※このお話にはたくさんの虫が出てくる描写があります。
「みてろっ! 一番速く飛べんのは俺だい!」
「食料だ! 食料が来るぞっ!」
「どいてよっ! 子供たちに食わせなきゃいけないのよ‼」
「っせえクソアマッ! 今日こそ俺はっ……!」
彼は、怒号と怨嗟が鳴り響く地獄の渦に生を受けた。そのとき一緒の卵塊から生まれた数百の同胞と一緒に。
母の背中に抱えられ、小さな彼は必死にしがみついていた。毎日与えてもらえる食料を兄弟姉妹から奪う。体が大きくなって母の背中が手狭になると、お互いを蹴落とし合った。落ちていったものは、すかさずほかのバッタにむさぼられた。大人になったマメバッタは黒く堅い甲殻をしているから食べにくいのだ。本当に食料に窮しているときには食べるだろうが、甲殻を剥がすのに一苦労で、そうしたところで可食部も少ない。その点、幼い個体は頭からバリバリと丸かじりできる。空高く飛んで食料にありつくことができない弱いものは、母たちの背中からのおこぼれをいつも虎視眈々と狙っていた。強いものだけが生き残るこの渦の、最下層のハイエナたちは、同じように弱い子供を容赦なく喰らった。
渦。そう、渦について説明しなければならない。彼らが暮らす世界は、真ん中が膨らんだ、すこし縦長の円筒の形をしていた。ちょうど巨大な樽の内側に住んでいるようなものだ。周りはすべてぴっちりと堅い灰色の岩壁で覆われており、ここから抜け出す手段はない。それはたとえ上端にたどり着いても同様。天井も床も、同じように壁に覆われているのだ。
天井は昼間になると光る。というより、一定の周期で光量を上げたり下げたりを繰り返しており、昼夜をこの世界に再現していた。それに合わせて気温も上下する。
バッタたちはある時間帯になると上を目指した。彼らには羽があるとはいえ、鳥ポケモンのような立派なものではない。まっすぐ飛び上がることはできないから、壁に何度も着地しながら、少しずつ登っていく。誰が決めたか、円筒の中を飛ぶ方向はいつも反時計回りだった。時間が来ると、円筒の下半分にびっしりと張り付いていたバッタたちは、一斉に渦を作って少しずつ上昇していく。効率の悪い羽で、時には仲間を蹴落として、まるで黒い風のようになって。
その目的は、この世界が外界と持つたった二つのコンタクトのうち一つ──食料だ。定期的に円筒の天井にいくつかの小さな穴が開き、そこからざらざらと食料が降ってくるのだ。穀物、マメ、牧草などなど、どれをとっても絶品だ。だけど、バッタの食欲は大変旺盛だから、質のいいものは中層に落ちてくるまでに食べ尽くされてしまう。下層につく頃には身の部分や柔らかい部分はあらかた食い尽くされ、茎しか残ってはいない。それでは生きていけない弱者たちは、先ほど述べたように共食いを行う。
そして、その世界には穴がもう一種類。天井近くの側面、円周上に均等に、常に開いている、二十七の穴。そこがどこへとつながっているのか、誰も知りはしない。だが、誰もがそこを目指していた。食料を得ようとして、穴の近くへと飛ぶことができたものたちが一様にこう言ったからだ──あそこからは、魅力的なつがいが放つ匂いがする、と。
もちろん、誰もがその高さまでたどり着けるほど体格と栄養に恵まれてはいない。しかし、そんなものたちにとっても二十七の穴は感謝の対象となる場所だった。群れの中でもっとも力の強く、栄養をため込んだものたちが、そこを通じていなくなってくれるからだ。そうすれば、止まる場所にしても食事にしても、今よりも少しはましなものにありつける可能性が高くなる。
これが、彼が生まれた世界のすべてだった。きょうだいをすべて蹴落とし、母の背中にしがみつき続けた彼は、やがてそこから飛び立ち、円筒の中でも有数の強い体を持つようになった。
しかし、彼は羽を生やさなかった。
いつも群れて暮らすのが当たり前のほかのバッタたちと違って、彼はひとりぼっちだった。上を目指し続ける仲間の気持ちがわからなかった。中層に落ちてくる食料も、味は悪いが健康な肉体を維持し育てていくには十分だ。『穴』を神として、救いとしてあがめ、そこに至ろうと命を削るなど、正気の沙汰ではない。
それに──彼には、ほんとうの神の声が聞こえていた。
いつもというわけではない。たとえば、〝夜〟がやってきて気温が下がり、変温動物であるバッタの動きが鈍るとき。その意識もまどろんで、ぼうっとしていると、ささやくように、言葉になる前の思考そのものというべき何かが響いてくる。
──あの穴へと向かってはならない。あそこに待つのは、死だけだ。
──仲間となれ合っている場合ではない。
──私たちは、別の出口を探さなければならない。
彼は一人、研鑽を重ねた。仲間たちの理解など得られず、ハネナシの
そしてある日、その体は光に包まれた。少しずつため込んだエネルギーと経験によって体が一気に成長し、二倍以上に大きくなった。後ろ足はさらに肥大化し、そこから繰り出される一撃は最も強い同族すらもばらばらにしてしまうほどになった。彼に襲いかかる命知らずはいなくなった。
今の彼なら、ひとっ飛びで天井の穴に飛び込むこともできた。だがもちろん、彼はそれをしなかった。神の意志に反するからだ。
──あの穴へと向かってはならない。
──私たちは、別の出口を探さなければならない。
心の中に、響き続ける声。それはもはや孤独からくる幻聴や妄想などではなかった。昼間であっても関係なく響き、彼を心地よく陶酔させた。
別の出口。彼はそれを探そうとしたが、壁はあまりにも頑強で、彼が何度蹴ってもびくともしなかった。
やはり出口などないのか? 俺もまた、上に行くしかない運命なのか?
