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テオナナカトル:下 の変更点


#include(第一回帰ってきた変態選手権情報窓,notitle)

このお話には特殊な表現が含まれます。
道具を使ったプレイ、雄×雄、雌×雌など。苦手な方はご注意お願いします。
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#contents
**花を買うのは偽善者? [#n0fd4c66]
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『当初のローラはシャーマンになるためと言う目的よりもむしろ日々の糧を得るために入ったのだと後から周囲に語っていたが、テオナナカトルとしての仕事をしているうちに客の喜ぶ顔を見ることがやけに気に入ったとも周囲に語っていた。まぁ、あのBキャンセルの一件ではナナやテオナナカトルの仕事への好感度が上がるのも頷ける。
 赤の他人の笑顔を喜ぶこんな気質は、酒場の仕事が大好きな俺と似たところがあるのかもしれない。
ローラは、失った父親(死んだと決まったわけではないが)の代わりに俺を心のよりどころとしている節があり、数週間居候をしていた歌姫の部屋に別れを告げて新居を得た今でも、たまに酒場にやってきては意気揚々と日々の出来事を語ってくれる。
 最近では、エーフィ特有の敏感な体毛が薬を作る際の温度管理や湿度調整に一役買っているらしく、それだけでジャネットは大助かり。若い後輩が出来てよかったと笑顔で語っている』

RIGHT:テオナナカトルの構成員、ロイの手記より。神権歴2年、6月18日
LEFT:
***

(全く、テオナナカトルのおかげで人生が良い方向へ変わって行っているじゃないか)

 日記を書きながらこの半年を振り返り、ロイはそんな事を思っていた。ローラがロイを発見できたのは、ロイが店を乗っ取ったり、酒場が有名になったおかげである。店を乗っ取れたのはテオナナカトルがくれた薬のおかげであるし、店が有名になったのはナナと歌姫のおかげだ。感謝してもしきれない事ばかりである。
 ローラの件は偶然がもたらしたにしても、それに対して漠然と恩を返したい気持ちがロイに芽生えるとともに伝説のポケモンを呼ぶ祭りと言うものに興味がわいてから、ロイはシャーマンとしての修行を少しずつ始める。修行と言っても、ナナが言った通り根気よく三日月の羽に語り掛けるというだけで、神龍信仰の信者が一日8回か12回((起床した時と眠る時。仕事がの始まりと終わりにも祈りをささげ、また食事の際にも食前と食後で祈る。&br;通常は朝に一食を行い仕事が終わって夕食を食べる二食だが、仕事の合間にもう一食食べる場合は仕事も二回行うと言う風にカウントされる。&br;睡眠1回、食事3回、仕事2回でそれぞれ終わりと始まりにお祈りをするため、計12回。&br;現在では、食事回数が3回と言う文化が根付き、12回が主流となっている))行うお祈りと変わらず、傍から見れば独り言のようなものだ。違うことと言えば、ロイは三日月の羽を首にかけたポーチに入れているため、ポーチに向かって話しかけているということか。
 最初は面倒な気がしたが、それも続けていくと日常にすりかわってい行く。ローラ、ナナ、フリージア、ジャネットなどなど、たくさんの女性たちと関係を持つ淫夢をruby(クレセリア){三日月の羽};に見せられていた日々もその修行によって終わりをつげて、じゃじゃ馬だった三日月の羽も今ではロイに穏やかな眠りを与えてくれる優れた神器となっている。

(順風満帆だが、そろそろ心配ごとも迫ってきたな……)
 心配ごととは、ユミルが店に訪れ、歌姫とナナを客寄せの踊り子や歌い手としてを雇わないかと持ちかけたあの日の話である。

***
「えぇ、そうでやんす。このまま放っておけば、教会は派閥争いによって分裂。それに合わせて教会が恐怖政治……とはちょっと違うんでやんすが、実質それに近い政策として魔女狩りを行うことが予想されやす。
 それを防ぐために……アッシらがこの地域の教会を統括するサイリル大司教その派閥の権威を地の底まで落とす。そのために、このお店を利用したいでやんす」
「なんだって……? ふざけんな……奴は過激派で知られる腐れ大司教じゃないか!? だいたい、大司教ったら教会の中でも上も上、そいつより上の奴なんて教皇くらいしかいないぞ。俺達ごときじゃ顔もまともに見れないような連中じゃないか。そんなの殺してみろ? この酒場どころか、酒場がある区画一つ丸ごと焼き討ちされるぞ? 俺の店でそんなことやるなんて冗談じゃない」
 凄むロイの前に、ユミルは純白の腕をかざして止める。
「あっしらが殺すわけじゃないでやんす……教会に殺させるでやんすよ。計画がうまくいけば、サイリルは悪魔扱い。教会は悪魔ならばアッシらが頼むまでもなく殺してくれるでやんす……さっきも言ったように、つまるところアッシらがサイリルを悪魔に仕立て上げる。そういう話でやんす」
 ロイは眉を潜めた。
「だから、無謀過ぎるだろう。下手したら、俺たちが逆に悪魔扱いだってば……一体全体どうするつもりなんだ?」
「サイリルは権力に溺れ、それを保つために魔女や貴族を敵視し、処刑することで恐怖による支配を得ているでやんす。今は、ロイさんたち世俗騎士から奪った領地を誰が統治するか? 利権の分配は如何にするか? 追われているからおとなしいでやんすが、状況が落ち着いたら……恐らくあと二年も待たずに落ち着くでやんす。その時はロイさん。サイリルは元貴族狩りを行い、あんさんは奴隷生活もしくは処刑でやんす。
 なんせ、サイリル大司教が『奴らは悪魔だ』と言ってしまえば、ほぼ最高権力の大司教に逆らえる部下はいない。民衆が異議を唱えるなんてもってのほか。
 ……けれど、フリージアが先にサイリルを悪魔だと罵ってしまえばどうでやんすかねぇ?」

「どういう状況で?」
 軽く首をかしげてロイは尋ねる。
「さっきも言った通り……サイリルは爵位を持ちながら教会に仕えない者……要するに、騎士には修道騎士と世俗騎士の2種類があるでやんしょ? その内の世俗騎士を敵視しているでやんす。イーブイはもとより、武勲を立てて貴族の株を買い爵位を貰ったものも同様に……なんせ、世俗騎士は力があるのにそれを教会のために使わないんでやんすからねぇ。ともかく、あんさんのその刺青は世俗騎士でやんしょ?」
 ロイはおずおずと頷く。
「サイリルは大司教でありながら好色家で、美しい女はモノにしなければ気が済まないでやんす。……自分の思い通りにならない女に首枷をつけて檻に押し込め、家畜同然に飼っているでやんすよ? 信用できる仲間内限定でその女性たちを好き勝手犯すパーティを開いているらしいでやんす。確かな消息筋からの情報でやんす」
「底までとは知らなかったが……やっぱりひっでぇ奴だな……」
「そのサイリル大司教は、半年後の巡礼……夏の巡礼でこの街に来て、フリージアにもてなされる予定でやんす。その際、確実にこの街、イェンガルドを歩くことになるでやんす。街を歩いている間に、万が一サイリル大司教の御眼鏡に適った女性は、まずは平和的に一夜を共にしようと誘われる」
「生臭坊主にも程があるな……」
 笑う所ではないといのに、ロイは笑ってしまった。
「平和的に誘ってくれる以上は……例えばナナが平和的に誘われている間は、ナナが誘えば勤めるお店に来てくれるでやんす。と言うか……フリージアに頼んでそういう風に誘導させる手筈でやんすね。ナナは美人でやんすから……あの手この手を使えば、『サイリル大司教にナナさんを誘わせる』事は難しいことではないでやんす。
 そうしたらこのお店に来るわけでやんすが……まぁ、さっきのナナさんがこのお店で働く事を許可するか否かのお話を了承してくれればの話でやんすがね」
「喩え話だ。了承したことを前提で話しても構わないよ」

「そうでやんすか。ではそうしやす。このお店でロイ……あんさんを見かけることになるでやんす……目障りな貴族。いや、世俗騎士の残党のあんさんを。世俗騎士のロイ、それでまず一人を殺す理由が出来たでやんす」
「うわぁ」と声を上げたロイは、これ見よがしに嫌そうな顔をした。
「そして……アッシらのリーダー……ナナさんの美貌ならば、サイリルの御眼鏡に適うと思うでやんす。そうして、どうにかして店までつれてきたら、サイリルが私を&ruby(よとぎ){夜伽};の相手に誘うでやんすよ。これも、アッシらテオナナカトルの薬や呪術道具を用いてなんとしてでもそう誘導させるでやんす」
「……あのゾロアーク。ナナが言っていた惚れ薬とかいう奴か?」
「もうちょっと上の物でやんすね。司祭以上の階級にはメロメロボディのポケモンしかなれないでやんすから、赤い糸という呪術道具を使うでやんす。ま、これについては追々説明しやす。
 そして、当然のことながらナナさんは夜伽の相手を断るでやんす。しかし……普通のお客様に誘われたならばやんわりと断る事は出来るでやんすが、流石に大司教ともなると同じ方法で断ることが出来ないでやんしょ?」
 普通に断ることが出来なくなったナナさんは……あれほど美人なリーダーでやんすが……その美人な変身を解いて本来の姿を見せるでやんす」
 本来の姿、という言葉にロイは顔をしかめる。
「ナナとか言うゾロアークのあの若い姿は本当は……イリュージョンで作った見た目だってことか? だとしたらショックだなぁ。おばさんって本人は言っていたけれど……あれも本当の姿とは限らないし」
「……一応、リーダーもあんさんの信用を得るために本当の姿をさらしておくと言っておりやした。……暗記しているので全く歪みの無い変身が出来やすが……見るでやんすか?」
「いや、本人が見せたくなったら見るよ」
 ロイがそう言ったことに対して、ユミルは安心した笑顔を見せる。

「そうでやんすか……リーダーの醜い姿を見せるのは正直気が進まなかったでやんすから、助かりやした。とにもかくにも……変身を解いたら、醜い姿。これは、プライドの高いサイリルならば耐えられない屈辱と受け取ることでやんす。無茶苦茶短気なことでも有名でやんすからねぇ……本当に、血縁とコネだけで苦労もせず人の上に立つとロクなことにならないでやんす」
「あー……耳が痛いな。俺もコネで百人長やったことあるし」
 ロイは頬を掻いて誤魔化した。
「あ、あんさんは別でやんすよぉ」
 わざとらしくかぶりを振るロイに、慌ててユミルは否定する。
「と、ともかく……耐えられない屈辱は、腐敗した思考の奴にとって殺意の発端になり得るでやんす……本当に短絡的に他人を殺すような奴でやんすからね。これで、あんさんとナナさん。二人を殺す理由が出来たでやんすね。
 さらにもう一人……フリージアさんやその親はこの街の教会の一番のお偉いさんでやんすから、巡礼に訪れたサイリル大司教をもてなす役目がありやすのは、さっきも言ったとおり。
 フリージアは、サイリルと敵対しているクラウス司教派の司祭。派閥だけを見ればサイリルとは相容れない関係にあるんでやんす。今はまだどちらの派閥も静観している時期でやんすが、貴族から奪った領地の権利関係がひと段落付いたら、フリージアたちは必ず障害になるでやんすよ。
 なんせ、クラウスはサイリルの権力をいつ脅かすかもわからない身分でやんす。権力争いの上では眼の上のたんこぶのような存在でやんすから、最リスは少しでも負担を……サイリルの味方を減らしておく必要があるでやんす。これで、この酒場にサイリル大司教の目の敵が三人集まりやした……」
「集まったとして、そこから先……俺の酒場でなにをどうすればいいんだ?」

「お店に毒をまくでやんす……が、その毒の解毒剤をサイリル大司教の料理に混ぜるでやんす。そして、解毒剤を混ぜるのはロイさん……あんさんでやんす」
「つまるところ、サイリル大司教を毒を撒いた犯人に仕立て上げるわけか」
 えぇ、とユミルは頷いて続ける。ロイの飲み込みが早い事を感心しているような、何処か感心するような笑顔を見せていた。
「その毒、歌姫の癒しの鈴で回復させるので命の心配はほとんどないでやんすよ。それによって、客と従業員の命の危機が去った所で……とどめに、フリージアが罵るんでやんす。『悪魔め!!』と。そしてあんさんやナナ、歌姫もそれに追従して同じことを叫ぶ。……大まかな作戦はここまででやんす。何か質問は?」
 ロイは考える。
「すばらしい筋書きだが……それ、そんなに上手くいくのか?」
「正直なところ、わからないでやんすよ。失敗したら最悪酷い拷問にあって死亡でやんすし……だから、あっしとジャネットにはこの件には一切絡ませないようにリーダーから言われているでやんす。あっしらが居なくなったら、本当に黒白神教の教え……テオナナカトルは絶えてしまうでやんすから……」
 溜め息をつき、苦虫をかみつぶしたような表情でユミルは続ける。
「この巡礼には、奪われた聖地の一部を取り戻すために近隣諸国の王や有力な領主や有力な修道騎士も参加するでやんすよ。そんなお偉いさんが参加するこの聖地巡礼の旅に、悪魔呼ばわりされた大司教が先導するなんて、巡礼に参加した諸王の顔すら潰しかねないでやんす……
 で、やんすから、もしそうなったときは落とし前をつけるためにもサイリルを始末……処刑しなければならないでやんすよ」
「教会の内部の事は流石によくわからんが……確かにそうなればサイリル大司教とやらの派閥が権威が地に落ちる……ってのはよくわかる。今回の巡礼の神龍信仰にとっての重要さも理解しているつもりだ」
「で、やんすから……『悪魔め』と、罵ってしまえばあとは難しくないと思いやす……問題は罵れる状況までどう持ち込むかでやんすが……その大まかな作戦はさっき言った通りでやんす。
 考えても見てくれでやんす。店の外にも聞こえるくらいの大声で、悪魔め!! と叫ぶでやんすよ? 客と通行人全員に口止めをするのと、サイリル一人に責任を押し付けるのはどっちが容易いでやんすかねぇ」

「なるほど……な。サイリル大司教……か。直接の恨みはないけれど、俺たちブイズに幸福を許さなかった……のはまだいいとして、わざわざ絞首刑にして糞尿たらした死体を蛆虫が食い尽くすまで晒した奴だとは聞いたよ。……ひどいやつだよな」
 ロイは冗談めかした口調で言う。表情一つ崩さず、ユミルはただ笑いもしなければ口出しもしない。沈黙、それでロイの説得にかかった。
「……『そうでやんすね』とか、『そんな言葉じゃ済まされないでやんす』とか、そういう言葉も無しかよ。だんまりか……いいや、もしその仕事を請けなければどうなると言うんだい?」
「何もしないでやんすよ」
 ユミルは笑う。何かを企んでいるとかそういった感じでもなく、純粋な笑顔である。
「臆病者と罵って毒殺するとでも思うでやんすか? リーバー君を人質にとってやれと脅すとでも思うでやんすか? そう言う事はしないでやんす……やんすが、けれど……」
「あぁ、『けれど』?」
 ユミルはゆっくり頷いて、『聞く準備は出来たか?』と目の動きでロイにたずねる。ロイは、『準備OK』と無言で返した。
「……断るんだったら、出来るだけ早くこの街から逃げる用意はしておくでやんすよ。アッシらも、ロイさん無しで作戦を行うためのプランぐらいありやすから、そっちに賭けるでやんす。至善の策が駄目なら次善の策をとるまで……と言う事で。で、やんすから……本当に無理に『やれ』とは言わないんでやんすよ。ここで、ゆっくり酒場を経営しながら静観していたって構いやせん。
 で、やんすが。もし失敗した時は、2年以内……出来れば1年以内に。少なくともこの領地から逃げるでやんす。大小あわせて万を越える領地の分配が終わって教会の内部が落ち着けば、聖地奪還云々とは別の争いがこの国の内部で始まりやす。さっきも言った通り、サイリル大司教は腐敗した教会の象徴みたいなやつでやんす。で、やんすから派閥争いも起こりやすい……。そうして派閥争いになって権力が危うくなった時は」
「魔女狩り……かよ」
「ぇぇ、権力が安定している時は魔女狩りは行われないでやんす。でやんすが、教会で派閥争いが始まれば権力は必ず揺らいでゆくでやんす。そして、権力が揺らげば……示威行為や抗戦の意思を見せるためにも……」
「魔女狩りをせざるを得ないという事か」
 うん、とユミルが頷いた。

「以前にダトゥーマ帝国周辺で魔女狩りがどうして起こったか知っているでやんすか?」
「あぁ、知っているよ……教会の腐敗に対抗してプロテスタント((『抗議する者』の意。特定の宗派をさす用語ではない))が台頭してきたんだろう? そのせいで『プロテスタントを悪魔の手先だという事にしよう』と、カトリック派((『普遍』の意。公同、普公とも訳される))の奴が考えたことで、プロテスタントもそれに対抗して『俺は魔女狩り・悪間狩りしているから悪魔じゃないよ!!』って言うために大々的な魔女狩りを行った」
「腐敗した教会の象徴とプロテスタントがぶつかれば……」
「俺のような落ちぶれた世俗騎士は真っ先にその標的になるという事か」
 ユミルが頷く。
「えぇ……と言うか、そうせざるを得ないような事を言っていたでやんすよ。その時、あんさんがサイリル大司教のいる領地というか……本当はこの国自体にいるのが危なすぎるでやんすよ。教会内で分裂が起こるという話はフリージアだけじゃなく、修道女および修道士複数からの情報でやんすから……それへの対抗策に各派閥がどう出るかはわかりやせんが……もし、ダトゥーマの二の舞になってしまったらと言う事を考えると……」
「なるほど……その状況を、サイリル司教一人殺すことで覆せると?」
 ユミルは首を振って否定した。
「ただ殺した所では無駄でやんすね……。首がすげ変わるだけでやんすし。だからこそ、悪魔扱いさせるという最も奴らサイリル派のメンツをつぶす方法で始末するでやんす。サイリルらカトリック派を民からの信用も教会内での地位も地の底まで落とすでやんす。プロテスタントの代表格であるクラウス司教を……大司教に押し上げるにはそれしかありやせん。
 クラウス司教が大司教になれば、『派閥が分裂しようが好きにしなさい』というくらいの寛容な体勢にも出来るでやんす……まぁ、流石にそこまで簡単ではないでやんすが、サイリルがトップの状態で派閥争いが起きるよりかは……」

