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運命の赤い糸 の変更点


このお話はR-18Gに該当する――とは断言しにくいのですが、流血表現・グロ注意という事だけ明記しておきます。

◆運命の赤い糸/作者:こんぺいとう

#hr

 少年は苦悩していた。背中に貼り付く粘着性の強い糸が、もがけばもがくほど絡まっていく事に。必死に引き剥がそうとあれこれ手は尽くしてみるものの、普段は利点の多い全身の体毛が、罠の深みにずぶずぶとはまり込んでしまう原因となっている。自慢の黒光りする爪を以てしても、断ち切れぬ特殊な糸の前には無用に等しかった。まるで糸に力を吸い取られているかの如く、徐々に体に力が入らなくなっていく。
 少年は葛藤していた。このまま先に待ち受けるであろう苦しみを想像するだけで、全身に悪寒が走る。罠を仕掛けた相手にじわじわと嬲られるのか。一瞬にして死をもたらされるのか。それ以外に犯されたりするのか。不吉な事を考えだしたらキリがなく、まだ起こりもしない妄想で心が抉られていく。それならばいっそのこと、この爪で喉を引き裂いて恐怖から逃れよう。そこまで思い詰められたところで、死の恐怖に臆して一歩を踏み出せずにいた。
「まだ死にたくねえよお」
 生気の失った枯れた声が、少年の喉から自ずと漏れた。生来の鋭い目つきをした赤い瞳には、普段なら殺気さえも感じるような光が宿っていない。腕を力なく垂らして全体重を背後の罠に預け、すっかり諦めに入っていた。恐怖に歪んだ表情は、天敵と対峙した時に垣間見える精悍さの面影を残していない。何とあっけないものだと嘆く気分すらもなくす程滅入っていた。
「ふうん。お困りのようですわね。助けて差し上げても良くてよ?」
 初対面だという事実を忘れさせる高圧的な口ぶり。毛並みも整って艶のある純白の容姿。清楚さに神秘的な印象を添える部分的に彩られた青い毛。長く立った耳と二本の尻尾は艶かさを演出するパーツとなっている。この危機的状況でなければ見惚れるか危険を感じて逃げるかの二択であるが、今は天から舞い降りた女神のように少年の目には映った。
「あなた、名前は何と言うの?」
「………スオウってんだ。で、あんたは何なんだよ。こんな見世物になってるおれを笑いものにしに来たなら、好きなだけ笑えば良いさ。それで気が済んだらとっとと帰れ」
「あらま、精一杯の強がりかしら。でも、私に当たり散らしたところで何の意味のないと思うのだけど。私は怪しい巣があると思って確かめに来ただけだもの」
 せせら笑う目の前の猫のようなポケモンに助けを求めるでもなく、少年は歯向かうような態度を見せる。こんな醜態を晒した上で泣いてすがるのは、この上なく無様な姿を晒していると思ってプライドが許さなかった。本当なら通りがかった者がいるだけでも幸運だと言うのに、何故か無意識のうちに抵抗の意思を剥き出しにしてしまっていた。今さら自らが固めた意思を引っ込めることは出来かねて、少年の視線は徐々にニャオニクスから逸らされていく。
「もう一度だけ申しますわね。あなた自身が望むなら、この奇怪な赤い糸で出来た蜘蛛の巣から助けてあげても良くてよ」
「もちろん、それにはとある条件があるのですけれど」
 再度穏やかな口ぶりで助け舟を出されて心が揺らぎ始め、それでも心底回答に迷っていた。自分はまだ生に未練があるのか。全身の血が滾るあの宿命の戦いに身を投じたいのか。自問自答を繰り返す中で、目を背けていた答えに自ずと辿りついた。例え目の前にいるニャオニクスの言いなりになろうとも、自分の望まぬ形で最期を迎えるよりはましだと思った。先刻までとは違う胸の高鳴りを必死に抑えつつ、生気の戻り始めた掠れのない声で語りかける。
「で、その条件って何なんだよ」
「そうね、あなたには私の騎士(ナイト)になっていただきたいのですよ。これでも私、いろんな者から命を狙われている身でして。手頃なボディーガードを探していたのです。でも――」