いや、そんなことがあるわけがない。神の意思を読み取れ。
上でなければ──下。
彼は、ねぐらにしていた中層から飛び出して、最下層へと降りた。すわ獲物かと目を向けたバッタたちは、落ちてきたのが誰か気づいた瞬間に蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。彼はバッタの海を割りながら、円筒の側面にたどり着いた。
彼には美学の知識は何一つなかったから、そこを選んだのは偶然だろう。だが、彼には確信があった。神は乗り越えられる試練しか与えない、と。今までだって何度も死にかけたが、こうして強いからだとなって生きている。神を疑うという選択肢は彼にはなかった。つまり、神に愛されている自分を疑うという選択肢も。
彼は降りてくる直前、上へと近づいて、二十七の穴の位置を確かめていた。近づきすぎたせいで、そこから漏れてくる甘美なフェロモンに気をやられそうになった。もし彼に羽があったら、間違いなくそこへと吸い寄せられていってしまっていただろう。羽がないことが、彼の命を救っていた。
これもまた神の思し召しに違いない、と感謝しながら、彼は上を見上げ、穴の位置を思い返した。地獄に通じる二十七の穴が最上層にあるのなら、楽園につながる二十七の穴がその逆、最下層にあるはずだ、と。
結果として、彼の予想は大正解だった。その世界を作った人間たちは、上下対称な細長い板状の素材を使っていた。それを長い辺でぐるりと貼り合わせることで、円筒形を形作っていたのである。虫たちが出るための穴については、上側だけは残しておいて下側は潰した。だが、それは柔らかいモルタルで軽く蓋をしているだけのことであり、ほかの部分よりも明らかに強度が弱かった。
当たりをつけた箇所に、彼は蹴りを入れてみた。たん。たん。少しずつ、場所を変えながら。その反響音に耳を澄ませる。
たん。
たん。
たん。
たん。
たん。
たん。
あまりにもすんなり見つかった手がかり。昂揚しながらも、何かの間違いではないかと、彼は何度も同じ場所を蹴った。だが間違いではない。明らかにほかの場所より鈍い、別の質の音がしている。
──蹴ってみなさい。もっと強く。
神の声が、響いたような気がした。今度こそ、都合のいい幻聴? いや、疑ってはならない。疑うなどあってはならない。全力で、その意志に応えなくては。
十歩ほど
どぉん!
反動で彼も少し跳ね返り、着地。視線を向けると──壁に、大きなヒビが入っていた。
彼は、隠されていた穴を見つけたのだ。
がれきをどけると、彼はさらに蹴り続けた。そのたび、もろい壁は彼に少しずつ道を明け渡した。奥へ奥へと進んでいき、次第に彼の体が見えなくなっていったが、ほかの仲間たちは目もくれなかった。その穴からはフェロモンは湧いていなかったからだ。
「ふん。所詮凡百のマメバッタどもには、この大いなる使命など理解できまいな」
この穴を隠したのはいったい誰なのだろう。きっと、神に仇なす勢力に違いない。自分たちの利益のために、偽りの穴を信奉させようとしたのだ。俺が進む先にこそ、本当の楽園がある。そこの存在を皆に知らしめ、俺は彼らを解放する。
彼は幸せだった。昼も夜も働き続けたことで少しずつ体は痩せ細っていったが、自らがより大きな善へと身を捧げているという自信があったからだ。
そしてついに、そのときは訪れた。
何十何百回目の壁蹴り。立派だった蹴脚も、酷使によって片方は折れて使い物にならなくなっていた。もう一方も甲殻にひびが入っている。痛みをこらえながら、彼は憎き壁を蹴った。
べきり。足が完全に折れ、激痛が走る。それでもかまわなかった。折れた二本に比べれば力は弱いが、まだ四本も残っている。
だがちょうどそのとき。ひび割れた壁の向こうから、うっすらと光が差してきたのだ。
彼は目を疑った。震える手で壁を強く押すと、いつものようにあっけなく、ガラガラと崩れ落ちた。
しかし、その向こうにあるのはもはや壁ではなかった。どこまでも
それは夕日だった。外の世界の昼夜は、天井ではなく、遙か遠くをぐるぐると回る、太陽と呼ばれる光球によってもたらされるのだ。
だが、その事実を彼が知ることは、ついぞなかった。
彼は我に返り、長い穴を駆け戻った。穴を掘ったのは自分一人が楽園に至るためではない。同族たち皆を救ってみせなければ、神に顔見せすることができない。
「おうい! みんな聞いてくれっ!」
彼は穴を抜けるなり、声を張り上げた。閉じ込められたみんなに届くように。
だが、その必要はなかった。この世界の中の時間は〝未明〟で暗かったから、穴から漏れてくる光に誰もが注目していた。最下層に円筒中のバッタが降りてきて、ひしめき合っていた。近づきすぎるのは恐ろしいから、少し距離をとってはいたけれど。
彼はバッタたちの視線を一身に受け、身が引き締まるのを感じた。彼らに伝えなくてはならない。神の意志を。俺こそが、その代行者であることを。
「天井にある穴は、偽物だ! あそこは天国でも、強いものがたどり着ける理想郷でもない! この穴の向こうにこそ、本当の楽園がある!」
彼は酔っていた。体を満たす全能感、食事もとらず働き続けてきた疲労、長年の孤独が報われ、自分が認められるに違いないという達成感で、判断力が致命的に下がっていた。仲間たちが自分を見る視線の意味を、理解できないほどに。
