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スパイラル -鎔- 1 の変更点


written by [[アカガラス]]

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[[スパイラル -鎖-]]


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この物語には主人公という概念存在しません。あしからず。
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&size(25){スパイラル -鎔- Ⅰ}; 


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とっくに東の空からの陽光は瞼を貫いていたけど、意識は内で押しとどめていた。
サフュアとルシアが他愛のない話をしながら部屋を出て行くときも目だけは瞑っていた。
気を遣ってくれたのか真意の底ははかりかねるけど、私を起こそうとしなかったのは好都合だった。
なかなか寝付けずに、整然としてきれい過ぎるこの部屋と私の混沌とした心はどれくらい相反するものなのか、とくだらない思案に耽っていた。
恐怖は拭えなかった。人間とは憎むべき対象であり、また避けるべき対象でもあった。
その『経験』が私の根幹を成していて、それが崩れ去って自分を確立できなくなってしまうのではないかという危惧もあった。
ルシアを面白半分でからかってみたが、こんなふうに人間とも気兼ねなく接することが出来ればいいと、淡い期待に虚しさが混じったような感情が泡沫のように音もなく湧き上がるだけだった。
でも&ruby(コウ){あの人間};には何故か拒絶反応を起こさなかった。だから、そのうち自然な形で付き合えるようになるかもしれない。
あくまで勘の域をでないけど、良くも悪くも裏表のなさそうな……始めて目にした人種だ。
裏表と言うよりは、たとえ隠していても勝手に滲み出てしまうというほうが語弊なく言い表せる。
もちろんそれで信用が置けると言うわけではないけど。
「おはよーアノン。そろそろ起きたほうがいいんじゃない?」
不意にドアが開き、その隙間からサフュアが顔を出していた。
「……そうね。……ルシアとか他の人は?」
「とっくの昔に学校に行っちゃったよ。コウの親たちは仕事に出たし」
そういえば昨日サフュアが学校のことを楽しそうに話していた。
そのサフュアがなぜ行きたいはずの学校にも行かず、ここに留まっているのか、なんとなく察しがついてしまった。
「……ごめんなさい。私を独りにしないためにわざわざここに残ってくれているのよね?」
「半分正解。どちらかというとルシアが学校に行きたいってわがまま言ったから、かな。本当はルシアの予定だったんだけどね」
申し訳ないと思っていたが、彼女の喋り方を聞いていると不思議とそんな気持ちが鎮まってくる。
私が不謹慎なわけではなく、サフュア自身が残念そうに話していながら表情は正反対だったからだ。
「それより、朝ご飯まだ食べてないんだよね。食べに行こうか」
なんだかニュアンスの微妙なおかしさを感じて、不安に近い感覚を覚える。
「家の中で食べるのに『食べに行く』って少しおかしいと思うんだけど」
「家の中? 私は外に行くつもりだったんだけどな。何もすることないじゃん」
昨日辺りから薄々気付いてはいたけど、サフュアと私の思考回路はどうも真逆の位置にあるらしい。
「散歩がてらに木の実とって朝食にして、住宅街を探検しつつ道行くトレーナーとバトル! もしそれが新人だったらなおのこといいんだよねー。トレーナーがいないから楽に倒せるなんて油断してるところを返り討ちに……たまに野生と勘違いしてモンスターボール投げてくるやつもいるけど……」
「ちょっと待ってよ。昨日ルシアがこの辺に木の実なんかないって言ってたじゃない。それにトレーナーとなんか絶対に会いたくない」
「自生している木だったらそんなにないけど、人ん&ruby(ち){家};の庭だったらいくらでもあるよ」
そんなことしたら泥棒じゃない。
「どうしても嫌だっていうなら、ずっと家にいても構わないよ。その代わり家の食べ物に手をつけちゃだめだからね。コウのお母さんの料理の予定が狂っちゃ困るし……ま、もともと私たちの手の届く範囲に食べるものは置いてないけどね。コウこういうときはいっつも昼食のこと計算し忘れるし」
「嫌。絶対に行かない」
絶対行くものか。人間に会う可能性のあるところには毛ほども触れたくない。
「……そう。じゃあ仕方ないね。ここで留守番してて」
彼女の去り際の顔がスローモーションに見えた。
……絶対に行かない。後悔するのは目に見えている。絶対に。
今日一日くらいの空腹ならそんなに我慢しなくでもいいはず。

&size(7){グゥーーー};

こ、この程度の空腹なんて……。




「結局ついてくるんだね。ルシアに聞いたよ、昨日そんなに食べてないんでしょ。やっぱりお腹すく?」
「……人間に会わないならって思っただけ」
この家の庭は広かった。裏口の小さな穴から顔を出すと、なかなかどうして広い世界があることに感嘆する。
玄関の&ruby(シャンデリア){装飾品};はただの&ruby(かざり){装飾品};ではないんだと改めて認識する。
空は曇っていたが、ところどころ雲の隙間から空の色らしいものが見えた。
「じゃ、アノンの気が変わらないうちに行っちゃおうか」
サフュアはこの庭をぐるっと囲んでいる壁――生垣の左隅に向かっていく。
そこにはごく自然な形で、だが明らかにわざとあけたような穴が開いていた。秘密の抜け道と言ったところだろうか。
「ほら早く。……枝が突き出てるから気をつけてね……」
注意を促されながら、慎重に穴の中を通る。心もちせり出したコンクリートの仕切りを越えると、『閑静な住宅街』と言う言葉がぴったりの景色が広がっていた。
「裏はこんなふうになっていたのね」
「……人がいなくて安心した?」
「……まあ」
左右に広がる路地のいずれにも人影は見当たらない。
右側に見えていた丁字路に橙色の服を着た人が突っ立っているように見えたが、ただの錆びついたカーブミラーだった。
それにすら動くものが映っているように見えないあたり、きっとこの辺りは人があまり出歩かない場所なのだと認識させられる。
「平日だと誰も見当たらないね」
「ヘイジツ?」
耳慣れない言葉だった。
「そっ、平日。私たちポケモンにはあんまり関係ないんだけどね。人は働いたり学校に行ったりする日と休む日を区切ってるの。今日は月曜日だから平日。つまり、人はほとんどいないの」
出歩かないんじゃなくて、出かけているからいないのか。
そういえばあの男は何日か外に出かけ、たまに家にいることがあった。それも決まった周期で。
長らくその理由は不明だったが、それは『ヘイジツ』の仕業だったらしい。
そうなのならば、常に『ヘイジツ』であればよかった。そうすれば多少なりとも苦痛に耐える時間は減ったはずなのに。
「アノ~ン? だいじょーぶ、ぼーっとして?」
大丈夫じゃないのかもしれない。それでも首は反射的に縦に振っていた。
「ここから少し歩くよ。おいしい木の実がいっぱいなってるとこ知ってるから」
そういうとサフュアは右手の方向に歩き出す。私も歩き出すのには勇気が要るが、ついていくほかなかった。

