃもちろん。おれの力だけで成し得た面目ならともかく、おまえのお陰で――」

 棚の上の置き時計が音を立てて弾け飛んだ。
壁に当たり、跳ね返ったそれは絨毯の上をひとしきり転がったあと、二人のあいだにやがて止まる。
黒く焼けただれた表面から漂う黒煙と、少し遅れて広がる煤けたにおい、脆弱な針の音がそれぞれに硬質の色を伴って響く。
 突然の出来事に言葉を途中にして飲み込んだトニーは、呆然と床の黒い塊とルイスとを見比べた。
 だから、と取り繕おうと口を開きかけたトニーを、ルイスは腕を床にたたきつけて黙らせた。

「違う! それ以上言うな!」

 ばん、と怒鳴り声に混じって鈍い音がほこりを舞い上がらせるのと同時に、サンダースの身体から灼けた一閃が弾けた。
激情に追い立てられたその切っ先は、先ほど置き時計を吹き飛ばしたときのように勢いを保ったまま鋭く天井に突き刺さると、強い光の&ruby(ざんし){残滓};のみを残してかき消える。
 とっさに顔を手で覆っていたトニーは、叩き付けたまま腕を絨毯に押しつけるルイスに渋った表情を向けた。

「おいルイス。いったいどうしたんだ? 今日のおまえ、なんだか変だぞ」

 恐る恐る、といったあんばいのトニーを黙って見返すルイス。

「まさかおれが、なにかおまえの気に食わないことでもしたのか?」

 端的に表せばまったくその通りの言葉に、ルイスが視線を迷わせるのを見て、ああ、と案の定といった感じにトニーがため息をついた。
それきり考え込むようにうつむくトニー、唸りながら顎を撫でるのは、今しがたのルイスの態度の原因を特定するのに難儀しているからだろう。

「すまない。おれには思い当たる節がないんだ。教えてくれないか、なにがいけなかったんだい?」

 やがて観念したように首を振るトニーに、ルイスはしばしのあいだ沈黙を返したあと、騒立つ心を落ち着かせるため何度か深呼吸を繰り返してからぽつりと口を開いた。

「昔、あんたが浮浪児だったおれを助け出してくれたのは、なにか理由があってのことなのか」

 唐突に切り出された話題に、訝りげに片目を眇めたトニーは、特に考え込んだそぶりも見せずに答えた。

「理由なんて、そんなものはない。助けたかったから助けたんだ」

 あくまで平板な物言いはこれ以上ルイスを苛立たせないための配慮だろう、とルイスはちらと思ったが、彼はそれ以外の部分に強く興味を惹きつけられていた。
理由なんてない、と言い張るトニーをどうしても不可解に思わずにはいられなかった。
偶然出会った浮浪児を引き取り、育て上げる、代価の存在しない慈善を彼はなぜルイスに差し伸べてくれたのか。
考えれば考えるほど深みにはまっていく疑惑、いつものルイスなら、思考はここで中断していた。
面倒くさい、時間の無駄だ、と適当な理由を当てはめていたが、今思えば実際は結論に達するのが怖かったのだろう。
――トニーさえいなければ。
 ルイスはいらいらと首を乱暴に振って改めて顔を上げると、朝から昼にかけて急激に勢いを増していく陽光にあぶられた窓が、部屋全体の温度を上げていたのを、絨毯の上にしたたり落ちた斑点に知った。
しかしこの額に玉のように浮かんだ汗は緊張からで、単に部屋の温度が上昇したのが原因でないことは、矛盾して悪寒を感じる背筋にわかっていた。

「何の理由もなしに助けたって言うのか」

 ややトゲのある視線でトニーを睨め付けるルイス、確認するようなその物言いは明らかに、ありえない、と不快感を示していた。
 トニーにしてみれば、投げかけられた質問にただ受け答えをしただけで、咎められるいわれがあるだなんて思うはずがなく、――トニーからしてみれば――妙な態度をする目の前の若者に、ああ、とはっきりしない返事をするしかなかった。

「もちろんだとも」

 言い切るトニー。
彼が頷くようにして言葉尻を紡いだのに、それだけ自信を持って言い切られるということをルイスに示そうとしているのだ、とルイスは思った。
あからさまなそれは、なにかを隠そうとしているとも取れなくもない。
事実、ルイスはそう受け取っていた。
 はあ、とため息をつきながら顔をしかめたルイスはそれきり口をつぐむと、またもトニーに沈黙を寄越しす。
しかし、トニーに向けられた彼の無言を湛えた顔つきは、真実なにかに決別した表情をしていた。

「……本当のことを言ったらどうだ」

 浮かび上がったその声は、重苦しい雰囲気に炙られて、どこか脅しつけるような気迫を携えていた。
 予想外のことに虚を突かれたトニーは、困惑げに眉根を寄せる。

「本当のことだと……それはいったい」

 誰ともなしにつぶやいたのに、ルイスは片手をトニーに突きつけた。

「とぼけるな! あんたはいつもそうだ、そうやって、自分はなにもしてない、って顔して善玉ぶってる。トニー、あんたは何もしなくたってヒーロー扱いだ。だがおれはどうだ、いつだって異物呼ばわりだ!」

 まくし立てながらルイスは、考えるよりも先に吐き出されていく段々とトゲトゲしさを増していく述懐に、今まで自身が心の中に押し込めていたものの正体がこれなのだと、ルイスは我ながら思った。

