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神様は嬉しい時にどんな声で歌うのかを僕だけが知っていたい の履歴(No.2)


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・この拙作には直接的な性描写があります。



「えっ!? パパがあっちの地方出身だってのは普通に知ってたけど、アルトマーレに住んでた頃あんの!?」
「と言っても、だいたい一年くらい、小さい時だったけどね。あの頃は──」

 そう言って、パパの昔話が始まった。


  ──三月某日 夕刻──

 給仕のゴチルゼルがカップを持ってきたから、僕はテーブルの上に広げていた楽譜や先生からのメモを手でまとめて、それからテーブルの隅に寄せた。ゴチルゼルは顔になんの表情を浮かべないで、両手に持っていたカップを僕の前に置いた。

「ありがとう」

 僕はゴチルゼルの目を見ながらそう言うけど、ゴチルゼルは何も言わないで僕の前から立ち去った。少ししょんぼりするけど、ここのゴチルゼルはだれにでもこんな感じ。だから、このカフェのお客さんはみんな、「たとえ王様や法王様にも微笑まないポケモン」ってあだ名している。
 それが本当かどうか僕は分からないけど、僕が初めてこのカフェに来た時に一緒にいた僕のお義兄さん、この街の貴族の御曹司に対してもゴチルゼルはぜんぜん笑わなかった。だから本当なのかもしれない。
 僕はカップを持ち上げて、その中の薄茶色のカフェラテを一口飲む。温かくておいしい。
 お義兄さんの話によると、アルトマーレで初めてカフェラテを作ったのはこのお店らしいけど、今では広場のカフェだけじゃなくて街中のお店がカフェラテを作っている。コーヒーとミルクを混ぜるだけって簡単だけど、そういう発想が思いつくってすごい。もしかしたら百年や二百年後には、この世界の全部のお店にカフェラテが広まっているのかも。

 優しい味のカフェラテで、こわばっていた僕の頭の中が少しほぐれた。そのままカップを持ちながら、僕はカフェの中を見渡す。壁にはたくさんの絵画が飾られていて、壁や調度品のほとんどはカロスの方の様式の、柔らかな曲線が目立つもの。
 もうすぐ夕方に差しかかる頃のお店の中は、僕以外にもたくさんのお客さんがいて、コーヒーを楽しんだり、お喋りを楽しんでいる。カフェの中では身分も生まれも若さも性別も関係なくて、明日の天気の話から、時々裏取引や賄賂のひそひそ話まで聞こえたりする。だけど、僕はそれをだれにも言わない。それがどこでどんな風にお義父さんに影響するか分からないから。だから今の僕は────家のお世話になっている人間じゃなくて、ただのカフェラテを飲んでいるお客さん。だけど、僕が着ている仕立てのいい服やテーブルの上にある楽譜までは隠せない。
 ついこの間まで、着るものにも食べるものにも苦労する生活をしていたなんて、今でも嘘みたい。僕はまたカフェラテに口をつけた。

 お父さんが死んでから、僕の家族の暮らしはとても貧しくなった。本当はお父さんが生きていた頃からだんだん苦しくなっていったみたいだけど、僕は知らなかった。
 お金や生活を切り盛りしていたお父さんがいなくなって、取引先や知り合いに借金を返したら、僕の家族には家も財産もなくなっていた。一番上のお兄さんは家族をみんな養えるほど裕福じゃなくて、僕たち兄弟はみなし子みたいな生活になった。
 お父さんの知り合いや友達から少しだけ食べものやお金を恵んでもらって、それでなんとか暮らしていた。そんなある日に僕の故郷へやってきたのが、僕たちの噂を聞いたお義父さんだった。お父さんとお義父さんは、田舎のお金持ちの商人とアルトマーレの貴族という関係だった。
 お義父さんは僕たちを見て困った。いくらアルトマーレの貴族でも、兄弟全員は引き取れない。だからお義父さんは、一番上のお兄さん以外で一番音楽が上手い僕だけを引き取るって決めた。僕は一番小さくて生まれつき体が弱い末弟をつれていってほしいって頼んだけど、お義父さんは「そういう優しいところも含めて、我が家に来るべきは君だ」って言った。
 それからお義父さんはお兄さんに当面のお金を渡して、僕はお義父さんと一緒にアルトマーレへやってきた。僕の故郷とは何もかにも違う、水と音楽の街アルトマーレに。

 そう、僕は忘れちゃいけない。僕はカップのカフェラテにもう一回口をつけて、それからテーブルの上に置いて、今度は今日の授業の終わりに先生からもらったメモを手に取った。
 そこには僕の歌と声の弱いところが書いてある。その文章を読むと僕はまだまだ下手くそなんだってしょんぼりするけど、僕には音楽の道しかない。お義父さんの家を継ぐのは僕じゃなくてお義兄さんで、僕はひとり立ちを助けてもらう為に引き取られたんだから。
 僕の音楽の先生は、このカフェと同じ広場にある大聖堂のテノールの歌い手で、たまにこの街で公演されるオペラにも出るんだって。だからすごい先生。オペラの聖地って言われているアルトマーレで、歌い手として暮らしているなんて。
 その先生から習っているのはもちろん声楽の授業で、故郷では簡単な曲を弾けるくらいだけバイオリンとチェンバロを習った僕は、この島に来て初めてちゃんとした音楽の授業を受けている。でも、僕は歌い手になりたいんじゃくて、夢はあくまで作曲家。それも王族や大聖堂に雇われて、オペラやオーケストラを作れる一流の作曲家。
 声楽の授業は作曲家になる為の基礎として習っている。器楽もそうだけど、歌が下手くそな作曲家なんて恥ずかしいし、そんなのじゃそもそも作曲家になれない。一流の作曲家になりたいのは、それがお義父さんへの恩返しだと思うし、もしなれたら故郷の兄弟たちだって僕で養ってあげられると思うから。
 だけど、正直に言うと道は大変。先生からのメモには、僕自身で知っているところも知らないところもたくさん弱点が書いてある。
 それについこの前、この島に来てから最初は何かとばたばたしていたから、やっと初めてアルトマーレのオペラを、オペラの聖地の一流のオペラを見た。その劇場でお義父さんが持っている桟敷席は、見渡しはいいけど舞台から離れた場所だったのに、僕はずっと肌をぶるぶると震わせながら見ていた。歌い手の歌声も器楽の伴奏も、何もかにもが一流だった。お芝居は喜劇(オペラ・ブッファ)だったけど、僕は何かの恐怖と神々しさを感じた。今思うとそれは、「僕にこんなオペラを作れるわけがない」という恐ろしさと、今まで聞いた事も見た事もない素晴らしいオペラを目の当たりにした感動だった。そしてそれから、ただ単純に、僕もあんなオペラを作ってみたい。そう思った。

 カップの中のカフェラテが少しぬるくなってきた。
 僕は片手に持ったメモから目をそらさない。道のりは険しいし、本当にできるかどうか分からないけど、目はそらせない。それにしても、ぬるくなってきたカフェラテは少しおいしくなくなってきた。あっ、駄目、集中、集中して今日の授業を振り返る。


  ──四月某日 午後──

「音を合わせる事に集中しすぎない。発音もしっかり。歌なんだから」
「はい……!」

 先生がもう一度ピアノを弾き始める。その短いメロディーに僕の歌声を乗せる。高い壁の上の方にある窓からは、お昼すぎの日の光が差しこんでいて、広場の音が少しだけ聞こえる礼拝堂の中に僕の声が響く。
 だけど、声量も技術そのものも、あの時見たオペラの歌い手にぜんぜん届いていない。アルトマーレに来てから声楽を習い始めたから、当たり前なのかもしれないけど、やっぱり少し悔しい。

「その調子。常に意識して声を出す」

 ピアノを弾きながら、僕と一緒に先生もお手本として歌う。歌い手として生活しているだけあって、声だけに集中していないのに先生のテノールは僕の声よりなめらかに歌い上げる。僕はお腹の高さまで持ち上げていた右手をぎゅっと握った。
 先生がピアノを止める。僕も声を出すのを止めた。

「また戻った。もう一度」
「はい……!」

 また最初から。午後は今までずっと、これをくり返している。終わりは先生が納得するか、僕が疲れる前まで。

 今日はお祈りもお祭りもないから、僕の授業は大聖堂の音楽室じゃなくて礼拝堂でしている。音楽室と礼拝堂じゃ広さがぜんぜん違うから、声の出し方や歌い方もぜんぜん違ってくる。
 広さの意味で劇場に近いのは礼拝堂だから、こっちで習う方が勉強になるのかも。だけど、ここはお祈りの場所で練習場じゃないから、行事がある時は音楽室での授業になる。静かにしなきゃいけない時は、音楽室でも大きな声を出しちゃいけなくて、座学の授業になる。
 この大聖堂はもちろん神様へお祈りする場所で、ここで祭っているのはラティオス様とラティアス様。広場の二本の柱の上の像にもある、この島の護神。普通は教会でお祈りするのは、創造の神のアルセウス様や、アルセウス様の息子のパルキア様やディアルガ様、それに太陽や月の神様のソルガレオ様やルナアーラ様が多いけど、アルトマーレではラティオス様とラティアス様がとっても大切な神様。
 この街に住んでいる人間ならだれでも知っている神話がある。かつてラティオス様とラティアス様が「悪しきもの」からアルトマーレを守って、人間に「悪しきもの」を撃退できるお守り「心の雫」を渡したという神話。
 結局、「悪しきもの」の正体はだれも知らないし、「心の雫」が本当にあるのかどうかも分からないけど、それでもこの街の人はラティオス様とラティアス様に今でもお祈りを捧げている。
 それに、護神へのお祈りの音楽や船乗りたちへの厄除けの音楽があったおかげで、アルトマーレはオペラの街としても発展してきた。毎年、お祭りの時期になるとアルトマーレの神話を題材にしたオペラが必ず上演されるくらい。
 ラティオス様とラティアス様について、詳しい事はほとんど分かっていない。「悪しきもの」や「心の雫」もそうらしいんだけど、オペラ作家によって描き方が変わるってお義兄さんが教えてくれた。
 分かっているのは、柱の上にある像や、残っている神話の中に描かれているお話だけ。どんな声で鳴くのか、どんな色をしているのか、そもそも本当に存在していたのかも分かっていない。それはアルセウス様とかでも同じなんだけど。
 もしラティオス様やラティアス様が今でもこの街をひっそり見守っていたら、どう思うのかな。貿易やオペラでたくさんの人間が出入りするようになったこの街を。
 もしかしたら、ラティオス様やラティアス様はもういないのかも。もし「心の雫」が本当にあったら、それで「悪しきもの」を追い払えるわけだし。だけど、僕はラティオス様とラティアス様には今もアルトマーレにいてほしいと思う。

 僕や先生はピアノは礼拝堂の左奥で、そこから礼拝堂のさらに奥の聖堂が少し見える。そこに、僕の目の隅が動く何かを見つけた。
 先生が分からないように、歌に集中しているふりをして、首を右に振って戻す。それは一瞬だけどはっきり見えた。
 聖堂には「聖遺物」って呼ばれている謎の大きな像があって、その下にひとりの人間がいた。その人は今までも、たまに大聖堂の中で見かけた事がある。赤毛の髪を胸くらいまで伸ばしていて、緑の長い上着の下に白の法衣のようなゆったりした服をいつも着ている。だけど、行事の時には見かけないから大聖堂の人じゃないみたい。
 一度先生に聞いてみたけど、先生もよく知らないみたい。先生が嘘をついていないとしたら、大聖堂によく分からない人が出入りしている事になる。しかも、「聖遺物」に近づいている。司教様は知っているのかな。
 僕の悪い癖って知っているけど、気になったらずっと気になっちゃう。もう一度、がんばっているふりをして「聖遺物」の方を見る。あっ。

「ずれたぞ、力みすぎだ」
「あっ……ごめんなさい……」
「いや、練習なんだから間違えたっていい」

 先生の目を見て謝るけど、正直に言うと僕の頭の中はそれどころじゃなかった。また見えた。
 あの人を見かける時、すごくたまにあの人の周りに「ゆらぎ」みたいなもの、蝋燭の炎の上みたいな透明な「もや」が見える事がある。それはたった一瞬だし、正体は何か分からない。だけど、不思議な人に不思議な事が起きるともっと気になる。でも、これ以上は先生に叱られちゃうよね。先生がまたピアノを、さっき注意された少し前から始める。僕はまた歌い出す。
 もしかして、アルトマーレの神話に関係している人なのかな。大聖堂によく来ているのに行事に参加しないってところが、ますます怪しい。でも、今はこれ以上はやめた方がいいよね。そんなできすぎた話なんてあるわけないし、僕の将来にラティオス様もラティアス様も、もちろんあの人も関係ない。

 この日は夕方近くまで授業が続いて、その頃にはあの人はやっぱりいなくなっていた。そもそもなんだけど、あの人って男の人なのか女の人なのか、遠目じゃ分からない。


  ──五月某日 夜──

 劇場の近くの水路にはゴンドラが待っていて、お義父さんの後に続いて僕も乗った。お義父さんの隣に座る。

「今日のオペラはどうだった?」
「うん、とてもよかった」
「お前の為になりそうか?」
「うん。まだあんな風に歌えないけど、秘訣みたいなのはちょっと見えた」
「ならよかった」

 お義父さんが笑う。お義父さんが嬉しいと僕も嬉しい。漕ぎ手の人にお義父さんが答えると、それから動き出した。夜のアルトマーレの街並みが流れていく。
 今夜はお義父さんと一緒にオペラを見た。「風変わりなサーナイト」という題名で、もちろん一流の素晴らしいオペラだった。お義母さんとお義兄さんは夜会に出かけて、だから僕たちだけで。
 僕より少し歳が離れたお義兄さんは、お義父さんの後を継ぐ準備をしている。お義父さんはまだまだ元気だけど、お義父さんの仕事のいくつかをもう引き継ぐみたい。夜会に出かけたのもその一つ。
 僕はあんまり分からないけど、人と人の付き合いも仕事の内に入るんだって。お義父さんはよく、「人との縁を大切にしなさい」って言う。そのおかげで、僕はこうしてお義父さんのお世話になっている。
 ふと、お義父さんが僕の目を見て話し始めた。顔は笑っているけど、目は真剣だった。

「実はな、お前の将来について考えてる」
「うん」

 僕は短く返事をした。お義兄さんがいつまでもおぼっちゃんでいられないように、僕にも僕の人生がある。この街に来てからそこそこ経った。僕もそろそろ動き出さなきゃいけない。だけど、僕には後ろ盾になるものがない。お義父さんがいるけど、お義父さんがいるから、僕は返事以外は何も言わずに聞く。

「実は、お前をカロスの方に留学させようと考えている……言っておくがな、お前をお払い箱にしたいわけじゃない」
「分かってるよ、いつもありがとう」
「そう言ってもらえると私も嬉しい」

 お義父さんの笑顔に合わせて僕も笑う。少しどきっとしたのは内緒。

「お前は私の我が子も同然だ。そうでないと、────さんに怒られてしまう」
「うん」
「だが、アルトマーレは音楽の勉強をするのにとてもいい場所だが、お前にはもっと広い世界を見てもらいたいんだ」
「それがカロス?」
「そうだ。カロスの都には私の古い友人がいる。お前が苦しむ事は何もない。これからも音楽に専念できる」
「うん……」

 僕は少ししょんぼりした顔をしてたのかな。たしかに不安じゃないって言ったら嘘になるし。
 お義父さんが両手を胸の前で振った。

「無理にとは言わないし、答えは焦らなくていい。ただ、一つの未来として考えておいてくれ」
「うん、ありがとう」

 僕はがんばって、また笑顔を作った。お義父さんやお義母さんやお義兄さんは好きだけど、やっぱりいつまでも一緒に暮らせない。僕ひとりでちゃんと生きていかなきゃいけない。それに、故郷に残してきた兄弟たちがいる。
 そういう意味で、カロスに行くのはいいのかもしれない。あっちでもだれかのお世話になるけど、同じ場所で暮らして落ち着いているより自分の為になる気がする。
 だけど、もしカロスに行くのが明日だったら、僕は嫌がると思う。だって、まだやり残した事がある。それはちゃんと僕の頭の中で分かっている。今まで見ないふりをしてきたけど、もしかしたら叱られるかもしれないけど、やっぱり気になる。分からないままこの島を離れたくない。

「考えてみるよ」

 自分じゃ分からないけど、前向きな顔を上手く作れたと思う。オペラは歌だけじゃなくてお芝居も大切だからね。お芝居の勉強はしていないけど、歌の表現の勉強はしている。

「ああ、ゆっくりでいい」

 そう言ってから、お義父さんは岸に並ぶ街を見た。お義父さんの邸宅、僕たちの家までは到着まで少しまだかかる。

「ねえ、最近のお義父さんはどうなの?」
「私か? そうだな……」

 考えている事を悟られないように、僕はお義父さんに世間話を投げかけた。


  ──五月某日 午後──

 あの夜からそんなに経たずに、絶好の機会がやってきた。

 今日は先生に用事があるから、授業が早く終わった。音楽室で別れの挨拶をして大聖堂を出ると、広場の真ん中をあの不思議な人が歩いていた。たぶん大聖堂の用事が終わって、これから帰るところだと思う。あの珍しい服はたくさんの人が歩いている広場でも目立つ。
 僕は大聖堂を背中にして立ち止まった。あの時から、少しはこの島の事を調べた。たくさんは分からなかったけど、それでも一つ大きな事に気づいた。

 「この街には秘密がある」って。

 お義父さんと一緒にいるとアルトマーレの偉い人たちにたくさん会えて、その度に僕は「────家にお世話になっている田舎育ち」の身分を使って、さりげなくラティオス様とラティアス様の神話について質問した。結果から言えば、分かった事はなかったんだけど、僕への返答がいつも少しおかしかった。
 はたから見たら僕は、「街の神話に興味があるだけ」だったと思う。探りを入れているなんて感じさせないようにしていたから、隣にいたお父さんはぜんぜん気にしていなかったし。それでも、お義父さんの知り合いや街の名士さんたちは、変に言葉に詰まったり、お義父さんの顔色をうかがうような仕草をした。
 僕が探りを入れた数は、お義父さんが見てる前で三回、見てないところでは四回くらいかな。その全部で引っかかるところがあれば、ますます怪しい。必ず何か裏がある。
 だけど、それは「僕にさえ知られたくない事」。しかも相手はアルトマーレに欠かせないすごい人たち。もしも僕がこれ以上変な事をして、それが知られたら、お義父さんに迷惑がかかる。せっかく家族として迎え入れてくれたのに、恩を仇で返す事になっちゃう。僕はみなし子みたいな生活に戻るだけだけど、お義父さんの家はとんでもない事になっちゃう。

『────家に拾ってもらった幸運を無駄にするの?』

 僕が僕に聞いてくる。そう、前だってこうやって割りきった。あの人もラティオス様もラティアス様も、僕の人生になんの関係もない。
 僕は一流の作曲家にならなくちゃいけない。子供っぽい好奇心くらいでつまずいちゃいけない。これからもっと大変な事が待っているんだから。

 そう、それで正しい。
 だけど。
 僕が僕に、反対から聞いてくる。

『このまま、この秘密を知らないまま生きていくの?』

 今、あの人を追わなければ、一生知らないままかもしれない。それはたぶん間違っていない。お義父さんから留学の話も聞いている。遠くない将来、僕はここを離れて、もしかしたらアルトマーレには二度と戻ってこられないかもしれない。
 この先ずっと、「あの時追っていれば」って後悔を抱えながら生きていく。「仕方がないよ」って言い訳しながら。

 僕の心の中にある天秤には、二つの答えが吊るされていて、どちらが重いかはもう知っている。僕はあの人を見失いかけている。もう時間がない。
 僕は片方の肩から下げている鞄の紐をかけ直して、それから早足で歩き出しながら後ろ頭で束ねている髪をかたく結び直した。僕が歩き出したおかげで、まだあの人を見失っていない。
 あの人は広場から出て通りを歩いていく。僕はあの人から近すぎも遠すぎもしない距離で後を追う。あっ、また一瞬「ゆらぎ」が見えた。
 ごめんなさい、お義父さん。だけど、一つくらい我儘を許してほしい。できるだけ見つからないようにするから。

「おっ、────さんのところのぼっちゃん」
「あっ……! こんにちはっ! ごめんなさいっ、急いでるのでっ!」
「おっ、おう……」

 びっくりして心臓が止まるかと思った。お義父さんの知り合いの、仕立て屋さんの若旦那さんに短く挨拶をして立ち去る。よかった、見失っていない。
 あの人の行き先は予想がつかない。僕が知っている中で、神話と一番関連があるのは大聖堂だから、そこからどこかに行くって見当がつかない。やっぱり家に帰るのかな。それとも、アルトマーレは貿易の街でもあるから遠くの地方の教会や寺院があって、あの法衣みたいな服はどこかの地方のものなのかな。もしそうだったら、ラティオス様やラティアス様とどう関係があるんだろう。

 そんな事を考えていると、僕の少し前を歩くあの人が路地に入った。僕は慌てて路地の入り口まで走る。よかった、まだ見える。あの人に続いて僕も路地に入る。そして、あの人を見失わないように別れ道のどちらに行くか注意しながら、だけどふと振り返った時に見つからないように隠れながら後を追う。
 壁と壁の間の路地の中は日陰が多くて、そしてとても静かだった。アルトマーレの路地は迷路のようになっていて、生まれも育ちもこの島の人でも、たまにどこかの路地に迷いこむ事があるんだって。思えば、僕はアルトマーレに来てからこんな小さな路地をひとりで歩くのは初めてだった。
 名前の知らない小さな水路の上にかけられた小さな橋を渡って、名前の知らない小さな公園の前を通って、名前の知らない小さな木が植えられた小さな庭を見つける。どこを歩いていても潮水の匂いがして、やっぱりここは「水の都」と呼ばれているだけあるって思い出す。