 いちいち間を置いてもったいぶったような言い草が癪に障る。出来る事なら早くこの束縛から解放して欲しいという切実な欲求を口に出さないようにぐっと堪える。辛抱なら嫌と言うほど続けてきた。この心をおかしくさせる束縛から解放されるためなら何のこれしきという心意気だった。
「でも、なんだよ」
「果たしてあなたにそれが務まるかしらね。見たところ注意力も散漫のようですし」
「はっ、舐めるなよ。おれだってそれなりに死線をくぐり抜けてきたんだ。そんじょそこらの奴にゃ負けねえよ」
「あらあら、口だけは達者ですわね。では、その言葉を信じて差し上げましょう」
 美しい体躯に似つかわしい滑らかで華やいだ声と共に、ニャオニクスは耳を空に向けて立てる。それを合図として、この小さな体のどこに隠していたのかと疑いたくなるような神秘の力が溢れ出した。目に見える形となって現れた力――俗にエスパータイプのポケモンが持つサイコパワーによって、ニャオニクスが直接触れずしていとも簡単に赤い糸は断ち切られた。もしかしたらとんでもない奴に絡まれてしまったのかもしれない――そんな畏怖を抱くスオウだったが、一度は捨てようとした命だと腹を括って専属の騎士になる事を心得た。
「ところで、あんたの名前は何て言うんだよ」
「私はフェレスと言いますのよ。これからずっと仕える相手になるわけですし、覚えておきなさいな」
 こうして望まぬ形で邂逅を果たした二匹は、宛てのない旅を始める事となった。だが、至って道中は暇なもので、フェレスの気の向くままに森の中をひたすら突き進む日々が続いた。スオウは文句も言わず付き従ってはいたが、胸の内に渦巻く疑念は拭えるどころか日増しに膨らんでいくばかりだった。自分達はどこを目指しているのか、フェレスを狙う刺客とは何なのか。その真実がフェレスの口から伝えられる事はなく、数日が過ぎた頃の事だった。森に生息していて暴れだしたら手が付けられないと噂のリングマ――強靭な肉体と並々ならぬ力を持つ熊のポケモン――に突如として襲われる羽目になった。
「フェレス、こいつに心当たりでもあるのかよ……!」
「ええ。彼は私を狙っているのですのよ。ですから、あなたに退治していただきたいものです」
 危機に瀕しているというのにフェレスはあくまで飄々としている。切羽詰っているようには見えず俄かには信じがたかったが、これも命令とあらば忠実にこなさなければならないのはスオウも弁えていた。戦いに際しての心の切り替えは早く、自慢の爪を構えてフェレスとリングマの間に入る。
 スオウは自分よりも一回りも体格の大きくがっちりとした相手にも勇猛果敢に立ち向かっていった。純粋な力比べならばリングマに分があるが、スピードにかけては種族柄持つ脚力もあってスオウの方に軍配が上がった。リングマの大振りな攻撃の直撃を喰らわないように受け流しつつ、颯爽と駆けながら体力を徐々に削るように小さな攻撃を加えていく。息巻く敵に対してもスオウは至って冷静に振る舞えた。
「うぬは奴の護衛役か。悪い事は言わぬ。止めておけ。奴と関わりあうとろくな目に遭わぬぞ」
「もうあいつには逆らえねえ以上、後には引けねえんだよ。あんたの忠告はありがたく受け取っておくが、こっちも命令とあっては悪いが手加減してらんねえんでな」
「それがうぬの選択なら我はこれ以上何も言わぬ。全力でぶつかり合うのみだ」
 これまでの戦闘パターンから次の動きを見切って、一旦退きながら力を篭めた左腕で防御を図る。爪の威力を押し殺してそのまま反撃に移る算段だった。しかし、ここでスオウには不測の事態が生じる。度重なる全力疾走で足に疲労が蓄積されており、肝心のところで一歩後退が遅れる。――それが、スオウにとっては致命的となった。
 力任せに振り下ろされた鋭利な爪を押さえきれず、上手く流しきって防げたはずの箇所を切り裂いた。攻撃の要となる腕の肉を削がれ、美しい純白の毛が瞬く間に真紅に染まっていく。呻き声を上げながら損傷した部分を押さえ、隙を見せないように睨みを利かせながら距離を取る。予想以上に体が疲弊していた事に加え、今しがた負った深手のせいで視界が霞んで正常な思考が侵食され始めていた。これ以上長引くのは体力的にも厳しいと判断し、次の一撃で仕留める作戦に変更する。