私も彼女も無言のまま歩き続ける。サフュアの言ったことは多少疑っていたけれど、本当に人間が現れないのは驚きだった。
数分歩いたところで、突然サフュアが立ち止まり、それに続いて私も立ち止まった。
そこには一軒の家があった。どこでも見かけられそうな平屋だったが、確かに周りから浮いていた。
サフュアたちの家は除き、この辺りの住宅はみんな似通っていた。外壁は明るめで、屋根は黒単色。ほとんどが二階建てだ。
だからその古びた平屋は、まるで時代の流れに取り残されてしまっているかのようだった。
「アノン、こっちこっち」
私が見とれている間に、サフュアはこの家を囲んでいる石塀に沿って、裏手へ回ろうとしていた。
石塀と隣家の隙間は、文字通り人っ子ひとり通れないような狭さだった。
サフュアは慣れているのか難なく通り抜けていたが、私は何度も引っかかったり躓いたりした。
なぜ朝食を食べるのにこんな苦労をしなければならないのかとサフュアに毒づくが、本人は涼しい顔をしていた。
「ほら、ここだよ。頭ぶつけないようにね」
裏手も同じように石塀で囲まれていたが、下に穴が開いていた。
人為的に開けられたものか、自然現象によるものか、……まさかサフュアが? いずれにしろ、偶然に壊れてしまったようには見えない。
それよりも何か大切な思考が欠落していた気がする。
「ちょっと、勝手に入るのはだめじゃないの? 泥棒する気?」
「違うよ、&ruby(人){ポケ};聞き悪いなあ。とにかく入りなよ」
サフュアは私の言っていることをまったく気にも留めず、するっと穴をくぐり抜けてしまった。


&size(20){    ~};


コウの学校においてポケモンに関する校則(俺の知っている範囲のもの)は次の通り。
・校舎内でポケモンをモンスターボールから出せるのは原則として昼休み、放課後、『闘』の授業のみ。
・身長が1.4mを超えているポケモンは帯同できない。
・校舎内での技の使用は禁止。ただし『&ruby(バトル){闘];』の授業を除く。
この学校は優等生ばかりで頭の悪い奴らがほとんどいないらしいから、この規則が破られることは滅多にない。
ただし、教師にバレなければいいなんてろくでもないことを考えている連中は、教師のいない朝にポケモンを教室の中に放ったりする。
しかも朝はほとんど人が来ていないから、馬鹿にとってはやりたい放題の時間だ。
俺もその連中のうちの一人――コウによってモンスターボールから引きずり出される。
迷惑キマワリ……じゃなくて極まりないけど、大抵は同じような境遇のポケモンがいるからそれほど退屈はしない。
「よう、&ruby(ユウキ){祐樹};」
「おう、&ruby(コウイチ){浩一};。昨日はどうしたんだよ」
「いや、まあなんていうか……諸事情が……」
コウが休日とサボり休み……計3日を挟んで久しぶりに再会した友達と挨拶しているとき、こっち、つまりポケモン同士で行われているのも同じような挨拶だった。
「あ、ルシア、おはよう、です!」
「……おはよう」
この語尾に ! がつくぐらいやたらと元気がいいのはゴマゾウのアクロ。性別は雄。&ruby(マスター){主人};はコウが話している相手――祐樹だ。
身体的な特徴は大きな耳と長い鼻、そして水色の体、トレードマークは額に貼ってある絆創膏。
昔悪ふざけで額に怪我をしたらしいが、今はそんなあとはどこにも見当たらない。それでも毎日&ruby(マスター){主人};である祐樹に頼んでそれを貼ってもらっているらしいが、理由は不明だ。
ちなみにいつも昼食と一緒にとっている仲間の中では一番年下だ。
そのせいなのか、それともアクロ自身の気質も関係しているのかは分からないが、話すときはいつも敬語。だが名前は呼び捨てにするのがアクロ流。
「昨日はどうしたんですか?」
「ああ……ちょっとコウに外せない用事ができて……」
「そうなんですかー。でも祐樹が『あいつ出席日数危ないんじゃないか』って心配してましたよ」
それは俺も心配してるけど……どうせ言っても「そのうち本気出すから」と取り合ってくれないのがオチだ。
「あれ、サフュアはどうしたんですか?」
アクロはその存在感溢れる耳を軽快にパタつかせながら、きょろきょろと辺りを見回している。
いつもの朝の視界に映っているはずのクリーム色がないと落ち着かないらしい。
普段は姉さんは大概アクロを脅かすためにロッカーや教卓に隠れていて、それに素直に引っかかるというのがお決まりのパターンなのだが、今日はその様子が一向にないことを薄々感じているようだった。
「ああ、そのことなんだけど……今日は来てないんだ」
「えー!? なんでですか!?」
アクロがあげた素っ頓狂なけたたましい声は、開けっ放しの教室の戸を飛び出して廊下中に響き渡った。
「おい、うるさいぞアクロ」
祐樹にたしなめられたアクロはしゅんと&ruby(しょげ){悄気};かえる。見た目そのままの子供っぽい反応だ。
「……なんでですか? 風邪? 食あたり? まさか怪我でもしたんですか!?」
「どれも外れてるよ……。事情があって来れないだけ。明日は来るはずだから」
明日は来ると言った途端にアクロの顔がパッと明るくなる。流石仲間に『サフュア大好きっ子』とあだ名されることはある。
「でも事情って何ですか?」
「それはあとで話すから……」
とりあえずアクロにだけ話すことは後々面倒なことになりそうだから止めておく。
見た目も頭脳も子供な奴に中途半端な情報を与えると曲解して伝聞してしまうこともあるから、それだけはどうしても防ぎたかった。
アノンの境遇や見た目の痛々しさを考えると、やはりことは慎重に進めなければならない。
「え~……教えてくださいよ~」
「だからあとで話すって……」
「今でもあとでも変わらないじゃないですか」
しつこいな。
「じゃあ逆に言えば今話さなくてもいいって事でしょ」
「…………ケチ」
今ので何か切れた。
「はわわ!?」
……ゴマゾウ浮かせるのって結構労力が要るものなんだな。
「お、おい、ルシア、何やってんだ!」
「すげえな浩一。ルシアってこんなに『サイコキネシス』操るの上手かったっけ?」
「いやそこじゃないだろ! ルシア、早く……」
「ちょっと、アクロに何してんのよー!!」
コウの声を遮った音はどこかで聞いたことがあるような声だ。それもつい4日前に。
えっと……ああそうだ。このハイパーボイスまがいの馬鹿でかい声はチェリーだ。
……なんて考えてたときには、俺の体はチェリーの攻撃による衝撃で、ロッカーがずらりと並んで形成された壁に向かって緩い放物線を描きながら飛んでいた。
その間に俺の体を受け止めてくれる頼もしい障害物は無情にも存在せず、眼下に広がる机の海に見守られながら……激しく背中を打った。
耳にガンガン鳴り響く轟音と、強烈な痛み。
なんかもう……突然すぎて声が出ない。
他に朝早くから来ている何人かの生徒からの「またやってるよ……」と言わんばかりの視線が痛い。
「よおチェリー。『転がる』の精度だいぶ増したんじゃないか?」
「浩一、そこじゃねえって」
くだらない漫才なんかやってないで、少しは自分のポケモンのこと案じる気持ちはないのか。
しかも『サイコキネシス』の効き目がきれて自由落下をはじめたアクロの下には、風船化したチェリーがしっかり待機していた。
軟らかい緩衝材に受け止められるアクロが羨ましい。
「あ、ありがとうです、チェリー……」
「どういたしまして☆」
チェリーはその感謝の意にしっかりウインクしながら応えていた。

