[[トップページ]] Written by Quetzalcoatl *桜舞う空 [#yb3d8cb9] 微かに桃色に染まった小さな一片が空を舞う。 春の到来を告げる小さな花を咲かせた木々は、一斉にその花弁を散らせていた。 それを掌へと受け、強く握り締めながら碧く何処までも碧い穹窿((弓形に見える天空、または大空、蒼穹の意))を見上げる。 遠くには積み重なった雲海が広がりを見せて、微かに移ろい逝く四季を物語る。 過ぎ去ったものにその意識を奪われ、前へ進めなくなったのは何時からか。 自由はそこに在って無く、届かぬ刻にただ感懐を抱いて一片を虚空へ投げ出せば、静かに舞い落ちる一片。 思慕の念は消えず、ふと見上げれば一陣の風を受けて一時に花吹雪が起こった。 視界を多くの花弁が覆い隠し、その先で待つ影は静かに微笑むと、共に穹窿を駆ける風になる。 在りし日に残した、後悔と、記憶を胸に―― *風の無い処 [#y127a9f0] 彼女の世界はとても狭かった。穹窿は四角い獄窓((牢獄の窓。または獄中の意。ここでは前者の意))に阻まれ、触れる事すら叶わない。 白い棺に唯々病臥((病気で床につく事))し、霞む五感を恨みさえもした。原因不明の頭痛に襲われたのは、いつの事だっただろう。 過ぎ行く光陰は意味を持たず、尚も生き地獄を味わいながらも何時か治ると言う言葉を真に受けたのは、間違いだったかもしれない。 消え去る事を受け入れざるを得ず、生きたいと願う気力さえも奪われて、人形の様に風貌は荒み続けしかなかった。 極限まで追いつめられた彼女の思考は、自由だった頃の穹窿への愛惜((愛して大切にする事、または名残惜しく思う事。ここでは後者の意))に金切り声を上げている。 翼は折れていないのに穹窿を舞う事すら与えられない。ここが獄舎((罪人を閉じ込めておく所。またはその建物、牢獄の意。ここでは病院の事))だと言うのならば彼女は囚人なのだろうか。 唐突に密室の扉が開かれ、見返った彼女の双眸((両方の瞳の意))に見慣れた姿が映る。小さく溜息を吐き彼女は主から顔を背けると小さな穹窿を呆然と眺める。 白を基調とした無機質な部屋は一定温度に保たれ、季節すら存在しない。風も無ければ自然な物は何一つ無い。 自由を奪われた日に全てを奪われて、唯々生きているだけと言う様な虚無感と喪失感に、涙も枯れてしまった。 奪われた自由を再度与えてくれると信じて、もう一年が過ぎ去っていたのだから。 「ルフト……」 「もう……来ないでって、言ったじゃない。帰って。帰ってよ!」 ふと呟かれた音は白い獄舎に虚しく響き、背を向けた彼女に非難を浴びせる訳でもなく、ただ腰に下げた紅白の球体を虚空へ投げる。 それは爆ぜる音を響かせた後、彼女の主の掌へと納まると主の手によって腰へと戻された。 モンスターボール――彼女や彼女と同じ様に高い能力を持った個体を使役する為の道具――否、拘束具。 「ルフトを頼む」 「御意に」 無骨な風貌に似合わない、澄んだ双眸は主から彼女へと順に向けられ、威圧感の欠片も無く、屈託すら存在しない微笑を湛える。 静かに近寄ると、暫く手入れのされていなかった彼女の片翼を愛おしそうに撫でると、痛んだ羽毛を一つひとつ丁寧に抜いて整える。 飛べないならと止めてしまった羽繕いを、代わりに紺色を基調として白い襟巻きをしたかのような、ドンカラスが行なう。 振り払いたくても、翼に力は入らない。丁寧で柔らかな羽繕いを受けながら、赤く染まり往く穹窿に微かに双眸を輝かせる。 「終わった。本当に飛べなくなるぞ?」 「もう、飛べないって解ってる。私だって、そこまで馬鹿じゃないよ」 「お前が諦めたら、諦めてしまったら。俺も主も何も出来ない」 彼女は釈然としない表情を、ドンカラスへと向けた。 そんな彼女を優しく抱き起こし、再度その微笑を向けながら、包み込むような響きの低音で空気を振るわせる。 