ポケモン小説wiki
いつか光の差す朝に 第一話 の変更点


作:[[ハルパス]]
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***黒猫が終わりを告げる日 ―Unravel― [#v86497c8]



 世界は朝を迎えた。
 遙かな地平線から昇る朝日が、薄墨色の空を東から白く染めていく。西に追いやられた薄い月は空を名残惜しそうに手放し、星々はその永い一生からすればほんの束の間、姿を隠す。それは太古の昔から幾億度となく繰り返されてきた、一つのサイクル。
 早朝特有のひんやりとした空気の中、夜の闇を追い払われた森がその姿を露わにした。あまり大きくはないが、こんもりと生い茂った緑の豊かな森だった。
 アカガシ、マテバシイ、タブノキ、イスノキなどの、冬でも青々とした枝葉を茂らせる樹木が大地にしっかり根を下ろし、ここリザネスの森を形作っている。またオレンやモモンなどのポケモンの好む果実の実る木が、大木の隙間を埋めるように育っていた。
 朝露を滴らせる梢の間では、早起きのポッポやムックルが鳴き交わし、オニスズメが短い翼をせわしなく羽ばたかせながら餌を探して飛び回っていた。朝の喧騒にホーホーは迷惑そうに目をぱちくりさせ、太陽を締め出すねぐらへと戻って行った。
 反面、騒がしい樹上と違い、朝靄の立ち込める森の中はまだ静かだ。木々が密生しているせいもあってか薄暗く、ここだけ夜が立ち去るのを嫌がっているかのようだった。そして森を構成する木の中の一本、クスノキの老木にぽっかり空いたうろで、今何かが動いた。
 そのうろは地面から低い所にあり、樹齢数百年という木の立派さもあってかそれなりの広さを持っていた。そこを住処としている住人は綺麗好きらしく、内部はきちんと片づけられ、寝床と生活スペースとに分けられている。
「ん……」
 柔らかい&ruby(シダ){羊歯};や落ち葉の敷き詰められた寝床から、一匹のポケモンがむくりと起き上った。大きな耳と二又に分かれた細く長い尻尾が印象的な、雌のエーフィだった。並のエーフィよりも少し小柄で、華奢な体つきをしている。
「ほわぁ……」
 エーフィは大きな欠伸を一つすると、前脚を前に突っ張ってぐーんと背中を反らし、次にやや前のめりになって後脚を伸ばした。その後全身をぶるぶる震わせて体を解すと、木のうろから顔を出した。目を閉じて大きな耳で森の朝のざわめきを聞き、湿った黒い鼻で森の芳しい空気を胸一杯に吸い込む。何度か深呼吸を繰り返してようやく頭がはっきりしてくると、エーフィは顔を引っ込めた。外に出る前に、もう一つするべき事があるのだ。
 中に戻ったエーフィは散らばった落ち葉を隅に寄せ、空いたスペースに腰を下ろした。彼女が毎日欠かさずに行っている事。それは自身の体毛のお手入れだった。前脚と舌とを使い、きめ細やかなすみれ色の毛並みを丁寧に整える。毛繕いを終えるとエーフィはきのうろを出、朝食を採りに出掛けた。
 朝の森の空気は冷え冷えとして爽やかだった。頭上から降り注ぐ鳥の&ruby(さえず){囀};りが楽しげに澄んだ空気を震わせる。テイカカズラやハナミョウガの葉は朝露を&ruby(まと){纏};い、雫はまるで硝子のように&ruby(きら){煌};めいた。
「おはよー、&ruby(ホノカ){仄霞};!」
 軽い足取りで歩くエーフィに、誰かが声をかけた。明るい元気な声だ。仄霞と呼ばれたエーフィは歩みを止めて振り返った。背後から小走りで駆け寄ってくる影を認め、笑みを浮かべる。
「おはよう、&ruby(クユラ){薫良};」
 仄霞も挨拶を返した。薫良と呼ばれた、しなやかな青葉を体の至る所に生やしたポケモン――雌のリーフィアは、見る間に仄霞に追いつき、少し息を切らしながら仄霞の隣に並んだ。呼吸を整え、弾んだ声で仄霞に話しかける。
「ねぇねぇ仄霞、もう朝ご飯は食べたの?」
