ポケモン小説wiki
うつそみを廻る の履歴(No.1)


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濡れ場と思しき描写があります。



 (ページ)(めく)る。
 指先を添わせ丹念に、難解な文献を精読していく。
 目を走らせる。頁を捲る。拳で汗を拭う。頁を捲る。洋燈(ランプ)を点け直す。頁を捲る。
 これほど一意専心に打ちこんだのはいつぶりか。把捉した知識を海馬へ刻みつける。偏執的なまでの没入はどこか心地よくもあった。初めて心を通わせたポケモンと、平原を駆け巡るようだった。眼光紙背に徹すつもりで、本の隅々までをあたしの血肉に転換していった。



 瞼を焼くような朝陽で目が覚めた。
 いつ寝入ったのだろう。重たげな布団を跳ね除けようとして、それが異様に手足へ絡みついた。悪夢にうなされたのか全身は湿気を帯び、いぎたなく寝返りを続けるうち、べにょり、とあたしは床板へ転落した。
 カラサリスめいた風体を脱すべく、しつこい布団を剥ぎ取ろうとした。剥ぎ取ろうとした手が、出ない。成長しすぎたモンジャラみたく、脚も満足に動かせない。というかいやに体が重い。
 ……べにょり?
 耳慣れない擬音(オノマトペ)を反芻するうち、思考の靄が次第に薄れていく。首だけは自由が利いた。10畳ほどの小屋は古色蒼然とし、粗木の梁は腐朽しかけていた。中央には棺桶みたいな作業台が鎮座し、他は運びこんだらしい本棚と硬い寝台があるくらい。さながら潜伏拠点だ。
 厭な妄想ばかり膨らんだ。野盗に攫われふんじばられているのか。奴隷として売り飛ばされるのか。情報を求めて奔走するあたしの視線は偶然、引き戸の傍に立てかけられた鏡へ向いていた。
 頭頂から足先までを映すはずの姿見には、下方およそ3割の範囲にあたしが収まっていた。杵で伸ばされた餅のような概形(シルエット)には、手もなければ脚もない。腹から首許にかけて塗り潰された露草色。対して顔から背中側は常盤色に染めあげられ、2色の境は菜花色の波線で隔てられていた。顳顬(こめかみ)から伸びる勾玉のような触覚は、怯えたように垂れ下がっている。
 それが、布団に包まれたあたし。

「どうなって、いるの」

 トリトドン、東の海の姿。三ツ目をぱちくりさせながら、鏡の中のあたしが、ぽわぐちょ、と小さく鳴いた。



うつそみを



 ポケモンになっちゃった!
 なっちゃったものは仕方ない、と割り切れるほどあたしは適応力が高くなかった。人智を超えた不条理に呼吸が乱れ、吐き気を催してくる。迷いこんだ樹海で日没を迎えるような焦燥が募った。助けを求めて声を張った。口端から紫色をした汁がちょっと出ただけだった。
 途方に暮れるあたしの背景を埋めるようにして、音もなく鏡面にサマヨールが映りこんだものだから、あたしはトリトドンの首筋を思い切り逸らして振り返っていた。