「みんな、君を待ってる」 彼女はそれでも納得出来ない様子で、すぐに顔を背けてしまった。枯れた筈の雫はいつの間にか頬を伝い、溢れ出る情実((偽りのない気持ちの意))は留まる事を知らない。 いつの間にか舞い始めた白い風花((晴天に、花びらが舞うようにちらつく雪の意))は、芽吹きの候が未だ訪れていない事を物語る。 「飛べないオオスバメに、価値なんて無いじゃない。私に構わないで」 何時か種は芽吹き、やがては花開いて散るのなら、彼女は凛と咲く小さな桜花の様に、その生涯を閉じるのも悪くないと思っていた。 思う様にならぬ身体など早く脱ぎ捨ててしまいたい。それが叶わぬ願いである事を彼女は重々承知しているにも関わらず、願わずにはいられなかったのだ。 散り際になって想うのは、やはりこのドンカラスや主の事。半生を顧みて覚える不安と焦燥に心が揺らぐ。叫びたいほどの衝動が幾度と無く喉を通り抜けそうになった。 願っていいと、望んでいいと、与えられた彼女は初めて彼等の広さを知った。終生の友と言った主に、共に飛ぼうと言ったドンカラス。 些細な理由ででも嫌われたい、構わないで欲しい。それが彼女の小さな願いであり、態度の根底に燻る捻じ曲がった優しさだった。 「飛ぶ事だけが、君の価値じゃない」 思わず振り返った彼女はドンカラスが笑っている事を悟った。それは嘲笑でも自嘲でも無く、彼女に対する普段の彼だった――。 ---- 出会いは、時を遥か彼方にまで遡る。彼も彼女も、駆け出しの主に出会うまでは平凡な生活をしていた。 先に出会っていた彼が、どうしてあの人間を主としたのかは定かではない。彼女は愚かしいまでに単純だから、彼が居たから主としただけだから。 「ルフト、だってな。よろしく」 「君の呼び名は?」 「オレに勝てたら教えてやるよ!」 今にして思えば、彼なりの励ましだったのだろう。その日から彼の名を訊く為にという理由も在って、つらい事に耐えることが出来た。 進化しても彼には勝てなかった。我武者羅に攻めるのも様々な策を巡らせるのも、彼にはあっさりと返されてしまう。 口惜しいと涙を零せば彼は優しく諭し、漠然とした物をゆっくりと言葉にして伝えてくれた。 いつも見守ってくれているのだと、温かな物を感じて彼女は前を向き続けた、見続けることができた。 そう。病魔が彼女を蝕んでいると知る、その瞬間までは――。 *嵐の日 [#z8b81c54] 穏やかな春の陽光は鳴りを潜め、穹窿を裂く霹靂((神解けとも。雷の意))と木々を薙ぐ春風に一行は歩みを止めざるをえなかった。 暗雲は遥か彼方まで続き、その裂け目さえも見当たらない。名実共に荒天。 多くの場合は慈雨となる事が当然ではあるのだが、旅をする者にとって雷雨ほど行く手を阻む事はそう多くは無い。 彼女の主もまた、神の悪戯に振り回された。落胆する主に彼はそっと寄り添い、眼を閉じていた。 「晴れると思ってたんだけどなぁ」 「主は悪くない。山の機嫌は転がりやすい」 小さな岩窟で、止む事の無い嵐に肩身を寄せ合う。湿気で重くなった翼の手入れをしながら、彼は何かを考えていた。 主の手持ちにこの荒天を治める力がある者は、居ないことは無い。主にしても彼にしても、それに気付かないわけが無かった。 ルフトはそんな主と彼の考えが分からない。先へ進む事を急ぐなら、"日本晴れ"を使えば事が足りるはずなのだから。 「ねぇ。どうして、日本晴――」 「山の天気を変える事は、自然を我々の思い通りに変えることだ」 普段の優しげな眼光とは違う、殺気の様な張り詰めて刺々しい言葉と共に向けられた白けた眼光に、彼らの真意を見る。 「自然は自然のままに」 そう呟かれた言葉は果たして。彼も主も、真の意味でルフトを非難したいわけではないのだから。 程なくして小降りとなり、風も普段の穏やかさを取り戻しつつあった。 主と彼は頷き合うと、普段は決して入ることの無い空のボールへと、彼が吸い込まれる。 ルフトも同様にボールへと収納されれば、そこは穏やかな風の吹く草原で。