俺に突然暴力を振るってきたこいつの名前はチェリー。プリンの雌だ。
体の特徴を端的に言えばピンク色のボール。それだけなら可愛いで済むけど、俺には怪物が妖精の皮を被ったようにしか見えない。
レベル的に『ハイパーボイス』は使えないはずなのに、彼女の&ruby(だいおんじょう){大音声};を聞けば丸一日頭痛に悩まされることになる。
アクロはサフュアを気に入ってるが、チェリーはアクロを気に入っている。それが俺をぶっ飛ばすという暴挙の理由だろう。
ただし、二つの関係で決定的に違う点は、前者は思いが通じ合っているが、後者は悲しいほど一方通行だ。
アクロにしてみれば、何かと粘着質なチェリーは嫌いなわけではないだろうが、苦手意識をもたざるを得ない存在のうちのひとつだろう。

「いてて……」
背中が激しく痛んで起き上がれそうにない。
でも問題はない。こんなときでも助けてくれる人はいる。
「あ、ごめんなさい! ルシア君大丈夫?」
今俺に話しかけた長髪の人間の女性――チェリーの&ruby(マスター){主人};の&ruby(アヤカ){綾香};がその人だ。
「なんとか……大丈夫……」
「ほんとごめんね。あとでチェリーにはきつく叱っておくから」
できれば永遠に叱っていてほしい。
ていうかその前にあの奔放なチェリーを朝っぱらからボールから出しておくのは止めてほしい。
大体なんで頭の良さそうな彼女が校則を平気で破り、しかもコウたちと仲がいいのか分からない。
「おい、先生来たぞ」
ちょうど綾香が俺を起こしてくれたとき、コウが廊下を戸から覗き込みながら言った。
「うわ、マジかよ。あのハゲ……なんで今日に限って……」
ユウキは先生の悪口を言いながらボールを取り出し、チェリーに乗っかりっぱなしだったアクロを引っ込めた。
「ほら、チェリーも戻って」
「はーい」
チェリーも素直にボールの中へ戻っていった。
それに続くように、俺もボールの中へと入れられる。……ロッカーが微妙にへこんでたけど直さなくてよかったんだろうか。
それにしても朝からとんだ災難だ。背中の痛みが今日のバトルに響かなきゃいいけど……。
アノンのことは昼休みに、朝いた面子にハルとリキマルも揃ったら話すことにしよう。
姉さんのほうはアノンとうまくやっているんだろうか。少しは打ち溶け合ってくれてればいいんだけどな。


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「早く来てよ」
いつまでたっても塀をくぐろうとしないアノンにしびれを切らす。
もちろん十中八九こうなってしまうことは分かっていたけど。その上でこの荒療治を選択したわけだから。
さっきちらりと家の縁側をのぞいてみたけど、いつもどおりひとりのおばあさんが座っていた。
何をするでもなくぼうっと庭の木を眺め、時折やってくる小鳥たちに餌をまいている。
ここにはよく休日に遊びに来て、話をしたり木の実を食べたり……特に授業のバトルやこの辺りの冒険に疲れたときには、ここでのんびりと過ごすことが多い。
……なんていう話は置いておこう。アノンをここに連れてきたのにはもっと大きな理由がある。
例えば、人間に慣れていないポケモンをどうにかして慣れさせたいと思ったとき、わざわざポケモン嫌いの人間に会わせるようなことはしない。
そんな役目を果たせる人間は、然るべき優しさ、道徳心を持ち、ポケモンに対して惜しみなく愛情を注げるようでなければいけない。
ってポケモンの私が言うのもどうかと思うけどね。
まあそうなってくると、アノンがある程度(といっても僅かだけど)気を許しているコウと同等かそれ以上の優しさを持つ人間に会わせる必要がある。
私が知っている範囲でその条件を最上級に満たしている人は、ここのおばあさんしか知らない。
『人畜無害』っていう言葉があるけれど、まさに彼女にふさわしいこそ言葉だ。
さて、ここからが本題。どういう順序でアノンを中に引きずり込もうか。
おなかがすいているとはいえ、人がいると分かれば木の実を理由に釣ることは出来ないだろうな。
……まずはおばあさんと話してこよう。
「こんにちは~」
庭の隅から少し顔を出して、縁側に向かって挨拶をする。
ちょうど餌をまくのをやめ、編み物をしていたおばあさんは、私という突然の訪問者に視線を向け、そばに置いてある老眼鏡に手をかける。
けどそれをかけるまでもなく、私のぼやけた全体像を見て、いつもの来客だと判断したみたい。
「あらぁ、サーちゃん。よく来たわねえ」
この『サーちゃん』と言うのがこの庭にいるときの私の呼び名。
親しみやすいというのもそのあだ名をつけられた理由のひとつだけど、おばあさんにとっては「フュ」の発音はしづらいらしい。
というより、本来この国にはその発音がなかったらしいから、当たり前っちゃ当たり前なんだけどね。
だから頭文字にちゃん付けで呼ばれる。はじめはむず痒かったけど、今はもう慣れている。
「ねえおばあさん、今日は友達を連れてきたんだけど……」
「そうなの? 珍しいわね。どんな子かしら?」
正直……迷う。アノンの実情を話したほうがいいのか、話さないほうがいいのか。
もし言ったとして、余計な先入観――同情や憐憫の感情を含んだ目で見られているとアノンが感じ取ってしまえば、ここに連れてきた意味は無くなるどころか逆効果だ。
でも、何も説明しないわけにはいかない。
「えーっとね、遠いところで……長い間野生として暮らしていたポケモンなの。だから体のあちこちに傷があるんだけど……可愛い子だよ」
苦し紛れの嘘だった。野生で長く暮らす&ruby(イコール){=};傷だらけ、なんて方程式が当てはまるポケモンなんてそういないだろう。
たった今頭の中で組み立てたイメージだった。
おばあさんは「そうなの?」と疑問を持っているかのような表情だったけど、ある程度納得はしてくれたようだった。
あとはアノンをどう引っ張ってくるか。石塀の穴へ再び向かいながら、どんな文句を使えばアノンを動かすことが出来るか考えた。
相も変わらずアノンは穴をくぐらずにうろうろしている。帰りたくて仕方がないと誰から見ても分かるような様子だった。
「まだ入る気にならないの?」
「だって……人がいるじゃない」
さっきおばあさんに挨拶した場所はアノンからは見える位置だったし、たぶん拒否するだろうと思ってた。
「おばあさん一人だよ。何も怖がる必要はないよ」
「……」
アノンは何も答えない。彼女の後ろ足が踏みしめている地面も僅かばかり深くなった。
この警戒心を解くには、やっぱりあれしかない。
「別に人間のことを信じろっていってるわけじゃないから。嫌なら何も関わらなくていいの。ただ庭の木の実を食べにきただけって思えばいいじゃん」
昨日食事に口をつけようとしなかった彼女に対して言った言葉と大分被ってるから、効果は薄いと思う。
が、アノンの右耳が注視しないと気付けないほど、小さく揺れた。
もう一押しだろうか。表情は硬いままだし、爪もしっかりと地面を掴んでいる。
ハルのように私もキルリアだったら、彼女の気持ちの変化がわかるかもしれないのに。
と、そのとき、アノンが右前足を一歩前に踏み出した。
目はまっすぐ前を見据えて、強い。けど、踏み出す足に力強さは感じられず、まるで迷子になった子供のように弱々しい。
虚勢を張っているようにも見えた。心には十重二十重の予防線を張り巡らせる。

