ポケモン小説wiki
氷の妖精 の変更点


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**氷の妖精 [#HqioySO]
RIGHT:Written by [[March Hare>三月兎]]
LEFT:[[魔女先生>三月兎#YLsSm4S]]シリーズ4作目。
注:&color(red){R18};表現があります
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#contents
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◇キャラクター紹介◇

○ライズ:ニンフィア
 セーラリュートの高等部一年生で、セルネーゼの婚約者。

○セルネーゼ:グレイシア
 ランナベール王、リカルディの専属護衛。ライズの婚約者。

○マチルダ:マフォクシー
 セーラリュートの元教師。残念で不憫なひと。

○橄欖:キルリア
 ランナベール王家、ヴァンジェスティのメイド長。

 etc.

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***プロローグ・再会 [#y39b0188]

 あれはまだ七歳の頃。又従姉のセルネーゼがグレイシアに進化したとき、子供心にも、彼女の美しさに惹きつけられた。
「ぼく、大きくなったら、セルネーゼちゃんとけっこんしたいな」
「ふふ。ライズがわたしに負けないくらい綺麗な男の子になったら、考えてあげようかしら?」
 そんな幼い記憶。まだ恋を知らなかった子供の僕は、ただ純粋に彼女に憧れていた。
 十年近くの時を経て、ライズはあの頃のセルネーゼよりも年上になった。今や彼女も二十三歳、立派な大人の女性となっているはずだ。
 ランナベールのお国柄、治安はずいぶん良くなったとはいえ、高等部の学生には一匹での外出許可は下りない。とはいえ兵士養成学校なので、必ずしも保護者がつかなければならないわけでもなく、数人できちんと隊列を組んで行動するなど、規定をしっかり守れば高等部の学生だけでも街に繰り出すことはできる。帰省の際にも高等部からは迎えは必須ではなくなるし、半分大人として認められている、と言ってもいいだろう。
 でも、一匹では外に出られないわけで。
 学園に迎えに来てもらうなんて格好がつかないけれど、相手は七つも年上だし、仕方ないか。
 そろそろ約束の時刻だ。
 待ち合わせは中央ホールで、ということになっている。
 いつもロッコと座っていたベンチに、今日は一匹。婚約者の到着を待っていた。
「おい、あれ」
「すげー美人……」
「でもキツそーだし、俺好みじゃねーな……」
 行き交う学生たちが一瞬、ざわついた。
 正門の方へと向かう通路から、中央ホールへと歩み出てきたグレイシアに、誰もが目を留めた。
 イーブイ系統の牝というだけで珍しいのに、それが稀に見る美人ときたら、なおさら注目の的になるだろう。
 彼女はたしかに気品のある美しさを醸し出しているが、一方で目つきは鋭く近寄りがたいものを感じる。
 その視線がライズに向けられて、止まった。
「……っ!」
 目が合った途端、身が竦んでしまった。
 動くに動けないライズの方へ、彼女は迷わず歩み寄ってくる。
「ごきげんよう。お久しぶりですわね」
「ぁ……は、はい」
 少し高飛車なところもあったけれど、優しいお姉さんだった。
「人違い……ではありませんわよね。面影があるもの」
 そんなライズの記憶の中のセルネーゼとはあまりにイメージが違っていて、変な受け答えをしてしまった。
「お久しぶりです。セルネーゼさん」
「……まさか、ライズが本当にこんなに……」
 セルネーゼが俯いて何かを呟いたが、よく聞き取れなかった。
 が、今のセルネーゼからは一緒にいるだけでひしひしと重圧のようなものを感じて、問い返す勇気はない。
「セルネーゼ……さん、ええと」
 今の彼女を"ちゃん"付けで呼ぶなんてあまりに恐れ多い気がして、言葉遣いがどうしても堅くなってしまう。
「何か?」
「その……変わられましたね」
「わたくしも老けてしまったということかしら」
「け、決してそういう意味では」
「……おかしな子ね。変わったのは貴方の方ではありませんの?」
「僕が、ですか。それはもちろん、進化もしましたし……いろいろありましたから」
「昔のようにはいかないものかしら。ライズ。わたくしがこうして呼び捨てにするのは貴方だけでしてよ」
 セルネーゼからあまり友達の話は聞いたことがなかった。美しくて、頭も良くて、それから騎士の娘として、武の才にも秀でている。彼女はライズには優しいけれど、人を寄せ付けない雰囲気は確かに昔からあった。もしかしたら友人を作ることにあまり積極的ではなかったのかもしれない。
「えっと……ごめんね、セルネーゼちゃん」
「そ、そう呼ばれるのも、悪くないですわね」
 セルネーゼは横を向いて、小声でつぶやいた。
「しかしこの年になると、少し恥ずかしいですわ」
「やっぱり、セルネーゼさん、って呼んだ方がいいでしょうか」
「ライズの好きになさい。どう呼ばれようと、わたくしはわたくしです」
「わかりました。外ではセルネーゼさんって呼びます」
 大人になって一段と綺麗になって、性格は少し変わったのかもしれないけれど、幼い頃に憧れていたあのセルネーゼちゃんが目の前にいることには違いないのだから。
「早く行きましょう? ランナベールの街を案内してくれるんですよね。僕、すごく楽しみにしてたんです」
 彼女の前でなら、素直で純粋だったあの頃に戻れる気がした。


***プロローグ・再訪 [#vzLOFVr]

 隣国ランナベールの兵士養成学校、セーラリュートへの入学が決まったとき、セルネーゼは正直、ほっとした。ジルベールの学校では成績こそ優秀だったものの、周囲から敬遠されがちで友人と呼べるポケモンはおらず、家に帰っても勉強と&ruby(バトル){武芸};の稽古ばかりで、あまり楽しみもなかった。窮屈な家庭から出てゆけることが嬉しかったのだ。
 たった一つ気がかりだったのは、ときどき遊びに来ていた親戚のクレスターニ家の子、ライズのことだった。彼はセルネーゼを姉のように慕っていて、よく懐いていた。クレスターニの家族が屋敷を訪れた日はセルネーゼがライズの遊び相手を頼まれ、勉強や稽古から開放された。何より本当に弟ができたみたいでライズが可愛くて、彼と遊んだ時間は、当時のセルネーゼにとって数少ない癒しのひとときだった。
「セルネーゼちゃん……ランナベールに行っちゃうの? もう会えないの?」
「泣かないで、ライズ。会えるわよ。夏休みとか、春休みとか……長いお休みには帰ってこられるそうよ」
「本当? ぜったい帰ってきてね……ぼく、待ってるから」
「よしよし。偉い子偉い子」
 そんな約束をしたのに、中等部一年のときはセルネーゼの帰省とクレスターニ家の都合が合わず、ライズと次に再会したのは二年生の終わりの春休みだった。
「セルネーゼちゃん……だよね……?」
「ええ、そうよ。グレイシアに進化したの」
「きれい……セルネーゼちゃん、すっごくきれいだよ!」
「そ、そうかしら? ……ありがとう」
 このときセルネーゼは十四歳、ライズは七歳だった。子供の言うことだから深い意味はないとわかっているのだけれど、太陽みたいな眩しい笑顔でそんな風に褒められて、どきりとしたのを覚えている。
「また、すぐにランナベールに戻っちゃうの?」
 ライズが覚えているかどうかはわからないけれど。
「やだよ、セルネーゼちゃんともっと一緒にいたい」
 セルネーゼの記憶には刻み込まれている。
「ぼく……」
 今思えば。
「大きくなったら、セルネーゼちゃんとけっこんしたいな」
 自分はライズにひどいことをしてしまったのかもしれない。
「そうしたら、ずっといっしょにいられるよね?」
 それがライズとの最後の会話だった。
「ふふ。ライズがわたしに負けないくらい綺麗な男の子になったら、考えてあげようかしら?」
 あれから、ライズとは会っていない。正直なところ、ミルディフレイン家に帰るのが億劫だった。ランナベールには個性的なポケモンが多くて、セルネーゼにも友達ができた。他人に興味のないふりをしていたけれど、本当は居心地が良かった。高等部の途中から風紀委員になって、シオンとも出会った。
 もしかしたらあのときシオンに、ジルベールに置いてきてしまったライズの姿を重ねていたのかもしれない。
 それも少し前、思いがけない機会ではあったけれど、気持ちの整理をつけることができた。
「三年ぶりですわね……」
 セーラリュートには敷地内と外を隔てる城壁に正門が備え付けられていて、その内部に学園施設のエリアと学生寮のエリアが存在し、それぞれにまた門がある。
 学園の校門へと歩いていると、寮から毎日通学していた日々が想起されて、懐古の情が湧き上がった。
 校門をくぐると、並木道の先に円形の校舎が見えてくる。正確にはドーナツ状とドーム状の中間のような形で、中央のホールは吹き抜けになっていて、花壇や噴水、ベンチが置かれ、生徒の憩いの場として機能している。
 渡り廊下の下を通って、その中庭ホールに足を踏み入れた。
 ベンチが新調されていたり、ところどころ改装されていたりと少しの変化はあるが、雰囲気は変わっていない。
 懐かしい気持ちで見回していると、彼の姿はすぐに見つかった。
 遠目にもその美しさは一目瞭然で、思わず息を呑んだ。子供だったライズはもうそこにはいなくて、彼の姿を認めた瞬間、ひどく胸が高鳴った。
 と、彼もこっちを見た。目が合った。
 緊張などしている場合ではない。そう、今日のために恥を忍んで練習もしてきたのだから。
 セルネーゼは大きく深呼吸をして、ライズへと歩み寄る。
「ごきげんよう。久しぶりですわね」
 どうにか平静を装って話しかけたものの。
「ぁ……は、はい」
「人違い……ではありませんわよね。面影があるもの」
「お久しぶりです。セルネーゼさん」
 もう十六なのだから当たり前といえば当たり前だが、無邪気だったライズのイメージとあまりに違っていて、少し困惑した。
 見た目はまだまだ幼さの残る少年と言ってもいいはずなのに、妙に大人びていて、まるで別人だ。
「……まさか、ライズが本当にこんなに……」
 ――こんなに綺麗な男の子に成長するなんて。
 しかも、花のような匂いがして、一瞬立ちくらみがした。薔薇の芳香とクチナシの甘い香りを足したような、ひどく魅惑的な香りだった。
 ニンフィアに進化したライズの姿は美しくもやけに蠱惑的で、見ているだけで目の毒になりそうだ。
 しかし、大人の女として、七つも年下の子に誘惑されているようでは情けない。気を強く持たなければ。
「ランナベールの街を案内してくれるんですよね。僕、すごく楽しみにしてたんです」
「ええ。ランナベール王の側近中の側近であるわたくしが街を案内して差し上げるのですから、光栄に思いなさい」
 あくまで強気を装って、ライズに微笑みを返した。
 そうして、少しぎこちない空気のまま、セルネーゼとライズは街へと繰り出したのだった。


***思い出と成長と [#i6REP1R]

 セーラリュートはランナベールの南東の海の近くに位置していて、西側の正門から外に出ると、すぐ近いところに波止場があったりする。ジルベールの首都クリスタルメークも東は山、南は海で、港町に出た経験はあるのだけれど、雰囲気は随分違う。
 そこから西へ進むと、ランナベールで買い物をするならここ、と言われる港市場がある。様々な種の多数のポケモンでごった返していて、気を抜くとセルネーゼとはぐれてしまいそうだった。
「すごいですね……こんなに賑わっているなんて」
「この辺りは&ruby(ポケモン){人};が多いけれど、海辺の公園まで行くと少し落ち着けますわ」
 市場の人混みを抜けるとひらけた場所に出た。俗に港公園と呼ばれているらしいそこからは広大な海が見渡せて、潮風が少し肌寒いけれど、景観としてはなかなかに悪くない。港には大型の水ポケモンに引かれる貨物船がたくさん停泊していて、そのデザインに全く統一性がなく、ごちゃごちゃしているところはランナベールらしい。
「少しそこに座りましょうか」
 白い石畳が敷かれた公園はところどころに木が植えられていて、一応それらしく整えてはあるもののゴミも沢山落ちているし、あまり綺麗とは言えない。様々な大きさのベンチや止まり木が置かれているが、グレイシアもニンフィアも必要ないといえば必要ないわけで、ライズとセルネーゼは二匹並んで木の根元に腰を落ち着けた。
「街に出てみてどうかしら? 怖くはありませんか?」
「初めてで驚くことも多いですけど、怖くはないです。セルネーゼさんがいますから」
「ふふっ。随分成長したと思ったのだけれど、変わっていませんね。わたくしの後をついて回っていたライズのままですわ」
「そういう言い方をされると少し恥ずかしいですけど……その通りなのかも」
 この場所は、気高くて、上品で、高貴な彼女のイメージにはそぐわない。一般市民が行き交う公園にこうして座っているなんて。
「セルネーゼさんがこんなところに座っているというのも、なんだか不思議な気分です」
「わたくしよりライズの方が余程目立っていますわよ。まだこの国に慣れていない貴族のお坊ちゃん、といったところかしら」
「セルネーゼさんだってこんな街には似合わないけど……でも、強く生きているって感じがします」
「強くなった、といった方が正しいかしらね」
 セルネーゼは海を眺めながら、あの頃を思い出させる、自信に満ち溢れた微笑みを浮かべた。
「逃げなければ、&ruby(ポケモン){人};は強くなれるものですわよ」
「……逃げなければ、ですか」
 キャスへの気持ちに気づいてから一年間逃げ続けて、シオンに影響されて、ロッコに背中を押されて、やっと前に進むことができた。元が逃げる性格だから、誰かに頼らないと壁を乗り越えられない。
「無理はしなくてもいいのよ? ライズはライズのままでいてくれた方が、わたくしは嬉しいですわ」
 心中を見抜かれている。セルネーゼは幼少の頃の飾らないライズの裸の心を知っているのだ。今さら何を取り繕ったところで誤魔化せはしない。
「僕……このままで、いいですか? 子供の頃は、セルネーゼさんは僕を可愛がってくれましたけど、その……結婚相手として、頼りないとか、思ったりしないんですか」
「わたくしも、今日まではライズにどう接したら良いものかと悩みましたわ」
 あの頃にも増して自信満々で余裕たっぷりに見えるのに。こう見えて彼女も婚約者として緊張していたりするのだろうか。
「けれど、こうして少し街を歩いただけで、ライズはライズなのだと……あの頃と変わらないと、すぐに気づきましたの。そして、そんな貴方を……い、愛おしく、思っている自分がいて……」
 そう言って視線を逸らしたかと思いきや、突然まっすぐにライズの目を見て、両前足を肩に置かれた。
「で、ですから! わたくしは、貴方が可愛くて仕方がないのです。貴方が親戚の子であろうと、婚約者であろうと、そのような&ruby(さまつ){瑣末};事はどうでも良いのです。ああ、わたくしはどうして貴方を置いてジルベールを出てしまったのでしょう。わたくしには貴方が必要だったのに……今になって気づくなんて」
 急にこんな風に迫られるなんて思ってもみなかった。小さい頃、ライズはセルネーゼを慕っていたけれど、セルネーゼにとってライズがどんな存在だったのか、子供のライズにはわからなかった。
「えっと、セルネーゼさん……?」
「ああ、ごめんなさい。わたくしとしたことが取り乱してしまいましたわ……」
 セルネーゼはライズから離れて、恥じるように俯いた。改めて言われたことの意味を考えてみる。貴方が必要だった。確かに、あんなに可愛がってくれていたのにあっさりといなくなってしまったのは、子供心にはショックだった。でも、普通に考えたら七つも年下の親戚なんて、子供だから可愛いだけで、それ以上の特別な想いなんてなくて当たり前だ。少し成長してそのことに気づいてからは、セルネーゼを冷たいとは思わなくなった。今日からは二匹の大人として、全く新しい関係を築くつもりだった。
「憧れのお姉さんだった貴女に、そんなこと言われるのはすごく嬉しいですけど、僕なんかが貴女に必要とされているなんて、信じられなくて」
「わたくし、いつもライズが来るのを楽しみにしていましたのよ。勉強と稽古ばかりの退屈な日常……落ち目のミルディフレイン家は、&ruby(ひとり){一匹};娘のわたくしを何としても優秀な騎士に育てようと躍起になっていましたの。でもライズが遊びに来たときだけは、何もかも忘れて遊ぶことを許された……もちろん、縛ってばかりでは逆効果だと承知してのことなのでしょう。しかし、そのような打算を抜きにしても、あの頃のわたくしは、ライズのことを愛おしく想っていましたわ。今、その気持ちを思い出したのです」
「僕……結婚したいだなんて、無茶言いましたよね……子供だったとはいえ」
「ライズは……」
 セルネーゼは少し悲しげな表情を浮かべた。
「そのときの気持ちを覚えてはいないのですか?」
「……ごめんなさい」
 恋も愛も知らなかった。一緒に遊んでくれて、優しくて綺麗なお姉さんに、ただ憧れていただけで。そこに恋とか愛とか、そんな気持ちはなかった。
「まだ小さかったから、無理もないですわね」
 セルネーゼは昔みたいに、ライズの頭をぽんぽん、と撫でて、立ち上がった。
「もう少し街を歩きましょうか。買って欲しいものがあったら遠慮せずに言いなさい?」
「あ、は、はい」
 彼女について行こうと、慌てて歩き始める。
「でも、僕ももう十六ですから……」
 追いついて、少し抗議の意を込めて言った。確かに年の差はあるけど、婚約者なのだから子供扱いされるのは嫌だ。
「十六の頃はわたくしも、大人になった気でいましたわ。子供扱いされることに腹を立てる、そんな年頃ですわね」
「……」
 図星を突かれて何も言えなくなった。自分の感情は大人になりたい子供そのもので、ここで反論したらますます自らの幼稚さを露呈してしまう。
「べ、べつに、貴方を&ruby(ばか){莫迦};にしているわけではないのよ。わたくしも配慮が足りなかったかしら……ああもう、面倒ですわ!」
 セルネーゼは突然、ライズの触角を咥えて引っ張った。
「いたたっ」
 頬がくっつきそうなくらい近づいて、並んで歩くことを強要される。普段は優しいお姉さんだったけど、ときどき強引なところもあったな、と思い出した。
「貴方はわたくしに黙ってついて来れば良いのです! 反抗期など許しませんわ」
 これ以上逆らってはいけない、と本能が告げていた。たぶん、ライズに特別甘いだけで、彼女の本質は自分にも他人にも厳しいひとだ。
 何も言わずに、ついてゆくことにした。少しずつ、あの頃の気持ちを思い出して、新しい関係を育んでいくのはそれからでもいい。まずは十年間の空白を埋めるところからだ。


