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誰が為の太刀 の履歴(No.3)


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 飛沫(しぶき)を纏った太刀が一閃。岩に刻まれる横一文字。
 続けざまに、垂直に振るって縦一文字。
 ひたすらに刻印をなぞり斬り、浅い十文字は徐々に深く彫られていく。
 太刀が壊れるが先か、岩が砕け散るが先か。
 始まりの浜――()け者たちが最後の希望を託して訪れる、ヒスイの玄関口。
 夕闇に沈もうとしている浜辺は、人もポケモンも居ない。寄せては返す波の音と、俺が岩を打ちつける音だけが、静寂を切り裂いていた。
 無心の打ち込み稽古。余計な雑念も、他人の横槍も受け付けない、森厳な時間。
 ――(いや)、無心ではない。俺は明確に、ただ一つの激しい怒りを(もつ)て、帆太刀(ホタチ)を振るっていた。
「精が出るね、早瀬(ハヤセ)君」
 掲げた太刀を下ろし、いつの間にか俺の背後に立っていたひとに向き直る。
 この土地特有の姿だという、胸元と背中から紫色の炎を揺らめかせている、年と背が俺より少しばかり上の雌のバクフーン。
「……まあ」
 俺のほとんど無視に近い返事は、夕暮れの湿った潮風にさらわれていった。
 再び、岩への打ち込みを開始する。手応えが足りない。
 もっと、自分を痛めつけるように、苦しめるように。己の心にわずかに潜む甘さや(ぬる)さを叩き潰して、強さへと昇華させる。
早瀬(ハヤセ)く――」
燐姐(リンねえ)、後にしてくれませんか」
 鬱陶しい。媚びるような燐姐(リンねえ)の声が、小虫の羽音のごとく感じられる。
「こんなの、水尾(ミヲ)君も望んでないよ」
 先輩の名前が出て、俺は手を止めた。敬愛すべき師であり、一挙手一投足が俺の憧れだった。
「……何のことですか」
 今度は振り返らない。どういう顔で燐姐を見ればいいのか判らなかったし、水尾(ミヲ)先輩の名を都合良く口にされたという憤りで、(はら)の底が煮えるような思いがしたからだ。
「仇を討とうとか、復讐とか、そういうのは――」
「燐姐、俺が頑張るのがそんなに気に入らないですか。俺が強くなっちゃ駄目なんですか」
 言葉を遮り、語気を強める。不合理な怒りをぶつけられてなお、燐姐は引き下がらない。
「そうじゃない! そうじゃないよ、早瀬君……。あれは不幸な事故だったの。どうしようもなかった。だから、変なことを考えずに、ただ普通に、いつも通りで居てくれたら……」
「……いつも通りって何ですか? 普通って何ですか? 何も知らないくせに勝手なこと言わないでください」
 そのようなものは、水尾先輩が死んだ日を境に壊れてしまった。もはや、俺に取り戻すべき日常というものは残っていない。
「……気持ちを押し殺しながら過ごすことがそんなに偉いんですか、燐姐(リンねえ)
 柄にもなく言葉の刃を突き立て続け、彼女の顔が歪む。
 酷いことを言ったと思う。傷つけるのは本意ではないが、これ以上俺に構うなら突き放すほかない。
「……放っておいてください」
 打ち込み稽古を再開する。岩を帆太刀(ホタチ)で打つたび、手が痺れた。
 やがて、燐姐の気配が消えた。――安堵する自分が、どうしようもなく(いや)になった。
「これで、いいんだ」
 自分自身に言い聞かせるように呟き、俺は(きず)だらけになった二枚の帆太刀を見つめた。
「仇は討ちますから。水尾(ミヲ)先輩」

 そのフローゼルは、ギンガ団調査隊きっての強者(つわもの)だった。
 俺の師匠であり、燐姐の夫であったそのひとは、二週間前に命を落とした。
 調査任務で赴いた、純白の凍土からの帰途で。



 誰が為の






 よくあることだ、などと言うつもりはない。
 よくあってはならないことなのだから。
 だが。どんな生き物も、寿命を全うできることなど滅多にない。人間のもとで生活を営んでいたとしても、だ。
 開拓を生業とするギンガ団とあっては――ましてや、荒れ地に出向いたり、危険なポケモンと対峙することもある調査隊や警備隊であればなおのこと。
 しかし、一方で、このひとに限っては大丈夫、と方々から確信を持たれる存在がいる。腕が立ち、判断力があり、知識も豊富で、同時に弁えも足りている。どんな死地(ピンチ)からも軽々と生還し、確実に成果を携えてくる、そのような存在。
 それが水尾(ミヲ)先輩だった。
 もともとは、ギンガ団のテル――空から落ちてきたという摩訶不思議な人物――に付き従っていたひとだった。それまでは、黒曜の原野でのんびりと暮らしていたらしい。
 最終的に水尾先輩の実力は、ギンガ団で五本の指に数えられるほどになっていたという。テルの施す訓練と、元来の戦闘センス、そしてひたすら任務という実践を繰り返すことで、誰からも一目置かれる実力を持つに至った――のだと思う。
 ただ、ここ三ヶ月、水尾先輩はテルの手持ちではなくなっていた。(くび)になったわけではない。
 調査隊は、テルのワンマンチームになっているきらいがあった。テルとその手持ちたちに任務が集中している状況を解消しようと上層部が躍起になっていたのは(かね)てから知っていたが、方針が示されるまでに長い時間を要した。
 そして出された最終結論。
 ――調査隊の人員拡充と後進の育成。
 そのような名目で、水尾先輩を含む彼の手持ちポケモンの一部を、他の隊員たちが譲り受けることになった。
 俺はそれを、水尾先輩の口から直接聞くこととなる。


「主人が替わるらしい」
 (フタチマル)水尾先輩(フローゼル)はふたりきりで、始まりの浜の桟橋の尖端に並んで座っていた。わずかに日の差す夕暮れの曇り空の下、海に足を投げ出して、揺れる水面に乱反射する微かな光を眺めている。
 水尾先輩は微動だにしない一方、俺は二つある石灰質の帆太刀(ホタチ)のうち一つを、胸の前で(もてあそ)んでいた。
 ――どうにも落ち着かない。
 桟橋の尖端は、水尾先輩の休憩場所だった。
 いつもなら、先輩がここで座って休んでいるところに、俺が邪魔をしていた。
 憧れの存在のそばに居たいという俺の気持ちを、水尾先輩が無下にしたことは一度もない。俺が勝手に右隣を陣取っても、何も言わなかった。
 俺が十を話しかけて、水尾先輩は一を返事する。俺のことを内心鬱陶しがっていたかもしれないが、それを差し引いても口数の少ないひとだった。
 しかし、今日はどうも様子が違った。
 俺は一匹でもここに休憩しにくることはあるが、そのときに水尾先輩が俺の横に座ってくることはない。
 ひとりが好きなひとなのだ。俺が先輩の孤高の時間に水を差しにいくことはあっても、その逆は無い――はずだった。
 潮風が気持ちよく、俺はうつらうつらしていた。――いつの間にか、水尾先輩が横に居た。
 俺はぎょっとして目が覚めた。俺に用事があるのかと思ったが、先輩は俺が意識を取り戻したあとも、ただ海を見つめているだけだった。
 そうして、そろそろ戻らねばと少し腰を浮かした瞬間に、水尾先輩はようやく口を開いたのだった。
 主人が、かわるらしい。
「そう……なんですか」
 かわる。変わる。替わる。代わる。化わる。
 言葉の意味がよく理解できず、水尾先輩の横顔を見る。淡い橙色の光に照らされた、漆黒の目の海鼬(うみいたち)は――無表情だった。
 飯を食ってるときも、訓練しているときも、俺と手合わせしているときも、常に無表情だ。表情筋が死んでいるのかもしれないと思う。
 だから、付き合いが二年になろうというのに、先輩がどういう心持ちでいるのか、さっぱり解らない。水尾先輩は、自覚的にやっているのか、それとも無意識にやっているのかは知らないが、表情にも言葉にも態度にも、まったく感情を乗せない。
 愛想が悪いとかいう次元ではないのだが、村のポケモンや人間からは嫌われていない。むしろ好かれている――と思う。
 他者に悪感情を向けているわけではないから、嫌われる道理は当然無いのだが、後輩としては水尾先輩がその無愛想さによってあらぬ誤解を受けやしないかと内心ひやひやしている。
 ――後輩の海獺(らつこ)が横で狼狽(うろた)えていることなど、水尾先輩にとっては知ったことではないのだろうけれど。
「大変ですね」
 探りを入れたわけではない。主人がかわる、という意味が解らなかったので、その代わりに水尾先輩の反応を見定めることで事の重大さを推し量ろうとした。
 もし、水尾先輩がため息をついていたり、悩みを抱えているような表情をしていれば、主人がかわるということが水尾先輩にとって負担の大きいことだということが解る。そうすれば、大変ですね、というありきたりな返事も、意味のあるものになっていたはずだが。
 当の本人は無表情で海を眺めるばかりなので、俺の言葉は空虚な、いかなる意味も含まないものになった。
(いや)ですか? 主人がかわるというのは」
 仕方が無いので、二択で回答可能な質問を投げかけた。
 そこで先輩は初めて、俺のほうを見た。首はほぼ動かさず、こちらを一瞥しただけだが。
「厭じゃない」
「嬉しい?」
「嬉しくもない」
 別にやることが変わるわけじゃない。――水尾先輩は、まっすぐに水平線を見つめて、そう言った。
「替わるといっても……誰の下につくのかは決まっていないが」
 そこで俺はようやく、主人が()わるというのは水尾先輩はテルの下から離れ、別の主人の下で働くという意味であったことを諒解した。
「俺だったら、主人が替わるの、厭ですけど」
 俺は自分勝手に会話を巻き戻した。――水尾先輩が言葉足らずなのが悪いということにする。
「……そうか」
「だって、指示出しとか、戦い方とか、絶対変わりますよね。水尾先輩の主人みたいな熟練者ならまだしも、調査隊駆け出しの人間の下につけられたら……」
「厭、か」
「水尾先輩は強いから、そういうの気にしないかもしれませんけど」
 この会話は、無為だ。水尾先輩がやることが変わるわけじゃないと言ったのは、主人が替わっても調査任務を通じて達成すべき目的は変わらない、という意味だ。
 今、身の回りに変化がもたらされようというのは水尾先輩なのに、俺は自分事と仮定してつまらない瑣事をぐちぐちと述べているに過ぎない。
「……それはともかくとして」
 水尾先輩が、体をこちらのほうへ向けた。今日初めて目が合う。
「お前の主人の下につこうと思っている」
「え」
 帆太刀(ホタチ)が手から滑り落ちて、海に落下しそうになったのを間一髪で掴んだ。
「っぶねッ……」
「……厭か」
「い、いやいや、そんなわけないじゃないですか! むしろ大歓迎です! 本当なら俺が土下座してでもお願いしたいぐらいで!」
 俺が勢いよく立ち上がって力説したせいか、水尾先輩は上体を逸らした。
「……すみません、興奮しすぎました」
「いや、いいんだ」
「……そっか、水尾先輩が来てくれるのかあ。嬉しいなあ、俺、水尾先輩と一緒に任務に行くの夢だったんですよ」
 水尾先輩は、俺の言葉に反応せず、また水平線の向こうに向き直った。
「お前はもの(・・)が良い」
「へ?」
 脈絡が無い。褒められたと認識するのに数秒を要した。
「今までは大して稽古をつけてやれなかった。だが、これからはお前にもう少し時間が割ける」
 俺はぽかんとして、それから、ふつふつと内側から喜びが湧き上がってくるのを感じた。
「……わざわざそれを言いに来てくれたんですね」
「いや、息抜きに来たらお前が先に居た」
 先客が居たらいつも引き返すじゃないですか、と軽口が喉から出かけて、やめた。
 相変わらず無表情だが、二本の尻尾が少しだけ持ち上がっていた。――照れ隠し、かもしれない。
「そろそろ夕ご飯だよ」
 後方から、しっとりとした声音が聞こえた。
燐姐(リンねえ)!」
 桟橋の根元で手招きしている、紫色の炎をゆらゆらと(たた)えているバクフーンのもとへ駆けていく。
 燐姐は、菖蒲色(あやめいろ)の着物海松色(みるいろ)の前掛けをしていた。ポケモンが人間のような格好をしていることに、読者諸兄においては不可思議に思われるかもしれない。
 これは呉服屋の主人が、燐姐が油や粉の舞うイモヅル亭の厨房で手伝いをしていると知り、せっかくの美しい毛並みが汚れるといけないからと、割烹着代わりに仕立てたものだ。
 見慣れると、むしろこの菖蒲色と海松色が燐姐さんの可愛らしさを引き立てる妙となっていることに気付かされ、人間の技術と拘泥(こだわり)に感服せざるを得なくなる。
「ほら、水尾(ミヲ)君も早く」
 水尾先輩も彼女に促されるまま、ゆっくりと続いた。
雄二匹(おとこふたり)黄昏(たそが)れちゃって。何の話をしていたの?」
「……大した話じゃない」
 先輩は無表情のまま、燐姐さんの横をそのまま通りすがった。それが(つがい)に対する態度とは到底考えられなかった俺は驚いて、
「え、喧嘩中?」
 などと放言してしまい、即座に右手で口を塞いだ。
 しかし、意外にも効果覿面(てきめん)だったのか、水尾先輩は体をびくりと震わせて、こちらをゆっくりと振り向いた。
 まるでお化けでも見てしまったかのように、目を見開いている。顔の筋肉は存命だったらしい。
「ふふ。このひとが私と喧嘩できるわけないじゃない、早瀬君の前だから格好つけてるだけ」
 燐姐がくすくすと笑った。確かに、水尾先輩はギンガ団の中でも別格の強さだが、亭主関白然に振る舞う姿は想像できない。タイプ相性とは反対に、間違いなく尻に敷かれるタイプだ。
「……下らないことを言ってないで行くぞ」
 のろのろしていたのはどっちかしら、とか、夫の顔を立てるのは難しいね、とか、燐姐はくるくると表情を変えながら軽口を叩いた。
 ――収まりのいい凸凹夫婦だと思う。今度、馴れ初めでも()いてみようか。もちろん、燐姐のほうに。