そう、まるで自身を南京錠で閉ざしてしまったようだった。
重く、冷たく、錆びついて、鍵穴に鍵を入れることすらままならない南京錠で。

アノンは家の外壁の角から、縁側のある方向をのぞく。その目に見るのは紛れもなくひとりのおばあさん。
アノンにはどう映るんだろう。隣にいる私には穏やかな優しいおばあさんににしか見えることはない。
「あなたがサーちゃんの新しいお友達?」
おそらくおばあちゃんは編み物をしている手を止めて、新しい客に話しかけたんだろう。
おばあちゃんの膝が悪いにあるのには感謝しなければいけない。もしこの時点で近寄ってこられたりしたらアウトだった。
「そうだよ。かわいいでしょ?」
おばあさんに歩み寄りつつ、アノンを「ほら」と小突くが、近づこうとはまったくと言っていいほどしない。
きっと最初はこんなもの。おばあさんの人柄が分かれば、わざわざ面倒をかけなくても自ら折り合うようになるはず。
アノンの疑心暗鬼が私の予想の範囲内であればの話だけど。
「アノンもこっちに来なよ」
「あら、アノンって言う名前なのね。素敵じゃない。アノンちゃん、こっちへおいで」
おばあちゃんが未だに距離をとり続けるアノンを縁側へ誘うが、やはり結果は私と同じだった。
「あ、そうだ。おばあさん、あの子おなかがすいてるの。何か食べるものない?」
「それだったら、ちょうどモモンとナナシが食べごろなのよ。木に幾つかぶら下がっているんだけど……取れるかしら?」
取れるかしら? のニュアンスがいつもとは違う。おばあさんにしては随分と挑発的だ。
「最近見てないわね、サーちゃんの『葉っぱカッター』。この前浩一君が来たとき言ってたわよ、威力も精度も数段上がったって」
コウ、ここに来たんだ。うれしいじゃん、そんなこと言ってくれてたなんて。
「じゃ、見ててね」
体を低くして臨戦態勢にはいる。まあこんな予備動作実際は要らないんだけど、しないと落ち着かないんだよね。
頭を振るって計3枚の葉っぱを繰り出す。すべてナナシの実を狙った。
だって好きな木の実だし、モモンなんかはとても柔らかいから落とせたとしても地面にぶつかって&ruby(おだぶつ){御陀仏};だ。
葉は曲線を描いて、ナナシの実を木から別つ。うん、我ながら完璧。
ボト、ボト、ボト、と小気味のいい音を立てて、実は地へ堕ちた。
端目に見えるアノンの表情は、コウの家に初めて入ったときと同じような表情だった。
「お見事ね。浩一君もトレーナーだったら言うことなしなんだけどねえ」
万に一つもその可能性はないと思う。コウはただポケモンと暮らしていければそれで幸せだっていつも言ってるから。
その点ではルシアと似通っている部分がある。
正直私にとってはちょっと物足りないけども、少なくとも戦闘においてトレーナーがいなくて困ったなんてことはほとんどないし、コウが私に指示したとしてもたぶん無視する。
一度『&ruby(バトル){闘};』の授業でコウが何も指示せず先生に注意されたことがあった。
コウがあまりにも不憫だったから、しょうがなくやる気のない指示の通りに戦っていたら危うく負けそうになった……なんてことがあった。
「皮を剥いてあげるわ」
堕ちたナナシをくわえて、おばあさんに渡す。おばあさんは、まだちょっと固かったかしら、と呟きながら奥の台所に消えていった。
「こっちにくれば食べられるよ」
一連のやり取りを庭の端で傍観していたアノンに、それとなくこっちへ来るよう促したけど、何度やっても結果は同じ。
今日のところは諦めても神様は文句言わないよね。人間もポケモンも一朝一夕じゃ変わらない。
やがて果肉が顕わになったナナシを皿に乗せて、おばあさんが帰ってきた。皿は両手に一つづつ……?
「こっちがあなたの、こっちはアノンちゃんのね」
「でも一緒に……」
言い終わらないうちに、サンダルを履いて、アノンの元へ歩いていく。
その足取りはいつものおばあさんのそれではなかった。悪いはずの膝の影響はどこへやら、といった感じだ。
アノンも予想外の事態に驚いたのか、後ずさろうとするしぐさをみせる。が、それがおばあさんのスピードにかなうことはなかった。
「これ、アノンちゃんも食べるでしょ?」
おばあさんがアノンに話しかけたのはたったそれだけ。
でも、その笑顔は言葉以上にアノンの心に語りかけるもののようだった。
アノンはずっと硬直状態、何を考えているのかは揺れる瞳からも推し量ることはできない。
おばあさんが踵を返したときとほぼ同時だった。唐突にアノンはもと来た道を走って戻ろうとする。
「ア、アノン!! 待って!」
呼び戻そうとしたときにはもう遅かった。おそらく塀の外には出てしまっているだろう。
追いかけなきゃ、と走り出そうとしたとき、おばあさんに呼び止められた。
「サーちゃん」
名前を呼ばれただけなのに、足が勝手に止まる。逆らってはいけない気がした。
アノンを追わなければいけないのに、ふらふらと逆方向に体が向かっていく。
おばあさんは再び縁側に座り込み、ふうっとため息をつく。嘆息ではなく、何か言うため準備だった。
「サーちゃん、私がどれくらいの間トレーナーをやっていたか知ってる?」
おばあさんの目は虚空を捉えたままだ。
「え、どれくらいだろ……50年くらい?」
「正確に言えば53年ね。12歳から初めて、65歳で引退。本当に色々なことがあったわ」
おばあさんはいよいよ視線を空へと移した。もう空の色は消えていた。
「ずっと色々な地方をまわって旅をしてたわ。まだ見知らぬ人やポケモンに出会い、仲良くなってバトルもした。とても楽しいなんて言葉じゃ言い表せないくらい、すばらしい日々だった」
おばあさんの身の上話は何度か聞いたことはあるが、今言おうとしていることはきっとそれじゃない。
「だから無条件で信じていたわ。人間とポケモンの絆は永遠だって。でも一度だけ、それを否定されたことがあるの。はっきりとではないけど、私には鮮明すぎた。人の少ない農村で……ちょうどアノンちゃんに似た子だったわ。雨が酷かった日……あぜ道にその子は横たわっていたわ。体中傷だらけ……そのときは分からなかったけど、近くの住人と一緒に暮らしていたポケモンだったらしいわ。暴力を振るわれるなんて日常茶飯事、ご飯もろくに食べていなかったみたい。私も若かったし、頭に血が上っちゃってねえ。その家を見つけて押し入ったわ。どうしてこんなことするのかって。でも結局何を言っても無駄だった。その子を引き取ってくれた人もいたけど、回復したら1週間もたたないうちにどこかへ消えてしまったって聞いたわ」
初めて聞いた話だった。テレビが流す平面的な内容よりずっと生々しい。
そして、アノンが虐待を受けていたらしいと言うこともちゃんと分かっていた。私の嘘は当の昔に見破られていたみたい。
おばあさんは今度は私に視線を移す。
「もしアノンちゃんを根本から変えるなら、きっと骨が何本も折れるような作業になるわ。育った環境はどうしてもつきまとってしまうもの」
アノンとは数分も接していないはずなのに、まるですべてを見通したかのような目だ。
でも、おばあさんが言うのだから間違いはない。私なんかより何倍も長い年月を生きているんだから。
「これだけは覚えておいてほしいの。人もポケモンも、根底は心。それを変えるには、やっぱり心をぶつけるしかないわ」
おばあさんが流れ去った幾多の&ruby(としつき){年月};の中に見出した真理は、至極単純なもの。それだけにとても難しいことだ。
「……浩一君によろしく伝えておいてね」
おばあさんはいつもの表情に戻った。それは紛れもなく笑顔で。
おばあさんに、ありがとう、と短く言い残し、私はアノンが走り去った道をなぞった。


