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その日、古くからの友人から電話が掛かってくるまでトニー・チーチを含む四人はいつもの退屈な一日で終えられると思っていた。
上空から見たその町の姿は、山々に囲まれたいびつな形の平地を縫うようにして存在していた。
眩しいほどの緑を湛えた森と、鉄分の多い赤土に浮かぶ町との境目は見事なまでのグラデーションに彩られている。
遠くで夜空をきらめかせる都会の明かりの欠片すら、ここには届かない。
他より一層濃い朝もやがたちこめていた。
隔絶された内と外とをつなぐものは、山と森を貫くようにして敷かれた道路のみで、しかしそれすらも一面を老朽化から来るひび割れと、ひびを押し広げるようにして芽を伸ばす草花によってほとんど人が通らないことは明らかにしている。
背の低い民家や、閉鎖された店先を並ばせた商店街とは一線を覆す建物が、町の中央広場を見下ろすように鎮座していた。
人気のない通りに顔を向ける全四階の大きな考古博物館は、元は真っ白であったであろうその姿は度重なる風雨を前に色あせ、ところどころを鉄骨の基礎が顔を覗かせている。
どうしようもなく痛んでは、上から新しく補修するを繰り返している。
何層にも塗り固められた塗装は、四季の過酷な温度差を受けてひび割れ、そこに赤土の細かい砂塵が入り込んで一面を毛細血管のようなまばら模様に仕上げていた。
別館二階のバルコニーからそれらを見つめていた初老のジュカインは、あまりの痛ましさに首を振った。
段々と壊れていく自分の博物館の悲鳴が聞えてきそうだった。
両親が死に、嫌々ながら受け継いだ博物館だったが、こうも長いこと毎日を共にしていると愛着が湧かない方がおかしい。
ジュカインは身体や尻尾についた砂を簡単に振り払うと、バルコニーの出入り口へきびすを返した。
腕から伸びる先の欠けた刃には、安全を考えて包帯が巻かれ切れなくされている。
ガラス製の引き戸を開けると、外の太陽と砂のにおいの乾いた空気が一変して湿った空気がかび臭いにおいを伴って彼の鼻孔を突いた。
館長は深呼吸し、そのにおいを腹の底まで押し届けた。
なじみ深いこのにおい。
トニー・チーチことジュカインがもっとも運命を共にした考古品のにおいだ。
背の高い天井で埋め込み式の照明が点灯している。
磨かれた大理石の床がそれを反射して上下から光を浴びせかけられている展示物と、展示物を保護する展示ケースが薄く輝いている。
その横を通り過ぎるトニーは、自らのシダのような尻尾が床をこする音に耳を傾けながら、時折視線を動かして展示物と並んで置かれている説明を斜めに読んでいく。
さび付いた金属、歪んだ破片、所々が変色した塊。
いつ、どこで発見されて何のために作られた物なのかが克明に記されている。
ほとんどの物は説明を読まなくともどこで発見されたか覚えていた。
彼はふと足を止め、目の前の展示物を見下ろした。
ぼろぼろの表面に節くれの目立つ球体があった。
それは赤と白が中心を走る筋によって分断されているというシンプルなデザインが施されている。
中心線から上下に外れるらしかったが、長い年月と浸食にって金属同士が癒着してしまい、開きそうにない。
トニーはため息を吐いた。
吐息がケースを曇らす。
白くぼやけた向こう側を見通すかのように、彼は目をつぶった。
瞼の裏に映る暗闇に、昔の記憶が浮かび上がる。
その時もまた、今のように球体を見つめていた。
遺跡の調査団を襲った盗賊の奪った遺産を取り返すため、単身で盗賊団の輸送船へ忍び込んだ時のことだ。
通路を行き来する見張りに退路を絶たれ、暗闇に身を隠した彼は緊張で震える身体を落ち着かせようと手の中の取り返した球に視線を降ろした。
太古から眠っていた遺産は、口を一文字に引き結んだままトニーを見つめ返す。
光沢こそ放っていないかったが、ずっしりと重たいそれは貫禄を含んでいた。
彼は球体を掴み直してその感触をたしかめる。
考古学にとって重要な価値のある遺産が、盗賊によって売り払われるのは我慢ならなかった。
博物館に収められるべきものだと思った。
彼は誓った。
必ず自分の手でこれを盗賊から守り抜いてみせる。
トニーは言い聞かせるように頷くと、球体を背中のバックパックに入れ、暗闇から飛び出した。
今よりも若々しく、身体がまだ自由に動かせた時のことだ。
失敗をほとんど知らない、向こう見ずな青年に今のような自分を想像できただろうか。
痙攣する片足が、固い床に音を立てる。
一〇年ほど前、調査のため入った遺跡の落盤でつぶされた足だ。
彼はいらいらと鼻を鳴らすと、未だまともに機能してくれない足を軽く叩いた。
トニーは大半の考古学者がするような、研究室に籠もって文献と睨めっこをするなんてことをほとんどしていなかった。
何か発見があれば、どうやってでもそこへ行き、自らの手で調査をしていた。
焦点の合っていないぼやけた写真や、下手なスケッチを見て判断するよりも、自分でそれを見て、自分で感じることが一番だと考えていたからだ。
しかし、それが仇となった。
あれ以来、自分は遺跡に出向けなくなった。
歩くだけでもやっとだった。
親の残した博物館で、毎日を退屈な書類整理で送る日々があるだけだった。
彼は目を開け、ぼやけたガラスから目を転じて再び歩を進めた。
一歩ごとに引きずられる足の立てる音が床へ張り付いていく。
午前中だというのに、ひとけのない博物館の空気は恐ろしく乾いていた。
窓から飛び込む淡い日差しが床を四角く切り抜いている。
展示室を抜け、本館とをつなぐ長い廊下へ進んだ。
採光用の窓がないため、展示室よりも暗い印象を全身で受け止めながらトニーは延々と続く一本道を出来るだけ足早を心がけた。
せめて本館くらいは多少の人がいるだろう。
人のいない別館や廊下は、毎月の赤字に埋め尽くされる帳簿の理由を証明されているようだ。
廊下を抜けると、Tの字に別れ、矢印の描かれた通路の先に別のガラスケースがそれぞれちらりと顔を出している。
本館の展示室へ向かおうかと考えていたトニーの耳に人の話し声が飛び込んだ。
誰の声だろうか。
ふいに浮かんだ疑問に対して、彼は無意識にその方向を振り返った。
照明を切られ、真っ暗になった階段があった。
通せんぼするかのように《関係者以外立ち入り禁止》と記された紙が、黒と黄色の綱に吊されている。
彼はそれをまたぎ越えると、つまずかないように手すりをたぐり寄せながら声のする場所を目指した。
職員の寝泊まりや倉庫の代わりとして使っている扉が並んだ廊下に出た。
たった三人の職員以外に使われることがないため、用途外の部屋の扉のノブには薄くほこりが乗っている。
近づくに連れて段々と声が大きくなっていく。
それに苛立ちが混ざっているのに気付いた。
館長室の前で足を止める。
この中だ。
扉の横の壁には掃除用の布巾とモップが立てかけられている。
中でしゃべっている声の主を見ようと、そっと音を立てずに扉を引き開けた。
徐々に開いていく扉の隙間から光が漏れ出す。
大きな一枚窓から注がれる光の帯に、彼は目を細めた。
まだ朝も早いことも手伝って、広域窓は太陽全てを飲み込んでいる。
机の上の小さな観葉植物の葉や壁に掛けられた絵、彫刻も光を浴びて乱反射していた。
ジュカインの身体はバランスよく体温を調整するようには出来ていない。
ある程度の日光を浴びる必要があった。
そのため、トニーが一日の大半を過ごすこの部屋の窓だけ大きなものをはめ込んでいたのだ。
部屋の真ん中辺りに置かれた大机の横で、何かが動いた。
トニーは強い光に瞳がぎりぎりと痛むのを堪えて目を開ける。
強い日差しの逆光で真っ黒に染まった輪郭のみのマグマラシが、トニーに背を向けている。
ピンと尖った耳を含めて青と白のツートンカラーの体毛が、朧気に光を切り抜いている。