 宿舎前に並べられた、古ぼけた木箱に腰掛けて、燐姐がイモヅル亭から持ってきてくれたイモモチを食んだ。
 味も食感も香りもいつも通りの、安心する味だ。
「美味しいですね」
 右隣に腰掛ける水尾先輩に話しかけるが、当然返事は返ってこない。――というより、異常な量を頬張っていて声が出せないというのが正確なところだった。
「喉に詰まらせないでね」
 伴侶に(たしな)められても、先輩は口の中のイモモチを処理しきらないうちに新たなイモモチを詰め込む。
「お行儀の悪い亭主だこと」
 燐姐が呆れたようにため息をついて、水尾先輩の右隣に座った。
 三匹並んで、黙々と飯を食べる。――今にして思えば、本当に尊い時間だった。
早瀬(ハヤセ)
 先輩が唐突に口を開いて俺の名を呼んだ。
「食べ終わってたんですね」
 畏まる雰囲気を感じ取って、どうでもいいことを喋った。水尾先輩に失礼な態度であることは重々承知だが、堅苦しいのは苦手なのだ。
 それでも――空気は変わらなかった。
「お前はそう遠くないうちに俺を超える」
 水尾先輩は、やはり俺のほうを見ずに、真っ直ぐに前を見ている。正面の呉服屋が、店仕舞いを始めていた。
「そ……そんなわけ、ないじゃないですか、アハハ。水尾先輩、俺が調子乗りだからって、(おだ)てていい気にさせようっていうんでしょ。ひとが悪いなあ」
 水尾先輩の頭越しに、燐姐の顔をちらと見ようとして、姿が無いことに気づいた。夫が仕事の話をするのを察して、消えるように席を外したのだ。
 気遣いのできる(ひと)だ。
「……買い被りすぎです」
 水尾先輩のように強くなりたいと思っているのは、嘘偽りの無い本心だ。訓練もサボったことはないし、任務も真面目にこなしているつもりだ。
 ただ、そのような毎日を繰り返すほど、自分はあくまでも持っていない側(・・・・・・・)だと痛感させられる。
 調査隊の他のポケモンたちより劣っているとは思わないが、優れているとも思わない。
 要するに、凡庸なのだ。
「……お前はもの(・・)が良い」
「さっきも聞きましたよ、それ」
 憧憬の念を抱いていることは、調査隊に加入する前から水尾先輩本人に明け透けに伝えている。
 そして、拒絶されないのをいいことに、俺は勝手に一番弟子を名乗っている。
 けれども、それは先輩が俺を買う理由にはならない。
 ――俺は、凡庸から抜け出すことを願っている、凡庸なフタチマルであることを自認している。
「前にも言ったが」
 俺が横で暗い顔をしていることに気付くことなく、先輩は続ける。
「お前は眼が良いんだ」
 初耳だ。前に言ったというのは記憶違いではないか。
 ――(いや)、記憶違いを起こしているのは俺の方だ。(たし)か、二年前に、一度だけ言われた――ような気がする。調査隊に加入して、訓練場で初めて腕試しをしたときのことだ。
 相手が誰だったかは覚えていない。ただ、当然のごとく軽く叩きのめされた。順当な結果だった。
 仰向けに倒れている俺の頭に、影が覆い被さる。仁王立ちする水尾先輩だった。
 そういえば、土俵の端で水尾先輩が観てくれていたんだった。熟練者からすれば新入りの訓練など児戯にも等しいのに、俺は生意気にも先輩に観戦を頼んだのだ。
 弟子の雄姿を見届けてください!(・・・・・・・・・・・・・・・)
 ――とんだ阿呆だ。たかが訓練に勇姿もクソもない。けれども、水尾先輩は優しいから、弟子を名乗る妙なミジュマルの訓練を、わざわざ時間を割いて観に来てくれた。
 そして残ったのは、水尾先輩に無様な姿を曝してしまったという事実。
 泣きじゃくる俺に――ああ、確かに水尾先輩は言ってくれたのだ。
 お前、眼が良いんだな。
 ――言葉の意味は解らなかった。褒められたのか貶されたのかも判別がつかなかった。先輩の顔つきには何の感情も感じられなかった。
 先輩はその一言だけを言い残して、颯爽と任務に出てしまった。
 今の今まですっかり忘れていたが、忘却するのも致し方なし、だ。
「自覚は無いかもしれないが、お前は対峙する相手の動きをすべて見切っている。ミジュマルの頃からずっと、だ」
「あれ、そういう意味だったんですね……まあ、技を避けるのは、もしかしたらひとより多少は上手いかもしれないですけど」
 言われてなお、自分の眼が優れているとは思えなかった。他でもない水尾先輩の言葉だから、きっと正しいのだろう。
 だが、素直に言葉を受け取るには、自信も確信もまるで足りていない。
「肉体も技術も、まだお前は発展途上だ。最終進化だって控えている」
 それらがお前の眼に追いついたとき、お前は俺を超える。
 水尾先輩はそう言って、
「一緒に頑張ろう」
 と、薄闇に表情を隠しながら付け加えた。



 宣言通り、水尾先輩は俺の主人の手持ちになった。
 ()が起こるまでの二ヶ月半、水尾(ミヲ)先輩と調査任務に六度同行した。任務の無い日は、水尾先輩とひたすら訓練場で組み手をした。
 今のギンガ団はすこぶる忙しい。コトブキムラの外にも団の拠点を造る計画が進められている。地形や植生、そこにどんなポケモンが棲み着いているのかを調べつつ、拠点化するにあたって障害となるものは何か、詳細な情報を可能な限り集める。
 いくら凄腕のテルでも一人ではとてもこなしきれない仕事量だ。かといって、仕事をするにも相応の実力が要る。
 俺の主人は、よくやっているが、凡庸な人だった。つまり、俺と同類である。
 そこにテルの下で働いていたフローゼルがやってきたのだから、野生ポケモンを追い払ったり、場合によっては捕獲するといった仕事が尋常でない速度で捗った。
 水尾先輩の戦いは、見蕩れてしまうほど美しかった。眼前に描かれる黄色と水色の流線。得意技のアクアジェットが、相手を息つく暇もなく吹き飛ばしていく。
 流麗に舞う二本の尾が放つアクアテールは、複数相手だろうとものともしない。飛沫が舞い上がって、空に虹を作る。
 俺は水尾先輩のように、格好良く戦うことはできない。舞うように駆けることもできない。アクアジェットも一応は覚えているが、先輩ほどの速さは無い。
 だから愚直に敵を斬る。毎日、丁寧に手入れをしている帆太刀(ホタチ)で、襲い来るものを薙ぎ払う。懐を目がけて――水尾先輩が褒めてくれた眼で、しっかりと狙って。
 調査任務は、どんな種類のものでも大なり小なり危険を伴う。これまでにも、自分や主人の不手際で命の灯火が潰えかけたことはあった。生き長らえたのは、ただ運がよかっただけ。
 しかし、水尾先輩と一緒だと、そのような危機が勝手に遠ざかっていっているような気分になる。
 先輩の視野の広さと危機察知能力は図抜けていた。無闇にポケモンの群れに突っ込まない。戦いに挑むときは必ず背後を取る。
「後ろ、狙われてるぞ」
 気付かないうちに俺の背後を取っていた野生のポケモンにスピードスターを喰らわせたこともあった。
 やむを得ず正面から挑む際は、必ず有利な地形に誘い込む。俺一匹ではまず逃げるしかないようなオヤブン相手でも、そのような搦め手を使って倒してしまった。
 危機という沼に足を取られるのは、そのすべてが己の油断に端を発するのだと思い知る。
 ――見蕩れるだけなら嬰児(あかご)にもできる。俺は一日一日、水尾先輩が背中で伝えてくるすべてを脳に焼き付け、実践するように心掛けた。


 コトブキムラに帰ると、燐姐が皿に載せたイモモチを持って待っている。
 三匹で、ああだこうだと言いながら――水尾先輩はほとんど何も喋らないが――イモモチを頬張る。
 積もる疲労とは裏腹に、以前にはなかった充足感が、俺の心の中を一杯に満たしていた。
 濃厚な、二ヶ月半だった。


 俺が倒れたのは、翌日に純白の凍土への出立を控えた朝だった。前日から悪寒がしていたものの、一晩寝ればどうにかなると何の対処もせずにいた結果、朝から発熱と体中に重石を付けたような倦怠感で動けなくなっていた。
「疲れが出たみたいだね」
「……情けないです」
 泣きたい気持ちを、掛け布団を深く頭に被って隠した。
「むしろ水尾君についていきながらよく保ったと思うよ」
 ギンガ団本部の医務室で処置を受けた後、あとは安静にしていれば問題無いと帰された。
 そして今、俺はコトブキムラの端にあるボロ小屋の中で、薄い布団の上に臥せっていた。
 宿舎に戻ったら水尾先輩や主人に迷惑を掛けてしまうからこちらで寝ることにしたのだが、燐姐がわざわざ布団を持ってきてくれて、さらにはつきっきりで看病までしてくれている。
 燐姐が、濡れた手拭いを固く絞って、俺の額に乗せ直した。菖蒲色の着物の袖が、鼻先に触れてこそばゆい。
「何かして欲しいことはある?」
「……水が飲みたいです」
 医務室で無理矢理飲まされたカンポー薬の凄まじい苦さが、まだ口の中に残っている。それを(ゆす)がないと寝付けそうにない。
 燐姐が茶碗に汲んできた水を、体を起こして一気に飲み干した。冷たさに頭がきんと痛んだ。
「すみません、色々と迷惑を掛けちゃって」
「いいの。気にしないで」
 そばに座る燐姐が、空になった茶碗を引き取る。この小屋に行燈(あんどん)は無いが、彼女の紫色の炎が互いの輪郭と()えた板壁を淡く照らしていた。
「でも……あるでしょう、夫婦水入らずの時間、とか。明日出立なら、なおさら……」
 燐姐に世話を焼かれるというのは、一般的な感性を持つ雄であれば諸手を挙げて喜ぶべきであるし、俺もまた極めて一般的な感性を持つ雄であることは認めるところである。
 だからと言って、夫婦の時間を邪魔したであろうことを差し置いて喜べるほど不躾(ぶしつけ)ではない。
「……水尾君から早瀬(ハヤセ)君の面倒を見てくれって頼まれたの」
「え……?」
 俺が訝しがると、燐姐は慌てて、もちろん頼まれなくてもするつもりだったよ、と聞いてもいない言い訳をした。
「……あのひと、責任感じてたみたいだから。早瀬君に無理させたんじゃないかって」
「そんな……俺がただ貧弱なだけです」
 水尾先輩の気を煩わせてしまったことに、俺は再び布団を被りながら深いため息をついた。
「早瀬君のこと、いつも褒めてるんだよ。昔からずうっと、早く一緒に仕事したいって口癖のように言ってたんだから」
「……本当ですか、それ」
 無愛想の塊のような水尾先輩が、俺の居ない場所で俺を語る様がまったく想像できない。
 嬉しさと、気恥ずかしさがあった。同時に、疲れで倒れてしまった忍びなさと、先輩を失望させてしまったのではないかという憂いが、重たい頭の中でぐわんぐわんと厭な明滅を繰り返している。
「体、拭いてあげる」
「いや、それは……」
 口答えする間もなく、体を起こされて冷えた手拭いで丁寧に上半身を拭われた。
 体にまとわりついていた不快な湿り気や火照りが、滑らかに剥がれ落ちてゆく。布団の外の冷たい空気は清浄で、体表を這っている怠さが溶けてゆくような心地だった。
 雌は雄の体にみだりに触れるべきではないのだという。それはコトブキムラの人間が有していた価値観で、ポケモンである俺や燐姐には微塵も関係がないことだが――人間はそのような決め事をする意味を、俺はおぼつかない頭でぼんやりと理解した。
 首、腕、手、背中、胸、腹、上半身がすべて洗われ、燐姐が俺の下半身を包む掛け布団を捲ろうとした段になって、俺は、
「そろそろ、寝ます……」
 と、これまでのやりとりを完全に遮断するように体を倒し、深く布団を被った。
 昼間昏々と眠っていたのに、日が落ちて半刻も経っていないこの時分から眠ることなど到底できやしないが、これ以上はむしろ体の具合が悪化する気がした。
 燐姐の表情は見えない。俺が唐突に拒んだことで気分を害していないだろうか。
「……おやすみなさい」
 声の調子がいつも通りだったことに安堵した。
 戸がかたりと閉じる音がして、布団から頭を出すと、眼前には闇が広がっていた。
 聞こえるのは、己の波打つような心音のみ。何度が寝返りを打ったが、収まる気配はなかった。
 ――純白の凍土には、まだ足を踏み入れたことはない。年中雪と氷に覆われている世界とだけ聞いている。
 水尾先輩には慣れたものだろうが、俺にとっての明日はまさしく冒険への第一歩であり、この一週間ずっと待ち侘びていたものであった。
 眼が痛くなるほどの、一面真っ白な景色なのだという。ここにある優しい闇とは正反対の、白。
 その白さは、凍える寒さを連れ立って、容赦なく来訪者の命を脅かす。
 だから、心しておけ。――水尾先輩は、無表情で、しかし戒めるように俺に告げた。
「……行きたかった」
 闇の中で声を押し殺して泣くうちに、俺はさらなる深淵へと吸い込まれていった。


 翌日もほとんどを寝て過ごした。早朝、出発の前に水尾先輩が顔を見せに来たようだったが、俺は深い眠りに囚われたまま、見送りの機会を逸してしまった。
 燐姐に、宿舎に置きっぱなしにしていた砥石を持ってきてもらった。安静を厳命されている身だが、それでも何かをしていないと気が逸ってどうにかなりそうだったので、起きている間は帆太刀(ホタチ)を研いで暇を潰した。