「まし、ってわけか」
 ロイの言葉にユミルが頷いて肯定すると、二人はしばらく押し黙る。気まずい沈黙の中、先に口を開いたのはユミルだ。
「しかし……どうしてあと半年って段階まで店に当たりをつけなかったんだ? もっと早めに作戦の舞台を用意しておいた方が確実だと思うのだがな」
「神託でやんすよ。……信じられないと笑ってもいいでやんすが、この酒場の前に生えていた季節外れの雑草。それが、神託の証でやんす」
 ユミルに言われ、ロイはこの年始と言う冬の季節に生えた季節外れの青々とした雑草の存在を思い出す。
「神託……信仰心の薄い俺にそんなことをぬけぬけと言うとは……」
「神龍信仰の神託ではないでやんすから……」
 そこで言葉を切ってユミルは沈黙する。しばらくして気まずい雰囲気を打ち破るようにユミルが喋り出す。
「あんさんが手に入れたこの酒場……『暮れ風』と言う名の領地は守られるでやんすよ。でやんすから、お願いするでやんす……コレは、私たちだけの問題じゃないでやんすから」
「……考えさせてくれ」
 とはいいつつも、テオナナカトルの言うことに従った方が得な気がしてならないロイは、考えなんてほぼまとまっている。言いなりになるのが嫌なわけでもないが、話の真偽を確かめたい気持ちだけが即決しない理由であった。
 ユミルのお話の後は、ナナと歌姫が勝手に店内でパフォーマンスを始めていたので、断るに断れない状況となっていたというオチがあったわけだが。

 その日のロイの手記にはこう書かれている。
『教会の派閥争いを収めるためには、今の所俺達が暮らすミリュー湖周辺を統括しているサイリル大司教と、その派閥を完膚なきまでに叩きのめさなければいけない。
 ……だからと言って、サイリル派に対する大規模な暗殺なんて方法が出来るわけもなく、だからトップであるサイリルを悪魔に仕立て上げて殺すことでサイリルの派閥の地位をとことん貶めるしかない。それをやるのが俺達というわけか。サイリル蹴落とさなければ、派閥争いが必ずと言っていい確率で起き、派閥争いが起きればかつてのダトゥーマ帝国のように大規模な魔女狩りが起きる確率は否定できない。
 魔女狩りとなれば、没落した世俗騎士である俺の立場は非常に危ない……だから、サイリルを殺すのを協力しろというのは正直唐突な話だったが、信用出来る気になってしまう。テオナナカトル……不思議な奴らだ。
 だからこそ、ナナ達を何も言わずに店でパフォーマンスさせるあの強引さは少し頂けなかったな。もう少しスマートに頼めないものだろうか?』

***

 とにもかくにも、その神龍信仰の巡礼者が来る日は刻々と迫っている。歌劇をやるわけでもないので練習らしい練習は出来ず、出来るのはイメージトレーニングのみ。
 最近のロイは、何よりもサイリルの殺害の事ばかりを心配してていた。

 そんな初夏の昼下がり、仕入れの仕事が早めに終わり、仕入れた商品はリーバーが現在運んでいるはずだ。きつくなり始めた日差しは、道行く物の体を全力で温めにかかる。ただでさえそれで暑いというのに、ブラッキーの漆黒の体毛は堪え切れない熱量を吸収する。
 歩くだけで体力が奪われ、日中は体温を下げようと常に舌を出し続け息を荒げる始末だ。反面、リーバーは最近になって朝早くから日向ぼっこに精を出しているらしく、何も食べないでもお腹が空かないほどだ。
 仕入れた水や食料を運ぼうと意気揚々に申し出たのもあり余った体力が要因と考えて間違いない。まぁ、反面冬は外に出たがらないのだが。
 リーバーは一人で先に行ってしまい、店の準備は任せろと頼もしい声をロイに向ける。そうして余った時間、ロイは久しぶりに街をふらついてみてみたくなり、ホームレス時代に北風を凌いだ路地裏やゴミを漁ったゴミ捨て場など、今となっては思い出となってしまった場所に向かっていた。

 ただなんとなく前から後ろへ流れていく街並みを抜ける間、ロイは暑さを紛らわそうと物思いにふけり始める。
 ユミルに半年後と言われてから3ヶ月、短いような気もするし長いような気もした。例えば、何もない日々はあっという間に過ぎるけれど、この数カ月は本当に色々な事があったような気がする。その『色々』の印象ばかりが月日を長く感じさせてくれたのが、長いような気にさせる要因なのだろう。
 指折り数えてみても、シドを殺したり、リーバーがナナに(性的な意味で)襲われたり、ローラがこの街に来たり、ユミルとジャネットが盗賊団を完膚なきまでに叩きのめしたりと、ビークインを救済したり、本当に大きなイベントは5つしかない。
 一つ一つのイベントがどれだけ印象深いかを伺わせる。

 そして、何もない日々と言っても細かく言えば悩み事が募って行く日々であった。テオナナカトルは、フリージアの息がかかっているため、相変わらず非合法の薬(といっても、麻薬のように有害なものは取り扱っていないが)を売り捌いては小銭を稼ぎ、たまに蜜と乳の香りがする香油やBeeキャンセルを売り捌いては大金を稼いでいるらしい。
 これまで確認できた限りでは、自分やレシラムの逆鱗も含めて殺しの依頼も三つほど受けている。それはロイの時や、ジャネットやユミルが行商の子供の敵打ちをした時と同様、そうされても仕方がない奴らだったので黙殺してはいたが、少なからずローラの手が血に染まっているかと思うと少々気が気でない。
 それをローラに問いただせば、本人曰く悪党を倒すとスカッとするとの事。コーヒーよりもタバコよりも魅力的な娯楽なのだという。その悪党と言うのもユミルを中心とした調査によって何度か悪事の証拠を押さえたり、&ruby(テオナナカトル){自白強要罪};状況を聞いて取り決められているのだから、一応は大丈夫と信用出来るのだが。
 他にもフリージンガメンとやらの神託もあるし、ロイの依頼を受けた時も前もってターゲットとなるシドの噂を酒場の従業員から伺っていたらしい。ならば、ローラも善人や一般市民の血で牙を汚す事もないだろう――と、ロイはなんとか信じたかった。
(心配しても仕方がないことかもしれないな……それに、俺も同じ穴のムジナなのだしな。殺しをした者が殺しはダメだなんて、説得力に欠ける)

 自分とて、戦争で3人殺したのだ。その後、現地にて行われる盛大な略奪祭りには名誉の負傷と悪夢が原因で参加出来なかったが、たった三人を殺しただけで、その後しばらく悪夢を見続けた日々を思えば略奪に参加できなかった事は幸福なことだったのかもしれない。
 なんせ、戦友と呼べる者達は命乞いする子供を強姦した挙句に殺したり、やせ細った子連れの女性から僅かばかりの銅貨を奪って殺したりと、散々な狼藉を働いてきたのだ。黒い眼差しで逃げられないようにしてから甚振るような悪趣味なことも平然と行われたのだとか。
 その光景を目の当たりにしたら、悪夢と食欲不振で死んでいたかもしれないし、スラムで燻ぶっていた時も流石に不健康すぎる見た目でサラさんにも拾ってもらえなかったかもしれない。
 しかし、自分は悪夢にとことん縁があるようだ。ようやく悪夢が治まった後も、波乱万丈な人生は散り散りになった家族が殺される夢。これはホームレス時代に見たものだ。そして酒場に雇ってくれた女主人のサラさんが死んでからは、シドに強姦されるようになり、悪夢の内容も蠢く触手に強姦される夢へとその趣を変えた。テオナナカトルと出会ってからようやく悪夢を見なくなったと思ったら、ナナがくれた三日月の羽に淫夢を見せられる始末だった。
 しかし、重要なのは悪夢に縁があるということではない。家族が殺される夢や強姦される夢はともかくとして、殺しによって生じた悪夢は罪の意識……言ってしまえば&ruby(やま){疾};しさが生み出したものだ。シドを殺しても僅かな罪悪感しか襲ってこず、悪夢も見るには見たが、詳しい内容を覚えていない程度の軽いもの。心の奥底で罪の意識をほとんど感じていないという点で、やっぱり自分もなんだかんだ言って殺しを正当化する癖があるのだと感じてしまう。

 ロイは自分が解せないが、それ以上に解せないのはローラや自分と全く違う存在のほうが解せなかった。
 敵の民族に殺戮と略奪と凌辱をしても悪夢を見なかった者達は、一様に敵国のポケモンをポケモン扱いしていない節がある。もしかしなくても、サイリル大司教と言う輩はそういう奴なのだろう。罪の意識が無いのならば悪夢など見ないのだ。
 目の前で虫がじたばたともがいている。それを殺して楽にしてあげるのが正しい事なのか、それとも最後まで生かしてあげるのが正しい事なのか、それは分からない。けれど、虫がもがく状態を楽しむ者がいる、と言うのがロイには解せない。
 そう言う奴に比べれば自分はまともだ――と言ってしまうのはとても楽な解決法。しかし、言い換えれば五十歩百歩である。なんとか自分を正義にしたいロイには悩ましい事実であった。
(親父は……あの立派な親父はどんな風に考えながら戦っていたんだろうな?)
 物思いにふけりながらロイは歩いた。
「着いたか……」
 ロイはなんとなく行きたくなった場所にたどり着いて、物想いにふけっていた思考を中断する。

 ここは相変わらずベトベトンやマタドガスがたむろしている。
 風景も自分がいた頃とあまり変わりもなく、今でもかつての自分と似たような境遇の者が道の隅っこや広場の隅っこに立てられたボロ布とか細い柱だけで作られた掘っ立て小屋でくすぶっている。毛色の良いロイからお金を恵んでもらおうと物乞いの声が響くが、どうするべきだろうか。一度与えてしまえばきりがないし、中途半端にあげてしまえば争奪戦が起こってしまう。
 自分も同じ状況に陥った事はある。森を開墾したくても、そこは領主の狩り場であったり共同利用の入会地であったりという理由で、田畑を広げることも出来なければ物乞いに走りたくもなる。それでもロイは物乞いに頼ることなくゴミを漁ってでも生活しようとしたのだから、まとわり付いてくるものたちと自分の事情が違うと言えばそうだった。
(働かざる者食うべからずだな)
 &ruby(うしろがみ){尻尾};を引かれる思いで、ロイは立ちさる。食い扶ちが無いからと言って、それに甘んじている者に金をやる義務はないだろう。ゴミ漁りをしてもダメそうならば助けてやってもいいかもしれないが、ここでダレているだけの怠惰な者にはそれも必要無いと、割り切るしかなかった。

 読み書きや四則演算が出来るという理由で奇跡的に自分が抜け出す事が出来た地獄のような生活を見ると、感慨深くなる半面、気分も重くなってきた。
(帰ろう。ここにいても俺には何も出来ない。思い出に浸ってなんになると言うのだ……)
 酒場で働くことも、酒場に来る客も、『生活が辛い』などといいながらここに比べれば随分楽な生活をしている事を改めて感じる事が出来る。何せここは生きる希望に極めて乏しい。神龍信仰の言う『神龍信仰に非ずは人に非ず』という勝手な正義感は何かと腹が立っていて、神の愛を謡っておいて聖地で虐殺と略奪を繰り返す神龍信仰など、馬鹿馬鹿しい――とロイは思っていたが、ここに住む者達が救いを求めてそういった道……聖地巡礼という名の虐殺と略奪の旅へと書きたてられるのも納得できる気がした。
 何せ、異国の地を奪い取れば蜜と乳の河が流れる土地まで行けると銘打っているのだから、行ってみたくもなる。その謳い文句に縋りつきたい気分になる。

 サイリル大司教がここの街に訪問した暁には、聖地巡礼・兼聖地争奪戦の有志を募るのであろう。神龍のために戦えば、神に与えられた権限に従って教皇がその罪を赦すという餌をぶら下げて。なんせ、神龍信仰では『ポケモンに生まれたことそのもの』が罪なのだ……そうして、ポケモンに生まれてしまった罪すらも、戦うことで魂の救済に繋がるというのなら、戦いとは何とも魅力的なことではないか。
 そして、巡礼と共に移住する事が出来ればその場所に『蜜と乳の流れる河』という希望がある。それは嘘のようなもので、本当のところは絶望しか持ちえない場所かもしれないが。
 ともかく、サイリル大司教をこの街で殺すというのはここまで歩いてきた巡礼者。神龍軍たちの希望を潰すことにはならないのだろうか。ここで神龍軍が消滅することはこの街で何か悪い事を起こす要因になりえないだろうか?
 この街が犠牲になると言うのならば、聖地までの道のりに生きる異教徒たちの事を思えば逆にプラスなのかもしれない。黒白神教よりも遥かに信者が多い宗教の生き残りは、未だに虐殺や略奪の危機に晒されているのだ。神龍軍を消滅させたとあればテオナナカトルは英雄にさえ見えるだろう。
 結局、誰もが満足できる世界などありはしないのだ。この街の誰が居なくなっても街は回り続けるし、きっとサイリル大司教とやらがいなくなろうとも神龍軍は歩みを止めないのであろう。

 むなしくなって、ロイは溜め息をついた。むなしさを振り切るようにロイが早足で歩き始めると、所々ガタがきているに違いない古びた荷車を引いて、花を売り歩くブイゼルの少年の姿が見えた。
 このスラム街の新入りなのか、もしくは元からここにいた子が一念発起してそんな商売を始めたのかは定かではないがどうにも気になった。
「はい、いらっしゃいませ」
 子供と言う事もあり、元気いっぱいな声は聞いていて悪い気分はしなかった。元気よく客を迎える少年の目はきらきらと輝いていて、見ているとすがすがしい。


 ロイは勧められた花を5本買って帰った。パン1個買うのに5本は売らなければいけない計算だから、これだけで丁度パンが1個買える計算になる。
 元手との差額を考える必要は恐らく無かった。恐らくは街から数キロ程離れた所にある水場に生えた草花を切り取っただけのものであるから、実質ただの乞食と相違は無い。
 ロイは『暮れ風』にの窓際に飾る予定で花を買い、それが終わったら店の掃除でもしようかと思いながら店の裏口の戸をあけた。
「こんにちは。今日もおいしい料理をお願いしますね」
「あぁ、ロイさん。今日はナナさん来ているよ」
 すでに料理の準備をしているフリアおばさんの横を通り過ぎようとした時、笑顔ながらに彼女が口にした何気ない一言。一体何の用だろうと、厨房を出て客席に行くと思わず失笑をもらすような状況が広がっていた。
「こんにちは……」
 思わずロイは間の抜けた挨拶をしてしまう。なぜって、ナナが手に持っていたのが……
「お帰りなさい兄さん」
「あらこんにちはって、ロイそれ……私が買ってきたのと同じ花」
 掃除をするリーバーの横で、花をなるべくきれいに見せようと四苦八苦するナナ。それが、ナナの言葉どおりで二人は思わず笑ってしまった。
「仲いーねー……二人とも」
「まぁね」
 ニヤ付いた顔を見せて冷やかすリーバーを華麗にウインクで返してナナは黙らせた。
「やだもう、花瓶二つもあったっけ、このお店?」
 リーバーのこれ以上の冷やかしを阻止したナナはロイに色っぽい目をやる。
「ほんとは食器だけれど……ガラス製の杯でも使う? あんまり見栄えしないかもしれないけれどさ……」
 ロイが尋ねると、ナナは意外な反応を見せる。
「あら、紺色のあの杯よね? あの杯だったこの花に合うと思うわよ?」
 ナナはロイにとって意外な答えを出した。
「ん……? あぁ、そうだね。あの杯ならこの花も見栄えするかも。それじゃ、そうしてみよう」
 違う杯を想定していたらしいロイは、ナナの提案を受け入れる。
「ポカーン……」
 すっかり除け者にされているリーバーは、わざわざ口に出してまでそれをアピールして、それは二人に気が付かれなかった。


 店が終わると、ロイとナナはどちらともなく酒を飲みに誘いあった。
「まさか、同じお店から同じ花を買うなんてね。リーバー君に冷やかされちゃうのも仕方がないわ」
 最初の話題はやはりと言うべきかこれであった。
「うん、なんと言うか偶然だよね」
 ロイがそこで言葉を切ると、ナナはゆっくりと頷いて葡萄酒を口に含み、その香りを楽しんだ。
「貴方は……どんな気分であの花を買ったの? 私は、なんていうかさ……踊り子をやり始めたときは本当に客なんて全くいなくって、1日1個パン買えるかどうかだったわ……そんな時代の事を思い出しながら、興味本位で買ったわ。
 なんというか、あの初々しさがね……私に似ていたのよ。元々踊り子も酒場の女性の見よう見まねで始めたものでさ。その頃はゾロアだったらから、自分の姿を偽って……というか丸ごと幻影で踊っていたふうに見せていたわね。その踊りも、オリジナルに比べると劣化だったから……ゾロアークに進化するまで苦労したものよ。
 それでも、たまに私にお金を落としてくれる人が居たのよね……確かグラエナの女性でね……所々に傷を作っていたみたいだけれど、家庭に問題あったのかしらね?」
 ナナの言っている事が一瞬分からなくて、ロイは口ごもる。
「この酒場の元店主……サラさんだぞ、それ。多分」
「え……」
 ナナの声は、今まで付き合って来て一番の間の抜けた声だったかもしれない。どちらも、互いの言っている事が分からないようだ。
「恋のキューピッドってのは居るもんだな。きっと、俺達を引き合わせてくれたんだよ……サラさんは」
「ねぇ、恋のキューピッドって……」
「それでさ、お前からの質問」
 ナナの質問には答えることなく、ロイは再び喋り出した