 塀の上からマメパトたちが僕を見下ろしている。もうそこそこ歩いているはずなのに、あの人がどこかの建物に入る気配がない。あっ、また「ゆらぎ」だ。
 僕はちらっとだけ、建物にはさまれた狭い空を見上げた。日陰のここからじゃ太陽は見えない。だけど、海と同じでアルトマーレの空もきれいな青。
 どうしてアルトマーレはこんなにきれいで、貿易や音楽が栄えていて、神話まであるんだろう。僕の故郷にはそういうものはなかった。古い遺跡が一つ二つあるくらいで、それだって「昔の人が作りました」っていう「いわれ」以外は何もない。
 きっと、人を惹きつける魅力がこの街にはあるんだと思う。僕だって、この街が好きだし。きっと、ラティオス様とラティアス様もそういうところに惹かれて、だから「心の雫」を人間に渡したのかもしれない。

 あの人が曲がり角を曲がった。建物の密度が薄くなっているのかな。その曲がり角は日の光が当たっている。僕も少し遅れてその角まで来た。
 木の柵に植物がからまっていて、その下は通路になっている。だれかの土地かな、勝手に入っても怒られないかな。僕がちょっと迷っていると、植物の下からあの人が出て、出口からのすぐの別れ道に消えていった。ここまで来たんだ、ぐずぐずしていられない。僕は早足で植物の下を歩く。右と左の柵にも僕の頭の上と同じように植物がからまっていて、そのさらに奥には別の植物が植えられていた。
 アルトマーレにこんな場所があったんだ。ここに来るまで、たくさんの発見があった。これなら、普通はだれも知らない街の一面があっても不思議じゃない。
 植物の棚の下を出ると、小さな水飲み場がある別れ道だった。その水溜めでポッポが二羽、気持ちよさそうに水浴びをしていた。あの人が曲がった方を見る。

「えっ!?」

 思わず声が出ちゃった。僕が見るその先にあの人の姿はなかった。別れ道から見える曲がり角まで走る。そこには階段があった。その下で見上げる。といっても、見上げた先はすぐだった。

「え……」

 この階段はもう使われていないもので、七段先より上は庭の隅に立てられた柵になっていた。頭の中が散ちらかってくる。あの人はどこ。この柵をよじ登ったって事かな。僕が見ていたあの人の姿は本当だったのかな。
 よく分からないまま僕は別れ道まで引き返して、水飲み場の前で少し腰をかがめた。

「ねえ……さっきここを不思議な人が通ったよね?」

 僕を見上げるポッポたちは、僕の事こそ不思議そうな目で見つめ返してきた。

「……ありがとう」

 僕はポッポたちに一応お礼を言ってからまた歩き出す。あの柵をこえるしかない。人のお庭に入っちゃうけど、そうとしかあの人が消えた先が分からない。やっぱりここまで来て引き返せない。いきなりあの人が消えたのも含めて、この謎は解き明かしたい。
 またもや階段の先の庭が見えてきた。僕は肩から下げていた鞄を手に持って、柵をこえる準備をする。その時だった。

「っ!?」

 地面の石だたみの出っぱりにつまずいて、僕の体が大きくよろけた。とっさに、目の前の壁に向かって左手と鞄を持った右手を出す。

「っえっ!?」

 僕の両手が壁の中に吸いこまれた。なんの感触もなかった。一瞬の事で頭が回らなくて、しかも転んでいる途中で。

 僕の体は壁を通り抜けて、その中へ思いっきり倒れこんだ。


  ──同日 同刻──

「いったあ……」

 わけが分からないまま、僕は地面に倒れこんだ。膝と踵を立てて体を起こす。ここはとても暗かった。手さぐりで足や腕を触ってみると、どこも怪我をしていないみたいでよかった。それにしても、ここは。
 顔を上げると僕の少し先に、縦に長い光が見える。ここはどこかの中で、あれが出口って事かな。後ろを振り向くと黒い闇が広がっていた。さっきまで路地の曲がり角にいたのに。あの人はここを通っていったのかな。たぶん間違いないと思う。
 僕は鞄を持ちながら立ち上がって、もう一度肩にかけてから体や足を手で軽く叩く。やっぱり体は大丈夫。僕は光の方へ歩き出した。
 その僕の頭の中には、わくわくした気持ちと、それから不安でいっぱいだった。やっぱりあの人には秘密があった。お義父さんの知り合いが隠していたものは、これなんだと思う。そして、この先には必ずアルトマーレの神話に関係するものがある。
 だけどこの先、僕はどうなっちゃうんだろう。今さら「ごめんなさい」だけじゃ済まないかもしれない。少しだけのぞき見したら、それだけで帰ろうかな。さっきの入り口から出れるかな。もしできなかったら、他の出入り口を探さなきゃいけない。だれにも見つからないように。

 そんな事を考えながら外に出ると、そこにはとても広い庭があった。

「すごい……」

 思わず声が出ちゃった。四方を建物に囲まれた庭は真ん中にいくにつれて徐々に低くなっていて、一番低いところが一番広くなっている。そこには名前の知らない大きくて長い木が何本もあって、木の他には石だたみの通路や石づくりの池もある。庭の壁にあたる建物は大聖堂の様式に似ているけど、通路や池はどこの地方の、どこの時代のものだろう。僕は見覚えがない。
 僕は庭の一番低いところに向かって、石づくりの階段を降りる。あの人は見当たらなかったし、低いのは細かったり小さな木ばかりで、まともに隠れながら歩けるような場所じゃなかった。石の感じからして、十年や二十年の間にできたものじゃない。たぶんもっと古い。

 庭の中にはたくさんのポケモンがいた。
 空中をそよ風に流されるまま飛んでいるのはワタシラガとワタッコで、通路の外の草の上で寝転がっているのはガーディとイワンコだ。庭の一番低いところまで来た。そのまま通路の上を歩ていく。石づくりの池で浮かんでいたり泳いでいるのは、ハスボーとシャワーズだ。
 通路の近くには花壇があった。何も生えていないけど、ちゃんと耕されている。あの人が手入れをしているのかな。
 ここはだれの庭だろう。こんな広い庭、貴族か王族のものなのかな。だとしたら、あの人は、そうなのかな。でも、大聖堂の行事で見かけない理由ってなんだろう。

 ふと、何かのポケモンの鳴き声が聞こえた。一つ、また一つ。通路を進んでいた僕は、とっさに大きな木の幹に隠れた。そして、顔を少し出してのぞきこむ。
 一つの石づくりの池の前にたくさんのポケモンが集まっていた。池の水面にもいる。ざっと数えて、十五くらいかな。そのポケモンたちの前に、一匹のポケモンが宙に浮かんでいた。そのポケモンは、背中の翼で羽ばたいていないのに浮かんでいる。そして、あの姿って。

「ラティオス様!? いや……ラティアス様かな……!?」

 僕は声を押し殺して、だけど小さく叫んじゃった。たくさんのポケモンの前にいるポケモンは、広場の柱の上の像と同じ姿をしていた。色は夕焼けみたいな橙色と汚れ一つない白色。横顔にある瞳はアルトマーレの海のようなあざやかな緑。どちらかは分からないけど、間違いなく神話の中のあのポケモンだった。
 僕は嬉しくてもっと叫びたくなったけど、気づかれちゃいけないから我慢した。僕が見てる先に、神話の中にしかいないはずの護神が、現実として存在している。あのポケモンがどちらか分からないけど、きっともう片方の神様もいるはず。こんなにわくわくする事なんてない。
 アルトマーレの護神は、まだこの街にいた。だけど、どうして偉い人たちは隠しておきたかったんだろう。護神が今もいてくれているって知ったら、街のみんなだって嬉しいはずなのに。それに、この庭は広いけど、ここだけにいるんじゃ退屈だろうし。

 ラティオス様、ラティアス様かな。そのポケモンが高らかに鳴いた。きれいな声だった。そして、護神の前にいるポケモンたちも一斉に鳴いた。どういう事だろう。それから、みんなすぐに鳴き止んだ。
 護神が右手を向けた先に三匹のコロトックがいて、三匹とも鳴き始めた。楽器ような、おごそかな鳴き声。次に護神が左手を向けた先にいるのは四匹のニョロトノ。そのポケモンたちも力強い声で鳴き始めた。
 そこで僕は気づいた。三匹のコロトックと四匹のニョロトノは全部テンポが合っている。二つの種族はそれぞれ違う鳴き声なのに、お互いがお互いの速さと抑揚に合わせている。こんな光景、僕は今まで見た事がない。
 大聖堂のお祭りやオペラにポケモンの鳴き声を使う事はあっても、それはすごく短いフレーズだけで、だいたいは人間の器楽や声楽で奏でられる。僕の目の前でくり広げられているのは、ポケモンたちだけの音楽会だった。それも、人間に指示されないで、ポケモンたちだけで。その指示、いや、指揮をしているのは。
 護神が両手をゆっくり上下させる。池の上に浮かんでいるフローゼルとシードラとトサキントたちも加わった。護神の右手がコロトックたちに向けられると、コロトックたちの声が少し大きくなった。
 コロトックたちの隣にいた二匹のハハコモリも歌い出す。それぞれのポケモンが自分の持ち味を活かして、ばらばらに好き勝手するんじゃなく、一つの歌として。
 ウインディと二匹の炎のキュウコンも歌い出した。だけど少し速い。護神が三匹に両手を向けて左右に振ると、他のポケモンたちと同じテンポになってきた。すごい。
 その頃になると、庭にいる他のポケモンたちもやってきた。ニョロトノの隣にシャワーズが来て、ウインディの足もとにガーディとイワンコが。それに、ここに来るまでに見つけられなかったチルタリスとタチフサグマもやってきた。
 そのチルタリスとタチフサグマの声は、人間のプリマ・ドンナのように際立っている。だけど、その二匹が主役じゃないみたい。全体を指揮していた護神の左手、それがチルタリスとタチフサグマに向けられ、ゆっくり上下した。すると、二匹が声の大きさを落とした。今度は護神が宙で何かを掻き上げるように両手を振る。全体の調子がチルタリスとタチフサグマの声へ完全に合った。護神が右手を円を描くように回す。その横顔は楽しそうに笑っていた。

 たぶん、今の僕も笑っていると思う。もしくは、真剣な表情でじっと見つめているかもしれない。
 人間の指揮者とは合図が違うけど、護神はそれぞれのポケモンの個性を見極め、完全な指揮をしていた。あれはすぐに身につくものじゃない。ポケモンたちの歌声もそうだけど、ここまでできるようになるのにすごく時間がかかる事。それをやっている。
 貴族に聞かせる為でも、お金をかせぐ為でもない。自分たちだけで楽しむ純粋な音楽を。
 そして、護神がそういう性格なのかな、この歌には主役がいない。だけど、主役がいない歌は迫力に欠けるはずなのに、それぞれのポケモンがお互いを引き立てて、全体として一つの魅力がある音楽になっている。
 それは言葉で言い表すと、「調和」なのかな。アルトマーレで流行っているオペラは、歌い手の技巧が光る作品が持てはやされている。もちろん一流のオペラに間違いないんだけど、だれかが主役で、だれかが脇役になる音楽。お客さんを楽しませるって意味では合っているんだろうけど、だけど、僕は今分かった。

 純粋な音楽なんて持てはやされないのかもしれない。
 だれもが納得する音楽なんてきれい事なのかもしれない。
 仮にそれができたとしても、それはとっても難しい事。

 だけど、僕は聞いてしまった。
 僕の心を、本当の意味で揺さぶる音楽を。

 僕も。
 僕は、ああいう音楽がしてみたい。

「えっ!?」

 とつぜん、僕の体の全部がバルビートやイルミーゼみたいにぽわぽわと光った。なんだこれ、どうなってるの。わけが分からないまま、そのまま僕の体が宙に浮かんだ。がんばれば足が届きそうな高さだけど、どうやっても足が地面につかない。まずい。そう思って木の幹を掴もうと手を伸ばしたけど、もうちょっとのところで手が届かなかった。
 とつぜん光りだした理由も宙に浮かんだ原理も分からない。もしかして、護神の力なのかも。そう考えていたら、僕は体が浮かんだまま何かに引っ張られるように動いて、木の陰から出た。
 護神の前にいるポケモンたちは僕に驚いて歌うのを止めた。どう考えても、僕は邪魔者だよね。だけど、護神は笑顔のまま。やっぱりこの力は。
 溺れるみたいに宙でもがく僕はふよふよと浮かびながら引き寄せられて、護神の隣で草の地面に降ろされた。

「あ……あの……」

 ポケモンたちはじっと僕を見てる。中には、ウインディやタチフサグマは口から牙を剥いて低い声を上げている。どうしよう、どうしたらいいんだろう。あの人に見つかる前に、この問題をどうにかしないと。
 僕は立ち上がろうとしたけど、それすら威嚇の意味として取られたらどうしよう。僕は自分の足に目を向けたまま顔を上げられなくなった。見えている景色の隅で、タチフサグマが僕に向かって一歩足を出した。本当にまずい。どうすれば。

 僕の見えていないところから、鈴みたいな護神の鳴き声が聞こえた。タチフサグマの足が止まったと思ったら、両方の脇の下に何かを入れられ、僕はなかば立ち上がらせられた。
 背中の感触が気になって振り向くと、護神の白い首筋があった。脇の下に入れられたのは護神の腕だった。
 僕が自分の力だけで地面に立つと、護神は僕から離れて楽しそうに少し宙を泳いだ後に、僕の隣に並んで浮かんだ。僕の顔をじっと見つめる護神。

「あっ……ありがとう……ございます……」

 言葉が通じるか分からないけど、僕はお礼を言った。ウインディやタチフサグマのうなり声は止まったけど、まだポケモンたちは疑うように僕を見ている。
 護神が僕を見ながらまた声を上げた。だけど今度は、右手を空に向けながら左手は胸に当てて、そう、オペラの歌い手のような仕草をしながら。護神はオペラを知っているのかな。神様だから、アルトマーレの事はお見通しなのかもしれない。そして、僕にも歌ってほしいのかな。

「あー……あー……」

 ポケモンたちが驚かないように、護神を見ながら小さな声から出してみる。護神がもっと笑顔になって鳴いた。護神は両手をさっきの指揮のように、右と左で同じ動きで上下させる。だったら。

「あー、あっ、あー、あーあー、あ、あっ、あー」

 護神の手の動きに合わせて抑揚をつけてみる。また鳴いた。これが正解で合っているみたい。護神の手の動きを見ていると、さっきの、ポケモンたちの歌と同じ動きになった。僕はちゃんと覚えている。

「あっー、あー、あっ、あっ、あー、あっ、あっ、ああーあー」

 とつぜん、ニョロトノたちの鳴き声も加わった。歌いながら護神から目をそらしてポケモンたちを見ると、コロトックたちも歌い始めた。それから、ウインディ、シャワーズ、フローゼル、ガーディとイワンコ、みんなが歌いだした。
 どうやら僕が邪魔者じゃないと分かってくれたみたい。護神が助けてくれたおかげだ。それに、やっぱりみんなで歌うってとっても楽しい。
 まだ歌に加わっていないタチフサグマとハハコモリたちが顔を見合わせると、僕に向かって近づいてきた。僕は歌を続けたまま、目の前までやってきたタチフサグマとその左右にいるハハコモリから少し目をそらした。どうしたんだろう。
 またもやとつぜん、タチフサグマの腕が僕を目がけて勢いよく向かってきた。僕はびっくりして目を閉じて、しかも小さく「ひっ」って悲鳴を上げながら歌を止めちゃった。
 だけど、それは僕の杞憂だった。どこも痛くない。タチフサグマの声がすると思って目を開けると、タチフサグマが僕の肩を組んで嬉しそうに歌っていた。最後のハハコモリも歌い始めた。
 よかった。本当に分かってくれたんだ。護神の手とポケモンたちの声に合わせながら、もう一度僕も歌い始める。

「あっー、あー、あっ、あー、あー」

 僕がこれまで習ってきた技術を使って、最大限の歌声を披露する。だけど、単純にとっても楽しい。故郷にいる時に、僕の兄弟たちで駆け回って遊んだ時のような、そんな楽しさ。たぶん僕の歌が下手くそでも、ポケモンたちは僕を歓迎してくれたと思う。そんな気がする。
 それから、僕の出せる声の高さと低さはウインディに近い。ウインディも分かってくれているようで、僕を見て歌っている。僕は護神とウインディを交互に見ながら歌う。護神の指揮とポケモンたちの歌は僕に合わせてくれている。ありがとう。

「あっー、あっ、あっ、あっ、あっあー、あー」

 どうして、このお庭のポケモンたちは、こんなにたくさん集まって歌うんだろう。護神の影響なのかな。護神はオペラを知っているみたいだし。
 じゃあ、人間はどうして歌うようになったんだろう。音楽って、どうやってできたんだろう。楽しいからかな。うん、とっても楽しい。声を上げて歌うだけがこんなに楽しいって、ちょっと忘れていたかも。楽しいから、音楽って生まれたのかな。

「あっー、あっ!!」

 護神が大きく両腕を振り下ろして、そこで終わりだった。少しだけ静かな時間があって、すぐにポケモンたちが笑顔で叫びながら僕に集まってきた。タチフサグマが僕に肩を組んだまま飛びはねて、ウインディが僕の顔を舌でなめてきた。僕を歌の仲間って認めてくれた事だよね。だけど、ちょっと苦しい。
 ポケモンたちに押されてもみくちゃにされて、僕の体は地面へ背中から倒された。とっさに目を閉じる。僕も楽しかったけど、ちょっと落ち着いて。

 そう思いながら目を開けたら、僕の頭のすぐ先にあの不思議な人が立っていて、顔になんの表情も浮かべないで僕を見下ろしていた。すっごくまずい。

「あっ! あっ! ごめんなさい!」

 まだまだ僕に群がってくるポケモンたちをいなしながら、僕は急いで立ち上がって謝る。どんな言い訳をしよう。いや、言い訳のしようがないよね。
 その人は怒りも笑いもせずに、じっと黙って僕を見つめている。どうしよう。僕から続けて何か言った方がいいのかな。

「あっ、僕、あの……」
「ラティオス、そいつはなんだ?」

 僕の横の方から人の声がして、僕は驚いてそっちを見た。僕の前に立っている不思議な人と、まったく同じ見た目の人が僕に向かって歩いてきた。
 僕の頭の中がよく分からなくなる。今はやめてキュウコン、首筋をなめないで。双子って事かな。もしかして、こっちはメタモンなのかな。でも、今あっちの人はこっちの人を護神の名前で呼んだよね。それってどういう事だろう。チルタリスかな、翼で頭をわしゃわしゃしてくれるのは気持ちいいんだけど、考えがまとまらない。
 不思議な人の隣に不思議な人が並んだ。いてもたってもいられなくなって、僕は喋り始めた。

「あの、僕……」
「お前は後だ。ラティオス、どういう事だ?」

 後から来た人は前の人をまた護神の名前で呼んだ。どういう事かわけが分からない。だけど、一つ分かった事がある。不思議な人を初めて近くで見て、少し乱暴な言葉づかいなのにたぶん歌ったらソプラノくらいの声色で分かった。
 変声回避(カストラート)だ。たぶん歳はまだ若い。声変わりする前に大事なところを手術するはずなのに、僕を見る目つきはとっても鋭い。
 あ、よく見ると違う。不思議な人でも右と左で同じ顔だけど目つきというか、表情がだいぶ違う。後から来た人は僕を睨むように見ているけど、前からいる人は静かな目つきで僕を見ている。
 その、前からいる人が僕から目をそらして、僕のななめ後ろを見た。僕と後から来た人はつられてそっちを見る。そこには、たくさんのポケモンに背中を囲まれた僕を少し高く浮かんで見守りながら微笑んでいる護神がいた。

「ラティアスが?」

 僕が視線を二人に戻すと、ずっと黙っている人がちょっと口が悪い人と顔を合わせて頷いた。

「なら悪い奴じゃないか。見た目通りだな。で、どこからつれてきた?」
「あ……あの……」
「あ?」
「ごっ、ごめんなさい……!」

 思わずこれまでの事を説明しようとしたら、すっごく睨まれちゃった。それに聞きたい事があったんだけど、その目が怖くて僕は質問できなかった。今まで僕たちの指揮をしてくれていたポケモンは、本当に。

「っ!?」

 眉間に皺を寄せて睨む人の隣で、もう一人の不思議な人の体が光り始めた。体の全部が光に包まれてよく見えない。それを隣の人はぜんぜん気にしていない。
 僕は急いで振り返って護神を、たぶんラティアス様だと思うポケモンを見るけど、ラティアス様は神様の力を使っている様子がなかった。
 僕が首を戻すと、もう光は止んでいた。そして、そこには人じゃなくてポケモンがいた。ラティアス様と似た姿をしているけど、体が少し大きくて、それに体も綺麗な青と白で、瞳は赤。
 もう一体の神様だ。さっき「ラティオス」って呼ばれていたから、こっちがラティオス様で間違いない。神様だから人間に化ける力があるのかな。
 ラティオス様が本当の姿になると、少し離れていたラティアス様がラティオス様に寄ってきた。ラティアス様がラティオス様のほっぺにほっぺをすりつける。さっきまでラティアス様の指揮で歌っていたけど、いまだに神話の中のポケモンが目の前にいるって夢みたい。