 翌々日から、体の自由が利くようになった。早速訓練場で鍛錬するつもりだったが、医療隊の老婆から見咎められた。仕方なく、井戸水を汲んだ瓢箪(ひようたん)の水筒を携えて、裏門――浜門とも言うらしい――から続く始まりの浜に歩を運んだ。
 静かだった。潮騒の音のみが、淡く響いている。
 処々に立ち(そび)える水楢(ミズナラ)の木の幹に、ひたすら帆太刀を振るった。
 かん、かん、と小気味良い音が、潮騒と重なる。
 ――二ヶ月半もの間水尾先輩と行動を共にして、改めて解ったことがある。
 先輩の強さを支えるものは片手では数え切れないが、流星のようなアクアジェットと舞のようなアクアテールは、先輩が第一線で活躍してきた理由そのものだ。
 俺も水尾先輩のような、自らの代名詞となる強力な技が欲しい。唯一無二の、他のポケモンとは一線を画すような。
 答えは、一つしかない。
 帆太刀捌きを極限まで磨き上げる。それが俺の当面の目標となった。
 太陽がてっぺんに昇るまで、無心で帆太刀を振るい続ける。これだけ長時間打ち込みをしたことはない。両腕の筋肉が痛みではち切れそうだ。固い木肌を打ちつけるたびに、反動で手が痺れるのを歯を食いしばって耐えた。
 自分はもはや分別のつかない子供ではない。だからこそ、自分が水尾先輩に並び立つとか、いわんや超えるだとか、本気で信じてはいない。
 けれども、水尾先輩がそう言ってくれたのなら、それに応えようと努力を重ねる義務がある。
 病み上がりを理由に、修行を切りの良いところでやめる、などという生半可を自分に許す気は毛頭無かった。
 水尾先輩は今、もっと厳しい環境に身を置いているのだ。俺だけが温々(ぬくぬく)としているわけにはいかない。
 仰向けに倒れて、切れた息を整えて、十回深呼吸をして、一瞬だけ自覚してしまった空腹感を振り払って、再び立ち上がる。
 大きく()えて気合いを入れ、打ち込み稽古を再開した。
 (ひる)を過ぎて、日がどんどん傾いていき、やがて山の向こうに沈んだ。帆太刀を振るった回数は数えていないが、五千はゆうに超えたはずだ。
 腕も脚もぱんぱんに張っていて、さすがにそろそろ帰ろうと、荷物を置いてある浜小屋へ足を向けた。
 ふと、鼻腔を微かにくすぐる素朴な匂いを感じ取る。浜小屋の横に二、三置かれている樽の上に、瓢箪水筒とともに置かれていたものが、その正体だった。
 イモモチが三つ、皿の上に載っている。
「……燐姐か」
 修行に夢中になっていて彼女の来訪に気がつかなかったのは一寸(ちょっと)面目無いが、ゴーストタイプの本気の忍び足というのは気を張っていなければ察知できるものではない。
 むしろ、俺の邪魔にならないようひっそりと来て帰るところをわざわざ呼び止めるのは不作法者だ、と心の中で言い訳した。
 俺は燐姐の気遣いに感謝しながら、放置されている荷車の荷台に腰掛けて、イモモチを()んだ。


 腕力が格段に上がったことに気づいたのは、幹の直径が一尺ほどの若い水楢の木を一撃で斬り倒したときだった。
 始まりの浜で朝から晩まで帆太刀を振り続けて一週間。体力と筋力が目に見えて向上した。
 水尾先輩と同行する機会を逸した悔しさと悲しさはあれど、それらを置き去りにする一心不乱の修行の成果もまた得がたいものだった。
「これ以上傷つけるのは忍びないな」
 斬り倒した水楢の幹の断面を撫でる。
 ――そろそろ、訓練場で誰かに手合わせ願おうか。静物だけを相手にしていては、戦場(いくさば)での勘が鈍る。
 そのようなことを考えながら顔を上げると、遠方に揺らめく紫炎を認める。どうやらもう(ひる)を回っていたらしい。
「燐姐!」
 見慣れた菖蒲色(あやめいろ)の着物と海松色(みるいろ)の前掛け。
 皿を持っていない。てっきり飯を届けに来てくれたのだと思っていたのだが。
 駆け寄っても、向こうからこちらに寄ってくる気配は無い。炎だけが緩慢に揺れていて、体は微動だにしない。
 ――様子が変だ。
「燐姐?」
 彼女の前に立ち、顔を見上げた。快晴にもかかわらず、彼女の端整な顔立ちは(かげ)っている。
 濡れそぼつ宝石のような紅の瞳は、俺に焦点が合っていない。そこからぽろぽろと雫がこぼれ始めて、俺は狼狽(うろた)える。
「り、燐姐! いったいどうしたんです!」
 彼女が何かを言おうとして口を開いては閉じる。呼吸が乱れて、上手く言葉を発せないようだった。
 落ち着いてください、と彼女の両手を握ると、炎タイプとは思えない冷たさで、俺自身も余計に気が動転した。
 そして、燐姐が掠れた震え声で、水尾君が、水尾君が、と言う。額に、厭な汗が流れた。
「水尾君が……」
 そこから続いた言葉に、俺は息を止めた。その一瞬で、呼吸の仕方を忘れたかのように。
 潮騒が聞こえない。潮のにおいもしない。時間の流れが堰き止められ、日が、雲が、木々に連なる葉が、その動きを止め、色を失う。
 俺は目を見開いたまま――燐姐に一言二言、何かを喋ったような気もするし、押し黙ったまま佇立(ちよりつ)していた気もする。その瞬間のことは、有り余る衝撃でほとんど何も覚えていない。
 燐姐がくずおれるように膝をつき、顔を手で覆って泣き始めて、俺は放心してゆっくりと空を見上げた。
 また、潮騒が鳴り始めた。



 人が死ぬ。すると、その人にまつわる他の人間たちが、その人を弔う儀式を行う。いわゆる葬式というものだ。
 その儀式が終わると、墓というものが村の外れに建つ。どうも人間は、死んだらそれまでという考え方をせずに、自らが死んで弔われる側に回るまで、先に死んだ人間を弔い続けるという奇妙な習性を持っているようで、傍目から見てこれほど不可思議なものも無いと、葬列や墓を見るたびに思う。
 無論コトブキムラのポケモンも人間と同じように死ぬが、葬式が執り行われたという話はまったく聞かない。一応、簡素な墓が建つらしいが、それに特別な興味を持ったことはなかった。
 水尾(ミヲ)先輩の死をコトブキムラの人間がどう扱うかということにはさして関心は無かったが、ギンガ団本部に激震が走ったのは言うまでもない。
 人間一人の死よりも、テルという稀代の調査隊員の元で活躍していたポケモンの訃報のほうがはるかに重大であることは誰でも理解できる。
 悲劇は、純白の凍土での六日間の任務を終えたあとに起きた。人間の腰までが容易に沈むほど雪深く、さらには地吹雪が吹き荒ぶ帰路にて、主人と警備隊の一行が突然紺藍の竜に襲われたとのことだった。
 オヤブンといっても差し支えないほどの巨体の竜の攻撃は、主人や警備隊の応戦が話にならないほど強力だったらしい。
 それを水尾先輩が一匹(ひとり)で引き受けた。一行から竜を遠ざけるため、遠隔地におびき寄せて戦っていた。
 一行は先輩が上手く竜をいなしてこちらに逃げ延びてくることを祈り、足を取られながらもとにかく走った。
 そして主人が振り返ったとき、真っ白に染まった景色の遙か遠くで、赤い飛沫が舞ったという。
 始めは、主人や担当の警備隊、そして同行していたポケモンに対して怒りが湧いた。水尾先輩だけに負担を押しつけてのうのうと生きていることについて食ってかかろうと思った。
 しかし、ぼろぼろの姿で帰還した主人たちが、水尾先輩を喪った上に遺体すら持ち帰って来れなかったことを泣きながら懺悔する姿を見て、振り上げた腕を下ろさざるを得なかった。
 仮に水尾先輩を助けに戻ったところで、被害は余計に拡大するどころか、一行の全滅もありえた。そもそも水尾先輩は皆を逃がすために紺藍の竜の相手を引き受けたのだろうし、主人や警備隊はその気持ちを汲んだに過ぎない。
 それに、もし一行に俺が居たとしても、きっと水尾先輩の手によって逃がされていた。だから、彼らに怒りを抱く資格も道理も無い。
 けれども、このやるせなさをどう処理するべきか、まるで解らない。
 ギンガ団本部から、調査隊の活動をしばらくの間休止する、との通達があった。少なくとも今の俺に、すぐに為すべきことは何も無かった。


 始まりの浜の桟橋の尖端に座り、ぼうっとしていた。
 鉛を敷き詰めたような重たい曇り空と、黒い海を見つめる。
 ふと、水尾先輩はやっぱり生きているのではないかという考えが頭をもたげた。
 主人が見たという血飛沫は、実のところ水尾先輩のアクアテールが紺藍の竜の首を落としたときのものだったかもしれない。
 水尾先輩は荒ぶる竜を討ち、疲れ果てて少しだけ休む。回復して、一行のつけた足跡をずっと辿ってきて、素知らぬ顔で表門からひょっこりと現れるかもしれない。
 いくら相手が強大であろうと生きて帰ってくるのが水尾先輩なのだ。主人たちは、きっと早とちりをしている。
 ぎい、と桟橋を踏む音がした。
「水尾先輩!」
 振り返って――俺は己の浅はかさを恥じた。そこにいたのは、菖蒲色の着物と海松色の前掛けをしたバクフーン――水尾先輩の妻そのひとだった。
「……ごめんなさい」
「いいの、謝らないで。……横、いいかな」
 燐姐は、俺の左側――水尾先輩の専用席に座った。首元の紫色の炎が、ゆらゆらと揺れている。――心なしか、彼女の周りに浮かんでいる火の玉もいつもより多い気がした。
「水尾先輩は……」
 愚にもつかない考えを、話そうとした。気休めでも、慰めになるかもしれないという甘い考えだ。しかし、燐姐は毅然として、
「水尾君、立派に皆を守ったのね」
 と言った。
 昨日の今日だというのに、燐姐は夫の死を受け入れている。――いや、受け入れようと努めていると言ったほうが正しい。事実、彼女の目には涙が浮かんでいて、零すまいと堪えている。
 俺は――自分でも驚いたことに、そのような燐姐の姿に(はら)を立てていた。
 嘆き悲しみ、泣き叫んでも、咎められる者はいない。ひとや物に当たり散らしても、誰も責めやしない。耐え忍んだところで、皆が訳知り顔で殊勝な伴侶だと褒めるだけだ。辛さをひとりで呑み込もうと頑張ることに、どれだけの意味があるのか。
 私を置いて逝くなんて酷いと、水尾先輩に怒ったっていい。我慢する必要はどこにも無い。
 俺は帆太刀を激しく桟橋の縁に打ちつける。燐姐が体をびくりと震わせた。
 経年劣化した橋板の端が欠けて海に落下し、灰色の波に(さら)われる。濡れた橋板の欠片はすぐに浮力を無くして、水面の下に沈んでいった。
「先輩の生き様は立派だったと思います。でも……死に様にはまったく納得がいきません」
 その場を立ち上がる。怒りは――いつの間にか水尾先輩に向いていた。
 切磋(せっさ)した帆太刀捌きは、他の誰でもない、水尾先輩に見てほしかった。こんなにも早く逝ってしまうなんで、酷く自分勝手だ。そう思うと、臓腑(はらわた)が煮えくり返って、吐きそうになる。
 そして、怒りの矛先を、先輩を屠ったというまだ見ぬ紺藍の竜へと差し向ける。あちらにも先輩たちを襲った言い分があるのだろうが、俺の師を奪ったからには相応の報いを与えなければ気が済まない。
 帆太刀を、手が鬱血するほどに強く握りしめる。
早瀬(ハヤセ)君……!」
「……何ですか」
 凄んだつもりはなかったが、俺の目を見た燐姐が一瞬怯えたような顔つきになったのを見て、余計に癇に障る。
「変なこと、考えないで」
 俺は決して他人に何かを隠し立てできるほど器用なポケモンではないから、燐姐になら俺の激情の裏に潜む想いなど簡単に見透かせるだろう。
 しかし、懇願したところで翻意するつもりはない。方法もあても無いが、いずれ機が熟す時は来るだろう。
「……変なこと? 至極真っ当ですよ」
 桟橋を引き返す。歩調がやけに軽い。新たな目標を瞭然(はつきり)と定めれば、うじうじしている暇はないと知る。
 葬式も墓も要らない。仇の首を落とすことが、先輩への弔いだ。



 己の時は、その日から停止してしまったように感じられる。
 しかし、コトブキムラそのものは徐々に日常を取り戻しつつある。調査隊も活動を再開した。時間は、確実に流れている。
 日夜、修行と任務に明け暮れた。もっとも――あの日以降俺の主人は廃人のようになってしまっていて、目も当てられない状態だったから、俺は別の隊員に引き取られた。
 ――かつての先輩の主人、テルに。
 例の件もあって、調査隊員たちに譲り渡したテルの手持ちたちを元に戻そうというギンガ団上層部の提案を、彼は固辞した。
 水尾の死は残念だが、戦力を配る判断は間違っていたとは思わない。むしろ一度立てた方針がブレて調査隊員たちに迷いが生じることのほうが遙かに問題だ。
 それがテルの言だった。その代わり、あのフタチマルだけは引き取らせてほしい。任務に出られる状態じゃない主人のもとに居て腐ってしまうのは可哀想だ――。
 そのような経緯で、俺はテルの下につくことになった。