「あああなた、何者ですかっ!?」
「わ 魂消(たまげ)るな」
「うわあっポケモンが喋った!!」
「元気そうで 何より だけど」

 もごついた口調のサマヨールが操る言語を、さも当然のごとく脳が処理している。臓腑に至るまでポケモンに作り変えられているらしい。眠る前までは確かに人間だったという観念を取り払われてしまえば、あたしは元来トリトドンで、ありもしない記憶を植えつけられたと推論する方がまだ合点がいく。
 ――いや、あたしは人間だ。人間だった。かつて得た見識が警鐘を鳴らしていた。サマヨールは人を襲う。縄張りへ近づいた者へ影の塊をぶつけ、捕縛した侵入者の魂を包帯の隙間から吸うと言われている。それを拠り所とするように、あたしは在らん限りの声量で喚き散らした。拙い水鉄砲で掌を押し返した。
 それでも彼はめげなかった。何をするのです! とのたくるあたしへ、大丈夫だから、などと柔和な声をかけつつ、両手で水浸しの毛布を剥ぎ取っていく。あたしは暴れたが、歩行さえままならない稚児の抵抗など瑣末なものだ。
 両手で包まれ寝台へと戻されると、サマヨールと目線の高さが等しくなった。人間の頃は不気味だと思っていた一ツ目に害意は宿っていない。無闇に警戒したばつの悪さに、あたしは謝罪もろくにせず押し黙った。
 あたしの容体を窺っているらしい、彼も慎重に言葉を選んでいるようだった。

「僕が何度 呼びかけたって 意識が戻らないんだもの。干からびちゃった のかと 思って 心配したよ」
「あの……、その」
「……もしかして 何も覚えて ない?」

 ポケモンに変身した影響か、記憶が混濁していた。何者ですかと詰問しておきながら、自分自身が何者なのかさえ判然としない。年齢はおろか名前すらおぼつかない。
 サマヨールは手を(こまぬ)き嘆息した。落胆と安堵が入り混じったような、疲れた笑顔を浮かべていた。長らくあたしを介抱してくれていたのだろう。

「ごめんなさい、自分の名前すら」
「ああそれは」サマヨールは言い淀んで、一ツ目をふいと逸らす。「自力で思い出せると 嬉しいん じゃない?」
「……あたしが何者なのか、知っているのですか!」
「知ってるも 何も」手狭な小屋を漂っていた彼の視線が、意を決したのか鋭くして戻ってくる。「僕は きみのこと (あるじ)って呼んで いたから」

 どこか神妙な彼の言葉に脳裏が疼く。人間だったあたしはポケモンを連れていた。いたはずだ。それはこうして、窮地に陥ったあたしへ寄り添ってくれるような、相棒と呼ぶべき存在。
 握り返す手はないけれど、あたしはサマヨールの大きな掌にトリトドンの首を擦り寄せた。

「至らぬことも多いかと思いますが、よろしくお願いします。あなただけが頼りです、サマヨール」
「……。うん、任せて」

 彼の両手に運ばれながら引き戸を潜る。周辺環境を確かめれば記憶が呼び起こされるやも、と期待したあたしは、たった1歩で肩透かしを喰らわされた。
 物寂しい入江だった。あたしが目覚めたのは掘っ立て小屋と呼ぶべき陋屋(ろうおく)で、外装もひどく傷んでいた。それが崖際にぽつねんと建てられているだけ。人間はおろかポケモンの気配さえない。タマザラシの寝返りのような穏やかな細波に加え時折、松林を抜ける潮風のさざめきだけが響く。なぜあたしがここを訪れたのか、思い出せるはずもない。
 休憩を挟みつつサマヨールと共に周囲を探索した。ほど近い平地に門扉が見えた。人間の集落があるようだった。つい駆け出そうとしたが、今のあたしは良くて追い払われるか、最悪の場合には捕獲、あるいは排除されるだろう。まず人間に戻ることが先決だ。
 小屋へ戻ってくる頃には夕方になっていた。

「あたしを、ベッドまで運んでくれますか?」
「え それって」
「何を考えているのですか」
「ざーんねん」

 喫緊の課題は歩行の習得だった。室内の往復と寝台の昇降を繰り返す。3対あるトリトドンの腹足おのおのを律動しようとすると、途端にこんがらかった。ケムッソが匍匐するようなイメージで全身をのたくらせる。まるで水泳だ。筋肉が途端に悲鳴をあげ、1時間もしないうち疲弊した。床板の埃が腹部へ粘着するのもしんどく、桟橋でサマヨールに丸洗いしてもらった。