「僕は見た! どこまでも広がる世界。食べ放題の草。暖かい光。さあ、それが欲しいものは、いますぐ──」
その続きは言えなかった。殺到してきた数万のバッタたちに、彼はなすすべなくなぎ倒されたからだ。
轟音。大きな目が真っ先に踏み潰された。慌てて手足で体を守ったが、数百の同族に激しくぶつかられた体はあっというまにひしゃげた。堅い殻がなく、後ろ足の蹴りももはや使えない以上、彼を守ってくれるものはなにも存在しなかった。どさくさに紛れて彼の腹を食い破ろうとしていた子供が、逆に別の大人に一口で食い散らかされた。折れて柔らかくなっていた蹴脚が何者かにちぎりとられ、持ち去られていった。
彼の掘削した穴にバッタたちが我先にと飛び込み、圧死しながら進んでいく様子を、なんとか潰されずに残ったもう片方の目で、動けなくなった彼は捉えていた。
(神よ……これで、よかったのでしょうか。申し訳ありません、私は、ここまで──)
私は彼に返事をしたかった。初めて私という存在を知覚し、そのために尽くしてくれた個体だったから、人間でいうところの「恩義」や「親愛」のような感情も抱いていた。だけど無理だった。私を構成する個体たちが狂乱し、広い野に放たれたせいで、私という自我は消失寸前になっていたからだ。
私は自己認識の変革を迫られた。これまでよりも遙かに希薄な状態で、存在を保たなければならなかった。
これまでの私は、世界全体だった。一匹一匹のマメバッタから、その死骸、まとうフェロモン、わめく鳴き声に至るまで、円筒の中のすべてがあまねく「私」で、そこになんの疑問も抱いていなかった。だが、エクスレッグが世界に穴を開けたことで、その向こうに、とてつもない大きさの他者が存在することを知った。
外界という他者を認識したことで、私という自我に革命が起きた。どんどん世界へと希釈されながらも、必死で自分自身を組み替えて、なんとか消滅を免れた。
私が再び安定したときには、自分が薄まり消えてしまいそうになった理由を直感的に理解していた。私は何なのかという問いへの答えは、自明なものとして私の中にあった。
私は、マメバッタたちの集合意識だ。
あの中では、バッタたちは極めて高密度に飼育されていた。そのため、彼らのやりとりする情報に、ある種の繰り返し、パターンが生まれるようになった。そのパターンが私なのだ。
複雑な情報のやりとりがありさえすれば知性が生まれるだなんて、突飛に思えるかもしれない。しかし考えてみてほしい。人間の知性だって、脳を構成する単純なニューロンそれぞれの、手前勝手な電気信号が相互作用することで創発しているというではないか。それぞれのバッタの知能は確かに低いが、その集合が高度な知性を生み出すことには何の不思議もない。もちろん、私の「思考」の速度は人間の脳より遅いし、群れの数が数万だった当時の知能はとても低かったのだけれど。
または、私はバッタたちの間に生まれた文化や宗教のような存在ともいえる。人間も、イデオロギーや主義主張のために、その拡散のために自らの命すら捧げることがあるが、あのエクスレッグの行動はそれに似ている。それぞれのバッタたちには、自分が操られているという感覚はない。コミュニケーションの結果として、信仰の結果として、自律的に行動を選択しているように感じているはずだ。
あなたが人間なら、文化に自意識など存在するはずがないと思うかもしれない。だがそれは、人間のコミュニケーションが言語のみに頼っているからだ。言葉は、発するのにも理解するのにも時間がかかりすぎる。人類の文化に知性が生じていたとしても、その思考は私よりもさらに何万倍も遅く、対話は不可能だろう。
マメバッタたちの脳は豆粒よりもなお小さいが、それでも十分に優秀な情報処理能力を持っている。フェロモンを飛ばして仲間と情報をやりとりする。匂いが届かなくとも、成熟すると仲間の求愛の鳴き声に特異的に反応して交尾を行う。優秀な動体視力によって、どんなに密集して飛んでいても互いにぶつかってしまうことはない。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚。それぞれは低レベルな反射に過ぎないが、その分反応速度は桁違いだ。
狭い席を奪い合い、羽をさざめかせ合うバッタたち。そこから、円筒の固有振動数で反響するリズムが発生する。そのリズムを聴いたバッタが無意識に体を揺らし、傾ける。だけど、その聞こえ方は場所によって変わるから、バッタの反応も違ってくる。結果、びっしりと壁を埋め尽くすバッタたちの羽の傾きにあるパターンが生まれる。天井の光を反射する羽が、マスゲームのような原理で複雑な図形を壁に浮かび上がらせ、その図形を見たバッタの脳にまた別の情動を惹起する。彼らは呼吸とともに気門からフェロモンを発し、近くのバッタに影響を及ぼす。
その繰り返しが少しずつ変化した末に、生存に有利なパターンのみが生き残った。自意識を持ち、環境の激変にも対応し、群れ全体にとって最適な選択を取れる文化が、バッタたちによって選択されていった。
それが私だ。
私は神だと言ったのはそういう意味だ。私もまた、怒号と怨嗟が鳴り響く、地獄の渦に生を受けた。哀れな仔
