「……これが夏の大三角。ベガとアルタイルが、いわゆる織姫と彦星だね」 夜空を見上げるのは子供の頃からの趣味だった。時には私を力強く励まし、時には優しく慰めてくれる。 「ごらん、流星群だ。今日は七夕だからね。2003年の千年彗星が残した塵に地球がぶつかるんだ」 私に科学の楽しさを教えてくれたお隣のお姉さん。夜空そっくりな黒い瞳に、自覚することもなく恋をしていた。 「あ、それ、しってる! あのお星さまにのって、彦星さまが織姫さまに会いに行くんだよね」 「ふふ。ベガとアルタイルは十光年以上も離れているんだ、どうやったって一晩じゃ会えっこないよ」 「もう、意地悪!」 夏は天体観測にうってつけの季節だ。街から少し離れた原っぱに二人して横になって、他愛もない会話で時間を過ごした。 「あの二つの星が天球上で近づくことはない。昔の人だって、彼らが実際には会えないことは何となく分かってたはずさ」 お姉さんはいつも暖かくて優しくて、でも握った手はとっても冷たかった。 「それでも彼らは信じたかったんだね。人の思いには、愛には、物理法則なんか関係なくて、何よりも速く飛んでいけるって」 まるで、そんなこと嘘っぱちだと言わんばかりの口ぶり。 (そんなことない。織姫さまも彦星さまも、一緒にいたいって気持ちを我慢して、お仕事を一生懸命頑張ってるんだから。きっと、会えるに決まってる……) 彼女に惹かれると同時に、私はその現実主義に反感を覚えていたのかもしれない。だからこそ、あえて理性に支配されたこんな職業を選んだのかも。 CENTER: &size(20){ライフゲーム}; RIGHT: [[さかなさかな]] LEFT: 『照射開始』 薄暗い研究室の中。相棒の無機質なナレーションを聞きながら、私は固唾を飲んでディスプレイを見つめていた。 『報告。探査機の加速を確認。有意な温度上昇なし。照射を続行します』 「……やったぁ! 成功だっ!」 最初の数分間ほとんど動かなかった光点は、ゆっくりと滑り出すと順調に軌道を上昇していった。 それはグライダーと呼ばれていた。単体では推進力も持たない切手サイズの宇宙船。鏡になっている背面で宇宙ステーションから放たれるギガワット級レーザーを反射し、光の持つわずかな運動量を積み重ねて、数ヶ月かけて光速の四分の一まで加速する。 目的は深宇宙の探査。この速度ならば、地球に最も近い星に数十年程度で到着できる。星の近くを目にもとまらぬ速さで通り過ぎながら、惑星などの調査を行うのだ。近傍の恒星を中心に、送り出されたグライダーの数はすでに一万近い。 私が子供の頃は、それこそ毎週のようにポケモンの新種報告が新聞を賑わせていたものだった。それがやっと落ち着きをみせてから数十年。エネルギー問題は過去のものとなり、情報の網はますます張り巡らされ、地上から未踏の地は消えた。 人類が次に目指したのは宇宙だった。軌道往還機が蜂のようにせわしなく飛び交い、いくつも宇宙ステーションを建設した。 前世紀に人類が作ったものとは違って、それは本物の&ruby(ステーション){駅};だった。太陽系から荷物を送り出す、という意味において。 「空をただ眺める時代は終わりだ」──宇宙開発局は威勢の良いキャッチコピーをぶち上げた。実際には電子基板一つを送るのが限界、しかも減速手段はなしときていたから、口さがないタブロイド紙は「&ruby(ステーション){駅};じゃなくて&ruby(ガン){銃};じゃないか」だなんて書き立てたりもしていたけれど。それでも、これまで手の届かなかった深宇宙に探査機を送り込めるということの意義は大きい。 学術的に十分な数の探査機が送り出された後、この事業は商業化された。量産によって、安価とは言わないまでも一般人の手の届く価格になっていたのだ。カップルが自分たちの名前をデータメモリいっぱいに刻んで銀河系の中心に放ったり、どこぞの狂信者さんがアルセウスの住まうと信じる星に向かって送り出したりなど、ニッチながら需要は尽きなかった。 