「この体、全く馴染めません。歩くことさえままならないし、閉じられない目が3つも!」
「……目 僕はひとつだけ だしね」
「あっ」サマヨールの繊細な部分へ触れてしまった。自分の不用意さに触覚を垂らす。「その、ごめんなさい」
「主と平均したら ちょうどいい感じ」
「……」
「足の数なら 4本ずつ!」

 激励してくれてのことだろう、サマヨールは冗談めかして手を翻す。下手くそな作り笑いを返し、あたしは寝台へ倒れこんだ。

「……おやすみ 主」

 彼は言い残すと、宵闇に溶けるようにして消えた。あたしが眠るまで見守ってくれているのか、もう遠くへ出向いているのか判別がつかなかった。
 トリトドンに寝具は無用だろうが、あたしは生乾きの布団に包まった。煤けた屋根裏をわけもなく眺める。今だけは、自分の身体と向き合わなくて済む。夢見へ意識が遠のくまでの数分、あたしは人間に立ち戻ることができた。



 幾日にもわたって記憶を辿るうち、淀んだ殿(おり)の底から浚渫(しゅんせつ)された手がかりがあった。トリトドンへ変身する前夜、あたしは本へ没頭していたはずだ。小屋の本棚から1冊引っ張り出し、表紙を咥えて頭ごと倒れるようにして開く。読めていたはずの文字は潰滅したアンノーンの隊列に成り下がり、どれほど三ツ目を細めてもトリトドンの脳は理解を拒んでいた。人間とポケモンには決定的な乖離があるとされてきたが、文字の判読もそのひとつらしい。
 トリトドンの肉体に順応するうち、さまざまなことが知れた。
 凝った料理など望むべくもなく、サマヨールが採取した自生の豆や茸、穀物の類でも十分に満足できる。雑食性なのには救われた。海中で口を開けているだけで、微生物を()しているのか腹が膨れた。
 歩行に難儀するのは当然だった。トリトドンは太古から海中で暮らしてきたのだろう、何度か水を掻いただけで、(みぎわ)では見違えるほどの俊敏性を獲得した。砂浜を腹這いで移動するのにも、抵抗がなくなっていた。
 あたしはどうにか生きながらえていた。



 幾度となく逍遥(しょうよう)した波打ち際に、目新しいものが漂着していた。口で咥え砂地から引っ張り出す。本だ。波風に曝されたとは思えないほど小綺麗な表紙に、あたしは引き寄せられるように見入っていた。
 文字の解読など早々に諦めていた。まさかとは思いつつ、あたしは目を走らせた。

「ま どう しょ……?」

 読めた。アンノーンの盆踊り会場と化していたはずの文字列が、自ずと目に飛び込んでくる。
 腹足の間に冷や汗がどっと噴き出した。半ば諦めていた人間への戻り道に光明が差した。間違いない。あの晩に読んでいたのは、この本だ。

「それ なに?」
「わッ」

 きのみを採取しに森へ向かったはずのサマヨールが、横から覗きこむように立ち現れた。彼の神出鬼没にも慣れたものだが、普段ならあたしをぎょっとさせないよう遠方から手を振りつつ帰還する。急いでいるのか、気配りを失念しているらしかった。

「ちょっと貸して」

 むんずと掴みあげると、サマヨールは本を乱雑に開く。頁ははらはらと流れ、その勢いのまま埃を打ち払うように裏表紙を閉めた。
 一ツ目が引き攣っていた。彼に眉間があれば確実に皺が寄っていただろう。ただならぬ気配に少し縮んだあたしをよそに、サマヨールは霊力で浮かべた本へ向け、掌から鬼火を放ったのだ。司令を受けたミツハニーが一斉に外敵を取り囲むように、青白い妖気が本を包みこんだ。

「何をしているの!」
「これは 読んじゃダメだ。悪い本だ!」

 声を荒らげて憤るサマヨールの気配は、人間を襲うとされてきた怪異のそれで。慌てて取り繕い「ごめんよ」と背中へ抱きついてくる彼を振り払い、あたしは書籍へ一心不乱に水鉄砲を吹きつけた。
 十数秒の放水を受けてなお、燐火は残り続けた。泥爆弾も通用しなかった。手をこまねいているうち、人間へ戻る唯一の手がかりは消し炭になっていった。