***カフェレストラン『ウェルトジェレンク』 [#G3Wo2Sz]

 学園を出たのが十一時頃だったので、時刻はもう十二時を回っている。そろそろお昼にしようと提案されて、セルネーゼがときどき訪れるという、港市場に近いカフェレストランへ行くことになった。通路に面した壁はほとんどガラス張りで、店内の様子が外からも見える。お洒落というよりは、時代の先を行くデザイン、と形容するべきだろうか。
「いらっしゃいませ! あ、お久しぶりです、セルネーゼさん」
 扉をくぐると、妙齢のブースターのウェイトレスが明るく応対してくれた。名前を覚えられているほどの常連、というよりは、少々馴れ馴れしい印象を受ける。店の奥ではウェイターらしいリーフィアが客と談笑しているかと思えば、一匹で静かにコーヒーを飲んでいる客もいるし、良い意味でも悪い意味でも力の抜けるカフェなのかもしれない。
「おや、その子は……も、もしかして?」
「いいから席に案内なさい。誰を連れて来ようとわたくしの勝手でしょう」
 セルネーゼの答えにブースターはくすくすと笑って、丈の低いテーブル席に案内された。
 ブースターは水を運んできたあと、てきぱきと注文を取って、カウンターの奥へと入っていった。二匹とも日替わりのサンドウィッチセットを頼み、ライズはコーヒーを、セルネーゼは紅茶を選んだ。
「その年でコーヒーが好きだなんて、ませてるわね」
「べつに大人ぶってるわけじゃないんですけど……覚えていませんか? セルネーゼさんの家に遊びに行ったときによくミルクコーヒーを頂いて……あれで、コーヒーが好きになったんです」
「そういえば、好きだったわね……甘くて美味しいっていつも喜んでいたのを思い出しましたわ。そうそう、ライズったらわたくしの分まで取ってしまって、貴方の御母上に怒られていたわね」
「またそんな……ずるいです。僕は小さかったから、恥ずかしいエピソードばかりで」
「こうして昔語りができるのも良いではありませんか。わたくしは楽しいですわよ?」
「もう……僕もセルネーゼさんの子供の頃の黒歴史を思い出さなきゃいけませんね」
「あら。つつかれて困るような過去はわたくしにはありませんわよ?」
 初めて会った頃から、同じ年頃の少女よりもずっと大人びていた。強いて言えばときどき頑固だったり強引だったりする性格くらいで、覚えている限りでは、子供の頃の彼女にすら弱点を見つけられそうにない。
「お待たせしました。今日の日替わりサンドウィッチと……コーヒーはそっちの子? 君、名前は?」
「え、と……ライズ、です」
 ウェイトレスにいきなり名前を聞かれるなんて思ってなかったから、少し戸惑った。
「イレーネさん。他人に名を尋ねるときはまずご自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」
 セルネーゼが急に凛とした声色になって、厳しい視線をブースターに向けた。ウェイトレスはイレーネという名前らしい。
「ごめんなさい。私はイレーネ。あっちでお客さんと喋ってるリーフィアは弟のエリオットよ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
 アットホーム、というのだろうか。店員と客の距離が近くて、一匹で来ても寂しくなさそうだ。セルネーゼはあまりこんなところを好むように見えないが、実はいつも一匹で人恋しかったりするのかもしれない。
「意外そうな顔をしていますわね。静かで高級感のあるカフェもいくつか知っているけれど、ここが一番ランナベールらしくて良いかと思いまして」
「そうですね……自由でくつろげそうなこの感じ、僕も気に入りました」
「ふふ。それなら安心ですわ」
 セルネーゼの笑顔を前に、リボンの触角をカップの取っ手に通して、コーヒーを一口飲んでみる。
 香りと苦味、コクはしっかりしていて、ほんのわずかに酸味がある、少し薄めに淹れてあって、ブラックで飲むのに向いている。ライズには好みの味だった。
「あら。砂糖もミルクも入れずに飲めるようになりましたの? それとも、格好をつけているだけかしら?」
「こ、コーヒーは本当に好きなんです。べつにセルネーゼさんの前でいい格好しようとか、そういうわけじゃ」
「もう、冗談ですわ。相変わらず、可愛らしいことで」
 などと会話を弾ませていたら、セルネーゼの後ろにいたイレーネが前足で口を押さえて――笑いを堪えている?
「あの、イレーネさん。どうかしましたか」
「えっ? いや、あの……ぷっ。あはははは! セルネーゼさんってば!」
「何が可笑しいというのですか!」
 セルネーゼも事態を把握したみたいだが、ライズにはイレーネが何を笑っているのかいまいちよくわからない。
「だってセルネーゼさんがまさかそんな、猫撫で声で……ねえ?」
「し、失礼にも程がありますわ! わたくしはいつもと変わりませんわよ!」
 なるほど、そういうことか。
 普段のセルネーゼがどんな人格をしているのか、だいたい見当がついた。
 学園で再会したときに感じた、&ruby(ポケモン){人};を寄せ付けない雰囲気も、公園で少しだけ見せた強引なところも納得がいく。
「わ、わかりました、わかりましたよ。ごめんなさい。ちょっとギャップが……いえ。それだけ大切にされているのね、ライズ君は」
「わたくしを莫迦にしているのですか! いくらここがランナベールでも、限度というものがあります! 貴女は全く接客がなってませんわ! 客を不愉快にさせるなど言語道断――」
 セルネーゼは立ち上がって、今にもイレーネを氷漬けにしてしまいそうな勢いだ。
「ちょっとセルネーゼさん、落ち着いてください」
 止めるのも正直怖かったが、ライズが一言声をかけると、セルネーゼはどうにか我に返ってくれた。
「……少し頭に血が上りすぎましたわ。ごめんなさい」
「いやいや、私もちょっとからかい過ぎました」
「貴女には言っていませんわ! わたくしはライズに謝っているのです!」
「まあまあセルネーゼさん……」
 なんだかんだでライズには甘くて、ライズの言うことだけは聞いてくれる。でも、もしも怒らせたら大変なことになりそうだ。子供の頃だって一度も怒られたことはないけれど、この先婚約者として、夫婦として生涯を共にするならいつかそんなことも――なんて、考えたくなかった。
 少し気まずくなって会話が止まってしまったので、サンドウィッチを一口かじってみた。具はレタスとトマト、それからスライスチーズに生ハム。シンプルに素材の風味を活かしていて、家庭的な安心感のある味だった。
「美味しいですね」
「……そうですわね。悔しいけれど、料理の腕は一級品ですわ」
 そのとき、カラン、と入り口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ! 一緒に来るのは珍しいですね」
「たまたま、市場で会ったんです」
 新しく客が来たくらいではわざわざそっちを見たりしないけれど、会話をしているとどうしても気になってなんとなく視線を向けてしまう。イレーネと話しているのはキルリアにしては少し体格の大きな女性。そして、その後ろには――
「あ……」
 彼女の姿を見て、サンドウィッチを取り落とした。
 その姿は、忘れもしない。マフォクシーの妙齢の女性。
「先生……!」
 思わず椅子から降りて、叫んでしまった。セルネーゼは何故かぎょっとした様子で、入り口の方へ視線をやった。
「え?」
 視線が合った。間違いない。マチルダ先生だ。一年前に学園を辞めてしまってから、もう会えることはないと思っていた。
「……嘘。本当に……ライズくん? それに、セルネーちゃんも」
「はい。あのとき先生のクラスにいたライズです、先生……お久しぶりです」
 セルネーちゃん、というのはセルネーゼのことか。
 マチルダ先生とセルネーゼさんが知り合い……?
「ああ、抜かりましたわ……移店前に一度会ったのですから、ここにも来る可能性がありましたのに……」
 見れば、セルネーゼは頭を抱えていた。どうやらセルネーゼにとっては会いたくなかった相手らしい。
「セルネーゼさんはライズくんとデートですか。順調そうで何よりですね」
 セルネーゼとマチルダの事情を知っているらしいキルリアは、笑顔でそんなことを言った。どうしてライズのことまで知っているのか、と思ったが、そういえば彼女とは会ったことがある。確か学園祭で、シオンと一緒にいたポケモンの一匹だ。
「えっと……」
「わたしは橄欖と申します。ライズくんとは一度お会いしていますが、覚えていますか?」
「は、はい。たしか学園祭で」
「不思議なカフェだって聞いてたけど、本当だったのね。ライズ君にまた会えるなんて」
 マチルダの印象は、ライズたちの先生だった頃とは随分違って見える。若々しく見えるというか、目線が対等に近くなったと感じるのはライズが成長したせいだけではないだろう。
「先生も随分変わりましたね。もちろん、いい意味ですけど」
「もう、またそんな期待させるようなこと言っちゃって。先生は大人をからかうような子に教育した覚えはないわよ?」
「……それって」
 期待させる、とはどういうことなのか。学園を去るときに残した彼女の言葉。あれはやっぱり、先生なりの告白だったのか。欲望からキャスに手を出したと聞いたときは怒りが込み上げたけれど、今となっては、ライズとて同じとは言わないまでも、彼女と大差はない。
「そうよ。先生はね、ライズくんのことが好きだったの」
 驚きはしなかった。もう先生と生徒ではないし、考えてみればマチルダはセルネーゼと同い年だ。恋愛が成立しても何もおかしくはない。
「マチルダさん。わたくしの可愛いフィアンセを口説こうなどとは相変わらず良い度胸をしていらっしゃいますわね……!」
 が、当のセルネーゼが怒りに震えた声で、ライズを守るように進み出た。
「やだセルネーちゃんったら、そんなに怒らなくても」
「これが怒らずにいられますか! わたくし一匹の時間ならともかく、ライズとの二匹の時間をぶち壊しにきた挙句ライズに言い寄るなど、黙って見ていられませんわ」
 矛先がライズには向いていないから良いようなものの、怒ったセルネーゼは正直めちゃくちゃ怖い。言葉遣いも普段より荒々しくなっている。
「ちょっと、落ち着いてください。ここは喫茶店ですから……」
「おいおいまたかよ。これだから女ってのはよ。すぐ頭に血がのぼりやがる」
 いつの間にかリーフィアのエリオットもやってきて、店員が二匹でセルネーゼをなだめて、どうにか事無きを得たものの。
 流れでマチルダと橄欖の二匹と相席することになって、昔語りに花を咲かせていた和やかな雰囲気が一転、気まずい空気が流れ始めた。
 とは言っても、ランナベールに来てからのセルネーゼのことを何も知らないライズとしては、二匹に話を聞きたくもあったので、セルネーゼにも納得してもらった。このまま離れた席についてバラバラになるのも余計に気まずいし。
「ライズくんもセルネーゼさんもお綺麗ですから、お似合いですよ。マチルダさんの付け入る隙はないかと思われます」
 なぜか橄欖がフォローを飛ばしてくれたりして。
 テーブルにはセルネーゼ、マチルダ、橄欖、そしてライズと、変な面子が揃ってしまった。

&size(18){         ◇};

 マチルダはセルネーゼの学生時代の友人だったそうで、教師を辞めたあとはとある酒場の警備員として働いているとか。橄欖はなんとヴァンジェスティの屋敷でメイド長をしているらしい。あのとき学園祭に来ていたエネコロロが王女フィオーナだということも、シオンがその婚約者であることも教えてくれた。
「全く何故このようなことに……不愉快ですわ……」
 セルネーゼはまだ不満を垂れているが、ライズの方をちらと伺ってため息をつき、それ以上マチルダを責めることはなかった。
「で、ライズくんはセルネーちゃんのことどう思ってるわけ? 先生と同い年なのよ?」
「や、その……言われてみるとそうなんですけど。セルネーゼさんは今でも憧れのお姉さんで……こう言うと失礼かもしれませんが、先生と生徒って関係だと年の差を大きく感じるというか……今のマチルダ先生となら、対等な関係を築けそうですし」
「ライズ、まさか……いえ、あり得ませんわよね? わたくしを差し置いてそんな」
 セルネーゼが口を開いたので、一瞬怒られるのかと思ってひやりとしたが、予想外なことに彼女は涙ぐんでいた。
「え……? あの、僕」
「あははは! セルネーゼさんって、やっぱり姉さんの言った通り面白い方ですね!」
 これまた意外なことに橄欖が笑い出して、いよいよ頭がどうにかなりそうだ。
「わ、笑いごとではありませんわ! ライズ、貴方にはわたくししかいませんわよね……?」
「えっと……マチルダ先生とは、今度は友達になれそうって意味で……セルネーゼさんは婚約者ですから」
「そ、そうですか。ごめんなさい。少し不安に駆られてしまいまして」
 キャスやロッコのことが頭を過ぎって、はっきりと貴女しかいないとは答えられなかった。セルネーゼに対する憧憬の想いがそのまま恋愛感情に発展しているとは言い切れない。
「いいのよライズくん。ここはランナベールなのだから、少しくらい遊んでも」
 まるで教師らしからぬ発言だったが、マチルダの言葉にどきりとした。見透かされているのかと。マチルダはライズがキャスを好きだったことも知っているのだ。
「茶々を入れて二匹の恋路を妨害するのは感心しませんね、マチルダさん」
 橄欖がグラスワインを片手に、鋭い突っ込みを入れた。よくわからないが彼女はセルネーゼとライズの仲を応援してくれているらしい。
「あら。そういう橄欖ちゃんはセルネーちゃんをシオンくんから遠ざけたいだけでしょ?」
 セルネーゼが紅茶を吹き出した。シオン、という名が出た瞬間だった。
「ちょっとセルネーちゃん、何やってるのよ。可愛いライズくんの前なんじゃないの?」
「お黙りなさい! わ、わたくしは何も……シオンさんとの間には何もありませんわ!」
 何もない、というわりには慌てようが尋常じゃない。名前が出ただけでこの反応はおかしい。
「シオンさんって……そっか、シオンさんが風紀委員長だった頃ってセルネーゼさんもまだ学園に」
「そうよ。彼を立派な風紀委員長に育てたのはセルネーちゃんってわけ。当時副委員長だったものね」
「違、違うのです。ライズ、わたくしは……」
 はじめは驚いたけど、セルネーゼの意外な一面が見られて面白い。まだまだ知らないことがたくさんあって、ぽっかり空いた十年を埋めるのは簡単じゃないんだって思うと、俄然彼女が隠していることを知りたくなってしまう。
「セルネーゼさんは今もシオンさまのお仕事の指導をされていますからね」
「好きだったんじゃないの? シオンくんのこと」
「というか、学生時代を知らないわたしの目にもバレバレでしたが。少なくとも最近まではシオンさまに恋慕の情があったのではないかと見受けられました」
 セルネーゼがシオンに恋をしていた?
 驚きよりも、それを聞いてほっとしている自分がいる。自分だけではなかったと。キャスと、ロッコと、それからキャミィと。すでに三匹と関係を持ってしまっていることが後ろめたかったから。
「わ……わたくしはっ。わたくしはもう、シオンさんのことは……ジルベールにライズを置いてきてしまったから、彼にライズを重ねて……だからっ! わたくしが本当に愛していたのはライズ、貴方なのです! 貴方と再会するまで、気づかなかった……莫迦なわたくしを許してください。信じてもらえないかもしれませんが、今はライズ、ただ貴方が愛おしくて」
 公園で一度打ち明けられているとはいえ、人前で熱い想いを告白されるとさすがに少し恥ずかしい。マチルダも笑いを堪えているし、橄欖に至っては隠すつもりもないのか、腹を抱えて笑っていた。
「って、何を言わせますか! マチルダさん、それと橄欖さん! 笑いすぎですわ! 真面目そうな顔をして飛んだ食わせ者ですわね!」
「あはは、も、申し訳ありません……そのようなつもりはなくて……もちろん、お仕事は真面目にしますけれど、わたしは元からこうですよ?」
 橄欖は快活で明るい、笑顔の素敵な女性という印象だが、初めて会ったときのことを思い返すと、すごく真面目そうな付き人、といった印象だった。一緒にいたサーナイトとミミロップの二匹があまりにアレだったせいもあるかもしれないが。たぶん、仕事とプライベートをきっちり切り替えているのだろう。
「シオンさんのこと、良かったら教えてもらえませんか? セルネーゼさんの学生時代も気になりますし……」
「はい、喜んで」
 橄欖は艶麗な微笑みをライズに向けた。手に持つワイングラスも様になっていて、いかにも大人のお姉さんといった仕種が板についているが、いったい何歳なのだろう。マチルダと友人関係らしいということはたぶん、童顔なだけで、見た目よりもずっと年上なのだと思う。
「いいわよ。学生の頃のセルネーちゃんのことも、先生がいろいろと教えてあげる」
「ラ、ライズ。橄欖さんはともかく、マチルダさんなどに聞いたら何を吹き込まれるか……この女の言うことなど間に受けてはなりません!」
「本人の前で嘘はつけないわよ。ライズくん、どこから聞きたい?」