「みんなあんたを見てる。トニー・チーチ、時代が必要とする数々の遺宝を盗賊の魔の手から救い抜いてきた偉大な男。みんなこう言うぜ、トニーは英雄、対してルイスは役立たずのろくでなし、ってな。おれだって、あんたの代わりになれることは何もかもやってきた、だけど、なにも変わらない。まるで、誰かが、故意にそうなるよう裏から手を回しているみたいに」

 ここまでいっぺんに言って、ルイスは息苦しさを感じて言葉を止めて荒い息を繰り返す。
 そのあいだを見計らうようにしてトニーは小さく息をついてみせると、大丈夫だ心配ない、と悪い夢を見た子供をあやすように言葉少なく微笑んで見せると、ルイスのほうへ片足を踏み出した、しかしもう一歩を彼が踏み出すことはなかった。
 近づいてくるトニーを見て、ルイスはとっさに彼とは反対方向に飛び退いて距離を置くと、突然の行動に片手を差し出しかけたまま立ち尽くしたトニーに、ほとんどなんの考えもなしに牙をむき出す。
屈み込むように背中を丸めて姿勢を低くし、耳をうしろに浅くしてうなり声を上げるサンダースの姿は好意的な態度とはいえない。

「ルイジアナ……」

「おれはルイスだ! あんたの傀儡なんかじゃない!」

 唖然とつぶやいたトニーに、ルイスは吠え立てるようにして叫んだ。
それはこれ以上なにか憐憫をかけられるのを防ぐためだった。
 親と呼ぶにもふさわしいトニーを、たとえどんな形であろうと裏切り、傷つけてしまうのに、ルイス自身が耐えられなかったからだ。
こんなことがあっても、トニーはルイスにとっての育ての親なのだ。
たとえ利用され、都合の良い人形として操られていたとしても、その思いだけは変わらない。
変わらないからこそいつまでも、ルイスが突き放そうとしてはトニーがたぐり寄せようとするという、いたちごっこを続ける気にはなれなかった。
じわじわと痛み与えてトニーをなま殺しにするなんて、彼にはできない。
 お互いが背を向けてしまえば、もう一方の悲しむ顔を見なくて済むし、見られずに済む。

「トニー言ってくれ。おれはなんのためにここに連れてこられたんだ、助けたかったからだなんて聞こえの良いことなんかほざいてないで正直に言ったらどうだ!」

 怒りや悲しみのない交ぜとなった感情は波のように上下する、それに揺さぶられるがままにわめき立てるルイスの声は、応答のないまま部屋を木霊した。
 暗い影を宿したトニーの表情に&ruby(しゅんじゅん){逡巡};の気配が浮かぶ、ただ厳格な視線をルイスに向けるその目には狼狽の&ruby(きざ){兆};しすら見受けられない。
その様子に、いつかきっとこうなる、とトニーはこの事態を以前から予期していたのではないかとルイスは思った。
しかしそれでもトニーがなにも言えずに黙ったままなのは、いつかきっとこうなる、という予感を、そんなことは起こり得ない、と否定していたからであろう。
それは一度服従させたルイスが反抗することはないと甘く見ていたからか、それとも単にルイスを信頼していたからか、ルイスには知るすべがない。
 すまない、と唐突に言ったのは他ならぬトニーだった、推測にふけっていたルイスは、最初その言葉が意味するものに気づけなかった。
ただぼんやりと見つめ返すルイスに、トニーはさらに頭を下げた。

「すまない――おまえがここまで苦しむとわかっていたなら、こんなことはしなかった」

 うつむいた矢先に打ち明けられたそれは、まさにルイスの疑惑を完全な確信へと変えるものだった。
悪夢は現実になった。
ルイスが今まで自身の支えとしていた存在は、この瞬間に消えた。
心から信頼していたトニーはもういないのだ。
 今、ルイスの目の前にあるもの、それは自身の思いを利用して、過去の栄光にしがみつき、博物館の偉大な館長という地位にのさばる党だ。
悪党である、と思うしかなかった、ただ悪党にだまされ、裏切られた。
トニーに裏切られたという事実をそのまま受け入れるなんてこと、彼には出来なかった。
 喉もとから突き上げてくる&ruby(どうこく){慟哭};を&ruby(こら){堪};えようとして震えるくちびるを、噛んで押さえ込むルイス、じわりと血の味が口に広がったのは、それだけ力を込めなければ押さえられそうになかったからだ。
しかし、そう簡単に覆い隠せる種類の感情でないそれに、彼の表情は、目元に溜まりゆく涙が頬に薄く残る湿った跡をなぞっていくのを境に崩れ始めた。
 目に見えて&ruby(しょうすい){傷悴};しだしたルイスに、トニーはそこで初めて慌てだした。
しきりに額に手をやり、いかにも狼狽したふうでなにか言おうと口をまごつかせていたトニーは、咄嗟といった体裁で早口にこう言った。