「どんな気分で花を買ったかっていうお話なんだけれどさ……なんとなく、なんだよな。もっときれいな花は街にいけば売っているのに……いや、確かに値段は安いんだけれどさ。いい事をしていい気分になりたかったんじゃないのかな? 結局、あんなのその場しのぎにしかならないんだけれどね。これじゃ偽善者だな……
 いや、リーバーと始めてであったときの事を思い出したよ。なんだか愛らしくって、守ってやりたくなるっていうかさ……神龍信仰じゃ、全ての者を平等に愛しなさいなんていうけれど、やっぱり神の愛なんて無理なことだよな」
「大丈夫よ。神の愛は、『神の』愛なのよ。打算なきその愛は、『ありがとう』の言葉すら欲してはいけない。食料を恵んだら唾吐きで返されても怒ることもなく、それを受け入れなければいけない。そんなの、神でしか出来やしないもの。あなた、食料を与えたのに唾を吐かれても『この子が飢えをしのげたならそれで満足だ』って言える?」
「無茶言うな。それが神の愛って言うんなら、神は全員変態か?」
 ナナの意地悪な質問に、ロイは肩をすくめて答えた。

「そうよね。だから私たちは等身大の愛をささげればいいの。道行く子供に、愛する家族に、大切な友人に、親しい異性に。背伸びして『あそこのスラムにいる奴らを全員救いたい』だなんて思い上がった台詞は、貴方が神になってから言いなさい。もしくは、神になろうと決めてからね。
 偽善者でいいのよ……偽善でも長く続けていれば、それもいつの間にか日常になって行くから」
「そうするよ……俺は、神にはなれそうもないし……それともさ、シャーマンやっていれば神にもなれるのかな?」
「神になれるものもあるけれど……それ、完成するのに最低でも10000年以上かかる神器の完成が条件だから……生きているうちに日の目を見る事は無いんじゃないかな? ただし、完成すれば世界を救うどころか、もう一つの世界が作られるとすらいわれる代物よ」
「へぇ、どんな代物?」
「真珠が埋め込まれた青銅の板の上に3本のダイヤモンドの柱と円錐状に積み上げられた大小の白金の輪。大きい輪は小さい輪の上に置いてはいけないというルールで、左端の柱に詰まれた白金の円錐を右端の柱に全て移動させるの。輪が1枚なら2-1=1回で全て移動できる。輪が2枚なら4-1=3回で移動できる。輪が三枚なら8-1-=7で移動できる。さて、輪が4枚なら?」
「……15?」
「御名答。輪が5枚なら24回……ちなみに、完成させるべき神器の輪の数は40よ。全て他の柱に移動出来たら完成……なんだけれど、40も輪があると一兆回以上動かさなきゃならないわ。長生きしなくっちゃね」
「無茶言うなよ。それはとても俺が生きられる年月じゃないって」
「そうね、おばあちゃんになっても無理よね。っていうか、貴方のせいで話が横道にそれちゃったじゃない」
 何やら気分よさげに、ナナはぶどう酒を口に含む。

「それよりもさ……等身大の愛って言えば……・」
 ナナはテーブルに肘をつきロイに体を寄せる。
「ロイ。あなた、私達の恋のキューピッドってのはどういうことかな? 何気に問題発言よねー。それは何? 貴方は私を好きなってくれているってこと?」
「えー……キューピッドってのはサラさんの事かな……好きになってくれたってので合っているよ……うん」
 ロイは照れたような恥じらうような表情、それでいて笑顔を見せる。
「いや、なんて言うかさ。初めてかな……妹以外の異性にここまで気を許したのは。……何とも言えないんだけれど、そう言う事」
「私は、そんな風に貴方を意識した事は無かったけれど……そうね、確かに貴方とは父親以外で一番よく話した男性かもしれない。……けれど、私の何が他の女性と違ったのかしら?」
「う~ん……なんて言うかさ、神龍信仰を信じる信じないにかかわらず、どこか考え方に好感が持てるって言うか。……生きている事を楽しんでいるんだなって感じが好き。真面目に生きているって感じがさ……いや、こんな言い方だと他の女性に失礼か。
 何だろう……お前は、人間が好きなんだよな。神の愛ってほどではないけれど、隣人愛は備えているというかなんというか……」
「ふむ……隣人愛ね。確かにそれはあるかもしれないわ……でも、それは貴方やローラもあるようだけれど? ユミルやジャネットだって、隣に泣いている者がいればいい顔はしないわ」
「そうだな……別に他の奴らと変わんないか。じゃあ、もう一つの理由が……お前に惹かれる原因なのかな?」
「私が『真面目に生きている』云々のお話かしら? ……真面目に生きていることに関係があるのかどうかは分からないけれど、私はこう考えているの」
「うん、何?」
 思わせぶりな口調でナナが言うと、ロイは興味深そうにナナを見つめる。
「神に祈っても、何も変わらないって思っているの。同じ事を別の人に言うとね……多分、聖職者は怒る。『そんな心掛けで祈るからいけないのだ』って言うと思う……でもね。私はね、こう思うの。例えば……何か私が死にそうな貴方を助けて、貴方に感謝されるとしましょう? その時、貴方は何と言う?」

「そりゃまぁ、『ありがとう』かな」
「うん、そうよね。でも、ね……それは言葉だけかしら? もちろん、言葉だけでも嬉しいわ……頭を深く下げてくれたら更に嬉しいわ。ただ……お金をくれとか何かくれとは言わないし、私に対して実質的な恩を返せなくてもいい。どこかで、その命を役立ててほしいって思わないかしら?
 『最高の感謝の表し方とは、言葉ではなく、それを指針として生きることだ。』って言葉があるの。『神は、祈られる事を望むか?』と尋ねれば、神は祈られる事を望むと答えるでしょう……でも、同時に神は何を望むか? 『神の愛を心に抱いて生きよ』とまでは言わないでしょうけれど……きっとね、誰かを愛して生きろってことなんだと思う。それこそが、『指針として生きること』ではないかしら?
 ……フリージアは、神に祈っても何も変わらないって言ったら首を横に振る。でもね、『祈るだけじゃ確かにきっと何も変わらない』って言ってくれたわ。食べるものを清貧にしても変わらない……そんなこと乞食だって否が応なしに出来てしまっているから。実際に聖書の1節にもそのような記述があるわ。自身を苦行に置くために断食をするわけではない……ってさ。
 祈ることも同じ。祈るだけでは、その結果に生まれるものは何もない……だから、私は祈る代わりに何かを生み出せることを、出来ることから始めてみたいと思ったの。
 祈るのは、感謝の言葉を贈るのとそう変わらない……だから、言葉だけではなく行動しなくてはいけない。だから、黒白神教は都合が良かったの……神への感謝の気持ちは、祈りよりも行動で表す事が推奨されているから。
 私は、行動することでこの世界に感謝を表すの……祈りではなく、行動することで。 そうして、私は神に感謝して神に仕える者の力を使えるようになるの……貴方が、三日月の羽で穏やかな眠りを得るように、ジャネットが紅蒼翠の宝石で天候を操るように。
 そして、祭りに神を招く事もまた……神に仕える者の力にして役目」
「それが神を呼ぶことなのか……人の不幸と幸福に触れる……」
 うん、とナナが頷く。
「……神に歌と踊りと酒と闘いを捧げる祭り。それを行うためには、人々の幸福と不幸にたくさん触れなければならない……殺しなんて汚い仕事もたくさん請け負っているけれど、これでも救った人の数の方が多いんだからね。だから、私は堂々と生きていけるの……神に目を背けることなく、胸を張ってね」
「救った人数の方が多いのは知ってる。ローラがあんなに明るい顔をしていたのは、貴族として生活していた頃には見れなかったよ」

 家にいた頃、教育役のイーサンに叱られてばかりでいつもしかめっ面だったローラを思い起こしてロイが笑う。
「それに、ビークインの件も良かったと思うし、盗賊狩りの件も俺の件も……確かに殺したっちゃあそうだけれど、救った奴は大勢いるんだよな」
「そうそう、フリージアの事を祈っているだけの役立たずみたいなこと言っちゃったけれど、彼女はは神のために祈るだけでなく、きちんと行動しているから誤解しないで。例えば、私達を教会に隠れて保護しているのも立派な仕事だと思うし……老若男女分け隔てなく病人やけが人を看護すると言う仕事も取っても立派な仕事だわ。
 フリージアがしている事は……立派な仕事なのよね。それなのにどうしてロイは私を別物と考えるわけ? フリージアで私の代用は出来ないかしら? ま、あの子は神の婚約者だから結婚できないっていうのはあるかもしれないけれど。私はシャーマンをやめようと思えばいつでもやめられるけれど、あの子は一生純潔ってのが大きいかしら?」
「違うよ……ま、確かに一生純潔なの所とか……そもそも新龍信仰自体嫌いだし、そう言う所は厳しいけれどさ。なんて言うかその……ナナは行動してるからかな。いや、フリージアも行動しているよ、そりゃ……だからフリージアも好きさ。うん、けれど……現状を打破しようって動いている感じは、ナナのほうが上かな。そういうところが好き」
「何言っているのよ、私も現状を変えるのは難しいって考えているからこそ、チマチマコソコソとやっているんじゃない」
 自分が好きである理由を否定されて、ロイは言葉に詰まる。
「単なる神龍信仰嫌いなのかもしれないな。いや、それでも……」
 言葉に詰まってようやく絞り出したのは、子供のような言い分で、
「なんとなく好きなのね?」
 畳み掛けるように図星のことをナナに言われて、ロイは再び言葉に詰まる。
「いいのよ。確かに、明確に『○○が○○だからナナじゃなきゃダメなんだ!!』って言ってくれるのは嬉しいけれど……理屈じゃ説明できないことって色々あるから」
「まぁね……好きって感情は理屈じゃないってユミルに言われたけれど、本当に理屈じゃ説明出来ないや……なんとなく、ナナが好きなんだ。……なんとなく。ごめんな……貴族にキザな言い回し学ぶ義務がなくって」
 ロイは冗談めかした口調でナナから視線を逸らし、ごまかすように葡萄酒を飲み始める。
「なんとなく……かぁ」
 ロイが葡萄酒をピチャピチャやっているうちにナナは喋り始めた。
「私が『私のどこが好き?』なんて意地悪な質問を何度も何度もするような意地悪な女じゃなくってよかったわね、ロイは。それに私もそう、私も貴方には少し惹かれている……リーバー君があなたと一緒にいると楽しそうだし、酒場で自慢話や愚痴をするお客さんもとても楽しそうだし……そういうところが好き。けれど、そんな言葉だけで説明できているのかどうか、疑問だわ」
「感情は理屈じゃないから説明できない……か」
「うん、そういうこと。私はただ、私を育んでくれたこの世界に感謝したい。ならば……私がそれを指針に何かを育まなければいけない。私はただ、そう思いながら生きているだけ……それだけの私でも、そんなに魅力的かしら? よく生きているって思うかしら? 好きになってくれる?」
 ナナが組んだ指に顎を乗せ、ロイに肩を寄せる。
「十分なってあげられるさ。それに、どうしても好きになって欲しくないなら、幻滅させればいい……例えばほら、お前の素顔を見せてくれないかな。いつかのように『こんなおばさんでいいの?』なんて茶化したりせず……まじめに」
 ロイはナナを見上げる。口をしっかりと閉じたまじめな顔で見上げられると、ナナは笑ってしまった。

「確か、私の正体はユミルが見せるって言った時に見なかったんだっけ? それで、今見せて欲しいと……困ったわね。そんな目で見られたら嘘をつけないじゃない……私、今は神子だから惚れられると真剣に困っちゃうんだけれどな。貞操守らなきゃいけないから」
 言葉の終わりを待つことなくナナは自身の髪に手を掛け、髪をまとめる珠に手を突っ込んだ。珠はまるでそこに存在しないかのようにナナの指がを受け入れ、貫通した。その様子をに驚愕しながらロイが見ていると、ナナの左手には純白の紐にガラスのように透き通る紅白・蒼白の羽を付けられた装飾品が――
(あれは、確か果樹園の雇い主に使ったのと同じ……)
『ダークライ……』
 同時に、ロイのネックポーチにある三日月の羽がせわしなく騒ぎ出した。
「やっぱりダークライの髪の毛なのか? ってことは、あれもレプリカグレイプニル……」
 ロイが呟いたまま真っ白な紐が握られたナナの左手を見ていると、左手は見る見るうちに火傷を負った醜いケロイド((火傷や切り傷の跡に出来る瘢痕組織が過剰に増殖し、隆起したもの))へと変貌してゆく。
 ナナの豊かな髪からは、珠がいつの間にかなくなって、ただの長いクセッ毛が無造作に広がっているだけになっている。髪の色もピンク色から赤の通常色へと変わっていて、あの艶やかで手を入れれば暖かそうな髪質も今となっては艶に乏しい枯れ草のようだ。
 いつの間にか右手には虫入り琥珀の首飾り、フリージンガメンも握られている……ということは、今のナナは本当にありのままの姿なのだろう。
「ダークライって……その三日月の羽から聞いたのかしら?」
「そうだけれど……その白いのは一体なんだ? 以前果樹園で使った奴とは……」
 白い紐を見ながら頷いてロイが尋ねる。

「メインの素材は同じだけれど、追加でラティアスとラティオスの羽が付いているわ。昔、私の髪の毛が燃え落ちて……その時一緒に珠が落ちてしまったから……珠がなくなるとゾロアークはイリュージョンの特性を使えない。だから、代わりに&ruby(コレ){レプリカグレイプニル};でイリュージョンの特性を発動させているの。ダークライの力は悪夢をみせるだけじゃないのよ。幻影を操ることもできるし、髪を結ぶことだって……
 って、説明したけれど……そんなことはどうでもいいでしょ? 大事なのは、私の本当の姿……どう、私の姿は? 幻滅した?」
 ナナの年は子供が2~3人いるくらいといったところであろうか。とはいえ、前に『こんなおばさんでも良ければ』と冗談めかして言ったときよりも遥かに若く見える。それに、左半身は腕から顔に掛けて火傷を負ってこそいるが、残された顔半分は変わらず美しかった。14~15くらいの印象を受けるいつもの変身姿には及ぶべくもないが、火傷さえなければ十分酒場の踊り子として通用しそうだ。
 だが、確かに顔半分は醜いと言えば醜い。確かに、ユミルが3ヶ月前に言っていたように大司教クラスのお偉いさんともなれば屈辱を感じ、逆恨みもありえない話ではないかもしれない。

「でも、綺麗じゃん……幻滅できるほど醜くなんてないじゃないか」
「そう言われると……嬉しいようなそうでもないような。だから、そんな目で見つめられると困るって言ったんだけれど。そんな眼で見られると、私貴方を好きになっちゃうじゃない……」
 ナナはうつむいてため息をついた。
「神子であるうちは恋なんてしたくなかったんだけれどね~……私のことを綺麗だなんて言われたら、惚れちゃうじゃないのよもう」
 肩をすくめて力ない笑い、いそいそと二つの装飾品をつけ直す。いつもと同じ桁外れに美しく若いナナに戻る。
「……いつごろまでには神を地上に呼びたいと思っているんだ?」
「そうね、10年以内には片をつけたいわね……だからまぁ、私をお嫁さんにしたいならそれくらいは待っていて頂戴?」
「その頃には……俺も28になってしまうな」
「私は42ね……」
「ブッ!!」
 ナナのさりげない爆弾発言にロイは噴き出した。
「ナナ、若くない? さっきの正体を見た時は25か26に見えたんだけれど……」
「琥珀は、中に入り込んだ物を太古の昔から今まで、全く形を変えることなく今へ届けるわ。そして、私たちもまたこの琥珀の中に入り込んだ虫を見て、過去に思いを馳せる……それこそ、セレビィの持つ時渡りの力。
 神々さえ魅了するこのフリージンガメンにはその時渡りの加護が込められているの……即ち老いを遅らせいつまでも他人を魅了するその力を。逆に物を成長させる力もあるのよ……いつもは草に使っているのがそれ。限界はあるけれどね……年寄りじゃダメかしら?」
「いや、むしろ嬉しいかも。俺年上好きだし」
「あら、意外な趣味ね……でも、やっぱり元気な子供を生める間に神子としての責務を終えたいし。もうちょっと頑張って神子やシャーマンの仲間を探した方がいいかしらね? サイリル大司教の心配事がなくなったら、ちょっとスピードあげられるし、いくらかシャーマン候補のあてもあるけれど。それも予定通りいくかどうか……」
 ナナはテーブルに肘をつき、遠い目で溜め息を一つ。
「予定は未定だからね」
 ナナはワイングラスを指ではじき、キンッと心地よい音を響かせる。
「まぁ、仕方ないさ。俺もシャーマンの修行とかがんばるからさ」
 ロイは力なく笑って皿につがれた葡萄酒をピチャピチャと音を立てて飲む。

「そうそう、こんなお話があるのよ。人の不幸と幸福に触れる事がシャーマンとしての力を高めることならば……きっと神子としての制約は必然的な不幸という風に意図的に組み込まれたものなんじゃないかしら?」
「歯が浮くような&ruby(キザ){気障};なセリフだな。歯無しになっちまうぞ?」
 ロイは茶化して笑う。
「これは黒白神教の神話の一説の受け売りよ……神子のシャーマンがゼクロムになぜ『神子は性交をしてはいけないのか』と問いかけた時のセリフを引用してみたの……『自分を苦境に置いてこそ、シャーマンの力は高まるのだ。神子なればより苦境に立つことが出来る』ってゼクロムは答えたわ……あー私って苦境に立っているのね。本当に子供作れる体でいられる間に終わらせたいものね」
 あー理不尽、とナナは笑う。
「とにもかくにも……神子でいる限りは、本番は無しか。今の雰囲気なら、お前が神子でもなければ襲っちゃおうかとも思ったんだけれどな。一度俺たちの手で祭りを執り行うまで神子でいるって言うんなら、俺も祭りの準備を真面目に手伝うことにする……。早いとこお前を襲えるようにね。
 手っ取り早くシャーマンの力を高める方法ってない?」
「シャーマンとして成長したいなら、神器に話しかけたり酒場で客の愚痴を聞いているだけでも十分よ。それよりも仲間を集めてくれるほうが助かるかしらね……」
 ほろ酔い気分で語るナナは葡萄酒を一気に口に含んで飲み下す。
「それよりもさ」
 ナナが甘い声でささやきながらロイに唇を重ねる。
「前にも言ったけれど本番はダメって言うのは、転じて言えば本番しなければいいって事よ? 前に『あなたに夢のような快感を与えてあげたのにぃ』みたいなことを言った時はかわされちゃったけれど。普通に貴方にめくるめく快感を与えることなら何ともないわ。本当に……むしろ、そうしてあげたいとすら思う」