「なんてこと……」
「僕は きみのことを思って」言い訳がましい彼の声が背中から響く。「処分したはず なのに どうして……」
「どこかに行って! あなたなんか、あたしの相棒でも、なんでもありません!」
「!」

 あたしが叫び終わるか終わらないかのうち、サマヨールは雲が流れるように立ち消えた。



 彼が姿をくらまして数日経った。味気のない日々だった。気ままに浅瀬で遊泳して、布団に包まれて眠る。またとない好機(チャンス)を取り逃したあたしは、茫然自失のていだった。

「ん……」

 採光窓から西陽が差していた。うたた寝をしていたようだ。引き戸の外に気配がして、あたしは寝台から飛び降りた。じたじたと駆けずり、重たげな引き戸を頭で押しやった。

「戻ったのですか、サマヨール」砂浜へ飛び出したあたしを出迎えたのは、人間の集落から訪れたらしき、バクフーンの姿。「……何者ですか」
「なんや歪な魂が()るなぁ(おも)たら、センパイやぁないでっか」バクフーンはあたしを正面から見据え、そう呼んだ。「えらいシュッとしてまんな。痩せたんとちゃいます? 長期休暇を満喫しとりますなぁ」
「長期休暇……?」
「なんです、覚えていまへんの? な〜んも?」

 煙管(キセル)を味わうように長く息を吐いて、バクフーンの首周りが発火した。喉元には人魂が点々と、背中側には烈火が絢爛(けんらん)と。

「センパイの無様な姿、よう見てられまへん。俺が引導を渡したる」
「え」

 片腕を掲げたバクフーンの背後に、赤紫をした鬼火が浮かび上がる。その数、百は下らない。振り下げられるのを合図に、包囲したそれらが入り乱れて飛来し、硬直するあたしを――

「主 海に」聞き慣れた声に、あたしは触覚をピンと立てていた。影の玉を散弾して百鬼夜行の一部を撃ち落としたサマヨールが、それでも相殺できない鬼火を盾になって防いでくれていた。「今すぐ!」
「あるじ、ねェ……」バクフーンが不敵に笑う。「センパイ(たぶら)かして、まァずいぶんと景気良くやっとりまんなァ」

 百あった不知火(しらぬい)が倍にして撒き散らされた。逃げるべくもない、実力差は圧倒的だった。あたしへ覆い被さるサマヨールへ向け、死霊の軍勢が一斉にぶつけられる。轟音と爆炎。

「雑把が」

 砂浜へ倒伏したサマヨールへ吐き捨て、バクフーンがあたしを見据えた。ずかずかと芝草を踏みしめ、縮こまるあたしの触覚を掴み上げる。

「なんや、女の涙はずっこいのぉ」

 あたしは泣いていたのか。ともかくそれが、襲撃者を士気阻喪(そそう)させたようだった。首周りが鎮火していく。

「センパイの涙に免じて、今回だけ見逃したる。……机、蓋が外れるようなってまっせ。今のあんたが必要としてるモン、入っとるはずや」

 ほな達者で。不気味なバクフーンは挨拶もおざなりに、集落へと戻っていった。
 瀕死のサマヨールを背中へ担ぎこむと、あたしは腹足の全力疾走で小屋まで舞い戻った。熱傷に呻く彼を寝台へ転がし、すぐ助けます、と声をかける。
 作業台を占領していた道具類を水鉄砲で押し流す。渾身の体当たりをお見舞いすれば、バクフーンの提言通り上蓋が外れた。端から頭で押しやれば、頑丈な板ががこんっ、と傍へ滑り落ちる。