「だけどわかってくれないか。おれも怖かったんだ、こんなとこに幽閉されて、動かない足を引きずるしか能の無くなったおれから――」

――今まで築き上げてきた誇りと名声が無くなっていくのが。
 続く言葉を想像して、寒気を感じたルイスは思わずかぶりを振ってトニーを睨め付けた。

「聞きたくない」

 吐き捨てるような物言いに、トニーは押し黙る。
緊張に凝り固まった両手を無理矢理に揉みしだきながらしきりに瞳を泳がせて、次になにを言われるか恐れている気配のトニーに、すでにいつもの&ruby(かくしゃく){矍鑠};とした色はなく、他の老人がそうであるように干からびた印象を受けた。
 普段の威厳すらも投げ捨てて、自身を正当化しようと卑怯な言い訳をしようとしたトニーにルイスは、ある種の落胆を覚えた。
これが本当の姿なのだ、と。
 偽りだまそうとする悪党、その面の向こうにあったのは、卑怯な年寄りだったのだ。
今まで自身が大事にしてきたトニーに対しての尊敬とはいったいなんだったのだろう、と今になって思う、気だるい脱力感がそのあとにつづく。
 心から信頼できるトニーなんて、最初からいなかったのだ。

「それ以上……おれに情けない姿を見せないでくれ……」

 言って、頬を一筋に濡らした涙をぬぐい取ると、その打ち沈んだ声に応答出来ないでいるトニーに一瞥をくれてから、部屋を出ようと彼に背を向けた。
館長室と廊下とのあいだに差し込まれた木目を押しのけようと手をかざしかけて、ルイスはふと立ち止まる。

「モヘガンには行く。輝石も奪う……」

振り返りもせず、続ける。

「……だけど勘違いするな。おれはあんたの命令で動くんじゃない、アルたちを助けるために行くんだ。あんたの、命令なんか、くそ食らえだ……」

 だんだんと涙を含みだした声に、ルイスは目尻を拭う。
 待ってくれ、とトニーが声を上げたのは、ルイスがドアノブに掴まり立ったちょうどそのときだった。
部屋の端まで不自由な足を引きずっていくトニーを、冷たく眺めるルイスは、トニーが壁に掛けられた帽子を手に取ったのを見つけた。
 茶色を基調とした、全体的に焦げ色がかったソフト帽にルイスは見覚えがあった。
 一般に中折れ帽と呼ばれるそれは、文字通り帽子の天辺が内側に折り込まれているのが特徴で、大体の部分に柔らかい素材があしらわれている軽い帽子だ。
かつてトニーがまだ冒険者だったころ、肌身離さず身につけていたのがそれだったので、むかし、目深に被った帽子越しにトニーが、疲れたと駄々をこねるイーブイだったころのルイスを抱き上げて微笑みかけてくれたのが記憶に鮮明だ。
当時からすでに使い古されてぼろぼろになっていたソフト帽は、長い年月に洗われて所々に毛羽立ちが見受けられる。
にも関わらず、いまだ型くずれを起こさずに――さすがにクラウンのリボンだけは新しいものに取り替えられている――帽子としての格好を保てているのは、まめに手入れをする者がいるからであろう。
 何度も中折れ帽を手の中で持ち替えながら、しげしげとくたびれてだいぶ丸くなった帽子の稜線に視線を落とすトニー。
その感慨深げな横顔を、ルイスはただ&ruby(うっとう){鬱陶};しげな気分で見守る。
 なんのために呼び止められたのか、早くこの場から立ち去りたい一心のルイスは自分を引き留めた理由を話そうとしないトニーに辟易を覚えた。
 そう思ったルイスの心内を察してか、振り返ったトニーはわずかに目を逸らすとルイスの方へ足を引っ張っていく。
普段から引きずっている不自由な足が、そのときばかり重たそうに見えたのは、立ち止まったトニーの様子が言おうか言うまいか決めかねているふうであったからだ。
やがて口を開いても、わずかに目を泳がせているあたりがまだどこか迷っている様子だった。

「実はな、頼みがあるんだ。無理にとは言わん」

 言って帽子をルイスに差し出す。

「こいつを持って行ってくれないだろうか」

 どこか及び腰な気配で言ってきたのに、ルイスはソフト帽とトニーとを交互に見比べる。
その目つきに冷たいものが混じっているのは、わずかであってもこの期に及んでまだ言い含めようという思惑を感じたからだった。

「あんたの命令なんか聞かない」

 にべもなく言い放つルイス。
トニーは慌てて首を振る。

「命令なんかじゃない。持って行ってほしいんだ、そして必ずおまえの手でまたおれに返してくれ」

 そしてさらに差し出される帽子を、ルイスは&ruby(けげん){怪訝};そうに目を&ruby(すが){眇};めながらも受け取った。

「それはどういう意味だ」

 ぼろぼろにほころび、場所によっては裂け目すら出来ているそれを眺め回しながら問うたが、トニーは決まり悪そうにわずかに首を振るのみだったのに、ルイスはさも不服げに鼻を鳴らすと、ふとしてソフト帽を頭に被ってみる。
 もともと帽子というものを被ったことがないのも理由だが、被ってみせてトニーを満足させさえすれば自由になれるという目算があったのもいくらか含まれるだろう。
 ところが大きさの合っていないソフト帽は、不慣れなことをするのと相まって手を離した途端すっぽりと鼻の辺りまで落ち込んでしまった。
被り直そうと難儀するルイスを察してか、つばを掴んだ彼の手からトニーは帽子を取り払うと、リボンをほどいて短く締め直す。
しぼった分しわが寄ってしまったが、それを器用に内側に折り込んで目立たなくさせると、ルイスの頭に被せた。
若干傾いて乗せられたソフト帽は、片耳が帽子の中に隠れてしまってはいるものの一応は様になっていた。