&size(20){    ~};


俺が再び床に足をつけたのは、見慣れた食堂だった。カウンターの辺りが飢えた人間でごった返しているのも今更驚くことじゃない。
それでもこの食堂の中でもスムーズに移動ができるのは、異常なほど空間が広々としているからだ。
一つ一つのテーブルの間隔は横幅の広いポケモンが余裕で三匹通ることが出来るほどのスペースだから、床に座ることしかできないポケモンでも人間と一緒に食事が出来る。
ただ俺がいつも食事するのはもっといい場所。……ポケモンのために用意された、いうなればポケモン食堂。
人間が昼食を取るスペースと二分割されているので、ここにいるということは、コウとは分かれて食事するということ。
コウは友達と、俺はその友達のポケモンと、それぞれ輪を作ってランチタイム。
バトルの授業では出来るだけエネルギーを消費しないように戦ったつもりだったけど、バッチリ胃は空になってしまったようだ。
「見てくださいルシア! なんと祐樹が『シーヤの実』味のフーズ買ってくれたんですよ!」
「へえ……」
アクロの言葉にどう相槌を打てばいいか分からなかったから、適当に流しておく。
「もっと反応してあげなさいよ!」
うるさいなチェリーは。ならチェリーが話し相手になればいいじゃないか。
姉さんがいないからって俺に話を振られても困る。自分より五つも年の離れてる奴と会話のレベルが合うわけがない。
だから姉さんとアクロの会話を聞いていると不思議に思わずにはいられない。家で見せる顔とはまるで違う。いつも家族を振り回しているのに、アクロにはわざわざレベルを合わせにいく。
それを俺やコウにも実行してくれれば一日を乗り切るのがこの上なく楽になると思うんだけど。
「まあまあ、ルシアがそっけないのはいつものことだろ」
「サフュアとは正反対だよね。姉弟でこんなに違うんだね」
むしろ姉さんを見て育ったから今の俺があるんだ。もし姉さんと同じ性格だったら多分コウは過労死している。

それはさておき、まだ紹介していなかった友達がもう2匹いる。朝会うことがなかったのは、この2匹が他クラスの生徒のポケモンであるからだ。
上の発言をしたのがリキマル。ワンリキーの雄で、マスターの名前は&ruby(りきと){力斗};。
どちらも無類の筋肉馬鹿で、仲間内の中ではこいつほど腕力が強い奴はいない。ちなみに年は一つ下。
下の発言をしたのはハル。キルリアの雌で、マスターの名前は&ruby(りな){里奈};。年は一つ上。
何事においても完璧(主に顔)で、クラス内の雄は告白していないほうが少ないというほどモテている。
その雄たちは例外なく玉砕しているが、みんな桃源郷で百年過ごしたかのような蕩けた表情で帰ってくる。
告白する→フラれる、のプロセスにいったい何があったのかは当人たち以外わからない。ハルいわく、「普通に断っただけだよ」だって。