 リングマもスオウの小さな攻撃の積み重ねで相当ダメージを負っていた。刺し違えてでも倒してやろうとの強い覚悟に体は応え、ここ一番で瞬発力を発揮してスオウに肉薄する。このまま避けなければ死は免れない――だが、スオウはすんでのところでリングマの一太刀を見切り、もはやまともに機能しない左腕で無理矢理受け止めた。血しぶきが腕から迸り、返り血となってリングマの目を使い物にならなくする。威力を殺して防いだところで、防ぎようもなく力も最大限に発揮される至近距離から必殺の一撃――“カウンター”の如き紫電一閃の元に、何の躊躇もなく獲物の喉元を捉えて引き裂いた。
「『肉を切らせて骨を断つ』――って人間の世界の言葉だっけか」
 自らの血とリングマの血で全身を真っ赤にしつつ、倒れ行くリングマに悲しげに一瞥をくれて空を仰ぐ。だが、戦闘中の一時的な興奮の余韻で涼しい顔をしていても、体の方は正直ですぐに限界が訪れる。最後の攻防でスオウも決して軽くはない傷痍を負っており、フェレスの元に戻ろうとする足は覚束なく、数歩歩みを進めたところで力が抜けた。
 顔をしかめてその場に蹲るスオウの元に、フェレスが優雅な足取りで近づいてくる。荒い呼吸を繰り返して目の焦点が定まらないスオウの様子に、氷のような冷淡な顔色を顕わにしている。スオウには目の前に立つ者の顔を窺うだけの余裕すらなかった。
 足を揃えたフェレスはやおら屈み込み、スオウの体毛ならず地面までも赤く濡らし続ける左腕を逡巡する事なく両手で引き寄せた。強引に引っ張られた怪我人が激痛に喘ぐ間に、舌を出しながら口をゆっくりと近づけていく。次の瞬間、フェレスは淡い桃色をした器官で以て真紅の中心を優しく撫でた。混濁した意識の狭間を彷徨っていたスオウの頭も、体を襲う更なる異変によって瞬時に漂白されて覚醒する。遅れてやって来た傷口を舐められる感覚は、今までに味わったことのない奇妙なものだった。痛みとこそばゆさが混同している中に、絶妙な舌の触り方もあって心地良ささえも覚えてしまう程である。魔法にでも掛けられたような快感に酔いしれる前に我に返ったスオウは、急いでフェレスを腕から引き剥がした。
「ぐっ、な、何やってんだ……そんな事したら、あんたの体内におれの血を取り込んじまうだろ」
「ええ、そんな事は百も承知ですの。ふうん、あなたの血の味はまた格別ね……こちらの血まで湧きそうな程に熱いわ」
 舌で掬い取ったスオウの血液を口に含んで味わっているようだった。奇怪な行動を取るフェレスに訝しげな視線を送るスオウを尻目に、見る見る内に彼の傷口が塞がっていった。あれだけリングマの爪が深々と食い込んで痛々しげだった腕も、痛みがすっかり引いて動かすのにも支障はなかった。ニャオニクスに治癒系の波動が使えないのはスオウでも知っているが故に、自分の身に起こった摩訶不思議な現象には全く以って納得が行かない。
「おい、一体何をしたんだ? 傷痕すら残らず治ってるなんて……」
「あなたは純白の方が似合ってますわ。真紅はまだ似合いませんの」
 傷が癒えるに越した事はないが、ただ舌で舐められただけで一瞬にして跡形もなく綺麗になるのは不可解以外の何物でもなかった。好奇心と言うよりは恐怖心からどんな原理なのかを知りたかったのだが、当の本人は素知らぬ顔をしてはぐらかした。治してもらった以上は問い詰めるのも気が引け、ひとまず火照った体を冷ますのと体毛にべっとりと付着した血を洗い流すのを兼ねて川辺へ行こうと提案する。先の質問にはまともな返答を寄越さなかったフェレスも、これには同意してこの先にあるらしい小川へと導いていく。

 鬱蒼とした茂みを迷わず突き進んでいく内に、立ち並んでいた木々がぽっかり抜け落ちたような開けた空間に出た。死闘を繰り広げて生々しい音ばかりが耳に残っているせいか、心地よいせせらぎが新鮮かつ安らぐ旋律にさえ感じる。だが、本来の目的は自然の情趣を享受する事ではない。足から順に清く冷たい川に浸かっていくと、淀みのなかった流れの途中から滲み出た赤が侵食していく。幸いにも水の中にポケモンの姿はなく、血の臭いを嗅ぎ付けて来るような輩もいなかった。
「そろそろ襲われている理由を教えてくれたっていいんじゃないか?」