「……ですから先ほど申し上げたとおり、館長は今いらっしゃらないのです」

後ろ肢で不安定に立ち上がったマグマラシが、机にもたれ掛かりながら両手で耳元に受話器を押し当てている。
長いこと電話の相手をさせられているらしく、普段の仕事中に見せる彼の真面目な部分をほとんど持ち合わせていなかった。
もどかしさに背中からうっすらと煙が上がっている。

「……わかっています。すぐにお呼びします。ですがそのためにはわたしが一度電話を置く必要があるのです」

いらいらとうなじの毛をかきむしりながら、マグマラシは相手の返答を受けている。

「……そんなんことを言われても、館長はこの場所にいないんですってば」

段々と冷静でいられなくなってきた彼に気付いたトニーは扉を開け、館長室に入った。
絨毯張りの床にかすかな足音が伝わる。
振り返ったマグマラシの首から提げられた懐中時計がじゃらりとゆれた。

「どうしたゾルタン。誰からだ」

手を差し出しながら、トニーは聞いた。
ゾルタンと呼ばれたマグマラシはふたことみこと電話に話しかけたあと、受話器をその手に渡した。

「アル・ドドという方からです」

どきりと心臓が一度、大きく動いた。
懐かしい名前だった。
にやりと口元をゆるめながら受話器を耳に当てる。
ゾルタンは疲れたような表情のまま、部屋を出て行った。

「もしもし、トニー・チーチだが」

「よおトニー、元気そうじゃないか」

陽気な声が受話器を震わせながら聞えてきた。
絵に描いたようなどら声は、紛れもなくアル・ドド本人の声だった。
声の後ろで騒がしく何かが動いている気配を感じた。
駅かどこかの電話を使っているのだろうか。

「アルこそ。えらく久しぶりだな」

「ああ、ちょいと忙しかったものでね。ところでさっきのマグマラシだが」

「ロイターのことか。我が考古博物館で働く従業員の一人だ」

三人しかいない内のね、と心の中で付け加える。
田舎の寂れた博物館ということもあって、必要以上の職員を雇うことが出来ないのだ。
一日の来館者数が百にも満たないため、従業員一人一人に掛かる重圧は少ない。
が、清掃や接客など小さなところではやはり人手不足は否めない。
その点で言えば、このゾルタン・ロイターはまたとない人材だろう。
業務はもちろん、それ以外のことも自主的にこなしてくれる。
展示物についての知識は人並み以上で、だいたいの質問には詰まらずに答えることが出来た。
今も掃除のため通りかかったら、偶然電話に呼び止められたというところだろう。
電話の向こうで、笑い声が響いた。

「おもしろいやつじゃないか。からかいがいがある」

「そうでもないさ。融通が利かないから大変だぞ」

「そうかい。にしてもおまえ、ずいぶん電話に出るのが遅かったじゃないか。自分の博物館で迷子になってたのか」

「迷子になるほど、広い博物館なら良いんだがな」

お互いの笑い声が室内に木霊する。
笑いは人を明るくするというのを聞いたことがあるが、まさしくその通りだった。
古い友人と交わす何気ない言葉だけで、先ほどまで自身を包んでいた憂鬱が消え失せる。
アル・ドドと最初に出会ったのは、通っていた大学の近傍の喫茶店だった。
カウンターで隣り合ったヘルガーとちょっとした口論になったのだ。
酒は入っていなかったとはいえ、十代の頭に血が上りやすい性質が災いして、口論はいつしかつかみ合いの喧嘩になった。
それ以来、何かにつけて互いを中傷の対象にしていたが、日が経つにつれて溝は薄れていき、一年が過ぎる頃には気が合う仲になっていた。
二年生の終わりごろ、二人の運命に決定的な分かれ道が築かれた。
アルが突然大学を辞めるという事件が起ったのだ。
犯罪や借金など様々な憶測が飛び交った。
本人が理由を言わなかったため、うわさは大きくなれるところまで大きくなった。
そんな中、彼はトニーにだけは本当の理由を話してくれた。
なんとかしてやれないかと必死で協力を申し出たが、アルは全て拒み続けた。
結局、何もしてやれないままアル・ドドは学校を去った。
はっと我に返ったトニーは思い切りかぶりを振った。
いつのまにか、無くなっていたはずの憂鬱が再び顔を出していた。
何を考えているんだと、自らを戒める。