 テルとともに、紅蓮の湿地、群青の海岸に何度か遠征した。特筆すべきことは何も無い、ただの捕獲任務だったが、勝手の違いは微塵も感じなかった。テルの指示とかつての主人の指示を比較すること自体がもはや失礼だとも思う。
 決して昔の居場所を蔑ろにする意図は無い。ただ、テルの腕が尋常でないだけだ。
 これに水尾先輩や、それに方を並べるポケモンたちが加わっていたのだから、文字通り百人力だったのだろうと思う。
 任務のない日は、訓練場でひたすら警備隊員や他の調査隊員たちのポケモンを相手取って戦った。
 ――充足感は無い。見えない天井に向かって突き進むような思いだった。
「毎日夜までご苦労さん」
 宿舎に帰ると、朱色の笠を目深に被る(フクロウ)が居た。
「テルは?」
「さあ。本部に居るんじゃないですか」
 俺はため息をついて、土間で足についた土を払う。
 彼は朱葉(モミジ)という名のジュナイパーで、テルの下に唯一残っていた古参だ。
 これがとんでもない昼行燈(ひるあんどん)で、任務に出ることはおろか、(ろく)に訓練すらもしない。
 いやしくもテルの手持ちでありながら、昼間から宿舎に引き籠もっているその様は軽蔑に値する。
 朱葉(モミジ)さん――敬称をつけて呼ぶのも癪に障る――は、燻る囲炉裏の前で胡座(あぐら)をかき、嘴に妙な物を(くわ)えて煙を吐き出している。
「何ですかそれ」
「これ? 煙管(きせる)だよ。この前イチョウ商会がいい葉っぱを仕入れてきてくれて――」
「臭いからやめてください」
「……手厳しい」
 朱葉さんは、結局煙管をふかし続ける。
「何で任務に来ないんですか。穀潰しって陰口叩かれてるの知ってるでしょ」
 俺は囲炉裏を挟んで、朱葉さんの正面に座って睨みつけた。
「……早瀬(ハヤセ)くん、目つきも随分と怖くなっちゃったなって思ったけど、最近は言葉も怖いね」
「殴りますよ」
 険のある顔をしている――水尾先輩が死んでから、そのような風に言われることが増えた。
「体、色んなところが痛くてね。思うように動けないんだ。これ吸うと少し楽になるんだよ。頭がぼんやりするっていう副作用があるんだけど」
「痛み止めですか。……むしろ体を悪くしそうですけどね」
 囲炉裏の煙と、煙管の青白い煙が混ざって、天井付近に滞留している。
「僕も、本当は任務に行きたいんだけどね」
 白々しい。行きたいならどれだけ体が痛もうと、心に鞭打てばいい話だ。
「水尾くんが居た頃は、体がじくじくとしていてもなんとか頑張れてたんだ。でも、君のところに行っちゃってから……ああ、ごめん。責めてるわけじゃない。彼が早瀬くんにご執心だったのは知っていたしね。これは僕の言い訳。それで……水尾くんどころか、仲良くしてた面子はみーんな他所(よそ)に行っちゃったから……今まで僕を吊って立たせていた糸がぷつっと切れちゃった」
 嘴から煙の輪っかがぷかりと浮かんだ。薄暗がりに光るように浮かぶそれは、やがて空気に溶けていった。
「……君はテルについていけてるかい」
「……何とか」
「そりゃよかった。彼についていけるのは一握りだ」
朱葉(モミジ)さんもテルの下で働けてたでしょ」
 先ほどの朱葉さんの言葉のせいで妙な責任を感じてしまった俺は、悪態をつくのをやめて朱葉さんを叱咤する。
「だからそれは水尾くんが居たからなんだよ。僕は弱気だから一匹(ひとり)じゃ立てない。支柱が無きゃへたれる朝顔みたいなもんだ」
 その名の通り紅葉(もみじ)のような風采のひとが、自らを朝顔に(たと)えるのは変梃(へんてこ)な気がした。だが絡繰り人形の操り糸よりはマシな喩えだと思った。
「これ、勧めてくれたの、水尾くんなんだ」
「……水尾先輩が?」
 朱葉さんが掲げた艶のある黒い煙管(きせる)は、奥の居間にある行燈のもやもやとした光を鈍く反射している。
「人間ってさ、僕たちを色々な手段で強化しようとするけど、癒やすことに関しては結構おざなりなんだよね。休んでれば治る、とかさ。そんなわけないのにね。体が痛くて痛くて、どうしようもなくなって泣いてたら、水尾くんが来てさ。根治はしないけど、これでちゃんとした葉っぱ詰めて使えば痛みが誤魔化せるからって。……人間の道具なのによく()ってるよね。まあ、サボってないで働けっていう水尾くんなりの激励だったのかなって今は思うけど」
 感謝してもしきれないよね、と朱葉さんは黄金色の瞳で宙を見つめる。
「これで体の痛みも精神も鈍麻させて、怖いことにも幾らか立ち向かえるようになったよ。……まあ、その点水尾くんは凄かったよね。こんなものなくたって、どれだけ怖い思いをしても顔色一つ変えないし。テルみたいな無痛症の狂人に本当の意味でついていけたのは水尾くんぐらいだよ」
「……水尾先輩は凄かったですか」
「うん。腕もそうだけど、何より精神力と判断力だね。目の前に来た脅威に対して、迎え撃つのか、避けるのか。迎え撃つとしたらどこで、どの時宜(タイミング)でなのか。そういうのを絶対に間違わない」
 やはり、水尾先輩の凄さというのはそのような部分に帰着するらしい。自分事のように誇らしい気持ちになる。
「だからさ……なんで死んじゃったかなって思ったけど。まあ、テルの手持ちやテル自身なら、危険に曝されても庇う必要なんてないからさ。自分でなんとかできる奴らだし。でもそのときは……庇わなきゃいけなかったんだろうね」
 囲炉裏の炎が消えて、部屋が一段と薄暗くなった。
「ところで早瀬くんさ、仇討ちとか考えてるの?」
 ――開きかけていた胸襟を、再び閉じた。
「一昨日だか警備隊の隊長に頼んで冷凍ビームを伝授してもらってたじゃない。……目的は技範囲拡げるだけ、じゃないよね」
 昼行燈の見立てはどうやら誤りだったようだ。
「……貴方も俺を止めようとしますか」
「そんな怖い顔しないでよ。……別に止めないよ。僕にそんな権利なんてない。己の命の使い方は自分で決めるべきだ。他人にご高説垂れて変えさせようとするのは……(いや)、これ以上はやめておこう」
 朱葉さんが土間の戸のほうをちらりと見た。戸の向こうに、何かが動く気配がした。
 ――燐姐(リンねえ)だ。
「早瀬くん。命の使いどころは最終的には自分で決めるべきだけどね。僕と違って君のことを気に掛けてくれているひとは沢山いる。……それだけは覚えといたほうがいいよ」


 宿舎を出る。暗いソノオ通りを、訓練場のほうへ向かって歩く。紫色の炎が、ちろちろと手招きするように揺れている。
 それは訓練場の正面左側の柵を抜け、名も無い橋を渡った。ついていった先には、俺が倒れた日に介抱されたボロ小屋。
 戸を開く。燐姐が恭しく座っている。隣には畳まれた菖蒲色の着物。
 俺は押し黙ったまま、土間に佇んでいた。
 ――謝るべきかもしれないと思う。あれから、ずっと燐姐を冷たくあしらってきた。口を開くと、俺の決心を咎めようとするのだから。
 それは、正しい。誤っているのは俺のほうだ。けれども、止まる気は無い。俺の気は決して収まらない。
 解ってもらうのは諦めた。考え方に隔たりがあるのは当然だ。
 言い訳めいた何かが、頭の中をずっとぐるぐると回っている。その間、紫色の鬼火が、ずっとぐらぐらと揺れていた。
「早瀬君は……好きな子はいるの?」
「……え?」
 虚を突かれた。予想だにしない言葉。
「いない……ですけど……」
 恋愛感情を向けている相手はいるか、という意味で果たして合っているのだろうか。唐突な問いに狼狽を禁じ得ず、思わず口ごもってしまう。
「もし厭じゃなければ、一緒に寝ませんか」
 丁寧な口調での急な提案に、脳が凍り付く。今度こそ、言葉の意味がよく理解できなかった。
「えっ……と」
 よく見れば、燐姐の後ろには布団が敷いてあった。
「厭ですか」
 有無を言わさぬ燐姐の口調に、つい、
「厭じゃないです……」
 と返事をしていた。実際、厭ではないのだ。
 この場合の寝るというのは、ただ一緒に寄り添って寝るという意味なのか、それとも同衾するという意味なのかがまったく判然としない。
 ――(いや)、後者であるはずがない。水尾先輩に(みさお)を立てている燐姐が俺を房事に誘うことなど、有り得てはいけない。
 ぼんやりとしているうちに、燐姐さんが布団の上で横になる。――俺一匹(ひとり)分の空間が空いている。
 俺は訳も解さぬまま、燐姐の横にゆっくりと滑り込んだ。
 燐姐と向かい合っている。ちょうど俺の顔は、燐姐の胸元の前にあった。
 彼女の腕が、俺の後頭部に添えられた。胸に抱き寄せられた俺は、自らの心臓があらぬ方向に飛び出そうと跳ね続けていることに気付く。
「あの……一緒に寝る……だけですよね……?」
 燐姐の返事はない。俺の顔を胸に押しつけられているせいで、彼女の表情が見えない。
 ただならぬ気配に、これはどう考えても情交の前触れだと思い至る。
「り、燐姐……! 水尾先輩に操を立てたんじゃなかったんですか!」
 小声で叫ぶ。燐姐がどういう腹積もりで俺を同衾に誘ったのかは知らないが、たとえこの世にもう居ないとしても、水尾先輩を裏切ることはできない。
 俺を抱き寄せる腕の力が緩んだ。顔を上げる。――燐姐は泣いていた。
「ごめんね」
 俺は言葉を失う。これ以上、何をどうすればいいか判らなかった。燐姐に対する後暗さが、目の奥で疼痛を引き起こす。
「……今さら、早瀬君を引き留めるつもりはないの。早瀬君の気が済むなら、それでいいと思う」
 再度、胸に抱き寄せられる。ほのかに、イモモチの香しい匂いを嗅いだ。柔らかな感触に、脳が徐々に酩酊するような心地がする。
「私はね、早瀬君に死んでほしくないの。ただ、それだけ。でも、もし、それすらも叶わないというのなら」
 燐姐の震えが、俺の体に伝わる。
「早瀬君の生きた証を、私の中に残してほしい」
 心臓が激しく脈打つ。体のあらゆる箇所が波打って、眩暈がした。
「……解りました」
 歯を食いしばって答えた。燐姐にここまで言わせてなおこの場から遁走しようというのなら、俺は大馬鹿者だ。だが、どうしてもただ一つの懸念が拭えない。
「燐姐。もし今俺がここで燐姐を抱いたら……それは水尾先輩に対する裏切りになると思いますか」
 据え膳食わぬは、などという道理は糞食らえだ。俺は水尾先輩にも燐姐にも真摯でありたい。
「水尾君なら許してくれるよ。絶対に」
 燐姐が確信めいた口調で言うので、少し面食らった。
 これが水尾先輩に対する不義にならないのなら、案外そういうこと(・・・・・・)にも寛容だったのだろうか。
 先輩と燐姐がどのような契りを交わしていたのかは知る由もない。
 それに、先輩との間には、いわゆる一般的な雄同士の下世話な会話というものが無かった。俺はそういうことが嫌いなわけではないが、先輩がそのような話を一切しないので、自分から吹っ掛けるのは気が引けていたというのもある。
「……燐姐、よろしくお願いします」
 俺は、燐姐よりも短い腕を、彼女の頬に伸ばした。
 紫色の、微かに光る鬼火が、俺と燐姐の上でふわりと浮かんでいる。それがお互いの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「よろしくお願いします」
 燐姐の艶っぽい返事が、合図だった。
 ――俺は薄っぺらい布団と自分より大きな燐姐に包まれて、経験したことのない長い夜を過ごした。



 週に二、三度、夜更けに燐姐と逢った。周囲で変な噂が立つのではないかと気が気でなく、物陰に身を隠しつつボロ小屋へ向かう道のりは、いつも激しく心臓が高鳴っていた。
 何度か逢瀬を繰り返したのち、これは俺が燐姐を通じて生に執着するように仕向けた極上の罠だと知る。騙された、とは思わない。燐姐の優しさに感謝こそすれども、恨むのは筋違いというものだ。
 仇討ちを成すという気持ちそのものに変化はないが、差し違えてでも、という覚悟は徐々に消え失せ、生きて帰ってこれるだけの実力を身につけねばという意識に書き換わっていく。