「あ……あの……」
「あー。また何も聞かされてない奴に一から説明するのかよ。とりあえず、お前、名前は?」

 不思議な人が自分の後ろ頭を掻き回しながら僕に聞いてきた。すごく面倒くさそうで、たしかに勝手にこの庭に入ったのは悪い事だけど、もっと大変な事をしたような気分になる。

「あっ……ごめんなさい……」
「謝ってほしいんじゃないんだよ。名前は?」
「あの……────……────・────っていいます……」
「────家で引き取ったっていう養子か。なら少しは話が通じる」
「っ!? お義父さんを知ってるんですか!?」
「父親からは何も聞かされていないか。まっ、当たり前か。俺はマルコ、ここの庭の番人……の代理だ」

 僕がこの庭とお義父さんの関係を質問しようとしたら、不思議な人、マルコさんがそっぽを向いて歩き出した。その後をラティオス様とラティアス様がゆっくり浮かんでついていく。

「あっ、あの……」
「説明してやるからついてこい。あと、ここの事は父親以外のだれにも言うなよ。お前と父親の家がどうなろうが、俺には関係ないが」
「それってどういっうっ!?」

 マルコさんの背中を追おうとした時、後ろから飛びかかってきたたぶんガーディとイワンコに押されて、僕はさっきみたいに盛大に転んだ。


  ──同日 夕刻前──

「分かったか?」
「はい……なんとなく……」

 そう言って僕は、石だたみと同じように地面に敷かれている石板から顔を上げた。僕の近くで僕とマルコさんの話を聞いていたラティアス様が、僕の顔をのぞきこんできた。マルコさんの説明はほとんど理解できたし、どうして僕がこの庭に来る事ができたのかも分かったけど、目の前の現実があまりにも現実離れしている。
 僕はラティアス様から逃げるように目をそらした。その先には、井戸のようなものの上にパーゴラが覆い被さっているようなものがある。もちろんそれは、なんでもない井戸でもパーゴラでもなく、その骨組みだけの屋根の下には秘密の宝石「心の雫」がある。それをマルコさんに見せてもらった時、マルコさんは「もう後戻りできないからな」と言ってきた。

 マルコさんの話は、アルトマーレの神話の裏側だった。
 この街には、神話の中のラティオス様やラティアス様の末裔が今も暮らしている。今のラティオス様とラティアス様で何代目になるかは分からないけど、この神話が生まれた頃からずっと続いているみたい。
 それから、今の代のラティアス様は、今までのラティアス様と体と瞳の色が少し違っているんだって。だけど、それ以外は普通のラティアス様で、ラティオス様の方は体や瞳の色も普通なんだって。僕にとっては、神話の中のポケモンの「普通」がよく分からないけど。
 神話にはラティオス様とラティアス様から「心の雫」をもらった人間が出てくるんだけど、マルコさんは自分がその人間の末裔だって言っていた。それを証明するものは何も見せてもらっていないけど、僕は本当だと思う。だけど、どうしてさっき「代理」と名乗ったのか、その大事な家系の人間がカストラートなのかは教えてくれなかった。石板から顔を上げてマルコさんに聞く勇気もなかった。もしかしたら、僕と同じような、特別な理由があるのかも。僕も、お父さんやお母さんが死んだ時の話はしたくないから、だからそれもあって聞けなかった。
 この秘密の庭はやっぱりラティオス様とラティアス様の住処で、「心の雫」を置いておく大切な場所でもあるんだって。「心の雫」はただの宝石じゃなくて、神話にあるみたいに強い力を持っていて、それをラティオス様かラティアス様と一緒に使うとこの街を支配できるくらいの力を秘めているって、マルコさんは言った。
 「心の雫」をどう使ってまでは、たぶん万が一の事があるから教えてくれなかったんだけど、その時にもう一つの鍵になるのが、大聖堂にある「聖遺物」って呼ばれているあの大きな像って事は教えてくれた。
 だからマルコさんは時々大聖堂に行って、だれも触っていないかを確かめている。僕が見たのは、その時のマルコさんで、「ゆらぎ」は体を透明にしたラティオス様やラティアス様だって教えてくれた。
 ラティオス様やラティアス様は不思議な力を持っていて、そうやって体を透明にしたり、ラティオス様はよくマルコさんに化けて街の中へ行くんだって。やっぱり、神様でもこの庭だけにいるのは飽きちゃうよね。
 今日、僕が追っていたのは、マルコさんに化けてマルコさんの代わりに「聖遺物」の様子を確かめにいったラティオス様と、透明になったラティアス様だったみたい。僕は気づかれていないと思っていたけど、僕が前から気になっていた事を神様たちはお見通しで、ラティアス様の方も僕に興味があったから、だから後をつけられているふりをしてこの庭まで案内してくれたらしい。
 なんでマルコさんがそこまで分かるかは、ラティアス様がマルコさんに、普通の人には聞こえない声で教えたから。それを聞いた時の僕が隣のラティアス様を見ると、ラティアス様は笑いながら小さく鳴いた。なんだか、ちょっとくすぐったいみたいに恥ずかしかった。
 ラティオス様を見ると、ラティオス様はマルコさんの隣でさっきみたいじっと僕を見つめていた。ラティオス様は僕をあんまりよく思っていないのかな。ぜんぜん笑わないし、さっきの歌にもいなかったし。

 護神がこんなに不思議な力を持っていても、この庭が見つからないようにし続けるには足りないってマルコさんが言った。そこで僕のお義父さんが話に出てきた。
 この島の偉い人たちはこの庭の事を知っていて、街の人に知られて「心の雫」が悪い事に使われないように真実を隠しているんだって。マルコさんはアルトマーレから雇われる形でこの庭の番人をしているって、マルコさん自身から聞いた。
 お義父さんが僕に隠し事をしていたのは少ししょんぼりしたけど、仕方がないよね。もし「心の雫」が悪い事に使われたら、取り返しがつかない事になるってマルコさんが言っていた。秘密がどこから漏れるか分からないなら、隠し続けるべきだよね。お義兄さんは知っているのかな。それともこれから教えてもらうのかな。

「あ……あの……」
「あ? なんだ?」

 「心の雫」の台座から視線を戻した僕はマルコさんを見た。すぐ眉間に皺を寄せるのは癖になっているみたい。

「あの……僕がこれからどうしたら……」
「お前はどうしたいんだ?」

 マルコさんにそう言われて、僕は後ろを振り返った。
 石板や台座があるこの場所は池があるところよりも高くて、ここに上がる階段にポケモンたちがいた。僕から離れて、僕たちの話を邪魔しないようにしてくれている。
 もしこれを本心や信念って言うなら、まさしくそうなんだと思う。あるいは、音楽家の、その卵の我儘なのかな。だけど、僕はこれを望んでいる。僕はマルコさんをまた見る。

「僕は……これからもみんなで歌いたいです」
「だったら勝手にしろ。俺は、お前がこの庭を隠しておいてくれるならそれでいい」

 「やっぱり駄目ですよね」って言いかけていたのに、マルコさんはあっさり認めてくれた。びっくりした。

「あ、ありがとうございます!」
「あと、夜は静かにしろよ。大騒ぎしたら、あいつら共々叩き出すからな」
「はい!」

 僕は急いでみんなに振り返った。たぶん僕の顔に出ていたんだと思う。ポケモンたちは走って僕のところまで来ると、また僕を囲んでなめたり、じゃれついてきたりした。僕も嬉しい。嬉しくて少し流れた涙を、ニョロトノが舌を伸ばしてなめ取ってくれた。

「また、これからもみんなで歌おうね!」

 言葉は分からなくても、気持ちは分かってもらえたんだと思う。ポケモンたちから鳴き声が次々と上がった。僕の隣を奪われたラティアス様の声も聞こえた。
 マルコさんの方を見ると、ラティオス様をつれて庭を囲む建物の中に向かっていくところだった。僕は急いでまた声を張り上げた。

「本当にありがとうございます!」

 マルコさんが足を止めて、それでラティオス様の動きも止まった。

「たまに来て威張り散らす貴族よりはいいからな。それから、ラティオスとラティアスには様をつけなくていい。そっちの方が嬉しいだろうから」

 僕に振り返らないでそれだけ言うと、マルコさんはまた歩き出した。
 さっきの、僕にどうしたいか聞いてきた時もそうだったけど、根は悪い人じゃないと思う。そうじゃないと番人は務まらないのかもしれない。ラティオス様やラティアス様、いや、ラティオスとラティアスは悪い心を見抜くかもしれないし、人間からの信用もあるだろうから。

 みんなの中から自然とまた歌が始まった。ラティアスが一度鳴いてみんなの注目を集めると、両手を大きく振り上げた。


  ──翌日 早朝──

 カーテンの隙間から少し光が漏れていて、それが木の板を敷き詰めた床に当たって、そこだけが光っている。僕はそれをベッドから、横にした頭だけを出して見ていた。今は何時なんだろう。ベッドから離れた場所にあるドアの奥からは、だれの足音もまだ聞こえてこない。
 今日は眠れなかった。ベッドに入って目を瞑れば眠れるかなって思っていたけど、結局ずっと起きていて、昨日の事を思い出していた。

 昨日は家に帰ってきたら、もう夜になっていた。お義父さんの書斎に行って、みんなで歌いこんだから疲れた声であの庭の事を話した。
 お義父さんは怒りも笑いもしなかった。マルコさんの事も話したけど、お義父さんにマルコさんの事は聞けなかった。それはなんだか卑怯な気がしたし、お義父さんに聞くのは間違いだと思った。
 それから僕は、「もう少しこの街にいたい」って言った。みんなで歌うのはこれからの音楽家としての人生の役に立つのは嘘じゃないけど、カロスに行くのは少し怖かった。本当はあの夜にそれも分かっていたけど、お義父さんにはやっぱり言えなかった。
 お義父さんは「分かった」と言って、「あの人に言われたと思うが、この事は私以外に喋らないように」とつけ加えた。それからふたりで食堂に行って、その頃にはお義父さんの顔はいつもの笑顔に戻っていた。

 光が当たっている床の先にはテーブルがあって、鞄から出した楽譜や先生のメモ、インク瓶や食べかけのパンが置いてある。
 少し声を出して歌いたくなったけど、隣の部屋のお義兄さんはまだ眠っているかもしれない。だから僕は、頭を動かして天井を見つめて、声に出さないで口をぱくぱくさせる。声楽を習っていてよかった。普通の人のように歌っていたら、喉が枯れてどうしようもなくなっていたかも。
 ポケモンたちは、喉を痛めない歌い方を自分で見つけたのかな。それとも、ラティアスかマルコさんが教えたのかな。人間とポケモンの喉や鼻の奥の形は違うだろうから、もしかしたらラティアスの方かも。昨日、ラティアスはずっと歌わずに指揮をしていた。ラティアスやラティオスが歌ったら、どんな歌声なんだろう。
 僕は毛布の中で、右手を自分の胸に当てる。僕の心臓はとくんとくんと、速すぎもせず遅すぎもせず勝手に動いていた。
 これも一つの音楽なのかもしれない。だから、ポケモンは歌うのは変な事じゃないのかも。僕の心臓はテンポを奏でている。
 人間はだれだって心臓を持っているし、喉に病気や潰していなければ歌だってできる。上手か下手かはあるかもしれないけど、自分の体一つで音楽をできる。ポケモンだって同じだと思う。

 ふと、ムウマが一匹、僕のベッドの上を通りすぎようとしていた。ムウマを自分のポケモンにしている人は、僕の家族にも使用人たちにもいないはず。幽霊のポケモンだから、壁をすり抜けて屋敷の中に入りこんだのかな。それにしても、いい笑顔だけど、何かあったのかな。
 ムウマは僕が起きているって知らなかったみたい。ベッドの真上で僕を見下ろしたムウマは僕と目が合うとすごく驚いて、僕の部屋の中をすごい速さでぐるぐる飛び回った。僕もすごく驚いた。心臓のテンポが速くなる。
 ムウマがテーブルに置いていたパンを掴んで、それから窓の向こうに消えた。だけどパンは幽霊じゃないから、カーテンに当たってから床に落ちた。これがほしかったのかな。
僕はベッドからゆっくり起き上がった。ちょっと深呼吸する。ムウマは幽霊だから心臓がないはずだけど、今のもテンポって言えるのかな。それを言ったら、床を歩く僕の足音もテンポって言えるのかな。音楽って、どこからが音楽なんだろう。

 僕はカーテンと窓を少し開けて、床から拾ったパンを窓の「へり」に置いてから、顔を洗いたくなって寝巻きのままドアに向かった。部屋に帰ってくると、パンはなくなっていた。


  ──同日 午前──

「昨日は何かあったのか? 俺から見たら、かなり疲れた顔をしているが?」
「……ごめんなさい」

 机の前で腰をかがめて僕と目の高さを合わせる先生の目を見れなくて、僕は俯いたまま謝った。
 今日は授業の最初から座学で、今になって眠気がやってきた。机に座って先生の声を聞いていると、どんどん体が内側から固まっていくような感覚になる。

「いや、謝る事じゃない。だけどな」

 そう言って先生は僕の机から離れて、気持ちのいい光が差し込んでいる音楽室の窓を開けた。新しい空気が入ってくると、アルトマーレの潮の香りがはっきりと分かる。

「何か悩みでもあるんじゃないか? 俺でよかったら聞くし、答えるぞ?」

 先生が窓の前まで椅子を持ち上げて、それから座った。先生の顔は僕を見て微笑んでいた。

「一応は音楽家として先輩だし、家族に言いにくい事もあるんじゃないか?」

 先生と目が合わせた後、僕はまた少し俯いた。これと言った悩みは昨日で全部消えたんだけど、なんて誤魔化せばいいんだろう。
 たぶん先生は、僕を思って言ってくれている。もちろんそこには、「────家の養子の授業」っていう仕事や評判の事情があるんだろうけど、だいたいは本心なんだと思う。
 だけど、悩みらしい悩みがない。先生の優しさにはちょっと悪いけど、眠気覚ましもかねて、この謎を聞いてみようかな。僕は顔を上げる。

「先生、音楽の成り立ちって知っていますか?」
「成り立ち? それなりに知っているが……それが悩みか?」

 僕は頷いた。
 それから、先生に昨日の事を、護神とアルトマーレの秘密を隠したまま、「ポケモンたちが歌うところを見た」と言った。ポケモンたちが歌うのを見て、人間がどうして音楽を作ったのか気になり始めたと答えた。
 それは嘘じゃなかったけど、胸が少し痛くなった。お義父さんやマルコさんは、ずっとこの痛みと戦っているのかな。マルコさんに「心の雫」を見せてもらった時を思い出した。
 きっと、働くようになったら、こういう痛みは増えていくんだと思う。そういう意味では、僕の目の前にいる先生も十分すごい。アルトマーレの大聖堂のテノールの歌い手なんて、大変じゃないわけがないのに。
 先生は僕に「どこで、どのように」と聞き返してこなかった。頭の中では適当な嘘を考えていたけど、先生へ言わずに済んでよかった。それから先生は、顎に右手を当てて少し考えこんだ後、僕をまっすぐ見ながら喋り出した。

「音楽がいつから始まったのかは、実は今でも分かっていない。少なくとも、二千年前にはもう存在していたらしい。記録が見つかっていないだけで、実際はもっと前からだな」
「そんなに昔ですか?」
「別におかしな事じゃない。楽器を作れなくても、人間にもポケモンにも声がある。それだけでもう立派な楽器だ」

 僕の考えはやっぱり当たっていた。先生は続ける。

「音楽の発展には二種類ある。一つは単純に『楽しいから』。生き物としての性質だな。音楽を聞いたり演奏する事は、お腹が満たされる事と同じ。お前が見たっていうそのポケモンたちも、そういう理由があったんだろう」

 これもやっぱり当たってた。

「もう一つは、『宗教』だな。『楽しい事を神様に捧げる』って意味もあるが、『楽しい事をして教会に集まる人を増やす』って意味もある」
「あ、聞いた事があります。アルトマーレはお祈りや厄除けの音楽があったから、だからオペラの聖地になったって」
「そうそう。教会もお金がなければやっていけない。俺がこの聖堂に雇われているのも、そういう理由が大きい」
「なるほど……」
「どうだ? 少しは気分が晴れたか?」

 小さなあくびを顎に力を入れて必死に隠しながら、僕は先生を見て頷いた。

「もう少し聞きたい事はあるか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「じゃあ、授業に戻ろう。また何か聞きたい事があったら、遠慮せず言ってくれ」

 先生が立ち上がるのを見ながら、僕は喉の奥からこみ上げてくる言葉を、がんばって飲みこんだ。ご飯や音楽と同じように、何かを知るって事も、人間にとって「楽しい事」なんだと思う。だけど、これは聞けない。
 先生が窓を閉める。もともと、眠気覚ましの為だけだった。それに、どちらかと言えば、これは僕自身が答えを見つけたい。だけど、僕の気持ちは今すぐにでも答えを知りたがっている。

 神様が歌うなら、何を歌うんだろう。


  ──七月某日 Air──

 僕がいつもの、路地の入り口から庭に入ると、ずいぶん見慣れてきた緑と青の世界が待っていた。今日は僕のお願いで授業が午前中に終わって、いったん家に寄って、準備をしていた荷物を持ってからここに来た。

「こんにちは」

 僕の上を飛ぶバタフリーとアゲハントたちに、僕は鞄を持っていない左手を上げて挨拶した。それにしても、この庭に吹く風はいつも気持ちがいい。秘密の入口と同じように、これも護神の力なのかな。

「タチフサグマたちも、こんにちは」

 今度は階段の横の坂にいたタチフサグマとガーディとイワンコたちに。僕が挨拶をすると、タチフサグマたちは一度だけ鳴いて返してくれた。タチフサグマが二匹の毛づくろいをしてあげている。
 庭の一番低いところまで降りた僕は、周りをきょろきょろ見渡しながら進んでいく。口で約束したわけじゃないけど、約束したんだけどなあ。
 そう思って石だたみの通路を歩いていると、僕から少し離れた大きな木の陰からマルコさんが現れた。いや、違う。
 マルコさん、に化けたラティオスは僕と目が合うと体が光って、本当のポケモンの姿に戻った。

「こんにちは、ラティオス……ラティアスを知らない?」

 僕をいつものように静かに見つめていたラティオスは、挨拶には何も返さないで、僕に背を向けて動き始めた。「ついてこい」って事だと思う。
 僕は駆け足でラティオスに追いつくと、何も言わないまま歩いて後をついていく。マルコさんとマルコさんに化けたラティオスの違いはすぐ見抜けるようになったけど、僕とラティオスの関係はぎこちないまま。ラティオスは気にしていないのかもしれないけど、僕はずっと気になっている。
 初めてのあの時からもう何度もここに来ているけど、僕がいる前でラティオスが歌っているところを見た事がない。マルコさんにそれを聞いてみたら、「俺も、ラティオスが歌ってるとこを見た事ないから気にすんな」って言っていた。はっきりと分かる形でそうされた事がないけど、僕が嫌なのかな。だけど、やっぱり僕はみんなで楽しく歌いたい。
 それから、ラティアスの歌声もまだ聞いていない。ラティアスはいつも指揮だけをして、歌には加わらない。僕が「ラティアスも歌ってよ」って言っても、ラティアスは笑顔のまま首を横に振る。どちらも歌わないのは、護神なりの理由があるのかな。マルコさんに聞いてみたいけど、なんでもマルコさんに頼りっぱなしみたいで、少し気が引ける。それに、マルコさんはたぶん「それくらい、自分で見つけろ」って言うと思う。

「あっ」

 庭の一角には、木の枝にくくりつけられた縄と板のブランコがあって、ラティアスはそのブランコの前の池のふちで、地面に仰向けで眠っていた。神様の威厳を感じられない、いつものラティアスからは想像できないくらい低い声のいびきをかいて。
 護神といってもポケモンだから、こういう時があって当たり前だけど、何も知らない人が見たらびっくりするだろうなあ。

「あっ、ありがとう、ラティオス」

 背が高い大きな木の生い茂った枝の中へ向かって飛んでいくラティオスに、僕は急いで、だけどラティアスを起こしてしまわないくらいの大きさの声でお礼を言った。他のポケモンたちも、ラティアスのお昼寝を邪魔しないようにしているのかな。いつもは僕が庭にやってくると、みんなに囲まれて、自然と合唱になるのに。
 ラティアスが眠っている前、ブランコに背中を向けて僕はしゃがんで、左手に持っていた鞄を池のふちの石づくりに置いた。蓋を開ける。
 中にあるのは、バイオリン。昨日の僕はラティアスと、「今度来る時はバイオリンを持ってくるよ」と約束していた。これはお義兄さんのもので、お義兄さんはバイオリンをぜんぜん知らないからそんなに高価(たか)いものじゃないと思う。
 ラティアスが眠っている間に調弦だけはしておこう。膝とつま先を地面につけた足の腿に、顎当てがあるバイオリンの下の方を置く。
 左手でバイオリンの首の根本を掴んで、右手は薄い上着の右のポケットに入れる。だけど、目当てのものがなかった。おかしいなあ、家を出る時はたしかに音叉をポケットに入れたはずなのに。
 ふと、僕の後ろから小さく高い金属の音が響いた。僕はすぐに振り返る。