「ご想像にお任せ致しますわ。どうせ言ったところで他愛のない事ですし、好きに考えてもらっていた方が私としても気が楽なのです」
 綺麗さっぱり洗い流して体は元の白さを取り戻したが、心の方はさっぱりとは行かず多少のしこりが残る。戦いに身を投じて体を張っている以上は、出会って間もないからというだけでは簡単には割り切れない。助けてもらった恩を差し引いても、その理由を聞くくらいは図々しくはないと判断して、スオウは体に付いた水滴を振り払って地面に腰を下ろす。
「ぎりぎりの戦いを潜り抜けた相手にその言い草はないだろ。訳も分からないまま命を落とす事になるんじゃさすがに割に合わねえ」
「その時はその時。あなたの実力がその程度だったと言う事でしょう。駒として役に立った後は、もうお役御免ですわ」
「雌猫風情が生意気な口を利きやがって……てめえも喉をかっさいてやろうか」
「あらあら、私にそんな減らず口を叩いて良いのかしら。確かに戦う原因を作ったのは私ですが、その傷を治したのも私。そもそも私があなたを糸から解放しなければ、何者かの餌食になっていたのかもしれませんのよ」
 口調も表情も相変わらず貴婦人のような仮面を被っていたが、反論の一つ一つにはそれに似つかわしくない力が篭められた。笑みさえも不気味に映るほどで、一度は強気に出たスオウも思わずたじろぐ。特に最後の論破はスオウにとっては大きく痛手で、剥き出しにしていた牙をしまってぐうの音も出なくなるだけの威力を秘めていた。
「反抗的な態度は解せませんが、その従順さに免じて少しだけ。先程あなたも目の当たりにしたあの力――治癒の力が大きく関係している、とだけお教えしておきましょう」
 何が従順さだとでも毒づきたくなったが、現状のような服従状態にあってはこれ以上口答えするのも面倒になって言葉を呑んだ。その代わりに、最後の悪あがきだけはけしかけてやろうという考えに至った。
「用済みになったら捨てられる運命だって分かってるなら、いつかこの関係も解消してやるからな」
「どうぞご自由に。もっとも、それが出来ればの話になりますけどね」
 含みを持たせた言い方がやけに引っかかる。背筋に氷柱を押し当てられたような不気味さを伴う。だが同時に、胸に針を刺されたような妙な感覚にも苛まれる。その違和感が自分でも理解できず、一泡吹かせてやろうとの気力も失せてしまい、スオウはフェレスを追う形でやむなく川辺を後にする。

 それからの移動の行程はスオウが想定したよりも穏便に済んだ。リングマとの交戦以来戦いを挑んでくるものは現れず、川辺での一波乱があった後だけに戦いの連続だと身構えていたスオウにとっては正直拍子抜けであった。しかし、現実はそう甘くないもので、ちょうど緩急の激しい川を下っているようなものであった。そして束の間の平穏は時として油断を招く事に繋がり、予想だにしない箇所で急流に巻き込まれる事となる。
 時刻は昼下がりの事。じりじりと身を焦がすような直射日光に体力を奪われていたスオウは、岩場で腰を下ろして一休みでもしないかと考えた。フェレスも顔色一つ変えてはいないが、移動による疲労は溜まっていたらしく、スオウの案に賛同する。そこが、単なる岩場ではないと気づきもせず。急襲に遭わずに進んできた快調な旅路に安堵しきっていた次の瞬間、右の脇腹に意識が飛ばされそうな激痛が走り、美しい青空の景色にそぐわない真っ赤な鮮血が宙に舞い散った。
「ぐふっ……ま、さか、気配もしない、とは……」
 予想だにせぬ位置からの完全なる不意打ちであった。そして脇に深々と刺さったそれは、スオウの体に深刻な損傷を及ぼした。本来戦いに向けて緊張させた体ならばいざ知らず、休息を求めて力を抜いた事が災いして、初撃でごっそりと体力を持っていかれる。さらにスオウにとっても計算外で不幸だったのは、相手は相当の達人で敵意すら察知できない事だった。その結果がこれである。不幸中の幸いは、岩に乗って体勢が不安定だった事もあって、殺傷能力が僅かに緩和された事くらいのものである。
「きひひ、惜しいのう。実に惜しい。お前さんのような手だれの者を葬らねばならぬとは。だが、これも宿命(さだめ)だと思って観念しとくれ」