 顎の付け根を軽くつかまれ、強制的に口を開けさせられる。簡単に逆らえる力加減ではあってもロイは抵抗しなかった。その口にナナは自分の舌を入れる。
 暑さを紛らわすために唾液に濡れた舌同士が絡み合い、同時にまだワインの匂いが残る吐息が直接流れ込んでくる。酒以上に悪酔いをしそうな甘ったるい匂いに、思わずロイは噎せ返った。乾いた咳が漏れたのもそう長い時間ではなく、今度のロイはゆったりとした呼吸でナナの吐息を吸い込んだ。
「危険な香りだな……媚薬みたいに酔ってしまいそうだけれど、文字通り危険ってことはないよね? 口の中に薬を仕込んでいたとかさ。さっきのセリフ……『めくるめく』って言うのがすごく引っかかるんだけれど」
「あら、まるで私が毒タイプみたいな言い草ね。ま、それもよさそうだけれど……安心して、私の息は匂いだけ。酔わせる効果なんてないから」
「でも、それはそれで残念かもな、もうちょっと酔いたかったのに」
 ロイはおどけて笑ってみせて皿に注がれた葡萄酒の処理にかかる。
「ロイがお薬を使いたいというのならばご希望に添えさせてもらうわ」
「薬は遠慮するけれど、『据え膳食わぬは男の恥だ』って親父が……言っていなかったか。あれは別の誰かだ。でもいいや、浮気しているわけでもないし……」
 ロイが再び葡萄酒の処理を再開する。ナナは待っているのも手持ち無沙汰なのか、ドポドポと水を注ぐように葡萄酒を各々のグラスや皿に注ぎ、並々と注がれたワイングラスを手に満面の笑みを浮かべる。今ナナが飲んでいるのは安い酒ではあるが、やはりこうまで豪快に飲まれると前後のセリフも相まってロイは耳をたれ下げながら苦笑いするしかなかった。

 ロイが小さなスープ皿に注がれた葡萄酒を飲み干すと、ナナもちょうど飲み終えたところのようで、渇いた木の音を響かせてテーブルの上にグラスを置いた。酒に一切酔うことのないナナでも雰囲気に酔うことはあるのか、熱に浮かされたナナの視線は定まらない。危うい眼をしながら危なげなくナナは立ち上がり、椅子に座ったままのロイの頬と顎の下をくすぐるような手つきで撫でる。
「なら、いきましょう……本番があろうとなかろうと、ここでやったら匂いが残るわ。みんなにそういうことをしたって見せ付け……いえ、嗅がせ付けたいならともかくだけれど」
「そうだね。リーバーに気が付かれない程度にやろうか……」
 言いながらロイが椅子から降りると、ナナはグラスと皿を手にして厨房へ片す。ナナが厨房から出てくるのを確認して、ロイは自分の部屋へと案内する。自分の部屋に他人を案内したのは歌姫が風邪を引いて以来だなんて考えながら、ロイはこれから行われるであろう事に心を躍らせる。
 表面ではいかにも平静を装ってこそいるものの、男としての本能は素直だ。気を抜けば、まだなにもされていないのに下半身に熱が滾ってしまいそうだ。
 じゃじゃ馬だった三日月の羽を飼いならす前の淫夢のような濃厚なものは流石に期待できないだろうが、現実でそれが行えるのは嬉しくて、初体験でもないのにいい年して舞い上がっている。
 愛してもいない者と婚約してなし崩しで行った性交は思えば疲れるばかりで、自分の舌で自身を慰めていたときのほうがよほど快感だった。そんなのに比べればテオナナカトルを服用させられ霞がかった意識の中でも、ナナの奉仕の腕前は相当なものだったのだとロイは思う。
「この部屋が俺の部屋……隣はリーバーだから、あまり音を立てないようにしよう」
 ロイがサイコキネシスでドアを開けようとする前に、ナナがドアノブに手を掛け開く。
「あら、よく片付いているじゃない」
「ナナの家ってまだ散らかっているのか? ビークインの時は色々散らばってたけれど……」
「ちょっとね」
 Bキャンセルの件で見せることになった自分のだらしない部屋に対して恥じらいはあるのか、控えめな口調でナナは目をそらす。ナナは目を逸らしたその先の視線にあるベッドに、演舞のようなゆったりとした歩みで近づき、崩れるように横になった。
 横たわった姿勢のナナは、股を擦り合わせて色っぽい目をロイに向ける。足を組み替える動きに合わせてベッドが軋む音まで魅力的に感じてしまうナナの所作は、レプリカグレイプニルの仕業か、もしくはフリージンガメンの仕業か。
 そんな事ばかりに思考が働いてしまう自分が急に恥ずかしくなり、ロイは首を振る。

「どうしたの?」
「いや、首飾りと髪留め……無い方がいいかな」
「あぁ、これ? なにかしら……これをはずしてわざわざ年上の女性を……火傷を負った女性を相手したいのかしら?」
 静かに首を振ってロイは否定する。
「正直、最初出会った日の年の取り方だったら……流石に年の差がありすぎて敬遠していたかもしれないけれどね。でも、さっきのナナが本当のナナならば……うん、俺は受け入れられる。っていうか、俺は若すぎる姿よりかは本当の姿の方が魅力的かな。そりゃ、火傷はいただけないけれどさ。
 大丈夫、農奴の女性なんて親子以上の差があっても嫁がなきゃならんのさ。これくらいの年の差なんて乗り越えられないほうが恥ってもんさ」
「ありがとう」
 ナナは目を瞑る。そのまま眠ってしまうんじゃないかと思うような安らかな笑顔を浮かべながら、これまた優雅にグレイプニルを外す。まとまっていた髪がばらけるとともに、ナナを覆っていた幻影が剥げ落ちて、醜い火傷の跡が残る正体が露になる。
「そう言ってくれて嬉しいわ……」
 確かにあれで女性としての価値は下がる。けれど、その醜さに嫌悪を抱かなかったのは決して酒の力によるものではなかったろう。ナナは自分のコンプレックスであったのだろう火傷を見られてなお受け入れてもらえたことがよほど嬉しいのか、グレイプニル無しでも潤んでいた目からは僅かにしずくが滾り落ちた。
 ロイがそれを無言で舐めとると、ナナは若い乙女のような顔で破顔する。ナナから顔を離して微笑んで見せたロイは鋭い牙を覗かせて笑うナナによって抱きしめられた。カタツムリのようなゆったりとした動作での抱きしめにロイは身を任せる。
 きっちりと火傷していないほうがロイの目に触れるよう、ナナの右半身はロイの右半身の横にあり、抱きしめられたそばからロイの首筋には彼女の吐息が触れる。二人は言葉を交わさないままにひたすら抱き合って、クソ暑い熱帯夜を更に熱く楽しむ。
 十数回にわたる深呼吸を繰り返しているうちに、ナナの右手は徐々に背中から腰へ腰から太ももへと移動して、焦らすことを楽しんでいる。太ももの表から裏へと回り込む辺りで、ロイの体に力がこもるのを筋肉の動きでナナが感じる。柄にもなく緊張したロイの態度にナナは年上の貫禄で母性本能を発揮して、可愛がりたいと欲求を募らせた。

 ナナの手がついにロイの肉棒に触れる。高ぶる劣情に応じて、すでにして普段とは一線を画する硬さを得ていたそこだが、卵を握るような弱々しい力でもロイは敏感に反応した。ナナが相当手馴れていると思っているのか、完全に身を任せる態勢のロイと主導権を握る態勢のナナ。
 話し合うこともなく役割を分けた二人は、もつれ合いながらベッドに横たわる。出会った日のように四肢が全く地面に触れることのない無防備な体制ながら、ロイが正気を保っている事は大きな違いだ。期待と挑発がこもる眼差しでナナを見上げるのは、薬で無理やり無防備にされた時にはなかったもの。
 理性を保ったままのロイは、ナナの焦らし攻撃にも本能を優先させることなく余裕を秘めた笑みでナナを見つめるばかり。
 対するナナはまだ本気を出すつもりも無いようで、妖艶な笑みをちらつかせながら横たわったロイに覆いかぶさり、口づけを交わす。ナナの口から滴り落ちる唾液を、ロイは口で受け止め自身の唾液と合わせて喉を鳴らし飲む。互いに歯並びのよい歯列をなぞって口内をまさぐりあえば、次第に体の境界線さえあいまいになる淫靡な感触を覚えて、顔の筋肉が弛緩する。
 だらしなく開けた口が湿っているのはよくあることだが、開け放たれたナナの口からはどちらのともわからない粘液が水滴となって落ちた。落下地点を自身の胸にされたロイは、生暖かい水滴の感触を感じて、さらに気分を高まらせた。
 緩んでニヤついた顔を眺めながら、ナナは再び口付けを交わす。今度は手をロイの股間に添えて、ゆっくり確実に愛撫を始める。母親にロクに構ってもらえなかった思い出のせいか年上の女性に甘えたい欲求もあって、実を言うとナナの年齢が程よく年上だったことはロイにとってはむしろ朗報だ。
 子供を愛でるような手つきで自分に快感を与えようと腐心するナナは、ロイにとってそれだけで天にも昇るような好みのシチュエーション。声に出して甘えることには抵抗があるものの年上を相手にするのはサラ以来だし、それに今度は不倫の関係でもない。
 心置きなく快感に身を任せようと脱力していると、ナナの攻撃はまずはゆったりとしたものから始まる。卵を握るような力加減で肉棒を握り締められ、思わず腰が浮く。しかし、必要以上に攻めたりしないで少しずつ焦らしてゆく。
「どう?」
 口を離したナナは、気持ち良いかしら? と挑発するようにロイへ問いかける。
「どうもこうも、まだ始まったばかりじゃないか。意地悪しないで気持ちよくしてくれよ」
 困った口調で、しかし余裕ぶった表情でロイはナナに告げる。

「意地悪だなんて、そんなの酷いわ」
「酷いかな? 手っ取り早く気持ちよくなろうなんてばかげてる?」
 ナナはおかしくて笑う。
「美味しい物は長く楽しむものなのに……でも、そんな事を言うならリクエスト通りにしてあげちゃっても良いかも。大サービスよ」
「うぁ!?」
 酒が入っているからなのか、ナナは異様な上機嫌でロイの尻を鷲づかみにして、ベッドの上を滑るように移動させた。調度、彼女の正面にロイの大事なところが見える。
「よーし、よく見える」
「はは、お手柔らかに」
 心底愉快そうなナナの顔には、想像よりも激しいことをされそうだとロイは苦笑する。

「情緒もへったくれも無いけれど、代わりに意地悪も無いわ。だから、出来るだけ可愛らしい声で鳴いて頂戴。返事は?」
「かしこまり」
 いつものリーダー口調でナナが問えば、ロイは戯けて笑ってみせる。ナナの魂胆が知れないことは怖くもあったが、それ以上に楽しみでもあった。
「じゃ、いただきます」
 前フリはそれだけ、ロイが唾を飲み込んでいる間にナナはロイの肉棒に喰らいつく。先ほどの愛撫によって肥大化し、外部に晒された雄槍は再び熱にくるまれて否が応なしに反応する。
 喰らいつかれた直後に浮き上がった腰の動きを、煩うでもなくナナはロイのしたいように任せた。
「ロイ、貴方が気持ちいと思えるように動いて」
 口に一物をくわえたまま、聴覚に働きかける幻影でロイに話しかける。
「そんな事言われたら自重しないかもよ?」
「あら、だから良いんじゃない」
 ロイが冗談めかして言ったことも、ナナはやってみろとばかりに挑発で返した。流石に本気で動くのは忍びないし、あまり遠慮なしにやり過ぎると歯が立ってしまいそうで怖い部分もある。けれど、手加減はしても遠慮はしなかった。ナナに言われたとおり、腰を突き上げてナナののどの奥にまで肉棒を突き刺す。
 口内をこすれる感触に、はじけるような快感を感じる……ナナは動じていなかった。むしろ先ほどまで静かに肉棒を咥えていたのに、今はグチュグチュといやらしい音を立ててロイをさらに挑発している。
(なんだ、十分意地悪じゃないか)
 こっちの都合なんてお構いなし。過ぎたるは及ばざるが如しとは言うが、長持ちさせる気の全く無い攻めと言うのもまた意地悪な気がした。ナナの攻めはひたすら容赦ない。
 あれだけ遠慮の無い音がすれば、意識は否が応なしに下半身へ向く。そんな風に意識を集中なんかしていると完全に起き上がったロイの肉棒は、精を吐き出せとせわしなく命令を下す。ここで終わってしまうのは少し物足りない気もするが、そういったところで延長してくれそうなナナでもない。

(自分が望んだことだし仕方が無い。ナナに全て任せてしまおう)
 あきらめたロイは、ナナの思うがままに攻めさせた。可愛い声で鳴いてと言われたので、わざとらしくない程度に喘ぎ声を上げる。少しばかり情けない気もしたが、時折ナナが楽しそうに声を上げるので何よりだ。喘ぎ声に呼応してさらに激しく快感を押し付けたナナは、いとおしそうに口元を綻ばせて一気にロイを快感に導きにかかった。
「んくっ」
 程なくして、ロイはナナの舌技によって達してしまった。天然ではなく、努力によって得たのであろう舌技によってたちまち骨を抜かれたロイは、精と共に大きく息を吐き出した。ナナはまるで母乳を求める赤ん坊のようにそれを吸い、飲み込んでいく。上等な酒を飲んだかのような恍惚とした表情は、たとえようもなく淫靡だ。
「……だめね」
 ナナの口から何か恥ずかしい褒め言葉か、もしくは男のプライドをえぐるような貶す言葉の一つでも飛び出すかと思ったが、ナナはそのどちらでもない。男のプライドどころか、聞いているほうが申し訳なくなるほど残念そうな声色のナナは、静かに首を振った。
「……貴方は、年上が好きらしいけれど、年上の女性に何を求めているのかしら?」
「何って……母性、かな」
「貴方が父親のことばかり話して母親のことを話さないのは、そういうこと……でも、母性と言うよりは貴方が求めているのは……母親の影よね。『お母さん』って大声で年上の女性に言ってみたいとか?」
 ロイの心の中を見透かすようにナナが言う。どうしてそこまでわかるんだ、と思いながらロイが頷く。
「そう、私はまだ貴方に心を開ききってもらえていないのね……でも」
 ナナの残念そうな顔は一転、鼻が触れあう距離まで近づいて笑顔を見せる。
「今度やる時は私をママって呼んでもいいのよ。好きでしょ、そういうの? 貴方はそういうことに興味を示していたからね」
 言い終わると、ナナはロイの返答を許さずに口を掴んで封じ、そのままベッドに倒れてロイと並んで横になる。

 ◇

 ……と言う夢を見た。
「で、どうしてナナが眠っているのか」
 突如目が覚めると、ナナが隣で眠っているだけだ。ロイは女性にだけ頑張らせて自分はさっさと眠ってしまうだなんて甲斐性無しのつもりでもないから、あの後そのまま眠ってしまったということは無いだろう。
 だからと言って夢にしては生々しすぎるし、射精後特有の虚無感もきっちりと残っている。行為の後にすぐ寝て起きたと言うわけでもなさそうだが。
 ふとロイは、眠っている間に見せる顔が素顔だと言っていたことを思い出す。今のナナは無防備に眠っているのだから、一切の幻影を出していると言うことも無いだろう。ナナの顔をまじまじとのぞいてみると――
「雄の匂い……? いや、まさか」
 と思って、ロイが股間を調べてみると案の定、ナナに男である証が……
「ナ……ナ……?」
 ロイは口をだらしなく開けた間抜けな顔をする。
「ドッキリでした」
「ヒャウッ!!」
  絶望きわまって情けない声を出したところで、ロイの背後からナナの声。尻尾の毛が逆立って普段の二倍ほどの太さになったり、反射的に威嚇の体制をとったりしながら、ロイの意識は現実に引き戻された。
「ちょっといたずら心が浮かんじゃったから、遊んでみちゃった」
 いたずらっ子のように笑うナナの髪にはいつの間にかグレイプニルが巻かれている。どうやらいつの間にか幻影を見せられていたのだとわかって、ロイは苦笑した。
「まったく、心臓に悪い。変な幻影を見せるのは勘弁してくれ」
「ごめんごめん……貴方が私の口の中に出してから、正体が男だと気が付くまでは夢と言うか幻影だから安心して」
 ロイの肩を抱くように擦り寄って、ナナが微笑む。
「じゃあ、あれも夢……いや、それよりもナナ。お前は満足……出来たのか?」
「そんなのしてないし、出来ないの。神子だからね……」
 ロイが言い終わる前にナナが否定する。ナナの寂しげな影が差した表情は、表面上笑顔であるために心がちくちくと痛む。ロイが何かを言おうとする前にナナは首を振る。
「いいのよ、男と違って女には溜まるものは無いんだから」
 言いながらロイの萎んだ肉棒を指で弾いて、ナナは髪の毛を抱き枕にしながらベッドに横になる。
「今日はここに泊めて貰えるかしらね? なんだか眠くなってきちゃったから……明日は、梅毒治療用の培養した青カビから薬作らなくっちゃならないのに疲れは残せないわ」
 ナナは今度こそ横になって目を閉じる。
「あ、あぁ……構わないよ。ゆっくりお休み」
 ナナの隣でロイも目を閉じる。彼女に無理をさせたつもりはないのだが、ナナは恐ろしく早い段階で寝付いてしまう。一人起きているロイは今の状況を反芻する。
 ローラのときは無性に緊張してなかなか寝付けなかったが、ナナと一緒にいるときはそんな気も起こらない。それが射精後の虚無感のせいなのか、ナナがいい意味で特別な存在ではなくなったのか。
 ロイは、きっと後者だろうと考え、それならどう特別なのかと考えた。
(『これからはママって呼んでもいいのよ』か……。俺はとっくに母親に甘えられる年齢なんて過ぎているって言うのに、まだ未練たらしく……だからあんな幻影を見たのか、それともナナがあんな幻影を見せたのか。
 でも、ナナの正体が男という荒唐無稽な夢はともかくとして、あのときのナナの幻影は……あれは意図して見せたものなのだろうか? だとしたらナナは子供をあやしてみたくて俺を……いやいや、そんなことは流石に無いよな)
 悩んでいるせいで、ロイは結局眠れない。酒場の夜は静かに過ぎていった。
**無血の決戦 [#tc10eed3]
// 7月9当たりのお話