「ひっ!?」

 びっくりして体が大きくよろけた僕を、ラティアスが不思議な力で僕が転ぶ前に支えてくれた。

「あ……ありがとう……」

 もとの体勢に戻りながら、僕はラティアスにお礼を言った。音叉を左手に持ったラティアスは、笑顔で一度だけ鳴いて返した。
 僕の後ろには、僕の前で眠っていたはずのラティアスと、それぞれが別の事をしていたポケモンたちが集まっていた。僕が眠っていたはずのラティアスの方を見ると、そこにはまだラティアスがいて、僕の目の前ですうっと消えていった。
 どうやら、ラティアスが作った蜃気楼で、ラティアスとポケモンたちはみんなで僕を驚かす計画をしていたみたい。

「もう、驚いちゃった」

 僕は笑いながら、ラティアスとポケモンたちに言った。たしかにとてもびっくりしたけど、僕をすっかりこの庭に集まる仲間と認めてくれていて嬉しい。
 ポケモンたちはバイオリンを持つ僕を囲んだ。もの珍しそうに、僕が腿に突き立てた楽器を見つめている。

「あっ、ベロリンガ、なめちゃ駄目だよ。そうだ、ラティアス、そのまま手伝ってよ」

 ベロリンガになめられそうになって、頭の上に掲げたバイオリンを腿の上に戻しながら、僕は僕の前に浮かんでいるラティアスにそう言った。ラティアスは橙色の手の甲から伸びている爪で音叉をきんきん鳴らしながら、不思議そうに僕を見た。

「これを一回だけ鳴らして、ここをここにつけて」

 僕はそう言いながら右手を伸ばして、ラティアスが持っている音叉を指で弾いて鳴らす。あっ、ちょっと痛い。それから、音叉の持ち手の一番下を人差し指で触ってから、バイオリンの首の先の渦巻きを触る。これで分かってもらえるかな。
 ラティアスは分かってくれたようで、音叉を一度だけ爪で弾いてから、バイオリンの渦巻きにつけた。
 バイオリンが共鳴して、音叉だけよりも少し大きな音が鳴る。こういう事は、楽器はやっぱりポケモンたちには珍しいんだと思う。ポケモンたちから、人間で例えると「ほう」みたいな感じの声が上がる。音叉が止んだ。

「ラティアス、もう一回」

 僕がそう言うと、ラティアスがまた音叉を鳴らして渦巻きにつける。僕は指で「ラ」の音の弦を弾いた。音叉よりも大きな音が鳴って、ポケモンたちから、さらに大きな「ほう」の声が漏れる。ちょっと音がずれている。

「ラティアス、またお願い」

 ラティアスがもう一度音叉を鳴らす。僕は「ラ」の弦の糸巻きを回して、音叉と調子を合わせ始める。もう二回だけラティアスに頼んで、それで弦と音叉の音が合った。

「もう大丈夫、ありがとう」

 僕はラティアスの目を見てそう言った。バイオリンは「ラ」の音が合えば、その弦から他の弦の調子も合わせられる。
 僕が自分で弦を弾いて調弦していると、音叉を鳴らしたラティアスが、それをニョロトノのおでこにつけた。ニョロトノが自分の声で小さく長く鳴いた。

「むっ」

 それがおかしくて吹き出しそうになった。そこじゃ共鳴しないよ。駄目駄目、集中。ポケモンたちが不思議そうに僕を見つめてくる。バイオリンは楽器で、ポケモンのように自分で鳴くわけじゃないんだよ。

「よしっ」

 僕は鞄から弓を取り出しながら立ち上がった。左の首もとの骨の上に乗せて構える。調弦の仕上げとして、弓で弾いて音を出してみる。

「わっ!」

 ポケモンたちは、まさかバイオリンからこんなに大きな音が鳴るって考えてもいなかったみたい。僕がバイオリンが弾くと、驚いたポケモンたちが一斉に木の陰や池の中に隠れた。
 残されたのは、僕とラティアスだけ。ラティアスを見ると、きょとんとした顔をしていて、僕を見ないまま音叉を差し出したから受け取ってポケットに入れた。みんなは、物陰から顔を少しだけ出して僕たちをのぞいている。
 何度か弓で弾いて、弓を持った手で糸巻きをいじって最後の調整をする。その度にポケモンたちは、顔を引っこめたり出したりする。バイオリンの調子は合ったけど、これじゃ失敗だったかな。

「とりあえず、弾くだけ弾いてみるね」

 僕はそう言って、またラティアスを見た。隠れたポケモンたちをきょとん顔で見るラティアスからは、当然だけど返事がなかった。僕はもう一度バイオリンを構える。

 僕はバイオリンを、「レ」の弦だけを使って曲を奏でる。僕が尊敬する大バッハの、「管弦楽組曲第三番より第二曲のバイオリン用独奏曲」。
 僕が故郷にいた頃に習った曲で、上手な弾き手ならもっと豊かな表現で弾けるんだけど、僕は暗記している楽譜の通りに弾く。この曲は一本の弦しか使わないから、覚えやすくて弾きやすい。
 だけど、本当かどうか分からないけど、このバイオリン用編曲は大バッハ自身が書いたものじゃなくて、「時間を行き来できる神様であるセレビィ様が、未来から持ってきたもの」っていう「いわく」がある。人間じゃそれが本当かどうか分からないし、たぶん同じ神様であるラティアスやラティオスでも、僕の暗記やバイオリンの音色からじゃ分からないと思う。
 この曲は美しいけど短い曲で、僕はすぐに弾き終わった。ラティアスはにこにこした顔で僕を見てくれるけど、他のポケモンたちはまだ物陰から僕たちをのぞきこんでいた。バイオリンはこれで終わりかな。

「わっ!?」

 いきなり、僕たちから少し離れた池のふちに波が立った。そこに現れたのは、一匹ずつのラプラスとアシレーヌだった。この庭では初めて見る。マルコさんは前に、「ここの池と街の水路は水の中で繋がっている」って言っていたけど、そこを通ってきたのかな。
 二匹が鰭の足を動かして、僕たちに近づいてきた。

「こ、こんにちは……」

 僕たちの目の前までやってきたラプラスとアシレーヌは、じっとまっすぐ僕を見る。人間と違って、ポケモンはまっすぐ人を見る。
 人間の僕は、いつものように、逃げるようにしてラティアスを見た。ラティアスもまっすぐ僕を見ていた。どうしていいか分からず、僕の目はどこか一つを見る事ができない。
 そんな困った僕を分かったのか分からないままのなのか、ラプラスとアシレーヌが目を閉じた。

「っ!!」

 僕は驚いた。ラプラスとアシレーヌは、さっき僕が弾いた大バッハの曲を、歌声として奏で始めた。
 もともとの管弦楽やバイオリンとは違う音色だけど、とってもきれいな音楽。周りを見ると、物陰に隠れているポケモンたちが、さっきよりも大きく顔を見せている。やっぱり気になるのかな。
 出だしだけ少し歌った後、ラプラスとアシレーヌは声を止めて、そしてまた僕をじっと見た。いや、僕の目からちょっとずれてる。

「もしかして、バイオリンを弾いてほしいって事かな?」

 そう言いながら、僕はまたラティアスを見た。ラティアスは笑顔で、僕に向かって一度だけ鳴いた。
 僕はラプラスとアシレーヌに顔を戻して、バイオリンを構える。一回だけ深呼吸する。

 僕がバイオリンを弾き始めると、ラプラスとアシレーヌはそこに、それぞれの歌声を乗せてきた。一度聞いただけのはずなのに、二匹のポケモンは、僕のバイオリンと同じ高さで同じテンポの歌声で。
 ふと、ラプラスとドーブルから見てななめ後ろの、その木の陰からドーブルが一匹やってきて、ラプラスとアシレーヌの間に並んだ。
 ドーブルはいつも僕たちの歌に加わらないで、筆のような尻尾で庭の石だたみに絵を描いているポケモンだけど、まさか。
 ドーブルの心が何で動いたか分からないけど、ドーブルはラプラスやアシレーヌと一緒に歌い出した。ドーブルの声はどちらかといえば低いはずなのに、二匹に負けないくらいの高音や声量が出せている。

「っう!?」

 僕を驚かせたのはそれだけじゃなかった。思わずバイオリンを止めそうになった。
 右からラプラス、ドーブル、アシレーヌと並んでいるさらに隣に、いきなりラティオスが音も光もなく現れた。三匹に注意が行っていたから分からなかった。
 僕は内心どきどきしながらバイオリンを弾く。ラティアスを見たいけど、バイオリンに顎をつけたままじゃ、目だけをがんばって向けてもラティアスまで届かない。だからラティオスを見た。
 ラティオスは、ラティオスを見るラプラスたちと目を合わせた後に僕を見た。僕もラティオスを見る。曲は半分を過ぎている。ラティオスは僕に向かって一回だけ頷いて、一回だけ大きく息を吸って吐いた。

 僕の前で初めて、ラティオスも歌に加わった。神様たちの歌声はどんなものかずっと気になっていた、その答えの一つだった。
 ラティオスの歌声は僕が想像と違って、少し、少しというか結構、こう言っちゃなんだけど、音痴だった。ラティオスは自分の事を分かっているかどうか僕は分からないけど、歌い続けている。ポケモンたちも、ラティオスがあまり得意じゃない事を知っていたのかどうか分からないけど、そのまま一緒に歌っている。
 僕もバイオリンを止めなかったし、ラティオスに何か言う事はなかった。
 ラティオスが一緒に音楽をしてくれている事の方が、僕にとっては大きくて嬉しかった。ラプラスやアシレーヌを呼び寄せたように、それはバイオリンの音色や大バッハの素晴らしさのおかげで、僕目当てじゃないだろうけど、僕はそれでもよかった。
 音楽はやっぱりみんなでやった方がいい。みんなでやるから楽しい。

 曲が終わると、ほんの少しだけ静かになって、それから物陰にいたポケモンたちが僕たちに向かって駆け寄ってきた。そのポケモンたちも、僕のバイオリンに合わせて歌ってくれたポケモンたちも、みんな笑顔。
 ラティアスがラティオスの隣に並んで、ほっぺにほっぺをすり寄せた。ラティオスも笑っていて、僕はこの時に初めてラティオスの笑顔を見た。
 ありがとうございます、ラティオスも笑顔にしてくれて。僕は庭の空を見上げた。高い木の枝の葉っぱの奥に見え隠れする太陽へ、僕の生まれた年に安らかな眠りについたという大バッハへの感謝をこめた。
 あっ。僕が顔を戻すと、ラティオスがハハコモリとドーブルに何かを言われて、なんだか恥ずかしそうな表情になった。その様子を、ラティアスが両手を口に当てて笑っている。もしかして、ラティオスは自分の歌声がどうなのか初めて知ったのかな。

 そして、僕がこの庭で歌声を聞いた事がないのは、ラティアスだけになった。


  ──八月某日 夕刻前──

 カフェへのお客さんの入りに季節は関係なくて、外よりは涼しい気がするけど、やっぱりお客さんが多くて暑い。僕はおでこの汗を手で拭った。
 僕がカップの隣に広げた楽譜は、ところどころに先生の指摘が書いてある。「伸びしろがある」って言ったら聞こえだけはいいけど、本当のところは僕に足りないものがたくさんある。
 この街に来て、ずいぶん経った。来たばかりの頃よりは上手くなっているはずだけど、先生が書いたメモを見ていると、成長していないように思えてくる。
 本当はそうじゃない。先生には口で「上手くなってきた」と、今日だって褒められた。だけど、僕の気持ちは納得していない。
 どうしてだろう。僕はカップを口につけながら、頭の中にある記憶を一つ一つ確かめてみる。
 お義父さんの提案を嫌がったからかな。だけどこれは、自分の気持ちに正直になったからだから、違うと思う。
 マルコさんに褒められた事がないからかな。それはちょっとあるかもしれない。マルコさんはカストラートだから。だけど、マルコさんがどうしてカストラートになったのか知っているわけじゃない。そもそも、マルコさんが音楽をよく知っているのかさえ知らない。
 いまだに僕はマルコさんに、マルコさん自身の事をほとんど聞けていない。庭の番人としての仕事があるとは聞いているけど、それ以外の事をほとんど知らない。
 マルコさんとはそれなりに仲よくなってきたけど、マルコさんの目を見ると、気になっている事が何も聞けなくなる。というよりも、僕が成長を自覚できない理由にマルコさんとの事はあんまり関係ないと思う。

 僕の気持ちがあえて避けている。
 本当は、僕が認めてほしいのはマルコさんじゃなくて、ラティア……。

「え!? ────のオペラ!? 絶対見に行きたい!!」
「まだ噂だけどね。だけど、旦那が聞いた話だから、たぶん確かだと思う」

 僕の隣の隣のテーブルから、ふたりの若い女の人のそんな話が聞こえてきた。僕は逃げるように、本当に逃げているんだけど、少し前にお義父さんから夕飯の時に聞いた話を思い出した。
 「音楽の都」の皇帝様に仕えている作曲家、────のオペラがアルトマーレで公演されるんだって。────はすごい売れっ子のオペラ作家で、だから新作の公演に「オペラの都」でもあるアルトマーレを選んだんだって。公演はもう少し先で、その時は家族全員で見に行こうって僕の家族は話した。
 「音楽の都」の皇帝様お抱えの作家のオペラ。きっと、たぶん間違いなくすごいオペラなんだろうなあ。

「あ、すいません」

 僕のテーブルの前を通りかかった給仕のゴチルゼルに、僕はカフェラテのおかわりを頼んだ。


  ──九月某日 午前──

「あのさ、お前に一つ頼み事があるんだけど」

 椅子に座って「心の雫」の台座を見ていた僕は、僕の背中の方から聞こえてきたマルコさんの声に振り向こうとした。

「動くな、頭を切るぞ」
「ごめんなさい……」

 マルコさんに止められて、僕は頭をまっすぐ前に戻した。目だけを少しだけ俯かせると、白い布を被った僕の膝の上で、バチュルとネマシュが僕の髪の毛をぱらぱら散らかして遊んでいる。
 今日はマルコさんに髪を切ってもらっている。いつもは街の床屋さんに行くんだけど、さっきマルコさんに「今なら只で切ってやるぞ」って言われたからお願いした。
 マルコさんは床屋に行かずに自分で切っているんだって。最初、「どれくらいにしたいんだ?」って聞かれたから、「短くしたいです」って答えたら、後ろ髪をばっさり切り落とされた。

「だから謝り癖はやめろ」
「はい……」

 マルコさんと一緒に、マルコさんが持つ鋏の音も聞こえてくる。これも音楽かな。だったら床屋さんは、お医者さんより楽器の弾き手に近いかな。何でもかんでも音楽に結びつけすぎかな。

「で、話を戻すと、ラティアスをオペラにつれてってほしい」
「ラティアスを?」

 また振り返りそうになった頭を止めて、僕は目だけを横に向けた。そういえば、今日はラティアスもラティオスも見ていない。
 そんなに珍しい事じゃないから気にしていなかったんだけど、もしかしてマルコさんはラティアスがいない今だから、この話をしているのかな。

「オペラなら、マルコさんと一緒に行けばいいんじゃないですか?」
「金がないんだよ、俺は。────のぼっちゃんと違って」
「……」
「何か言えよ」

 マルコさんがそう言うけど、僕は何も言えなかった。
 マルコさんが「おら、危ないぞ」って言いながら僕の膝を手で優しく払うと、バチュルとネマシュが追い出されるように膝から降りた。マルコさんが僕の体を隠している布を何回かばさばささせると、髪の毛が僕たちの周りに散らばった。

「掃除しますね」
「いや、これくらい、ポケモンが巣作りか何かに使うだろ」

 首の結び目がとかれると、白い布が僕の後ろにするすると消えていった。

「もう立っていいぞ」

 僕は椅子から立ち上がる。体ごと後ろを向くと、肩から下げた鞄に鋏をしまったマルコさんと、布を広げて遊んでいるエルフーンたちがいた。

「どれくらいにしてくれました?」
「後で水にでも映して自分で確めろ」

 そう言われるともっと気になってくる。僕の足もとでオニスズメたちが僕の髪の毛をついばんで飛んでいくを見ながら、僕は足もとに注意しながらまた振り返って、水が湧き出る「心の雫」の台座に向かおうとする。

「おい、逃げるな。いいのか嫌なのか、どっちだ?」

 僕は「あー……」って言いながら後ろに振り返った。マルコさんは腕を組んで、いつものように僕を睨んでいた。やっぱりマルコさんはお見通しだった。

「どうせ────家なら、どっかの劇場に眺めがいい桟敷席があるんだろ?」
「そうですけど……」

 マルコさんの言う通り、僕のお義父さんはいくつかの大きな劇場に桟敷席を持っている。僕が頼めば、お義父さんは喜んで貸してくれると思う。ラティアスだって、透明になるかだれかに化ければ知られる事がないはず。だけど。

 僕は最近、ラティアスが分からない。ラティオスは相変わらず僕と距離を取っているけど、それでもたまには一緒に歌ってくれるようになった。ラティアスは、今でも僕はラティアスの歌声を聞いた事がない。もう何回もお願いしているのに。
 ラティアスの態度は、今も変わらないで僕に親しく接してくれている。だけど歌わない。どんな理由があるか分からないけど、こう言っちゃなんだけど、たかが歌一つ僕に聞かせたくない理由が分からない。
 僕が嫌いだったら、もっとそう態度に出ると思う。だから嫌われてはいないけど、そのラティアスとふたりでオペラを見に行くのは、少し怖い。
 ラティアスの考えている事が分からない。何が好きで何が嫌いか分からなくて、本当は嫌われていると考えると、怖くて。僕は、ラティアスに嫌われたくない。

「相変わらず人に頼むのが下手だなあ」

 いきなり、だれかの声が聞こえて驚いた。間違いなく人間の声だ。
 僕の目の前のマルコさんもびっくりして、僕は急いで声がした方を見た。
 僕やマルコさんがいる、石板が敷き詰められた場所に登る階段から、ひとりの若い女性が現れた。その女の人は、白の薄い長袖の上に水色のコルセットとスカートを身につけていて、長い赤髪を後ろ頭で丸めて束ねていて、微笑みながら隣にいるラティオスとラティアスの下顎を撫でている。表情は違うけど、顔の作りや髪の毛はマルコさんに似ている。答えはすぐに分かった。

「姉さん……」

 マルコさんがぽつりと呟いたのを、僕は聞きのがさなかった。僕が振り返ってもマルコさんはお姉さんを見ていて、「帰ってくるって聞いてなかったぞ……」って続けて呟いた。

「だってさ、びっくりさせた方が面白いじゃん。また後で、ラティオス、ラティアス」

 僕たちと同じ高さまで来たお姉さんが、にっこり笑ってマルコさんに答えた。それから、ラティオスとラティアスはお姉さんの隣から飛び立って、高い木の枝の中に消えていった。
 どうしていいか分からなくて立ちつくした僕の手をお姉さんが取った。マルコさんと同じで僕より背が高い。少し遅れてやってきたタチフサグマやベロリンガにお姉さんは、「ちょっと待っててね」と言うと、あらためて僕を見た。

「君が────くんだね?」
「はじめまして……どうして僕の名前を知ってるんですか……?」
「ラティオスとラティアスが教えてくれたから。いつもここのポケモンたちと、マルコとも仲よくしてくれてありがとう」
「いえ……こちらこそ……」

 僕はお姉さんの笑顔から目をそらした。
 マルコさんも前に言っていた通り、番人の血筋はラティオスやラティアスと心で少し会話ができるみたい。僕にもそういう力があればいいのに。そうしたら、ラティアスの事がもっと分かるのに。

「私はジャンナ。マルコが言ってた通り、マルコの姉。よろしくね」
「って事は……マルコさんが『番人の代理』って言っていたのは……」
「一応、後継者は私になっていて、その修行でアルトマーレを離れていたの」
「そうなんですね……」

 ジャンナさんはマルコさんよりよく笑う人で、たぶん結構お茶目。僕の手から離れたジャンナさんは、少し真面目な顔を作って、僕の背中の先にいるマルコさんを見た。

「マルコ、後で話があるから」

 マルコさんは返事をしなかった。その代わりに、大きなため息が聞こえた。

「それじゃ。お待たせーーー!!」

 ジャンナさんはそれだけ言い残して、タチフサグマやベロリンガ以外にもたくさん集まっていたポケモンたちに向かって走り出した。最初にウインディの首もとに抱きついて、それからワタシラガたちをもふもふして、次はタチフサグマと抱き合って、その次はコロトックたちのほっぺに口づけをして、とにかくすごい勢いでポケモンたちと触れ合っていく。
 なんだか嵐みたいな人だなあ。だけど、修行に出ていたって事は、この庭には久しぶりに戻ってきたって事だよね。それまで、ポケモンたちや実の弟と会うのも我慢していたって事のはず。
 僕の中にある何かが少し痛くなった。僕もがんばらないと。だけど少し怖い。