「無事に帰ってきてくれ。意味は、これだけだ」

 そう言ったのは、帽子越しにルイスの頭をいささか荒っぽく撫でつけながらだった。
それきりトニーはなにも言わなかった、ルイスが部屋をあとにするため背を向けられても、外開きの扉を開けて廊下へ出る間際にちらとルイスが振り返っても、彼は口をつぐんだままルイスを見つめているだけだった。
 暗いとばりの降りた廊下に、開いた扉のかたちに闇が払拭される。
四角く切り抜かれそれをさらに切り抜くのは、サンダースの影だった。
 つま先に張り付いた影で、床と向かいの壁に自身の姿が映っているのにうんざりした気分を覚えた直後、うしろの扉が&ruby(いんうつ){陰鬱};なうめき声を上げた。
それに伴い細くなっていく光はすぐにルイスの影も飲み込む。
最初ルイスはトニーが閉めたものと思ったが、そうすると閉まる途中どうしても部屋の中にいるトニーの影が見えたはずだと気がつき、不信に思って振り返った彼は胸を強く衝かれたような感覚にしばらく息が止まった。
 片手を扉に添えたまま、つらそうな表情を浮かべていたリリアンは、ルイスと目が合ったのに小さく身じろぐ。
後ろめたそうにうつむいたまま視線を泳がせる彼女の姿は、明らかになにか都合の悪いことを知ってしまったふうである。
ルイスは背筋の冷える思いをした。

「……聞いていたのか」

 違っていてくれ、と半ば縋るような表情で呟いたルイスは、ただならぬその様子に慌てて首を振ったリリアンを見て思わず安堵のため息をついた。

「ううん、なにも。たまたま通りかかっただけよ」

 言って廊下の向こうを指し示すリリアン、その方向にあるのは彼女の部屋だ。

「通りかかったらいきなり開いてきてね、びっくりしたわ。これから部屋に戻るところよ」

「そうか」

 心中を悟られないように、素っ気ない態度を気遣いながらルイスは無意識に帽子のつばに手をやる。
それを見つけたリリアンが興味深げに首をかしげる。

「ところで、その帽子はたしか館長の」

 館長、という言葉は嫌にルイスの耳に残った。
それはトニーを扉の向こうに置いてきてもなお、トニーの後光がしつこくルイスを付きまとっていることを再確認したからだった。
わき上がりそうになる感情に顔を&ruby(しか){顰};めるルイス、リリアンは慌てて笑顔をつくる。

「似合ってるじゃない」

 沈みかけた雰囲気を持たすように言って、彼の落ちこんだ肩を軽く叩く。

「元気出して、らしくないわよ」

 励ましを入れながら、それでも曖昧にしか頷こうとしないルイスの帽子をつまみ上げて顔を覗き込む。
彼女の青っぽい瞳に間近で見られてルイスは一瞬、涙の跡がばれてしまうことを恐れたが、そのことについて別段リリアンはなにも言わなかった。

「夕方には出発するんでしょ。今のうち寝てもらわないと、車の運転ができるのはあなたとゾルタンだけなんだから」

 だからさあ、とルイスの部屋のほうへ顎をしゃくるリリアン。
変にきびきびと話を進めようとする彼女に、ルイスは眉根にしわを寄せる。

「どうした。なにをそんなに慌ててる?」

 問いかけられて、えっ、と短く声を上げながら目を泳がせ、思いついたように館長室のほうをちらりと見やるリリアン。

「てっきり出発の打ち合わせでもしてたのかと思って。それともなに別のこと話してた?」

 早口に言うリリアンに、多少の不審を覚えたルイスだったが、最後に投げかけられた質問に慌てて首を振ったせいですぐに消え去ってしまった。
怪訝そうにさらに表情を覗き込もうとするリリアンに心情を悟られる前に、中折れ帽を目深に被ったルイスは、それじゃあ、と短く言うと自分の部屋へ向かおうとした。
 そんな彼が足を止め、リリアンを振り返るきっかけとなったのは、彼女を呼ぶ子供の声だった。
 お姉ちゃん、と幼い声が小さな足音を伴って廊下に響いたのに、ほぼ同時に振り返ったルイスとリリアンは廊下の端のほうから二人に向かって走ってくる影を見つけた。
ちょうど後ろにある窓から光が差しているため姿ははっきりと捉えられず、足の動きの割になかなか近づいてこないことから、ただ小さな子供ということだけしかわからない。
目を眇めながらルイスは&ruby(すいか){誰何};しようと口を開きかけたが、それよりも先にリリアンがその子の名前を呼び上げた。
呼ばれて、いまだシルエットのみしかわからないその子供が返事をしたのに、ルイスは感心して口笛を吹いた。

「よくわかるな」

「声を聞いたらだいたいわかるわ」

 そうか、とおどけて言うと、そうよ、と自信げに返すリリアン。
 小走りに駆けてきたミズゴロウは、肩で息をしながら額の汗を拭うと、リリアンの姿を見て安堵したように顔をほころばせる。