「起きてたんですか」
 東の空が白む頃、燐姐(リンねえ)のもとから宿舎に帰ると、朱葉(モミジ)さんが囲炉裏の前で煙を(くゆ)らせていた。
 (フクロウ)は夜行性と聞くが、引き籠もりの朱葉さんには昼も夜も関係が無い。この時間に起きているのも気紛れだ。
東雲(しののめ)の、(ほが)ら朗らと明けゆけば」
「……何ですか、それ」
「朝帰りが板についてきたね」
 燐姐と共寝して安らいでいた心が、ささくれ立ち始める。
「……文句ありますか」
「ううん、別に」
 嗅いだことのないにおい。またイチョウ商会から新しい葉っぱを仕入れたらしい。こんなものを()んで体の痛みを誤魔化すなんて、毎度ながら狂ったひとだと思う。
「……テルは?」
 居間に目を移す。布団は空っぽだった。土間に彼の履き物も見当たらない。
「本部から帰ってきてない」
 朱葉(モミジ)さんは主人の動向にさして興味が無いらしい。
「例の竜の討伐依頼がお上に来たらしくてさ。テルも交えて夜通しで侃々諤々(かんかんがくがく)の会議でもしてるんだろうね。ああ厭だ」
 脳が軋む。仇討ちの時機は、必ずしも時宜良くやってくるわけではない。紺藍の竜と一度も相対せず生涯を終える可能性のほうが高いとすら思っていた。
 しかし、遠い未来の話が、突如として眼前の現実を切り裂いてきた。
 ――俺が黙りこくっているのを尻目に、朱葉さんは煙を吐き出しながら続ける。
「シンジュ団の若いのが襲われたんだってさ。純白の凍土に繋がる道が、どうも例の竜の縄張りになっているらしい」
 血が沸き立っている。研ぎ澄ましていた復讐心が、矢庭(やにわ)にぎらついた。
「ちなみに依頼が来たってことは隊長以上と博士、それからテルにしか報されてない情報だから口外しないでね」
「……朱葉さんがどうして知ってるんですか」
 朱い(フクロウ)がちらとこちらを見る。副作用で酔っているせいか、笠に隠れた目つきは胡乱(うろん)で、余計な追及は憚られた。
 煙管に再び目を落とした朱葉さんは、さらに続ける。
「あんなことがあったばかりなのにさ、ギンガ団から戦力を出してもう一度同じことが起こったら、いよいよ収拾がつかなくなる。シンジュ団は自分たちで対処できないのかって話にもなるだろうしね。あっちは藁にも縋る思いなんだろうけど」
 あんな雪と氷以外何にも無いところに住むのを止せばいいのに莫迦(ばか)だよね、と朱葉さんはケタケタと不気味な笑い方をする。ギンガ団以外の人間やポケモンが危険な目に遭うことは、心底どうでもいいらしい。
 それは――自分とて同じことだった。コンゴウ団やシンジュ団の中にも、親しいとは言わずとも任務時に立ち寄って二言三言、言葉を交わす仲のポケモンはいる。しかし彼らが何らかの不運により落命したとして――水尾先輩のときと同じように悲しむことはない。
 ただ、それを心の内に留めることなくわざわざ表に出す朱葉さんは不謹慎だ。頭の螺子(ねじ)が外れている。
「……受けるんですか」
「何を?」
「依頼を」
「さあ、僕に言われてもね。決めるのはテルだし。……まあ、十中八九引き受けるだろうけど、問題はあの無痛症が誰を連れて行くかだろうね」
 煙の輪っかが天井に昇っていく。
「俺が行きます」
「だから僕に言わないでよ。僕は行けないし」
 朱葉さんがわざとらしく脚の関節を揉んで痛みをアピールしているとき、土間の引き戸が開いた。
 紺色の隊服に赤いマフラーとホック帽を被っている青年の人間。今の主人であるテルだった。
《朱葉、煙草は止せっていつも言ってるだろう》
 体を害するし、何より壁ににおいがつく――テルはそのようなことを言った。
 テルは一緒に働くポケモンに厳しく接することはあっても蔑ろにするような人間でないことは、一ヶ月半ほど調査任務に同行して痛感した。
 しかし朱葉さんに対する当たりは、傍目から見ても強かった。手持ちのポケモンの健康より、宿舎の色褪せた壁のほうを優先する道理は無いのだが、朱葉さんの怠惰がテルを苛つかせていることは明白だった。
 そして当の朱葉さんは、自らの扱いの悪さを気にする素振りを一向に見せない。――否、働きもしない身分でありながら宿舎でのんべんだらりと過ごしているのに追い出されていない時点で、扱いは悪いどころかむしろ貴族のそれに近い。
 ――羨ましいとはまったく思えないが、人によっては朱葉さんの生活に羨望の眼差しを向けるだろう。
 テルは呆れたように朱葉さんを睨み、そしてそれも効果が無いと悟ったのか、今度は視線を俺のほうに向けた。
《早速だが明後日の朝、純白の凍土に向けて出発する。任務内容は例のガブリアスの討伐。可能であれば捕獲もしたいと考えているが……それは難しいかもしれないな。……この件は混乱を防ぐため一般隊員以下には秘匿されている。他言無用で頼む》
 すでにテルはこの任務に俺を同行させることを決めているらしかった。
《それから……調査隊に分散させたかつての戦力を戻すことを打診されたが、断った。俺は早瀬(ハヤセ)と朱葉でこの任務を完遂できると思っているが……お前たちはどう考えている》
 目を見開いた俺に、テルは屈んで目線を合わせる。黒い目が、そこはかとなく水尾先輩に似ている目が、お前ならいける、と訴えかけている。
 一瞬の間を置いて、俺は力強く首肯(うなず)いた。
「僕は無理だよッ!」
 案の定、朱葉さんが水を差した。勢いよく立ち上がり甲高く鳴いたその姿は、怠惰の化身とはほど遠いほどしゃっきりとしている。黄金色の瞳に、絶対に行きたくないという鋼の意志が宿っていた。
「往生際が悪いですよ、朱葉さん」
「僕じゃ戦力にならない! 足を引っ張るだけだッ!」
 朱葉さんがぐわぐわと鳴く。テルは片眉を吊り上げて朱葉さんの煙管(きせる)を奪い取り、(かまびす)しい嘴を摘まんだ。
 テルは顔を朱葉さんにぐいと近づけて、恐喝じみた口調で叱咤する。
《朱葉、お前は遠隔から早瀬を支援しろ。矢の訓練だけは毎日怠っていないことは知っている。……少しは後輩に恥ずかしくない背中を見せろ》
 豆鉄砲を喰らったような、とはまさにこのことだろう。嘴からテルの手が離れて、へなへなと床に崩れ落ちた朱葉さんは、なんで知ってるんだよ――とか細く呟き、顔を(うつむ)けた。
「サボり魔じゃなかったんですね」
「うるさいな……」
 朱葉さんは完全に酔いが覚めた様子で、テルを睨めつけていた。主人に取る態度としては不適切も甚だしい。
《もう一度言うが、出発は明後日だ。朝飯を食ったら訓練場に来い。ペリーラさんに技の調整をしてもらう》
 テルは朱葉さんのふてくされた態度を一顧だにせず、慌ただしく宿舎を出ていった。
「よろしくお願いしますね、朱葉先輩(・・)
「……はあ、辞世の句を準備しておかないと」
「ついでに俺の分も用意しておいてください」
 俺はどこまでも後ろ向きな朱葉さんに、不合理な好意を抱いていた。


 出発前夜、燐姐のもとを訪ねた。菖蒲色の着物は脱いであった。
 ――任務に失敗し、命を落とす羽目になったら、燐姐と逢うのも最後になる。そのような心境を悟られぬよう努めたつもりだったが、燐姐の目は誤魔化せなかった。
「……明日、行くんでしょう」
 何に、とも、どこに、とも言わない。そもそも、燐姐には明日の任務の内容は伏せられているはずだ。知られていること自体が大問題だが、きっとテルの慌ただしさや俺の表情から読み取ったに過ぎないのだろう。
 俺は観念して、はい、とだけ告げた。
 煎餅布団の上に、座して互いに向かい合っている。闇の中で紫炎が揺らめき、二匹(ふたり)の輪郭が不作為に煌めいた。
「生きて帰ってきて」
 はい、とは答えられなかった。何事にも絶対は無い。強大な敵に向かうならなおさらだ。
 そっと燐姐の右手が伸びてきて、俺の右手を取った。引き寄せられた先は、燐姐の柔らかなお腹。艶のある毛並みに触れると、その奥に――何かが鼓動していた――ような気がした。
 それが何を意味するのかは自明で、俺は目を静かに瞑る。
「死んでも帰ってきます」
「……うん」
 叶うかわからないものを約束するのは、不誠実だと思う。けれども、懇ろな(おんな)のささやかな頼み一つ聞けずに何が(おとこ)か、とも思う。
 燐姐が横になり、俺も向かい合わせで布団に潜った。
 しとやかで温もりのある腕と厚みのある胸に、強がりと不安が融けてゆく。
「燐姐……ずっと聞きそびれてたことがあるんですけど」
「なあに?」
「水尾先輩との馴れ初め、知りたくて……」
「まあ」
「こんなときに聞くの、失礼かもしれないですけど……」
 断るまでもなく、失礼千万だった。だが、あの日から燐姐に水尾先輩の話をすることを避けてきた負い目と後悔が、今になって噴出する。
 今生の別れとなるかもしれないのに、俺と燐姐を繋いだ水尾先輩の話をせずに夜を終えるのは、あまりにも切ない。
 布団の上に浮いている紫色の鬼火が一段と勢いを増した。
「帰ってきたら、話してあげる」
「……今じゃ駄目ですか」
「水尾君に怒られちゃう」
 水尾先輩は現世に遺した妻が操を破っても怒らないらしいが、馴れ初めを言いふらされるのはお気に召さないらしい。
 いよいよ水尾先輩の趣味が解らなくなる。もっと本人と下世話な話をしたほうがよかったと、悔恨の念を禁じ得ない。
 燐姐と少しだけ睦み合ったあと、夜更けに小屋を辞して宿舎に戻った。




 通常、調査隊員が任務に赴くときは警備隊による警護をつけてもらうが、テルはそれをしない。
 警備隊の人的資源にも限りがある。自分に人員を割くより、他の調査隊員に護衛をつけたほうがよいとの弁に、誰も反対できる者はいなかった。
 もっとも、足手まといを嫌って少数精鋭を好んでいるというのがテルの本心であろうと、俺は推し量っていた。
 通常の任務ならテルの我儘(わがまま)は当然通るが、今回の討伐任務についても例に漏れずであった。薄々勘づいていたが、テルの意見は隊長格はおろかギンガ団団長よりも優先されている節がある。
 無論、彼の一挙手一投足がコトブキムラやヒスイの発展に費やされているからこそ許されている振る舞いだ。
 昨日の早朝にコトブキムラを、テル、俺、朱葉さんの小隊で発ち、ひたすら北上した。途中に建設隊が建てた、行人(こうじん)のための小さな茅舎(ぼうしや)で一夜を明かした。
 そして今日も日が昇ると同時に出立した。昨夜降り始めた雪は、なおもちらついている。ヒスイ北部は年中雪が積もっていると聞いたが、(たし)かにこれでは歩くのにも一苦労だ。
 昨日は朱葉さんと言葉を交わす余裕があったが、今日の小隊は朝から無言を貫き通していた。
 雪と空気の鋭い冷たさと、これから相対する強敵へ馳せる思いが、そうさせている。
 (ひる)を過ぎる頃には、純白の凍土に到着する。紺藍の竜(ガブリアス)が出没すると思しき場所はその道すがらである。
 俺たちはそれぞれの歩調を合わせながら、雪道に足跡をつけてゆく。
「……寒いですね」
 テルが殿(しんがり)を務めている後ろで、俺は朱葉さんに話しかけた。
「そう? 凍土はもっと寒いよ」
「朱葉さんは平気ですか。草タイプでしょう」
「羽根が防寒仕様だから」
 朱葉さんは翼を組んで歩いている。それはあたかも人間が膝まで掛かる外套(コート)を羽織っているようで、寒さから身を守れるのも納得の装いだ。
 燐姐(リンねえ)が着物を着ているのにも合理を見出せる。
「ずっと()けずにいましたけど……そのデカい(かご)は何なんですか」
 朱葉さんは、小柄な成人の人間なら余裕をもって入れられそうな大きな籠を背負っていた。きちんと蓋がついていて、イチョウ商会の面々が背負うリュックサックを二回り大きくしたような代物だった。
 遠征に必要な荷物を入れていると思いきや、泊まった茅舎でその中身を覗くと空っぽだった。なぜこのようなものを担いできたのかずっと怪訝に思っていたのだ。
「ああこれね」
 黄金色の瞳が、前を歩くテルの後ろ姿を見据える。
「死体入れ」
「……は?」
 討ち取った竜を入れるつもりなのか。
「見つかるかもしれないでしょ、水尾くんの遺骸が」
 俺は絶句する。このひとは普段から何を考えているのかさっぱり読めないが、今回ばかりは不可解の極みだ。
「……あれから二ヶ月近く経つんですよ。あるわけないじゃないですか。肉も腐ってて骨も散らばってますよ」
「まあ、例の竜が食ったかもしれないし、それでなくてもあの辺りに棲んでるウォーグルとかが食い荒らしてるかもしれないけどさ。あそこは極寒だから、雪や氷に埋もれてたらそのままの形で残ってるかもしれないよ」
 仮に残っていたとして――どうだと言うのだ。それで水尾先輩の命が戻るわけではない。死んだら終わりなのだ。
「早瀬くんってほんと感情が表情に出るよね。水尾くんと正反対で面白いよ、っだ!」
 俺は朱葉さんの尻を帆太刀で思いっ切り引っ叩いた。
「次ふざけたら、その嘴を叩き斬ります」
「ってて……。ごめんよ、揶揄(からか)うつもりはなかったんだ」
 俺の中の朱葉さんに対する評価は、出会ったときから二転三転、四転五転している。今でこそ昼行燈という評価を取り消しているが、水尾先輩とは別種の掴みどころの無さを感じている。
「でもさ、骨の一片ぐらいは持って帰りたいんだよ。そうしたら、葬式ができるかはわからないけど、墓ぐらいは建てられるでしょ」
「……そんなもの、必要ないです。人間には必要なのかもしれないですけど」
 俺が不快感を露わにすると、朱葉さんは反駁するように急に真面目ぶった口調になった。
「……仮に僕が死んだとしてさ」
 下から朱色の笠の中を見上げると、黄金色の半眼がこちらを見据えていた。
「きっと皆すぐに忘れるよね。僕は何も為せてないし、忘れられるのは当然だとも思う。むしろ僕みたいな半端者は忘れられてほしいとすら願うぐらいだ」
 俺は、いたたまれない気持ちになって、朱葉さんから目を逸らした。
「けどさ……僕と違って水尾くんは偉大なんだよ。調査隊、ひいてはギンガ団へどれだけ貢献したかは計り知れない。でも、それもいずれ忘れられる。僕ほどすぐにではないだろうけど、時間というのは本当に残酷だから」
「……俺は絶対に忘れません」
「うん。僕も早瀬くんも、燐さんも、テルも忘れないだろうね。でも、僕らが死んだらそれも終わりだ。ヒスイの十英雄だって、伝承や天冠山頂上の像がなければ、僕らがその存在を知る由もなかっただろう。だから、せめて墓碑ぐらいは建てて、水尾くんの生き様を残しておかないと」
 朱葉さんからは、常々ぼんやりとした希死念慮のようなものを感じ取っていた。それは恐らく間違いないが、今の意思表明もまた本心で、それこそが最終的に重い腰を上げてこの任務についてきた理由なのだと知る。
「朱葉さんって、水尾先輩のこと好きだったんですね」
「……どっちの意味で?」
「どっちでもいいです」
「……尊敬してたし、僕が雌だったら間違いなく求婚してたね。それで呆気なく振られて絶望する」
「雄でも求婚すれば良かったじゃないですか」
「望み(ゼロ)に等しい賭けに出るほどの勇気は持ち合わせていないんだ」
 方向性は違えど、水尾先輩に拘泥するポケモンがここに二匹(ふたり)もいる。――ふと、テルが俺たち二匹を任務に同行させた本当の理由に思い至り、体が震えた。気のせいであってほしい。
「……今さら気付いた?」
 朱葉さんが俺の心を見透かしたように笑う。
「あの無痛症は本当に恐ろしいよ。目的のためなら利用できるものは何でも利用するんだから」
 復讐心や拘泥(こだわり)というポケモンの想いすら、任務遂行に活用する。改めて、水尾先輩はとんでもない人物の下で働いていたのだと実感する。
「……上等ですよ」
 復讐を果たせるなら、形はどうだっていい。むしろ、俺を上手く使ってみろとすら思う。手柄がテルのものになろうと、俺には一切関係が無い。
《早瀬も朱葉も随分とお喋りだな。口が凍るぞ》
 テルがこちらを一瞥して言う。人間のテルに、俺たちの会話の内容を把握する術はないはずなのに、一字一句違わず理解されていると錯覚しそうになる。
 口元を隠したマフラーが、冷たい風に靡いた。