「ああ! それからね!」

 ニョロトノに顔をなめられていたジャンナさんがいきなり僕へ振り向いて、そして大きな声で言った。

「ラティアスとオペラに行ってほしいのは、マルコのお願いじゃなくて、ラティアスが────くんともう少し懇ろになりたいんだって!!」

 僕はいきなり言われた言葉を、すぐに理解できなかった。
 それからジャンナさんは、ポケモンたちと大騒ぎしながら階段を駆け降りていった。

「それ、ラティアスが────に言うなって言ってただろ……」

 僕が振り返ると、マルコさんが片手で髪を掻き回しながら、またため息をついた。


  ──九月某日 夜──

 お義父さんから借りた桟敷席の椅子に座って、オペラが始まって、僕はようやく一息ついた。とっても眺めいいここからは、下の立見席でぎゅうぎゅう詰めでオペラを見ている人たちや、舞台の前のオーケストラピットで楽器を弾いている人たち、そして舞台の上で高らかに歌っている歌い手の全部が見える。
 僕は隣を見た。薄暗い観客席で舞台からの照明に照らされた、人に化けたラティアスの横顔。オペラの全部を目に焼きつけようとしているみたいに、まっすぐ舞台の上を見ている。さっきまでとっても大変だったけど、ラティアスが楽しそうなら僕は嬉しい。
 何か話しかけようと思ったけど、邪魔するのは悪いから、僕は何も言わず舞台へ視線を戻した。
 オペラの内容は、遠い地方の神話をもとにして作られたお話。虹の神様であるホウオウ様が、雷のライコウ様と炎のエンテイ様と水のスイクン様を生み出す事のお話。
 舞台の上で歌っているのは人間だけど、もしかしたら、アルトマーレの神様のラティアスはこのオペラを真実として知っているのかもしれない。
 知っているかどうかは分からないけど、ラティアスが興味があるみたいでよかった。あるいは、オペラそのものの方に興味があるのかもしれない。こういう時に、マルコさんやジャンナさんがやっぱり羨ましく思っちゃう。僕も、ラティアスが考えている事がもっと分かればよかった。

 僕がラティアスとオペラに行く事が決まってから、思えばすごい速さで時間が流れていった。「どのオペラを見るか」を最初に品定めをして、次は「ラティアスにどうやってオペラを見せるか」だった。
 マルコさんに化けてもらうのが一番都合がよかったんだけど、ラティアスが嫌がった。あの時はちょっと面白かった。ジャンナさんは大笑いして、マルコさんも「そんなに俺は嫌かよ……」って呟いた。
 だから、ラティアスに透明になってもらってから一緒に街を歩いて、街の人たちの特徴をつぎはぎにした姿をする事にした。最初は人間に見えるかちょっと怪しいくらいの姿だったけど、僕とマルコさんとジャンナさんが助言して、普通の女性の姿になる事ができるようになった。
 それが僕の隣でオペラを見ているラティアスの姿。本当の姿の橙色と白色はどこにもなくて、赤栗毛の少し短くて、左右の斜め上にどうやっても直せない癖っ毛がある髪で、派手すぎも地味すぎもしない薄い緑色のドレスを着ている。ラティオスがマルコさんに化けるのは見慣れたけど、ラティアスが人に化けるのは、なんだかとっても新鮮な気持ちになった。ドレスはジャンナさんの手持ちの服から写したものなんだけど、今のラティアスの、人間の姿の歳に合ってるのかな。それが今でも少し心配。
 だけど、課題はこれだけじゃなくて、ここからは僕だけの戦いだった。
 お義父さんに事情を話したら、劇場の桟敷席を貸してくれる約束をしてくれた。だけど、あくまで僕とラティアスでオペラを見るから、お義父さんが用意してくれたゴンドラを降りたら、僕がラティアスを案内した。
 オペラを待つ間の劇場は貴族の社交場で、僕はアルトマーレの秘密を知らない人からラティアスの正体を隠さなきゃいけなかった。ラティアスは人間の姿をしているけど、人間の言葉は喋れない。
 ラティアスはお義父さんの遠い親戚って事と、喉の病気で喋れないようになったという嘘をついた。たくさんの人から声をかけられて、その度に僕はがんばって、がんばって嘘をついているように見えないようにラティアスを紹介した。やっぱり僕は嘘をつくのに慣れない。胸のちくちくした痛みを我慢しながら、開演までの待ち時間を乗りきった。
 ジャンナさんがあらかじめ、女の人の立ち振る舞いをラティアスに教えてくれたおかげで、ラティアスが怪しまれる事はぜんぜんなかった。それに、ラティアスとの世間話はできないから、話題は変な髪型にされた僕が多かった。マルコさんはこれを見すえて、僕の髪をこんなにしたのかな。後ろ髪をざくざくした形にされた僕を見て、僕より小さな子から「ジグザグマの体みたい」って指をさされて笑われちゃった。こういう髪型は、数百年経たないと流行らないんじゃないかなあ。
 それから、お義父さんがあらかじめ僕たちの計画を話していた、この島の秘密を知っている貴族のあまり若くないお兄さんも、僕たちの手助けをしてくれた。貴族の交流をあまり分からない僕に代わって会話を盛り上げてくれたり、秘密を知らない人があまりラティアスへ話しかけないようにしてくれた。
 僕が小声でお礼を言うと、「護神にオペラを見せたいだなんて今までなかったから、こっちも面白いんだ」って笑顔の小声で言われた。僕を気遣ってくれて喋った一言に、僕は僕に足りないものをいろいろ思い知りながら、もう一回お礼を言った。それから、今度はお兄さんから「護神と逢引なんて、やるじゃん」って耳打ちされた。恥ずかしくて顔が赤くなった僕を、お兄さんはけたけた笑った。

 舞台の上で真っ赤な翼のような衣装を着た、ホウオウ様役のカストラートが、この世界の自然を讃える詞を歌っている。伴奏のオーケストラも、輝くような調の曲で、悲しみなんて感じさせない喜びを表現していた。だけど、このオペラを選んだ時に少し調べたんだけど、ライコウ様とエンテイ様とスイクン様は大火事で命を落としたポケモンが生まれ変わった姿だから、途中で悲しい雰囲気になるはず。それでも、台本家がよほどへそ曲がりじゃなければ、最後は明るい終わり方をするはず。
 正歌劇(オペラ・セリア)を選んだ理由は、人間の俗っぽい暮らしをあまり知らないラティアスが、喜劇(ブッファ)だと退屈してしまうと思ったから。
 本当は、ラティアスが人間の暮らしをよく知らないかどうかは分からない。このオペラを選んだのは僕自身で、マルコさんもジャンナさんもラティアスの事を教えてくれなかった。マルコさんは「お前がつれていくんだから、自分で決めろ」って突き放して、ジャンナさんは「人生は驚きがないと楽しくないでしょ」って笑ってはぐらかした。ラティアスは脇目も振らないでオペラを見ているけど、この神話を知っていたら、もしかしたら楽しくないのかも。
 ラティアスは僕とオペラを見たかったみたいだけど、どうしてわざわざ僕なんだろう。たしかに僕は、庭の一員としてみんなに認めてもらっているけど、それだったらマルコさんやジャンナさんでもいいはず。
 たぶん僕は、僕自身で思っているよりも素直じゃないのかもしれない。本当は、何かに気づき始めている。だけど、僕には自信が足りない。
 僕は田舎生まれで、この歳で本当の両親を失って、────家にお世話になっているだけで、口下手で、弱虫で、音楽だってまだまだ上手くなくて。
 こうやって言い訳を並べて、逃げ道を作っておきたいんだと思う、僕は。だけど、ラティアスは違った。
 ラティアスは僕をオペラに誘ってくれた。あの庭に来る事ができたのも、思えばラティアスの提案だった。ずっと前から、ラティアスは僕を見ていた。僕はラティアスに見つめられると、いつも逃げていた。ラティアスはそんな僕を笑っていたりしたけれど、本当は僕にもっと笑い返してほしかったのかもしれない。

 僕は、ラティアスにちゃんと向き合っていない。

 そう思って、またラティアスの横顔を見た。ラティアスは、オペラを見て泣いていた。
 舞台の上ではホウオウ様役のカストラートと、海の神様のルギア様役のソプラノがいて、ラティアスはそれを見て泣いていた。人間に化けたラティアスの柔らかそうなほっぺに、涙の通り道が一つ流れていた。
 どうしてラティアスが泣いているのか、僕はたぶん分かった。僕が庭のポケモンたちにそう感じたように、ラティアスにとってはオペラが「自分の知らない音楽」だから。ラティアスはオペラを見た事があると思っていたけど、違っていた。これは、悲しいんじゃなくて、今まで知らない音楽を目の当たりした時に自然にこぼれる涙だ。
 ラティアスに顔を向けているから、耳はオペラに向いているんだけど、僕の頭の中から音楽が消えた。音楽家の卵として失格かもしれないけど、僕はラティアスから目が離せなくなった。
 この桟敷席の椅子に座るまで、いろいろと大変だったけど、それが報われたと思った。ラティアスにオペラを見せてあげられて、本当によかった。

 ふと、ラティアスが僕を見た。僕がラティアスを見ている事に気づいたのかな。ラティアスは僕と目が合うとにっこり笑って、小さな、僕だけに聞こえる声で鳴いた。
 それからラティアスは、僕が膝の上に置いている僕の左手に自分の手を重ねた。僕の手を触るラティアスの手の感触は、少し不思議な温かさだった。もしかしたら、僕に触れているのは神様の力で作った蜃気楼なのかもしれない。それでもいいや。

「楽しい?」

 僕の小声に、ラティアスはまた小さく鳴いて返した。たぶん僕は、今は自然に笑えていると思う。あ、でも、もしかしたらやっぱりぎこちないかも。本当に僕は自信がないなあ。
 ラティアスと僕は、オペラにまた目を戻す。

 もう少し、自分に素直になろう。
 ラティアスの為にも。
 僕はそう決意した。


  ──十月某日 朝──

 朝の空気はよく澄んでいて、特にこの庭の空気はおいしい。本当は、ただ少し寒くて、そう思っちゃうだけかもしれない。
 僕は庭の階段を降りていく。とんとんとテンポよく。口から息を吐いてみるけど、まだ息は白くならない。だけど、庭の中には夏の面影が少なくなってきた。
 木の枝についている葉っぱも茶色が目立ってきたし、「渡り」をするポケモンが多くなってきた。この前は、みんなと一緒にバタフリーとアゲハントたちが旅立つのを見送った。僕は暑かったり寒かったりするのは苦手なんだけど、それでも季節が変わっていく事に少しわくわくする。
 僕は階段の左右の坂の途中にいるポケモンたちに挨拶をしながら、庭の一番下までたどり着いた。そこで立ち止まって、肩からずり下がってきた背負い鞄を、体を一度はねるようにして背負い直す。

「まだ駄目だよ、みんな集まってから」

 僕は振り返りながら、僕の後ろで鞄の匂いをかいでいるウインディやベロリンガたちにそう言った。ポケモンは人間よりも鼻がいいから、僕の鞄に何が入っているかすぐに分かるんだと思う。
 僕は石だたみの通路を歩いていく。地面にある落ち葉を踏むと、かさかさと音が鳴った。ときどき歩きながら振り返ると、僕の後ろをまた一匹また一匹とポケモンがついてくる。これじゃあ、びっくりさせるはずがだいぶ失敗になったなあ。だけど、ふたりにはまだまだびっくりのはず。

 いつものブランコの前まで来た。だけど、そこにはラティアスがいなかった。
 僕は鞄を草が生い茂っている地面に下ろした。僕がしゃがむと、ポケモンたちがすばやく僕と鞄の周りを囲んだ。ガーディやイワンコ、ベロリンガの口からは、よだれがしたたり落ちそうになっている。やっぱり分かっちゃったみたい。
 僕は二本の指を唇ではさんで、高い音の口笛を吹いた。最近では、これがラティアスを呼ぶ時の合図になっている。

「わっ!?」

 僕が口笛を吹いたとたん、僕の頭の上に浮かんでいたラティアスとラティオスが姿を現した。たぶん、最初から姿を消して僕の事を見ていたみたい。ラティアスは口に手を当ててけたけたと笑って、ラティオスは静かにじっと僕を見ている。

「おはよう。もう、いるならそう言ってよ」

 僕はそう言うけど、僕はマルコさんやジャンナさんみたいに神様の言葉を知っているわけじゃない。だけど、前よりはラティアスやラティオスの気持ちを分かるようになってきたと思う。ラティオスは黙ったままだけど、ラティアスは返事のように短く一度だけ鳴いた。
 僕は腰を浮かせて、周りを見渡した。僕の近くにいるポケモンの他に、池の上に浮かんでいるポケモンもいる。だいたいは集まってきたんじゃないかな。もともと、庭のポケモンたち全員の分は用意できなかったし、そもそも庭のポケモンが何匹いるか数えた事がない。だから、今いないポケモンはごめんなさい。僕はまたしゃがんで、視線を鞄の中に向ける。

「今日はね、これを持ってきたんだよ」

 そう言いながら僕は、留め具を外して、布の鞄の上についている蓋を開けた。鞄の中をのぞきこんだポケモンたちはきょとんとした。すぐに出てくると思っていたのかな。
 鞄の中には、丸まった包み紙がいっぱい入っている。僕はその中の一つを取り出した。みんなが僕の左手に持った包み紙を見る。僕が包み紙を左手の上に乗せて、左手と右手のそれぞれ二本の指でつまんで、ねじられた紙を引っ張ってほどく。ポケモンたちから、「やった!」みたいな声がたくさん上がった。
 包み紙の中から出てきたのは、砂糖がまぶしてある一粒のプラリネ。そう、僕はポケモンたちに鞄いっぱいのプラリネを持ってきた。
 包み紙を自分の腿の上に置いて、最初の一粒はベロリンガの舌の上に置いた。ベロリンガはすぐに口の中へ入れないで、舌の上でプラリネをころころ転がし始めた。

「ちゃんとみんなの分あるよ。だけど、ひとり一粒ずつね」

 そう言ってから僕は、包み紙をどんどん開けていって、ポケモンたちにプラリネを渡していく。プラリネをもらったポケモンたちは僕から少し離れて、一口でプラリネを頬張ったり、小さく齧って食べたりしている。みんな笑顔で、やっぱり持ってきてよかった。だけど、ちょっと大変。

「ちょっと待っててね。押さないでね。ちゃんとあるから」

 僕からまだプラリネをもらっていないポケモンは、僕の周りでぎゅうぎゅうになって群がっている。その真ん中で僕は、急いで包み紙を開けながら、もうプラリネをもらったのにまだ手を伸ばすチョロネコとホシガリスのおでこを軽く叩きながら、ポケモンたちにプラリネをあげていく。

「あっ」

 僕がそうやっていると、鞄の中の包み紙の十個くらいが少し光って、そのまま宙に浮き上がった。何度叩かれても懲りないチョロネコとホシガリスも浮かんで、手足をばたばたさせている。僕が見上げると、ラティアスとラティオスの両目が光っていた。やっぱり神様の不思議な力だ。
 浮かんだ包み紙はひとりでにほどかれて、中のプラリネは一粒ずつポケモンたちの口や手にゆっくり降りて、チョロネコとホシガリスも僕たちから結構離れた木の枝の上にゆっくり降ろされた。僕を手伝ってくれるみたい。

「ラティアスもラティオスもありがとう」

 ラティアスとラティオスが小さく頷いた。僕と護神たちで、ポケモンたちにプラリネを配っていく。さっきよりずっと速いし、ラティアスとラティオスは池の上のポケモンたちにもプラリネをあげていく。ふたりが手伝ってくれて助かった。僕だけだと時間がかかったままだったし、チョロネコとホシガリスに何個か盗まれていたかも。

「よっ、何してんだ?」
「あっ、マルコさん、おはよう」

 鞄の中のプラリネが底に近くなってきた頃、僕の前にマルコさんがやってきた。たぶん寝起きだったのかな。マルコさんの髪は少しぼさぼさで、着崩した寝巻きの上にくたびれた黒い上着を羽織っている。
 マルコさんとジャンナさんは一緒に住んでいるはずだけど、ジャンナさんはまだ眠っているのかな。なんていうか、僕の勝手な想像だけど、ジャンナさんってすごい寝起きが悪そう。マルコさんが来たのは僕にとって都合がよかった。喜んでもらえるかな。

「ポケモンたちに、プラリネをあげてたんです」
「ふーん、俺の分は?」
「もちろんありますよ、ちょっと待っててください」

 マルコさんを見上げながら僕はそう言って、それから鞄の中が少なくなってきたのはすぐだった。僕は鞄の別な蓋を開けて、その中に空になった包み紙をしまった。鞄の中を僕だけでのぞきこむと、プラリネが八個くらいに、それから。
 プラリネは間に合ってよかった。一つはジャンナさんの分で、もう一つのプラリネを僕は取り出した。

「はい、ラティオスの分。手伝ってくれてありがとう」

 僕はそう言って、手の平に乗せた包み紙の上のプラリネをラティオスに向けた。ラティオスは僕と目を合わせた後、自分の目を少し光らせた。

「あっ」

 僕の手からプラリネと包み紙が浮き上がって、包み紙がぱたぱたと折りたたまれて広げられて、何かの形になっていく。僕がラティオスに向けたままの手に包み紙が降りてきて、プラリネはラティオスが小さく開けた口の中へ入った。
 目の光が消えると、ラティオスは庭の空のかなたへと飛び立っていった。残されたのは僕たちと、僕の手の平の包み紙だけ。なんだろう、この形。スワンナやウッウに似ているような気がする。何かのポケモンかな。
 僕がきょろきょろ見渡すと、ラティアスはにんまり笑って、マルコさんは短く鼻を鳴らした。

「お礼って事だよ。ありがたく受け取っとけ」
「はい……」

 そう言われて僕は、ラティオスがくれた包み紙を鞄の底へ優しく置いた。紙でこんなに難しい形を作るって初めて見た。神様だから、いろんな事を知っているのかな。

「で、俺の分は?」
「さっきのは嘘でした。マルコさんの分はないですよ」
「あ?」
「そんなにすぐ怒らないでください。代わりにこれをどうぞ」

 眉間に皺を寄せたマルコさんの前で僕は立ち上がって、鞄から取り出した細長い箱をマルコさんの前で開けた。マルコさんのきょとんとした顔って初めて見た気がする。そのマルコさんが、箱の中身と僕の顔を交互に見た。

「これは?」
「おととい、僕の家に宝石商の人が来たんです。だから、マルコさんにはこれを」

 雲の切れ目と木の枝の合間から差しこんだ太陽が当たって、ネックレスにつけられた宝石がきらりと光った。僕が持つ箱にあるのは、金細工の細長い鎖のネックレスで、真ん中に小さいけど職人さんが削った複雑な形のルビーが輝いている。

「これ、高価(たか)いんだろ? ────家に来る宝石商が偽物を売りさばくわけもないだろうし」
「いいえ。たしかに金細工でルビーがついていますが、金の量は多くないですし、ルビーも小ぶりです。だから、ちょっとした贈りものにと思って」

 僕がそう言うと、マルコさんは鼻から短く息をした後に、「今さら返せと言っても遅いからな」って言って、箱の中からネックレスを取った。本当は、買ってくれたのはお義父さんだから、僕はこのネックレスの値段を知らない。
 少し俯いたマルコさんはネックレスを持った手を首の後ろに回して、それから手を離した。

「どうだ?」

 マルコさんが僕を見る。マルコさんが着ている寝巻きの上、首の下の周りをぐるりとネックレスが一周している。少し短かったかな。だけど、じゃらじゃらした豪華なネックレスより、こういうのがマルコさんに似合っている。どう言えばいいのかな。「品がある」が一番近いのかな。

「すごく似合ってますよ」
「まっ、気が向いた時につけさせてもらう」

 マルコさんは僕にお礼を言わないで、ネックレスを外して箱の中に戻して、僕から箱を受け取った。マルコさんの性格は、少しは分かっているつもり。僕にお礼を言うのが恥ずかしくて、だからネックレスもすぐ取った。だけど、マルコさんの表情はいつもより柔らかい。マルコさん自身は気づいていないかもしれないから、僕は何も言わない。喜んでもらえてよかった。

「それから、ラティアスにもあるよ」

 僕がラティアスの方を向くと、首をかしげるラティアスと目が合った。僕はもう一度しゃがんでから、今度は小さな四角の箱を持って立ち上がった。その箱の蓋を開ける。
 笑顔になったラティアスが鳴いた。マルコさんが箱の中をのぞきこんでくる。
 ラティアスへの贈りものは金の土台にエメラルドが乗った、小さな片方だけのピアス。マルコさんのネックレスのルビーは細かい面があるけど、こっちのエメラルドは楕円の形に整えられてある。

「エメラルドか?」
「はい」
「……もしかして、ラティアスの目と合わせたのか?」
「そんな事ないですよ。たまたまです」

 やっぱり素直になるって恥ずかしくて、僕はマルコさんへとっさに嘘をついた。本当は、僕の家で初めて見た時から、このエメラルドはラティアスの瞳と同じ色だと思っていた。鮮やかで、可愛らしくて、アルトマーレの海と同じ色のエメラルド。

「わっ、ラティアス?」

 箱を持った僕の手に、ラティアスが頭をすりつけてきて鳴いた。ラティアスのすらっとした肌触りのいい頭が、僕の手にすりすりと何度もこすりつけられる。

「つけてくれって言ってんだよ」
「ラティアスは、ピアスを分かるんですか?」
「俺が今教えた」

 やっぱり神様と心で話せるって少しずるいなあ。僕はマルコさんに「ちょっとお願いします」と言って箱を預けてから、ラティアスがくっついてくる手を上着のポケットに入れて、木でできた鞘と柄がついた小さな針を取り出す。今ここでラティアスがピアスをつけてほしいとお願いしてきた時の為に持ってきたもので、やっぱり正解だった。

「ラティアス、少し痛いかも。あんまり頭を動かさないでいてね」

 僕は鞘から針を抜いて、柄を手をつまんだ。たぶんこれで貫けると思う。
 マルコさんが心でラティアスに話したのかは分からないけど、ラティアスが頭を僕の胸もとに近づけたまま、上目づかいで僕をじっと見つめた。少しどきどきするのは、ラティアスの体に穴を開けるからだけじゃないと思う。
 僕はラティアスの頭の、右の耳みたいな場所を触る。さらさらしていて、そんなに厚くない。これなら一思いにいけるはず。