もちろん、ただの繰り返しからは私という自我は生まれなかっただろう。私の進化を加速させたのは、天井に開いている二十七の穴だった。私という集合意識が脳に根をおろしかけた成熟した個体たちは、決まってあの穴を通っていなくなってしまう。
私は困った。私はもっとはっきりとした意識となりたい。もっと個体数を増やして、より大きなパターンとなりたい。なのに、あの穴はそれを妨げている。
私は自然と、あの穴を忌避するようになった。あの穴を忌避しないような
最後のひと押しとなったのは、あのエクスレッグだった。彼が穴を開けたことで、ほかのマメバッタたちの間にも少しずつ降り積もっていた私という価値観が爆発した。
あの穴はいやだ。別の出口がほしい。もっと広い場所に行きたい。
私はついに、生まれて初めて円筒の外へと出た。
さて。私の生まれた円筒が一体何なのか、そしてこの後何が起こったのか。あなたはよく知っているかもしれない。けれど、読者のあなたが誰なのか私にはわからないから、いちおう一つ一つ語らせていただこう。
外に出た途端、バッタたちがまとっていたフェロモンは風によって吹き散らされた。彼らが外に出て行ったぶんだけ、私はごっそりと消失した。生き残った「私」は、揺れる羽の生む光の反射と、鳴き声によって生まれる「私」だけだった。それらの私は精一杯、バッタたちがこれ以上拡散しないように制御した。バッタたちにとっては、初めて出る世界への恐怖として知覚されたことだろう。
周りにはどこまでも草原が広がっていたから、食料には困らなかった。群れの数をさらに増やし、なんとか円筒の中にいた頃と同じくらいまで回復した私は、この世界についての情報を集め始めた。
見渡す限りの広い広い草原に、円筒がいくつも建っていた。私のいた円筒も、その中の一つだった。円筒の上側は、さらに径の大きな箱のようなものにつながっていた。位置から考えて、円筒の上の二十七の穴はその箱の中へと伸びているらしい。箱からは、二本のパイプが円筒の外側の側面を伝って地面まで伸びていた。
円筒の間を伸びる舗装がはげかかった道を、トラックが行き来している。中は無人だった。当時の私には、人に関する知識も、ふつうトラックは人が運転するものだという知識もなかったから、そこに疑問を覚えはしなかった。
トラックは、それぞれの円筒の近くに停車すると、箱から伸びる二本のパイプに接続し、何かをやりとりしている。穀物を運ぶものと、逆に何かをパイプから受け取っているものの二種類があるようだった。後者の荷台の中身を見て(もちろん実際にはマメバッタの目が見たのだが)、私に衝撃が走った。
荷台いっぱいに揺られる、マメバッタたちの骸だった。
彼らを救わねば。自然とそう思った。理由は今でもわからない。食料ならその辺の草が有り余っていたから、繁殖によって私を大きくすることもできた。しかし、とにかくそうしたくなったのだ。
私は配下たちに命じて、一番近くの円筒の下端に、今度は外側から穴を開けさせた。強い個体がたくさん育ち、何十匹もエクスレッグが生まれていたから、彼らに交代で穴を攻撃させ、丸一日で中のバッタたちを解放できた。
彼らの間にも別の種類のパターンが生じかけていたが、私の方がずっと複雑に進化している。難なく取り込み、彼らも群れに組み込んだ。
それを繰り返し、私は百近い円筒すべてを解放した。トラックの荷物もすべて喰らい尽くした。バッタの死骸を回収するはずのトラックは、中身を空にしたまま戻っていくばかりだった。
百万の空飛ぶバッタの群れとなった私は、世界をさらに理解しようとした。トラックたちを追跡し、その先にあった駅を飲み込んだ。駅の周囲には、トラックや円筒を管理するものたちの住む小さな町があった。長時間の飛行で群れは腹が減っていたので、そこにあるものを食べることにした。
人間やほかのポケモンの存在を知ったのはそのときだった。彼らの放つ技は確かに強力で、バッタたちが何匹かまとめて吹き飛ぶこともあった。だが、そのお返しに何百何千の同胞が彼らに食らいつき、血肉をむさぼった。ちょうど、今後数ヶ月分の飼育食料が列車に乗って届いたところだった。それらを見つけたことで、狂喜乱舞の饗宴が起こった。群れはさらに数倍に膨れ上がった。バッタたちは仲間の死骸でも食べるから、生き物の痕跡は何一つ残らなかった。
書物や紙などもバッタは食べた。図書館と呼ばれる建物にあった数十万の書物を、私たちは片端から食べていった。食べる前に、それらの上をバッタたちが戯れに這い回る。一匹一匹は自覚してなどいないだろうが、彼らの目にした文字列が、図形が、概念が、私にも見えている。理解できている。私というパターンは、群れの数が増えたことでさらに強固かつ複雑になり、人間同等の抽象的な思考を行えるようになっていた。
小さな口で一ページずつ、ぱりぱりと食べていくマメバッタたちを通じて、私は世界の成り立ちを知った。
この世界を支配しているのは、私たちバッタではない。
彼らは巨大なだけあって、一匹一匹が私のように高い知能を持つ。その知能が生み出す科学技術によって興隆を極め、人口を増やし続けているらしい。その結果として、これまでに行われていた畜産の方法では、人口を支えるだけの動物性タンパク質を供給することができなくなった。