脳内紹介が終了したところで、みんなが違う話題に移った。
「サフュアがいないとけっこう静かだね……」
ハルが里奈お手製のサンドイッチをほおばりながらつまらなそうに言う。
姉さんとハルの仲のよさは折り紙つきだ。それを壊そうとするものがいるならば、姉さんは容赦なくそいつを叩き潰すだろう。
それくらい結びつきの強い関係だから、ハルが姉さんのことに関して口を開くと、けっこう重みのあるものとなる。
それどころか姉さんは仲間内での中心的な存在。ここに鎮座する沈黙がその純然たる証拠だといっても過言ではない。
案の定アクロは不安そうな顔つきになり、急にそわそわしだして落ち着かなくなる。
「サフュアが学校に来れない事情って何ですか?」
いつ言い出そうか迷ってたところで助け舟が出された。もちろんアクロはそんなつもりで言った気は毛頭ないと思うけど。
「……うん、実は……家に新しいポケモンが来て、その世話っていうか……一緒に留守番してるんだ」
みんな一様に目を丸くする。理由は珍しいことが起こったからにほかならない。
そして芽生え始めた好奇心は俺を質問の渦へと巻き込んだ。
「どんな子なの!?」
「雄? 雌? まさかカマ!?」
「名前はなんていうんですか!?」
「もしかしてヤッ……」
&size(20){「うるさい!!」};
久しぶりに大声を出した。おがげで辺りは望んでもいない静寂に包まれてしまった。コウもこっち見てるし。
ったく、はしゃいでいないのはハルだけだ。アクロもチェリーもやかましいし、リキマルは下品すぎる。
雰囲気がアレだったから、また周りがざわめき始めてから意を決して口を開く。
「…………とにかく……昨日コウと一緒に休んだでしょ? 実は……ポケモンセンターに行ってたんだ。それであるポケモンを引き取ったんだ」
「は? なんで?」
だから今話すっていってるのに、脳みそが筋肉だとこうもせっかちになるのか。
「おととい海に遊びに行ったんだけど…………」
それからは、起こったことすべてをありのままに話した。
傷だらけのブースターが倒れていたこと。コウが必死になってポケモンセンターに連れて行ってくれたこと。そのブースターは虐待を受けていたらしく、人間不信に陥っているということ。
そして、名前はアノンだということ。
「マジかよ、ひでえな」
「かわいそう……」
「そんな人許せないです!」
「みんな大変だったんだね……」
四者が異口同音に感想を言い合った後、やるせない空気が5匹の口をつぐませる。
普段は明るい話題で持ちきりのはずのこの場に久しぶりに暗い話題を持ち込んだから、多少の罪悪感はある。けど真の本題はここからなわけであって。
「で、決まっているわけじゃないんだけど……コウは来週には学校に連れてこられるように手続きを取るらしいから……もしきたらみんな仲良くしてほしいんだ」
「ホント? っていうかそれを早く言いなさいよ!」
「おい、可愛いのかその子は?」
「まだ雄か雌かは言ってないですよ!」
ハル以外のメンバーが順々に騒ぎ出す。ツッコもうと思ったけど止めた。無駄に疲れるだけだし。
でも……ホッとした。いつも騒々しくて、鬱陶しくて、幼稚な奴らだけど、いい意味で単純だ。俺もちょっとくらいは見習うべきところなのかもしれない。
まあ、それ以外に見習える要素なんて何一つ見当たらないし、見つけようとも思わないが。
その後俺はコウが再びモンスターボールに戻してくるまで拷問のような質問攻めに遭うこととなった。


&size(20){    ~};


アノンを見つけ出すのにさほど時間はかからなかった。どこへ飛び出したのかと思ったらまっすぐ家に帰っていたんだから。
道の真ん中でアノンの名前を呼び続けていたのが馬鹿らしくなってくる。
庭の芝に佇んでいたアノンはまったく風景に溶け込んでいなかった。なぜかずっと天を仰いでいた。
心配して損した、何か文句の一つでも言ってやろう、そんな気持ちの高ぶりがアノンを取り巻く妙な悲しさに気付かせない。
「ちょっと! いきなり飛び出したりしてさ、何なの!?」
そこまで言ってようやく気付いた。ここまで激しく後悔の念にとらわれたのは生まれて初めてかもしれない。
何やってんだ私。おばあさんの言ってた『心をぶつける』ってそういった意味じゃないのに。
「……ごめん」
アノンは力なく答えるだけだった。水分を相当吸収してしまったらしい目の下の毛は、彼女の端正な顔立ちの魅力を失わせるには十分すぎた。
私が逆に謝りたいのに、「ごめん」の一言が言い出せない。アノンは私と目を合わせるようなことはせず、曇った空を見つめ続ける。
やがて、項垂れたアノンは何かに取り付かれたかのようにふらふらとした歩みで勝手口の中へ入った。
私の前に残ったのは、アノンが踏んだ芝生のうっすらとした跡だけだった。
アノンの見上げた空を私も見上げた。こんな今にも降り出しそうな灰色の空に、アノンは何を見たんだろう。


「すごい音……」
庭から戻って数分もたたないうちに、外の世界は豪雨に包まれた。まるで水道の蛇口を全開にしてしまったかのような勢いだ。
雨どいは壊れんばかりに音を立てる。窓もひびが入ってしまうのではないかと思うほどだ。
その窓から見えるはずの景色――コウのお母さんが週末にきれいに整えている鮮やかな庭は、どこも歪んで見えた。
それは決して窓の外側についた多量の水滴だけのせいではないと思う。
アノンは二階の部屋に閉じこもってしまった。部屋に鍵なんてついていないけど、開けるのは憚られる。
仕方なくソファに放りっぱなしにしてあったテレビのリモコンでスイッチを入れる。
テレビは電源が入ったときの特有のカチンという音を鳴らした。その数秒後には黒い画面が鮮やかに着色されていった。
『……氏……も関与しているとされる今回の大規模な贈収賄疑惑ですが……』
テレビの中の男の人は、まじめな顔でこの鬱陶しいな天気に相応しい陰気なニュースを紹介していた。
俗に言うワイドショーっていうやつだ。なかなかこの時間帯に家にいることは少ないから、見たのは随分久しぶりだった。
しばらくの間、アノンのことを頭の片隅で考えながらテレビを見つめていた。
内容はほとんど頭に入ってこなかった。まあ人間の政治の世界の話なんて聞いてもよく分からないからいいんだけど。
それより昼食はどうしよう……。生憎コウが準備し忘れてしまったから、なんとかして食料を確保する方法を見つけないと。
そんなことを考えていたとき、テレビの音は真っ直ぐ頭を貫いてきた。
「続いてのニュースですが、連日報道されております○○地方△△タウンで起こった忌まわしい悲劇、ポケモン虐待事件についての続報です。なぜポケモンたちはあのような酷い仕打ちを受けなければならなかったのか。周辺住民への取材によりわかった××容疑者の意外な素顔とは……。……、……」
連日報道されている? ……初めて知った。見逃していただけだろうか。
この手のニュースは何度か目にしてきた。そしてどのニュースにもはっきりとした関心は示さなかった。
だって、自分とは関係のない世界だと思っていたから。私を取り巻いている環境が人間の力で害されたことなど一度もない。
ましてやこの家の家族、特にコウという人間をずっと見て育ってきた私にとっては、『悪』を感じる機会はまるでなかった。
テレビに映し出される切り取られた情報だけでは、多少負の感情が出てくるくらいで、今私が生きている世界と映し出されている世界とでは何がどう繋がっているのか理解できなかった。
アノンが現れるまでは。
とにかく、アノンにはこういうニュースは絶対に見せてはいけない。絶対に。一応ルシアにも話しておこう。