 聖地巡礼の旅に神龍信仰の信者がこの街を訪れると、この街は賑やかさをある程度潜めた厳かな雰囲気へと様変わりする。街の人口は2万ほどで、訪れる巡礼者は5000ほど。彼らは神龍信仰とはいえ、貧窮に喘ぐことの連続である巡礼の旅を経たせいか非常に気が立っている。
 もてなしが悪いといって各地でトラブルを起こし、同じ神龍信仰の者たちから怨まれたり、酷いときには同じ国の者から恨みを買ってしまうことだってある。その浅ましさや迷惑さは、何のために巡礼の旅などしているのかたまに疑問に思えてくる程だ。
 聖地巡礼の旅に参加する者たちが下馬評どおりの信仰心の深い連中であるならば歓迎ムードも流れようが((実際にそういうことが無かったわけではなく、初期の頃は手厚く歓迎しようと持て囃されていた。しかし、この時代においても品行方正な信者は稀である))、今となっては悪い事をして親に説教された時の気分を何倍にも濃度を高めたような。そんな苦痛を伴うイベントへと様変わりしてしまった。
 満たされなければ奪うのがこの時代の騎士の性癖なのだから仕方がないと、途中途中の町に住む民衆は嵐が過ぎるのを待つしかないのである。

 夏の暑い昼下がり。従者を引き連れ、一足早くサイリルがこの街に訪れる。街の見回りと言う名目で、案内人にフリージアの父親、ミミロップのヴィンセントを担当にして。サイリル大司教の種族はため息が出るほど艶やかな毛並みを持ったエネコロロと言う種族で、しかしその毛並みは鱗剥がしの咎を恐れているせいか、ろくな入浴もしていないために汚れ燻ぶっていた。強烈な体臭をごまかすための香水の匂いもきつく、せっかくのメロメロボディの匂いもほとんどかき消されてしまっている。
 大司教ともなれば本来信者たちの見本となるべきだが、そういうわけに行かないのが腐敗した教会の象徴だ。修道士となれば税金を納める必要も無いため、信者からの寄付金を吸い上げたサイリルの格好は、どちらかと言うと世俗騎士のそれに近い印象すら受けてしまう。
 サイリル司教は法衣を纏ってこそいるが、自己顕示が強い装飾品に包まれていては清貧の欠片もない。案内役のヴィンセントは普段こそフリージアと同じくボロボロの法衣を纏っているが今日ばかりは比較的新しい法衣で失礼のないようにしている。が、それでさえも隣のサイリルとは段違い。
 サイリルの首にある神龍の彫り物は眩しい程に光り輝き、杖にも銀がふんだんに使われている。それを眺めるナナは苦笑するほかない。

 向かってくる大司教に対し、人々は道の端に立ってお祈りのポーズをささげて迎える。二足歩行のポケモンは顔の前で指を組み、俯き気味に目を閉じ、四足歩行のポケモンは出来るだけ深く頭をたれると言った風に。
 道の端に立つ人の延々と続く列。ナナはその途中にいた。サイリルとすれ違う際を待って、ナナはごくりと唾を飲む。この日のために、ロイを仲間に引き入れた。
 この日のために三日前から媚薬を飲んでメロメロにかかりやすい状態を作った。この日のために、自分の髪を使い、赤い糸((自分がメロメロ状態になると、メロメロにしてきたポケモンも同様の状態にしてしまう道具))を作った。最高の一品を作り上げるために、わざわざ行商から髪を買い付け、嫌と言うほど失敗作を生み出したりもした。
 その準備の全てが報われるか、もしくは台無しになり下手すれば死の運命が待っているかが決まる日。鋼の心臓を持っているナナでさえも否が応無く緊張して、動悸が早まった。

「うっ……」
 ナナは炎天下にやられてめまいを起こした風にわざと足をもつれさせて、サイリルのほうへ倒れこむ。同時に彼の香水交じりの体臭を存分に嗅ぎ、敏感な嗅覚でメロメロボディの香りを嗅ぎ分けて自らメロメロ状態へと移行する。メロメロ状態への移行も、フリージアの家族を利用して何回も特訓した成果が出ている。
 雄のメロメロボディ臭を嗅ぐことで、すぐさま自分がメロメロボディになれるように。また、赤い糸によるメロメロ状態のシンクロを確実に行えるように。
(まったく、フリージアの父親や兄弟はもっと嗅ぎたくなるようないい匂いだってのに……鱗剥がしの咎とか言うのはどうしようもない迷信わね。臭いったらありゃしない。でも、一嗅ぎしただけで込み上げてくるこの発情期のような気分の昂ぶりは……やはりメロメロボディと言ったところかしら)
 むせ返るほどの強烈な匂いを嗅ぎながら、メロメロボディの影響で曖昧になった頭の中でナナは笑った。
「何だ、この小娘は……?」
「も、申し訳ございません……少々めまいを起こしまして」
 ナナは慌てて頭を上げ、間髪いれずに謝罪する。
「ふむ……以後気をつけろ。下賎なる物が私に触れれば神威が穢れる」
(そんなこと、見たことも聞いたことも無いのに……聖書には触ったくらいで神聖さが薄れるなんて記述はあったかしら?)
「申し訳ございません」
 ナナは髪をしならせるほど勢いよく頭を下げる。
「私からも、申し訳ありません……サイリル大司教。今回の市民の不祥事はこの街の教会を代表する私達の失態であります」
 フリージアの父親、ヴィンセントもまた、サイリルに対してこんなときだと言うのに、ナナは媚薬の効果も相まって酷い欲求不満な気分になっていくのを感じて、その状態を悟らせない表情作りは出来そうもない。
 仕方なくナナは自身の髪を縛るレプリカグレイプニルに力を注ぎ込み、幻影の自分に申し訳なさそうな表情をさせて取り繕っ貰う。
「まぁいい。以後気をつけるように」
 最初不機嫌そうに話しかけてきたサイリルだったが、赤い糸の効果でナナに追従して徐々にメロメロ状態へと移行したのか口元が緩んでゆく。
「ときに、ゾロアークのお嬢さん」
 小娘からお嬢さんに昇格したことで、ここが第一関門の正念場だとナナは気を引き締める。
「今日の夜は暇かね?」
 ストレートな物言い、どうやらサイリルはナナをモノにするつもりらしい。メロメロ状態に加えてナナの美貌を見せ付ければ落ちない男性のほうが珍しいと言うものだから仕方ないと言えばそうなのだが、聖職者としてはやはり問題行動といわざるを得ない。
「申し訳ございません。大司教様が私をお誘いになり、いかなる祝福を賜ろうと言うのか、非常にそれは興味深いことではありますが……しかし、私にはとある酒場にて来客をもてなし楽しませる義務がありますゆえ、今夜のお誘いには応じられません」
 言って。ナナは頭を下げる。
「ですが、もしよろしければ私の店にも訪れてください。お酒以外の飲み物も取り揃えておりますし、製品を心がける大司教様のお口に合いますよう質素なお食事で持て成すことも可能です。そこで今回の無礼の埋め合わせが出来るならば、是非……」
 ナナは再三頭を下げる
「いいだろう」
 その言葉を受け、第一関門をクリアしたと、ナナは胸を撫で下ろしたい気分になる。
「よいのですか、サイリル大司教? このような町娘の勤める店になど行っては、その神威に穢れがつくのでは?」
「&ruby(いな){否};、庶民の生活を知らずに人の上に立つことなど出来ようはずも無い。分かりますね、ヴィンセント大司祭」
 ヴィンセントのもっともな忠告。しかし、サイリルはそれに対してもっともらしい言い訳をつけて断った。心の奥底では『こんな美人をモノにしなければ大司教の地位を得た甲斐が無いだろう?』と言いたいのだろうが。ナナはそんな予測をして、予測だけで酷い嫌悪感を覚える。
(全く、聖職者どころか生殖者じゃない。いやらしい)
 呆れながら、ナナはため息を押し込めて笑顔を作る。
「では、私のお店はこの町の3番街イオルー表通りにございますので、どうぞ宜しくお願いします」
 恭しく礼をすると、ヴィンセントは「あぁ」と頷いた。
 再び御祈りのポーズをとってサイリルが通り過ぎるのを見送ったナナは、精神的な疲労からか崩れ落ちるように壁へ寄りかかった。

 ◇

「それで、サイリル大司教を誘い込むことには成功したわけか……?」
 酒樽のおかれた地下倉庫にて第一関門の首尾を歌姫とロイに報告し、ナナは息をつく。
「緊張で死ぬかと思ったわ。初めて人を殺した時だってこうまで緊張しなかったっていうのに……」
 これほどまでに疲れた表情をするナナを久しぶりに見たロイだが、その表情を楽しむ余裕はない。
「今日の夜、敵を討てるんですね。私……ようやく母さんの……」
 どこか病的な仕草で歌姫がつぶやく。
「あら、歌姫ったらここで言っちゃうの?」
「長い話は勘弁だぜ?」
「いえ……話しておくと失敗に終わりそうですので。遠慮しますです」
 何かゲン担ぎのようなものでもあるのか、歌姫は力ない笑みを浮かべて首を横に振る。
「言い忘れていたけれど、今回の依頼人はウーズ家。つまりフリージアとその家族と……後はそこの歌姫ちゃんよ。二人とも、テオナナカトルに置いて最も大事なお客さんだから失敗は許されないわよ」
 え……と、ロイは間抜けな声をだす。
「そんなこと聞いていないぞ。ウーズ家の事はともかくとして歌姫は……」
「歌姫を拾ったのは2年前の話よ。だから歌姫はまだ見習いなの……こうやって、サイリルを殺すために仲間になってくれたのよ」
 ナナは歌姫の頭を撫でる。
「ま、そんなことはどうでもいいわ。依頼人がだれであろうと、受けた依頼は遂行するのみ。歌姫ちゃんも指示通りやるのよ? 自分で依頼した仕事だけれど、出来るわね?」
「はい、きちんとやって見せます」
 歌姫がグッと拳を握る。
「ちょっと待て、指示って俺はなにもされていないぞ!?」
 驚くロイに、ナナは笑顔を崩さない。
「あぁ、そこはアレ。ロイはアドリブでお願い。下手に演技を指示するよりもそっちの方がいいし……」
 ロイは何も言わず、ただ溜め息を吐いて『こいつは……』と意思表示
「かしこまり」
 投げやりにロイは言ってまた溜め息をつく、ナナは動じていないのに、何故だか歌姫がおどおどするという奇妙な光景が繰り広げられた。
 ただいまリーバーは買い出し中。買い出しが終われば、下手を打てば今日で最後になるかもしれない仕事が始まる。地下特有の重苦しい雰囲気がさらに増して地下倉庫に立ち込めた。


「ただいま!!」
「さぁ、リーバーが帰ってきた。仕事に取り掛かるぞ、ナナ」
 いつものように笑顔を見せて、ロイが立ちあがる。
「あれ、みんな御揃い? どうしたのさ?」
 地下室からぞろぞろと現れた3人を目にして、リーバーは首を傾げて笑う。
「いや何、みんな涼しい地下室がお気に入りなのさ。それに……今日は大事なお客さんが来るもんでね……今日の掃除はこいつらにも手伝わせるつもりだ」
「大事なお客さん? まっさかマイレッド女王とかじゃないよね。あの人超美人だって言うから見てみたかったなー」
「当たらずとも遠からずさ。サイリル大司教って言うお偉いさんだよ……」
「ポカーン……」
「口にしなくっていいから」
 相変わらずのリーバーの反応にロイは笑う。
「そんなお偉いさん読んじゃって大丈夫なの? ここは覆う品にお酒を飲む場所ではなかったと思うんだけれど……僕きちんとやれるかなぁ」
「ナナが誘っちまったんだからしょうがない。美人はお得ってことだな……サイリル大司教は大変上品な方だ。粗相の無いようにな、俺は貴族の作法で何とかするから、他の奴らはあまり構わない方がいい。どうしてもって時以外は俺が対応させてもらうよ、リーバー。だからまぁ、安心しろ」
「うぅぅぅぅ……緊張するなぁ」
 弱気になるリーバの耳にロイは軽くキスをする。
「堅くなりすぎると余計失礼だぞ。肩の力を抜け、リーバー」
「ポッ……兄さん」
「なにが『ポッ……』だ!! 惚れるな!! 男に惚れられても嬉しくない」
 照れながらリーバーが笑う。シドに強姦されていたせいか男性との性交に対する嫌悪感が若干薄れているような節があり、本当に惚れてしまったのかとロイは少し背筋が強張った。
「冗談冗談。でも、キスまでされちゃあ仕方がないね……堅くならずに行かせてもらうよ、兄さん」
(これからは軽はずみな事はしないでおくかな……)
 そんな考えを張り巡らせている間に、ナナは笑いをこらえて口を押さえている。
(やっちゃったなぁ……)
「もう、二人ともお似合いね。男同士だけれど付き合っちゃったら?」
「勘弁してくれ。1分でいいから時間を戻したい気分だ」
 これには歌姫まで笑ってしまったようだ。くすくすという押し殺した笑い声が漏れる空間で、ロイはひたすらに恥ずかしさに耐えるしかなかった。

 ◇

「と言うわけで……大司教様は、庶民の生活を知ることを所望しています。失礼に当たらないよう、ちょっかいを出したり下品な言動はご法度ですが、あまり堅くなりすぎても普段の雰囲気を損ないます。いつもどおり酒を楽しく飲むことを心がけてくださいませ」
 ロイは客が訪れるごとにそうやって説明して回る。中には大司教を恐れて退散するものもいて、今日の客の入りはいまいちと言ったところか。店の盛り上がりも少しばかり足りないように思えた。

「さぁ、大司教様のお出ましだ」
 先ほど、この街の案内にはフリージアの父親のヴィンセントのみであったが、今回は髪の婚約者として純潔を誓うフリージアもまた街の案内を買って出ていた。
「お待ちしておりました」
 ロイはいわゆるお座りの体勢、それでいて刺青が刻まれた左前脚を折り曲げながら頭をたれる。上級の礼の仕草でサイリルを迎える。
「世俗騎士か」
 嘲るようにサイリルが言う。すでに敵意に満ちているサイリルの物言いは言うまでも無くロイを不快にし、しかし作戦通りだと得意にさせる。
「はい。先の教会が政権を取り戻すための戦にて、アルフ大司教の温情によりこうして生きながらえることを許してもらったしだいでございます」
「しかし、まだ世俗騎士のまま修道騎士にはなっていないようだな」
「はい、それは……」
 ロイは顔を上げてフリージアを見る。
「縁あって、そちらのフリージア様とお話いただく機会を設けたときに、『信仰とは民のためにあるもの。強制されるべきではないし、強制されてささげた祈りはむしろ邪魔になる』と教えられたものでして。これの根拠となる一説はヘブラスの……なんでしたっけ?」
「第11章の6でございます。読みますね……『信仰がなければ神を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は、神がおられること。また、ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです』と、いう一節であると教えました。他にもネコブ第1章26なんかもその根拠ですよ」
//ヘブライ第11章の6 ヤコブ第1章26
 フリージアはショルダーバッグから取り出した聖書をめくり、得意げに言った。
「そういうことでございます。私なんかの祈りでは、逆に神龍様の失望を促します」
 再びロイは頭を下げる。教会にとってバツが悪い事を暴露されたフリージアだが、サイリルににらまれてうろたえることも無く澄まし顔をしている。しかし、サイリルの視線は酷いものだ。強制的にでもいいから祈らせようと言いたげではないか。
 ロイが教会に入って修道騎士になってしまえば税金は免除されるもののロイには協会への寄付の義務が半強制的に発生する。義務ではないがそうでもしないと教会内に居場所がなくなるのだ。
(その利権むさぼりたさのこの鋭い視線だとすれば……考えたくも無いほど生臭い話だな)
 とにかく、こちらに全く非が無い状態でサイリルを不機嫌にするために、今回のやり取りは悪くなかった。性根が腐ったサイリルを怒らせ、こちらを攻撃させる。そこまで持っていければこちらの術中に嵌められる。
「さぁ、こちらの席へどうぞ」
 しばらくはサイリルの不満を募らせることに専念するだけだ。サイリルを案内した席には、あらかじめ怒りの感情を刺激させるための香水を振りまいている。蜜と乳の匂いがする香油と浜逆の効果の香水で、これはビークインが攻撃指令を行う時のフェロモンの香りの香水だ。匂い自体は僅かながらだがこの店全体に及んでいるが、サイリルが座るそこの席だけ特に効果が高くなっているはず。


 ロイが料理を運ぶ際、ロイは貴族の作法と自分たちが雇っている従者たちの作法を総動員し、なるべく無礼が無いように勤めて見せた。しかしながら、サイリルの目は冷ややかで、ロイに向ける笑顔はかけらも無い。その堅い表情は、周りの客を緊張させてしまってやはり今日の酒場は盛り上がりに欠ける。
(これではただの疫病神ね……)
 ナナは小さくため息をつきながら立ち上がる。
「さぁ、皆さん。お待ちかねの方もそうでない方も、是非是非私のダンスを見ていってくださいませ」
 いいながらナナがいつもの場所に立ち、踊りを始める。苦虫を噛み潰したような表情ばかりしていたサイリルがようやく表情を変えた。
 ナナの美しい肢体が優雅に舞う様は、やはり神すら魅了するほどの腕前である。
 たまに、特製のこだわりスカーフを身に着けてのすばやい動きや、手足に光をまとうような技での美しい軌跡を描いての舞い。今日は気合が入っているのか、心なしかいつも以上の腕前だ。
 たまに幻影を駆使して道具を生み出し、手を変え品を変えての一瞬も目を離せない躍動。豊穣を祈る歌姫の声と合わせて行われるタップダンスなど、瞬きの時間すら惜しいと思わせるその舞は、サイリル大司教を存分に持て成すことに成功したようで、終わったあとの拍手にはサイリル大司教もきちんと参加していた。
「如何でしたでしょうか?」
 拍手喝さいを受けたナナは真っ先にサイリルの前に跪いて尋ねる。
「祭事の場でもあれほどの踊りはそうそう見られない。ここでどさまわりをさせておくのは非常に惜しい逸材だな」
「お褒めいただき、光栄でございます」
 ナナは跪いたまま頭を下げる。
「時に、お前はナナといったかな?」
「はい」
 ナナは顔を上げる。
「お前を気に入った。今夜、私の話し相手になってもらえないかね?」
 湾曲してはいるものの、何を望んでいるかが明らかにわかるいやらしい目つきでの誘いだ。長く見ていたら、殴りたくなるような目つきに、ナナは眉をひそめないようにするのを苦労した。
「話の相手だけ……でしたら」
「それはどういう意味かな?」
 ナナは口ごもるが、恐る恐る言葉を選ぶ。
「それは、その……男女が同じ場所で夜をすごすともなれば、答えは限られております。あまり女性の口から言葉に出来るものではございませんが……察してくださいませ」
 サイリルがいやらしい笑みを浮かべる。エネコロロのものとは思えないひたすら卑しくて、顔の皮を引っぺがしてゴミ箱か排水溝に捨てたくなる。
「わかっているのならば話が早い。どうだね? ここのドサまわりでは得られない金を差し上げても構わんよ」
「その金は、信者からの寄付金で成り立っているはずですよね? ……寄付金はそのようなことに使うためのものですか?」
 ナナは声を荒げた。全員には聞こえなかったかも知れないが、席の近いものには聞こえてしまっただろう。