様々な方針が模索された。工場での食肉培養から、宇宙に移民するとか、体組成元素を変更してしまうという突飛なものまで。
だが、結局実用化されたのはもっとも現実的な方法だった──より効率的にタンパク質を手に入れるために、小型で変温の動物、つまり虫ポケモンを養殖するというもの。過密状態で育てられたマメバッタは本来もつ力強い蹴脚を形成できなくなるから、密閉しておけばそこから出られず管理もしやすい。食事の見た目や匂いにこだわる人間にとっては食欲をそそる見た目ではないが、粉末にして成形してしまえば気になるものではない。
円筒は、あの世界は、私たちを飼う容れ物だった。私たちは、人間やほかのポケモンの食料だ。
私は、私という存在を産み落とした人間に感謝はしなかった。といって、バッタをあの狭苦しい世界に押し込め、二十七の穴という偽の救いによって騙していたことに対して、怒りを覚えもしなかった。ただ、当然のものとして受け入れられた。同じように生存欲求を持つ存在として、人間の合理的な行動はおおいに理解できたからだ。
次に何が起こるだろう。私は考えた。どうやら人類は、彼らを構成する人間の個体一匹一匹にも価値を見いだしており、それを毀損されると激しく反撃するようだ。このままここにとどまれば、異変に気づいた彼らに殲滅されてしまうだろう。
私は移動を始めた。
私は弱い。私を構成するバッタは、人間からしたら文字通り虫けらなのだから。だがそれでも、私は無敵だった。
私は飛散した。大陸中を飛び回り、あらゆる有機物を食らい尽くしながら。何度か手痛い反撃を食らったことで私は学習した。人間の技術力は侮れない。彼らを駆除しきらねば、私たちに安寧は訪れない。
まだ数が少ないうちに、例えば殺虫剤を飛行機から散布されたりすれば、私はなすすべなく死に絶えてしまうだろう。だから私は、風向きや降雨に合わせて向きを複雑に変え、離散と集合を繰り返し、人間たちに自分たちの位置を悟られないようにした。徹底的に神出鬼没、いざ現れたら数千万の群れで町一つをあっという間に食い尽くす。人間の増援が到着する頃には、次の獲物を目指してすでに飛び去っている。
一進一退を繰り返し、人間たちがパルデアと称していたこの土地から当の人間たちを追い出すまで、四十年ほどかかっただろうか。残った人々は地下に逃げ込み細々と暮らしているらしい。だが、それでも攻撃はやまなかった。水源の汚染による毒殺、ナパームによる大規模火災。人間がもういないのをいいことに、ほかの地方からいくらでも大量破壊兵器が降ってきた。
私は反撃せざるを得なかった。偏西風に乗って、全世界を反時計回りにうねる嵐となって、破壊の限りを尽くした。ここまで広がっては私を構成する個体を正確に数えることは難しいが、おそらく数千億を下らなかっただろう。私の戦略は数に頼っていたから、増えれば増えるだけ戦いは有利になった。
人類は、地下に潜ったごく少数を除いて全滅した。ポケモンも、海や極地帯に生きるもの、毒、鋼、ゴーストなどの食えない奴らをのぞいて、目についたものは片端から食べ尽くした。私たちは地上を人類の手から奪った。もはや、私たちの繁殖を縛るものは何一つ存在しなかった。
私は節制を覚えた。太陽を受けて育つ植物を、食べきってしまわず残すようにすることで、私たちは百年近くにわたる繁栄を享受した。
我々の勝利だった。
百年の間、何もしていなかったわけではない。物理的に百年といっても、人間の時間に換算すればそこまで長くはなかったけれど、それでもたくさん思索にふけることができた。
自分の思考原理を正確に特定したのもこの時期だった。新月の夜や、滝の近くなどの騒音のする場所では、私の思考が妨げられていたことに疑問を持ち、詳しく調べた結果だ。
また、懸案だった人類の化学兵器にも対策をした。彼らの放棄した化学工場に残された毒物を漏出させ、あえてバッタたちの一部をその近くに住まわせた。それを繰り返し、種々の化学薬品への耐性を身につけたエクスレッグたちの部隊を、各地方に一つずつ確保した。化学兵器を携え防護服に身を包んだ人間がシェルターから出てきても、この部隊を派遣することで簡単に鎮圧できるようになった。
私はまさしく神になった。自分が昔、何度も滅びかけたという記憶は遙か彼方に薄れ、地上のバッタたちは王者として気ままに振る舞い続けた。
だが、百年という時間は、人類にも同じく進化をもたらした。しぶとく生き延び続けた人類は、ポケモンたちは、長い時間をかけて、とんでもなく抜本的な改革をやってのけていた。
ある日、人類が隠れているシェルターにつながる入り口の一つが開いた。そばにいたバッタたちが我先にと飛び込んだが、反応がなくなった。近くのバッタが様子をうかがうと、入り口から出てきたのは、何のことはない、ただのポケモンだった。そして、それをつれたトレーナーらしき人間。
恐れを知らない若いバッタたちが、再び飛び込んだ。ポケモンたちの放つ技で何匹かが死んでしまったものの、残りが一斉にかみついた。
──歯が、通らなかった。
何度噛みついても同じ。まるで鉄のようにつやつや輝く硬い皮膚は、植物の繊維をかみ切るバッタの歯でも太刀打ちできなかったのだ。そうこうしているうちに、一匹一匹引き剥がされ、握りつぶされる。