&size(18){         ◇};

 最悪だ。よりによってこの日にマチルダと鉢合わせするなんて。一年くらい前に旧ウェルトジェレンクで会って以来だから、すっかり忘れていた。セルネーゼも移店後に訪れたのはこれが初めてだから、マチルダが今もこのカフェに来ているかどうか確認することができなかった。
「僕の知っているセルネーゼさんとは全然違ってて……でも、なんとなく納得しました」
「お話を聞く限り、現在でも学生時代とあまり変わってはいないようですが」
「そうよね、前に会ったときも変わっていなかったし……今日はほんと、ライズくんにだけ甘々のメロメロでびっくりしたわよ」
「いい加減になさい。わたくしがライズの前でだけ仮面を被っているというような言い種ではありませんか……」
 図星なので、強くは言い返せなかった。ライズを前にすると子供の頃の気持ちが蘇って、つい甘やかしたくなってしまう。ライズが興味津々で楽しそうにマチルダや橄欖の話を聞いている以上、怒り散らすわけにもいかないし。
「逆、なのではありませんか?」
 橄欖がまた痛いところをついてきた。感情を受信する能力はこういうときに厄介だ。きっと心を見透かされている。
「逆ってどういうことですか? 僕といるときが自然体ってこと?」
「はい。普段は素直な方ではありませんから、ご自分を強く見せていらっしゃいますが。ライズくんといるときのセルネーゼさんはそういった心の障壁が取れているように見受けられます」
 橄欖は二杯目のワインを傾けながら高説を垂れているが、勝手なことを言っているようで、何もかも事実だから否定できない。ランナベールでは昼間から酒を呷っている者の姿を見ることも珍しくないが、橄欖がそこまでお酒好きだというのは意外だった。というか、職務中やルギアとの戦いでしか彼女を知らなかったから、プライベートとのギャップに驚かされっ放しだ。
「へえー。橄欖ちゃん、本当にひとの心がよくわかるのねえ」
「もう随分と長い間、キルリアとして生きていますから」
 橄欖は胸のペンダントを握ってそんなことを言った。稀にある進化障害なのだろう。しかし、前から気になってはいたが、ペンダントの石は磨かれていて光沢はあるものの、高級な宝石には見えない。何かの御守りなのだろうか。
「セルネーちゃん、やけに大人しいみたいだけどどうしたの? 橄欖ちゃんに心を見透かされて何も言えなくなっちゃった?」
「あ、貴女が偉そうに言うことですかっ!」
 それにしても、橄欖という女は恐ろしい。キルリアがいくら感情受信能力を持つと言っても、彼女ほど鋭い観察力、洞察力を備えた者は滅多にいない。あのときのことは孔雀もシオンも橄欖に言ってはいないだろうが、怪しまれて問い質されたら、いつ露見してしまうとも知れない。
「それよりも貴女、橄欖さんといつお知り合いになったのですか」
 話題をシオンとセルネーゼの関係から逸らすためでもあったが、そもそも何故マチルダと橄欖が一緒にいるのか。セルネーゼの過去を知るマチルダと現在を知る橄欖がまとめてこの場に現れなければ、事態はもう少し穏やかだったはずだ。
「僕も気になります」
 ライズも乗ってきてくれたので、とりあえず流れを変えることには成功したらしい。
「ここへ来たときに偶然、失恋の悩みで意気投合しちゃったのよ。まあ、この子はちゃっかりシオンく……ん、と……」
 マチルダが言葉の途中で、突然糸が切れたように崩れ落ちた。
「せ、先生っ!?」
 ライズが慌ててリボンの触角を伸ばしたが、マフォクシーの体重をそれくらいで支えるのは無理だ。ライズが巻き込まれて倒れないうちにと、セルネーゼも体ごと支えにしてマチルダの体を受け止めた。
「あ……も、申し訳ありません、つい」
 原因はすぐにわかった。というか橄欖がすぐに自白した。そういえばマチルダが倒れる瞬間、ほんの一瞬ではあったが、強いESPの波導を感じたような気もする。
「あ、貴女でしたの……」
「これって……催眠術ですか? まさかこんな一瞬で」
 さすがにシオンの護衛を任せられていただけのことはある。ルギアとの戦いで共闘した折に薄々感じてはいたが、この橄欖というキルリア、化け物じみた才能の持ち主だ。
「ちょっ、おい……お客様、どうかされましたか!?」
 事態の異変に気づいたエリオットが駆け寄ってきた。慌てているのか、言葉遣いがめちゃくちゃだ。
「え、えっとマチルダさんが急に体調を崩したようで……少し休ませていただけませんか?」
 橄欖は何食わぬ顔で大嘘をついた。さすがのライズも目を丸くしていたが、いきなり催眠術で意識を失わせたなどと説明するのも面倒だし、流れに任せるしかない。
「カウンターの裏にスタッフの休憩室があるんで、そっち連れて行きます。姉貴、手伝ってくれ!」
「大丈夫です。わたしが運びます」
 結局橄欖がサイコキネシスで運んで、休憩室にいたマスターのミルタンクにことわって、マチルダをソファに寝かせた。橄欖曰く、ただ寝かせただけなので時間が経てば勝手に目が覚めるとか。
 明るく笑っていると思ったら、こんなに恐ろしい能力を秘めていたとは。怖いのは心を読まれることだけではないということか。
 そんなこんなで三匹で席に戻って、マチルダの目覚めを待つことにした。

&size(18){         ◇};

「で? 貴女、マチルダさんが言いかけたことを無理矢理にでも止めたかったみたいだけれど」
「いえ、それはその」
 橄欖は目を泳がせながら、グラスを揺らしている。他者の心を読むのは得意なくせに、自分の心を隠すのは下手らしい。
「もしかして、もうシオンさんと関係を持ってしまったとか」
 ライズがさらりと核心を突いたのには驚いたが、彼ももう子供ではないのだし、経験はともかくそういうことの知識くらいはあるだろう。それとも少年故の純粋さか。
「あ、あのですね、ライズくん? もう少しぼかしてくれませんか?」
 などとライズに抗議しているが、頬を染めて俯いているのだから、誰の目にも明らかだ。
 橄欖がシオンに恋心を抱いているということは知っていたが、まさかもう手を付けていたとは。いや、この反応は、つい最近なのではないか。
「……今となってはわたくしが怒るのも筋違いですが……貴女、大胆にもご自分の仕える主人に手を出しましたの? それも、フィオーナ様との婚約を発表したばかりのシオンさんを……国賊になりかねませんわよ」
 後ろめたいことが何一つなければ本気で叱り飛ばしていたかもしれないが、セルネーゼとて孔雀の誘いに乗ってシオンと淫行に及んでしまったのだから、同じ穴の狢だ。
「ま、まあ、でもここはランナベールですし、バレなければ……ほら、ジルベールでもよくあるじゃないですか。貴族と使用人の間でそういうことって」
 ライズは橄欖を気遣っているのか、否定的なことは言わなかった。
 ああ。ライズには純粋な少年でいてほしかったのに。目の前でこんな話を聞かされて、可哀想に。
「知られてしまった以上は仕方ありませんが、これはわたしの問題と言いますか……シオンさまをお酒に酔わせて……その、そういうことですから、わたしだけが悪いんです。ですからシオンさまのことは悪く思わないでください」
「シオンさんが軽々と浮気などするような子でないことは知っていますわ。マチルダさんの軽口のお陰で貴女もとんだ災難ですわね」
「わたし、わかりやすいみたいで……隠していたつもりだったのですが、マチルダさんにも見抜かれてしまって」
「フィオーナ様に発覚したら最&ruby(・){期};ですわよ? あの方が鈍感で助かりましたね」
「……シオンさまの侍女と護衛の任は外されてしまいましたけど」
「その程度で済んでいるだけで幸運ですわ……」
 シオンはフィオーナを裏切るようなポケモンではないのに、橄欖たち姉妹がヴァンジェスティ家の平穏を揺るがしているのではないか。知ってしまった以上は不本意ながら、隠す方に加担するしかない。というか、セルネーゼ自身も危険なわけだし。
「とにかく、ライズくんの前ですし……このようなお話はやめておきませんか」
「そうですわね……ライズには刺激が強すぎますわ……って、ライズ?」
 ライズはセルネーゼと目を合わせず、空になったコーヒーカップに視線を落としている。
「ライズ? 平気?」
「えっあっ、はい! 大丈夫ですよ! 僕ももう子供じゃありませんし……」
 ライズの反応は明らかにおかしい。もしかして、何か隠していたりするのか。
「……そうですね。セルネーゼさん、ライズくんはきっとあなたが思っているほど子供ではありませんよ」
 意味深な橄欖の言葉。十六にしては大人びていたり、橄欖の不貞を擁護したり。
 十六歳といえば、恋の一つや二つ経験していてもおかしくない。思い当たらなかった。所詮セルネーゼはライズにとって家が決めた婚約者なのだ。好きな相手や、ひょっとすると恋人がいる可能性だってある。
「ライズは……今のライズは、わたくしのことをどのように思っているのですか」
 過去にこだわるつもりはない。自分だってシオンに恋し、あんなことまでしてしまったのだから。ライズが誰とどんな関係を築いていても糾弾する資格はないのだ。
 でも、今このとき、ライズに少しでもセルネーゼへの気持ちがあるのか。それだけは確かめておきたかった。


***夕闇に紛れて [#L9rOFl2]

 マチルダが意識を取り戻したのを確認してウェルトジェレンクを後にしたライズ達は、港を離れて都市の中心部、ヴァンジュシータへと向かった。ランナベールの王政機関となっている通称『黒塔』は吸い込まれそうなほど暗い闇色の尖塔といった様相で、ジルベールの王宮とは似ても似つかない。物語の中の魔王城みたいだ。はるか高いところに、鳥ポケモンや力持ちの格闘ポケモンが作業しているのが小さく見える。
「ルギアを倒すため仕方なかったとはいえ……高層階の一部に穴を空けてしまいましたの。黒塔は特殊な材質をしていますから、修理に時間が掛かっているようですわ」
 何をしているのか気になっていたら、セルネーゼが解説してくれた。しかし、その口ぶりではまるで、穴を空けたのが自身だとでも言わんばかりだ。
「穴って……もしかしてセルネーゼさんが?」
「……詳しくは、いくらライズでも教えてあげることはできないのです。この黒塔に入ることができるのも、一部の限られた者だけですから」
 さすがは王の側近というだけのことはある。ライズには想像もつかないような機密情報をセルネーゼは握っているのだ。
 予定していたよりもウェルトジェレンクで長く過ごしてしまって、黒塔にたどり着く頃には日は傾いていた。
 この街は夕方になっても活気が衰えない。絶えず様々なポケモンが行き交っていて、田舎育ちのライズは少し酔いそうになった。
 南の港から反対側、北へと進んでいく。セルネーゼはこの国一番の都会を見せてあげる、とは言っていたが、具体的な目的地は教えてくれなかった。
「すごいですね……高い建物がこんなに」
「ランナベールは文化は発展途上ですが、技術力だけはジルベールに勝ると言われていますのよ。それに国土が狭いですから、必然的に建物を上に積み上げるしかなかったのでしょう」
 セルネーゼは慣れた様子で人混みの中を進んでゆく。きちんとライズのペースに合わせてはくれているけれど、少し気を抜くとはぐれてしまいそうだ。
「……すっかりランナベールのひとですね」
 そんな感想をつい漏らしてしまう。セーラリュートに留学したといっても学園の外のことは知らないライズは、まだまだ余所者だった。
 港市場ほどポケモンの数は多くはないものの、皆の歩くスピードが全然違う。何をそんなに急いでいるのかわからないが、都会人というのはジルベールでも概してそういうものだった。
「わっ……!」
 横からグラエナにぶつかられた。その拍子にセルネーゼと完全に分断されてしまった。
「痛ってーなおい」
 ドスの利いた低い女性の声だった。グラエナが因縁をつけてきたのだ。
「えっ、あ……ごめん、なさい」
「オウオウオウ、謝って済むと思ってんじゃねーぞガキんちょが」
 グラエナの後ろから見るからに頭のネジが飛んでいそうなズルズキンが進み出てきた。穏やかではない雰囲気だ。
「お姐、どうするよコイツ」
「ニンフィアねえ……ボウヤ、可愛い顔してんじゃないか。あたしらとちょっと来てもらおうか?」
「へへ、また始まったよ。気に入られたらしいぜボウヤ、良かったな」
 夕暮れとはいえ、街のど真ん中でいきなり絡まれるなんて。しかも周りのポケモン達は見て見ぬ振りをしているか、哀れんだ目をライズに向けてくる。誰も手を差し伸べてくれる者はいないのか。
「へえ。ボウヤいい匂いするねえ。お姐、アタイにもちょっと分けてくれよ」
 ズルズキンがライズに近づいてきて、無造作に抱えられた。
 嘘? このまま拉致? 嫌だ。セルネーゼさん! 助けて!
 叫びたいのに、怖くて声が出ない。
 異性を虜にする特性なんて本当に要らない。学園を出てもこんなことばっかりだ。
「――ライズっ!」
 悲壮な声が聞こえた。
 その瞬間、ズルズキンがつんのめって、抱え上げられていたライズは地面に投げ出された。
「うおっ……!?」
 ズルズキンの足下が見事に凍りついている。
「ごめんなさい、わたくしが目を離したから――」
 グレイシアってこんなに速いポケモンだったっけ。なんて、目を疑った。
 セルネーゼは俊敏な身のこなしで女ギャング二匹組を一気に跳び越えて、ライズの目の前に華麗に着地した。
「なんだよ、女がいたのか」
 子分のズルズキンが凍らされても、グラエナは落ち着き払っていた。
「お姐! なんとかしてくれよ! 足が、足がっ」
「役立たずは黙ってな。それよりあんたさ。あたしらに喧嘩売るとは良い度胸してんじゃねーか」
 脅し文句を並べるグラエナは身を低くして、今にも飛び掛かってきそうな姿勢だ。
「ライズ、怪我はありませんか? ああ、こんなことなら背中にでも乗せて……いえ、もうそんな年ではありませんでしたわね。とにかく、ごめんなさい。わたくしがしっかりしていれば、このようなことには」
「聞いてんのか? それともわざと無視してんのか? オイ!」
 グラエナの恫喝に、身が震えた。ポケモンの能力に雌雄で差はないけれど、それでもどちらかと言うと、悪党のリーダーなんかは雄の多いイメージがある。感情的になりやすい女性はリーダーに向かないのかもしれないし、単に、奪う、殺す、犯すを好んでやろうという者が少ないのかもしれない。
 しかし彼女には強者のオーラだけでなく、カリスマ性があった。ライズでは絶対に敵わない。きっと何人もの部下を従える凶悪な女ボスだ。もしかしたらライズが知らなかっただけで、有名なのかもしれない。観衆たちが誰ひとり助けてくれなかったのも頷ける。
「喧嘩を売るとは良い度胸……ですって?」
 が、セルネーゼの声にはそれ以上の、いや、比較にならないほどの威圧感があった。深淵の闇に突き落とされるかのような、絶対的な恐怖。守られる側のライズでさえ、息を呑んだ。
「な、なんだ、聞いてんじゃねーか……」
 セルネーゼが振り向いた瞬間、グラエナは一歩後ずさった。明らかに引いている。
 寒気がした。セルネーゼの周りに渦巻く冷気は、氷のエレメントの余波か。ポケモンが技を行使する準備、炎が炎として、氷が氷としてこの世界に顕現する、その前段階。敏感な者はそれを波導として感じ取ることもできるが、実際に体が熱いとか冷たいとか感じられるのは、本来は技を使ってからのはずだ。それほどにセルネーゼの本気の力は規格外だった。
「命がいくつあっても足りないのは貴女がたですわ。死んで償いなさい!」
「な――!?」
「ちょっ、ちょっと待って、セルネーゼさんっ!」
 ライズが飛びついて押さえていなければ、セルネーゼはグラエナを氷点下の吹雪で凍りづけにして、粉々に吹き飛ばしてしまっていた。――後ろにいた多くの市民を巻き添えにして。
「ライズ! 何を止めることがあるのです! 貴方に危害を加えようとした女など! 一族郎党皆殺しにしても気が済みませんわ!」
 グラエナはセルネーゼの力量を見て取り、勝てないことを悟ったかズルズキンの胴体を咥え、強引に氷ごと地面から引き剥がして、一目散に逃亡した。観衆がどよめいている。
「マジかよ」「あの女首領が尻尾巻いて逃げるなんて」「あのグレイシアの姉ちゃんナニモンだよ」「俺、見たことあるぞ。黒塔に入ってくのを」「政府関係者?」「やべえ、こっち見てんぞ」
 セルネーゼは立ち上がって、怒りの対象を観衆に向けた。
「見世物ではありませんわ! 散りなさい!」
 しかし一喝しただけでは、観衆は動かない。それどころか、ポケモンの流れが止まって、少しずつ数が増えている。
「見ているだけで助けようともしなかった貴方がたも、わたくしにしてみれば同罪ですわ! 今すぐわたくしの視界から消えないというのなら――」
 セルネーゼは宙に向かって、斜めに冷凍ビームを撃った。その方向にいたポケモンの一匹が、余波だけで霜に覆われて、悲鳴を上げた。
「ちょっ、おい本気でやべーって」「逃げろ!」「女首領よりおっかねえ!」
 それまで興味本位で立ち止まっていた野次馬たちは散り散りになって場を離れてゆき、人混みの中にぽっかりと空いた間隙で、ライズはセルネーゼに引き起こされるようにして立ち上がった。
「本当に、ごめんなさい。わたくしがしっかりしていれば……怖かったでしょう? ランナベールは恐ろしいところです。慣れてしまって、わたくしはそのことを忘れていました。いい気になってライズを案内しているつもりで……こんな目に遭わせてしまうなんて」
 セルネーゼに抱きしめられて泣いてしまいそうになったけれど、なんとか涙はこらえた。
「ぼ、僕も、不注意でしたし……それにセルネーゼさんは、すぐに助けてくれましたから。もう大丈夫……です」
 本当はまだ体が震えていたけれど、これ以上甘えていたくはなかった。夕闇の中とはいえ、人目の多い場所だし。
 セルネーゼはゆっくりと体を離してくれて、それからもう一度ライズの頭を撫でてから、歩き出した。
「あ、あのっ」
 すぐに追いついて、身を寄せ合うくらい近くに、彼女の横に並んだ。そうして触角のリボンを、セルネーゼの首や体に巻きつけた。
「ほひょっ!?」
 セルネーゼはまるで彼女らしくない、素っ頓狂な声を上げたけれど、そこに触れるのはやめておいた。
「今度ははぐれないように、こうしていてもいいですか?」
「も、もも勿論ですわっ! 良いに決まっているではありませんか!」
 素直な言葉とは裏腹にセルネーゼは何故か怒り気味で、ライズの反対側を向いて、視線を合わせてくれなかった。
 やっぱり、ウェルトジェレンクで言ったことを意識しているんだろうか。