「なんだぁ?」
「どうしたぁ?」
 ところどころで客の声が上がる。
「なんでもない!!」
 今度はサイリルが声を荒げる。店内は火が消えたようにしんと静まってしまい、バツも都合も悪くなったサイリルは穏やかな口調で言いなおす。


「なんでもないから、酒を飲んで話を続けていてくれ……」
 再び、周囲が騒がしく。そして大声で内緒話が出来るようになるまでサイリルは無言であった。
「貴様……私に恥を書かせる気か?」
「いえ、そのような気は毛頭ありません……しかし、貴方の行いは間違っておられます。私はこのような職業故、刺青を彫る金もありませんが……きちんと神に毎日祈りをささげております。私は神を恐れ敬い、司教様にもそれと同じ目を向けています。しかし、貴方を尊敬したいとはどうにも思えません……フリージアさんと違って。
 フリージアさん、自分のために財産を蓄えると、蛾や錆びが食いつくすから、天に財産を蓄えなさいという一節がありましたね?」
「えぇ、マタギ第6章の19ですね。文を読みあげましょうか?」
「いえ、その必要はありません」
 彼女はどれだけ記憶力が良いのだ、とナナは苦笑しながらフリージアに頭を下げる。
「畏れながら申し上げます。教会への寄付によって天に蓄えた財産とは、そのような物のために使う者なのですか? それでは、天にも蛾がいることになってしまいます」
 ナナは慇懃無礼に再び頭を下げる。
「正論で返そうというのか……ふん、だがそんなことはどうでもいい」
 怒りでこめかみをぴくぴく動かしながらサイリルが吐き出すように言った。
「私の怒りを買ってしまえばどうなるかはわかるはずだ。よもや、私をここまで&ruby(こけ){虚仮};にしておいて断るまいな?」
「私の容姿を買って、そのような申し出をされているのですか?」
「自分が美人だと言う自覚はあるようだな……そうだ」
「でしたら、お断りします」
「何故だ?」
「そのような者に、私は相応しくないからです」
 あくまでかしこまりながらも、慇懃無礼な言葉を吐くナナ。サイリルは怒りで頭に血が上っているのか、毛が逆立ち始めている。
「思い上がるな、女!! 私の顎一つで貴様の体はどうとでもなるのだぞ?」
「その言葉、忘れませんね」
「貴様こそだ!!」
 楽しい酒場の中で、酷い温度差を持った険悪なムード。酒場の客は皆、心配で話の最中にちらちらとこちらの様子を伺っている。
「ナナ……あなた、流石にそこまで調子に乗ってはダメよ。今すぐ謝らないと……酷い目にあっちゃうわよ」
 フリージアが焦りを帯びた表情でナナに言うが、ナナは首を横に振って微笑んだ。

「私の体は……本当はこんなですから」
 ナナは、髪を束ねる珠の仲に無造作に手を突っ込み、純白の紐に紅白と蒼白の羽をあしらった髪留め、レプリカグレイプニルを解いてみせる。若く瑞々しい見た目は20代の中盤あたりの見た目になり、左半身には顔まで覆う醜いケロイド。色も、通常のゾロアークの色に戻ってしまった。

「ですから、『美しいという理由で私を&ruby(めかけ){妾};にしようと思うあなたの要望にはお答えできない』と申したのです。貴方は偽りの美しさにとらわれて私を誘おうとした。それが神に仕える者のする事でしょうかね?」
 いつの間にか、酒場で言葉を口にしているのはナナだけになる。ナナはそれに気が付かないフリをして続けた。
「私はお客様を楽しませる義務があるために、姿を偽り続けていました……しかし、あなたに夜の相手を申し出られては、もはや隠し通すことは失礼に当たります。私の体は見てのとおり大火傷を負い、この&ruby(ラティアス){女天使};と&ruby(ラティオス){男天使};の羽を利用して、取り繕う力をかろうじて与えてもらっている状態。
 嘘で塗り固められた体では……美しさで私を&ruby(めかけ){妾};にしたいと仰る大司教様のお眼鏡には到底適いませぬ。貴方の神威が穢れてしまわれます。神威など、そんなもの貴方にあるかどうかも不明ですがね」
 実はこの作戦、ここがミソである。ゾロアークは珠が傷つけばイリュージョンの特性を使えなくなる。しかし、ここで自分の姿を偽れるのは天使の羽の効果によるものだと証明すれば、後から周囲に幻影を及ぼしたとはいえないのだ。
 なにせ、&ruby(ラティアス){女天使};は自分の姿を偽ることを出来るが、それを外部まで及ぼす力はないとされている。&ruby(ラティオス){男天使};は自分の見たものや考えたものを夢映しすることが出来るが、それは幻とはっきりわかると言うような描写が聖書や伝承の中でされている。
 肝心の本体である紐がダークライの髪で出来ていると知れれば、ナナを悪鬼悪霊扱いも出来る。『全てがナナの見せた幻だ』という言いがかりも通用するだろうが、この紐がダークライの髪などと誰が思おうか? 火傷を負ってから散々な人生を歩んできたナナだが、こういう時ばかりは火傷に感謝せずにいられなかった。


 周りが静かなのに気づいて、ナナは慌てて辺りを見回す。
「今の……聞かれてました?」
「ナナちゃん……そんな見た目だったの?」
 客の一人、ハリテヤマのトニーが残念そうな声を上げる。
「でも左半身だけならうちの女房の100倍綺麗だぜ!! むしろ、俺はこっちの方が好きかもな」
 オーダイルのジョーが間の抜けた声でナナを褒める。
「馬鹿、ジョー。お前酔ってんのかよ? あぁ、酔ってるか。そっちは左じゃなくって右半身だ!!」
 トニーがジョーの言葉をフォローすると、ジョーが大声で突っ込みを入れた。
「なに言ってんだ。右に火傷があるじゃないか」
「ナナちゃんから見てひ・だ・り・は・ん・し・ん・だ!!」
 トニーとジョー。愉快な掛け合いに酒場が一気に盛り上がる。みんな酔いが回って気分がいいのか、意外にも醜いとか幻滅とか言う言葉が無いのは、今まで積み上げてきた人望のおかげだろうか、そんな状態じゃないというのに、ナナの心は少しばかり温かくなるのを感じた。
「でもよぉ、正体を現したってことは何? 妾がどうのこうの言っていたけれど、そいつは……」
 トニーがその先を言おうとして口をつぐんだところで、ジョーがその言葉を引き継ぐ形で……
「大司教様が夜のお楽しみに誘ってたんじゃねーの? あれだけ美人なナナちゃんならそうしたくなるもの分かるってよぉ!! 大司教様も男の子ってことだ。おいおい、教会のお偉いさんはそう言う事はやっちゃいけないんじゃなかったのか?」
「あ、一応……カリントの第一 第6章18にて……」
//コリントの第一 第6章18
 客が言ってはならない事を言ってしまって、さらにそれに対してフリージアが真面目に答えてしまったために、大きな嘲笑が響き渡る。非常にまずいと目を泳がせるナナと頭の血管が切れるんじゃないかと思う程に歯を食いしばっている大司教を尻目に、嘲笑はなかなか止まなかった。

「みなさん、失礼にあたる行為は慎んでくださいと……」
 耳も尻尾も垂れ下げてうろたえるロイがその嘲笑の中を縫うようにして止める。
「くそ、不愉快だ!!」
 サイリルが料理の盛られた皿やグラスを前脚で弾き飛ばしテーブルの上から落とした。けたたましい音を響かせて皿が割れ、料理が床に散乱する。
「せっかくの料理に何を……貴方、神龍に御祈りをしといて何をしているんですか?」
「世俗騎士風情が知ったふうな口を聞くな!!」
 ロイが怒りにまかせてサイリルの行動を諌めるが、サイリルの怒りは止まなかった。当然だ、そういう香水がテーブルの周りに充満しているのだから。
「申し訳ありませんがサイリル様」
 フリージアの親、ヴィンセントが長い耳をいじりながら切り出した。
「これ以上粗相を起こすようならば、次回の大司教会議の報告書に記入せねばなりませんよ。ここは抑えてくださいませ」
「貴様まで私を愚弄するか!!」
「何を言っているんですか!? 言っている事が滅茶苦茶ですよ」
「大司教、これでは民の信頼が離れるばかりです」
 ヴィンセント、フリージア共に大司教をなだめるが、まだまだ大司教は不機嫌そうだ。
(怒っている怒っている。解毒剤にも精神が不安定になる薬を混ぜていたおかげだ)
 ナナはほくそ笑んだ。
「くそっ……不愉快だ。私は帰る」
 立ち上がろうとするサイリルをヴィンセントは手で制する。
「客として誘われ、最後までもてなされることなく帰るのは最大の無礼((このお話の舞台では、裁判において現在でもこの行為を理由に殺意の有無という状況証拠とされるほどの無礼とされている))。どうか最後まで食事を終えてからお帰り下さいませ」
 完全に静まり返った酒場にいつものような活気は無い。完全に雰囲気の悪くなった酒場の中で、ロイは散乱した皿と料理を片付けるために掃除用具をとりに行く。リーバーは物凄く不機嫌そうな顔でサイリル視界の外からの顔を睨んでいた。
 それを眺めるナナはそろそろ毒を準備しようと、豊かな髪の中をさりげなく漁り小さなガラス瓶に入った揮発性の毒を散乱した料理の上に投げる。ビンが割れる音は、再び髪にレプリカグレイプニルを巻き直して、ダークライの力を借りた幻影の力で誰にも聞かせない。
 あの毒はこの部屋中に散らばるし、ロイのシンクロの特性によってばら撒かれた汗によりさらにその効果は増幅させられる。無味無臭の解毒剤はすでに料理の中に入っている。
 本当は、ロイのサイコキネシスで落とすはずだったグラスはなんとサイリル大司教がご丁寧にも落としてくれた。毒が入っていたグラスの破片と合わさって、ナナが落とした瓶の破片はぱっと見にはロイでさえ全くわからないだろう。後は時を待つだけだ。


「なんだか胸が苦しいのですが……」
 毒の回りは体が小さいポケモンほど早い。サイリルの隣の席に座っていたチラーミィ。即ちフリージアが最初に異常を訴えた。
 ロイやヴィンセントもすでに呼吸が危うい。毒をまいたナナ自身も体に不調が出始めていた。
「兄さん、大丈夫? ルインさんも……ナナさんも? ちょっと待って、お客さんで気分悪くない人、いや……お客さんに限らず、気分の悪くない人は手を上げてください!!」
 リーバーが声を張り上げたおかげで、当たりは静まった。歌姫だけは遅効性の毒を随時解毒している((自然回復の特性のおかげ。自然回復の特性を持つポケモンに対しては、遅効性の毒は効果が薄い))せいかあまり気分は悪そうではないが、他のお客さんは毒タイプと鋼タイプとサイリル大司教を除いて、全員が手を下げている。つまり、ほぼ全員の気分が悪いと言うことだ。
「夏だから食中毒……? いや、それにしては何も食べていない僕らまで同じタイミングでは……兄さん、とりあえずやばいよこれ。どういうことなの?」
「わからない……が、毒を播かれたかなんかだと思う。ほら、あそこのマルノームとお前とドータクンは別に体調が悪くないだろ? あ、歌姫も他よりはましか……」
「そんなのはわかってるよ兄さん。僕が言いたいのは……なんでサイリル大司教様がピンピンしているのかってこと!!」
(へぇ、リーバー君って意外とよく見ているのね)
 全員の視線がサイリル大司教へと集中する。自分が指摘しようとしていたことをリーバーが指摘してしまって、ナナは危うくおかしくて笑いそうになってしまった。
「な、何を言っている? 私がこの事態を引き起こしたとでも言うのか?」
 サイリルがうろたえるが、ロイはそれを無視する。
「確かに気になるがそれは後だ……まだ死にそうな人はいないみたいだけれど、リーバー……なるべく早くモモンの実を頼む。市場で大声で叫んででも買ってきてくれ。金なんて後でいいから盗むくらいの勢いでだ」
「いえ、その必要は……」
 歌姫がお立ち台の上に上がる。客たちは何をするのかと注目し、次の瞬間には全員がその意味を理解する。
 歌だ。腹の奥底で、どのように生態を揺らせばこんなに透き通った音が出せるのかと首をかしげるような透き通った快音。どういう発声法なのか、高音と低音という二つの声を同時に出す魔法のような発声法を持つ歌姫の声は、上等なハンドベルを十数の手でかき鳴らすように変幻自在の音色を奏でる。
 その声を聞くだけで胸の苦しみ、手足のしびれもめまいも徐々に薄れ、心身が浄化されてゆく。病気や毒を患っていない状態がこんなにもすがすがしいものだったのかと思わせる清涼感を感じながら歌が終わると、歌が始まるまでの殺伐とした空気は一転、いつも以上の大喝采が酒場に響いた。
「癒しの鈴と言う技です……久しぶりに使ったから、うまく出来るかどうか不安でしたが……うまくいったようでよかったです」
「歌姫……ありがとう」
 わざわざ財布を痛めることも無く、そして迅速に解毒できたことにほっと胸を撫で下ろす気分のロイは歌姫を労い――
「それで、どういうことだ、サイリル大司教!?」
 声を荒げてサイリルの名前を呼ぶ。
「お前は鋼タイプでもなければ毒タイプでもないし、ましてや免疫の特性を持っているわけでもあるまい。何故お前だけ、毒に犯されていない? 俺の店でこんなことをしても許されるほどに偉いのか、大司教と言うのは?」
「な……一体どういうことだ?」
 サイリル大司教がうろたえるのも当然だった。本当に身に覚えが無いのだから。
「とぼけるのはよくないよ……どんな毒かは知らないけれど、兄さんも、ナナも、お客さんもみんな死ぬかもしれなかったんだよ? 僕も許さないよ」
 以外にも、リーバーが予想外に勇ましく向かっていった。リーバーはロイに憧れているところがあるから、負けじと――と言うことなのかもしれない。突然降ってわいた不穏な空気によって流石に店内がざわついてきた。
「サイリル大司教……あなたもヤキが回りましたね。教会内であなたと敵対するクラウス派の私たちも合わせて葬ろうと言う魂胆ですか? それにしたって、ここまで幼稚な毒殺とは……これでは、言い訳も出来ませんね」
 ヴィンセントが長い耳を掻きあげながらサイリルを睨む。
「幼稚……そうだ、私がそんな幼稚な殺しかたをすると思うのか!?」
 それを、まさかの歌姫が鼻で笑う。
「どうだか? それを言い訳にして言い逃れしたかったんじゃないのですか? 吟遊詩人の私の母親と父親を殺したのも、貴方だったわけだしね」
 その言葉に、誰もが『え?』と聞き返す。
「どうもこうも無いわよ。私の母親を、夫がいるというのに誘惑して、従わなかったから夫婦共々処刑したのを覚えていないのかしら?
 いい両親だったのに……悪魔だって罵ったわよね。今日、ナナさんが同じように誘惑されたとき、貴方を止めなきゃって思ったけれど……もうその必要は無いみたいね。
 悪魔め!! 今回もまた悪魔だという大義名分の下に無実の者を殺すつもりだったのでしょう!? これだけのことをしでかしておいて、お前は二度と大通りを歩けると思うな!! この世界を支配しているのは神ではなく悪魔だと言う((神龍信仰の聖書には、この世の支配者は今の所悪魔(デオキシス)であると明言されている))のならば、それはお前だ!!」
(『場の雰囲気が、サイリルを責める雰囲気になったら、あなたの過去のお話を暴露しなさい』……と、言ったけれど、見事に指示通りね、歌姫ちゃんってば。いつものぼそぼそした声とは対照的にハキハキ喋るじゃない。やれば出来る子なんだから)
 ナナは自分自身を幻影で覆いながら、その裏でほくそえむ。最後の仕上げとばかりにナナは声の幻影を周囲に張り巡らせる。
「悪魔め!!」
 この声はナナが発した幻聴だ。だが、この際誰がこの言葉を言ったかなんてこの酒場にいる誰も問題にしない。歌姫の演説と、ナナの煽りを皮切りに炎が燃え移るように、皆が口々に叫ぶ。
「悪魔め!! 悪魔め!! 悪魔め!!」
 いつの間にかリーバーやルインもそのコールに加わっていて、ロイや歌姫も合わせて叫び始める。ナナだけはまだ戸惑っているような演技をしているが、もはや誰もナナのことなんて見ていなかった。
 そんな時、周囲の席を掻い潜ってフォークやナイフが投げられた。フリージアは必死で身を伏せ、ヴィンセントは耳で防ぐ。サイリルも身を縮めていたが、そのナイフのうちの一本が背中に突き刺さた。
「ひっ!!」
 ナナが驚いて背筋をこわばらせた。このナイフ、正体はナナが見せる幻影だから血が流れない。もちろんサイリルは痛くも痒くもなく、気が付かない。サイリルはナイフが刺さったことに気が付かないからナナは恐れた演技をしているし、他の者もそれを見て言葉を失った。
「どうした……って、なんだこれは!? 私の肩にナイフが刺さっているではないか」
「ちょっと待って皆……これはやばいでしょ。あ、あの……私が抜くから」
 暴れようとするサイリルの肩をナナが押さえつける。サイリルの種族であるエネコロロの力はもともとあまり強くなく、暴れられたところでナナであれば簡単に抑えられる。ナナは振り払われないうちにサイリルの肩に手を掛け、刺さったナイフを引っこ抜く。
 引き抜いたそのナイフには血が付いていなかった。
「うわぁぁぁぁ!!」
 あまりの気味の悪さにナナは大声で叫びながら、思わずサイリルを椅子から突き飛ばし、先ほどのものと同じ毒のガラス瓶と、解毒剤を入れた瓶を同時に床に転がして。うまい具合にサイリル大司教の持ち物であるという濡れ衣を主張させる。