「で、トレジャーハンターが何の用だ。まさか従業員いじめをするために掛けてきたんじゃないだろう」

電話の向こうから笑い声が収まったころ、ためらいがちにトニーは言葉を投げかけた。
一瞬アルが口ごもる。
ついで深呼吸をするような音が聞えた。

「……その事なんだが」

それきり何も発しなくなった。
小さな息づかいが、受話器ごしに伝わる。
その後ろの騒がしい雰囲気が、たたらを踏んで行ったり来たりをしている。
どうした。
いつまでたっても何も言わない彼に、トニーはせっつこうと口を開いた。
向こうからごくりとつばを飲み込む音が聞えた。
その音に、半分開いた口を閉じるトニー。
ただならぬ雰囲気に背筋から全身にかけてを寒気が通り過ぎる。

「……周りに誰かいるか」

受話器を通して聞えたアル・ドドの声はかすれていた。
周りをはばかるような物言いは、彼がまるで何かに追い詰められているようでもあった。
加齢でしわの寄った喉をつうっと汗が一筋流れる。
トニーはそれを手でぬぐった。

「どうしたんだ」

「いいから、周りに誰もいないのか」

彼の明るい口調を心がけられた言葉を突っぱねたアルは、また同じ質問を繰り出した。
なにがあったんだ。
頭に浮かんだそれを口に出そうとしたところで思いとどまる。
しばらく口の中で言葉を反芻したあと、見てくる、とだけ言い残して受話器を机の上に置いた。
廊下へ続く扉を開け外をうかがう。
三つ扉を挟んだ辺りで床のモップ掛けをしているゾルタンが見えた。
下を向いたまま、掃除をしている。
手を止めて自分が綺麗にしたところを満足げに頷いた彼の視界がトニーを捕らえた。
一対の赤い瞳が動揺に小さく揺れた。

「どうかなさいましたか」

控えめな態度でゾルタンは尋ねた。
それに対して、なにもないと言う風に首を振ったあとトニーは扉を閉めて受話器に向かった。
革張りの席に腰掛ける。
いつのまにか染み出した汗がべったりと背中に生地をまとわりつかせる。
それを気にするよりも先に、電話を手に取った。

「だれもいなかった。さあ話してくれ、いったい何なんだ」

最後の部分を特に強調して言う。
すると受話器の向こうから了承の返事ともうめき声とも取れるかすれた声が届いた。
トニーは無意識に自分が眉間にしわを寄せているのがわかった。
明らかに様子が変だった。
少なくともいつもの悪ふざけではなさそうだ。

「……コチミの海岸は知ってるな」

出し抜けにアルのつぶやきにトニーは相づちを打っていく。
その海岸の名は何度も聞いていた。
地平線の向こうまで小麦に覆われた大規模な農場のことだ。
友人の考古学者と話をすれば、必ずと言って良いほどそこの話題が出る。
内容は、考古学的価値のある物品が大量に埋まっているのに、自由に発掘調査ができないことに対する不満がほとんどだ。
トニーがこのコチミを切り出しに使ったということは、これからの話の内容もそれに準ずるものだろう。

「実は五年近く前からおれは妙な男から依頼を受けていて、それを実行していた。掘り出して欲しいものがあるとのことだった」

そこまで言って、ふうと一呼吸入れるアル。
そのすきにトニーは引き出しを開け、メモ用紙とペンを取り出す。
コチミ。発掘。男からの依頼。
と適当に開いたページに殴り書きで記した。
記憶力には自信があったが、念のためだ。

「――今思えば、無理にでも断っておけば良かったと思うよ」

「なぜ断らなかったんだ。何か理由があったのか」

アルの言葉を無理矢理に押しのけたトニーの問いかけに、彼は自嘲を含んだ笑い声が聞えた。

「理由か。しいていうならまだ死にたくなかったってとこだ」

「死にたくなかった?」

友人の口から期せずして出た返答に、思わず顔を仰け反らせて聞き返すトニー。
受話器と本体とをつなぐコードが引っ張られ、みしりと音を立てた。

「ああ、何か楯突こうものなら何したっておかしくないような男だ。風貌こそまともだったが頭の中まではそうとは限らない」

アルは言った。

「それにあいつは大金を持っていて、自分のことを富豪だとかなんとか言っていた。あいつがいなければ発掘もなにもできなかった。過去をさらすまたとないチャンスだと思ったんだ。おまえもそう思うだろ」

その問いかけに対して、トニーはただ曖昧な返事しか返せなかった。
見つかったものがどういうものかという疑問よりも、友人の身に不安を感じ始めていた。
そんな自分に気付いたトニーは椅子にのせた腰をもぞもぞと動かして落ち着かせようとした。
棚の上の置き時計が嫌に大きな音を立てて秒を刻む。

「聞きたいことがある。良いか?」

メモ帳にペン先を押しつけながら彼はその問いの返答が帰ってくるのも待たず口を動かした。

「見つかったのか? その……発掘品とやら」

ここで初めて彼はアルが男から受けた見つけて欲しい物の正体を聞いていないことを思い出した。
金持ちがよくわからない物を欲しがるというのは良く聞く話だ。

「ついでに何なんだ。その掘り出して欲しいものってのは。差し支えなかったら教えてくれ」

またも電話の向こう側が沈黙になった。
静から息づかいが受話器に当たる風鳴りような音が、雑踏の立てる噪音に混じって聞える。
まずい質問をしてしまっただろうか。
それが前者か後者か、あるいは両方なのかは皆目見当がつかない。
トニーはなにか話題を変えようと、一つ咳払いをする。

「ま、まあそのことは別によいとして。どうだ最近、調子は……」

「見つかったよ」

やけに老いぼれた声がただ一言だけ述べた。
たった一言にもかかわらず、それはトニーの言葉を中断に追い込むには十分なほどしわがれていた。
うっすらとアルの後ろでたたらを踏んでいた雑踏が消え去ったように感じた。
全神経が友人の言葉を一字一句取り逃すまいとしているかのようだ。