『ライズは……今のライズは、わたくしのことをどのように思っているのですか』
『今でも憧れのお姉さんですけど……なんていうか、セルネーゼさんも完璧じゃないんだって知って、同じポケモンだと思うと……親近感が湧いて……』
『そ、それで?』
『でも友達に抱く感情とは違ってて……』
 ロッコには恋人としていろいろ返していきたいと思っている。でも、結局それは友愛の情と感謝の念が合わさっているだけで、恋愛感情ではないのだと自覚している。セルネーゼに抱く感情がそうだとは言い切れないけれど。
『だから……好き、なのかなって。セルネーゼさんのこと』
 今はそう思いたかった。僕は彼女に恋をしているんだって。


***融けた氷 [#xp9qJLl]

 日がすっかり落ちても、街には灯りが絶えない。ランナベールでは電化製品があまり普及していないと聞いていたが、さすがに都市部ではきちんと整備されているみたいだ。
「ここが噂の……」
 通称、縛鎖公園。黒塔の少し北にあるこの広場は、ランナベールで最も安全な憩い場なのだという。
 黒塔から北門へ向かう大通りに面していて、とにかく兵士の往来が多い。この時間でも、縛鎖公園に展開されている屋台を利用して食事を取っている兵士と思しき強そうなポケモンの姿があちこちに見える。
「北は敵対国のコーネリアス帝国ですから、自ずと北門の側に多くの兵が配備されているのです。北のメインストリートに多くの兵士が行き来しているのも必然というわけね」
「なるほど、言われてみるとそうですね」
「ええ……しかし……それはともかく、ですわ!」
「はい?」
 セルネーゼはきょろきょろと周囲を伺いながら、縛鎖公園に入ってゆく。
「やはりこの歩き方は……は、恥ずかしくありませんか?」
「えーと……」
 あれからずっと、リボンを絡めたまま、二匹の距離はほとんど密着している。
 誰がどう見ても仲睦まじいカップルだった。
「……いいじゃないですか。僕たち、結婚するんですから」
 セルネーゼはそっぽを向いて、答えてはくれなかった。

&size(18){         ◇};

 縛鎖公園を東に抜けてしばらく行ったところには、高層建築が立ち並んでいて、ランナベールの中では高級なホテルや、富裕層が住むマンションが立ち並んでいる。その一つの前でセルネーゼは立ち止まった。
「……ここですわ」
 妙に緊張した面持ちだった。
「わたくしは王の側近ですから、普段は黒塔に割り当てられた部屋に寝泊まりしているのですが……黒塔は一般市民は立ち入ることができません。ですから、ここはつまり……」
 どこへ向かっているのか言わなかった理由がわかった。
「セルネーゼさんのお家ですか?」
「そ、そうですわ。滅多に帰っては来なくなりましたが」
 広い庭を抜けて、両開きのガラス扉をくぐると、一流ホテルも顔負けの豪華なロビーになっていた。ジルベールでは伝統的な石造りの住居が多いので、先進的なマンションの形態は斬新だった。
「お帰りなさいませ」
 ロビーに飾られた花に紛れて、いかにも品の良い立ち居振る舞いのフシギバナの男性が出てきて、挨拶をしてくれた。本当にホテルみたいだ。
「わたくしの部屋は最上階にありますのよ」
「最上階……って十階くらいありませんでした?」
 見晴らしは良さそうだけれど、ちょっと昇り降りが大変そうだ。
「ジルベール宮殿の尖塔よりも高いですわ」
 セルネーゼについて歩いてゆくと、大きな金属製の扉があった。
「あ、これ……エレベータですか?」
「学園にもあったでしょう?」
「中央ホールに一つだけありますけど……あれは小さいですし。こんなに大きいのは初めて見ました」
 エレベータに乗り込むと、意外にも静かに動き始めた。
「ランナベールってなんだか……極端、ですよね」
「ここだけのお話ですが、黒塔の地下に大規模な発電施設がありますの。ヴァンジュシータ一帯にはきちんと電力が供給されているのです。ライズの言う通り、貧富の差は激しいですが」
 実力主義社会のランナベールも、家柄や血筋を重視するジルベールも、そう変わりはないということだ。やっぱりお金のあるところにお金が集まる仕組みは普遍のものなのかもしれない。
「……ごめんなさい。難しい話だったかしら。こんなときにする話ではありませんでしたわね」
「あ、いえ、こちらこそ黙り込んでしまって……」
 そうこうするうちに、エレベータは最上階の十二階で停止した。
 扉が開くと、短い廊下が左右に伸びていて、それぞれにドアが一つずつあった。隣の部屋もやっぱり政府の関係者だったりするのだろうか。
「こちらの部屋ですわ」
 セルネーゼについて右側の部屋に入ると、十二畳くらいのリビングルームにソファが置かれた、落ち着いたシックな雰囲気の部屋だった。綺麗に掃除は行き届いているが、物置棚や姿見、それから観葉植物が置かれているくらいで、まるで生活感がない。リビングの奥の壁は窓になっているらしく、ワインレッドのカーテンが掛かっていた。
「殺風景な部屋でごめんなさい。ここに帰ることが滅多にないものですから」
「でも、嫌いじゃないです。余計な物がない部屋というのも」
「そう……」
 セルネーゼはライズに向き直って、突然にっこりと微笑んだ。
「今日は疲れたでしょう。夕食にしますか? 先にお風呂に入りますか? それとも……」
 どきりとした。でもセルネーゼがこんな、お茶目な冗談を言うなんて珍しい。なんだか少し無理をしているようにも見える。
「えっと、じゃあ……」
 一足先に新婚気分。戸惑いながらも冗談に付き合ってあげることにした。
 触角でセルネーゼを指して、微笑みを返した。
「ふふ。セルネーゼさんも可愛いところありますよね」
「……本当にそれで良いのね」
「え?」
「ああ……ライズ……! なんて子なの……わたくしがこんな……もう、我慢できませんわ」
「ちょ、わ、ひゃぁっ……!」
 瞬く間に体を持ち上げられて、ソファに押し倒された。
「ライズ……貴方ももう十六なのですから、わかっているでしょう? わたくしの部屋へ貴方を連れてきた意味」
 グレイシアの体毛は冷気を纏ってひんやりとしているけれど、抱き合うと奥の肌から温かい体温が伝わってきて、すごく不思議な心地がした。ひんやりしているのにちょっぴりあたたかくて、気持ちが良い。
 ちょっと、いろいろな意味でやばいかもしれない。
「セルネーゼさん……」
 抵抗できなかった。正確には、抵抗しようなんてこれっぽっちも思わなかった。あのセルネーゼさんと、ソファに寝転がって抱き合っているなんて、夢みたいで。やっぱりこのひととなら、大丈夫かもしれない。
「どうしてこんなに良い匂いがするのかしら。ねえ、ライズ。わたくしを誘っているのね?」
「そ、そういうわけじゃ……んんっ!」
 否定する間もなく、口を塞がれた。
「んっ……ライズ……可愛いですわ……はぁ……ん、ちゅ……」
 セルネーゼのキスは思っていたよりもずっと上手だった。頭の中をかき回されたみたいに、目の前が真っ白になって、首筋まで快感が突き抜けた。でも、それより何より抱き合った体が。興奮すると冷気が強まってしまうのか、さっきまでより冷たくて。
「ぁうぁっ……、ぁふ……らめっ、セルネ……ぁあんっ……ぁ、あぁぁ……」
 我慢できなかった。こんなに簡単に――
「ん、はぁ……体、が……ふぅ……熱い……ですわ……ん、ふ……?」
 体から精気が抜けていくみたいな感覚だった。ちゃんと意識を保って、気を抜かなければ大丈夫だと思っていたのに。そんな暇もなかった。
「……え、えぇっ……? ライズ……?」
 セルネーゼが驚いて飛び退いたので、慌てて前を押さえたけれど、隠したところで取り繕えるものじゃない。
「はわわわ……ごめんなさいぃ……」
「あ、あり得ませんわ、こんな……お、お漏らししてしまうなんて、聞いていませんわよ!」
 キスしただけでこんなことされたら、怒るのも当たり前だ。
「ほ、本当に、ごめん……なさ……ぅ、うぇぇ、ひっ……」
 重ねて謝るつもりだったのに、恥ずかしさとセルネーゼを怒らせてしまった怖さで、泣き出してしまった。
 どうしていつもいつも、僕はこうなんだろう。
「あ……」
 セルネーゼは戸惑いの声を漏らして、近づいてくる。
「違うのです、ライズ。わたくし、怒っていませんから……」
 そうして、気がついたら頭を撫でられていた。
「わたし、怒ってないわよ」
「セルネーゼ……さん……?」
「驚いたものだから、つい……」
 十年前に戻ったような心地がした。セルネーゼの口調が、今の彼女ではなくなっている。
「よく考えたら、謝るのはわたしの方だわ。強引に仕掛けたのだから……いきなりキスなんてされたらびっくりするわよね。少し待ってて」
 セルネーゼは奥の部屋に行って、タオルを咥えて持ってきてくれた。
「あ、ありがとう……」
 が、受け取ろうとしたら首をぷいっと振って拒否されてしまった。
「いいから。わたしが拭いてあげる」
「えっ、ちょっ、そんな……」
「これくらい任せなさい」
 有無を言わせぬ口調だった。
 濡れてしまった体――主に下半身を拭いてもらうなんて、恥ずかしすぎて見ていられない。でも、セルネーゼがこう言っているのだから従うより他にないわけで。
 目をつぶって、できるだけ何も考えないように。
「ひぁっ」
 タオルが触れた瞬間、体が跳ねてしまった。
「動かないで」
「は、はい」
 それから、ずっと目を開けられなかった。
 後足に彼女の&ruby(たてがみ){鬣};が触れたときはまた心臓がどきりとしたけれど、怒られそうなのでどうにかこらえた。
「……恥ずかしがり屋なのだから。あのときも、わたしの顔を見ようとしなかったわね」
「あのとき、って……」
「わたしの&ruby(うち){家};に泊まったときのこと。覚えていないの? ――もう目を開けていいわよ」
「……セルネーゼちゃんの、家に?」
「ライズがわたしと一緒に寝たいって言うものだから、ベッドで一緒に寝てあげたのよ。そしたらライズ、おねしょしちゃって……ふふ。その顔は、思い出したようね」
 まだ五歳か六歳かそこらの頃だ。朧気ながら、記憶がある。
「……セルネーゼちゃんが、やったのは自分だって、庇ってくれて……でも、すぐにバレちゃったんだよね。僕、あのときも泣いてたっけ……」
「泣き虫なところも変わっていないわね。今はもうおねしょはしなくなったのかしら?」
「なっ……す、するわけないじゃないですか!」
 とんでもないことを言い出すものだから、思わず敬語に戻ってしまった。
 でも、こんな状況じゃ、強く否定したところでかえって怪しいだけだ。
「キスしただけでこんなになってしまうのに?」
「……違うんだって……て、ていうか、セルネーゼちゃんのせい!」
「わたしの、せい……?」
「だってセルネーゼちゃんの体、冷たいんだもん……あんな状態でキスされたら、どうしようもないよっ」
 ああ。少しずつ、あの頃に戻っていく。
 思ったことをそのまま言っても、彼女は受け止めてくれるから。
「グレイシアの体……そうね。気がつかなかったわ……ライズ、ごめんね」
「あ、謝らなくても、いいけど……それはそれで……き、気持ち良かった、し……」
「……続き、しましょうか?」
「それは……セルネーゼちゃんさえ……良かったら……」
「言い方が悪かったわ。続きをさせてくれないかしら。わたしが……我慢、できないから……」
「へ?」
 セルネーゼは悦に入った微笑みを浮かべて、抱きついてきた。
「匂いが……だめなのよ……ライズ、わたし、変になってる……こんなこと初めてだわ……」
「えっと、ぼ、僕が、ニンフィア、だから……かな……」
「異性を虜にする体って、こういうことなのね……」
 頬をくっつけられて、また全身に震えが走った。冷たくて温かい、彼女だけの感触。
 虜になっているのはどちらなのか。
「ベッドに行きましょうか? 十年ぶりに、一緒に寝ましょ?」
「……うん」
 もうだめかと思ったけれど、最後にはセルネーゼの優しさとニンフィアの特性のお陰で、どうにか雰囲気を壊さずに済んだ。
 ファンクラブができてしまったことも、キャミィに無理やり迫られたことも、さっき街で襲われたことも全部この特性のせいだ。
 でも、悪いことばかりじゃないなって、初めて思えた。そんな夜だった。