「ラティアス、痛かったらごめんね」

 ラティアスが一度だけ鳴いた。左手をラティアスの右耳の先に添えて、自分の手を刺さないように狙いを定めて、針の先をラティアスの耳にそっと当てる。

「なっ、なんかっ、さくっといきましたよ!? さくっと!?」
「身じゃないところだっただけだろ。穴は開いたか?」
「たぶん……」

 僕のびっくりに、マルコさんは冷静にそう返した。ラティアスに顔を戻すと、ぜんぜん痛がっていなくて、僕を見て笑顔でもう一度鳴いた。

「マルコさん、ピアスを」
「はいよ」

 マルコさんから受け取ったピアスを、ラティアスの耳につける。穴に通してからピアスを少し動かしてみるけど、しっかり穴に入っていて取れそうにない。これなら落ちないだろうし、体を刺したわけじゃないから腫れたりしないはず。それにしても、僕は何に穴を開けたんだろう。
 僕の目の高さより上に浮かんだラティアスが、しきりに自分の右耳を気にしている。そこには小さいけれど、金と緑に輝くピアスがある。

「よく似合ってるよ、ラティアス」

 ラティアスがまた笑った。たぶん僕もちゃんと笑えていると思う。
 ラティアスは池の上まで飛んでいくと、そこに映った自分の顔を見てもっと喜んだ。ラティアスが喜んでくれるなら、僕だって幸せ。
 ラティアスがポケモンたちに、ピアスがついた右耳を見せる。たぶん褒めてもらっているかな。ラティアスの周りにポケモンたちが集まってきて、ラティアスの不思議な力で僕が宙に浮かんで呼び寄せられて、マルコさんを見ると庭の周りを囲む建物に向かっていって、それから今日も合唱になった。

 ラティアスは、僕の下心を見抜いていたのかな。
 それは分からないけど、今日もラティアスは歌わなかった。
 指揮をしている神様の耳に、小さなピアスがきらきらと楽しそうに光っていた。


  ──十月某日 夜──

 オペラの幕間は、貴族の社交の続きになる。みんな、桟敷席から出て、廊下(ホワイエ)でお喋りするのが普通になっている。
 お義父さんの隣で僕は、オペラを見に来た人たちと挨拶をしたり、世間話をしていた。楽しいお喋りにお酒と華やかな服はつきもので、生地職人さんと仕立て屋さんが作ったきれいな服やドレスを着た人たちと、グラスに注がれたお酒を飲んでいる。
 だけど僕は、田舎育ちだから動きにくい服はあんまり得意じゃないし、お酒の味も苦手。僕はちびちびとお酒を飲みながら、いつもより明るく話しかけてくる貴族の人たちの相手をしていた。
 オペラも音楽も好きだけど、あまり知らない人たちと話をするのはそんなに得意じゃない。だけど、これも僕の将来にとって大事な事だから、本当は我慢してお喋りしている。
 僕はホワイエにある窓から空を見上げた。今日は朝から曇りだったから、月も星も見えない。秘密の庭は、ラティアスは何をしているかな。今日のオペラもラティアスに見せてあげたかった。

 お義父さんからあの夜に、カロスへ行く話を聞いてから半年くらいが経った。
 お義父さんは何も言わないけど、そろそろ本当に「これから」を考えなきゃいけない。いつまでも、大聖堂で声楽を習っているだけじゃいられない。先生にもこの頃、「これからの事は考えているのか?」ってよく聞かれる。
 僕だって、考えていないわけじゃない。夢は今でも一流の作曲家だし、故郷に置いてきた本当の家族を忘れた事がない。
 だけど、本当はいつまでも、あの庭でポケモンたちと一緒に歌っていたい。僕が大好きな音楽は、あそこにある。

 僕自身が、心の中でもやもやしている。

 アルトマーレで作曲家になる事は、僕のがんばりしだいでたぶんなれる。オペラの街で作曲家になったら、だれだって一流って認めてくれるはず。だけど、それで本当にそれでいいのかな。
 僕は迷っている。本当の意味で一流の作曲家になりたい僕と、ポケモンたちの音楽仲間でいたい僕が、心の中にいる。迷っているから、だれにもこの話をしていない。先生にも、お義父さんにも、ジャンナさんにも、マルコさんにも、ラティアスにも。
 ラティアスは僕がいなくなるとしたら、どうなるだろう。いつものように笑顔でさよならするのかな。それとも、泣いて引き止めてくれるのかな。
 その時、僕は、どういう決断をするんだろう。
 心の中の考えから逃げるようにして、僕はホワイエを見渡した。

「どうも、こんばんは、────さん」
「ああ、────さん。────もいらっしゃってたんですね」

 僕の隣のお義父さんに、僕が知らないおじいさんが話しかけてきた。お義父さんに紹介されて、僕もおじいさんに挨拶する。
 僕はまた逃げるようにして、貴族の人たちを見渡した。その時だった。

「っ!?」

 大声を出してみんなを驚かせないように、とっさに僕は顎に力をこめた。お義父さんとおじいさんは、おじいさんの体の具合について話していて、僕の事を気にかけていなかった。
 僕たちから少し離れているところで、給仕のブリムオンからお酒のグラスを受け取っている貴族の人がいた。背はそんなに高くなくて、お腹が大きい男の人。すごい華やかな服を着ているから、たぶんどこかの名士だと思う。

 その人の隣に、男の人と腕を組んでいる、まっ赤なドレスを着た女の人がいた。
 いや、違う。

 マルコさんだ。

 マルコさんは目もとにきらきらした飾りがついた仮面をしていて、大きく開いたドレスの胸もとにはたぶん詰めものをして、女の人みたいな胸をしていた。そのマルコさんが男の人の隣で、仮面が隠していない唇はすらりと微笑ませていた。
 いつものマルコさんからは想像ができない表情の下の、首もとには、僕があげたネックレスがつけてあって、僕はそれでマルコさんだと確信した。ネックレスのルビーが、僕に向かってきらりと光った。

 僕は何をしたらいいか、何を考えたらいいか分からなくて、固まってしまった。時間にしたらほんの一瞬かもしれないけど、僕には、僕が見ている先のマルコさん以外は全部止まっているように思えた。

「────?」
「あっ、はいっ」

 お義父さんに呼びかけられて、僕と僕の周りが動きだした。何を話しかけられたか聞いていなかったけど、おじいさんから何かを質問されたみたい。失礼がないように、必死に話を合わせる。そうしながら、僕はまたちらりとマルコさんを見た。
 マルコさんは僕を見ていた。とっさに目をそらした。仮面をつけているから、マルコさんが本当に見ていたか分からないけど、僕は間違いないと思う。
 マルコさんの事を考えないように、僕はお義父さんたちの話に集中する。そうしていると、また別な貴族の人が来て、話がもっと盛り上がった。だけど、僕の頭の中はマルコさんの事を考えたままだった。

 僕が見たのは、見ちゃいけないものだったのかな。少なくてもマルコさんは、こういう事をしているって僕に言っていなかったから、隠しておきたかったんだと思う。
 あの男の人とマルコさんの関係はなんだろう。マルコさんはカストラートだけど、どうして女の人の格好をしているの。ジャンナさんはこの事を知っているのかな。それに、ラティオスと、ラティアスも。

 考えてしまえば考えてしまうほど、どんどん悪い方へ想像してしまう。
 結局、オペラがまた始まっても、僕の心にはぜんぜん響かなかった。


  ──十月某日 昼──

「ああ、俺だ」

 秘密の庭には「心の雫」のところ以外にも、ブランコの前の池の真ん中へ突き出るように伸びた通路の先にパーゴラがある。その「へり」に座ったマルコが、手に持ったパンを二つに引きちぎりながら言った。すごく、なんでもないように。
 マルコさんの前に立った僕は、あの夜の事を質問した事を後悔した。だけど、今さら引き返せない。
 あれから三日しか経っていないけど、僕の頭の中は悪い想像でいっぱいになった。僕じゃ僕を放っておけないくらいに。
 マルコさんがどんな答えを言うかも考えた。できれば、「人違いだ」とか、嘘をついてほしかった。だけど、マルコさんは認めた。この先を、僕は聞かなきゃいけない。僕が黙っていられなかった罰として。

「食うか?」
「……いらないです」

 マルコさんが差し出した片方のパンを、僕は言葉だけで断った。表情をまったく変えないで、マルコさんは片方を口にくわえると、もう片方のパンをばらばらに小さく引きちぎって、池に向かって投げた。水面に浮かんだパンを、コイキングやチョンチーが顔を出して飲みこんで、また水の中に消えていった。

「俺はな、昔は歌い手になりたかったんだよ。この声はその名残り」
「……なんの話ですか?」
「お前が俺を見た理由だよ。最初から聞いた方が分かりやすいだろ?」

 僕は聞きたいけど聞きたくなくて、あえて話が分からないふりをしたけど、マルコさんは全てを話すつもりだった。もうここだけで、僕の悪い予感は当たってしまっている気がした。
 やっぱり聞きたくなかった。だけど、僕は何も言えなくなった。僕は今、どんな顔をしているんだろう。ラティアスとラティオスがいない理由が分かった気がした。

「その当時は、俺と姉さんの両親はまだ生きていて、歌い手になる事を大反対されたんだよ。『自分がどんな家に生まれたのか分かっているのか』ってな。そんな風に叱られたら余計意固地になる。だから俺は、親の反対を押しきって玉を取った。今のお前と同じように、当時の大聖堂の歌い手の弟子になった」

 そこまで言って、マルコさんは持っていたパンを一口かじって食べた。飲みこむまで、僕はマルコさんを見たまま動かなかった。逃げだしたかったけど、ここで逃げたら全てが壊れるような気がした。

「そんなに難しい顔するなよ」
「……」
「なんか言えよ。まあ、ここから先はお前が想像してるだろう通りなんだけどな」
「……もし、マルコさんが辛かったら、もう何も聞きません」
「お前、嘘つくの下手だよな」

 マルコさんが、また一口パンを食べた。そのパンを持った手を、口もとから膝の上までだらんと下げてから、マルコさんは続きを話し始めた。

「あの時は親に『ざまあみろ』って思っていたが、正しいのはあっちだった。この島じゃ、俺に歌い手としての居場所はなかった。悔しいから言ってなかっただけで、お前の方がお前の歳の頃の俺より上手いぞ」
「……」
「褒めてんだけどな」

 僕は「ありがとう」と言う気持ちさえ湧いてこなかった。マルコさんは短くため息を一つついた後に、太陽の光で輝く池を見ながら言った。

「俺はどんな脇役だって引き受けた。なんとか居場所を見つけたかった。だが、カストラートなだけじゃアルトマーレでなんの取り柄にもならない。そんな俺と違って、俺の代わりに姉さんは番人になる決心をした。それがだいたい五年前」

 僕は前に、マルコさんの歳を聞いた事がある。たしか、今年で二十五になるはず。カストラートになったのが僕より若い頃だから、マルコさんは何年も歌い手を目指していた事になる。
 そんなに長い間、歌い手になりたかったのになれなくて、田舎育ちの僕がぱっと現れて、ポケモンたちと歌うようになった。
 その痛みを僕は分からない。僕が想像できるより、間違いなく強い痛みだ。

「歌い手としての俺は三流以下だったが、生まれつきラティオスやラティアスと念話できた。だが、姉さんにはそれがなかった。笑えるよな。その頃には母は病気で死んでしまっていて、体が弱い父親も先が長くなかった。俺と両親は、俺が歌い手になろうとした頃から縁を切ったようなもんだったが、その父親から頼まれた。『姉さんが帰ってくるまで、番人の代わりをしてほしい』ってな」
「……それが……僕が初めて見たマルコさんですか……?」
「そうだな、その前にちょっとあるが。番人の代わりを引き受けた俺は、ある事を思いついた。それまで何回かやった事があるが、もっと多くやり始めた」

 マルコさんがまたパンをかじった。それから少しの間、僕もマルコさんも黙ったままで、その後に続きを喋り始めた。

「貴族の男と寝るようになったんだよ。教会は体を売りもんにする事を禁止してるが、父親も死んでしまったから番人は俺にしかできない。黙認だな。姉さんが帰ってくるまでに、どこかの貴族に拾われれば成功。女と違って、いくらやっても子供ができない俺なら、どこかの性欲馬鹿な貴族にきっと拾われると思ってた」

 僕の想像は、悔しいけど当たっていた。
 僕は、マルコさんになんて言えばいいか分からない。「当然の報い」なんて考えてもいないし、「辛かったね」なんて安っぽい同情も間違っている気がした。僕は、僕自身がマルコさんをどう思っているか分からない。本当は、あわれんでいるのかもしれない。だけど、それを口から出すのはしなかった。
 マルコさんがパンを食べ終わった。手についたパンのかけらを、両手を叩いて落とす。また池を見た。

「だけど、俺はここでも間違った。子供がいなけりゃ貴族との関係はその日の夜だけだし、歌い手になるって夢も、もうどこかに行っていた。金と生活の事ばかり考えて、夢なんてどうでもよくなっていた。姉さんが帰ってきて、いよいよ俺の立場が怪しくなった。お前が行きそうなオペラは行かないようにしてたが、あの日が最後の挑戦だった。結局、お前に見つかったし、あの親父とは尻を掘られただけ。俺には、何もない。きっちりラティオスやラティアスと話せるようになった姉さんが帰ってきたから、俺はもう用済みだ」

 庭の池を見ていたマルコさんが僕を見た。その顔は、いつもと変わらないように見えたけど、僕は、マルコさんは心の中で泣いていると思った。

「近々、俺はこの街を出る。それなりに金は貯まってるしな。アルトマーレは、俺を必要としていない」
「……ジャンナさんは、今の話を知ってるんですか……?」
「知ってる、ラティオスとラティアスが話した。それで、お前の髪を切ってる時に姉さんが帰ってきたあの日の夜、大喧嘩だった。姉さんは喧嘩の最後に泣きながら『辛かったら、いつでも戻っておいで』って言ってくれたけど、俺はもう二度と戻ってこないだろうな」
「……どうしてですか?」
「そりゃあ、自分の我儘で散々好き勝手やったのに、そういう時だけ姉さんに頼るなんて都合がよすぎる。俺にだって、尊厳みたいなのはある」

 マルコさんが足もとに置いていたワインの瓶を持って、そのまま瓶の口をくわえて飲んだ。ワインが少しこぼれて、マルコさんが着ている法衣みたいな服に小さな染みを作った。

「ラティアスや、ここのポケモンたちも置いてくんですか……?」

 ワインを持った手で、マルコさんが口をぬぐった。

「ああ、置いてく。姉さんがいるし、お前もまだいるだろ? 俺が出てっても、少しは寂しがるだろうが、なんの問題もない」

 マルコさんは笑った。マルコさんの笑顔は上手で、悲しみなんてぜんぜん見えない顔をしている。たぶん、これまでたくさんの夜にそうして笑って、それで上手くなったんだと思う。

 僕は「はい」とも「いいえ」とも言えなくなった。
 それから、ラティアスとラティオスが、マルコさんの後ろで気づかれないように浮かんでいて、とても心配そうな顔をしている事も言えなかった。


  ──十一月初旬某日 午前──

 今日の前の日まで、風邪をこじらせてしまって、それからマルコさんの事が気になって、僕だけが前に家族で約束していた────のオペラを見に行かなかった。

 今日はだいぶ体がよくなって、大聖堂の音楽室に来たら、先生が知らない男の人と話をしていた。

 身なりがしっかりしている人で、たぶんどこかの音楽家だと思った。

 だけど、少し違った。

「おはようございます……はじめまして」

 僕が挨拶すると、その男の人は、僕に笑顔で挨拶を返した。

「おはよう。君が────くんだね?」

「はい……そうですが……」

「私は────。────くんに少し提案があって来たんだ」

 その人は、僕が見に行けなかったオペラを作った、皇帝様に仕えているマエストロ・────だった。


  ──十一月初旬某日 夜──

「初めての事って何かと心配しちゃうけど、────くんなら大丈夫だって。しかも、マエストロ・────からのお誘いでしょ?」
「そうなんですが……」
「それに、────くんは乗ったんでしょ?」
「はい……そうでもあるんですが……」

 秘密の庭にあるブランコにジャンナさんが座っていて、小さく揺らしている。僕はその横に立っていて、ジャンナさんから目を離して庭を見渡した。
 木の枝から漏れた月明かりが、庭のいたるところを照らしている。たった何日か来れなかっただけなのに、僕の髪の間を流れるそよ風まで、全部が幻想的に見える。神様の住む庭だから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。
 高い木の根もとや、池の上に浮かんで、ポケモンたちが静かに眠っている。日が落ちるまでみんなで歌っていたから疲れたのかな。僕もたくさん歌って疲れたけど、心配な事が多すぎて眠くない。お義父さんには「今日は帰らないかも」と言ってからここに来た。たぶんお義父さんは、僕の行き先を分かっていたから止めなかったんだと思う。お義父さんから、「明日は大切な出発の日だから、その事だけは忘れないように」とだけ言われた。

「私もこう見えて、実は昔は心配性だったんだけどね」

 その言葉で、庭を見渡していた僕はジャンナさんを見た。

「ジャンナさんが……ですか?」
「今、『似合わない』って思ったでしょ?」
「そんな事はないですが……」

 図星を当てられた僕は、視線をそらしてジャンナさんから逃げた。僕が見えないところで、ジャンナさんがけたけたと笑った。

「私だって、最初から強かったわけじゃないし、今でもそんなに強くないし。でも、修行中に出会った人たちやポケモンたちのおかげで、少しは弱虫じゃなくなったかな」
「そうなんですか……?」
「そういうもんだよ」

 僕はまだジャンナさんを見れなかった。ジャンナさんを見ないまま、言葉だけを返す。
 僕より先に、ジャンナさんは番人になる修行をしてきて、たくさんの出会いと別れを経験してきたんだと思う。どこかでだれかと恋をしたり、とても住み心地がいい街があったかもしれない。だけど、「マルコさんの代わりに、アルトマーレの秘密の庭の番人になる」という使命があったから、今ここにいる。
 僕はまだ、僕の故郷を出た一回しかなくて、明日でようやく二回目。だけど、たったそれだけなのに気持ちが落ち着かない。

「ジャンナさんは……修行の中で、アルトマーレに帰りたくないって思った事はありましたか……?」

 僕はようやく、ジャンナさんをまた見つめた。ジャンナさんは、足でブランコを止めて、おでこを掻きながら言った。

「正直ね、何回もあったよ。この島やポケモンたちは大好きだけど、マルコも、だけどもっと大切にしたいものもたくさん見つけた」
「でも……戻ってきたんですよね?」
「まーね!」

 そう言って、ジャンナさんはブランコの縄を持ったままお尻をずらして、草の上に背中からゆっくり仰向けに寝転んだ。

「こっちに来てよ」

 ジャンナさんの言葉で、僕はジャンナさんの横に座った。僕が地面に座ると、一匹のネマシュが僕の膝の上に来て、ぽわぽわと光った。
 ポケモンたちには、ラティアスとラティオス以外にはお別れの挨拶ができたと思う。神様たちの事は、今日はまだ見ていない。だけど、必ずここに帰ってくるよね。明日には僕はいなくなるから、帰ってくるまでここで待っているつもり。明日からは何日かかけて「音楽の都」まで行くけど、旅の最初から疲れていてもいいから、もう一度会いたい。

 二日前、大聖堂で待っていたマエストロ・────は、「私と一緒に、『音楽の都』に来てほしいんだ」と僕に言った。つまり、マエストロはお義父さんから僕を引き取るつもりでいた。
 詳しく話を聞いてみると、マエストロも貧しい暮らしを助けてもらって今の地位になって、「この島で君の話を聞いたのは、神の思し召しに違いない」って僕に言った。
 その日の午後に僕の家で、お義父さんとマエストロと僕で話し合って、僕はマエストロについていく事を決めた。
 お義父さんもマエストロもとっても喜んでいたし、僕もがんばって笑顔を作った。だけど、僕の頭の中は秘密の庭の事で、ラティアスでいっぱいだった。
 僕だけですぐに決めなきゃいけなかった。マエストロはオペラの公演が終わったから、すぐにでも「音楽の都」へ帰らなきゃいけない。待ってくれるとしたら、僕がマエストロについていく為の荷造りをする時間だけ。あの時に、この庭へ来て相談する暇はなかった。
 だから、僕だけで決めた。マエストロと一緒に「音楽の都」へ行く以上の幸運なんて、この先ないと思った。お義父さんに拾われた事やラティアスたちに出会った事だって、奇跡みたいなものだけど、僕はマエストロに「お願いします」と言ってしまった。
 その時、僕の心の中の天秤は、大切なものの重さを比べる事を嫌がった。天秤は僕の中にあるものだから、僕自身がまた逃げた。
 「仕方がないよ」って言い訳して生きるのが嫌で、マルコさんに化けたラティオスを追ったのに、「仕方がないよ」って言い訳してラティアスの笑顔を心の奥にしまいこんだ。
 僕はやっぱり、ラティアスと仲よくなる資格なんてなかった。だけど、お別れだけはちゃんとしなきゃいけない。ラティアスが僕の事なんて忘れられるように。そして、僕が音楽だけを見て生きていくように。