「だ ダメだ。中を 覗いちゃ……!」
「安静にしてください! 傷に障ります」

 トリトドンの粘性をもってすれば垂直の壁さえ障害になり得ない。さしたる修練は積まなかったが、火事場の馬鹿力とでも言うのか、あたしは登攀(とうはん)に成功した。長方体の木桶の淵へ乗り上がり、転がりこむように内側を覗きこんだ。
 あたしは、あたし(・・・)を見た。
 齢十五ほどの少女の死体を見た。
 着慣れた藍染の防寒着、その袖に刺繍してある団章を認め、あたしは全てを思い出した。



 回復薬を塗られ横たわるサマヨールの隣へよじ登る。すっかりポケモンに成り変わったのか、こみ上げる憤慨は攻撃衝動へ直結していた。喉まで出かかった泥爆弾を押し返し、声を震わせないようにするだけで精一杯だった。

「説明して、ください」
「……そうだね」

 上体を起こしたサマヨールは薄目を開き、まだ痛むのか、諦めたように背中を寛げた。

「まず ごめんね。きみを 騙していた」喉が詰まったような喋り方も相まって、苦しそうな吐息が混ざる。「というより 打ち明け られなかった。僕の主は きみじゃない。ギラティナ様だ。僕は 召命を授かり きみたちを 監視していた んだ」

 瞋恚(しんい)の炎を(くゆ)らせるあたしを刺激しないよう、サマヨールの掌が腹足に添わされる。もう片手は、彼自身の骸骨めいた口吻(こうふん)の裏側へ向けられた。喉奥へ差し入れられた指が、小魚の骨を取り出すように弄っている。
 指先に摘まれた、青白い燐光を漏らす小さな魂。何度かえずいた彼は深呼吸をひとつ置いて、訥々(とつとつ)と話し始めた。

「僕は、きみからも、きみの相棒からも嫌われていた。それもこっぴどく、ね。そりゃそうさ。きみたちの目的を阻止するのが、僕の役目だから」
「あたしたちの、目的、って」
「もう思い出したんだろう、――ショウ」

 サマヨールがあたしの真名(まな)を口にした。ショウ。そうだ、あたしはそう呼ばれていた。ここヒスイの地へ流れ着き、開拓を生業とするギンガ団なる組織に加盟した。
 ギンガ団は調査隊へ所属するあたしに後輩ができたのは、わずか半年前のことだった。時空の裂け目から落ちてきた新人はすこぶる有能だった。正確無比の投擲でポケモンを次々と捕獲した。近づくことさえ忌避すべきオヤブンはおろか荒ぶるバサギリまでをも鎮め、それまで停滞していたヒスイ各地の調査を一足飛びに進展させた。ベロリンガさえ舌を巻く稀代の才覚に、厳粛なシマボシ隊長も一目置いているようだった。
 まさに神へ至らんとする英雄ぶりだったが、それは完全無欠を意味しなかった。後輩はあっけなく死んだ。純白の凍土での任務中、地吹雪に紛れ迫る暴竜の凶刃に(たお)れたそうだ。どうにか遺体は回収したが、葬儀では打覆(うちおおい)を外せないほど損傷は激しかった。
 彼が荼毘に付されるまで半日あったが、あたしが泣きついたのはシマボシ隊長でもラベン博士でもなく、ウォロさんだった。何かと後輩をライバル視していた者どうしだからなのか、明確な理由は思い出せない。ともかく彼は取り乱すあたしに、このことはどうか内密に、と妖しく微笑み、背嚢から分厚い本を取り出した。
 イチョウ商会はなんでも揃う、との売り口上に偽りはないらしい。いかにもな装丁の魔導書は、神話や民俗の類に精通するウォロさんの蒐集物だった。ガラルでの焚書から免れたその稀覯(きこう)本を捲れば、死者蘇生の理論体系とその実践について事細かに記されていた。
 死霊術師(ネクロマンサー)となるのに、ためらいはなかった。
 人知れず遺体を持ち出すのは容易だった。バリヤードは奇術(トリック)を得意とし、ドダイトスは棺を隠して運搬するのに適していた。後輩の右腕であるバクフーンにだけは勘づかれたようだったが、気まぐれなのか妨害は受けなかった。
 誤魔化してポケモンたちに片棒を担がせてしまったが、共に悪逆無道へ堕ちるのは忍びない。ピカチュウをはじめ戦闘用の手持ちは全て本部へ預け、デンボク団長へ長期休暇を申請した足で、医療班に貸していたトリトドンを回収した。
 そのころ医療班ではトリトドンの脅威的な回復能力に目をつけ、再生医療への転用に成功していた。手の施しようがないとされてきた重症患者の損傷した組織へ接触させると、数時間で患部が劇的に復元されるのだ。死霊魔術の完遂には欠損のない肉体が必要だった。
 始まりの浜に、村民は滅多に足を運ばない。物資を搬入した小屋へ閉じこもると、あたしは棺桶の上に魔導書を開き、幾日もかけて難解な儀式の全貌を解読していった。
 トリトドンの魂を慈しむように掌で包みながら、サマヨールが言った。