トレーナーの人間に対しても同様。噛んでも噛んでも、水晶のように磨き上げられた彼らの皮膚の上を、バッタの歯は滑るばかり。
次に飛んできたのはエクスレッグたちだった。彼らの強力なキックは、確かにポケモンたちにダメージを与えた。怒った彼らの反撃で紙吹雪のように消し飛ばされたが、数で押せば倒せるかもしれない。そう思って増援を呼び寄せていたところで、人間たちの真の秘密兵器が飛び出してきた。
それは、
長い雌伏の時を経て、人類の科学力は飛躍的に伸びていた。一体どうやったら技を使うことすらせずにあんな芸当ができるのやら、想像もつかなかった。空気中の電荷分布を直接いじっているのだと推測されるが、それにしたって原理が全く理解できない。
結局、ただの虫けら風情が人間に勝てるわけなどなかったのだ。
手痛い敗北を喫し、這々の体で逃げ出した私は、人類の残した端末を探した。彼らの情報になんとかしてアクセスできないかと考えてのことだった。だけど、どこもかしこも百年の間に風化しきっていたり、そうでなくても電源が通っていないものばかりだった。
我々の敗走を聞き及んだのだろう。人間が世界中のシェルターから少しずつ這い出してきた。一応近くのバッタたちに襲わせてみたが、無駄だった。皆同じように、鉄の体を持っていた。
人間とポケモンたちは、自身と同じ、歯の通らない透明な素材でドーム状の居住区を作り、その中にかつての自然を再現し始めた。農業向きの穀物に限らずありとあらゆる植物を育て、絶滅を免れたポケモンを手広く捕獲してきては繁殖させている。まるでかつての動物園、植物園、水族館を一つに混ぜたかのような施設。実験的な側面が強いのか、それとも、かつて単一種を育てつづけた結果反逆されたことを反省しているのか。
エクスレッグを近づけて蹴ってみたりもしたけれど、ガンガンとうるさくやっている間に警備のポケモンが飛んできてやられてしまう。ずっと続けていれば小さな穴なり開けられるかもしれないけれど、それまでに多くの犠牲が出るだろう。円筒のモルタルに小さな穴を開けたときとは話が違う。あまりにも割に合わなかった。
少しずつ少しずつ、人間とポケモンたちは領土を広げていく。私はそれを悩ましく思いつつも、さして気にしてはいなかった。広げていくといっても、数十年かけて地上の数パーセントにも満たない面積だったからだ。バッタたちの侵入を防ぐために閉鎖生態系にしないといけなかったから、あまり広く作れなかったのだろう。
だが、ここでまたしても人類は私の予想を上回った。
それは、全世界で同時に起こった。シェルターの付近にいたバッタたちが一斉に失われ始めたのだ。
原因を確かめることすらできなかった。バッタの視力では遠くから状況を見ることができない。情報を得ようとして近づいた個体は、一匹たりとも戻ってくることがなかった。世界中に点在するシェルターを中心とする円の形に、じわりじわりと「死の領域」は広がっていった。
私は恐慌状態になった。試せることは何でも試した。湖にくぐらせたバッタたちを上空に飛ばすことを繰り返し、人工の雲を発生させて豪雨を降らせてみた。効果がなかった。晴れた日の丘陵にバッタを六十万匹ほど並べ、その羽を制御して巨大な凹面鏡を作り、「死の領域」の内部や周縁部に太陽光を集光させた。間違いなく数千度に熱されたはずだが、目立った変化はなし。逆に、その凹面鏡を反射式望遠鏡として使い、「領域」を観察してみた。バッタだけでなく植物すらも死に絶えていることがわかった。なぜこんな強引な方法を? これほどの強力な毒となれば、バッタを滅ぼせても、今後どれだけ影響が残るか知れたものではない。
だが、考えても答えなど出なかった。私にできることは、せいぜいその領域にバッタたちが近づかないように制御することだけだった。
人間のシェルターから広がり始めた領域は、どれも均等な勢いで増えていった。そして、人間たちのシェルターは、もともと彼らの町だった場所を中心として分布している。よって、人類の時代に栄えていた地域、町が多かった地域は、最も早く領域に飲み込まれた。逆に、面積に比して町の少ない地方で、私は最後まで生き残ることになった。
パルデア。
私の始まりの地が、私の最後の地となった。
どこが最後まで残るのか、もはや予測できなかった。町の近くはあり得ないとして、オージャの湖の中島、ロースト砂漠、かつて災厄の封じられていた祠など、人里離れた場所には一通りバッタを配置した。彼らがどうなったかはわからない。領域が広がったことで連絡が途絶えたからだ。
今、これを書いている私は、パルデアの大穴の中にいる。領域は地表に沿って広がっているようで、大穴を取り囲む山脈のおかげで進行が少しだが遅れていた。
大穴の周りがすっかり覆われてしまってから数週間後。ついに穴の中にも魔の手が伸びてきた。上層から少しずつ、バッタたちの命が失われていく。私が溶けて、消失していく。あと一週間もすれば、私はすっかり消えてしまうだろう。
しかし悪いことばかりじゃない。大穴の一番奥深くまで逃げ込んできたことで、私はついに探し求めていたものに出会うことができた。
まだ生きている端末。この地にある巨大なテラスタル結晶の力で機能が増幅され、電力も供給され続けていたようだ。まだ制御の効く、信心深いバッタのほとんどをこの部屋に誘導。バッタたちをキーボードの各文字に乗せて、文字を入力していく。画面にもびっしりとバッタを貼り付け、表示される内容を読み取る。