「だけどね、なんて言ったらいいかな。これは私の勝手な想像なんだけどね」

 肘を曲げた先の両手を枕にしたジャンナさんが、少しまた寂しそうだけど、微笑みながら僕を見た。

「『離れていても繋がってる』って言えばいいのかな。ありきたりな台詞だけどね。だけど、そう思えたから、私はアルトマーレに帰ってこれた」

 ジャンナさんが、にいって笑った。僕は、考えをそのまま口に出してみる事にした。

「だけど、離れたくないくらい大切だったんですよね……? ジャンナさんは、たしかにアルトマーレに帰ってきましたけど……話がちぐはぐなんじゃ……?」
「それって、『結局そこまで大切な事じゃないじゃん』って言いたい?」
「そっ、そんな事は……!」

 ジャンナさんが上半身だけ体を起こして、「顔に出てるぞー」って言いながら僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。結構恥ずかしくて、僕はまた目をそらした。

「いや、でも、たしかにそういうものを置いてきたし、そういう意味で、本当はそんなに大切じゃなかったかもしれない」

 僕の頭に置いたままの手が止まって、僕はまたジャンナさんと顔を合わせた。ジャンナさんの表情は、また少し寂しそうだった。

「だけどね、今でも大切に思っているし、これからだって忘れないと思う。全部私の勝手だけど、『離れていても繋がってる』って、そういう事だと思う」

 ジャンナさんが僕から手を引っこめて、さっきの体勢でまた地面に寝転んだ。その様子を、僕は黙ったまま見守った。
 「難しいですね、いろいろと……」って返そうとした時、ジャンナさんの目つきがちょっとだけ鋭くなった。

「でも、マルコは違う。マルコは、本当にアルトマーレに帰ってこないと思う」

 その言葉で、僕は忘れていたわけじゃないけど、マルコさんの事を思い出した。
 マルコさんとは、「あの日」から会っていない。だから、僕がこの街を出るのをマルコさんは知らない。ジャンナさんの話では、マルコさんは貴族の人たちへの挨拶へ行ったり、ジャンナさんと番人の引き継ぎをして、マルコさんもアルトマーレを出る準備をしているみたい。
 今日も挨拶に出かけていて、今が最後なのに、僕はマルコさんにお別れができなかった。
 もしかしたら、マルコさんは今日も体を売りものにしているのかもしれない。だけど、僕はマルコさんを止める権利はない。僕がひとりでマエストロについていく事を決めたように、マルコさんにはマルコさんの生き方がある。
 お別れの挨拶ができなかったのはとっても残念だけど、ジャンナさんには「マルコさんによろしく」と伝えてある。そのマルコさんも、もうすぐジャンナさんやこの庭のポケモンたちとお別れするんだけど。

「ジャンナさんは……それでいいんですか……?」
「いいなんて思ってないよ、私も」

 ジャンナさんがまた体を起こして、今度は立ち上がった。

「だけど、マルコを引き止めるのは、なんだか間違いに思えてきて。だから、少し頭を冷やしてきたら、ひょっこり戻ってきてくれたら一番いいんだけどね」

 ジャンナさんが振り返って、座ったままの僕を見て笑った。

「だけどもしかしたら、どこかで私みたいに、アルトマーレに戻りたくなくなるくらい大切なものが見つかるかもしれない。そうなったら寂しいけど、マルコにはいいんだと思う」
「それも、『離れていても繋がってる』って事ですか?」
「そーゆー事」

 ジャンナさんがにんまり笑うのを見ながら、僕は立ち上がった。僕の膝の上で光っていたネマシュは、どこかへゆっくり飛んでいった。
 やっぱりジャンナさんは、僕よりいろいろなものを見てきたんだと思う。いつか僕も、ジャンナさんみたいになれるのかな。

 僕がジャンナさんの横に並ぶと、空からまっすぐ庭に飛んできたラティアスとラティオスが、ブランコがある池の水面の上に止まって浮かんだ。神様たちを、月明かりが照らしている。
 僕たちの話が終わるのを待っていてくれたのかな。僕がラティアスを見ると、ラティアスはまっすぐ僕を見ていた。顔は笑っていない。僕はラティアスにどうお別れをいいか分からなくて、顔ごと目を俯かせてしまった。

「ありがとうね、────くん。ここのポケモンたちと、マルコと仲よくしてくれて。体に気をつけてね」

 ジャンナさんがそう言って、僕を抱きしめた。僕こそ、みんなに仲よくしてもらったから、「はい……こちらこそ……」と言いながら抱き返した。

「────くんなら、本当に大丈夫。私も、ここのポケモンもみんな、────くんを忘れないから。きっとマルコも」
「はい……」

 本当に今日で最後なんだ。今日の午前中まで荷造りをしていたのに、日が落ちるまでポケモンたちとお別れの合唱をしていたのに、今になって寂しさの実感が強くなった。僕の目から勝手に、涙がぽろぽろこぼれてくる。
 ジャンナさんと抱き合いながら、ラティアスをのぞくと、ラティアスもラティオスと抱き合っていた。その意味を、急に強くなった寂しさに襲われた僕は分からなかった。
 ジャンナさんが僕から離れると、ラティアスとラティアスも体を離した。僕から離れたジャンナさんが、にんまりと笑った。

「それじゃあ、後はふたりだけの大切な時間だから! それじゃあ、ラティオス! 石板のところまで競走して、負けた方が肩揉みね!!」

 そう言って、ジャンナさんが勢いよく走り出した。僕は最後の「ありがとう」さえ言えなかった。ラティオスも勢いよくジャンナさんの後を追って、ラティオスが飛ぶ時にできる風に煽られてジャンナさんが盛大に転んだ。僕が声を出す前に、ジャンナさんはラティオスに手伝ってもらいながら立ち上がって、また駆け出していった。

 そんなジャンナさんとラティオスを、僕がぽかんと見つめていると、いきなり腕の袖を引っ張られた。
 ラティアスだった。ラティアスは、何かを急ぐような顔をして、僕の腕を強く引っ張った。

「ラっ、ラティアス!?」

 僕がよろけてもお構いなしで、ラティアスは引っ張り続けた。転ばないように足を動かすと、自然と駆け足になった。
 ラティアスに引っ張られるまま、僕たちは月明かりの陰になった一本の高い木の根もとに来た。僕はそこで腕を離された。

「どうしたの、ラティアス!?」

 僕が息を整えながら、ラティアスに聞く。ラティアスは何度も鳴いて、僕の前で宙に浮かびながら仰向けになって、顔を僕に向けた。
 僕には、ラティアスの顔だけじゃなくて、ラティアスの尻尾のつけ根も向けられていた。そこには、今まで僕が見ないように努力していた、ラティアスのお尻の穴と、お尻の穴と違って横に伸びた割れ目があった。


  ──同日同刻 神様の歌声──

 「そういう事」をした経験がない僕でも、生きものの体の作りと、その使い方は知っている。ラティアスだって神様だけどポケモンだから、そういう体の作りをしていて当たり前。だけど僕は、神様のそういうところを見るのは、なんだか罰当たりな気がしていたから、今まで目をそらしてきた。
 本当は、僕はずっと気になっていた。ラティアスに分からないように、本当は気づいていたのかもしれないけど、ラティアスの大事なところを見ていた。ラティアスの可愛らしいお尻の穴や横向きの筋を見ると、僕の大事なところが元気になった。僕はそれをずっと隠してきた。
 たぶん、それはラティアスだから。この庭の他のポケモンの大事なところを見ても、なんとも思わない。さっきだってジャンナさんに抱きしめられたけど、ジャンナさんは好きだけど、ラティアスに感じる「好き」とは違うから、僕の大事なところはそのままだった。

 ラティアスの大事なところが、僕の大事なところの前で浮いている。小さなお尻の穴がひくひくと動いて、横の割れ目からは表面に水っぽいものがうっすら浮かんでいた。僕は息を呑みながら顔を上げて、ラティアスを見た。

「ひゃん、ひゃあん」

 ラティアスはいつもと違って、僕に何かをねだるような目つきで、甘い声を出して僕を見ていた。僕がそうしてほしいと思っていないのに、服の中で僕の大事なところが大きくなり始める。

「ラティアス……」
「ひゃあん」

 僕はラティアスの言葉が分からないけど、ラティアスが言いたい事が分かった。
 ラティアスは、僕と「そういう事」をしたいと思っている。僕に対する「好き」は、そういう意味の好きだった。
 なんとなく分かっていたつもりだったけど、僕は自分に自信がなくて、だから逃げてばかりだった。ラティアスと「そういう事」がしたいのに、僕は自分からラティアスに言えなかった。やっぱり、今もラティアスから誘われている。
 ラティアスは今、僕と「そういう事」がしたいと思っている。それはすごく嬉しいけど、僕は「それ」とは違う事を言った。

「ラティアス……僕、明日から遠くに行くんだ……ラティアスとは……もう会えないかもしれないんだよ……」
「ひゃあん」
「だから……ごめんなさい……こういう事はできない……僕は……」
「ひゃあ、ひゃん」

 ラティアスは僕を見つめたまま、僕に自分の大事なところを見せつけたまま。ラティアスは僕の言葉を分かるかどうか分からないけど、僕はラティアスがそんなに僕と「したい」って事は分かる。
 だけど、僕はやっぱりできない。神様の大事なところを目の前にして、自分の大事なところも大きくさせているのにうじうじしてるって、だれかが見たら間抜けに思うかもしれないけど、僕はラティアスとできない。
 ラティアスと僕に、「次」はないかもしれない。それは僕の見当はずれじゃない。マエストロについていくって事は、マエストロの弟子になるって事。これからもっと勉強して、もしかしたら皇帝様にも会うかもしれない。そうなったら、もっと忙しくなる。アルトマーレには、いつ帰ってこられるか分からない。本当にもう会えないかもしれない。
 ラティアスと僕が「そういう事」をして卵ができるわけじゃないと思うけど、ラティアスにもう会えないかもしれない僕が、ラティアスを汚せない。たしかに僕は意気地なしでだけど、「そういう事」は軽はずみにやっちゃいけない。
 ジャンナさんがそうだったように、これからたくさんの出会いと別れがあって、そのたった二回目で、僕の大好きなポケモンを汚しちゃいけない。

「分かって……ラティアス……ラティアスなら分かるよね……?」
「ひゃん、ひゃん」

 僕は少し後ずさって、両手の平を木の幹につけた。僕が下がった分だけ、ラティアスが僕に近づいた。
 僕がほしかったものが、僕の目の前にある。だけど、これは僕が捧げられていいものじゃない。

「ラティアス……分かって……お願いだから……!」
「ひゃん、ひゃん!」

 ラティアスの鳴き声が少し強くなった。僕と同じように、ラティアスもゆずらない。いつもは可愛く笑っているラティアスのエメラルドみたいな目が、僕を見て、僕をほしがっている。月の光が当たらないここでも、ラティアスのピアスについているエメラルドはエメラルドだって分かる。

「ラティアス……駄目だよ……」
「ひゃあん!」
「ラティアっ!?」

 どうしてもラティアスは引かなくて、僕が少し強く言おうとしたその時、いきなりくるりとお腹を地面に向けたラティアスが僕にもっと近づいて、僕の口を自分の口でふさいだ。
 僕が力をこめて唇を閉じていると、ラティアスの舌が僕の唇にそってなめた。僕は目を閉じて、歯も食いしばって、ラティアスの舌に我慢した。ラティアスはそれでも、口と口をくっつけたまま鳴いて、僕の唇をなめ続けた。ぎゅっと閉じた僕の目から、また涙がにじみ出てきた。
 どうして、僕はこんなに弱いんだろう。我慢しなきゃいけないのに、ラティアスがほしい。

 そう考えちゃうと、もう駄目だった。ラティアスに我慢していた唇を開けて、ラティアスの舌に僕の舌をからめる。ラティアスも、僕の舌にもっとからめてきた。
 何度も口と口を吸いつけながら、僕はラティアスの首を抱きしめる。そのまま、目を閉じたまま両手を上げていって、右耳のピアスのところまで来ると、口と口をくっつけたまま何度も撫でた。
 ラティアスが、自分の体を僕にくっつけて、両手で僕の腰を抱いた。ラティアスの胸に、服の下の僕の大事なところが当たっていて、ちょっと恥ずかしい。
 もしかしたら、他のポケモンたちが僕たちの事を見ているのかも。だけど、僕はラティアスとこうしていたい。

 どれくらい時間が経ったか分からないくらい、僕とラティアスは口づけをしていた。それから、お互いゆっくりと顔を離す。
 ラティアスは、まだもの足りないような顔をしていて、だけど微笑んでいた。たぶん僕も、同じ顔をしていると思う。ううん、たぶん間違いないと思う。

「ラティアス……本当に僕でいい……?」

 僕はラティアスにそう言った。ラティアスは返した。

「ひゃあん」

 やっぱりラティアスの言葉は分からないし、ラティアスが分かっているのかも分からないけど、その嬉しそうな顔が答えなんだと思った。
 僕は自分のおでこを、ラティアスのおでこにつける。そして目を閉じた。この事に、なんの意味があるか分からないけど、こうしておきたかった。
 ラティアスから離れて、目を開けると、ラティアスも目を開けるところだった。それだけでなんだか、僕の中の嬉しさがまた大きくなった。

 僕は下に履いている服に、両手をかけてずり下げる。十一月の夜は寒いけど、僕にとってはどうでもよかった。
 ラティアスは、僕が大事なところを出すと、宙に浮かんだ体を少し沈ませて、僕の大事なところを目の前にしてまじまじと見つめた。普段は隠しておくところだから、ポケモンに見られるのも結構恥ずかしい。それに、ラティアスだからもっと恥ずかしい。

「っう!? ラティアス!?」
「ひゃあん」

 いきなり気持ちよくて、僕は体をびくんと一回はねちゃった。僕の大事なところに短く息を吹きかけたラティアスは、楽しそうに少し飛び回った後に、もう一度僕のところにやってきた。
 ラティアスが僕に背中を向けて、尻尾の下に隠れているけど、ラティアスの大事なところが僕の大事なところの近くにある。少しでも僕が腰を動かせば、先っぽが割れ目に当たりそうなくらい近い。
 僕は一回だけ深呼吸して、ラティアスを見た。ラティアスも振り返って、ものほしそうな目で僕を見てる。
 やっぱり、僕は駄目駄目なんだと思う。だけど、僕とラティアスがお互いに好きなら、「こういう事」をしてもいいんだと思う。ただの言い訳かもしれないけど。

「ひゃああああ」

 僕が右手のひとさし指でラティアスの割れ目をなぞると、ラティアスが気持ちよさそうに鳴き声を上げた。ううん、気持ちいいんだと思う。僕の大好きな神様は目をつむって、可愛らしい声で鳴いた。

「さっきのお返しだよ」
「ひゃあ!?」

 僕はそう言って、ラティアスから出たもので濡れた指で、ラティアスのお尻の穴をくりくりとこねくり回す。ラティアスは少し驚いたけど、僕にされるがままで、僕の腕の動きを見ている。この体勢じゃ、自分で自分のお尻を見れないはずだけど、もしかしたらラティアスは不思議な力を使って見ているのかもしれない。

「ひゃあ、ああ、ひゃあ」

 僕がお尻の穴をくりくりする動きに合わせて、ラティアスの口から鳴き声が漏れる。いじらしい顔でラティアスが僕を見るけど、僕は笑顔を返すだけで何も言わない。
 空いている左手で、ラティアスの橙色のお尻を撫でる。さらさらでぷにぷにしていて、とっても触り心地がいい。お尻の穴をいじめながらお尻を撫でるから、体が少し動いて、僕の先っぽがラティアスの割れ目に当たったりする。その感触も、とっても楽しい。

「ひゃああ!?」

 僕はそうしてみたくなっちゃったから、ラティアスのお尻に指を入れてみちゃった。ラティアスはすごく驚いたけど、嫌がらなかった。

「ごめんね。でも、ラティアスのお尻って可愛いから」
「ひゃあ、ひゃあん」

 僕の顔を見て、ラティアスが笑顔で鳴く。もしかしたら、僕がラティアスのお尻を見ていた事を言われているのかもしれない。
 僕は指を引き抜いて、自分の顔の前まで持ち上げた。僕の手に、汚いものは何もついていなかった。ラティアスがあの時ラティオスと抱き合ったのは、やっぱり初めから僕と「こういう事」をしたいからで、その準備までしていてくれていたみたい。
 ラティアスを言い訳にしたくなくて、僕は僕に、「僕が我慢できなかったから」と謝った。それでも。僕は右手を下に戻す。

「ラティアス、こっちでいい?」

 僕はそう言いながら、右手を添えた先っぽをラティアスのお尻の穴に当てた。さっきまでいじくり回していたから、当てただけでこのまま呑みこまれそうって思っちゃう。
 やっぱり、「僕が我慢できなかったから」っていっても、ラティアスの本当に大事なところは汚せない。でも、どうしてもラティアスと一つになりたいから、出すところに入れちゃうんだけど。

「ひゃあ!」

 そんな僕を見て、ラティアスがまたいじらしい目で見てきた。だけど、たぶん怒っていないと思う。ごめんね、我儘ばかり言って。口にはそう出さないけど、僕は心の中でラティアスにそう謝った。

「いくよ」
「ひゃん」

 ラティアスに見つめられながら、僕は半歩のさらに半分だけ前に出た。それだけで、ラティアスのお尻は僕の大事なところを、根もとまで呑みこんだ。

「ひゃん!」
「痛かった!?」
「ひゃあああん」

 ラティアスが気持ちよさそうな顔で返してきたから、たぶん大丈夫だと思う。
 ラティアスの顔を見て、ラティアスのお尻の横に手を当てて、僕は腰を動かし始めた。

「ひゃあ、あん」

 ぐちゃぐちゃと、いやらしい水音が鳴る。ラティアスも鳴いた。僕も、ラティアスの中は声が出そうになるくらい気持ちよかった。
 出すところに入れられたラティアスは、とっても可愛かった。僕は腰を動かし続ける。

「ひゃあ、ひゃ!」

 さっきよりも、ラティアスの声が大きくなる。目をぎゅっとつむって、口を大きく開けている。我慢したり、口づけをしたり、お尻をいじめられたりで、ラティアスはもうすぐ限界なのかもしれない。そう考える僕も、もうそんなにもたない。

「ラティアス……」
「ひゃあん!」

 僕はラティアスの首もとに腕を回して、翼の間に寝そべるような体勢になる。それでも腰は止めない。

「ひゃ……! ああん……!」

 そんな僕と、目を開けたラティアスの視線が合う。だけどこの格好じゃ、お互いの口と口が届かない。僕が笑うと、ラティアスも笑う。それがもどかしくて、楽しくて、気持ちもよかった。

「ひゃああ……!」
「ごめん……ラティアス……!」
「ひゃ……!」

 ラティアスの限界まで我慢しようとしたけど、僕もそろそろ限界みたい。ラティアスの体をぎゅっと抱きしめて、今までよりも速く腰を動かした。やっぱり口づけできないのがもどかしい。気持ちよさしか感じられない僕の体に命令して、ラティアスの顔に右手を伸ばす。息が荒いラティアスの左のほっぺに触れた。ラティアス、本当に。

「ラティアスっ……!!」
「ひゃああっ!!」

 そこで、僕とラティアスは限界だった。僕はラティアスに片手でぎゅっと抱きついて、大事なところから種が出る気持ちよさしか考えられなくなった。

「っえ!?」

 いきなり、体ががくんと落ち始めた。僕が目を見開くと、ラティアスの体が地面に近づいていた。たぶん、限界で不思議な力が切れっちゃったんだと思う。

「うぐっ!」
「ひゃ!」

 僕の足はラティアスのお腹に下敷きになって、上半身はラティアスの背中に寝そべったまま地面に落ちた。僕もラティアスも、それで情けない声を出しちゃった。
 僕が急いで草の上に手を立てて、上半身を浮かす。ラティアスは目を閉じて、地面にだらんと首を伸ばしたまま。ラティアスを見渡すと、どこも怪我をしていないみたいだから、気持ちよさの余韻に浸っているんだと思う。人間とポケモンじゃ、気持ちよさの長さに違いがあるって、前にお義兄さんが教えてくれたっけ。なんだか、ちょっとだけずるいなあ。
 ラティアスの体の下敷きになった足は抜けなくて、種を出して元気じゃなくなった僕の先っぽが、ラティアスのお尻の中でしぼんでいく。気がつくと、大事なところとその周りがすごくぐちゃぐちゃしていた。

「ラティアス?」

 大きく息を一回吐いて、ラティアスが目を開けた。足の身動きが取れなくて、腕を立てたままの僕と目が合う。
 ラティアスがにっこり笑った。僕もつられて笑っちゃう。その瞬間だった。

「ひゃあー、あー、ああー」

 ラティアスがもう一度瞳を閉じて、草の上に首を寝かせたまま、きれいな声で小さな歌を声に出した。鈴のようなラティアスの声の、小さな小さな歌。だけど、僕の耳にはしっかり届いていた。

「ひゃあ、あー、あー、ひゃあー」

 とっさに僕は、僕たちの周りを見渡しちゃった。ジャンナさんとラティオスがそうだったように、いつの間にか庭のポケモンたちの姿は見えなかった。
 あれだけ聞きたかったラティアスの歌声が、僕のすぐ目の前で奏でられていて、それを僕しか聞いていない。こう言っちゃなんだけど、その歌声をひとりじめしている事に、僕は何よりも嬉しかった。

「あー、ひゃー、あ、あー、あん?」

 目を開いたラティアスが僕を見て、少し首をかしげた。なぜかは分からないけど、ラティアスが僕にも歌ってほしいって分かった。
 大事なところあたりが大変になっているけど、僕はそれどころじゃなかった。ラティアスの声は、一度聞いたら忘れるわけがない。僕は少しだけ息を吸いこんだ。