「誰が、てめえ、なんぞに」
 攻撃を受けた身で喋れば余計に傷に響くが、既に臨戦の神経が稼動して痛みを感じなくなっていた。逆に言えば体の限界を突破して無茶をする危険を伴う。だが、それも悪くないと賭けてみる事にする。腹に突き立った棘を引き抜き、片手で抉られた傷を押さえながら改めて背後に視線を向ける。既に虫の息であるスオウに対して余裕の表情を見せる影――それは渦巻状の貝殻から何本もの触手のような足の伸びている水色のポケモン、オムスターであった。先の鋭利な攻撃は、硬質な甲羅である背中から棘を飛ばす技――“とげキャノン”だったらしい。
「しかし、しぶといものよのう。おとなしくしておれば、これ以上苦しまずとも済むと言うのに」
 目の焦点も定まらぬザングースの小僧など、一捻りするのは造作もない。胸中では完全に勝ち誇っていたが、その上で余裕を持って止めを刺してやろうとの心持ちで再度攻撃の支度を整えていた。大量の失血でリングマ戦以上に意識が遠退くのが早く、序盤どころか一瞬にして追い詰められて苦戦を強いられる。だが、絶体絶命の状況下のせいか、殊の外頭が冴えて俯瞰的に戦況を見定める事が出来るようになっていた。負った傷を考えれば悠長に構えている暇はないのだが、今はそれさえも気にならないほど雑念が消えて無の境地に到達していた。
 想定どおりに不意打ちが決まった事で、今度は敵方の気が緩んでいるのも分かる。触手のような体で捉えづらいが、全身の筋肉が弛緩して安堵の様子が窺える。あいにく自分も肉体的にも長期戦が望めないところまで追い込まれているのも承知している。ある意味一か八かの捨て身の作戦にいち早く移ることを決め込んだ。しかし、痛みで足に力が入らず、敵のところまで歩みを進める事が出来るか否かも怪しい。体が倒れないように一歩ずつ踏みしめながら近づいていくが、弱りきったスオウはさながら最後の虚しい抵抗をする獲物のようで、遠距離を得意とするオムスターにとっても格好の的である。左右にふらつきながら歩くスオウを、嘲笑を浮かべながら苦しむ様子を見て悦に入っている。届いたところで射程距離に入れば軽くあしらえると見下していたからであった。
 そんな敵方の予想は見事に的中する。下半身全てが流血で鮮やかに染色され、意識があるのか分からないまま何とか歩んできたスオウの体が、敵から数歩分手前でばったりと崩れ落ちた。もう手足を動かす力も残っていないと見て、オムスターはわざわざ生死を確認するために歩み寄る――スオウは相手の油断しているその一瞬を狙う。
 一秒。砂の上を撫でるように移動する音が耳まで届く。二秒。伏した体の手前に全ての足が置かれる。三秒。動かぬ屍となったか確かめようと伸ばされた足が腕に触れる。遂に絶好の機会が来た。最後の足掻きを見せるためにも痛む体に鞭を打ち、敵の腕が振り下ろされる前に反射的に起き上がる。前傾姿勢でかわした後、止めを刺すだけだと油断しきって慌てる相手の背後に回り込み、一点集中した爪の攻撃を叩き込む。磨かれた爪と火事場の馬鹿力は、オムスターが背後に唯一持つ強固な鎧を貫くだけの威力を持っていた。爪を引き抜いた時の感触で、わざわざ確認せずとも生死は明らかであった。
 こうして初っ端から追い込まれたスオウの機転で、目には目をとばかりに、土壇場の芝居と同じ手である不意打ちを組み合わせて戦いは幕を下ろした。両者共に相手の気が緩んだところを狙ったのは同じであるが、決定的に違うのは、相手が確実に仕留めに来なかったのに対し、スオウはその一撃に渾身の力を篭めていた点である。唯一そこが勝敗の分かれ目となった。勝利を確信して手を抜いた者と、生に縋って最後まで諦めなかった者。神に頼らずとも導き出される結果は明白だった。

 だが、スオウの方も決して手放しで喜べるような勝利を収めたわけではない。ここまで来ると自然治癒などと言う気の長くなるような生ぬるいものになど頼っていられない。傷の状態からして一刻を争う事は自分の体が一番良く分かっていた。虚ろな目で必死にフェレスを捜し、最後の力を振り絞って倒れこむようにして彼女の元まで辿り着く。
「ごほッ……頼む、例の奴を……ッ!」