 雪はいよいよ深くなるが、幸いなことに天候は好転した。風はやみ、空から厚い雲が退いて、日が降り注ぐ。雪景色の白さは際立ち、目が眩むほどだった。
 テルの歩調(ペース)は落ちないどころか、むしろ加速している気さえする。目的地が近いのだ。
「一度だけテルとは別の調査隊員についていったことがあるんだけど」
 朱葉さんは天気が回復したのをいいことに、またお喋りを始める。
「行き先は確か群青の海岸だったんだけど。三日四日かけて行く道中でさ、吃驚(びっくり)するぐらい野生のポケモンにちょっかいかけられるんだよね。エイパムに後頭部をぶん殴られたり……本当に最悪な気分で、頑張って警備隊が追い払ってくれるんだけど、しつこい奴らだと僕まで駆り出されてさ。くたびれて、目的地に辿り着いても調査のやる気なんか出ないんだよ」
 まるで普段はやる気に満ち溢れているかのような物言いだ。その調査隊員だってもっとマシなポケモンを寄越してほしいと思っただろう。
「そこではっとしたんだ。テルの警備隊要らずはもの凄いことなんだって。テルと居ると、道中で雑魚から襲われることはない」
 (たし)かに、ここに至るまで、遠くからこちらの様子を窺ってくるポケモンは多少見かけたが、手出しされることはついぞなかった。
 思い返すと、テルと同行した任務では、行き帰りに野生ポケモンに厄介事をもたらされたことは一度もない。
「……殺気ですかね。下手に手出ししたら返り討ちにされるって思わせる凄みがあるんだと思います」
 ひそやかスプレーという道具がある。振りかけると、まわりの野生ポケモンに認識されづらくなるという代物だ。以前、隠密行動をするときに使ったことがある。
 テルの場合は、むしろ野生ポケモンのほうがテルに見つからないようにしようと隠れてしまう。――完全無欠に見えるテルだが、臆病なポケモンの捕獲任務に時折失敗するのは、殺気を隠し切れないせいだろう。
 逆説的に――テルに正面を切って対峙する相手は、己の強さに絶対の自信を持つ者――ということにもなるだろう。
 テルがこの任務を引き受けたとき、ある考えが一瞬だけ脳裏を過った。そもそも――そう都合良く紺藍の竜(ガブリアス)出会(でくわ)すことができるのか。
 出立前に、テルの持ってきた博士のスケッチをつぶさに観察した。流線型の外形(フオルム)。敵を屠るためだけに備えてある鋭い爪。俺の帆太刀を簡単に噛み砕きそうな牙。
 しかし、真に恐れるべきはその速度だという。飛行タイプではないが、地面を滑空し、瞬く間に獲物との距離を縮める。
 そのような脅威的な存在が今――俺たち小隊の半町(50m)先にいた。
 テルが後ろをついて歩く俺たちを、手で静かに制止する。
《奴だな》
 テルの断定に同意する。別個体である可能性は、遠目からでも判るその巨躯により排除された。オヤブンに迫る大きさという報告には、いささかの誤謬も認められない。
 水尾先輩の命を奪い去った竜は、白樺が疎らに林立する森閑とした銀世界で、茫昧(ぼうまい)とした様子で佇んでいる。――こちらには気付いていない。
 雪と白樺と竜。――妙な景色だった。この先を進むと純白の凍土に辿り着くらしいが、なるほど慥かに、この見晴らしでは遠回りしようと竜の視界に入ってしまう。一切見つからずに進むのは困難を極めそうだ。
 見渡す限り、他にポケモンは見当たらない。――竜がすべて喰らい尽くしたのか、それともあの竜を恐れて他の野生ポケモンが一切立ち入らなくなったのか。随分と広大な縄張りを持っているようだ。
 体が熱を帯びる。無意識に、両の手で二枚の帆太刀の柄に手を掛けていた。
「羨ましいよ。敵無しの絶対的強者は、ああやって臆面も無く体を曝せるんだから」
 朱葉(モミジ)さんの声は、少し上ずっていた。据えた黄金色の瞳。――少し、安堵した。このひともちゃんと(・・・・)怒っている。
《いけ、朱葉》
 テルの合図で、朱葉さんは躊躇無く矢羽根を(つが)えた。真白の冬景に映える、白樺に交じった季節外れの朱き(かえで)。宿舎で煙管を銜えている怪しげな昼行燈とはほど遠い、美しい立ち姿だった。
 びゅん、としなる弓。凍てつく空気を(ごう)と切り裂いた矢羽根は、瞬く間に竜の鼻先に直撃する。
 矢の精度に驚く間もなく、紺藍の竜(ガブリアス)は怯みもせずにこちらに走って向かってくる。
 ――速度は思いのほか無い。得意技の滑空を発揮するには、相手より高く位置取りをしなければならない。今はわずかにこちらのほうが高地である。
 心臓が高鳴っている。厭な音だった。巨体が迫り来る。あの爪が直撃したら、致命傷は免れない。――体が、蛇睨みを受けたように硬直する。
 朱葉さんはすでに高所――白樺の細い枝へと跳び乗っていた。竜を相手取るのは、俺だ。
 テルが屈みながら俺の肩をがっしりと掴んだ。
《落ちつけ。攻撃自体は大振りだ。早瀬なら見切れる。最悪、帆太刀で受ければいい。あとは事前に教えた通りだ》
 テルは竜が六間(10m)先に迫っても退かなかった。朱葉さんはテルを無痛症と揶揄するが、今はそれがどれだけ心強いか。
 竜が両の爪を振り翳した。
 があ、と氷雪の大地を震わせる咆哮とともに、爪が振り下ろされる。
 テルは、およそ人間とは思えない脚力で後方に跳んだ。
 俺は――左に一歩だけずれた。
 轟音とともに舞い散る雪飛沫。

 ――竜の絶叫。

 打ち込み修行をしていて良かったと思う。
 大振りのあとの隙を見逃さず、竜の右足に帆太刀を見舞った。
 感触は案外悪くない。
 即時に体を翻してテルのもとに退却すると、続けざまに上空から矢羽根が飛んできて、竜の頭を小突いた。
 ――竜が大人しくなる。
 その刹那に、余計な考えが頭をもたげる。気の逸り。今なら、水尾先輩の仇が討てる――。
《やめろ》
 テルに再び肩を掴まれた。
《引き寄せる。避ける。一撃を与えて離脱。機会(チヤンス)が訪れるまではそれを徹底しろ。……でないと死ぬぞ》
 深呼吸する。頭に上った血が下りていく。
 テルが赤い瓶から丸薬を取り出して、俺に呑ませた。
 攻撃が通ると判断されたとき、隙を見て呑ませると言われていた攻めの丸薬。血流を促進し、攻撃力を高める。
 本番はここからだ。
 距離を取って、迎撃のため帆太刀を構えた。竜の動き出しを見逃すまいと凝視する。
 竜は、こちらを静かに見据えている。勢い任せに来るなら、対処は幾らか容易いのだが。
 冷たい風が通り過ぎる。雲がわずかに、太陽を隠した。
 竜が、上方に跳んだ。
 その図体にそぐわぬ跳躍力に、一同が仰いで目を(みは)る。
 天()く白樺の幹に足を掛けた竜は、(おの)が重みで折れそうなぐらいに(しな)らせた幹の反動と脚のバネで――巨躯を撃ち出した。
 それはあたかも、朱葉さんの弓を自身に(なぞら)えたかのような芸当だった。
 白い弦から放たれた紺藍の矢は、神速とも言うべき速度で俺たちを襲った。
「ッ!」
 俺とテルがそれぞれ左右に回避した場所を、豪速の矢が突き抜けてゆく。――迎撃など考えられない。体がばらばらに四散して終わりだ。
 矢は白い大地を滑空し、揚力によって再度上昇したあと、別の白樺の枝に飛び乗った。
《一撃離脱はこちらの専売特許じゃなかったらしいな》
 テルの顔を見る。赤いマフラーで口元を覆っているが、眉間に皺が寄っている。対応を考え(あぐ)ねているらしい。
 また、竜が白樺を撓らせた。
 瞬きする暇もない。俺たちは、竜の渾身の矢を、ただひたすら避けるしかなかった。
《水尾がやられたのも頷ける》
 四度目の攻撃をかわして、テルは感心したように言った。
 一歩間違えば即死するような状況で感心している場合ではないのだが、俺も同じような感情だった。
 水尾先輩のアクアジェットは、この世で最高の技だと思っている。だが、あの紺藍の竜(ガブリアス)の自らを矢とする技も、同じくらいに絶技だ。
 本能で辿り着いたのか、それとも修練の末に会得したのかは知る由もない。ただ一つ言えるのは――俺はたった今から、同じ強さを求める者として、最大限の敬意をもって戦いに臨むということだ。
 竜が、攻撃の準備を始める。
 さて、気合いを入れ直したのはいいが、あのいかんともしがたい攻撃をどのように対処するかと思案すると、テルが思いがけない提案をした。
《早瀬、俺が奴を迎撃する。お前は避けたあとに間髪入れずあれ(・・)で攻撃しろ》
 思わず正気を疑ったが、テルの目は至って本気だった。それにあれ(・・)は覚えてからほとんど使っておらず、命中率も射程もおぼつかない。
(……信用しよう)
 テルの考えていることは解らない。それでも無条件に、何らかのお膳立てをしてくれるはずだと、己が心を主人(テル)に預けた。
 帆太刀を構える。テルは隣に立った。腰のポーチから何かを取り出す。――それは。
 竜が飛んでくる。
 死そのものが接近してくるかのようだ。恐怖する間もない。
 ぎりぎりで右に跳ぶ。その瞬間。
 雷鳴が白い大地と空気を激震させた。
 ――バリバリ玉。群がってくる雑魚を散らすために投げつけるのが本来の用途で、いわゆる爆竹というものだ。
 テルは回避の瞬間、それを竜が通過する位置に置くように放った。鼻先にバリバリ玉が直撃した竜は、音に驚いたのがバランスを崩し、白い地面に墜落した。
 舞う雪煙の中に、紺藍の背鰭と尻尾が辛うじて見える。
 距離は――問題ない。
《いけ!》
 テルの合図で放つ冷凍ビーム。ドラゴンと地面の両タイプに抜群の氷技は、射程の尖端で竜に命中した。
 竜の咆哮が響き渡る。随分と効いたらしい。
 朱葉さんが高所からすかさず矢を撃ち込み、竜を追撃する。
《畳みかけるぞ!》
 また距離を取られては元も子もない。竜を仕留めるため、俺とテルは雪上を駆けた。
 どん、と何かが鳴動する。
 乾いた空気が戦慄(わなな)いた。
《早瀬、退け!》
 テルの指示よりわずかに早く、周囲の地面が急激にせり上がる。
(これは……大地の力!?)
 広範囲の地鳴り。疎らな白樺がめいめいに傾いて、雪に隠れていた岩肌が、足元を襲う。
 逃げ場所が無い。
《早瀬!》
 テルの声。雪煙で姿が見えない。
 俺は――盛り上がって割れた岩肌の隙間に左足が挟まれていた。抜け出せない。
 雪煙の向こうから、巨大な(あしおと)がやってくる。
 危機を察して帆太刀を構えるが、このままの体勢では受け切れない。
 紺藍の竜が、血走った目で姿を現した。獲物を屠るための形状をしている、鋭い爪を振りかぶる。
 帆太刀を(かざ)す。――たった一撃を受け切ったところで、焼け石に水だ。
 都合の良い一発逆転の作戦など無い。それでも、策を思い巡らす。
 爪を受け流して、足元の岩肌に命中させることができれば。
 眼前に竜が迫る。九尺の体躯。――受け切れるわけがない。
 死ぬ直前の水尾先輩も、このような心持ちだったのだろうか。