***妖精みたいな [#UimuvGA]

 エレベータに乗ったときから、いや、もっと前からか。ライズが触角のリボンを巻きつけてきたときからだ。
 歩き回って汗ばんだせいか、見た目にはわからないけれど、再会したときに鼻をくすぐったあのフェロモンの香りが強まっていた。
「殺風景な部屋でごめんなさい。ここに帰ることが滅多にないものですから」
 部屋にライズを入れたときにはもう体が疼いて、冷静でいられなかった。
「でも、嫌いじゃないです。余計な物がない部屋というのも」
「そう……」
 もうだめだ。自分を抑えられない。外でも相当なものだったのに、室内でこんな香りを漂わせるのは毒が強すぎる。
「今日は疲れたでしょう。夕食にしますか? 先にお風呂に入りますか? それとも……」
 少しだけ残った理性で、冗談めかしてライズを誘ってみた。本当は今すぐにでも彼を食べてしまいたい。むしゃぶりつきたくて、うずうずする。
「えっと、じゃあ……」
 ライズは冗談に乗ったつもりなのか、触角でセルネーゼを指して、微笑みを返してくれた。
「ふふ。セルネーゼさんも可愛いところありますよね」
 恥ずかしそうな彼のはにかみは、目にも毒だった。もう、無理だ。食べてしまおう。こんな生殺しみたいな真似をされて我慢しろというのが無茶な話だ。
「……本当にそれで良いのね」
「え?」
 こんなに強い気持ちを抱いたことは今までなかった。
「ああ……ライズ……! なんて子なの……わたくしがこんな……もう、我慢できませんわ」
 ライズ。ライズ、ライズ、ライズ、ライズ。貴方が欲しい。婚約者だとか親戚だとか幼馴染だとか、そんなことはどうでもいい。わたしはただ、貴方が欲しくてたまらない。
「ちょ、わ、ひゃぁっ……!」
 姿勢を低くしてライズの下に入り込み、体を持ち上げてソファに押し倒した。
「ライズ……貴方ももう十六なのですから、わかっているでしょう? わたくしの部屋へ貴方を連れてきた意味」
 毛並みの肌触りも、絶妙な柔らかさも、それから脳髄を刺激してやまない匂いも、何もかもがセルネーゼの理性を壊しにかかっていた。シオンと孔雀に誘われた夜のことが少し頭に浮かんだけれど、あのときとは比べ物にならないし、性質がまるで違う。
「セルネーゼさん……」
 ライズは抵抗しなかったし、何かを求めるみたいなつぶらな瞳で、こちらを見つめ返してくる。
「どうしてこんなに良い匂いがするのかしら。ねえ、ライズ。わたくしを誘っているのね?」
「そ、そういうわけじゃ」
 答えようとして開いたライズの口に、&ruby(なり){形};振り構わずかぶりついた。
「――んんっ!」
「んっ……ライズ……可愛いですわ……はぁ……ん、ちゅ……」
 あのとき練習した通りに、なんて考えている余裕もなかった。ただ、心の欲するままにライズの体を抱いて、彼を貪った。
「ぁうぁっ……、ぁふ……らめっ、セルネ……ぁあんっ……ぁ、あぁぁ……」
 ライズがどう感じているか、何を思っているかなんて考えもせずに。
 体の中が熱くなる一方で、気持ちが昂ぶって体から冷気が溢れ出していた。ライズが震えていると気がついたのに、自分を止められない。この衝動は、犯罪的だ。
「ん、はぁ……体、が……ふぅ……熱い……ですわ……ん、ふ……?」
 ライズと抱き合っているお腹のあたりが、急激に熱くなった。体の中ではなく、毛に染み込むみたいに、じわりと広がってきて……?
「……え、えぇっ……? ライズ……?」
 まさか、そんなことって。
 慌てて体を離すと、ライズはすぐに前足と触角で股を押さえて丸まった。
「はわわわ……ごめんなさいぃ……」
「あ、あり得ませんわ、こんな……お、お漏らししてしまうなんて、聞いていませんわよ!」
 予想外のことに慌ててしまって、ついいつもの癖で、強い口調になってしまった。
「ほ、本当に、ごめん……なさ……ぅ、うぇぇ、ひっ……」
 しかも、叱られたと思ったのか、ライズは泣き出してしまって。
「あ……」
 なんてこと。
 衝動を抑えられずに襲い掛かった挙句に、ライズを泣かせてしまった。
 これでは一体何のために、恥を忍んでシオンに相談し、孔雀に頼み込んで、練習なんてしたのかわからない。
「わたし、怒ってないわよ」
 泣いているライズを見て、また一つ昔のエピソードを思い出した。あの頃の心までもが蘇って、口に出た言葉まであの頃と同じで、自分でも少し驚いた。
 そうして一通り、ライズが心を落ち着けるまでゆっくり語り合った。でも、立ち込める香りは部屋に入ったときよりもずっと強くて、一度取り戻した理性が、また欲望に飲み込まれて奥底に沈みそうになる。何も自分が変態だとか、性欲が強いとか、そういうわけではないはずだ。ニンフィアの中でも、ライズはとりわけ異性を惹き付ける力が強いのだと思う。同じ特性を持っているリカルディの側に仕えていても、情欲が唆られたことなんて一度もない。たしかにリカルディも良い香りはするけれど、居心地が良い、と感じるくらいのものだ。
 他でもない、ライズだから。ずっとずっと愛していたライズだから。
「十年ぶりに、一緒に寝ましょ?」
 できればライズを気遣ってあげたい。
 理性的でいられるうちに、やんわりと誘って、寝室へと移動した。

&size(18){         ◇};

 ベッドルームにライズを連れ込んだら、あとはもう止まらなかった。一度は興奮も収まったかと思ったけれど、ライズのフェロモンの香りはやはり耐え難いものがある。
「ふふっ、うふふふ……大人になってもライズと一緒に寝られるなんて、夢みたいだわ」
「セルネーゼちゃん、笑い方が変だよ?」
「だって……ふふふっ。嬉しくて仕方がないんですもの」
 不思議と、思ったことがそのまま言葉に出る。橄欖に指摘されてしまったけれど、ライズの前でだけ、こんなに素直になれることには正直自分でも驚いている。
 二匹で一緒にベッドに入ると、いよいよ体の欲求を抑えられなくなってきた。ライズの香を胸いっぱいに吸い込んだら、耳の先まで突き抜けるくらい――この感覚は何と呼べばいいのか。渇き、といえば渇きなのかもしれない。ライズを抱くことでしか癒やされない渇き。
「セルネーゼちゃん……」
「……もう、ほんと可愛い声……わたし、だめかもしれないわ。さっきみたいに……もう、胸がはち切れそうなの」
「僕も、いいよ……セルネーゼちゃんになら、何されても。ずっと、憧れのお姉ちゃんだったから」
「ああ……嬉しいこと言ってくれるわね、ライズ。すぐにでも貴方を可愛がってあげたいところなのだけれど、一つだけ」
 つい忘れてしまいそうになるけれど、ライズは婚約者で、将来は家族になるわけで。
「わたしのこと、ネールって呼んで」
「えっ……それって」
「親しい家族くらいしかわたしを愛称で呼ぶひとはいないけれど……ライズのことは家族よりもずっと大事だから。わたしの一番近くにいてほしい子だから」
「……小さい頃、僕がその名前で呼ぼうとしたらダメって言ったよね。呼んでいいのはお父様とお母様だけだって」
「そうだったかしら」
「でも、嬉しい。僕のこと、認めてくれるんだ」
 ライズは照れ隠しなのか、頬を染めてリボンの触覚を口に咥えた。
「……ネールちゃん」
「も゛っ」
 そのまま名前を呼ばれたものだから、変な声が出てしまった。これは、だめだ。破滅的だ。
「ネールちゃん?」
「もう、もう……ライズ、可愛すぎですわーーーーーっ!」
「ふぇっ……? わ、ふぁああっ――!」
 気がつくと自分でも驚くような勢いでライズに抱きついて、頬ずりしていた。
 何、これ。気持ちいい。
 毛並みはきめ細やかで、その下の肌は適度に弾力のある柔らかさで。食べたくなるくらい。
「ぁああ……可愛いわぁ……んっ」
 そのほっぺをかぷりと甘噛みした。
「ひゃぁっ! ……ネールちゃんっ」
「んんっ……ちゅ……はぁ。柔らかい……」
「ぼ、僕のほっぺは食べ物じゃないのっ」
「あら、そうなの? ……食べてほしいのはこっちかしら」
 後足でライズの股に触れると、彼のものは半分くらい体毛の外に突き出して、少し硬くなっていた。
「きゃっ……い、いきなりそんなとこ触んないでよっ」
「……嫌だった?」
「嫌じゃないけど……心の準備とか、あるでしょそういうの」
「……いちいち可愛いわね、もう!」
「ふわぁっ」
 ライズを仰向けにひっくり返して、上に乗る格好になった。ライズのペースに合わせていたらあまりにも焦れったい。
「わたしが待てないの。こういうことは大人しくお姉さんのわたしに任せてくれるかしら? あんまり焦らすとわたし、何するかわからないわよ?」
「は、はひ……」
 やっと観念して大人しくなった。股の間に口を近づけていくと、クチナシとバラの香りが強くて、胸の奥を掻き乱された。体毛の下からまだ半分くらいしか顔を出していない先端には、小さな水玉が蜜のように浮かんでいる。
 ぺろり、と舐めてみた。
「ひぁうっ……!」
「……そんなにびっくりすること?」
 花の香が邪魔をしてあまりわからなかったけれど、甘いような、少ししょっぱいような味がした。
「な、何か言ってよ! きゅ、急に舐められるなんて……思ってなかったからっ」
「さっきはわたしになら何をされてもいいと言っていなかったかしら」
「それは……言った、けど……」
「なら、覚悟はもう決まっているのでしょう?」
 細かな体毛を掻き分けて、肉球でぺたりと根本に触れた。
「きゃぅっ……ふぁ……!」
 ライズがまた短い悲鳴を上げて体を震わせたかと思うと、熱い液体が勢い良く飛び出した。
「ひゃっ……!」
 予想していなかったから、顔にまともに浴びてしまった。
「ちょっと、まだ前足で触っただけなのに……」
 ライズが慣れていないせいで早すぎたのかと思ったが、違う。ソファでキスして、お漏らしさせてしまったときと同じ匂いだし、透明だし、さらさらしているし。
「……ってこれ、おしっこじゃない!」
「ご、ごめん……」
「ま、まあ、ライズなら、いいけど……」
 一度目はつい叱ってしまったけれど、今度はどうにか、冷静になれた。
 不思議な事に、嫌な気持ちはしなかった。
「顔にかかってしまったわ……見なさいよ、これ……」
 飾り毛がすっかり濡れてしまって、ポタポタと水滴が滴っている。
「ネールちゃん、なんか……」
「何よ?」
 ライズは頬を赤くして、目を背けた。
「……目に毒、っていうのかな……」
「ばっ――」
 急に恥ずかしくなった。少々のことでは揺るがなかったライズがこんな反応をするくらいだから、きっと今のセルネーゼは相当艶めかしい姿で彼の瞳に映っているのだろう。
「――莫迦っ! お漏らししたライズが悪いんだから!」
「だ、だって……冷たい手でそんなとこ触られたら……」
「氷タイプだから冷たくて当たり前なの! ライズが弱すぎるせいでしょ? もう――」
「えっ、ちょっ――あぁっ……!」
 有無を言わせずライズの後足を押さえて、
「わたしが鍛え直してあげるわ」
 ――その可愛らしい性器を咥え込んだ。


***氷みたいな [#EoPVwdt]

 初めてだった。女性に対してこんなにも魅力を感じたのは。
「んっ、ちゅ……はふ……ん……」
「ぁっ……はぁ……ぁあ……」
 吐息はあんなにも冷たかったのに口の中は温かくて、ざらりとした舌の感触はキスしたときと同じなのに、体の感じ方は全然違っていた。
「はぷ……ライズ……わたしの口の中で……んっ……おしっこしたら……さすがに怒るわよ……はむ……んちゅ……」
「んぁっ……し、しないよ、もう……はゎ……ぁ……」
「我慢の練習……なのだから……んむ、ちゅ……」
「ひゃぁぁっ……しゃ、しゃべるとくすぐったい……ぁ、はぁっ、う……ぁぁんっ……!」
 頭の後ろから全身に突き抜けるようなキスの快感とは違って、下半身にばかり感覚が集中している。
「ライズ……可愛いわぁ……はぁ、んっ……」
「ぁ、そんなに……っ?強く、したらっ……あ、あぁっ! だめ……も、もう……!」
 でも、思っていたよりもずっと強い快感で、情けない声を上げながらも体がそれを求めてしまう。
「んちゅ……なぁに? そんなに……気持ちがいいのね……はっ、ん……ふぁ……いいわよ、遠慮しなくても……」
「ゃ、あ、あ、ぁ……ぁ、あぁっ、ふぁあああぁぁぁ……っ……!」
 下半身が爆発しそうな感覚に襲われて、欲望のままにセルネーゼの口内に精を吐き出した。
「んんっ……! ん、く……ふっ……」
「あぁっ……ぁ、ふぁあ……!」
 自分でもびっくりするくらいの勢いで、またお漏らしをしてしまったのかと不安になったけれど、すぐにそんなことはどうでも良くなって、快楽に埋没してしまった。あまりに気持ちが良くて、何も考えられなかった。
「ん、こく……ん……ふぅ……」
「はぁ、はぁ……ネール……ちゃん……」
「……うふふ。ライズがあんまりたくさん出しちゃうものだから、零してしまいそうになったわ」
 セルネーゼは頬を紅潮させながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「ぜ、全部……飲んじゃったの……?」
「可愛いライズのだから当然よ。もったいないでしょう?」
「そ、そんな言い方されると」
「恥ずかしがらないでいいの。それに……すごく飲みやすくて、驚いたわ」
「感想とかはいいからっ」
「……思ったことを言ってはいけないの?」
「そういうわけじゃないけど……」
 驚いた、という言い方には少し引っかかった。知っているのか。優しくされたかと思えば突然理性を失って暴走したりするところを見ると全然慣れていなさそうなのに、実は経験があったりするのかもしれない。
「……男の子ってこうなるとしばらくは何も感じないの?」
「や、何も感じなくは……ひゃんっ、つつかないでっ」
「ふふ。まだいけそうね。わたしが満足するまで、もう少し付き合ってもらうわよ」
 意外だった。ライズも自分では性的な欲求には忠実な方だと思っていたけれど、セルネーゼがまさか、こんなに求めてくるなんて。久しぶりの再会で気分が高まっているだけならいいのだけれど、ずっとこの調子だったとしたら、先の結婚生活が不安になる。
「や、優しくしてね……」
「言われなくても。わたしはずっと、ライズには優しいわよ」
 でも、彼女と愛し合う時間がこんなにも心地が良いのなら、それでも許せる気がした。

&size(18){         ◇};

 まだ子供のライズにいろいろと教えてあげるつもりだったけれど、思ったよりもライズは落ち着いていて、自分の方が理性を失ってしまう。でも、ライズも満更ではなさそうだし、経験が乏しいのを隠すよりもそのままの自分でいよう。
「ここはどうかしら?」
「ひぁっ……!」
 あのとき孔雀に聞いておいて良かった。ニンフィアもエーフィと同じで、尻尾の付け根は弱いみたいだ。
「そう。ここがいいのね」
「ぁぁ、んっ……ぁ……」
 抱きしめるように前足をライズの後ろに回して、そこを愛撫する。自分では触ることのできない場所だから、気づかなかった。今まで必要も感じなかったから、誰かに聞くことも調べることもしなくて。
「んぁ、ぁうっ……ネールちゃんっ……!」
「うふふ。可愛い声……わたしも気分が……きゃうっ……!?」
 尻尾の付け根から全身に電気が走ったみたいだった。無抵抗に見えたライズに、リボンの触角で同じところを触られたのだ。
「僕だって、やられてばっかりじゃないんだから……お返し」
「ま、待ちなさ……はぁんっ……! こら、ライズ……ぁっ……もう!」
 何度も来る刺激に耐えながら、片方の触角を口でくわえて、もう片方を前足で挟んで捕まえた。
「――悪い子なんだから! わたしの体をそんな風に触るなんて、許してないわよ!」
「ネールちゃんだって、僕の体をあんなに撫でたり舐めたり……めちゃくちゃしてたくせに」
「子供が生意気言わないの。わたしの方が七つもお姉さんなんだから、わたしの方が偉いのよ」
「……そんな自分勝手な……」
「自分勝手で悪い? ふふ、わたしに抵抗できるくらい強くなるしかないわね」
 ライズには本当は優しくしてあげたいと思っているのに、つい自分を抑えられなくなる。でも、これも性格だから仕方ない。彼と一生を共にするなら、自分を抑えたままでいることなんてできないのだから。
「はぁ……」
 組み敷いてライズの体を見ていると、思わず熱い吐息が漏れる。
「ライズ……あなたがもっと欲しいわ……」
「……いいよ。ネールちゃんのこと、ちゃんと好きだから……」
「も、もうっ。ここまできて、そんなこと……言わなくても、わかってるわよっ」
 強気で返してしまったけれど、不安でなかったと言えば嘘になる。はっきりと言ってくれたことは嬉しかった。

&size(18){         ◇};