「ううん、これから食べに行くところなの。薫良は?」
 仄霞が尋ね返すと、薫良はにこりと笑った。
「私もまだなんだ! 仄霞、良かったら一緒に食べようよ!」
 薫良はせがむように言った。もちろん、仄霞に親友の頼みを断る理由などあるはずもなかった。
「ええ、そうしましょ!」
 仄霞は笑顔で頷いた。
 二匹は他愛もない話をしながら、森の&ruby(こみち){小径};をゆったり歩いた。森の土は柔らかく、湿った土の匂いが一歩毎に立ち上る。うっそうと茂った森は一見歩きにくそうに見えるが、実は樹冠が光を遮り植物が繁茂するのには適さない為、都会の人間が考える程歩行には苦労しない。しかしそれでも、弱い光を糧に育つ植物は決して少なくはなかった。イヌワラビは地を這い、ムギランやノキシノブがまるで衣服のように木の幹を覆う。サルナシの小さな白い花が薄暗い中でよく目立っていた。
 しばらく行くと、二匹の元に風に乗って甘い香りが漂ってきた。なんとも食欲をそそる匂いだ。
「あ~、お腹空いた!」
 薫良は鼻をひくひくさせ、待ちきれないとでも言うように匂いの方向へダッと駆け出した。彼女はいつもこうなのだ。思い立ったら考えるより先に行動する。仄霞はそんな親友の姿に微笑むと、自身もすぐ後を追った。
 向かった先は森が少し開けており、木々の間から青い空が垣間見えた。そこではよく熟れたマゴの実が、たわわに実って辺りに甘い香りを振り撒いていた。
「今日の朝ごはんはマゴで決まりね!」
 仄霞が来たのを確認すると、薫良は熟したマゴの実の、特によく曲がっているものを狙って葉っぱカッターを飛ばした。マゴの実はよく曲がっているもの程、味が良く甘味も強いのだ。研ぎ澄まされた鋭い葉は弧を描きながら空を切り、マゴの実と木の枝を分断した。
「よーし……」
 薫良が落した実を見事に空中でキャッチするのを見てから、仄霞も木に向き直った。適当に品定めをして、狙いのマゴの実を見つめ軽く精神を集中させる。サイコパワーで実をもぐと、そのまま目の前まで運びよせた。薫良も自分が採ったマゴの実を口に咥えて仄霞の隣に座った。
「「いただきまーす!」」
 二匹で声を揃えて言い、もぎたての木の実にかぶりついた。ジューシーな甘さが口いっぱいに広がり、果汁が喉を伝い落ちる。
「おいしー」
 思わず頬が緩む。薫良は食べるのに夢中で、口の周りが果汁だらけになっているのにも気づかないようだ。微笑ましい、和やかな情景だった。
「「ごちそうさまー」」
 食事を終え、空腹が満たされた二匹は立ち上がった。お腹がいっぱいになれば今度は喉が渇いてくる。満足した足取りで、二匹は下草を踏みしだきながら近くの泉へ向かった。
 ものの数分で、二匹は森に点在する泉の内の一つに行き着いた。泉には先客がいて、後から来た二匹に気づいて顔を上げた。
「お、仄霞に薫良じゃねーか。おはよ!」
 挨拶をしてきたのは、雄のサンダースの&ruby(リューク){鏐駆};だった。水を飲んだばかりなのか口の周りが濡れている。
「ん……おはよ……」
 鏐駆の向こうからも眠そうな声がした。短い挨拶をしたのは雄のブラッキー、&ruby(イザヨイ){十六夜};。彼は特別朝に弱く、今も目を覚まそうと泉に顔を突っ込んで洗っている最中だった。
「おはよう、鏐駆、十六夜!」
「おっはよー! 今日も良いお天気だね!」
 仄霞と薫良も挨拶を返し、こぽこぽと湧き出る泉の淵に歩み寄った。
 そこは森の湧水が自然に掘った小さな窪みを、石で縁取って水飲み場としたもので、石は常に水を被っているせいか苔に覆われていてた。すぐ脇にはトキワハゼが全身に水滴を纏いながら花を咲かせ、縁石には湧き出す水の作る&ruby(さざなみ){漣};が静かに打ち寄せている。二匹は泉から溢れ出た水が小さな流れを作っている所に来ると、果汁で汚れた顔や手足を洗い、心ゆくまで水を飲んだ。泉の水はひんやりと冷たく、仄かに大地の香りがした。
「ふぅ、すっきりした!」