 ――血飛沫が飛び散る。

「……ッ!?」
 朱色の影が、俺と竜の間に割って入っていた。
 俺に背を向けて立つ朱葉(モミジ)さんの体を、残忍な爪が貫いている。
「うおおおおっ!」
 朱葉さんが竜の顎を蹴り上げる。格闘タイプらしい威力に、竜は堪らず吹っ飛んだが、勢い余って朱葉さんも後ろに倒れ込む。
 テルが駆け寄ってきて、俺の足を挟んでいる土塊を、力を振り絞って退ける。
 自由を得た俺は、倒れた朱葉さんを引き摺って後方に下がった。
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
 朱葉さんを寝かせる。脇腹から血が滲んでいた。てっきり爪が腹を貫通したのかと思っていたが、致命傷は避けられていたようだ。
 テルが素早く応急処置を始める。
「どうして庇ったんですか」
 遠隔からの支援に徹するよう、テルに言われていたはずなのに。
「……君が死んだら燐さんに怒られるし、水尾くんにも祟られちゃうよ」
 朱葉さんが虚ろな目で自嘲する。
「……莫迦なこと言わないでください」
 仇討ちを意気込んだ結果がこのざまか。自分の命ならまだしも、朱葉さんの命まで危険に曝してしまった。
「どうして――」
 強くなった気でいた。
 けれども、勘違いだった。
 俺は弱い。
 何もかもが足りない。
 死ぬ気で自分を追い込んだつもりでも、全然足りていなかった。
 ――悔しい。
 帆太刀を、強く握り込んだ。――軋んだ音がして、亀裂が入る。
 そのまま割れてしまえ。もっと鋭く、もっと尖れ。あの竜の(くび)を落とせるように。
「早瀬君……」
 ――二枚の愛刀が黒く、(あか)(ひず)んでゆく。
 (いや)、歪んでいくのは――俺の(からだ)なのか。
 朱葉さんの目に、変わり果ててゆく俺の姿が映る。
成った(・・・)、か》
 テルが朱葉さんの手当を続けながら、ぽつりと呟いた。
《任せたぞ》
 テルが、朱葉さんと一緒に下がっていく。
 俺一匹で、竜を引き受ける。――望むところだ。
 紺藍の竜が、再び立ち上がる。空をつんざく咆哮。
「……殺す」
 波打つ緋色の文様があしらわれた、二振りの黒い蛇行刀を逆手で握った。
 ()えながら走り来る竜。
 ――()く視える。
 迎撃態勢を取った。
 左の刀で受けつつ、右の刀で斬りつけるイメージ。
「……!?」
 竜が、半身で踏み込んだ。
 爪ではなく、太い尾で薙ぎ払うような攻撃。
 俺は、避けずに斬りかかることを選んだ。尻尾が胴を直撃する前に、刀が届くと瞬時に判断したのだ。
「がっ」
 体が吹き飛ぶ。雪上を転がって、白樺に背中を(したた)かに打ちつけた。
「くそっ……!」
 急いで立ち上がる。尻尾による攻撃は、決して予想できない類のものではない。それに竜の予備動作は視えていた。
 だが、新たな力を手にしたことで――頸を落とせる、と己を急いてしまった。
 ――これでは、進化した意味が無い。
「っ!?」
 矢羽根が目の前を通り過ぎ、白樺にぴんと突き刺さった。
「朱葉さん、何をッ」
「早瀬くん……焦りは禁物だよ」
 血の気を失いながらも、上体を起こして矢を放った朱葉さんの一言で我に返る。
 冷たい空気を目一杯肺に取り込んで、ゆっくりと吐き出す。
 もっと集中しろ。水尾先輩の仇討ちだとか、朱葉さんに自分を守らせたふがいなさだとか、今は捨て置け。
 半端な心では竜に対峙できない。
 もう一度、深く息を吸った。己と竜の間にあるすべてを、五感を限界まで開いて感じ取る。
(ありがとう、朱葉先輩)
 強張っていた体が、弛緩する。今まで己の中にずっとわだかまっていた厭な緊張が解けている。
 竜が向かってくる。いよいよ俺にとどめを刺すつもりらしい。
 ぎりぎりまで引き付ける。目を見開いて、竜の一挙一動を、寸前まで観察する。
 振り下ろされる二本の爪。
 それぞれの刀で、的確に払いながら返す刀で頸を狙う。
 急所だけは何としても守らんとする竜が、(すんで)のところで仰け反って刀の切っ先をかわす。
 そのまま竜が後ずさった。俺は刀を打ち鳴らす。
 ――大丈夫だ。ようやく、地に足がついた。進化酔いも無い。変貌した体はこれまでとまったく勝手が異なるが、昔からこの体で戦っていたのだと錯覚するほど馴染みが良い。
「……いざ、参る」
 固い雪に後肢の爪を食い込ませ、勢いよく踏み出す。
 一瞬で、距離を詰める。
 刀と爪が打ち合う音。
 澄み渡った音だ、と俺は場違いな感想を持った。
 竜が左足を軸に回転する。太い尾で俺の体をまるごと薙ぎ払おうとする。
 俺は後方に跳び、尾が通りすがった瞬間に再度距離を詰めて刀を振る。
 竜は振り向きざまに爪で刀を止める。
 もう一方の爪が俺の顔を目がけて飛んでくる。
 首を振る。頬を掠める。構わず、刺突する。刀の切っ先が、竜の首を掠める。
 互いの呼吸音と武器が鍔迫り合いをする音だけが、場を支配している。
(なんだが、心地いいな)
 訓練を除いて、戦いを楽しいと思ったことは初めてかもしれない。
 技と力のせめぎ合い。一瞬一瞬に懸ける想い。
 いずれ終わってしまうのが惜しい、と思ってしまうのは悠長だろうか。
(それでも……そろそろ決着する)
 攻撃は、終始見切れている。――水尾先輩が俺の目を褒めてくれた意味を、今なら理解できる。
 全部、はっきりと視えるのだ。相手の予備動作から、攻撃がどれほどの速度でどこに来るのかが読める。
 今までも、恐らく視えてはいた。ただ、それでも体が己の求める動きに必ずしもついてこられたわけではなかった。だから、視えた上でかわせた動きと、勘でかわせた動きの区別がまったくついていなかった。
 進化した体は、俺の求める動きを寸分違わず再現してくれる。延伸した刀は、頸に届くようになった。
 それでも。
(……このままだと、敗ける)
 あの竜は、頭が良い。俺が攻撃をかわすことを計算に入れて動いている。俺の刀の間合いに、ぎりぎりで頸を入れないようにしている。
 それに、竜の鱗はやはり硬い。切り裂くには、もっと腕を振る速度を上げて、威力を高める必要がある。
 一方、竜の爪は俺の(はだ)を容易に貫くだろう。一見、埒の明かない膠着状態のように見えて、不利なのは俺のほうだ。
 このまま漫然と勝負を続ければ、不慣れな寒さを気力で誤魔化している俺はいずれ力尽きる。
 ならば。
(水尾先輩、見ててください。一撃で竜を屠り去る一手を)
 爪を猛然と振り払って、距離を取った。――深呼吸する。右前足(みぎて)の刀を、順手に持ち替えた。
(こんな作戦、もし燐姐に話したら怒るだろうな)
 紺藍の竜と相対して、無傷の勝利は無いと理解する。討ち取るには、命を懸けなければならない。
(生きて帰ることを諦めたわけじゃないけれど)
 竜には、悪意も善意も無い。ただ、縄張りに侵入してきた敵を屠るという、それのみを理由に爪を振るっている。
 それは、ある程度力を持つ野生のポケモンであれば、誰しもがやることだ。それは一種の自然の摂理だ。
 紺藍の竜は、その理を極大に具現化したものに過ぎない。
 だから――それを恨むのは、きっと筋が違うのだろう。
 その理にたまたま水尾先輩が絡め取られたことも致し方なかったのだ、と無理矢理納得する日はいずれ来るのかもしれない。
 ()れば、今の俺は何のために刀を振るのだろうか。
(いや)……意味なんて、今はどうでもいい)
 俺の刀と竜の爪、どちらが強いのか。
 今は、その程度で良い。
 白い息を吐くたび、脳内の曇りが晴れてゆく。
 竜が雄叫びを上げ、向かってくる。
(耐えてくれ、俺の体!)
 来る。
 来る。
 ――来た。
 竜が振りかぶった。
 爪が、左腕の白い爪が、太陽の光を眩く反射して。
 空気を切り裂き。
 俺の右側頭部を。
 ――直撃する。みしりと、兜が悲鳴を上げる。
 頸が折れたと思うほどの打撃。思わず顔を歪める。
 竜が――嗤っている。爪が入った(・・・)と確信し、竜は前のめりになる。

 鮮血。
 竜の喉笛が、掻き切れる。
 竜の、黄色い目が揺れる。

 ――上手く、いった。
 俺は爪を兜で受け、左方に殴り飛ばされる瞬間に、竜の左腕越し――詰まるところ、竜の死角――から、頸を斬りつけた。
 弾き飛ばされた勢いが乗った刀は、そのまま竜の前頸を切り裂いたのだ。
 視界がぐるぐると巡る。宙空に投げ出されて、雪上に体を打ちつけてなお体はごろごろと転がる。
 ――兜ごとこめかみを貫かれていたら、そこで俺の命は潰えていた。進化して得たせっかくの兜はひびが入ってしまったが、なんとか持ち堪えていたようだ。
 立ち上がろうとして――膝をついた。眩暈(めまい)がする。脳が揺れているようだ。頸も軋む。
 刀を支えにして後肢に力を込めるが、駄目だった。
 その場にくずおれる。
 ――(あしおと)
 まだ生きているのか。
 雪を踏み鳴らしながら、紺藍の脅威がやってくる。
 喉からおびだたしい量の血を流しながら、こちらに向かってくる。
 反撃しなければ。
 吐き気がする。
 まずい。
 眩む。
 白黒に明滅する視界。
 竜の咆哮。
 血。
 竜が、爪を振り翳した。




























 深く昏睡しているわけでもなく、かといって瞭然と覚醒しているわけでもない。現世と黄泉(よみ)の狭間で微睡んでいるような心地。
 ――自分は、死んだのだろうか。
 紺藍の竜が振り(かざ)した爪は、果たして俺の脳天を貫いた。
 ――と、思ったのだが。
「お目覚めかな」
 雪解けの道。朱色の笠。俺は――籠の中にいる。
「……何で」
 己を取り巻くあらゆる事象が腑に落ちない。取り分け、己がまだ彼岸へ渡っていないことに対して。
 テルは行きと同じように小隊の殿(しんがり)を務め、朱葉(モミジ)さんは俺の入った大きな籠を背負っている。
 首だけを籠の外に出している俺は、傍目から見て随分と間抜けだろう。
紺藍の竜(ガブリアス)は、早瀬(ハヤセ)くんにとどめを刺す寸前に事切れた。最後の一振りを決めるまでに命が保たなかったんだ」
 君は見事に仇を討ったんだよ、と朱葉(モミジ)さんは言った。
 ――討ち取った実感が薄い。生還した実感は、もっと薄い。ただ運が良かっただけのように思う。俺の肉体の至る所に巻かれている包帯と、筋肉や関節の痛みがそれを如実に物語っている。
「……っていうか、なんで俺を背負って歩けてるんですか」
「そりゃ君よりは傷も浅いし。横っ腹掠めただけ、ってて……」
 しっかり痛がっているあたり、ただの強がりにしか見えない。
「……怪我してるのに、俺たちボールに入れてもらえないんですか?」
「ボールに入れたら体が(なま)るから、基本的に捕獲したばかりのポケモン以外は入れないっていうのが無痛症の信条なんだよ」
 奇天烈な信条だ。このままテルの下で調査隊を続けていくことを考え直す必要がありそうだ。
「……ありがとうございます、守ってくれて」
「君に感謝されるとむず痒いね。いつものように生意気な口を利いてくれないと調子狂うよ」
「遠隔からの支援に徹しろって言われてたのに、それを忘れて庇いに来るとか鳥頭にも程がありますね」
「あんまり強い言葉を使うと泣いちゃうよ?」
「……あの時の言い訳、燐姐や水尾先輩を使うのはらしくないです」
「はあ、君も案外気にしいだね。僕の怪我の責任を早瀬くんに負わせる気はないよ。……老体は若人を守るためにあるんだ」
「老体って……朱葉さん、水尾先輩とそんなに変わらないでしょう」
 ねえ、何か誤魔化してませんか。そう言ってしつこく食い下がると、やれやれといった風に(フクロウ)が振り向く。
 ――黄金の虹彩が鈍く輝いた。
「僕は所詮――()と金(・・)にする引鉄(トリガー)だったってことだよ」
「……は?」
「まあ、いいじゃないか。終わり良ければすべて良し、だ」
 またもやお茶を濁される。銀世界に凜として()っていた朱い楓は、いつもの胡乱な昼行燈に戻ってしまった。
 籠の中で揺られながら、あたりを見渡す。白い雪は疎らで、純白の凍土から随分と離れたことを実感する。
「どうだい、復讐を果たした気分は」
 先ほどの問答のお返しとばかりに、答えに窮する問いを投げかけられる。
「……どうでしょうね」
 はぐらかしたつもりはなかった。本当に、なんと答えたものか判らなかったのだ。
 戦いの中で、復讐心は融解してしまったし、首を落としきれなかった時点で、敗北を悟っていた。緩やかに遠のく意識の中で、このまま自分は水尾先輩の後を追うのだろうと思っていた。