&size(20){    ~};


机の中に入れてある学習用具などをかばんに入れるときが一番至福だって思うときがある。退屈な授業が一日分終了したことに対する安堵がそうさせているんだと思う。
「ねえ、今日は一緒に帰れるんでしょ?」
まさにかばんを背負おうとしたときだった。俺の真後ろから聞き慣れた声がする。
里奈――隣のクラスの女子、という単純な関係ではなく、いつも食堂で昼食を一緒に食べる5人組のうちの一人だ。
「まあな」
他愛のない返事。気恥ずかしさというか、まだ沢山のクラスメイトが残っている教室で一緒に帰るなどという話をしているのはむず痒い。
そそくさと教室を後にし、もう一度かばんの中身を整理する。その間里奈は大きなスポーツバッグを肩にぶら下げたまま突っ立っていた。
「でも珍しいよね。浩一から誘うようなこと今まであったっけ」
さあどうだか。小学生ぐらいのときなら俺から一緒に帰ろうって言ってたと思うけど。
「色々話したいことがあってさ。里奈が部活無い日なんてそうないしな」
里奈は運動部所属で俺は帰宅部。ゆえに高校に入ってから一緒に帰ったことなど数えるほどしかない。
玄関で上履きを履き替えて外に出る。
学校敷地内のアスファルトは黒く変色していた。昼間から勢いよく降り出した雨のせいだが、たった今止んだらしい。
ところどころに見受けられる水溜りは濁っていた。
「あ、晴れてるね」
遅れて玄関を出た里奈が言った。と同時に、里奈はかばんにしまってあったモンスターボールを取り出し、ボタンを押した。
出てきたのは雌のキルリア――ハル。空気は湿っているのにも関わらず、気持ちよさそうに伸びをしている。
それを見て、俺も腰につけてあったモンスターボールを開く。もちろん登場したのはルシア。こっちは随分と気だるそうだ。
「じゃ、行こうか」
その場にいた全員に歩くよう促す。さっさと敷地外に出たかった。こうしていると彼女と一緒に歩いているみたいで恥ずかしい。

里奈とは物心ついたときからの幼馴染。家は路地をはさんで斜向かいにあり、家族同士で交流もあった。
幼稚園、小学校、中学校、そして現在通っている高校もまったく同じ。クラス替えがあっても別々のクラスになったことはほとんどない(現在を除く)。
中学校までは一緒に遊んだり登下校を共にすることが多かったが、高校に入るときに里奈は引越しをしてしまったため、学校以外で顔を合わせることは難しくなっていた。
引っ越し先もそう遠くではなかったから、一応途中までは一緒に帰ることが出来るのだけど。
しかし俺が帰宅部なのとは対照的に里奈は運動部、だから帰宅時間が重なることはまず無い。
だから今日里奈が部活を休んだことは非常にラッキーなのだ。

「ねえ、今日の数学の授業ついていけた? 私全然わかんないなんだけど」
「いや、お前と受講クラス違うし……。でもまだ基本だろ。あれぐらいついていけねーとこの先厳しいだろ」
「えー、無理だよ。受験だってギリギリだったのにさあ……」
里奈の隣を歩いているハルがうんうんと頷いている。同情しているんだろうか。
そういえばルシアが言うにはハルは相当頭が良いらしい。頭の悪い主人と頭のいいポケモン、笑える構図だな。
俺は違うよ? ルシアは成績が悪いとか言っていたけどそれは授業態度や宿題の提出状況の話で、実際勉強は出来るほうだ 。
「でも私たちまだ2年生でしょ。しばらくは余裕あるから大丈夫だよ」
ハルが深いため息をつく。俺以上に楽観的な主人を持つと大変だな。きっと里奈のことで毎日気苦労があるに違いない。
しばらく歩いていると遠くに赤い光が見えた。十字路に立つ信号機の光だ。俺たちが別れる場所はそこだ。
そろそろ話を切り出してもいい頃合だ。
「里奈、今度俺の家に来てくれないか」
「へえ、やっと私の魅力に気付いた?」
いや、あんなことやこんなことをするために誘ってるわけじゃないから、という突っ込みはしない。面倒だ。
「結構まじめな話だよ。……会ってもらいたいポケモンがいるんだ」
「え、サフュアちゃんとルシア君以外にもいるの?」
里奈が心底驚いているような顔をする。無理もない、俺だってアノンは引き取ったばかりなんだから。
「まだ……言ってなかったんだね……」
ルシアがぼそっと呟く。ということはルシアはもう仲間には話しているということか。ハルも知っているな。
「色々事情があってさ、昨日引き取ったポケモンなんだけど、人間不信なんだ」
「人間不信? えっと……人間を信じていないってこと?」
里奈は驚いた表情を崩していない。いきなりこんなことを言われてもピンとこないだろう。
「そう。俺自身全っ然信用されてなくてさ。ま、俺はいいんだけど、他人に会っても偏見の目で見ないぐらいにはなってほしいから……そのためにはいろんな人とあわせるのも一つの手段だと思うんだ」
「ふうん、色々考えてるんだね。ってそのために学校休んだの?」
うんと頷くと、里奈は感慨深げにため息をついた。
「浩一って昔から妙に正義感が強いところあるもんね」
「そ、そうか?」
「普通の人とやることがいちいちズレてるんだよね。あ、いい意味でね。&ruby(ひと){他人};が嫌がってやらないこと平気な顔してやるもん」
里奈に言われると褒められている気が全然しないけどな。でも今まで一度も自分で意識してこなかったことに気付くなんてさすが幼馴染だ。
「でも会うとなると私も少し怖いな。ていうかくそんなポケモンを引き取れたね。もし私がそのポケモンだったら絶対に嫌がると思うよ」
考えてみればそうだな。俺が勝手に引き取ることを決めたけど、手続きをする際にアノンの意思が汲み取られなかったはずがないのに。
「本心ではそう思ってないとか。もしかしたら演技してるだけかも」
「そんなことする必要はないだろ。演技だったらルシアやサフュアが気付くよ」
「うん……。ポケモンに対しては結構明るい……かどうかはちょっと微妙だけど、普通に……話せてるよ。人間を怖がってるのは……本当だよ」
俺が説明しきれない部分をルシアがカバーしてくれた。
話に夢中になっていたせいか、いつのまにか十字路に差し掛かろうとしていた。
「もし予定があいていたら電話してくれ。それまでこっちも何とか落ち着かせるから。ハルも頼むぞ」
「うん、わかった」
「いいけど……そのときは勉強も教えてね。特に英語」
「え……あ、ああ……」
ハルは素直に返事するのに何でお前は厄介な条件を提示してくるんだ。英語なんて中学校から一歩も進んでないだろ。
「約束だからね。じゃあね」
里奈は十字路を右に曲がると手を振りながら走っていった。付き合わされて一緒に走っているハルが不憫だった。
「本当にこれで……よかったの? アノンを人に会わせるのは」
「わかってるよ。なんとかする。心配するなって」
そう言ってルシアの頭を撫でつつも、一抹の不安が頭を掠める。
どうやってアノンの心を開かせるのか、その方策は正解なのか間違っているのか……。自信があるわけじゃない。
でもやらなければいけないことなんだ。俺が勝手に決めた以上、しっかり責任は果たす。
サフュアは今頃アノンとどう過ごしているんだろうか。ちゃんとご飯食べられてるかな……。