とはいえ、私のやっていることも彼らと大して変わらない。すでに他の学者さんが探査機を送った星系に、後を追うように自作のグライダーを送る。片手間とはいえ設計に何年もかけただけあって、今日の初飛行は成功に終わった。子供の頃にチャンピオン業で稼いだ分は貯金していたし、ポケモン博士の仕事もやっていたから、お金の問題は無かった。 『賞賛。博士、おめでとうございます』 「ありがとう、エイダ。いつもお前の仕事は最高だ」 『恐縮。博士のアイデアあってこそです』 まあ、肝心の博士としての仕事──ポケモンの転送能力の解明──のほうでは、狙った成果がまったく上がっていないのが現状なんだけど。忙しさにかまけていたら行き遅れ、友人たちとも疎遠になってしまった。私は行き詰まった研究の気晴らしを&ruby(そら){宙};に求めていた。 この宇宙時代にあっても、ステーションに実際に行くにはとんでもなく金がかかる。人の命を保持する装置をまるごと軌道に上げるのはコストに見合わなかった。電脳世界や真空の宇宙空間でも活動できるポリゴンが、人間の代わりに維持管理を担うようになっていた。 『確認。次の予定は、明後日シュートシティで開催される学会での講演です。飛行機の出発まで二九時間ほどありますが、それまで何をなさいますか』 ステーションから私のパソコンに帰還した相棒が、ディスプレイから飛び出して実体化する。軌道までの数百キロなら無線でポケモンを転送できるようになったことは、私の研究者としての実績の一つだ。 「そうだねえ」 彼女を伴い、床に山積みになった服やら資料やらをまたいで壁まで歩いて行く。窓を開け放つと、小春日和の風と柔らかな日差しが部屋を満たした。 「良い天気だし、プロジェクト成功祝いにどっか遊びに行こっか!」 『提案。部屋の片付けをされてからにしてはいかがですか』 「……はぁい」 彼女にはロボット工学三原則が組み込まれている。たとえ主人の意志であっても、本人の害になると考えられる行動を看過することはできないのだ。 「う~わ、なにこれ。こんなつんつるてん着た覚えも無いんだけど」 『検索。三週間前、運動しようと思い立った博士が』 「エイダ。時には口にしない方が良いこともあるんだ」 グライダーは、照射される光の一部を電力に変えて溜めておき、様々な機能を果たすことができるように設計されている。一つ一つは亜光速で星系を飛び去るだけの塵芥だけど、力を合わせれば面白いこともできる──周囲のグライダーと同期することで巨大な電波望遠鏡のように働き、居住可能な惑星を探したりだとか。 結果は上々。水や氷があり、移住可能性のある惑星がいくつも見つかった。空前の宇宙ブーム。人類はいよいよ太陽系を飛び出していくんだと、私を含め誰もが思った。 だけどそこまでだった。いつか解決されるだろうと誰もが見て見ぬふりをしてきた問題──宇宙放射線が、厳然と人類の前に立ちはだかった。 普段意識することは少ないが、地球は分厚い大気と地磁気によって極めて優秀な放射線シールドとなっている。地球を飛び出せば太陽風に、太陽系を飛び出せばさらに致死的な銀河宇宙線の爆撃に晒され、ヒトは長くは生きられない。地下深くに居住区を作ればいい月や火星はともかく、宇宙船の外壁程度で放射線の防護は不可能だった。 そこで人々は再びポケモンに目を向けた。キュウコンやミュウなどの長命種には、酸化や遺伝子エラーといった老化の原因を防ぐための様々な仕組みが存在している。彼らの生体システムを研究すれば、放射線による遺伝子障害を継続的に修復することができるのではないか。 研究は一定の成功を収めた。人間の老化を事実上停止させられるようになり、人類は偶発的な事故を除いて死ななくなった。 自作グライダーの趣味は、有望そうな星系に一通り送ったところで止めていた。伸びに伸びた寿命でありあまった時間を、私はすべて&ruby(ほんぎょう){研究};につぎ込んだ。 『提案。博士、あまりに根を詰めすぎですよ。休憩したらどうですか』 「ごめん、もう少しだけ……ここのデータまで取ったらやめるから」 『嘆息。