先程までの荒天は嘘の様な気さえ起こってしまう。 収納された者が最も居心地が良いと思う空間を作り出す機構を備えていると、彼が面倒臭そうに説明してくれた。 それ以来ずっと中に入る事への抵抗感は薄れていたが、久しぶりに感じた違和感に自らの本能を見る。 湿気で重くなった羽毛に鮮明に残る雨の匂い、耳に木霊する霹靂。 五感は荒天を告げているにも関わらず、雨どころか生命の活動の痕跡すら存在しない空間は、酷く虚しかった。 「怖い――」 彼女はこの瞬間に彼が語った言い様の無い恐怖を実感した。それが幸か不幸かは、まだ誰も知らない。 光り輝く穹窿の粒子に視界を覆われれば、時は宵で。仲間達は気儘に過ぎ去る時を過ごしながら、主の指示を待っているような様子だった。 火を起こし、冷えた身体を温めると共に行うのは賄いで。手伝うのは主に付き従って久しいネイティオの役目。 トゥートゥーと独特の声を発しながら、手際良く調理していく。彼女は、ただ眺めているだけ。 「まだ、山を抜けられてないんだ」 主の発した小さな音に、皆が主の方を向いておどけてみせる。 山の厳しさは主よりも彼らの方が知っているのだから、当然の反応だった。山を越える為に独り悪戦苦闘した者を、誰が責められようか。 彼女が気付いた時には、彼は寂しそうに穹窿の眺める主の顔を見ていた。それは、何時か来る別れを悟っていたからかも知れない。 結局、平穏が永遠に続くかの様に旅人達の時間はゆっくりと流れていた。 「小さな灯火が、やがて大きなうねりとなるには一体、どれほどの犠牲を払わなければならないのか」 彼が突然口にした言葉に彼女は首を傾げた。寂しそうに穹窿へと視線を向けて瞬く灯をただ眺めている。 柔らかな春風は湿り気を帯びて、やがて来る夏の香りを何処からともなく運んでくる。 穏やかな時間が静かに忍び寄る絶望を暗示しながらも、変わらぬ速度で走っていた。 ---- 彼女は彼の真意など量れるはずもないと半ば諦めつつも、彼との思い出話に耳を傾け続けた。 あの後、仲間は急激に入れ替わって翼を持つものは彼と彼女を残して去った。 主は何かを託すように一羽一羽にメールを持たせ、そして最後に「ありがとう。元気でな」と呟いた。 残された彼と彼女。彼は仲間を纏める役を引き継いで忙しなく、彼女はまた取り残された気分を味わった。 「ねぇ……。帰らなくていいの?」 彼女は面会時間の終わりに気付き、彼に問いかけた。彼は少し残念そうな顔をすると優しく彼女を抱きしめた。 いつの間にか雪は雨に変わり、激しく地面を叩く轟音を穹窿を刳り貫く獄窓が奏でていた。 「雨は嫌い。昔を思い出すから」 彼女の語る昔とは、穹窿を自由に駆けた頃ではない。彼女が主に出会うまで、孤独に穹窿を舞った頃。 風雨に曝されても身体を寄せ合うものも居らず、そして頼る者も居なくなったあの絶望に包まれた日々。 そんな彼女を優しく抱き寄せながら「馬鹿だなぁ」と彼は呟く。相手を蔑む声色はなく、ただ優しさだけの言葉。 思い詰める思考を停止させ、空想の戦慄から柔らかな微笑みへと変える言葉。彼は何も変わっていない。 彼女は自分が変わったのだと漸く自覚した。可能性を閉ざして唯々嘆いていた己を、見つめることができたのだった。 「嵐になるって、知ってたか?」 主は知っていて置いて行ったのだと、彼は首を竦めた。何時に無く優しい彼は、彼女の冷え切った思考を溶かしていく。 彼自身がこんな暗い獄舎の密室に独り、彼女を置いて行きたくなかったと知るのは、もう少し先の話なのだが。 雷鳴を聞きながら過去を振り返り、豪雨の不協和音に笑い合った二羽。幽かに見えた光は、彼女の容態の変化によって終わりを告げた。 *空の果て [#g0939638] 現在執筆中。 ---- 更新及び加筆修正。推敲&確認不足により指摘は歓迎。 勢いに任せて書くと書ける物もあると再確認。 ---- #pcomment(コメント/桜舞う空の下で,10);