「何度も忠告したさ。怪しげな黒魔術を鵜呑みにし、あまつさえ実践するなんて、何が起こるか知れたものじゃない。案の定きみは死んだ。僕はちょうど主へ報告しに出向いていたんだけど、嫌な予感がして急いで戻ったんだ。……遅かった。僕が見たのは、肉体から遊離するきみの魂と、ひどく錯乱したトリトドンさんだった」
「あたしも、死んだのですね」
「うん」
「……ではなぜ」

 トリトドンの肢体で蘇ったのか。毒気を抜かれたあたしの意を汲んで、彼はそっと一ツ目を伏せた。

「せめてこの地のやり方で弔ってあげようと、僕はきみの魂をギラティナ様の元へ届けようとした。だけどね、トリトドンさんがどうしても、って。いつも僕へ泥爆弾を投げつけてくる彼女が、どうかお願い! 自分の体はどうなってもいいから! って泣き縋ってきたんだ」
「それを、聞き入れたのですか」

 幽玄な沈黙、そして首肯。彼の手が不意に浮かび、採光窓から夕空を指差した。天冠山の頂上付近に渦巻く時空の裂け目から、得体の知れない深淵が覗いている気配がした。

「死者を冒涜するような罪深きサマヨールは、魂を輪廻から外され新たな肉体への転生を禁じられる。この影の体さえ奪われ、魂だけが虚無なる現身(うつそみ)を永劫に廻旋(かいせん)することになる」彼の大きな掌があたしを包む。「それで構わないと思えるほどの、恋をした」

 あまりに熱を帯びた回答に、あたしは彼の人魂をまじまじと見つめてしまった。惚れた相手ならいくら嫌われようと、魂があたしに()げ替えられていようと頓着しない。畢竟(ひっきょう)あたしがポケモンへ変身するとは、まさにひと目惚れが成し遂げた狂気だ。

「……あなたって、最低ですね」
「ギラティナ様に背信し、記憶喪失のきみを騙し、大切な後輩の体だって燃やした。……僕自身、魂消ているよ。よくもまあ恋なんて世俗的なものに魅入られたんだ、ってね。でももうおしまいだ」
「どういうことですか」
「普段ならとうに僕は裁かれているはずさ。ギラティナ様、今ちょっと忙しいらしくって。お目溢しにあずかっているだけ」
「……あたしの相棒を、返してください。あたしはどうなってもいい、ので」
「相思相愛だね。僕もそうなりたかったな」

 掌に包まれた魂を見る。息を吹きつければ儚く掻き消えてしまいそうで、あたしは触覚を萎れさせた。
 思案していたサマヨールが不意に灼眼を輝かせる。

「僕の欲望も、きみの願いも、同時に叶える方法がひとつだけある」
「また耳障りのいいことで、あたしを騙そうとしていませんか。トリトドンを蘇らせるにも、体がひとつ足りませんよ」
「足りなければ作ればいい。僕は雄で、きみは雌だ」
「な」