「見つかったよ、見つかった。二週間前の正午過ぎくらいにコチミ平原の地下で人夫から報告があった」

「で、その見つかったものとは」

「聞いて驚くな。透明板だよ」

アルの言葉に、トニーは肩透かしを食らったような気がした。
ふうと止めていた息をため息にしてはき出しながら背もたれに寄りかかる。
この友人は昔から迷信深い部分があったが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。
透明板なんて子供だましだ。
いや、最近は子供でも信じないようなお話だ。
それを手に入れた者は世界を征服できる。
古くさい、気品のある考古品とは比べものにならないほど次元の低いかび臭さをまとった童話だ。
油の切れた座面のバネから馬鹿馬鹿しく思えるくらいに大きな音が響いた。
回線越しでなければいまごろヘルガーの頬を思い切り殴っていただろう。
大量の汗が彼が首を振るのと同時にしたたり落ちる。
今までのし掛かっていた分厚い緊張の垂れ幕が音を立てて取り除かれた。
受話器を耳に押し当てる。

「子供のいたずらはかわいげがある。だがおまえは子供よりもたちが悪い。ちゃんと相手に心配させて不安がらせるいたずらを知ってるからな」

「いいやいたずらじゃない。信じてくれ。おれだって最初はそんなの信じられなかった」

「そうかい、だったらおれも信じられんな。そんなおとぎ話で友達に冷や汗をかかすだなんてな」

――違う!
アルの怒鳴り声が受話器と同様トニーの鼓膜を叩いた。
耳鳴りに似た痛みに顔をしかめる。
つーんとした耳鳴りにも似た甲高い音が脳みそを揺らされるトニーを知らないアルは続けた。

「違うんだ。本物だ。おとぎ話じゃない、本物の透明板を見つけたんだ。そして依頼主はそいつを欲しがってる……」

トニーが口を挟む余裕がないほどの早口が飛んでくる。
メモ帳からペンを離したアルは、重たく垂れ下がったため息をはき出した。

「おいアル、落ち着け」

矢継ぎ早の声に割って入れた。
彼の声は深い井戸の底から響くうめき声のようにかすかでいて、しかし嫌と言うほどすんなり耳に通る声でもあった。
そう聞えるのが彼の狙いでもあった。
思惑どおり、アルはぴたりと口をつぐんでくれた。
これの効果は昔から重宝していた。
考古品の話となると少々見境を失う友人にブレーキをかけられる唯一の方法であり、もっとも頼れる方法だ。
やっとしゃべる機会を設けられた彼は、用紙の走り書きを斜めに見据えた。

「おれに電話した本当の理由は? このまま世紀の大発見とやらの話で終わらせるつもりじゃないだろう」

トニーは言った。
そうであってくれという願いもわずかながらあった。
何度目かわからない無言の返答がアルが返された。
唯一違うのは、無駄とも思えるほどに曖昧な間投詞を返しているという点くらいだ。
いつまでたってもアルがしゃべり出さないのに彼はしびれを切らしつつも、決してそれを悟られないよう口を一文字に引き結んで待った。
せかせば余計時間が掛かると踏んだからだ。
秒針が一回りするのを見守ったころ、向こう側で深呼吸するような音が聞えた。

「……何度もためらったんだ。こんなこと、友人に頼んで良いものかと」

先ほどとは打って変わって、水でもぶつけられたのではと思えるくらいに静かな口調だった。

「さっき言ったとおり依頼主はおれの見つけたものを欲しがっているんだ。資金もすべてやつが出した。素直に渡してしまうのが筋かも知れない。だが考えてもみてくれないか?」

アルは続けた。

「考古学にとって重要な価値があるかもしれないものをみすみす渡してしまうのは賢明じゃないだろ。一人のために発掘品を手垢だらけにされるのはおまえだって許せないだろ」

もちろんトニーはその意見に賛成だった。
自分もその一念だけで危険な橋を何度も渡ってきたのだ。
誰とも知れない男によってほこりを被せられてしまうよりも、ちゃんとした調査機関に受け渡すか、でなければ博物館に収められるべきだ。
彼は壁に掛けられた絵の横で、突き刺さるような陽を浴びて眠っている道具類を見やった。
古ぼけた帽子に、ちょっとやそっとのことでは破れない丈夫な素材で出来た肩掛けカバン。
長年そこに掛けられているにもかかわらずほとんどほこりを被っていないのは、彼が時々掃除しているからだ。
苦楽を共にしてきたそれは、主人の帰りを待つ子供のように黙りこくっている。
見方を変えれば、十年前に彼の犯した過ちを無言のまま咎めているようにも見える。

「ああたしかに」

彼は受話器に話しかけながらそれらから目を背けた。
黄色に光る目をまぶたの裏に隠す。
所詮過去は過去だ。
すべて終わったことだ。

「おれもその場に立ち会っていたら同じことを言った」

彼の同意をほのめかす言葉に、アルが小さく笑ったのが聞えた。

「良かった。おれからの用件はこうだ。奴らの手から透明板を、透明板を奪って欲しいんだ」

「それはどういうことだ? 詳しく言ってくれ」

いつのまにか机の上の電話機にかぶりつくような姿勢になっている自分を思い出した彼が椅子に深く座り直しながら言った。
何を言われても対応できるよう手にはペンを、机にはメモ用紙を準備する。
背中から突き刺さる白い帯が、トニーの影を机から絨毯まで一直線に縫いつけている。

「やつらは発掘品の受け渡し場所を指定してきた。モヘガンのモヘガン港で金と交換とのことだ」

「モヘガン?」

トニーは聞き返しながら、机に目を向ける。
天板にはめ込まれたガラス板の向こうの世界地図を見た。
海洋と運河と陸の地形が描かれた簡単なものだ。
国や地域の境ごとに点線で区切られており、ひとつひとつに首都の名前が黒い字が、その横に赤い字で太古の呼び名が記されている。
彼は目と指でアルの言った場所を探した。
東海岸の端の小さな地域にその名はあった。
指先でその場所を押さえつつ、視線を東海岸のコチミへ持って行く。
巨大な一大陸の上を、ちょうど斜めに横切った。
距離にしてざっと五〇〇〇マイルはある。
寝ずに移動したとしても二週間は必要だ。
一応自分のいる博物館の位置も確かめた。
内陸部のほとんど中央にあるため、コチミとモヘガンとのちょうど真ん中だ。