「い、いくわよ……」
「う、うん……」
 わたしはこんなにも緊張しているのに、ライズはやけに落ち着いている。七つも年下のくせに。
「……怖くはないの?」
「大丈夫……ネールちゃんなら、安心だから」
 胸を撃ち抜かれた。
 そんな言葉、反則ではありませんの。
 怖がっているのはわたしの方だった。年下のライズが覚悟を決めているのに、自分が躊躇していてどうするのか。
「わたしも、ライズとなら……ふ、ぁっ……!」
 腰を落とすと、思ったより簡単に入ってくれなくて驚いた。意外と体重を掛けないといけなくて、でも、そんなことをしたらライズが痛いかもしれない。
「ネールちゃん……っ」
「えっ、ちょっと……ぁ、ひぁあっ……ぁ、あぁっ!」
 戸惑っていたらライズに触角で抱き寄せられて、入ってしまった。少しだけ痛みを感じたけれど、その小さな痛みさえも気持ち良く感じてしまう。
「ライズ……っ……入ってる……んっ……ライズが……わたしの中に……」
 あの可愛いライズが大人になって、ひとつになれたと思うと、それだけで幸福感で胸がいっぱいになる。
「ネールちゃん……大丈夫……?」
「大丈夫、よ……ライズの方こそ、平気?」
「温かくて……ちょっと苦しいけど……平気だよ。僕だって男なんだから……」
 ライズの言葉は少し意味深だったが、その裏に隠された心なんて考えている余裕はなかった。七つも年下の、まだ十六の男の子と抱き合っていることには罪悪感もあって、それなのに嬉しくて、もう気持ちの整理がつかない。
 ライズは怖がっているのか、セルネーゼを気遣っているのか、そのままぎゅっと抱きしめて動かないので自分から動いてみた。
「ぁ……はっ……ライズっ……」
「あぅっ……急に動かないでぇ……」
「……ライズ……可愛いわぁ……ん、ぁあ……っ……ふ……」
 変な声が出てしまったけれど、気にしている余裕なんてなかった。こんなに刺激が強いなんて思いもしなかった。
「あ、あぁっ……んんっ! ぁぁ……ライズぅ……」
「ひぁ、ぅ……ネールちゃんっ……!」
 ライズに名前を呼ばれたとき、全身が震えるくらいの快感に襲われた。こんな世界があったなんて。想像していたよりもずっと刺激が強くて、自分を保つことができない。
「はぅ、ぁあ……こんなのって……ライズぅっ……!」
 ライズの体を強く、壊れるくらいに抱きしめた。そうでもしないと自分が壊れてしまいそうで。
「く、苦しいよ……ふぁっ、でも……ぁあんっ、やめて……そんなにされたらっ……出ちゃうから……っ」
「いいからっ……わたし、ライズが欲しいの……んぁあっ……わたしに、頂戴……!」
 自分の口から出た言葉が信じられなかった。そんなに直接的な言葉で、ライズにお願いするなんて。
「でもっ……ぁ、ぁ……ふぁんっ……! 僕、僕、もう……!」
「わたしが……許すって言ってるんだからっ……はぁっ、んん……出しなさいよっ……!」
「ふ、ぁあっ……! ぁ、あああ……っ!」
 ライズが体を少し反らして、力無い声を上げた。ライズのものがどくん、どくんと脈打つのを感じながら、熱いものが自分の中に流れ込んでくる。
「あ、あぁ……ライズ……熱いわ……このままわたしを満たして……」
「んぅ……ネールちゃん……っ……」
 ライズが甘えた声で縋り付いてきた。今度は優しく、けれど強く、ぎゅっと彼を抱きしめた。
「ライズ……いいのよ、好きなだけ甘えて……あの頃の気持ち……わたしはずっと変わらないから……」
「……僕も、ネールちゃんとなら……このままでも、やっていけるかも……」
「貴方はそのままでいいのよ。ずっとそのままでいて。可愛い貴方のままでいて」
 愛の営みの余韻に浸りながら語り合っていると、どこまでも素直になれる気がした。この時間がずっと続いてほしいって思うくらいに。


***天国と地獄 [#2igPlam] [#z0cd55d6]
***天国と地獄 [#s7de6cdc]

 幼い頃の夢を見た。
 子供だったライズにはその庭も館も広大で、どこまでも探検できる気がした。
「わぁ……本がこんなにいっぱい……!」
「ここは書斎よ。ライズには読めない本ばかりだけれど……」
「セルネーゼちゃんは読めるの?」
「あ、当たり前じゃない。わたしはもう十一歳なのよ。ライズよりもたくさん勉強してきたんだから!」
「セルネーゼちゃんはなんでもできてすごいなぁ……」
「ライズもわたしと同じ年になったら、できるわよ! でもそのときにはわたしはライズよりずぅっと大人になってるから、ライズはわたしにずっとずっと追いつけないのよ」
「えー……そんなのずるいや……」
「さ、次は何を見たい? このお家のことならわたし、なんでも知ってるから!」
「うーんと……えっと、どうしよっかな……」
「どうしたの、丸くなっちゃって……おしっこ?」
「う、うん」
「さっき、トイレは大丈夫? ってわたし、聞いたじゃないの」
「あ、あのときはまだだいじょうぶだったんだよぅ」
「仕方ないわね……連れてってあげるから、もらしちゃダメよっ」
「だいじょうぶ、がまんする!」
 それから広い屋敷の中を走って、最後はギリギリでトイレに駆け込んだのを覚えている。
「ちゃんと我慢できたわね、えらいえらい」
 ドアの外からセルネーゼちゃんの声が聞こえていた。
「朝だっておねしょして叱られたばかりでしょ。間に合ったからいいけど、これからはもっと早く言うのよ!」
「はい」
「いい返事――」
 意識が遠のく。なぜか、すごく気持ちがいい。自分の体はイーブイではなく、もっと大きくて、毛並みも細やかで、リボンの触角があって。
「ライズ!」
 セルネーゼが急にドアを開けて入ってきた。
「ちょっと! 今入って――」
 セルネーゼもイーブイの少女ではなく、大人のグレイシアで。あれ?
「――ライズ! 起きなさい、ライズ!」
 念力で宙に釣り上げられるみたいに、意識が引き戻された。
「ふぁ……? ぁ、夢……」
 トイレに座っていたはずなのに。
 股がスースーしてやけに気持ちが良くて――
「ぁあん……ぁ……ぁっ!?」
 目を開けると、そこには怒ったセルネーゼの顔が。
「今はもうしなくなったって、言ったわよね?」
「や、えっと、これ……嘘? そんな、僕……」
「言い訳はいいから。ごめんなさいは?」
「ち、違うんだって……これも何かの間違い……そ、そうだ、これもきっと夢……」
「わたしを本気で怒らせたいの?」
「あ、や、そうじゃなくて……」
「いつまで寝惚けているの!」
「わひっ! ご、ごごごごごごめめめんなさいっ!」
 セルネーゼの叱責に、身が竦んだ。やばい。この状況はものすごくやばい。目覚めた瞬間から修羅場だ。
「最高の夜を過ごしたと思ったのに、最悪の目覚めじゃない!」
 認めたくないけど、自分が全部悪い。まさか十六にもなっておねしょするなんて。
「しかもわたしに抱きついて眠ってたのよ、貴方……子供の頃よりたちが悪いわよ! 一体どういうつもり!?」
 返す言葉もなく、目を逸らして黙り込むしかなかった。怖い。怖すぎる。怒らせてはいけないひとを怒らせてしまった。
「こっちを見なさい。わたしの目を見て!」
「あ、あぅ……はいっ……」
 昨日の彼女とは別人みたいだ。それに、誰かに叱られる感覚なんて久しぶりで。学園では優等生だし、休暇に家に帰っても、もう母に怒られることもないから。
「う……そんな泣きそうな顔してもダメよ! わたし、怒ってるんだから!」
 少し無理をしているように見えたけれど、弱みに付け込むみたいな卑怯なことはしたくなかった。いっそ立ち直れなくなるくらいまで叱ってほしい。
「&ruby(ばか){莫迦};! ライズの莫迦っ! どうしてわたしがこんな気持ちにならなきゃいけないのよ! ライズっ……貴方って子は……」
「ごめんなさい……ほんとに僕……」
「謝って済む問題じゃないわよ! 可愛さ余って憎さ百倍ってこういうこと? 少し違うかしら……ああもう! ライズが可愛いのが悪いのよっ」
 セルネーゼは早口でまくし立てながら、ライズの体を頭突きでドン、と押した。
「わぁっ……!」
 身構える間もなく、ベッドから転げ落ちて床に倒れていた。
「あっ……ライズ……っ」
 見上げると、セルネーゼは何故か目に涙を溜めていた。
「ごめんなさ……って、わたしが謝ってどうするのよっ。ねえ、何とか言いなさいよ! 怒ってるわたしが莫迦みたいじゃない! 悪いのはライズなのに!」
 セルネーゼは前足で涙を拭って、ベッドから下りて詰め寄ってきた。
「……ごめんなさい。僕が、悪いのに……」
「もういいわよ、謝らなくて! わたしが悪いことしてるみたいじゃない……」
 そのまま覆いかぶさってきて、セルネーゼの&ruby(たてがみ){鬣};がライズの頬に触れた。
「そうよ……どうせわたしはライズに勝てないのよ……腹が立つのに、それよりも腹を立てている自分が嫌になるの……この悔しさが貴方にわかるかしら? ねえ、ライズ……」
「……ネール、ちゃん」
「ライズのばーか……」
 セルネーゼが目を細めて顔を近づけてきた。
「んっ……ぅ」
 そのままキスをされて、抱きしめられた。
「……ん……ふぅ……最初からこうすれば良かったのかしらね」
 怒られていたはずなのに、キスをされるなんて。もうわけがわからない。
「そうよ……ライズに怒鳴り散らしてもわたしが傷つくだけなんだから……ライズを叱りたくなったら、こうやってお仕置きすればいいのね」
「ネールちゃん……?」
「そうしたらわたしも怒りを鎮められるし、ライズも痛みは受けないし、ね?」
 満面の笑みが、さっきまでの怒った表情よりも怖い。
「悪い子はこうして……」
「ひゃぁっ! 冷た……っ!?」
 リボンの触角と前足を一瞬にして氷漬けにされてしまった。
「うふふ。十六にもなっておねしょするような悪い子には反省してもらわなくちゃ……はむっ……」
「やぁっ……ちょっと待っ……にゃぅ……!」
 強引に後足を開かれて、心の準備をする暇もなく股間のものを咥えられた。前足を動かそうとしても、氷が固くてピクリともしない。
「ライズの力なんかで簡単に割れたりはしないわよ? わたしの力を舐めてもらっては困るわね」
「うぅ……」
「何、その目は。これはお仕置きなのよ? 悪いことをしたのは貴方でしょう。だから……」
「ひゃぁ、んっ……!」
 ぺろり、とひと舐めして、セルネーゼは嗜虐的な、見下すような視線をライズに向けた。
「凍らされて感じちゃってるの? 本当、どうしようもない子なのだから」
「だってぇ……ネールちゃんが……」
「ふふ……氷漬けのライズも綺麗ね。このまま見ていてもいいかしら?」
 セルネーゼはこれ見よがしに舌舐めずりをして、挑発してくる。
「あぅ……」
「何? また舐めてほしいの? 駄目よ。これはお仕置きなんだから、わたしがしたいようにするの。貴方の望みなんて聞いてあげるわけないでしょう」
「ネールちゃん……許してよぉ……」
 体の欲求に負けそうになったことが悔しくて恥ずかしくて、そしてセルネーゼを本気で怒らせてしまったことの怖さで、涙が溢れてきた。
「……泣いても駄目なものは駄目。まだ反省が足りないみたいね」
 セルネーゼはまたライズのものに顔を近づけてきた。与えられる快楽への期待と、何をされるかわからない怖さが同居して、言葉では言い表せないような変な昂揚感に襲われた。
「ふー」
「わきゃぅっ!?」
 快楽なんて与えられなかった。凍えるような冷たい吐息を吹きかけられて、まさしく身も心も縮み上がった。
「へえ。男の子って敏感なのね」
「や、やめて……」
「……しょうがないわね」
 今度は口で包み込むように咥えられた。温かい。熱くて、舌の動きも気持ち良くて、また快楽に埋没しそうに――
「んっ……はぷ……ふぅ。ひんやりしているのも悪くないわね……」
「へっ……?」
「もう一度、冷やして美味しくいただこうかしら?」
「えっ、ちょっ、やめ……ぁあああああっ!」
 まさに天国と地獄だった。前足と触角を拘束されているせいで、悲鳴を上げることしかできない。こんなことなら殴られる方がましだ。
「ぁああぅ……やめてぇ……もうおねしょしないからぁ……」
「何を勘違いしているの? これはライズが今日おねしょした罰なのよ。もうしない、なんて当たり前でしょう。今度やったらまたお仕置きするだけよ?」
「ふえぇん……そんなのって……」
「諦めて受け入れなさい……はむ……」
「にゃぅ……っ」
 この温かさだけで、さっきの苦しみを忘れそうになる。震えるほどの温かさが全身に沁み渡って、同時に快感まで与えられるのだから。
「ん……蜜が出てきたわ……はぁ……いい香り……ライズぅ……」
 セルネーゼもこれが罰だということを忘れているのか、夢中になっていた。でも、受け入れるのと抵抗ができないのとでは全然違う。前足と触角を凍らされて、無理やり犯されているんだから。
「ぁ、ぁっ……んぁあっ……!」
 冷やしたり温めたりを繰り返されて、また漏らしてしまいそうになったけど、死ぬ気で我慢した。ここで漏らしたら今度こそ殺される。
「はんっ……ちゅ……はぁ……」
「ぁっ、んっ……は、ふわぁっ……!」
「……可愛い声を出してもだめよ……許してあげないんだから……ん……」
 罰なのかご褒美なのか、もうわからなくなってきた。
「あぁっ、もう……ぁ、ああぅ……ふぁああっ……!」
「ん、ちゅ……ふぁ、んっ!?」
 お漏らしだけはしないように我慢したけれど、そっちは無理だった。激しくこみ上げてくる快感に抗えなくて、気がついたらセルネーゼの口の中に、精を吐き出していた。
「……ん、く……ふぅ……ライズ……」
「……は、はい……」
 セルネーゼは紅潮した顔でライズを見下ろして、微笑んだ。
「ちゃんと……反省した?」
「は、反省してますっ」
「そう……反省しているなら……責任を持って、ライズはわたしの側にいなさい……逃げたりしたら、許さないわよ。絶対にわたしと結婚するって、誓いなさい」
 有無を言わせない、というか、凍らされたまま迫られたら首を縦に振るしかない。
「誓い……ます」
 答えるとセルネーゼは満面の笑みを浮かべて、頭を撫でてくれた。
「よろしい」
 セルネーゼが前足で触れると、あっという間に氷は融けてしまった。ようやく支配から解放されて、ほっと一息ついたけれど、二度とセルネーゼを怒らせないようにしようと心の底から誓った。