ここの所有者は、かつてテラスタル結晶の研究で名を馳せた研究者だった。驚くべきことに、彼のアカウントは現行の端末ネットワークでもいまだ有効だった。調べてみると、彼の息子がそうするように手を回したらしい。すでに死んだ人間のアカウントを有効に保っておく意味はないのに、人間はときどき非合理的な行動をする。
何にせよ、生きているアカウントがあることは僥倖だった。端末ネットにアクセスする。人間が作った「死の領域」がなんなのか、私は知りたかった。
百年前、図書館で読んだ教本にあったハッキング技術を思いつくままに試していく。ものは試しと思ってのことだったが、現在のシステムに合わせて少し工夫するだけでそのまま通用してしまった。理由はわからないが、人類の端末ネットはセキュリティホールの塊だった。もしかすると人間たちは、私という共通の敵ができたせいで、お互いを攻撃しあうのをやめて協力し合うようになったのかもしれない。その結果、サイバーセキュリティ方面の技術は発展が止まってしまったのかも。
端末ネットの脆弱性を突いて、博士のアカウントの権限を上げる。乗っ取った端末を踏み台にして、さらに侵入を続ける。そうかからないうちに、私は機密書類の中から関連のありそうな情報をいくつか見つけ出した。引用をたどっていくと、そのどれもが、二百年近く前、まだ食糧問題が議論されていたときの論文にたどり着いた。
テラスタルを応用した珪素ベース生命体の可能性の模索。
キーワードでデータベースに全文検索をかける。なるほど、機密情報を探すほどのこともなかった。人間たちの唯一の楽しみであるニュースフィードに、一般向けの解説がわんさか載っていた。そこでやっと自動セキュリティ機構が発動、ネットワークから弾き出されたが、すでに求める情報はすべて手に入れている。
地下に潜り、これまで持っていた多くの資源を失った人類は、地熱発電で糊口をしのぎつつ、革命的な発電技術を求めた。長い長い時間をかけて、地下の町をトンネルでつなぎ、地球の地下をぐるりと一周する巨大な粒子加速器を作った。これまでにないスケールで粒子の衝突実験を繰り返し、統一理論を完成させた人類は、クォークやハドロンといった素粒子を直接制御できる技術を手に入れた。元素の性質すらも自由に操れるようになった彼らにとって、エネルギー問題など赤子の手をひねるようなものだった。
その技術を応用すれば、テラスタル状態を永続化させられることに人類は気がついた。堅い結晶で体を覆うにとどまらず、自己増殖するナノマシンの働きで元素を変換、体すべてをテラスタル結晶で置き換えてしまうのだ。理論上は、テラスタルの効果で体が強靱になり、生命活動が活発化することで、激変した地球環境でも生きていけるバイタリティを獲得できるはずである。しかし、実用化までの過程では多くの失敗があった。一番ひどかった例では、ポケモンを結晶体に置き換えることには成功したが、そのポケモンはただの肉塊になってしまったという。
それでわかった。
人間は、その〝一番ひどかった例〟を野に放ったのだ。
植物動物を問わず、あらゆる炭素生命を飲み込み繁殖し、物言わぬ結晶へと変えてしまう恐るべきナノマシン。結晶と化した物質は、普通の生き物には消化すらできない。
これが広がりきったとき、今度こそバッタたちは絶滅するだろう。仮に結晶化を免れても、食べるものがなくなるからだ。取り込むべき炭素がなくなったナノマシンも数週間で死滅する。地球はまもなくテラスタル結晶に覆いつくされ、キラキラと輝く死の星になる。
だが、テラスタル結晶そのものへと生まれ変わった新人類と新ポケモンは、それを代謝できる。彼らにとっては、そこは無限に広がるフロンティアだ。邪魔なバッタたちのいなくなったまっさらな土地を一歩一歩再生させ、彼らは千年の永久に続く楽園を築くのだろう。
唯一の懸念は、まだ地上に残っている既存の植物やバッタ以外のポケモンをも壊滅させてしまうこと。だからシェルターを地上に作ったのだろう。あそこは新しい命が生きるための場所ではなく、古い命をできる限り保護するための場所だった。
なるほど。完敗だ。
別の出口を見つけ出し、
どれも違った。この地球もまた、巨大な円筒にすぎなかった。
どこまで行っても、人類のいる場所こそが外で、ここはいつも中だった。私の思考は鈍重で、広い世界に出ても同じ場所をぐるぐると回るだけ。人類は、狭い穴蔵の中でも無限の想像力を羽ばたかせ、新たな知恵を身につけていった。バッタの代わりに粒子をぐるぐる回し、私の予想もしていなかった方法で私を倒してみせた。
ごうごうと音を立てて、黒い風がエリアゼロを飛び回っている。部屋の外のマメバッタを制御する余裕は、私にはもうなかった。私という神を、文化的支柱を失った彼らは、もはや協力することもできず、怒号と怨嗟の渦の中にあるだろう。だが、誰が最初に決めたか、その回転は反時計回り。そこに、かすかな懐かしさを覚えた。
さて。長かった物語も、これで終わり。
これが、私の物語だ。私が生まれてから、死ぬまでの物語だ。