「おいアル。依頼主はなんだってこんな大陸横断をさせるんだ? 何か知っているか」

「さっぱりだ、知ってたら言ってるよ。ともかく、五日後やつとモヘガン港で物の受け渡しを行う。さっきも言ったとおり……」

「邪魔をしろというんだな、よくわかった。だがおれは歩くだけでも精一杯なんだ。どうしろと?」

「そのための弟子じゃないのか」

弟子という言葉に、トニー・チーチは知らないうちにうめき声を上げていた。
受話器を持つ手が重くなったような気がした。
視線をドアの向こうの廊下にいるであろうゾルタンをほうへ向ける。
彼を含む三人には、今まで色々と頼りすぎていた。
ただでさえ最低限の賃金で働いて貰っているのにも関わらず、それでこれ以上労働、それも危険なことをさせるのは気の毒すぎる。

「彼らは弟子じゃない。ただの博物館職員だ」

「いいや。だだの、じゃない。おまえの、トニー・チーチの博物館の職員だ」

そこでアルは一旦切った。

「期待できるんじゃないのか」

決断を迫るように若干強調された言葉は、真っ直ぐにトニーに巻き付くとぎりぎりと締め上げる。
二枚に渡って書き込まれたメモをのぞき込みつつ、ペンを机に投げ捨てるように転がした。
丸い表面を、滑るように部屋を映しながら、やがて止まった。
漆黒の面に縦に伸びたジュカインの渋った顔を鏡のように反射している。
友人を取るか職員を取るか。

「わかった。掛け合ってみるが、どうなるかわからんぞ」

眉間によっているであろうしわを伸ばすように指をあてがいながらトニーは早足に言った。

「よかった。おれも歳だ。こんな老いぼれてなけりゃ、おれだけでなんとか出来たんだがな」

しかし、本当にありがとう、と付け加えるようにアルが言ったその時、電話の向こう側にけたたましい騒音がのさばった。
何の音か尋ねようにも、間髪を入れさせてくれる余裕すらない轟音にかき消され、また、向こう側からの声もかき消される。
そんな状態がしばらく続いた。
騒音が遠ざかるようにして霧散したのは、始まりと同様、いきなりだった。
耳をつんざく轟音が消えた後、また人が足踏みする雑踏の軽い音が戻ってきた。
ところで、と確認するように話しかけたのはトニーだった。

「さっきから気になっていることがあるんだが。おまえは一体どこから掛けてきてるんだ?」

思い切って質問してみた。
少なくとも室内ではないだろう。

「どこって、ここか? ここはさっき言ったモヘガンで唯一の鉄道高架の下だ。公衆電話から掛けてる」

 その言葉にアルの後ろが騒がしい理由の説明にはなったが、なぜそこにいるのかという疑問が浮かび上がった。
 高架鉄道とは文字通り地面から離されたところに敷設された線路を走る鉄道のことだ。
隆起の多い土地を東西南北に網羅する大陸横断鉄道の管轄で、山や平野を走る際は地形に沿って走るが、市街地や地理的に困難が多い地域では高架を走る。
煙を振りまきながら地面を走る汽車が頭の上を通っていく。
斬新な発想から生まれたこの路線は世界的に見てもまれであるだろう。
開通から三〇年あまりがたち、新しい燃料形態の技術も確立された中、この大陸横断鉄道だけはかたくなに石炭による蒸気機関にこだわっていた。
おかげで、当初は物珍しさに黙認されていた騒音や煙害の問題が徐々にだが確実に浮上している。
トニーは受話器を押しつけた。

「泊まっているところはあるんだよな」

「ああ、人夫の分もすべて依頼主が都合してくれた。日当たりは悪いがなかなか……」

「なぜそこから電話しない? わざわざこんな騒がしいところからでなく」

ああそれか、と言ったきり彼は小声になった。

「人夫がどうもにおうんだ」

「におう?」

どういう主旨かを問おうと口を開きかけたトニーが実際に声に出す前に、アルは答えてくれた。

「怪しいんだ。確証なんかないがどうもな……。とにかく、人夫には聞かれたくなかった」

「つまりスパイがいると? その……何とか富豪とやらの」

ハリー・オールだ、とアル。

「金に物を言わせるやつだ。――くそったれ!」

「どうした?」

アルは聞いた。

「人夫の一人がこっちに気づきやがった。とにかく五日後、モヘガンだ。港にいると思う。明日また電話する」

「おい、待て。こら、おい」

トニー・チーチの声が館長室に響き渡る。
問いかけに応答したのは受話器から聞える無音だけだった。
舌打ちとともに受話器を本体にたたきつけると、彼は背もたれにもたれ掛かって天井を見上げる。
視界の隅から注がれる眩しい光が、白い天板と重なり合う。
眩しさに顔をしかめつつ彼は小さくため息を吐いた。
たとえどんな危険なことでも、彼ら三人なら喜んで赴いてくれるだろう。
今までにだってこれよりも危険なことを難なくこなしてきたくらいだ。
今回も何とかなるだろう。
トニーは視線を天井から部屋の中へ移動させる。
何か気を紛らわせそうなものが欲しかった。
頭では大丈夫だと言い聞かせても、全身を鈍痛のように波打つ寒気を拭いきれなかった。
嫌な予感。
それはあくまで予感でしかないが、常に死と危険の境界を渡ってきたトニー・チーチにとって、それは無くてはならないものだ。
それが警鐘を鳴らしている。
彼は部屋を寸断するように伸びたジュカインの影に目を向けた。
長く広がる黒は絨毯と床を横切って、一度壁で折れ曲がっている。
白い壁に黒い影ははっきりとした輪郭を投げかけている。
出し抜けに、その境界が曖昧になった。
何の前触れもなく太陽の光が赤く染まったのだ。
広域窓を叩く風と砂の音に、トニーはやれやれと首を振りながら窓に向く。
窓からは大通りと商店街の一部が見えた。
不気味な陰影を付けた建物の陰を、うつむき加減になった人が足早に歩いている。
先ほどまで朝を醸し出していた白は消え失せ、代わりに赤がたれ込めていた。
空を見れば、もやのように濃淡を付けた赤が一面を染めている。
この山間部の小さな町には、度々こういうことがおこる。
赤土が山風に舞って空を覆い、太陽に不気味なフィルターをかけるのだ。
奇怪じみた現象の原因は何十年も前、町を賑わせていた大規模炭坑が原因だった。
稀少な鉱石の鉱脈の発見には大量の事業家が我先にと押し寄せた。
そのため、労働者を住まわせるための場所が必要になった。
それで拓かれたのがこのいびつな町だ。
しばらくは繁栄を誇っていたが、鉱石が底を尽き、魅力が無くなった町には誰も見向きしなくなり、現在は当時の労働者がほそぼそと暮らすのみとなった。
残された者にとって一番の厄介となったのは、採掘のため広範囲にわたって地面を掘り返したために起った赤土による汚染だった。
四方を山に閉ざされた町は、言ってみれば吹き下ろされる山風がぶつかるところでもある。
赤土を運んできた風は町の上空でぶつかり、互いに食いつぶし合って、砂だけが残る。
町について知らない者が見たならば、まさにこの世の終わりと見まがうであろう。
トニー・チーチは椅子から立ち上がり、痙攣気味な足を引きずりながらドアへと向かった。
寒気の原因がアル・ドドか職員のほうかは定かではない。
あるいは両方かもしれない。
そうだとしても、それを決めるのは自分ではない。
アルの持つ運命と、職員ら三人の持つ運命だ。
彼は、もたれ掛かるようにして木彫りの扉を押し開けた。
半ばまで開いたところで掛けていた腕に抵抗を感じ、次にうめき声とともに向こう側で何かが倒れる音がした。
見るとマグマラシが一人、鼻を押さえてうずくまっている。
大理石の床に彼の苦痛に歪む表情が見えた。