***恋多き妖精達 [#YMN9IOg]

 それから街に出てカフェで朝食を取ったあと、セルネーゼがもう仕事に戻らなくてはいけないと言うので、送って行くことにした。
「あっという間のひとときでしたわ……」
「やっぱり、王様の側近ともなると忙しいんですね」
 外に出るとどこか恥ずかしくて、お互いに元の口調に戻っていた。
「あ、でも……学園の規則で僕、一匹では帰れませんでした……」
「わたくしもあの学園の生徒でしたから、知っていますわ。安心して。帰りは代役をお願いしていますから」
 黒塔へ向かう足取りはどちらともつかず緩やかになって、道を歩くポケモンたちに次々と追い越されてゆく。少しでも長く一緒にいたいと思うのは、二匹とも同じだった。
「代役?」
「ええ。同じセーラリュートの卒業生で、わたくしなどより、もっとすごい人よ」
「セルネーゼさんが素直に誰かを褒めるなんて、珍しい」
「何ですって? 言うようになったわね、ライズのくせに!」
「その言い方はひどいよ……」
 外目を気にしていても、たまにこうして昔の調子に戻ったりして。十年の間に離れていた距離がちゃんと縮まったことを実感すると、嬉しくなる。
「でも、セルネーゼさんよりすごいひとって一体……」
「それは会ってからのお楽しみ、ということにしておきましょう」
 そうこうする間に、時間が経つのは早いもので。
 あんなにゆっくり歩いていたのに、黒塔の前に到着してしまった。
「あ、セルネーゼさん! おはようございます」
 そこで待っていたのは、意外なことにライズの知る&ruby(ポケモン){人物};だった。
「休日は楽しめました? あ、後ろにいるのが婚約者の……あれ? きみ……」
「シオン……さん」
 学園祭でライズに話しかけてくれたセーラリュートの伝説の風紀委員長。憧れのその人だった。
「え? ライズとシオンさん……お知り合いでしたの?」
「実はこの前の学園祭に遊びに行ったときに会ったんです……まさかライズくんがセルネーゼさんの婚約者?」
「は、はい……」
 憧れのひとを目の前にしたせいか、ひどく緊張する。昨日、セルネーゼに再会したときの感覚とよく似ていた。
「へえ……」
「な、なんですかシオンさん、その目は!」
「や。けっこう年離れてるなーと思って……」
「それが何だというのですか! 愛に年の差など関係ありませんわ!」
「あはは。セルネーゼさんの言葉とは思えませんね」
「いつからわたくしを&ruby(からか){揶揄};える立場になりましたの? いくらシオンさんでも、怒りますわよ!」
「ごめんなさい。セルネーゼさんにもそんな一面があったんだって思ったらつい」
 そう言って小さく笑うシオンには飾らない美しさがあって、やっぱり自分とは遠い存在なんだってことを思い知らされる。
「ライズくん」
「は、はい」
 シオンに名前を呼ばれただけで胸が高鳴るのを感じて、声が上ずってしまった。
「きみにまた会えて嬉しいな。セルネーゼさんの婚約者がきみだったってのはすごく驚いているけど」
「ぼ、僕も嬉しいです! シオンさんとはもっとちゃんと話してみたいって思ってましたし……そ、その、僕なんかの護衛をさせることになってしまって、ごめんなさい」
「そんなに大層なものじゃないんだけど……あらためて、よろしくね」
「はい!」
 こんな形で再会することになるなんて思ってもみなかったけれど、会えたことは素直に嬉しかった。シオンと二匹で話せる機会なんて訪れることはないと思っていたから。
「ライズったら、随分とシオンさんのことが気に入っているのですね」
 シオンとの再会に心躍らせていたら、セルネーゼに妙に刺々しい反応をされた。シオンとライズは男同士なのに。
 やっぱり、ライズの心はセルネーゼに見透かされているのだろうか。
「セルネーゼさん、そろそろ行かないと……リカルディ様がお待ちですよ。セルネーゼさんにしては遅いって、ちょっとご機嫌斜めだったから、急いだ方がいいかも……」
「……シオンさん。ライズのことはくれぐれもよろしくお願いしますわ。ただし、学園に送り届けたらすぐに帰ってきなさい。いいですわね?」
「はい。セルネーゼさんの大切な婚約者ですから、もちろんしっかりお護りしますよ」
 シオンは鈍感なのか、わざとスルーしているのか、セルネーゼの棘をものともせずに答えた。
「それでは、ライズ……しばしのお別れですが……あなたの誓いは、しっかり聞き届けましたからね。また会いましょう」
「はい……セルネーゼさんのためなら僕、学園を抜け出してだって会いに来ますから!」
「ふふっ。そう言ってくれるのは嬉しいですが、危険を冒してほしくはありませんわ。自分を大事になさい」
 黒塔へ入ってゆくセルネーゼは、冷静で優雅な、普段通りの彼女だった。しばしの別れ、と言った通り、また日常へ帰ってゆくのだろう。彼女と過ごしたひとときは、本当に子供の頃に戻ったような、夢みたいな時間だった。まだ将来結婚する実感は湧かないけれど。
「うふふふ。レッスンして差し上げた甲斐があったようですねっ」
 突然の背後からの声。と同時に――
「わ、ぁあっ!」
 体が浮き上がった。抱き上げられたと気づいたときには、紅い瞳が目の前に。
「お久しぶりですね。覚えていますか? わたしのこと」
「えっと……」
 サーナイト。山脈より東の&ruby(フォルム){形};だ。たしか、どこかで。
「もう……孔雀さんったら、どこにいたの?」
「お姉ちゃんは、シオンくんを守るためにいつも側にいるわよ?」
「ちょっ、外ではお姉ちゃんはやめようって言ったでしょ。ライズくんもいるのに……」
 思い出した。話したことはないけれど、学園祭でシオンと一緒にいたサーナイトだ。名前はクジャクというらしい。
「あの、突然抱き上げないでください……ていうか、降ろして」
 彼女が誰であろうと、だ。親しくもない、ほぼ初対面の異性への振る舞いとしては非常識すぎる。
「あら、抱っこはお嫌でしたか? うーん……抱擁ポケモンとしての尊厳を傷つけられてしまいましたね」
「僕の尊厳は無視ですか?」
「可愛いですねえ……出会った頃のシオンくんを思い出します」
「だからあの」
 だめだ。マイペースすぎて、聞く耳を持ってくれない。
「孔雀さん、ライズくん嫌がってるよ……下ろしてあげて」
「はあ。主の命令とあらば仕方ありませんね」
 シオンの一声で助かった。孔雀はその非常識さとは裏腹に、優しくライズを地面に下ろしてくれた。
「ありがとうございます、シオンさん……でも、この人も一緒なんですか?」
「わたしはシオンくんの世話役兼ボディーガードですから」
「そういうことなんだ……ごめんね。気がついたら一匹で外を自由に出歩けない立場になっちゃってて」
「むしろ、僕なんかがそんなひとに送っていただくなんて恐れ多いです」
「この役目は僕から希望したんだ。セルネーゼさんがどうしても朝までライズくんと一緒にいたいって希望してさ。誰かが学園に送っていかなきゃって話になって……僕も、いろいろあってセルネーゼさんの婚約者がどんな子なのか気になってたからさ。まさかライズくんだとは思わなかったけど」
「わたしはセルネーゼさんから聞いて知っていましたけどね」
「えっ? 孔雀さん知ってたの? どうして教えてくれなかったのさ」
「シオンくんの驚く顔が見たかっただけですよ」
「もう……」
 世話役というには、二匹はとても親密に見える。昨日ウェルトジェレンクで橄欖に会ったとき、シオンと関係を持ったとかなんとか言っていたけど、もしかしてこの孔雀とも。こう見えて意外とプレイボーイだったりするのか。
「とりあえず、行こっか?」
「は、はい」
「お望みでしたら、わたしが抱いて連れて行って差し上げますよ」
「望みませんよそんなこと! 自分の足で歩きますっ」
「あらあら。甘えたいお年頃でしょうに強がっちゃって」
「僕はもう十六ですからっ。甘えたくなんか……」
 言ってて悲しくなってきた。まるで心を見透かされているみたいだ。でも、断じて孔雀を相手にそんな願望を抱いたりはしていない。
「からかうのもそれくらいにしてあげて、孔雀さん」
 シオンと二匹きりで話せる機会だと思っていたから、少しがっかりした。それにしても、この孔雀というサーナイト。彼女に絶対に隙を見せてはいけないと、心に誓った。

&size(18){         ◇};

「それじゃライズくん、高等部のうちに卒業できるかもしれないんだ? それも二年生で?」
「このままうまくいけば、ですけど……」
 あのシオンとお話しながら、街を歩くなんて夢みたいな心地だ。余計なのが一匹くっついてきてるけど、シオンの立場を考えれば仕方ない。
「すごいじゃない。もしかしたら、僕より早く卒業できるかも」
「でも、僕……成績は優等生かもしれないけど、いろいろと……」
「うふふ。恋多き男の子って感じですよね。セルネーゼさんよりはずっと経験豊富なのではありませんか?」
「なっ……」
 孔雀に図星を突かれて言葉を失った。サーナイトという生き物はどうしてこんなに勘が鋭いのか。
「僕の何を知ってるというんですかっ」
 いきなり抱き上げられたことと、シオンと二匹になれないことで孔雀への心象は良くないので、つい突っかかってしまったが、これでは認めているようなものだ。
「ま、まあ僕よりはずっと健全だしいいんじゃないかな……でも、セルネーゼさんには知られない方がいいかも」
「シオンさんの悪い噂なんて全然聞かないんですけど……僕の方が健全ってどういうことですか?」
「それは……今はそうかもしれないけど、僕にもひとには言えない過去があるんだ」
「シオンくんってば今もたくさんの牝に囲まれているのにほんと揺るがないのですよねー。かえって不健全なのではありませんか? わたしでよければいくらでも」
「孔雀さんったらすぐそういうこと言うんだから……」
 孔雀のセクハラ発言に全く動じないのはさすがに長い付き合いだからか。孔雀は悪いポケモンではなさそうだが、ライズはこういうタイプがどうも苦手だ。友人のヤンレンといい、キャミィといい、あまり良い記憶がない。昨日もグラエナの女ギャングに絡まれたし。
「おい」
 人気の少ない通りに差し掛かったところだった。背後から声をかけられて振り向くと、たった今脳裏に浮かべた嫌な相手の顔がそこにあった。
「あ、あなたは……」
「昨日は世話になったねボウヤ。今日はあのグレイシアはいないみたいじゃないか」
「ん? ライズくんの知り合い?」
「ち、違います!」
 グラエナの後には昨日も一緒にいたズルズキンと、さらにカビゴン、デスカーン、ピクシーの三匹。今度は数を揃えてきたらしい。
「ゾラの姐御! もう一匹キレーなのがいるよ?」
 ピクシーがやけに嬉しそうに、グラエナの背をバシバシと叩いた。やはり正気ではなさそうな連中だ。
「僕のこと?」
 シオンはのんきに首を傾げている。危機感に欠けていると言えばそれまでだが、何か考えがあるのか。そういえば、いつの間にか孔雀の姿がない。シオンの護衛だと言っていたくせに、この非常時に行方不明だなんて、一体なんのつもりなのか。
「あんたにはあと三、四年早く会いたかったねえ。エーフィの方はてめーらの好きにしな」
 ゾラ、と呼ばれたグラエナは、四匹の仲間とともにじりじりと歩み寄ってくる。
「あたしは一度狙った獲物は諦めない性分でね。ボウヤ。一目見てあんたが気に入ったんだ。あたしのモノになってもらうよ!」
「その心意気には感心ですが……強引なのはいけませんねー」
「何っ……!?」
 どこに消えたのかと思ったら、いた。いつの間にそこにいたのか、ライズにもわからない。ごく自然に、当たり前のように、ゾラ達の中に孔雀が立っていた。
「てめえ、何モン――」
「姐御! 危ねえ!」
 グラエナが向き直る前に、カビゴンが殴りかかった。
「っと――」
 いくら孔雀がシオンの護衛を任されるほど強いとは言っても、肉弾戦では分が悪い。さすがにまずいんじゃないのか。
「うおぉっ!?」
 そう思ったのも束の間、カビゴンの巨体が、宙を待っていた。
 目で見たことが信じられない。カビゴンのメガトン級のパンチを片手で受け流したように見えたが、それだけで逆にカビゴンが飛んで行くなんて。
 ズゥウウン、と、カビゴンが地面に激突した。
 ものすごい音と揺れだった。さすがにこれには相手も怯んだのか、残りの四匹は誰も孔雀に攻撃を仕掛けようとしない。
「ふぅ……思わぬ試し打ちになっちゃいましたね」
「な、何なんだ……!? くそっ……これじゃ昨日のグレイシアの方がまだ……」
「さすがお姉ちゃん……」
 シオンは驚きもせず、穏やかな微笑みを浮かべていた。まるで日常の光景を見るかのごとく。
「シオンくんを好きにする、などとおっしゃいましたが……」
 孔雀が腰を落として、まるで格闘タイプのポケモンみたいな構えを取った。あれじゃサーナイトというより、まるっきりエルレイドだ。
「&ruby(・){弟};を好きにするというのなら、わたしの許可を得てからにしてくださいな」
「あぁん? サーナイトが何の真似だァ?」
「待て、ジヴィレ!」
 ゾラの制止を聞かず、ジヴィレ、という名らしいズルズキンが孔雀に跳びかかった。
「はっ!」
 気合一閃。ジヴィレの跳び蹴りに対し低いステップを合わせて潜り込んだ孔雀が、空中の相手を拳で打ち上げた。
「ぐっ――!」
 それだけじゃない。孔雀のつま先がカッ、と一瞬青く光って、ジャンプしてジヴィレに追いついた。突きつけた掌から、今度は桃色の光が、これまたフラッシュのように強く放たれた。
「ぎゃぁああっ――!!」
 悲鳴。錐揉みながら飛んでゆき、近くの木製の家屋に、外壁を壊しながら突っ込んだ。
「今のは、ムーンフォース……? あんな使い方をするなんて……」
「ふふ。孔雀さんはすごいんだから」
 そう言って、シオンはウィンクする。本当にすごい。セルネーゼも強いけれど、方向性のまるで違う強さだ。こんな戦い方を、技の使い方をライズは知らない。
「お前ら、ずらかるぞ! あたしらの手に負えねえ!」
 ゾラの指示に従い、デスカーンがズルズキンのジヴィレを拾い、カビゴンはどうにか無事だったらしくよろよろと起き上がって、五匹とも一目散にその場を去っていった。
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ。こういうときのためのわたしですから」
「後をつけられていること……気づいてたんですか?」
「殺気が丸分かりでしたからねー。そのくせわたしの気配には気づかないものですから。甘い相手で助かりました」
「でも……僕なんて、孔雀さんがいなくなったことも……つけられていることも、まったく気がつきませんでした」
「大丈夫ですよ。シオンくんだって気づいてなかったでしょう?」
「孔雀さんが一緒にいるから、つい安心しちゃって」
 シオンでさえライズにとっては雲の上のひとなのに、その彼が頼りにできるほど強くて、気を抜いてしまうほどのポケモンがいるとは思わなかった。
「でもあのひとたちは何だったの? ライズくんを狙ってたみたいだけど」
「実は、昨日あのひとたちに絡まれちゃって……そのときはセルネーゼさんが助けてくれたんですけど」
「ライズくん可愛いもんね……おまけにニンフィアの特性で異性が寄ってくるし、大変そう」
「可愛いだなんて、そんな……シオンさんに言われると照れちゃいます……」
 シオンに褒められて、顔から火が出そうになった。
 やばい。正気を保てない。憧れのシオンに可愛いなんて言われてしまった。
「ぼ、僕なんて、シオンさんには……敵いませんよ……シオンさんすっごく綺麗だし……ああ、もぉ……僕、何言ってるんでしょう……べ、べつに、変な意味は……や、シオンさんが綺麗だってのは嘘じゃないですけどっ」
「あ、ありがと……ちょっと落ち着いて、ライズくん?」
「おやおや?」
 孔雀がなにやら妖しげな目つきになって、ライズとシオンを交互に見た。
「な、何ですかその目はっ……僕、シオンさんをどうこうしようなんて考えてませんよ、断じて……だってそんなの、無理に決まってますし」
「うふふ。ライズくん、良いのですよ。自分に素直になっても……わたしはライズくんみたいな子、好きですからね」
 ああ。だめだ。取り繕えない。自分から墓穴を掘ってしまった。
「……ライズくんってもしかして、男の子が好きなの?」
「ま゛っ」
 孔雀が遠回しに仄めかしていたことを、シオンにド直球で言われてしまった。
「ま、待ってください……ぼ、僕は……ほら、セルネーゼさんと婚約してますし……セルネーゼさんのことは好きですし、ちゃんと女性も……」
「&ruby(・){も};ってことは、やっぱりそうなんだ」
「ああぁ……」
 知られてしまった。よりによってシオンに。憧れていた大先輩に。
「僕も孔雀さんも、そんなことくらいで偏見は持ったりしないから、大丈夫だって」
「シオンさんはそうかもしれませんけど」
「うふふふふ。妄想が止まりませんね……!」
 孔雀はついにこらえきれなくなったか、シオンとライズを左右の腕で抱き寄せた。
「この人は変なこと考えてるじゃないですか!」
「もう、孔雀さんったら! ごめんね、ライズくん……」
 シオンに謝られたけれど、でも、シオンとほっぺがくっつきそうになって、喜んでいる自分がいて。
 また自己嫌悪に陥りそうだ。キャスと最後に思い出を作って踏ん切りをつけたのに。セルネーゼと約束したばかりなのに。
 恋というよりは崇拝に近い感情かもしれないけれど、この高鳴る鼓動に嘘はつけない。
 自覚してしまった。僕は結局、この人をそういう目で見ていたんだって。