 薫良は一息つくと空を仰いだ。完全に開け切った空は抜けるように蒼く、今日も気温は暖かくなりそうだと思わせた。薫良の体から生えた植物が、快晴を喜ぶかのように一層青々と輝いて見える。葉っぱのような尾を揺らしながら、薫良は視点を戻した。
「ねぇみんな、今日は何して遊ぶ?」
 リーフィアは満面の笑みを浮かべて三匹を見回した。
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     ☆
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 太陽が真上に来て、いくらか過ぎた頃だろうか。
「ふぅ……。やっと着いた」
 リザネスの森を見渡す小高い丘に一匹のポケモンが佇んでいた。こんなに日差しが暖かいというのに、その影は酷く黒々としていてまるで温もりが感じられない。
 ポケモンは&ruby(こうべ){頭};を巡らし、丘の頂から下界をうち眺めた。ここからだと丘がなだらかな曲線を描きながら下って行き、やがて麓から濃い緑の森が南に向かって広がっていく様が一望できた。
「ここがリザネスの森ね。随分住みやすそうな所じゃない。……よし、もう一息」
 ポケモンは一度だけ大きく深呼吸をすると、疲れなど微塵も感じさせない足取りで斜面を下って行った。鋭い鉤爪の生えた足が、控え目に生を謳歌していた、小さな黄色い花を容赦なく踏み散らしていった。一歩一歩森に近付く横顔には微笑が見て取れたが、その真意は誰にもわからない。
 雲が通ったのか、鳥が通ったのか、日の光が一瞬、&ruby(かげ){翳};った。
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     ☆
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「長老様。今日も良いお天気ですね」
 森の中心に座する三十mにもなるイチイガシの下で、雌のブースターがにこやかに言った。彼女はこの森のブースター族を纏める族長で、名を&ruby(カノ){火乃};という。
「うむ。陽気が良いのは何よりじゃて」
 ゆったりした年経た声で返したのは、老いた雄のイーブイだった。茶色い毛皮の所々に白いものが混じり、尻尾も少しよれている。首からは白い石に植物の繊維で&ruby(よ){縒};った紐を通した首飾りをかけていた。
 彼、長老様こと&ruby(マロン){栗};こそ、ここリザネスの森を統べる長だった。イーブイとその進化系のポケモンが人口の大部分を占めるこの森では、とあるイーブイの家系が代々森のリーダーである&ruby(もりおさ){森長};を務めていた。七種にも及ぶ進化系のそれぞれの種族間に不公平や贔屓が生じないよう、長となる者は進化せずイーブイのままでいる事が定められている。変わらずの石で作られた装身具は、森長の証であると同時に進化を抑える役割も持っていた。
「こうも陽気が良いと、眠たくなるのぅ……」
 栗は穏やかな表情で目を細め、身を伏せ四肢を大地に投げ出していた。樹齢九百年を迎える巨木は、そんな彼らを優しく見守っていた。木漏れ日が柔らかな光を投げかけている。
 この場所は、他よりも少しだけ地面が盛り上がった高台になっている。日当たりはよいが手入れが行き届いている為、繁茂する雑草はなく、森の他の場所とは違い綺麗に刈り揃えられた芝が生えているのみだった。
「……ああ、やはりここに居られましたか、長」
 うつらうつらしながら寛いでいる栗の元に、よく通るテノールの声が届いた。声の主は雄のグレイシア。グレイシア族の族長を務める&ruby(ラセツ){羅雪};が、芝草の斜面を上ってきた。
「何か用かね?」
 栗は首だけ起こし、眠そうに問いかけた。羅雪は表情を変える事なく淡々と告げた。