 戦い慣れして鍛えられた体とて、苦痛に堪え得る許容量にも限度はある。口腔に溜まった粘り気のある液体を吐き出し、戦闘の途中には見せる事のなかった弱々しい姿をフェレスの前に曝け出す。勇ましかった戦士の死に物狂いの訴えを呑んで、フェレスは件の儀式を開始する。今回はリングマ戦後の容態とは異なり、血の海がじわじわと広がって触れるだけでもスオウの血を浴びねばならない。フェレスはそれに臆する事も躊躇いも微塵も見せる事無く、傷口に飛び込むようにして顔を埋めた。
 ぴちゃぴちゃと患部を舐める音は優しいが、スオウにとっては断続的に襲い来る生き地獄の如き疼痛に耐える事は決して易しいものではない。ぬるま湯に浸けたような心地良さを感じる領域が少しずつ増えて回復を実感出来てはいるが、同時に刺激も少なからず受けるため、気が緩んだら意識を失いそうなほどであった。ぎりぎりのところで綱渡りを繰り返していくと、ようやく執拗な激痛の侵攻に歯止めが掛かった。
「はぁっ、た、助かったぜ……。さすがに今回はもう駄目かと思ったけどな」
 並大抵ではない苦難から解放された事で、腹の底から大きく一息吐いた。フェレスと言う頼みの綱がいる安心感があるとは言え、死の淵に立たされる状況まで追いやられるのは決して望ましい事ではない。スオウも無事乗り越えて心の底から安堵していた。また感謝の意を伝えようとフェレスに視線を向けた時、そこにいたのは気品に満ちた美しいニャオニクスではなく、血に塗れながら瞳にぎらぎらとした光を宿らせている不気味な姿の別人だった。
「ふふふふ、今日のは一段と格別でしたわね。野生の、獣の心をくすぐるような感じで。良いわ、良いわよ、スオウ。あなたの戦いっぷりは」
 歴戦の強者が身に纏う迫力とは違う、全身の毛が逆立つような気味の悪さを孕んだ威圧感を放っている。珍しく褒められていると言うのに、その言葉を素直に受け取れない。肉食獣に取って食われそうな獲物になったかのような錯覚に陥り、畏怖のためか体が硬直して身動ぎさえも叶わなかった。目の前にいるのは逞しい体つきの大型ポケモンや絶対的な力を持つ伝説級のポケモンではなく、単なる可憐な猫だと言うのに。
「何をぼさっとしているのですか? もう体は動くのでしょう。新手がやってくる前にさっさとこの場を離れる事に致しましょう」
 金縛りに遭ったのは僅かの間の事だった。目を離した隙に元のフェレスに身替わりを終えていた。乾いて全身に張り付く血には不快感しか覚えないが、あいにく洗い流せるような環境でない以上は不平を言ったところで仕方がない。傷も治って幾分か軽くなった足取りで、それでも気持ち悪さは拭えず渋々と走り出した。

 そこからいくつの死闘を数えただろうか。小競り合いから大規模な戦闘まで、数多の護衛を繰り返していた。命懸けの戦いに覚悟が出来て慣れてきたとは言え、容易に潜り抜けられるかと言えば話は全く別だった。多くの命の素を流しては死に瀕する事もあり、その度ごとにフェレスの手によって元の状態に戻してもらうと言う巡りであった。しかし、全てが元の状態と言うわけにもいかなかった。
 負傷を重ねる度に治してもらうのは良いのだが、ここ最近は体が重くて以前のように思うように動けなくなっていた。最初は体調が優れないだけだと気にも留めなかったのだが、戦闘中に四肢に力が入らない倦怠感に襲われることがあってからは気のせいでは片付けられなくなっていた。そしてそれに反比例して心の虚無感を埋めるかのごとくフェレスへの慕情は日増しに強くなっていく。血を失う事よりもフェレスの快感を得られない事のほうが怖いとさえ思い始めていたのである。度重なる死闘を共に乗り越える内に、すっかり身も心も彼女の虜となり、護衛と言うよりは下僕と成り果ててさえいた。
 そして、運命の時は訪れる。

 スオウにも一瞬何が起こったのか認識できなかった。眩い閃光を放つ衝撃波が視界をちらついたかと思えば、次の刹那に白い何かが目の前を過ぎって、赤が視界を埋め尽くす。そこから数瞬遅れて感じたのは、体が弾け飛んだかのような激痛の連続と、体の一部が抜け落ちたかのような喪失感。絶叫を上げる事すら許されず、反射的にそれを受けたと理解できる方に視線を動かすと、あったはずの左腕が、左足が、ごっそり無くなっていた。吹き飛んでいった肉片が自分のものだったと認識した時には、衝撃と痛みとに堪えかねて頭から地面に打ち付けられていた。