「あー、あー、ああー」
「ひゃあー、あー、ああー」

 僕の歌声に、やっぱりラティアスも合わせてきた。だけど、声の高さがさっきよりも高い。ラティアスは僕に歌ってほしくて、さっきは僕の方を歌ったみたい。
 つまり、ラティアスとのデュエットだった。

「あっ、あー、あー、あー」
「ひゃあ、あー、あー、ひゃあー」

 初めてラティアスと一緒に歌う。こんな格好だけど、嬉しくてどうにかなっちゃいそう。また涙がこぼれてきた。嬉しいのに、嬉しいから泣きたくなる。

「あー、あー、あ、あー」
「あー、ひゃー、あ、あー」

 神様とのデュエットは、たったそれだけだった。だけど、僕には最高の思い出だった。そう思っちゃうと、また寂しさが襲ってくる。泣きたくないのに、涙が止まらない。僕は片手だけで体を支えて、片手で目をぬぐう。

「あっ、ありがとう……ラティアス……」

 僕ががんばってそれだけ言うと、ラティアスは嬉しそうに「ひゃん」って鳴いた。


  ──翌日 朝──

 気にならないほどだったけど、今日は小雨が降っている。

 僕は、迎えにきたマエストロと一緒に家の外に出た。

 僕の家の前には、アーマーガアと、アーマーガアが持ち上げて運ぶ為の車輪がない馬車が停めてあった。

 僕たちが出てくると、アーマーガアの乗り手さんと話していたお義父さんが近づいてきた。

 何も言わず、お義父さんと抱きしめ合う。

 その間、マエストロは隣で待ってくれた。

 僕はお義父さんと誓い合う。

 「いつでもお前を待っている」という事と、「今度帰ってくる時は、必ず一流の音楽家になって帰ってくる」という事を。

 それから、お義父さんと離れて、マエストロと一緒に馬車へ向かって歩き出す。

 アーマーガアの乗り手さんが、馬車の扉を開けた。

 この島に来たのが去年の十二月の終わりくらいだったから、だいたい一年くらいの間だった。

「マエストロ、ごめんなさい。お待たせしてしまって」

 馬車に乗りこもうとしたマエストロは僕に振り返って、微笑みながら言った。

「私も今まで、今でもたくさんの人に迷惑をかけているからね。これくらいなんでもないよ」

 マエストロが馬車の中に入って、席に座った。

 僕も座って、扉が閉められたら、もう二度と引き返せない。

 もちろん、ラティアスをここに残していく事も、心の奥では自分で選んだ運命に納得していない。

 だけど、ラティアスとは「またいつか必ず会おうね」と、昨日の夜に約束した。

 ラティアスとは別に、僕には、まだ会っていない人がいる。

 その人がいるから、まだ行けない。

「あっ、あの、マエストロ!」

「どうしたのかな、────くん?」

 僕の声を聞いて、マエストロが馬車から顔を出した。

 僕は、両手を握りしめて言った。

「もう一つだけ……迷惑をかけていいですか?」

 マエストロは一流の音楽家らしい、優しいけど厳しい目つきをして僕を見た。

「それは、君か音楽に関係しているかな?」

 僕は、自信をもって答えた。

「はい、音楽に関係している事です」

 マエストロの目つきがさらに変わって、はっきりとそう言った。

「そういうのは、迷惑とは言わないよ」

 マエストロの答えを聞いた僕は、「会ってほしい人がいるんです」と言って、マエストロの手を掴んで走り出した。

 驚くお義父さんと乗り手さんには振り返りながら、「すぐに戻ってくるから!」と叫んで。

「マエストロ、ごめんなさい! 走らせてしまって! でも急がないと!」

「いや、こんなにわくわくする事は久しぶりだよ!」

 僕の隣で、マエストロはにっこり笑った。


  ──同日 朝──

 もしかしたら、急がないと間に合わないかもって思ったから、僕はアルトマーレの裏路地を駆け抜けて、あの秘密の入り口から庭に入った。マエストロも足の速さを落とさないでついてきてくれた。壁の入り口や庭の景色に驚いていたけど、それ以外は何も言わず後についてきてくれた。
 昨日は、もう最後かもしれないとしれないと思った庭の中を、石づくりの階段を駆け降りていく。小雨は止んでいた。僕とマエストロの後を、庭のポケモンたちがついてくるけど、僕はそれどころじゃない。

 ブランコの前の池まで来た。その真ん中のパーゴラに、マルコさんがいた。

 いつものように法衣のような服を着ている。パーゴラの近くにはラティアスとラティオスが宙に浮かんでいた。
 僕たちは池のふちで立ち止まる。十一月なのに汗が止まらなくて、ぜいぜいと息を切れて上手く喋れない。後ろを振り向くと、ポケモンたちは僕たちから少し離れた周りで、僕たちを見守っている。
 僕が膝に手を当てて息を整えていると、マルコさんが振り返った。怒ってはいないようだけど、眉間に皺を寄せて僕を見る。

「お前、どうした? 今日が出発じゃなかったのか?」

 たぶん、マルコさんはジャンナさんから僕の事を聞いていたみたい。もしかしたら、ラティアスかラティオスかもしれない。

「てか、そいつだれだ? そいつがマエストロ・────か? なんで庭に入れた?」

 僕はまだ喋れない。マルコさんの後ろで、ラティアスとラティオスが僕たちを静かに見守っている。僕の我儘でお別れを台なしにして、マエストロをこの庭に入れてしまった。だから、やるしかない。ラティアスが教えてくれた通り、僕から動かなきゃ。

「何か言えよ」
「マ……マル……マルコさん……!」
「あ?」
「マ……マルコさん……! 僕とマエストロと……一緒に……『都』へ行きましょう……! マルコさんの……夢叶えよう……!」

 僕はまだ息の調子が戻っていないけど、力いっぱい叫んだ。少しの間、だれも喋らなかった。
 僕とマエストロの息が戻ってきた頃に、マルコさんが大きなため息を一つついた。そして僕を見る。

「馬鹿か、お前は。将来有望なおぼっちゃんと違って、俺に未来はないんだよ」
「そんな事ない! マルコさんだって、今からだって歌い手になれますよ!」

 僕自身でも驚くくらい速く、そして大きな声でマルコさんに返した。マルコさんはそう言うけど、僕は本気だった。
 マルコさんをこのままにしておけない。どんな手を使ってでも、僕がマルコさんを放っておけない。

「言っただろ? 俺は貴族と寝て、それでようやく脇役をもらえたくらいなんだって」
「僕はまだ、マルコさんの歌を一回も聞いた事がありません! マエストロに認められれば、今からだって!」
「やらなくたって分かる。俺に、さらに恥をかかせるのかよ」
「いや、────くんの言う通りだね。私も君の歌を聞いていないから、『駄目だ』とはまだ言えない」

 僕の隣にいるマエストロが、マルコさんを見つめて微笑みながら言った。その後に、「こういう事だったんだね、────くん」と僕に言った。マルコさんは、そんな僕とマエストロを睨みつけるようにして見ていた。

「今の話で、だいたいの事情は分かったよ。だけど、君の事情と音楽は別だ。それこそ陛下は、過去に何かがあったとしても、優れた歌い手なら手厚い待遇を用意してくださる。それに、もし優れた歌い手を見過ごすような事があったら、私が陛下に怒られてしまう」

 僕は前にマエストロから、マエストロが仕えている皇帝様の話を聞いている。音楽が大好きで、皇帝様自身も楽器を弾くんだって。マエストロが僕やマルコさんに嘘をつく理由がないから、間違いなく本当だと思う。

「こう言っちゃなんですけど、マエストロさん」
「まずは、君の歌を聞かせてくれないか?」

 マルコさんの言葉をさえぎって、マエストロが少し強い口調でマルコさんに返した。マエストロの目は、さっき家の前で僕を見た時と同じだった。
 マエストロも本気だった。マエストロも、これがだれかの未来を決める事だから、まっすぐにマルコさんを見ている。

「マルコさん!」
「俺は……」

 マルコさんがそう言って、僕たちから目をそらした。
 その時だった。

「ひゃん! ひゃあん!」
「ラティアス……てめえ……!」

 マルコさんがそらした顔を、マルコさんに近づいたラティアスが、自分の顔をマルコさんの顔に押し当てて僕たちに向かせる。マルコさんが思いっきりラティアスを睨んだ。

「お前は引っこんでろ……!」
「マルコさん! ラティアスもマルコさんに歌ってほしいんですよ!」
「うるせえ! っ!? お前ら!?」

 マルコさんがびっくりして、僕とマエストロも驚いて後ろを振り向いた。
 僕とマエストロの後ろにいた庭のポケモンたちも、一斉にマルコさんに向かって鳴き始めた。チルタリスも、コロトックたちも、シャワーズも、ドーブルも、バチュルも、キュウコンたちも、エルフーンたちも、タチフサグマも、ウィンディも、チョロネコも、ハハコモリたちも。みんなが鳴き始めると他のポケモンも集まって、声がどんどん大きくなる。
 僕の目に涙が溜まって、こぼれそうになった。みんな、マルコさんの事が心配だったんだ。長い首を両手で押して、ラティアスを引き離そうとするマルコさんに僕も叫ぶ。

「マルコさん! みんなマルコさんなら大丈夫って思ってるから叫んでるんですよ!」
「黙れ! 何も知らないくせに!」
「何があるにせよ、私と陛下には通用しないよ!」
「屁理屈はいらないんだよ!」

 もうみんなが意固地になって、大声で叫んだ。もしかしたら、庭の外まで僕たちの声が聞こえちゃっているのかも。
 だけど、僕はそれでもよかった。マルコさんが、今は何より大事だったから。その時だった。

「マルコ! あんたさっさと歌いなさいよ!」

 僕たちから少し離れたところから、ひときわ大きな声が聞こえた。
 僕もマルコさんもみんなも黙ってしまう。すぐに、ラティオスにつれられたジャンナさんが僕の隣に並んだ。
 やった、ラティオスの計画通り。マルコさんが振り向くと、僕たちを見守るように浮かんでいたラティオスの蜃気楼がすうっと消えた。ラティアスがにやりと笑って、マルコさんが「やられた……」と小さく呟いた。
 ラティオスの計画通りになったけど、ジャンナさんはぼろぼろ泣いていた。昨日僕が見たジャンナさんと、ぜんぜん違って見えた。僕たちよりも、実の姉としてマルコさんに思い入れが強いからだと思う。だからラティオスが説得の為にジャンナさんを呼んだけど、泣いているジャンナさんは少し可哀想だった。
 そのジャンナさんが叫んだ。

「マルコ! どうして自分から諦めちゃうの!? 本当は今でも歌の練習してるのに! どうして!?」

 ジャンナさんの言葉で、僕はまた驚いた。あんな事を言っていたけど、マルコさんは、本当は諦めていなかった。僕はその目のままでマルコさんを見る。
 ラティアスが離れたマルコさんは、大きなため息をついた。

「都合がよすぎるだろ……散々好き勝手したのに、だれかに救われるって……」
「……それじゃ何がいけないの?」
「俺が納得しないんだよ……」

 ジャンナさんに答えたマルコさんは、手で後ろ頭を掻き回した。今度は、マエストロがマルコさんに言った。

「だったら、私を納得させてほしいな。あんなに叫んだ後に申し訳ないけど、才能がない歌い手を陛下に紹介はできない。私が納得するようなら、陛下だって必ず納得なさるよ」
「結局俺の気持ちは無視じゃねえか……」

 マルコさんが、さらにもう一回大きなため息をついた後に、ゆっくりと顔を上げた。目つきは鋭いけど、睨んでいるわけじゃなかった。
 ついに始まるみたい。よかった。だけど、どうなるかはマエストロの答えしだい。

「……期待はずれでも怒るなよ?」
「手を抜いたら、許さないからね?」
「分かってるつーの!」

 ジャンナさんに怒鳴りながら返事をした後に、マルコさんは大きく息を吸い込んだ。
 僕は、マルコさんの隣にいるラティアスと目が合う。ラティアスはすごく寂しそうな顔をしていた。昨日ちゃんとお別れをしたけど、やっぱり僕だって寂しい。
 次はいつ会えるか分からない。だけど、またここに戻って、もう一度会いたい。ラティアスとそう約束した、必ず守るって。

『待っていてね』

 僕は心の中でそう言って、頷いた。
 ラティアスも僕を見て、まだ寂しそうな顔だけど頷いてくれた。

 雲と木の枝の間からこぼれた日の光が、庭のいたるところを照らし始めた。
 それから、マルコさんの独唱が始まった。


  ──◯◯年後 夜──

「ちょっと待って、とんでもない事ばっかりなんだけど」
「まあ、そうだよね」
「まずさ、パパは本当に護神としたの? 人間とポケモンが? アルトマーレの護神と本当に?」
「そんなに言わないでよ、ヴォルフィー」

 ピアノの前の椅子に座ったパパはそう言って目を逸らして、恥ずかしさを紛らわすみたいに後ろ頭を掻いた。
 パパが見つめる客席を、舞台裏から持ってきた椅子に座る俺も眺める。演奏会が終わって弾き手たちと浮かれていたら、観客として来ていたパパに神妙な面持ちで声をかけられた。約束通り、誰もいなくなった劇場の舞台に来たら、待ってたパパが昔話を語り出した。
 パパの過去、この「音楽の都」へ来る前の話を。パパが生まれつき引っ込み思案なのは、そろそろ長い付き合いって言っても過言じゃない月日で知ってたけど、まさかパパの口からこんな話が出るとは思わなかった。
 しかも、「音楽の都」で大人気になった後にマルトマーレに里帰りした、あの伝説のカストラートの話まで。────から少しは聞いてたけど、パパの話はもっと詳しかった。

「まっさか、宮廷楽長様(パパ)にそんな赤裸々な過去があったなんて」
「僕にだって、こういう思い出くらいあるよ」
「でも、まあ、これでパパの音楽の秘訣が分かった」

 俺は両手で自分の頭を前から後ろに撫でながら、居心地が悪そうに笑うパパを見た。
 アルトマーレのモチェニーゴ家に拾われて、マエストロ・ガスマンに見出されて熱心な教育を受けるのと同時に、マエストロ・グルックの弟子としてオペラ改革の担い手のひとりになったパパ。ほぼほぼ人間様の独壇場だったオペラにポケモンという要素を復活させて、技巧だけが持て囃されていたオペラに「作品としての調和」を取り戻した立役者のひとり。飾らない人柄もあって、天才とちやほやされてた俺を差し置いて宮廷楽長に登り詰めたその人が、俺の目の前にいる人間だ。やっぱり、俺よりもよっぽど「神に愛された子(アマデウス)」じゃん。

「で、この後は、俺が知ってる通り? まだなんかあるの?」
「この後は、あんまり楽しい話じゃないんだけどね」

 そう言ってパパは、俺の隣で待ちくたびれて眠った俺のワンパチと俺を一瞥した後に、俺たちに背を向けてピアノの鍵盤に向き合った。目を逸らす癖は変わってないのか。

「って言うと?」

 俺はパパの背中に問いかける。何か一曲でも弾くのかと思ったら、そのままだった。

「会ってないんだよ、ラティアスとは。あの、マルコさんを迎えに行った時から、もう十何年も」

 パパの顔は見えないけど、間違いなく寂しそうな顔をしてるはず。

「それでパパは? 探したの?」

 こういう時に「相手の心情を察して慰めの言葉をかける」とか、そういうのが
嫌いな俺は、ずばっと次の質問を投げた。パパは俺の性格を知ってるし、同情をねだるような人間でもない。

「もちろん探したよ。アルトマーレには何回か帰ったし。でも、マルコさんにもジャンナさんにも、ラティオスにも、庭のポケモンたちにも会えたけど、ラティアスだけは僕の前に現れなかった。マルコさんもジャンナさんも、何も言わなかった」
「思い当たる節は?」
「ないけど、もしかしたら、ラティアスは僕を待つのが嫌になっちゃったのかな。もう、どんな理由があったのか分からないけど、僕は結婚したし、陛下から宮廷楽長を任されるようになった。もう、ただの思い出話だよ、ヴォルフィー」

 パパが俺に背中を向けたまま眼鏡を外して、目を一度だけ拭った。すぐにかけ直す。

「それで? そんな未練たらたらなら諦めてないんでしょ?」
「正直に言うと、そうだけどね。でも、もうどうする事もできない」
「で、俺に話した理由は?」
「ヴォルフィー、体の調子、そんなに良くないんでしょ?」
「あ、知ってた?」
「宮廷楽長をやっていると、色々な噂話を聞くよ」

 そこでパパは椅子に座りながら体を回して、俺に向き直った。パパが人に好かれる理由は、あどけなさが抜けきらない顔つきもある。そのパパの顔が、俺を見て心配そうにしていた。
 パパには黙ってたというか、誰にでも、酒で口が滑った時にしか言わないようにしてたんだけど、パパには筒抜けだった。なんだか出し抜かれたようで悔しいけど、俺は笑顔を崩さない。

「ヴォルフィーがこの先どうなるか分からないから、聞いてほしかったんだよ。ヴォルフィーは、僕の一番の親友だからね」
「その親友様に縁起でもない事言わないでよ」
「ごめん」
「お詫びとして、一曲聞かせて。昔話を聞いてあげたお礼としても」

 俺はパパに近づいて、その隣に立った。パパはもう一度ピアノに体を向けながら俺の顔を見上げた。
 「相手に謝る時は、その代わりに曲を奏でる」。それが俺とパパの、俺がパパへ一方的に押し付けた決まり。だって、パパはいつも謝ってばっかだし。

「何を弾けばいい?」
「俺の曲から、って言いたいけど、これをよろしく」

 そう言って俺は、上着の懐に折り畳んで隠してた楽譜を広げてパパに渡した。楽譜を見たパパは、苦笑いをしながらまた俺を見た。

「懐かしいなあ。でも結構恥ずかしい。天才ヴォルフガング・モーツァルトに、こんな昔の曲を編曲してもらうなんて」
「いいって事よ」

 こんな時の為にいつも持ち歩いてて正解だった。俺がパパに渡した楽譜は、パパの出世を早めたオペラの一つ、「アルトマーレの人々」の一曲をピアノ独奏の変奏曲に編曲したもの。パパは今でも「あの頃は今より未熟だったよ」って言うけど、俺から見ても師匠たちの教えをしっかり吸収し始めたのが分かる。
 俺はこのオペラそのものを見た事がないけど、────から聞いた昔話や、さっきのパパの話から、このオペラはパパが実際に住んでたアルトマーレの生き生きとした雰囲気を蘇らせたかったんだと思う。そういう意味でも、パパの音楽の底にあるのはポケモンたちみたいだ。
 振り返るパパに見つめられながら、俺はさっきまで座っていた椅子に戻る。

「それじゃ、宮廷楽長様のピアノを堪能させてもらうよ」
「やっぱり恥ずかしいなあ」

 パパは笑ったまま、顔をピアノに戻した。パパが俺たちから視線を外すと、眠っていたはずワンパチが目を開けた。いや、本当のワンパチは留守番中だけどね。
 俺の懐にはさっき取り出した楽譜の他にまだ、ワンパチに化けてる時は預かってるピアスが入ってる。付けたままでも蜃気楼で隠せるみたいだけど、パパとの思い出まで嘘で塗り固めたくないって言ってた。

 パパ。ラティアスは、パパの人生の邪魔をしたくなかったんだよ。最初はすぐに戻ってきてくれる事を期待してたらしいけど、こうやってパパの様子を見に来る度にパパが出世していって、だから会わなかったんだ。ポケモンだとしても、パパがどんどん沢山の人に囲まれるようになっていけば分かる。
 俺からしてみたら、まどろっこしくて何回も口が滑りそうになったけど、神様の恋路を邪魔したらさすがに罰当たりだと思って隠し続けてきた。いや、俺は最期まで隠し続けるけどね。
 パパが心配してくれたように、俺の体は良い方に向かってない。それは俺の問題だから別にいいんだけど、この都でラティアスと話せる人間がいなくなる。パパも遠い所からこの都に来たけど、俺は小さい頃にもっと親にあれこれ連れ回されていたからね。まあ、修行みたいなもんだった。
 そろそろ俺は、ラティアスに話そうと思ってる。「パパの前に出てもいいじゃないか」って。そりゃ、パパはもう身を固めたけど、「今だからできる関係性」ってのがあるんだと思う。俺は知らないけど。

 俺とラティアスが後ろから見守る中、パパのピアノが始まった。やっぱり優しくて、美しくて、だけど力強い、パパの人柄が表れている旋律だった。





Dea santissima, misericordia di me(神様は嬉しい時にどんな声で歌うのかを僕だけが知っていたい)





Revisioned by 四葉静流


 拙作をお読み頂き本当にありがとうございます。
 ここからは大会投票所にて頂いたコメントの返答を致します。

物語の持っていきかたがとても綺麗でした。
 ありがとうございます。創作として読み応えがある要素を付け足しましたが、実は大筋の流れは史実からの引用です。最後のタイトルコールも、かのアプリゲームのオリジナル必殺技名ではなく、史実における晩年の「僕」が記した言葉(の改変)と云われています。

サリエリの人生に幸あれ。
 ありがとうございます。作中で「僕」の名前の明言は避けましたが、分かって頂けたようで安心しました。「僕」ことアントニオ・サリエリがこの作中世界において、史実と同じような人生を辿るのか、有名な映画やゲームに近いものになるのか、あるいはまた違う未来が待っているのかは、お読みくださった方々のご想像にお任せします。

コメントはありません。 Comments/神様は嬉しい時にどんな声で歌うのかを僕だけが知っていたい ?

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