『こんなの、水尾(ミヲ)君も望んでないよ』

 あの時の燐姐(リンねえ)の言葉の意味が、少しだけ腑に落ちた気がする。
 思いのほか、気は晴れない。仇討ちを成し遂げたところで、水尾先輩が黄泉の国から舞い戻りはしない。
 無論、仇討ちを諦めたほうが良かったなどとは決して思わない。過去の自分に仇討ちとはほとんど無益なものだと説いたところで、聞き分けの悪い自分が納得するわけがない。
「あとは前を向くだけだよ、早瀬くん」
 朱葉さんは諭すように言う。
「……そうですね」
 心から、その通りだと思った。
「……結局、水尾くんの体は見つからずじまいだったし。目的を果たせたのは早瀬くんだけだったね」
 朱葉さんが背負ってきた籠に入ったのは、水尾先輩の骸ではなく、生きている俺だった。
「まあ、別に骨を拾えなくなって、墓でも碑でも建てればいいじゃないですか。その下に水尾先輩が埋まってるかどうかなんて、掘り返さない限り誰にも判らないんですから」
「……それもそうだね」
 朱葉さんは得心したようにひとしきり頷いた。
「でも残念だなあ。骨とか歯とか、何か一欠片でも見つかったら形見にでもしようかと思ってたんですけど」
「形見、ねえ。……僕はちゃんと遺してもらったけどね」
 朱葉さんがやたらとニヤニヤしながらこちらを見る。意図が理解できず、それが肚立たしくなって笠を小突いた。
 痛がる朱葉さんを尻目に、空を見上げる。どこまでも青く晴れ渡っている空は、俺のうら寂しい気持ちを少しだけ掬い取っていった。
「話変わるけどさ、そろそろ下りてもらっていい? 重いんだよ、早瀬くんは」
 しみじみとした気分を、朱葉さんは甲高い鳴き声でぶち壊していく。
「日頃の運動不足が祟ってますね。もう少し頑張ってください、朱葉先輩(・・)
「……もう!」
 梟が下りろ下りろとぴーちくぱーちく鳴いていると、テルがうるさいっ! と雷を落とした。


 朱葉さんがいよいよ千鳥足になってきたのがいい加減不憫に思えてきたので、籠から下ろしてもらった。日が傾いて、空が橙色に染まる時分だった。
 半刻(はんとき)ほど歩くと、物見櫓(ものみやぐら)と鐘楼を構えたコトブキムラの物々しい表門が見えてきた。
 そこに、紫炎を揺らめかせている燐姐が、群青の海岸の水平線に沈む夕日のような(たたず)まいで立っていた。菖蒲色(あやめいろ)の着物は、少し膨らんだ腹には窮屈そうに見えた。
 表門に到着するや否や、無痛症の主人は本部に報告してくるとだけ告げ、足早に行ってしまう。
「……お帰りなさい、早瀬君」
 燐姐が、ようやく言えたと言わんばかりに微笑んだ。進化した俺は、燐姐との目線が限りなく水平に近づいた。
「ただいま帰りました、燐姐」
「……格好良くなったね」
 燐姐のまなじりに浮かんでいる雫が、夕日の光を吸い込んで(かす)かに輝いている。戦果を尋ねてくることはなかった。生きて帰ってくるという約束さえ果たされていれば、燐姐はそれでよかったのだ。
「心配をかけてすみません」
 深々と兜を下げても、言葉で謝っても、まだ足りない。そのような思いで(こうべ)を垂れていると、燐姐が俺の頭を両腕で抱きしめてきて、そこでようやく己の体が震えていることを知った。
「……朱葉さんも、早瀬君についていってくれてありがとう」
「んー、僕はなんにもしてないよ。早瀬くんの活躍をぼけっと突っ立って見てただけ。……じゃ、僕もここらでお(いとま)するよ。任務中に禁煙を強制されてたせいで、翼の振戦(ふるえ)が止まらないんだ」
 籠を背負った朱葉さんは、ギンガ団本部――ではなく、その前を陣取るイチョウ商会の幌馬車に、ふらふらと蹌踉(よろ)めきながら向かっていった。
 あのような体たらくで矢を精密に射れるのだから、腐ってもテルにずっと付き従っていたポケモンなだけはあると、改めて感心する。
「少しお散歩しない?」
 朱葉さんの後ろ姿を見送り、燐姐と一緒に門をくぐる。
 ゆっくりとした歩調で、言葉を交わさぬまま、コトブキムラを縦断するアマノ川に掛かる橋を渡り、長屋の建ち並ぶミオ通りを歩く。
 夕餉の支度をする音とにおいが、まだどこか緊張の残っていた体を解きほぐしていく。表門と同様の造りをしている開けっぱなしの裏門を抜け、始まりの浜へと続く右方に湾曲した薄暗い道を進んでいく。
 俺と燐姐の他は誰もいない、寂寞(じやくまく)とした空間。帆太刀(ホタチ)で斬り伏せた幾本かの水楢(ミズナラ)の木は、相変わらず倒れたままになっていた。
「……早瀬君?」
「っ、すみません」
 不意に涙が流れたのを、燐姐に見られた。
「仇討ちが、終わったら、なんか……本当に、全部終わっちゃったんだなあって……」
 水尾先輩の仇を取るために、ずっと気を張っていた。
 それも成し遂げてしまった今、急に水尾先輩との繋がりが失われたような気がして、やるせない気持ちになってしまったのだ。
「怖かったでしょう。痛かったでしょう。……早瀬君、本当によく頑張ったね」
 燐姐が俺を抱き寄せて、ふんわりとした体毛が涙を吸い込んだ。必死だった日々が、少しだけ報われた気持ちになる。
「水尾君も早瀬君を慰めてあげて」
「……?」
 燐姐が妙なことを口走ったので、思わず顔をしかめた。
 彼女の背中に揺らめく紫炎に紛れて、少し色の異なる――青紫色の鬼火がひょっこりと現れる。
 それはあたかも燐姐の呼び掛けに呼応するかのように、一瞬だけ勢いを増した。
「これ、水尾君だよ」
「へ?」
 思わず燐姐から離れた。始まりの浜のど真ん中で、訳も解らず立ち尽くす。青紫色の火の玉が、俺の鼻先に近づく。
 体を仰け反らせると、それはさらに近づいてきて、俺は尻餅をついた。
 火の玉は、俺を見下ろすように鼻先に止まった。――熱さは感じない。
「……水尾先輩?」
 鬼火が、ぼっ、と燃え上がる。
 まるで信じられないが、どうやら本当――らしい。
「正確には、水尾君の魂魄。早瀬君や私のことが心配で、ずっと成仏せずに現世(ここ)に留まっていたんだって」
「そんな……」
 思い返せば――(たし)かに燐姐のそばには、彼女の紫炎とは別の、狐火のようなものがずっと浮かんでいた。
 てっきり燐姐の炎の一部だと思い込んでいたが――水尾先輩はずっと近くにいたのだ。
「ごめんね。訳あって、今の今まで言えなかったの」
 燐姐が目を伏せる。責める謂れは無かった。ただ、思いがけない再会に動揺している自分がいた。
「先輩……俺……俺……」
 両の目から溢れる涙を拭って、水尾先輩の魂魄に手を伸ばす。
 だが、爪先はそれをすり抜けた。――実体は無いらしい。
「ねえ、先輩、俺、強くなりましたよ。先輩にはまだ全然及ばないですけど、テルや朱葉さんの力を借りて、ちゃんと彼奴(アイツ)にも勝ちました」
 鬼火が揺れる。喜んでいるのか、怒っているのか、さっぱり判らない。
「……やっぱり怒ってますか? 俺が仇討ちに行ったこと」
「ううん、怒ってないよ」
 燐姐が代弁する。ゴーストタイプだから、今の水尾先輩の思いが汲み取れる――のかもしれない。
「あの竜の討伐は、いずれ誰かがやらなきゃいけない仕事だった。早瀬がそれを成して、生きて帰ってきたなら、それに勝る喜びは無い」
 燐姐を依り代として語る水尾先輩が、俺の兜に触れる。――撫でられているようだ。
「ただ、俺のようにつまらない死に方をするんじゃないかと気が気じゃなかった……って」
 そこまで言って、燐姐は手で顔を覆って泣き始める。
 燐姐が押し込めていた感情を露わにして、俺もずっと胸の(うち)に留めていた感情を思い出す。
 先輩の命を奪った紺藍の竜のことが憎かったのは疑いようもない。けれども、竜にとっては縄張りに侵入した外敵を追い払おうとしたに過ぎないことも心得ている。だから、最後は仇を討つという気持ちは置き去りにしていた。
 ――結局のところ、俺がずっと怒っているのは、水尾先輩に対してだ。不運な事故だったのかもしれないし、避けられぬ運命だったのかもしれない。それでも、俺たちを遺して逝ってしまったのは、随分と自分勝手ではないか!
「なんで死んじゃったんですか! 俺はもっと水尾先輩と任務に行きたかった! もっと稽古もつけて欲しかった! もっと一緒に飯を食いたかった! 燐姐との馴れ初めも、水尾先輩の口から聞きたかった! 水尾先輩に子供が生まれたら、その子の遊び相手になりたかった!」
 俺は唾を飛ばしてまくし立てた。堰を切ったように溢れ出す想いを声に出すたび、目頭が熱く痛くなってくる。
 鬼火が今にも消えそうになるぐらい、矮小に萎んだ。
「……申し訳ない、だって」
 燐姐が掠れた声で、水尾先輩の返事を代わる。
「俺も、もっと早瀬の面倒を見たかった」
 先輩の無念がひしひしと伝わってきて、俺はこれ以上何も喋れなくなる。
「だが、もうお前は充分に強い。成長して進化した早瀬を見て、満足した。心残りは無い」
「……俺は滅茶苦茶心残りがありますけどね!」
 あまりにもさっぱりとした物言いをするので、俺は再び怒り、泣いて、笑った。感情が目まぐるしく入れ替わって、頭がおかしくなりそうだった。
「……最後に一つだけ、先輩風を吹かせていいか」
 水尾先輩の妙な言い回しに、思わずたじろぐ。心残りは無いと言いながら、まだ伝え切れていないことがあるらしい。
 鬼火がぼうぼうと燃え上がったかと思うと、燐姐は目を見開いて、見たことのない表情で鬼火を睨んだ。
 そして燐姐は赤面して、そんなこと言えない、と口籠もる。しかし青紫色の狐火は、燐姐の鼻先を忙しなくつつく。いったいどうしたというのだ。
「り……燐に乗られてばかりいないで、お、(おとこ)なんだからお前がちゃんとリードしろ……って」
「っえ!?」
 予想だにしなかった言葉に俺は目を白黒させて、はたと思い至る。
 そうだ。この狐火は房事の最中にも、居た。自分が遺した妻と後輩が交わるところを、布団の上でずっと見つめていたのだ。
 ――つまり、燐姐の操だとか、先輩に対する裏切りだとか、事を深刻に捉えていたのはどうやら俺だけで、あれは夫公認(・・)だったのだ。
「水尾先輩、とんだ助平(すけべ)じゃないですか!」
 今さら気付いたのかと言わんばかりに、鬼火はちかちかと明滅する。鉄面皮だった先輩は、案外俗物だった。
 なんだか力が抜けてしまって、青黒い空を仰ぐ。
「燐のことを……よろしく頼む」
 再び目を潤ませた燐姐を見て、鬼火に向かって無言で頷く。
 青紫色の火の玉が徐々に俺たちから離れ始める。――逝こうというのか。
 駄目だ。やっぱり、まだ足りない。水尾先輩と交わしたい言葉も想いも山ほどある。今生の別れなど、認めたくない。
「待ってください、水尾先輩。俺はもっと言いたいことも聞きたいことも――」
「早瀬君……現世に居る私たちが執着すると、水尾君が成仏できなくなっちゃう」
 事によっては、悪霊に転じる――と燐姐は心苦しそうに目を伏せる。
 それが――水尾先輩が現世に留まっていることを俺に伝えられなかった訳、らしい。
 伸ばした右前足(みぎて)を下ろす。
 仇討ちを為す前の俺が、先輩の魂魄が未だ此岸(しがん)に居座っていることを知ったらどうなるのか、想像に難くない。
 俺は誰のために命をかけて太刀を振るったのかと自問する。先輩のため。燐姐のため。もしくは、今後竜に脅かされうる命のため。
 全部正しいが、一番はやはり――自分のためだったのだろうと思う。
 理不尽で、どれだけ納得できなくても、踏ん切りをつけなければいけないことがある。仇敵を討ち果たし、一区切りをつけたのだから、執拗(しつこ)く後ろを振り返るのはもうやめにしないといけない。
 ああ、ままならないなあ、と呟いて、大きく息を吸って、静かに目を瞑る。
 水尾先輩と紡いだ様々な思い出が、眼裡(まなうら)に次々と浮かんでは消える。それはさながら、水尾先輩が戦いの最中(さなか)に散らす打ち上げ花火のような水飛沫だった。
「……分かりました! 俺も、いつかそっちに行きますから! それまで待っててください!」
 目を開き、眼前の鬼火を見据えて宣言する。
 鬼火は、満足したように光ると、さらに離れ、跳ねるように空へ浮かび、徐々にその姿を崩していく。
 水尾先輩のことは絶対に忘れない。墓碑も、無理を言ってでも建ててもらおうと思う。これから産まれる子供にも、調査隊には凄腕のフローゼルがいたことを語り継ごう。
 ――それ以上の供養は、きっと必要ない。
「じゃあね、水尾君。彼岸(むこう)で落ち着いたら、ときどきでいいから帰ってきてね」
 燐姐が涙を拭いて手を振ると、水尾先輩は光の粒となって霧散し、ゆっくりと空に溶けてゆく。
 最後の一粒が消えるまで、俺と燐姐は先輩の旅立ちを見守っていた。
 どれほど時間が経っただろうか。すっかり夜の帳が下りて、月明かりと燐姐の紫炎だけが足下を照らしていた。
「……お腹、空きました」
「戻ろっか。イモモチを用意してあるよ」
 来た道を、行きと同じ歩調で戻る。足裏に触れる地面の感触が、柔らかな砂から固い土に変わり、潮のにおいが遠ざかる。
 垣間見た彼岸は完全に出入り口を閉じて、俺たちは水尾先輩の居ない平素の営みへと帰る。
 俺は横目で、燐姐が張った腹をさすっているのを見る。
「よし、決めた」
「……何を?」
 次の盆までに、水尾先輩が嫉妬して黄泉から猛然と帰ってきそうなぐらいの良い未来を築いておこう。
 不思議そうにこちらを見る燐姐と一緒に、俺はコトブキムラの裏門をくぐった。






 了


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