「大丈夫か?」

背中に赤い斜陽を感じながら、ゾルタンに呼びかける。
勢いよく開けたつもりはなかったが相当痛むらしく、大丈夫だと呟きながら起き上がる際も顔をしかめている。
謝ろうかと口を開きかけたトニーの視界の端に、廊下の奥に放り出された掃除道具を見つけた。
その場所はちょうど彼がアルに辺りを確認してきてくれと言われたときに見た、ゾルタンの立っていたところだ。
ドアにはじき飛ばされたくらいでそこまでモップが飛ぶとは思えない。
彼は後ろ手に扉を閉めると、若干赤くなった鼻を未だにさするゾルタンに、館長室のほうを顎でしゃくって見せた。

「盗み聞きしていたのか」

出した言葉に、ぴくんとマグマラシの身体がわずかに跳ねるのをトニーはしっかりと目に焼き付けた。

「いいえ」

彼は取り繕うようにうつむき加減で言いながら、小刻みに首を振る。
首から提げられた懐中時計が、そのたびに揺さぶられている。
振れる銀の表面処理の施された飾り気のない時計は、ちょうど四つんばいになっても地に着かないギリギリの長さに調節された細い鎖で止められている。
よほど大事なものらしいが、トニーを含めだれにもその理由を話したがらなかった。
足掻きともとれるくらいに否定を続けるゾルタンを、彼は納得したふうに頷いて廊下の先へ視線を向けた。

「ついてこい」

にべもなく言って、彼はその方向へ身体を向ける。
遅れてゾルタンも彼の歩調について行く。
天井に互い違いに埋め込まれた照明が二人の影を薄く二つに分かち、それが廊下の終わりの窓からの赤い光輝と重なり歪ませる。
四方に響く風と砂の音とを二人の足音でかき消しながら、トニーはゾルタンに振り返った。

「どこまで聞いたんだ」

すがめられた双の黄ににらみ付けられた彼は、ぎこちなく目を逸らした。

「……断片的にです。内容までは聞き取れませんでした」

そこまで聞いてトニーは彼の言っていることが本当だと、前に向き直る。
時間がないことは十分承知で、自然に歩が早くなるが不自由な片足が言うことを聞いてくれずあわやバランスを崩して倒れるところだった。
急ごうと焦る気持ちと身体がうまくかみ合ってくれないことに壁に手をつきながら歯がゆさを感じた。

「大丈夫ですか」

彼の遅くなった歩みに合わせてゾルタンが心配そうに、しかし不安そうに顔をのぞき込んだ。
心配ないと軽く手を振って意思を表すと、トニーは壁についた手でたぐるように前へと進んだ。
廊下の終わりへとたどり着き、不気味な陽光が差し込む窓と垂直の位置にある階段を一段一段慎重に降りていく。

「ゾルタン、頼みがある。聞いてくれ」

二つ目の踊り場を過ぎた辺りで発せられた彼の声に、側を行くゾルタンは立ち止まった。

「何ですか」

「わたしの会話を盗み聞きしてたならわかるだろう。ルイスを探してきてくれないか。あいつのことだ、またどこかでさぼっているのだろうから」

わかりました、と短く返事と頷きを返したゾルタンは、彼の横を通り過ぎて駆け足で階段を下っていった。
ルイスもこの博物館の職員の一人であることは間違いないのだが、自分の職場でじっとしていた試しがなかった。
遊び人といった表現がもっとも当てはまる男だ。
近所の老人たちからはよく行儀の良くない悪ガキとあからさまな非難の対象に仕立て上げられていたが、当の本人はいつも柳に風と受け流していた。
他人をわざわざ苛つかせるあのバカにした言葉使いもさることながら幼少時から続くその性分を曲げようとしないところには、トニーも感心させられるところがあった。
彼がルイスと出会いは、かなり昔にさかのぼる。
当時イーブイだった彼は大都市の裏路地とをねぐらとする浮浪児集団の一人だった。
増大する貧富の差が生んだ貧弱な治安組織に変わる自警集団による厳しい監視の魔の手から逃れるため、彼らは地上を離れ、建物から建物へと屋根を飛び移るという手段をとった。
子供という小さな身体は、成人では入り込めないような入り組んだ場所を走り抜け、鳥ポケモンがもっとも苦手とする壁と壁の狭いあいだをすり抜けるのに適していた。
しだいにその都市には追う者と逃げる者という二つの図式ができあがった。
そんな中、ルイスは建物のふちを掴み損ね、地上を歩いていたトニーの前に落ちてきたのだ。
くすんでぼろぼろのみすぼらしいほどに汚れた体毛のアザだらけの少年は、イーブイの持つ漆黒に濡れる瞳に加えて、生き残るために勝ち得た強い意志に輝いていた。
トニーは追ってきた自警団から彼をかくまい、彼の親代わりとしての役割を果たした。
ルイス・ホーカーに文字の読み方を教えたのもトニーだった。
あらゆる困難に正面から立ち向かうだけの勇気と力を兼ね揃えた者に必要なものはほとんど渡した。
 階段を下りていたゾルタン・ロイターが不意に立ち止まり、踊り場で手すりに寄りかかっている館長を振り返った。