 今までどこに隠れていたのかと疑いたくなるような鮮血の奔流が口から止め処なく溢れ出す。一撃で即死に至らなかったのが幸いと言うべきか否かは分からない。確実なる死への秒読みを押し付けられて、最期となる生き地獄を味わわされる事となった。陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくと動かしているが、必死の努力も虚しく言霊が発せられる事はなかった。
 今度ばかりは傷口を塞いで回復を図れるというレベルではない。左半身をまるごと失うほどの重態では既に手遅れであり、スオウの命は風前の灯に等しい。だが、本来全身を襲っているはずの痛みを享受出来ていない。治癒の魅力に取り憑かれて、元来持っていたはずの自我を完全に見失っていた。幸いと言うべきか否か、標的とは違う相手に攻撃が当たった事で、攻撃してきた主はここを離れていったらしい。
 掠れかけていた視界の端にようやくフェレスの姿が映り、スオウも安堵から意識を手放しそうになる。だが、そこに映るのは、いつもの安心感を与えてくれる笑顔ではない。慈愛に満ちた、とてつもなく悲しげな表情だった。
「ごめんなさいね。死に体には手の施しようがないのよ。だから、最後に私なりの方法で弔って差し上げましょう」
 何を言っているのか分からなかった。肉体の損傷が酷くても辛うじて耳は聞こえているが、言っている意味が理解できない。今まで通り患部を舐めて癒してくれるとばかり思っているスオウにとって、一向に例の儀式に移らない事は想定外でしかない。それどころかいずこより現れたのか分からない絹のような糸をスオウの体に巻きつけ始める。大地にもじわじわと広がり行く“それ”によって、糸も例外なく鮮やかな真紅に染め上げられていく。どこかで見覚えがないかと記憶の引き出しを漁ろうと試みるが、意識が途切れ途切れで保つのがやっとの上に、治しに掛からないという事実でただでさえ考え事の出来ない頭がいっぱいだった。
 ――弔う? 何を言ってんだ、おれはまだ戦えるぞ。そうだ、お前がまたいつものように治してくれりゃ、いつだって戦えるんだ。そうだろ? それでまた、おれはお前の傍で生き続けるんだ。……違うのか?
「大丈夫、あなたの存在は消えてなくなるわけではありませんわ。私の中で共に生きていくのです。これは光栄で素敵な事だと思いませんか?」
 ――フェレスと共に、か。だったら、おれはこのままでも良いかもしれない。傷の事なんぞもう構わない。後は今までどおり、あいつに身を委ねれば良いんだな。そうしたら、おれは、このまま――

 死ぬ瀬戸際になっても、不思議と絶望は感じなかった。むしろ最後までフェレスの役に立てると言う誇らしさで胸がいっぱいだった。胸を締め付ける寂寥感も消え失せている。ああ、こいつに最後まで尽くして逝けるのか。それは本望だ――そんな常人では辿り着けないような充足感に浸りつつ、身も心も捧げる覚悟を決めて、遂には意識を完全なる闇へと落としていった。戦う事しか知らなかった若者が初めて深い愛に目覚めた時には、もう二度とは目覚め得ぬ深淵へと突き落とされていた。執念深く生にすがり付こうとしていた少年は、最後には自らの意思で生を軽々しく手放す結果へと至るのだった。
「ああ、久しぶりに巡り会えた優秀な戦士でしたのに。また罠にかかってもらうのを待つしかありませんわね」
 フェレスは屍と化したスオウに巻きつけていた蜘蛛の糸を回収する。憐れむような色を表情に纏わせていたのはほんの数秒の事で、誇らしく役目を終えた戦士の血によって色づけされた糸の塊を手にした時にはそこかしこに悪魔のような笑みを湛えていた。彼女の虜になったが最後、無事に生還した者はいないという。これはそんな、魔女のような猫の住む世界の、ほんの一匹の犠牲者にまつわるお話である。

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