「はい。先刻、旅の者と名乗るマニューラがこの森にやってきました。是非長にお聞きしたい事があると申しているのですが」
 言葉の端々に僅かな敵意が感じられた。彼はよそ者が嫌いなのだ。
「ふむ。お通ししなさい」
 そういう訳で、栗が姿勢を正しながら命じると、羅雪は少しだけ嫌そうな顔をした。しかしここで反論する程彼は愚かではなかったので、大人しく頭を下げた。
「&ruby(ミナミ){美波};、了承を得た。連れてきてくれ」
 羅雪が背後の木陰に向かって呼びかけると、木の下の茂みが揺れて二つの影が現れた。一つは雌のシャワーズ。彼女もやはり族長で、名を呼ばれた美波だった。もう一つはこの辺りでは見かけないポケモン、マニューラ。緋色の耳が長く垂れていて雌だと分かる。
 羅雪が背後の木陰に向かって呼びかけると、木の下の茂みが揺れて二つの影が現れた。一つは雌のシャワーズ。彼女もやはり族長で、名を呼ばれた美波だった。もう一つはこの辺りでは見かけないポケモン、マニューラ。緋色の耳は短く雌だと分かる。
「栗様、こちらが旅人の&ruby(ヒサメ){氷雨};さんです。氷雨さん、こちらが森長の栗様ですよ」
 美波は客人を紹介しながらも、自身も軽く栗に頭を下げた。氷雨と紹介されたマニューラはお辞儀をした。
「初めまして。私は旅の者で、氷雨といいます。長老様、お目にかかれて光栄です」
 氷雨が挨拶すると、栗は頷いた。少なくとも氷雨は礼儀をわきまえているようだ。
「うむ。ようこそ、リザネスの森へ。&ruby(わし){儂};がここの森長を務めておる栗じゃ。……さて、氷雨殿、何か儂に聞きたい事があるそうじゃな?」
 挨拶を返した後栗が尋ねると、氷雨は静かに話し始めた。
「はい。簡単に言いますと、私の旅の目的は世界の珍しいものを見て回る事なのです。ここに来るまでにも色々な名所を見てきました。そこでお尋ねしたいのですが、この辺りにはそういった珍しい場所はないでしょうか? 場所でなくとも、例えば――」
 ここで氷雨は一端言葉を切り、栗の目をじっと見つめた。
「例えば、珍しい色違いのポケモンなどはいませんか?」
 その言葉が発せられた瞬間。居合わせた火乃、羅雪、美波の間に緊張が走った。互いに素早く探るように視線を交わし、最終的に栗に行き着く。それは本当に一瞬の間の僅かな変化だったので、客人には気づかれなかっただろう。
「ふむ。……残念じゃが、この森には珍しい場所もポケモンも居らぬ。せっかく来て頂いたのに申し訳ないのぅ」
 栗は落ち着き払って答えた。だが、彼の右耳が虫でも追い払うかのように小さくぴくりと震えたのを、彼らは見逃さなかった。これは「余計な事は言うな」という合図だ。
「そうですか……。残念ですが、仕方のない事ですね。……では、数日間、この森に泊まる許可を頂いてもよろしいですか?」
 幸い、氷雨には気取られなかったようだった。彼女は残念そうに肩を竦めると、気を改めたようにもう一度問いかけた。
「構わんよ。お主の泊まる場所はこちらで用意しよう。ただ、監視の者を二、三匹つけさせてもらう。この森の規則でな。無礼をお許しいただきたい」
 栗が答えると、氷雨は恐縮したように目の前で片手を振った。
「いいえ、どうかお気になさらないで下さい。私はこの森ではよそ者ですからね。……近頃は旅の者を名乗り、親切につけ込んで群れの乗っ取りを謀る賊もいると聞きます。賢明な判断だと思いますよ」
 一瞬、氷雨の瞳がきらりと妙な光を放ったように見えた。だがそれがただの光の反射によるものなのか、よそ者に対する警戒心が見せた幻なのか、はたまた旅人の胸中を反映しているのか、栗には判別しかねた。ただはっきりと彼の胸にあったのは、彼女が見かけ通りのただの善良なる旅人ではないという、ある一つの――そして決定的な――確信だった。
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     ☆