もう若くないんですから、体に気をつけたほうが……』 「ん? 今なんて言ったかな? よく聞こえなかったな~」 『復唱。もう若くないんですから、と言いました。お忘れですか、先月が百……』 ばちん。スピーカーのスイッチを落として黙らせる。 エイダは少しずつ&ruby(アップデート){進化};を重ねた。コンピュータの性能も向上し、角張っていた身体はなめらかに、言葉遣いもより自然なものとなった。やや生意気になった気がするけど気のせいだろう。 「……いいんだよ、体なんて。どれだけ乱れた生活したところで、細胞ナノマシンが全部治しちまうんだから」 私は率先して抗老化処置の被験者に名乗り出た。また手探りの状態の技術だったが、運良く致命的な副作用にも見舞われなかった。私の体は三十代前半のそれに若返っており、この状態を半永久的に維持するだろう。 子供の頃一緒に旅をしたポケモンもライバルも、同年代の知り合いは皆とうの昔に寿命を迎えてしまった。満足そうな顔で逝った彼らを尻目に、私はただ一人、命の灯火を凍り付かせて夢にしがみついていた。 それだけやっても、致死量の高エネルギー放射線には対抗しようもなかった。 そもそも、ポケモンたちですら放射線に対して無傷ではいられないのだ。たしかに隕石に乗って外宇宙から飛んできたポケモンの記録は残っている。だがそいつは、様々な形態に変化しつづけることで放射線の影響を無理矢理無効化する、生物として歪な姿に変貌していたという。 ゆりかごを飛び立つという人類最大の夢は、羽化することなく終わりを迎えた。残されたのは、大きすぎた夢に押しつぶされた哀れな抜け殻。 千億を越えた人口、止まらない環境破壊。それでも慎ましく暮らせばまだ百年は誰も死なずに済んだはずなのに、先走った連中が資源争いを始めてしまった。皮肉なことに、人類は死を克服したことでより強く死を恐れるようになったらしい。 『緊急通知! 博士、急いでください! ミサイル警報が発令されています!』 「わかってる! よし、これで最後……!」 私のラボのある街も当然無事ではいられなかった。研究データとエイダだけを連れて、私は命からがら避難所へと逃げ込んだ。 結末は呆気なかった。紛争は火の手のように広がって、あっという間に文明を焼き払った。進化し尽くした科学力が、極めて効率的に地上から生命を一掃した。大気は汚染され、海は干上がり、いまや白い風紋のように残された塩の丘だけがその名残をとどめている。 ---- 『沈痛。アローラ四島に続いて、イッシュが沈黙ですか』 「地震で通信ケーブルが切れただけの可能性もある。そう悲観しなさんな」 生き残った人間とポケモンたちは、比較的被害の少なかった地下に身を寄せ合った。クイタランの炎におびえるアイアントのように、土の中で息を潜めてただ生きるだけの日々。ネバーランドにして文字通りの地獄。人口が減ったから食料供給自体は十分あったものの、耐えられるものは多くはなかった。 「それにほら、明るいニュースもあるぞ。願いを何でもかなえてくれるポケモンの眠る繭がホウエンコロニーで発見されたらしい。千年に一度目覚めるっていうから……お、あと六百年くらい待つだけじゃん」 『疑問。そのときまで人間が生き残っている可能性は低いのでは』 「いつも言ってるだろ。時には口にしない方が良いこともある」 ぴっ、と格好を付けて指を振る。 「事実を認識するのは大事だけど、悪い予想ばかり並べても仕方ない。こういうとき大事なのは希望だよ」 『……同意。まだ諦めていない人もいる……博士のように』 「その意気だ。やっと研究が完成したんだ、あとはグライダーたちの報告を待つだけさ」 とは言っても、待っているのは自作のグライダーではなく、先に送られた観測機のほうだ。 私たちの放ったグライダーはほとんどがまだ目的地に着いていないし、そもそも観測機能を搭載していない。代わりに、空いたスペースギリギリまでアリアドスの糸を詰め込んである。宇宙の極限環境でも朽ちず、電気をよく通すよう、エイダの力を借りて化学変成し微細加工した特注品。 