「ビアスはどうしますか?」

「わたしが呼んでくる。館長室で待ってる」

一歩ずつ慎重に足を運びながらトニーが言うと、ゾルタンは小さく頭を下げたのち彼に背を向けた。
反響する足音を引き連れて遠ざかる背中が一階のエントランスホールへ続く廊下の角に消える。
ルイスがいつも昼寝場所にしている長いすに探しに行ったのだろう。
遅れて廊下へ降りたったトニーはゾルタンとは反対の方向、すなわち中庭のほうへ歩いていく。
大通りに面した正面玄関を持つこの考古博物館は、本館とその後ろの別館に分かれている。
二つの建物をつなぐために作られた二本の廊下によって、四角い立方体のような外観を醸し出していた。
その中央のあいた場所には狭いながらも十分その機能を果たしてくれる中庭がこしらえられている。
汚染された赤土ではない健康的な土を敷き詰め、そこに山から水を引いて草木を植えた。
四方を壁に立ちはだかられてるため日照時間は少ないが、狭さが功をなし、赤土が入り込み、降り積もることはほとんどなかった。
死にかけた土地で唯一生命力に溢れる空間だと、彼を含めて誰もがそう思っていた。
外の森の緑が眩しく見えるのは、対比するものが赤土でしかないからだ。
子供の遊び場が少ないこの町で親が唯一安心して遊ばせられる場所でもあったため、必然的に子供が集まる。
上から十五歳、下は三歳とまばらな顔ぶれは、減りはするが増えたことがない。
親元から離れた者は、決してこの町には残らない。
それを見る限り、田舎という不便な土地柄に未だ固執している親に結わえ付けられた子供が不憫でならなかった。
壁一面にはめ込まれた磨りガラスのそれの端の大扉に、トニーは取っ手を掴んで引き開ける。
ゆっくりと開いた扉から漂うさっぱりとした草の香りとともに涼しげな空気が足下を通り抜けるのに、彼は朝といえど夏の色が強まる中で館内の温度の高さを思い知った。
これから昼にかけてさらに暑くなるだろう。
窓を開けたくとも、そんなことをすれば汗をかいた肌に赤土が張り付くのは火を見るよりも明らかである。
彼は後ろ手に扉を閉めながら、茂みの向こうから女性の声がするのに気付いた。
上では四角く切り抜かれた空が赤く照りつけている。
振り向き、のろのろと茂みに近づくと数人の子供が座っているのが見えた。
示し合わせたように全員が同じ一点に意識を集中している。
トニーは身体をずらして声の主を認めた。
木製のベンチを背後から、シャワーズが掴まり立ちの体勢で座面に絵本を開いて朗読している。
女性だからという理由以上に良く通るその声は、幼い子供はもちろん、少し離れたところで本を読んでいる少年少女までもが手元の小説に目を向けながらもちらちらと読み上げるシャワーズを見ている。
彼女は話し方が上手だった。
抑揚があり、言葉に加えて表情で登場人物の感情を伝える。
そういう姿を見ていると、彼は時々こんな辺鄙な博物館で働くのではなく、どこかの学校の先生になったほうが良かったのではないかと勧めたくなる。
実際、来館者にそう勧められているのを何度か見聞きしたことがあったが、いつも彼女は他の職業なぞ眼中にないという風に曖昧に首を振るばかりだった。
それがただ単に考古学が好きなためか、両親が考古学者で自分に負い目を感じているからなのかはわからない。
トニーは彼女が話を区切るのを待ってから咳払いと共に茂みから姿を晒し、真っ直ぐに子供たちの隙間を通り抜ける。
一斉に視線が彼に集中するのが、風の音のみのしんとした中庭が教える。

「チーチ館長。どうかなされたのですか」

突然の登場に若干狼狽を含んだ声音で問いかけると絵本を閉じ、ベンチを飛び越えて彼の前に姿勢良く着地した。

「やあリリアン」

周りの緊張を感じ取ったトニーが明るく言った。

「やあみんな、元気かい」

彼が手で仰ぐと、子供たちのあいだにどよめきが走った。
お話を中断させられたことに対する苛立ちと驚きに揺れる瞳が遠慮がちにトニーを見上げるのに、彼は肩をすくめて見せる。

「どうしたんだい? あまりご機嫌じゃないのかな」

「当たり前です。突然現れて邪魔したのですから」

シャワーズと呼ばれたリリアンが絵本のほうに尻尾を傾ける。
青を基調としたみずみずしく美しい体躯に並んで、リリアン・ビアスの人なつっこそうに輝く一対の瞳。
丸っこい顔つきは、まさしく人を魅了するだけの価値のあるものだ、とトニーは彼女が不機嫌そうにぴんと張った耳を寝かせるのを見守りつつ思った

「何のご用で? なにもないのでしたら、この子たちにお話を戻してあげたいのですが」

その通りだ、と言わんばかりの数人の頭がそれぞれに頷かれるのにトニーは小さく顔をしかめた。

「仕事を頼みたいんだ」

「倉庫整理ですか? それなら明日やっておくと今朝のうちに言ったと思いましたが」

「違う。そうじゃない」

「では館内清掃?」

言って首を小さくかしげる彼女に、トニーはまたも首を振った。

「さっき友人から電話があった。なんて言えば良いか……」

彼は淀んでしまった言葉に肩をすくめてみせ、辺りを見回した。
リリアンを含めて全員がトニーの次の言葉を待っている。
右と左の区別がやっとついたくらいの歳の子供に強盗紛いの行為に言及するのは避けたい。
口の中でしかるべき言葉を選別しながら彼はリリアンがもっとも興味を引き、彼女を子供から引き離せるものを探した。