「お姉ちゃん」

 息も絶え絶えに言ってきたのに、リリアンは困ったような微苦笑を浮かべる。

「どうしたの?」

「ええとね、あの、その」

 ミズゴロウの頭をやさしく撫でるリリアンに、ミズゴロウが言いづらそうにうつむいて言葉を濁す。
その様子に、リリアンは思い当たるものがあったらしく、あ、と声を上げた。

「もしかして、迎えに来てくれたの?」

「……うん」

「ありがとう!」

 言ってリリアンが破顔させたのに、ミズゴロウは頬を薄く上気させてはにかんだ。
 ミズゴロウは博物館の中庭に集まる子供たちの中で一番年少なのだ。
本来それくらいの年齢の子供は母親と手をつないで遊ぶのが普通だが、彼の場合は親の仕事の都合でよく博物館に預けられていた。
親にしてみれば、自分たちのいないあいだ子供の世話を安心して任せられるこの上ない場所なのかもしれないが、おかげでミズゴロウは同年代の子供と遊ぶ機会がほとんどなくなってしまった。
博物館の中庭でミズゴロウより上の子供は六歳がいちばん下だ。
ミズゴロウより上の子供たちはそれぞれ遊び仲間をもっている。
それでミズゴロウは大抵ひとりぼっちだ。
見かねたリリアンがいつも遊び相手になっているのだが、おかげでミズゴロウはつねにリリアンにべったりである。
 照れを隠そうと落ち着きなく前肢をもじもじとさせているミズゴロウに、わざとらしい咳払いをしたのはルイスだった。

「でも、ここにはこの博物館で働いてる人しか入って来れないんだよ。たしか階段のロープにそう書いてなかったかい?」

 ここ四階の職員専用廊下は、一階から伸びる階段によって繋がっている。
一階から三階までにある階段の入り口はすべて綱が張られ、《関係者以外立ち入り禁止》の札がそこに掛かっているので、見落とすことはない。
それ以外にも職員階段から廊下までの照明はすべて落としてあるので、明るい展示室から見ると綱から先は真っ暗だ。
なので仮に手違いで綱が無くなってしまっていたとしても、そこが入ってはいけない場所だということはわかるようになっている。
 いきなりの問いかけにミズゴロウはおろおろとリリアンを振り仰いで助けを求めようとしたが、それよりも先にルイスが、どうだった、とさらに追求したので咄嗟にリリアンのうしろに隠れてしまった。
上目遣いでルイスを見上げるミズゴロウ、回り込もうとルイスが動けばその分だけミズゴロウも動くのに、リリアンとルイスは苦笑いを浮かべる。

「ごめんなさい」

 リリアンの背中越しに謝る声が聞こえた。

「だってなかなか戻ってこなかったんだもん、それで心配になって……」

「悪いことしちゃったね。でも、そんなことしなくたってちゃんと戻ったのに」

 段々小さくなっていくミズゴロウの声にやさしく語りかけたのはリリアンだった。

「だからほら、こそこそしないの。男の子でしょ」

 リリアンは言うと、その場から動いてミズゴロウからルイスがよく見えるようにする。
突然のことで狼狽えるミズゴロウは、ルイスが軽く手を振ったことに身体をびくつかせると、誤魔化すようにまたリリアンのほうを向いた。

「ぼ、ぼくもそう思ってそこの階段のところで待ってたんだよ。でもお姉ちゃん、ずうっと――」

 今まで微笑みを浮かべていたリリアンの表情から、血の気が引くのをルイスは見逃さなかった。
 だめ、と言葉短く叫んだリリアンに、ミズゴロウは驚いて口をつぐんでしまう。
それきり廊下に降り積もる無言、ルイスもミズゴロウもそれを破らなかったのは、リリアンのいつになく動揺した様子にかける言葉を見つけられなかったからだ。
 突然の行動に、なにも言えずにただいぶかりげな視線を送る二人に気付いて、はっと我に返ったように激しく首を振ると、ちらりとルイスをうかがってから無理矢理作った笑みをミズゴロウに向ける。

「わ、わたしはすぐ中庭に行くから、もうその話をおしまいにして。さ、みんなのところまで競争しよっか、ね?」

 暗黙のうちにミズゴロウをルイスから遠ざけようとする提案は、わずかに震えているのと相まって余計に怪しさを感じさせるものだった。
なにか隠している、と直感的に思ったルイスは、勢いに押されて、うん、と頷きかけたミズゴロウとリリアンのあいだに割り込んだ。

「良いんだ坊や、気にしないで続けてくれ」

 言いながら、絶えず視線をリリアンに貼り付けたままにしていたのは、どんな微妙な機微も見逃さないためである。
目深に被り直した中折れ帽のつば越しに、リリアンがくちびるを一文字に引き結ぶのが見えた。
 ミズゴロウは、しばらくはどうしようかと迷ったようにルイスの背中――リリアンの姿はその向こうにあって見えない――を見つめていたが、やがて口を開いた。

「――ずうっとそこのドアの前からちっとも動こうとしなかったから、もしかしたらお姉ちゃん、忘れてるのかもって思ったの」

 やや言い訳混じりに館長室を指さしたのにルイスもリリアンも、しかし振り返ることはなかった。
 リリアンを睨め付けるルイスの無言に込められた圧力に彼女は、ごめん、と呟いたきり視線を下に落としてしまう。