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 黄昏時。
 丸く赤い太陽は、沈み逝きざまに斜めの光の&ruby(や){箭};を投げかけ、何もかもを茜色に染め上げていった。影は長く引き伸ばされ、物を実際より大きく見せている。夕闇がすぐ側まで迫って来ていた。
 そんな折、例のイチイガシの下に六匹のポケモンが集っていた。長である栗と、旅人の監視にあたっている火乃と美波を除いた族長達だ。彼らは皆一様に深刻な面持ちで、何かを話し合っていた。
 時に激昂し、時に沈黙し、その会議の纏う空気は時間を追う毎に重苦しくなっていった。彼らの目は厳しく、時折微かな悲しみを漂わせてはいたが真剣そのものだった。
「……うむ。これが我々の結論として、異論はないな?」
 こう言って栗が族長ら一匹一匹の顔を見回し、皆が同意したのはもう夜の&ruby(とばり){帳};が下りた頃だった。
「では、これにて族長緊急会議を終了する。解散じゃ」
 栗の言葉で、皆はそれぞれ一礼すると無言で散っていった。後に残ったのは栗と羅雪だけだった。
 二匹はしばらく押し黙ったまま、ちかちかと星が瞬く夜空を見上げていた。実際には彼らは星空を眺めていた訳ではなく、心中の様々な思いに目を向けていたのであるが。
 ようやく、栗が口を開いた。
「羅雪よ、すまぬが“あの子”をここへ呼んできてはくれぬか。“あの子”なら今頃、自分の住処で休んでいるじゃろうから」
 渋い顔で羅雪に頼んだ。
「……わかりました」
 無表情を張り付けたまま、羅雪は物憂げな栗に一礼して早足で斜面を駆け下りていった。淡い水色の体毛が、月光を反射してきらりと輝く。だがそれもすぐに、森の深い暗闇に飲まれ、見えなくなった。
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     ☆
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「長。連れて参りました」
 二匹分の足音と共に羅雪が戻って来たのは、まもなくの事だった。
「おお、来たかの。……羅雪、御苦労じゃった。もう戻って休んでおくれ」
「あの……長老様、どういう御用なのでしょうか……?」
 グレイシアが身を翻して立ち去ると、連れてこられたエーフィが――仄霞が、おずおずと尋ねた。彼女にはまだ状況がはっきり飲み込めていないようで、その瞳には不安の色がありありと浮かんでいる。二又になった尾の先が、落ち着かなげに小さく揺れていた。
「まずは座りなさい。……仄霞よ、こんな時間に呼び出してすまんかったの。じゃが、事は急を要する。今宵、お主には大切な話があって呼んだのじゃ」
 栗のただならぬ様子に仄霞は言い知れぬ不安と恐怖を感じ、ごくりと生唾を飲み込んだ。こんな長老は初めてだった。栗は、言葉を選ぶかのように慎重に――あるいはこんな事は言いたくないとでも言うように、嫌々――口を開いた。
「お主には酷な事じゃが、儂はあえて森長として言わねばならぬ。……仄霞よ、今日限りで、ここでの生活はお終いじゃ。まことに申し訳ないが、お主にはこの森を出て行ってもらう」
 老イーブイは、あまりの事に声も出ず立ち尽くす仄霞を、じっと見据えた。
 蒼白い月の光が照らす中、すみれ色の毛並みを、そしてルビーとサファイアの&ruby(オッドアイ){虹彩異色症};の瞳を持つエーフィを、静かに見据えた。
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(私の中で、何かが崩れていく音が、聞こえた気がした)
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第一話、黒猫が終わりを告げる日 了
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