 突拍子もない誘い文句に、あたしの口端から紫の涎が垂れ伸びた。
 だが彼の言い分にも一理ある。ないものは作る、自給自足は厳寒なヒスイを生き延びる鉄則だ。何よりあたしは手製作(クラフト)の達人だったじゃないか。
 音もなく起き上がったサマヨールと入れ替わるようにして、そっと布団へ寝かされた。曝け出された露草色の腹に、立て膝をついた彼が寄りかかってくる。霊体とは思えないほどの熱を帯びていた。普段は希薄な掌に、生々しい肉感があった。
 存外にも雄渾(ゆうこん)な指先が、ぐにッ、あたしの腹をなぞり上げた。

「命を宿そうと、強く願って。他の魂が転生する前に、僕が先に封じこめる」
「そんなこと」
「できるさ」

 しゅるり、サマヨールの腰から鈍色(にびいろ)の包帯がはだけていく。思わず顔を背けたが、そこは闇がとろりと渦巻いているだけだった。人間の男性に見受けられる象徴が、ない。

「あんまり見られると、恥ずかしいな」
「あの、これ、どうなって」
「好きな相手に命を宿せるんだ、興奮もする」
「……そういうことには違いない、のですか」

 人間として経験はあっただろうかとか、あらぬ思案を巡らせるうち、あたしの輪郭もぼやけ始めていた。揮発しかねないほど下腹部の粘性を弱めながら、秘めたる真髄は声高に叫ぶよう滾りたつ。
 いくよ? しなだれてくる彼の虚空が、あたしに触れた。

「ッあ!?」
「大丈夫……、僕に任せて、リラックスして」

 ドラピオンの神経毒が脳髄にまで侵食するかのようだった。軟体をかろうじて支えていた骨片までをも溶かされるような、未知の感覚。まるで力を込められない。快感よりも充足感に近い、故郷に残してきた両親の抱擁を彷彿とさせるような。
 小さく呼吸を乱す彼を、6本の腹足で抱き返す。歪な彼の愛情が浸透してくる。密着するほど境界線は曖昧になり、夕空を宵闇が席巻するようにあたしの思考を染め潰していく。
 うッ、とサマヨールが小さく呻いた。すかさず押しつけられる掌。握られていたトリトドンの魂はあたしの皮膚を沁み通り、ふたりで練りあげた混沌へと結びつく。

「ああ……、きもち、いい」

 譫言(うわごと)を漏らす彼の背後、佇立した姿見を一瞬、巨大な影が横切った。――見られて、いる。あたしが身構える隙もなく、帆布(ほぬの)のような漆黒の触手が鏡面から伸び出した。血濡れた鉤爪がサマヨールを背後から鷲掴むと「あ」という間抜けな断末魔を残して、異世界へと彼を引きずりこんでいった。
 玉響(たまゆら)のことだった。
 湖面を撫でたような細波が収まると、姿見は薄闇の屋内を映すばかり。唐突に訪れた静寂にあたしは、ぽわ、とひとつ鳴いた。返事をするように、サマヨールに託された腹底がじんわりと暖かくなった。



 記憶こそ取り戻したものの、おそらくあたしは人間には戻れない。コトブキムラへ転がりこんだところで、後輩のバクフーンが今度こそあたしを滅却するだろう。それにもう、あたしだけの命ではなくなっていた。サマヨールに置き土産を残された手前、生を諦めるわけにもいかなくなった。
 緩慢と掘っ立て小屋を出た。朧月はか細く、いつ降り始めたのか小雨が心地よい。数年前に上陸した始まりの浜から1歩踏み出したあの時と同じく、あたしはここから内海へ向け1歩、そっと体を漕ぎ出した。

 


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