「あー……トニー、見ろよ。ナイフを刺されたのに血が出てないと思ったら、ナイフにも血が付いていない」
「ってことはジョー。あいつは本物の悪魔ってことだぞ」
「逃げたほうがよくねぇか?」
「大丈夫だってジョー。なんせ大司祭様が二人もいてくださるんだ。神の力で悪魔も退散って奴だ」
「違いねぇ!!」
 ハリテヤマのトニーとオーダイルのジョーが二人揃って、間抜けな話をしているが、血が付いていないから悪魔であるという言葉は中々的を射た話だ。二人の言うとおり魔女が魔女だとする根拠の一つが生きてくる。魔女は血を流したり痛みを感じたりしない。日常生活でそんな仕草をするのは、普段は周りの人民に溶け込むための演技であり、化けの皮を剥がされた魔女はいかなる痛みも感じないという。
 教会で魔女裁判をする際には、先端部分を押すと内部に引っ込むギミックを施し、刺しても血の出ない針を利用して対象を魔女に仕立て上げているが、それをやり返されたというわけだ。
 しかも、針と柄の部分が別のパーツで構成された物ではなく、一本のナイフでそれと同じ事が起きれば、言い訳は無用だ。
(私の幻影で。それに似た状況を再現されるとは滑稽ね。骨まで絶望に染まって、そして悔いなさい)
 カランッと音を立てて落ちたナイフはナナがあらかじめ持っていたものでこれは幻影ではない。髪の毛の中に隠しておいた、元から血の付いていないナイフである。床に転がった毒薬や解毒剤と思しき瓶と合わせて、サイリル大司教を陥れるには十分すぎるほどの状況証拠だ。
 これで、サイリルは完全に悪魔となり、ヴィンセントとフリージアの言うことが絶対的に正しくなるという魔法の方程式が完成する。ここまで追い詰めれば、後でなんとか口封じをして無実を証明するのと、サイリル大司教を一人殺すこと。どちらが簡単化は火を見るよりも明らかだ。

「……これは、何の瓶だかはよくわかりませんが。一体どういうことですか? この瓶に入っているのが毒であれば、今回の騒動は貴方がやったとしか思えません」
 フリージアが、割れた瓶の破片を覗いて問い詰める。
「そっか、さっき皿やコップを落とした時に……同時にこの瓶の中身も床に撒いていたのね……貴方は」
 ナナが冷ややかな視線でサイリルを見た。
「こ、これは何かの間違いだ……そうだ、そこのゾロアークの女の幻影だ!!」
 ナナは首を振って否定する。
「申し訳ありませんが……私は、珠を失いまして幻影が及ぼす能力は失ってしまいました。天使の羽を用いても、幻影を及ぼせる範囲は腕の長さとほぼ同じ……とても、投げられたナイフがあなたの背中に刺さったままの幻影を生み出すことは出来ません」
「だ、そうです……申し訳ありませんがサイリル大司教。この場合はあなたよりもナナさんを信用させていただきます。私、この酒場とは顔なじみですので……彼女らが悪魔で無いことは貴方に対してよりもずっと確信が深いので。
 それに、貴方の悪行の噂は絶えることがありませんし……ね」
 フリージアが言い終えても、サイリルは諦めない。
「くそ、さてはこの店全員グルだな!? グルになって私を嵌めようというのだろう?」
「ふざけるな!!」
 以外にもここで叫んだのはリーバーだ。
「兄さんも僕も、ここに来るのを楽しみにしているお客さんたちも、絶対にそんなことはしないぞ!!」
(あらら……これはちょっと可哀想かもね。少なくとも貴方の兄さんと私と歌姫はグルだから……)
 ナナはリーバーの言葉に少々良心を痛ませながら、眉をひそめた。
「俺の店と客を侮辱してまで生にしがみ付きたいか……往生際が悪いな。俺の店で好き勝手してくれた報いは、きちんと受けてもらうぞ。お前の信じている神龍信仰のやり方でな」
 ロイがサイリルに歩み寄って黒い眼差しで睨みつける。
「あ、ロイさん。黒い眼差しをそのままお願いします……我ら神龍信仰の名を語り、大司教に化けたこの悪魔を逃がしてはなりませんし、決して許しておくべきでもありません……我ら神龍信仰の者が……ご迷惑をおかけしました」
 ヴィンセントは耳が地面に触れるほど頭を下げて謝罪した。
「顔を上げてください……悪いのはヴィンセントさん、貴方ではありません。そうだ……大司祭様達が安心出来るように、誰か縄を持ってきてくれ」
「まかせて、マスター。何だか大変なことになっちゃったけれど、私はロイについて行くわよ」
 今まで厨房からこっそり覗いているだけで、誰もが存在を忘れかけていたフリアおばさんが頷いて、厨房に隣接する倉庫へ向かい、荷物を縛って固定するための麻縄を取りに行った。
(アドリブでお願いとは言ったけれど……ロイは良い仕事するわね。リーバーも……私達の計画を知らないとは思えないくらいよく動いてくれたわ)
「……終わりね」
 ナナは感慨深く口にした。

 ◇

『こんなに大騒ぎになったというのに、終わりはとてもあっさりとしたものだ。結局、拘束されたサイリル大司教はそのまま何処かへ連れられてゆき、そして一般人のあずかり知らない所へと消えてゆく。
 三日後にこの街の処刑台に立たされた彼は、斬首刑によって処されることになる。火あぶりや水攻めのような苦痛を伴うものでは無くて、本当に楽に死ねる斬首刑はお偉いさんの特権と言うことだろうか。これでは、歌姫の両親とやらも報われないだろう。
 歌姫は仕事の時間は絶対に泣かないけれど、営業時間が終わるとナナや俺の胸で発作的に泣き晴らしている。早く立ち直ってくれるといいのだけれど……
 流石にこのニュースは大々的に報じられ、一週間に一度のはずである新聞に号外が出た程だ。残された巡礼者、つまる所の神龍軍は混乱して巡礼者の中でもお偉いさんにあたる者たちに対しての暴動が起きたほどだ。死者も数人出たし、混乱に乗じての強盗など、街の住人も犠牲になった。恐れていた事態そのものだ……
 さらに恐ろしい事は、この街は大司教が悪魔認定されたと言う前代未聞の事態が起こり、そして『大司教を騙る悪魔の血が流れた穢れた地』として巡礼者達の順路からはずされたという。つまるところ、それは連動して巡礼者の道中の治安を守る神龍軍がこの街からいなくなるということだ。それによってこの街の治安が悪くならなければいいが……。
 だが、それは逆に言えば神龍信仰に支配されない街ということだ。ある意味これってすごい事なんじゃないだろうか?

 それにしても、本当に色々な事があった気がする。それでも街は何の変わりもなく動くのだろう。その証拠に、今日も愉快な常連、トニーとジョーはこの店に訪れては酒が美味いと言ってくれている。

 さて、長かった半年もようやく終わった。サイリル司教という心配ごとを取り除いたこれからのテオナナカトルは、積極的にスカウトを行うらしい。そのために、ユミルとローラは店に来れる日が少なくなるかもしれないという。……少し寂しいな。
 ナナ達は、一応この街にいて、酒場の経営を手伝ってくれるらしい。俺に付き合う意味はなくなったはずなんだけれどな。酒場で客の相手をするのが気に入ったのか、それともこの街でシャーマンを探す方が効率がいいと考えているのか。確かに、この街は人の出入りも多いし、人口も多い。後者の理由ならともかく、前者の理由だったら……嬉しいな。いくら酒場で人の笑顔に触れることがシャーマンの力を増させると言ってもさ……酒場で働く事がが好きになってくれたんなら、こんなに嬉しい事は無いよ。

 俺はどうしよう? とりあえずここで、テオナナカトルの皆が帰る場所を守っていればいいのだろうか?
 フリージア達ウーズ家は俺達には迷惑を掛けないようにと、この酒場と自分達が無関係であることを主張してくれたわけだし、完全とは言えないが俺達は安全だろう。もし危険が迫っていたら、周りの神器達がそれを教えてくれるとナナやジャネットが言うから、その言葉を信じてしばらくは平穏な日々を過ごそう。
 サラさんの墓参りにも、またいかなくっちゃな。黒白神教では祖先の霊を大事にしないと自分達を守ってくれないって言うから、この店の元主人にして俺を雇ってくれた恩人であるサラさんは大事にしなくちゃ。……最低な奴だったとはいえ、あんたが愛していた旦那さんを殺してしまった俺に、そんな資格があるのか疑問だけれどさ』
「……今日はこんなところかな」
 ロイは日記を閉じて溜め息をつく。

「今日はお客さんがお出ましのようだな……」
 部屋の様子に違和感を覚えたロイは、苦笑してつぶやく。
「出てこいよ、ナナ」
 ロイが微笑むと、ナナは笑みを湛えた表情で窓を開いて、そこからは這い出して姿を表した。
「どうしてわかったの?」
「戦士の勘さ。後は、三日月の羽が教えてくれた……ダークライがここに居るってね」
「そう、相変わらずその羽は敏感なのね」
「そうね、敏感だね」
 ロイは苦笑して肩をすくめる。
「でさ、今日は何のようかな? 俺はもう眠いから寝ちゃいたいんだけれどさ」
 すまないけれど、と付け加えながらロイは肩をすくめる。
「私はね……眠れないから来たの。ごめんね、あなたと全く逆だわ」
 ナナはベッドに腰掛け、身振り手振りを交えながら続ける。
「そうかい……ちょっとで良いなら付き合うよ」

「私……不安なの」
 それだけ言ってナナは沈黙する。ロイが隣でお座りの姿勢をしてもまだ不安そうな面持ちのナナに、痺れを切らしたロイが尋ねた。
「何が不安なんだ……?」
「私はね、親もそうなんだけれど……やることなすこと全部裏目に出て。そういう風に育ってきたからそういうのが怖いの……今回も、暴動が起こって多少の死者が出るのは正直……想定の範囲内だったけれど。
 このイェンガルドとその周辺の町が巡礼者たちのルートから事実上永遠に外され神龍軍による治安の維持を受けられなくなった。これは……こんなこと予想だにしていなかった」
「確かにな。これでこの街周辺は、悪くすれば犯罪者天国になってしまう。そうなれば……サイリル司教を悪魔に見立てて殺すなんて計画を立てた俺達の責任だ」
「良かれと思ってやったことが悪い結果を生み出す。それが幼い頃から何度もあった……この顔の火傷も……」
 消え入りそうなか細い声でささやき、ナナはダークライの髪で出来た紐を外して幻影の下にある正体を晒す。
「ロイ、聞いてくれるかしら?」
「……火傷の話を話したいと言うのなら聞いてもいいが」
「ありがと」
 ナナが口元に力ない笑みを浮かべる。
「私の母親はね、私が2歳後半の頃に死んだの……それで、ずっとずっと父さんが育ててくれた。私はね、財布を見てため息をつく父さんの姿が見ていられなかったの。幼い私は、財布を火の中に投げ込んだわ……」
「それはまずくないか?」
「幸い、財布って言ってもただの麻袋だし、お金も溶けたり変形したりせずに残ったけれど、私はお父さんに怒られてしまった。他にも、良かれと思って捻挫した足が冷えちゃいけないと思ってぬるま湯に浸からせたり……ねんざの応急処置って冷やすべきだったのね。でも、そんなことは可愛いことだった。
 私が、幻を自由に操れるようになって踊り子の幻影を見せるようになった頃ね……今回と同じように、巡礼……という名の侵略が行われていたの。他国へ赴き、神龍のための祈りを正しく出来ない奴らから略奪すれば、財と死後の幸福が約束されているから……神龍軍に入って聖地警備の任務に着かないかって誘われたの。あ、もちろん誘われたのは父さんよ。
 父は迷っていた。でも、決断させたのは私……楽な暮らしをしたいって、無邪気に言ったの。そして父巡礼に出て、確かにわずかばかりの財産は手に入れたようだけれど、前脚を片方失って帰ってきた。貴方と同じ、悪夢のおまけつきでね。
 父さんは……もう自分には構わず一人で暮らしなさいといってくれた。『どうせ仕事も出来ないこの体では、お前に世話をさせる苦労を掛けてしまう。それでは私が辛くなるだけだから』……ってね。でも、私は父親の世話を焼いた」
「それが間違いだったとお前は思うのか?」
 ロイが問いかけると、ナナは頷いてみせる。きっぱりと自分は間違っていたと言い張ったのだ。
「ある日、父さんが悪夢を見ていた。うなされた父親を起こそうとして私は……ヘルガーの父さんから、火炎放射をまともに、至近距離で浴びてこうなったの……私が間違っていたと思うのは……その後結局私が父さんを捨てたこと。私は、逃げた……父さんが僅かばかり残していた指輪や宝石と言った財産を荷物に詰め込んで……あてもなく逃げた。

 でも、あの日……父さんが私に『お前はもう一人で暮らしなさい』とい言ったあの日に私が居なくなっていれば……父さんは私を殺した罪の意識から自殺することなんてなかった。神龍信仰において大罪の道((自殺のこと。神龍信仰において自殺は大罪である))をたどることもなかったのに……」
「だからと言ってお前の優しさは無駄じゃないだろ……?」
「えぇ、無駄じゃなかったことなのかも知れない……でも、私はそれでも後悔するべきことだったと思う。確かに今私がこうしてテオナナカトルに居ることはすばらしいことだと思う。けれど、もしフリージンガメンを拾わなければ。テオナナカトルに出会えなければ……踊り子しか出来なかった、幻影を作ることもできずにのたれ死んでいたかもしれない。
 私怖いの……今はフリージンガメンが導いてくれているけれど、いつかはこのフリージンガメンも私を裏切るんじゃないかって。そもそもこのフリージンガメンに頼ること自体が裏目に出ているんじゃないかって」
 ナナが&ruby(フリージンガメン){琥珀の首飾り};を持つ手が震える。
「なんだよ、今は&ruby(それ){フリージンガメン};に頼り切っているクセして……」
「頼り切っているからこそ……なのよ」
 ナナもロイも沈黙してしまい、周囲は重い雰囲気に包まれる。
「ねぇ、南の大陸のオースランドにこんな神話があるの。平和を望んで……しかしやることなすこと、全てが裏目に出てしまったダークライが、時間を司る塔を壊して世界の時間を停止させた神話((詳しくはポケモン不思議のダンジョン空の探検隊参照))……」
「あぁ、知っている……ジュプトルとその仲間二人が最終的に世界を救うお話だな……ジャネットが神話の中でも異質((口伝が基本の神話の中では有り得ないほどに矛盾点・あいまいな点が少ないとされている。編集者及び作者が一人ないしはごく少数であり、なおかつその時代に正確に文字を操れた稀有な存在であるのがその要因だとされている))なものだとか言って読む事を勧めてくれたから知っている……で、それがどうかした?」
「人には神器との相性がある。ジャネットが湿った岩、私がダークライの髪紐、貴方が三日月の羽と言った風に……私は、自分がダークライと相性がいいのはなぜかって考えて、何度考えても神話のダークライと同じわだちを踏む運命を内包しているからだとかそういう結論に陥って、ずっとそれを恐れていたの」
「つまり……最終的にお前が世界を破滅させる存在になってしまうってか? そんなの、想像できねぇさ。ナナは、人の笑顔を見るのが好きじゃないか……そんな奴がどうして世界を破滅させる? 有り得ないだろ」
「えぇ、笑顔を見るのは好き……でも、不安は沢山ある。だってそうでしょ? 私のやることなすこと、裏目に出ているんだから……まるで神話のダークライのように。もう沢山よ」
 グスッと、ナナは鼻をすする。
「でもね、最近は不安を解消するための答えを一つ用意できたの」
 ふーっとゆっくりため息をついたナナが、ロイをベッドに引き倒す。
「それはね、クレセリア役の誰かと結ばれるためなんじゃないかって。だって、その神話の中のダークライは心の支えになる相手が居なかったんだもの。クレセリアは何か理由があってダークライの元から一度だけ去り、見離されたと思ったダークライはさらに心を病み、自分もクレセリアのことを避け続けるようになった」
 いつ涙するのかと言うほど暗い表情をしていたナナの顔が、明るい物に変わる。
「その時、隣にクレセリアさえ居れば……って思ったことがあるの。貴方のような存在がね……クレセリアの力と相性の良い貴方なら」
 今までの悲壮感漂う雰囲気はどこへやら。ナナはこのまま食べられてしまうんじゃないかと思うほど嬉々とした表情を浮かべている。