……あ、昼飯用意してくるの忘れてた。


&size(20){    ~};


「ただいまあ!」
玄関のほうから威勢の良い声が響く。コウが帰ってきたらしい。
出迎えてもよかったが、おなかがすいて力が出ないため、体がまったく反応しなかった。台所を色々物色したが、やはり&ruby(て){前足};の届く範囲に食べられるものは置いていなかった。
ルシアがいれば、『サイコキネシス』を使って台所の上部の棚を開けて昼食にありつけたかもしれない。
リビングのドアをコウが開けたのは音で分かったが、ソファで寝そべったまま何の応対もしなかった。
「悪い! 全然昼飯のこと頭になくて……ほら」
食卓のほうでガチャガチャ音を立てているコウの方を見ると、右腕に幾つかの木の実を抱えていた。おそらく市販のものだろう。
「姉さん何も食べてないの?」
「……うん」
ルシアの身代わりになったおかげでねっ! と悪態をつく余裕は今の自分にはなかった。
「今切り分けてやるから待ってな」
コウは手際よくまな板や包丁を準備した。勢いそのままに木の実の皮を剥き、均等に切り分ける。
今コウを動かしているものは私たちの昼食を準備しなかったことに対する罪悪感だろう。私もアノンに対して違う種類の罪悪感を持っているけど、行動は起こしていない。
「ほら、出来たぞ」
乱暴な音とともに床に皿が置かれた。おばあさんの家の木の実に比べると新鮮さは微塵も感じられない。
「食べないのか? 腹減ってんじゃないのか」
コウが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。心配はかけたくなかったので、無理矢理笑顔を作って「大丈夫だよ」と答えた。
コウは怪訝そうな表情を崩さなかったが、そうか、と一言言って台所の片付けを始めた。
ふと、疑問が頭を掠める。今のコウの一連の動作の根底にあるものはいったい何なのか。
コウ自身、おそらく深く考えたことはないだろう。私も深く考えたことはなかった。
けれども、答えはすぐに出た。
そして同時に、アノンのことも考える。
哀しかった。
アノンが今まで人間から愛情を注がれなかったことも、これからその愛情を拒否しながら生きていくつもりになっているのも、全部、全部哀しい。
アノンも私もルシアも、学校の友達や周辺に住んでいるポケモン、いままで出会ったことのないポケモンも、みんなみんな同じはずだ。なのにアノンだけ違うのは絶対におかしい。
生まれた場所が悪かっただけ。運が悪かっただけなんだ。
それを教えられるのは私だ。

私は本能に似たものに突き動かされ、階段を素早く駆け上った。四足歩行に階段は天敵だが、そう思わせないほどのスピードだった。私自身どう上ったか覚えていない。
下の階からコウの呼びかけが聞こえるが、無視した。
アノンがいるであろう私たちの部屋は、ドアがかすかに開いていた。押し開けると蝶つがいが音を立てた。
彼女は窓際で、玄関においてある木彫りの彫刻のように静かに佇んでいた。まだ空に何か思いを馳せているのか、外を見つめたままだ。日はそろそろ暮れそうで、飛行機雲が夕焼け空を割っていた。
背中は昼間のように暗いものではなかった。窓ガラスに張り付いた水滴に太陽の光が反射してきらめいた。
アノンは私に気付いたようだが、一瞥もくれることはなかった。あくまで視線の先は空の向こうだ。
「ねえ、あなたとあの人はどんな関係なの?」
アノンの口が突然開いたことに驚くことはなかったが、一瞬言葉に詰まる。
何しろ一度もそんなことを顧みたことはない。
近所と探検しているうちに古い家を見つけて、勝手に庭に侵入した後に知り合うことになった。出会い方はかなり異常だった。
おばあさんは突然の不法侵入者を見てどう思っただろうか。それを今更聞こうとは思わないが、邪険にされたり追い出されたりすることはなかったと思う。
私を無条件に信用していたのかもしれない。それをいつからか私も感じ取り、おばあさんを信用した。
その経緯をアノンに話しても冷たい反応が返ってくるだけだろうと思いつつも伝えると、予想外の返事が返ってきた。
「あまり理解できないけど……そういうこともあるのね」
やはり視線は窓の外へ向けられたままだった。アノンの後ろから話しかけている私から彼女の表情は見えない。けど、笑っているような気がする。
「ねえ、この家にもう何人か住んでるのよね?」
「あ、……そうだよ。コウの両親のことでしょ」
たった今、気付いた。アノンはあれほど嫌っていた人間の話題を自分から作っていた。話題を拡げて話し続けていたのは私だけど。
「挨拶しておかないと失礼だと思って……」
確かに、アノンは住んでいる家の持ち主に姿を見せていない。コウが弁解しているのとコウの両親が寛容なのがうまく作用したのか、昨日の時点では大きな問題にはならなかったが、今朝方は二人とも今日も姿を見せないのかと訝り始めていた。
なんにせよ、良い兆候だと思う。昼間の出来事は彼女の心境に何か変化をもたらしたのかもしれない。
たった一日だけど、微々たるものだけど、確実にアノンは変わっていた。
そしてこれがアノンと私たちの転換点だった。








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