「全部聞いてたんだな」

 険のある表情でルイスは言った。
そのにべもない様子に、リリアンは哀れみを含んだため息を硬い廊下に浮つかせる。

「ごめんルイス。わたし、あなたのことが心配で――」

「全部聞いてたんだろ」

 &ruby(れんびん){憐憫};の情を&ruby(まと){纏};ってさも重苦しく言ってきたのに、ルイスはさらにとげとげしく突っぱねる。
それ以上同情を向けられることに我慢ならなかったからだ。
 聞かれてしまったという焦りと不快感が、行き場のない苛立ちとなってわき上がるのが自分でもわかった、それは嘘を嘘のままに済ませようとしたリリアンに対してではなく、嘘が発覚した途端に手の平を返したように哀れもうとする態度にである。
生半可な同情は、それを向けられた当人の重荷をより明らかにし、より重くする。
リリアンのそれが生半可でないとしても、昔はどうであれ今は友人としてしかない関係上そこまで自身の内面に干渉する必要はリリアンにはない。
 いや――ルイスはふと思う。
今も昔のいつだって、ルイスに干渉する必要はリリアンにはない。
交際していたころ、リリアンは手当たり次第にルイスの内面を覗き込もうとしてきた。
あなたの悲しそうな表情はみたくない、と体裁の良い理由を後ろ盾に割り込もうとするのは、単なる煩わしいお節介以外の何者でもない。
それをはね除けては、また干渉してこようとするリリアンに、いつしかルイスはリリアンの前でのみ明るく振る舞うことを潜在的に覚えた、そうすれば必要以上に干渉されることはないと無意識が望んだからだろう。
 そう考えると、恋人としての関係が終わってまたもとの友人としての関係に戻ったのは当然だったのかもしれない、とルイスは小さく思った、どちらかが我慢しなければならない関係は長くは続かない。
 ひとりにしてほしい、“恋人としてのリリアン”を持ちだしてまで干渉しようとしないでほしい、というのがルイスの正直な気持ちだった、普段なら嬉しいはずの親身なリリアンの気持ちは今、差し出がましいとしか思えない。

「どうなんだ」

 さらに釘を刺すように睨み付けるルイスに、リリアンは尻尾を小さく跳ねさせたが、やがて頷く。
肯定された真相に、そうか、と呟いたルイスは、それきりリリアンがなにも言い出さないのを認めると、彼もまたなにも言わずに立ち上がる。
自室のほうへ足を引きずるようにして立ち去ろうとする彼を、耳だけ傾けて見送ろうとするリリアン。
すれ違いざまに声をかけたのはルイスのほうだった。

「これはおれの問題だ、誰かに手伝いを頼む気なんかさらさらない。リリアンおまえにもだ」

 うつむき加減の彼女の表情に、逡巡の兆しが浮かんだのはそのときだった。
顔を上げてルイスを振り返るリリアンが引き留めるように片手を上げるも、すでに背を向けていたルイスはそれに気付かない。

「でもっ……」

 迷いに迷って、やっとのことで切り出すも、リリアンがそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
 呼び止めようとするリリアンの声を、黙れ、と乱暴に切り上げさせるとルイスは彼女のほうへ力任せに帽子を投げ捨てる。
材質の関係上、勢いこそ伴わなかったものの、差し伸ばした腕をかすめたそれにリリアンは押し黙る。

「……ひとりにしてくれ」

 帽子に押しつけられて乱れた頭の毛をそのままに目元を拭いながら言った彼は、部屋の中に消えた。








&aname(lillian);
 戸の開け閉てされる重い音が、彼方より響く砂の音が暗澹とした雰囲気の中で伸びる廊下に伝わる。
そのさなかにとり残された二人がなにも言えないまま立ち尽くしていた。
ふとミズゴロウのほうを振り返るリリアン、黙ったままにぎこちなく両手両足を踏み換えていたミズゴロウは、リリアンの視線から逃れるように視線を逸らす。

「ぼくのせいなんだよね。こんなふうに、お姉ちゃんたちが喧嘩しちゃったのって」

 自責の念を&ruby(たんそく){嘆息};に浮つかせたミズゴロウは、自身の言葉に改めて罪悪感を汲み取ったのか、ゆるゆるとその表情をくずす、目元に手をやりながら、

「ぼくのせいだよね」

とさらに力なく言うのに、リリアンはそっと彼のとなりに腰を下ろして、濡るる顔のミズゴロウを軽く抱き寄せる。

「良いのよ、あなたはちっとも悪くないわ。だから気にしないで」

「本当?」

「ええ本当よ」

 後ろ頭へ向けられた手に励ますように撫でられたのに、ミズゴロウはもう一度強く目をこすると、顔を上げた。
上目遣いに見上げてくるミズゴロウにリリアンは微笑みかける、つられて口元をゆるませそうになるミズゴロウだったが、ほどなくして打ち消すように曖昧に首を振ってしまう。

「うそ。ぼくがあんなこと言わなかったら良かったんだ、なのに言っちゃったから、やっぱりぼくのせいなんだ」

 言い切る声は、だんだんとふさぎ込んでいくミズゴロウの心情を表していて、小さかった。
入ってはいけない場所に上がり込んで、ひとりの女性を悲しませてしまったこと、そのいたずらでは済まされない行き過ぎた悪行に苛む良心は余計なほどの呵責を背負ってしまうのであろう、とリリアンは思った。
 余計なほどの呵責を背負ってしまう――思いながら、ふと思い出されるルイスのことに、今はそれとは関係ない、と自身に言い聞かせるため首を振ってわずかに手を握りしめる。