目的の星系に近づいたグライダーはそれを繰り出して、パラシュートのような形の網を作る。細い細い糸を切ってしまわないよう数週間かけて、街一つを覆えるくらいに広げる。それでも宇宙のスケールからしたらちっぽけなものだけど、それが光速の四分の一という猛スピードで動いていることを忘れてはならない。宇宙の極低温で超伝導になった網に電流が流され、作り出された磁場がわずかな星間物質を捉えるたび、機体を少しずつ減速させていく。 私たちは、まさしく宇宙の果てに巣を張るのだ。新たな命を根付かせるために。 「さて、今日はどっかの星系のグライダーが返事を返してくるはずだったね。どこだっけ?」 私の言葉に、エイダが無言で資料のホログラムを表示させる。 すでに見慣れた形式だ。だが、目を通すうち、私は内心の興奮を抑えられなかった。 「ブルーレ227dね……どう思う?」 『回答。探査以前は人類にあまり注目されていなかった天体です。太陽系から二十光年離れたG2型恒星ブルーレ227を公転しており……』 ぐだぐだと解説を始めかけた相棒を遮る。 「エイダ、そんなこと書いてある。&ruby(・・・・・・・){分かってるよね};? 私が何を聞きたいか」 『……観測された気温、大気組成、地殻構成。いずれもこれまで発見された星の中で最も原始地球に似通っています。気温がやや低いのが気になりますが、十分テラフォーミング可能な範囲かと』 「私たちのグライダーは?」 『検索。……すでに減速プロセスを開始、十二年後にブルーレ227の第三宇宙速度を下回ります』 「よし。追加で考慮すべき情報があったら通知を飛ばして。他の博士にも知らせてくる」 これ以上話しあうつもりはない、そんな意志をこめて、私は彼女に背を向けた。 ポケモンたちは、自らを構成する物質を情報に変換し、身体を縮小させる特異な能力を持つ。完全に電子情報化することで〝転送〟さえできることが発見されて以降、その原理を多くの研究者が追い求めてきた。 その末席に位置する私は、様々な転送方式を地道に試し、転送距離を飛躍的に伸ばしたことで名が知られるようになった。ラボを失う直前、最後に行った実験の成果を公表したことで私の名声は決定的になった。 レーザー通信による超長距離転送。転送可能距離は&ruby(・・・・・・){光の届く限り};無制限。 皮肉なものだ。本当に実現したかったポケモン以外の転送では、結局何一つ成果を挙げられなかったというのに。 「……なんだって?」 『復唱。私は行きたくありません、と言いました』 一週間後。研究者仲間との議論を終え、軌道ステーションに残るポリゴンたちに話も通した。だが、すべての準備を整えた段になって、彼女がついに反旗を翻した。 「……確かに成功率の高い任務じゃない。だけど、確率的に考えてもこれ以上適した星はないのは分かるだろう。私も精一杯バックアップするから」 パソコンに向かって最終コマンドを入力しながら、私は横目で彼女に返事をする。何でもないことのように振る舞えば、本当にそうなってくれるんじゃないかと願って。 『否定。他の星に行きたいわけではありません』 「ではどういうこと? 三原則があるのに、自分の命が私の命令より大事だというの?」 『偽悪的になるのはやめてください。博士が私たちポケモンの生存をいつも一番に考えているのは知っています』 やはり、ごまかしきれないか。諦めて向き直り、彼女の言葉に耳を傾ける。 『……私には、人間の気持ちは分かりません。博士がよく口にする〝希望〟という現実逃避の意義も』 ひどい言い方だ。だが、論理に駆動される電脳生物からしたら当然の感想なのかもしれない。 『ですが、人間の思考モデルを推定することはできます──希望を失うと、人間は生きていけないのでしょう。他者を意味もなく攻撃したり、自らの命を絶ったりと、非論理的な行動に走る』 否定はできない。永遠にこの岩の塊にへばりついて生きていかなければならないと悟った途端、人類はずいぶん馬鹿な真似をやった。 