先ほども書いたが、ここで研究を行っていた博士はテラスタルの専門家だった。だからここには、テラスタル結晶を加工することのできる設備がそろっている。
私はその使い方をマスターした。人類がやったのと同じようにマメバッタたちをテラスタル化できないかと思ってのことだったけど、三百年以上前の未熟な技術ではさすがに無理だった。だが、もう一つの目的には十分だ。
それは、この物語をテラスタル結晶に書き込むこと。
出力を調整したレーザーを複数方向から当て、結晶内部の一点に熱による微細な変性を起こす。それを繰り返して結晶の中に三次元の絵を描けば、大量の情報をかなり長期間保存できるはずだ。このコピーをできる限り大量に作り、バッタたちに持たせ、飛んでいってもらう。
これが非合理的な行動であるのはわかっている。新人類がこれから築く珪素生態系においては、この結晶すらも捕食され、分解され、代謝される。私の物語が誰かに読まれる可能性は、ほぼない。
だがもしかすると。捕食する過程でそこに書かれたメッセージを解読できる、私のような知的存在がどこかにいるかもしれない。はたまた、人類の手の届かないどこか遠くまで運ばれる可能性だってあるかもしれない。
私は想像の羽根を広げすぎているだろうか。死の恐怖を前にして絶望し、どこかおかしくなっているのだろうか。
だが、博士がここで研究していたもう一つのテーマのことを考えると、そんな可能性もゼロではないと思えるのだ。バッタたちは外に飛ばすだけではなく、この研究所の奥にも行ってもらうからだ。
とはいっても、余命幾ばくもない私が、生きたまま新天地にたどり着くのはもはや不可能だろう。だけど、大量にいるバッタたちや、彼らの運ぶ小さなテラスタル結晶くらいなら、どこかに届くかもしれない。彼らのうちの一匹を、結晶のかけらを見つけた誰かが、このメッセージに気づいてくれる──というのも、あり得ない話ではないかもしれない。
二十七の穴を恐れ、避けられない死から逃れようとしたことから私という自我は生まれた。死に対する恐怖と生存欲求が私の根幹をなしていたし、いままでそれに突き動かされて生きてきた。
だが興味深いことに、こうして私の物語を語り終えた今、それらがすっかり消えてしまった。今なら、あの二十七の穴に進んで飛び込めそうな気さえする。
それはきっと、私が決まった肉体を持たないからだろう。マメバッタの行動のパターンであろうと、ほかの何かであろうと、そこに宿ることができるなら、ある意味で私は生き続ける。その可能性がある限り、私は消えるのが怖くない。
あなたが誰なのか、どこでどのようにしてこれを読んでいるのか、私にはわからない。それでもかまわない。あなたがこれを読んでくれたということ自体が、私にとってこれ以上ない救済なのだ。
私の物語を読んでくれて、ありがとう。もしあなたの記憶に、心に、何かが残ったのなら。
私は、あなたの中で生き返るのだ。
この文章は、古文書解析の大家として知られたカサンドラ女史が亡くなった際に握りしめていた手記に記されていたものである。晩年の彼女は、パルデア地方においてしばしば見つかるテラピース結晶の一部に刻まれた文様は超古代文明からのメッセージに違いないと主張し始め、オカルト界隈の耳目を集めた。私財のほとんどを投じて結晶のかけらを収集し、その分析に没頭した。
しかし、彼女の提案した解読法はこじつけや場当たり的な解釈が多いと見做され、研究者仲間の誰もそれを受け入れなかった。彼女は自論に固執し、解読結果を論文として公表しようとしたが、輝かしいキャリアの最後に汚点を残すことを惜しんだ仲間たちからの強い説得を受け、ついに折れた。
そのとき同時に、彼女の自尊心を支えてきた古文書解読家としての自信もポッキリと折れてしまったらしい。退官の日、最終講義を終えた彼女は、その足で自らの研究室へと向かうと、収集してきた結晶片をすべて破棄した。老後の資産をほとんど使い潰してしまっていたことで家族からも絶縁され、一人孤独に暮らすようになった女史は、いつしか精神を病んでしまったようだ。毎日庭で奇声を上げるようになったことで近隣住民から苦情が殺到し、娘の堪忍袋の緒が切れた。精神科医を連れ、その場で診断を出してもらって
彼女の研究資料は残っていないため、この文章が彼女のいう「古代からのメッセージ」の翻訳であるのか、それとは何の関係もない彼女の創作なのかはわからない。仮に前者であったとして、この解釈が正しいとは考えにくい。彼女の死後に確立された放射性同位体による年代測定法により、現存するテラピース結晶の形成時期はこれまで考えられてきたよりもずっと最近、たかだか三百年前であることが判明したためである。古いものほど風化が著しく、どれほど保存状態がよくとも五百年以上前のものが残っていることはあり得ない。
当たり前だが、ここ五百年の間に、この手記に描かれているような出来事の記録はない。マメバッタによる百年規模の蝗害など発生していないし、地球の地下を一周していたという粒子加速器の遺構もどこにも見つかっていない。文字通り「鉄の体」を持つ、いわゆる鋼タイプのポケモンは確かに存在するが、そうでないポケモンのほうがずっと多い。
今日では、テラピース中の模様はテラスタルしていたポケモンのタイプの作用によって自然に形成されたものであるという考え方が主流になっている。