「もとはと言えばお姉ちゃんが悪いのよ」

「お姉ちゃんが?」

 自嘲を含んでの物言いは、うつむきかけたミズゴロウをすくい上げる。

「そ、お姉ちゃんが。最初にへんな嘘を付かないで正直に言ってれば良かったのよ。さっきのお兄ちゃんが怒ったのはね、お姉ちゃんがそこにいたことじゃなくて、お姉ちゃんのついた嘘を本当のことって信じちゃいそうになったことなのよ。だから、あなたは悪くない、本当のことを言っただけだもん。嘘をついたのはお姉ちゃんのほうなんだから」

 打ち明けていくリリアンを黙ったまま受け止めていたミズゴロウは、聞き終えてまもなくは思案げに目を瞬かせていたが、ねえ、と遠慮がちに姿勢を正したのはそのすぐあとだ。

「ねえ、どうして嘘なんかついたの?」

「どうしてって、それは……」

 言いさしてリリアンは、ふと口をつぐむ。
嘘をついた理由がわからなかったからだ。
人を騙したことが明るみに出れば、騙した当人は信用を失う、それを避けるため――これが理由といえば理由だったが、いまいち、ルイスに不審を抱かれてもおかしくないあの状況でなお、取った行動にしては不可解だ。
ではなぜ、と表情に影を抱え込みそうになったリリアンは、首をかしげて答えを待つミズゴロウに気付いて、ばつが悪そうに肩をすくめた。

「隠し事は聞かれたくないものよ」

 ふうん、と納得したのかはっきりしないような様子のミズゴロウにリリアンは、こら、とふざけ半分に彼を叱りつけた。
軽く小突かれた額をさすりながら見上げてくるのリリアンは笑んでみせる。