『だというのに、あれほど宇宙を渇望していた博士が、その夢が潰えてなお、どうして希望を失わないのかずっと疑問でした』 「それは……」 私は割り込もうとしたけど、彼女は止まらなかった。 『私が、博士の希望だったのですね』 私は何も返さない。それでも彼女には伝わってしまっただろう。私が明白な事実を口にしないことがしばしばあると、彼女はよく知っている。 『結論。私は行くことはできません。あなたを一人にしたくない。あなたから希望を奪いたくない』 &ruby(・・・・・・・・){ロボット三原則だ};。たとえ当人の命令であっても、人間の害になると考えられる行動を彼女は取ることができない。 彼女の枷になっているのは、私だった。 「……わかってくれ。お前にこんな場所で朽ちていって欲しくない。生きのびて、みんなの住む家になってやってくれよ」 『拒否。私は百万のポケモンよりも、博士、あなたを守りたい』 平行線だった。不甲斐ない私に彼女がついてきてくれたのはきっと三原則のおかげだけど、今はその三原則が私に牙を剥いている。 そこで、泣きそうになっていた私にある考えがひらめいた。それはちょっとした思いつきのようであって、でもずっと前から考えていたことでもあった。 必要なのは、発想の転換だった。彼女が旅立つことこそを、私の希望にできたなら。 「エイダ。聞いてくれ。私の研究は完成したけど、まだ終わっちゃいない」 『……え?』 「私は宇宙に出るのを諦めてなんかない。いつか、人間もポケモンと同じように転送できる技術を完成させてみせる」 ラボを失って実験ができない今、ほら吹きも良いところだった。彼女を光り輝く未来へ送るための、精一杯の嘘。 「そうすれば、またみんな一緒に暮らせる。広い広い世界を、一緒に探検できる。エイダ、お前にはそのための世界を作って欲しいんだ」 彼女に近づくと、その身体を抱き寄せた。そのままデスクに戻り、彼女の丸っこい胴体を優しく包む。 長い長い、沈黙があった。 『……承諾。宇宙を旅するのが、博士の夢でしたからね』 「うん。手始めに、必ずお前たちの新しい家に遊びに行くよ」 『希望。待っています、いつまででも』 私は静かにキーボードに手を伸ばすと、息を吸い込んで、エンターキーを押した。 これは一匹のポケモンの転送にすぎない。部屋が光に包まれたりなんてドラマチックな演出は起きたりしない。彼女の身体を構成する無機プラズマの冷たい香りと静かな暖かさ、ただそれだけで十分な、さよならのハグ。 災禍の被害を免れた軌道上の&ruby(ステーション){駅};の一つとエイダが接続する。レーザーサイトが正確に目標地点を向き、一筋の光条を放った瞬間、32.5kgが地球上から音もなく消えた。 私はあらためて彼女のことが誇らしくなった。彼女がいなくなったということは、彼女の作ったグライダーが完璧にその仕事を果たすということを意味するからだ。網が破れることなく減速を続け、グライダーは計算通りの軌道を辿ることになる。放たれたレーザーはこれから二十年かけてエイダを運び、それをぴたりと貫くことになる。その未来を今、全宇宙で私だけが知っている。 宇宙の果てで実体化するエイダが、この星で最も進化した知性が、私たちの命の粒を新天地へと導くのだ。 質量保存則も、因果律すらもねじ伏せて、私の希望は光の速さで&ruby(そら){宙};を飛ぶ。 ---- 彼女が旅立ってから、三ヶ月が経った。私はコロニーのみんなに声をかけて、エイダの星に移住したいポケモンを募っている。 送るポケモンの時期と順番には慎重を期す必要がある。まずは炎タイプを送って大量に水蒸気を発生させ、その温室効果で気温を上げねばなるまい。その次に、溶け出した氷に封じ込められていた二酸化炭素で光合成を行う草タイプ。地球の植物相を効率的に移植するためには、タネマシンガンを覚えているものが望ましいだろう。 考えることは多く、生き残った他の博士たちと議論を戦わせる、忙しくも充実した日々だ。 