「な、なんだ……そうか。そういう方向に話を持ってきたかったんだな。俺がクレセリアになれってか……」
「うん……そういうこと。私は貴方が好きってことを伝えたかったの」
 しかし、ナナの表情はまたしおらしくなた。
「でも、ちょっと演技は入っていたけれど……それでも不安に思っていたのは本当よ。このまま突っ走ってもいいものかってね……豊作祈願のお祭り。果たしてその先に何が待っているのか? それは……それが、幸せな結末ならいいのだけれど」
「突っ走るのをやめたらテオナナカトルらしくもないし、ナナらしくもないだろうよ」
「そうかもしれないわね」
 ロイのまじめな返答に、ナナはそっけなく返す。
「ねぇ、ロイ」
「な、なんだよ?」
「私は貴方と結ばれるためにダークライとなったのだと思う。だから、あなたはクレセリアになるの」
「クレセリアは女しかいないはずなんだけれどな」
「細かい事はいいのよ」
 ロイの指摘はもっともだが、ナナはロイを鼻で笑って気にしない。
「気分だけでもそれらしいことをしたいの。いいかしら? 私を、抱いて」
 遠回りな言い方だが、要は男女の交わりをしたいとナナは言った。
「お前さ……男を素直に誘えないのか。まぁ、いいや。構わないよ。でも、痛くしたりしないでくれよ」
「大丈夫、なんだかんだで痛くしないように男の子を満足させるのも慣れたものだから」
 言葉が終わる。と、共にナナの髪の珠から力の流れが感じられた。枕元に置いておいた三日月の羽も呼応するように力を発する。
 安眠を約束するクレセリアの力と夢を見せるダークライの力、二つの力が混ざり合ったこの空間はどこか現実離れした空気に満ちはじめた。暑いはずの気温が嘘であるかのように二人は暑さを忘れ、文字通り夢中で口付けを交わす。いつもはナナが上に覆いかぶさる形が多かったが、今日は二人とも横向きに寝転がり、上下は無い。
 舌を絡めあっている間、ナナの手はロイの体を愛撫していた。体中の凹凸をねちっこくなで上げ、マグマッグが這うようにその手は股間へと伸びる。ナナは遠慮しないし、ロイは抵抗しなかった。
「ロイ……貴方は私を見限ることなく、見捨てることなく、そして常に私を支えてくれるかしら? 私はやっぱり不安……」
「俺はお前の過去を教えてもらっていないから良くわからんけれどさ……でも、俺だって絶対に死ぬと思っていたどん底からここまで這いあがってこれたんだ。大丈夫、そんなに心配するなよ」
 その会話をするためだけにナナは口を離したが、目的の会話を終えると再び一方的に口を塞ぐ。ロイはされるがままに鋭い牙の並ぶ歯列をなぞり合い、放熱のための器官である舌同士をさらに熱で躍らせる。やはり、二人は暑さを微塵も感じていない。

 二人がおかしくなっただけではないし、二人が身に着ける神器のせいだけでもない。興奮と神の力の相乗効果。深く眠りに落ちるようにゆっくりとロイには快感が訪れる。寝返りをうつよりもゆっくりなナナのペースに焦らされているとも感じず、逸る気持ちもわかずに身を任せていたいと思い続ける。ナナの『絶妙』では安っぽいが、それ以外の言葉も当てはまらない手淫の技巧に、ロイは体の芯まで愛撫されているような夢心地。
 口の中をひたすらかき回されながら、下半身にも絶え間ない刺激。ロイが達しようとした直前に、ナナは愛撫を中断してしまった。
「おい、ナナ……どうして途中でやめるんだよ?」
 恥も遠慮なしに物欲しそうな瞳で言うロイがナナは愛おしくてたまらない。このまま射精させてしまいたい衝動をぐっとこらえて、ナナは無理やりに笑顔を作る。
「言いたい事は分かっているわ……いい所なのに中断しないでくれって言いたいんでしょ? でも、そんな時だからこそ……」
 ナナが糸を吐くように細く長い呼吸をして、ゆったりとベッドに仰向けになる。
「ロイ……私はね、さっきも言った通り不安なの」
 本を朗読するかの如く、整った喋り方でナナが言う。
「ゼクロムをこの地に呼び出し、大地に走る龍脈に力を与える……そうすれば、この国の実りが豊かになる。そう、それで喜ばないものは誰もいない……昔はそう思っていた。でも、本当にそうかしら?
 私達の国が豊作になれば周辺の国の者は嫉妬するかもしれない。その嫉妬は憎悪となり『我々の国の実りが少ないのは奴らが大地の活力を奪ったせいだ』と言われかねない。
 その大義名分があれば、民兵を動員するための原動力となる。そして大義名分があれば、戦争を正当化できる……」
「そうだな。でもそれだけじゃないぞ」
 ロイは仰向けの姿勢をやめ、横に四肢を投げ出して続ける。
「人は豊かになり量が満たされれば、次は質で満たされたくなるものだ。香辛料、砂糖やチョコ、コーヒーやタバコなどの嗜好品。金銀などの貴金属や宝石……それを得るために奴隷がいくら駆り出されるだろうかね?
 神権革命によって国がごたごたしているうちに他国がこの国を攻め込もうとしているなんて噂も立っている。それに対する備えのために現在でさえかなりの奴隷狩りが行われていると言うのに……奴隷狩りが今以上になることだって予想できる。&ruby(虫の楽園){南西の大陸};に住む者達はたまったもんじゃない」
 お座りの姿勢になったロイの冷静な物言いにナナは沈んだ表情をする。
「じゃあ、ロイ? 私がやることは……裏目に出るのかしら? 神話のダークライと同じ道をたどるのかしら?」
「まぁ、そうなるかもしれないがな……」
 ロイはかぶりを振って否定した。
「蝶が羽ばたけば地球の裏側で嵐が起こるなんて話((俗に言うバタフライ効果と言うもの。カオス理論の引き合いに出される))がある……けれどそんなことは早々あるもんじゃないだろう? 俺が言ったこともお前が言ったこともこじつけに過ぎないさ……。実際、豊作の祈りをささげることで1年2年豊作が続いたって、それだけじゃ羨む理由には足りても攻め込む理由には足りない。せいぜい、出稼ぎに人が流れてくるくらいだろうよ。むしろ経済が潤う。
 それにさ。お前は平和のためにその神様とやらを呼び出すわけじゃないんだろ? 確かゼクロムとレシラムはこの世界を支えてきた家族のようなものなんだっけ?」

「うん……」
 控えめにナナは頷く。
「家族に会いたい。それに酒を振る舞いたい……それが間違ったことではないはずだと、ナナ。お前は言ったはずだ。お前は今間違っていると思い始めたのか? ゼクロムだかレシラムだかに会って、酒を振舞う。それが裏目に出ようが出まいが……それとこれとは関係ないはず。
 だからと言って、知らぬ存ぜぬで居られないのは分かるが……それってお前が悪いのか? 善意を踏みにじったのは誰だ? 誰が悪いのかよく考えてみろ……どういう結果になったって、ならなくったって、お前が悪いなんてことは無いんだよ」
「私、昔はね……食料がたくさんがあれば皆仲良くできるって無邪気に信じていた。けれどね、勉強をするたびにそうじゃない事がわかって、段々怖くなってきた。今回サイリル司教を殺したことで、神龍軍がこの街から消えることになったのは……もしかしたら最後の警告なんじゃないのかとも思ったの。『私が軽率な行動をすると酷い結果が待っている』っていうね。
 それでも私は……ジャネットが願った無邪気な願いを叶えたい。私は……この世界を支える神と会いたいの」
「神に会ったとして……それでお前は何を得る? そしてそれを得ただけじゃダメなのか?」
「満足……かな? 例え次の年が大豊作になろうと、戦争が始まるんじゃね……意味無いわよね……満足できない」
 口にする内に思いつめたナナは、琥珀の首飾りを胸に押し付ける。
「フリージンガメンは何も教えてくれない……私に道を指し示すだけ……私を止めようとはしない。貴方を仲間に引き入れたのもフリージンガメンなのに……フリージンガメンは私に対して道を指し示すだけで、私達を止めようとはしない。もしかしたら、ヴィクティニとの戦いに……私達を巻き込もうとしているのかもしれないわね。
 そんなことになりたくないでしょ? でも、私はフリージンガメンに頼り切っている……フリージンガメンの依存から抜け出せないの。だとしたら、私を止める役目を担ったのは誰? ……ねぇ、ロイ?」
「……俺だって言いたいのかよ、ナナ」
 しおらしく、優柔不断なナナに呆れながらロイは言う
「えぇ、言いたいわ……」
 口元を笑みで歪めたナナがロイに覆いかぶさる。

「ちょ、ナナ!!」
 ロイの前脚を押さえつけて天を仰がせ、ナナはロイの肉棒にかぶりつく。今まで汗と先走りで僅かにしか濡れていなかったそこが、唾液をたっぷりとまぶされ熱を伴う。長い話をしている間にすっかりと堅さを失ったそこも、ナナの不意打ちによって即座に堅さを取り戻した。
「ねぇ……ロイ?」
 唾液にまみれた口周りを晒してナナが笑う。
「なんだよ」
「私を止めてみないかしら?」
 再びごろりと仰向けになって、ナナは艶めかしい肢体でロイを誘惑する。手を使わないで自慰するかのように股を擦りあげていて、火傷や年齢さえ気にならなければ、男はこれだけで欲情せざるを得ない。
「とめ……る?」
 唐突な言葉の意味を図りかねて、ロイは素っ頓狂な返答をする。
「私は処女。私は処女だから神子になれる……そして神子として……祭りに参加しようとしている。じゃあ、私が処女を失ったならば……私は神子からただのシャーマンになり下がる。私がシャーマンに成り下がったらもう、何十年も前から行われていない祭りを今更復活させる気も起きなくなるわ。
 だからロイ。祭りなんてくだらない、ナナがそんな事でいろんな問題を起こすところなんて見たくない。そう思うなら……私の処女を奪って、ロイ。もう、祭りを復活させるだなんてくだらないこと、やめちゃいましょうよ。
 私、神に愛されていることを確認したいがために人生の半分以上の時間を費やしてきたけれど……貴方に愛されていればそれでいいかもしれない」
 投げやりな口調をしてナナが誘う。
「俺が、お前をの処女を奪わないことでナナを止めるのか……こんなに、欲情させといてよく言う」
 ロイはお座りの体勢を取り自分の下半身に滾る物を覗き見て毒づく。
「そう、欲情させている。それでも、処女を奪うことなくお祭りの準備を一緒にやってくれる? 最後まで私に付き合ってくれる?」
 ナナはロイの前脚を撫でる。
「私と一緒に祭りを行いたい……と、かつて貴方は私に賛同してくれた。けれど、さっき話した通り豊作や幸福を祈願する祭りが成功したとして、その成功が招く事態が必ずしも良いこととは限らない。
 よい結果を招くとは限らない……ならば、それを止めるべきかどうか……貴方が決めて」
「お前の歩みを止めるなんてやなこった」
 ロイは明瞭な声で即答する。
「……ったく、意地悪な奴だ。その潤んだ眼、もうすでに濡れ始めている大事な所、何かを求めるように開いた口……反則だ。反則的な魅力だ。なのにお預けを喰らうだなんて……悪い女だ」
「幻影で取り繕っていない私はそんなに美人じゃないのにぃ……私の事をそんなに褒めても何も出ないわよ?」
 褒めちぎるロイに対して決まり文句のような照れかくしを言う。
「確かに、お前の火傷の跡は醜いさ。でもダメ。お前は火傷していても魅力十分じゃないか。それに、それを補える魅力があるし。純粋に他人の幸福を願える心がさ。祭りを行いたいっていう無邪気なところも大きな魅力だよ。
 いいじゃないか、祭りで得られるものが自己満足でも。戦争が起こるのはそりゃ悪い事さ……でも、戦争なんていつだっていずれ起こることだ。もしも、俺達が祭りを行ったとして……その祭りによってこの地域が豊作になったとして。それで戦争が起こっても……お前や俺の気に病むことじゃない。俺はお前を責めたりはしない。絶対にね。お前の魅力を信じることにする」
「あらら、そんな理由で……貴方はこんな美女で処女な私を前にしても貞操を奪わなかったわけだ……私の女としての魅力、そんなに無いかな?」
「大ありさ」

 ロイは余りに歯の浮きそうなセリフに肩をすくめながら口にする。
「でも、お前の事は例え男であっても魅力的だったと思うよ。何十年も行われていない祭りを復活を行おうとしているその姿勢が魅力的だ。祭りを行うためにはシャーマンとしての力を高めねばならない。そのために人助けも殺しも請け負い……色んな人の人生を見ている。それが魅力だ。
 その証拠に、ローラも同性でありながら若干お前に惹かれているし、歌姫だってジャネットだってお前をリーダーだと認めているんだろう? お前にはそういう魅力あがあるから……お前の処女を奪う事が、同時に魅力を奪う事に繋がるなら……俺はお前の処女を奪えない。
 処女を奪うのはさ……せめて目的だった祭りを成功させてからにしてくれ。『男は女の魅力を育て、女は男の魅力を育てるものだ』って親父が言っていたし。お預けは辛いが、親父のように立派になるにはそれも通過儀礼だ」
 力なくロイは笑い、小さなため息をついた。
「ありがとう……それと、ごめん」
 ナナは起き上がり、ロイを抱きしめた。
「なんか変なこと試しちゃって……本当は、ロイは私の処女をこんなタイミングで奪ったりしないって信じていた。けれど……誰かに後押しして欲しくって……本当にごめんね」
「はは、謝るくらいなら最後までやってくれ。このままじゃ収まりが付かないよ」
 力なくロイが言うと、ナナはロイの頬を優しく撫でる。
「最後までやったら、あそこで焦らした意味がないじゃない……あの誘惑に耐えてまで、私と一緒に祭りを行いたいって言って欲しかったから私は誘惑したんだもの。そうね、イかせてあげるのは次にお預けね」
「え、そんな……」
 と、その先を言おうとしたロイの口をキスで塞ぐ。

「そうそう、もう一つだけ謝る事があったわ。前こういう雰囲気になった時は……『次はもっと甘えていい』って言ってあげたのに、結局今日は私が甘える結果になっちゃった。そうね、『頼りがいの無い男って』いつかあなたの事を言っちゃった気がするけれど、撤回する。
 ロイ、貴方はとっても頼りがいのある男の子ね。た・の・も・し・い・わ。これからも持ちつ持たれつよく付き合って行きましょう」
「あ、あぁ……よろしく」
 唐突な話の転換や雰囲気の変化について行けず、ロイは戸惑いながら返事をする。
「ところでロイ……この部屋に入っていたときから気になっていたんだけれど、あれ何かしら?」
「ん?」
 と、ナナが指さす方向へロイが振り向いても何も無い。嫌な予感がしてナナのいる方を振り向くと、すでにナナは消えていた。なんとも粋な退場の仕方だが、中途半端な状態で残されたロイは非常に煮え切らない。
「いつから幻影だったんだろう……このままじゃ俺眠れないよ……」
 ナナに滾らされた肉欲を解消するには、結局自分がどうにかするしかないようだ。大きくため息をつき、ロイは立ちあがる。
(性欲が治まるまで、日記でも書こう……)
「ったく、本当にナナは何しに来やがったんだ!!」
 毒づきながらロイはペンを口に咥え、インクの蓋を開く。

『人は誰もが赦されて生きたいんだ。赦すという事は、愛するという事……後ろめたさを感じたまま愛されることも嫌で、つまるところ、後ろめたさを感じたまま生きる事は苦痛なんだ。神龍信仰は、その赦されたい相手が神龍であるというだけ。黒白神教は、許されたいと思う相手が唯一でも絶対でもない、豊穣の神様だったり白陽の神様だったりご先祖だったり……たったそれだけの違いなのに、信仰ってのは本当に難しい。
 ナナも神に愛されて生きたいとか言っていたけれど、神龍信仰の奴らは神龍の愛を求めてもらわなければ困るって言うんだから……どうしてここまで話がこじれるのだろうな。
 まぁ、宗教に関する愚痴は置いておこう。フリージアは何度もすまないって言っているんだ。

 そんなことよりも大事な問題があるんだ。俺はまぁ、神に赦されて生きることももちろん大事だと思う。けれど、もっと身近に赦してもらいたい人物がいるんだよな。俺には……まだ、本気で誰かに愛してもらいたいって思った事は無いんだけれど……ナナにならば。そしてナナも俺に愛してもらいたい……赦されて生きたいようだ。

 ナナは思いつめた表情をしていた(何処まで演技か分からんけれど)。それで、↑で書いた神龍軍がこの街からいなくなる件を気にしていた。
 ……まぁ、良かれと思ってやったことが困った事態を引き起こしてしまうと言うのは確かに気持ちの良いものではないかもしれない。自分を神話のダークライになぞらえて戸惑ってしまうのも分からないことじゃない。自分を止めて欲しいと思うのは間違っていることじゃないのかも知れない。
 豊作祈願の祭りが戦争と奴隷狩りを引き起こす……か。有り得ない話ではないが、あまり現実的な話しでもない。でも心配は心配……か。
 ナナが心配したそれが現実になったとしても、俺はちゃんとナナを支えてあげなければならない。それはそれは辛いかもしれない、苦難の道かもしれない。けれど頑張ろう。
 あの時、誘惑に耐える事が出来た俺の気持ちを強く保ち続けてやればいいんだ。だからナナ……お前がダークライの神器と相性が良い事を、気にしているなら……俺がクレセリアの神器と相性がいい事を思い出してくれ。……なんだかんだ言って、俺もナナが好きだよな。
 守ってあげたくなる。不安そうなナナを赦し、愛してあげたくなる……

 ふう。くさい台詞で息がつまる。後はそう。ナナの言っていたお祭りやらを成功させるために力を尽くそう。俺が出来る限りをやってみよう。そして、いつかは……フリージンガメンの予想の上をいく幸せな家庭を築けたらいいな。
 テオナナカトルの活動は、これからが本番だな』

「さて、と……」
 ロイは寸止めの後にお預けを喰らった事については、悩んだ挙句日記に書く事をやめた。万が一誰かに見られたらあまりにも恥ずかしいからである。
 そうしてペンを置いたロイは室内を月輪で照らすのを止め、辺りを真っ暗闇に戻す。先程懐中時計を見た時は、もう午後3時を回っていた。ロイがようやく眠ることが出来ると、気持ちよく溜め息をついて、すぐに静かな寝息を立てた。
 いつもより穏やかな眠りは、明日からも動き続ける街での活動に備えるために深い眠りであった。

**後書き [#c049b2c6]

元々、長編用に作ったこのお話を選手権に投下するのは無理があったと反省。
後付け設定が次から次へと出てきて最初の設定と色々変わってきて、キャプション詐欺になってしまったこともお詫びいたします。
最後が&ruby(お預け){あんなん};なのも本当にすみませんでした。

製作期間は6月21日から今日まで。長すぎてうんざりしたかもしれませんが、最後まで読んでくれた方は本当にありがとうございました。

大会跡地。
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