「そうやって大人のお話に首を突っ込まないの」

「大人の勝手だ、ずるい」

 口の端を尖らせてはいたものの、険のない表情で言ったミズゴロウは、まじまじとリリアンを見つめて無邪気に顔をほころばせる。

「早くいこ」

 ミズゴロウが廊下の先の階段を示したのに、リリアンは頷くとルイスの投げ捨てた中折れ帽を口に咥え、小走りに駆けていくミズゴロウに歩幅を合わせた。
横目にミズゴロウの表情をちらりと見やる、さきの誤魔化しに別段の疑心を抱いていない様子を認めて、ほっと息をついた。
 廊下の隅にこびりついた闇が石張りの床を不揃いに濡らす。
あのときなぜ苦しい嘘をついてまでルイスから事実を遠ざけようとしたのか。
廊下の終わりに近づくにつれ、そこにはまった窓に後じさっていく床の闇を見つめながら考えふけていたリリアンは、ふと思い至るものを感じて顔を顰めた。
 扉越しに聞いた館長室での会話、断片的にとはいえある程度は聞き取ることができた。
今まで心奥に押し込んできた不安や疑心、追い詰められ、抱え込むばかりで下ろされたことのないそれらがルイスをまくし立て、次第に焦燥の色が混じり出す声の様子に、リリアンは記憶の中に既視感のようなものを感じた。
 実際、彼女は以前にもこの光景を目にしていた。
まだ二人が交際する前――親しい友人以上の関係にまで到達していなかったころ――老人たちに軽蔑され、お定まりの揶揄を叩き付けられたルイスが、くつくつとバカにした笑いで老人をあしらったあと、時折思い詰めたように表情を暗く落とし込んでいたのをリリアンは見たことがある。
どこを見やるでもなく、ただ倦怠の色を含んだ面持ちでうなだれる様子に、当時のリリアンはその理由が老人に&ruby(そし){誹};られただけではないのではないかと思い始めたのだ。
しかし、それとなく理由を聞いても要領を得ない曖昧な答えしか返ってこない、さらにただそうとすれば、おまえには関係ない、とつっぱねられてしまう、そのたびになにもできない自身を悔いてきた。
なんとかしてルイスの暗澹を取り除いてやりたいという身勝手とも取れかねない願いは、稜線に隔たれた&ruby(やまかい){山峡};の同世代のいない町において、二人の関係を友人からさらに上へと昇華させてくれた。
なし崩しとはいえ、リリアンもルイスも互いが互いに好意を持っていたのも幸いだったのだろう。
同じ屋根の下に職場を持つ二人は関係が変わっても共有する時間はほとんどかわらない、しかし恋愛関係というフィルターが意識に挟まったことで、リリアンの同じような問いかけに対しても、ルイスは前にも増して感情的に言い返すことが増えた。
暴力にこそ訴えかけなかったものの、だまれ、と全身の毛を逆立てて怒鳴る姿にリリアンは恐れを感じたし、彼をそんなふうに突き動かす強い不安の片鱗を震える瞳に見つけたような気がしてひどく不憫にも感じた。
なんの進展すらない&ruby(こうちゃく){膠着};が何度も繰り返されたある日、突然ルイスは暗澹を見せなくなったのだ。
前触れらしい兆しすらないままに、一躍したそれにリリアンは懸念を覚えたが、前よりも明るいふうのルイスの笑顔や声を聞いている内にそのような些細な不安はなくなり、ただ良い方向へ流れてくれた状況を喜ぶようになっていた。
二人がまたもとの友人としての関係に戻ったのは、それからしばらくと経たなかった。
少しずつ距離の空いていく繋がりに、最初のうちは困惑したが、憐憫の情の成り代わった恋愛感情なんて結局はこうなるのだ、と納得してからは、それ以来、親しい同僚同士という位置を保っている。
 (愚かなことだ)、とリリアンはミズゴロウを先頭に階段を下りながら帽子の生地を強く噛んだ。
 あの時リリアンはルイスから暗澹を取り払うことができたと思っていた、もう二度とルイスが悲しむことはないと思いこんでいた――しかし違った、彼は依然として追い詰められていたのだ、と館長室から聞こえた会話に自身の記憶を合わせて、リリアンはそう結論づけた。
前回と異なって、ルイスを憂鬱へと押し込む真因はわかりきっている、原因がはっきりしている以上それを取り払ってやることは容易だろう、しかしリリアンが行動に移す勇気をいまひとつ持てないのは、自身が心配しているということをルイスに悟られたくないためだった。
悟られれば、以前のようにルイスは自分を偽ってまでなんでもないふうを装い、リリアンが差し伸べようとする手をはね除けようとする。
そうなればもうリリアンは手出しをすることが出来ない、少なくとも彼女はそう思ったからこそ、館長室を出てきたルイスに苦しいながらも嘘を言って誤魔化そうとしたのだ。
 しかしルイスは気付いてしまった――失望を成して睨み付けてくるルイスの視線が記憶をよぎったのに、リリアンがふと足を止めたのは中庭へ通じるガラス戸の前だった。
磨りガラスの向こうから子供たちのくぐもった声が漂うが、いまのリリアンに聞こえるのは現実感を欠いたように浮ついた騒音だった。
 激情混じりの瞳、投げつけられた帽子、助けなど必要ないと吐き捨てるルイスの様子はすべてリリアンの思いを突っぱねようとしていた。
そのことを思い出して、改めてリリアンはルイスになにもしてあげられないことを自覚する。
いま出来ること、それは事がうまく運んでくれることを願うだけだ――と半分あきらめに近い心気で思いかけたのに、リリアンは慌てて首を振って振り払う。
(あきらめる必要はない)、そう自身に言い聞かせる、(まだルイスを救う手はあるわ)。
たとえどんなに時間をかけてでも彼を孤独へとつなぎ止める亡霊を打ち砕きたい、というその一心でリリアンは決意を新たに頷く。
踏みしめるように床に強く押しつけた前肢は白ばんでいる。
 なんとかしなければ、と何度も心に背負った重責の重さを確認するリリアンの行動は、どこか神経症じみていた。
それはリリアンが、数年前にも一度ルイスを救う機会があったのにも関わらず、それを無駄にしてしまったことに責任を感じていたからだ。
そのせいでルイスは不要な苦しみを内に溜め込む事になり、結果溢れだしたそれがトニーとのあいだに表面的な溝を生み出してしまった。
リリアンが見逃したばかりに、無用な孤独へ置き去りにされたルイスの唯一とも言える友情に&ruby(たもと){袂};を分かつ原因を作ってしまったのは自分のせいだという思いを、リリアンはどうしても拭いきれなかったのだ。
「……なんとかしないと……」
 誰に言うともなく呟いたリリアンは、ふと小さく開いたガラス戸から覗く影に気づいた。
先に中庭へ出ていたミズゴロウが、なかなかリリアンがついてこないのを不審に思って様子を見に来ていたのだ。
「え、えとっその。なかなか来なかったから……」
「ごめんね、ちょっと考え事してたの。困ったお姉ちゃんでほんとにごめんね」
 いきなり目があったことに驚いたミズゴロウは、あせあせと言い訳を紡いでうつむきそうになったが、リリアンのおどけた様子を見て安堵したように笑顔になった。
「いま行くね」
 いつの間にか口から離していた中折れ帽を拾い上げ、咥え直すと、リリアンは顔を引っ込めたミズゴロウのあとを追いかける。
 中庭の草木は緑、しかし陽の赤に炙られて、どこか色彩を欠いていた。
そのもとに置かれた木のベンチの周囲に子供たちがいる。
ミズゴロウが声をかけると子供たちは顔を上げ、ミズゴロウと、そのうしろのガラス戸から入ってくるリリアンの姿を見た。
ぱっと破顔させた子供たちの嬉しそうな表情を、リリアンはしかし心から喜べない。
 孤独の中に見捨てられたこの町――周囲を稜線に包囲されたこの田舎――に住む子供たちは、少ない寄る辺に縋れる者を持っている。
しかしいまのルイスはなにも持っていない。
 あらゆるものから孤立した彼が、笑顔を向けられる存在は居ないのだ。


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なかがき

物語に進展らしい進展を見せないままかなり時間を取りましたが、やったとのことでルイス御一行を旅立たせそうです。
これは余談ですが、ルイスの帽子については正直言っておふざけです、はい。
単なるおふざけなんですが、これが相当困った奴でして……。
どうすれば帽子のサイズを小さく出来るのかまったくわからず、しかたなしに家にあった麦わら帽子のリボンをほどいたり結び直したりを繰り返す羽目になりましたw
こんなに難儀するんだったら最初から帽子なんか出さなきゃ良かったと、後悔しかけた今回の執筆でした。

#pcomment

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