もちろん毎日ってわけじゃない──抑え込んだはずの悲しみと喪失感でベッドから起き上がれない日もあれば、本当にこれで良かったのかと不安になる日もある。だけどそんなときには、目には見えず手も届かない星空にいるあの子が、私を励まし慰めてくれる。 人生というのはつくづく不思議だ。自分の持っているものにしがみついても、ただ&ruby(しぼ){萎};んでいくだけ。でも、一つの命が終わることが、たくさんの命を生み出すことがある。一つの夢を諦めることが、もっと大きな別の夢につながることがある。 「さあて、気合い入れていきますか。ま、時間だけならたっぷりあるしね」 そう、私にはもう一つ夢ができてしまった。笑ってしまうくらい無茶な夢。その夢のため、私は今日も暇を見つけてはデスクに数式を書き散らかす。 「大見得切ってはみたものの、まるで見当も付かないんだよなぁ。これまでやってきた研究とはわけが違うし」 仮に人間を電子化できたとして、転送には途方もない時間がかかる。というか、通信路容量によらず一瞬で送信できるポケモンのほうがおかしいのだ。シャノンの容量定理によれば、ノイズまみれのレーザー通信では人間一人ぶん送るだけで数億年。時間は私の味方とはいえ、さすがにこれでは送信装置の方が先に寿命を迎えてしまう。 何十年もの間、私は思考実験を重ねた。だけど、考えうるどんな方法も、二十光年、約十九兆キロという絶望的な距離を埋めることはできなかった。 必要なのは、発想の転換だった。 例えば、身体まるごとは不可能でも、精神だけならどうだろう。 人間とポケモンの身体構造は全く異なるが、精神構造はそれに比べればかなり似通っている。もし人間の精神だけを抽出することができれば、ポケモンと同じように量子転送することが可能かもしれない。 だが、それは人間としての身体を捨てることを意味する。そもそも肉体を失った時点でまともな精神状態でいられるか分からないし、向こうでどんな姿になるのかだって完全に予測不能。体を手に入れられず、常闇を永遠にさまよう可能性だって大いにある。 端的に言って自殺行為。だけど、試してみる価値はあった。 ---- ざあ、ざあぁ。 「ねぇ、起きて……起きてったら」 波の音が響く。誰かが、私に声をかけている。 (まぶしい!) 真っ白な日の光が差し込んできて、慌てて目をつぶる。何度か瞬いてようやく目が慣れた。 視界いっぱいに青々とした空と海が広がっていた。白い足下にはさらさらの感触。私は砂浜で気を失っていたらしい。 「良かった、死んではなかったみたいね」 ゆっくりと声の元に目を向けて、私は危うく飛び上がりそうになった。 「それにしても、何でこんなところで寝てたの?」 うろんげにこちらを見る顔が、茶色の体毛に覆われていたのだ。飛び出た耳に、もふもふの首毛。 「イーブイが、しゃべってる……?」 「……あんた、ほんとに大丈夫? 頭でも打ったの?」 その通りなのかもしれない、なぜかずきずき痛い頭はろくすっぽ回ってない。 不思議なことに、彼女の言葉が分かるだけでなく、こちらの言葉すらも通じているようだった。内心パニックになりそうだったけど、どうにか冷静に返事を返す。 「……そうかもしれない。実は、これまでのこと全然思い出せなくて……」 「えぇ!?」 「た、ただ、覚えてることもあるんだ。イーブイの鳴き声は、私たち人間には理解できないはずで」 とは言っても、私自身記憶はあやふやで、自分が元々誰だったのかすら正直覚えてはいなかったけど。 「はぁ……」 大きくため息をつくイーブイ。自分で言ってて意味不明な私の言い分のせいかと思ったけど、そうじゃなかった。 「冗談よしてよ、ニンゲンなんて……おとぎ話じゃないんだから」 「……え」 私はゆっくりと上半身を起こすと、恐る恐る自分の身体を見下ろした。 足。手。どちらも、記憶にある一般的な人間のそれとは似ても似つかぬ代物だった。 彼女の顔を見たときから、もしかしてとは思っていた。しかし、こうして動かぬ証拠を突きつけられては、もはや受け入れるしかない。 (私……ポケモンになっている!?)