「つまりは……その。私が頼みたい仕事は冒険だ」

冒険という最後についた単語にリリアンの青みを帯びた目が喜びにきらりと光ったのがわかった。

「冒険ですって? それはいったいどこへ? いつ?」

ぴんと張ったえら同様、興に押し出されるようにして出た質問が一斉に館長に浴びせかけられた。
あまりの凶変ぶりに、周りの何人かが互いに目を合わせながら後じさるのにまったく気付く様子もなく、ただ視線の一点にトニーを捉え続ける彼女に対して彼は複雑な気持ちを感じずにはいられなかった。
普通、彼女くらいの年齢の――少女から女性へと境界を踏み越えたくらいの――女性は異性の気を引くためにいろいろとするものだとトニーは思っていた。
ところがこのシャワーズはそういうことを一切していなかった。
香水を付けたところは見たことが無く、イヤリングやネックレスなどのアクセサリーの類を身につけている姿は想像すら難しい。
飾り気のない容貌は、高姿勢でないその性格と相まって親しみやすい印象で、そのために子供に好かれている。
素朴と言ったらそれまでだが、トニーにしてみれば自分の博物館で働いたことによって彼女の女性らしさを奪ってしまったように感じていた。
彼女自身、そんなことはないと笑ってくれてはいるが、どうにも拭えそうにない。
ましてこんな危険な冒険にはしゃぐような性格にしてしまったと思うと、胸の奥に痛みを感じる。

「落ち着いてくれ。まずはこの子らを何とかしないと」

一つ咳払いをしたのち、彼は怯え眼の子供たちに顎をしゃくった。
振り返ったリリアンは胸に手を当て、興奮を押さえ込もうとゆっくりと数回深呼吸をした。

「ごめんねみんな。お姉ちゃん、ちょっとこれから仕事があるの。でも大丈夫、それが済んだらまた本を読んであげるからね」

「……本当?」

子供たちの一人が発した遠慮がちなうつむき加減の質問に、彼女は笑顔を作って返した。

「ええ本当よ。約束する」

その声を機に、子供のあいだを漂っていた不安と動揺が取り払われたのを徐々に広がる破顔にトニーは読み取った。
みな口々にさよならと中庭から出て行く二人に手を振る。
中庭と館をつなぐ扉を閉めたトニーは、リリアンと共に階段へ向かいながら感嘆を含んだため息を漏らした。

「まったく大したもんだ。あそこまで信頼されるなんて」

「わたしは元々子供が好きなんです。というより、何もしていなくても好かれるんですけどね」

そこまで言って、彼女は口を閉じて会話に区切りを付けた。
大きく息を吐いたのち、今まで無理矢理に押さえていた感激に突き動かされるようにトニーを見上げた。

「で、どういうことなんです、チーチ館長? 詳しい内容を教えてください」

「まあ待て。焦るな。きみだけに話したって仕方がない。あと二人、ゾルタンとルイスが来るまで待っていてくれないか」

リリアンの脇を抜け、館長室へ続く階段へ足をかけるトニー。
赤い斜陽に照らされた階段に二人の影が長く伸びる。
と、トニーの後ろから着いてきていたリリアンが、あっと何かを思い出したような声を上げた。

「ルイス? そういえばたしか彼は博物館にいないはずよ」

「いない、はず?」

リリアンの言葉にオウム返しで聞き返したトニーは足を止める。
彼の目線に合わせるように彼女が数段駆け上がり、振り返る。

「ええそのはずです。だって彼はさっき……」

誰かが階段を駆け下りる音が、そこで彼女を中断させた。
ばたばたと忙しなく立てられる足音に、二人は視線をそこへ向ける。
階段の踊り場の陰から姿を現したマグマラシは荒い呼吸に四肢をふらつかせながら、トニーとリリアンを見つけるとかすかに頭を下げた。

「一階から四階まで、本館も別館も探しましたがいませんでした」

肩を上下させながら、半開きになった口から舌を出しているために聞き取りづらくなってしまった声でそう言った。
リリアンは彼にねぎらいの言葉をかけながらゾルタンの乱れた体毛を整えようと側に寄った。

「いなかっただと?」

トニーがいらいらと言うと、ゾルタンは頷いた。

「ええ、そこで裏を見に行ってみたら車がありませんでした」

 裏とは、博物館の別館に通された私道のことをさす。
本来なら荷物の運搬や従業員の出入りに使われる場所だが、本来の目的で使用したことは数えるほどしかない。
私道に繋がる従業員用の扉から出なくとも、正面玄関から出入りしたほうが便利なことに加え、それを咎める者がいないからだ。
誰も使用しない裏に目を付けたルイスは、そこに自身の車を勝手に置いている。
子供のいたずらから隔離し、なおかつ老人につばを吐かれない場所であるそこを彼は、館長であるトニーがいくら注意しても耳を貸さなかった。
 その車がないということはすなわち、ルイスの行動範囲を大幅に広げられたことになる。
山に囲まれた狭い町といえどそれなりに広い。
南北に細長く延びる大通りは商店街や住宅をまばらに従え、南は閉鎖された空港に、北は同じく閉鎖された鉱山に繋がっている。
山を越える道路を通れば、隣の町まで一時間足らずだ。
トニーは顔をしかめ、助けを乞うように天井を見上げた。

「どこへ行ったんだ。早くしないと大変なことになるのに」

「――あの……」

 ゾルタンの背中に毛繕いのため舌を這わせていたリリアンが唐突に顔を上げ、彼のほうを仰ぎ見た。
何だ、とトニーはしかめっ面にぶっきらぼうを重ねて言った。

「そのですね。彼、たぶん町の外に行っていないはずですよ」

なぜ、と男二人の声が同時の問いかけを発する。

「たしか、お酒を飲みに行くとか言ってましたから」

「お酒をですか? 車に乗って?」

ゾルタンが信じられないというふうに首を振った。

「飲酒運転は違法です」

言って、彼はリリアンに短めの謝意を送ったあと、トニーに向き直った。

「館長。外出許可をお願いします」

「わかった。行ってあいつを連れ戻してこい」

二人に軽く頭を下げ、階段を駆け下りるゾルタン。
正面玄関の扉の開閉音を合図に、トニーはため息を漏らした。
それは時間がないという意識が頭の中を駆けめぐるのと、それが水のようにつかみどころがないせいでもあった。
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