***未来の形 [#IFV1b33]

 孔雀がライズの気持ちを軽く茶化してくれたことは、気まずい空気になることを防ぐという意味では助かった。
 バレてしまったからには隠す意味もないので、初めて恋心を自覚した相手がルームメイトで親友だったこととか、その親友に恋人ができて嫉妬していたこととか、シオンに会って勇気をもらって告白したこととか。これまでのことを、シオンに話した。さすがにそのあと本当のキャスと関係を持ったことまでは言えなかったけど。
「親友に恋してしまった男の子……うーん、禁断の香りがしますねっ」
 なにやら興奮しているらしい孔雀は、この際気にしないことにした。
「ライズくんに初めて会ったとき……何か大きな悩みを抱えてるんだって感じたのは、そういうことだったんだね」
「それだけじゃないんですけどね……」
 純粋なままでいられたら、良かったのだけど。欲望に逆らえない弱さが僕の中にはある。ただ肉体の快楽に埋没していたキャミィとの関係とか。何より、本当に親友として見ている相手と、恋仲になったわけで。
 正門前に到着したとき、その相手がまさか待っているなんて思わなかった。
「おかえり、ライズ」
「え、ロッコさん……待ってたの?」
「ライズくんのお友達?」
「え、あ、はい……まあ……」
 まさか卒業までの約束で恋人になったなんて言えるはずもなく肯定したら、ロッコがわずかに目を細めた。それは親しい間柄でないと気づかないような表情の変化だった――はずなのに。
「んん? 何か訳アリみたいですねー」
 このサーナイトの目を誤魔化すことはできなかった。初めて会った相手なのに、恐ろしいほどの勘の鋭さだ。
「あ、思い出しました! あのとき鈴姉さんの前に立ちはだかったコジョンドの女の子ではありませんか!」
 そうだ。孔雀とロッコは厳密に言えば初対面ではなかった。鈴、というのはおそらく、学園祭でちょっかいをかけようとしてきたあのミミロップだろう。あのときはロッコに守られたんだ。
「孔雀と申します。あなたとお会いするのはこれが二度目ですね、ロッコさん」
「僕はシオン……って、知ってるかもしれないけど」
「どうしてシオン様がここに?」
「ライズくんの婚約者……セルネーゼさんが今日の朝からどうしても外せない仕事があってさ。僕と孔雀さんが代わりに送ってきたってわけ。今の僕は、セルネーゼさんの部下みたいなものだからね」
「ライズの婚約者の部下……?」
 遠いようで、近いのかもしれない。現にこうしてまた会えたわけだし。
「あなたはもっと遠い存在だと思っていたから、驚いた」
「大げさなんだから……僕だってほんの二年半前まで、きみたちと同じここの学生だったんだよ?」
「覚えてる。わたしが中等部一年生だった頃……あの三年前のダンスパーティは伝説になってるから。わたしたちと同じ学生だなんて思えなかった」
「あれは、フィオーナが目立ったからで……ああもう、やりにくいなぁ。僕はただの学園の先輩。そう思ってくれると嬉しいんだけど」
「フィオーナって……? やっぱりあのエネコロロ、王女様だったんだ」
「あっ」
 シオンはしまったという顔をしたけれど、あのエネコロロが王女フィオーナなのかもしれないということは、学園ではまことしやかに囁かれている。だから今更驚きはしなかった。
「今の話は聞かなかったことにしておいてくれる?」
「言いふらしたりしない。大丈夫。わたしもライズも口は堅いから」
 ライズにとっても、こんなことを誰かに話したらかえって不都合だ。シオンと会って直接話を聞いたなんて知れたら更なる注目の的になってしまう。
「ありがと。でも、これで僕をただの先輩だと思ってくれっていうのも無理な話なのかな……」
「わたしはあなたがそうしてくれというなら、そうするけど。ライズはそうもいかないみたい」
「え? 僕だってべつに……ロッコさん、どういう意味?」
 何が言いたいのかわからない。ロッコらしくない、少し棘のある言い方だった。
「ライズくんも罪作りですねー。シオンくんも相当なものだけど、きっとそれ以上に……」
「そう。自分は惚れっぽいくせに、ひとの気持ちには鈍感」
「ちょっとロッコさん!?」
 なんかよく分からないけど機嫌が悪いみたいだ。最初に友達だって言ってしまったせいか。それとも、ライズがシオンに抱いているものが単なる憧憬の感情ではないことを見抜いているのか。
「えっと……とりあえずカフェテリアでお昼でも食べない? 奢ってあげるからさ。もちろん、ロッコちゃんも一緒にね」
 ひとまずはシオンの提案で、気まずい空気になったのをごまかすことはできたけれど。
「ごめん。わたしとしたことが……感情的になりすぎた」
 ロッコを謝らせることになってしまって、ますます胸が痛い。あれだけキャスとの関係を後押ししてくれたロッコにしてみれば、怒りたくなるのは当然だ。すぐにまた他のひとを好きになってしまうなんて。
「ロッコさんが謝ることじゃないよ……悪いのは僕だし」
「そんなライズを好きになってしまったのはわたしだから、いい。忘れて」
 ロッコはライズの耳元に顔を近づけて、シオンたちに聞こえないように囁いた。
「あらあら。うふふ」
 孔雀にはばっちり見られていたが。

&size(18){         ◇};

「それじゃライズくんとロッコちゃん、けっこう長い付き合いなんだね」
「長いといっても、最初はわたしが一方的にライズを追いかけているだけだった」
 春休みであることと、少し時間が早いこともあってカフェテリアにはほとんどポケモンがいなかった。
 上級生の中にはシオンを知る者も少なくないが、今のところ誰にも気づかれてはいないみたいだ。
「でも僕、ロッコさんにはたくさん助けられたから……今では僕にとっても大事なひとになっちゃって」
「大事なひと、ね……」
「わたしは知ってる。ライズに婚約者がいることも……ライズがわたしに恋することはあり得ないってことも、全部」
 さっきシオンにも知られてしまったから、もはやこの場においては秘密でもなんでもない。本当は同性の方が好きだってこと。
「まるでシオンくんと橄欖ちゃんみたいですねー」
 向かいの席に座った孔雀の口から出てきた名前に、どきりとした。
 昨日ウェルトジェレンクで会ったあのキルリア。シオンと関係を持ってしまったという。孔雀がそれを知っているのだとしたら、ライズとロッコの間にそういう関係があることも見抜いているのかもしれない。
「おや? ライズくん、どうかなさいました?」
「いえ……実は昨日、橄欖さんにお会いしたもので。港の近くのカフェで、偶然」
「橄欖に? 最近よく出掛けていると思ってたけど、橄欖が一匹でカフェなんて意外」
「シオンくんと離されてしまいましたからねー。気晴らしも必要というものでしょう」
「そ、そうだね……」
 二匹のやり取りを見ていると、孔雀は本当に知らないのだろうか、と疑問に思ってしまう。こんなに勘が鋭そうなのに。それとも、わかった上で黙認しているのか。
「その橄欖ってひと……シオン様にとって、どんな存在?」
 しかし、似ているなんて言われたら、ロッコがシオンに尋ねたくなるのも当然だ。
「うーん……」
 シオンは少しの間、首をひねって考え込んだ。もしもライズにとってのロッコと同じなら、簡単に一言では言い表せない。もう親友なんて言葉では足りないほど、近づきすぎてしまった。
「姉のようでも、妹のようでもあって……やっぱり、家族、かな。すごく仲の良い家族っていうと、しっくりくるかも」
「……わたしも、なれるかな。ライズの家族に」
 ロッコは将来ライズの護衛になりたいと言っていたことがある。ライズの家もセルネーゼの家もヴァンジェスティほどの力はないが、もとは互いの結びつきを強めて、勢力を盛り返そうというのがこの政略結婚の目的だ。ジルベールでそれなりの地位につけば、護衛の一匹や二匹は必要になるだろう。そんなとき、ただ強いだけの護衛よりも、ロッコが側にいてくれたら、こんなに心強いことはない。
「なれるよ。僕にはロッコさんが必要だから……」
「おおっ? ライズくん、そんなこと言ってしまっていいんですかー?」
 孔雀がまた茶化してきたと思ったら、今度は少し真面目な顔をしていた。
「……どういうことですか?」
「今は似ていても、ライズくんがセルネーゼさんと結婚するとなると少々事情が違うということですよ。橄欖ちゃんもわたしも、フィオーナさまがシオンくんに出会う前から、彼女に仕えていましたから。それに、フィオーナさまは寛大なお方ですし、おまけに鈍感ですが……あのセルネーゼさんが、果たしてお許しになるでしょうか」
 マチルダ先生と再会したときのセルネーゼの姿が思い出される。マチルダがちょっとライズに言い寄ったらあんなに怒っていたし、ライズが今のマチルダとなら仲良くなれるかも、と零しただけで泣きそうになっていた。
 そんなセルネーゼがロッコを受け入れるとは到底思えない。
「……それは」
 自分自身のことだけをいうなら、きっとセルネーゼとならうまくやっていける。その確信は持てた。でも、ロッコの夢は叶わないかもしれない。
「べつに、わたしはライズが幸せならそれでいい」
「ロッコさん……」
 ロッコの言い方は少し投げやりだった。いつも正直な彼女らしくない。
「きっとうまくいくよ。だってライズくんもロッコちゃんも、お互いに離れたくないと思ってるんでしょ? セルネーゼさんがライズくんにベタ惚れなのは僕でも見て分かったし……ライズくんの気持ちを無碍にするようなひとじゃないと思う」
「一筋縄ではいかないでしょうけれど……そういう三角関係は面白そうなので、わたしも全力で応援させていただきましょう!」
 孔雀の方はあまりまともな動機ではないが、それでも人生の先輩である二匹にこう言ってもらえるのは心強い。
 もっとも、まずはライズがしっかりと自分を定めなくてはならない。シオンに惚れてしまいそうになったり、&ruby(よこしま){邪};な感情を抱いているようではセルネーゼに認めてもらうことなんてできないだろう。
「ありがとうございます」
「……期待はしないでおく」
 言葉とは裏腹に、ロッコは頬を緩めていた。ライズでなければ気づかないくらい、わずかだったけれど。


***空の向こうで [#yCkOohc]

「シオンさんにお昼奢ってもらっちゃった……こんなの学園で僕たちくらいじゃない?」
「そうかも」
 シオン達が帰ってから、ロッコと二匹、またいつものベンチに並んでいる。こうしているとセルネーゼのこともシオンのことも、学園の外のことが何もかも夢みたいだ。シオンとはもう少しゆっくり話したかったけれど、セルネーゼにもすぐに帰ってくるよう釘を刺されていたし、あまり迷惑は掛けられない。今日また会えただけで十分すぎるくらい光栄なことだ。
「それで、どうだったの。婚約者のひと」
「あのひととなら……セルネーゼさんとならうまくやっていけるかな。十年ぶりだから最初は緊張したけど、すぐに打ち解けて、子供の頃に戻ったみたいでさ……」
「そう。それは良かった」
 ロッコはしばらく黙り込んだあと、ベンチから降りて少し屈んで、ライズに視線を合わせた。
「もしもライズが少しでも嫌だと言ったら、その政略結婚をどうやって潰そうかって考えてた」
 真剣な眼差しは少し怖くもあったけれど、それはロッコが本気でライズのことを考えてくれている証だ。
「……孔雀さんの言ったこと、気にしてる?」
「ライズの婚約者は、わたしが対抗する相手じゃない。何度も言ってる。ライズの幸せが一番だって」
「僕は……」
 ――僕は、ロッコさんにいてほしいと望んでいる。
 でも、彼女の気持ちが同じだとは限らない。ロッコだって一匹のポケモンなのだから。ライズが幸せならそれでいいというのが本心だとしても、現実を直視し続けるのはきっと辛いに違いない。
「……ううん。なんでもない。ありがとう」
 それを望む資格なんて、僕にはない。幼少期の憧れのひとと再会して、この先一緒に生きていけるだけでも身に余る幸福なのだから。
 誓いは聞き届けた、と。セルネーゼは別れ際にそう言った。それは彼女がライズを十六の子供としてではなく、一匹の大人として、対等な伴侶として認めてくれたということ。元は政略結婚だったけれど、あの誓いはライズ自身の意志だ。この先どんな決断を迫られても、誓いは破れない。破ってはいけない。
「精神的に自立できてないのかな、僕って」
「依存してもいい。頼るだけ頼ってくれればいい。ライズがわたしを必要とする限り、わたしはずっとライズの側にいるから」
 ロッコの言葉は、半分自分自身に言い聞かせているようだった。二匹ともまだ、大人になりきれない心を抱えているから。
 でも、大人になることが誰にも依存しなくなるということなら、大人になんかなりたくないって思う自分もいて。
 まだ日の高い空を見上げた。
 "大人"のセルネーゼは、同じ空を見て何を思うのだろうか。

&size(18){         ◇};

 ルギアとの戦いで吹き飛んでしまった展望台の外壁。その修理はリカルディ自らが監修している。
 セルネーゼも詳しくは知らないが、外壁の材質そのものが特殊なのだという。国家機密ということらしい。
 見渡すランナベールの街。南東の海辺に、円形の広い敷地と中心に立つ白い建物が見える。
「……あんなに近くにいたのね」
 あの学園にライズがいる。これまでも何度か意識はしたけれど、実感の伴っていなかったあの頃と今とでは、景色はまるで違って見える。
「ほっほ。近くて遠い彼に想い馳せる……といったところですかな?」
「っ……!? 貴方、いつからそこにいましたの!?」
 突然隣から声がしたと思ったら、神出鬼没のドーブルの老爺、ハイアットが訳知り顔でこちらを見ていた。
「通り掛かったところ、セルネーゼ殿が珍しく空など眺めているのを見かけましてな。つい儂もそなたの麗しい姿に目を惹かれてしまいましてのう」
「他人の独り言を盗み聞きなど……悪趣味ですわ」
「――して、セルネーゼ殿が空に思い描くのは件の婚約者殿ですかな?」
「貴方が何を知るというのです! わたくしはお仕事中に&ruby(うつつ){現};を抜かしたりなどしませんわ!」
「儂はその程度で目くじらを立てたりはしませんぞ。今朝も珍しく遅刻などされておりましたし、余程その方に熱を上げていらっしゃると見えますな」
「それは……否定はしませんが」
 怒りたい気持ちもあったけれど、例え方便でもライズを悪く言うことなどできない。ハイアットはセルネーゼの答えを聞いてニンマリと笑みを浮かべたが、不思議と嫌味を感じさせないのは年の功か。
「セルネーゼ殿にそのような顔をさせる少年とは……どのようなお方なのか、儂も気になりますな」
「貴方には関係のないことですわ」
「セルネーゼ殿も自らの道を見つけてしまわれましたか。シオン様との危うい関係の行く末も気になってはおったのですがな」
「な……」
 セルネーゼとシオンの間に不適切な関係があったと指摘しているのか。確かに、孔雀に唆されてそういうことがなかったわけではないが、今になってみればはっきりと言える。シオンへの感情は、彼にライズを重ねていたことに起因すると。学生時代に一方的にライバル視していたこともあって、少し複雑な関係になってしまったけれど。もはや危ういところなどない。あってはいけない。セルネーゼ自身が決めたのだから。
「シオンさんとは何もありませんわ! 可愛い後輩ではありますが……それ以上でもそれ以下でもありません」
「ほほう。だそうですぞシオン殿」
「はひっ!?」
 気づかなかった。いつの間に戻ってきていたのか。振り向くと、シオンがぽかんとした顔で立っていた。
「……あはは。タイミング悪かったかな。あまり僕に聞かれたくない話でした?」
「べ、別に聞かれて困ることなどありませんわ! ……それより、シオンさん」
「はい?」
 朝早くに黒塔を出たのだから、リュートと往復しても昼までには帰ってこられるはずだ。時刻はすでに昼の二時を回っている。
「随分と遅かったのですね。わたくしは学園に送り届けたらすぐに帰って来るよう言ったはずですが」
「ええと……途中で変なのに絡まれたり、いろいろあって……」
 シオンの説明によれば、グラエナ率いる牝ばかりの集団に絡まれたのだという。特徴からするに昨晩の連中と同じだ。それを撃退し、セーラリュートに着く頃には昼頃になっていたので、そのままお昼を一緒に食べて帰ってきたのだとか。
 なんということか。既に一緒に食事をする仲になってしまったというのか。
「……ライズを守ってくださったのは良いですが……一緒に食事などと、そのようなこと許した覚えはありませんわよ! ライズはわたくしの婚約者なのですから……貴方のような綺麗な子が、軽率な振る舞いをされては困ります!」
「や。男同士なんだからべつに……」
「普通の男の子なら構いませんが、シオンさんは許しませんわ!」
 あのとき嫌なものを感じた。ライズがシオンに向けた視線は、まるで――
「ふぅむ。何やらまだまだ一悶着ありそうですな」
 ああ、思い出した。シオンに複雑な感情を抱いていた学生時代。あの頃の気持ちを。
 一時は好きだった相手でもあるけれど、今はっきりした。
 シオンはセルネーゼにとって、今ここにあっても、ライバルなのだと。
 ライズが本当にそうなのかはわからない。でも、直感が告げていた。シオンをライズに近づけてはいけないと。
「……渡さないわ。誰にも」
 わたしはもう二度と、ライズを――ライズの心を失いたくないから。
 もう一度、セーラリュートのある方角に目を凝らした。
 ――ライズもこっちを見ていてくれてたりして。
 年甲斐もなくそんな乙女な想像を膨らませる自分を、以前なら嫌いになったかもしれない。
 でも今は、ただ清々しい気持ちだけがあった。自分に素直になることの心地良さを、ライズが教えてくれたから。


 -Fin-


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